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休日雑記 2017年06月24日の訪問先その②・・・江ノ島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮・龍宮)
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コレの続き。
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江島神社奥宮の辺津宮と龍(わだつみ)宮を御参りして八方睨みの亀を見学してからの続き・・・
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辺津宮は江島神社の奥宮で、源頼朝公が奉納した石鳥居等が現存している。古き良き江島神社の姿を残す場所だ。
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“神社”としては奥宮、ここ迄だが実は江ノ島はここから先が最重要な聖地なのだが知らない観光客も多く、ここで引き返すカップルも少なくないのだが、江ノ島に来て“岩屋”=洞穴に行かないと本当に御神体としての“江ノ島”に来たとは言えないのだ。
コレ→(休日雑記 2017年06月24日の訪問先その①・・・【横浜市栄区~鎌倉市~藤沢市】JR大船駅~湘南モノレール江の島駅~レザークラフトすずき~江島道標~岩本楼)でも少し触れたが、江ノ島は欽明天皇以来の天皇家の勅願所(ちょくがんじょ=天皇家の祈願事を代理で行う聖地)として機能しているのだが、その場所は江島神社では無く江ノ島の稚児ヵ淵(ちごがふち)に存在する数ヵ所の洞窟な訳だ。
その場所は辺津宮から、そう遠くないが少々階段の上り下りが有るので知らない人は面倒くさがり行かない事も有る。
辺津宮から稚児ヵ淵に向かう途中、周辺には猫が沢山いて民家の玄関先等でくつろいでいる姿を見せてくれたりする。
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その②で紹介した猫ちゃん、人馴れしてる子ばかりで触っても逃げない子も多い。かわえぇ~。
日本の猫の大多数は仏教の経典や仏像を鼠の害から守る為に遣隋使~遣唐使と一緒に船に乗って日本に来た子達の子孫なのだが、つまり現在の唐代の中国建築の影響を受けている神社仏閣の建築技術を伝える図面やなんかを守ってきてくれた猫チャンの子孫達であり現代では多くの人を癒してくれる"聖獣(笑)"な訳だな。
こんな猫チャン達を数匹見かけつつ階段を降りて行くと、こんな場所に行き当たる。
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松尾芭蕉や服部南郭を始め、文人達の句を紹介した石碑が沢山有る場所。
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松尾芭蕉の句は直接江ノ島と関係無いが、服部南郭は此処(ここ)で漢詩を詠んだらしい。
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明治の元勲達も皆そうだが、江戸時代~大正時代の偉人達は教養の高い人が多く、余裕で現代中国人の詠めない漢詩を創作したりする知識と風流さを兼ね備えていたんだな。
因みに偉そうに解説する小生は、華語が話せて武士の言葉も読めるので漢文の意味は解るが詠み創作する事は出来ない低文化人だ(笑)。
何故この一角に句碑が沢山有るかと言うと・・・
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もう海が見えるから、この風景に関係のある詩句が紹介されている訳だ。
この下の岩場が稚児ヵ淵と呼ばれる。
歌舞伎の演目の“白浪五人男”の弁天小僧は岩本院(現在の岩本楼)の稚児がモデルに成っていると伝わるが、不勉強な小生はコレを笹下城下に取材に行った際に偶然、岩本楼の先代の奥様の御身内から御教授頂いてから調べて知る事と成った。
江戸時代の娯楽も見ておくべきだね。
因みに弁天小僧には、こんなセリフが劇中有る・・・
「岩本院の稚児上がり、普段気馴れし振袖から、髷(まげ)も島田に由比ヶ浜!」
・・・意味わかります?
