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タグ:小牧市

愛知静岡旅3日目・・・

朝は犬山温泉の旅館、臨江館から始まった。
朝食を頂いて、朝風呂に入り、身支度をして犬山城に向けて出発。
従業員は女将さんはじめ、皆さんとても親切で良い思い出に成った。

犬山城は臨江館から徒歩でも10分程度と近い。
小生は車での移動なので、犬山城までは5分もかからずに着いた。
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犬山城の入口には針綱神社と言う延喜式内社が在り、それが城址入口の目印でもある。
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犬山城の鎮護だが、築城後に同地に移転させられたのではなく、寧ろ築城以前からこのこの地に鎮座していた神社さんらしい。
神奈川県と東京都と埼玉県の延喜式内社は少し知っているけれど、愛知県の延喜式内社の事は今回少し調べた程度だったので、訪問に際して予備知識が無かったで意外な場所で古社に御参りが出来て嬉しかった。
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その横には三光稲荷神社も有る。愛知県は寺の軒数が日本一なのだが、神社も可成り多い。
この神社も御城の登城口。
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神社の前には切通し状の道路が通っているが、これが犬山城の主要部分と外を隔(へだ)てる堀切の堀底道だったりする。
まぁ、証拠は後程掲載する縄張り復元模型の写真で確認して欲しい。
犬山城の詳しい解説は又にするとして、何より見所は国宝の天守閣、確か小生の子供の頃は1560年位の建築とされていた様に思う。現代では諸説有るらしいが遅くても江戸時代初期から存続する事は間違いない。
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天主閣=御城と思い込んでる歴史音痴も多いが、これは戦時の指揮所で平時の倉庫、あくまで居住空間では無い。後にも先にも天主閣に居住したのは織田信長公だけと言うのが一般的な説らしい。
ま、絶対に他にも天主閣や櫓で寝起きした殿様もいたと思うけどね。
それはさておき…
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戦時の指揮所だけあって当然居住性は悪く、階段も敵兵が登り難(にく)い様に急な訳だ。CIMG0533
現代人男性の平均身長170cm前後でも登り難い、当時の日本人男性の平均身長は150cm前後なので、この階段は当時の人にとっては最早、梯子(はしご)の様な物だっただろう。
現代の犬山城天主閣は博物館の様な機能も備えていて、甲冑や縄張り図も展示されていた。
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まぁ、指揮所兼展望台みたいな場所なので、天守閣の事はもう眺望を見て貰った方が早い。
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すんごい!高いの!
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欄干が腰より下なの!
小生は高所恐怖症なの!
もう絶対に登りたくない!
けどスンゴイ風景綺麗でしょ~‼皆、犬山温泉に泊まって、犬山城見たり旧尾張地方の観光は推薦出来るよ~!
…と絶叫したくなる場所でした。
犬山城址公園から降りて来て、最初にしたのが尾張名物の田楽を食べる事。
城の前には御土産物屋さんや飲食店が数件立ち並んでいて…
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目の前に在るこの店で田楽を食べた。
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美味しかったですよ。ついでに近所の御土産物屋さんで同僚への御土産も購入。
そして、この田楽屋さんから徒歩で1分の❝城とまちミュージアム❞ へ移動。
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歩く道は旧武家屋敷街だったメインストリート。
城と町ミュージアムは犬山城に関する様々な時代の縄張り図や城址と城下全体の復元模型が有り、犬山城を見るなら絶対に見て置きたい場所。小生は城に行ってから此方(こちら)に来たが、先に此方に来てから城を訪れた方が良いと思う。
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本当に見事な復元模型。川越市立歴史博物館の河越城と城下の復元模型が今まで最高傑作だと思っていたが、これは其れを遥かに上回る出来だ。
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本当に良く城下の様子や縄張りが解る。恐らく戦国時代の犬山城は本当に山の部分だけだっただろう。
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これだけ大規模な総構えに成るのは、城主成瀬氏が徳川家の一将として小田原城攻めに参加し近世城郭の基礎を学んで来たからだろう。
ともあれ、これだけの大城郭が他の地域でも多く建設されたのは徳川家康公が天下の騒乱を治めて平安を世にもたらしたから。重税の豊臣政権じゃ、いずれにせよ天下は治まらなかっただろう。
家康公が関東入部の際、前領主の北条家が税率40%と現代に比較しても善政と呼べる政治を行っていたせいで税率を変更できず北条家の官僚統治を模倣しなければならず苦労したのは有名な話で、徳川の治世が上手く行ったのは北条早雲公・氏綱公・氏康公の御蔭とも言える。
しかし、この博物館も犬山城天守閣も素晴らしい。運営されている職員の方々に感謝。
ここを10年ぶりに見終わって、また一つ10年ぶりの小牧山城址公園に移動…
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昔来た時は、小牧山城の上に存在しなかった歴史事実では存在しない筈の鉄筋コンクリートの天守閣が有って非常に憤慨した思い出と、当時は雑木林化しながらも荒らされていない空堀を散歩した思い出が有る。
約10振りの訪問だが、この時間を経て小牧市も反省したらしく城址公園としての整備を本格的に❝やっと❞始めたらしい。
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今回の見せ方考える整備は素晴らしいと思う。これも恐らく現在の小牧市教育委員会の委員長と市長が素晴らしい人物なんだろう。公園に変な展示館みたいな箱物を作る位なら、ちゃんと発掘してこっやって芝生で覆った方が昔の様子が解るし子供も段ボールで滑って遊んだり出来るだろう。
神奈川県綾瀬市の早川城址公園みたいに曲輪や堀底に植物園や遊具を設置しても良いだろうし、何にせよ、今の小牧市の取り組みは素晴らしい見せ方だ。
昔は嫌いだった天守閣にも一応登って来た。
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この建物は歴史音痴でド阿呆な成金が、城址に寄付の名目で全く関係ない鉄筋コンクリートの建物を建ててしまい史跡を破壊した負の遺産なのだが、今回訪問したら、負の遺産を何とか良い遺産にしようと今の小牧市の市長さんや教育委員会の方が努力されて中は立派な展示館に成っていた。
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本丸の模型とか…
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小牧山城の縄張り模型とかも展示されている。
今回、ここに登った一番の目的は、ここから生駒家の居城、江南市の小折城址に在る久昌寺が見えるか確かめる事だった。
小牧山城からの展望
一応、事前のシミュレーションでは方角は解っていたのだけど…

