歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:妙法寺

横浜市磯子区杉田には杉田八幡宮と言う神社が在(あ)ります。
横浜市は他地域からの移住者が多く御存知(ごぞんじ)無い方も多いのですが…
実は此方(こちら)の八幡神社、宮司様から聞いた話によると鎮守府将軍も務め前九年後三年の役で活躍した源八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公が開いたそうで、本当にその通りなら、千年の歴史を有するとてつもなく由緒ある八幡社(昔の人は神社を一括りにはしなかった)なんです。
・・・江戸時代までの記録で小生は宮司様の話しと同様の記録を見た事が無いので正直ビックリしました。
江戸時代までの記録には有りませんが、宮司様曰く杉田八幡宮は鎌倉の鶴丘八幡宮と同時期に開かれた八幡様なんだそうです。
正確に言うと相模国鎌倉郡に鶴岡八幡宮を義家公の御父君の源頼義公が開き…
武蔵国久良岐郡に義家公が鶴岡八幡宮より御分霊を勧進された、それが杉田八幡宮だと社伝にはあります。
2014-08-31-12-43-08
※写真は現在の鶴岡八幡宮を若宮大路から見た風景。
しかしながら史実を解説しますと源義家公の時代に“鶴岡八幡宮”と言う八幡宮は鎌倉にも何処にも存在していなかったんですが・・・
DSC_2264
源義家公の御父君、源頼義公が鎌倉に開いた八幡社は材木座の元鶴岡八幡宮と最近まで呼ばれた場所の事です。
DSC_2266
今では鶴岡八幡宮により管理され“由比若宮”と名を改めています。
ですから源頼朝公が遷座した今の八幡宮は当初は若宮(新しい御宮)と呼ばれ鶴岡八幡“神宮寺”と言う正式名称で神仏習合の大規模な神宮寺でした。今も参道の名は若宮大路ですね。
当時は別名鶴岡若宮とも呼ばれています。
つまり“鶴岡八幡宮”の名は平安時代と言うより比較的最近の呼び方ナンですね。
因(ちな)みに杉田八幡宮の宮司様の言う時代に鶴岡八幡宮の名は存在しませんでしたが、似た名前の鶴岡八幡宮よりも遥かに古く平塚市に仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)により開かれた八幡宮が存在していました。
CIMG2258
現在は三大七夕祭りの一箇所として有名な平塚八幡宮ですね。源義家公の存命中の社名を“鶴峰山”八幡宮と言いました。平塚八幡宮と名を改めたのは第二次世界大戦後のつい最近の話です。鶴峰山八幡宮の格式は高く一国一社の八幡宮として開かれた場所です。
この鶴峰山八幡宮と鶴岡八幡宮の名は似ているので、杉田八幡宮に鶴峰山八幡宮の名が鶴岡八幡宮と誤って伝承し杉田八幡宮が開かれたならば時代的な整合性はつきますね。
しかし、その場合、源義家公との縁は無く説明はつきません。
杉田八幡宮の現在の伝承によれば開かれた年は康平6年(西暦1063)との事なので、間違い無ければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の八幡社の完成と同年ですね。 何故、杉田八幡宮に元鶴岡八幡宮や材木座の八幡社では無く鶴岡八幡宮とされて伝わったかは謎ですね。
杉田八幡宮の宮司様の話しが正しければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の元鶴岡八幡宮が開かれて直ぐに御分霊が勧進された事に成ります。
ただ、その事が何の古文書に書かれているかは不明です。 少なくとも江戸時代の幕府公認の歴史書の新編武蔵風土記稿には❝勧進の年代詳しならず❞と書いてあり、江戸時代には既に杉田八幡宮の元に成った八幡社にも別当寺の間宮山妙観寺にも伝わっていなかった事が記録されているので、何故、現代「康平6年の勧進」とされているか、いつからその事が判明したのか出典の文書を調べる必要が有ると思います。
※別当寺については後述します。
義家公の同様の伝承は他の八幡社にも見られるので、義家公が御分霊を頂き杉田八幡宮の元に成った八幡社を開いた可能性は有ると思います。
仮に源頼朝公が再建した鶴岡八幡宮なら他の場所では“若宮八幡宮”の名を継承している場所がよく有ります。
2016-01-27-16-20-15
横浜市南区の若宮八幡宮です。
南区の若宮八幡宮は、昔は近くまで蒔田湾の入江で港が在ったので、治水と海上交通の神様の八幡大菩薩が勧進されて開かれた様です。
小生は現在、個人的に記録を確認できる古文書が有るか義家公と武蔵国の各八幡宮の関係を調査中です。
伝承通り、源頼義公と義家公が親子で久良岐郡と鎌倉郡に同時に八幡宮を開いても全く不自然ではありませんからね。 
宮司様の話しの“時代設定”を根拠にすれば時代的に杉田八幡宮が頂いた御分霊は今の鶴岡八幡宮と言うのは史実と整合性は無く異なり、元鶴岡八幡宮の御分霊を指す事に成りますが、余り規模の大きな神社ではなかったでしょう。
源頼義公が同時代に鎌倉の葛原岡から扇ヵ谷地区に遷座した巽神社は一般的な町の中の神社と同規模ですし、本拠地の河内国の氏神として祀っていた壺井八幡宮は由比若宮を少し大きくした程度で巽神社と同じ程です。
恐らく杉田八幡宮が御分霊を勧進した元鶴岡八幡宮は材木座海岸の近くですが、源頼義公の時代には材木座は入江が有ったので更に海が近かった事でしょう。
※源頼義公が創建した元鶴岡八幡に関する記事は「ココ」←クリック!
この杉田八幡宮も昭和初期まで眼前に海が広がっており、現在の杉田駅近く暗渠(あんきょ=蓋のされた川)に成った聖天川の河口に船着き場が在りました。
杉田八幡宮と周辺位置関係
この杉田の八幡様、頼朝公の時代には今より社領も広かった痕跡が付近の地名に残ります。
それを示す様に近所には上の衛星写真に示した交差点に残る「神戸(ごうど)」と言う地名が有りまして、神戸は神社に寄進された土地と言う意味です。
昔の住所の❝字(あざ)❞や❝小名(こな)❞と呼ばれる今の番地みたいな地名は、結構、公園や交差点や電信柱の名前の中に残っていたりします。
因みに伊勢原市に在る古代存続する比々多神社にも付近に神戸と言う地名が有ります。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
神戸は神社の土地な訳ですが、義家公の御子孫、源頼朝公も土地を寄進し、この八幡社を久良岐郡の惣社として再興されたと、現在の杉田八幡宮宮司様より頂いた参考資料にも記載があり、付近の旧地名と神社と頼朝公の時事績の伝承には整合性が有ります。
ただ、先程も例に挙げた❝新編武蔵風土記稿❞と言う江戸時代の学者間宮士信が編纂した資料を見る限りでは、「久良岐郡の総社」ではなく「杉田郷の総社」と成っているので、どこかの時代で杉田郷から久良岐郡に誤解された可能性も有ります。
しかしながら、本当に義家公の創建ならば、伝承通り鎌倉時代に義家公の御子孫の源頼朝公により久良岐郡の総社に定められた可能性は十分有るので、時代によって社格が著(いちじる)しく異ったのかも知れませんね。
まぁ、平安時代の価値観だと総社とかより鎮守と言う表現が一般的でしょうか?後は規模を大社とか小社とか表現しました。各は他にも位階を与えられる場合が有りました。

杉田八幡宮は、本殿の前に控え御社を守っている狛犬が有形文化財に指定されています。
可愛そうなんですが、右の狛犬は上顎が割れて無くなっちゃってます(泣)。
痛々しい…
ちょこっとユーモラスなデザインで可愛らしい狛犬さんですね。

伝承によれば、以前記事に書いた間宮林蔵や一族の杉田玄白の祖先に当たる間宮家の殿様が、この杉田八幡宮を支援していたそうです。
その殿様の名前を杉田八幡宮では江戸時代の「間宮信廣(のぶひろ)」と伝えています。
確かに、この杉田の領主は戦国時代~江戸時代を通じて北条家の家臣で水軍も抱えた間宮家の領地でした。
新編武蔵風土記稿を編纂した学者は、実は間宮本家笹下城主間宮康俊公の弟で、織田信長公への外交使者を務めたり日本百名城の一つ八王子城を縄張(なわば)り=設計した分家の氷取沢間宮家間宮綱信公の御子孫でした。
その学者の名前は江戸幕府の歴史編纂機関であり学問所だった昌平坂学問所の地誌取調所で頭取を務めた「間宮士信(ことのぶ)」です。
間宮士信は、杉田八幡宮を中興した殿様を敢(あ)えて「間宮信広」ではなく「間宮某(なにがし)」と名が解らないと記録
しています。
つまり、江戸時代まで間宮家が支援していた事実は殿様の名前は解らなくても記録として残っていた訳です。
新編武蔵風土記稿にも「八幡社」として、現在の杉田八幡宮の元に成った「妙観寺」と言う御寺の敷地に在った「八幡社」の記載が有ります。
ですから…
神社の幼稚園の敷地内に昔の杉田八幡宮別当寺の顕彰石碑が有りまして…
八幡宮の別当寺の名前は新編武蔵風土記稿にも確かに間宮山妙観寺跡と書いて有ります。
記録によれば日蓮宗中山法華寺の末寺と言う事です。   
御寺の山号が間宮山(かんぐうさん)なのは間宮家が中興だからですかね〜。
間宮家は小田原北条家臣で、相模国十四騎筆頭と称された武家でした。
間宮家については別記事を以前書いてますので、そちらを御覧下さい。
※間宮家関連の記事は「ココ」←クリック!
この妙観寺、お隣の妙法寺と本山が同じ中山法華寺です。
妙法寺は、杉田八幡宮を再興したと伝わる杉田間宮家の菩提寺です。
何故に間宮家や法華寺が末寺を妙法寺の隣に造営したかは謎ですが、背後の山は江戸時代❝妙観寺山❞と呼ばれたそうなので、妙観寺が存在した事は間違い無く、杉田八幡宮の前身の八幡社が存在した事の証明にも成ります。
間宮家の祖先の近江源氏佐々木家は真言宗でしたが、江戸時代の間宮家の御子孫は法華宗(浄土宗・時宗・日蓮宗…等々の宗派をまとめて江戸時代までの人の認識では法華衆だった)の宗旨に改宗していたので、杉田八幡宮の前身の八幡社の御社の別当寺の妙観寺が中山法華寺の末寺だったと言う事は非常に信憑性が高い伝承だと思います。
別当寺と言うのは江戸幕府の方針で、神社は大小様々あり荒廃してしまう場所もあったりする関係で檀家を抱える寺院の僧侶に管理を委ねていたので、その管理人の事を「別当(べっとう)」と呼び、管理する本社機能の有る寺院を「別当寺」と呼んだ訳です。
更に明治時代以前は国家神道は成立しておらず、神仏習合が千数百年来の価値観だったので僧侶が神事も行えたし日本の神様も信仰していましたし、仏事と神事は融合していたんですね。
なぜ、仏教僧に別当職を任せ管理させたかと言うと、実は切支丹(きりしたん:キリスト教)の禁止令と関係が有ります。
江戸時代初期に発生した九州の天草四朗時貞の扇動した切支丹一揆が大規模な内戦に発展してしまい江戸幕府はその鎮圧に苦戦した経験から、キリスト教徒を改宗させたり農民や町民の宗旨を把握する為に文章による管理機構を有していた寺院に、一般人の宗教の管理を「檀家制度」を用いて行わせた為に、寺院が別当職を担っていたんですね。
これは、間宮家の家臣の御子孫に聞いたのですが、昔は武士の家だけが明確な自前の墓地を持ち、寺ではなく自分の敷地に祖先を埋葬していたので「死んだら自分家の山に放り込んでおいたんだよ(笑)」と冗談めかして御話しされていました。
そして、日本国民のキリシタン化阻止と戸籍管理も兼ねて、どの寺院の檀家かを明確にする事が義務化されたそうです。
確かに、古くから間宮家に仕えた武士団の御子孫達は皆さん自前の墓地を御持ちでした。
小生の一族も自家の墓地を田舎に所有していますし、一族同士の墓も隣り合って存在します。
ところで杉田八幡宮の本殿は御寺みたいに瓦葺です。
接写するの忘れましたが、本殿の彫刻も立派でしたよ!

