歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:寒川神社

寒川神社(延喜式内社・相模国一之宮)・・・古代の追儺神事を行う大社
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寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
  御祭神・御本尊等:寒川比古命と寒川比女命の夫婦神  
  御利益:八方除け(災厄避け・交通事故除け)・縁結び・夫婦円満・芸事上達・TV視聴率向上
  関係者:
  開基:寒川比古命・寒川比女命
  中興:雄略天皇
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公・・・以下歴代北条家当主
     大膳太夫  武田 信玄 
  旧郡名:高座郡
  所在地:高座郡寒川町、古代の海岸線沿いの微高地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
相模国十三座の内で早々朝廷から官位を与えられた3座の内の1座で、相模国の一之宮の格式を持つ。
追儺祭と言う神事が毎年1月2日に行われるが、現代の神道では仏教の様式の影響を受けた追儺祭を行う場所が多い中で、この寒川神社や京都の上賀茂神社等の生粋の古社は古代からの様式を継承しており境内に在る湧水池の水を夜中に神職が採取して神前に供える事で清前(きよさき=御神水)にした後に、境内の四方八方に清前を撒いて清める。
古代に一之宮にも定められた格式から朝廷や多くの武将に重視され雄略天皇を初め、源頼朝公や北条家歴代当主、武田信玄等から崇敬を集めた。
現代ではTV関係者の崇敬厚く、崇敬すると高視聴率が得られるとされ芸能人も多く信奉している。
又、長い参道は蛇行しており、古代の相模川河畔にそって参道が設置されていた名残と伝承しているが、実は丁度縄文時代の海岸線がこれに当たる。寒川神社が有る場所の目の前の相模川下流域は古代に海だった。一之宮だった歴史と大和朝廷に重視された八方除けの御利益は、日本武尊を幾度も戦場で守った天石楯を御神体として始まった石楯尾神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。
現在の社殿は平成に成って建て替えられた物だが、他の一般的な神社とは比較にならない規模を有している。現代の氏子衆の努力によって供出される資金力も豊富だが、崇敬した歴史偉人達も名将揃い。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、真土大塚古墳❝跡❞~偽真土大塚古墳~前鳥神社)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
前鳥神社への今年の初詣をし御守りを購入して後、車で正月二日最後の訪問地の寒川❝大社❞へと向かった。大社と書いたのには意味が有る。
寒川神社は現代では只の神社と名乗らされているが、これは欧米カブレのキリスト教徒政治家達が明治時代に行った宗教改革で名を改めさせられたのだ。古来よりの天皇家が延喜式神名帳に“大社”と記録してまで守って来た由緒正しい神社なのに。
延喜式神名帳と言うのは平安時代後期に律令制度では国家運営が難しく成って来た国政の問題に対応すべく醍醐天皇が追加した“延喜式”と言う政令で平安時代の人から見ても由緒正しく古く守るべき神社を纏めて記録した文書だ。これに寒川神社は“大社”としてちゃんと記録されており、尚且つ相模国一之宮の格式も有している訳だ。これを腐れ欧米かぶれ政治家が国幣中社等に貶めた。
全くけしからん!
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さて、正月に寒川神社を参拝したのは実はこれが始めてだった。
正月二日に来たのには特別な意味が有ったのだが、神社に着くまでに寒川神社の1km位手前から道路が物凄い参拝客渋滞しており、更に通常の神社専用駐車場が使えず、周辺に有料臨時駐車場が多数開かれていたので、その近辺の駐車場に小生も仕方なく駐車して歩く事にした。
参道は屋台が多数出店しており賑やかでとても楽しかった。
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拉麺屋の屋台とは現代では珍しい。食べなかったけどね。
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寒川大社(現:寒川神社)・・・延喜式内社 相模国一之宮立派な参道の石橋と大鳥居、でも実は寒川神社はここが入口では無くて、この1.5km位手前から昔の広大な境内地の名残の参道が残っているんだな。
まぁ、そこ等辺は過去に記事に書いたので興味の有る人は見て貰うと良いと思う。
延喜式内社、相模国一之宮の寒川神社と追儺(ついな)祭…古代からの神事を伝える一宮。高座郡寒川町。
現代でも寒川神社は立派で、恐らくは鶴岡八幡宮よりも❝御金が有る(笑)❞神社さんだ。
御利益は❝八方除け❞、そして寒川比女と寒川比古の夫婦神様の神社なので縁結びや夫婦和合の御利益、そして芸能の神様としても多くの芸能関係者から崇敬を集めている神社なだが、恐らく大半の参拝客は只「立派な神社だから~」と漠然とした理由と多くの出店が目的で初詣に来ている筈だ(笑)。
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スンゴイ密度の参拝客と出店!
でも脇道それると真っ暗。
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参道に戻ると本当に賑やか・・・
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小生、前鳥神社でケバブ食べただけじゃ物足りなく成り、美味しそうな焼きそばを購入・・・
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・・・屋台の焼きそばなのにとても美味しかった!と言う表現は失礼だろうか?
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多分、昔は仁王門だった只の楼門、でもこれ新しい平成の再建。立派なので本当に多くの氏子さんが寒川神社を崇拝している事が解る。
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この門をくぐると、いよいよ寒川神社の拝殿が見えて来る。
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この神社の拝殿や社務所前は結婚式でも人気の神社だけ有り服が汚れない為の配慮か綺麗な真っ平らな現代風石畳に成っている。中国の紫禁城の煉瓦石畳も広大で凄いが、それよりも日本人の精密な石畳で綺麗だな。
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社務所、ここもアルバイトの巫女さん達が真冬の19時半位の夜遅くなのに大層寒いだろう巫女装束で頑張って参拝者に御守り札を授与してらっしゃった。
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人の役に立つアルバイトとは言え正月休み返上で頑張ってる学生?巫女さん、偉い。
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拝殿の前には大きな御賽銭箱が用意されていたので、どこから投げ銭してもバッチリ(笑)。
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そして拝殿ごしに~幣殿~その奥に神様の御座所である本殿の階段が見える。
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今年はSuper moonで、この正月二日はとても明るかった。月明かりが拝殿の唐破風に映える。
現地で知り合いに成った氏子さんと色々話したが、今年はやはり例年よりも境内が明るく照らされてとても神秘的に感じたそうだ。
この方以外にも、周囲の参拝客から「今年は明るいわね~」と言う声が聞こえたのでよっぽどなのだろう。夜に神社を参拝する事は余り無いので、小生は実感が湧かないが神秘的な月明かりは素直に美しいと感じた。
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この日、小生が参詣したのは“追儺祭”の神事を見学する為だった。
実は寒川神社以外にも追儺神事を行う場所は多いのだが、日本全国大半の神社の追儺神事は仏教の影響を受けていたり、明治時代の宗教改革で廃れ行われなくなった場所が大半だ。
別名で“鬼やらい”と言うが、この❝鬼❞と言う漢字は大半の日本人は勘違いしているがの本来の意味では❝幽霊❞や西洋の❝悪魔❞の様な此の世に在らざる者を指す。
中国人が白人を西洋鬼子や日本人を日本鬼子と侮蔑するのは悪魔扱いしてる訳なんだな、中国人の覇権主義軍拡チベットやウィグルやブータン侵略を棚にあげて(笑)。
“追儺神事”=“鬼やらい”はつまり邪気を払う儀式なのだが、仏教の影響を受けて鬼退治の儀式に代わってしまっている神社ばかりで古来の恐らく縄文~弥生~古墳時代以前の儀式が続く場所は余り無い。
この寒川神社では今も古来の儀式が伝わっており、古墳時代以来の一之宮、そして大社だったのでキリスト教徒政治家達の国家宗教改革を無視しても彼等を介入させずにすんだのだろう。
実は寒川神社以外にも上賀茂神社でも同じ儀式が伝わり現代でも執り行われているそうだ。
神事の始まり・・・
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これまでの人生で見た事も無い人数の神職と氏子衆の行列が神社拝殿の中へと向かう。
総勢100人近くはいただろうか?
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何が始まるのか解らず、じっと見守る。
大体の内容は以前、こちらの神職様に口頭で御教授頂いていたので流れは把握しているのだが、やはり実際に見守ると緊張感も伝わり凛とした空気が一斉に張り詰める。
この神事が始まる直前から寒川神社は境内の全ての灯りが落とされ、屋台も発電機を停止させられ照明のみならず調理器具も電気をストップし神事に協力する。
灯りを消す事で、古代の神事を執行する環境を当時と同じ状態にする訳だな。
明るいのは社殿の中だけ。宮司様が祝詞(のりと)を読み上げ、境内の四方八方を清める聖水を神様の力で作り出す。
相模國一之宮 寒川神社 難波の小池 久良岐のよし
その御神水と成るのが寒川大社本殿裏に在る❝難波の小池❞の水なのだ。
この池を神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら数周廻り竹筒で水を汲み、それを神前に奉納し祝詞(のりと)を念じる。
以前も話した事が有るが、❝念❞と言う字の❝本来の意味は声に出して読み上げる❞と言う意味なので、この場合は神様への祝詞を読み上げる動詞は念が相応しいだろう。
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そして灯りが消され、もう何が何だか意味不明(笑)!見ぇ~んwww!
・・・仕方ないので寒川神社様公式ホームページ画像を拝借させて頂きます。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 入場
楼門から社殿前の広場へ入場の様子。
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そして先程の清前(きよさき)精製の神事。
そこから神職様達が「難波の小池ぇ~」と言いながら境内を練り歩き、楼門や大鳥居の前等を移動しながら境内で清前を撒き、宝物数えを念じる。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
この時に何と言ってるかハッキリは解らず、後日の電話取材でも電話対応された女性の事務員の方は御詳しくは無かったのですが、小生の聞こえた限りでは・・・
「〇〇矢」「〇〇〇矢」
・・・と言う様に聞こえたので、どうも弓矢が御神宝として古代には保管されていた用だ。
これが破魔矢の由来なのだろう。前回の休日雑記でも書いたが付近は莵道稚郎子命が弥生時代の終わり~古墳時代前期に介入している事が歴史と神話から判る。そして莵道稚郎子命と平塚八幡宮を開いた仁徳天皇大鷦鷯尊の父大王君が八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命なのだが、この応神天皇は現世で御存命の時には弓の名手として神話でも知られた大王(おおきみ)だった。当時は天皇号は存在しなかったので敢えて大王と書かせて頂く。
この神事、寒川大社で誰が始めたか、寒川神社を誰が一之宮として定めたか、察しの良い人は小生の推測と同じ事を考え付いただろう。恐らくは莵道稚郎子様だ。
当時の大王家の首都は京都でも奈良でも無かった。大阪の百舌鳥古墳群の辺りや大阪市の辺りと考えられている。
前回も紹介した真土大塚古墳・・・
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ~この写真は神川県教育委員会が莵道稚郎子御陵をぶっ壊すの容認して後から作った偽物だが、この古墳の本物だった破壊され此の世から消滅した真土大塚古墳は古墳時代前期の建造と判明しており誉田別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命の時代と整合性が高い。
そして莵道稚郎子命は恐らく日本武尊に偉業が習合された人物の一人で、その仕事は佐賀牟国(相模国相模川以東+武蔵国)と磯長国(相模国相模川以西+伊豆国+駿河国)と毛国(上野国・下野国)の豪族の統制と北関東と東北地域の豪族の邪馬台国へ合掌を促し、参加した国には軍事外交と稲作農地開発と軍馬生産と金属加工技術の導入の技術支援事業と大王朝廷の屯倉(みやけ)の設置を行ったのだろう。
