歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:宅間上杉家


ゴールデンウイークの歴史仲間との歴史散歩の記事

この⤴前回の続き・・・
2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の3回目の記事。

01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココ⤵——
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
07走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日はこの中の長昌寺の部分を書こうと思う。
京都の歴史仲間の車懸が来濱して小生の家に滞在2日目、前々回書いた富岡八幡宮を参拝後~前回書いた第四代、六代総理大臣の松方正義邸跡の石碑を見てから~中華民国建国者の孫文先生の日本亡命時の上陸地だった石碑の立つ慶珊寺を参詣し、慶珊寺に眠る戦国時代の旧北条家臣で江戸初期の徳川家旗本と成った豊島家の墓所を参拝した。

そこから徒歩5分程の距離に所在する、昔の人々から❝芋観音❞の通称で愛された長昌寺へと移動した。
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富岡山 長昌寺
通称芋観音の別称で地元民に愛された寺を合祀した
戦国時代の北条家臣柳下家と近代の文豪、直木三十五の菩提寺

この御寺は現代でこそ地元民しか知る人も少ないが、実は文化人にとっては非常に重要な御寺で直木賞の由来と成った直木三十五先生の墓所が在り、更に戦国時代に慶珊寺の豊島家と同じく小田原城主の北条家臣の中でも元々は北条本家の直臣だったと思われる柳下家の菩提寺でもあった。



現在の御寺のホームページは東大の前身に成った江戸時代の江戸時代の昌平坂学問所の頭取だった間宮士信サンが編纂した❝新編武蔵風土記稿❞の記載を元にしている様で、江戸時代の彼の存命した江戸時代の一時期は長昌寺は無住職だった。
無住職だったので詳しい御寺の歴史は江戸時代には既に里正(りせい:庄屋)の太左衛門(たざえもん)サンの家の口伝に頼っていた様(よう)で江戸時代に文字お越しする際には既に御寺の開いた時期の元号や時代背景は混乱していた事が現代の歴史オタクが無料で国立国会図書館のデータや横浜市立図書館の蔵書から容易に読み解ける。
つまり、小生の見立てでは長昌寺のホームページに記載の歴史は半世紀ほど間違っていて実際には戦国時代初期に開かれていたのは間違いないと先に結論を申しておきましょう。
では細かい話をる前に現代の御庭の景色の写真を挟み込み、一端区切りを作ってから歴史の話しに突入していきましょう。
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門を潜ると石畳の先の正面に御本堂があります。
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右手には庫裏(くり)。
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御本堂の前の御庭は広くはないけれど御手入れが行き届いています。
ここから歴史の話しに突入して行く・・・
この地域は慶珊寺の歴史からも江戸時代初期の領主は既に柳下家ではなく豊島家に移っている事が分かる。
長昌寺は無住職だった時期が有るので2つの時代の北条家臣の話しが混在して伝わっていて混乱を生んでいる訳です。
次に先に御寺の寺伝が嘘ではない事も解説したいと思います。
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長昌寺は元は長昌庵と言う仏堂で庵程度の規模だった事が分かります、後に御堂が建設される規模の寺院化されている様です。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡 金沢領 富岡村の項目に長昌寺が紹介されています。

除地、村の東にあり、土人東の寺と呼、禅宗臨済派、鎌倉建長寺末、富岡山と號す、
開山仙渓、慶長十六年八月四日寂す、開基は村民太左衛門が先祖柳下豊後守なり文禄二年閏九月十七日死す
本堂五間に六間東向、本尊阿彌陀の立像、臺坐共二尺三寸餘、
此本尊は前に云文禄二年、盗賊亂妨せし時奪去りしが、祟ありしを以て再當庵へ返し安置すと云、
今は住僧なくして詳なることを知す、猶舊家太左衛門が條幷せ見るべし。
天神社。社破壊して未再建せず。

この新編武蔵風土記稿の記載を読むと、どうやら前回紹介した慶珊寺が西の寺と呼ばれていて、こちらの長昌寺は❝東の寺❞と呼ばれていました。
次にポイントを整理します。

開基は村民太左衛門が先祖柳下豊後守なり
御寺を開いたのは江戸時代には村民、つまり只の旧家程度の現地人に成っていた太左衛門(たざえもん)サンの御先祖で柳下豊後守(やぎした ぶんごのかみ)だった。戦国時代中頃には笠原家が領有し、どうやら江戸時代初期には慶珊寺を開いた豊島家が支配者に成っている事が分かりますから、北条家臣時代に既に領地替えが有った様です。
②③柳下豊後守なり、文禄二年閏九月十七日死す
柳下豊後は諱(いみな)、つまり実名は伝わっていない様です。しかし実は柳下家は現在の緑区鴨居に本柳寺を開いており現在も檀家に柳下姓の御子孫が多く存在しています。
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鴨居山 本柳寺
この本柳寺の一帯は港北区の小机城と緑区の榎下城、2つの戦国時代の重要な御城を繋ぐ河岸段丘に有り、街道を抑える防衛上の重要な位置に所在しています。

この小机城は1541年に亡くなった北条氏綱公の治世に北条領に組み込まれた城で、その前の時代には豊島家の勢力圏で太田道灌公によって攻め落とされていた交通と鶴見川の水運による流通経済上の重要拠点でした。
榎下城は日本で神奈川県が最初に戦国時代に突入した原因の永享の乱で室町幕府の将軍足利義教と対立した鎌倉府の鎌倉公方(東日本統治の将軍)の足利持氏公が対立した際に、足利持氏公の側近の宅間上杉憲直公が籠城して幕府軍を迎撃した重要拠点でした。
 今川赤鳥紋  竹に雀紋
今川赤鳥紋竹に雀紋
   今川家   山内上杉家
       VS
 鎌倉府足利家  宅間上杉家
二つ両引き宅間竹雀
 二つ両引き  宅間竹雀

鎌倉府足利家 宅間上杉家
宅間上杉家に関しては以前に紹介した永谷天満宮の記事を御覧下さい。


戦国時代も北条氏綱公~氏康公の時代に成ると既に緑区一帯は北条家の治世で平安な時代を迎えており、鎌倉の西方寺もこの地域に移転してきたりと繁栄し始めています。


初期の小田原北条家の主要五軍団である白・黒・黄・青・赤の五色の軍旗で色分けされた軍団の内、白備え隊の拠点に小机城も定まっていました。


どうやら柳下家の豊後守が亡くなった際に内陸の既に平穏な地域に配置換えが有った様です。
恐らく彼の死亡は戦死で一族内の惣領の世代交替があり、小机城落城の後で北条家臣化した豊島家が富岡に配属されたのでしょう。
北条所領役帳には、小机城代で大曾根城主だった笠原家の一族と思られる笠原平左衛門の所領に、柳下家のルーツの地名が登場します。

笠原平左衛門(小机衆の治安維持担当官僚)
九拾貫文 小机 師岡
十八貫文 西郡 柳下
以上百八貫文 知行役如高辻
弐拾貫文 御蔵出 此内六貫文引銭 以上

上の文中に登場する西郡の❝柳下❞が現在の小田原市の鴨宮~西酒匂~酒匂~小八幡の当時の地名だったと考えられており、尚且つ鴨居は初期の北条幻庵公の子で小机城主だった三郎殿=北条時長公の所領だった事も明記されています。

小机衆
  三郎殿(北条時長公/小机城主)
~省略~
廿八貫四百卅八文 鴨居

この所領役帳は永正十七年(1520年)~永禄二年(1559年)の間に編纂された物ですから、ちょうど柳下家が戦乱に巻き込まれ、尚且つ鴨居に移転したと思われる時期に重なります。
北条時長公は永禄三年(1560年)に亡くなっている事から、後で解説しますが柳下家は鴨居に享禄二年(1529年)~永禄三年(1560年)の間に領地替えされている事が推測できます。
笠原家は最初期に小机城主を務めたと思われる北条幻庵公と子の北条三郎時長公の付家老だったのですが、所領役帳では小田原市に当時存在した柳下の地名が笠原家の領地に成っているので、役帳の編纂時の検地が行われた時には既に笠原家との領地替えが有り転属している可能性が見て取れます。
そして柳下家は領地替えの際に太左衛門サンの一族だけが富岡に土着して平和な鴨居に転勤したのではないかなと思います。太座衛門サンの御一族は恐らく菩提寺を守る為に残ったのでしょうかねぇ。
柳下豊後が活躍した時代は伊勢から北条に改姓したばかりの小田原城主北条家二代目当主の北条氏綱公の時代に当たります。
まだ有名な氏康サン⤵の時代ではないですね~。
北条氏康公
恐らく北条氏綱公が亡くなって遺領が分配された時点で北条幻庵公の直臣に再編されたのではないかな?と思います。
所で、この領地替えの要因は恐らく柳下豊後の討死による当主交代で柳下家の戦力回復の為だったのではないかな?と思うのですが、では本当に風土記の記載の❝文禄❞の時代に東京湾に面した富岡で、現代の感覚で言う内戦が発生し得たのでしょうか?
小生の答えは「NO('ω')ノ!」です(笑)。bd222ce8
文禄二年(1593年)は既に豊臣家により天下統一されており、柳下家の主家である小田原城主の北条家の本家は改易されています。
太閤桐三つ鱗紋

   豊臣家     北条家
つまり北条家臣として戦闘に巻き込まれる訳が無い時代です。
この時点で記載が誤りで有る事が解ります。


先に述べた通り既に北条家は改易され、この頃は豊臣家で1万石の大名として大阪府狭山市で小大名に成っていたので柳下家は既に北条家臣では無かった訳です。



更に皆さんも義務教育で習った歴史で御存知の通り、豊臣秀吉は❝惣無事令(内戦禁止命令)❞を出しています。
この豊臣家による北条家改易の頃の事は都筑区の茅ヶ崎城址近くの御寺、正覚寺の紹介記事で秀吉の文書を紹介しています。



しかも、この時期は文禄の役で朝鮮半島に日本国連合軍として各大名家が攻め込んでいる段階なので柳下家が富岡で戦闘行為に巻き込まれる訳が有りませんし、柳下家ではなく徳川家臣化した旧北条家臣の豊島家が既に領主に成っている時期です。
つまり時代の間違いが発生している事が分かります。
これに関しては似通(にかよ)った元号、閏月の有る年に富岡周辺が係争地に成っているかを検証すれば柳下豊後の死亡時期が特定出来る可能性が有ります。
そこで新編武蔵風土記稿の記載文禄二年、盗賊亂妨せし時の部分が鍵に成って来ます・・・
文禄二年、盗賊亂妨せし時
根拠は鶴岡八幡宮合戦大永六年(1526年)の戦闘後も、横浜市中区~磯子区~港南区辺りでは里見家の乱入は横浜市磯子区~港南区に跨る笹下城建設による東京湾~鎌倉市街への間道が防衛強化された時点まで続いたと伝わるので間違いないでしょう。



文禄二年閏九月十七日死すだと、文禄二年(1593年)閏九月十七日。
この日付が既に誤伝な事は豊臣家と北条家の歴史から御理解頂けたかと思います。
では、元号から歴史事実を突き止めて行きましょう。


文禄二年閏九月十七日死す
文禄二年閏九月十七日
これは恐らく享禄年間と文禄年間の話しが混ざって誤伝しています。
文禄は恐らく豊島家が徳川家臣化して慶珊寺と長昌庵の大檀那(だんな:檀家総代)に成った時期が文禄で、似た元号の享禄年間の話しが柳下家の伝承でしょう。

所で長昌寺の寺伝では柳下豊後守サンが亡くなったの槍による刺傷が原因と伝わります。
文禄三年時点での千葉県南部の大名の里見家の当主は里見忠義で、既に現在の神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部~群馬県の領主は徳川家です。
惣無事令を発効させた豊臣政権下で里見家が徳川家を襲撃する訳が有りませんね?
では文禄年間以外に閏月が有るか見て見ましょう・・・

文禄二年(1593年)閏九月十七日
享禄一年(1529年)閏九月十七日
ビンゴっ('ω')ノ!

