歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:宅間上杉家

2017年07月15日、この週の火曜日07月11日が新井城落城した日で尊敬する武将の一人である三浦義意公と御父君の三浦道寸公の供養の為に菩提寺である網代山海蔵寺に参拝し、御住職様から海蔵寺専用の納経用の奉書を頂いていたので三崎漁港の海南神社の例大祭に合わせ、土曜日に写経した妙法蓮華経観世音菩薩普門品世尊偈を携えて海蔵寺に納経に再訪した。

海蔵寺さん参拝の後、最初に訪れたのは天然記念物諸磯隆起海岸だった。
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…と、その前に少し小生の神社と御寺に対する思い入れの根源の話し。

小生の祖先は某延喜式内社の宮司家なので御寺や仏教と言うと子供の頃は除夜の鐘程度の認識しかなく、なんと言うか御祭りの様な楽しい場所と言う感じだった。
大人に成って仕事でリーマン破綻直後に3ヶ月間、毎日睡眠が3時間以下と言う労働が続いて過労に成って頭ハゲそうなハチャメチャな状況に成って心身共に参っていた。
同僚が中国語話せないのに突然中国へ転勤に成ったり、小生は中国語話せるのに国内に残りソイツの分も含め複数人から仕事を引き継いだり、ハッキリ言ってキャパを超えていた。
朝の定時出勤時間前から出勤して客先の就業開始直後に御用聞きで訪問できる様に直行。
夕方の18時に帰社、そこから自分のオフィスワークと2人から引き継いだ分のオフィスワークを始める。当然朝までかかる。だから休日も潰れる。20時以降はタイムカードを切らされてサービス残業を強要され、当然休日出勤は申請不可。そんな会社だが実は中堅企業の中の大手の部類の企業だった。
アジア圏や国内遠方に出張する際は、上司に指名されたいい加減な同僚に仕事を任せるのが嫌で嫌で仕方なかったが、馬鹿でも出来る様に完璧にスケジューリングして協力会社にも念入りに事前に打ち合わせで部材の製作をお願いして置き、資料も準備して小生の仕事を代理で行う人間はスケジュールの時間通りに指定の場所を訪問して人に会い物を受け取り、物と資料を渡すだけで何にも考えず何にも余計な事を話さず済む様にしてあった。
だけどね、世の中、いい加減だけど何だか知れないけど上司に信頼される奸臣と言うのが居て、その上司に仕事を御願いする様に指定された同僚は「案の定ちゃんと俺のスケジュールを踏んで行動しない」で当日に訪問しなかったり、結果的に納期に遅れたりやらかしてくれた。
だけど狡猾な奴で上司には小生のミスの様に粉飾し、小生が出張から帰って来ると何だか知れないけど叱られたり。それを残業時間に成って同僚を呼び止め問い詰めると開き直りクソ同僚はこんな捨て台詞を言った…
「そんなに完璧にやれんて!」
…おい、俺は馬鹿でも出来る様に御膳立てしてやった上に協力会社の皆さんも文字通り万全の協力をして下さっていたんだがな?
まぁ、そんな事が何回か有ったりハードな仕事が三ヶ月休み無しで続いて自分で洗濯物洗う暇すら無くてクリーニングにシャツやスーツを丸投げしても、今度はクリーニング屋に服を引き取りに行く暇も無く、前日着たシャツにファブリーズだけして又着て仕事したりしていた。
小生がそんな事に成っていた時期に社員の1人が交通事故を起こして人を轢き殺した。
更に社員が1人自殺、でも家庭の問題とされていた…本当かよ?
子会社でも1人が過労要因と思われる交通事故死。
自分も高速道路で運転中に意識が飛んだり2回経験した。赤信号も認識できずに信号無視をしたり、自分で「やばいのかな~?」と思い、そのクソ会社を辞めた。
因(ちな)みに、その会社は今でも存続していて何だか知らないけど某大手企業のベストパートナーにも選ばれたりしている。御客さんは、そんな状況知らないだろう。まぁ、知ってる会社も有ったけど。
これ、当時、退社後に労働基準監督署にも職安にも相談していたけれど、「管轄外」と言われたり「ウチでは出来る事に限りが有って対処できない」と言う主旨の事ばかり言われたんだな。
まぁ、泣き寝入りするしかなかった。
アレから数年が経ったが、日本の労働基準法って今でも守られてないよね。実際。
有休消化なんて超大手企業しか出来ないでしょう?
週休二日制も守られてない会社多いでしょう?
サービス残業の会社多いよね?
安倍さんが賃金上げろと急(せ)かしても無視するクソ企業多いよね。
その癖に横浜市長みたいに日本を敵視する北朝鮮の学校に補助金出したり意味わからない政治家もいるよね。
新しい制度考える前に、既に施行した法制度を順守させる方が大切だと思うんだよな。
まぁ、そんな事が有ってリアルに昔は無責任不倫上司のせいで死ぬ寸前に追い込まれた。
だから、昔の善政を行ったり農民や商人に好かれた殿様達に余計に尊敬の念を抱くんだろうな。

そのクソ会社にいた頃に不思議な夢を見て…
横浜の歴史偉人とその上司の玉縄北条家や源頼朝公とその与力衆の鎌倉武士団の偉人達に"命を救われて"以来、歴史の資料を趣味で読み漁り墓所や御関わりに成られた神社仏閣と史跡を訪問し、殿様達に感謝して回るのが休日の趣味に成った。
…もっと言うと三浦の海に命と精神を救われた感が有るんだな、小生の人生は。
当時はボロボロで、ハチャメチャな仕事を命を繋ぐ為に辞めた。
不思議と普通なら「自殺したい」とか思う状態に成るであろう状況に、小生は「海見たいな~」としか思わなかった。死にたいとは思わなかった。
でも仕事の通勤帰りに電車に乗ってる時は危なかったね。夜の町の中を走る車窓から外を見てると引き込まれるんだよ。
あれ、一種の催眠状態なんだろうね、気持ちが暗い時や挫折を感じてるとハマりやすいのかも。
そんで、休みに良く観光客の余り行かない三浦半島の南端の江奈湾に行って磯で少し泳いだり、散歩したりして過ごした。
・・・そうこうしてる内に気力も回復して来た。
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この江奈湾の磯が大好きで良く散歩しにドライブしに行ってた。
台風の翌日、ここの岩場が高波にバッシャ~ン!バッシャ~ン!と洗われている時にアホな小生はクロックス履いて出掛けてて岩場の海苔で足を滑らせ仰向けに素っ転んで強く背中を打って息も出来ず、何回も打ち寄せる波にさらわれそうに成った。
その時に強く思った「こんな恥ずかしい死に方出来ね~し!」と(笑)。
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江奈湾の近くの松輪からは富士山も綺麗に見えたりする。
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富士山、此花咲耶姫命様も小生の命を繋いで下さった神様なんだな。
家の近所の円海山に登っては、そこから見える赤富士を見て円海山の自然にも癒された。
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神社や御寺と自然と彼女の存在ってのはね~、どんな向精神薬や安定剤や睡眠薬よりも効果が有るんですよ~。家族は当てに成りませんがね~。
大切なのは自分で選んだ家族に成って欲しい人なんだと思う。つまり血縁よりも理解者だね~。
それと脳味噌を休ませてくれる環境。
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御蔭で小生は薬漬けに成らずに働けた。
あと、当時はまだミシェランガイドに紹介されておらず観光客も少なかった鎌倉の報国寺の竹林に行って座禅を組む様に何も考えずに時間を過ごしたり。
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そこの草庵で少し休んで、抹茶を飲む事で大分気力が回復したと思う。
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今では観光客が多くなり、余り気の休まる静けさは無い。でも癒されるのは変わらない。
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今では現:鎌倉アホ市長によって通行止めにされた釈迦堂の切通しの辺り衣笠山~今泉台~報国寺の宅間谷(たくまがやつ)をグルっと一周散歩して回ったり、殿様達の残して下さった鎌倉の文化と景勝地と三浦の海は医者の処方する薬より疲労が蓄積して赤信号も無意識に無視した脳味噌を少しづつ回復してくれた。
後で知ったのだけれど、この報国寺を開いたのも横浜市の殿様の宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の御爺ちゃんの足利家時公だったんだな。
そして、更に後に知るのだが横浜市港南区の永谷天満宮も宅間上杉家の殿様が開いた神社だった。
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それ以来、紫陽花の季節には永谷天満宮に絶対に行く様に成った。
この少し前位、小生を身近に支えてくれた当時の彼女さんもいた。
この彼女とは結婚して幸せにしてあげたかったのだけれど、残念ながら小生がボロボロだったので縁が無くなったが、御蔭で小生はクソ会社退職後暫くして又、働ける様に成った。
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その頃に七里ヶ浜も行くように成った。
この変な棒は流木を砂浜に突き立てた写真。こんな風景七里ヶ浜に有りません(笑)。
その時に傍で支えてくれた昔の彼女さんを幸せにして恩返し出来なかった事を悔やんでいたりする。
丁度その頃だ。
ボロボロだった状態で夢の中に「龍寶寺」と書かれた石柱が出て来て起きてから「何だろうな?」と思って調べて見たら、戦国時代関東最強の武将だった北条綱成公の菩提寺の名前のだった。
場所も大船駅の近くで近かった。
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学生の頃に友達と遊んだ信長の野望シリーズに登場する名将の御寺だった。
2014-09-15-06-09-37上杉謙信と武田信玄に称賛された名将。
三つ鱗紋学生当時、北条家は少し地味で友人達には人気が無かった(笑)。
まぁ、どちらかと言えば三国志の方が学生時代は好きだったし。
夢の事でビックリして直ぐに参詣して、当時は今と違って旧境内地近くの山の上に存在していた御廟所に御線香を上げに行った。今では綱成公の御廟所は境内本堂横に移設された。
そうこう調べていると何と北条綱成の家老が横浜市の殿様の間宮家だった。しかも更に詳しく調べて見ると子供の時に同じサッカークラブに通っていた幼馴染の近所の子等の家の周りが綱成公の家老の間宮家の居城の笹下城址だった。
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何と小学校の頃、サッカークラブの幼馴染やその近所の子と遊んだ山が笹下城の本丸だった。
元々中学生の頃から家から鎌倉が近くて自転車で由比ヶ浜に行ったり、源頼朝公の御墓参りをしたり、江の島に行ったり、金沢区の野島公園に行ったりして遊んでいたので、歴史は好きだった。
子供の頃は大好きとまでは行かなかったが、大人に成り事情を知り直ぐに北条綱成公や間宮家の殿様達に尊敬だけで無く親しみも深く感じる様に成った。そして歴史が本格的に好きに成った。
最初は何となく資料を読んで、殿様達の開いた神社仏閣を訪問していた。そこから暫くして御朱印も貰う様に成り、更に地域の人にも偉人の存在を伝えたいと思う様に成ったのが3年ちょっと前。
もう一度、北条家の事を調べると足利家の鎌倉公方家の殿様と忠臣だった宅間上杉家や扇谷上杉家の事も知り、足利家に滅ぼされた鎌倉幕府の執権北条家の殿様達が元寇から日本を守って下さった事を再学習し北条泰時公と北条時宗公を尊敬する様に成り、更に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公とその与力武将達を物凄く尊敬する様に成り、三浦家や千葉家や佐々木家の殿様の事も鎌倉だけでなく横浜市と関係が有った事も知った。
その平安末期の武将中でも特に尊敬するのは、やはり平良文公、源義家公、源頼朝公、鎌倉景正公、三浦義明公、和田義盛公、三浦義澄公、佐原義連公、多田行綱公、渋谷重国公、佐々木高綱公だった。
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その人々の足跡を辿って油壷に行き、戦国時代に扇谷上杉家から三浦家を継いだ三浦義意公の民話を聞いて回る内に深く尊敬する様に成った。

