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タグ:師岡熊野神社

前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説②
・・・保福禅寺の解説。

・・・コレ⤴の続き。

前回の記事では中田家の菩提寺の一つで、中田加賀守の墳墓跡の直下に在る保福禅寺を紹介しました。
今回の記事ではいよいよ❝慶応大学敷地内❞と❝保福禅寺❞が慶応大学に貸している一之谷一帯に残る矢上城址=谷上城址の遺構を写真と古地図と色別立体図とGoogleMapの四段構えで解説して行きたいと思います。
小生は中田家の菩提寺の保福禅寺の山号が谷上山である事、矢上城跡の慶応大学が谷に囲まれた台地に存在する事から本来の城名は谷上城だったと推測し、以後、矢上城ではなく谷上城の名で紹介します。
先ずおさらいですが現在の城址周辺の航空写真です。
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
これでも御城が好きな人は「あ~食違いの大堀切が有るな~」とか「竪堀が有るな~」とか、結構見て取れます。でも余り御城の地形に詳しく無くて自然地形と見分けが付かない人の方が多いと思いますので、どんな地形が自然地形化を確認する所から始めましょう。
日吉周辺の地形 久良岐のよし
ボンヤリとした場所がザックリとした地形、矢上城址に関わる部分は詳細な地形を国土地理院の色別標高図から拝借し切り貼りして繋げてGoogleearthに表示してみました。
これを見ると良く解りますが、矢上城址は周辺の大河川が各時代に複雑に流路を変えて削られた地形である事、そして恐らく古代には矢上城址の慶応大学日吉キャンパスと矢上キャンパスの間の保福禅寺の存在する谷間には矢上川が流れていた時代が有った事が地形から解ります。
平らな部分は縄文時代には海だった部分で、弥生時代には隆起したり土砂の堆積で湿地帯に成り漸(ようや)く人が往来出来る様に成り始めた場所で、まぁ~人が住むには古墳時代位まで不向きな場所だった様で日本神話の日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)伝説のある近郷の川崎市高津区橘樹神社辺りまで西暦200年前後まだ海水の入って来る湾があった事が伝わっていたりします。
実は明治時代の迅速測図では更にハッキリ地質や地形が読み取れたりします。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
この地図は国土交通省国土地理院の電子国土賞と言うサイトで公開されている明治時代の迅速測図を転載したものです。
御覧の通り、本来は古い地盤である丘陵には水田は全く有りませんが谷間には水田が広がります。
実は一般的に南関東は平野部でも稲作には適していません。それは富士山が噴火する度に火山灰をまき散らして田圃(たんぼ)を作るのに適さない関東ローム層と言う地質が露出しているからです。そして台地上に用水路を引っ張る技術は当時まだ小田原城下にしか普及しておらず、江戸市街地の用水網に引く水が60km先の奥多摩地方、東京都羽村市に取水関が作られサイフォンの原理を用いて整備されるのは江戸時代に成ってからの話しです。その羽村市の取水関から水を引く用水道網のモデルは実は戦国時代に矢上城主だった中田加賀守の主君、小田原城主の北条家が既に確立していて小田原用水として日本史上初の飲用水道が戦国時代に整備されていました。
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小田原用水
※住所クリックすると位置が地図で確認できます。
小田原市と箱根山系の間を流れる早川から取水して小田原市街に引いた戦国時代の用水網は今も現地に残っていたりします。まぁ、実は小田原城の城下町も元々は古代に海だった場所な上に、谷上城より更に海岸から近いので井戸を掘ると海水が出てしまい飲み水を確保するのが困難だったので、戦国時代に既にあの狭い城下町で3万人の人口を維持する為に飲用用水路が必要に迫られて発展し北条家のインフラ整備技術が他大名家よりも頭一つ抜けて発展し水道網整備に至った訳ですね。
でも谷上城は多摩川と矢上川と鶴見川を利用した流通網を押さえ、渡河地点と今の綱島街道等の陸路を防衛にかかる要所で防御に適した地形を優先して築城された所謂(いわゆる)城堡(じょうほ)とか城砦(じょうさい)と位置づけする町を守るより道を守る城だったので用水網の整備も必要が無く、普段は中田家の殿様達も平地の谷地形、つまり保福禅寺~慶応大学の一之谷~蝮谷に谷戸(やと=谷の入口に城門を築いて守りを固めた居住区)に住んでいた様(よう)です。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
しかし御覧の通り谷上城は多摩川、矢上川、早淵川、鶴見川の氾濫原(洪水の被害に遭いやすい場所)の山崎=つまり内陸の川に挟まれた半島状の丘地形に存在しているので海水の影響を受けるよりも淡水の河川流域地下水で飲用に適した水質の井戸を掘ったり、大河川の氾濫で出来た比較的新しい肥沃な地質の恩恵で水田耕作地帯として開墾する事が可能だったようです。
逆に言えば繰り返しに成りますが、湿地帯で人が住むには余り向かず、日吉の台地の丘の上も飲み水の確保が困難だったので明治時代まで人が余り住んでいなかった事が解かります。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
もう一度、谷上城だった慶応大学周辺の地勢を明治時代の迅速測図見て見ると解かりますが、明治時代にも人は住んでいなかったので江戸時代にも開発が入らずに近代も畑地にしかならず慶応大学が出来るまで山の山林として谷上城址が綺麗に保存され、第二次世界大戦の頃に横須賀鎮守府の海軍司令部が日吉の台地の地下に基地を作り台地上に軍人サンの宿舎や軍人サン達を相手にして商店街が形成されて行き現代に成って人が住む住宅街として開発されて来た事も読み取れます。
この人が長い間住めなかった城砦の丘は関東ローム層・・・
この関東ローム層が石垣を必要としない南関東独自の土を削り出し石垣よりも防衛堅固な城郭築城技術を生み出した地層でした。
そんな訳で、この平地部分には泥岩の層と砂岩が重なっていてとっても水捌けが悪かった事から戦国時代に成っても湿地が広がっていました。迅速測図でも関東平野なのに畑地ではなく水田が広がっている事が確認できますね。