コレは江戸時代の民間人特有の洒落(しゃれ)っ気が効いたセリフに成っています。
セリフを区切って解説して見ましょう。

[岩本院の稚児上がり]
江島弁才天を管理する岩本院で幼少時代修行していた人物である事を説明している。弁天様を祀っている岩屋(洞穴)の前の稚児ヵ淵の磯の地名とも掛けてラップの様に音(いん)を踏んでいる。

[普段気馴れし振袖から]
弁天小僧達、白浪五人衆は実は盗賊なのだが善玉の義賊として描かれている。その中でも弁天小僧は女装の変装が得意な美少年だったので「普段気馴れし振袖」そのまま、女装して呉服屋に乗り込んだりする役柄。

[髷も島田に由比ヶ浜]
髷は丁髷(ちょんまげ)の事、島田は江戸時代の女性の髪型の結い方の一つ、つまり男性が女装している様子を形容している。
由比ヶ浜の部分は江ノ島は現在は藤沢市だが明治までは鎌倉郡だったので、鎌倉の有名な由比ヶ浜の地名の“由比(ゆい)”と髪を結う“結い”を掛けて洒落たラップの様にしてある。

そんな感じで江戸市民ってのは他地域と違ってユーモアを好み、かつ現代の芸人みたいに人をイジメたり笑い者に成る教養の無い嘲笑を煽る笑いの取り方では無くて、文芸や歴史知識と世相や時事ネタを入れ込んで謎かけみたいな事をするのが大好きな人達だったんですね。
まぁ、江戸を築いたのは大坂の佃村から移住して来た人々と品川と江戸城周辺の農民だったので、本来の大坂の笑いも江戸時代までは江戸の古典落語や歌舞伎や狂言の笑いみたいに教養に溢れたものだったのかも知れない。
東京にしろ大阪にしろ、落語家達には当時の笑いの流儀が受け継がれている様に素人目に感じる。
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さて、稚児ヵ淵は多くの観光客で賑わうが、鎌倉の護岸工事される以前の磯が残っている。
風景が良いだけでなく、子供には良い自然観察の場にも成る。
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だから立派な藤壺やら・・・
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・・・亀の手が沢山生息している。オッサンの小生にはどれも採取して家で湯がいて食べたい蟹の御仲間の水生生物、酒の肴にしか見えないんだが(笑)。
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三浦半島と伊豆半島も見えてとても景色の良い場所だ。
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ここを過ぎると欽明天皇が天皇家の勅願所に定めた洞穴が有って、豊かさの象徴の神様であり古代は水の神様だった宇迦之御魂神が祀られている。
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立派に観光地化されており、入口は屋根が付いているが洞窟の深部はそのままに成っている。
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入口横には古代の海洋生物の化石も沢山露出していたりする。
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入場料は大人500円と安い。だからカップルだけでなく親子連れや団体観光客でも賑わっている。数年ぶりに来たら外国人観光客も増えていた。
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中に入ると池が有る。
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実はこの水辺が聖地と成った大切な意味を成しているのだが、これは後で説明しようと思う。
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池の中の句碑は与謝野晶子さんの物で、知らなかったのだが彼女は江ノ島が大好きだったそうだ。
そう言えば先日、御子孫の与謝野馨前特命大臣が他界されたばかりだな。
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洞窟の壁には深部に行くまで色々な解説の掲示物が有るので、是非、ちゃんと読んで欲しい。これを読んで置けば、将来、自分の子供にも、又は皆さんが現在の恋人と別れて新しい彼女と(笑)再訪しても説明して上げれるだろう(;^ω^)。