つまり以前から倭国に既に参加していた関東豪族を邪馬台国の末である古代大和朝廷の臣民化させ完全に大王の家臣化させ豪族の自治を終わらせ戦乱を終結させる役割を担って関東に四道将軍の内、東海道を管轄する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)=倭建(ヤマトタケル)=倭長=倭(が軍の)長=稚(わか)郎子(いらつこ=王子)=宇治に領国を持つ郎子の倭の軍団長=莵道稚郎子(ウジのワキのイラツコ)となり、関東に下向し、その古代官職名が神号と成ったのだろう。
ところで日本武❝尊❞の❝尊(みこと)❞の当字は仏教文化の影響を受けているので日本で最初に漢学を導入した仁徳天皇の時代の莵道稚郎子以後の神号の当字と考えられるので、以後は莵道稚郎子命以前のヤマトタケルノミコトの当字は倭建と記そうと思う。
莵道稚郎子命の後の日本武尊も小生はいたと思っていて、その人物は雄略天皇=獲加多支鹵(ワカタケル)大王で佐賀牟国と磯長国の解体を行い相模国と武蔵国と駿河国と伊豆国の行政区域分離と再統合を行った人物と小生が推測しており、恐らくその発端は武蔵国造の乱だっただろう。
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小生が保有する縄文土器の破片。縄文時代~弥生時代既に横浜市域を含む神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は多くの集落が在り箱根や伊豆大島で採取された黒曜石、金属刃登場以前の鋭利な刃物の素材と海産品と栗や団栗等の農産品の物々交換等、海を船で越え当時は内陸まで湾が入り込み激流だった相模川や鶴見川や多摩川の大河川に分断された地形を打ち越えて行きかった交易も盛んだった。
延喜式内社と式外社と寺院と古代の海岸線 久良岐のよし
※上地図の神奈川県域沿岸地域で白い部分が縄文時代の海岸線。
弥生時代に稲作が大々的に始まると空堀と土塁と木柵で村を囲んだ城砦集落が多く出現した。しかもどれも海に突き出した険阻な半島の丘の上で、内陸には元々海だった谷間の湿地が有り稲作に適し、貝塚から多くの海産物の残骸が出土する狩猟採集文化と農業草創期の生活に合った地形だった場所が多い。
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大塚歳勝土遺跡(集落+方形周溝墓古墳群)莵道稚郎子命の存命中の頃、つまり弥生時代~古墳時代前期の❝主力兵器は弓矢❞だった。まだ銅剣、銅戈(どうか)、銅鏃(どうぞく=矢尻)は高級品で、銅の鎧を身にまとう人物は大王や地方の豪族の王や高級将軍だけだった。
弥生時代には銅剣や銅鎧等は高級品で当然普及しておらず、一般兵の兵器はもっぱら磨製石器の石斧や石槍が武器だった。だからこそ、近接戦闘よりも弓矢での攻撃が主力だった訳だ。
一部の豪族の王達は弥生時代に中国の漢帝国との交易で青銅器やガラス製品や青銅製の剣も入手していたが、末端の兵士に行き渡る程は無かった。
古墳時代の王族の甲冑
この埴輪の人物は王侯諸将、つまり高位の将軍達や豪族の王達の姿なんだな。
それ故に北九州の邪馬台国の女王卑弥呼が魏から技術供与を受けて国家的に青銅器の大量鋳造が始まるとさしもの中国地方~関東地方まで開拓していた出雲国も太刀打ち出来なかった訳だ。
つまり小生が九州を制圧し中国地方を併呑した初代の倭建命と推測する景行天皇(卑弥呼の弟大王)と、二代目倭建命(倭姫=卑弥呼の甥)の古代大和朝廷の更なる東征だな・・・
初代倭建命が恐らく景行天皇で熊襲長(クマソタケル)達を討ち果たし、その熊襲の豪族の生き残った親族と和平し婚姻関係を結び邪馬台国に吸収連合し、南九州の隼人を打ち、魏への朝貢で受けた金属鋳造技術と農耕技術で遠征に堪える兵糧と軍馬の導入、恐らく同じ倭国を形成する別派閥の豪族だった出雲神族の治めた秋津洲(あきつしま=本州)へと東征し、出雲神族の中で不服従だった伊勢津彦=建御名方神を追い詰め伊勢国~尾張国まで制圧し建御名方神を三河~信濃以東に押し込め講和し古代大和朝廷を成立させたのが卑弥呼=倭姫と景行天皇=初代倭建命だろう。
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御所ヶ崎砲台遺跡(日本武尊と弟橘姫の行在所址の聖跡)そして今、現在倭建命の神号で一般的に呼ばれるのが実は景行天皇の王子の二代目の倭建命の事績だろう。走水に滞在し大伴久応黒主から歓待を受けた後、東京湾を船で横断し房総半島の富津へと渡った人物だな。
滞在されたのが倭建命の冠を社殿地下の石棺に埋蔵した聖地の走水神社の直ぐ左手前の海に突き出した御所ヶ崎で神話時代~江戸時代の人達までずっと守られてきたが、古代の聖地に否定的な宗教改革を行った明治政府によって接収され神社は破壊され倭建命と弟橘姫の行在所の聖跡は砲台にされ破壊されてしまった。まぁ、公開される時やツアーに入ると御所ヶ崎砲台は見学出来て神社時代の石段の跡が残っているのを見る事が出来る。
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この御所ヵ崎に来た恐らく二代目の倭建と弟橘姫の頃には鉄器も輸入されている。
卑弥呼が従属同盟した三国志の登場人物でもある漢帝国の丞相にして魏王の曹操孟徳、その孫で第二代魏皇帝の曹叡と丞相の司馬懿仲達からは卑弥呼に金印の他に銅鏡100枚の他に宝剣2振りが送られている。恐らく鉄製の剣だろう。この曹叡と司馬懿から送られた宝剣が天皇家や熱田神宮に収蔵されている神剣の正体では無いかと小生は考えている。鉄剣ではない銅剣や銅鏃でも当時は貴重品だっただろう。
日本には呉太伯の渡来の伝承が有り鹿児島県に呉太伯神社も存在するが、この呉太伯と言うのは春秋時代の名軍師孫武(孫子)が補佐した呉王国の呉王夫差の子孫に当たる人物だが、この呉王国の首都が現在の蘇州市に当たる姑蘇城だった。
呉王宝剣 蘇州市博物館
その呉は西暦紀元前600年頃には金属器の製造技術の先端を行く都市で、古来銅剣や鉄剣の産地として有名だったが、現在も蘇州市博物館に収蔵される呉王剣と名付けられた上将軍級の武将が携帯したであろう宝剣が展示されている。
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蘇州市には呉王夫差の父王である呉王闔閭の古墳❝虎丘❞が現存し観光地化しているが、当然盗掘され寺院以外は何も残ってはいなし。
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しかし蘇州市の中心部は今も姑蘇城時代の幅50mを超す水堀に囲まれた古代城塞都市の様子を残している。
因みに三国時代には古代日本と同盟した魏皇帝曹叡とは敵に当たる呉皇帝孫権の首都だった南京=建業以前の首府だった場所だ。だから中国共産党による文化大革命で破棄されるまで、中華民国時代までは孫権の邸址等が史跡指定を受けて保護されたいた歴史も有る。
小生は日本の狩猟採集文化の縄文時代から農業生産と言う弥生時代への生活基盤に革新をもたらしたのは呉からの亡命者達だったりするんじゃないかと考えている。実は蘇州は中国でも古代から有名な❝魚米之郷❞と呼ばれた中国における穀倉地帯開発の先進地域でも有ったりするからだ。
恐らく、天照大神や素戔嗚尊の時代は縄文時代から弥生時代の農耕文化の転換期に当たり呉王夫差が滅びて呉太伯が来日して帰化してから暫くした頃の話だろう。だから農耕に大切な太陽が重視され天照大神の神号が生まれたのかも知れない。
皇紀の開始時期は考古学的にも中国大陸との交易によって稲作水耕栽培の農業技術が大々的に日本に輸入されてきた頃の筈なので、弥生時代に当たる頃の神話に登場する太古の神剣と言うのは呉王剣の様な金属剣を鍛造する技術はおろか青銅器を鋳造する技術すら無かった時代の話なので、中国から輸入された物だっただろう。
その青銅器を大量鋳造出来る技術を手に入れた倭姫命の弟の大将軍たる倭建命が率いる邪馬台国の軍勢は部隊長が革鎧を容易に貫く銅戈や銅鉾を持ち、銅鏃の弓矢や鉄器で武装した精強な将軍が率いる精鋭部隊が兵法を踏まえ街道を守る環濠の陣城を兵站を確保しつつ馬による大量物資輸送を可能にし長期間遠征が可能に成る訳だから、さしもの素戔嗚尊の血を引く出雲神族の御神孫達も石器と僅かな兵糧太刀打ち出来なかった事だろう。
これが建御雷と建御名方神の一騎打ちに歪曲された戦争の真相だろう。武御雷の手が冷たい剣に成り云々と記載が有るが、これは本居宣長の翻訳の間違いで、本来の漢字の意味で重火器を除いた兵器を「冷兵器」と書くのだが、恐らく神話にちゃんと戦争の様子が伝承した鉄器の「冷兵器」と言うのが記載されていたのを勝手にオカルト的に翻訳して誤った神話にしてしまったんだろう。余談だが中国は三国時代に諸葛亮孔明が世界初の地雷を実戦使用していたり、通常兵器として石火矢が存在したり銃火器が既に存在した。だから日本の奈良時代に漢字で書物が書かれるように成った頃には中国には❝冷兵器❞と❝火器❞の区別が既に存在していた。古代日本は現代の欧米で称賛されている素晴らしい縄文文化や弥生文化は有ったが、当時は間違えなく農業でも工業でも技術レベルでは後進国だった。
皇居に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と熱田神宮に草薙剣(くさなぎのつるぎ)が其々(それぞれ)別に有る事を知る人が少なく2振の剣を同一の存在と思っている学者や神職すらいたりするが、実は別々の剣だったりする。
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熱田神宮
抽象化された神話を現実的に考えれば、成務天皇に与力した伊吹山神(恐らく関ヶ原を守備した豪族)に倭建命は毒を盛られ、体調を崩した上に交戦状態に陥り関ヶ原突破を諦め叔母の伊勢神宮経由で鈴鹿関から奈良への帰路を目指し、その前に拠点を熱田に置いたのだろう。しかし鈴鹿で毒が効いて没したのかも知れない。その際に遺品と成った草薙剣は熱田神宮内に保管されて以後、朝鮮(新羅)人に盗まれた1度を除いて門外不出を守られている。
・・・現代も韓国人や朝鮮人は日本で神像や石仏破壊したり骨董品として価値の有る仏像を盗んだり神社仏閣に油を撒いて損壊させるが古代から変わって無いんだよね。
皇族が天皇に即位する際に用いるのは天叢雲剣で皇居内に保管されているが、これは源平合戦で源義経の失態に因って伊勢平家の血を引く幼少の安徳天皇と共に馬関の海の底に沈んでしまい、後から作られたレプリカだ。古来の物は熱田神宮に存在する草薙の剣だ。
さて草薙剣の事を考えると、曹操は自らは倚天剣(いてんのつるぎ)を帯剣していた様だが、劉備元徳配下の名将の趙雲子龍に奪われた青紅剣は、趙雲を捕縛する命令を受けた大将であり曹操の親戚の子でもある夏候徳が命令の執行者の証として貸与されていた物だな。魏皇帝曹家か後漢では剣を2振り一対で主従様に作る習慣が有ったのかも知れない。古代の中国では石斧が君主の代行者の証だった。
この曹操の習慣を踏まえると、魏の儀式として重要な命令を自分の代りに遂行させる代理人に与える剣と対で君主が持つ剣が有り、その習慣が日本では天叢雲剣と草薙剣に残ったんだろうか?
・・・何で神剣が2振り有るんだろうね?これは魏皇帝の曹叡と丞相司馬懿から邪馬台国女王卑弥呼に送られた宝剣は刀剣収集家曹操孟徳の遺品で後の天皇家の神剣に成ったんじゃないのか?
曹操が三国志の英雄の趙雲子龍に強奪された青紅剣と倚天剣と同じ程の宝剣を魏皇帝曹叡から与えられる好待遇を卑弥呼はされたんじゃないだろう。だからこそ卑弥呼に金印を与えた魏以降の中国歴代王朝は古墳時代の倭国王を厚遇し日本列島と台湾諸島と朝鮮半島とを統治する❝使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王❞に任命し、奈良時代の唐も則天武后の登場まで安東都護府の運営を大和朝廷に任せていたんだろう。
そして古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって草薙剣と大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に貸与されたんじゃないのか?
古代の大将軍職の官職名が倭建(ヤマトタケル)だったから、倭姫(卑弥呼)によって大伴部と吉備家の豪族軍団が与力として二代目倭建に付け、統帥権の印として草薙剣が貸与されたんじゃないのか?
余談だが倭建命の神号で呼ばれた人物が所持した神器は剣だけではない事を知る人は神奈川県民には少しはいるが他府県民には少ない。
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石楯尾神社石楯尾神社は倭建命が装備していた聖なる楯、天石楯を埋蔵した場所に社殿が築かれた聖地だが、現在ではその神社の存在を知る人は延喜式内社詣りをして御朱印を頂いて回ってる神社好きか、一部の地元民位なもんだろう。
しかし、ここは草薙剣と対を成した❝最強の楯❞の聖域として始まり源頼朝公達も支援した大きな神社だった。これを荒廃させたのは略奪迄婦女暴行奴隷売買の悪魔、武田信玄だった。武田信玄により石楯尾神社は略奪放火され一度荒廃し、その後、北条氏政公によって再建され現在至るが、戦後の主教改革で旧境内地は接収され源頼朝公が造営した石鳥居が並んだ参道址は破壊された。
ここを破壊した武田家が、倭建の神罰に遭ってどんな落ち目に成ったかは歴史好きなら周知の事実。
石楯尾神社の天石楯と対を成した熱田神宮の草薙剣を守る熱田神宮宮司千秋家に支持された織田信長公に敵対した武田信玄は三河から尾張に入る事も出来ず野田城で不審死、更には強大な勢力も次代の武田勝頼公の時代に一気に消滅した訳だ。
こう言った草薙剣や天石楯を装備していた倭建命の神話と当時の時代背景が全てリンクして、倭建命より少し後の時代の大王であった応神天皇=大鞆別命の王子である莵道稚郎子の古墳と伝わる真土大塚古墳からの出土品も古墳時代前期には貴重品だった金属製品が多数有り、破魔の銅鏃や三角縁四神四獣鏡が出土し王族や上将軍だった事の証明にも成っている訳だが・・・

