ゴールデンウイークの歴史仲間との歴史散歩の記事
この⤴前回の続き・・・
2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目の3回目の記事。
01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
——前回ココ⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。
——今回はココ⤵——
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
07走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日はこの中の長昌寺の部分を書こうと思う。京都の歴史仲間の車懸が来濱して小生の家に滞在2日目、前々回書いた富岡八幡宮を参拝後~前回書いた第四代、六代総理大臣の松方正義邸跡の石碑を見てから~中華民国建国者の孫文先生の日本亡命時の上陸地だった石碑の立つ慶珊寺を参詣し、慶珊寺に眠る戦国時代の旧北条家臣で江戸初期の徳川家旗本と成った豊島家の墓所を参拝した。
そこから徒歩5分程の距離に所在する、昔の人々から❝芋観音❞の通称で愛された長昌寺へと移動した。
富岡山 長昌寺
通称芋観音の別称で地元民に愛された寺を合祀した
戦国時代の北条家臣柳下家と近代の文豪、直木三十五の菩提寺
この御寺は現代でこそ地元民しか知る人も少ないが、実は文化人にとっては非常に重要な御寺で直木賞の由来と成った直木三十五先生の墓所が在り、更に戦国時代に慶珊寺の豊島家と同じく小田原城主の北条家臣の中でも元々は北条本家の直臣だったと思われる柳下家の菩提寺でもあった。
現在の御寺のホームページは東大の前身に成った江戸時代の江戸時代の昌平坂学問所の頭取だった間宮士信サンが編纂した❝新編武蔵風土記稿❞の記載を元にしている様で、江戸時代の彼の存命した江戸時代の一時期は長昌寺は無住職だった。
無住職だったので詳しい御寺の歴史は江戸時代には既に里正(りせい:庄屋)の太左衛門(たざえもん)サンの家の口伝に頼っていた様(よう)で江戸時代に文字お越しする際には既に御寺の開いた時期の元号や時代背景は混乱していた事が現代の歴史オタクが無料で国立国会図書館のデータや横浜市立図書館の蔵書から容易に読み解ける。
つまり、小生の見立てでは長昌寺のホームページに記載の歴史は半世紀ほど間違っていて実際には戦国時代初期に開かれていたのは間違いないと先に結論を申しておきましょう。
では細かい話をる前に現代の御庭の景色の写真を挟み込み、一端区切りを作ってから歴史の話しに突入していきましょう。
門を潜ると石畳の先の正面に御本堂があります。
右手には庫裏(くり)。
御本堂の前の御庭は広くはないけれど御手入れが行き届いています。
ここから歴史の話しに突入して行く・・・
この地域は慶珊寺の歴史からも江戸時代初期の領主は既に柳下家ではなく豊島家に移っている事が分かる。
長昌寺は無住職だった時期が有るので2つの時代の北条家臣の話しが混在して伝わっていて混乱を生んでいる訳です。
次に先に御寺の寺伝が嘘ではない事も解説したいと思います。
長昌寺は無住職だった時期が有るので2つの時代の北条家臣の話しが混在して伝わっていて混乱を生んでいる訳です。
次に先に御寺の寺伝が嘘ではない事も解説したいと思います。
長昌寺は元は長昌庵と言う仏堂で庵程度の規模だった事が分かります、後に御堂が建設される規模の寺院化されている様です。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡 金沢領 富岡村の項目に長昌寺が紹介されています。
除地、村の東にあり、土人東の寺と呼、禅宗臨済派、鎌倉建長寺末、富岡山と號す、
開山仙渓、慶長十六年八月四日寂す、①開基は村民太左衛門が先祖②柳下豊後守なり、③文禄二年閏九月十七日死す、
本堂五間に六間東向、本尊阿彌陀の立像、臺坐共二尺三寸餘、
此本尊は前に云④文禄二年、盗賊亂妨せし時奪去りしが、祟ありしを以て再當庵へ返し安置すと云、
今は住僧なくして詳なることを知す、猶舊家太左衛門が條幷せ見るべし。
天神社。社破壊して未再建せず。
この新編武蔵風土記稿の記載を読むと、どうやら前回紹介した慶珊寺が西の寺と呼ばれていて、こちらの長昌寺は❝東の寺❞と呼ばれていました。