そんな訳で、地質と地形の説明が完了したので、ここから小生の推測する矢上城域と遺構残存部を見比べて見ましょう。
色別立体図に小生色分けした茶色の部分が一目瞭然、大空堀の人工地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
日吉Googlemap 久良岐のよし
GoogleMapの衛星写真と見比べると位置関係が良く解りますね。
恐らく守りの薄い比較的なだらかな丘陵の続く日吉駅の西側は矢上城の主要な防御施設は❝1つ❞だけしか無かったと思います。それが上の小生が色別立体図に書き込んだ一番左側の大空堀ですね。現代では日吉本町1丁目公園~日吉本町三丁目第二公園にかけて住宅街の道路に成っている谷地形が人工地形なのは色別立体図でもハッキリ解かりますが、これが現代の道路開削では無く、既に江戸時代にも存在したことが明治に成って直後の色別立体図でも解ります。
下の図のを見て下さい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
このの大空堀が西の端の丘を断ち切り尾根伝いに敵が侵入出来なくする堀切りと呼ばれる空堀です。
「これ空堀なの?」
・・・と城に興味ない人は思うでしょうが、これは小田原北条家臣団と扇谷上杉家の南関東の城に多く見られる構造体です。現代では日吉の宅地化で真っ先に削られた場所なので比較的なだらかに成ってしまっていますが、地形のレントゲンと言うべき色別立体図と江戸期の地形を残した迅速測図の二つが証拠に成る上に迅速測図では北と南が掘り切られ、今では平坦な日吉駅から放射状に住宅道路が広がる場所には食違いに山を削り残された地形があった事が解かります。
拡大して見ましょう。
矢上城址周辺迅速測図① 久良岐のよし
道の場所で等高線が凹んでいて切通し状の道だった事が解かります。この堀切自体もL字に屈曲していますが、丘の下から登って来るで囲んだ登城口に当たる部分は直角にS字の食違いに成っています。
あからさまな人工地形ですね。
道を屈曲させる事で縦列で侵入して来る敵が細長く伸びる様にした上で敵は直進できずL字に屈曲した正面の崖の上から防衛側は弓や鉄砲で侵入者を❝なぶり❞獲物を狩る様に射殺して行く構造体です。
これが❝食違い❞や❝枡形❞と言われる城の防衛構造の一つです。
ここが西側の端っこで、まあ第一防衛ラインだった筈です。
2番目の防衛ラインは日吉駅の開かれた谷地形です。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所ですね。ここは現代に住宅街が造成される以前から広く比較的なだらかな台地だった様で、迅速測図でも等高線の緩やかな畑地が広がっています。
矢上城址西の堀切虎口地形 久良岐のよし
その欠点を改善する為に南北に大きく谷を掘り切って敵の侵入経路に成る丘をクビレさせて防衛戦としている事が解かります。
この大堀切地形には明治まで水源も在り用水地も存在したので戦国時代には堤を作って堀底が水堀か沼掘りに成っていた難攻不落の大堀切だった事が推測出来ます。
言うなればの日吉本町1丁目の最初の大外の堀切~この日吉駅南北の堀切までの範囲が谷上城の外郭だった事が解かります。無論、そこも平時は当時から畑地として利用されていたんでしょうね。
さて・・・
この範囲に外郭が存在する規模だと、関東以外の戦国武将の常識では3万石相当の代官の中田家に不釣り合いな城規模だったと感じますが、実はここには戦国時代の早い時期に重要な城を造る理由が有ったんです。
再度、谷上城の位置を見て見ましょう。
矢上城周辺色別立体図 久良岐のよし
実は北条家の大曾根城と鶴見川を挟んで扇谷上杉家が周辺地域で争っていた時期が有った事が横浜市港北区大倉山~大曾根~太尾地区の旧家の深谷家や長光寺等には伝わっていて、その頃は綱島台地にも城砦が有ったそうです。
下は綱島台地の迅速測図です。
綱島台の城砦地形 久良岐のよし
今回は面倒臭いので(笑)綱島の城址は解説しませんが、迅速測図で見ると確かに見事なまでに連郭式(れんかくしき)城砦が明治に成っても綺麗に残っていた事が解かります。城の構造からみると掘り切りと竪堀が多用されている連郭式山城で、横浜市金沢区の称名寺裏山の金沢城址や三浦半島の衣笠城址、又は城址としては有名ではない鎌倉市の杉本城や逗子市桜山~葉山堀内に股がる鐙摺城の地形と全く似たような構造に成ってるので、多分、平安末期~鎌倉時代には存在したんじゃないかと思います。戦国時代にも改修されて利用されたんでしょうね。
綱島の城砦を含めて周辺を守る拠点が鶴見川と多摩川に挟まれた陸路の要所でもある矢上城だった筈なので、中田加賀守が三万石の代官だった時代と言うのは、扇谷上杉家と北条家が対立していた頃の話しなのかも知れません。そして東海地方や近畿の大名の城は配下の各豪族が私財で築城修築を行いますが、関東では北条家の支城なら北条家が、扇谷上杉家の支城なら扇谷上杉家での防衛拠点として大名によって築城され在地の城代を任されると言うのがセオリーだった様です。
又、北条家は経済規模に関係無い現在の会社員と同じ寄親(よりおや=上司)と与力(よりき=部下)制度でしたから、配下武将から大名が誕生する事はなく、配下武将の一族も細切れに別々の軍団に配置する事で謀反を防ぐ効果も有って、織田家の様な配下武将の大名取り立ては皆無でした。代わりに軍団を編成し更に軍団の下に中田家の様な代官による統治で配下の一族を細切れに分けて小机衆の様な大軍団の下に中規模部隊を編成していた様です。
なので代官個人の所得に不相応な城が北条家臣団の居城に成っているケースが多く見られます。
CIMG1239
これは上杉禅秀の乱、永享の乱、江の島合戦等が原因で関東が西国よりも先に戦国時代に突入する原因に成った事が関係しているでしょう。
戦国時代初期の関東の合戦は西日本の様な大名vs大名規模合戦では収まらず、常に関東八州を治める鎌倉公坊vs大勢力(室町幕府or関東管領)の衝突だった為(ため)に陣取り合戦で城が築城or改修される際に仮想敵数が万余で想定されていたので、神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県は特に巨大な城郭が多く成って行った事が分かります。
神奈川県でも・・・
平塚市岡崎城
伊勢原市糟屋館
藤沢市大庭城
鎌倉市玉縄城
逗子市住吉城
三浦市新井城
横浜市笹下城
横浜市蒔田城
横浜市小机城
横浜市榎下城
川崎市小沢城等