聖地の真土大塚古墳は神奈川県教育委員会と当時の神奈川県知事と平塚市長が保護せずに消滅した。

・・・その縄文~弥生~そして莵道稚郎子命の古墳時代の高級な武器の矢尻、それも破魔の効果が有り八幡大菩薩応神天皇の特技の弓だからこそ弥生時代後半~古墳時代に周辺に大古墳が多数造営され栄えた寒川大社でも神宝となり❝古代より存続する寒川神社の追儺祭❞の神事の宝物数えの言葉に成り伝わったのではないかと小生は推測している。
寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
そして極めつけは神事で使う❝清前❞の下に成る❝難波の小池❞の存在と名前である。
日本武尊は伯母の倭姫から吉備氏と大伴氏の氏族軍団を与力に付けられている。
大伴氏は佐伯一族で古代水軍の一族で有り大王の近衛部隊も務めた一族で、早くから関東を開拓した一族だ。その大伴家の氏神が大阪の❝住吉大社❞で有る事を知っている人は神社と歴史好きには少なくない筈だ。
・・・つまり住吉大社の在るのは難波(なんば)とも難波(なにわ)=浪速(なにわ)とも呼ばれる現在の大阪府辺りだった。この神事、日本武尊の時代に古代大和朝廷の基礎と成った邪馬台国が九州から近畿を制圧し関東を平らげた頃には始まっていたのだろう。
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旧三浦郡、三浦半島の横須賀市走水の走水神社一帯は日本武尊一行が房総半島へ渡航する際に滞在した土地で❝大伴黒主❞と言う人物が一行を接待したと伝わり、漁師で料理人と伝わるがこれは戦国時代に成っても平時の水軍武将の生活の糧だったので、この大伴黒主公は大伴部の水軍武将だろう。
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そして横浜市神奈川区の久応山寶秀寺は❝大伴久応❞と言う人物が、この寶秀寺一帯に自邸を構える豪族で日本武尊一行を走水神社の神話と同様に歓待したと伝承し、その時に日本武尊が使用した六角形の橋が神宝とされ現地の六角橋の地名由来と成った説が有る。
恐らく、この大伴久応と走水の大伴黒主は同一人物の豪族王、大伴部の一族の将軍で関東に早くから土着して現在の東京湾の神奈川県域を領地にしていたのだろう。となれば日本武尊=倭建(ヤマトタケル)=倭長(やまとたける)=稚長(わかたける)=獲加多支鹵(わかたける)等の当字の名残りは色々考えられるが六角橋でも走水でも日本武尊を接待した人物の大伴久応は走水の大伴黒主は同一人物で不思議ではないどころか、寧ろ同一人物と言い切っても過言ではないだろう。
この時に恐らく走水~房総半島へ渡航したのは二代目の倭建(ヤマトタケル)と成った景行天皇の王子様と弟橘姫様で、大伴部と吉備氏を与力に付けた倭姫を小生は卑弥呼と推測する。その弟で初代の倭建(ヤマトタケル)と推測する景行天皇達の時代とも当時の主力武器と追儺祭で寒川神社に伝わる社宝の数え歌に登場する“矢”は時代的にも整合性が有る訳だ。
つまり古代の軍事力の象徴であり邪気を払い民を守る象徴でも有った筈。
余談だが、後の応神天皇の本来の神号が❝大鞆別命(おおともわけのみこと)❞なのは母方が大伴(おおとも)家の一族の姫だったのかも知れない。
平安時代末期~鎌倉幕府設立まで活躍した源頼朝公が造営した鶴岡八幡宮・・・
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鶴岡八幡宮(若宮八幡宮)
実はここの宮司家は頼朝公以来、少なくとも戦国時代の里見家と正木家による鎌倉市街と八幡宮への放火略奪による焼失後の北条家による鶴岡八幡宮再建時まで大友(おおとも)家が宮司を務めた歴史が有る。源頼朝公は神話に精通していたので、神話と関係の有る地域と神社に関係の有る氏族を送り込んだ様だ。応神天皇と関係不快一族だから大伴家=大友家を宮司に据えたのだろう。
天皇家と同じで本来、明治以前の神社は神主と言うのは血脈が大切だった事を今の神職には知らない人も多いが、出雲大社や宗像大社や阿蘇大社等の西日本の大社格の神社の歴史を見れば一目瞭然だな。
そんな応神天皇やそれ以前の神話の時代、つまり縄文~弥生~古墳時代初期の歴史的な背景が有ったからこそ、邪気=叛徒=戦乱=蛮族による略奪虐殺を抑え邪馬台国連合に参加した国民を安んじる為の神器が弓矢と成り寒川神社の追儺祭や日本中の神事では弓矢が重視され流鏑馬神事が奉納され破魔矢が参拝者に授与される習慣として残ったのではないだろうか?
もしかしたら古代は流鏑馬や軍事演習であり、破魔矢は各豪族への大和朝廷からの武器供与の都市初めの行政(まつりごと)=祭事がスタートだったかも知れない・・・

無論、往古の事は考古学で証明された範囲でしか学者は書けないし無責任に言えないので、コレ等は全て小生が勝手に歴史と文化と地理と状況証拠を繋げた只の妄言の推測と思ってくれて良い。

・・・では何故小生が寒川神社の神事を始めたのが弟橘姫様と走水でラブラブに過された二代目の倭建ではなく莵道稚郎子と思うかと言うと、それは古代の地理と関係が有る。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
現在の中原街道は江戸時代初期に徳川秀忠公が父の鷹狩場だった平塚市中原の御殿へ直結する道を再整備して❝中原街道❞と名付けられたが、実はこの道は古墳時代初期からの街道だった。延喜式内社の寒川大社を起点にして同じく延喜式内社の深見神社近くを通過し古代の橘樹郡の政庁だった橘樹神社へと直結している道なのだ。この道は❝古墳時代の道❞で、初代と二代の倭国の大将軍である倭建の頃の道は文字通り三浦半島~房総半島へと海を越える古代東海道だった。
弟橘姫は神話では東京湾の荒れ狂う海を鎮める為に走水沖で入水し人柱に成っている。
つまり寒川神社を重視し中原街道を整備させるのは弟橘姫の御陵であり政庁も在った橘樹神社裏の弟橘姫御陵が築かれた以後の人物であるはずなので、二代の倭建以後の人物の可能性が高く成る訳だ。
そして二代は卑弥呼の甥っ子でまだ弥生時代~古墳時代の転換期の人物なので中原街道を整備させたとは思いづらい。
しかしながら、この街道と古代一之宮だった有鹿神社を接続する道に在る綾瀬市の神崎遺跡は❝尾張地方の文化の土器が出土する❞上に人骨が出土していない事から小生は状況的には我々❝城マニア❞の言う所の❝陣城❞的な環濠要塞が神崎遺跡で、これは二代倭建が兵站を確保する陣城として築いた物だと思う。日本の稲作は縄文時代末期には開始されていた事が現代の考古学で証明されているので、恐らく米の生産に因って携行できる食料が確保出来る様に成った事で、倭建の時代には遠征を行い征服戦争や豪族同士の合戦への介入の為に在陣出来る様に❝食糧事情の革命❞と❝戦争の規模の拡大❞が起こったのだろう。
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国指定史跡 神崎遺跡綾瀬市の神崎遺跡は古代海だった湿地に囲まれた半島地形上に造られた環濠の要塞集落で古代の有鹿神社~鎌倉郡に続く街道と中原街道が接続する交通の要所に存在する。
ここは❝特異❞な遺跡で❝人が埋葬された形跡が無い環濠集落❞なのだ。
これはつまり生活の拠点では無く街道を制圧する為の陣城だろう。
卑弥呼の時代の倭国大乱と言うのは、それ以前の稲作の普及による軍事行動範囲の拡大に因って不幸にも広がって行ったのかも知れないと小生は考えている。
そして初代の倭建かも知れない景行天皇や二代の頃に築かれた兵站は、そのまま古代大和朝廷の駅伝制へと発展し、数代後の莵道稚郎子の頃には道が整備されたのかも知れない。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
縄文時代には県央部は御覧の通り海だったので平塚市界隈は莵道稚郎子の古墳時代初期以後の発展と言うのも判る。だから平塚市辺りが湿地で干拓が進んでいなかった初代と二代倭建の頃にはまだまだ戦乱樹で東征の前線地域で干拓や街道整備の内政に力を注げたとは思えず、中原街道が初代の頃に大々的に整備され使われていたとは考え難い。なので平和に成った古墳時代以後の莵道稚郎子の事業と考えられなくも無いと思う。
そんな倭建命(ヤマトタケルノミコト)や莵道稚郎子命の時代の弓矢を主力にして応神天皇が得意とした兵器が弓射であり、弓矢が武器なので神事と御守りに成ったんだろうな。
まぁ、そんな訳で、莵道稚郎子の時代以前には寒川神社辺りが相模国の中心として機能していなかった筈なので、相模原の有鹿神社奥宮の勝板遺跡の有鹿郷~海老名市の有鹿神社本宮の海老名郷辺りが佐賀牟国府、伊勢原市の三之宮比々多神社辺りが大山守皇子の一族が関東統治の拠点にしていた国府、大磯町に在る後の相模国総社六所神社~二宮町の二之宮川勾神社辺りが磯長国の国府だったんじゃないかな~?と小生は妄想している。
つまり大鷦鷯尊仁徳天皇や莵道稚郎子に東海道の兵を動員し叛旗を翻そうとしたのが大山守皇子の外戚一族だったのかも知れない。

さて寒川神社の追儺神事は、古来神事に参加する参拝者には破魔の❝弓❞と❝矢❞の御神威の加護が付与された御守りが授与される。
まぁ、現代では恐ろしい数の参拝者が正月に殺到するので人数は限定されるがそれでも数百人分は無料で配布されている。