まぁ、小生の命は自分で勝手に生きて来れた訳じゃなくて…
殿様達の御蔭、神奈川の自然の御蔭、そして当時の彼女さんの御蔭の3つで繋がったんだな。
…だから社会の役に立つ事をして生きた証を残して皆さんに恩返しせんといかんのよ。

そして2017年07月15日の休日雑記の三浦海蔵寺への三浦義意公と道寸公の供養の納経へと繋がっていく…

07月10日①の休日雑記の続き。

2016年07月10、早朝の城ヶ島散歩を終え、ホテルに帰り用意されていた朝食を美味しく頂いた後、朝風呂に入り、その後の予定を確認してからチェックアウトの時間までユックリ二度寝させて頂いた。
この日の昼前の散策予定は三崎城址と、当時から存在する周辺の史跡。そして三崎町の観光漁港うらりでの昼食がわりの買食いだった。

ホテルを出て、三崎漁港の駐車場に車を移動し、最初に訪れたのが商店街を抜けた先に在る北条湾…
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ここは現在、漁船の係留される場所に成っているが、戦国時代末期には三崎城の城将、北条氏規(うじのり)公が三崎城主として管理する三浦半島水軍の根拠地として漁船の他に軍船も係留されていた軍港だった。
北条家の水軍基地だったから❝北条湾❞と現在呼ばれる訳だ。
不運な運命で、主家古河公方家の外交政策によって、それまで同輩(ともがら)だった小田原北条家と佐原三浦家は敵対せねばならぬ間柄に成ってしまう。
これが、前回の休日雑記で紹介した❝小桜姫と言う架空の人物❞が明治時代に作り出された物語の基に成った史実だ。しかし小桜姫の基に成った奥方はいた訳で…DSC_3482
まぁ、その話は又、改めて解説するとして、釣鐘状の形をした北条湾の付け根に行くと橋が架かっていて、その名も❝北条橋❞と言う。そして写真右手に見える丘一帯が三崎城址だ。
成る程、海は穏やかで城址は江戸時代の石垣城では作り出せない扇谷上杉流と北条流の築城術のコラボ城址らしく、堅固さの基に成った自然の断崖が城郭外側に構えている。
北条湾の直ぐ横には❝諏訪神社❞が在る…
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城しか調べない学者、戦史しか調べない学者、宗教哲学しか調べない神職僧侶がいるが歴史と言うのは自称❝歴史オタク❞の小生に言わせれば、宗教施設の伝承や記録、城址周辺の地形、城主の崇拝した神様の種類と仏教の宗旨を把握していないと色んな事を見落としてしまう。
例えば戦国時代の北条家は軍神として、この❝諏訪神❞か❝八幡大菩薩❞を城の守護神として城址近くに祀る傾向が有る。
南関東の山城として良く雑誌でも紹介される津久井城・伊豆箱根山中城等は、正にその典型だ。
ここ三崎町の諏訪神社はきっと多くの水軍武将達の崇敬を集めた事だろう。
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ところで、戦国時代も後半に成ると、北条家は初期に編成していた❝五色備え❞と言う方面軍制度を解体し、軍隊編成を地方別所属制に切り替える。
この三崎城は❝三崎衆❞の拠点と成り、鎌倉郡の一部と三浦半島の武将達で構成される編成と成った。
そこに小生の町、横浜市の❝宅間上杉家❞の殿様も三崎城主:北条氏規公の与力として編成された。名を宅間上杉規富(のりとみ)公とおっしゃった。
氏規公から一字拝領した様で、名には❝規❞の字が入っている。宅間上杉家の通し名は❝憲(のり)❞後に❝乗(のり)❞の字に成っていた。宅間上杉規富公も恐らく最初は❝上杉乗富❞と名乗っていただろう。
さて、この諏訪神社は改めて、いつか解説記事を書くとして…
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ここから三崎城址の遠景を見て、改めて三崎城址の丘の東端の一帯は雑木林もあり土塁等の遺構が有りそうだと推測、地形的にも武士達の住む根古屋(ねこや=城将達の集落)とする谷戸(やと=谷の入口に関所を設けた住宅地)に打ってつけの地形だったので、登城口として怪しそうだと推測した…
三崎城推定範囲 久良岐のよし
諏訪神社を降りて、付近の住人の方に質問をした所やはり上に登れる歩道が有るとの事で、そちらから散策する事にした。
三崎城も、いずれ詳細に解説を書くので今回は端折(はしょ)って散歩した時の写真を載せると…
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もう、如何にも北条家の山城でございと言った定番の細さと屈曲した道。
多くの現地を自分の足で廻って自分の目で確認しないバカ学者と雑誌記者と自称歴史家は「三崎城址は跡形も無い云々」書くが、小生が地元の人に現地でリサーチして実際に登って見ると土塁も一部現存し、更に大堀切なんかがちゃんと生活道路としても残っていた。
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その場所は戦没者慰霊堂、ここが三崎城址東端で諏訪神社から見えた雑木林だ。
あの細い道を登ってくると、腰曲輪と思しき崖の上の削平地が有り、そこから台地上に繋がる場所には大人数の通行を制限し行く手を阻む構造の土塁状の盛土と、土塁を切った入口状の道が現存していた。
これ、御城ファンなら小生ならずとも見た瞬間に…
「あ、これ多分搦め手の虎口だな」
…と、解るだろう。
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この削平地を囲むように土塁状の盛土が残っている。もう間違いなく当時の土塁遺構だろう。
土塁はここしか確認出来なかったが三崎城址は、ここを通り過ぎて更に旧三崎中学校を過ぎると、閉鎖された福祉施設辺りの地形は出丸の様な掘り切られた場所に橋を架けて有ったり、土塁は現存しないモノのそこかしこに縄張りを予測可能な地形が残っている。
旧三崎中学校の前には城址案内看板が有った…
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が!
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…しかし看板の白化が激しくて見えない(笑)。
丁度、先程の土塁や堀切と推測した場所の成否も確認したかったので、市役所に移動。
市役所の方を通じて、三崎町の教育委員会で三崎城址に御詳しい方にアポを取って頂いて、詳細を御教授頂く機会を得る事が出来た。幸運だ。
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なんと、三浦市役所の来朝者対応部門以外の各施設は旧三崎中学校の校舎に移転しており、なんだか不思議な感じだった。
もう丸っきり中学校の校舎。日本の中学校に入ったのはもう云十年ぶりだ。
昼の中学校にオタクが忍び込んで変な事をしている様な危ない感じ(笑)?
ここでは、城址が破壊される前にちゃんと編纂した資料が有り、赤星直忠氏著作の「三浦半島城郭史」と言う本を御紹介頂き縄張り図もコピーを下さった。
そして、小生の質問に一々丁寧に御回答下さり、この縄張り図を渡される前に話した小生の推測が完全に調査内容と一致する事から御関心頂けたのは、歴史オタク冥利に尽きる今回の旅で一、二、の光栄な出来事だった。
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因みに入手した縄張り図はこれ。
小生が予想出来無かった事もいくつか有って…
・旧三崎中学校を取り巻く車道が、実は埋め立てられた空堀の跡だった事
・北東の谷は自然地形では無く、人工的に掘り切られた大空堀の跡だった事
・現在の旧中学校と市役所付近の失われた土塁の構造
・旧中学校校庭に大手口からの最期の関門の❝馬出し状の枡形❞が存在した事
…これらは三崎町教育委員会の方に詳細に御教授頂けなければ解らない失われた遺構だったので、本当に三崎市役所と三崎町教育委員会の皆さんには感謝しないといけない。
いずれ、宅間上杉家の殿様達の顕彰文を書く際に、この感謝の便も盛り込みたい。

さて、三崎城址は改めて事細かに書くとして、城址の一角に在る本瑞寺に久々に御参りに行って来た。
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ここも改めて解説記事を書くが、鎌倉時代には源頼朝公の別邸で❝桜の御所❞と呼ばれた。最初本瑞寺は現在の三崎銀座商店街の在る入舩(いりふね)地区に室町時代、三浦義意公が御寺を開基された。しかし三崎町が大火に度々遭い類焼したので、現在の旧頼朝邸桜の御所の旧跡地に江戸時代末期に移転して来た。
そして、先程話した古河公方の外交政策が元で勃発した北条家と三浦家の抗争と、この桜の御所のイメージを合わせて明治時代に村井弦斎によって執筆された❝創作小説「桜の御所」❞の架空の登場人物が前回の休日雑記で書いた小桜姫なのだ。
…つまり、これが小桜姫の由来、実在しなかった歴史事実と矛盾して、現在小桜姫信仰が熟女や独身女性に人気に成った正体だ。
この❝小説:桜の御所❞は都新聞(現:東京新聞)に掲載された連続時代小説で、現在の人気ドラマの様に凄まじい反響があり、そのロケ地とも言うべき三浦半島のモデルに成った場所に、いまで言う❝聖地巡礼❞の様に全国から旅行に行く人々が増え、そのモデルと成った神社仏閣や城址に参拝客が増えた。
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これが時代が下って、訳の分からないエセ霊能者❝浅野馮虚(ひょうきょ)❞と言う歴史を知らない人物が❝実話❞と勘違いして❝霊的(笑)❞に研究して本を執筆したので世間の混乱に拍車をかけてしまった(笑)。
実際には三浦義意公の本妻も側室も二人とも房総半島の真里谷(まりやつ)武田氏の姫君で、小説内に登場する小桜姫は金沢北条氏と設定されている(笑)。
三浦義意公は室町時代1500年代初頭の人物。架空の人物である小桜姫の家、金沢北条氏はそれよりも200年近く前の鎌倉幕府滅亡時に滅亡した家で、戦国時代の北条家とは全く関係が無い(笑)。これは原作者の村井弦斎が、読者を勘違いさせない為に架空の話とわざわざ解る様にした設定だった筈なのだが…
大体の女性は学生時代に真面目に歴史なんか勉強しないし、根本的に歴史に興味何か無いから、エセ霊能者の勘違いを鵜呑みにして騙される。
もっとも、浅野馮虚(ひょうきょ)の名を、日本語で訓読みに翻訳すると…
浅野馮虚(ひょうきょ)→馮虚(ひょうきょ)→馮(つく)虚(うそ)→うそつき
…と成る(笑)。だから、浅野馮虚自体も恐らく詐欺の自覚が有ったか、ギャグや三文霊能雑誌程度のつもりで執筆活動をしたのに人気が有る案件だったので妄信する輩が増えてしまったのだろ。
では、小桜姫関連の信仰が御利益が無いかと言えば…そんな事は無い。御利益は有る。何故なら小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の御正妻と側室の真里谷家の姫君は存在したから。
これについては、改めて次回の休日雑記で小生が古文書漁った知識と、三浦道寸研究会の副会長様の御見解と合わせて詳細に話そうと思う。
…エセ霊能者、本職の神職・僧侶・歴史家をナメるなよ!
三浦義意公の開基したこの本瑞寺の檀家サンが歴史を編集した小説を頂いたり、詳しく説明をして頂けたり大変、良くして頂けた。感謝。