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やはり、大きい工場が乱立し、綺麗には見えなかったけど、戦国時代の当時は本丸から小折城が良く見えたと思う。
何でこんな事を確かめに来たかと言うと、武功夜話と言う古文書に現代語にするとこんな内容の記載が有る…
信長公の実質本妻で体裁上の側室だった生駒類(おるい/別名:吉乃)様と言う方がいて、信長公との間に年子で2人の男子(信忠公・信雄公)と姫(五徳姫)を産んだせいで体力を落とし、亡くなってしまった。お類様が亡くなる直前、信長公はこの小牧山城の本丸に御台所(みだいどころ=奥方の館)をわざわざ築いて、お類様を生駒家の小折城から引き取り、信長公は暇さえ有れば自ら看護したそうだ。
そして、看護の介無く塁様は亡くなってしまい、小折城の類様の館、つまり信長公が若かりし頃に二人で過ごした場所の西側で亡骸が荼毘(だび)に臥された。つまり火葬された。現在の田代墓地と言う場所だ。
この田代も本来は田城と書いて生駒家の小折城所縁(ゆかり)の地名だろう。
信長公はそれ以降、いつもお塁様が荼毘に臥された方を見ては泣いていたそうで、これは信長公の性格の実像を記録した貴重な証言な訳だ。これを書いたのは前野長安の子孫の吉田さん家の御先祖で、前野長安は蜂須賀小六正勝公の義兄弟、つまり信長公とも生駒家とも秀吉とも親しい人物だった訳だ。
同様の話は生駒家にも伝わっているそうだ。
とりあえず当時は見えたであろう小折城の方面が見渡せるのは確認出来て満足し、大急ぎで走って山を下りて車に乗り、布袋駅に向かった。
大急ぎの理由は布袋駅で一宮市在住の歴史仲間と12時30分に待ち合わせ、更に13時に江南市の久昌寺で信長公の母方の親類の御子孫の土田(どた)さんと待ち合わせをしていたから。
何とか時間の少し前に久昌寺に到着した。
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ここは生駒氏累代の殿様と於類様の菩提寺。だから織田信長公・信雄公・お類様と歴代殿様の御位牌が祀られている。
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本堂の様子は江戸時代のまま。
10年前に御会いした土田さんとは違う、今の檀家総代の土田さんに面会し衝撃の事実を聞かされた。
久昌寺は生駒さんと檀家さん僅か18家の努力で戦国時代から存続させて来たが、明治政府と戦後の宗教改革で土地を接収され、今年2016年になりいよいよ維持が困難と成り廃寺が検討されているそうだ。
この記事を見た人は、出来れば江南市長や江南市教育委員会、大村愛知県知事や愛知県振興部観光局や愛知県教育委員会に❝御寺全体の史跡認定による保護と観光地としての活用❞を陳情して欲しい。
●大村愛知県知事の陳情先…事務所リンク
●沢田江南市長の陳情先…ホームページリンク
もし、この久昌寺が廃寺に成り更地に成ってしまうなら織田信長公のファンのみならず愛知県にとって取り返しのつかない大損失に成るだろう。土田さんの話では相当に切羽詰まっていて今年か来年かと言う話らしい。
もう2つ・・・
●江南市観光協会の陳情先…ホームページリンク
●織田木瓜紋会(織田家子孫の作る織田家所縁の史跡保護の活動会)…ホームページリンク

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今回、土田さんの許しを得て御位牌を撮影させて頂いたので掲載しますが、小生のブログの閲覧者には御位牌を拝んで、この御寺の存在をちゃんと考えて欲しい…
本当は写真に写したくない。10年前に先代の檀家総代土田さんと御縁が出来て御位牌を拝ませて頂いて以来だが、御位牌と言うのは神道で言えば御神体の様な物だし、仏教的には仏舎利に等しい存在だから。
信長公・お類様、御許し下さい、御二人を皆に見て貰い、色々考えて貰います…
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久庵桂昌大禅定尼 織田信長公之室・・・お類様。
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総見寺殿相国一品泰巌大居士・・・織田信長公が没後に朝廷から追贈された官位と中国式の官職。
相国とは日本の太政大臣や右大臣に征夷大将軍を合わせた様な称号。今風で言うと大統領とか総理大臣。
皆、こんな大切な御寺無く成っちゃって良いの?
小生は一先ず、御寺への寄付を集める手段を考えながら、県知事や市町への陳情文書を作成します。
直接関係ないけど名古屋の観光復興に熱心な河村名古屋市長にも、織田家所縁の津島神社のある津島市や織田家初期の居城の稲沢市と愛西市の市長にも連携できないか手段を探してみます。
捲き込めれば愛知県の大企業も大旦那(スポンサー)に巻き込みたい。信長公と吉乃様の歴史が残る場所を残せるならボランティアでなんでもやろう。
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本堂の裏には御廟所が有ります。
先に御位牌を見て頂いたので吉乃様の墓の位置は解るはず。
四代生駒家長公は於類様の御実兄で、信長公の経済を支えた人物だ。萱津の戦いで敵軍に馬の群れを突撃して混乱させたり奇策に富んだ軍師でもあった訳だ
織田家が没落すると、尾張徳川家の家老として活躍した。3000石の大身だったそうだ。織田の天下が定まっていたらいずれ大名になられた人物。
まぁ、歴史にifは無いが、この久昌寺が日本規模で大切な御寺なのは御理解頂けたと思う。
残念ながら交通手段が今の所不便で観光素材に活用されておらず、愛知県は文字通り日本の宝を持ち腐れさせて廃寺の危機に追いやっているのだ。しかし、大村知事や河村市長の知る所と成れば、事態は必ず好転するだろうと思う。