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弓矢を模した御守りだ。
小生は追儺神事に参加し寒川神社や上賀茂神社で古代の人々から現代に伝え守られた文化を体験したかったのと、この天下無双の破魔の御守りを受領したかったんだな。
この御守りは寒川大社らしく御祭神の寒川比女と寒川比古の夫婦神の御利益で❝子供の夜泣きを鎮める❞御利益と❝八方除け❞で有名な寒川大社らしく強力な❝厄除け❞の御利益が有る。
・・・小生は奥さんに成ってくれる女性と御縁無いので子供もいないが(笑)。
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Super moonの青く光る神秘的な正月二日の寒川❝大社❞での貴重な体験を終えて駐車場に戻り、横浜市の自宅への帰路に着いた・・・

(後書き)
さて、今回は2018年01月02日に訪問先が1日間で19箇所も訪問し自分の中でも過去最高の1日での訪問件数の休日雑記と成ったので書き上げるのに毎週2日間の休日で書くのに丸々1ヶ月間を要してしましました。
しかしながら神奈川県を始め千葉県や東京都や埼玉県が古代より大阪府~奈良県~京都府と繋がりが深く、日本武尊と弟橘姫様と大伴部一族と莵道稚郎子命と追儺神事の御縁で結ばれている事が多くの人に伝われば良いな~と思います。
何となく参加している神社の神事には実は多くの古代からの文化が残っています。
日本人が神社で拍手を2回、出雲大社では4回打ち神様に礼拝しますが、実はこの事も中国の歴史書に記載されており、それが三国志と俗に呼ばれる文書の日本と関わった魏国の魏志倭人伝に「日本人は偉い人にパチパチ拍手して拝む」事が書かれていて現在の神様への御参りが既に少なくとも弥生時代後半は存在した事が解っています。
そう言った事を踏まえて神職だけでなく、明治以前の真言宗の弘法大師空海和尚様や天台宗の伝教大師最澄和尚様も日本の神様を大変大切にされ信仰されていたので、現在も真言宗の寺院や天台宗寺院と天台宗から派生した中国人高僧の蘭渓道隆和尚様の臨済宗や彗光菩薩法然上人様の浄土宗の御寺には御寺の守護神として神社が残っていたりします。道元禅師様の曹洞宗も白山権現を守護神にしていたり、立正大師日蓮和尚様も千葉神社を妙見大菩薩を守護神にされていました。
本来の日本文化は明治時代にキリスト教信者の欧米かぶれ政治家達が、儒学者と結託して宗教改革を行うまでは共存し共栄して日本人の心と文化を守っていた訳です。
明治時代に多くの古代の神事が消されましたが、一部の神社や御寺はキリスト教徒政治家にも盾突く事が出来る格が有ったので、古来の習慣を守る事が出来ました。
屋台で買い食いしながら参拝する初詣や夏祭りを楽しみながら、何となぁ~く祭事の中には古代から続く神事が有る事を皆さんが思い出してくれたら良いなぁ~と思い、2018年1月2日の休日雑記の〆とさせた頂きます。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)←コレの続き。
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
相模国延喜式内社十三座の一社、小野神社の宮司様の御宅へ御邪魔した後、次の目的地の真土大塚古墳の❝跡地❞を目指して車に戻り出発した。
宮司様の御宅から真土大塚古墳や前鳥神社辺りへは道が混んでいても30分とかからず比較的近い。
小生が目指した真土大塚古墳の❝跡地❞は前鳥神社の伝承では八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)=応神天皇(おうじんてんのう)=誉田別命(ほんだわけのみこと)等、後世に様々な神格や僧位や天皇号が追贈された大鞆別命(おおともわけのみこと)と言う神号で恐らく最初は呼ばれていた古墳時代初期の古代大王(おおきみ)つまり天皇家の御先祖様に関わりの有る場所だった。
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莵道稚郎子命御陵=真土大塚古墳❝跡❞(神明神社)ここに眠っていた人物は恐れ多くも京都の宇治神社と同じ御祭神の莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命と神奈川県に在る14社の延喜式内社の一つである前鳥神社に伝承する。莵道稚郎子命は仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)の弟皇子に当たる皇族、つまり八幡大菩薩=応神天皇=誉田別命=大鞆別命の王子だった人物だ。
この神明神社が真土大塚古墳❝跡❞と現地人にも神職にも小生からも❝皮肉を込めて呼ばれる❞には意味が有る。何と神奈川県教育委員会と平塚市教育委員会が保護を怠り、歴代皇族の中でも神格を与えられた偉大な古代人物の莵道稚郎子命の陵墓と前鳥神社に伝承しているのにも関わらず宅地造成許可を出して偉大な皇子の御陵(みささぎ)を削平し破戒し住宅街にしてしまったのだ。
だから古墳跡なんだな。
当然、引っ越してきた住民も、そんな事情を後から知ったら事の重大さを思い知る訳だ。古参の地元民と一緒に神様の眠っていた古墳の跡地に慰霊の為に立てたのが、この神明神社だった。
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ここからは中央の大和政権との強力な関係を裏付ける三角縁神獣鏡等、古墳時代初期としては珍しい副葬品が多数出土している・・・神話を考古学が証明した訳だな。
この莵道稚郎子命は日本初の❝漢学(漢字・兵法・漢詩・金属鋳造技術等)❞を治めた文化人にして学者、そして小生の推測では恐らく日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に偉業が習合された人物の一人の筈だ。
真土大塚古墳の写真 平塚市公式より拝借 
平塚市が破壊した後に申し訳程度に掲載している破壊前の真土大塚の写真。
平塚市の地名由来は、古代の大きな古墳が風化して平たく成った物が有ったからと言う説と、坂東平氏の祖と成った平高望(たいらのたかもち)王の一族の平家の姫様が相模国鎌倉郡村岡郷の移住先に辿り着く前に旅の途中で亡くなり葬られた塚が有ったからと2つの説が有るそうだが、古墳説をとるならば正に真土大塚古墳が由来だろう。御覧の通り前方後円墳が恐らく、台風や渋田川や相模川の氾濫などで削れて大分と平たく成っているのが写真から解る。
この戦後の教育委員会が破壊容認した真土大塚古墳の調査は昭和11年に行われた。
つまり、戦前の昭和初期までの県職員は城址や史跡や自然の美しい景勝地を積極的に保護したのと同じく、ここもちゃんと調査して保護していた訳だ。
三角縁四神二獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁四神二獣鏡
三角縁変形四獣鏡 平塚市公式より拝借
三角縁変形四獣鏡
銅鏃 平塚市公式より拝借
銅鏃(どうぞく=銅製の矢じり)
他にも鉄剣や鉄斧等、王族や高位豪族しか持ちえない副葬品が多くの出土し、どれも弥生時代後期~古墳時代初期では高貴な身分を示す物ばかりだった。
中でも三角縁四神四獣鑑には以下の銘文が造形されていたそうだ・・・

「陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」

現代日本の漢字は奈良時代に藤原貴族によって改竄された日本の朝鮮訛りの漢字の意味に成っていて本来の中国の漢字の意味とは違うので、神話(弥生~古墳)時代の四道将軍の制度による東海道の統治を前提にして小生成りに意訳するとコンナ感じ。
  ↓
「古く造りが何もかも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」

・・・これね、もう完全に被葬者が誰だったか判るヒントでしょう。
古い中国語に近い漢字を使いこなせて、恐らく南関東で最初の漢字文化導入の証拠と成る物を製造或いは携行出来るのは莵道稚郎子命以外にいないでしょう。

恐らく百済王族か貴族出身であろう藤原貴族は初代の中臣鎌足は苗字も無く中臣(なかとみ)の古代官職しか伝わらず更には羽曳野市の古墳は朝鮮式の円墳な訳だが、彼等藤原家が自分達が殺した蘇我嶋❝大臣❞馬子つまり蘇我嶋大臣(大臣、鹿島馬子)を暗殺して鹿島家の領地財産地位を天智天皇の公認の下で乗っ取り自分達の家系を古来の日本人と粉飾するべく古事記を改ざんして国の公式史記として書かせたのが日本書紀な訳だ。
奈良時代が始まる最初に歴史改竄する為に書かせたのが日本書紀で、後に藤原氏は古代からの先住日本豪族の橘氏や大伴氏や紀氏や菅原氏、そして新興だが天皇家の平氏や源氏を悉く言いがかりと謀略で殺害したり左遷しまくり更に渡来人扱いして差別している。一方では天皇家に妃を送り込み続けて皇族を人質に取り続けた訳だ。
ところが応神天皇や仁徳天皇の時代には「天皇号」は存在しないし、当然、応神天皇=大鞆別命や大鷦鷯尊や莵道稚郎子命が大王や王族として生きていた時代には藤原氏まだ日本に居なかったので、真土大塚古墳の副葬品の漢文は限りなく中国語に近い。しかもアホの小生でも余裕で意味が解る程度の文章。
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莵道稚郎子命の被葬地と知ってか知らずか、神明社は古墳跡に現代人の破壊の跡に建てられた。
小生は真土大塚古墳から出土した、この鏡の銘文に有るロマンを感じる。
それは、この鏡の銘文は、もしかしたら仁徳天皇から莵道稚郎子命が送られた者物かも知れないと小生は想像するからだ。上方(近畿)の歴史では莵道稚郎子の消息は良く解らない位にあやふやだったらしく・・・
1異母兄の仁徳天皇と帝位を争う意図が無いのを証明する為に自殺した説
2早く死んだ説
・・・が有るが要はハッキリしない訳だ。因(ちな)みに自殺説は元朝鮮人の藤原が捏造した歴史の日本書紀にしか登場しない一説で、他の神話では❝自殺❞なんて表現は全くない(笑)。
まぁ何にせよ関西では恐らく天皇家に憚って語られずにハッキリ伝わらなかったので、宇治神社の御祭神と成っている位しかハッキリした事が解らない。ところが古来、東日本では神奈川県の前鳥神社の御祭神として祀られ真土大塚古墳が御陵と伝わっていた訳だ。

因みに神様と成った莵道稚郎子命の名前を中国語の意味と歴史を前提に解析すると以下の様に成る。
●莵道(うじ)
ウジ=宇治=京都府宇治市一帯を本拠地にしていた人物。
●稚(わき) 
ワキ/ワカ/ワケ=和気(わけ)=別(わか/わけ)。歴代天皇が天皇号成立以前の大王時代に名乗った名には“ワカ/ワケ”を含む名が多い。恐らく今は姓を名乗る必要の無い、古代天皇家の尊称的な姓がワカ。
別/稚(ワカ)=和家=和+家=倭+家と成り、漢字文化導入後の倭国の大王の姓だったかも知れない。
例:大鞆和気(おおともわけ)命、獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ=雄略天皇)他多数。
●郎子(いらつこ)
郎(いらつ)=男系の家系の子=大王の男系男子の王子。
●命(~のみこと)
漢字文化の神号成立以前の神格化された人物や聖地や神器等の神様の魂への尊称。
例えば漢字文化では詔勅(しょうちょく)の詔と書いて詔(みことののり)と訓読みさせるが、詔(みことののり)を分解すると・・・命+祝詞(のりと)=みことののりと=みことののり=神託・・・と成る。
詔勅は天皇の命令を指すが、これは神様=天皇と言う古来の考え方に当たる。天皇を御上(おかみ)と俗に呼ぶのもその為だろう。