ついでに言っておくと…
縁結びの御利益が欲しい女性は、「クレクレ言うだけじゃなくて、ちゃんと先人を敬い歴史を勉強し、御墓参りをして、三浦道寸公や三浦義意公が開いた神社仏閣や城址を廻り、小桜姫と言う架空の名前だけでは無くて❝真里谷の姫❞と実際の実家の名前で尊敬の念を表しなさい」って事だ。
…歴史を知らない偽霊能者のデマに踊らされた挙句、先人に「クレクレ」言うだけの乞食みたいな願掛けして感謝も表せないと天罰が下るぞ!
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さて、散歩に戻る。
本瑞寺の山門を下ると、実は三崎の鮪料理店として有名な❝黒羽亭❞と、寿司屋❝紀の代❞の前に出る。
以前、紹介記事を書いているので興味有る方は参考にしてもらいたい。
※【カテゴリー:旅行(風景/お祭り/食事/買物)】の中の【和食全般/居酒屋/懐石料理/旅館】の分類で書いて有るので、その中に解説記事が有る。
この三崎の商店街は昭和の風情と幕末~大正期の蔵屋敷の名残がある町で、遠洋漁業が海外拠点主流に成り寂れたが古い街並みは、ユネスコ世界無形文化遺産の❝チャッキラコ❞と言う祭りや、夏の海南神社の例大祭には活気が戻り漁師町の様相を復す。
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チャッキラコについては以前記事に書いて有るので【カテゴリー:お祭り】から探して貰えば詳しく書いて有る。
平日で人気の少ない商店街を抜けて、三崎の観光漁港❝うらり❞へ買い食いに向かった。
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ここには小生オススメのB旧グルメが有る。
三崎町観光協会は何故か三崎鮪ラーメンやトロ饅なんてゲテモノをプッシュするのだが、もっとシンプルで凄く美味しい物がここには有る。
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この店で売ってる❝鮪の串カツ❞と❝鮪コロッケ❞だ。
小生は10年ほど前に三崎漁港に良く遊びに来る切っ掛けが出来て、それ以来、三崎に来ると絶対にここの鮪串カツを食べる。
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値段も安いし、本当に美味しいから是非、皆にも食べて欲しい。
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小生は新商品の鮪軟骨入りのメンチ串揚げと、コロッケと串カツの三個をこの日の昼食にした。
ふむ、美味だ!本来B級グルメってこういうシンプルな物の筈だし、これは本当に美味しいし、どの店でも作れるのだから三崎町はこれを特産品にするべきだと思う。
これなら御土産にもなるんじゃないかな?
❝うらり❞は観光漁港なので他にも鮪の珍しい部位の肉が売っていたり…
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豊富な海産品、三浦の農産品もそろっている。
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城ヶ島に磯遊びに来たり、三崎に鮪を食べに来たら、是非、この❝うらり❞にも顔を出すと、良い御土産が揃う。
あと、今回写真は無いが黒羽亭の❝トロカルビ串❞と言うスパイス効いたタレで付け込んだ鮪の干物も御進めの逸品だ。黒羽亭は❝うらり❞に出店していないので、店で購入するしかない。

さて…
三崎漁港と三崎町の散策を満喫し、三浦市役所と三崎町の教育委員会の方、本瑞寺サンに大変親切にして頂いた事を感謝しつつ、今回の3連休とってまで三浦に来た目的の本命、❝三浦道寸公と三浦義意公の500回忌の献花❞をする為、車に乗り込み油壷に移動した…

→③へ続く。

ブログネタ
「食欲の秋」のはじめに食べたい物は? に参加中!
食欲の秋…拉麺美味しいよね。

横浜市港南区下永谷に神勝軒と言う「つけ麺」の店が在ります。
「つけ麺」と言うジャンルを拉麺界に創生した偉大な拉麺職人の故:山岸翁の御弟子サンの店です。
ちゃんと大勝軒で修行された事と山岸翁へのリスペクトを店内の看板にも掲示している大勝軒系の血脈の店。
この様に創始者をリスペクトする姿勢は素晴らしい。
御当地横浜の家系には、家系創始者の吉村社長の弟子でも無いのに自称家系名乗る不遜な輩が溢れかえり偽家系だらけ…
この神勝軒の山岸さんへのリスペクトは評価に値する。

正統の大勝軒の暖簾分け1号店も横浜駅西口に在り、其方の店長サンは今は山岸翁の跡を継ぎ横浜だけでなく大勝軒本店の大将に…
なかなか横浜駅西口や大勝軒本店に行けない時に、神勝軒で腹を満たし、つけ麺文化を残して下さった山岸翁に感謝を示すのも風流でよし。
店内は建築古材を活用した内装で、落ち着いて雰囲気が良いです。
カウンターは木製の一枚板で高そうな材木です。…写真撮り忘れました(笑)。
厨房はこんな感じ。
この日は…
特製つけ麺に
中盛り 味玉 焼豚 海苔増し
…を頂きました。
美味しそうでしょ?
麺を完食したら…
「スープ割りお願いします!」
…と、言うと、スープにネギ等を足して飲むスープにしてくれます。
コレはつけ麺店ならではの風習みたいなもんで、大概のつけ麺自慢の店はやってくれますよね。

こちらの店で山岸翁の血脈の味を身近に感じて、大勝軒本店や大勝軒横浜駅西口店近く行く時は其方にも寄りたい。

余談ですが神勝軒のお向かいに在った家系総本山の吉村家の直弟子が店長だった環2家が8月30日で閉店しました。
閉店日から2日後だったのですが、灯りがついていました。
吉村社長、店を売却するとブログに書いていたので、もう売れたんでしょうか?
吉村社長の直弟子の本物の家系だっただけに残念です。
環2家は店員同士が仲悪く接客の際に怒号が飛び最悪な雰囲気だったが美味しい日は美味しかっただけに、吉村社長の下で接客マナー再建し続けて貰いたかった。
吉村社長のブログに書いて有った「光くん」と言う店員が辞めたのが、環2家をたたむきっかけらしいが…