次にポイントを整理します。
①開基は村民太左衛門が先祖柳下豊後守なり
御寺を開いたのは江戸時代には村民、つまり只の旧家程度の現地人に成っていた太左衛門(たざえもん)サンの御先祖で柳下豊後守(やぎした ぶんごのかみ)だった。戦国時代中頃には笠原家が領有し、どうやら江戸時代初期には慶珊寺を開いた豊島家が支配者に成っている事が分かりますから、北条家臣時代に既に領地替えが有った様です。
②③柳下豊後守なり、文禄二年閏九月十七日死す
柳下豊後は諱(いみな)、つまり実名は伝わっていない様です。しかし実は柳下家は現在の緑区鴨居に本柳寺を開いており現在も檀家に柳下姓の御子孫が多く存在しています。
鴨居山 本柳寺
開山仙渓、慶長十六年八月四日寂す、①開基は村民太左衛門が先祖②柳下豊後守なり、③文禄二年閏九月十七日死す、
本堂五間に六間東向、本尊阿彌陀の立像、臺坐共二尺三寸餘、
此本尊は前に云④文禄二年、盗賊亂妨せし時奪去りしが、祟ありしを以て再當庵へ返し安置すと云、
今は住僧なくして詳なることを知す、猶舊家太左衛門が條幷せ見るべし。
天神社。社破壊して未再建せず。
この新編武蔵風土記稿の記載を読むと、どうやら前回紹介した慶珊寺が西の寺と呼ばれていて、こちらの長昌寺は❝東の寺❞と呼ばれていました。
次にポイントを整理します。
①開基は村民太左衛門が先祖柳下豊後守なり
御寺を開いたのは江戸時代には村民、つまり只の旧家程度の現地人に成っていた太左衛門(たざえもん)サンの御先祖で柳下豊後守(やぎした ぶんごのかみ)だった。戦国時代中頃には笠原家が領有し、どうやら江戸時代初期には慶珊寺を開いた豊島家が支配者に成っている事が分かりますから、北条家臣時代に既に領地替えが有った様です。
②③柳下豊後守なり、文禄二年閏九月十七日死す
柳下豊後は諱(いみな)、つまり実名は伝わっていない様です。しかし実は柳下家は現在の緑区鴨居に本柳寺を開いており現在も檀家に柳下姓の御子孫が多く存在しています。
鴨居山 本柳寺
この本柳寺の一帯は港北区の小机城と緑区の榎下城、2つの戦国時代の重要な御城を繋ぐ河岸段丘に有り、街道を抑える防衛上の重要な位置に所在しています。
この小机城は1541年に亡くなった北条氏綱公の治世に北条領に組み込まれた城で、その前の時代には豊島家の勢力圏で太田道灌公によって攻め落とされていた交通と鶴見川の水運による流通経済上の重要拠点でした。
榎下城は日本で神奈川県が最初に戦国時代に突入した原因の永享の乱で室町幕府の将軍足利義教と対立した鎌倉府の鎌倉公方(東日本統治の将軍)の足利持氏公が対立した際に、足利持氏公の側近の宅間上杉憲直公が籠城して幕府軍を迎撃した重要拠点でした。
今川赤鳥紋 竹に雀紋
戦国時代も北条氏綱公~氏康公の時代に成ると既に緑区一帯は北条家の治世で平安な時代を迎えており、鎌倉の西方寺もこの地域に移転してきたりと繁栄し始めています。
榎下城は日本で神奈川県が最初に戦国時代に突入した原因の永享の乱で室町幕府の将軍足利義教と対立した鎌倉府の鎌倉公方(東日本統治の将軍)の足利持氏公が対立した際に、足利持氏公の側近の宅間上杉憲直公が籠城して幕府軍を迎撃した重要拠点でした。
今川赤鳥紋 竹に雀紋
戦国時代も北条氏綱公~氏康公の時代に成ると既に緑区一帯は北条家の治世で平安な時代を迎えており、鎌倉の西方寺もこの地域に移転してきたりと繁栄し始めています。
初期の小田原北条家の主要五軍団である白・黒・黄・青・赤の五色の軍旗で色分けされた軍団の内、白備え隊の拠点に小机城も定まっていました。
どうやら柳下家の豊後守が亡くなった際に内陸の既に平穏な地域に配置換えが有った様です。
恐らく彼の死亡は戦死で一族内の惣領の世代交替があり、小机城落城の後で北条家臣化した豊島家が富岡に配属されたのでしょう。
北条所領役帳には、小机城代で大曾根城主だった笠原家の一族と思られる笠原平左衛門の所領に、柳下家のルーツの地名が登場します。
笠原平左衛門(小机衆の治安維持担当官僚)
九拾貫文 小机 師岡
十八貫文 西郡 柳下
以上百八貫文 知行役如高辻
弐拾貫文 御蔵出 此内六貫文引銭 以上
上の文中に登場する西郡の❝柳下❞が現在の小田原市の鴨宮~西酒匂~酒匂~小八幡の当時の地名だったと考えられており、尚且つ鴨居は初期の北条幻庵公の子で小机城主だった三郎殿=北条時長公の所領だった事も明記されています。
