歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:小机城


小机城址竹灯籠まつり2
2023年11月04日16:30~18:30にJR小机駅から徒歩直ぐの小机城址市民の森で小机城址竹灯籠祭が開催されます。
詳細は下記の公式ホームページをご覧ください!


小机城や、北条幻庵公や笠原信為公等の歴代城主や城代と、ここを拠点にして戦国時代に活躍した小田原北条家の主力5部隊の1つ白備え隊については過去記事でも紹介しているので、御興味有る方は下の過去記事リンクから御覧ください。

 
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JR新横浜駅は新幹線が通る交通の要所で、その直ぐ裏手が旧街道なのを知る人は今では多く有りません。その旧道の他に第三京浜道路と言う自動車専用道路が通り、近くの神奈川区三枚橋町は江戸だ時代まで三枚田と呼ばれた地域で、古代の“店屋”と言う古代大和朝廷の駅伝制(伝馬制とも言う)の馬を交換する情報伝達網の中継基地が置かれた重要な地域でした。
そんな重要な地域を抑える城がJR横浜線小机駅の直ぐ隣の“小机城”と新横浜駅裏に存在した篠原城でした。

篠原城については以前、別に記事にしているので御興味有る方は上のリンクをクリックして記事を御覧下さい♪

さて、今回紹介する小机城ですが・・・
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小机城は現代では竹灯籠祭りが行われる風流な竹林の城址に成っています。この小机城と篠原城は鶴見川の水運を守る位置に築かれとても重要な役割を果たした城でした。
室町時代の初期に恐らく扇谷上杉家により築城され、東京の石神井公園の場所に在った石神井城城主の豊島家の一族が籠城し、関東を代表する名軍師の太田道灌公と攻防戦が行われた事でも歴史ファンには有名な御城です。
太田道灌公
・・・そして太田道灌公が内紛によって主君に暗殺されると扇谷上杉家が衰退し、そこに北条早雲こと伊勢盛時、改め入道(にゅうどう=出家する事)宗瑞(そうずい)公と跡継ぎの北条氏綱公が神奈川県東部まで侵攻して来て小机城は北条家の持ち城と成りました。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
この頃、明確な史料は現存しませんが所領や後の城主等を見ると状況的に初代の城主は北条早雲公の三男の北条幻庵公だった様です。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
太田道灌公や北条早雲公の生きた戦国時代初期には経済は一部輸入した中国貨幣と日本で産出される金銀の粒、そして直接商品を交換する物々交換によって経済が成立していましたが、鶴見川を使った水運の流通経済網に置ける重要地点だったんですね。
その小机城や篠原城の先には現在の六角橋商店街が有りますが、その直ぐ近所の久応山寶秀寺は古代の大伴久応とも大伴黒主とも呼ばれた日本武尊の与力豪族の邸址で日本武尊が滞在した伝承も伝わっていたりします。
更に、直ぐその横には神大寺と言う江戸時代の人が“城址”と間違える程に巨大な寺院跡が存在したのですが、その御寺の址に陣地を置いて太田道灌公が休息した伝承が現在も一帯には伝わっており昔は道灌森と呼ばれ緑豊かな場所でしたが、現在では農地開拓と戦後の農地改良でスッカリ削平地にされて何も遺構は残っていません。
ただ、神話の弥生時代後半~古墳時代には既に超重要な交通の要所だった事は神話と店屋の地名の伝承から伝わっている訳です。
もっとも、神話時代の少し前の縄文時代には鶴見川は小机城の辺りまで海で考古学的には鶴見湾と呼ばれています。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
白い部分が縄文時代の鶴見湾と現代人に名付けられている海だった地域で、一帯は鎌倉時代初期に成っても古代海だった名残で湿地帯でした。
今では干拓され広大な平地と成り、小机城の近くには日韓共催サッカーワールドカップの決勝戦が行われた日産スタジアムも在ります。
交通の要所なので昔は湿地帯でしたが鎌倉時代には佐々木泰綱公が開拓を幕府に申請している事が記録に残っており、鎌倉幕府成立以前、源頼朝公による関東統治過程で重要な与力だった佐々木高綱公に一帯の土地が与えられていたりします。


だから別のブログ記事でも触れた鎌倉時代の佐々木高綱公の館址の鳥山八幡宮も在ったり…
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新横浜駅裏には篠原城と言う御城の在った大豆戸町と言う地域が在ったりします。

以前、に行われる小机城址竹灯籠祭りの紹介ブログでも少し触れた「小机城」と言う戦国時代のお城が在ったり城址だらけなんです。
これ↴は小机城現存部の復元縄張り図。

現在城址に在る看板は↓こちら。
看板を見て頂くと分かりやすいのですが、現在城址はJR横浜線と第三京浜高速道路に分断されています。
しかし!
複数の地権者の方々の郷土愛により現存部は守り抜かれ「非常に良好な状態で空堀や曲輪群が現存してる」んです!


その様子は本当に素晴らしいので、小机城の殿様の紹介を始める前に城址公園の写真を先に御覧頂こうと思います…


伝・本丸直下の空堀
この空堀、風化している現在でさえ高さ6m以上なので当時は堀底〜曲輪まで7〜8m、土塁を入れれば10m近い高低差が有ったはずです。


本丸に続く土橋


写真だと判り難いけど横堀と帯曲輪
小机城は素人でも土の城を理解出来る程に状態が良いのです。
石垣よりタチが悪く殺傷能力の高い、土を削りこんで作る関東流の城を一目瞭然理解出来ます。
石垣城はライフタイムが長いのですが、敵兵が登れてしまいます。
しかし
土塁と土の空堀の北条流の空堀は、戦時には堀底に大量の竹槍が設置され、更に水がブチまけれ壁面は泥と化し、屈強な武者や忍者も登れなくなります。
落ちれば竹槍に串刺しに成ってしまうんですね…。
怖い!痛い!エグい!