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ここは昔から、途中で係員から蝋燭(ろうそく)を貰って自分で足元を照らしながら探索する、ちょっとしたイベント的な要素が有ってカップルに大人気だったりするんだな。
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途中、天井部分に透明のビニールシートが貼られている場所が多くあるのだが、これは石清水が多く湧き出していて雨の様に降ってきているから。これが古代の人々や頼朝公には神秘的に感じられた訳だ。
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そして多くの石仏や石の御神像が昔のまま並んでいる。
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場所によっては結構な暗さだったりもする。夏なので今自分は観光客が多く若干渋滞する場所も有るのだが、天井が低い部分も有るので気を付けないと頭をぶつけて文字通り頭が割れて血だらけに成る事に成る(笑)。本当に気を付けないといけない。
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どちらかの和尚様の座像・・・
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そして最深部、この場所が欽明天皇以来の勅願所の始まりと成った場所。
恐らく当時は祠(ほこら)も無かっただろう。祠の下の石の台座の上で神職者が神事を行ったり修験者や真言宗の僧侶が護摩炊きしたりして旱魃(かんばつ)の回避や降雨を祈願したり、稲の豊穣や疫病鎮定の祈願をしたんだろう。
さてそこで、先ほどの与謝野晶子さんの句碑の有った池が大切に成る。
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ここは曲がりなりにも海辺の洞穴である。
しかし洞窟内は雨が降る様に清水が天井や壁面から湧き出し、一年中、例え旱魃の年も枯れる事が無い訳だ。その洞窟の池が本当に海水では無い事の証明が下の写真だ。
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なんと淡水魚の金魚が悠然と泳いでいる訳だが、これだけ豊かな水量を誇る清水が海に突き出した江ノ島でずっと湧き出している事が既に古代人にとって奇跡な訳だ。
西暦900年代の醍醐天皇達から見ても古い神社を記録した一覧の延喜式神名帳に掲載された古社の中には神奈川県内でも有鹿神社、大山阿夫利神社、比々多神社や未掲載だが天皇家の勅願所だった仏教施設になっていた師岡熊野神社等は縄文時代からの遺跡を旧境内地に抱えている、そしてどこも水や酒に関係する神様が祀られている訳だ。これが何を意味するかと言うと、小生のブログの読者様は飽きる程繰り返し読まされているが、古代人は井戸を掘る術も無いし、川の水を直接飲むと病気に成るので湧き水が聖地であり命を繋ぐ飲料水を確保する大切な場所だった訳だ。この習慣は古墳時代や飛鳥時代に成っても続いたので、当然奈良時代にも平安時代にもその文化は形骸化しても残っていた訳だ。
そして戦国時代に江の島険阻な地形を利用して逆臣上杉家と戦った鎌倉公方の足利成氏公は、長期間江ノ島に籠城出来たのも、数千の兵士に行き渡る水源が江ノ島島内に確保出来ていたからだった訳だ。
米の補給は房総半島から船で出来たとしても、水が無ければ忽(たちま)ち兵士は活力を失い士気が下がり降伏せざるをへ無くなるから。
そして、この奇跡の土地の宇迦之御魂神様や弁天様の御利益で、源頼朝公は伊勢平氏の平清盛の軍勢を打ち破り藤原秀衡の子達を屈服させて鎌倉幕府を開き、足利成氏公は逆賊上杉家相手に奇跡の大勝利を収め、戦国時代には北条氏康公が岩本院の前身の岩本坊に宿泊しここで源頼朝公の様に戦勝祈願をして河越夜戦で奇跡の北条家兵8000人で上杉家兵80,000を破る大逆転勝利を収めた訳だ。
つまり戦勝祈願としては古今無双と言って良い御利益が有る訳だな。
そして神道成立以前の古代からの原始宗教~古代の神道の原型~仏教との融合~明治時代の神仏再分離による誤った神様の名前の誤植の歴史の変遷も知る事が出来る場所な訳だ。
現代の女性にとっては縁結びの心強い神様でもあるのが江ノ島の弁才天様なんだな。
・・・でも女性の味方の神様だから、駄目な彼氏と一緒に行ったら縁切りの御利益も有るかもね(笑)。
さて、第1洞穴を出て第2洞穴へ行く途中に下の写真の場所が有る。
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第二洞窟の入口との連絡通路から見える亀に見える石だな。