・・・どれも東海や関西の城と比較するととんでもなく巨大な城郭です。まぁ、日本城郭大系では土地開発する土建屋や不動産屋に配慮してか城域を伝承と実際の地形より狭く紹介したりしていますが。これ等の城は守備側は数千単位で守れる様に主要部分に近づく程に堅固な断崖で沼か大河川か海に囲まれた場所に在り南関東平野ならではの地質と地形が活かされた他地域では作りたくても同じ地盤と地形が無く同じ構造を土で造成するのは不可能だった訳です。だから富士山より西では高い城壁を作る為には石垣を用いらなければならず築城コストが関東の城よりかかってしまう経済的な理由もあったかと思います。更に同じ高さの石垣と土塁では土塁の方が登る事が出来ず殺傷能力の高い防御装置に成る訳です。
築城コストが安く防御能力高い南関東の扇谷上杉流&北条流築城術は富士山のお陰なんですね~。
まぁそんな訳で繰り返しに成りますが、矢上城=谷上城の中田家の最大時の経済規模は3万石相当と伝承しますが、それは代官として治めた領域の話しなので中田加賀守独力には不釣り合いな巨大な城規模を任されていたのだと思います。まぁ中規模部隊を任せられたんで配下の与力合わせたら3万石だと北条家では1500~2000が兵士の動員数に成ります。それでも城の守備範囲は広大なので独力では守れないので、北条家では初期には五色備え軍団や後に小机衆や江戸衆や玉縄衆が編制され軍団単位で守備した訳です。
余談ですが北条所領役帳には面白い事に中田家が旧扇谷上杉家の宿老だった太田家と北条家の両方から給料を貰っている事が記載されています。つまり、これを根拠に小生は戦国時代初期の中田家は扇谷上杉家の家臣で太田康資公の与力だったと推測する訳です。そして中田❝加賀守❞は一人の名前では無く中田家の殿様が祖先の官途の加賀守を代々世襲して名乗った屋号の様な通称だったと推測しています。なので江戸時代には既に資料の余り残らなかった中田加賀守に関する記載も北条家臣時代と話がゴッチャに成り「よくわからん!」と書かれたりしてしまってるのだと思います。中田加賀守が1人の人物として考えるとかなり混乱しますからね。
さて、谷上城に話を戻します。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
慶應大学日吉キャンパスの建設によって校舎の建ち並ぶ区域には余り地形は残存していませんでした・・・
が!
・・・蝮谷体育館~保福寺から借地してる一之谷、東側の熊野神社側の日吉町宮前自治会館側等には多数、大空堀と帯曲輪の地形が現存確認出来ました。先ず城の残存地形を見たいならば保福寺を御参りしてから下の写真の今は入口が封鎖されている中田加賀守の墓所入口側から散策すると良いと思います。
DSC_0285
この位置がの位置に当たります。
大学の敷地内は建造物に入らなければ自由に散策して良いと慶応大学には確認して有りますので、大学生じゃなくても自由に行内を散歩出来ます。
日吉台野球場 久良岐のよし
この上が日吉台野球場でキャンパス側よりも遺構が残りますが、中田加賀守御廟所の階段は封鎖されているので、野球場の下の人工的に切岸にされた谷底の道を左回りに進みます。
CIMG9308
すると・・・
KIMG0502
直ぐに左手に最初の堀切が見えます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の場所です。でもココは登るの面倒くさそう(笑)なのでスルーします。
CIMG9314
もう少し進むと❝普通部の森❞と名付けられた谷が有ります。
位置的にはの空堀の間の扇形に凹んだ窪地(くぼ)です。
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白いハンドボール部の建物が普通部の森の遊歩道入口の目安に成ります。
CIMG9315
ここから登って行くと上の野球場とアメフト場の台地に出れます。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
恐らくここも空堀で東西に丘をブった切った堀切だったはずですが、上のアメフト場の造成の時に重機で空堀の土を幾らか削り出されて、ココの堀切のアメフト場部分を埋め立てたのだと思います。
それ故(ゆえ)に防御力が低くなる傾斜の少ない地形に今は成っているのかも知れません。
CIMG9317
しかし帯曲輪にも見え、現代の掘削なら遊歩道を真っすぐ付ければ良いのですが、階段よりも緩やかな路盤は右に折れて削平された土地と、今の遊歩道を進むと食違い状の大空堀④の真上のアメフトグランドに出る事が出来ます。
谷上城址最初の谷 久良岐のよし
の食違い状の大空堀が弓道場やボクシング部の道場が在る谷です。
普通部の森はアメフト場の左右をブチ抜いた堀切だった事が衛星写真だと良く解りますね。また、堀切右側の普通部の森は城としては不自然になだらかに左手内側に向かい逆扇型に整地されている事も解るので、やはり上のアメフト場の建設時に堀を埋める空堀の土を削り出した跡かも知れません。
CIMG9325
の谷、弓道場の更にもう一つ南側の谷が⑥の蝮谷と呼ばれているようです。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
その蝮谷との谷の間の地形も同じく扇谷上杉家と北条家が改修した小机城に同地形の空堀と空堀を繋ぐ細長い曲輪の防御構造が存在します。
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上は小机城の縄張り図、この小机城②や③の部分と・・・
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
・・・谷上城址である慶応大学日吉キャンパスの弓道場の谷と蝮谷の間の構造に酷似しています。
小生は恐らく谷上城はその部分、現在の慶応大学自動車部の敷地辺りが本丸だったんじゃないかな?と思いますが・・・
自動車部推定矢上城本丸? 久良岐のよし
でも慶応大学付属高校側の城の構造は現在では失われて確認できないので、其方側にも複雑な土塁やなんかが更に広大に広がっていて主郭だったかも知れませんね。
・・・普通に考えて主郭は余り大きくなく、外曲輪が一番大きく内側に來るほど小さく成ります。
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野球場やアメフトグラウンド側は現代の地形ではない、やや斜面がかった有る程度の広すぎないけど建造物を作ったり百人単位の兵士を駐屯されれる削平地が何段か存在します。