この地域、実は拉麺文化発展させる地域とも言えます。
実は御城の在った地域には、美味しい拉麺店が近くに在るんです!
そして、それは地勢上の必然なんです。
其れは神勝軒の附近の周辺 文化と地理の 情報を先ず見れば一目瞭然なんですが…
先ずは見ましょう。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
永谷の周辺街道
⚫︎古鎌倉街道
江戸時代の鎌倉街道成立より更に以前、平安時代から使われた鎌倉街道の古道がこの地域を貫いている。
⚫︎鎌倉街道
鎌倉時代迄の古鎌倉街道とは違う筋だが、現代、整備された鎌倉街道が永谷地区近くに通る。
⚫︎古東海道/東海道
江戸時代以前の古東海道を江戸幕府が再整備した東海道が、永谷地区の直ぐ近くに通っている。
⚫︎環状2号線
神勝軒は環状2号線に在る。現代整備された横浜の中心部から放射状に続く国道16号線、横浜上麻生道路、川崎街道、中原街道、八王子街道、鎌倉街道の一般道に加え第三京浜高速道路、横浜横須賀高速道路、東名高速道路、首都高速道路湾岸線&横羽線等のアクセス向上を目指して造られた新しい街道。
永谷周辺の有名ラーメン店と城址
※超有名店だけとりあえず記載しますが、地図上の印つけた店は全て雑誌TVに良く掲載される有名店です。
⚫︎新横浜拉麺博物館
日本最初の拉麺博物館。
永谷地区からは車で環状2号線を15〜20分程の距離の新横浜駅附近には拉麺博物館が在る。
新横浜駅は東海道新幹線「のぞみ」の停車する重要駅でもある。
⚫︎支那そばや本店
※港南区永谷地区は隣区の戸塚区との境界に位置する。
永谷地区から東海道を車で15〜20分程の戸塚駅近く。山岸翁と同じく拉麺の大家として名の知れた「拉麺の鬼、佐野実」こと故:佐野氏の「支那そばや」本店。この店の支那そば(醤油ラーメン)は一般的な醤油ラーメンのイメージから想像も付かない発展をさせた拉麺で、拉麺ブームの火付け役に成った名店。
残念ながら、つけ麺の大家:山岸翁が没すると、後を追うように佐野氏も世を去ってしまったが、その味は御弟子さんがシッカリと受け継いでいる。 
⚫︎杉田家(元:吉村家本店)
永谷地区から環状2号線と国道16号線を車で15分の距離。
豚骨醤油:家系拉麺の創始者の吉村社長が最初に店を構えた店舗。今は直弟子が支店として引継ぎ店長を務める。 家系拉麺の発祥地。
吉村社長のいる吉村家は、横浜駅西口近くで営業中でいつも大行列。
⚫︎環2家
永谷の神勝軒の目の前。環状2号線を挟んで対面に在ったが、先月2015年8月30日を以て閉店した。
家系拉麺創始者の吉村社長直弟子が店長を務める吉村家直営店で毎日大行列だったが、従業員の離脱により吉村社長が店を閉めてしまった。吉村社長のブログによれば店舗売却予定らしい。
⚫︎
本牧家
元々、本牧家の屋号は吉村家の吉村社長の店だった事に由(よ)る。
元弟子の神藤隆が本牧家店長を任されていた時代に造反し、従業員引き連れて辞めて神奈川区六角橋に六角家を作ってしまった為、吉村社長が怒り狂って閉店、現在のオーナーに売却してしまった店。
正統な家系吉村家の系統とは別系統で「家系亜種」と呼ばれる家系の派生店。
六角家の方は新横浜ラーメン博物館の開店当初は、御当地横浜のラーメン店として同地には入店していたが現在は出店していない。六角家本店は名前の由来の神奈川区六角橋に営業中。
⚫︎壱六家
正統派吉村家系とは異なる家系亜種に分類される拉麺店。
昔からの人気店で、一時期は支店も多数出店した。現在は元々の国道十六号沿い磯子駅近くの本店は特に大人気営業中。
⚫︎貞昌院と永谷天満宮
永谷天満宮は全国の天神様の御祭神である菅原道真公の御子息5男、菅原淳茂公の居館跡の天神様。
そこに室町幕府足利尊氏公の従兄弟の御子孫で鎌倉府で関東管領も務めた家系の宅間上杉家の殿様が開いた天満宮。
御神体は道真公が鏡を見て遺品として自ら手彫りした道真公御自身の木製像。
この木像は日本に三体だけあり、福岡の太宰府天満宮、大阪の道明寺天満宮、横浜の永谷天満宮に其々安置され、以上三社の天満宮は日本三体天満宮と呼ばれる。
貞昌院は曹洞宗の寺院で永谷天満宮の別当寺。開基の宅間上杉家が曹洞宗に帰依した小田原北条家臣だった事による。
⚫︎永野城址
神勝軒の向い側の緑地は室町幕府創始者の足利尊氏公の従兄弟の血筋に当たる宅間上杉家の殿様の居城の永野城址。
⚫︎野庭関城址
永谷地区から車で5分の場所に曾て在った城。
鎌倉幕府の初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が築城した城で、鎌倉古道と鎌倉街道を押さえる位置に在る。
戦国時代まで活用され、安藤良整公等の名将が城代を務めた。
⚫︎笹下城址
永谷地区から車で5〜10分の笹下地区に曾て在った城で、北条家の水軍を纏めた間宮家の居城。杉田港や六浦道(笹下釜利谷道路)、鎌倉街道を押さえ鎌倉の防衛と東京湾防衛を担った城。
⚫︎今井城址
永谷地区から直ぐ車で10〜15分の環状2号線今井インター近く、保土ヶ谷区の平安時代末期の信州出身の武将の旭将軍こと源朝臣木曽義仲の重臣だった今井兼平の城址と伝わる。戦国時代末期まで城として機能し江戸時代に成り廃城すると陣屋が置かれた。
つまり当時も交通の要所だった。
義仲の妻の巴御前は幕府に投降し和田義盛公に再嫁しているので、今井兼平も投降した可能性は高い。又はその一族が城主か?
⚫︎鳥山城址と三会寺と鳥山八幡宮
全て 港北区鳥山地区、永谷地区から環状2号線を車で 15〜 20分程 離に在る歴史史跡
平安時代末期、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の与力、近江国宇田源氏の名将:佐々木高綱公が築城した居館が鳥山八幡宮の敷地で、その背後の丘は詰めの城。
三会寺(さんねじ)は源頼朝公が佐々木高綱公に命じて鎌倉の鬼門に当たる鳥山地区の旧街道沿いに築いた鎌倉鬼門鎮護の寺院。
⚫︎小机城址
永谷地区から車で20〜25分程の所。
新横浜日産スタジアム近く、室町時代〜戦国時代の城址で北条家白備え隊の居城。白備えは小田原北条家の主力部隊の1つ、北条家には五色の軍装で色分けされた5軍団が有り、その1つ。
城主は北条家の宿老であった北条幻庵公、城代は北条家の家老の笠原信為公。

※上記の城址は既に記事に書いてあるので
画面上、PCでは右側、携帯では下の方に表示される【カテゴリ】から「城址」「北条家五色備え」「神社」のいずれかから検索してみて下さい。
ここまで拉麺と関係ない事を、良く読んで下さいました(笑)。
では何で、この地域が拉麺文化発展の土壌に成ったかですが…
既に勘の良い方は地理と史跡を見て気が付いてますよね?
この地域は交通の要所だから、拉麺文化を客として下支えして来たトラックやタクシーの運転手の往来が多いんです!

この東海道(国道1号線)と環状2号線のクロスする附近は、拉麺文化醸成の地であり、奇しくも永野城、野庭関城、笹下城、小机城、鳥山城、今井城など交通の要所を押さえる位置に築かれた城が神勝軒の在る永谷地区や環状2号線周辺に在るのは当然!
現代の物流の観点と、武士達の街道を押さえる防衛観念はリンクしているからなんですね。
武士は敵軍の自領への侵攻を防ぐ為に、街道や水運の要所に城を築城(ちくじょう:城を造る事)します
そしてラーメン店はトラックの往来が多い街道沿いに運転手の来店が多く見込めるので、沢山の拉麺店が出店する事に成り、結果的に拉麺文化発展の土壌には城跡が近くに在る場合が多く成る訳ですね。

ね?
歴史と郷土の食文化って凄く関連が在るでしょう?
それが小生のブログタイトルの由来でもある訳です。

次は映画とドラマの「HERO」公開中につき、ロケ地の横浜の旧中心街の日本大通り地区の近代西洋建築遺産を紹介します。

では!又次の記事で!

横浜市磯子区上中里に、地名を冠した上中里神社と言う神社があります。

近くには磯子高校や上中里団地があり、ベッドタウンとしてそれなりの人口の有る地域の神社なのですが…
目立たない参道の入口をずっと登ると、ひっそりとした鎮守の森の中に、ソコソコ大きい御社が有ります。
何にも知らずに行くと、参道からは祠くらいしか無さそうで予想外に立派でビックリすると思います。
昔はもっと社地も広かったんでしょうね…
御近所の磯子高校は昔の上中里神社の境内だったのかも知れません。
周辺が学校建設や宅地化で、表参道以外の道を失ったんでしょうかね?
神社の由来を見ても、少し昔まで地元民に熱心に崇拝されて人気も高かった様ですし…
この神社が寂れている問題点は行くと分かりますが、道が急斜面の参道一つしか無くて人の往来が無い事に尽きると思います。
近くに学校が有り、例えば、この神社の裏手が抜け道に成っていると学生が部活で参道の階段をトレーニングに使ったり出来ますね…
小生の中学生時代も御近所に御寺と神社が有り、柔道部時代に神社の階段を上り下りして体力作りに活用していました。
…神社の社殿裏手にでも、高校や住宅街からの間道を作れば良いのになと思いました。

さて、この神社、明治政府の愚策一村一社政策で潰された近隣の7つの神社を合祀し今に、その神様達と昔の村民達との絆を伝えていますが…
その内容は拝殿前の看板に書いてあります。
ただ、その神様が祀る御社が何で氷取沢町や上中里町に有ったかを説明する記載までは書かれていません。
以下は推測ですが、それはかなりの確率で戦国武将間宮家に関係が有るので少し解説します。
先ず、この上中里や氷取沢一帯を含む港南区磯子区を戦国時代に治めていたのは、小田原北条家の家臣の間宮家だったのを知らない人も多いと思います。
そして江戸時代にも間宮家分家の氷取沢間宮家がこの一帯を治めており、氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は八王子城主の北条氏照公の家老として外交と内政で活躍し、織田信長公にも外交使者として面会しています。
近くには、その名残りで間宮寺と言う御寺がありました。
間宮寺は元は港南区笹下の真言宗東樹院の末寺でしたが檀家少なく、間宮家が支援し日蓮宗に改宗し杉田妙法寺の末寺として中興開基しました。
しかし江戸時代には廃寺に成ってしまいました。
その間宮寺の遺物が実は上中里神社に残っています。
参道階段の中腹左手にある石仏がそれです。
不動明王像ですね。
元々は間宮寺に有った物を廃寺に成った後に当時の村民の皆さんが、この上中里神社に移し守り続けたそうです。

さて、そんな訳で間宮家との関わりは解って頂けたでしょうか?
関連記事を見たい方は、記事画面の一番下に表示される「タグ」から「間宮家」をクリックしてみて下さい。
関係の有る記事が読めます。

さて、上中里神社に合祀されている神様達が何で間宮家と関わり有るかですが…
上の摂社に祀られている、それぞれの神様と間宮家の繋がりを個別に説明します。
判らない物は判らないと書きます。
⚫︎稲荷神社
…伏見稲荷神社の農耕の神様。
間宮家との関係は不明。
⚫︎明神社
…神明社と言えば天照大御神だが明神社なので何の明神様か不明。間宮家との関係も不明。
⚫︎駒形神社
…保食神(うけもちのかみ)。
飢饉回避の神様。間宮本家の笹下間宮家が江戸時代に転封され引っ越した先の下総国印旛郡の神様なので、江戸時代の間宮家と関わりが推測される。
⚫︎天神社
…菅原道真公。
氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は奥さんが宅間上杉家の姫君。
宅間上杉家は今の港南区上永谷に永谷天満宮と曹洞宗の御寺天神山貞昌院を開いた武家で足利尊氏公の従兄弟に当たる方の御子孫の家系なので、宅間上杉家と関わりが深い氷取沢間宮家との関係が推測される。
⚫︎山王社
…恐らく蔵王権現。今の八王子市の御嶽神社。
間宮綱信公が与力・付家老として御仕えした北条氏照公は最初、八王子の滝山城を居城にしていました。滝山城には山王曲輪と言う防御施設が有り、そこは元々は源義家公が蔵王権現社を建てた場所で、氏照公は山王曲輪の場所から蔵王権現社を滝山城の外郭に遷座(せんざ=神社を移動する事)しました。
今でも滝山城外郭に蔵王権現が廃仏棄釈で御嶽神社に名を改め存在していて、氷取沢町に山王社があるのは滝山城に勤務した間宮綱信公との関係が推測される。

⚫︎八王子権現社
…牛頭天王と牛頭天王の8人の眷族(けんぞく)を祀る神社で、今の八王子市の八王子神社の昔の名前。
間宮綱信公が与力した北条氏照公は晩年、滝山城を廃城にし今の八王子神社の辺りに八王子城を築城し本拠地を移した。その関係で間宮綱信公も牛頭天王を崇拝し八王子権現社をの分霊を勧進(かんじん=神様の御霊を分けて貰い祀る事)した事が推測出来る。
※杉田間宮家菩提寺の杉田妙法寺も弘法大師空海様が勧進した牛頭天王を、祀る。
⚫︎山大明神社
祭神不明。
香川県屋島の蓑山大明神と関係有りか?
間宮寺は元々は真言宗だったので真言宗御室派大本山の屋島寺にある蓑山大明神を祀っていた可能性は有る。
又、間宮家は近江源氏佐々木家の鎌倉時代の名将佐々木高綱公を江戸時代中期まで先祖としていた(実際は高綱公の叔父の佐々木経方の系統)で、源平合戦の舞台屋島とも関係がない事は無い。

以上、多少なりとも上中里神社の摂社の神様の中には間宮家と関わりが有る神様が幾つか見受けられますね。

さて、上中里神社の本殿ですが、冒頭でも述べましたが結構立派でした。
拝殿はちゃんと一段高い場所にあります。
なんか神社と言うよりは御寺の本堂みたいな造りの本殿ですね。
せっかく、こんな立派な神社があるのですから、地域の方々にも御参りして欲しいな〜と思いました。
そして、夏祭りもここで開いて欲しいな〜。
その為には人の流れを作る事が大切です。冒頭でも述べましたが、裏に抜ける道を作り住宅街や磯子高校に繋げる道を作れば、この神社は活気が戻る様な気がしました…

本日はここまで!
では、又、次の記事で!