杉田八幡宮の記録が明確に記されているのは新編武蔵風土記稿な訳ですが…
現在の杉田八幡宮の認識では、間宮家分家の杉田間宮家7代目の間宮信広(のぶひろ)公と言う方が中興し9代目で無嗣断絶したと伝承しますが、実際は8代目で断絶の上に寛政重修諸家譜に当該人物の記録は有りません。
後世に縁起を書いた人の間違いなのか創作なのか不明で・・・
系図を簡単に纏めるとこんな感じです。
※系図の為に敬称略失礼。
兄:間宮信元____間宮康俊____本家笹下間宮。
弟:間宮信次_②間宮信忠_③間宮信繁_④間宮信之_⑤間宮信勝_⑥間宮信久
  (別名:常信)                           (別名:信盛)                     |__間宮俊信_⑦間宮敦信 _⑧間宮信勝_断絶
これは偽書と言う訳では無く、当時の殿様は普通に名前を何回も改名する文化が有ったので不自然では無い事で、加えて、この時代の間宮家一族は早世する人間が続発し、一族間で養子を出し合って家名を存続した事から混乱が有っても不思議では無いんです。
江戸時代に自分要因の過失事件を起こした場合は記録から抹消されますしね。
ただ、一つ気に成る事は有ります。
間宮士信は、実在したけれど諸般の事情で、例えば主家の北条家が今川家や古河公方等の旧主から鞍替えや独立した都合で当時の名前を誰と関連付けるのに不都合が有る祖先に関しては、「名は詳しならず」と濁すのですが
杉田八幡宮の中興者に関しては「間宮某」と敬意を表さない例外的な表現をしているんです。

因(ちな)みに江戸初期の笹下間宮本家の間宮直元公は佐渡奉行や但馬奉行も務め、大坂攻めでは坑道を掘って大坂城の櫓を破壊する作戦に従事した方です。大坂城総掘りを埋める作戦を進言したにも旧玉縄北条氏与力衆黄備え隊の間宮直元公と銀山衆と伝わり記録にも残ります。
※間宮直元公の事績に関しては「ココ」←クリック!
2a46e62b
因みに、間宮家で最初に歴史に名を残した人物は、伊勢氏北条家の家臣で「間宮信冬」公と言う人物です。
別の説ではこの人物を「間宮信盛」公とする説も有ります。
小生は「間宮信冬」とする説を基準にさせて頂いています。
信冬公は現在の京急川崎駅前の堀之内に城館を構えていた人物です。
「川崎の堀之内」の地名は間宮家の城跡だから、その「城跡の堀割りの名残り」に由来する地名です。
今の京浜急行神奈川駅の場所に在った「権現山城の合戦」で活躍した人物です。しかし合戦自体は北条家が敵方の上杉勢に敗北し、現在の杉田八幡宮や妙法寺や東漸寺の場所に移住してきた記録が残るのが間宮信盛公です。

その間宮家の子孫で、江戸時代に間宮家一族からも学者出世頭として一目置かれていたのが間宮士信なので、自分の一族の神社の社格を誤記する筈が無く、江戸時代には徳川幕府の管理下で間違いなく久良岐郡総社ではなく、杉田村の総社だった訳です。
ただ、源義家公や源頼朝公の時代には久良岐郡総社だった可能性は十分有ります。
何故かと言うと、江戸時代にはこの杉田八幡宮は「八幡宮」ではなく、ただの「八幡社」としてしか記載が無いのですが…
戦国時代には、この杉田八幡周辺の狭い範囲は鶴岡八幡宮の直轄領として記録が残っているからです。
これは、杉 田八幡宮が鶴岡八幡宮と伝承通り同時期に作られ管理されていた名残の可能性と言えなくもない訳です。
…確証は無いですけれどね。
戦国時代、杉田郷の八幡社周辺は房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有ります。杉田に隣接する中原町内の在った源頼朝公に大切にされた泉蔵院も海賊の被害に遭っています。
ですから杉田八幡宮が略奪さた後に規模が縮小されたまま、別当寺の妙観寺の一、摂社みたいな状態に成っていたのを間宮家の殿様が「八幡宮」と呼べる社殿に復興したのではないかとも推測が出来ます。

この状況を整理すると、近代に杉田八幡宮の歴史を編纂した人物が古文書を読まずに伝承を、平安時代の歴史と江戸時代の伝承を混同して伝えた結果、折衷された歴史が現在、杉田八幡宮の伝承として伝わったのでは無いでしょうか?
本殿の隣には不自然な空きスペースがあります。
小さな御社が見えますね?
あれは稲荷社で、地頭だった稲葉家の氏神様として存在している事を間宮士信もちゃんと書いているので江戸時代のままです。
もしかしたら、本来はこの空きスペースに何か、現在の本殿の大きさに等しい立派な建物が間宮家が支援した頃の江戸時代初期には在ったのかも知れませんね。
更に、現在の神楽殿か倉庫のような建物の裏の宅地まで、この削平地は続いているので昔は、その宅地も八幡社別当寺妙観寺の土地だった可能性は高いと思います。
でも、ここで又、現在の杉田八幡宮と江戸時代の杉田の八幡社の記録で異なる事が有ります。
江戸時代の記録では元来の社殿の位置関係上、本殿の位置は現在のこの空きスペースになければいけないんです。
江戸時代の杉田郷の八幡社(妙観寺)の記載ではこうあります。
       ↓
●小名(しょうみょう)宮原に所在
→現在の地名は杉田4丁目で位置関係は不明。
●例大祭は6月15日と9月25日
→6月15日の祭事は恐らく田植え神事か、素戔嗚尊に関する祭り。9月25日は収穫祭か中秋の名月。
※昔は氏子同士で農作業を協力して行ったので、神事は直接生活にも関係が有った。
村の総鎮守
→✖現在の伝承では久良岐郡の総鎮守
石段の所に鳥居が在る
→〇現在と同じ。
本殿は東向きに建っている
→〇現在と同じ。
稲荷社は本殿の右手に在る
→✖現在は本殿の左手に稲荷社が在る。
別当寺の妙観寺は本殿に向かって右手に在る
→△現在は本殿の東側石段の下に石碑が在る。石段を含めると右手。
※但し、稲荷社を見ると完全に✖
●御神体は❝法躰(ほうたい=仏僧の格好)軍扇(ぐんせん=)サイズは約八寸五分の像❞間宮某の寄贈。 
→彫像の外観と当時の間宮家の状況から推測して江戸時代の御神体の正体は法体の八幡大菩薩か?
 ※明治時代の廃仏毀釈と現在の宮司様が仏教嫌悪的御発言が有る方なので八幡大菩薩と思しき江戸時代の御神体が現在も存在するか不明。
江戸時代の記録に在る稲荷社の位置関係との整合性が無いですね。
では杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮 
航空写真で見ると、杉田八幡宮の本殿は稲荷社の右手…
本来とは位置関係が異なり八幡社は外観から他の神社と違う構造をしていなければ成りません。
では上の杉田八幡宮の屋根の構造と、他の八幡宮を比べてみましょう。
京都の石清水八幡宮…平安時代以来の八幡宮総本社の様な存在。
石清水八幡宮
杉田八幡宮の伝承に登場する源義家公が元服、現代で言う所の成人式を挙げた場所として有名です。
この様に、石清水八幡宮の本殿の例に見られる屋根が二棟くっついた構造を「八幡造(はちまんつく)り」と呼びます。これが伝統的な八幡宮の建築様式です。
実は八幡宮は軍神であると同時に❝水神様❞です。つまり、水難を防ぐ神様です。
石清水八幡宮も戦国時代までは眼前に巨椋池と言う巨大な湖が広がっていました。
ですから、由比ガ浜と材木座海岸の広がる鎌倉の総鎮守も鶴岡八幡宮ですね。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は一見すると本殿が回廊で囲まれており石清水八幡宮とソックリですが、本殿屋根は一棟しか無く八幡造りではありません。
頼朝公の時代には八幡作りだったかも知れませんがん、その後の関東では八幡造りの様式が伝わら無かったようです。
現在の鶴岡八幡宮の社殿は江戸時代後期に徳川家斉公によって再建されています。
石清水八幡宮の場合、戦国時代に織田信長公による建築の寄進、江戸時代の徳川家光公の本殿の再建なので古い由緒正しい八幡造りが継承されたのでしょう。でも鶴岡八幡宮の本殿の江戸時代の再建の頃には「八幡造り」と言う形式が江戸や関東の職人には伝わっていなかったのかも知れませんね。
戦国時代の北条氏綱公による再建事業の際には、快元僧都記を読むと奈良から宮大工を集めていますから、石清水八幡宮の形状と同様の八幡造りによる再建だった可能性が有ると思います。戦国時代に鶴岡八幡宮再建を行った職人だけでなく、氏綱公の御父君である伊勢盛時(北条早雲)公は京都に勤務していましたし、古文書には再建事業の詳細は出て来ませんが室町幕府や石清水八幡宮から再建に差し当たって建築文化的な面でも支援を直接受けていたかも知れませんね。
横浜には、鶴岡八幡宮以外に河内源氏が開いた伝承の有る八幡宮が有ります。
南区の若宮八幡宮と金沢区の富岡八幡宮です。
富岡八幡宮はスタートが神戸の西宮神社から蛭子(えびす) 様を勧進した神社で、初期は八幡宮では無かったので少々事情が違います。
2015-01-07-15-26-01
兵庫県の西宮神社から源頼朝公が蛭子(えびす)様を勧進して開いた波除の神社としてスタートし、安貞元年(1227年)に「八幡大菩薩」と自らの神名を名乗った神様から自分を祀る様に神託が有り八幡様が習合されて以来、八幡社と成りました。
八幡様は蛭子様同じ海上航海と治水と雨乞いの水神様であり、軍神でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)ですね。

