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鎌倉市の亀ケ谷(かめがやつ)と言う場所に寿福寺と言う御寺があります。

この御寺は鎌倉幕府三代将軍源実朝公と母君の北条政子様の菩提寺です。

山門をくぐると、とても素敵な参道の有る落ちついた御寺です。

何故なら御住職は純粋に源家の菩提を守ってらっしゃる方で拝観料も取らない代わりに本堂も公開していないからです。
本来の菩提寺の役割りをきちんと果たす事に専念なさっているんですね。


御朱印だけ頂きに行ったり観光だけの目的で行くと怒られます。
そりゃそうですね…
源家の菩提を守る為の純粋な仏教寺院でギャーギャー騒ぐ為の観光地じゃないですから。

しかし、ちゃんと御寺の歴史や開基された北条政子様や源実朝公に敬意を表し、本来の御朱印巡りの目的である御本尊の釈迦牟尼仏様や、脇侍仏様で鎌倉十三仏第四番の普賢菩薩様の御利益に預かりたく参拝した事を、ちゃんと礼儀を弁えて御挨拶し…
釈迦牟尼仏様か、普賢菩薩様か、どちらの御利益に預かりたいか御伝えすると…

御住職は御多忙な方ですので1日間御朱印帳をお預けする事に成りますが、必要な御朱印を頂けます。
小生は光栄な事に、たまたま当日頂く事が出来ました。

一般公開されて無くても、ちゃんと内門の前から本堂も参拝出来ます。
本来の寺院参拝の目的は、先述の通り開基された偉人に敬意を表しに行く事と御祀(まつ)りされている仏様に想いを伝えてお力添えをお願いする場所です。
どの仏様の御利益に預かりたいかでも参拝する御寺が変わりますが、様々な御寺をお参りしても失礼ではありません。

御朱印集めだけなんて浮ついた本末転倒な不敬な心では行かず、ちゃんと参拝してから御住職に御朱印を頂きにあがりましょう。

神社ならば達成したい目標を神様に申告し具体的なプランをコミットした上で、自己を高める為に神様に見守って頂く魔除けの御願いしてから神主様に御朱印を頂きに上がりましょう。
神社は神様に願いを他力本願で叶えてもらう場所では無く、実現の力添えをして貰う為にコミットに行く場所なんですよ。
後はご先祖様にもお力添えをお願いする場所でも有るので、自分の家系の御先祖様がどちらの神社の神様か家系をたどりましょう。
もし御先祖様に神様がいない家系の方や、祖先神の他にも尊敬している神様がいらっしゃるなら、ちゃんとどちらの神社にお祭りされているか神社の神様を調べてから参詣しましょう。
又は旅先で訪れた神社の神様の名前とどんな神様なのか位は後からでも調べましょう。

しかし…

この寿福寺の参道のマイナスイオンを感じる様な雰囲気と風景は実に美しい。

何だか厳粛な雰囲気がしませんか?
実はこの寿福寺の境内は、元々、平安時代に源頼朝公の鎌倉幕府創始以前の関東での源家本拠地邸宅跡でした。
その事は、前々回の「鍛治ヶ谷の古民家と付近の地理」と合わせて御紹介した「本郷ふじ山公園の記事」に詳しく書きました。
※その記事は「ココ」←クリック!

源頼朝公の曾祖父で関東武士から軍神と呼ばれた源義家公と、その御父君の源頼義公が此方(こちら)に邸宅を構えてらっしゃったんですね。


「源 左馬頭(さまのかみ) 義朝公」

こちらの寿福寺の敷地に在った御屋敷には、頼朝公の御父君:源義朝公の代までお住いでした。
義朝公は今の京都で起きた平治の乱の際に平清盛に敗北し関東へ撤退する最中、今の愛知県知多半島の武将で家臣の長田忠致(おさだただむね)の屋敷を訪れた所、彼に裏切られ暗殺されてしまいました。
無念…

戦後、この寿福寺の敷地に有った源家の屋敷内に、源家家臣で坂東平氏三浦家の分家で今の神奈川県平塚市の岡崎城主岡崎義実公が義朝公の菩提を弔(とむら)う矢倉(やぐら=関東武士の墓所で戦時には砦としても使う)を築いたのが寿福寺の原型と成りました。
更に征夷大将軍と成った頼朝公が相模川で亡くなると、奥様の北条政子様が頼朝公の菩提を弔う為に現在の寿福寺が成立したそうです。

先述の源義朝公を裏切った愛知県の長田忠致には自業自得とも言える後日談が有ります…

源義朝公の遺児(いじ=みなしご)の頼朝公が挙兵し関東を統治すると、身の程知らずで強欲な長田は恩賞(おんしょう=給与)目的でのこのこ恥も外聞も無く頼朝公の元を訪れてきました。
その際、頼朝公は長田にこう言ったそうです…
「働いたら美濃(みの国)尾張(おわり国)をやる」
果たして美濃尾張が頼朝公の支配下に成るや、長田の義朝公殺しの罪を坂東武者達が当然許るす訳もなく、長田は処刑される事に成りました。
その際に頼朝公は長田に又、こう言ったそうです…
「約束通り"身の""終わり"をやる(笑)」
…頼朝公、トンチの効いた究極のブラック超えたDeathジョーク(ー ー;)。

しかし、そりゃそうだ。
主君殺しといて主君の息子に給料寄越せとか…
長田はどう言う神経してたんでしょうね?

因(ちな)みに源頼朝公は鎌倉幕府を開く際に最初、父祖の故地(こち=所縁の土地)である今の寿福寺の在(あ)る場所に幕府の建物を建てようとしましたが、谷間で規模が狭い事から鎌倉御家人達に反対されて今の鶴ヶ丘八幡宮の東側に大蔵御所を築いた何てエピソードも、この御寺には有ります。

…本来なら幕府が開かれたかも知れない場所に立つ寿福寺が源家最期の将軍の源実朝公の菩提寺なのは、ある意味運命なのかも知れませんね〜。

本当、厳粛な雰囲気の落ちついた御寺なので、何か身が引き締まる場所ですよ…

あ!そうそう…
寿福寺の隣は後の福島県の戦国大名相馬家の屋敷跡で、相馬家が邸宅内に立てていた八幡宮が相馬八坂神社として祀られています。
相馬家も岡崎義実公や三浦家と同じ家系の坂東平氏の一族です。
※坂東平氏については「ココ」←クリックして平良文公の記事を御覧下さい。

因(ちな)みに、この亀ケ谷一帯は扇ケ谷(おうぎがやつ)の一部分なんですよ!
歴史好きなら解りますが、関東管領扇谷上杉家はこの辺りに屋敷が在ったから"扇谷上杉"なんです。
過去に上杉家について紹介したブログも書いてますので御興味(ごきょうみ)が有りましたら以下リンクから御覧下さい!
●上杉家と永谷天満宮「ココ」←クリック!
●関東管領宅間上杉家の榎下城「ココ」←クリック!

では皆様、又、次のブログ記事でお会いしましょう!