更に北条流の空堀を発展させたのが障子堀(しょうじぼり)と言う、その名前の通り和室の障子みたいに仕切りがついた空堀です。
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これ↑ね。
これは伊豆山中城の障子堀です。
山中城は横浜の戦国武将で名将北条綱成公の副将だった間宮康俊公が籠城し、豊臣の大軍80000を間宮勢200で迎撃した場所です。
豊臣方の大名を道連れにして豊臣軍死者3000の大損害を与えました。
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それぞれの凹みは深さが当時は2m以上で堀の底から5m位上に曲輪(くるわ)と呼ばれる防御陣地が障子堀の上に有り、更に曲輪の上に土塁と言う高さ2m位土壁が有りました。
ここの空堀は当時は関東ローム層の赤土剥き出しで戦時に水をブチまけ泥ドロにしてしまうと空堀に進入した敵は必ず穴に落ちます。
武者は総重量30kgの鎧兜や刀を装備しているので当然登れませんし、穴の狭さで逃げる事も出来ません。
その逃げる事が出来なく成っている敵を、防衛側は淡々(たんたん)と弓矢や鉄砲で射殺して行くんですね…。
北条流の空堀は凄く残虐で堅固な防御施設なんです。
関東の戦国時代の城が石垣城では無い理由は関東ローム層を活用した方が石垣を組むより“殺傷力の高い要塞”を作る事が出来たからなんですね。

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写真は戦国時代の小田原城遺構の“小峯の大堀切”です。風化した今でも深さ8m程度有りますが、当時は堀は更に深く曲輪に土塁が巡らされていて堀底から上まで10m超の深さが有りました。
更にこの様な大規模な空堀と水堀で小田原城は町ごと囲まれていて“総構(そうがま)え”と呼ばれ堅固で、豊臣軍20万は小田原城の北条軍3万に手も足も出ませんでした。
実はこの北条流の空堀を、小田原城攻めで苦戦した豊臣秀吉も模倣し大坂城の総堀に採用していたんですよ。


さて、この小机城、古くは関東一の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公と豊島氏が1ヶ月に渡る攻防を繰り広げた舞台でもあるのですが…


小田原北条家の宿老で箱根の風魔忍者を管理した怪軍師北条幻庵公か御子息の北条時長公が城主を務めていたんです。


KOEIのゲームでは↑こんな頭デッカチに描かれてます(笑)。
この北条幻庵公は先程も話した通り、北条早雲公の三男で長生きしたので第三代小田原北条家の当主で名将名高い北条氏康公の時代に成っても活躍しており名軍師であり外交官としても歴史ファンには有名な方です。
文化人としても日本古来の神仏習合時代の伝統を守る宗教家としても教養高く当時から有名な方だったのですが、その教養の高さを示すのが衰退した室町幕府が本来行っていた武家としての儀式を鎌倉公方(くぼう=将軍)代を務めた蒔田(まいた)吉良家の吉良頼康公に北条家から姫が嫁(とつ)ぐ際に有職故実(ゆうそくこじつ=当時は失われかけていた武家の儀式)や人間関係の掌握方法や個々の人物毎での対応の仕方等を書付けアドバイスした“北条幻庵覚書”と言う古文書が今も残っており、室町時代の武士の生活を知る貴重な第一級資料として有名だったりします。
実は北条幻庵公は北条家の家臣団の中で最大の領地を有しており、“小田原衆所領役帳”とか“北条家所領役帳”とか色んな呼び方の有る古文書(小生は小田原所領役帳と言う名を採用している)によると合算して五千四百四拾弐貫百文の永代(子孫まで保証された)給与を貰っていました。
安土桃山時代の石高に換算すると1貫文=2石です。
北条幻庵公の所領=5442.1貫=10884.2石。これを収入にすると・・・
1石=米150㎏ 現代の米相場平均1㎏=400円前後。
10884.2石×150㎏×400円=年収653,052円(6億5千3百5万2千円)となります。
この1万石がどれ程凄い事かと言うと、初期の北条家が治めた相模国は1国で16万石しか有りませんでした。そして小田原所領役帳が編纂された1559年頃には武蔵国南部も支配地に組み込んでいましたが、武蔵国は1国で約67万石ざっくり半分で33.5万石です。
16万石+33.5万石=49万5千石が北条幻庵公や息子さんの北条時長公が城主だった当時の大凡(おおよそ)の北条家の総石高だと試算出来ます。
北条家も所領役帳に乗る幹部クラス社員や管理職社員だけでも、ここで書き込めない程大量の北条家の社員がいた訳ですが、そんな中で北条幻庵公の所領は実に広大だった事が解りますね。
では49.5万石の内の1万石もたった一人で領有してしまっている訳です。
現代の感覚では6億5千3百万の収入はカルロスゴーンさんが日産自動車の社長だった頃の年収に匹敵しますが、ただ、この1万石の収入で非正規の兵士も含めて戦時には兵士500人を集めないといけなかったので幹部でも決して豊かな状態とは言えないのが当時の武士でした。
しかし初期の北条家で所領以外にも本光院殿(所領役帳編纂時既に亡くなってる北条為昌公の戒名)衆の代理統率官を行っていたので、支配した勢力数は北条家中で相当な物が有りました。
この様に直臣では無くて本家の家臣を預かる武将を寄親(よりおや)と呼び、その部下に成る人を(寄子)と呼びますが、有名どころだけでも相当数の寄子が記録に残っています。
【小机衆】に関しては、本稿の最期の方で歴代城主と与力武将達の簡単な紹介を纏めて載せようと思います。きっと港北区や都筑区に住んでいる人は「おっ!」と思う地名が出てくると思います。
白備え隊の笠原信為公を小机城代として小机城近辺の武将で構成された軍団を率いた北条幻庵公は武人としても功績を挙げており、中でも河越合戦や国府台合戦での活躍が有名です。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成

北条幻庵公は関東最強だった武将の北条綱成公と今の埼玉県川越市に在った河越城に援軍に赴き河越城主の大道寺盛昌公と合計3000の兵士と共に籠城します…
敵兵80,000を率いる関東管領上杉家と古河公方との合戦で半年間も防衛に成功した上、大逆転勝利に導いた名軍師でした。
8万対3千と絶望的な戦力差ですね。
・・・こんな兵力差の敵兵に囲まれて、小田原の主君北条氏康公との連携を可能にしたのが彼が管轄した「風魔忍者」とその首領「風魔小太郎」の存在でしょう。


KOEIでは↑こんな感じに描かれてる風魔の小太郎。
彼等忍者がいたからこそ、外部との連絡が取れ、また謀略に長けた北条幻庵公だからこそ軍略に長けた北条綱成公と共に河越への後詰(ごづ)めを任されたんでしょうね。
さて、いくら北条幻庵公が謀略に長けていても統率者として優れた副官がいないと軍は統制出来ません。
この小机城、実は平時は笠原信為と言う武将が城代を務めていたのですが…
実はこの笠原信為公も優れた武将で文化人でした。
戦国時代の北条家には五色備えと言う5色に色分けされた5つの主力部隊が存在しました。
その内、"白備え"を率いたのが北条幻庵公で、老齢の幻庵公の代官を務めていたのが城代の笠原信為公だったんですね。
更に里見家と正木家による鎌倉市街地と鶴岡八幡宮への乱入、掠奪、放火、破壊で鎌倉が壊滅した鶴岡八幡宮合戦の復興を統括し、北条家の敵対勢力である上杉家の協力まで取付け鶴岡八幡宮再建を成功させています。