小机衆
三郎殿(北条時長公/小机城主)
~省略~
廿八貫四百卅八文 鴨居
この所領役帳は永正十七年(1520年)~永禄二年(1559年)の間に編纂された物ですから、ちょうど柳下家が戦乱に巻き込まれ、尚且つ鴨居に移転したと思われる時期に重なります。
北条時長公は永禄三年(1560年)に亡くなっている事から、後で解説しますが柳下家は鴨居に享禄二年(1529年)~永禄三年(1560年)の間に領地替えされている事が推測できます。
笠原家は最初期に小机城主を務めたと思われる北条幻庵公と子の北条三郎時長公の付家老だったのですが、所領役帳では小田原市に当時存在した柳下の地名が笠原家の領地に成っているので、役帳の編纂時の検地が行われた時には既に笠原家との領地替えが有り転属している可能性が見て取れます。
そして柳下家は領地替えの際に太左衛門サンの一族だけが富岡に土着して平和な鴨居に転勤したのではないかなと思います。太座衛門サンの御一族は恐らく菩提寺を守る為に残ったのでしょうかねぇ。
柳下豊後が活躍した時代は伊勢から北条に改姓したばかりの小田原城主北条家二代目当主の北条氏綱公の時代に当たります。
まだ有名な氏康サン⤵の時代ではないですね~。
恐らく北条氏綱公が亡くなって遺領が分配された時点で北条幻庵公の直臣に再編されたのではないかな?と思います。
所で、この領地替えの要因は恐らく柳下豊後の討死による当主交代で柳下家の戦力回復の為だったのではないかな?と思うのですが、では本当に風土記の記載の❝文禄❞の時代に東京湾に面した富岡で、現代の感覚で言う内戦が発生し得たのでしょうか?
小生の答えは「NO('ω')ノ!」です(笑)。
文禄二年(1593年)は既に豊臣家により天下統一されており、柳下家の主家である小田原城主の北条家の本家は改易されています。
どうやら柳下家の豊後守が亡くなった際に内陸の既に平穏な地域に配置換えが有った様です。
恐らく彼の死亡は戦死で一族内の惣領の世代交替があり、小机城落城の後で北条家臣化した豊島家が富岡に配属されたのでしょう。
北条所領役帳には、小机城代で大曾根城主だった笠原家の一族と思られる笠原平左衛門の所領に、柳下家のルーツの地名が登場します。
笠原平左衛門(小机衆の治安維持担当官僚)
九拾貫文 小机 師岡
十八貫文 西郡 柳下
以上百八貫文 知行役如高辻
弐拾貫文 御蔵出 此内六貫文引銭 以上
上の文中に登場する西郡の❝柳下❞が現在の小田原市の鴨宮~西酒匂~酒匂~小八幡の当時の地名だったと考えられており、尚且つ鴨居は初期の北条幻庵公の子で小机城主だった三郎殿=北条時長公の所領だった事も明記されています。
小机衆
三郎殿(北条時長公/小机城主)
~省略~
廿八貫四百卅八文 鴨居
この所領役帳は永正十七年(1520年)~永禄二年(1559年)の間に編纂された物ですから、ちょうど柳下家が戦乱に巻き込まれ、尚且つ鴨居に移転したと思われる時期に重なります。
北条時長公は永禄三年(1560年)に亡くなっている事から、後で解説しますが柳下家は鴨居に享禄二年(1529年)~永禄三年(1560年)の間に領地替えされている事が推測できます。
笠原家は最初期に小机城主を務めたと思われる北条幻庵公と子の北条三郎時長公の付家老だったのですが、所領役帳では小田原市に当時存在した柳下の地名が笠原家の領地に成っているので、役帳の編纂時の検地が行われた時には既に笠原家との領地替えが有り転属している可能性が見て取れます。
そして柳下家は領地替えの際に太左衛門サンの一族だけが富岡に土着して平和な鴨居に転勤したのではないかなと思います。太座衛門サンの御一族は恐らく菩提寺を守る為に残ったのでしょうかねぇ。
柳下豊後が活躍した時代は伊勢から北条に改姓したばかりの小田原城主北条家二代目当主の北条氏綱公の時代に当たります。
まだ有名な氏康サン⤵の時代ではないですね~。
恐らく北条氏綱公が亡くなって遺領が分配された時点で北条幻庵公の直臣に再編されたのではないかな?と思います。
所で、この領地替えの要因は恐らく柳下豊後の討死による当主交代で柳下家の戦力回復の為だったのではないかな?と思うのですが、では本当に風土記の記載の❝文禄❞の時代に東京湾に面した富岡で、現代の感覚で言う内戦が発生し得たのでしょうか?
