前回の記事⤵

これの続き。

前回は寶樹院高照寺が元は侍従側沿い、昔の海辺に向かう谷の三艘谷戸に存在した事と、高照寺が隣の谷戸に有った廃寺常福寺の歴史と歴代住職の菩提を引き継いでおり、常福寺は元は室町時代の足利幕府鎌倉公方足利持氏公の祈願所で金沢文庫の由来に成った稱名寺の末寺だった事や今の大道一帯を寺領として所有しており関所を設けて関税を徴収して反映していた歴史を紹介しました。

今回はその寶樹院の現代の施設の様子を紹介したいと思います。
現在の寶樹院は高台の上に在ります。
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境内から見た景色はこんな感じで、昔はこの御寺の下の近くまで海が入り込んで来てたんですね~。
ここなら関東大震災が起きて昔の海の部分に津波が遡上して来ても安心ですね。

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高榮山 寶樹院 高照寺実は古代の‟延喜式内社”と呼ばれる西暦900年代の醍醐天皇が政令で‟朝廷で保護しなさい”と定めた神社や弘法大師様が開いた御寺は古代の海から湿地帯に成った場所を避けた丘の上の郡衙(ぐんが:郡庁舎)跡地や縄文弥生古墳時代の集落の跡地から聖地化された場所や、昔は山の尾根道が主要街道だったので山道の入口の飲用水補給基地に成る湧水の沢や滝や池が聖地化されて寺院が建てられる事が多いんです。
寶樹院の近くで弘法大師様が関与した場所だと、南区の弘明寺、鎌倉市の覚園寺、今は浄土宗で元は真言宗だった鎌倉今泉の称名寺なんかが正にそういった背景が有る場所ですね。
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でも高照寺の移転時期は江戸時代なので、もしかしたら三艘谷戸の旧境内が火災で焼失して移転して来たのは、地形的に最初から津波対策を期待されての事だったかも知れませんね。
実際、衛星画像に古代の海岸線の画像を張り付けると寶樹院の手前まで海だった事が解ります。
六浦周辺の古代海岸線 久良岐のよし
青い色の地域が昔の海なので、高照寺は安全圏ですね~。
大道の皆さんは大地震が起きたら高照寺に逃げ込んだら良いと思う。
さてさて、そんな訳で高台に移転している高照寺ですが、地形上参道の階段もちょっと長くしたからでは御堂が見えません。
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この下の階段を上って真っ直ぐな階段の下に行くと、小泉さん家の菩提寺なのが判ります。
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この階段の手すりの前の石柱に注目して見ましょう。
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もろに‟小泉家”って書いて有りますね(笑)。
実は小泉元首相の御爺さんの又次郎サンの代まで大道に住んでいた御縁で今でも菩提寺なんです。
昭和28年09月と彫って有るので、又二郎さんが亡くなって2年後に寄進されている様です。
つまり小泉孝太郎君の御爺ちゃんで又次郎サンの婿養子の小泉純也サンが寄進している事が解ります。
階段を上ると御本堂が有ります。
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寶樹院高照寺としての御本尊は大日如来様です。
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常福寺の歴史を受け継いでいるので、足利家に使用を許された足利家の家紋の‟二つ引き両紋”の寺紋に成っています。
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彫刻はシッカリした物ですが木材を見ると御堂が最近再建されている事が解ります。
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扁額は新しい様ですね。
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この家紋の由来も来たけれどちょっと忘れちゃいました(笑)。
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屋根の家紋も独鈷と余り見た事の無い寺紋が使われています。
昔御寺に関わった武家の家紋でしょうか?
御寺の奥さんに聞いたけど、こちらは良く解らなかったと思います。
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そして御寺には真言宗らしく御地蔵様も祀られています。
御本堂の前には小泉さん家との繋がりが良く解る物が有ります。
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小泉元首相が植樹した樹。
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立派な枝ぶりですね~。
元々どっかの造園屋サンが持ってた高価な庭木を買って来たんでしょうか?
御本堂の左手には阿弥陀堂が有ります。
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こちらが常福寺の歴史を引き継いでいる建物です。
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御堂の前には御由緒書きが有ります。
常福寺が鎌倉幕府設立前から有る由緒正しい御寺だった事が解りますね。
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阿弥陀堂と書いて有ります。
この中を覗かせて頂くと・・・
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鎌倉幕府や室町幕府鎌倉将軍府を守護して来た常福寺の偉い歴代住職の菩提が今も寶樹院高照寺の御住職によって祀られています。
ところで、この高照寺の裏手駐車場側に気に成る地形を見つけました。
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鉄塔の手前に削りの押された岩盤、明らかに元々はあの高さに矢倉(横穴式墳墓)が有った様なので、下の常福寺跡~この江戸時代に移転して来た高照寺の境内は一体に成っていたんでしょう、尚且つ、この高台には人の往来が有る道が有った様です。
つまり未開の山を開削して開いた寺院ではなく、もともと常福寺に纏わる御堂か有った削平地も有ったのかも知れません。
それと常福寺跡の奥の歴代住職の御廟所ですが・・・
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この場所の地形が明らかに要塞化されたいた様な形跡が有り、尚且つこの今は人の往来の無い場所は古道で朝比奈峠に繋がっていた間道だった様です。
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直角に切り抜かれた平場と裾切された地形が今も残っています。
なので高照寺の墓地の地形・・・
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こちら側の今は高い所に残された矢倉跡の位置を通る山道も昔は比較的人の往来が有り、もしかしたら足利持氏公か足利成氏公の時代に京都の幕府勢力に付いた上杉家との戦闘を想定して要害化されていた時代も有ったのかも知れませんね。
上行寺の伝承を見るに、状況証拠的に昔の海を挟んで対岸の御伊勢山と権現山は荒尾城として要害化されていた様ですから、こちら側にも防御構造は多少は作られていなければ可笑しいですから。

いずれにせよ、昔の平安時代には常福寺が存在していたので平安時代の道は尾根道ですから、普通にこちらの山も鎌倉に抜ける道だったんでしょう。
そして、その歴史を持つ地形から大地震の時の津波から逃げるのに適した場所でもある訳です。

昔は鎌倉将軍に大切にされ、最近では内閣総理大臣を輩出した御寺、強い御利益も有りそうですね。
今では住宅街の裏山の普通の規模の御寺ですが、スゴイ歴史が有るのが前回の記事と合わせて御理解頂けたでしょうか?

きっと皆さんの御近所にもスゴイ歴史偉人との関わりの伝承を持つ神社仏閣が有るはずです。
ちょっと街の中を御散歩して、城址の公園や御寺や神社を散歩してみませんか?
そこで説明の看板を読んでみて、凄い人との繋がりを知ると自分の地元をに誇りと愛着を更に感じれるかも知れませんよ?

・・・では今日はここまで。又次のブログ記事でお会いしましょう~♪