享禄一年(1529年)閏九月十七日だとすれば、死因の槍傷は里見家の海賊との戦闘で受けた様ですね?
恐らく昔あるあるで閏月十七日だけ伝わってたので、江戸初期の大檀那が豊島家だった歴史の❝先入観❞から文禄と決め付けたんでしょうね。

実は享禄年間前後には富岡のみならず磯子区杉田~三浦半島走水が度々里見家の海賊に襲撃されています。
最たるものが鶴岡八幡宮合戦ですね。
房総半島の里見家や里見家の従属大名の正木家が享禄年間前後に東京湾沿岸南部~三浦半島に度々乱入し神社仏閣や商家や民家を襲撃して略奪放火を繰り返していた時期に当たり、その中でも最大規模の合戦に成ったのが鶴岡八幡宮合戦で、杉田~三浦半島に上陸した里見家が鎌倉市街まで攻め上がり鶴岡八幡宮と市街地を略奪放火して灰燼に帰してしまい、更に里見家が北条家の鎌倉の交通網の防衛拠点である玉縄城迄攻め込む事態が発生しています。
この話は源頼朝公が開いた磯子区中原の泉蔵院熊野神社や、鎌倉時代の名越北条家が支援した杉田商店街の中に有る東漸寺、戦国時代の北条家臣杉田間宮家の菩提寺の妙法寺の歴史で触れています。

では文禄二年、盗賊亂妨せし時、これが小生の推測通りに里見家の海賊の仕業なのでしょうか?
これもちゃんと元号は間違えたままですが新編武蔵風土記稿に記載が有ります。
但し、長昌庵(長昌寺)の部分ではありませんよ。

舊家(旧家)者百姓太座衛門
柳下氏なり、祖先を柳下豊後守と云(言う)、文禄(➡訂正:享禄)二年安房上総の盗賊此邊(この辺り)を亂暴(乱暴)せし時、村内長昌庵は豊後守が開基(かいき:寺院を開く事)の庵室(仏教系の草庵)なれば、其本尊を取とゝめ(とどめ)しとて今に家蔵(かぞう:家で保管)す、大身の槍なり、其由来(そのゆらい)を記(しる)せし一巻を添置(そえおけ)り、豊後守は其時(そのとき)の手疵(手傷:てきず)にて同き(同期:同時期)閏九月十七日死すと云う、夫(それ)より代々(だいだい)連綿(れんめん)として今の太座衛門に至る。

この通り、柳下豊後が槍傷を受けたのは安房・上総の海賊による攻撃だったと明記されていますね。
であれば文禄は無い。これは小弓公方(おゆみくぼう:足利家の分家)を支持する里見家と正木家等による鎌倉攻略を目論む戦闘行為以外に有り得ない訳です。
小弓公方と言うのは以前も北鎌倉の浄智寺、金沢区の禅林寺と常福寺廃寺跡の記事で紹介した鎌倉公方の足利持氏公や足利成氏公の御子孫で鎌倉公方家の分家に当たる家柄ですね。


この柳下家関連の元号の誤認の定着は新編武蔵風土記稿の編集の最高責任者の間宮士信サンの下で校閲担当した連中も悪いし、昭和に成って何の疑問も持たず検証もしいまま世間に流通させた出版社やコピペするだけの文献考古ニキ達も悪いし、江戸時代当時の屋号が太左衛門の柳下家の御子孫も悪い。
江戸時代から200年も皆してやらかしっぱなしを放置してた訳です。
・・・ってな訳で、長昌寺の開基年代は戦国時代初期迄半世紀チョイほど前倒しされて更に寺院としての古さが増す訳です。

でも、車懸と参拝した日は、柳下豊後の話しだけして掘り下げた歴史の話しまではせず、それよりも近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺である話や吉川英治先生も横浜市出身だった話しばっかりしていた気がする(笑)。
では御寺の景色紹介に戻りましょう。
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ここは金沢七福神の1つ布袋様の御寺でもあるんです。
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御庭には立派な瓦が飾って有ったり石仏様がいらっしゃいます。
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御本堂に向かって左手奥に進みましょう。
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更に進むと右手に元々は柳下豊後守の時代から鳥見塚、恐らく現在の富岡総合公園の池の畔に有ったはずの地元の方々に❝芋観音❞と親しまれていた観音様の御堂が在ります。
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この文章の中に登場する鳥見塚辺りは現代では富岡総合公園に成っていますが、戦時中は横浜海軍航空隊の基地に成っていました。
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芋観音様の話しなので、ソチラは改めて別の機会に紹介します。
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合唱一例、北条家の三鱗紋。
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御堂の中は見えますが、観音様の御厨子は普段は御開帳されていない様です。
この芋観音様に向かって左手に直木賞の由来の近代の文豪、直木三十五先生の墓所が存在しています。
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普通の人には柳下豊後の話しより、コッチの方が凄いかな?
まぁ、車懸も横浜の住宅街の中の余り大きくない御寺にコンナ偉人との関係が有るとは思っていなかった様だ。
当然だよね(笑)、でも実は平成世代には漫画の横山光輝三国志の原作小説の作家として認識されていて、昭和世代には歴史小説の大家(たいか)として有名な吉川英治先生も横浜市中区の出身だったりする。

有島武郎も横浜市出身、横浜市歌の作詞も森鴎外だったりするし大佛次郎も関係したりするので、実は何気にに横浜市は文豪と所縁深い。
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直木三十五先生の墓所を参拝し戦国時代の北条家臣の柳下家の歴史を車懸と散策してから次の目的地の三浦半島観音崎手前の走水、味見食堂~浦賀の千代ケ崎砲台に向けて出発した。

続く・・・

















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鎌倉市浄明寺地区の紅葉②
報国寺~華頂宮邸~釈迦堂切通

功臣山報国寺
足利家時公、宅間上杉家、鎌倉公方の菩提寺
 ※ミシェランガイド☆☆☆の竹林の寺
旧皇族 華頂宮邸
【景観】
 報国寺   ★★
 ミシェランに掲載されてる竹林寺。
 華頂宮邸  ★★
 
紅葉少も立派な洋館と英国式庭園。
 釈迦堂切通し
 紅葉無いが壮大な史跡。
【電車】

 浄妙寺・報国寺・華頂宮邸★★
 鎌倉駅~徒歩27分
 鎌倉駅~バス乗車8分~浄明寺降車
 ~徒歩2分       ・・・所要時間10分
 金沢八景駅~バス乗車22分~
 ~浄明寺降車~徒歩2分
               ・・・所要時間24分
 浄妙寺⇔報国寺         ・・・徒歩05分
 報国寺⇔華頂宮邸  ・・・徒歩03分
 華頂宮邸⇔釈迦堂切通・・・徒歩35分
 釈迦堂切通し      
 ※2020年現在の釈迦堂切通し
 釈迦堂切通の北側落石で歩行不能。
 南側は近くに行ける。
【  車  】
 報国寺   ★★
 駐車場10台以下で秋は駐車困難。
 直ぐ近所に浄妙寺駐車場有り。
 徒歩10分圏内に有料駐車場複数。
 華頂宮邸  
 無し。
 釈迦堂切通し
 無し。
【休憩】
 報国寺   ★★★
 竹林庭園の茶庵で抹茶飲める。
 周辺に喫茶店数軒有り。
 華頂宮邸  
 公衆トイレ無し
 釈迦堂切通し

 公衆トイレ無し
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 報国寺
 ミシェランガイド★★★認定だよ◎
 竹林が素晴らしいく抹茶も飲める◎
 足利尊氏公の御爺ちゃん足利家時公
 が開いた由緒正しい御寺だよ~◎
 早朝座禅会やってるよ~◎
 華頂宮邸
 旧皇族が住んでた洋館と御庭◎
 モンテクリスト伯華麗な復讐ロケ地
 釈迦堂切通し
 もの凄い迫力の鎌倉時代の史跡◎
―――――――――――――――――
 上記3ヵ所の近所に浄妙寺が有る。

 浄妙寺と合わせて一緒に全部廻るの
 オススメ♪
注意するpoint(•ω•)       
 秋は報国寺竹林茶庵での喫茶は、
 待ち時間が長いが待つ価値有り。

 報国寺は食品持ち込み禁止。
 報国寺駐車場は秋は駐車混むので
 近所の浄妙寺駐車場が御勧め。

――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
——報国寺の紅葉と竹林——
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——華頂宮邸の紅葉と英国式庭園——
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——釈迦堂切通し——
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【見所】
報国寺
報国寺はミシェランガイドで最高の★★★を獲得している。竹林の庭園はいつの季節も美しく、抹茶と落雁を食べながらユックリと秋の竹林の凛とした空気と緑の素敵な空間を楽しめる。竹林の奥の庭園も可愛らしい石仏と苔や、池と鎌倉時代~室町時代の矢倉の史跡を見る事が出来る。
御寺の山門~御本堂正面の参道の紅葉と庭の景色も美しい。
紅葉の名所としての評価は
★★★だが寺院の景観を総合評価するなら★★★★

華頂宮邸
旧皇族華頂宮(かちょうのみや)邸は戦前まで華頂宮家が住んでいた近代西洋建築の御屋敷で最近では❝モンテクリスト伯 華麗なる復讐❞で主人公の居館としてロケハンされていたりする。正門から入ると左手に立派な紅葉の樹が有り、その奥のイングリッシュガーデンでは庭のベンチに座って食事する事が許されているので、マナーを守れる人なら手作り御弁当持参してデートに来たらユックリ時間を過ごせる。

釈迦堂切通し
凄まじく壮大な鎌倉文化を代表する隧道型の切通しで、切通しの上には貴重な日月矢倉や北条時政邸跡に通じる衣張山(きぬはりやま)ハイキングコースが有る。多くの映画のロケ地に成っていて、二宮和也と松浦亜弥が主演した❝青の炎❞等も同地がロケハンされている。
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸は交通の便が良く合わせて見学するのがオススメ。
電車で来ている場合は帰路、鶴岡八幡宮までユックリ歩いても20分位なので良い散歩に成る。
ガッツが有るなら明王院口~天園ハイキングコースを登り~天園休憩所~建長寺半蔵坊~北鎌倉駅まで2時間位歩いても山の中を気持ち良い散策が出来る。
【交通】
浄妙寺⇔報国寺⇔華頂の宮邸
上記の三ヵ所はいずれも近在する。浄明寺バス停から全て近い。
鎌倉駅からバスで行っても良いし、鎌倉の街並みを散歩しながらユックリ歩いて来てもとても良いレクリエーションに成る距離感。
車なら浄妙寺の駐車場が駐車可能台数も多く通りに面していて便利。

釈迦堂切通
鎌倉市が落石や倒木の処理を怠り2012年くらいには名目上は通行止めのまま住民の生活道路なので地元民は自転車や原付で普通に往来していた。市役所担当部署が「整備がなかなか出来ない」と言い訳し続けて年月が経ってしまい、2019年の台風で更に浄明寺地区側の北側散策路が崩落して状況が悪化。
地元の方や見学したいハイカーは衣張山ハイキングコースから迂回したり大町地区に回り自己責任で南側フェンスの横から見物しに行くしかない。
釈迦堂切通しを見る経路(2020年時点) 久良岐のよし
華頂宮邸側から行く場合の順路⤴
 
華頂宮邸~真っ直ぐ南に歩いて巡礼古道を経由して釈迦堂切通南側に行く途中、天気が良ければ❝関東の富士見百景❞の良い景色を見る事も出来るし、そこから公園の階段を下り大町地区の住宅街を通り黄金矢倉を通過し釈迦堂切通の南側のフェンスの前に出るのが2020年時点での近づけるルート。
衣張山ハイキングコースからの眺望も鎌倉市街と相模湾を見渡せて気持ちが良い。
 
衣張山から獣道を通って降りる裏道も有るが、山一帯が北条時政によって城郭化されたり、後世の石切で崖地に成っており獣道を見失うと滑落して大怪我の元なので非推奨。
釈迦堂切通しの散策路の再整備要望される方は鎌倉市役所迄陳情をお願いします。
【偉人】
報国寺
足利家時公(足利尊氏公祖父)、歴代室町幕府鎌倉公方、宅間上杉重兼公(足利尊氏公母方叔母の夫)、宅間上杉家歴代当主、犬懸上杉禅秀公。
華頂宮邸
旧皇族華頂宮家、伏見宮博恭王
釈迦堂切通し
鎌倉幕府三代将軍源実朝公、北条時政、北条義時公、名越北条朝時公
【歴史】
報国寺や華頂宮邸の有る谷は宅間谷(たくまがやつ)と呼ばれた場所で、室町時代の足利家重臣、宅間上杉家の居館跡だった。その居館の敷地に開かれたのが報国寺で、足利尊氏公の祖父である足方家時公と叔母の夫の宅間上杉重兼公によって開かれた由緒正しい寺院。
宅間谷背後の山は衣張山と呼ばれ、釈迦堂切通しを抜けると北条時政邸だった名越邸や北条義時公が父の北条時政の菩提寺として開いた釈迦堂跡の遺跡群が群在する。名越邸のある衣張山は山裾が切り落された裾切りされ全山が城郭化されているが、明確に後世に石切場と判断できる場所も多く鎌倉石の石切場の史跡としての価値も有る。
華頂宮家から分家した伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王は対馬海戦時に戦艦三笠に乗って活躍した海軍将校としても有名だったりする。
【名物】
報国寺の日曜坐禅会(食事は御粥と沢庵2枚で完全な修行体験)。
報国寺の除夜の鐘。
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——紅葉名所一覧へ⤵——
 