下は最初から若宮八幡社として頼朝公によって建立された伝承の有る、南区の若宮八幡宮です。
2016-01-27-16-27-47
拝殿と幣殿は棟続きですが本殿は二棟分離しています。
この右手の建物は拝殿と弊殿、左奥に離れて本殿が在ります。
2016-01-27-16-27-51
以前は近郊の熊野神社の本殿がここに在ったそうですが、半世紀程前に再建の際に再建されたそうです。
江戸時代以降は関東では石清水八幡宮や河内源氏の殿様が伝えた文化が継承されず「八幡造り」と言う建築を東海地方出身の家柄の幕府寺社奉行や宮大工が理解しておらず関東の八幡宮神職の間でも知識が途絶えた可能性が有りますね。 
ついでにこの若宮八幡宮の眼下にも江戸時代初期まで「蒔田湾」の名で呼ばれた入江が広がっていました。
つまり石清水八幡宮や鶴丘八幡宮と同じく、水上交通の神様として交通の要所に勧進された事が解ります。
これらを見ると軍事や商業で重要な海や湖や河川の港湾の傍(かたわら)に八幡社が開かれた事も状況証拠として解ります。
蒔田湾は材木輸送の基地としても利用された港湾機能を有していた事が戦国時代の蒔田城主吉良頼康公や間宮家の参加した鶴岡八幡宮再建の事績からも、この一帯の土地が港湾として重要だった事が解ります。
そして、吉良頼康公が蒔田湾から本牧半島を経由して海から輸送した木材は、この杉田に在った杉田湊(みなと)に一旦集積された事が「快元僧都記」や「各寺院の間宮家関連の古文書」で記録されています。
杉田八幡宮も先に見て貰った位置関係の衛星図で、昔は海が眼前に広がっていた事や港が在ったを説明しましたが、やはり水神様としての性格が有ってこの杉田に勧進された事が窺(うかが)い知れます。
では、もう一度杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮
やはり、本来の石清水八幡宮の様な八幡造りでも、若宮八幡宮の様な関東流?の八幡造りでもありません。
では、新編武蔵武蔵風土記公の八幡社(現杉田八幡宮)の配置を記した文章を見てみましょう。 

●石段に鳥居が在る。
●本殿は東向きに建ち右手には稲葉家の氏神の稲荷社が在る。
●本殿の右手に別当寺の妙観寺の本堂が在る。
先程説明した屋根の造り、江戸時代の建物の位置、現在の位置関係を改めて見るに、やはり現在の本殿は妙観寺の本堂だった可能性があり、現在の本殿と地続きの稲荷社左手の削平地宅地部分にに新編武蔵風土記稿の記載通り「旧八幡社」が在ったのでは?…と推測出来ると思います。
杉田八幡宮配置(新編武蔵風土記稿) 
現在の杉田八幡宮の本殿に向かって右に歴史記録と異なりスペースが無いので、石段の下の右側に妙観寺跡の石碑を立てたのかも知れません。 
この社殿の位置関係について2020年06月11日に本殿は明治に再建されたらしいと情報提供頂きました。
※情報提供者様に感謝!
つまり明治の再建で江戸期とは位置関係が変えられアベコベに成った様です。


さて、間宮家により保護されたり妙観寺が有って杉田八幡宮は現代に存続出来た訳ですが・・・
八幡信仰は漢学を導入した応神天皇=大鞆別(おおともわけ)命の皇子の仁徳天皇により始められた信仰で長らく仏教と一体でしたので、少し八幡宮信仰と言う文化について個人的な意見を書いておこうと思います。
IMG_0342
先ず、石清水八幡宮は平安時代に筥崎宮より八幡大菩薩の御神霊が神託によって遷座された聖地です。
現在の神社本庁の総長を御勤めに成っておられるのは石清水八幡宮の宮司様ですが、鶴岡八幡宮も御神霊は石清水八幡宮の御分霊を頼朝公が改めて勧進され鶴岡若宮八幡宮が成立したました。その石清水八幡宮は神職のみならず江戸時代まで修験者や僧侶達に等しく日本神話の八幡大菩薩の聖地として大切にされており、神様と仏教哲学とも結びついた神仏習合時代には多くの社殿僧坊が石清水八幡宮の在る男山に立ち並び、大変に多くの日本皇族や全国の有力武士から多くの寄進が集まり大変興隆しました。
2014-07-27-19-06-56
同じ様に神奈川県の延喜式内社である大山寺が神宮司だった石山権現大山阿夫利神社や修験者が守っていた式外社の八菅山七所権現八菅神社等は神仏習合の場ですが縄文の古代よりの祭祀場が出土したり日本武尊が行幸された聖地として古来より神職修験者僧侶や貴族武士庶民大切にされた場所です。
CIMG6079
現在も石清水八幡宮は当時の文化を尊重し重視されておられますし、鶴岡八幡宮も正式名称は源頼朝公の再興以来、明治政府成立までは“鶴岡八幡神宮寺”であり巨大な寺院機能が鎌倉国宝館や横浜国立大学附属中学校一帯の敷地に存在し、神様としても仏教施設としても武家の本地としても大切にされていました。
DSC_3585
筥崎宮には亀山天皇が書いた筥崎宮の八幡大菩薩の名で神様と成られた応神天皇へ祈願を書いた❝敵国降伏❞の起請文が社宝として伝わりますが、東郷平八郎元帥達は八幡大菩薩の御神威を得るべく、その起請文を復制した護符を御分霊として戦艦三笠に奉っていました。
同じ様に多くの神仏習合の八幡様が主祭神の八幡社では、江戸時代の記録を読めば御神体は御神鏡ではなく八幡大菩薩像等の神仏習合の神様として祀られていた事実が解ります。
IMG_2539
小田原市の曽我別所の八幡社では現在でも御神像が祀られています。
そもそも八幡信仰は大鞆別命=誉田別命=応神天皇(この時代に天皇号は未成立)に渡来思想と技術力と漢学を学んだ皇子の大鷦鷯尊=仁徳天皇と莵道稚郎子が父大王の命(みこと)=御霊(みたま)にヒンドゥー教由来の外国思想を取り込み八幡の神号を習合してスタートしているので弾圧される謂れは無い訳ですね。スタートから神仏習合だった皇族の祖先な訳ですから。
その仁徳天皇が開いたのが鶴峯山(平塚)八幡宮。
CIMG2259
そして弟皇子で兵法や文学等の漢学を導入したのが莵道稚郎子命で、延喜式内社四之宮前鳥神社の御祭神でもある訳です。
CIMG1731
根本的に応神天皇の御神霊は自らを「八幡大菩薩」と称した神託の記録が元に成り神号として定着している事を知らない神職もいますが、横浜でも八幡大菩薩と応神天皇が自称し神託を発した場所が富岡八幡宮な訳です。
2015-01-07-15-29-46
八幡信仰は、そもそも日本の自然崇拝や御霊信仰から始まった神様では無く外国の思想哲学や工業も象徴しつつ大鞆別命=応神天皇が事績から治水の御神威も持ち合わせた形で神格化され仁徳天皇や莵道稚郎子命によって八幡信仰がスタートしている事が解る訳ですが、明治以降の自然信仰や聖地崇拝や神仏混淆信仰を邪とする発想は江戸時代の水戸藩の借金増加戦犯である水戸光圀が始めた水戸学が原因で、明治政府を樹立した政治家が倒幕思想として学んだ事に由来している事を知らない人も多いのが現代の問題の原因です。 
彼は為政者としては民に重税を課した政治家としても有名ですが、思想家としても所領の八幡宮を打ち壊して回った人物でした。

そもそも明治の東郷元帥達海軍軍人は歴代天皇と同じく神仏や聖地自然を全て往古のまま大切にされて、明治の森有礼等キリスト教徒政治家による宗教改革に不服従で、戦艦三笠の守護神御神体は明治の宗教改革後も「箱崎神宮八幡大菩薩」だった事すら知らない人が嫌仏神職には多いのが現場です。

杉田八幡宮は配置から状況を整理すると、小生が杉田八幡宮は「社殿が御寺みたい」と感じた直感は正しくて妙観寺の本堂が現在の神社の本殿に転用されたんだと思います。 
因(ちな)みに、石清水八幡宮には仏様が祀られていたスペースが現在も残されています。
石清水八幡宮の仏間
正に、八幡大菩薩が元々神仏習合の象徴たる歴史を示しているのが、江戸時代と現代の杉田八幡宮の建物の位置関係の謎とも言えます。
明治時代まで日本人は神様も仏様も大切にしたんですね。
自然を敬い古代の祖先からの文化を継承する神社、哲学や学問を広め建築技術を発展させた御寺、その両方が協力し明治時代に成るまで歴史と伝統と祖先や古代の祖先に繋がる氏神様を守って来た
日本の文化の象徴的な存在が八幡信仰なのかも知れませんね。

杉田八幡宮は“間宮信廣”なる間宮家譜的には謎の某人が登場するので、間宮家の神道や御寺に対する一族の功績と血筋を箇条書きにして考察を〆ようと思います。

※小生の家は間宮及び宇多源氏の血は一滴も遺伝子に組み込まれておりませんし、もっと古い国造系宮司家の子孫ですが、個人的な意見として間宮家は神道的にも仏教的にも修験道的にも以下の理由で現代の神奈川県神社庁からも大切にされるべき家柄だと思っております。