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誰もいない野球場からは元住吉や武蔵小杉方面が見えました。あちら側は戦国時代には蒔田吉良家の領地。
小生は現地に行くまで、迅速測図や色別立体図の地形からアメフトのグラウンド辺りが本丸だったかな?と推測していたのですが、慶応義塾大学高校の辺りと慶応大学の立派な陸上グランウンドの間の崖地も立派に裾切りされて崖に成っていたので、意外と宅地化された辺りも防御構造が豊富だったのかも知れません。でも扇谷上杉家の城の構造だと三浦半島の新井城址=油壷マリンパークを参考にするとやはり野球場やアメフト場や自動車部の在る側が重要だったので手薄な西側を厳重に大空堀で幾重にも断ち切り敵の侵入を防ぐ構造体を作っているのだと思います。
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一応、弓道場の横には住民も使う生活道路に降りる林道みたいな道が有りますが、今は学生は余りこの道を使っていない様です。
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弓道場の前に降りて自動車部側の複雑な大空堀に挟まれた重要そうな曲輪跡を見上げる所に何の神様かは判りませんが石祠が有りました。昔は神社でもあったのかも知れませんし、城跡なので諏訪神社や八幡様が祀られているのかも知れませんね。
弓道部の学生達は城跡の神様なのだから、この石祠の神様を大切にしたら武芸上達するんじゃないのかな~?日本文化の一部だから大切にしてあげて欲しい。
さて、ここから自動車部側に行きたい所ですが実際は登れません。てか登ったところで上にはフェンスが有って削平地に出られない(笑)。
そちらの側に❝弥生式住居跡群❞も在る事は解っているんだけど。困っていたらカメラを首にかけた絶対に怪しい小生を優しい慶応大学の女子大生が道案内を買って出てくれた。
ヒルサイド日吉側登城口 久良岐のよし
やはりボクシング部や弓道部の大堀切からは直接自動車部の方には登る道は無いそうで、そこの堀底道から階段を降りて一度、日吉町宮前自治会館側の平地に出てから、ヒルサイド日吉と言うアパートの裏の凄く目立たない階段を再度登らないといけないそうだ。
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こんな場所絶対に一人じゃ分からね~(笑)。
ありがとう!親切な慶應の女学生さん♪
この道も武者走りと思しき構造なんだけど、その話の前に④の谷の事を構造を考えたい。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
現地に行く前はの大空堀には自動車部の削平地とアメフト場の削平地を結ぶ❝引き橋❞が平時には掛かっていたんじゃないかと思ったけれど、良く考えると台地上は当時は人が住むには適さない場所だったからコストのかかる木製の橋を作る重要性が有ったかは疑問で、だとすると土橋が存在したのを弓道場を建設する際に切り崩してしまったんでは無いかと思い、帰宅して迅速測図を見直した。
矢上城址弓道部の大堀切④ 久良岐のよし
すると何やら完全に分断はされておらず、土橋の名残らしい距離感の等高線が刻まれていた。
恐らくこの構造からすると、やはり大堀切で断ち切られた自動車曲輪(笑)とアメフト曲輪(笑)には両者を繋ぐ土橋が有った様だ。今は底を断ち切ってしまったので、日吉四丁目側から箕輪町一丁目側に行くのに野球グランド側から丘伝いに行く事が出来ず、一度、日吉五丁目に降りてから階段を上がらなければいけなくなってしまったらしい。
CIMG9334
でもここ、アパート側の階段こそ現代の構造と道の付き方で判るんですが・・・
少し進むと途中から竪堀状の構造に付けられた武者走り城の道を利用した生活道路なのが解かった。
CIMG9338
登りながら途中で複雑な合流地点が有ったので「ん?これU字に掘られた竪堀の堀底道じゃね?」と思って少し道の横の藪を観察して見たら・・・
CIMG9339
ビンゴ!腰曲輪状の削平地が存在。絶対に現代人はこんな狭い湾曲した削平地をわざわざ作らない。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
ここがの場所。
城址を竹林にするのも土留めの為の昔の人の知恵。
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手前側U字に崖側面を抉(えぐ)った竪堀を挟む様に前後に削平地が有る。上の写真、見にくいかも知れないけれど奥にも削平地が有る。
そして、階段横の削平地が城だった当時を彷彿とされる物がたまたま現代にも存在した。
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境界を仕切る木柵が板塀になっていて、戦国時代の城の防御体を下から見上げている様な、竹藪を丸裸にした姿を想像すればリアルな復元城址みたいに成ってる(笑)。
因みに、日吉五丁目から登って来る階段の中腹で面白い物も見れた。
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丁度、新幹線の架橋線路のトンネルの真上!
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なのでコンナ写真も撮れた!
この新幹線の線路の真直ぐ先に見える丘が古代から水が湧き縄文時代から人が住んだ遺跡が発掘され天皇家の崇敬を集めた師岡熊野神社の森だな。つまり、綱島街道を押さえる陸路の要所である事を知れる指標になるのが谷上城址から見た新幹線の線路の先の森だったりする。
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上に出た。何か自動車部の方は入れなかったので取り合えず進んで見る。
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分かれ道にも微妙な勾配が有る。でも緩やか。
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テニスコートの横に大空堀状の地形をなだらかに盛土して作った様な住宅街。
矢上城址周辺迅速測図 久良岐のよし
迅速測図で見るとやはり箕輪町一丁目の大空堀だった。ここ、迅速測図では判り難いが実際は鍵状L型に人工的に抉られてて、やはり自動車部側への侵入経路を狭くする構造に成っている。
矢上城推定城域遺構郡①~⑥久良岐のよし