江ノ島弁才天は、鎌倉時代以前からの社紋は確か亀甲紋だったと思う。現在、表立って使われているのは鎌倉幕府の北条時頼公由来の三鱗紋と波切り紋を合わせた社紋に成っている。
古代に海を収めた息長一族(素戔嗚尊の御神孫)や出雲族達は亀甲紋を社紋にしていたのだが、江ノ島の弁天様は海の神様でもあるので何とも因縁めいた亀の形をした岩の見える風景が有る訳だな。
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その亀の石の見える海の上の岸壁に洞窟がもう一つ口を開いているが、恐らくこれは近代に成って築かれた要塞の跡だろう。形状が完全に人口の洞穴だな。
この相模湾周辺は、米軍の上陸が予想されており七里ヶ浜の稲村ヶ崎や玉縄城址出城の二伝寺に高射砲が設置されたり要塞が築かれていた。つまり昭和の戦争史跡でもある。これは戦争が他国の侵略から国民の生命と財産と自由と信仰を守る意味が有る事や、一歩間違えると侵略側に成ってしまう歴史の両面を教え伝える意味でも本来公開するべきだと個人的には思う。
まぁ、公開すれば左翼が発狂するし、右翼は自己都合の歴史観を現実逃避して主張し混乱するので事なかれ主義の現代の教育委員会は公開しないのだろう。
寧(むし)ろ、左派も右派も中道も保守も改革も、議論するのは悪い事では無いと小生は思うのだが。
左派の中にも中道左派で良い政策を提言する方もいれば、中道保守にも真面目に国防を考え経済振興政策も提言する方も少なくない。
用を成さない連中は自己肯定の為にステレオタイプに他人の主義主張をコピーしてる連中と何でもかんでも相手の批判しかしない民進党と共産党の連中だけだからな。
まぁ、そんな訳で、江ノ島には日本の各時代を網羅した遺跡が在る訳だ。
第2岩屋に入って見よう。
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コチラは要塞化されていた様で、明らかに人工的な部分も多い。
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とは言え、こちらも民話の伝承する場所でもある。
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中に進んでいくと、民話を元に設置された龍の張りぼてがある。
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解説では江ノ島生まれの民話とされるが、その説明は間違いだ。
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旧鎌倉郡全体の民話と捉えた方が良い。
現在の鎌倉市深沢辺りと江ノ島が舞台の民話で、古来より深沢の山中の池に住んでいた暴れん坊の龍が、江ノ島の弁天様がモデルの天女に惚れて、その天女にプロポーズしたところ説教されて改心し尻に敷かれて幸せに成ると言う話だ。
小生は、この民話の龍のモデルも察しがついている。
山崎地区
鎌倉市の山崎地区には鎌倉中央公園が有り、そこには大きな池が有る。
この山崎地区には源頼朝公も崇拝した山崎泉蔵院と言う修験道の大寺院が有ったが、現代の鎌倉市や神奈川県の教育委員会も場所を把握していない。泉蔵院は熊野権現と不動明王を大切にする寺院だったので、湧水地を聖地として寺院や山伏(やまぶし)の修行道場を造営する宗派なのだが、恐らく鎌倉中央公園の場所が泉蔵院の室町時代の横浜市移転前の旧所在地だろう。
そして修験道は日本古来の信仰の聖地を寺院や神社化する宗派なので、この龍の神話の池が鎌倉中央公園の池なのだろうと小生は推測している。
山崎地区の隣接平野部は寺分とされ、古代より後の時代に寺領に成り地名が変わっている事も解るし、山崎は昔は只の“山崎”と言う地形を表す言葉だけで深沢も同様だっただろう。だからこの周辺は一色単に山崎や深沢と言われていたのだと推測出来る。
例えば山崎に在った泉蔵院は水辺で神様を祀る熊野信仰と関係が深いが龍神信仰が有ったかは現代では伝わらない。しかし関東では古代から根強く雨乞いの神様として龍神様が信仰されていて、伊勢原市大山阿夫利神社の二重滝のOkami 10.5pt.png神(たかおかみ)や大和市の深見神社の御祭神の闇Okami 10.5pt.png神(くらおかみ)は何れも雨乞いの神様で有り龍神様だ。そして多摩地方の雨乞いも龍神信仰だった。
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大山阿夫利神社下社、徒歩10分の場所にOkami 10.5pt.png神の権化とされる二重滝(ふたえのたき)が在る。