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横浜市旭区には横浜市内の住宅街の中に在りながら、とても立派な規模を維持している鶴峯山 即相院 三佛寺と言う御寺が存在します。丁度、保土ヶ谷バイパスの本村インターチェンジの在る所ですね。

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鶴峯山 即相院 三佛寺
山門にもとっても立派な大樹有り参拝者を出迎えてくれます。
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浄土宗の寺院ながら、三つ葉葵の徳川家家紋を寺紋に用いない御寺でして、それは徳川家よりも室町時代に家格の高かった❝名家❞の殿様によって開かれた御寺からなのかも知れません。
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浄土宗は一般的に阿弥陀如来信仰を大切にする宗派ですが、ここは観音様の霊場としても❝殿様❞が関与する前から有名でした。
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住宅街の御寺とは思えない、とても立派な石段の参道が御堂の在る削平地まで続きます。
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そして御寺の入口に聳(そび)える大樹は横浜市の名木指定を受けた銀杏の木なんですね。
階段を登りきると内門が存在した場所に代りの石柱が有ります。
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その横には御地蔵様達が参拝者を出迎える様に並んでいらっしゃいます。
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もう、この時点で御寺が好きな人はお気付きかと思いますが、観音信仰音霊場であり入口に御地蔵様達が並ぶ寺院の特徴は、多くの場合は改宗前の前身寺院が❝真言宗❞だった場所が多く有ります。
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実は三佛寺の由緒に関しては小生、この御寺を開いた❝殿様❞の事以外には予備知識無いままの初訪問でしたが、これ直ぐに解ったんで後で御寺の庫裡で御住職の奥様と雑談した際に質問した所、やはり前身は真言宗だった御寺の歴史が有るとの事でした。
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門をくぐると御寺の佇(たたず)まいはとても落ち着いていて、禅宗寺院の庭園ではないものの何だか心が静かに成る様な空気感でした。
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浄土宗なので法然上人の御幼少の頃の座像が有ったりしますね。
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その横には御寺の昔の立派な化粧瓦が展示されていますが・・・
これを見れば歴史好きは「お?何だこの家紋!」と思いながらも家格が高い殿様の家紋で有る事が一目瞭然、その正体も何となく解ります。
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解りますか?
竹に雀紋
上杉謙信が養子縁組して乗っ取った山内上杉家の家紋に似ていますよね?
上杉家の家紋、竹に雀の変形です。実は事実確認をしない、実際に御子孫に取材もしない、誰かが書いた物を適当にテンプレートするだけの無責任なタイプの歴史ガクシャ先生は知り様も無い事実なのですが、この家紋は❝宅間上杉家❞と言う足利尊氏公の母方従兄弟の家系の殿様の家に代々伝わった家紋です。❝歴史ガクシャ先生❞達は調べもせずに宅間上杉家の家紋を山内上杉家と同じ普通の竹に雀の家紋を用いて紹介する人も多くいますが、それは❝事実無根❞の❝適当な仕事の結果❞の❝デマ❞ですので信じないで下さいね。
まぁ、取材しててもカルトに騙されてカルトの教本を歴史資料に採用して本書いちゃう様なNHK歴史解説員を吹聴する某ガクシャさんもいたり(笑)、結局は古文書も偽書があるので昔の人や悪い人との知恵比べもする歴史以外の❝知能❞が無い人の本にも気を付けないといけないんですが。
さて、実は宅間上杉家と言うのは室町時代の足利政権に於(お)いては、関東を統治する政治機関の室町幕府❝鎌倉府❞の将軍である歴代鎌倉公方の家に仕えた武家で、先述の通り足利尊氏公の従兄弟の家系でした。
宅間上杉家の鎌倉府勤務時代の居所は本拠地の他に鎌倉市浄妙寺地区の宅間谷(たくまがやつ)でした。
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功臣山 報国寺
なので宅間谷には宅間上杉重兼公と、足利尊氏公の祖父の足利家時公が一緒に開いた御寺が今も存在しています。
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現在ではミシェランガイドで3星を獲得した御寺の竹林と抹茶を頂ける御寺としての方が歴史に興味の無い人に有名でしょうか?
報国寺に関しては紹介記事を以前に書いていますので、興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事にリンクします。⤵
報国寺…ミシェランガイド三ツ星の安らぎの竹林寺。…鎌倉市。
宅間上杉家の初代は報国寺を開いた宅間上杉重兼公で、その後は足利尊氏公の御子息で鎌倉公方と成った足利基氏公の御子孫に歴代お仕えした家柄でした。とても鎌倉公方に対する忠義の厚い家で、それは安土桃山時代まで続くのですが、室町時代の最期の鎌倉公方と成った足利持氏公の時代に籤引(くじびき)で室町幕府征夷大将軍となった残虐将軍として有名な足利義教の恣意的な自己顕示の為に鎌倉公方家は政治混乱を誘発され、室町幕府vs鎌倉公方家の長い長い凄惨な戦いへと発展して行きました。
その発端と成ったのが❝永享の乱❞です。
永享の乱の際の宅間上杉家の当主だった上杉憲直公は足利持氏公に忠義を尽くして敵対する勢力と戦います。その際に籠城したのが横浜市緑区三保町に在った榎下城でした。
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実はこの榎下城の主要部分は原型が有る程度解かる状態のまま寺院化して現在も❝舊城寺(きゅうじょうじ)❞として存在しています。近世城郭で言うならば本丸と二ノ丸に相当する部分が存在し、御寺の山門の前には外郭と二ノ丸を分断する様に囲む空堀も5年前の訪問時にはまだ存在していました。
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神奈川県教育委員会は❝建築利権への配慮❞の為かは判りかねますが御城の範囲を主要部分しか紹介していません。しかし小生達城郭ファンから見ると明らかに周辺の公園や住宅街も城郭の外郭として機能し有事の際には数千~万単位での籠城が可能だった城だろうと推測出来ます。
榎下城址の舊城寺に関しても以前に紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事にリンク⤵
旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
さて、この永享の乱のゴタゴタで足利持氏公は敗北し、宅間上杉憲直公は横浜市金沢区に存在する❝東の正倉院❞の異名を持つ文化財の宝庫として有名な金沢文庫を昔は管理していたとても桜と庭の綺麗な御寺の❝金澤山 彌勒院 稱名寺❞、今の金沢文庫称名寺に蟄居(ちっきょ:謹慎)して室町幕府に恭順の意を示します。
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金澤山 彌勒院 稱名寺(称名寺)
結局幕府の残虐将軍足利義教は最初から鎌倉公方一派を減衰させるのが目的だったので許されず宅間上杉憲直公と御子息の憲家公は称名寺で切腹しました。しかし後に足利義教が死亡すると足利持氏公の御子息の足利成氏(しげうじ)公が密かに育てられていた信州から復帰し鎌倉公方に就任し、宅間上杉家は再登用され規模は縮小したままでも存続して行く事に成りました。
称名寺に関しても以前に紹介記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
これクリック!
称名寺と金沢文庫 …日本最初の図書館。京浜急行金沢文庫駅近く
永享の乱の在った時代には宅間上杉家は鎌倉~武蔵国南部にかけて勢力を誇った領地を失い大幅に勢力は減退しました。
その頃には現在の横浜市港南区の永谷一帯を本拠地にして、今の永野緑地~芹が谷~永野小学校辺りの丘に永谷城を築いて在城していた様です。永谷城址には宅間上杉家の祖先の官職名である伊予を冠した❝伊予殿根❞の地名が近年まで残っていました。
永谷には城址は横浜市が保護も発掘もせずに消えてしまいましたが、宅間上杉家の足跡を辿れる場所が現在も存在しています。
下永谷の曹洞宗の般若寺は元々宅間上杉家が開いた御寺ですし、神明社の別当寺がその般若寺でした。
そして同じ曹洞宗の貞昌院も宅間上杉家が開いた御寺で、この御寺は永谷天満宮を守る為の別当寺として開かれた御寺でした。
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永谷天満宮
この永谷天満宮は由緒が凄まじく、御祭神の菅原道真公の御子息の菅原敦茂公が一時、御住いだった邸宅跡と伝承が有ります。まぁ、菅原敦茂公が御住いだったかは正直文献が無くて不明なのですが実際の菅原敦茂公の兄君の菅原景行公は藤原氏による菅原氏弾圧から関東に逃げて来ており、大生郷天満宮を開いたりしている事や関東の鎌倉郡には菅原景行公と同じ❝景❞の名を持つ坂東平氏の武将が多く平安時代末期に居た事からも平氏に関与し鎌倉郡に移住した菅原氏の人物が永谷に住した伝承は信憑性が有るんですね。
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永谷天満宮は初夏に紫陽花が鎮守の山に沢山咲く場所として近年知られていますがが、この永谷天満宮の御神体が菅原道真公が自ら手彫りした自分の彫像の3つの内の一つと伝わっています。この由緒に関しては宅間上杉家が所有していたと伝わりますが、宅間上杉家の御先祖の勸修寺家や上杉家は菅原家と同じく宇多天皇や醍醐天皇に仕えた一族でした。
そこ等辺の永谷天満宮と菅原家の歴史に関しても以前に解説記事を書いたので御興味有れば御覧下さい。
これクリック!⤵
永谷天満宮(横浜市)は日本三躰の天神様。
宅間上杉家は戦国時代に旧鎌倉郡域の永谷郷と武蔵国久良岐郡花木つまり現在の横浜市南区花之木辺りを一族が所領にしている事から横浜市南部の大岡川沿い西岸部にわずかに領地を持つ程度の勢力に縮小してしまった様です。戦国時代の混乱迄はもしかしたら磯子城の平子家や太田道灌公が制圧した西区~神奈川区辺りまで勢力を維持していたかも知れませんが、それも古河公方と成った足利成氏公に忠義を尽くした宅間上杉家なので領地を太田道灌公や蒔田吉良家の殿様達に横領されてしまったのかも知れませんね。
なんせ太田道灌公の御主君の家である扇谷上杉家は足利成氏公と対立した勢力ですから。一時は父上の足利持氏公の跡を継いで鎌倉公方に成った足利成氏公も、太田家とその主君の扇谷上杉家や長尾家とその主君の山内上杉家に鎌倉公方の座を落とされ、支持する関東の古豪大名の多い北関東に逃げて古河城主となって古河公方を名乗らざるを得ない事態に陥(おちい)りましたから。
さて、そんな足利成氏公も武将としては優秀で太田家や長尾家の大軍を江ノ島に籠城して撃退した歴史が有ります。その際に足利成氏公に与力して活躍したのが戦国時代に宅間上杉家と親戚に成る間宮林蔵の祖先の間宮(佐々木)家や、関東大名の千葉家や那須家や小山家の鎌倉時代以来の古豪でした。
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今では観光客で賑わう❝神社❞の島として有名な観光地江ノ島も、明治以前は真言宗系の修験道の聖地であり平安時代以前からの天皇家勅願所の聖地である岩屋を管理する❝岩本坊❞後の岩本院と呼ばれた御坊が有り、神道仏教宗派問わず多くの高貴な僧侶神官が修行に来る場所でした。
この江ノ島は海に突き出した島なのに豊富な飲用水を確保出来る場所で、城塞化するとトンでも無く強力な防衛施設に成る場所だったんですね。
そしてその江ノ島を明治時代迄守ったのが岩本坊、現在は明治時代に修験道道場から江ノ島の老舗旅館に業種替えした❝岩本楼❞の岩本家でした。
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岩本楼
この岩本家は本来の苗字は❝間宮❞で氏姓は宇多源氏佐々木氏でした。つまり間宮家で、本家との区別で岩本を名乗っており、戦国時代の北条所領役帳でも岩本家は鵠沼を領地として認められており武士化していた事が解かりますが、間宮家の本家である笹下城主間宮家も又、鶴岡八幡宮再建事業や真言宗の古刹である弘明寺や宝生寺と言う重要な神社仏閣の復興支援で活躍している事が古文書で判ったりします。
実はこの間宮家の子孫であり宅間上杉家と同じく戦国時代に古河公方を支持して❝今管領❞と呼ばれた北条家臣化していた笹下城主間宮信元公の御子息の一人、間宮綱信公の奥方が宅間上杉家の姫君でした。
宅間上杉富朝(とみとも)公の姫で、宅間上杉富朝公は北条vs里見家・太田家連合の国府台合戦で討死してしまいます。
そこ等辺の間宮家との関わりも以前に間宮家の顕彰記事の中で書いているので御興味有る方は御覧下さい。
コレをクリック!
間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
戦国時代末期に成ると宅間上杉家は上杉規富公の代に三崎城主北条氏規(うじのり)公の付家老と成り三崎衆に編入され、現在の三浦半島三崎漁港に存在した三崎城に勤務していた様です。
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三崎漁港に在る北条橋の前の港は❝北条湾❞と呼ばれ、その右手の旧三崎中学校の丘全てが三崎城址です。城好きなら解りますが虎口や一部土塁等が現存しており、三浦市教育委員会様に尋ねると城の推定縄張り図の掲載された書籍等も紹介して下さったりします。
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三崎城址そして北条家が豊臣秀吉に改易されると、宅間上杉規富公は400石の小禄ながら徳川家康公に登用されて二俣川村を領有し、江戸時代も旗本として存続したのですが現在嫡流の御子孫は近年に成って途絶えてしまったそうです。その菩提寺が宅間上杉規富公が旭区本村に開いた三佛寺な訳ですね。
では、現在の三佛寺に話を戻しましょう。
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山門の階段を登り切り振り返ると環状二号線が通る旧二俣川村を見渡す事が出来ます。