・・・つまり、名前を分解すると莵道稚郎子命が神話通り天皇家の人間だった事が解るし、本拠地も神話通り宇治市辺りだった事が解る。もしかしたら皇太子だったかも知れない。
だから小生が思うに、莵道稚郎子命は中国の史書や儒学も学んだであろう人物なので兄弟間の争いで国が亡ぶ先例を踏まえて父大王の応神天皇=大鞆別命の崩御(ほうぎょ=亡くなる事)した時に兄に大王位継承権を譲り、自分は関西を離れたのだろうと思う。
そして神話では没した時の様子がこう続く・・・
莵道稚郎子には大鷦鷯尊とは更に別に異母兄の大山守(おおやまもり)皇子(みこ)がおり、大王位継承権を得られなかった事を逆恨みし反乱の兵を起こそうとした際に、兄の大鷦鷯尊がこれを莵道稚郎子に暴露して逆に莵道稚郎子が大山守皇子を討ち取っている。
これは思うに、大山守ってのは神奈川県伊勢原市大山を中心とした佐賀牟国や磯長国一帯を古代から支配していた大豪族の姫を母として生まれた人物だったのではないだろうか?
そして、この一連の事件は戦乱となり、莵道稚郎子は兄王の大鷦鷯尊に大王位を譲ると自らは四道将軍成立前の日本武尊(ヤマトタケル)=倭建(やまとたける)=倭長(わかたける)=軍団長と成って大山守皇子の外戚が治める東日本を平定に東征し、平塚に鎮守府を設置し関東の古墳時代突入の文明開化を成し遂げ、そのまま関東で没したのでは無いかと思う。
そして宇治から軍を率いて近畿を離れて東海道制圧と大和朝廷による支配制度確立を担う大将軍として東征に赴く際に仁徳天皇から送られたのが、❝あの三角縁四神四獣鏡❞だったとしたら・・・
陳是作鏡甚大好 上有王父母 左倉龍右白虎 宜遠道相保」
「古く造りがどれも大変素晴らしい、上方には王父母(が描かれ)、左に倉(蒼)龍=青龍、右に白虎、遠い道(遠く離れた東海道)を保つには相応しい(物だ)」
・・・この銘文には仁愛で有名な仁徳天皇の弟王子の莵道稚郎子への思いやりが垣間見えるのでは無いかと、近畿の宇治を離れて行く異母弟に父と義母との家族の思い出と、左に東の守り神であり皇帝の象徴である青龍、右に西の守り神である白虎が描かれている。つまり東を守る皇帝が左側(関西)にいて西を守る白虎が右側(関東)にいる、仁徳天皇と莵道稚郎子命が一心同体背中合わせに御互いを守っている事を描かせた鏡なんじゃないかと思う。
そして、この莵道稚郎子命は、初代日本武尊と思われる景行天皇と、二代目と思われる皇子の倭建命に続いて令外官として倭建(日本武尊)と同じ稚郎子(ワキノイラツコ)として磯長国・佐賀牟国・総国・毛国統治の為に赴任して来たのかも知れない。・・・兄大王の信頼を一身に背負って。

小生は学者じゃない。だから古文書の文字だけに拘らず状況証拠と伝承から自由に妄想と言う名の推測をしていたりする。
私利私欲無く学閥に属さない只の素人歴史オタク、学者じゃないから歴史偉人や神様や仏様や宮司様や和尚様を尊敬し、民間人と交流する学芸員サンを慕い歴史の楽しさを感じられる(笑)。

さて、そんな訳で前鳥神社の伝承の状況からも、出土品からも、前方後円墳の規模からも莵道稚郎子命が神格を追贈されて大和朝廷の権力によって古墳が造営され埋葬されたと考えれば極々自然な訳だな。
周りに水堀は無いが、これは古代は平塚市真土一帯が砂丘だったせいだろう。
まぁ、そんな訳で偉大な大王の大鷦鷯尊を支えた異母弟で元皇太子の莵道稚郎子の古墳を神奈川県教育委員会は保護せずにブッ壊した訳だ。・・・祟りに遭えば良い。
祟りが怖くて神明神社を開いたのだろうが、小生はツッコミ入れたい。
そもそも神明社の御祭神は天照大神で莵道稚郎子命じゃない!
ここは前鳥神社の別宮にすべき場所だろう!何で神明社なんだか訳分らんくてイライラする!
・・・和気郎子だけに。あ、神様に怒られそうだから冗談はここら辺までにして置こう。
そんな莵道稚郎子命と思金神と天満大自在天神菅原道真公の3柱の神様を小生は知恵と文化と智謀の神様として崇拝している。
だから2018年の正月二日に古墳跡に御参りに来た訳だ。

実はこの古墳の直ぐ近くに、後の平塚市が申し訳程度に作った偽物の真土大塚古墳のレプリカが有る公園が在る。
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真土大塚古墳復元(模造)
まぁ遊具が有り完全に県外からの移民だらけの地元民には大層な破壊の歴史を知る人も少なく、この公園の偽物見ても腹立つ人も少ないだろう。
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このコンモリした山を教育委員会は❝復元❞と言い張るが、城マニアや史跡マニアの我々に言わせれば❝復元❞と言うのは❝元有った場所に元通りの構造で再建する❞事を意味するので、この偽物は教育委員会と平塚市の欺瞞、自分達の罪悪感を和らげる免罪符、悪の権化の様なものだ。
・・・と怒りたいのだが。
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くそムカつく偽物から見える風景が美しく「あ~莵道稚郎子様は、富士山を拝みながら眠ってらしたんだなぁ~」とか感慨にふけってしまった。
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ここからは大山も見える。大山の山頂からは縄文時代以来の祭祀遺跡が出土し、麓の比々多神社も延喜式内社で大量の縄文時代以来の祭祀遺跡と古墳時代の遺跡から同製品や鉄器が見つかっている。
そして記録に残らない国府と思しき規模と推定される遺跡も発掘されており、これが小生の中で大鷦鷯尊と莵道稚郎子命と大山守皇子の神話と結びつき先程の推測に繋がる訳だ。
何にせよ、こんな重要な場所だが神奈川県教育委員会のせいで真土大塚古墳は消え去った。
近くの平塚八幡宮は元の名を鶴峯山八幡宮と呼び、やはり仁徳天皇が父大王応神天皇を御祭神として開いた場所だった。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
真土大塚古墳と平塚八幡宮の近くからは国府跡と推測される遺跡も発掘されている。そこに莵道稚郎子命の存命中に大将軍稚郎子として赴任していた鎮守府が存在したのかも知れない。
そう考えるとワクワクするし、神様と成った古代の天皇家の一族の傍に近寄らせて頂けた様な何と言うか嬉しい気持ちに成るんだな。
日も暮れて来て御腹も空いてきたし、神様としての莵道稚郎子命に参拝すべく、ついでに屋台での買い食いも楽しみに延喜式内社でもある前鳥神社へ移動した。
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前鳥神社・・・延喜式内社

ここも移動距離は短く車で真土大塚古墳から10分もかからずに到着した。
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参道に屋台は多くは無いが、まぁ、何か現代的なケバブ屋さんとか珈琲屋さんとか、少し小洒落た店がオーソドックスな屋台に交じって出店していた。
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ケバブとコーヒーを食べた。
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参道には神奈川県の古い歴史を持つ延喜式内社の多くで廃仏毀釈から保護された文化財の鐘楼を見かけるが前鳥神社もその一つだ。
実際、歴史の無い神社程、仏教を否定したがる。国家神道がキリスト教徒の政治家によって宗教改革されて出来た物だってのを知らないんだろうな、新しい神社や歴史の浅い所は。
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先鳥神社の境内地は現代では広い訳では無いが❝長い参道❞は奇跡的に残っている。
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神仏分離令以前の仏教文化の石塔もシッカリ残っていて日本文化の風情を守っているね。
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まぁ~日本近代化以後も文化人も多く訪れたらしい。
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この鎮守の森の参道を抜けると漸(ようや)く拝殿が見えて来る。
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途中には祖霊者も在る。
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住宅街の中の神社の正月2日目の夕刻なのに、まだ結構、参拝客が来ていた。
それだけ地元の人に大切にされていたり、学問の神様として受験間近の学生が合格祈願に来ていたのだろう。
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17時を過ぎても社務所も灯りは落ちていなかった。
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アルバイトの巫女さん達も頑張って参拝客に応対していました。偉いね、正月遊ばず働いて。
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ここは御本殿には小生が武神として崇拝する日本武尊と、そしてもう一柱、大山咋神が合祀されている。
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祈祷を受けに来た訳では無いので拝殿の中には入らずに外から普通に御賽銭を投げて神様に御挨拶をして心願成就の祈願と国籍人種問わず親日家の人々と国々の平和とか、御世話に成っている人や親友の幸福祈願をした。
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境内社には菅原道真公が祀られてらっしゃる。
小生は横浜市で知恵の神として地元の思金神社の思金神様と、文化と知識と実務の神様の菅原道真公も崇拝しているので当然ながら参詣し、有鹿神社の境内社有鹿天神社と合わせて当日2回目の菅原道真公への御挨拶をした。
参拝を終えて、巫女さん達がせっせか働いていた御守り授与の場所へ移動。
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小生も前鳥神社の御守りを購入した。
小生の文化と実務の神様は祖先も崇拝した菅原道真公、まぁ父方の氏神様はもっと古い御先祖の神様で某国造なのだが菅原道真公も実は父方のもう一方の氏神様なので、小生は神奈川県で一番の天神様と思っているのが旧鎌倉郡の永谷天満宮で良く御参りに行き厄払除け守りと取材活動用に足腰守りを大切に持ち歩いている。永谷天満宮は菅原道真公の御子息の菅原敦茂公が住んでいた由緒の有る天神様だったりする。思金神様は神様達の参謀だった神様だから横浜市民の知恵の神様だね。
そして前鳥神社の莵道稚郎子命が学問と兵法と仁義の神様と成る訳だ。

・・・参拝して駐車場に戻ると車中で財布に早速、莵道稚郎子命の御利益を授かる前鳥神社の御守りを付けた。その後、夜の20時頃から始まる追儺神事を見学すべく、そして昨年の八方除けの御利益の御礼参りと新年の御挨拶を寒川比女命と寒川比古命に申し上げるべく寒川神社へ向けて再出発した・・・
※本当は今回で寒川神社の追儺祭まで書き上げる予定でしたが、莵道稚郎子の神話解説が意外に長くなってしまったので寒川神社追儺神事見学は分けて書きます。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑦に続く。
  

















2017年04月22日、有鹿(あるか)神社で海老名の歴史解説の講義受講をTwitterで宮司様から御声掛け頂いて参加しに行って来た。
今年の水引き神事に(寝坊して)参加出来なかったので、文献には載らない祭祀内容や相模国延喜式内13社に伝わる海老名地名の由来の解説等を聞きに行く為だ。
海老名に行くなら未訪問で訪れて見たかった場所も数ヵ所有り、事前に計画を立てて訪問予定地をGoogle mapに登録しておいた。
結果的に行き当たりバッタリ思い付きで突然訪問した場所を含めて書き出すと、この日の行動を纏めるとこんな感じだ。
有鹿神社本宮
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旧有鹿神社別当寺 総持院
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有鹿神社中宮跡
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相模国国分寺跡
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海老名市温故館(郷土資料館)
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中村屋
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有馬のハルニレ(神奈川の名木100選の一つ)
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高座豚手作りハム(ブランド豚の高座豚の養豚、ハム製造の直売所)
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国指定史跡 神崎遺跡(綾瀬市の郷土博物館と国定の弥生時代環濠集落遺跡)
 ↓
飯田牧場(酪農家直営のアイスクリーム製造販売店)
 ↓
花應院(照手姫伝説の舞台の一つ) 
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コンビニの駐車場で車中で爆睡
 ↓
地元のスポーツジム