久昌寺の近所には龍神社が在る。
ここは生駒家の御子孫や土田さん達の伝承で、お塁様の邸址に当たる地域とされている場所だ。
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神社には八大龍王が祀られていたが、神仏分離令で龍神社と名を改めた。
その前にも史跡が在る。
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元々は龍神社ともども久昌寺の境内地。
ここは雨乞いの場所だったらしい。
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お類様と信長公の事を考えると、縁結びの御利益も有りそうだ。
もっと参拝客がいて然るべき神社だと思う。
そこから名鉄の線路を挟んで向こう側、田代墓地に移動した。
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関係者じゃないけど、御線香上げに来たから車を停車させて頂いた。
ここは、お類様が荼毘に臥された場所。
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10年位前に来た時には無かった看板が有る。江南市も観光資源として生駒家を重視するなら、やはり久昌寺の窮地は境内全体の史跡化を図り税金投入して救うべきだと思う。そして周辺自治体と連携して観光地のアピールをするべきだとも思う。単独では無理が有る。
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お類様が火葬された場所には桜が植えられている。通称:吉乃桜。
以前来た時には、通称の吉乃で役を演じた高木美保さんがここを御参りされた時の写真が有った。でも朽ちて処分された様だ。高木美保さん、久昌寺の復興に力を貸してくれないかな…。
拝み終わったら、元々訪問予定だった江南市歴史民俗資料館に小折城址の縄張り図を見せて頂きに上がる事にした…
が!途中寄り道。
堀尾跡公園。 秀吉配下堀尾氏の邸址だ。
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この立派な門の先が公園で、元々、名古屋市熱田神宮の前に在った裁断橋が移築されている。
裁断橋の歴史は戦国時代初期には熱田に存在したそうだが、現在の橋は堀尾一族の堀尾金助が小田原攻囲中に陣没し、その供養の為に母によって架けられたそうだ。悲しい歴史が有るね。
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でも、堀尾一族は堀尾吉晴公が松江城主と成り大出世した。きっと金助も無駄では無かったんだと思いたい。
こんな悲しい話も歴史が好きだとしばしば直面する。だから、戦争に成らない防衛力の大切さと、戦争は最終手段であり、外交力と情報収集力が如何に大切かも解ったりするんだな。
治には桜が綺麗な場所。以前来た時は五条川沿いに桜が咲いて、とても良かった。
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橋の先には館跡に立派な八剣神社が建っている。堀尾家の名と共に末代まで周辺の人に大切にして欲しい。
この写真撮影の間、友人は近所で来た事が有るのにずっと待っていてくれた。感謝。
やっと江南歴史民俗資料館に移動。
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職員の方が居たので、とりあえず久昌寺の状況が廃寺検討段階に有る事を伝えたが、新しい館長さんは史跡としての反応より建物の物質的な話とかに成ってしまって少し問題から話題が逸れてしまった。
でも、この方も親切な方で、貴重な生駒家の資料のコピーをたまたま見せて頂けた。
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小さくはない、中くらいでもない小の大くらいの広さの博物館だが、こんな古文書や絵図の複製の展示も有って江南市の事と生駒家と蜂須賀家と前野家の基本的な情報は学習できる場所。
昔来た時に、色々親切に対応して頂いて教えて頂けた事を思い出しながら見学した。
こう言った素晴らしい場所を設けて下さっている江南市役所の皆様、市長様、ありがとうぞざいます。
出来れば久昌寺の重要性も再度検証して史跡認定して頂ければ全国の信長公や歴史のファンは安心すると思います。
ここから、宮後八幡宮に移動。
江南市の宮後地区は蜂須賀のあま市とは別のもう一つの拠点だった場所。
そして、蜂須賀家の城塞の近所に蜂須賀家政功によって造営された宮後八幡社が現存する。
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 小さい神社だが周囲の石組はどうも江戸時代のままだそうだ。
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確かに、木曽川から持ってきた石らしき物を野面積みにしてある。
現代の石組じゃないよね。
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拝殿も社殿も小さいけれど…
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地元の人の誇り。
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そして、あま市と江南市と徳島県を殿様の御縁で繋ぐタイムマシーン。
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小さい御社だけど、蜂須賀家正公奉納の檜皮葺の格式高い屋根。
さすが!津島大社の近くの蜂須賀城主の御子孫、境内地が小さいなりに、古来の御社を建造される辺り故実への御理解が深くてらっしゃる。
多分、現代では氏子サン少ないんだと思う。
もっとここは大切にされ信仰されるべき場所、なんてたって水運と経済と実務で日本屈指の実績を残された蜂須賀家の御利益に肖(あやか)れる出世神社であらせられる訳で。
もし、神社仏閣史跡の保護活動が形に成れば、覆殿を作れたら良いな~と思う。
氏子サン達も増えて、町の人によって大切にされ、観光客も増えて宮司様常駐できる程参拝客で溢れる日が来ないかな…。小生に何が出来るだろう?
ここから北西に徒歩2分の距離に宮後城址、蜂須賀家の要塞跡が在る。
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在ると言っても、周辺の道路が当時の水掘りの形状を残すのみ。
まぁ、城と言うよりは要塞化した居館兼、水運拠点と言う場所だろう。
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イタズラして捲(めく)れた場所をはがすクズがいるようだ。イタズラした奴が反省する神仏の軽い罰が落ちます様に。この前通った時に転んで膝少し擦り傷剥けるくらい。
ここから最終目的地だった縄文文化の男根崇拝が残る延喜式内社田県神社に向けて出発した。
途中で前野天満宮と言う神社を見かけ、友人と…
「そう言えば、この辺りに前野さんの御屋敷有るよね?」
…と言う話題に成り、運転しながら立派な漆喰の御宅を発見!
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コンビニに車を停めて歩いて戻ると、友人の感の通り前野家の御子孫の吉田さん家の御屋敷だった。
前野家ってのは、蜂須賀小六正勝公の義兄弟の前野長安公ね。
一時は大名にも成ったけど、上官の豊臣秀次公が耄碌(もうろく)した秀吉に有らぬ謀反の疑いをかけられて切腹させられた際に一緒に責任とらされて切腹、御一族は吉田と名を改めて、元々の出発点の江南市に帰農して残った。