この事業では同じく横浜の蒔田城主吉良頼康公や笹下城主間宮康俊公も活躍しています。
笠原信為公は血筋も由緒ある家系で、古代、律令制以前に存在した相武国(さがむこく:埼玉県東京都神奈川県全域を合わせた行政区域)を治めた相武国造(さがむのくにのみやつこ)の子孫に当たる方なんですが、武士として教養も高く和歌の名人として有名だったそうです。
彼は1557年没なので、丁度、河越合戦で白備えを指揮したのは彼だったはずです。
この信為公と小机城を顕彰する祭りが毎年春に行われています。
小机城址祭り
…と言うお祭りです。
白じゃないじゃん!赤じゃんか!
…なんて無粋なツッコミはしないだけてくだせぇな。
何せ、地域振興のボランティアだから皆。


横浜市港北区長が信為公に扮し、地域住民の方々が扮する白備え部隊を率いパレードや小机城にていくつかの演出もあります。
屋台も沢山出るので家族連れも楽しめるイベントです。
冒頭で触れた今月の竹灯籠祭りと合わせてオススメのレクリエーションです。
イベント抜きにしても、小机城は歴史好きな方にはオススメの場所です。
JR小机駅から徒歩10分もかからないので竹林に覆われた城址公園の遊歩道で、是非、一度お散歩されてみてはいかがでしょうか?
御祭りの様子を崩壊した過去記事へのリンクを以下に掲載して置きます。
※以下のタイトルをクリックすると記事へリンクします。



さて、最後に小机城の歴代城主と小田原所領役帳に掲載される白備え隊小机衆の主だった武将達を紹介して記事を〆たいと思います。

【歴代城主】
●北条 長綱公・・・入道号:幻庵宗哲。
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその家臣団も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。先述の通り、河越夜戦で白備え隊を率いて黄備え隊大将北条綱成公と黄備え隊副将間宮康俊公等と古河公方ー上杉連合軍8万の大軍を城兵3千で半年間の防衛に成功し、更に国府台合戦でも活躍した文武両道を地で行く武将だった。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・戒名:宝泉寺大年用公。
早世したので城主としての事績は詳(つまび)らかでは無い。
所領役帳には“三郎殿”と記されている人物。近年になり実名が時長と判明したが城主としての在任期間は短命の為に短かった。“新編相模風土記稿 足柄下郡の風祭村(小田原城下の東海道から箱根への入口) ”に在る宝泉寺の“開基北条時長”と書かれた文書の存在や、永禄三年(1560年)07月20日が命日と判明している事、同年に北条氏尭公が小机城主の座を継承している事の整合性から宝泉寺が菩提寺の北条時長公が三郎殿だと推定されている。
※風魔忍者の根拠地が風祭で箱根の山を熟知した集団と言われている。
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
永禄三年(1560)年に小机城址と成る前は平井城主だった。平井城は上杉謙信が相続した山内上杉家の本拠地だった事もある重要な城だった。武蔵国の防衛で活躍し、上杉謙信の関東侵略に際して河越城に援軍に赴き撃退に成功している武勇の持ち主だった。
伊達家との外交でも活躍していた事が古文書の存在によって明らかに成っている。
●北条 氏光公・・・北条氏康公の八男と言われるが確定されてはいない。
北条幻庵公の姫が正室(せいしつ=本妻)。元々は戸倉城主だった。
織田家の中部地方支配が本能寺の変で崩壊すると、羽柴秀吉の了解を得て甲府を制圧した徳川家康公が武田家最後の居城だた新府城(山梨県韮崎市)へ入城する。武田家と縁戚だった北条家も織田領へ侵攻し旧武田領を切り取り始める。新府の徳川家康公を挟撃殲滅するべく北条家第五代当主の北条氏直公の大軍は新府の北の若神子城(山梨県北杜市)に大軍着陣し徳川軍を引きつけ、別動隊として北条氏光公の小机衆と北条氏勝公の玉縄衆が富士山の東側を回り甲斐と駿河国境側から御坂城(標高1600m山梨県笛吹市)へ兵10000で着陣し挟撃の機会を伺った。しかし小山城(笛吹市)を兵3000で守備していた鳥居元忠公が北条家の動きを察知しており、統率者が若い小机衆と玉縄衆は急峻な山を下り黒駒の狭隘な谷間で鳥居元忠公の急襲を受け壊滅、殿軍(しんがり)を務めたと思われる玉縄衆の付家老である間宮家を継承していた間宮康信公が討ち死にする等大損害を受けた。
尚、間宮康信公は当時、父の間宮康俊公の跡を継ぎ笹下城(横浜市港南区)の城主に就いていたと思われるが武田信玄の存命中に駿河東部で当時の寄親である玉縄城主北条綱成公が深沢城(静岡県御殿場市)の守備も兼務したいた時代に、間宮康信公が率いる黄備え隊の分隊は武田軍を駆逐して追撃壊滅させる大活躍をしています。
代替わりした大将が実力不足だと河越城防衛で活躍した白備え隊も黄備え隊も軍団の実力を発揮出来なかった様です。
【歴代城代】
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。

【小机衆寄子】
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際に豊臣軍に内通した松田憲秀の子、笠原政晴が継いだのはこの弥十郎の家系と思われる笠原綱信の跡目だと近年の研究で判明している。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。
領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
●福田    ・・・領地は都筑区大熊町。
●高田 玄蕃助・・・領地は川崎市宮前区中部~西部一帯。

他にも小机衆は沢山居て切りが有りませんが主だった人達は又おいおい追記しようとおもいます。
どうですか?小机城と小机城に関わった人々、皆さんの地元が関わりの有る武将も多かったんじゃないでしょうか?
又、こんな感じで北条家の各軍団と皆さんの地元の御縁を紹介して行けたら良いなぁ~と思います。

では!、又この記事の小机衆の名簿更新と新しい別の記事で御会いしましょう!
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以前の中田加賀守と横浜市保土ヶ谷区正観寺事を紹介した記事を書いた事が有ります。