の間が自動車部。今見てるのはの谷。
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宅地化されてない部分は角度がキツイまま。
慶應大学寄宿舎 久良岐のよし
そこをもっと南側に戻って進むと慶応大学の寄宿舎のある削平地に出る。
恐らくこの慶応大学寄宿舎の有る場所も曲輪だったと思うが、斜面を大胆に削ってしまってるはずだし、こちら側は防備の堅い断崖の北側と東側と異なって西側の坂から侵入経路に成ってしまう。なので小規模な曲輪がいくるも有った筈で、その曲輪の削平地が住宅地に成って行ったのだと思う。
因みに寄宿舎の庭からも新幹線が見える。
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むしろアングル的に斜めで、ここからの方がカッコよい新幹線の写真が撮れる。
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写真が良くないのは小生の腕がショボいから(笑)。
慶応義塾大学付属高校周辺 久良岐のよし
そこから慶應義塾大学付属高校を経由して大学側に行こうとすると、途中に弥生時代の住居跡が在る。
・・・と言うか、看板が有ると言われたのだが、何処にも見当たらず解らんので地元の御婦人に質問した。
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そしたら、このコンクリで固められてるのが竪穴式住居跡らしい。
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こんなん看板無いと解らん!小生、小さい時から縄文遺跡で遊んで育ったので山の中でも地面の凹みだけで住居跡判るが、こんなコンクリで固められてたら逆に解らんし!
でも面白い物が横に有った。
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たぶん、第二次世界大戦中の海軍の地下基地の遺構。通気口だと思う。コンクリートの劣化具合から判断したのと、こんなん意味不明な構造物他に無いわ(笑)。
ここを通り過ぎる。
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物凄く綺麗な慶應大学日吉グラウンド。・・・県立高校とは違うね。
少し住宅街の道路を通り慶應大学の校内に復帰する途中、可愛い洋館が在った。
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慶應大学のキリスト教会らしい。多分、昭和初期とか大戦後直ぐに作られてると思う。山手地区の洋館街の建物と外観の古さ比較したらそんな感じ。
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慶應大学の陸上競技場が下に有るんだけど、やはり古い地形が残る部分は人工的に裾切りされている。
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ので崖地。
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腰曲輪状の部分も有ったけど詳細は当然不明。
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慶應大学をゆっくり散歩しに来たの初めてだけど、高校も立派!なんかアメリカのゴシック建築の美術館かなんかみたい。
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映画の撮影にも使えそう。
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凄いね。横浜市中区の日本大通りとかだと、こんな感じの古い近代西洋建築沢山有るけど、それが高校なんだもんね(笑)。頭良くないりそう嫌味じゃなく(笑)。
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天文台まで有るし!
まぁ~そんな訳でだいたい、主だった谷地形と曲輪らしい場所を略(ほぼ)一周して来た。
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後は一の谷を降りて保福寺に戻るだけ。
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てか「東急グループよ~、官僚の子弟のいる慶應大学でだけ自然保護アピールですか(笑)?」あなた達は今現在、横浜市最大最後の蛍の群生地の磯子区~栄区~港南区~金沢区の円海山瀬上沢と同所の関東最大の蹈鞴製鉄遺跡の深田遺跡を開発の為に破壊しようとしてますよね~?
何の偽善ですかイヤらしい。浅ましいにも程がある。
コレな⤵
東急建設による蛍生息地と日本国内最大級のタタラ製鉄遺跡破壊計画を暴露します。
瀬上沢一帯に広がる日本最大級の蹈鞴製鉄遺跡の紹介パンフ転載。
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
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東急の金持向け偽善の谷、一の谷を降りる。
ここを大切にする前に、横浜市の自然保護や日本レベルの貴重な蹈鞴史跡の歴史文化的な価値観を考えるなら、早く瀬上沢開発案を中止できる様に横浜市に代替地を要求したり、県内外の蹈鞴製鉄と古代史の専門家を連れて来て第三者による発掘調査しなさいよ。やらせたのヨコハマふるさと歴史財団って、よく貴重な遺跡を破壊容認する所でしょうよ(笑)。開発利権と密接な稲川会系埋地組組長の息子が最大支援者の某市長とズブズブだな~!
赤字事業なんだから、ちゃんと担当者は自分の責任隠さないで総本山に報告しなさいよ、それで経済世民、継往開来を実践して日本を守った東横神社の渋沢栄一公に謝れ!東急建設が円海山でやろうとしてる事は渋沢栄一公が嫌悪してた極左唯物主義者や無道徳な極右政治団体と同じだわ!
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ここを抜ければ保福寺に戻りますよ。
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さて、皆さんにも慶應大学に矢上城=谷上城の遺構が今も地形として残っている事が伝わったでしょうか?