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境内左手には馬頭観音様を始めとした色々な石佛様が祀られています。
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境内右手には宅間上杉家の家紋の入った手水鉢。
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正面に御本堂。
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立派な扁額です。
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本堂右手には無量寿と書かれた庫裡の玄関とは別の信徒さん用の入口かな?
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更に右手に庫裡。
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境内には石碑や石仏、看板も幾つか有りました。
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境内を入った左手の真ん中に階段が在ります・・・
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ここを登ると宅間上杉家の歴代殿様の御廟所が在ります。
小生、存じ上げなかったのですが宅間上杉家は太田家と縁戚にあった様で、一番立派な供養塔と対の供養塔には太田家の家紋が入っていました。実は宅間上杉富朝公が国府台合戦で討死していますが、その合戦の発端と成ったのが旧江戸城主の家系に当たる江戸城代の一人の太田康資(やすすけ)公の謀反でした。これに気が付かなかった太田康資公と親交深かった遠山家や富永家は責任を感じた為か無理を承知で国府台城を正面から攻めて宅間上杉富朝公同様に討死しています。
この状況から推察すると、上杉富朝公か御子息の規富公の奥方様は太田康資公の妹君か姫君で、遠山家と富永家同様に婚姻関係から責任を感じて無理に国府台城を攻めて討死したであろう事も推測出来たりします。
小生、特別に御寺が存続の危機に瀕しており重要性を説く時以外には殿様達の眠る御廟の写真を掲載しないので、もし確かめて見たい人はちゃんと歴代宅間上杉家の殿様と御一族に敬意を払って御線香を持参して御参りして下さいね。
小生も少し値段の高い(笑)御線香を上げさえて頂き、5年かけてやっと宅間上杉家歴代の殿様と御家族の御廟で御参りで来た事を伝え、そして毎年の永谷天満宮への御参りで大願成就に導いて下さる御加護御守護下さる事を御礼申し上げて来ました。
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境内には他に立派な井戸。
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立派な庭石。
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色んな人から色んな寄進が有り宅間上杉家の殿様の御遺徳によって今も御寺が反映している様です。
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どうぞこれからも多くの人に三佛寺様が大切にされて存続し、地域の人の心の拠り所に成ります様に御祈り申し上げます。

さて、今回は御住職御不在で御朱印を拝領出来なかったので、次回、改めて参拝した際にこの記事に御朱印の画像を追加掲載したいと思います。

皆さん、旭区の三佛寺に関わった宅間上杉家の殿様が主君に忠義を尽くしたとても誠実な性格の方々だった事や高い家柄だった事御理解頂けたでしょうか?
足利尊氏公の従兄弟から始まった高い家格なのに御寺が庶民との距離が近いのは、きっと宅間上杉家の殿様に、そういう御人柄の優しい人が多かったからかも知れませんね?

きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が関わった神社仏閣や御城の跡の山や古代の人々から継承した文化や聖地の残る自然が有ると思います。
ですから・・・皆さん、ちょっと御近所の山に行って見たり、神様仏様拝みに行って境内の看板を読んで見ませんか?それだけでも昔の人と今の皆さんを繋ぐ大切な場所が沢山残っている事を再認識して、地域の誇りに成り郷土愛が深まるかも知れません。

では!又、と義の解説記事で御会いしましょう♪

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2017年07月15日、この週の火曜日07月11日が新井城落城した日で尊敬する武将の一人である三浦義意公と御父君の三浦道寸公の供養の為に菩提寺である網代山海蔵寺に参拝し、御住職様から海蔵寺専用の納経用の奉書を頂いていたので三崎漁港の海南神社の例大祭に合わせ、土曜日に写経した妙法蓮華経観世音菩薩普門品世尊偈を携えて海蔵寺に納経に再訪した。

海蔵寺さん参拝の後、最初に訪れたのは天然記念物諸磯隆起海岸だった。
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…と、その前に少し小生の神社と御寺に対する思い入れの根源の話し。

小生の祖先は某延喜式内社の宮司家なので御寺や仏教と言うと子供の頃は除夜の鐘程度の認識しかなく、なんと言うか御祭りの様な楽しい場所と言う感じだった。
大人に成って仕事でリーマン破綻直後に3ヶ月間、毎日睡眠が3時間以下と言う労働が続いて過労に成って頭ハゲそうなハチャメチャな状況に成って心身共に参っていた。
同僚が中国語話せないのに突然中国へ転勤に成ったり、小生は中国語話せるのに国内に残りソイツの分も含め複数人から仕事を引き継いだり、ハッキリ言ってキャパを超えていた。
朝の定時出勤時間前から出勤して客先の就業開始直後に御用聞きで訪問できる様に直行。
夕方の18時に帰社、そこから自分のオフィスワークと2人から引き継いだ分のオフィスワークを始める。当然朝までかかる。だから休日も潰れる。20時以降はタイムカードを切らされてサービス残業を強要され、当然休日出勤は申請不可。そんな会社だが実は中堅企業の中の大手の部類の企業だった。
アジア圏や国内遠方に出張する際は、上司に指名されたいい加減な同僚に仕事を任せるのが嫌で嫌で仕方なかったが、馬鹿でも出来る様に完璧にスケジューリングして協力会社にも念入りに事前に打ち合わせで部材の製作をお願いして置き、資料も準備して小生の仕事を代理で行う人間はスケジュールの時間通りに指定の場所を訪問して人に会い物を受け取り、物と資料を渡すだけで何にも考えず何にも余計な事を話さず済む様にしてあった。
だけどね、世の中、いい加減だけど何だか知れないけど上司に信頼される奸臣と言うのが居て、その上司に仕事を御願いする様に指定された同僚は「案の定ちゃんと俺のスケジュールを踏んで行動しない」で当日に訪問しなかったり、結果的に納期に遅れたりやらかしてくれた。
だけど狡猾な奴で上司には小生のミスの様に粉飾し、小生が出張から帰って来ると何だか知れないけど叱られたり。それを残業時間に成って同僚を呼び止め問い詰めると開き直りクソ同僚はこんな捨て台詞を言った…
「そんなに完璧にやれんて!」
…おい、俺は馬鹿でも出来る様に御膳立てしてやった上に協力会社の皆さんも文字通り万全の協力をして下さっていたんだがな?
まぁ、そんな事が何回か有ったりハードな仕事が三ヶ月休み無しで続いて自分で洗濯物洗う暇すら無くてクリーニングにシャツやスーツを丸投げしても、今度はクリーニング屋に服を引き取りに行く暇も無く、前日着たシャツにファブリーズだけして又着て仕事したりしていた。
小生がそんな事に成っていた時期に社員の1人が交通事故を起こして人を轢き殺した。
更に社員が1人自殺、でも家庭の問題とされていた…本当かよ?
子会社でも1人が過労要因と思われる交通事故死。
自分も高速道路で運転中に意識が飛んだり2回経験した。赤信号も認識できずに信号無視をしたり、自分で「やばいのかな~?」と思い、そのクソ会社を辞めた。
因(ちな)みに、その会社は今でも存続していて何だか知らないけど某大手企業のベストパートナーにも選ばれたりしている。御客さんは、そんな状況知らないだろう。まぁ、知ってる会社も有ったけど。
これ、当時、退社後に労働基準監督署にも職安にも相談していたけれど、「管轄外」と言われたり「ウチでは出来る事に限りが有って対処できない」と言う主旨の事ばかり言われたんだな。
まぁ、泣き寝入りするしかなかった。
アレから数年が経ったが、日本の労働基準法って今でも守られてないよね。実際。
有休消化なんて超大手企業しか出来ないでしょう?
週休二日制も守られてない会社多いでしょう?
サービス残業の会社多いよね?
安倍さんが賃金上げろと急(せ)かしても無視するクソ企業多いよね。
その癖に横浜市長みたいに日本を敵視する北朝鮮の学校に補助金出したり意味わからない政治家もいるよね。
新しい制度考える前に、既に施行した法制度を順守させる方が大切だと思うんだよな。
まぁ、そんな事が有ってリアルに昔は無責任不倫上司のせいで死ぬ寸前に追い込まれた。
だから、昔の善政を行ったり農民や商人に好かれた殿様達に余計に尊敬の念を抱くんだろうな。