その吉田さん家の前で、美人な奥さんと少年が門前の花壇をお手入れされていたので御声がけしたら吉田さんの奥さんだった(笑)。
本当に凄い美人!そして坊やはとっても礼儀正しい!久しぶりに愛知に来て気が付いたのだが、江南市辺りは子供の礼儀がシッカリしている。この吉田さん家の坊やに限らず多くの少年少女が観光客に挨拶をしてくれるのだ。親達がちゃんと歴史を伝えて強い責任感と道徳心が受け継がれているんだと思う。
多分、これは防犯にも役立つ良い習慣だ。不審者はビクっとするんじゃなかろうか?
ん?小生見た目が不審者なのだろうか?
いやいやデジカメを首から下げてるからだと思いたい(笑)。
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門前にはモニュメントと説明文。
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本当に立派な御屋敷。これを維持されている吉田家の皆さんに頭が下がる。
ちゃんと奥さんの許可貰って撮ってるよ!
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奥さん見切れとる(笑)。
あ~アンナ奥さん小生も欲しい~子供も欲しい~…
でもその前に、寂れ荒れ廃寺廃社の危機に在る神社仏閣と史跡を復興させる活動を創生し成功させ未来に文化伝承歴史を残したい。
和尚さんや宮司さんや殿様の御子孫に、強い援護射撃を撃てる様に成りたい。
…とか吉田さん母子が草むしり頑張ってるの見ながら思った。
美人の奥さんと少年の草むしりを見て色々考えながら“男根崇拝の神社”田県神社へ移動(笑)。
田県神社は小牧市に所在するが、江南市と市境が複雑に入り組んでるから余り、市をまたいだ実感は無い。
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田県神社は古代の文化を受け継いでるだけ有り延喜式内社だ。
境内も敷地が広い方。
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社殿も立派だ。社務所には巫女さんがいっぱい…
う~ん、何か複雑な気分に成るのは小生が馬鹿で煩悩の塊だからだろう。
皆さん古来の文化を守って下さってる事に先ず感謝するべきだな。
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奥院。
の参道に…
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なんかいる。
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なんかいる。
でもこれ、現代の奉納だそうだ。
本殿に行くと、御神体が祀られていた…
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「(;´・ω・)おおっぅふ」
・・・と、変な声をあげてしまいそうな御神体そのモノ。でも、縄文時代とか稲作が浸透する以前の弥生時代は日本人の平均寿命が30歳位と推定されているから、子孫を残す事はとても大切で、神様にお願いしたく成る位切実だったんだろうね。だから男根や女陰に似た奇岩が信仰対象に成っていたんだと思う。
横浜市の遺跡からも環状列石や石柱が出土してるしね。
多くの延喜式内社は縄文時代の遺跡が近くに在って、神代に当たる縄文後期の文化と思しき伝統が残っていたりする。
神奈川の寒田神社なんか弥生時代の木製御椀が残っているけど、日本武尊が用いたと言う伝承と時代が整合性が合ったり、高部屋神社なんかは古代からの名残で注連縄に吊るす莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)を明治まで宮司が10km歩いて海まで採集に行っていたが、これは弥生時代まで高部屋神社周辺が海だった地学とも整合性が有る伝統だ。
だから、この田県神社も古代人が男根崇拝に子孫繁栄と存続を願った場所がスタートだったんだろう。
そうやって我々の前には縄文文化以来数え切れない祖先達が命を繋いでくれて、現代の社会と文化が有る訳だ。
御先祖様、申し訳ない。
田県神社で社務所が閉まる直前に御朱印を頂き、この時点で17時位。
車に乗ると江南市へ逆戻りした。
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目的は撮影し忘れた小折城址の石碑を撮影する為。
本当、歴史仲間を引き回して申し訳ない。
生駒氏の邸址と石碑が布袋東保育園の横に在る。
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ここは親切に略歴と、小折城縄張り図、そして現在の地図に照らし合わせた城域推定範囲が書き込まれている。
これを紹介して置けば、現地を歩きたい人はココに来れば小折城の事を下調べしないでも良く解ると思う。
そう思って写真撮影に来た。
撮影中、地元の方が観光客が来ている事を珍しがって、小生らと御話しして下さった。
ここが大切な城址で有る事や、久昌寺や龍神社が信長公と類様夫妻がラブラブに過ごした場所だと言う事を御存知無かった様で説明したらビックリしていた。
そして、久昌寺を生駒さん達が廃寺にしようか悩む段階にある事を伝えると「町でなんとかできないのか!」と本気で怒って下さった。
少し嬉しかった。地元の人が大切さを認識して、危機意識を持って支援の手を差し伸べ始める事が一番力強い支えに成るから。
市民が動けば市長や観光協会の方々も予算を付けて堂々と保護に廻れる様に成るだろう。
これだけ友人に付き合ってもらい、本当に申し訳無かったので夕御飯を御馳走する事にした。
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ひつまぶし備長本店 丹羽郡大口町
実は最初からここに来る予定だった。
先日、東京スカイツリー店で食べて美味しかったので、この本店に大分前から来たいと思っていたのだ。
そして、ここで食べて正解だった。
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スカイツリーより安い、そして気持ち更に美味しいと思った。
友人も一宮市民なのにここを知らず、食べて「美味しい!」と喜んでくれた。
良かった良かった。
食事が終り、友人を一宮市の自宅へ送って別れた。
次は何ヵ月後?何年後に会うのだろう?とても大切な友人だ。御互いに織田信長公を崇拝し、そしてあらゆる宗教を差別せず、ちゃんと礼をもって拝む。自分の信仰は信仰。そして皆に大切な場所は自分にも大切な場所。
それが解る友人。

自分は翌日に真清田神社に御参りしてから静岡に移動する予定だったので、駅前のアパホテルに宿泊した。
ここでも犬山市や江南市や小牧市同様、どこに行っても名古屋と違って親切だった。
そして、10年前に比べて凄く都会に成っていてビックリした。
友人に感謝、愛知県の人々に感謝の3日間だった。

次は愛知静岡旅行4日目、静岡の旅の休日雑記を書きます。 

唐突ですが…
歴史と言うのは学者は既存の文献を読むだけでは解らない事の方が多いと思っています。
良し悪しに関わらず筆者の「意図」が介在していて、本当は起きていた事実も演出の為に書かれていなかったり歪曲されたり、理由が有って紹介されない話も有りますからね。

ところが小説家のみならず歴史学者サンの中には現地を訪れた事も無ければ、関係者の子孫の伝承も拾い集めない「ド阿呆」も多くいるし、逆に司馬遼太郎さんや黒田基樹さんみたいに実際に現地に行き検証活動をしたり関係者本人や御子孫から事情を聞いて回る人もいる訳です。

小生、少し不思議な御縁が有りまして、よく神社サンで境内の一般非公開の領域に入らせて頂けたり、御寺サンで非公開の仏様を拝ませて頂けたり、直接、歴史人物の御子孫と御話する機会を得たり、偉い宮司様や和尚様に相手して頂ける事が一般人なのに良くあります。
これは、リスペクトする歴史偉人の皆さんの御霊の御導きだと思っています。
…オカルト的な意味じゃなくてね、本当に尊敬しているから御褒美として呼んで貰えるんだと思います。

愛知県の小牧市に昔、小牧山城と言う山城が在ったのを皆さんは御存知でしょうか?
小牧山城址
上はGoogle earthの衛星写真に、その小牧城の縄張り図を重ねた画像です。
戦国時代が好きな人なら誰でも知っている御城ですが、歴史に興味が無い人は知らないマイナーでは無いけれど超メジャーでも無い御城です。
信長公の尾張時代の最終的な居城だったのが、この小牧山城でした。
そして、この小牧城の周辺地域には信長公の青春時代の足跡が沢山散らばって伝承していたりもするんですが、今も、この地域には信長公や秀吉の関係者の御子孫が住んでいたり、主従関係に成る前の各自館跡が沢山有ったりします。