今回は、その戦国時代の北条家臣中田家の本拠地だった❝慶応大学日吉キャンパス❞を御城として数回に分けて解説したいと思います。
横浜市港北区の慶応大学日吉キャンパスは戦国時代~太平洋戦争にかけて重要な❝城砦❞だった事を知っている人は横浜市民でも今では余り多くは有りません。
日吉キャンパスの地下には❝地下迷宮❞とも言えるトンネルを張り巡らせた地底基地が存在し、第二次世界大戦中に横須賀鎮守府から逃げて来た帝国海軍本部が置かれ海軍の幹部達が終戦直前まで作戦を立てていた大規模な司令所として機能していました。ですから石原裕次郎サンが若い頃に主演した映画では日吉キャンパスがロケ地に成っているのですが、海軍司令所の換気口の煙突が大学のグラウンドに残っている風景が見切れていたり(笑)するんですよ。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
※国土地理院色別立体図&Googleearth合成
上の画像は色別立体図と言われる地形を見やすく色分けした地図で、国土地理院が制作した物ですがネットで誰でも自由に閲覧する事が出来ます。
この画像を見て頂けると一目瞭然ですが、日吉~矢上の丘は鶴見川支流の一つの比較的な大きな河川である❝矢上川❞に東側と北側を囲まれ、南側は急峻な崖地で実に守りの堅い地形に成っています。
この地形に大戦中の海軍が目を付ける以前、実は既に戦国時代の名将がこの地に❝矢上城❞と言う城を築城して居城としていました。
その武将が小生のブログでも何回か紹介している小田原北条家の官僚型武将の中田加賀守で、記録の残らない戦国時代末期には3万石相当の代官を務めていたと地元や関係する寺院に伝承する北条家の大物武将の一人でした。正確には状況的に室町時代末期には北条家の大軍団の一つで軍旗を白い旗で統一した白備え隊小机衆と呼ばれる横浜市港北区小机の小机城を拠点にした軍団で重臣として勤務した後、安土桃山時代に成ると北条家滅亡直前には世田谷衆とも言うべき北条家従属大名の蒔田吉良家の与力家老として転属していた様です。
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写真は横浜市港北区の小机城址で毎年桜の季節に行われる小机城址祭り。港北区長が小机城代の笠原信為公に扮して行われる祭りです。
2014-04-06-11-44-56
小机城は横浜市教育委員会が保護を怠り半分が高速道路と鉄道建設で消失しましたが、今でも残存部分の保存状態が良く❝続日本の100名城❞の一つに選ばれたりしています。
2014-03-23-16-35-29
その小机衆として活躍した中田加賀守が3万石の勢力を誇ったのは何とな~く解る程度しか文献の記録は残っていません。なんたって北条家の記録は豊臣秀吉に負けたせいで余り残らなかった上に、後に関東を統治した徳川家が政治力無くて江戸時代中期に成っても関東の領民が旧北条家臣団と北条家の善政を慕っていたせいでヤキモチ(笑)やいていたってのは幕末の勝海舟サンも認識していた事実ですからね~。
徳川家臣団が入ってくると北条家の史料は更に無くなってしまった様です。
今回はそんな中田加賀守の居城だった慶応大学日吉キャンパス=矢上城跡と、そのキャンパスの下に今も現存する中田加賀守の菩提寺の一つの谷上山保福禅寺と言う曹洞宗の御寺を紹介したいと思います。

以前、中田加賀守については紹介した別の記事も有るので、興味が有る方は下のリンクから過去記事を御覧下さい!
※記事タイトルをクリックすると過去記事にリンクします⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺
・・・保土ヶ谷区東川島町

川崎市の井田城は小田原北条家の吏僚中田加賀守の城?
・・・川崎市高津区蟹ヶ谷~中原区井田。

❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。・・・横浜市港北区小机
今回は中田加賀守が戦国時代に開いたと伝わる保福寺を先ず紹介して、その後で御城の説明をしたいと思いますが・・・
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
・・・中田加賀守の戦国時代に矢上城跡の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパス周辺がどんな感じだったのか先ずは少し現代の国土地理院色別立体図の地形上に周辺の御城の位置を表示して確認して戦国時代の流通の御話しからしてみましょう~♪
神奈川県東部の城 久良岐のよし
この画像は国土地理院色別立体図に神奈川県東部の主要な御城を表示して有ります。
矢上城は画面右上辺りに表示されています。
北条家はだいたい3キロ毎に一つの御城を建設して防衛に当たりました。まぁ、だいたい半径1.5km毎に地域を統治する役所としても機能していたんでしょうね~。そしてこの直線距離3㎞と言う距離は烽火台(のろしだい)として煙を確認出来る距離でもあるので、敵軍が攻めて来た時に早急に北条五色備えと呼ばれた初期の五軍団や、後の八王子衆・津久井衆・小机衆・玉縄衆・江戸衆と言った各軍団に情報伝達し迎撃態勢や攻撃態勢を整える役割も果たしていました。
そして地形を見ると一目瞭然ですが、全ては房総半島や鶴見川や多摩川上流の敵勢力、扇谷上杉家や山内上杉家(上杉謙信が継いだ家)や里見家と言った敵勢力の経済活動を阻害する様に配置されています。
何でこの御城の位置関係が敵勢力経済活動の妨げに成っていたか?って余り歴史に興味が無い人は思いますよね~?
実は大正時代ぐらい迄は物流の❝水運❞が占める割合はとても高く、特に明治時代以前は主たる流通網は海も内地も全て船や筏(いかだ)による運搬だったんですよ。
しかも北条家の城は大河川の渡河地点近くに設置されていますから、敵が攻めて来れる川の渡し場の先に城を築城して迎撃態勢を万全にしてあった訳です。
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大師の渡し川崎の多摩川なんかは今は橋を渡れますが、江戸~明治時代は川崎大師の前に大師の渡しと言う船着き場が有って船でしか渡河出来ませんでした。明治に成ると現在の羽田空港敷地に在(あ)った穴守稲荷神社への直行便が大師の渡しから出ていたりしましたが、実はこの大師の渡し場は戦国時代には主要な渡し場ではなくて現在の川崎駅近くに北条家臣間宮家の川崎館跡地の堀之内地区があり、その周辺まで海が入り込んで来ていて渡し場もその付近だった様です。
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瑞龍山 宗三寺
その城館の有った辺りが宗三寺で、この御寺の寺号も間宮信盛入道宗三公の法名に由来しています。周辺の地域が❝堀之内❞なのは北条家臣間宮家の城館を取り囲む水堀の内側の地域で城跡だった事に由来しているんですね。
直ぐ近くには京浜急行とJR線の川崎駅が在り、江戸時代にも東海道の川崎宿となり砂子商店街が今も残りますが戦国時代から流通の拠点だったので流通網を抑える地域に城が設けられた訳です。もっとも、この場所は元々は鎌倉時代の名将で間宮一族の名目上の祖先として仰がれた佐々木高綱公の城館跡で、後に佐々木高綱公の甥の系統の佐々木泰綱公が領主に成っている事が鎌倉時代の古文書や宗三寺の梵鐘の文字から判明しています。つまり鎌倉時代から交通の要所だったみたいですね。
そして矢上城ですが・・・
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
御覧の通り、鶴見川の上流を抑える位置に在ります。ここを抑える事で上流の川崎市麻生区を拠点にしていた扇谷上杉朝興公の海運の通商を阻害出来たんですね。そして川崎市麻生区~稲城市の❝よみうりランド❞に在った小沢城を居城にした扇谷上杉家当主の上杉朝興公は討死して神奈川県域から扇谷上杉家の勢力は駆逐される事に成りました。つまり物流と地形的な観点から経済的にも軍事的にも重要な場所が矢上城だった事が解かります。
そんな場所なので戦国時代末期には3万石相当の代官を務める北条家重臣に成っていた中田加賀守公は矢上城を居城にしたようです。
Googlemap矢上城址付近 久良岐のよし
とっても険阻な台地が矢上川に守られる地形なのがGooglemapでも良く解りますね~。
さて、ここから先は又、続きの記事で紹介したいと思います。
次に続く⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。