そのクソ会社にいた頃に不思議な夢を見て…
横浜の歴史偉人とその上司の玉縄北条家や源頼朝公とその与力衆の鎌倉武士団の偉人達に"命を救われて"以来、歴史の資料を趣味で読み漁り墓所や御関わりに成られた神社仏閣と史跡を訪問し、殿様達に感謝して回るのが休日の趣味に成った。
…もっと言うと三浦の海に命と精神を救われた感が有るんだな、小生の人生は。
当時はボロボロで、ハチャメチャな仕事を命を繋ぐ為に辞めた。
不思議と普通なら「自殺したい」とか思う状態に成るであろう状況に、小生は「海見たいな~」としか思わなかった。死にたいとは思わなかった。
でも仕事の通勤帰りに電車に乗ってる時は危なかったね。夜の町の中を走る車窓から外を見てると引き込まれるんだよ。
あれ、一種の催眠状態なんだろうね、気持ちが暗い時や挫折を感じてるとハマりやすいのかも。
そんで、休みに良く観光客の余り行かない三浦半島の南端の江奈湾に行って磯で少し泳いだり、散歩したりして過ごした。
・・・そうこうしてる内に気力も回復して来た。
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この江奈湾の磯が大好きで良く散歩しにドライブしに行ってた。
台風の翌日、ここの岩場が高波にバッシャ~ン!バッシャ~ン!と洗われている時にアホな小生はクロックス履いて出掛けてて岩場の海苔で足を滑らせ仰向けに素っ転んで強く背中を打って息も出来ず、何回も打ち寄せる波にさらわれそうに成った。
その時に強く思った「こんな恥ずかしい死に方出来ね~し!」と(笑)。
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江奈湾の近くの松輪からは富士山も綺麗に見えたりする。
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富士山、此花咲耶姫命様も小生の命を繋いで下さった神様なんだな。
家の近所の円海山に登っては、そこから見える赤富士を見て円海山の自然にも癒された。
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神社や御寺と自然と彼女の存在ってのはね~、どんな向精神薬や安定剤や睡眠薬よりも効果が有るんですよ~。家族は当てに成りませんがね~。
大切なのは自分で選んだ家族に成って欲しい人なんだと思う。つまり血縁よりも理解者だね~。
それと脳味噌を休ませてくれる環境。
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御蔭で小生は薬漬けに成らずに働けた。
あと、当時はまだミシェランガイドに紹介されておらず観光客も少なかった鎌倉の報国寺の竹林に行って座禅を組む様に何も考えずに時間を過ごしたり。
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そこの草庵で少し休んで、抹茶を飲む事で大分気力が回復したと思う。
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今では観光客が多くなり、余り気の休まる静けさは無い。でも癒されるのは変わらない。
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今では現:鎌倉アホ市長によって通行止めにされた釈迦堂の切通しの辺り衣笠山~今泉台~報国寺の宅間谷(たくまがやつ)をグルっと一周散歩して回ったり、殿様達の残して下さった鎌倉の文化と景勝地と三浦の海は医者の処方する薬より疲労が蓄積して赤信号も無意識に無視した脳味噌を少しづつ回復してくれた。
後で知ったのだけれど、この報国寺を開いたのも横浜市の殿様の宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の御爺ちゃんの足利家時公だったんだな。
そして、更に後に知るのだが横浜市港南区の永谷天満宮も宅間上杉家の殿様が開いた神社だった。
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それ以来、紫陽花の季節には永谷天満宮に絶対に行く様に成った。
この少し前位、小生を身近に支えてくれた当時の彼女さんもいた。
この彼女とは結婚して幸せにしてあげたかったのだけれど、残念ながら小生がボロボロだったので縁が無くなったが、御蔭で小生はクソ会社退職後暫くして又、働ける様に成った。
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その頃に七里ヶ浜も行くように成った。
この変な棒は流木を砂浜に突き立てた写真。こんな風景七里ヶ浜に有りません(笑)。
その時に傍で支えてくれた昔の彼女さんを幸せにして恩返し出来なかった事を悔やんでいたりする。
丁度その頃だ。
ボロボロだった状態で夢の中に「龍寶寺」と書かれた石柱が出て来て起きてから「何だろうな?」と思って調べて見たら、戦国時代関東最強の武将だった北条綱成公の菩提寺の名前のだった。
場所も大船駅の近くで近かった。
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学生の頃に友達と遊んだ信長の野望シリーズに登場する名将の御寺だった。
2014-09-15-06-09-37上杉謙信と武田信玄に称賛された名将。
三つ鱗紋学生当時、北条家は少し地味で友人達には人気が無かった(笑)。
まぁ、どちらかと言えば三国志の方が学生時代は好きだったし。
夢の事でビックリして直ぐに参詣して、当時は今と違って旧境内地近くの山の上に存在していた御廟所に御線香を上げに行った。今では綱成公の御廟所は境内本堂横に移設された。
そうこう調べていると何と北条綱成の家老が横浜市の殿様の間宮家だった。しかも更に詳しく調べて見ると子供の時に同じサッカークラブに通っていた幼馴染の近所の子等の家の周りが綱成公の家老の間宮家の居城の笹下城址だった。
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何と小学校の頃、サッカークラブの幼馴染やその近所の子と遊んだ山が笹下城の本丸だった。
元々中学生の頃から家から鎌倉が近くて自転車で由比ヶ浜に行ったり、源頼朝公の御墓参りをしたり、江の島に行ったり、金沢区の野島公園に行ったりして遊んでいたので、歴史は好きだった。
子供の頃は大好きとまでは行かなかったが、大人に成り事情を知り直ぐに北条綱成公や間宮家の殿様達に尊敬だけで無く親しみも深く感じる様に成った。そして歴史が本格的に好きに成った。
最初は何となく資料を読んで、殿様達の開いた神社仏閣を訪問していた。そこから暫くして御朱印も貰う様に成り、更に地域の人にも偉人の存在を伝えたいと思う様に成ったのが3年ちょっと前。
もう一度、北条家の事を調べると足利家の鎌倉公方家の殿様と忠臣だった宅間上杉家や扇谷上杉家の事も知り、足利家に滅ぼされた鎌倉幕府の執権北条家の殿様達が元寇から日本を守って下さった事を再学習し北条泰時公と北条時宗公を尊敬する様に成り、更に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公とその与力武将達を物凄く尊敬する様に成り、三浦家や千葉家や佐々木家の殿様の事も鎌倉だけでなく横浜市と関係が有った事も知った。
その平安末期の武将中でも特に尊敬するのは、やはり平良文公、源義家公、源頼朝公、鎌倉景正公、三浦義明公、和田義盛公、三浦義澄公、佐原義連公、多田行綱公、渋谷重国公、佐々木高綱公だった。
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その人々の足跡を辿って油壷に行き、戦国時代に扇谷上杉家から三浦家を継いだ三浦義意公の民話を聞いて回る内に深く尊敬する様に成った。

まぁ、小生の命は自分で勝手に生きて来れた訳じゃなくて…
殿様達の御蔭、神奈川の自然の御蔭、そして当時の彼女さんの御蔭の3つで繋がったんだな。
…だから社会の役に立つ事をして生きた証を残して皆さんに恩返しせんといかんのよ。

そして2017年07月15日の休日雑記の三浦海蔵寺への三浦義意公と道寸公の供養の納経へと繋がっていく…
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07月10日①の休日雑記の続き。
2016年07月10、早朝の城ヶ島散歩を終え、ホテルに帰り用意されていた朝食を美味しく頂いた後、朝風呂に入り、その後の予定を確認してからチェックアウトの時間までユックリ二度寝させて頂いた。
この日の昼前の散策予定は三崎城址と、当時から存在する周辺の史跡。そして三崎町の観光漁港うらりでの昼食がわりの買食いだった。

ホテルを出て、三崎漁港の駐車場に車を移動し、最初に訪れたのが商店街を抜けた先に在る北条湾…
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ここは現在、漁船の係留される場所に成っているが、戦国時代末期には三崎城の城将、北条氏規(うじのり)公が三崎城主として管理する三浦半島水軍の根拠地として漁船の他に軍船も係留されていた軍港だった。
北条家の水軍基地だったから❝北条湾❞と現在呼ばれる訳だ。
不運な運命で、主家古河公方家の外交政策によって、それまで同輩(ともがら)だった小田原北条家と佐原三浦家は敵対せねばならぬ間柄に成ってしまう。
これが、前回の休日雑記で紹介した❝小桜姫と言う架空の人物❞が明治時代に作り出された物語の基に成った史実だ。しかし小桜姫の基に成った奥方はいた訳で…DSC_3482
まぁ、その話は又、改めて解説するとして、釣鐘状の形をした北条湾の付け根に行くと橋が架かっていて、その名も❝北条橋❞と言う。そして写真右手に見える丘一帯が三崎城址だ。
成る程、海は穏やかで城址は江戸時代の石垣城では作り出せない扇谷上杉流と北条流の築城術のコラボ城址らしく、堅固さの基に成った自然の断崖が城郭外側に構えている。
北条湾の直ぐ横には❝諏訪神社❞が在る…
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城しか調べない学者、戦史しか調べない学者、宗教哲学しか調べない神職僧侶がいるが歴史と言うのは自称❝歴史オタク❞の小生に言わせれば、宗教施設の伝承や記録、城址周辺の地形、城主の崇拝した神様の種類と仏教の宗旨を把握していないと色んな事を見落としてしまう。
例えば戦国時代の北条家は軍神として、この❝諏訪神❞か❝八幡大菩薩❞を城の守護神として城址近くに祀る傾向が有る。
南関東の山城として良く雑誌でも紹介される津久井城・伊豆箱根山中城等は、正にその典型だ。
ここ三崎町の諏訪神社はきっと多くの水軍武将達の崇敬を集めた事だろう。
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ところで、戦国時代も後半に成ると、北条家は初期に編成していた❝五色備え❞と言う方面軍制度を解体し、軍隊編成を地方別所属制に切り替える。
この三崎城は❝三崎衆❞の拠点と成り、鎌倉郡の一部と三浦半島の武将達で構成される編成と成った。
そこに小生の町、横浜市の❝宅間上杉家❞の殿様も三崎城主:北条氏規公の与力として編成された。名を宅間上杉規富(のりとみ)公とおっしゃった。
氏規公から一字拝領した様で、名には❝規❞の字が入っている。宅間上杉家の通し名は❝憲(のり)❞後に❝乗(のり)❞の字に成っていた。宅間上杉規富公も恐らく最初は❝上杉乗富❞と名乗っていただろう。
さて、この諏訪神社は改めて、いつか解説記事を書くとして…
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ここから三崎城址の遠景を見て、改めて三崎城址の丘の東端の一帯は雑木林もあり土塁等の遺構が有りそうだと推測、地形的にも武士達の住む根古屋(ねこや=城将達の集落)とする谷戸(やと=谷の入口に関所を設けた住宅地)に打ってつけの地形だったので、登城口として怪しそうだと推測した…
三崎城推定範囲 久良岐のよし
諏訪神社を降りて、付近の住人の方に質問をした所やはり上に登れる歩道が有るとの事で、そちらから散策する事にした。
三崎城も、いずれ詳細に解説を書くので今回は端折(はしょ)って散歩した時の写真を載せると…
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もう、如何にも北条家の山城でございと言った定番の細さと屈曲した道。
多くの現地を自分の足で廻って自分の目で確認しないバカ学者と雑誌記者と自称歴史家は「三崎城址は跡形も無い云々」書くが、小生が地元の人に現地でリサーチして実際に登って見ると土塁も一部現存し、更に大堀切なんかがちゃんと生活道路としても残っていた。
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その場所は戦没者慰霊堂、ここが三崎城址東端で諏訪神社から見えた雑木林だ。
あの細い道を登ってくると、腰曲輪と思しき崖の上の削平地が有り、そこから台地上に繋がる場所には大人数の通行を制限し行く手を阻む構造の土塁状の盛土と、土塁を切った入口状の道が現存していた。
これ、御城ファンなら小生ならずとも見た瞬間に…
「あ、これ多分搦め手の虎口だな」
…と、解るだろう。
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この削平地を囲むように土塁状の盛土が残っている。もう間違いなく当時の土塁遺構だろう。
土塁はここしか確認出来なかったが三崎城址は、ここを通り過ぎて更に旧三崎中学校を過ぎると、閉鎖された福祉施設辺りの地形は出丸の様な掘り切られた場所に橋を架けて有ったり、土塁は現存しないモノのそこかしこに縄張りを予測可能な地形が残っている。
旧三崎中学校の前には城址案内看板が有った…
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が!
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…しかし看板の白化が激しくて見えない(笑)。
丁度、先程の土塁や堀切と推測した場所の成否も確認したかったので、市役所に移動。
市役所の方を通じて、三崎町の教育委員会で三崎城址に御詳しい方にアポを取って頂いて、詳細を御教授頂く機会を得る事が出来た。幸運だ。
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なんと、三浦市役所の来朝者対応部門以外の各施設は旧三崎中学校の校舎に移転しており、なんだか不思議な感じだった。
もう丸っきり中学校の校舎。日本の中学校に入ったのはもう云十年ぶりだ。
昼の中学校にオタクが忍び込んで変な事をしている様な危ない感じ(笑)?
ここでは、城址が破壊される前にちゃんと編纂した資料が有り、赤星直忠氏著作の「三浦半島城郭史」と言う本を御紹介頂き縄張り図もコピーを下さった。
そして、小生の質問に一々丁寧に御回答下さり、この縄張り図を渡される前に話した小生の推測が完全に調査内容と一致する事から御関心頂けたのは、歴史オタク冥利に尽きる今回の旅で一、二、の光栄な出来事だった。
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因みに入手した縄張り図はこれ。
小生が予想出来無かった事もいくつか有って…
・旧三崎中学校を取り巻く車道が、実は埋め立てられた空堀の跡だった事
・北東の谷は自然地形では無く、人工的に掘り切られた大空堀の跡だった事
・現在の旧中学校と市役所付近の失われた土塁の構造
・旧中学校校庭に大手口からの最期の関門の❝馬出し状の枡形❞が存在した事
…これらは三崎町教育委員会の方に詳細に御教授頂けなければ解らない失われた遺構だったので、本当に三崎市役所と三崎町教育委員会の皆さんには感謝しないといけない。
いずれ、宅間上杉家の殿様達の顕彰文を書く際に、この感謝の便も盛り込みたい。