この日は前日と言うか当日の1時位に仕事から帰宅して、風呂に入ったり食事をし夜にジムに行く準備をして寝ずに朝の6時前に出発した。
早朝の移動なら道路も混まないし、コンビニで仮眠すれば良いかなと思って、いつもの休日鉄板の行動パターンを選択した。
事故渋滞も無く順調に海老名市に7時頃に到着し、有鹿神社近くのセブンイレブンで朝食を購入して駐車場で1時間位ダラダラ休憩してから有鹿神社本宮へ移動した。
有鹿神社の境内駐車場に車を停めさせて頂き社務所へ移動。
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複数人の神職の方が慌ただしく準備をしておられる中、スーツの紳士が声を掛けて下さった。
「久良岐さん?」
「はい」と返答すると、「車から降りて来られて直ぐに解りましたよ」と柔らかく話すスーツの人物が宮司様だった。
実は宮司様との面会は2度目、1度目は昨年07月20日の愛川町の三増峠合戦古戦場と愛川町郷土資料館を見学し相模原勝坂の有鹿神社奥宮と海老名市の本宮を初参拝した日の事だ。
当日は日没直前の17時少し前の訪問で本宮社務所は無人、社務所に書いてあった電話番号へ連絡を入れた所、宮司様の別の仕事の事務所で御朱印を頂ける事に成り、其方(そちら)へ訪問して御朱印を拝領した時が宮司様との初対面だった。
「奥宮とここまで来るのは余程、神社が好きなのですね~」と御優しく対応して下さったのが印象深い。
 宮司様に社務所に上がる様に促(うなが)されて玄関へ回ると可愛らしい鹿の人形が出迎えてくれた。
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 有❝鹿❞神社だけに鹿を寵愛されているのだろうか?
その割には宮司様のTwitterアイコンは「パンダ」なんだよなぁ~(笑)。
 https://twitter.com/mikagenomori
有鹿神社の宮司様は実は宮司職を務める他に社会的な地位が高い人物なのに全く偉ぶる感じの無い、寧ろ柔らかく気さくに親切に話しかけて下さる万葉集にでも登場してきそうな雰囲気の方なのだけれども、Twitterを見ている限りでは内面に遊び心を持つ側面もチョクチョク垣間見える。
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この日の歴史解説と神事の講義は非常に楽しく、相模国13座の延喜式内社と神奈川県教育委員会の認識では海老名の地名の由来が違う事なんかも教えて頂けた。
実は江戸時代に相模国一之宮寒川大社(寒川神社)の当時の宮司が書いた掛け軸あ有り、その記載なんかからも海老名の由来は相模国五之宮有鹿神社の五之宮を文字って当字されたのが由来だと推測出来るそうだ。
海老名の有鹿神社は律令制度確立以前は実は古代の一之宮だった。
しかし 古墳時代に成り海だった県央部が隆起して湿地に成っていた辺りへの人の入植が進むと、寒川神社が一之宮に成った。
どうやら神社の伝承や延喜式内社と式外社の分布と土地の隆起した年代を見ていると現在の中原街道に当たる道が奈良時代位には主要街道に成っていた様だ。だから有鹿神社から寒川神社に一之宮が移されたんだろう。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
しかし、相模国国分寺と国府は古代に有鹿郷と呼ばれた海老名地方に置かれた事からも、依然として重要な土地と認識されていた事が良く解る。
もっとも小生の推測は教育委員会とも宮司様達とも少しだけ違い、神奈川県内には「3つの国の国府」が存在していたのだろうと推測している。
3ヵ所の国府では無く、3ヵ国の国府だ。
小生は有鹿郷(海老名)は古代の佐賀牟国の国府跡、六所神社と川勾神社近くが磯長国の国府跡、そして前鳥神社の周辺が相模国が成立して置かれた一時期の国府だったんじゃないかと思っている。
まぁ詳しい事は解らないが江戸時代の中原街道の元に成っている古道自体の成立は大山街道(矢倉沢往環)よりも新しい道なのは地形的にも付近の延喜式内社の縁起からも間違いない。 

さて、海老名の地名の起源だが、記録に残るものは有鹿神社別当寺だった総寺院の住職が書いた「大きなエビが取れた場所だから」と荒唐無稽な説が文書として残っている為に海老名市教育委員会では延喜式内社一之宮寒川神社と五之宮有鹿神社に伝わる本来の伝承を伝える事が出来ず、歴史学のセオリー通り残った文献から僧侶が書いた物を紹介しているそうだ。
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上の写真は江戸時代の相模国一之宮寒川神社(大社格)の宮司が書いた掛け軸。
一之宮寒川神社~二之宮川勾神社~三之宮比々多神社~四之宮前取神社までは漢数字の宮の順位が書かれているが有鹿神社だけは現代では使われない書体で「護尾」と書いてある。
この「護」が「五」の当字で、本来は衛尾(えび)と書いていたんだろう。そして五之宮と書いては旧一之宮の社格に面目ないので配慮も有り衛尾の衛を洒落て同じ意味の「護」に置き換えて「五」と掛けたんだろうと言うのが有鹿神社の説だそうだ。
これに小生の意見を加えると、衛尾は更に「衛備(えび)」と書いて「衛(まもり)備(そなえる)」と言う意味が有り名付けられた地名なんじゃないだろうかと思う。
古代は有鹿郷と呼ばれていた場所を、大和朝廷が介入してきてから衛備となり→衛尾→海老と変遷したと考えるのが「でっかいエビが獲れました」より遥かに自然な解釈だと思う(笑)。
天智天皇の時代には相模国府が置かれた場所なので、東日本の防衛拠点的な意味で衛備ならシックリくる。当時の武蔵国は開発途上の草原と軍馬生産地だったので、大規模水田の耕作地を抱えて条里制で区画整理された街並みは関東では海老名が一番大きい都市だったんだろう。
まぁ~この海老名の地名は色々と歴史ミステリーを含んで非常に面白い事で有るのは間違いない。
所でこれと似たような良く解らない地名の由来というのは幾らでも全国各地に有って、例えば愛知県名古屋市の地名由来も神奈川県鎌倉市が起源と伝わっていたりする。
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※写真は愛知県名古屋市の熱田神宮の大鳥居。
実は愛知県名古屋市周辺の旧愛知郡や、海部(あま)郡蟹江町一帯の旧海部郡は鎌倉時代は名越北条氏の領地だった。名越北条氏と言うのは鎌倉幕府二代執権北条義時の本来の嫡男(跡継ぎ)の家系なのだが、執権には成れなかった家系だ。しかし祖父の北条時政の名越邸と呼ばれた邸宅を相続して今の釈迦堂切通し辺りに住んでいた。
因(ちな)みに名越北条家初代は名を名越北条朝長公と言う。
名越北条朝長公は承久の乱でも軍の指揮官として大活躍し極めて優秀だったのだが、本来は“正妻の子”だったが母の家系が比企氏だった為、執権北条家と比企氏が源頼朝公の跡継ぎを巡って権力抗争をして行く過程で不和に成り母が離縁された事で嫡男の座を失った。一方で諸長子(しょちょうし:側室の子だが長男)の北条泰時公は母が源実朝の乳母(うば)で三代将軍と成った実朝公と乳兄弟(ちきょうだい)だった事も有り立嫡されて北条家嫡流と成った。
以後、北条得宗家(とくそうけ:嫡流)と名越流北条家は子孫に渡って対立し、極め付けに宮騒動を起こして執権で得宗家の北条時頼公と名越北条の対立は軍事衝突に発展、構図は執権政治を行う得宗家と源頼朝公に恩義を感じている名越北条家と三浦家等の御家人の連合軍の対立だった。
得宗家派の勝利によって名越流北条家は権力の中枢から遠ざかるが最後まで頼朝公の立てた鎌倉幕府を支えようとした一族でもある。
もっとも、対立した北条泰時公も極めて優秀な政治家で日本で最初に法治主義を浸透させた名宰相であり、やはり名指揮官でもあったのだが…
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上の写真の釈迦堂の切通しの近くの山の中に名越邸が存在したのだが…
今の左派推薦の鎌倉市長が落盤を理由に交通封鎖、崩落を食い止める策も講じず、この数年で寧ろ風化が進み消滅を促している様な状況に追い込まれている。真に文化歴史軽視の市長である。
この名越北条氏が住んだ平野が名越野と呼ばれたとの説が有り、それが転化して那古野(なごの)と成り更に那古野(なごや)と呼ぶ様に成り、江戸時代に名古屋城の築城と共に名古屋に地名も変わったそうだ。
こんな風に、漢字を音で時代時代に当字するのは歴史の常識なので、海老名の地名も衛尾と考えるのが最も自然だと確かに思う訳だ。
デッカイ海老が獲れたって何だソレ(笑)。確かに縄文時代なら寒川神社の眼前まで海は迫っていたが…
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
…文章に書いてあるからって信憑性も調査せずに資料として採用するなら、そりゃ神奈川県教育委員会さん、あんた等は書籍に成ってれば何でも資料として使用して良いって素人のwikipedia編集者と同次元ですぜ(笑)?
有鹿神社の宮司様の講義に話を戻すと、有鹿神社の水引き神事や他の神社との位置関係の解説等を一頻(しき)り楽しく受講して瞬く間に1時間が経ってしまい講座が終了してしまった。
しかし宮司様(本職は大学名誉教授と法律関連)の著書を頂いたり、色々と親切にして頂いてとても有意義な1時間と成った。
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境内の銘木や何かを写真撮影していると…
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…宮司様が社務所から出てらっしゃって、わざわざ本殿背後の御神木まで案内して下さったり、旧境内地で昭和の高度経済成長期のむやみな砂利採石による川の浸食で縮小した「有鹿の森」を案内して解説して下さったりした。
有鹿の森は昔は相模川と鳩川の合流地点に広がっていた広大な森だったのだが、砂利の採石と治水工事で川の水面が低い位置に下がってしまった為に森との高低差が大きくなり、木々が水を吸い上げる事が出来なくなり森林が消えて川辺の草原に変化してしまったそうだ。
わずか70~50年位前の話しだ。
そして面白い物も見せて頂けた。写真を撮影し忘れたので禰宜様のwitterの画像の転載許可を頂いた写真を掲載する。
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この本殿前の特に立派な1枚の敷石、実は源頼朝公に仕えた海老名の在郷武士の名門、海老名家の邸宅の敷石13枚の内の現存する一枚だそうだ。
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他の12枚はそれぞれ散逸して行方不明に成ったり別の場所に現存したりするそうだ。
まぁ、そんな感じで本当に御多忙なのに付きっ切りで懇切丁寧に解説をして下さった上に、本殿の覆い殿の中まで通して頂き拝殿の天井の龍や本殿の彫刻の解説もして頂く事が出来た。
この際に写真撮影まで許可して下さったのだが小生のデジカメは性能が悪く帰宅して見てみたら真っ暗で何も見えなかった…小梅太夫じゃないけれど「悔しいです!」としか言葉が出ない。
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宮司様とお別れし、有鹿神社の境内社の天神社で小生の崇敬する歴史偉人の一人で神様に成られた天満大自在天神こと菅原道真公にいつも御守護頂いている御挨拶をして有鹿神社を後にした。
車に乗り直ぐ隣り、昔の有鹿神社別当寺の総寺院へ初参拝した。
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昔は塔頭寺院が幾つも建ち並ぶ大寺院で、有鹿神社を守っていた場所だ。
まぁ、弊害も有って昔の和尚様は世襲じゃないから情報が密に伝わらないし、歴史に興味の無い人も当然いるので「デッカイ海老がとれたから海老名」とか書く人も出て来る訳だ。
神道の儀式に仏教様式が混ぜ込まれてしまう事も有ったり、新編武蔵風土記稿なんかに御祭神が本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想で御神体の本地仏の大日如来に近い大日霊(おおひるめ)の名前しか記録せずに「有鹿姫」様や「有鹿彦」様の神様の本来の在郷の神様の名前が出て来なかったりしてしまう訳だ。
とは言え、神社を守ってくれた事には間違いないし、総寺院は真言宗の寺院なので明治の廃仏毀釈神仏分離令まで日本の神様も大切にして下さった訳だ。
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現代の境内は普通の規模だけれど、とても緑と建築の調和した素敵な御寺だった。
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簡単な歴史の説明も有る。
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そして真言宗寺院らしくお地蔵様がお出迎えして下さった。
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花もとても綺麗。
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本堂は比較的新しい再建の様だった。
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見た感じでは古くても昭和初期だろうか。
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扁額。
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唐破風の軒下には獅子が彫刻されていて、この彫刻が立派だった。
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既に散ってしまっていたが枝垂れ桜も。
又、有鹿神社の紹介記事を追記して、別途、総寺院様も独立した解説記事を書きたいと思う。
この日、まだ御住職様と御話する機会を得なかったので、それは取材してからにしよう。
総寺院を後にして、次の目的地の有鹿神社中宮に移動した。
車で10分もかからず到着。
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中宮と言っても元の場所から移動し、更に新田義貞の乱暴狼藉、永享の乱の戦災、そして武田信玄の乱暴狼藉等の戦火が有鹿神社を何度も襲ったので中宮は現代では縮小してしまった。
ここには奥宮とは別の聖なる池が存在したのだが現在は干上がってしまった。
恐らくこれも相模川の砂利の採石で水面が下がったせいだろう。
ともあれ、ここが有る時期から中宮として機能した場所には違いなく、現代人にとっても日本文化の一端を担った場所として大切な事には違いない。
こちらにも御参り出来て良かった。
参拝を終えて、次の目的地の相模国国分寺跡へ移動した…

国分寺から先の話は次の休日雑記の続き[第2部]へ続きます!
では又、次の休日雑記の続きで!
 