小生の答えは「NO('ω')ノ!」です(笑)。
文禄二年(1593年)は既に豊臣家により天下統一されており、柳下家の主家である小田原城主の北条家の本家は改易されています。
豊臣家 北条家
つまり北条家臣として戦闘に巻き込まれる訳が無い時代です。
この時点で記載が誤りで有る事が解ります。
つまり北条家臣として戦闘に巻き込まれる訳が無い時代です。
この時点で記載が誤りで有る事が解ります。
先に述べた通り既に北条家は改易され、この頃は豊臣家で1万石の大名として大阪府狭山市で小大名に成っていたので柳下家は既に北条家臣では無かった訳です。
更に皆さんも義務教育で習った歴史で御存知の通り、豊臣秀吉は❝惣無事令(内戦禁止命令)❞を出しています。
この豊臣家による北条家改易の頃の事は都筑区の茅ヶ崎城址近くの御寺、正覚寺の紹介記事で秀吉の文書を紹介しています。
この豊臣家による北条家改易の頃の事は都筑区の茅ヶ崎城址近くの御寺、正覚寺の紹介記事で秀吉の文書を紹介しています。
しかも、この時期は文禄の役で朝鮮半島に日本国連合軍として各大名家が攻め込んでいる段階なので柳下家が富岡で戦闘行為に巻き込まれる訳が有りませんし、柳下家ではなく徳川家臣化した旧北条家臣の豊島家が既に領主に成っている時期です。
つまり時代の間違いが発生している事が分かります。
これに関しては似通(にかよ)った元号、閏月の有る年に富岡周辺が係争地に成っているかを検証すれば柳下豊後の死亡時期が特定出来る可能性が有ります。
そこで新編武蔵風土記稿の記載④文禄二年、盗賊亂妨せし時の部分が鍵に成って来ます・・・
文禄二年閏九月十七日死すだと、文禄二年(1593年)閏九月十七日。
この日付が既に誤伝な事は豊臣家と北条家の歴史から御理解頂けたかと思います。
では、元号から歴史事実を突き止めて行きましょう。
③文禄二年閏九月十七日死す
文禄二年閏九月十七日
これは恐らく享禄年間と文禄年間の話しが混ざって誤伝しています。
文禄は恐らく豊島家が徳川家臣化して慶珊寺と長昌庵の大檀那(だんな:檀家総代)に成った時期が文禄で、似た元号の享禄年間の話しが柳下家の伝承でしょう。
実は享禄年間前後には富岡のみならず磯子区杉田~三浦半島走水が度々里見家の海賊に襲撃されています。
最たるものが鶴岡八幡宮合戦ですね。
房総半島の里見家や里見家の従属大名の正木家が享禄年間前後に東京湾沿岸南部~三浦半島に度々乱入し神社仏閣や商家や民家を襲撃して略奪放火を繰り返していた時期に当たり、その中でも最大規模の合戦に成ったのが鶴岡八幡宮合戦で、杉田~三浦半島に上陸した里見家が鎌倉市街まで攻め上がり鶴岡八幡宮と市街地を略奪放火して灰燼に帰してしまい、更に里見家が北条家の鎌倉の交通網の防衛拠点である玉縄城迄攻め込む事態が発生しています。
この話は源頼朝公が開いた磯子区中原の泉蔵院熊野神社や、鎌倉時代の名越北条家が支援した杉田商店街の中に有る東漸寺、戦国時代の北条家臣杉田間宮家の菩提寺の妙法寺の歴史で触れています。
この日付が既に誤伝な事は豊臣家と北条家の歴史から御理解頂けたかと思います。
では、元号から歴史事実を突き止めて行きましょう。
③文禄二年閏九月十七日死す
文禄二年閏九月十七日
これは恐らく享禄年間と文禄年間の話しが混ざって誤伝しています。
文禄は恐らく豊島家が徳川家臣化して慶珊寺と長昌庵の大檀那(だんな:檀家総代)に成った時期が文禄で、似た元号の享禄年間の話しが柳下家の伝承でしょう。
所で長昌寺の寺伝では柳下豊後守サンが亡くなったの槍による刺傷が原因と伝わります。
文禄三年時点での千葉県南部の大名の里見家の当主は里見忠義で、既に現在の神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部~群馬県の領主は徳川家です。
惣無事令を発効させた豊臣政権下で里見家が徳川家を襲撃する訳が有りませんね?