さて、三崎城址は改めて事細かに書くとして、城址の一角に在る本瑞寺に久々に御参りに行って来た。
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ここも改めて解説記事を書くが、鎌倉時代には源頼朝公の別邸で❝桜の御所❞と呼ばれた。最初本瑞寺は現在の三崎銀座商店街の在る入舩(いりふね)地区に室町時代、三浦義意公が御寺を開基された。しかし三崎町が大火に度々遭い類焼したので、現在の旧頼朝邸桜の御所の旧跡地に江戸時代末期に移転して来た。
そして、先程話した古河公方の外交政策が元で勃発した北条家と三浦家の抗争と、この桜の御所のイメージを合わせて明治時代に村井弦斎によって執筆された❝創作小説「桜の御所」❞の架空の登場人物が前回の休日雑記で書いた小桜姫なのだ。
…つまり、これが小桜姫の由来、実在しなかった歴史事実と矛盾して、現在小桜姫信仰が熟女や独身女性に人気に成った正体だ。
この❝小説:桜の御所❞は都新聞(現:東京新聞)に掲載された連続時代小説で、現在の人気ドラマの様に凄まじい反響があり、そのロケ地とも言うべき三浦半島のモデルに成った場所に、いまで言う❝聖地巡礼❞の様に全国から旅行に行く人々が増え、そのモデルと成った神社仏閣や城址に参拝客が増えた。
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これが時代が下って、訳の分からないエセ霊能者❝浅野馮虚(ひょうきょ)❞と言う歴史を知らない人物が❝実話❞と勘違いして❝霊的(笑)❞に研究して本を執筆したので世間の混乱に拍車をかけてしまった(笑)。
実際には三浦義意公の本妻も側室も二人とも房総半島の真里谷(まりやつ)武田氏の姫君で、小説内に登場する小桜姫は金沢北条氏と設定されている(笑)。
三浦義意公は室町時代1500年代初頭の人物。架空の人物である小桜姫の家、金沢北条氏はそれよりも200年近く前の鎌倉幕府滅亡時に滅亡した家で、戦国時代の北条家とは全く関係が無い(笑)。これは原作者の村井弦斎が、読者を勘違いさせない為に架空の話とわざわざ解る様にした設定だった筈なのだが…
大体の女性は学生時代に真面目に歴史なんか勉強しないし、根本的に歴史に興味何か無いから、エセ霊能者の勘違いを鵜呑みにして騙される。
もっとも、浅野馮虚(ひょうきょ)の名を、日本語で訓読みに翻訳すると…
浅野馮虚(ひょうきょ)→馮虚(ひょうきょ)→馮(つく)虚(うそ)→うそつき
…と成る(笑)。だから、浅野馮虚自体も恐らく詐欺の自覚が有ったか、ギャグや三文霊能雑誌程度のつもりで執筆活動をしたのに人気が有る案件だったので妄信する輩が増えてしまったのだろ。
では、小桜姫関連の信仰が御利益が無いかと言えば…そんな事は無い。御利益は有る。何故なら小桜姫のモデルに成ったであろう三浦義意公の御正妻と側室の真里谷家の姫君は存在したから。
これについては、改めて次回の休日雑記で小生が古文書漁った知識と、三浦道寸研究会の副会長様の御見解と合わせて詳細に話そうと思う。
…エセ霊能者、本職の神職・僧侶・歴史家をナメるなよ!
三浦義意公の開基したこの本瑞寺の檀家サンが歴史を編集した小説を頂いたり、詳しく説明をして頂けたり大変、良くして頂けた。感謝。

ついでに言っておくと…
縁結びの御利益が欲しい女性は、「クレクレ言うだけじゃなくて、ちゃんと先人を敬い歴史を勉強し、御墓参りをして、三浦道寸公や三浦義意公が開いた神社仏閣や城址を廻り、小桜姫と言う架空の名前だけでは無くて❝真里谷の姫❞と実際の実家の名前で尊敬の念を表しなさい」って事だ。
…歴史を知らない偽霊能者のデマに踊らされた挙句、先人に「クレクレ」言うだけの乞食みたいな願掛けして感謝も表せないと天罰が下るぞ!
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さて、散歩に戻る。
本瑞寺の山門を下ると、実は三崎の鮪料理店として有名な❝黒羽亭❞と、寿司屋❝紀の代❞の前に出る。
以前、紹介記事を書いているので興味有る方は参考にしてもらいたい。
※【カテゴリー:旅行(風景/お祭り/食事/買物)】の中の【和食全般/居酒屋/懐石料理/旅館】の分類で書いて有るので、その中に解説記事が有る。
この三崎の商店街は昭和の風情と幕末~大正期の蔵屋敷の名残がある町で、遠洋漁業が海外拠点主流に成り寂れたが古い街並みは、ユネスコ世界無形文化遺産の❝チャッキラコ❞と言う祭りや、夏の海南神社の例大祭には活気が戻り漁師町の様相を復す。
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チャッキラコについては以前記事に書いて有るので【カテゴリー:お祭り】から探して貰えば詳しく書いて有る。
平日で人気の少ない商店街を抜けて、三崎の観光漁港❝うらり❞へ買い食いに向かった。
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ここには小生オススメのB旧グルメが有る。
三崎町観光協会は何故か三崎鮪ラーメンやトロ饅なんてゲテモノをプッシュするのだが、もっとシンプルで凄く美味しい物がここには有る。
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この店で売ってる❝鮪の串カツ❞と❝鮪コロッケ❞だ。
小生は10年ほど前に三崎漁港に良く遊びに来る切っ掛けが出来て、それ以来、三崎に来ると絶対にここの鮪串カツを食べる。
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値段も安いし、本当に美味しいから是非、皆にも食べて欲しい。
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小生は新商品の鮪軟骨入りのメンチ串揚げと、コロッケと串カツの三個をこの日の昼食にした。
ふむ、美味だ!本来B級グルメってこういうシンプルな物の筈だし、これは本当に美味しいし、どの店でも作れるのだから三崎町はこれを特産品にするべきだと思う。
これなら御土産にもなるんじゃないかな?
❝うらり❞は観光漁港なので他にも鮪の珍しい部位の肉が売っていたり…
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豊富な海産品、三浦の農産品もそろっている。
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城ヶ島に磯遊びに来たり、三崎に鮪を食べに来たら、是非、この❝うらり❞にも顔を出すと、良い御土産が揃う。
あと、今回写真は無いが黒羽亭の❝トロカルビ串❞と言うスパイス効いたタレで付け込んだ鮪の干物も御進めの逸品だ。黒羽亭は❝うらり❞に出店していないので、店で購入するしかない。

さて…
三崎漁港と三崎町の散策を満喫し、三浦市役所と三崎町の教育委員会の方、本瑞寺サンに大変親切にして頂いた事を感謝しつつ、今回の3連休とってまで三浦に来た目的の本命、❝三浦道寸公と三浦義意公の500回忌の献花❞をする為、車に乗り込み油壷に移動した…

③へ続く⤵️

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ブログネタ
「食欲の秋」のはじめに食べたい物は? に参加中!
食欲の秋…拉麺美味しいよね。

横浜市港南区下永谷に神勝軒と言う「つけ麺」の店が在ります。
「つけ麺」と言うジャンルを拉麺界に創生した偉大な拉麺職人の故:山岸翁の御弟子サンの店です。
ちゃんと大勝軒で修行された事と山岸翁へのリスペクトを店内の看板にも掲示している大勝軒系の血脈の店。
この様に創始者をリスペクトする姿勢は素晴らしい。
御当地横浜の家系には、家系創始者の吉村社長の弟子でも無いのに自称家系名乗る不遜な輩が溢れかえり偽家系だらけ…
この神勝軒の山岸さんへのリスペクトは評価に値する。

正統の大勝軒の暖簾分け1号店も横浜駅西口に在り、其方の店長サンは今は山岸翁の跡を継ぎ横浜だけでなく大勝軒本店の大将に…
なかなか横浜駅西口や大勝軒本店に行けない時に、神勝軒で腹を満たし、つけ麺文化を残して下さった山岸翁に感謝を示すのも風流でよし。
店内は建築古材を活用した内装で、落ち着いて雰囲気が良いです。
カウンターは木製の一枚板で高そうな材木です。…写真撮り忘れました(笑)。
厨房はこんな感じ。
この日は…
特製つけ麺に
中盛り 味玉 焼豚 海苔増し
…を頂きました。
美味しそうでしょ?
麺を完食したら…
「スープ割りお願いします!」
…と、言うと、スープにネギ等を足して飲むスープにしてくれます。
コレはつけ麺店ならではの風習みたいなもんで、大概のつけ麺自慢の店はやってくれますよね。

こちらの店で山岸翁の血脈の味を身近に感じて、大勝軒本店や大勝軒横浜駅西口店近く行く時は其方にも寄りたい。

余談ですが神勝軒のお向かいに在った家系総本山の吉村家の直弟子が店長だった環2家が8月30日で閉店しました。
閉店日から2日後だったのですが、灯りがついていました。
吉村社長、店を売却するとブログに書いていたので、もう売れたんでしょうか?
吉村社長の直弟子の本物の家系だっただけに残念です。
環2家は店員同士が仲悪く接客の際に怒号が飛び最悪な雰囲気だったが美味しい日は美味しかっただけに、吉村社長の下で接客マナー再建し続けて貰いたかった。
吉村社長のブログに書いて有った「光くん」と言う店員が辞めたのが、環2家をたたむきっかけらしいが…

この地域、実は拉麺文化発展させる地域とも言えます。
実は御城の在った地域には、美味しい拉麺店が近くに在るんです!
そして、それは地勢上の必然なんです。
其れは神勝軒の附近の周辺 文化と地理の 情報を先ず見れば一目瞭然なんですが…
先ずは見ましょう。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
永谷の周辺街道
⚫︎古鎌倉街道
江戸時代の鎌倉街道成立より更に以前、平安時代から使われた鎌倉街道の古道がこの地域を貫いている。
⚫︎鎌倉街道
鎌倉時代迄の古鎌倉街道とは違う筋だが、現代、整備された鎌倉街道が永谷地区近くに通る。
⚫︎古東海道/東海道
江戸時代以前の古東海道を江戸幕府が再整備した東海道が、永谷地区の直ぐ近くに通っている。
⚫︎環状2号線
神勝軒は環状2号線に在る。現代整備された横浜の中心部から放射状に続く国道16号線、横浜上麻生道路、川崎街道、中原街道、八王子街道、鎌倉街道の一般道に加え第三京浜高速道路、横浜横須賀高速道路、東名高速道路、首都高速道路湾岸線&横羽線等のアクセス向上を目指して造られた新しい街道。
永谷周辺の有名ラーメン店と城址
※超有名店だけとりあえず記載しますが、地図上の印つけた店は全て雑誌TVに良く掲載される有名店です。
⚫︎新横浜拉麺博物館
日本最初の拉麺博物館。
永谷地区からは車で環状2号線を15〜20分程の距離の新横浜駅附近には拉麺博物館が在る。
新横浜駅は東海道新幹線「のぞみ」の停車する重要駅でもある。
⚫︎支那そばや本店
※港南区永谷地区は隣区の戸塚区との境界に位置する。
永谷地区から東海道を車で15〜20分程の戸塚駅近く。山岸翁と同じく拉麺の大家として名の知れた「拉麺の鬼、佐野実」こと故:佐野氏の「支那そばや」本店。この店の支那そば(醤油ラーメン)は一般的な醤油ラーメンのイメージから想像も付かない発展をさせた拉麺で、拉麺ブームの火付け役に成った名店。
残念ながら、つけ麺の大家:山岸翁が没すると、後を追うように佐野氏も世を去ってしまったが、その味は御弟子さんがシッカリと受け継いでいる。 
⚫︎杉田家(元:吉村家本店)
永谷地区から環状2号線と国道16号線を車で15分の距離。
豚骨醤油:家系拉麺の創始者の吉村社長が最初に店を構えた店舗。今は直弟子が支店として引継ぎ店長を務める。 家系拉麺の発祥地。
吉村社長のいる吉村家は、横浜駅西口近くで営業中でいつも大行列。
⚫︎環2家
永谷の神勝軒の目の前。環状2号線を挟んで対面に在ったが、先月2015年8月30日を以て閉店した。
家系拉麺創始者の吉村社長直弟子が店長を務める吉村家直営店で毎日大行列だったが、従業員の離脱により吉村社長が店を閉めてしまった。吉村社長のブログによれば店舗売却予定らしい。
⚫︎
本牧家
元々、本牧家の屋号は吉村家の吉村社長の店だった事に由(よ)る。
元弟子の神藤隆が本牧家店長を任されていた時代に造反し、従業員引き連れて辞めて神奈川区六角橋に六角家を作ってしまった為、吉村社長が怒り狂って閉店、現在のオーナーに売却してしまった店。
正統な家系吉村家の系統とは別系統で「家系亜種」と呼ばれる家系の派生店。
六角家の方は新横浜ラーメン博物館の開店当初は、御当地横浜のラーメン店として同地には入店していたが現在は出店していない。六角家本店は名前の由来の神奈川区六角橋に営業中。
⚫︎壱六家
正統派吉村家系とは異なる家系亜種に分類される拉麺店。
昔からの人気店で、一時期は支店も多数出店した。現在は元々の国道十六号沿い磯子駅近くの本店は特に大人気営業中。
⚫︎貞昌院と永谷天満宮
永谷天満宮は全国の天神様の御祭神である菅原道真公の御子息5男、菅原淳茂公の居館跡の天神様。
そこに室町幕府足利尊氏公の従兄弟の御子孫で鎌倉府で関東管領も務めた家系の宅間上杉家の殿様が開いた天満宮。
御神体は道真公が鏡を見て遺品として自ら手彫りした道真公御自身の木製像。
この木像は日本に三体だけあり、福岡の太宰府天満宮、大阪の道明寺天満宮、横浜の永谷天満宮に其々安置され、以上三社の天満宮は日本三体天満宮と呼ばれる。
貞昌院は曹洞宗の寺院で永谷天満宮の別当寺。開基の宅間上杉家が曹洞宗に帰依した小田原北条家臣だった事による。
⚫︎永野城址
神勝軒の向い側の緑地は室町幕府創始者の足利尊氏公の従兄弟の血筋に当たる宅間上杉家の殿様の居城の永野城址。
⚫︎野庭関城址
永谷地区から車で5分の場所に曾て在った城。
鎌倉幕府の初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が築城した城で、鎌倉古道と鎌倉街道を押さえる位置に在る。
戦国時代まで活用され、安藤良整公等の名将が城代を務めた。
⚫︎笹下城址
永谷地区から車で5〜10分の笹下地区に曾て在った城で、北条家の水軍を纏めた間宮家の居城。杉田港や六浦道(笹下釜利谷道路)、鎌倉街道を押さえ鎌倉の防衛と東京湾防衛を担った城。
⚫︎今井城址
永谷地区から直ぐ車で10〜15分の環状2号線今井インター近く、保土ヶ谷区の平安時代末期の信州出身の武将の旭将軍こと源朝臣木曽義仲の重臣だった今井兼平の城址と伝わる。戦国時代末期まで城として機能し江戸時代に成り廃城すると陣屋が置かれた。
つまり当時も交通の要所だった。
義仲の妻の巴御前は幕府に投降し和田義盛公に再嫁しているので、今井兼平も投降した可能性は高い。又はその一族が城主か?
⚫︎鳥山城址と三会寺と鳥山八幡宮
全て 港北区鳥山地区、永谷地区から環状2号線を車で 15〜 20分程 離に在る歴史史跡
平安時代末期、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の与力、近江国宇田源氏の名将:佐々木高綱公が築城した居館が鳥山八幡宮の敷地で、その背後の丘は詰めの城。
三会寺(さんねじ)は源頼朝公が佐々木高綱公に命じて鎌倉の鬼門に当たる鳥山地区の旧街道沿いに築いた鎌倉鬼門鎮護の寺院。
⚫︎小机城址
永谷地区から車で20〜25分程の所。
新横浜日産スタジアム近く、室町時代〜戦国時代の城址で北条家白備え隊の居城。白備えは小田原北条家の主力部隊の1つ、北条家には五色の軍装で色分けされた5軍団が有り、その1つ。
城主は北条家の宿老であった北条幻庵公、城代は北条家の家老の笠原信為公。