神奈川県平塚市四之宮には前鳥神社(さきとりじんじゃ)と言う、とても由緒正しい神社が在ります。
平安時代延喜年間の醍醐天皇から見ても歴史が古いと認識された“延喜式内社(えんぎしきないしゃ)”と呼ばれる神社が神奈川県内には14ヶ所、それ以外に当時は神社では無くて聖地霊場だった場所も数ヵ所在ります。
この延喜式内社の内、一之宮~五之宮の異名を持つ神社が5ヶ所有って、前鳥神社はその内の四之宮でした。
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神奈川県には国府祭と言う祭事が有ります。
昔、現在の伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は一つの佐賀牟国と言う大きな国だったのですが、その国が大和朝廷によって伊豆国、相模国、武蔵国に分割された際に、相模国の国府(現在の感覚の県庁)を何処にするかで神様(在地豪族)達が喧嘩する内容なのですが、その御祭にも登場するのが前鳥神社なんです。
古代の日本ではどの国にも一之宮~五之宮まで設置された様で、これが原始行政機関と成って行った様です。
現在では五之宮に平塚八幡宮を含みますが、平塚八幡宮は自らを五之宮と名乗った歴史は無いとの事なので恐らく昔は別の神社が五之宮だったのでしょう。
国府祭は比較的新しい御祭りなので(と言っても西暦500年代~700年代が起源のはず)、五之宮の問題が有ってもおかしくは有りません。
良い機会なので神奈川県内で古代に大和朝廷から既に官位を頂いいていた特に格式高い神社を名前だけでも紹介して置きます。
※現在の神社の序列は古代~江戸時代までの歴代天皇の御意思を無視した物で全く参考に成りません。

●有鹿(あるか)神社奥宮

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相模原市南区磯部勝坂遺跡に所在。
女神さまの有鹿比女命(あるかひめのみこと)が御祭神。
神奈川最古級の神社で縄文時代の遺跡の真ん中に在る。聖地有鹿谷自体が御神体で形式的に御社も存在する。飛鳥時代の朝廷からも国家鎮護の神社として信奉されている。
※現在の海老名市に在る本宮は、後の時代弥生時代の遺跡が近在する場所です。
対して勝坂遺跡の有鹿神社は縄文。

●石楯尾(いわたておの)神社
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相模原市緑区名倉に所在。
石楯尾大神が主祭神。
そもそも応神天皇の行在所(あんざいしょ=仮御所)が建っていた場所に存在する神社。
更に歴史は遡れ、日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)を埋蔵し御祀りしたのが石楯尾神社の始まり。中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。
朝廷から大切にされた古社だが、武田信玄によって略奪放火され古代からの神器等は消失した。その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡・・・。

●寒川神社
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高座郡寒川町に所在。
延喜式内社相模国十三座の中の筆頭格、一之宮。
御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)。
八方除け全方位の事故除けの神様や夫婦神様なので縁結びとしても有名だが、文化的には古代から続く追儺(ついな)祭が行われる。この追儺祭は現代では仏教の影響を受けている神事に変わっている場所も多い中、この寒川神社や京都の上賀茂神社では古来の形式が守られており、境内の湧水池で組んだ水を神前に供え聖水とした後に境内を清める伝統神事が毎年1月2日に行われる。

この他に二之宮~五之宮が有り・・・
●二之宮川勾神社    ・・・中郡二宮町
●三之宮比々多神社   ・・・伊勢原市三ノ宮
●四之宮が今回の前鳥神社・・・平塚市四之宮
●五之宮は延喜式では式外社の平塚八幡宮
・・・となっています。
この他に更に県内の延喜式内社には・・・
●有賀神社本宮          ・・・海老名市上郷
●深水神社            ・・・大和市深見
●杉山神社            ・・・横浜市緑区西八朔
●宇都母知(うつもち)神社      ・・・藤沢市打戻
●大庭神社舊跡(きゅうせき=元宮)・・・藤沢市大庭
●大庭神社            ・・・藤沢市稲荷
●小野神社            ・・・厚木市小野
●高部屋神社           ・・・伊勢原市下糟屋
●大山阿夫利神社(下/上社)     ・・・伊勢原市大山国定公園
●寒田神社            ・・・足柄上郡松田町
・・・が存在し、その他にも延喜年間には神社では無く霊場=聖地として扱われていた延喜式式外社と言う場所が有りまして、小生の把握する場所は以下の通りに成ります。
●橘樹神社  ・・・川崎市高津区子母口
●走水神社  ・・・三浦半島横須賀市走水
●師岡熊野神社・・・横浜市港北区師岡町
●八幡橋八幡宮・・・横浜市磯子区原町
●平塚八幡宮 ・・・平塚市浅間町
●六所神社  ・・・中郡大磯町国府本郷
●神揃山   ・・・中郡大磯町国府本郷の城山を含む丘陵全山
延喜式内社 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人には御馴染のこの加工画像で位置関係が解ります。
※既に記事に書いた場所が大半ですがリンク貼るの面倒なので暇が有る時に少しずつやります。
さて、以上に列挙した神社の中でも前鳥神社は、その中でも少し変わった由緒を持っています。
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ここは明治時代に境内地を縮小されたにもかかわらず現代でも立派な参道を有しているのですが、そもそもが応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)”様が移住した場所と伝わっています。
ですから御祭神も
莵道稚郎子命が祀られています。
莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)皇子は生前、その名前の通り京都府宇治市に住んでおられました。
・・・小生の祖先も宇治市に関係が有るのでもしかしたら御先祖様が
莵道稚郎子様に御世話に成ったかも知れません。
莵道稚郎子の名前を現代語に翻訳するとこうなります・・・
莵道=うじ=宇治
稚=わけ=別(わけ)=和気(わけ)=古代皇族の名乗り
郎子(いらつこ)=良い男子=皇子
つまり、宇治に住んで居た皇子様と言う訳で、これは前鳥神社の伝承や日本神話とも整合性が有ります。
そして、前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する場所が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在しています。
 真土大塚山古墳と前鳥神社 久良岐のよし
真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳です。
この場所からは古代大和朝廷との関わりを証明する三角縁神獣鏡が発掘されています。
この古墳の主は恐らく
莵道稚郎子命でしょう。
考古学的にも地理学的にも面白いのは前鳥神社周辺は縄文~弥生時代は海の底でしたが、弥生時代も終盤に成ると地面が隆起し始め、古墳時代には陸地に成った様です。 しかし当時はまだまだ海だった名残りで沼地が多く、住める場所に限りが在りました。しかし、前鳥神社は相模川の浸食を受けなかった自然堤防上に在る事から、この一帯は古代には半島状、ないし島の地形だったと推測されています。
前鳥神社も古語を解読すると良く解ります。
前=さき=崎=みさき=半島の先端
鳥・・・これは島の字が書き間違えられて伝わったと伝承しています。
つまり岬や半島の様な地形だった場所に、
莵道稚郎子皇子が御所を築いたと言う事が地盤や神社の名前から推測出来たりします。そして、それは日本の歴史の空白の次代、西暦300年代初頭~400年代中盤の話だった筈です。
さて、前鳥神社の歴史解説はここまでにして、施設其(そ)の物の紹介をしたいと思います。
神奈川県の延喜式内社は明治以前の歴代天皇の伝統文化を良く守り、神仏習合時代の名残を残す場所が多く有りますが前鳥神社もその一座です。
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鐘楼が有ります。昔は神社を御寺が守っていたので、和尚さん達も出入りして御参りしていた訳です。
そして神社には別当寺と呼ばれる管理担当寺院が設置されていました。宮司さんと和尚さんが協力して日本の文化を守っていた訳です。
ついでに言うと莵道稚郎子命は学問の神様として崇拝を集めていますが、その理由は漢学(大陸渡来の学問)を日本で最初に本格的に学んだ人物だからです。つまり、八幡信仰や牛頭信仰に繋がる原始仏教も学んでいた訳です。それ故(ゆえ)、御父君の大鞆和気命(おおともわけのみこと)=応神天皇は別名で八幡大菩薩の名で古代~明治まで日本人に崇敬された訳です。応神天皇の名は大化の改新以降に付けられた名前なので、大鞆和気命か別名で御陵の地名でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと)と御呼びした方が良いでしょう。
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前鳥神社は現在も参道を改修中なのですが、整備を行えると言う事は氏子サン達が頑張ってらっしゃるんですね。
ただ、古い物にも文化財としての価値は有るので、何でも壊さずに保管もして頂きたい所ですが、前鳥神社さんに限ってはその心配も無用でしょう。神職に史学と神学を両方学ばれた博識な方もいらっしゃいますから。
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鎮守の杜(もり)に囲まれた参道の正面に本殿が在ります。
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その両脇には御神木や石碑。
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参道を抜けると右手に社務所が在ります。
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そちらで立派な字の御朱印を頂く事が出来ます。
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有名な神社は書道の心得の有る方が多く、御朱印が格好良い。
社務所の手前には神楽殿も在ります。
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江戸時代には祭りの度に近所の人がここで御神楽を演奏したんでしょうねぇ~。
明治政府が宗教政策を失敗していなければ、現在も神社の御祭は賑やかだったんでしょうね。
本殿の右手前には奨学神社が在って菅原道真公と百済皇子の阿直岐が祀られています。
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 ここも前鳥神社の主祭神
莵道稚郎子命と同じく菅原道真公も阿直岐サンも学問の神様なので、学生や資格受験を目指す社会人には御利益が有りそうです。
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中にはすごい数の達磨さんがいたので、それだけ御利益が有ったって報告でしょうか?
その横には神戸(ごうど)神社が在って、古社らしく素戔嗚尊(すさのおのみこと)=牛頭天皇が御祀りされていました。
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本殿は古い建物では無い様です。再建と言っても、それなりに古いのでしょう。
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本殿を参拝する頃には夕陽も地平線に沈む時間に成り、社殿の灯りがとても神秘的でした。
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境内にはちゃんと親切に予備知識が無くても御祭神や神社の縁起が解る様に説明が有ります。
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皆さん、神様がどんな人だったかも知らないままに願い事だけするタイプでしょうか?それともちゃんと調べてから行くタイプ?現地で良く看板を読んでから拝むタイプ?
神様にも色んな御利益が有るので、予備知識が無くてもちゃんと看板を読むと良いと思いますよ~。

そんな感じで、前鳥神社が伝承通りに重要な古墳が近くに在り、相模国四之宮の格式を持つ神社だと言う事は御理解頂けたでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも素晴らしい歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や城跡が有るはずです、その歴史や御利益と現在の建物の立派さは全く関係有りません。そこに関わった神様に成った人や偉人が私達の発展の礎(いしずえ)と成った土地を開拓して下さり縄文時代からの文化を現代に残して下さったと言う事が大切なんです。
きっと皆さんの近所にも素晴らしい歴史人物達と関わりの有る場所が存在します。
ですから、ちょこっと御散歩に出掛けてみては如何でしょうか?