ブログネタ
旬なニュース に参加中!
永谷天満宮は…
室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の従兄弟、宅間上杉(たくまうえすぎ)家の重兼(しげかね)公の御子孫が開いた天満宮です。
今、その永谷天満宮の裏山では今、山の片面一面に紫陽花(あじさい)が咲き誇りとても綺麗です。
永谷天満宮は勿論、拝観無料で市民が自由に紫陽花を鑑賞出来ます。

この鎮守の森、名前を天神山と呼び頂上には小さな浅間神社の祠(ほこら)と菅秀塚が有りますが、菅秀塚の菅秀とは元々この永谷天満宮と貞昌院の敷地にお住まいだった菅秀才こと菅原淳茂(あつしげ)公の事です。
この結界の中が天神山で、自由に散策出来ます。
御祭神菅原道真公の五男淳茂公が当地にお住まいだったと言う伝承が今に伝わっています。
今の季節、長谷寺や明月院程の規模は有りませんが紫陽花のトンネルの中を散歩出来ます。
とても綺麗ですよ!
横浜に住んでるけれど鎌倉まで紫陽花を見に行く暇が無い…
…と、言う方、紫陽花見るの諦め無いで永谷天満宮を散歩してみませんか?
以前書いた永谷天満宮の歴史を説明した記事は「ココ」←クリック!

では又、次の記事で!お会いしましょう…

ブログネタ
日々の生活 に参加中!
日々の生活の疲れを忘れさせてくれる場所があります…

鎌倉市街地の少し外れ…
浄妙寺地区に在(あ)る報国寺と言う名古刹(こさつ=歴史の古い御寺)です。
こちらは室町幕府 初代征夷大将軍 足利尊氏 公の御爺様の足利家時 公と…
関東管領上杉家筆頭四家の一つ宅間上杉家の創始者の宅間上杉重兼 公
…その御二人が開基された御寺です。
宅間上杉家は以前紹介した永谷天満宮を開基し、榎下城を築城した足利家と親密な家柄でした。

秋は特に綺麗な御寺です。


つい5〜6年程前まで小生達歴史好きだけが行くような落ち着いた安らぎの場所でした。
歩いて直ぐの近所に旧皇族:華頂宮家の邸宅も保護・無料公開されています。

報国寺は近年、迷惑なミシェランガイドで三ツ星認定されて以来、文化に関心の無い客が増えて大声で話したり、反日某国人観光客が庭園植物にハングルで落書きしたり迷惑千万な状況に陥ってしまいました。

が!

風景は変わらず綺麗です。
この御寺は先述の通り開基された方々からして由緒ある御寺でして…
室町幕府設立後は、室町幕府鎌倉将軍府の鎌倉公方足利家と関東管領上杉家の菩提寺として栄えました。
鎌倉将軍府や関東管領とは何ぞ?
…と言う方の為(ため)に文末に関係記事リンクを貼ります。
もぐりの寄せ集めWikipedia(笑)なぞより詳しく写真付き説明のブログ記事があるので御覧下さい。
他にも報国寺周辺の文化財や風景の記事を書きためて有るので御興味有れば是非、御覧下さい。

コンナ場所とか。

さて…

報国寺は竹林の中でゆっくり抹茶とお茶菓子を頂ける安らぎの場所です。
関東特有の谷戸の切岸に囲まれた地形の放つヒンヤリとした(以前は人も少なく)落ち着いた雰囲気と、竹林の放つマイナスイオンを肌で感じられる場所です。
この奥に東屋(あずまや=休憩小屋)が在(あ)り、そちらで抹茶を頂きながら椅子に座りボぉ〜っと時間を過ごせます。

歴史の深い寺院なので、当然、歴代の武将の矢倉(やぐら=墓:関東では武士の壁面に高い位置に掘れた横穴式墳墓、戦時には本当に砦の矢倉として使用する)もありますが…
偉人の皆様、死して尚(なお)風流と言いますか、安寧の地は真に美しい日本庭園の体を成しておられます。

本当にこの御寺は美しい…
可愛い金魚さん達もお出迎えしてくれますよ(笑)!

皆さん、どうか、この子達のいる報国寺に訪れる機会がありましたら…
素晴らしい文化財、歴史遺産を私達に遺(のこ)して下さった歴代足利家の御当主様達と関東管領上杉家4家の皆様に…
一言、御堂でお参りする際に感謝を伝えて手を合わせてみませんか?

きっと鎌倉公方様も関東管領の皆さんも、喜んで下さると思いますよ♪

あ!
約束したリンク貼ります!

以下が鎌倉公方と関東管領上杉家、報国寺関連の過去ブログ記事のリンクです。

●関東管領上杉家筆頭4家の説明と菅原道真公の五男淳茂公と三男景行公の永谷天満宮の記事「ココ」←クリック!

●関東管領宅間上杉家と榎下城址の記事は「ココ」←クリック!

●関東管領上杉謙信と実家の長尾家長尾城の記事「ココ」←クリック!

●釈迦堂の切通しの記事は「ココ」←クリック!

他にも関係記事多数有るので御興味有りましたら以下のカテゴリーリンクから御覧下さい!

横浜市緑区三保と言う地域に旧城寺と言う名前の御寺が在(あ)ります…
御寺さんの名前が示す通り、実は此処(ここ)、そのまんま御城の跡なんです。

…横浜市の人もあまり知らないですけどね。
榎下城と言う御城でした。

しかも!

"かなり"重要な武士の拠点でした。
その武士とは関東管領上杉家です。
その上杉家の内の筆頭四家の一つ、宅間上杉家の御城でした。
宅間上杉家の本拠地は旧鎌倉郡永谷郷、現在の横浜市港南区下永谷の永野地区にあった永野城址ですが、歴史的に有名なのは、こちらの榎下城址なんです。
なんと!このお城は日本史でも勉強する室町時代に起きた永享の乱の舞台でもあります。

※宅間上杉家の詳細と永野城址付近の永谷天満宮に関しては「コレ」←クリック!以前書いたブログの中の説明を読むかググッて下さい。
※永享の乱に関しては「コレ」←クリック!以前書いた称名寺も宅間上杉家や鎌倉公方と関連が有りますので、御興味あればどうぞ。

因(ちな)みに室町幕府で関東の総理大臣みたいな仕事をしていたのが、関東管領と言う役職なんですね。
山門(さんもん=御寺の門※時として御寺そのものを指す)の表札には旧字体で"旧城寺"と書いてあります。

この山門は昔の城郭の内側の城域を守っていた"大空堀"の土橋(つちはし=まんま曲輪と曲輪を繋ぐ土の橋)の上に建てらています。
つまり榎下城の城門ではありません。
旧城寺山門の両脇には今でも大空堀の遺構が在ります。
これ↑山門横の空堀の一部です。
…何故か空堀に民家が建てられていますがね。
小さい堀と感じますよね?
違いますよ…
本当に大空堀だったんですよ。

この山門横の空堀を辿っていくと…
この公園にブチ当ります。
この公園は山門の空堀に繋がる谷底に在ります。
自然地形を利用しつつ切岸(人工的に山を掘削した崖の防壁)で堀状にした"空堀の底"に公園が有るんですね。
この大空堀で仕切られた内側が中国の御城で言う所の"内城"の役割を果たし、外側が外郭として機能していたんでしょう。
この空堀より外側の周辺地形を見るに、更に空堀として機能していたと思われる住宅地の道路がありますから…
つまり、その外側部分に大坂城や高槻城や小田原城の総構えに当たる兵士の駐屯区域が有ったんでしょうね。
上杉家の城は仮想敵兵士数が最低でも数千単位ですから。

さて…

山門を抜けると両脇には"こんもり"とした
小さい山が有ります。
コレ、食い違いと呼ばれる防御施設の遺構で、実は内城の城門の有ったはずの場所でもあります。
石は何か施設跡の礎石かなんかかな?
ちなみに…
食い違いと言うのは↓この部分。
文字通り食違いの城壁。
城壁をS字クランク状にする事で、城門を突破し進入して来た敵兵を正面の城壁の上から弓で射殺したり石を落として撲殺したりする防御施設です。

中には今では旧城寺の本堂が建ち、本丸跡は弓道場になり、本丸直下の空堀は墓地と成っていますが、その地形は今でも見てとれます…
この墓地↑が本丸下の空堀跡。
完全な箱堀(はこぼり=堀の底が平らで箱みたいな空堀)です。
山門前の大空堀も堀底が箱堀でした。
どうやら上杉家は箱堀が好きだったみたいですね。

…そう言えば伊勢原市の扇谷上杉家の拠点、七沢城址の伝・大空堀と言う場所も底が平らな畑地でした。
関東流の築城技術は、基本、谷戸の多い南関東独特の地形を活かす縄張りですから、自然地形の谷間の崖を切岸にするんですね。
だから、この墓地の両側もちゃんと「切岸」に成ってます。

関東平野は縄文時代には海の底だった部分と半島や島だった地形が入り乱れているんで、平野とは名ばかりで埼玉県辺りと神奈川の川崎市辺りを除いては比高10〜50mの細かい丘伏の起伏の連続なんですね。
…特に横浜市や鎌倉市はね。

