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タグ:安達盛長

前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
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冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
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華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
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現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
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・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
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御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
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大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
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今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
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右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
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・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
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例えば金剛寺近くの龍藏神社だが・・・
この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたりした。その一つが龍藏神社で昔の金剛寺の山門はこの附近だったそうだ。塔頭だったのに神社化したので御堂として仏様を安置出来なく成り寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
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例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
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境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
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・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
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・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
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弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
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足利家の家紋だな。
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まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
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英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
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蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
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太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
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御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
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暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
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つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
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写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の源氏山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
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弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
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太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
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御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





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休日雑記 2017年06月24日の訪問先その③・・・江ノ島(稚児ヵ淵~第一岩屋~第二岩屋~福島漁村句碑~玉屋のようかん)
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コレの続き。
江の島を後にして、江ノ電の駅へ向かう途中、150年超の歴史を誇る玉屋のようかんで何故かキャラメルを買った後の話。

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江ノ電の駅に着くと直ぐに電車が来た。

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車両は見るからに新しいがカラーリングが昔の儘(まま)で好きなタイプだった。
うむ、幸先良い。
江ノ電は個人的に好きだ、鎌倉の山の迫った土地の僅かに開けた狭い谷合と扇状地に商店・神社・仏閣・旅館・料理屋が立ち並び江ノ電が建設される時代には既に線路を引ける用地が無かった。だから通常有り得ない場所に線路が敷設された。住宅街の路地や商店街の普通の道路の上だ。
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だから今でも車窓から見える車と人と建物の距離が異常に近く、多くの場所が路面電車として走行する事に成る訳だ。この風景が神奈川県民にとっては面白い。
他府県には未だに路面電車が走る場所も有るが、横浜市を始めとして県内では交通渋滞対策から路面電車は姿を消して久しい。代わりに横浜市営地下鉄や湘南モノレールやシーサイドライと言うモノレールが導入された訳だ。
この年配の方には懐かしいであろう車と電車の距離感を楽しめるのは、我々昭和後期~平成生まれ世代にとっては新鮮で乗車中は旅行している気分を味合わせて貰える訳だ。
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海の横を走る路線場所も有り、七里ヶ浜辺りを走る時は風景がとても綺麗だ。
この七里ヶ浜の鎌倉高校前駅は“関東の駅100選”にも選ばれた景勝地でもある。
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昔ガラケーで撮影した写真なので画素数も低いのはご勘弁。
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スラムダンク鎌倉高校前駅横踏切DSC_2722
この駅の横の踏切が又、アニメ版スラムダンクのロケ地に成った場所で台湾やアジア諸国から親日家の多くの旅客で賑わう。ハネムーンで来る新婚夫婦も多い。
日本が好きでいてくれる秩序有る外国人客で賑わうのは嬉しい、特に新婚旅行で来てくれたカップルには鎌倉名物の女夫饅頭を御馳走したく成る位だ(笑)。
更にこの七里ヶ浜付近、小生のブログを読んで下さる方は江戸時代も富嶽三十六景で描かれている事を知っている人は多い訳だ。
富士三十六景
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この風景は七里ヶ浜の東端、稲村ヶ崎辺りから見た風景だ。
もし富士山を綺麗に見たいのなら海上の水蒸気の薄い晩秋~冬季をお勧めする。
下の写真は当日では無く昨年末か今年の正月に撮影した物。
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とにかく綺麗な風景なので一見の価値が有る。
さて、この日は最大の目的が長谷寺での紫陽花の見学だったので七里ヶ浜駅や鎌倉高校前駅では途中下車せず長谷駅に向かった。
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途中住宅街を通るので、家のすぐ横で江ノ電同士が行き交う様を見れたり、短くも非常に有意義な時間を過ごせた。いつも近いから車で来ちゃうからね。
長谷駅を降りて、既に夕方16時位だった。しかし長谷駅で多くの観光客が降車し路上にも多くの観光客がいた。これでは長谷寺に行っても待ち時間の都合で紫陽花は見学出来ない。仕方が無いので断念し、後日小生の住む横浜市の円海山の麓から車でそう遠くない港南区の永谷天満宮の紫陽花を見て今年は満足する事にした。
で、江ノ電を降りて最初に向かったのが鎌倉市内で最古の神社である甘縄神社だ。
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神社が最初に造営されたのは和銅三年(西暦710年)の事、土豪の染谷時忠によって開かれたと伝承しているそうだ。この染谷家の祖先がどの皇族や貴族なのかは恥ずかしながら浅学の小生はまだ存じ上げない。
所で余り知る人はいないが、ここは鎌倉幕府にも非常に関係の深い神社なのだ。
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西日が乱反射して上手く説明の看板が撮影できなかったが、源頼朝公の御先祖で平安~鎌倉~戦国時代の武士達から軍神として崇められた源 八幡太郎 義家 公、源義家公が再建した神社でもあるのだ。
更に凄いのは、鎌倉時代に成っても鎌倉市街に西側から敵が侵入した際の最終防衛ラインに成るので重要な武士がここに配置され邸宅を構えていた。
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安達藤九郎盛長公だな。
最初は安達ではなく姓を足立と名乗った。つまり武蔵国足立郡の出身の武将だ。出世して一族の区別を付ける為に足立から安達に字を改めた様だ。
足で立つ=足立より・・・安心に達する=安達の方が縁起も良いしね。
この人は重要な人物で、源頼朝公のボディーガード兼秘書をやっていた人物で、初期の参謀だった方だ。
源頼朝公が浪人していた頃から忠義を尽くし、源頼朝公の三島大社参詣の折にも護衛した伝承が残る。
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だから三島大社には、その時に安達盛長公が頼朝公の参詣中に待機した松の木も未だに残っている。