では、又、次のブログ記事で!
次は神奈川県の御利益の強い神社仏閣一覧を更新します。
 

神奈川県高座郡寒川町には、寒川神社と言う延喜式内社の古社が在り、古代から今も大変多くの氏子サンの崇敬を集めており、大変立派な神社と参道を現在でも有しています。
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先日、寒川神社の神職の方に寒川神社に伝わる追儺(ついな)神事と、その御由緒を教えて頂く機会を得て寒川神社に御参りに行って参りました。
この寒川神社は古代に一之宮と定められた御宮でした。
ですから参道もとても立派で、神社の現在の境内から1kmも手前に大鳥居があり参道が続きます。
寒川神社参道 久良岐のよし
寒川神社神事を御教授をして頂いた神職様の御話によれば、この参道が屈曲しているのは古代の相模川が参道の横にあり、河原に参道が有ったからだろうとの御推測でした。小生も大凡(おおよそ)同じ推測をしていますが、若干解釈が異なり、相模川ではなく古代の海岸線に沿って作られた参道だったろうと推測しています。
延喜式内社 久良岐のよし
小生がそう、推測するのは現在の神奈川県の衛星写真上にに延喜式内社と式外社と呼ばれる古社を表示し、古代の陸地と海岸線を重ね合わせれば一目瞭然で寒川神社は海岸線の端に在るからです。
海の真ん中に前鳥(さきとり)神社と平塚八幡宮が在りますが、前鳥神社の縁起では西暦300年代の創建とされ、丁度(ちょうど)古墳時代の始まり頃の神社成立なのですが、その頃から相模湾は隆起し陸地に成って行きましたので縄文時代~弥生時代の海岸線より海側に前鳥神社と平塚八幡宮は存在する訳です。
史学と神学を両方やっておられ小生が前鳥神社尊敬する神職の方に教えて頂いた事ですが、前鳥神社の直ぐ近くには古墳が在り三角縁神獣鏡が出土しているとの事で少なくとも卑弥呼の次代より後の成立で有る事から、地理学、史学、神学の全てで整合性の有る歴史事実でもあります。
つまり、寒川神社はそれより古い時代には同地に鎮座していた事に成る訳です。
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※一番外の大鳥居。スマホで撮影した動画のスクショです。写真じゃないよ!
神社としての公式記録も古く、朝廷の公式行事が記録し始められた頃の西暦400年代、雄略天皇の時代には既に幣帛(みてぐら=奉納品)を賜った記録が有り、以後、歴代天皇に代わり朝廷の奉幣使が遣わされた歴史を有する由緒を持ちます。
ですから、参道も長く立派なんですね。
ところで、小生のブログでは度々登場する神奈川県の延喜式内社の一~五の序列の神社と国府祭と言う御祭が有ります。
昔、静岡県東部の駿河地方と伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は2つの国で磯長国と佐賀牟(さがむ)国と言われた行政区域でした。
その佐賀牟国は、西の方を相模国と残りの横浜市東部と川崎市東京都埼玉県に股がる武蔵国に分けられました。磯長国も駿河国、伊豆国と西湘が相模国に分けられました。現在の神奈川県は相模国全域と、武蔵国の内の久良岐郡・都筑郡と橘樹郡の一部から構成されています。相模国が成立すると、相模国の国府(県庁所在地)を何処(どこ)にするかで神様(御神孫の豪族)同士がモメました(笑)。

その際のケンカが今も神事に成っていて、神奈川県で古代から伝わる国府祭(こうのまち)と言う祭事です。

この祭事の際に延喜式内社の寒川神社と川勾神社の神様が、自分の御宮を国府(こくふ)にするべく喧嘩する話がそのまま神事に成って伝えられています。
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※写真は三之宮比々多神社。寒川神社と同じく延喜式内社。
面白い事に、この神事にはちゃんと仲裁役も居て、小生が氏神様、土地神様とは別に毎年御参りに上がる比々多神社の神様(当時の御神孫の豪族)が「決着は来年にして落ち着きましょうよ」と寒川神社と川勾神社の神様の仲を取り持って一件落着する御祭に成っています。
そこでもう一度、昔の海岸線を見て貰うと何で寒川神社と川勾神社で国府設置を争ったかも良く解ります。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
寒川神社と川勾神社は古代の海を挟んで東西に対峙している訳です。恐らく相模国が成立した頃には既に海は隆起していたと思いますが、比々多神社周辺の戦国時代の岡崎城は戦国時代に至っても周辺を土腐(どぶ)に囲まれていました。海だった古代から1000年以上過ぎた戦国時代でもまだまだ湿地帯の様な場所が多かった程なので、陸地に成ったと言っても国府祭神事が行われた当時は現在の平塚市や茅ヶ崎市辺りの湘南地区=県央部は人の住める場所は少なく、古代から陸地だった寒川神社と川勾神社が交通の便から自分の地域に国府を置きたかった事情が読み取れる訳です。
仲裁した比々多神社は丁度、寒川神社と川勾神社の古代の陸地で真ん中に位置します。
さて、そんな訳で小生が神事の解説を受けに訪問した寒川神社、非常に古い次代から存在する事は何となく御理解頂けたでしょうか?
因みに国府祭で神様同士が話し合って決めたか朝廷が定めたかは解りませんが、一之宮~五之宮は以下の通りです。
一之宮・・・寒川神社
二之宮・・・川勾神社
三之宮・・・比々多神社
四之宮・・・前鳥神社
五之宮・・・平塚八幡宮(平塚八幡宮では五之宮を自称しておらず、後世の人によって加えられた可能性有り。)
この中に平塚八幡宮ではなくて相模国最古の有鹿神社(あるかじんじゃ)を加える説も有ります。
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有賀神社本宮(海老名市)と奥宮(相模原市)は以前もブログで紹介記事を書きましたが、奥宮が縄文時代の遺跡の真ん中にあり、聖地として古代からの湧水地有賀谷を抱えている場所でも有ります。
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この有賀神社と寒川神社、石盾尾神社(いわたておのじんじゃ)の三社だけが奈良時代に朝廷から官位を賜ってるので、恐らく、平塚八幡宮の成立以前は有賀神社が五之宮だったんじゃないでしょうか。
推測ですが。
他に相模国惣社を称する六所神社もあり、そこの近所に国府祭が行われる❝神揃山❞が今も在ります。
古代からこれらの神社と国府祭の五社は朝廷と結びつきが強かった事が解ります。
寒川神社の境内そのものに話を戻します。
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寒川神社の駐車場の横には摂社の宮山神社が鎮座しています。
この宮山神社は周辺に有った幾つかの神社が廃社される際に御神霊を遷座し合祀して御祀(まつ)りしている場所です。
摂社だけで普通の町中に在ったらそこそこ綺麗な神社程に整備されています。
寒川神社に行ったら是非、こちらも御参りして下さい。
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家庭運と安産祈願の御利益が有るので、若夫婦は是非御参りすると良いかと思います。
この宮山神社と、寒川神社の正面は少しだけ離れた場所に在ります。
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寒川神社の正面。立派な石橋ですね。
氏子サンも多く、参拝者の絶える事の無い御宮なので、力(お金)も有ります(笑)。
と言うか、現代の氏子さん達が頑張ってらっしゃるんですね~。
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参道も良い雰囲気です。
この神社は、植物に一々、何の記念で植樹したかや木に込められた意味の解説を添えて下さっているので、ちゃんと読んで見るのも良いかと思います。
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小生はこう言うのちゃんと読むタチでして、神社の職員さん達の仕事の丁寧さを垣間見れました。
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凄く立派な門ですね。
実は、寒川神社は平成に入ってから社殿の建て替えを行っているので御本殿もまだまだ新品同然の状態で、現代にこれだけの規模の立派な建築物を宮大工さんに依頼すると、どれ程の御金が必要か考えてしまいますね。
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門の絵前右側に社務所が在りますが、こちらも大変に立派です。
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結婚式もよく行われる神社さんだけ有り、少しホテルのロビーみたいな雰囲気も有ります。
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社務所の手前には別の裏門も有ります。
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本殿に行く門の手前の両脇には狛犬さんが控えている訳ですが、この寒川神社の狛犬さんは何だかロボットぽいデザインで個性的です。
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力強く・・・なんだか小生が昔遊んだTVゲームのFFシリーズに召喚獣として出て来そうな・・・
狛犬さんの手前左手には神馬をお祀りする御社も在ります。
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昔はね、絵馬じゃなくて有力豪族は馬を寄進したんですよ。
小生の住む久良岐郡の本牧(ほんもく)半島は、昔は朝廷の牧場で軍馬生産地だったので本牧の地名が残ります。
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でも、この寒川神社の神馬の彫像はリアルで少し怖い(笑)。
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門を抜けると境内は広く、とても綺麗です。
氏子サン達の頑張りで建て替えられた御本殿と整備された境内の石畳、この先数百年の財産に成り神奈川県の文化財に成って行くんでしょうね~。
まぁ、神奈川県と言う制度が残っているかは疑問ですが。
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境内全街がとにかく綺麗。
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新しいし。
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巫女サンも美人だし(笑)。
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八方除けの交通安全の御守りを買いました。津島大社の交通安全の御守りで遠距離運転を守って頂き、寒川神社の八方除けの御守りで車庫入れで四方八方ぶつけない様に守って頂く事にしました(笑)。
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御本殿も立派で、明治神宮よりも立派かも知れない・・・
これだけの規模の建物を良くぞ現代に建てれたものだと感心するばかい。凄いですね。
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ちょうど御祈祷が始まる直前だったので、拝殿に参拝客が沢山いました。
毎日沢山の参拝者が集まるんですね~。古代から栄え続けている神社だけに、財運にも恵まれそうだ。
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本殿の手前左手には御神木が在り、御神木も代を経て現在に至るそうです。
さて、ここからが小生の訪問目的で本題の追儺(ついな)祭の事に成ります。
この神事、ステレオタイプの学者先生共は中国由来云々かんぬん言う連中がいますが、寒川神社や京都の上賀茂神社等、古社に伝わる神事は完全に日本古来の様式の神事で、それ以外の比較的新しい神社が中国風の行事を取り込んで神事を行っているんですね。
寒川神社 久良岐のよし
寒川神社には背後に湧水地が在ります。夜、境内の灯りをすべて消して神職様達が池の水を汲み神前に供えるそうです。
度々解説していますが、延喜式内社の多くでは古代人が生活する基本となる聖なる水=安全な水の湧く湧水地や、海の航行や陸上移動の目標物と成る奇岩等も信仰対象として大切にされて来ました。
この寒川神社や上賀茂神社ではその歴史が守り伝えられている訳です。
寒川神社の追儺祭では、池で水を汲んで神前に供え清前(きよさき=聖水?)とした後に、境内を廻り、清前を撒いて清めるそうです。
この御祭、正月の2日に行われます。是非、皆さんも御参加されて古代からの伝統を体験してみては如何でしょうか?
今回の訪問で新しく延喜式内社専用に購入した御朱印帳に改めて寒川神社さんの御朱印と、近所の前鳥神社さんも御参りして頂いてきました。
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寒川神社さんの御朱印、カッコいいでしょ?
神奈川県内の延喜式内社は14座有るのですが、神主様が常駐している場所も減ってしまって中々、御朱印集め大変なんです。だからほら、小生の御朱印帳も寒川神社さんの右手は山梨県の一之宮浅間神社さんでしょ?
県外の大規模な延喜式内社さんから集まっちゃうんですよね・・・
簡単に御朱印が貰えるのは深水神社、比々多神社、高部屋神社(伊勢原皇大神宮で貰える)、大山阿夫利神社、寒川神社、前鳥神社さんくらいでしょうか。
有賀神社は宮司様にお電話差し上げて自宅兼事務所まで行って漸く拝領する事が出来ました。
なかなか、昔と違って神社にも御寺にも御参りする人は減って、檀家さん氏子さんも減ったので、宮司様も和尚様も複数の神社・御寺を兼任してらっしゃって大変なんです。
上記以外は御参りしても宮司様不在の事が多くてなかなか貰えない。事前に電話してタイミングが合えばと成ってしまいます。
これ、来年の目標ですかね、神社仏閣と歴史偉人の顕彰活動とは別に神奈川県内の延喜式内社を改めて御参りして御朱印コンプリートするの。
では、本日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう!




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