そんな関係で、小生は不思議な御縁も有り、小牧城から程近い江南市の小折町で、信長公の母上の「土田(どた)御前」の御実家の御子孫、また事実上の正妻の生駒家の吉乃様の菩提寺の檀家様達と面会の機会を得て御話しを聞かせて頂いたり、信長公の御位牌を直接拝ませて頂いた経験が有ります。
その際に、信長公が青春時代を過ごした地域を自分の足で歩いて回った結果ですが、ドラマや小説で描写されている信長公の性格や、それに影響されて有名文献しか読まない学者の解説が如何にイイ加減な思い込みかと言うのを痛感する機会が有りました。
それから、以前よりも現地にいって散策検証したり、色んな人から話を自分で見聞きして回る事を大切にする様に成りました。
無論、郷土資料館等の学芸員さん達から調査結果の資料のコピーを頂いたりもしています。
来年は信長公の菩提寺で追善供養にも参加させて頂く事に成っていたりもします。
そんなこんなで、愛知県での信長公親族の御子孫の証言や、京都の阿弥陀寺の話しなど地元の方々の信長公像の伝承を元に信長公がとても暖かい人物だった説明をしたいと思います。
※土田御前の苗字の「土田」の"土"には右側に「、」が付くのですがPCにも携帯にも、その字が無いので以下「土田」と表記します。
タイピングされた文章しか読まず、現地を訪問し「直接関係者から取材しない部類の人」「関係する古文書読まない人」は、そんな事すら知らないんですがね。

今回は小牧城自体を詳しく説明しませんが、信長公の性格の実像を伝える話が小牧城の周辺地域には沢山残っています。
また、どんな人物だったは地図を見る事でも読み解けます…
2011-03-16-12-42-16

信長公がとても人情深く明るく優しく、公平で仕事に対して真剣過ぎる位に真剣だったのを皆さんは御存知でしょうか?
…先ずは、良く知られている実話から。

1,仕事に対する真面目さが尋常じゃない
足利将軍家・武田・朝倉・浅井・本願寺によって俗(ぞく)に言う「信長包囲網」と言う、反信長政権連合が結ばれ信長公が窮地に陥っていた時期は多忙を極めていました。当時処理すべき軍務・政務に関わる書類、重要な裁判に関する書類の決済が大量で、数日間も寝ずに処理しなければいけない事もしばしばあったそうです。
…逆に言うと、リーダーにも関わらず何日間も徹夜で仕事をする事が有った反面、部下達にそれを強いる話は残っていません。
築城等の突貫工事も十分に人を雇い準備して事業を実現している訳です。
現代のバブル世代管理職の様に無責任にヤレヤレ押し付け丸投げでは無く、織田家の政はピリピリしたムードで議論が尽くされていたのが宣教師の証言でも伝わっています。
信長公は部下達にプレゼンをさせて、御互いの意見の合理性を比較させ、その中から実現可能そうな物を採用するスタイルだったそうです。
無論、桶狭間での今川軍強襲や北近江での朝倉勢追撃戦や、石山本願寺包囲後の木津川渡河の時の様に、迅速な行動を要する場合は率先して御自分から危険な任務も行う事が多かった様です。

2,部下のヤル気と才能を引き出す管理能力が尋常じゃない。
秀吉達の清州城城壁修復や墨俣一夜城の逸話は、自己推薦で立候補した部下に仕事を一任し責任を持たせて全権委任していましたから、「現代の無能管理職の無茶振り」とはだいぶ違いますね。部下がプレゼンした事を判断してやらせる方だったそうで、評定(ひょうじょう=会議)の席は部下同士にプレゼンさせて、その中から良い案を提言した人間に全権を与えて仕事をさせるスタイルだった様です。
そして結果を出した部下は生まれの貴賤(きせん=血筋の良し悪し)を問わず、出世させました。
この代表例が清洲城代家老の榛原常安(植安とも)や、初期の木下秀吉な訳です。
小生に言わせりゃ、年功序列の腐れ昭和スタイルより、よっぽど健全で部下も仕事に励みたく成る環境ですね。
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「禿(はげ)ネズミ」↑と信長公にあだ名されていた秀吉。生存中は猿じゃなくて鼠と呼ばれていました。
「猿」と後に呼ばれているのは、信長公の猿真似をして天下人の素振りをしたからでしょう。
しかし戦乱を収束させた功績は偉大です・・・
まぁ、この人がやらなくても信長公が生きていれば実現したでしょう。
ただし、秀吉に関しては、軍団長クラスに出世する頃には「信長公の御実子を養子をとり」既に「織田家の親族」だったので、晩年の出世は信長公の信頼する人達で構成された部隊を信長公の代わりに「親族」として率いていた感が否めないので、本能寺前後の出世は個人の実力より血縁による縁故と優秀な与力武将達の活躍による所が大きいです。これは信長公の親族だった明智光秀と同じ状況ですね。
信長公は親族に冷たい様な「捏造」された人物像がちゃんと検証しない小説家の思い込みで流布されていますが全く違います。
信長公御自身は親族をもっとも信頼し重要な御城や自分の本拠地周辺に配置していました。
つまり縁故や義理も大切にしたのが信長公ですが、バランスよく実力主義の人材登用も積極的にされた理想的な組織運営をされた訳です。
言うなれば…
伝統や倫理を守る「貴族院」と実益を生み出す「衆議院」の二院制みたいな政権運営をされた上で、物事の決着をつける裁量は御自分で責任を持たれた訳です。