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非常に神奈川県に御縁の深い人物で、他にも厚木市白山の白山温泉郷から近い飯山観音入口に在る桜並木の綺麗な華厳山金剛寺を源頼朝公と開基したりもしている。
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この御寺は現在では曹洞宗の御寺で御住職は常駐していない場所だが、源頼朝公と安達盛長公の開いた御寺なので当然寺格は高い。しかも御寺以前の仏教の草庵が弘法大師空海和尚様によって開かれ戦国時代までは真言宗の御寺だった。
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だから参道には元々本堂だったかも知れない太子堂が有るのだが、神奈川県教育委員会が保護をしないので酷い朽ち方をしていたりする。
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因みにこの太子堂は鎌倉時代造営時のまま存在している大切な場所だそうだ。
寺紋に足利家の家紋が有るのは鎌倉公方家から崇敬を集めていた証拠だろう。
この金剛寺に安達盛長公の墓所が在る。しかし他にも墓標の有る御寺が有るので正直、どこが菩提寺かは解らない。しかし、厚木の白山辺りが元々は鎌倉幕府の重鎮で政所別当(内務大臣)の大江広元(おおえのひろもと)公の領地だった筈なので、三浦家-大江家と安達家-北条家が軍事衝突した宝地合戦で三浦家と大江家が滅亡した後に、大江家の旧領の同地が安達家に恩賞として与えられたと考えた方が自然だろう。と、するならば厚木の金剛寺を菩提寺とする安達家の武将は時代的に宝地合戦で活躍した安達景盛公と成るだろう。
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さて、そんな厚木の金剛寺や伊豆の三島大社とも関係が深い、鎌倉時代中頃の最重要大名の安達家の邸宅がここに在ったので、更に重要な人物もここに当然関わりが有った。
先ずは神社を御参り、そして施設の紹介を解説してからその話をしよう。
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これは拝殿であって本殿ではない。甘縄神社の本殿はこの大きな拝殿の更に裏の一段高い壇地上に在る。でも庶民の小生は今回は拝めるのはここから。
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拝殿左右の狛犬さんは凛々しいが石材の腐食と彫刻のデザインを見る限り、この狛犬さんの彫られた年代は古くて昭和後期、新しければ平成に成ってからだろう。とても力強いデザインだ。
でもなんか小生から見ると子供の頃に遊んだゾイドってプラモデルの恐竜ロボットぽいな(笑)。
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何か良く解らん「〇壽の碑」と言う石碑が拝殿右手に建っていた。見ると「建長曇華九十翁書」と書いてある。
この「建長曇華九十翁書」とは臨済宗鎌倉五山第一位の建長寺住職で1842年生まれの菅原曇華(すがわらどんげ)和尚様の事らしい。90歳で昭和31年に亡くなった臨済宗の近代の高僧だ。
多分、この石碑の最初の文字は卒の簡略字で「卒寿の碑」と書いて有るんだな。
卒寿と言うのは90歳の御祝いの事だそうだが、だとすると菅原曇華和尚は石碑に揮毫(きごう=代筆)した直後に亡くなったのだろう。
・・・う~ん微妙。
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その横の石碑・・・
「石渡(いしわた)惣左衛門(そうざえもん)サンって人が神社の石の玉垣を十六間奉納しましたよ~」
・・・って書いて有る。
拝殿に向かって左手に境内社が鎮座している。
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五所神社。
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何の神様を祀っているか解らないが、5柱の神様を一緒に祀ってらっしゃる様だ。
近所に在った小さな神社の神様を纏めて御祀りしたのか、相模国一之宮寒川神社~護尾有鹿神社の神様を勧進したのか?全く説明が無いので解らなかった。
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拝殿の右手にはこの鳥居が有って、登って行くと・・・
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秋葉権現様が御祀りされている。火除け神様であり武士から信仰された神様だ。
その少し先に行くと拝殿の裏側に回れる。
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そこからは正面から見る事の出来なかった壇地の上の本殿も見る事が出来る。
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比較的新しいので昭和の再建だと思う。昔は下の拝殿の横を通り参詣者は直接この壇地の本殿まで来て参拝していたんだろう。鎌倉市内で古い佐助稲荷神社なんかと同じ配置だからね。
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写真を撮り忘れたのだが、ここは鎌倉幕府の第八代執権だった北条時宗公が生まれた場所でもあるそうだ。だから本殿の前には時宗公産湯の井戸の説明書きが有ったと思うが、井戸らしき物は見なかったと思う。
甘縄神社での参拝を終えて、大通りへ戻る途中、ベンチがあったので座ってスマホで地図を確認していたら徹夜で夕方まで歩き回っていたせいで一瞬寝落ちしてしまった(笑)。その後直ぐに復活したが、長谷寺に行くのは時間的に諦めていたので今回の小旅行の3つ目の目的である鎌倉名物の「女夫饅頭食べ比べ」をしに長谷駅近くの老舗恵比寿屋に移動した。
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ここは昔ながらの女夫饅頭の名店。
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店内の写真撮影に御主人と奥さん快諾してくれたけどシャイで顔はNGだそう(笑)。
でも写真撮らせて下さってありがとうございます!
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店構えも立派なだけでなく明治時代からの数々の品評会で入賞した賞状が掲げられている。