では文禄年間以外に閏月が有るか見て見ましょう・・・
文禄二年(1593年)閏九月十七日
享禄一年(1529年)閏九月十七日
ビンゴっ('ω')ノ!
享禄一年(1529年)閏九月十七日だとすれば、死因の槍傷は里見家の海賊との戦闘で受けた様ですね?
恐らく昔あるあるで閏月十七日だけ伝わってたので、江戸初期の大檀那が豊島家だった歴史の❝先入観❞から文禄と決め付けたんでしょうね。
文禄三年時点での千葉県南部の大名の里見家の当主は里見忠義で、既に現在の神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部~群馬県の領主は徳川家です。
惣無事令を発効させた豊臣政権下で里見家が徳川家を襲撃する訳が有りませんね?
では文禄年間以外に閏月が有るか見て見ましょう・・・
文禄二年(1593年)閏九月十七日
享禄一年(1529年)閏九月十七日
ビンゴっ('ω')ノ!
享禄一年(1529年)閏九月十七日だとすれば、死因の槍傷は里見家の海賊との戦闘で受けた様ですね?
恐らく昔あるあるで閏月十七日だけ伝わってたので、江戸初期の大檀那が豊島家だった歴史の❝先入観❞から文禄と決め付けたんでしょうね。
実は享禄年間前後には富岡のみならず磯子区杉田~三浦半島走水が度々里見家の海賊に襲撃されています。
最たるものが鶴岡八幡宮合戦ですね。
房総半島の里見家や里見家の従属大名の正木家が享禄年間前後に東京湾沿岸南部~三浦半島に度々乱入し神社仏閣や商家や民家を襲撃して略奪放火を繰り返していた時期に当たり、その中でも最大規模の合戦に成ったのが鶴岡八幡宮合戦で、杉田~三浦半島に上陸した里見家が鎌倉市街まで攻め上がり鶴岡八幡宮と市街地を略奪放火して灰燼に帰してしまい、更に里見家が北条家の鎌倉の交通網の防衛拠点である玉縄城迄攻め込む事態が発生しています。
この話は源頼朝公が開いた磯子区中原の泉蔵院熊野神社や、鎌倉時代の名越北条家が支援した杉田商店街の中に有る東漸寺、戦国時代の北条家臣杉田間宮家の菩提寺の妙法寺の歴史で触れています。
では④文禄二年、盗賊亂妨せし時、これが小生の推測通りに里見家の海賊の仕業なのでしょうか?