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今年も戦国時代の小田原北条家の白備え隊、小机衆と言う軍団の拠点だった小机城で日本の竹ファンクラブにより「小机城址市民の森 竹灯籠まつり」が開催されます。
本稿の最後の方で小机城で活躍した記録の残る武将達の紹介もしますが先ずは、御祭りの紹介を!
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
竹灯籠まつり詳細は以下リンクへ!
日本の竹ファンクラブ 小机城址市民の森竹灯籠まつり
Twitterに途中経過も掲載されていますので御興味有る方は御覧下さい!


さて、小机城址の竹灯籠まつり、余り御存知無い人の為に一応、過去の竹灯籠まつりの写真と、小机城に関するブログ記事リンクを掲載して置きます。



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以下、小机衆だった主だった武将の名前です。
【小机衆】
[歴代城主]
●北条 長綱公=入道号:幻庵宗哲
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその遺領も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・早世
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
[城代家老]
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。
[軍団重臣]
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
・・・この他にも沢山の代官や北条家の被官が居ますが挙げていたらキリが無いのでひとまずこれまで。
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小机城で活躍した現在では名も知られない武将達の御子孫達が横浜市の行政による宅地開発に抵抗し守って来てくれた小机城の城址で毎年開催される風流な竹灯籠まつり、皆さんも楽しんでみませんか?
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横浜市港南区野庭と言う場所は、昔は鎌倉郡域だった場所で、そこを開拓したのは千葉家傍流の臼居と言う一族だった。
元は千葉家の分家で印旛郡臼井城主を祖先に持つが、千葉家臣の原家に城を乗っ取られた頃に臼居一族は野庭に移住し、小田原の北条家に臣従した。
その頃に臼居家が建てた神社が今も在って、‟カテゴリー神社”で“野庭神社”の記事として少し書いた野庭蔵王権現御嶽社だ。
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野庭の臼居初代は杢右衛門と言うが、この杢右衛門さんの奥さんが東急東横線日吉駅辺りの殿様の中田加賀守の御姫様で、先日、この中田加賀守の事を纏めた論文を目にする機会が有ったので、コピーを臼居家の子孫の“cafeこやぎ”の御店主の所に持って行ってあげた。

29日土曜日は、そんな訳で午前中は家でうだうだし昼からは野庭に行った…
こやぎでは論文のコピーを持って行くと喜んで下さり、暖かい麦茶を1杯頂いてから、近くの野庭神社と浄念寺を御参りした。
最初に野庭神社(蔵王権現御嶽社)を参拝し、前回訪問は夕方だったので改めて明るい時間の写真を撮り直した。
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旧鎌倉郡の神社なので、丘の多い地域の谷間に御社があり、石段の腐食具合も鎌倉のソレに似ていて趣が有る。
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小さな御社だけど、瓦葺で江戸時代の当地への遷座再建とも造りには歴史と整合性が有る。
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神社仏閣や偉人の御廟所で祈願する事は決まっている。
神社仏閣と歴史史跡の保護で少しでも世間様の御役にたてれます様に、そして出来れば人として普通の幸せも経験できます様に、国籍人種問わず世界中の親日家の民草が平穏に無事に過ごせます様に、いつも神様仏様に御参りする。
野庭神社で臼居杢右衛門サンにも御参りしてから、臼居家が建てた浄念寺に移動した。
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 ここは正式には蔵王山正定院浄念寺と言う。
野庭神社から直ぐ近くに在るのだが、まだ写真撮影に来た事が無かったので御参りしに行って見た。
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階段を上ると左手に本堂とは別の御堂が在る。
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そして階段の正面が本堂。
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谷間の目只ない場所に在るが、流石に在郷武士の建てた御寺だけあり規模は小さくない。
御住職様がたまたま法要後は御手隙だったとの事で今日は色々と御親切に臼居家の事や初代御住職と鎌倉光明寺との関係を御教授頂いた。光栄な事に臼居家の家譜が記された原本写しも見せて頂く事が出来た。
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ひとしきり御住職様と話し込んだ後に周辺の谷間を散策して一度帰宅し、今度は小机城址に移動した。
夕方17時半から小机城址で竹灯籠祭りが開催されるので、それを見る為だった。
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先日、母が大病を患い、もっと多くの時間を一緒に過ごさないといけないなと思い、母にもこの風景を見せてあげたくて一緒に行くか聞いてみいた所、興味を示したので例年は友人を誘うのだが、今回初めて家族を連れて来た。
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受付を開始した頃に少し雨が降り始めたが「ポツリ」・・・又「ポツリ」と言う程度だったので祭りも中止にはならなかった。
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竹の灯篭が城の切岸や空堀の壁面に生えた竹を綺麗に浮かび上がらせる・・・
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雨天に成ったが人の足は少なくなく、逆に今年は天候を危惧して入場者の誘導道を捕捉していた分、渋滞してしまったようだ。
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今年は前日の雨天のせいで灯篭の準備も例年より少ないが、見せ方をカラフルにしており綺麗だった。
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この行事に毎年参加している城郷小学校の生徒さん達の協力にも頭が下がる。
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こう言った活動を通じてもっと日本中の城址や神社仏閣等の歴史史跡の保護に成れば良いなと思うんだな。
小生は小生で個人でもっともっとやれる事をやりながら、諸先輩方のアドバイスを頂いて荒廃する神社仏閣と城址と、そこに関わった先人達記憶と教訓を後世に伝えたいと思いを強くした1日でした。