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凄いのは明治天皇と昭憲皇太后から感謝状が贈られていたりする。
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大正時代の賞状も有った。
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ここの女夫饅頭は珍しい黒餡、中華饅みたいな感じの餡だね。とても美味しかった。
長谷駅に戻ると紫陽花見学帰りの客でごった返して写真撮影どころじゃない程だった。
しかも乗車したら今度は次の目的地の和田塚で降りる事も出来ず、仕方ないので終点の鎌倉駅まで一度戻り、再び乗車して一駅手前の和田塚に行く事にした。
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江の電鎌倉駅の夏の異常な賑わい。
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まぁ、小生もその乗客の一人なんだけどね(笑)。
鎌倉の次の駅、和田塚駅に戻り、本来は長谷寺の次に訪問する予定だった和田塚へ移動した。
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和田塚は和田塚駅から徒歩直ぐの場所に在る。
正式な名称は“無常堂塚”だが、鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛公と一族の埋葬地なので和田塚と近年に成って呼ばれる様に成った。
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木々に覆われているが、ここは元々は古代人の古墳だったそうだ。
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立派な大木が根を張っている。
ここには和田一族や西湘の中村一族の英雄達が自分の正義の為に戦い、亡くなり、葬られた“聖地”だ。
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ここを似非(エセ)霊能者が心霊スポット扱いするが、本来の武士の考えや神道の考えでは正義や信念を貫いて戦った勇者は人々を守護する荒神であり守護神と成る。
小生は個人的に宝地合戦で正義を貫いて亡くなった和田義盛公と土肥實平公の孫である土肥惟平公の一族をとても尊敬している。特に和田義盛公は鎌倉時代に戦国時代のタイムトラベラーなんじゃないかと思うような先進的な自料での通行税の導入をしていたり、縄張りした怒田(ぬまた)城や野庭関城等は戦国時代の城と同じ街道を抑える平山城の群郭式縄張りだったりするんだな。
※以前書いた野庭関城の記事→
そして一文無しの源頼朝公の窮地を御救いして真っ先に出世した先見性も素晴らしい。ただ、同族の三浦家に裏切られたのが不運だった。
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だから、小生にとっても三浦一族にとっても三浦家の家臣団の子孫にとってもここは聖地であり、武家の本懐を遂げた英雄の眠る場所なんだな。
そこを心霊スポットする輩は、その自分の浅はかなデマによって逆に荒神様と成る中村党と和田家の英霊に天誅を与えられるだろうと思う(笑)。
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各時代の和田義盛公を尊敬する人々によって供養の石塔が奉納されている。
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ここは多くの人にとって武士の正義を貫いた男達の眠る“聖地”であり、寧ろパワースポットな訳だ。
ところで、まぁ、確かに一般の歴史に興味の無い人にとって怖い物も地面から露出していたりする。
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司馬遼太郎先生も紹介しているが鎌倉は掘れば骨が出る場所が多く昔は小学校の校庭で白く光る小石の様な物は露出し風化して破砕された骨片だったりした訳だ。
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まぁ、由比ヶ浜なんかは共同墓地だったので多くの骨もたまに発掘されたりする。
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今回の訪問でも地面に骨片らしき物が有った。
小生にとっては尊敬すべき人々の生きた証だな。
和田塚こと無常堂塚で尊敬する和田義盛公と土肥家の殿様達に御挨拶を終えて、鎌倉の次の女夫饅頭の店に徒歩で移動する事にした。
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途中、いつも車中から見るレトロな銀行跡の建物の前を通った。
ここを過ぎると一昨年の映画、“駆け込み女と駆け出し男”でヒロインが悩むワンシーンのモデルに成った場所が在る。
駆け込み女と駆け出し男
駆け込み女と駆け出し男を紹介した時の記事→
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その場所がここ、六地蔵。元々はもっと海寄りの由比ヶ浜近くに在ったそうだ。
そこが映画ワンシーンの舞台に成った。
本は供養塔の役割も果たすお地蔵様だったそうだが、現代では地域の人の守り仏に成って市民と旅行者を見守って下さっている。
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お地蔵様の赤い前掛け、失礼かも知れないけれど可愛い(笑)。
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その裏手には御稲荷様も何故か鎮座していた。ちゃんとお地蔵さまに御参りした後、御稲荷様にもいつも行く先々で御加護御守護頂いている事に御礼を申し上げた。
そして最終目的地、鎌倉駅からすぐ近くの女夫饅頭の店へ移動。
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蔵屋敷の立派な店構え。松風堂本廛(本店)。
ここも昔ながらの女夫饅頭の店で、店構えが非常に人の気を引く。
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饅頭は酒饅頭だった。結構歩いて疲れていたので、改めてこの糖分が帰る気力を養ってくれた。