※上記の城址は既に記事に書いてあるので
画面上、PCでは右側、携帯では下の方に表示される【カテゴリ】から「城址」「北条家五色備え」「神社」のいずれかから検索してみて下さい。
ここまで拉麺と関係ない事を、良く読んで下さいました(笑)。
では何で、この地域が拉麺文化発展の土壌に成ったかですが…
既に勘の良い方は地理と史跡を見て気が付いてますよね?
この地域は交通の要所だから、拉麺文化を客として下支えして来たトラックやタクシーの運転手の往来が多いんです!

この東海道(国道1号線)と環状2号線のクロスする附近は、拉麺文化醸成の地であり、奇しくも永野城、野庭関城、笹下城、小机城、鳥山城、今井城など交通の要所を押さえる位置に築かれた城が神勝軒の在る永谷地区や環状2号線周辺に在るのは当然!
現代の物流の観点と、武士達の街道を押さえる防衛観念はリンクしているからなんですね。
武士は敵軍の自領への侵攻を防ぐ為に、街道や水運の要所に城を築城(ちくじょう:城を造る事)します
そしてラーメン店はトラックの往来が多い街道沿いに運転手の来店が多く見込めるので、沢山の拉麺店が出店する事に成り、結果的に拉麺文化発展の土壌には城跡が近くに在る場合が多く成る訳ですね。

ね?
歴史と郷土の食文化って凄く関連が在るでしょう?
それが小生のブログタイトルの由来でもある訳です。

次は映画とドラマの「HERO」公開中につき、ロケ地の横浜の旧中心街の日本大通り地区の近代西洋建築遺産を紹介します。

では!又次の記事で!
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横浜市磯子区上中里に、地名を冠した上中里神社と言う神社があります。

近くには磯子高校や上中里団地があり、ベッドタウンとしてそれなりの人口の有る地域の神社なのですが…
目立たない参道の入口をずっと登ると、ひっそりとした鎮守の森の中に、ソコソコ大きい御社が有ります。
何にも知らずに行くと、参道からは祠くらいしか無さそうで予想外に立派でビックリすると思います。
昔はもっと社地も広かったんでしょうね…
御近所の磯子高校は昔の上中里神社の境内だったのかも知れません。
周辺が学校建設や宅地化で、表参道以外の道を失ったんでしょうかね?
神社の由来を見ても、少し昔まで地元民に熱心に崇拝されて人気も高かった様ですし…
この神社が寂れている問題点は行くと分かりますが、道が急斜面の参道一つしか無くて人の往来が無い事に尽きると思います。
近くに学校が有り、例えば、この神社の裏手が抜け道に成っていると学生が部活で参道の階段をトレーニングに使ったり出来ますね…
小生の中学生時代も御近所に御寺と神社が有り、柔道部時代に神社の階段を上り下りして体力作りに活用していました。
…神社の社殿裏手にでも、高校や住宅街からの間道を作れば良いのになと思いました。

さて、この神社、明治政府の愚策一村一社政策で潰された近隣の7つの神社を合祀し今に、その神様達と昔の村民達との絆を伝えていますが…
その内容は拝殿前の看板に書いてあります。
ただ、その神様が祀る御社が何で氷取沢町や上中里町に有ったかを説明する記載までは書かれていません。
以下は推測ですが、それはかなりの確率で戦国武将間宮家に関係が有るので少し解説します。
先ず、この上中里や氷取沢一帯を含む港南区磯子区を戦国時代に治めていたのは、小田原北条家の家臣の間宮家だったのを知らない人も多いと思います。
そして江戸時代にも間宮家分家の氷取沢間宮家がこの一帯を治めており、氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は八王子城主の北条氏照公の家老として外交と内政で活躍し、織田信長公にも外交使者として面会しています。
近くには、その名残りで間宮寺と言う御寺がありました。
間宮寺は元は港南区笹下の真言宗東樹院の末寺でしたが檀家少なく、間宮家が支援し日蓮宗に改宗し杉田妙法寺の末寺として中興開基しました。
しかし江戸時代には廃寺に成ってしまいました。
その間宮寺の遺物が実は上中里神社に残っています。
参道階段の中腹左手にある石仏がそれです。
不動明王像ですね。
元々は間宮寺に有った物を廃寺に成った後に当時の村民の皆さんが、この上中里神社に移し守り続けたそうです。

さて、そんな訳で間宮家との関わりは解って頂けたでしょうか?
関連記事を見たい方は、記事画面の一番下に表示される「タグ」から「間宮家」をクリックしてみて下さい。
関係の有る記事が読めます。

さて、上中里神社に合祀されている神様達が何で間宮家と関わり有るかですが…
上の摂社に祀られている、それぞれの神様と間宮家の繋がりを個別に説明します。
判らない物は判らないと書きます。
⚫︎稲荷神社
…伏見稲荷神社の農耕の神様。
間宮家との関係は不明。
⚫︎明神社
…神明社と言えば天照大御神だが明神社なので何の明神様か不明。間宮家との関係も不明。
⚫︎駒形神社
…保食神(うけもちのかみ)。
飢饉回避の神様。間宮本家の笹下間宮家が江戸時代に転封され引っ越した先の下総国印旛郡の神様なので、江戸時代の間宮家と関わりが推測される。
⚫︎天神社
…菅原道真公。
氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は奥さんが宅間上杉家の姫君。
宅間上杉家は今の港南区上永谷に永谷天満宮と曹洞宗の御寺天神山貞昌院を開いた武家で足利尊氏公の従兄弟に当たる方の御子孫の家系なので、宅間上杉家と関わりが深い氷取沢間宮家との関係が推測される。
⚫︎山王社
…恐らく蔵王権現。今の八王子市の御嶽神社。
間宮綱信公が与力・付家老として御仕えした北条氏照公は最初、八王子の滝山城を居城にしていました。滝山城には山王曲輪と言う防御施設が有り、そこは元々は源義家公が蔵王権現社を建てた場所で、氏照公は山王曲輪の場所から蔵王権現社を滝山城の外郭に遷座(せんざ=神社を移動する事)しました。
今でも滝山城外郭に蔵王権現が廃仏棄釈で御嶽神社に名を改め存在していて、氷取沢町に山王社があるのは滝山城に勤務した間宮綱信公との関係が推測される。

⚫︎八王子権現社
…牛頭天王と牛頭天王の8人の眷族(けんぞく)を祀る神社で、今の八王子市の八王子神社の昔の名前。
間宮綱信公が与力した北条氏照公は晩年、滝山城を廃城にし今の八王子神社の辺りに八王子城を築城し本拠地を移した。その関係で間宮綱信公も牛頭天王を崇拝し八王子権現社をの分霊を勧進(かんじん=神様の御霊を分けて貰い祀る事)した事が推測出来る。
※杉田間宮家菩提寺の杉田妙法寺も弘法大師空海様が勧進した牛頭天王を、祀る。
⚫︎山大明神社
祭神不明。
香川県屋島の蓑山大明神と関係有りか?
間宮寺は元々は真言宗だったので真言宗御室派大本山の屋島寺にある蓑山大明神を祀っていた可能性は有る。
又、間宮家は近江源氏佐々木家の鎌倉時代の名将佐々木高綱公を江戸時代中期まで先祖としていた(実際は高綱公の叔父の佐々木経方の系統)で、源平合戦の舞台屋島とも関係がない事は無い。

以上、多少なりとも上中里神社の摂社の神様の中には間宮家と関わりが有る神様が幾つか見受けられますね。

さて、上中里神社の本殿ですが、冒頭でも述べましたが結構立派でした。
拝殿はちゃんと一段高い場所にあります。
なんか神社と言うよりは御寺の本堂みたいな造りの本殿ですね。
せっかく、こんな立派な神社があるのですから、地域の方々にも御参りして欲しいな〜と思いました。
そして、夏祭りもここで開いて欲しいな〜。
その為には人の流れを作る事が大切です。冒頭でも述べましたが、裏に抜ける道を作り住宅街や磯子高校に繋げる道を作れば、この神社は活気が戻る様な気がしました…

本日はここまで!
では、又、次の記事で!

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永谷天満宮は…
室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の従兄弟、宅間上杉(たくまうえすぎ)家の重兼(しげかね)公の御子孫が開いた天満宮です。
今、その永谷天満宮の裏山では今、山の片面一面に紫陽花(あじさい)が咲き誇りとても綺麗です。
永谷天満宮は勿論、拝観無料で市民が自由に紫陽花を鑑賞出来ます。

この鎮守の森、名前を天神山と呼び頂上には小さな浅間神社の祠(ほこら)と菅秀塚が有りますが、菅秀塚の菅秀とは元々この永谷天満宮と貞昌院の敷地にお住まいだった菅秀才こと菅原淳茂(あつしげ)公の事です。
この結界の中が天神山で、自由に散策出来ます。
御祭神菅原道真公の五男淳茂公が当地にお住まいだったと言う伝承が今に伝わっています。
今の季節、長谷寺や明月院程の規模は有りませんが紫陽花のトンネルの中を散歩出来ます。
とても綺麗ですよ!
横浜に住んでるけれど鎌倉まで紫陽花を見に行く暇が無い…
…と、言う方、紫陽花見るの諦め無いで永谷天満宮を散歩してみませんか?
以前書いた永谷天満宮の歴史を説明した記事は「ココ」←クリック!

では又、次の記事で!お会いしましょう…
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皆さん、今年は良い年でしたか?