皆さんの御近所にも必ず御城が在ったはずなので、興味が有る人は少し日本城郭大系と言う本を大きい図書館で調べて見たり、ネットで情報を見て見るのもいいかも知れませんよ!
まぁ・・・日本城郭体系はある種の「配慮」からか、実際より城規模を矮小化したり触れていない御城すらありますが。
でも地元に凄い殿様と関係の有る場所が有ったと解かれば、皆さんも郷土愛が深まると思います。

ですから是非、地元の神社仏閣や御城の跡の山や公園を散歩してみては如何でしょうか?

余談だが中田加賀守公の一連の調べ物で取材してた事も有り、保福寺の御住職や保土ヶ谷区の中田家の菩提寺の正觀寺の御住職に期間限定の御朱印とかお茶菓子とか沢山頂きました(笑)。
本来は中田加賀守公の所属した北条家の小机衆と言う軍団の軍団長だった笠原信為公や笠原康勝公の与力武将達所縁の寺院、旧小机領三十三ヶ所霊場の保福寺でも普段は御朱印をやってない御住職様からも御朱印を頂けた。
正觀寺の観音様の御開帳は来年なんだけど御住職様からも色々と親切にして頂いて、何だか中田加賀守公に「良く来たね~」と言われてる様で嬉しかった。
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殿様から御褒美を頂いた様に感じとても嬉しい。
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しかもこの前日は久しぶりに港北区鳥山の三会寺の御住職に会いに行って、真言宗の大僧侶、印融法印様の非公開の肖像画を拝見させて頂けたりした。

小生は殿様をリスペクトしてるから、殿様達が関係した神社仏閣に文献に残らない話も有るかも知れないと人に会いに行って見聞きしたり、御子孫に会ったりするんだけど・・・こういうささやかな御褒美みたいな事が有ると嬉しいね、やっぱり。

では又、次の記事で御会いしましょう~♪




















平安時代の人からも古くて由緒有る神社と思われていたのが延喜式内社と呼ばれる普通の神社とは比べ物に成らない❝別格❞の神社です。
醍醐天皇が編纂させた延喜式と言う律令制度の改正法に定められた保護すべき対象の神社一覧が延喜式神名張に載る延喜式内社です。
又、延喜式成立以前から存在するが、当時は修行場や祈祷所と機能していたので祖先や神を奉る神社とは意味が若干異なっていていたり藤原家に不都合な歴史が有り掲載できなかった神社を延喜式内社に対して式外社と言います。
その神様の御神威と歴史が別格の意味に社殿の大小や現代の参拝客の多さは関係有りません。
多くの延喜式内社には縄文~弥生文化の遺跡が近在し、又、神社の宝物に日本神話の時代に当たる弥生時代に作られた祭器が有る所も少なくなく更には考古学的にも、その祭器が弥生時代や古墳時代初期の物だったり境内の遺跡が縄文文化の史跡と確認されている場所が多く有ります。

そんな延喜式内社が神奈川県には旧相模国内に13座、旧武蔵国(横浜市)に1座、式外社で古事記に登場する様な霊験あらたかな場所や歴代天皇の勅願所も数ヵ所有ります。
その中の一つで、現在も比較的大きな規模を誇るのが大和市の深見神社(ふかみじんじゃ)です。
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ここ深見神社は雄略天皇の時代(西暦500年前後)に闇神(くらおかみ)と倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を御祭神として創建された事が関係文献から解っている様です。
神は水神=雨乞いの神様として信仰されたそうですが、似た名前の神様に高神(たかおかみ)と言う神様が雨乞いの聖地だった大山阿夫利神社の御祭神として祀られています。
この二神は名前も似ていますが同じ様な御神威を御持ちの様です。
今年2016年の夏は水不足なので神奈川県知事や自治体の首長には御参りして欲しい所ですね。
さて…少し脱線します。
延喜式内社も凄いのでですが、式外社にも凄い場所が有ります。

特に凄い場所は以前も紹介した…
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日本武尊の仮御所近くに、日本武尊の冠を御神体として地下に埋蔵して創建された横須賀市の走水神社。
ここは最近の社殿建て替えの際に本当に地下に石室が有る事が確認されています。
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日本武尊の御妃様の弟橘姫の古墳が神社社殿の背後に控える川崎市の橘樹神社。
神奈川県教育委員会の怠慢と不見識で、大古墳は一部を除いて宅地化されてしまいましたが、古墳頭頂部の一部がかろうじて現存しています。
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そして歴代天皇が勅願所道場として信奉した師岡熊野神社です。
歴代の天皇家と源氏や小田原北条家、徳川家から信奉され、特に光孝天皇から「関東随一大霊験所熊野宮」の異名を与えられ、その勅額を頂いた周辺に聖なる池を多数抱える神社でもあります。
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今回紹介する深見神社は、この師岡熊野神社と同じ雨乞いの神様として古代人からも信奉された古社な訳ですが…
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伝承や郷土史研究者の意見では、この辺りも古代に海が入り込んだ入江だったので❝深い海❞が地名の深見に転化したと考えられていますが、小生の意見は少々異なります。
何故かと言うと古代の海岸線と深見神社の位置は離れているからです。
神奈川県名の延喜式内社と古代の海岸線 久良岐のよし
そこで小生が推測するのは、深見(ふかみ)の地名由来は❝深水(ふかみ)に嵌(は)まる❞の方の深水だと思うんです。
実は、この深見神社は重要な場所に在(あ)りまして、すぐ近くを❝境川❞が流れています。
延喜式内社と河川の位置 久良岐のよし
※拡大して見ると、河川と延喜式内社の位置が解ります。
古代は橋を架橋する技術が無かったので、大河川を渡河するには舟での移動しか有りませんでした。
若しくは…徒歩で渡れる浅瀬を探すかですね。
残念ながら神奈川県には相模川や鶴見川の様な巨大河川が幾筋も有り古代人にとっては交通の便の良い土地では有りませんでした。
それ故、この道を❝東海道=東の海の道❞と古代人が名付けた訳です。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
古代の東海道は何筋もの大河川を船で渡り、最後は走水から海を越えて房総半島に渡っています。
さて、そんな訳で深見神社の眼前には今も昔も境川が流れているのですが、これが上流部分が旧相模国と旧武蔵国の国境と定められた川だから❝(国)境(の)川❞と成った訳です。
この境川も相当な下流域は海でしたが、実際の所は深見神社の氏子サンや郷土史家の推測は海岸線の歴史事実と異なり、深見神社の眼前に入江が広がっていた歴史は存在しえません。
そこで小生の説は「❝川の深水❞が有ったから深見神社と名付けられた」と成る訳ですが…
「え?深水なんて別にありがたくも何も無いじゃん?」
…と思ったら、貴方は神道と日本の祭祀の歴史を全く解ってない。
古代人にとって川の❝淵❞や❝深水❞と呼ばれる地勢は聖地として信仰対象に成っていたんですよ!
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上の写真は江戸市民の水の供給源だった東京都羽村市の多摩川上流にある根搦前水田を横断している雨乞い街道です。旱(ひでり)の日は、聖地とされた深い淵で雨乞い儀式を行う習慣が有りました。
そして深見神社の御祭神の名前の❝闇神(くらおかみ)❞です。
神(暗い場所の水神様)と解釈出来る御名前から、鬱蒼とした樹木の下に流れる境川の水深の深い水辺を連想させますよね。
似た名前で同じ雨乞いの神様の高神は大山阿夫利神社の神様ですが、実は大山は標高1000mを超す場所に沢山の自然湧水や滝が有るんです。❝高❞い場所に水を湧かせる❝神(おかみ=龍神)❞様だから高神なんでしょうね。
恐らく、ミシェランガイドで三星の観光地認定された東京都日野市の高尾山の❝高尾❞は、大山阿夫利神社の❝高龗❞神と同じ神様を奉っていた歴史が古代に有ったんじゃないかと思います。多分高尾山は山岳信仰と雨乞いの対象だったんでしょう。大山と同じ様に天狗(てんぐ)信仰も盛んですからね。