ふむ、長谷寺の紫陽花は見る事が出来なかったが良い一日と成った。
鎌倉駅に歩いて帰り、そこから横須賀線で大船駅に帰り帰宅した。

皆さんは梅雨の季節、どう過ごされたのだろう?

さて、今回の記事はここまで!次回はどこかの城か神社御寺の解説記事か、一月に入ってから訪問した場所の休日雑記を書きたいと思います。
では!又、次のブログ記事でお会いしましょう!
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2016年07月の最初の土曜日早朝…
休日恒例の徹夜で静岡県三島市へ向けて車で出発。
三島市周辺
大きく分けて目的は4つ…
1つ目の用事
横浜の戦国時代の名将、間宮康俊公の最期の勇戦の地、山中城の写真撮影。
…これは間宮家の顕彰文に使う写真を改めて準備する為。約10年位前の最初の訪問時はガラケーの写真しかなかったから。小生にとっては山中城でやらなければ行けない事も有った。康俊公の御廟所への御参りだ。

2つ目の用事
武家文化を昇華させて、蒙古の襲来を撃退する程の軍事組織の基礎を構築して日本を守って下さった源頼朝公、そして戦国時代の北条の善政の礎を築いて下さった北条早雲公が鶴岡八幡宮と同等に崇敬した三嶋大社を小生も大切にしたかったから。
加えて毎日、大山阿夫利神社を遥拝して大山祇神様にいつも御守護を祈願しているので、三嶋大社の御祭神でもある大山祇神様に御礼参りをしたかったから。ついでに御朱印も貰いたかったから。

3つ目の用事
三島市の山中城研究家の方に、色々と最新の調査結果踏まえて間宮家が如何に活動をしたか、豊臣勢が如何にして攻城したかを、文献だけでは解らない部分を御教授して頂く為の訪問をする為。

まぁ~、そんな訳で、昨日は仕事が払暁も迫る頃に終わり帰宅すると直ぐに入浴し、夏の山登りで汗もかくだろうから着替えやら❝山中城縄張り図❞やら❝関東八州古戦録❞の抜粋コピー、それと筆記用具と御朱印帳をリュックに詰め込んで車に乗り込みAM:06:00に横浜を出発!
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山中城周辺は何も御店が無いので西湘バイパスの西湘PAで朝食をとる事にした。
注文したのは湘南らしいと言うかベタと言うか、御気に入りの❝ネギトロ&シラス丼❞。
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朝から重い?と思われるかも知れないが、魚肉は全く胃にもたれない小生の体質。
海の魚を食べないと寧(むし)ろ体調が悪く成る。
ただ、この西湘PAで一抹の不安を感じる事が有った…
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霧が出ていて眺望が悪い。西側を見ても伊豆半島が見えない程だった。
…標高の低い場所でこの状態だと箱根の天候は濃霧が予想出来る。沢・滝・湖が多く湿度に満ちて更に標高高く曇天だと雲の中を走る事に成る。
食事を終えて出発し、小田原市街で降りずに西湘バイパスから箱根湯本を経由した。
小田原市の風祭辺り~かつて総堀の更に外の守りの役割りを果たしていた早川に差し掛かると、既に濃霧だった。
更に走り大平台温泉郷辺りに差し掛かると、もう、50m先も見えない状態。ハマっ子の小生は、このシチュエーションに不慣れ。
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赤信号で止まると、交差点の反対側、交差する左右の信号と車すら見えなかった。
危険なのでヘッドランプを点灯し気を付けて運転し山中城を目指した。
箱根に入ってしまうと、山中城までは30分程度でついた。
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ここは日本100名城に選定されて、最近は❝トイレ❞が増設されて山城散策の強敵の❝生理現象❞に皆が打ち勝てる様に成った。実に素晴らしい!
山中城の見学は車で来る以外に手段が無い。少々不便。しかしながら遺構の保存度と発掘後の修復度は極めて良好で現存範囲も可成り広い。
南関東の戦国時代の城好きの入門者は、この山中城か、東京都八王子市の滝山城か、横浜市港北区の小机城か、千葉県の佐倉城辺りの見学から入ると、実地で防御施設の勉強が出来る。