1,間宮家は宇多源氏の氏神の沙沙貴神社宮司家の子孫ですし、沙沙貴神社の御祭神は文化の神様の敦実親王でありその御神孫にも当たります。佐々木高綱公や黒田如水公や乃木大将は遠い親戚ですが、その中でも宇多源氏氏神の宮司家直系子孫が船木・真野・間宮・杉田で初代鎌倉公方の直臣として関東に入り伊豆国馬宮を領して以後に間宮を名乗りました。
image
※安土城下の沙沙貴神社随神門の写真。
江戸時代の学者の間宮士信公、杉田玄白、間宮林蔵公等も子孫に当たります。

2,間宮家は室町時代より代々一族が天皇勅願所だった江ノ島の岩屋を管理する江島神社別当の岩本坊別当職を世襲した家でした。
間宮家が別当職を務めて居た時代には古河公方足利成氏公が逆徒山内上杉家と扇谷上杉家の藤原家流血統の鎌倉府専横に対して圧倒的不利な状況下で江の島に籠城し、両上杉逆徒を撃破撤退させる事に成功した御神威を別当職として引き出しています。
戦国時代にも北条家の北条綱成公がが3000千の寡兵で川越城に籠城し上杉家連合の大軍8万相手に半年間の防衛に成功していますが北条綱成公の家老が間宮康俊公です。更に、主君の北条氏康公が救援に兵8000を率いて河越城に向かう2日前、江ノ島の岩本坊に滞在し江ノ島神社別当岩本坊に滞在し間宮家の祈祷によって八臂弁財天様と天皇勅願所の加護を得て河越城の北条綱成公と合わせ兵11000で上杉軍80000超の大軍を撃破しています。
当時の間宮家は恐らく修験道で江戸時代に成ってから幕命で真言宗に属していると思われますが、神職としも僧侶としても修験者としても、その能力は大変な物だと歴史事実から思います。
IMG_3526
※江ノ島の大鳥居。参道右手に在る旅館岩本楼は江島神社と勅願所岩屋の別当を務めた岩本坊が明治の基督教信者閥政治家の宗教改革による仏教弾圧寺に寺院を廃業して宿坊機能だけを活かし旅館業に転身した。社長の岩本家が本姓佐々木氏で一族には明治に分家し初代江ノ島郵便局長で関東俳画界の巨星と成った間宮霞軒翁がいる。現在の江島神社宮司家は間宮家とは無関係だが良く歴史を伝えておられる。

3,関東に於ける八幡宮と言えば武家の本地の鶴岡八幡宮が全国的に有名ですが、その八幡宮が鶴岡八幡宮合戦で里見家と正木家の海賊と狼藉者によって鎌倉市街地ごと放火略奪され灰燼に帰した際に、小机城代で北条家筆頭家老格で再建奉行の笠原信為公、海運を担当した蒔田御所吉良頼康公等と協力して寄親で材木奉行の北条綱成公の調達管理実務を間宮康俊公が行い杉田港に材木を集積し鎌倉まで輸送し、更には鶴岡八幡宮内の築地塀奉納に北条一門や家老衆と名を連ねている事実が快元僧都記や地理や家臣団の名から解っていますので、日本の八幡信仰に対して多大な貢献をしている事実から現代の神道に残した功績は少なくない思います。
CIMG5852
間宮康俊公は居城の笹下城下にも若宮八幡社を勧進し開き大切にされています。

4,間宮家は戦国時代に現在の海老名市、国分(現在の海老名市中心街)にも所領に持っていました。
この海老名市に在る延喜式内社の有鹿神社は古代一之宮で今五之宮ともされる上に天平年間には天智天皇より国家鎮護の勅願所として祭祀が行われましたが、新田義貞の鎌倉乱入戦時の社寺への略奪放火や室町時代の上杉禅宗の乱や永享の乱で荒廃し古代からの水引神事が中絶していました。有鹿神社は別当寺が真言宗成就院ですが、間宮家が海老名領主の時代に間宮家の主君の北条氏政公により水引神事が成就院の僧侶によって復興されました。間宮家と神事と真言宗の関係性を考慮すれば、この古代の神事復興に間宮家が関与した可能性は大いに有ります。神社と言う形式成立以前からの古代の神事祭祀を復興された事は神道的価値観からも修験道の価値観からも真言宗としても日本文化保護の見地からも大きな意義が有り、間宮家の関与が裏付けられれば寒川神社の追儺祭神事が古代の形式と言葉を用いて現在にも続いているのに匹敵するのと同じ程に素晴らしい事と言えるでしょう。
CIMG5985

5,間宮康俊公の姫の於継サンは古河公方足利家重臣豊前氏盛公に嫁ぎ、もう一人の姫の於久サンは東照大権現徳川家康公に側室として嫁ぎ姫を産み、康俊公の御子息の康次公の姫は延喜式内社で関東最古の大社の鷲宮神社宮司大内泰秀公に嫁ぎ、杉田間宮家の間宮信繁公の姫は久能山東照宮の初代大宮司榊原照久公に嫁ぎましたので宗教的に高い家格でした。
CIMG0811

さて・・・
新編武蔵風土記稿には、「八幡社の背後の山から下に見る梅林の風景が綺麗だ」と書いていますが、これが幻のブランド梅の「杉田梅」の梅林でした。
この杉田の梅林は杉田間宮家の間宮信繁公が植林された梅林で、江戸時代~昭和初期には一大観光地として栄え、明治天皇や皇族も見学に来られた程の規模でした。 
間宮信繁公は徳川幕府初代鷹匠頭で家康公の供を常に勤めた人物で関ヶ原でも活躍しました。
間宮信繁公の御墓は、近くの牛頭山妙法寺に在ります。
※妙法寺の記事は「ココ」←クリック!
杉田梅林は罰当たりな横浜市教育委員会が保護しなかったので、見事に宅地化され消滅してしまいました。
意外かも知れませんが、この旧杉田郷付近は重要な歴史史跡が多いんです。
弘法大師空海和尚様が開いた妙法寺も近所在ったり、この横浜~三浦一帯には日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承も有ります。
杉田駅前の東漸寺も鎌倉幕府の名越北条氏の北条宗長公が開いた古い御寺です。
この名越北条家の殿様の移住先が現在の名古屋市で、古くは名越野と書き、後に那古野、更に江戸時代に那古やと成った名古屋の地名のルーツの殿様の御寺だったりします。
杉田の隣接地、磯子区峯~港南区港南台~栄区上郷~金沢区釜利谷に跨る円海山は、古代人が住み蹈鞴(たたら)製鉄を行った遺跡が出土し、古代神の思金神を祭る神社や鎌倉武士が使った間道史跡の鎌倉古道が林道に成っていたり、京都知恩院大僧正を輩出した由緒ある阿弥陀寺や古河公方の御子息が開いた寶勝寺も有ります。
そして東急不動産と今の林市長が開発してしまおうとしていますが、円海山の瀬上沢一帯では自然のホタルも見れます。
磯子区や港南区を含めた久良岐郡が古くから開けていた史跡が点在し、豊かな自然も円海山には残っています。
この伝統を守って下さっていたのが、明治時代以前までの神社の宮司様や御寺の和尚様達な訳です。
ですから杉田八幡宮にも源義家公との逸話や、間宮家の殿様との逸話も伝承する訳です。
屛風ヶ浦には源頼朝公の開いた森浅間神社も在ります。

もし、杉田駅の御近所に住んでらっしゃる方がいれば、杉田商店街で買い物ついでに歴史偉人の開いた東漸寺〜杉田八幡宮〜妙法寺を歴史散歩なんて贅沢な時間の過ごし方が出来ますね〜。

今回は杉田八幡宮を紹介させて頂きましたが…
皆さんの住宅街の中にも意外な偉人との関わりや深い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れませんよ〜?
…と、言うお話でした!