話を深見神社その物に戻します。
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深見神社は北西から入ってくる変則的な表参道の横に石碑が有ります。
これは、この深見の江戸時代の領主が、この神社と周辺を大好き過ぎてアレやコレや寄進しまくった時に建てたそうです(笑)。
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その近くに立派な狛犬さんも鎮座していて参拝客を御出迎えしてくれます。
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凛々しい狛犬様。
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めっちゃ筋骨隆々だね。
参道から、社殿正面へ続く駐車場の傍(かたわ)らには大和市の保護指定を受けている大樹があります。
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すんごい立派ですね。
駐車場に車を止めると富沢稲荷と言う小さい摂社が有ります。何故か境内には遷座されていない。
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こちらは参拝客もまばらそうですが、小生は御城や神社や御寺を御参りする度に御稲荷様が鎮座していて、参拝客や地域の方々を守って下さっているのでちゃんと御挨拶をして御参りして来ます。
勿論、この時も御挨拶しました。
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現在では一見すると普通の少し広めの神社程度の境内ですが、参道の向きや周辺の森と道路の敷設されたルートを見ると、明らかに昔は周辺の住宅街全部が深見神社だった事が見てとれます。
深見神社推定旧境内 久良岐のよし
こんな感じかな?
ちゃんと現在の社殿前の鳥居の反対側にも、昔の参道が有り、先にも廃道が有る。
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現在は私有地に成ってしまっているので通れない。
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こう言うのは明治政府のせいなんだよ。
明治政府が神社の土地を接収しちゃって、更にその後で太平洋戦争で負けた時にも米軍に神社の土地は大きく接収されてしまったので、こんな風に古い参道が使えなく成って家が建っちゃった場所は少なくないんだな。

さて深見神社の社殿はとても立派です。
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造りからすると多分新しい。ごく最近の再建。
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この時は春に差し掛かった頃に訪れたので、桜の花が咲いていてとても綺麗でした。
深見神社は江戸時代に周辺領主だった坂本家が武神の武御雷神を鹿島神宮から勧進した歴史も有るので一時、鹿島社の別名で呼ばれていた事も有ります。
そっちの神様はハッキリ言って深見神社や深見の土地と関係が無い。
寧(むし)ろ、相模国の延喜式内社と関係が有る戦神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と五十猛(いそたける)神日本武尊と弟橘姫だからね。平安時代にも関東では武御雷神じゃなくて、八坂神社や浅間神社で素戔嗚尊が崇拝されたし、西暦700年頃からは弁才天様も崇拝されだした。
後から深見神社に引っ越して来たのが武御雷神。
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そこ等辺の事は説明の看板にも書いて有るけれど、元に成った記事を読みたい人は横浜の殿様間宮家の子孫の間宮士信が編纂した新編武蔵風土記稿を読むと、周辺の歴史も解って楽しいですよ♪
深見神社は手水舎にはちゃんと水道から新鮮な水が流れていて身を清めれます…
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…多くの延喜式内社が伊勢と関係ない神様で宮司様不在で寂れて水道も流れてないからね。
ここは他にも施設が沢山有ります。
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靖国社。靖国神社の末社かな?と思ったら全く違いました。
元々、この大和市や厚木市は大日本帝国海軍時代の厚木飛行場が有ったので、そこに空の神様として神社が建てられた航空神社を、戦後厚木基地が米軍に接収される際に引き取って当地に遷座したそうです。
それと、さっきの富沢稲荷様とは又違う境内社の稲荷大明神。DSC_0552
御倉大明神と言って、一時期、闇神がこちらに移されて、本殿には明治時代の国家神道と関係が深い武御雷神が本殿に祀られて優先順位と歴史的にアベコベにされていた様です。
現在は闇神様は本殿に無事帰還されています。

それと御神木…
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出ました!神奈川県の銘木100選。
小生の行く先々でちょくちょく登場する銘木100選、その一つが深見神社の現在の御神木の春楡(はるにれ)の大樹。
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春楡(はるにれ)が❝春を❞❝諭す=楡❞、つまり春の訪れを知らせる様に花が咲くからだそうです。
深見神社では種類が解らず「なんじゃもんじゃの木」と渾名されていたようです(笑)。