これもちゃんと元号は間違えたままですが新編武蔵風土記稿に記載が有ります。
但し、長昌庵(長昌寺)の部分ではありませんよ。
舊家(旧家)者百姓太座衛門
柳下氏なり、祖先を柳下豊後守と云(言う)、文禄(➡訂正:享禄)二年安房上総の盗賊此邊(この辺り)を亂暴(乱暴)せし時、村内長昌庵は豊後守が開基(かいき:寺院を開く事)の庵室(仏教系の草庵)なれば、其本尊を取とゝめ(とどめ)しとて今に家蔵(かぞう:家で保管)す、大身の槍なり、其由来(そのゆらい)を記(しる)せし一巻を添置(そえおけ)り、豊後守は其時(そのとき)の手疵(手傷:てきず)にて同き(同期:同時期)閏九月十七日死すと云う、夫(それ)より代々(だいだい)連綿(れんめん)として今の太座衛門に至る。
この通り、柳下豊後が槍傷を受けたのは安房・上総の海賊による攻撃だったと明記されていますね。
であれば文禄は無い。これは小弓公方(おゆみくぼう:足利家の分家)を支持する里見家と正木家等による鎌倉攻略を目論む戦闘行為以外に有り得ない訳です。
小弓公方と言うのは以前も北鎌倉の浄智寺、金沢区の禅林寺と常福寺廃寺跡の記事で紹介した鎌倉公方の足利持氏公や足利成氏公の御子孫で鎌倉公方家の分家に当たる家柄ですね。
これもちゃんと元号は間違えたままですが新編武蔵風土記稿に記載が有ります。
但し、長昌庵(長昌寺)の部分ではありませんよ。
舊家(旧家)者百姓太座衛門
柳下氏なり、祖先を柳下豊後守と云(言う)、文禄(➡訂正:享禄)二年安房上総の盗賊此邊(この辺り)を亂暴(乱暴)せし時、村内長昌庵は豊後守が開基(かいき:寺院を開く事)の庵室(仏教系の草庵)なれば、其本尊を取とゝめ(とどめ)しとて今に家蔵(かぞう:家で保管)す、大身の槍なり、其由来(そのゆらい)を記(しる)せし一巻を添置(そえおけ)り、豊後守は其時(そのとき)の手疵(手傷:てきず)にて同き(同期:同時期)閏九月十七日死すと云う、夫(それ)より代々(だいだい)連綿(れんめん)として今の太座衛門に至る。
この通り、柳下豊後が槍傷を受けたのは安房・上総の海賊による攻撃だったと明記されていますね。
であれば文禄は無い。これは小弓公方(おゆみくぼう:足利家の分家)を支持する里見家と正木家等による鎌倉攻略を目論む戦闘行為以外に有り得ない訳です。
小弓公方と言うのは以前も北鎌倉の浄智寺、金沢区の禅林寺と常福寺廃寺跡の記事で紹介した鎌倉公方の足利持氏公や足利成氏公の御子孫で鎌倉公方家の分家に当たる家柄ですね。
この柳下家関連の元号の誤認の定着は新編武蔵風土記稿の編集の最高責任者の間宮士信サンの下で校閲担当した連中も悪いし、昭和に成って何の疑問も持たず検証もしいまま世間に流通させた出版社やコピペするだけの文献考古ニキ達も悪いし、江戸時代当時の屋号が太左衛門の柳下家の御子孫も悪い。
江戸時代から200年も皆してやらかしっぱなしを放置してた訳です。
・・・ってな訳で、長昌寺の開基年代は戦国時代初期迄半世紀チョイほど前倒しされて更に寺院としての古さが増す訳です。
でも、車懸と参拝した日は、柳下豊後の話しだけして掘り下げた歴史の話しまではせず、それよりも近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺である話や吉川英治先生も横浜市出身だった話しばっかりしていた気がする(笑)。
では御寺の景色紹介に戻りましょう。
ここは金沢七福神の1つ布袋様の御寺でもあるんです。
御庭には立派な瓦が飾って有ったり石仏様がいらっしゃいます。
御本堂に向かって左手奥に進みましょう。
更に進むと右手に元々は柳下豊後守の時代から鳥見塚、恐らく現在の富岡総合公園の池の畔に有ったはずの地元の方々に❝芋観音❞と親しまれていた観音様の御堂が在ります。
この文章の中に登場する鳥見塚辺りは現代では富岡総合公園に成っていますが、戦時中は横浜海軍航空隊の基地に成っていました。
芋観音様の話しなので、ソチラは改めて別の機会に紹介します。
合唱一例、北条家の三鱗紋。
御堂の中は見えますが、観音様の御厨子は普段は御開帳されていない様です。
この芋観音様に向かって左手に直木賞の由来の近代の文豪、直木三十五先生の墓所が存在しています。
普通の人には柳下豊後の話しより、コッチの方が凄いかな?
まぁ、車懸も横浜の住宅街の中の余り大きくない御寺にコンナ偉人との関係が有るとは思っていなかった様だ。
当然だよね(笑)、でも実は平成世代には漫画の横山光輝三国志の原作小説の作家として認識されていて、昭和世代には歴史小説の大家(たいか)として有名な吉川英治先生も横浜市中区の出身だったりする。
有島武郎も横浜市出身、横浜市歌の作詞も森鴎外だったりするし大佛次郎も関係したりするので、実は何気にに横浜市は文豪と所縁深い。
直木三十五先生の墓所を参拝し戦国時代の北条家臣の柳下家の歴史を車懸と散策してから次の目的地の三浦半島観音崎手前の走水、味見食堂~浦賀の千代ケ崎砲台に向けて出発した。
続く・・・