では、皆さん、又次のブログ記事でお会いしましょう!
mixiチェック

前回の記事⤵
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・①玉前神社と鵜羽神社の関係と地形解説。
・・・その続きです。今回は延喜式内社で神話の舞台、玉前神社の境内の紹介です。
先ずは玉前神社の地形の解説から始めたいと思います。
KIMG6640
玉前神社(延喜式内社)玉前神社は大通りを1本横に入った住宅街の中に存在しています。地形的には微高地に成っており、背後には一宮城址も存在しており前回の解説でも説明した通り、神話時代に相当する弥生時代当時は海に浮かぶ半島状の先端に存在している事が解かります。
Screenshot_20200218-021343~2
玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台でも有り、その後の時代の日本武尊神話の舞台の一つでもあります。
式内社と呼ばれる平安時代の人から見ても凄まじく歴史の在った神社には、縄文時代や弥生時代の祭祀遺跡を内包している場所、又は古代の集落遺跡に隣接していたり、集落遺跡の中に存在している場所も多く有ります。
下の二枚の画像は前回でも使ったGoogleEarthに古代の海岸線と神話の舞台の玉前神社と鵜羽神社を重ね合わせた画像と人工衛星写真の比較です。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
現在の上総国神社位置関係 久良岐のよし
奈良時代以前の祭祀遺跡が出土する地形や、式内社にはこの様に古代の海に浮かぶ半島の先端や島、港に成る入江の最深部、又は大きな山の山頂、その様なランドマークに成る地形を守るような場所が聖地化しているケースが多く有ります。
走水神社 久良岐のよし
日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)神話の舞台の一つである走水神社と御所ヵ崎等も全く玉前神社と鵜羽神社との地勢と同じですね。
走水神社は日本武尊の冠を収蔵した石棺が本殿下に埋蔵されており、御所ヵ崎は日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一時住んだ行在所として機能していた神話が有ります。
この御所ヵ崎の地形は完全に上総国一之宮の玉前神社と地形も日本武尊伝説の舞台としても一致します。
古代の貴人の住まいや聖地は半島の更に先の先端、海に浮かぶ島の様な地形ですね。
CIMG0300
古代の玉前神社辺りは真鶴半島の三ツ石の様な地形だったんでしょう。
三ツ石は今も自然崇拝の対象に成っていて注連縄と御社が存在しています。
CIMG0289
玉前神社は真鶴の三ツ石程の峻嶮な地形では無く略(ほぼ)なだらかな岬の先端だったと思いますが、この様な半島の先端部が古代の港湾守護の聖地化しました。
次回の鵜羽神社の紹介記事で説明する予定ですが、鵜茅葺不合神の母君の“豊玉姫の神話”でこんな話が登場します・・・
「海の中じゃ子供産めない!」と不安に駆られて陸の鵜羽神社を建設して出産した。
・・・と伝承が有ります。海中に突き出した玉前神社は台風や大潮の影響をモロに受けたでしょうから、古代の玉浦(たまのうら)の湾の最深部のシッカリした陸地多い所に居を一時的に移した事が解かります。
この聖地の立地条件は横浜市域(鎌倉郡・久良岐郡・都築郡・橘樹郡)と川崎市域(橘樹郡・多摩郡)でも同様です。
旧久良岐郡橘樹郡の古社古刹 久良岐のよし
横浜市域と川崎市域は武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱以後に古代大和王権に接収され天皇家の直轄領に成っていました。
久良岐郡・都築郡・橘樹郡・多摩郡ですね。
店屋(てんや)と表示されている場所は、古代の店屋と言うのは大和朝廷の軍事や物流の駅伝中継基地の在った場所が地名として残っていると推測される場所です。表示した場所以外にも沢山存在していたと思います。
日本武尊伝説の舞台となった場所が横浜市内には2ヵ所伝承していて神奈川区の宝秀寺と磯子区の妙法寺です。
image
宝秀寺の一帯は神大寺地区と呼ばれ、戦国時代まで神大寺と呼ばれる大寺院が存在し宝秀寺には日本武尊一行を歓待したと伝わる大伴久応と伝わる人物の供養の土饅頭が存在します。
その神話伝承から横浜市神奈川区六角橋の地名は日本武尊の使った六角形の橋が宝として大切にされたのが六角橋の地名由来と伝わりますが、別の説では戦国時代の近江の大名の六角(佐々木)家が鎌倉時代に一帯の領主だったので、それに由来する説も有りますが・・・
神大寺は名前から神様を祀る神社だった事が容易に推測出来るので、元々は日本武尊と大伴久応とを祀った神宮寺だったのでしょう。
DSC_0901
DSC_0902
三浦半島の走水でも日本武尊と弟橘姫を歓待したのが“大伴”黒主と伝わるので、この大伴久応と大伴黒主は同一人物でしょう。
そして古代の大伴氏が現在の横浜市域から三浦半島を治めていた事も同時に推測出来ますね。
DSC_1214
走水海岸の御所ヵ崎側からは真っ直ぐ先には富士山と夕陽が見える。
宝秀寺の近所に存在する塩嘗地蔵・・・
image
・・・この御地蔵様前の住宅道路が古代の街道であり神大寺の入口と伝わっています。
古代天皇家の直轄領で無主の土地と成り、古代豪族がいなかった事で古代から聖地だったり豪族王の宮殿だった場所も郡衙(役所)以外は放置されて神社化せず平安時代に至り、そこを真言宗の開祖の弘法大師空海和尚が牛頭天王社や太子堂を建立して仏教や神仏習合の聖地として牛頭天王=素戔嗚尊を御祀りして聖地を保護して廻っている事が、各宗派の再興開基以前の前身寺院の寺伝から読み解く事が出来ます。
同様に修験道の聖地化した八菅山七所権現(八菅神社)や・・・CIMG6079
KIMG1685
・・・石山権現大山阿夫利神社等も存在します。
そして空海和尚は佐伯氏の出身です。
この佐伯氏は大伴氏の同族で水軍を統括し、大伴氏は天皇家の近衛軍を務めた一族だった事から空海和尚は日本武尊に与力した古代豪族大伴家所縁の日本武尊聖地を巡礼しながら仏教教化しながら神様を祀る神社を改めて建設して巡ったのかも知れません。
日本神話に造詣が深かったので、古代の港湾を守護する聖地に須賀神社や牛頭天王社を開き神話通り、海の守護神で軍神の素戔嗚尊を御祀りして海上交通の安全を祈願したのかも知れませんね。
CIMG1511
中でも弘明寺は古代大岡湾の最深部に存在しますが、そこは久良岐郡郡衙(ぐんが:郡役所)と推定されている遺跡も出土した場所です。現代では“厄除け大師”のキャッチコピーを川崎大師や成田山にパクられてしまいましたが古来厄除け大師と呼ばれ戦国時代にも有名で武士の崇敬を集めたのは弘明寺でしたが、このキャッチコピーの由来は弘明寺の表記が求明寺と言う字だった時代に空海和尚がここで国民の為に“国家鎮護”“災厄退散”の護摩行を行った“天皇家勅願寺”だった事を推測させる歴史が有る事から“厄除け大師”と呼ばれる様に成った歴史が存在します。
又、横浜市磯子区の古代の本牧半島上に存在した八幡橋八幡神社は舒明天皇の時代、西暦600年前後の成立と伝わります。同じく八幡橋八幡宮と本牧半島を挟んで反対側の古大岡湾に面した中村八幡宮も同時期の成立の社伝が有ります。
海上交通の神様として素戔嗚尊から八幡大菩薩=応神天皇に次第に役割が移って行くのは応神天皇が古墳時代の天皇家の祖先なので当然ながら古墳時代以後の事で、八幡橋と中村の八幡宮の成立時期も地形も整合性が有ります。
以上の様な古代の半島や湾の最深部以外にも古代の聖地は有ります。
DSC_0210
横浜市港北区の師岡熊野神社がやはり古代の太尾半島の上に存在し、縄文時代の貝塚が境内から発掘されており更に集落を建設するのに必要な聖地が存在します。
DSC_0204
熊野神社は水神様なので聖地化する由縁に成ったのがこの飲用水に出来る湧水池の存在に有る事が解かります。
他にも河川の合流する三角地形が半島と同じ様に聖地化します。
京都の下鴨神社や熊野大社本宮旧境内地の様な場所ですね・・・
下鴨神社 久良岐のよし
熊野大社本宮旧社地 久良岐のよし
・・・この三角州のケースは今回の玉前神社とは違うパターンですね。
しかし武蔵国には同じパターンの神社が有ります。
多摩郡の式内社 久良岐のよし
武蔵国の一之宮小野神社と二之宮小川大明神二宮神社です。
DSC_0950
古代の人が集落を築ける湧水も沸いています。川の水は飲めないんですよ、寄生虫なんかで御腹壊して薬の無い古代の人は死んじゃいますから。
さて以上の聖地の条件がバッチリ重なるのが玉前神社な訳です・・・
KIMG6639
・・・では、ここから玉前神社の境内を写真で紹介して行きたいと思います。
KIMG6640
参道正面に戻ります。
立派な朱塗りの鳥居の横の石柱に玉前神社と書いて有ります。
裏側を見ると・・・
KIMG6641
石柱の玉前神社の字は当時神社本庁のトップだった徳川宗敬(むねよし)公の揮毫らしいです。
徳川幕府のトップだったのに大坂城からスタコラ1人で逃げ出しちゃって幕府滅亡させた徳川慶喜公の甥っ子。よくよく考えると慶喜公が不戦の姿勢に転じた御陰で日本の近代化も成功してたりするので、何だかんだ叔父ちゃんが功績が有ったりする人ですね。
KIMG6642
一段低い場所の社務所。
KIMG6644
玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台だから当然、縁結びの御利益は強い!
KIMG6645
扁額は銅製。
個人的に銅製の扁額は平塚八幡宮で見て以来かな?
KIMG6646
日本武尊伝説の湧水。自由に御汲み取り出来ます。
伝説では走水から富津方面に渡り、鴨川市吉浦(葦浦)に回り玉前神社の辺りまで来たと伝わります。
2015-12-19-15-03-12
更に北上すると、やはり日本武尊神話の残る関東最古の大社格と伝わる鷲宮神社が存在します。
このルートから察するに・・・
古代の房総半島は入江が入り組んでるので行軍し難かったでしょう。東京湾岸古社と海岸線の位置関係 久良岐のよし
・・・一度外房に出てしまって船で北上しながら利根川を遡った方が行軍し易かったのかも知れません。
KIMG6648
境内のさざれ石。土砂も堆積すれば古代の玉浦も玉崎もさざれ石の様に陸地に成る・・・
当時は軍馬が余り普及して無かった筈なので、軍事物資の補給を絶やさない為にも輸送力の高い船での移動が都合よかったのでしょう。
KIMG6646
・・・神話では日本武尊が白鳥に成って飛来し、その羽が落ちた事で御神水となり日照りが続いて旱魃(かんばつ)に成っても水が決して枯れなかったと伝わりますが、その神話を正しくはどう解釈するのが正解なのか小生にも理解は出来ません。しかし軍事行軍する際に軍船の船団にも個人でも給水が必須です。
ですから天皇家とは別系統の鵜茅葺不合神と玉依姫の在地豪族化した御神孫の協力を得て、飲み水に成る湧水の有るこの土地に立ち寄り暫く駐屯し、軍事物資や食料と飲料水を補給したのかも知れません。
白鳥は何を比喩しているんでしょうね~?
もしかしたら弥生時代~古墳時代当時は麻布が衣料品の素材だったで、その時代に日本武尊は三国時代の魏から輸入した絹衣、真っ白なシルクの衣装を正装として着用していたりして、玉前神社に来臨した日本武尊の御姿が「舞い降りた白鳥の様だ」とか伝承したのがストレートに言葉だけ伝言ゲームで伝えられて、いつの間にか白鳥に成って飛来したとか変わったのかも知れませんね。
KIMG6650
社頭掲示に日本武尊の神話は掲載していませんでしたが、令和の今上上皇陛下も御若い頃に参詣されています。
仮に日本武尊の時代に当たる古代大和朝廷の邪馬台国の頃、既に魏から養蚕技術が導入されていたのならば・・・
古墳時代に入る寸前の時代に真っ白なシルクの衣装を着て行くだけで、大和王権の産業の質の高さを誇示出来た事でしょう。
・・・衣装だけで戦争を回避し、将来的に技術供与して在地豪族王族に富をもたらすと良い印象を与え、尚且つキラキラ光るシルクの衣装は神秘的な清潔感と権威を兼ね備えた印象も与える事が出来るでしょう。白鳥伝説はそんな日本武尊の外交と統治の戦略が形を変えて伝わった伝承だと思います。
KIMG6647
井戸の後ろに、半島の先っぽの島状の岬だった本殿の所在する一段高い壇地、その参道階段前の鳥居の左側奥側には摂社が存在します。
KIMG6651
一つは玉前稲荷神社、宇迦之御魂神。湧水地の水神で有り農業と商業を含めた富の象徴の神様。
KIMG6652
あと三峯神社。
秩父地方の山岳信仰の対象であり、やはり日本武尊神話の神社でもあります。
神話に由れば上総国辺りから関東平野の縁(へり)の秩父山系の三峯神社辺りに山が三つ並ぶ様子が美しく見えたので、三峯宮と名付けられたと言うのが三峯神社の由来らしいです。
KIMG6653
多分、その伝承に上総国が関係しているので上総国一之宮である玉前神社に近代に氏子サン達が三峯神社の御分霊を勧進されたのでしょうか?
KIMG6654
社殿は黒基調に金色の金属が映え、凛とした佇まいです。
古代は海に突き出し海に囲まれた聖地で、豊玉姫や玉依姫が恐らく斎王を務めたであろう神社。
その雰囲気に相応しい社殿ですね。
KIMG6655
本殿の近くに御神木の説明等も有りました。
KIMG6656
力石。
江戸時代の力士や力自慢農民の氏子が祭事に力比べで持ちあげてた石。
ネットの借り物画像⤵
10008131854
https://ameblo.jp/asonde-spain/entry-10014704968.html
画像拝借先⤴スペインのバスク地方とかでも同じ様な力比べ今でもしますよね。
昔は力持ちの男の人がモテたのかな?
ちょっと歴史のある神社なら結構現存してる場所も多い力石。
KIMG6658
あと本殿の裏っ側に戦没者を祀った御社みたいのも有りました。
KIMG6659
それと軍艦の砲弾。
境内には御神輿を展示した資料館的な綺麗な建物も有ります。
KIMG6660
この建物にトイレも有るので、トイレ綺麗で女性も安心だと思う(笑)。
全体的に神話が歴史とも整合して素晴らしい雰囲気の息づく神社です。
是非、皆さんも千葉県東部に足を運ぶ機会が有れば御参りされては如何でしょうか?
別記事にしますが、御近所には嵯峨天皇に菓子屋として珍しい勅許を頂いてる御店も有ります。