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大山に入山する修験者や僧侶や一般参拝者は、昔はここと下の方の良弁の滝で禊(みそぎ)=行水=沐浴(もくよく)をして身を清めてから山頂奥宮の石山権現へ参拝したそうだ。
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大和市の深見神社、闇Okami 10.5pt.png神が御祭神。こちらは神社と地域の名前から推察して境川沿いの深水が龍神信仰の聖地だったと推測出来るが、地域の伝承に古代は付近まで湾が入って来ていたも伝わるので境川沿いに細長い入江が入って来て可能性も有るが龍神信仰は八幡信仰に通じる八大竜王信仰やインドや中国の水生生物の鰐の神格化された神様の影響なので淡水に関する信仰の場合が多い。
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旧武蔵国多摩郡の東京都羽村市にも近代まで龍神信仰が残っていて、羽村市内を流れる多摩川上流の深い淵が龍神信仰の聖地だった。そして日野市の高尾山、この高尾山(たかおさん)の高尾(タカオ)は大山阿夫利神社と同じOkami 10.5pt.png神のOkami 10.5pt.png(タカオ)が転訛した当て字だろう。その証拠に大山も高尾山も天狗伝説の土地だ。天狗はウィグル族やインド系の西方の人で、龍神信仰は彼らが日本に帰化して広まったのかも知れない。飛鳥時代の大和朝廷にはウィグル人の官僚がいた事が知られている。
大山も高尾山も大和市深見の何れの龍神信仰も、八幡信仰や弁天信仰の仏教成立後の中国伝来の信仰よりも古いのは間違い無い。
つまり、この江ノ島と深沢の民話は、古来の龍神信仰していた豪族が中央大和政権の影響で弁天様へ信仰対象を宗旨替えした事の比喩だと小生は推測している。
そして、その弁天信仰の極め付けの火付け役と成ったのが鎌倉幕府を成立させた源頼朝公と北条政子様ご夫妻だった訳だ。
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上は横浜市南区の瑞応山蓮華院弘明寺が所有する北条政子様の彫像。
弘明寺は古くは善無畏三蔵法師がインドから渡来し聖地を開き、弘法大師空海様が民百姓の為に災難除けの仏事を行い、平安時代末期に源頼朝公から崇敬を集めた御寺なので厄除け大師として有名だが、源頼朝公が信仰した弁天様を祀る御寺としても有名だ。
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弘明寺には今も立派な八臂弁財天様が祀られている。
まぁ、江ノ島と鎌倉市深沢周辺の龍神と天女の伝承の様に、歴史や民話は解らない部分が有るから謎解きが面白い。
しかし職業歴史学者は小生と違って、こういう自由な推測を文字に起こすとバッシングされる可能性が有るので書けないが、小生は歴史好事家(オタク)の一個人(笑)なので昔の人の気持ちに成って書いても誰からも何も言われない(笑)。仮に親切な学者さんに間違いを指摘され正しい知識を教えて頂けるなら、それこそ学ぶ機会と小生は狂喜する訳だ。
まぁ、立身出世が目的でなく宗教的な意味も大切にするので毎回、行く先々で御会いする色んな神社の宮司様や御寺の和尚様から宗派を超えて民話伝承を御教示頂けたり非公開の文書や保有する遺物を見せて頂いたり、宗教的な側から歴史を学ぶ機会が増えて嬉しかったりする訳だな。
社会人に成ったら色んな事は自分で学ばなきゃいけない。人は教えてくれないし、教えてるフリしてる客先や上司は自己利益を追及する為にマウントポジション取る為に意見してるだけの場合が多い訳だ。
社会人に成っても文化と人々の精神的な支柱である宮司様や和尚様達に師事出来るのは本当に幸せな事だ。色々有ったが、これは本当に小生の人生が他の人と違って幸せだと言い切れる部分だ。
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岩屋を出て稚児ヵ淵を通り江ノ島から江ノ電の駅を目指す。
・・・フジツボと亀の手、気持ち悪っ(笑)!でも蟹の仲間で食べると美味しいんだよね。
戻る途中、撮影し忘れた句碑を改めて訪れた。
・・・福島漁村の句碑。
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江ノ島奥津宮と聖地の岩屋の別当の岩本院を治めたのが間宮。この福島漁村さんの兄弟子に当たる人物である間宮霞軒さんは、岩本院の間宮家出身だそうだ・・・
日本俳画会を起こした人物で更に江の島の初代郵便局長、中津宮の境内に在る句碑は昭和33年81歳の時、親交の有った文化人の飯田九一サンや有志等が建てたそうだ。