仕事面での良く知られている逸話はここ等辺りしして、マイナーで小牧辺りを実際に回らないと解らない話を下に。

3,自分と恋愛結婚で結ばれた事実上の本妻を愛し、奥さんが体調崩すと自ら介護した「深い愛情の持ち主」だった。
信長公は、恋愛で結ばれた事実上の本妻「お類」と言う女性を深く愛されていました。
愛称の生駒吉乃の方が有名に成っちゃってる女性です。
小説では「吉乃」の名で知られる実質本妻のこの女性、本名は「お類」の名で現地の小折町でも生駒家の御子孫の間でも伝わっています。
生駒家は馬借商家で、今で言えば運送業を営む商家であり、武装した土豪でもありました。
要するにお金持ち。
それすら知らない学者や小説家が「吉乃」とあだ名を実名と思い込んでいたり、ただの商人の娘扱いしているのですが。
生駒家は大和国(奈良県)の御出身の一族なので、あるいは信長公が雅な雰囲気の奥方を、実家の故地大和国に因(ちな)んで「吉乃」とあだ名で読んだのかも知れませんが、この吉乃と言うあだ名の由来は定かではありません。
※本記事では以下呼称を「お類様」で統一します。
NHKの少し(だいぶ…)昔のドラマでは女優の高木美保サンが役を演じられたりしているのですが、現代の小説家が江戸時代の作り話の影響を受け過ぎていて(笑)、形式的な正妻の帰蝶(濃姫)さんしか登場しないドラマが多く、お類様の役柄を演じる女優さんは少ないんですよ。
少し昔(笑)↓の高木美保さん。御綺麗ですね。
高木美保
生駒お類様と信長公、その出会いは信長公が家臣団に「ダメ御曹司」扱いされて、実弟の信勝(信行)公を担ぐ家臣達に家中でイジメられて不穏な空気に包まれていた頃にまで遡(さかのぼ)ります。
信長公は初期の居城は那古屋(現在の名古屋)城でしたが、心が休まる場所は吉乃様のいる生駒家の小折城だった様で、頻繁に小折城の在った今の愛知県江南市~小牧市辺りに遊びに来ていた様です。
…名古屋や清州から馬でも3時間位かかるんでしょうかね?
実は、吉乃様は信長公との間に重要な子を3人も年子で生んでいます。
●織田信忠公…織田家の跡継ぎとして御活躍されましたが、本能寺の変の際に二条御所で討死されました。
●織田五徳姫…徳川家康公の嫡男、徳川信康公に嫁ぎましたが義母との確執から夫婦義絶し離婚。
●織田信雄公…信長公に余り能力的に期待されていなかった様ですが、お類様との子なので厚遇されました。
お類様は、この年子での御3方の出産が生命力的にも大変だった様で、信雄公を出産後に体力が回復しないまま36歳の若さで亡くなってしまいました。
この、お類様の晩年、当時の常識では普通は有り得ない事なのですが、信長公は居城の小牧城に病床に在るお類様の為の居室を築いて、そこに迎え、自ら介護をされたと言う伝承が残っています。
…それだけ深くお類様を愛してらっしゃったんですね。
お類様は亡くなると、生駒家居城の小折城の当時の西の端、今の田代墓地の在る場所で荼毘に伏されました。
荼毘に伏すと言うのは火葬する事ですが…
信長公は、お類様の死後、暫くの間は毎日、居城の小牧城から見える小折城のお類様が荼毘に伏された方を見ては泣きじゃくっていたそうです。
だからね、信長公は凄く人間臭い人物で優しい方だったんです。
位置関係は下の衛星写真をクリックし拡大画面で確認してみて下さい。
田代墓地位置
因みに、現在の久昌寺が昔の小折城の中心、龍神社が在る辺りが小折城の中で信長公とお類様の部屋と言うか離れと言うか居住する建築物が在った地域だそうです。
田代墓地周辺には現在も「西ノ丸」の地名が残り、小折城の西側が田代地区まで及んでいた事が解ります。
又、田代墓地は、お類様が荼毘に伏された土地で更に、その中の「吉乃桜」と言う桜の古木の立つ場所が正に、お類様が火葬された場所だそうです。
小折城については、蜂須賀家や信長公や秀吉の部下に成った方々の屋敷跡地との位置関係と合わせて再度別記事で説明します。

4,優しいのは庶民に対しても同じ。
信長公は奥さんのお類様を大事にされましたが、同じ様に庶民にも凄く御優しい方だったようです。
例えば、信長公が京都方面まで制圧した際に、とある村に昔、不義を働いた家系の者が代々被差別を強いられている事に気が付きました。信長公は「この人間本人が犯罪者でもないのに、先祖の罪で今も差別されるのはオカシイだろ(怒)」と憤慨され、その者を差別から解放し、いくらかの生活資金を与えて再起させてあげたそうです。
これは現代人の法治主義や自由平等の思想にも通じる信長公の個人的な思考を垣間見れるエピソードですね。
政治家としての信長公も、庶民に対して御優しい政策を行っています。
楽市楽座じゃないですよ!あれは自由経済圏構想であって感情とは無関係でしょうから。
信長公、実は京都の統治に着手した時期に街道の整備をされています。その街道を往来する旅行者達が熱射病に成らない様に道沿いに日陰を作る為、街路樹を街道沿いに植えたんですね。
こんな事をする大名は当時いなく、正に、出身の貴賤に拘らず奥さんを商家の生駒家から貰い(通い婚だけど)庶民の文化を愛して青春時代遊びまわっていた信長公らしい逸話です。
現代人の政治家みたいに踏ん反り返って偉そうな人間からは想像も付かないほど、お若い頃の信長公と庶民の距離は近かったのですが、実は織田家は本姓が古代豪族の忌部(いみべ/いんべ)氏で、祖先は福井県の劔(つるぎ)神社の宮司家でした。劔神社の御祭神は牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおうのみこと)なのですが、信長公の支配した尾張国には津島大社と言う立派な神社が在り、そちらも御祭神が牛頭天王です。
その津島大社の例大祭で庶民が楽しんでいる所に加わり、信長公は家老の平手政秀公や家来と一緒に踊り子の格好をして笛を吹かせ自らも参加し、身分の区別なく一緒に楽しんだエピソードも現代に伝わっています。
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織田家と劔神社にかんしては、以前「明治時代の戦艦三笠」の記事でも書いたので、そちらも御覧下さい。
※三笠の記事は「ココクリック!
…こんな感じで、信長公が他の大名と圧倒的に異なる点は、庶民との距離が近い点でした。
この事は、豊臣秀吉・徳川家康公の若い頃とも共通し、庶民の事を良く理解している武将だけが続けて天下を獲れたと言う面白い結果でもある訳ですが、もう一つ、信長公・秀吉・家康公に共通するのは「東海地方の武士達から若い頃イジメられたり嫌われていた」と言う皮肉な事実も有ります。