小生は今日、本年最後の御礼参りに室町時代の鎌倉公方の忠臣、宅間上杉家の殿様所縁(ゆかり)の鶴岡八幡宮、永谷天満宮、報国寺様に今年1年間御世話に成った御礼参りに上がりました。
※永谷天満宮の記事⤴

※報国寺の記事⤴


御存知(ごぞんじ)無い方も多いのですが…
鶴岡八幡宮、実は元々は現在の場所では無かったんです。

鎌倉鶴岡八幡宮は
鎌倉幕府を開いた源 頼朝 公…の五代前の祖先の、河内源氏初代鎮守府将軍:源頼義公が京都の石清水八幡宮から神様を勧進(かんじん)したのが始まりなんです。
その場所は材木座1丁目7番地で、今も付近のバス停の名前のまま、元鶴岡八幡宮が鎮座し鎌倉市民を守護しています。

昔の人の言う鎌倉とは、そもそも鎌倉郡の事です。
今の鎌倉市や藤沢市、それに横浜市港南区の半分と戸塚区栄区を加えた地域ですね。
その土地を開拓したのが坂東平氏の祖である鎮守府将軍の平 良文(たいらのよしふみ)公でした。
その事業を平良文公の御子孫の方々と供に、盟主として引き継いだのが…
鎮守府将軍を務めた源 頼義 公と、その嫡男(ちゃくなん=本家を相続する子)で軍神とも渾名(あだな)される源 八幡太郎 義家 公なんですね。
つまり関東の交通網の起点に成る鎌倉市街の更に基礎は源頼義公と源義家公や、盟友の坂東平氏が築いたとも言える訳です。
※河内源氏に纏(まつ)わる鎌倉市横浜市の記事は以下。
●源氏の邸宅跡の寿福寺の記事⤵
●本郷ふじ山公園の記事⤵

衛星写真でちょっと現在の鶴岡八幡宮の位置を見てみましょう。
今は御覧の通り鎌倉市街地の中心に鎮座まします鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府草創時に源頼朝公が、今の元八幡様の場所から遷宮されたんですね。
元はもっと南側の海に近い地域に鎮座してました。
その頃の武士達は平安時代に神奈川県や東京都や千葉や埼玉がこんなに発展すると思ってらっしゃったでしょうかね〜?

元鶴岡八幡宮は今では住宅街に囲まれた少し解(わか)り難(にく)い場所に在(あ)ります。
徒歩で訪問するのに目標にする良い場所としてJR横須賀線の踏切近くに辻薬師堂と言う仏教の御堂が在ります。
CIMG7903
辻薬師堂この辻薬師堂に祀られている薬師如来様は今の二階堂地区に源頼朝公の建てた大寺院永福寺の塔頭(たっちゅう=子会社みたいな役割)の御寺に祀られており、その塔頭寺院は藤原一族の二階堂行光によって造営された場所でした。
KIMG5405
永福寺跡
今回は永福寺跡も辻薬師堂も関係ないので解説しません。
CIMG7909
線路を渡り10mもしない所から由比若宮=元鶴岡八幡宮=鶴岡八幡宮元宮に入る参道に辿り着きます。
CIMG7916
ここは今では規模的には社殿は大きくはありませんが元々の鶴岡八幡宮の出発点であり、京都の石清水八幡宮から八幡様の御分霊を源頼義公が勧進して開いた本当に本当に由緒正しい八幡宮です。
地形の変化の歴史を紐解くと源頼義公の時代は鎌倉市街の材木座一帯は海や入江と干潟だったので、鶴岡八幡宮元宮は治水・海の神様として高潮除けに勧進されている事が地理から良く解ります。
CIMG7915
由比若宮=元鶴岡八幡宮ここが源頼朝公を輩出した河内源氏の征夷大将軍への道の第一歩としても過言では無い由緒正しい八幡様な訳です。
CIMG7918
手水社は普通。
CIMG7919
でも軍神の異名を持った源頼朝公の四代御先祖に当たる源❝八幡太郎❞義家公が旗を立てた場所でも有ったりする。
CIMG7920
何にせよ由緒正しい場所で、関東地方や東北を含めた東日本全体の八幡信仰の起点
実は鶴岡八幡宮、文芸にも御利益が有ります。
この元鶴岡八幡宮の境内に芥川龍之介サンが一時居宅を構えて住んでいたんですね~。
八幡様は八幡大菩薩として良く御寺や神社に神託を残した伝承があり、応神天皇と同一視される神様です。応神天皇は日本で最初に古代中国から文化や法律の導入を開始し、皇子の仁徳天皇と菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の御二人に漢帝国皇族の御子孫である阿智使主(あちのおみ)から漢学(兵法・文学・法律等)の教育を受けさせた人物としても伝承しています。なので、八幡様はそもそも学問の御利益も有って当たり前なんですね。
もっとも明治時代以前の八幡様の神様としての役割は、もっぱら雨乞いや治水や海上交通の安全祈願等水に関わる事と、鎌倉武士団から崇拝された事や応神天皇が弓の名手で弓矢で妖怪を退治した伝承が有る事から武芸や勝負と地鎮の神様としての性格でも信仰されていました。
鎌倉武士団にとって大切な神様だからこそ、鎌倉市街の都市計画の中心に据(す)えられたんですね。
下の写真は現在の鶴岡八幡宮の御朱印所から、舞殿を見た風景です。
この舞台は源義経公の愛妾:静御前が源頼朝公や北条政子夫妻と鎌倉武士団の前で舞を踊った場所です。
北条政子さん、頼朝公の別の愛妾を襲撃したり嫉妬深い伝承が強調されますが、歴史偉人に対してちょっと失礼な表現かも知れませんが情が深くて旦那さん大好きな可愛い女の子だったんです。好きな頼朝さんに会う為に徒歩で山を越えて頼朝公の所に通ったり、パパの言う事より自分の彼氏を選んだりした人で情がとっても深く行動力の有る女の子だったんですね。
だから静御前が処刑されるかも知れない状況で、この舞殿で神楽を舞った際に敵である源義経の子を妊娠中の静御前の助命嘆願を必死に源頼朝公に行ったり、とっても人間味ある人だったんです。
横浜市南区井土ヶ谷の乗蓮寺サンには北条政子サンが自らを彫刻させた彫像が現存しています。
旦那さん頼朝公が無くなった後に承久の乱が起きた頃、昔、頼朝公とデートで御参りに来た弘明寺の裏山の一角に隠棲する別荘を建てて化粧水用の井戸を掘らせて住んでいた時代の彫像が残っています。
今の乗蓮寺の前身に成ったのが政子サンの別荘で、化粧水用の井戸が井土ヶ谷の地名に成っています。
北条政子様木像画像

この彫像の写真は乗蓮寺のホームページに掲載されている物ですが、直接御参りして北条政子様像を拝む機会を頂いた際に画像仕様も個人的に御住職に許可を頂いた物です。
もし画像転用したい方は御自分で乗蓮寺の御住職に許可を頂いて下さい。
小生は北条政子様の彫像を見て気の強い人と言う印象は無く、状況的には旦那さんも息子さんも自分の家族に殺されて一人寂しく生き残って不安で寂しげな顔をしている様に小生には見えます。

乗蓮寺に関しては解説記事を書いているので御覧ください。
北条政子サンや静御前の逸話が残る舞殿をはじめ鶴岡八幡宮の全ての建物は、勿論(もちろん)各時代毎に再建されて当時の建物ではありません。
 
何でこの御朱印所からの写真を撮ったのかと言いますと…
実は小生、神奈川の発展に寄与して下さった神様や偉人の歴史的偉業の顕彰活動で、どなたが開基された寺社仏閣か調べた上で参拝して回り、皆様の御厚意で少々特別な御朱印を頂いています。
もちろん御武運や加護も賜りたいと思っています。

神奈川県東部における歴史偉人の顕彰活動の本年〆に、本日、鶴岡八幡宮に御参りして来たので、今年最後のブログ内容に選んだ次第です。
 
さっきの衛星写真の右上の方が浄妙寺地区で有名な報国寺が有ります。
今日の報国寺の竹林の庭園には、まだ紅葉も見られ非常に安らぎました。
この報国寺は時代は異なりますが永谷天満宮と同じく関東管領宅間上杉家の殿様が開基した寺院なんですね。
正確には盟友の足利家時公と御一緒に開基された様です。
足利家時公は室町幕府の初代征夷大将軍足利尊氏公の御爺様に当たる方です。

平安時代の関東の発展は平家と源氏と菅原家が担い、古代は日本武尊と蘇我氏と橘家と紀家により基礎が築かれました。

古事記に頻繁に登場した後、平安時代に成ると再び関東は急速に発展します。
平 良文(たいらのよしふみ)公と源 融(みなもとのとおる)公が武蔵国で一騎打ちをし、互いを認め合い盟友として関東の開発に協力した時期に飛躍的に開拓地が増えました。
※平良文公に関する記事⤵

東京や神奈川は地方からの移民だらけで歴史を知らない人も多いですが、今の発展が突然起きた訳ではないんです。

神社や御寺で願い事をしたら、出来れば御世話に成った神社仏閣の神仏と開基された偉人の皆様に参拝し、そして宮司さん和尚様に年末に御礼参りもしたいですね!

小生は本日、永谷天満宮の神主様の御厚意で納天神祭と言う儀式に参列させて頂きました。
クリスマスに神社でサンタクロースならぬ菅原道真公に参拝してました(笑)。
今年の自分らしい名誉で光栄な〆に成りました。

来週は大掃除でブログ更新できないかも知れません(笑)。
出来たらします!

では…
皆さん、本年もありがとうございました!
来年もよろしく御願いします!



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日々の生活の疲れを忘れさせてくれる場所があります…

鎌倉市街地の少し外れ…
浄妙寺地区に在(あ)る報国寺と言う名古刹(こさつ=歴史の古い御寺)です。
こちらは室町幕府 初代征夷大将軍 足利尊氏 公の御爺様の足利家時 公と…
関東管領上杉家筆頭四家の一つ宅間上杉家の創始者の宅間上杉重兼 公
…その御二人が開基された御寺です。
宅間上杉家は以前紹介した永谷天満宮を開基し、榎下城を築城した足利家と親密な家柄でした。

秋は特に綺麗な御寺です。


つい5〜6年程前まで小生達歴史好きだけが行くような落ち着いた安らぎの場所でした。
歩いて直ぐの近所に旧皇族:華頂宮家の邸宅も保護・無料公開されています。

報国寺は近年、迷惑なミシェランガイドで三ツ星認定されて以来、文化に関心の無い客が増えて大声で話したり、反日某国人観光客が庭園植物にハングルで落書きしたり迷惑千万な状況に陥ってしまいました。

が!

風景は変わらず綺麗です。
この御寺は先述の通り開基された方々からして由緒ある御寺でして…
室町幕府設立後は、室町幕府鎌倉将軍府の鎌倉公方足利家と関東管領上杉家の菩提寺として栄えました。
鎌倉将軍府や関東管領とは何ぞ?
…と言う方の為(ため)に文末に関係記事リンクを貼ります。
もぐりの寄せ集めWikipedia(笑)なぞより詳しく写真付き説明のブログ記事があるので御覧下さい。
他にも報国寺周辺の文化財や風景の記事を書きためて有るので御興味有れば是非、御覧下さい。

コンナ場所とか。

さて…

報国寺は竹林の中でゆっくり抹茶とお茶菓子を頂ける安らぎの場所です。
関東特有の谷戸の切岸に囲まれた地形の放つヒンヤリとした(以前は人も少なく)落ち着いた雰囲気と、竹林の放つマイナスイオンを肌で感じられる場所です。
この奥に東屋(あずまや=休憩小屋)が在(あ)り、そちらで抹茶を頂きながら椅子に座りボぉ〜っと時間を過ごせます。

歴史の深い寺院なので、当然、歴代の武将の矢倉(やぐら=墓:関東では武士の壁面に高い位置に掘れた横穴式墳墓、戦時には本当に砦の矢倉として使用する)もありますが…
偉人の皆様、死して尚(なお)風流と言いますか、安寧の地は真に美しい日本庭園の体を成しておられます。

本当にこの御寺は美しい…
可愛い金魚さん達もお出迎えしてくれますよ(笑)!

皆さん、どうか、この子達のいる報国寺に訪れる機会がありましたら…
素晴らしい文化財、歴史遺産を私達に遺(のこ)して下さった歴代足利家の御当主様達と関東管領上杉家4家の皆様に…
一言、御堂でお参りする際に感謝を伝えて手を合わせてみませんか?

きっと鎌倉公方様も関東管領の皆さんも、喜んで下さると思いますよ♪

あ!
約束したリンク貼ります!

以下が鎌倉公方と関東管領上杉家、報国寺関連の過去ブログ記事のリンクです。

●関東管領上杉家筆頭4家の説明と菅原道真公の五男淳茂公と三男景行公の永谷天満宮の記事「ココ」←クリック!

●関東管領宅間上杉家と榎下城址の記事は「ココ」←クリック!

●関東管領上杉謙信と実家の長尾家長尾城の記事「ココ」←クリック!

●釈迦堂の切通しの記事は「ココ」←クリック!

他にも関係記事多数有るので御興味有りましたら以下のカテゴリーリンクから御覧下さい!

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