・・・そして福島漁村。昭和31年1868年~1956年を生きた人物で辺津宮の近くに有った旅館の江の島館の主、地方自治に活動した政治活動家でもあったそうだ。この福島姓は間宮家の戦国時代の上司、玉縄城主北条綱成公の生家の姓だ。
主従の義理と交友関係は近世に入り近代に至っても地縁と人の縁で繋がっているのを知る学者は少ない。何故なら悪の権化、堀内一族のせいだ。堀内一族は玉縄北条家の有力武将だった。戦国時代を通じて家老は間宮家だったのだが、堀内は近世に殿様の実弟の北条繁広公を殺害し保科家から北条家の名跡を繋げる為に殿様の養子を迎えて事実上、玉縄北条家を乗っ取った。結果的に福島家に関する古文書はありとあやゆる所から確認出来なく成った。完全に堀内一族の粉飾による歴史改竄と抹消だ。
この堀内一族は現代でもとんでもないデマを流布していて、徳川家康公の軍師に成り鉱山経営で活躍し真田丸や大坂城総掘り埋め立てを進言したのが間宮家の手柄で有る事が兵庫県や間宮関連の寺院でも有名な事実なのに堀内家の古文書は偽書が多く現在も間宮家の手柄や福島家の手柄を自分の家の手柄と喧伝している。とんでもない一族だが、実際に風土記でも関連の神社仏閣でも朝来市教育委員会でも実物の古文書や資料が編纂されていてそこに大坂城関連の事に堀内は一言も出て来ないので情報共有し易い現代では堀内のデマだと赤っ恥を晒している。
そもそも玉縄北条家を私物化して乗っ取っていたが、たかが小藩の家老の堀内家が、徳川家康公の外戚で鉱山奉行や地方代官を務めた間宮家の様に直接徳川家康公に謁見出来る訳が無い(笑)。
そんな事も辿れたりするんだな。
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残念ながら福島家が辺津宮近く、丁度小生が"その②"で紹介した海花亭の横の江ノ島大師、最福寺別院が建てられている場所に存在した福島家の江の島館は、昭和三十一年(1956年)に火災で焼失し営業終了してしまったそうだ。
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間宮一族岩本家の岩本楼の成立の例を考えると、この江の島館の福島家も中津宮や辺津宮の別当だった上ノ坊や下ノ坊の何れかの寺院が前身だったのかも知れない。江ノ島大師様にも聞いてみたのだが、やはり江ノ島館の福島家は前進が寺院だったと言う事は解っているが、現在の江ノ島大師様とは直接繋がりは無く、江ノ島館の寺院時代の事も伝わっていないそうだ。
これは風土記を読めば上ノ院に関する事は掲載されていると思うので、今後調べてみたいと思う。

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サムエルコッキング園まで戻って来て、タコ煎餅作ってる所を見学。CIMG4416
う~ん、どっかの工場にしか見えない(笑)。

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中津宮の参道を降りる時の風景が綺麗だった。
登って来る時は気が付かなかったが小動~腰越の辺りが良く見渡せて美しい。
江ノ島を後にして、江ノ電江の島駅へ向かう途中、江の島大橋でけたたましい騒音を故意に鳴らす迷惑なバイクを見かけた。
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日本の恥部。見てイラっとしたが、そう言えば行きに気に成っていた甘い物の店を思い出し直ぐに嫌な事を忘れ、その店に向かった。
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玉屋のようかん。
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ここでは江戸時代以来の名物、海苔羊羹を始め様々な伝統的な羊羹が製造販売されている。CIMG4424
店構えも立派で、もし電車で江の島に行く機会が有る人には是非御薦めしたい昔ながらの江の島土産の店だな。
小生は自分でも何故だか知らないが羊羹を買わずに、ここでキャラメルを買った(笑)。
ここから江ノ島駅は直ぐ近く・・・
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暫く待つと直ぐに電車が来た。

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今回はここまで!
続きは江ノ電観光と鎌倉市内の史跡辺となる“その③”で紹介します!
では又!続きでお会いしましょう~!