では、何故、この小牧城周辺の地域に織田信長公の実像を伝える青春時代の多くの伝承が有るかに話を進めてみましょう…
歴史好きの皆さんも興味の無い人も御存知の方が多い歴史事実ですが、先程述べたように「信長公は尾張の武士に嫌われていた」んですね。
家臣にも何回も裏切られ合戦をけし掛けられ圧倒的な不利な状況においこまれ殺されそうに成っています。
その信長公を嫌っていた面々が又、信長公の最初の本拠地名古屋近郊出身者ばかりなのですが具体的には…
織田広信(後に信友と名乗る)
織田信友
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田信長公の元の上司。権力闘争は得意だったが取り立てて内政力が有る訳でも軍事的な才覚が有る訳でも無く何の実績も残していない。
織田家の主君だった斯波(しば)家の殿様を暗殺し主殺しをやった人物。
無能な癖に権力の駆け引きだけは上手く、実績も実力も無いが家柄の優位性を利用し斯波家の家政を実質乗っ取っていた。しかし本人の領地の軍事と政治は家臣に任せっきりで実力は皆無だったようだ。
昭和~平成の政治家にも多いタイプ。
実際に斯波家の勢力を復興したのは部下である織田信秀公(信長公の御父君)なのにも関わらず、その手柄を妬み足を引っ張る事ばかりして合戦までけし掛けた挙句に敗北し和睦。
信長公と主君斯波義統(よしむね)公の直接的な結びつきが深くなると、嫉妬の挙句に血迷って主君の斯波義統公を暗殺して家政を乗っ取った。しかし信長公の策略で信長公の叔父の織田信光公が偽降(ぎこう=偽りの従属をして裏切るチャンスを待つ事)してくると、その計略にひっかかり誅殺された。
無能な癖に常識人面して職位を守る為に部下の足を引っ張る典型的ダメ役員タイプ。
織田信安(のぶやす)公
織田信安
※KOEI信長の野望の画像拝借
岩倉城主で、信長公より格上の岩倉織田家の当主だった。当初は信長公と一緒に遊びまわった仲で信長公の最大の協力者だった。自分が信長公に協力した結果、不幸にも信長公が政権を盤石にし尾張を統一する頃に成ると家臣団が直接信長公に従う様に成り、危機感を抱いて信長公と対立してしまう。
情に熱い御人良しでは有るが、信長公が天下の覇者に成るのを見抜ける人物眼は持ち合わせてはいなかった事が彼の不幸だった。仮に、岩倉織田家の家臣団を信長公に差し出して奉行職に徹したとしても、信長公が覇者に成る頃まで仕えていれば信頼出来る親類として羽柴秀吉や明智光秀の様に大大名に取り立てられた可能性は高い。
深い情を持ちながら、将来を見通す判断力が無かった小者だった事で没落した責任は自業自得と言えるが、有る意味で被害者的な立場でもある。
林秀貞
林通勝(秀貞)
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田家初期からの家老で、本人は常識人の心算(つもり)だったのか信長公が武士階級に拘らず庶民と強い結びつきが有る事などが非常識に見えたのか、品行方正な信長公の実弟信勝公を主君にしようと何度も反逆した。
大身(たいしん=大領主)だったので織田家中での地位が高かったが、信長公が尾張統一後は多くの兵を率いながら何の活躍も出来なかった。只(ただ)性格が四角四面な常識派面(ツラ)した大凡人で信義は皆無。
その実は不正義で利己的な悪事しか残せなかった。典型的な身の丈に合わない地位にいた人物。
後に信長公の支配体制が強固に成ると、尾張時代の反逆前科から追放された。
全く良い所の無い典型的な多数派主義。
柴田勝家
柴田勝家
織田家の初期からの重臣で、当初は林秀貞と同じく信長公の才知を見抜けず、信長公実弟の信勝公を担ぎ出し謀反した。しかし圧倒的な多数である自陣が幾度も少数の信長公の直属部隊に敗られた事から、信長公に服従した。その後、信勝公が再度謀反を企てると信長公に内部告発し信勝公誅殺事件の発端を起こす。
信勝公が粛清されて以降は信長公の支配体制が確立された功績により処罰されなかった。
信長公からは、その後も暫く信頼されておらず「桶狭間決戦」や「美濃攻略戦線」には裏切りの懸念からか活躍の場を与えられなかった。
信長公が尾張美濃から反乱分子を駆逐して柴田勝家から反乱要素が無くなった後に大将格として起用された。
戦術は堅実で機略には富まないが、指揮官としては一流の実績を残している。又、今日の福井市の基盤を築き上げた人物で内政力が高かった。
精神的には常識人で真面目だったのかも知れない。内面は凡人のそれかも知れないが、実績的には名将の部類。でも天下の奇才では無い。織田家を主導しよう等と身の丈に合わない権力闘争をした事が彼の不幸。
信長公に使われて何ぼの名将。

織田家の元来の家臣団は根拠地が今の名古屋周辺の愛知郡や、津島市や弥冨市辺りの海部郡でした。
しかし、その地は今挙げた様な信頼出来ない家臣団の領地だったのですが…
まぁ、今の名古屋人がどうかは知りませんが当時の名古屋人は多数派=常識と言う意識が有ったり、忠誠心と言う概念が皆無で利己的な人間が多かったり、信長公や秀吉の出身地なのに革新的な意見には否定的な思想が定着していた様です。
要するに、名古屋周辺の織田家重臣はこんな連中ばっかりだったので、初期~尾張統一直後の織田信長公は、まだまだ、その愛知郡や海部郡の旧来の部下達を信頼して運用出来る状況では無かった訳です。