KIMG6661
かねきち
KIMG6666
上皇陛下も召し上がったそう。
御店の方が店内の写真撮影許可して下さったんで、又玉前神社~鵜羽神社の記事と別に紹介したいと思います。
KIMG6669
さて、玉依姫と日本武尊、二つの異なる時代に渡って神話の舞台と成った玉前神社、どうですか?
本当に素晴らしい神社なので是非、御参りして縁結び祈願や夫婦円満、はたまた日本武尊の交通安全や勝負の御利益を祈願されては如何でしょうか?

では、次は鵜羽神社の記事で御会いしましょう~♪
又ね!
続く⤵️
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・③鵜羽神社の施設と景色の紹介。
mixiチェック

休日、のんびりお昼に起き出して・・・
「抹茶のんでボぉ~っとしたいなぁ~」
・・・と、思い付きで鎌倉の浄明寺地区の浄妙寺の草庵に抹茶を飲みに行く事にした。

ついでに・・・
「英勝寺サンに静岡市の華陽院の御住職の話や市姫様の事も伝えないといけないしなぁ~」
・・・と用事も思い出し、ついでに扇谷地区の英勝寺の竹林も数ヵ月ぶりに見たいなぁ~とも思い、そちらも回る事にして自宅を出発。

途中、更に思い付きで・・・
「そう言えば先日、妙法寺の御住職のご紹介で間宮家の歴史を調べに大田区の善慶寺に行って来たんだった。」
・・・と言うのを思い出して、御報告と御挨拶を兼ねて磯子区杉田の牛頭山妙法寺の御住職様を訪ねた。
御住職様は御不在。
image
御住職様の代わりに奥様に伝言を御願いしてから簡単な報告と雑談をしたら、南天飴を貰った。
image
妙法寺は日蓮宗の御寺で杉田間宮家の菩提寺なのだが、御住職は日蓮宗系の大学の教員を務めてらっしゃる関連で山梨県にも良く行かれる。だから頂いた御土産も山梨名物の南天の飴なんだな。
車に乗り飴を舐めながら鎌倉に向かって出発。
CIMG1183
最初に扇谷地区の英勝寺を訪問。
CIMG1199
谷戸に生える竹林のマイナスイオンを受けながら、境内を30分程散歩した。同地は太田道灌公の邸宅址であり、徳川家康公の愛妾:御梶の方が晩年祖先の故地である場所に建てた浄土宗の御寺でもある。
CIMG1185
鎌倉市には浄土宗の大本山光明寺も在るが、鎌倉幕府以来の臨済宗の御寺が多いので浄土宗の御寺は珍しい。
CIMG1189
御堂の中は徳川家の三つ葉葵、太田家の太田桔梗、そして何故か小笠原(武田)家の花菱・・・
こう言うのを見てしまうと、駿府に隠居した家康公が大阪夏の陣で戦死し、小笠原秀政が影武者を務めていたと言う俗説も信憑性を匂わせる。東照宮も久能山と日光山に二ヵ所有るのも同じ事を連想させる。
参拝ついで浄土宗専用の御朱印帳に御朱印を頂いた。
小生の浄土宗専用の御朱印帳には華陽院・宝台院別院・久能山東照宮・英勝寺の順番で朱印が並んでいる。
華陽院・・・徳川家康公の御婆ちゃんと、側室の間宮お久様の菩提寺。
宝台院別院・・・久能山東照宮の初代大宮司で、間宮お継様の旦那様:榊原照久公の菩提寺。
久能山東照宮・・・徳川家康公の御神廟。
英勝寺・・・徳川家康公の側室で太田道灌公の曾孫に当たる人物。
小生の御朱印の中に並んでいる人々は、かつて駿府城の中で一家の様に仲睦まじく過ごされたいた人々なのだ。
だから、偶然でも小生の御朱印帳の中で4人の方々の御寺が並んでいる事は個人的に嬉しい。
英勝寺の竹林を散歩した後、浄妙寺へ移動。
CIMG1206
浄妙寺は臨済宗で、鎌倉幕府以来、京都の南禅寺と比較して将軍家と執権北条家より❝南禅寺上位別格❞の格式とされた建長寺を筆頭にした鎌倉五山の第五位に遇された元は大寺院だった御寺。鎌倉五山が如何に格式高かったかと言うと鎌倉幕府以来歴代の住職を任命出来たのは征夷大将軍だけだった事実が有る。
その伝統は明治時代まで続いた。
そもそも格式以前に浄妙寺が鎌倉時代より室町幕府足利将軍家の御先祖の菩提寺だった場所で、規模が縮小した現在でも美しく広い境内を維持している。
CIMG1209
庭園を見ながら抹茶と御干菓子を頂いた。
CIMG1218
浄妙寺の本堂を囲う谷戸の樹々は既に紅葉が深まりつつ有り・・・
「秋だなぁ~」
・・・と季節の移り変わりと1年の過ぎる早さを感じさせてくれた。
CIMG1216
帰路について駐車場まで歩いていると可愛い茶虎猫に出くわした。
CIMG1222
CIMG1224
横から見ると愛らしい体系だったが、正面から見ると凛々しい表情とは裏腹に何だか悩ましいポーズ笑い。
猫ちゃんに遊んでもらった後、又も思い付きで遠回りをした。
CIMG1225
帰り、朝比奈峠越えの遠回りして港南区の港南台の行きつけのケーキ屋さん瑠璃庵で季節柄モンブランを買って、実弟の家の姪っ子に持って行ってあげた。
image
自分と両親の分も3つ購入した。
行きつけの肉屋にも寄って夕食のおかずの足しに焼き鳥も購入。
image
帰宅後は愛知県海部郡蟹江町で購入した、戦国時代に武士達が飲んでいた本味醂を開けて飲んだ。
image
スーパーで売ってる偽物の味醂とは全く違う。焼酎から作られているリキュール。
image
トロッとして黒糖みたいな甘味と焼酎の香りがして癖になる。サイダーで割っても美味い。
小生は平素、飲酒の習慣は無いが愛知から買ってきた鶴見酒造の神鶴と・・・
image
甘強酒造の純米本味醂・・・
image
それと横浜市港北区の梅酒、梅の薫・・・
image
・・・コレと伊勢原市大山の酒蔵遠州酒造の清酒、大山だけはたまに飲む。
抹茶飲んで鎌倉で秋の初めの風景を楽しんで、焼き鳥食べてモンブラン食べて。
ふむ、今日は無計画でノンビリと良い休日を過ごせた。
mixiチェック