今年も竹灯篭綺麗だった。


 
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第13回 小机城址市民の森 竹灯籠まつり
今年も開催されます!
竹灯篭祭公式様 借り物 久良岐のよし
この祭り、めちゃめちゃ綺麗だから是非にも足を運んでみて下さい!
【2016年度開催日】
10月29日土曜日※雨天順延

【アクセス】
JR横浜線 小机駅から徒歩5分。
車で行く場合は日産スタジアム付近に臨時駐車場が設置されます。
主催するボランティア団体「日本の竹ファンクラブ」の公式ホームぺージは「コチラ」←クリック!
詳細は上記の公式サイトをご覧ください。

戦国時代に北条幻庵公達が城主を務め、笠原信為公が城代を務めた小机城址に5000本近くの竹灯籠を設置して夜に竹林を浮かび上がらせます。
その幽玄な景色は他では見られない神秘的な物です。
そして子供も喜ぶ笹団子や焼き鳥等の食べ物や竹製品の物販も行われていて、老若男女問わず足腰健康なら皆楽しめます。
※小机城を詳しく知りたい方は以下の過去記事もタイトルクリックして御覧下さい。


他にも関連記事を書いてますが、上の二つの記事が小机城と周辺に関して良く解ると思います。

さて、昨年までの竹灯篭祭の写真も少し掲載します。

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だいたい皆さん18時頃から見に来るみたいです。
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少し暗いですがとても神秘的。
ただ、城址で戦国時代の土の城なので、スポーツシューズやトレッキングシューズ等の歩き易い靴、ジーンズ等の長ズボンで雑木林対策を十分にして行く事をお薦めします。
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工芸品の様に細工された灯篭等も沢山あり綺麗です。
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城の空堀や切岸を灯篭が浮かび上がらせます。
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笹団子と抹茶も美味しい!
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小生が推薦する夜祭の一つです。
もう直ぐ伊勢原市大山の灯篭祭も始まります。
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※大山ケーブルの秋季特別夜間運行は「公式ホームページ」←ココから御覧ください!
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 ←以前書いた祭の紹介記事
ついでに大山は日本酒と豆腐料理が名物なので以前の記事も紹介します。

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←クリックで!

大山夜間ライトアップ 公式拝借 久良岐のよし
とにかく綺麗なので、是非、訪れてみて下さい。
※車で行くと必ず渋滞し間に合いません。電車で伊勢原駅まで行き、そこからバスで移動し、渋滞にバスが嵌まったら麓(ふもと)から徒歩で登山してケーブルカー駅まで行く事をお薦めします。

そして他の紅葉の名所も・・・
大雄山最乗寺も綺麗に朱に染まります。
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【紅葉状況:2015年】神奈川県内の紅葉名所の11/18現在の状況と見頃予測。←昨年の今頃纏めてた紅葉の名所紹介記事。
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昨年は気温が高く色づき悪いまま枯れてしまう樹も多かったのですが、今年は涼しいのできっと綺麗に色づくでしょう。
鎌倉の紅葉も綺麗ですよ!
お薦めは浄明寺地区。
中でも浄妙寺は特に良い。
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下の写真の綺麗な庭園を見ながら抹茶も頂けます。
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そして報国寺。
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こちらは竹林で有名な御寺です。ミシェランガイドでも三星。
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奥の草庵でゆっくり時間を過せます。
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抹茶付の拝観券を購入すると、ここで抹茶と落雁を頂きながら風景を楽しめます。
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東京都世田谷区の豪徳寺も紅葉が綺麗です。
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豪徳寺は蒔田吉良家の居城、世田谷城址に在った寺院を、江戸時代に大名の井伊家が菩提寺に定め拡張して庭園を整備しました。
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これからは秋の風物詩が楽しみですね!

では!次は神社仏閣城址の解説記事で御会いしましょう!
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先週末
土曜日は某博物館の図書館へ絶版の資料文書を漁りに…

翌日午前中
小机城址祭りを例年通り見物。
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港北区長サンの演じる北条家五色備えの白備え隊の大将:笠原信為公は今年も武将然として男前だった。
この区長さんは渋いイケメンだな。
笠原信為公は詩歌に造詣が深く文化人であったと同時に、大曾根城主・小机城と白備え隊の代官だった方で合戦の実績も豊富。そして鶴岡八幡宮再建の大事業等でも総奉行を務めたズバ抜けた実務能力の持ち主だった。
今の港北区長さんは外見も笠原信為公に相応しい。

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今年は雨が降らずに良かったですね、武者行列の参加者御一同…
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う~ん、女武者も凛々しいぞ!
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そして今年の個人的MVP…
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今年の御姫様役の地元の先生、めっちゃ可愛い(笑)!
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侍女さんかな?この方もおしとやかな雰囲気で和装が良く似合う。
今年は天候にも恵まれて、申し分の無い御祭りが開催出来たようだ。

苦言を一つ。
防子委員長、今年も城址祭りのアナウンスで、石垣城では無い小机城を石垣城と勘違いしたまま解説文章読み上げるのは「横浜市の恥」なので、早く改善して下さい。


京都から歴史好きな人物が京都から神奈川に出張してきてたので、横須賀を案内した。...
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大津町の信楽寺・・・
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坂本龍馬さんの奥さん御龍サンの菩提所。

走水神社・・・
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日本武尊と弟橘媛様神話の神社。
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一応、歴史の概略を伝え奥社まで案内した。
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奥社から走水湾の風景と走水海岸も案内した。
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本当に漁村。

かねよ食堂・・・
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走水海岸のお洒落なレストラン
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鮪のカルパッチョ
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鮪のフライ
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と、海鮮丼みたいな?三浦の鮪とシラスと芽若芽の丼。
相変わらず美味しい店だった。

その後、友人を駅まで送り届けてから、自分の仕事で移動…
京都から友人が来たので、自分の仕事有るのに案内したのは大変だったが、喜んでくれたのでまぁ、よし。

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ブログネタ
旅に出よう! に参加中!
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今年も、横浜市港北区、新横浜近くのJR小机駅から徒歩5分、戦国時代の御城、小机城の城址公園で「竹灯籠まつり」が開催されます!
※竹灯籠祭り日程などは日本の竹ファンクラブ公式ホームページココクリックして御覧ください
この御祭り、横浜市が他府県に誇るべき古今融合した素敵な夜景が見れる御祭りで、戦国時代の石垣の無い関東流の築城術でつくられた小机城址公園の空堀や各曲輪の切岸を夜陰に城址を埋め尽くす無数の幻想的な竹のキャンドルで浮かび上がらせます。
これは必見です。

過去の竹灯籠祭りの写真を集めた記事と、小机城を紹介した記事をそれぞれ書いているのでリンクはります。
そちらから竹灯籠祭りの幻想的な夜景がどんなもんか、試しに見てみて下さい!