その状況を打開する為には、敵対者から領地を奪い直接、御自身の信頼できる仲間に領地を与えて御自分の親衛隊を組織する必要が有った訳ですね。
では、小牧城周辺にはどんな地名が有るか衛星写真で見てみましょう…
※写真をクリックして画面を拡大して見て下さい!地名と史跡名が記載して有ります。
信長公家臣団配置図
…木下藤吉郎秀吉が任せられた実質本体だった部隊に当てがわれた土地が、今の愛知県小牧市~江南市~一宮市だった事が丸っと解りますね。
地図上に表示した地名と施設名を説明しましょう。
●右側 織田家:小牧城
…信長公の本拠地で、周りに旧来の重臣は配置されていません。
●中心 生駒家:小折城
…信長公の事実上の本妻の生駒吉乃様の実家、生駒家の居城です。
生駒家は後に豊臣秀吉の家老としても活躍しますが、そもそも豊臣秀吉は名前が木下秀吉だった時代に小折城で生駒家に仕えて鉄砲頭を務めていました。秀吉と信長公の関係は生駒吉乃様を通じて結ばれた主従関係だった訳です。
●小折城西側 祖父江家:津島神社
…ここ一帯は織田家が崇拝した津島大社宮司家の祖父江(そふえ)家の一族の子孫が多く現在も住んでいます。当時の神社は武装した軍事集団でもありました。吉乃様の火葬された場所である田代墓地には祖父江家子孫の墓地も在ります。この地域に隣接した岩倉城主の岩倉織田家の旧臣だった山内一豊(やまのうちかずとよ)の家老を務めた祖父江 勘左衛門は、地域的にこの一帯の出身だった事が推測できます。
祖父江勘左衛門の主君の山内一豊は後に木下秀吉が出世すると大名に取り立てられています。
●左下側 千秋家:千秋(せんじゅう)町
…千秋と言うのは織田信長公を支援した熱田神宮の宮司家である千秋家の苗字です。
千秋家の中でも千秋季忠(すえただ)公は桶狭間合戦で信長公に味方し、揺動部隊として囮に成り今川軍を引き付け討死にされました。その活躍で信長公本体が今川義元公本体への直接強襲に成功し織田家が勝利しました。
左端 浅野家:浅野城
…後にこの一帯の国人衆の統率を任された木下秀吉の嫁である浅野寧々(ねね)様の義父である浅野長政公の元々の居城です。この浅野城は織田家小牧城、生駒家小折城を除いた信長親衛隊軍団の城館では最大規模でした。つまり秀吉は、嫁の義父の軍事力を背景に周辺の信長公親派の国人衆の統率を委(ゆだ)ねられていた事が解ります。
小折城北東 堀尾家:堀尾屋敷
…後に木下秀吉の重臣となり大名に取り立てられる堀尾吉晴の邸宅跡です。現在もバス停に「堀尾前」と残っていて、邸宅跡には堀尾神社が在り、彼の出身地で有る事が伝えられています。堀尾吉晴は元々は山内一豊と共に岩倉織田家の重臣だった。木下秀吉旗下では貴重な生粋の武士。
上側 前野家:前野長安屋敷
…館主の前野長安公は、木下秀吉の初期の実務官僚で数少なかった生粋の武士、軍事指揮官。
彼も又、山内一豊や堀尾吉晴と共に岩倉織田家の重臣だった。数々の作戦を成功に導いた名将で秀吉の名将の一人だったが、豊臣秀頼が生まれた際に、秀吉の甥っ子豊臣秀次の家老を務めていたので秀次の存在が邪魔になった秀吉によって切腹させられてしまった。
最上部 蜂須賀家:宮後城(蜂須賀館)
 …木下秀吉の初期の参謀で実務官僚の蜂須賀小六正勝公の最初の居城。蜂須賀小六は数々の実現困難な軍事作戦や土木工事を成功させた名官僚で指揮官としても一級の名将だった。秀吉の功績の大半は彼の能力による。清州城城壁の修復事業、墨俣一夜城(砦)の建設事業の手配と指揮、鳥取城の兵糧攻めでの鳥取城下の米の買占めや経済封鎖などなど…
彼が存在していなければ、秀吉は出世出来なかった。

もうここまで見て貰えば解ると思いますが…
つまり、小牧城を築城し居城としたのは裏切る可能性の有る家臣団優位の政治体制から、御自身の親派を居城中心に配置出来る政治体制に移行する目的が有ったと思われます。
…この事は今も、その地域の地名が物語っているのですが、文献しか読まない行動力の無いタイプの学者様にゃ幾ら文章ばっか追いかけても永久に気が付けない事なんです。
勘の良い歴史好きな人は、これだけ読めば織田信長公が何故、当初は協力者だった岩倉織田家当主織田信安と対立する事に成ったかも解ると思います。
織田信長公の親友達が岩倉織田家家臣だったので、信長公が政治基盤を強固にし始め尾張を統一する頃から岩倉織田家の家臣団は直接信長公に従う様に成ってしまい、事実上岩倉織田家が解体されるていく状況から危機感を抱いた織田信安が反旗を翻してしまったのは有る意味不幸ですね。

これらの事実から、信長公は身分や元の敵かどうかに関わらず、信頼出来る人間を見抜き登用した公平な方だったのが見てとれるのではないでしょうか?

この後、民族資料館の学芸員サンから貰いうけたレポートのコピーで生駒家の居城、小折城を解説しようと思ったのですが…
小折城縄張り図
これね。
でも、これ見て、GoogleEartnの衛星写真で検証してもスッパリ!照合出来ないんですよ!
なぜかと言うと、この地域は明治時代以降に稲作の生産量を向上する為に土地改良をしてしまっているので、本来なら堀の名残りを辿(たど)れる用水路や農道や幹線道路が全く当時と違う配置に成ってしまってるんですよね…
一応、国土地理院の昭和40年代後半~昭和50年代の航空写真も閲覧したのですが全く解らない!
小折城縄張り
これ現在↑の城址のはずの一帯。
地名に田代(たしろ=田城)と在るのは、池沼や河川に囲まれた縄張りの平城だった小折城は恐らく江戸時代には曲輪の多くが水田化されていたからでしょうね。
一応、少しでも昔の地形を辿ってみようとした努力の跡を見て、許してください(泣)。
丸1日あ~でもない、こ~でもないってやってましたが無理でした!
これ↓昭和後期の周辺航空写真
小折町上
小折町下
小折町西
もう、明瞭な航空写真が有る時代には、この付近、完全に農地改良の完了後だったみたいで、これ、全く縄張り図が有っても手がかりが掴めないんです。

10年前位に、数日間この江南市を歩き回った当時に写真撮影したのはガラケーだからもう写真引っぱり出せないし…
ですから又、御類様のお墓参りも兼ねて来年訪れてみます。
現代の航空写真と比較して小折城の縄張りが解る資料が無いか、ちょっと郷土資料館の学芸員さんにも問い合わせてみます。

今回はここまでで許してください(泣)。
資料いろいろ引っ張ってきて見たんですがね、レポートの縄張り図では現在の地名も載ってないので航空写真と整合出来ませんでした。

生駒家の居城の解説は現段階では詳しく出来ませんでしたが、とりあえず、信長公が奥さんをとても愛していた事や、とても家族を大切にした事、でも親族だけでなく血縁や出身にとらわれず信頼出来る友人達を自分の懐刀として居城周辺に配置していた事実は伝わったでしょうか?
信長公は実際は法治主義者、経営者としては厳しい方でしたが、為政者としては稀有な情に厚く庶民との距離が近く個人的に愛情にも溢れた方だった訳です。

この続きは、現地で写真バシャバシャ撮影したら、信長公没後の生駒家の歩みとかを解説しながら写真載せて報告します!

この記事はここまでで…

次回は神奈川に話しを戻して記事を書きます!

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