埼玉県には鷲宮(わしみや)と言う土地が有ります。
この地名の由来は古代、日本史で言う所の土師(はじ)氏と言う部族が開拓したと伝わっている土地で、この“土師(はじ)”が悠久の年月を経て訛(なま)り“はじ”→“わし”と転化した事に由来すると言われています。
この伝承と符号する神話を持つ神社が、この鷲宮にはあり、その名も“鷲宮神社”と呼ばれている関東で最古の大社(たいしゃ)格の権威を持つ神社です。
2015-12-19-15-01-59
立派な鳥居ですね。形状は山王鳥居。
余談ですが鳥居には色々種類が有るの御存じでしたか?
大別すると、この鳥居の様に複雑な形をした物を明神鳥居と言います。
対して丸太を組み合わせただけの様なシンプルな鳥居を神明鳥居と言います。
明神鳥居に更に屋根が付いた形式を“山王鳥居”と呼びます。
どうも色んな神社を参拝した経験的に、出雲系の神様の鳥居には明神鳥居が多い様です。
さて、そこで、この鷲宮神社の神話と鳥居が結びつきます。
土師氏と歴史で位置づけられる、この土地を開拓した一族は、鷲宮神社の神話によれば出雲国出身の一族で27人の部族集団から始まったそうです。
この土地からは古代の遺跡が多く出土しており、この神話を証明するに十分な状況はそろっています。
つまり、この地は出雲族、素戔嗚尊の御神孫27人の部族が移住し開拓した“聖地”な訳です。
2015-12-19-15-04-06
27人と言うのは、国を開拓する規模で考えると人数と言うより27集団と考えた方が自然かと思いますが、縄文時代や弥生時代の集落と言うのは多くて100人超える規模、少なくて数世帯で数人なので考古学的にも、この鷲宮神社の伝承は信憑性の有る開拓者の人数だと思います。
最初は27人からスタートして、鷲宮に村が出来て、交易に来る人が定着し、大きな集落に発展して下総国周辺を開拓されて行かれたんですね。そして平成の世では、この出雲族の開拓地が聖地と呼ばれる程、神話上も考古学上も重要な場所に成った訳です。
だからか解りませんが…
この地域の特産品が“聖地酒”と言う日本酒のようです。
2015-12-19-15-02-34
昔の門前町に当たる商店街は何だか良くわからない女の子のキャラクターが、聖地酒と言う御酒のアイコンに成っているようで、商店街中至る所でプッシュしてました。
…年上好き非ロリコン、3次元の生身の触れるリア女性が好み(笑)の小生としては非常に、店に入り難(にく)く成ってしまう購買意欲を削がれる看板でした(笑)。
でも、商店街の人が頑張ってる感じは伝わって来たので、素晴らしい取り組みだと思います。
2015-12-19-15-02-21
看板はアレですけれど、小生的には好きな店構え。
2015-12-19-15-02-11
商店街は残念ながら過疎ってますが、この道幅の道路の両脇に古めかしい建物が在ったので、つまり江戸時代も当時もこのままの道幅だったと言う事ですね。
…と、言う事は、この道幅は昔からするとかなりの大通りに成るので、この鷲宮神社の門前町だった江戸時代は相当参拝客で栄えていた事が推測できます。
鳥居をくぐると、境内は趣の有る参道が参拝客を出迎えてくれます。
2015-12-19-15-03-40
良いでしょ?
左手の掲示板の様な物は所有する重要文化財の説明等が書かれています。
2015-12-19-15-04-49
まぁ、防犯上の都合も有り、通常宝物は市の博物館やなんかに保管委託して有ったりする物なんで、鷲宮神社も所有していても、まさか神社の境内に在る訳じゃないと思いますが。
神社の由来の説明も有ります。
2015-12-19-15-04-18
武蔵国造(むさしのくにつくりのみやつこ)と書いて有りますね。
これは間違いです。
武蔵国が成立した頃は既に国司(こくし)と言う名の知事職が存在していましたし、武蔵国の成立自体が西暦400年~500年頃の話しですので、この説明に書くべきは“佐賀牟(さがむ)の国造(くにつくりのみやつこ)”とです。
実際に初代佐賀牟国造は諏訪の建御名方神(たけみなかたのかみ)の御神孫5代目と伝承しています。
佐賀牟国が相模国と武蔵国に分裂した経緯(いきさつ)が伝承しているのが、恐らく神奈川県大磯町の神揃山で古来行われていた国府祭(こうのまち)と呼ばれる神様同士の喧嘩と仲裁の御話しです。
この鷲宮神社は関東総鎮守(かんとうそうちんじゅ)と異名の有る大社なのですが、神奈川県にも同じく縄文時代からの祭祀史跡を御神体の大山に抱える大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)と言う“関東総鎮護(かんとうそうちんご)”の異名で呼ばれる神社が在り、そちらの神話でも同様の伝承が有ります。
更に、縄文時代の祭祀場や古墳時代の古墳群を旧社地に抱える神奈川県の比々多神社も御祭神を豊国主(とよくにぬし)=大国主命としています。そして、恐らく佐賀国分裂のきっかけを伝承している神事の国府祭に登場する神様の一人が比々多神社の神様です。因みに、比々多神社一帯は有る時期、国府が置かれていただろうと推定されており三宮と言う地名にその名残も留めています。
つまり、関東の神話を証明する通り、鷲宮神社を含めた関東の古社では素戔嗚尊の御神孫達が関東を開拓した事に成っている訳です。
説明看板の通り、その由緒正しさを証明する様に関わられた偉人も日本武尊に始まり、源八幡太郎義家公、源頼朝公、北条時頼公等々…凄まじい歴史偉人達ばかりです。
因みに、日本武尊がこの地で社殿を造営した神話を補強する神社と御寺が神奈川県に3ヵ所有ります。
一つが…
2014-11-02-07-33-52
走水神社…神奈川県横須賀市走水、三浦半島の先端。
この場所から東の房総半島へ渡航を目指した日本武尊と御妃(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)様は一度、東京湾の激しい潮流に北に流され渡航失敗しました。
この時、日本武尊は素戔嗚尊を信奉していたそうで、現在も走水神社の奥宮には素戔嗚尊と奇稲田姫の御夫婦が建国された須賀国の名を頂く須賀神社と諏訪神社、神明神社の三社が明治時代に付近の元境内から明治政府の破壊から免れ遷座保護されています。
ちなみに破壊の原因は思想的な物では無く、防衛上の砲台の建設の為の用地接収でした。
遷座を実現し保護されたのが東郷平八郎元帥や明治の元勲達でした。

日本武尊が房総へ渡航を目指した時、漂流して又走水に戻る際に通ったと思われる伝承が有るのが、横浜市磯子区杉田の妙法寺です。
2015-01-21-13-16-37
ここは戦国武将間宮家の分家杉田間宮家の菩提寺であり、北条家の重要な港湾拠点の一つだった地域でもあります。因(ちな)みに、鷲宮神社の古代から江戸時代までの宮司家は大内家で、その大内家に江戸時代初期に間宮本家の笹下間宮家から御姫様が嫁がれており、神話でも戦国武将の血縁でも不思議な御縁で結ばれていたりします。
この付近を日本武尊一行が通った伝承の有り、その伝承に基づいて弘法大師空海和尚が現在の妙法寺の境内に前身となる牛頭天王の御社(おやしろ)を勧進されたそうです。
牛頭天王は仏教名ですが、日本神話の素戔嗚尊を同一視した神仏習合の御名前です。
つまり、空海和尚は日本武尊の牛頭(素戔嗚尊)信仰を御存知(ごぞんじ)だった様ですね。
妙法寺は牛頭天社を本格的な寺に発展させ開基した荒井家が日蓮宗徒だったので鎌倉時代に日蓮宗の御寺として始まり、現在に至ります。つまり真言宗と日蓮宗両方の歴史を有しています。
さて、では何でここを日本武尊が通りがかったですが、実は走水神社の前の海を古代人の習慣に従って冬~早春の早朝に出港すると、神話通り激しい北向きの潮流に流されてしまうんです。
2015-02-09-02-23-53
その流される先が、正に、横浜市南部沿岸部、この杉田周辺に成るんですね。
そして、この付近は久良岐の丘と呼ばれる断崖絶壁の海岸に囲まれた丘陵地で、数少ない寄港可能な場所が、この六浦、金沢、杉田、屏風ヶ浦、蒔田と呼ばれる辺りだけに成る訳です。
つまり、流された日本武尊はこの付近から上陸し走水に陸路帰ったはずで、空海和尚の事績と整合性も有る訳ですね。
そして、そんな科学的な事を分析する術の無かった神話の頃の古代人は、海や川や火山の噴火を鎮める為に人柱(ひとばしら)=生贄(いけにえ)を差し出し自然の協力を得る訳です。
神話の時代の日本武尊一行も、セオリー通り人柱を海に捧げました…
と、言うより、奥さんの弟橘姫様が自ら海に飛び込まれて犠牲に成られ海を鎮められました。
そして、日本武尊一行は弟橘姫様の犠牲の上で房総半島への渡航に成功します。
では、何故(なぜ)、弟橘姫様が海に飛び込んだら日本武尊一行は渡航に成功したかですが、それも潮流と古代人の活動時間で説明が付きます。
古代人は電気が無いし、夜間行動は狼(おおかみ)や野犬等の猛獣に暗闇の中で襲われる危険が有るので、当然、朝早くから行動し、夕方日没には安全な拠点にて休息する訳です。
弟橘姫様の人柱の神事を早朝、冬なので夜明けの6時過ぎ~7時位から始めたとして、例えば儀式が一しきり終わるまで数時間かかって昼前か正午位に成るとします。
すると…
2015-02-09-02-25-19
冬の正午頃の東京湾の潮流は落ち着き、走水~日本武尊が上陸したとされる富津(ふっつ)半島の最短ルートは正に時計と反対回りの潮流で“水が走る”様に潮流が船団を自然に辿(たど)りつけるんですね。
ちなみに富津(ふっつ)は古来“布津”とかいて“布津(ふっつ)”と呼ばれていましたが、いつの時代からか字を変えられてしまいました。
その地名の由来は、入水した弟橘姫の衣(ころも=服)=布が流れ着いたのを発見された場所だから、布津と成ったとされています。
この布津と、神剣“布津の御霊”も何か関係が有りそうですね。
ついでに…
富津の北の❝君津❞は日本武尊が人柱に成った弟橘姫を思い悲しみ「君はもう帰らないんだね」と嘆いた場所。
更に北の❝袖ケ浦❞は❝弟橘姫の着用していた小袖(こそで=和服の原型)=下着が流れ着いた場所❞なので、その地名が袖ケ浦に成ったそうです。
この伝承も、潮流と整合性が有ります。布類では無い木製の櫛だけが布製品と違う潮流に乗って対岸の橘樹神社の辺りの古代の港に漂着したのでしょうか?
さて、これ等の根拠と走水神社の神話と妙法寺の空海和尚の事績伝承を更に補強する凄まじい神社が神奈川県川崎市高津区に在ります。
image
その名も橘樹(たちばな)神社です。
名前の通り、弟橘姫を御祀(まつ)りする神社ですが、この地は古代の橘樹郡の政庁の跡と推測されている上に、神社の本殿の真っすぐ真裏の今は住宅街の山は巨大な円墳の跡なんですね。
その円墳が本来の御神体であり本宮の様な存在で、御神体の正体はなんと、弟橘姫の櫛(くし)だとされています。
入水した弟橘姫の櫛が流れ着いたのが、この高津区の橘樹神社の土地だとされています。
2014-10-25-06-33-36
円墳の頂上部分は現在も保護されています。
古墳時代は西暦100年代後半が現在の考古学で確認できる一番古い時期ですが、その時期の始まりは考古学の発掘が進むにつれて段々はやまっています。
日本武尊は西暦100年頃を生きていたと人物だと神話では動向を確認できます。
神話ですので誤差前後100年は有るかも知れませんが、古墳時代の始まりとほぼ整合性も有ります。
仮に神話が若干誤差が有るとして、近い時代の人物に卑弥呼がいます。卑弥呼には弟がいて政治や軍事を代行していた記録が、中国の史書三国志の魏志倭人伝に残っています。
もしかして日本武尊は、この卑弥呼の弟か弟の子だったりして…
もしそうなら…
倭媛命(やまとひめのみこと)=卑弥呼、景行天皇=卑弥呼の弟じゃないのか?
そう言えば景行天皇の皇后には弟姫皇女(おとひめのひめみこ)って人物がいるけれど、これって…
弟姫皇女(おとひめのひめみこ)=弟橘姫(おとたちばなひめ)なんじゃないの~?
そう言えば魏志倭人伝には、卑弥呼の後で男王が即位したが国が纏(まと)まらなかったと記録が有るけれど、景行天皇の代にも九州で再び反乱が起きたのを皇子の日本武尊が討伐してるよな~?
じゃあ!日本武尊は卑弥呼の甥っ子って事?
そうなると、魏志倭人伝による所では男王では混乱は収束せず再び女王が立王されて国が統一されたと有るから、景行天皇と日本武尊の兄弟の成務天皇の代では収束せず、神功皇后の代(仲哀天皇)の代で混乱が収束したと考えると、卑弥呼の跡を継いだ女王は臺予(よと/いよ)だから、神功皇后は臺予なのかな?
な~んて可能性も考えると浪漫(ロマン)が有りますね~。