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ここは古道の史跡でもあり、城内を貫く江戸時代の東海道が補修保存されている。
…この道を辿って歩いて行けば江戸の日本橋~京都の三条大橋に着く事が出来る。
さて、この江戸時代の東海道の左右、南東側に岱崎出丸、北西側に三之丸と仮名された防御施設がある。
通説では小生の尊敬する間宮康俊公は岱崎出丸で奮戦し討死、或(ある)いは自決した事に成っているが来年、この多くの学者・小説家・城郭研究科が妄信して来た解釈は使えなく成り誤りと成る。
まだ詳しい事は話せないので、ここまでにして置くが…
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岱崎出丸は建造途中で敵の攻撃を受けた。しかしながら、現在人が北条流の築城術を学ぶ素材としては非常に優れた施設で、どの様に関東ローム層を活用した築城を北条氏が行っていたか、建設途中の状態で保存されているからこを良く解る。
無論、嘗(かつ)て二ノ丸と江戸時代の軍学者に仮名を付けられていた北条丸/北条曲輪、西ノ丸や本丸の傾斜にすら意味がある事が、近畿流の築城術との違いを物語っている。
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ここの畝掘りは凄まじい。
往時は畝の先端の幅は狭く、深さが2m以上有った上に関東ローム層の堅くて成型し易い地盤は、一度水に濡れると表面は忽(たちま)ち泥に成る築城には都合の良い特性がフル活かされている❝人間蟻地獄❞だった。
守備側は畝掘りや障子掘りに落ちた敵を淡々と弓矢や銃で射殺して行く訳だ。
さて、今回は改めて沢山の写真を撮影できたので、いずれ又、別個に山中城の解説を記事にする予定。
今回、先に出丸を見学した後で、城址本体の前に間宮康俊公等勇戦武将達の菩提寺として康俊公の姫君で徳川家康公の側室に成られた間宮於久(おひさ)様が開基(かいき=御寺を造営する事)された宗閑寺にて、殿様に8年ぶりくらいの御参りをした。
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御寺の本堂は大きくは無いが、今も山中新田地区の住民皆様達が御守り下さっている。
御廟所の写真は撮らない主義なので今回も載せない。
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於久様が家康公の側室に成られているので、現在は住職不在の御寺でも格は高く寺紋に三つ葉葵の御紋の使用が許されており、今も屋根の上に燦然と徳川家の家紋が輝いている。
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ここは鎌倉時代以来の武士の文化を良く表した場所でもある。
敵味方の怨讐を超えて、間宮康俊公の手勢に打ち取られた豊臣秀吉旗下の大名一柳直末公や旧織田家臣の長谷川家や徳川家の武将多米家の武将等、皆が寄り添って廟所を共有している。
江戸時代、それぞれの御子孫は御互いに敬意を払って追善供養をしたようだ。
於久様が最初に御自分の御父君である康俊公と敵味方の区別なく一柳家も供養する為に御寺を建てて、後に一柳家の御子孫も山門代わりの石柱を奉納し、そこに双方の武勇を顕彰した銘文を石工に彫り込ませた。
なんとも武士らしい潔く清々しい、死力を尽くして戦った後も双方に敬意を持つ文化が、この場所には残っている。
山中城にはAM:08時頃~12時過ぎまで居たので、関東八州古戦録と言う本を読みながら豊臣軍の侵攻路や渡辺了の侵入経路を真似して辿(たど)って信憑性を検証しながら、各施設全て撮影して回ったので4時間も滞在してしまった様だ。
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写真では解り難いかも知れないが、畝掘りの上に結構大きな蛇がいた。
動かないので死体かと思って遠くから石を投げてみたら首を持ち上げコチラを向いた。
古来、富の神様の宇賀大神=倉稲魂命(うかのみたまのみこと)=辨財天と日本では富の神様として蛇の胴体に人の頭を持つ神様として信仰された縁起の良い神の使いな訳だ。
エジプトや中国では医療の神の象徴だった。
石を投げたのは、この蛇サンに失礼だったが神様の使いの側面も有している歴史が有るので、城址の守り神様に見学者の安全を宜しく御願いしたりしてみた。