さて…
以下は榎下城址の解説から話題を関東と京都の関わりの歴史に移します。

榎下城址は先述の通り宅間上杉家の持ち城で関東管領上杉家の拠点の一つでした。
戦国時代に室町幕府鎌倉府の重鎮である上杉家と関東管領職を山内上杉家から継いだ上杉謙信は元の名を長尾景虎と言い、先祖は横浜市栄区の長尾城を拠点にした長尾家で、更にその先祖は平安時代の鎌倉景政と言う名武将で景政公は関東では御霊神社の神様として祀(まつ)られています。
鎌倉家の更に祖先は神奈川県藤沢市村岡城址を本拠地にしていた平良文と言う元皇族の鎮守府将軍を務められた御偉い方でした。
以前の永谷天満宮紹介のブログで書いた事ですが…
平良文公の更に祖先が平高望 王ですが、平良文公の時代に、この上杉家の御先祖様に当たる勧修寺藤原家と関東の平家は平安時代の京都で繋がりが既に有ったんです。
更にその両家と関わりが有ったのが日本全国にある天神様(天満宮)で神様に成っている菅原道真公の三男の菅原景行公と五男の菅原淳茂公なんですが…

その平良文公・菅原景行公・菅原淳茂公・上杉家の祖先の勧修寺藤原家・神田明神の神様の平将門公主君だったのが"醍醐天皇"だったんですね。
つまり飛躍した例えをすると醍醐天皇の命令と上記の偉人達がいなければ今日の関東の文化は成立し得なかった訳です。
そんな西暦700年代〜現代の関東の発展を築いて下さった醍醐天皇と偉人達と上杉家への感謝を感じる場所…

そんな大切な場所が、この榎下城址なんです。

御近所の方、そろそろ藪蚊やスズメバチもいなくなる季節です。
旧城寺がお城と知らなかった人も、小生のブログ見ながら何となく散歩されて見ては如何(いかが)でしょうか?

まず永谷天満宮と言う横浜市港南区にある神社をご存知でしょうか? 

天神様と言えば大宰府に左遷された菅原道真公を神様として祀(まつ)っている神社です。
ここ↓ね。

実はこの永谷天満宮は日本三躰(にほんさんたい)の一つと呼ばれますが、その由来は…
福岡の太宰府天満宮と大阪の道明寺天満宮、それとこちらの永谷天満宮が実はある事で他の天満宮と異なり特別な天神様なんです。 

他地域の方からすると…
「は?神奈川の天神様が凄いわけあらしまへん!」
とか
「天神様は太宰府天満宮だけが本物たい!」
とか
「何で歴史無いヨコハマのが特別なんだよ!」
…とか思うでしょうね。
特に歴史に興味が無い人なら尚更。
ヨコハマって実は…
旧相模国の「鎌倉郡の一部」
旧武蔵国「久良岐(くらき:倉巣)郡」
「都築(つづき)郡」「橘(たちばな)郡」
…から構成されていて、日本書紀にも頻繁に出てくる土地なんです。
日本武尊と弟橘媛の神話や浦島太郎の物語も舞台は神奈川県川崎市と横浜市と横須賀市なんですよ。 
2015-04-01-10-39-49
永谷天満宮の参道は春には桜に彩られます。
さて
歴史に興味が無かった人の為(ため)に菅原道真公の事を少しだけ説明しますね。
菅原道真公は右大臣(うだいじん:今で言ったら総理大臣みたいな役職)を務めた程の優秀な政治家・学者・歌人でした。
この↓人物画が道真公
ダンディーで優しそうに描かれてますね…
実際は、ふくよかな方だったみたいです。

平安時代当時、藤原家は天皇家に藤原一族の娘を代々嫁がせて天皇の外戚として朝廷(ちょうてい:政府)政治を乗っ取ろうとしていました。
当時の宇多(うだ)天皇も藤原氏を抑え込むべく、対藤原家の切り札として菅原道真公を重用(ちょうよう:信頼され重要な役職に就かされる事)し藤原一族から政治権力を取り戻させようとしました。
しかし道真公は藤原一族にハメられて、大宰府に左遷られてしまいました。
左遷されて今の福岡県で亡くなりましたが、死んだ後に雷神様に生まれ変わり悪行を働いた藤原一族に雷を落とし感電死させたり怪我人出したり天罰を与えました。
それにより菅原道真公の霊に祟(たた)りで呪われる事を恐れた藤原氏から霊を鎮(しず)める為に神様として崇拝される事になりました。
だからコンナ↑絵も残ってます。
優しい人ほどキレると手が付けられない…

じゃあ、何で関西や九州を舞台にして活躍した菅原道真公と関係無さそうなヨコハマの永谷天満宮が凄いのか?

それはですね…
実は菅原道真公の遺産と関係があります。
遺産と言うのは御神体が道真公がご自分で銅鏡を見ながら彫刻した自像の木製彫像の事なんです。
それが日本には3体だけあり、その収蔵され祀られている場所が…
太宰府天満宮…福岡県
道明寺天満宮…大阪府
永谷天満宮……神奈川県横浜市港南区
…なんです。 

しかも永谷天満宮は道真公の5男で菅秀才と呼ばれた菅原淳茂公が直接住んでいた場所と伝承してるんです。 
で、永谷天満宮では道真公の彫像を御神体として御祀りしてらっしゃいます。

なんで「そんな凄い」のが歴史無いヨコハマに有るんだよ!
…と、思う歴史を知らない人も多いと思います。
この謎は藤原氏の専横と、太平記と地理をちょっと知っていれば直ぐに謎解きが出来るんです。

それを以下に説明してみます。
長いですよ!
でも、見る価値ありますよ!
横浜市民や神奈川県内の人は必見だと思います。

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永谷天満宮と坂東八平氏、及び菅原景行公と菅原敦茂公の関連

[永谷天満宮の祖、菅原敦茂公とは?]  

菅原敦茂公は菅原道真公の5男で、醍醐天皇に仕えた方でした。 
菅秀才と言われ優秀な方だったそうですが、御父君の菅原道真公の左遷後に醍醐天皇に登用され、右少弁を務めました。
近畿では播磨国に左遷された後に京に戻ったとされていますが、永谷天満宮には同所は敦茂公晩年の居館跡との縁起が伝承しています。

 [敦茂公の官位「判官(じょう=丞)」とは?]  

左右大弁・左右中弁・左右少弁の官職は判官と別称され太政官の組織で、官位は少納言の上位。判官職の直属上司は太政大臣等最高位の者でした。 
左大弁・右大弁の官職に就く者は将来的に三位以上の官位を獲る可能性の有る部署であり、出世の王道で大弁職と参議や蔵人頭を兼任する者もおり頭弁とも呼ばれました。しかし、中弁職以下には参議に昇進する資格は有りませんでした。 

敦茂公は菅秀才と呼ばれた優秀な人物でありながら、その官職を右少弁に留められていた事から推察出来る事は、御父君道真公が左遷された影響か官職独占を狙う藤原氏の妨害が有ったと考えるのが自然です。 
藤原氏から迫害を免れ藤原家とは別の元皇族の臣籍降下貴族であり関東に一大勢力を築き始めていた平家と連携する為、菅原氏は多く関東に移住したようです。

特に永谷天満宮の近所には「釜利谷」・「鍛冶ヶ谷」・「日野(火野)」等(など)の製鉄や武具製造に関する地域がありました。
そのような関東の軍備増強拠点を抑えつつ、皇族出身貴族の平家と連携し醍醐天皇の密命を受けて反藤原勢力の組織を目指したのかも知れません、勿論、反藤原勢力結集はただの推測です。
菅原道真公の身内で関東に移住した人物の内、特に有名なのは道真公三男景行公です。
彼は最初に常陸国へ移住しました。
景行公と同様に、伝承通り敦茂公が晩年、永谷郷に移住してこられた可能性は有り得ると思われます。
しかしながら、日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在するならば、敦茂公が永谷天満宮に住んでいた可能性より、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その事は後で説明します。

さて、先ずは永谷天満宮そのものについて説明をします。
永谷天満宮を開基(社殿建造する事)したのは関東管領上杉家の養子に入った一族の人物で、祖先の元の名字は勧修寺(かんしゅうじ)姓でした。

[藤原北家勧修寺流とは?]  
勧修寺家は京都の公家で、藤原家主流の家系でした。藤原家の主流は藤原北家と呼ばれ、その分家が勧修寺家でした。
勧修寺氏の姓名の由来である勧修寺は京都市山科区に現在もある寺院の事で、醍醐天皇の勅願所でした。
この時点で、菅原家と宅間上杉家の祖先の接点が醍醐天皇だった事が解ります。
天皇中心の政権運営を目指した醍醐天皇が信頼した臣下が菅原敦茂であり、醍醐天皇の開基した勅願所の勧修寺が宅間上杉家の家祖の苗字の由来に成っているので既に、この時代に両者に交流が有った可能性が有ります。 
藤原北家の勧修寺流の藤原顕憲公と盛憲公親子は摂関家藤原頼長に仕えていたので保元の乱において崇徳上皇陣営に従い、乱の勝利者側の後白河天皇と敵対した為に、戦後に佐渡国へ流刑にされ凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)しました。
しかし盛憲の子藤原清房の系統が後鳥羽上皇に仕え家名は存続しました。彼も又もや承久の乱に巻き込まれ、紆余曲折あったものの命脈を保ちました。
その後、子孫は現在の京都府綾部市上杉町周辺を本拠地にしました。
その為、重房の代に至り上杉家を名乗るように成りました。
後の室町幕府初代征夷大将軍である足利尊氏はその地で生まれたと伝わっています。 
重房の子が上杉頼重で、頼重の姉妹がそれぞれ山名政氏と足利頼氏に嫁いでいて、上杉頼重の「頼」は足利頼氏から一字偏諱を受けたとされています。 
上杉頼重の子が即ち足利尊氏の叔父である上杉憲房です。

ちなみに上杉家と言うのは代々関東管領(かんとうかんれい)と言う役職を世襲した家系で、のちに上杉謙信が養子に入り継いだ家ですね。

 [関東管領上杉家とは?]  