話を橘樹神社に戻します。
古代、この高津区は海でした。
高津区の区名、高津は分解すると“高(たか)い場所”にある“津=港”と言う意味に成ります。
つまり、高津の地名を付けた人の時代より古代、この“高い丘は昔は港だった”と言う地理が良く解ります。
では、現在はこんなに内陸の川崎市高津区は本当に海だったのでしょうか?
昔の海岸線
はい!御覧の通り正に橘樹神社の所在地の川崎市高津区は半島でした。
そして、当時の千葉県の袖ケ浦は名前の通り“浦=湾”でした。
現在、この橘樹神社の在る川崎市の手前は横浜市鶴見区です。
鶴見の地名の由来は鶴見川と言う市境の川の名前に由来します。この川は別に昔、鶴が見れたから鶴見な訳ではありません。鶴見(つるみ)と言うのは、古代語に翻訳しますと❝ツル=渦を巻くほど速い❞+❝み=うみ=海❞と成り、流れの早い海と言う意味に成ります。
この鶴見川河口は古代は潮流が速い川の流れとぶつかり渦を巻くような交通の難所だった事が地名から推測出来ます。更にその奥には多摩川が有り、陸路で鷲宮神社の所在地である下総国鷲宮=埼玉県鷲宮へ渡るには大きく北上して鶴見川や多摩川の上流辺りのとか可能な場所まで遠回りする必要が有り、稲作が普及していなかった当時、携行できる食料に米は無く食糧事情で陸路東を目指すのは困難だったので、走水から1日で目的地の房総へ渡る事の出来る海路をとった訳ですね。
つまり、纏めるとこうなります。
日本武尊神話
1鷲宮方面を目指し走水で最初午前中に出港した日本武尊一行は
2一度渡航に失敗し東京湾を左回りで北に流され漂流し上陸し杉田の妙法寺辺り通って走水に戻り
3走水で弟橘姫が東京湾に入水し人柱の儀式を済ませた昼に日本武尊の軍勢は再度出港
4富津(布津)で上陸した後、君津~袖ケ浦と東京湾沿いに北上し、上陸後、今度は利根川と霞ケ浦に行く手を阻まれ、利根川の渡河地点を探しながら川沿いに鷲宮に辿りついた…
…と、推測が出来ます。鷲宮に出雲の御神孫の一族の集落が在ったので、その地に滞在し社殿=宮殿=仮御所を造営したのが鷲宮神社の始まりだとすれば、こららの事が全て鷲宮神社の神話の証明にも成るかも知れませんね。

では鷲宮神社の歴史から、話題を鷲宮神社の施設其の物に移しましょう。
由緒ある神社なので明治天皇も行幸されているようです。
2015-12-19-15-05-17
歴史家で政治家の徳富蘇峰が揮毫した石碑に明治天皇の行幸を賜った事が記されていました。
偶然ですが、小生の祖先と徳富蘇峰は同郷です。
そして鷲宮神社の江戸時代までの宮司家の大内家と同じく小生の一族も国造の官職を務めた一族の子孫です。御縁ですね。
2015-12-19-15-07-42
参道を進むと立派な狛犬が出迎えてくれました。
因みに左手は駐車場で、その間には催事の掲示板もあります。
2015-12-19-15-08-29
マラソンとか興味無いし。
問題はその近くには…
2015-12-19-15-08-55
デデン!…と、登場するこの石碑が、鷲宮神社が聖地である証拠の御題目ですね。
その名も鷲宮遺跡。
2015-12-19-15-09-13
この池が古代からの祭祀遺跡なのでしょうか?
2015-12-19-15-09-42
池の名前は❝光天之池❞と呼ぶ様です。
名前からは何の神事が行われていたかは想像がつきませんが…
例えば池で行われる神事と言うと、京都の下賀茂神社の御手洗池は古代、参拝前に禊(みそぎ)を行う場所でした。
横浜の師岡熊野神社の❝い池❞は雨乞い神事が行われる池でした。
…この光天之池はと言うと?
2015-12-19-15-10-17
名前は最近名付けられた様です。
しかし、この看板を見る限り龍神信仰と関係が有るので間違いなく池の神様は水神様、つまり雨乞いや治水等の目的の神事が行われていた可能性が有りますね。
これは大山阿夫利神社の御祭神、高Okami 10.5pt.png(たかお)神と言う古事記に登場しない神様と同じ龍神で水神信仰の対象だったと思われます。鷲宮神社も大山阿夫利神社も出雲系の一族が開拓した土地の神社ですからね。
この高Okami 10.5pt.png(たかお)神は、恐らく東京都多摩地区の観光名所の高尾山の地名の由来でもあるはずです。
高尾山は天狗神話の有る聖地ですが、大山阿夫利神社にも天狗の伝承が有るので類似点が多いので、間違いないと思います。
2015-12-19-15-14-29
池の直ぐ裏には摂社には、さいたま市岩槻区、旧岩槻市の総鎮守であった久伊豆(ひさいず)神社が鎮座しています。
久伊豆神社の御祭神も又、農耕の神様で出雲の神様の大国主命です。つまり、さいたま市一帯を開拓したのも出雲族と言う事が推測出来ます。
2015-12-19-15-16-38
絵馬奉納する処の後ろで立派な樹が参拝客を見守ってくれています。
境内の本殿の手前には八坂神社が在りました。
2015-12-19-15-18-02
八坂神社の御祭神は素戔嗚尊です。もう、出雲代表みたいな神様ですね。
2015-12-19-15-17-03
こちらは確か八坂神社の御神輿が保管されている御社だったかな?
しかし、この鷲宮神社自体の御神輿は更に立派で、保管庫の御社も立派でした。
2015-12-19-15-20-26
小さい一軒家くらい。
ガラス張りなので、保管されている御神輿も展示物の様に見る事が出来ます。
2015-12-19-15-20-50
立派ですね~♪
2015-12-19-15-21-01
御神輿の謂(いわ)れ。
社務所横には立派な神楽殿が在りました。
2015-12-19-15-45-27
その神楽殿の隣には、江戸時代に農民や力士が力比べした❝力石❞が保存されていました。
2015-12-19-15-46-35
いや~これ、かなりデカイんですよ。
この様な力石は、古い神社には良く有るんですが、現代一般人ではかなり力持ちに入る小生でも持てません。
昔の人はスンゴイ足腰丈夫で筋肉質だったんですよね~。
実際、江戸時代の飛脚の写真とか見ると、プロレスラーみたいな体系の人ばっかりなんですよね。
武士なんか江戸時代には軟弱な官僚化しちゃってて腕っぷしの強い江戸の町人や農民には絶対に喧嘩売れなかったって有名な話しです。
その力石の横には姫宮神社と言う摂社が在りました。
2015-12-19-15-47-05
名前からして姫神様を御祀りしてそうなので、この鷲宮が出雲系の神様の御神孫の土地と言う事を考えると、この姫宮神社の御祭神は素戔嗚尊の子の3柱の姫神様である宗像(むなかた)三女神様でしょうか?
もしそうなら、海上交通の神様で水神様ですね。
2015-12-19-15-49-43
御本殿はなかなかの規模です。
2015-12-19-15-55-23
中が拝める。
2015-12-19-15-56-20
正月の中頃に訪れたので、まだ初詣の名残が有りました。
この鷲宮神社は、明治政府樹立時や太平洋戦争終結時に社領を大分接収されてしまっていますが、今でも広大な敷地を誇り、その境内の鎮守の森の中には沢山の摂社が御祀りされていました。
2015-12-19-15-59-02
色んな神様が、なんだか昔話に出て来そうな雰囲気で参拝客を迎えて下さいます。
2015-12-19-16-02-30
こちらは神明鳥居。
2015-12-19-16-02-46
うん!神明鳥居だけあって、やはり神明神社と鹿島神社がある。
2015-12-19-16-03-03
森の中の摂社だけれど、綺麗な造りですね。
2015-12-19-16-05-38
こちらはひっそりと…
2015-12-19-16-07-15
この森の中の参道もなかなか雰囲気が有りました。
ちなみに、江戸時代には1000石の社領を誇ったそうで、旗本ならば大身旗本の規模の経済力を誇っていました。
恐らく戦国時代の北条家の庇護下や鎌倉時代の源頼朝公の庇護下に在っては、更に広大な社領を誇っていたのでしょう。
2015-12-19-16-13-00
この粟島(あわしま)神社と言うのは、淡路島を本宮とした神様なのですが、明治時代に成立した国家神道は伊勢神道をベースにして更に神仏習合の千数百年来の日本人の宗教観を否定しているので、国家神道の神話の世界観と、この粟島神社の存在がマッチングしないので明治時代には全国の粟島神社では似た御神威の少彦名(すくなひこな=一寸法師のモデル)を御祭りする事で存続を図りました。
本来の神様は淡島神(あわしまのかみ)なので、恐らくは淡路島を神格化した神様だったと思います。
2015-12-19-16-15-45
他にも沢山の摂社が鎮座しています。
どうですか?
由緒正しくて立派な神社でしょう?
もし、久喜市や古河や栗橋方面に出掛ける機会が有ったら、是非!御参りされて見ては如何でしょうか?

では!又、次の記事で御会いしましょう!








mixiチェック

↑このページのトップヘ