山中城址の見学を終えて、駐車場に戻り売店の御婦人御二人に幾つか質問をして、ついでに三島の名物は何かを訪ねた所、鰻料理だと言う事なので昼食は鰻と定めて次の目的地の三嶋大社に向かった。
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三嶋大社には山中城から30分位で到着したと思う。
距離的には近いのに思いの外時間がかかった。途中、伊豆フルーツパーク等、家族連れには楽しそうな道の駅らしき施設が在ったが時間が足りないので今回はスルー。直接三嶋大社に来た。
到着して正面の大鳥居の写真撮影に表参道へ来たら…
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目の前に昼食にと決めていた❝三島市名物のうなぎ❞を提供する店が有った。
価格は愛知県の❝ひつまぶし❞の名店として有名な❝備長❞の観光地、東京スカイツリー支店と同じ位の高価格だったが、鰻丼は1600円位とランチとしては妥当な価格だったので、鰻丼+エビフライの1800円前後の定食を頂いた。
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鰻食べれて満足。
直ぐに三嶋大社を参拝した。
参道入口には、さっそく頼朝公と参謀の安達盛長公の関係を示す伝承が残っていたり、宝物殿もあり歴史が好きな人間は色々と観察する場所が有った。
三島大社は、どうやら古代においては前面の池が旱魃でも枯れないので、雨乞いの聖地としてスタートした様だ。
三島大社の説明では、天皇が誰かあやふやだったが年代が書いて有ったので淳和天皇の時にも雨乞いが行われ、神事と自然信仰に熱心だった頼朝公は、この故事を御存知だった事から後に、この池で放生会を行い三島大社に土地を寄進したそうだ。
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訪問した時は丁度、結婚式の新郎新婦の撮影を参列者と共に多くの参拝客が行っていた。
小生も幸せの御裾分けを頂いた。
お幸せに!鯉がぴょんぴょん飛び跳ねていたから何だか縁起が良さそうだ。
三嶋大社もいずれカテゴリー延喜式内社の記事として別個に記事を書き加える心算なので、今回は多くの解説はしないが…
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御本殿の唐破風の欄間には、天照大神の天岩戸から外界に出てくる物語等が彫刻で表現されていた。DSC_2915
他の彫刻にも意味が有り、宝物館の学芸員様に御教授頂いた。
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その国宝館、入館料を支払う必要が有るが鎌倉時代の三嶋大社の様子が解る絵図や復元模型、社家の方々の屋敷地等が掛かれた絵図等の展示もあり興味深かった。
三嶋大社の社紋は伊予の大名河野家と同じ家紋なのだが、その河野家が伊予で崇拝対象としたのが大三島の大山祇神で、ここ三嶋大社と同じ御祭神なのだ。
そして、社家の屋敷地の絵図に河野家や九州の水軍大名大村家の名も有った。
実は東京の世田谷城主蒔田吉良家の家臣団にも河野家がいて、やはり水運に関わる一族で伊予河野家の分家だったりする。
なので三嶋大社の絵図に乗っていた河野家も、周辺の大庭川や黄瀬川で水運を担って三嶋大社の財源を確保した一族なのではないかと思った。
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展示品には甲冑や、多くの武将達が奉納した日本刀等も有った。
三嶋大社を出発し、次の目的地である❝楽寿園❞に行った。
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ここは明治維新に貢献された小松宮家の旧邸宅で、児童向け有料公園化されてしまっているものの、庭園の名残はそこかしこに見られた。
しかしながら訪問の目的は庭園見物では無くて、園内に在る三島市郷土資料館を見学し三島市の歴史をサラっと学ぶ事、それと、この郷土資料館の学芸員様に先に御相談していた❝山中城の城郭と合戦の専門家❞を御紹介頂く事だった。
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ちなみに、郷土資料館には古墳時代の出土物の宝剣等が展示されていて、三島市の古代から江戸時代まで前時代を網羅していた。小規模なので展示件数自体は多い訳では無いが、三島市郷土史の予備知識を付けるには良い場所だった。
職員の皆様の御好意により、直ぐに件(くだん)の専門家へはアポを獲って頂けたので、その方に面会に市役所近く、生涯学習センターへ向かった。
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待ち合わせをした❝とある方❞からは色々と山中城の江戸時代~今年までの通説が誤りであった事が証明された研究報告を教えて頂けた。
山中城を見学した部分で少し触れたが、来年から学者や小説家や雑誌記者は山中城の合戦を記事にする際、今までの内容を使うと、新たな要因で根拠を示せなくなる訳だ。
山中城のとある部分が今までの認識以上に複雑な構造だった事が判明しており、それに伴い関東八州古戦録等に掲載された渡辺了(さとる)の進入路も、新発見に基づくとより整合性が高く成る。
まだ民間人では小生しか知らないそうだ。
間宮家の顕彰活動で冊子作製を行うに辺り、大切な情報を御教授頂け、とても有意義な時間を過ごせた。
この方と三島市に、何か観光客誘致で将来的に御協力して恩返しをしたいと思った。

これにて漸く、一日の予定をこなし終えて時間も17時位、帰宅するには丁度良い時間に成っていた。
帰りも東名高速は使わず、箱根峠を超えて西湘バイパスで帰る道を選んだ。
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夕食を朝に続き、西湘バイパスの食堂で食べた…
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帰りは小田原名物の鯵のフライ。定食。これは美味しい鯵フライだった。
ふむ…

多分、それなりに充実した休日に成ったと思う。








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