今の関東地域に伊豆・新潟県・東北を加えた地域を支配するのが鎌倉公方で、その鎌倉公方の職務を実際に代行するのが関東管領職でした。
関東管領上杉家とは、即ち鎌倉将軍府の関東管領職に就任できる資格を有する上杉一門の内の筆頭格の4家の事で、犬懸(いぬかけ)上杉家・宅間(たくま)上杉家・扇谷(おうぎがやつ)上杉家・山内(やまのうち)上杉家の4家を指し、当初はその4家で交代で関東管領職を務めました。 

それぞれの家名は鎌倉近辺での居館の所在地名に由来し、扇谷(おおぎがやつ)や山内(やまのうち)は今でも鎌倉市内に地名が残っています。

[犬懸上杉]  
今の鎌倉市浄明寺と言う地区の犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ)と言う所に邸宅があったので犬懸上杉と呼ばれています。
房総半島(下総国・上総国・安房国)一帯が根拠地でした。 
室町幕府初期には上杉家で一番勢力を誇りましたが、子孫の上杉禅宗が起こした「上杉禅宗の乱」で滅亡しました。

[宅間上杉]  
鎌倉市・横浜市・川崎市武蔵国西部一帯が支配域で横浜市港南区永谷が本拠地でした。 
上永谷にある永野小学校を含む丘陵一帯が本拠地の永野城址です。 
永享の乱の際、宅間上杉憲直が横浜市緑区にある旧城寺にあった榎下城址に籠城し、室町幕府と対立した鎌倉公方足利持氏を支援した事に因(よ)り、敗戦側に成ってしまいした。
後に降伏するが許されず、横浜市金沢区金沢文庫の称名寺で切腹し宅間上杉家は没落しました。 
しかし子孫は鎌倉府に継続し仕え、戦国時代には小田原北条氏に臣従しながら「宅間殿」と特別待遇で扱われていました。
安土桃山時代を経て徳川家旗本として存続しました。 
永谷天満宮を開基した人物が宅間上杉乗(憲)国です。

[扇谷上杉]  
現在の伊勢原市や湘南地域が元々の根拠地で伊勢原市の粕谷館で家臣太田道灌を暗殺した扇谷定正の話は有名です。 
伊勢原市の産能大学一帯に存在した七沢城址が旧本拠地で、後に小田原北条氏の圧迫により相模国から支配力を駆逐され、北に逃げる度(たび)に家臣太田道灌が築いた江戸城、更に河越城(埼玉県川越市)へと本拠を移し武蔵国南部沿岸部を根拠地にしていました。
戦国時代の三大奇襲戦と呼ばれる「河越合戦」の時、小田原北条家の殿様北条氏康公とその家臣で義兄弟の鎌倉玉縄城主の北条綱成公に大敗北し、扇谷家の殿様は敗死し扇谷上杉家は滅亡しました。

[山内上杉]  
現在の埼玉県一帯~東京都北西部一帯が根拠地で本拠地は松山城址(埼玉県東松山市)でした。 
最終的に養子に入り、この家を継いだのが上杉謙信(長尾景虎)でした。 
戦国時代に成っても上杉家筆頭4家で勢力を保ったのは、この山内上杉家だけでした。
しかし家臣長尾景春の反乱が発生したり、小田原北条家に河越合戦で大敗した事で凋落(ちょうらく:落ちぶれる事)し当主の憲政が上野国に逃げ出した挙句(あげく)、更に越後の長尾景虎(ながおかげとら:後の上杉謙信)を頼り、最終的に養子にした上杉謙信に関東管領職を禅譲し本流の上杉家は滅亡しました。

 
[宅間上杉家の家系]

上杉重能(初代:勧修寺家出身)
※養子は無嗣断絶。
上杉重兼(二代:勧修寺家出身で重能実弟)
※重兼を初代とする説もある。
上杉能俊
上杉憲重
上杉憲俊
上杉憲能
上杉憲清
上杉憲直
上杉定重
上杉定朝
上杉顕重
上杉乗(憲)国→永谷天満宮を開基
上杉乗方
上杉房成
上杉富朝 →北条氏照付家老間宮綱信に姫嫁ぐ
上杉規(憲)富
※小田原北条氏家臣化→徳川家康に服属し旗本として存続

初代宅間上杉家当主の重能と二代当主の重兼は勧修寺別当職を務めた勧修寺道宏の実子で母は上杉頼重娘の加賀局だったので、同じく頼重娘の清子を母に持つ足利尊氏・直義兄弟とは血縁の従妹同士で一門衆待遇でした。 
後に母の兄弟である上杉憲房公の養子となります。
その後、永享の乱が起きます。
鎌倉公方足利持氏と山内上杉憲実が対立した際に、宅間上杉家は鎌倉公方に忠義を尽くしました。
その為に、鎌倉公方の力を削ぐ目的で、山内上杉憲実を支援する征夷大将軍足利義持(4代将軍で足利義満の子)の命を受けた今川範政率いる室町幕府と鎌倉府の連合軍に駿河より攻め入られ、宅間上杉家の当主上杉憲直は鎮圧され敗北し、横浜市金沢区の称名寺で切腹を命じられ勢力を失ってしまいました。 
しかし、その後も子孫は鎌倉府に仕え、戦国時代には小田原北条家に従い、後に徳川幕府の旗本として存続しました。

[宅間上杉初代:重能ってどんな人?]
勧修寺家に生まれ、後に母の兄弟である上杉重顕・憲房の養子となりました。
建武政権下では関東廂番六番の一員として鎌倉に下向。『太平記』には竹の下合戦において、偽の綸旨(りんじ:命令書)を作り足利尊氏を出陣させたとあります。
その後、足利直義の執事(しつじ:代理)として活躍するも、足利尊氏・高師直公が直義と対立すると高師直に捉えられ越前に配流殺害されてしまいました。
宅間上杉家の跡目は、山内上杉憲方の子で重能の甥に当たる山内上杉憲孝が継ぎ存続しました。
更に上杉憲孝も無嗣断絶してしまった為に、宅間上杉家は初代当主重能の実弟であった重兼の子孫が相続しました。
この為、重兼を宅間上杉家初代とする場合もあります。

さて、永谷天満宮を開基した上杉家の話はここまでにして、御祭神(ごさいしん)の菅原道真公の子孫が何故(なぜ)に横浜市や関東地方に移住して来られたかに話を戻しましょう。
その一例として、道真公の3男の菅原景行(かげゆき)公の例を挙げたいと思います。

[菅原景行公とは?]
菅原道真公の三男。 
駿河国に左遷された後、関東に下向し平将門公の御父君:良将公の根拠地であった下総国豊田郡に程近い常陸国真壁郡に移住しました。 
延長4年(926年)景行公は将門の叔父・良兼公らと真壁郡羽鳥(現:真壁町)に菅原天満宮(現在は茨城県水海道市大生郷に移転)を開きました。
この時代から坂東平氏と菅原家の深い繋がりが開始されたと推測できます。 
更にこの菅原氏と平氏の結びつきは当時の醍醐天皇の指令によるものだった節があります。
菅原氏の多くは藤原氏の専横により官位こそ抑えられていましたが、醍醐天皇に登用にされ有名な五男淳茂公をはじめ多くは朝廷にも残りました。
そして後の坂東八平氏の祖で平将門公の叔父良文公も醍醐天皇に重用され、関東の賊を討てと綸旨を頂き鎮守府将軍として東日本に下向し、旧鎌倉郡村岡郷、今の藤沢市村岡を本拠地にし関東に武士文化の基礎を築かれました。
この綸旨の「賊」とは「平将門公」ではなく、親王赴任国である上総国や下総国の荘園を支配する藤原氏の事だと思われ、つまり上総国下総国の支配権を取り返し藤原氏の軍事的勢力を削ぐ意図があったのだと思われます。
因みに上総、下総は音が皇室と密接な「宇佐八幡宮」の宇佐に通じますし、古語読みをすると「かみすさ」「しもすさ」と成るので素戔嗚尊とも所縁が有りそうです。
菅原家の主君の醍醐天皇とその御先代宇多天皇は藤原氏の専横に苦慮し御親政を取り戻すべく菅原道真公を重用しましたが、藤原氏の策謀により道真公はハメられ目論見が頓挫した経緯がありました。
それにより醍醐天皇と菅原氏が頼ろうとしたのが臣籍降下した元皇族の平氏だったのでしょう。
醍醐天皇と菅原氏と平氏の連携を示すのが正に、菅原景行公と平良兼公の逸話です。
当時まだ亡くなれて間も無い道真公を祀る天神様をいち早く常陸国に建立した事に両者の結びつきの真意が現れているのでしょう。
平将門の乱は、菅原道真公の左遷と同じく藤原氏の陰謀によるものだったと思われます。
藤原氏の挑発に乗ってしまい挙兵してでも反藤原連合を貫く将門公と、あったかも知れない醍醐天皇の関東制圧の密勅を実質的に維持する為に体面上、藤原氏=朝廷に従属するかの政策的な対立を生み出す藤原氏の陰謀だったと考えるのが自然です。
結果、醍醐天皇の策謀と藤原氏の陰謀は痛み分けで、藤原氏は関東の支配権を失い醍醐天皇も平将門公を失いました。
しかし平良文公を鎮守府将軍に任命していた事により関東の臣籍降下貴族支配には成功した訳です。
この流れを証明するように平将門公は当初朝廷公認で活動していましたし、将門公に同調していたはずの良文公は後に将門公の支配域の多くの支配権を与えられ、後々の坂東八平氏発展と鎌倉幕府御家人の基礎を築かれました。
平良文公が旧鎌倉の藤沢を本拠地にしていた事と、菅原景行公と坂東平氏の関係が深かった事から、永谷に移住した菅原道真公の御子息の正体は、三男の菅原景行公だった可能性は高いと思われます。
そう考えると、先程想定した日本に3体しか存在しない道真公の彫像が永谷天満宮に存在する理由、明確に関東に移住して来た記録の残る三男の景行公が上の兄弟二人から順番に三番目に分与された道真公彫像を奉戴し永谷に移住して来られた可能性も有るかも知れません。
その後、関東に下向した宅間上杉家が、関東に定着していた菅原氏より、醍醐天皇との御縁で菅原道真公の像を譲り受けた可能性が有るかも知れません。


景行公以降も菅原氏の武将が東日本で活躍した記録が見えます。
その人物は鎌倉幕府初代征夷大将軍「源頼朝の"ひいひいおじいちゃん"」に当たる軍神:源義家(みなもとのよしいえ)公が活躍された前九年・後三年の役に参戦した武将として登場します。
彼は源義家公が率(ひき)いた「五陣の軍士」と言う源家直属部隊の武将として登場します。

[五陣の軍士の中の菅原氏の武将]  
軍神:源義家公の父君の源頼義公の与力衆と直属の軍勢で5備えに編成されていた部隊の総称で、旗下に以下の武将の名前が見えます。

平  眞平
菅原行基 
源  眞清
刑部千富
大原信助
清原貞廉
藤原兼成
橘  孝忠
源  親季
藤原朝臣時経
丸子宿禰弘政
藤原光貞
佐伯元方
平  経貞
紀  季武
安部師方 