●以前の竹灯籠祭りの写真を掲載したブログ記事ココ←クリック!
小机城を紹介したブログ記事「ココ←クリック!
城代だった笠原信為公の事績を紹介したブログ記事「ココ←クリック!

では!皆さん、御祭りですれ違うかも知れませんが楽しんで下さいね~♪
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ブログネタ
春の花、どの花のどんな姿が好き? に参加中!
横浜市に「茅ヶ崎城址公園」と言う、奇跡的な保存状態を維持したまま公園化された御城の跡が在(あ)るのを御存知でしょうか?
史跡の保護と言うのは、その時の市長の文化度の高低によって左右されます。
例えば以前の市長さん達が文化や歴史に対する意識が高くても、一度(ひとたび)アフォで無文化な市長を選んでしまうと、それまで保存状態良く保たれていた史跡も無文化市長の政策で跡形も無く破壊されてしまいます。

特に横浜市は様々なタイプの市長が目まぐるしく変わりましたが、この茅ケ崎城址公園は地元民有志により奇跡的な保存状態が保たれた後、幸運にも高秀市長や中田市長の政策で公園化され、現在に至(いた)ります。

どの位に「奇跡的」な保存状態かと言うと、もう一枚、航空写真を見て貰うと良く解ります。
横浜市営地下鉄、センター南駅前の歓楽街が目と鼻の先に在るんですよ!
つまり、地域住民が土建屋の乱開発に抵抗し城址を守り抜き…
その後、再開発計画に参与した高秀市長や中田市長がたまたま郷土愛と文化度の高い市長さんだった奇跡の結果に成立した城址公園なんです!

徒歩で直ぐの距離には、義務教育の歴史で習う全国屈指の規模を誇る弥生〜縄文時代の遺跡「大塚遺跡」も在ります。
※写真は横浜市歴史博物館の展示物

で、更に同地域には徒歩圏内に横浜市歴史博物館があり、茅ヶ崎城址公園や大塚遺跡の出土品も展示されています。
横浜市歴史博物館については、いずれ改めて記事を書きたいと思います。

茅ヶ崎城址公園、小生は今回の訪問で2回目です。
今回は城址公園の写真撮影と、横浜市歴史博物館の企画展示を見学する為に再度の訪問となりました。

さて、上の写真の通り、茅ヶ崎城址公園はセンター南駅を東側に進むと目の前直ぐの「こんもりとした森」の様に見えているので誰でも辿(たど)り着(つ)けます。

今回、小生は歴史博物館に車を停めて、そこから川沿いに徒歩で訪問しました。
途中、河原には可愛らしい「菜の花」が群生し開花しており、天気は生憎の曇天でしたが心をパッと明るくしてくれました。
この川、「早渕川(はやぶちがわ)」と言う川で今でこそ河川改修工事され穏やかな流れですが、名前からしても…
早…流れが早く
渕…水深の深い渕(ふち)のある
…だった事が容易に想像出来ますよね。
この川が茅ヶ崎城の外堀の役割りを担っていた訳です。
川沿いには菜の花の他に、地元の方々から大切に守られ日々拝まれて来た「堰の元地蔵尊」と言うお地蔵様が鎮座してらっしゃいました。
別名「子育て地蔵」との愛称で呼ばれ、昔は七五三の御参りに来る親子連れが沢山いたそうです。
今でも河原を散歩する親子連れや塾通いの子供を見守って下さっていますね♪

さてさて、この川沿いの道を途中で南側の丘に向かうと、其処(そこ)に茅ヶ崎城址公園が在ります。

センター南駅側から来るなら、おそらく昔は城の一部だった円通閣と言う御寺さん側から入って来る事になります。

だいたい、この様な旧城域内の端には御寺が在り、昔は出城や殿様の屋敷が在った場所だったりするんですが…
伝承無く、更に無住職に成ってしまっている様なので詳しい話を教えを請うべき方が居らず、今では良く判りません…。

さて、城域の話題に触れたので、茅ヶ崎城の小生の想像する範囲を航空写真に赤線フチどりして見ました。
恐らく、この赤線が外堀と外郭だった範囲だと思います。

想定の参考にしたのは、事前に横浜市歴史博物館で見学した再開発直前の航空写真と↓コレね。

あと、城址公園にある茅ヶ崎城残存部の縄張り図にある等高線から重機ではない人の手による土木作業で削り出したと思われる地形と、その延長線上の予測から範囲内を想定しました。


ちなみに城址公園のある台地は城址らしく断崖絶壁に成っています。

下は消失してしまった郭(くるわ)と城址残存部の郭をつないでいた↓土橋の断面。
現在の城址公園は外郭(がいかく)部分が宅地化により消失してしまいましたが、それでも内郭に当たる主要部分の曲輪/郭(くるわ)群が状態良く保護されています。

城址に入ると、先ず北郭(きたくるわ)の平場が在ります。
此方(こちら)には公衆便所(笑)も有り、城址訪問の悩みの種のトイレに困る事も無く見学が出来ますよ〜♪。
小生、最初に来た時にこのトイレに助けられました…。
下は一応、説明文の写真。



北郭を抜けると正面に「中郭」にぶつかります。
今でも郭の高さ5mは有りますが、風化する以前の戦国時代は郭の上の土塁は今より1mは高く、更に今は遊歩道に成っている空堀は1〜2mは不可かったはずなので…
当時の高さは堀底〜土塁まで比高8m近く有ったはずです。

中郭を目の前に堀底道はT字路に成り左右(東西)に分かれますが、左の東郭側は本丸に当たり当時は直接登れないフェイクの道でした。

ですので正しい順路は右回り西郭側です。この↓道ね。

さて、城の本来の縄張り上の侵入経路を辿(たど)ると、その先に、此れ等の内郭群の防御拠点の虎(小)口と言う施設に行き当たります。
説明図の様に先に進む敵を左右の中郭と西郭から挟撃(きょうげき=はさみうち)にし、郭の上から防御側は弓矢鉄砲を雨あられと敵に打掛け殺害する訳です。

この虎口の道は先述の通り空堀の底です。
下の写真が虎口で、右手が西郭、左手が中郭です。
昔は中郭に侵入するには、防衛側に狙撃されながら道を進み遠回りするか…
この東西の郭に掛かっていた「引き橋」を渡るしかありませんでした。
しかし引き橋は戦時に収納してしまい、攻撃者の侵入を遮断してしまえます。
ですから、西郭の守りが危うくなると守備兵を中郭に撤退させ橋を引っ込めてしまう訳です。

下は西郭の入口です。
西郭に入ると下の写真の様に更に一段高い土塁が有り、中郭と同じ高さに至る構造に成っています。
今は薮化が激しく藪こぎしないといけないんですが…
 
…イテっ!と思ったら、写真の野バラがGパン越しに足に刺さってました。
皆さん、これから夏に近づきます、野バラだけでなく藪こぎする際はスズメバチにも気をつけましょう。

痛い植物も有れば、可愛らしい植物達も沢山さいています。

綺麗ですよね~♪


虎口を抜けると、いよいよ本丸の東郭へ続く中郭への進入口ですが…
 
恐らく、この道は公園化の整備を行った際に後から設けられた道だと思います。
根拠は土塁が無理やり切り取られている事と、こんな攻め込み易(やす)い構造にする訳が無いからです。
少なくとも、写真右手の遊歩道は無く急斜面と帯郭に成っていたはずと個人的に想像しています。
 
中郭南側には北条流の築城術特有の「二重土塁(にじゅうどるい)」と呼ばれる構造があります。
二重土塁とは土塁の内側に守備兵の待機スペースを更に一段設けた構造の土塁の事で、これにより守備側はしっかりした足場や弾薬補給役の兵士を配置できるので、鉄砲や弓矢で狙撃しやすくなる訳です。

東西北は一般的な土塁が設けられています。
戦時には、この土塁の上に柵列(さくれつ)を設け、更に其処に木盾や竹束を置き、攻城側の攻撃から身を守る事が出来る訳です。

上の写真は土塁の二重構造が解り易いですね。

 
この中郭は最大の面積がある郭で、此処では弾薬や兵糧を保管したと思われる倉庫の礎石や、食器の破片が発見されています。
下は説明看板。

これ等の出土品は横浜市歴史博物館で保管展示されています。

この他に、当時の生活で燃料にしていた炭の話の解説看板も有ります。
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で、中郭、実は本丸ではなく、更に奥に指揮所だったと思われる東郭があり、そこに繋がる土橋が現在も残っています。
中郭から東郭を見ると、東郭の方が更に高いのが解りますね。
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此処から周辺を見渡し、戦争指揮を執る事が想定されていたんでしょうね。

東郭から中郭を見ると、まだ桜が綺麗に咲いていました。
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丁度、東郭の斜面がムキ出しに成っていたのですが、これは良い関東流の築城術を説明する材料に成ります。
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今でこそ、どの城址も鬱蒼(うっそう)とした植物の林に覆(おお)われていますが、戦国時代当時は、このムキ出しの切岸(きりぎし=人工的に削った斜面)のように、植物は伐採され土が地表に出ていました。
こうする事で、敵は登れなくなる上に更に水をブチ撒けドロドロにして置くわけです。
そしてそして!
その敵が滑って落ちる切岸や空堀の底には「逆茂木(さかもぎ)」と呼ばれる敵を串刺しにする為のトラップが設置されていたんですね…。
足滑って滑落したら即!死亡あるいは重症確定!…みたいな、石垣の城よりエグイ、30代以上には通用する言うなれば「リアル風雲たけし城」だった訳です。

今では、茅ケ崎城址の様に保存状態の良い城跡は、横浜市内では小机城位になってしまいました。
小机城は港北区、茅ケ崎城は都筑区ですが、両区共に以前は「都筑郡」と「橘郡」と呼ばれた地域から分離した同じ文化背景を持つ地域です。
この2城が状態良く保存されたのは、地域住民の保護活動の結果です。
本当、旧都筑郡と旧橘郡の地元住民の皆さんは郷土愛が強いんですね。
頭が下がります。
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この城の中郭と東郭からは都筑区の町が見渡せます。
この城の殿様が、今の風景を見たら、こんなに変貌したのに城址を守って下さった都筑区民にきっと御褒めの言葉を下さるんじゃないかと思います。

では、皆さん又、次の記事で!

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ブログネタ
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明日、2015年04月05日に小机城址祭りが今年も開催されます。
戦国時代、1500年代初めに小机城代を務めた笠原信為(のぶため)公を顕彰(けんしょう=リスペクト)したお祭りです。
殿様の信為公役は毎年、横浜市港北区長さんが演じます。
※小机城と笠原信為公について書いた以前の記事も有るので御参考にどうぞ!
⚫︎小机城址記事は「ココ」←クリック!
⚫︎笠原信為公の記事は「ココ」←クリック!
お祭りでは武者行列パレードがJR小机駅近くの鳥山町の三会寺(さんねじ)からスタートし、小机駅前を通り小机城址でイベントが行われます。
因(ちな)みに、小机城址近くの鳥山町も歴史偉人と関わりが深く、鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝公の重臣として有名な佐々木高綱(たかつな)公が領主を務めた地域でした。
高綱公と言えば宇治川合戦などで大活躍した坂東武士の中の鑑(かがみ)と言っても過言では無い名将です。
実は三会寺や近くの鳥山八幡宮は佐々木高綱公の開いた寺社でもあります。
つまり、昔からこの地域は関東武士団の根拠地の一つだった訳です。

※佐々木高綱公の城跡の鳥山八幡宮と、開基した御寺の三会寺記事は以下を御参考にどうぞ。
⚫︎鳥山八幡宮の記事は「ココ」←クリック!
⚫︎三会寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!

武者行列が住宅街を歩くシュールな絵面も何ですが、数十m置きに模擬鉄砲隊の砲撃演武も有りますよ。
小机城址の桜満開の本丸では出陣式などの演目等も行われます。
屋台も出ますよ!
近隣の小・中学生も可愛らしい武者に扮して参加してます(笑)。
横浜市民にとっては地元と誇りを今に伝えるローカルなお祭りですが、他地域の方も楽しめるので是非見学してみて下さい!
※雨天順延

では、又、次の記事で!
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