この内、菅原行基公は御名前から推測して菅原景行公の御子孫に当たるのではないかと推定できます。 
関東において坂東八平氏の祖で相模国の開拓領主だった鎌倉郡村岡城(現藤沢市村岡)を本拠にした平良文公の御子孫は菅原家と平家の深い関係を裏付ける様に、関東の御霊神社の御祭神として広く信仰されている軍神:鎌倉景政公を筆頭に「景」の字を継承している武将が多数見られます。 
具体的には…

・鎌倉景政公 
 (村岡城:藤沢市村岡を含む横浜市旧鎌倉郡部と鎌倉市及び藤沢市の旧鎌倉郡部)

・大庭景義公
 (大庭城:藤沢市大庭~茅ヶ崎市一帯)

・梶原景時公 
 (村岡城:藤沢市村岡~鎌倉市梶原一帯)

・長江義景公 
 (横浜市栄区長江)

・長尾景弘
 (長尾城:横浜市栄区長尾台一帯~現JR大船駅周辺及び鎌倉郡玉縄地区一帯)

 ※長尾家の有名な子孫
・長尾景春
 太田道灌のライバル。長尾景春の乱を引き起し関東全土を席巻した張本人。
・長尾景虎(上杉謙信) 
 山内上杉家を継いで後に関東管領上杉謙信を名乗った。

以上の鎌倉氏子孫の名に見える事実から推察すると…

つまり、相模国に移住してきた平氏が、永谷や関東各所の菅原家との関係の中で氏子として天神様を崇拝していたのではないか、その経緯で菅原家より「景」の字を一字拝領したのが平良文公の系統の坂東八平氏だったのではないかと推測出来ると思います。
又、菅原景行公と平将門公の叔父上との逸話や、源頼義の奥州征伐の際の五陣の軍士に菅原氏と平氏の武将が名を共に連ねている事から、何らかの関係が有った可能性は高いと思います。
そして平家や源家が盟主として菅原姓や橘姓紀姓等の古代有力貴族の子孫の支持を得て彼等を与力と出来たのは、彼等の対藤原独裁連合的な共同出世目的の意味合いが有ったのではと推察しています。

――永谷天満宮の歴史全体像考察――  
以上の事を根拠に、永谷天満宮と敦茂公の伝承は、宅間上杉家の祖先勧修寺家が菅原家と同じく宇多天皇と醍醐天皇に共に御仕えした家系だった事に由来するのではないかと思います。
つまり永谷天満宮の御神体である菅原道真公が自らの姿をを彫られた木製彫像は宅間上杉家(勧修寺家)が在京中の南北時代、北野天満宮に有った物を動乱から保護する目的で勧修寺家が保有する事に成ったか、関東に定着した菅原家子孫から足利家と親密だった宅間上杉家に譲渡された可能性が有ると思います。
 
余談ですが北野天満宮は位置的に曾(かつ)て京のメインストリートだった千本通りに近く、少し北には平安京造営当初の御所が有った舟形山の南の地域へ通勤も便利な位置にあります。
そう考えると敦茂公の京都時代から、山科の勧修寺付近や朝廷の中で宅間上杉家の祖先である藤原北家勧修寺流上杉氏と菅原家の交流が有った可能性も有り、やはり、敦茂公そのものと宅間上杉家の祖先そのものの関係も有った可能性も有ると考えるのが自然だと思います。
保元の乱で出世コースを外れてしまった一族ですからね。
藤原本流に政争でハメられた家同士が仲良くしても全く不思議ではありません。
永谷天満宮の敷地に道真公の御子息のどなたかが住んで居た訳ですが、永谷天満宮の伝承では「菅秀才こと5男の菅原敦茂公」が住んでいた事になっています。
淳茂公の兄で三男の景行公のお住まいだった可能性から御二人の話が混同された可能性は高いと思います。
しかしながら、宅間上杉家の祖先が、ここまで説明した通り、菅原景行公と菅原敦茂公の両方と御縁が有った可能性は高いと思います。 
先にも具体例を挙げましたが、永谷郷と隣接する旧鎌倉郡一帯の開拓領主鎌倉景政公の一族とその祖先平氏と景行公の関わりと氏名に含まれる「景」の一字です。
一字拝領は古来の文化でもあります。 
景行公が中央では余り有名では無かった事や、宅間上杉家の祖先と菅原秀才敦茂公が醍醐天皇の繋がりで御縁が有る事、活躍した舞台が主に播磨国や京と言った関西地方だった事から後に関東に下向してきた京都の勧修寺家出身の宅間上杉家による永谷天満宮の造営時に旧領主菅原氏の顕彰が行われ、その際、菅原景行公と菅原敦茂公の逸話が糾合された可能性が有るのではないかと推測しました。 

又、日本参躰天満宮と言われる所以(ゆえん)である「道真公銅鏡写し自作の木製彫像」が何故永谷天満宮に存在するかも、先述のとおり…
①北野天満宮から→勧修寺家へ →上杉家から→宅間上杉家へ
②関東の菅原家から→宅間上杉家へ
①か②の推測が出来るのではないでしょうか。 
仮に景行公が永谷天満宮に居住していた説を支持するならば、永谷天満宮の縁起とは異なり些か不敬に当たるのかもしれませんが景行公の実績の再発掘と言う意味では無駄には成らないかと思っています。
そして3男景行公も5男敦茂公も、御両人(ごりょうにん)とも道真公にとっては御子息(ごしそく)に当たる訳で、天神様の名を傷つける事は無いかと思います。
敦茂公だったにせよ景行公だったにせよ、私達神奈川県民や関東人にとって坂東八平氏の祖である平良文公と共に神奈川県と関東地方の発展の基礎を築いて下さった大恩人である事は変わりません。
菅原道真公と御子息と平良文公に対し、永谷天満宮の存在がある事で感謝出来る事が大切なんだと思います。

和魂漢才
坂東武者の気概を大切に。
地元の文化と歴史を大切に。
あ!
この永谷天満宮は鎌倉の明月院や長谷寺程の大規模ではないものの、紫陽花の名所でもあります。
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永谷天満宮の紫陽花を紹介した記事は「ココ」←クリック!
ちなみに永谷天満宮では今でも日本古来のお祭りを守っています。
これ「夏越(なごし)の大祓(おおはら)え」と呼ばれる祭りです。
茅で編んだ輪っかをくぐり抜け、半年間の厄落としをする古来から伝わるお祭りです。
ドンチャン騒ぎではなくて、昔からの儀式ですね。
でも蘇民祭と呼びフンドシ1枚で所謂(いわゆる)祭り的な催しをする地域もありますね。
皆さんの地元の神社も神主さんと氏子が守ってる神社は今でも茅の輪くぐる儀式をやってると思いますよ〜。

やってない神社は地域が移住者しかいなくて日本文化が廃れちゃったんですね。
皆さん、地元の偉人と歴史と文化を大切にしましょう。

永谷天満宮ホームページ
ココ」←クリック!

皆さん、この風景を御存知(ごぞんじ)ですか?
"釈迦堂(しゃかどう)の切通(きりどお)し"と呼ばれる鎌倉時代に造られた隧道(トンネル)状の切通しです。
鎌倉は市街地の扇状地を除いて他の全域が入り組んだ山の尾根に囲まれています。
軍事的には防御力の高い地形であるが故(ゆえ)に武士政権の首府が置かれたのですが、郊外への交通が不便と言う欠点も有りました。

この釈迦堂の切通しの周辺には…
源頼朝の舅(しゅうと)で北条政子の実父の北条時政の屋敷の"名越邸"
鎌倉幕府の名文官で、東京スカイツリーのある青砥の領主だった青砥藤綱の屋敷
後の室町幕府将軍に成る足利家と関東管領(かんとうかんれい)上杉家の菩提寺に成った報国寺と犬懸上杉家の邸宅
後醍醐天皇の皇子で倒幕の立役者の護良親王が幽閉された東光寺
…等々、鎌倉時代当時から超重要施設が沢山在りました。
ですので市街地へのアクセス向上の必要性があり建設された切通しでした。

ちなみに報国寺は小生お気に入りの御寺で、よく息抜きに行きます。
綺麗な竹林の風景の中にたたずむで東屋(あずまや)で、落雁(らくがん)と言う和菓子と抹茶を頂けるんです。
ゆっくり時間を過ごせます。
数年前にミシェランガイドで3⭐️認定されてしまい観光客が増加し少し嫌なんですが、皆さんに偉人の事跡と日本文化の安らぎを共有して頂ける場所だと思います。
これ↓が報国寺の風景


本題の釈迦堂の切通しに話を戻します。
もう1枚別アングルで…
この↑写真だと解りやすいかと思いますが、隧道の上部には矢倉を組んで防御施設としても運用していた名残の掘り込まれた塹壕みたいな窪みが有ります。
洞門の左右の壁にも柱を渡す穴の跡があり、ここは戦時には戦国時代の城で言う"櫓門"のような弓兵を配置する施設としても使われた事が推測出来ます。

さて、この釈迦堂の切通しですが、2012年から通行止めは愚か、なんと鎌倉市教育委員会により封鎖されてしまったんです。
口実は落石からの通行者の保護。
その実情は教育委員会が史跡風化防止策を講じれず隠しただけなんです。
この洞門が立派に現存しているのは、教育委員会が禁止した人の往来が有ったからこそ、植物に侵食されずに残っていたのですが…
実は横浜市の称名寺にも小規模ですが同時代に造られた洞門があります。
落石を理由に通行止めにしたところ、数年後には植物の根による侵食で崩落が加速してしまいました。
これ↓ね。

もはや原型無し無残…

史跡の保護と言うのは、人に活用され続ける事が大切なんです。

本当に落石対策ならば文化史跡保護の観点からも人の往来を規制せず、樹脂製やセメントの硬化剤を噴霧し地盤ごと固めてしまえば良いんです。
欧州では、そうやって山ぶち抜いたトンネルを作りますからね。
崩落して原型とどめ無くなるよりマシ。

ちなみに硝子樹脂の浸透による耐久性耐火性UPした木材で造られた施設が横浜には有ります。
すなわち大桟橋こと国際客船ターミナルですね。
小さい空港程の規模ながら全木製の施設で、木材の欠陥である耐火性耐久性の向上を実現した施設です。

釈迦堂切通しも樹脂製の硬化剤を使うか封鎖を解き通行を再開させるべきだと思う。

皆さんにも見せてあげたい釈迦堂の切通し…

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