ここには、古代の文化を伝える神様がいらっしゃいます。
そして江戸時代に武士に崇拝された戦神様も後に同居されました。
古代から近代まで、色んな時代の人の記憶がつまった大切な場所、そして古代人の聖地だったはずの境川の淵の横に建てられた神社だったんだろうなと思います。

きっと皆さんの御近所にも、あんまり大きくなくても凄い歴史偉人との繋がりや、古代からの文化や遺跡を継承しているとんでもない神社や御寺が在ったり、近くの公園や山に行くとソコが平安時代~江戸時代に日本の文化を発展させた武士達の御城の古址だったりするかも知れません。
…御近所の神社仏閣や城址を散歩して、昔の人事を少し思い出してあげませんか?そして文化を大切にしてみませんか?
御参りして先人に「日本の発展に寄与して下さりありがとう」と御礼を伝えれるだけでも、偉人達や神様や仏様は喜んで下さるかも知れませんよ。

では、今日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう♪

横浜市には神奈川屈指、いやいや日本規模でも聖地(パワースポット)に挙(あ)げられる熊野社(くまのしゃ)が在るのを御存知の方は少ないと思います。
その名も師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)と言います。
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昨今、自作自演の詐欺紛いの偽パワースポットを捏造する新しい神社仏閣も多いですが、ここは光孝天王の勅願所だった由緒正しい熊野社です。
天皇家の勅願所(ちょくがんじょ)と言うのは、天皇自らが祈願する国の安寧や何某(なにがし)かの重要な御祈りを、その神社仏閣の宮司様や和尚様が天皇陛下に代わって神様や仏様に御願いする場所の事です。
つまり、この師岡熊野神社は古くは光孝天王の時代から、天皇家が祈願を依頼した霊験あらたかな場所と言う訳です。
境内には古代からの自然湧水のパワースポットも現存し、その聖地としての存在価値は光孝天王以来歴代天皇の勅願所だった事が示しています。
聖地や施設の説明は後回しにして…
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熊野社と言ったのは敢えてそう言いましたが、昔の人は神様ごとに神社の種類をちゃんと分けて呼んでいたので敢えて、昔の人の風習に従って熊野社と言ってみました。
神社を何でもかんでも一色単にして❝神社❞と言う様に成ったのは、たかだか150年ちょい前、国家神道と言う新しい神道を管理統合する為の宗教観が出来てからの話なので、本来、全ての神社はそれぞれの系統に従って区別された名前で呼ばれる方が相応しい訳ですね。
例えば…
●熊野社
熊野社なら水神様の御霊を御祀(まつ)りする御社(おやしろ)で、滝や自然湧水の聖地そのものが御神体であったり境内の聖地の場合が本来の形です。別名で十二所神社と呼ばれる場合も有ります。
正に、この師岡熊野神社は自然湧水の聖地が数カ所有りますし、鎌倉市十二所の十二所神社は周辺の朝比奈峠に小さいながらも滝や多くの沢の水源が有ります。
熊野社の総本山の熊野大社は、本来は聖地熊野三山から流れる熊野川の中州に在りました。
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上の写真は師岡熊野神社本殿裏の「❝の❞の池」です。
古代から自然湧水が枯れる事の無い、小さくとも聖なる池です。

●八幡社
八幡社なら誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩を御祭りする御社で、古い八幡社は大河川や海辺の水害の多い地域や古代の港湾の近くに御祀りされています。
日本でも指折りの鶴岡八幡宮は本来は現在の位置では無く、鎌倉市の材木座海岸に面した土地に、源頼義公が石清水八幡宮の御分霊を勧進し社殿を建立しました。由比ガ浜や材木座の海の安寧を願っての正に高潮避けの治水の神様としての勧進なのが解ります。
平安時代からの八幡社の総本社格である石清水八幡宮は、その鎮座する男山に自然湧水の池と小規模な滝が有り水神の性格も有りますが、何よりも古代は眼前に巨椋池と言う巨大な湖が有り、その巨椋池から流れる木津川や淀川は度々決壊する大河川でした。八幡社総本社格だけあり典型的な八幡社の役割を期待され誉田別尊の御霊を勧進する事で治水を祈願した先人の苦労が判ります。
又、応神天皇の武勇に肖(あやか)り軍神としての性格も持ち合わせています。

●弁天社
現在では弁財天と書かれますが、本来は❝才天❞と書かれ後に日本で❝財天❞とも書かれる様に成ったインド神話の神様でサンスクリット語の名前はサラスバティーです。
明治時代に成ってから弁天社の神様は壱杵島姫が習合されました。
才天財天と敢えて書いたのは、この神様は御利益が多く、本来は軍才の神様の性格を持つ戦神でしたが後に江ノ島の弁天様を信仰した河内源氏の源頼朝公や、滋賀県の竹生島の弁天様を信仰した宇多源氏の佐々木家が大いに繁栄した事から財神としての性格がクローズアップされる様に成り日本で辨財天の字も当て嵌めれる様に成りました。
戦神だったので、鎌倉時代、頼朝公の成功に肖(あやか)って自領に弁天社を作る武将が多かったので鎌倉武士の居た土地には大体、弁天社が鎮座しています。
この様に、本来、神社は神様によって役割が異なり、やたらめったら縁結びを御願いしたり合格祈願をするもんじゃないんですね。

さて、神社の神様にはそれぞれに役割が有る事が解った所で、師岡熊野神社が何で聖地なのかに話を戻しましょう。
この師岡熊野神社は周辺が平地で、この岡は比較的高い場所に在るのに、その丘の上と周辺に自然湧水地が在るので聖地なんです。
「それの何が珍しいの?」
と思うでしょうか…
地理の歴史を説明します。
この師岡熊野神社の鎮守の森は権現山と言われています。
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熊野神社は、どこも奈良時代~江戸時代が終わるまで神仏習合の神様でしたから、師岡熊野神社の事も熊野権現と呼んだ訳で、つい160年前までの長い文化を引き継いだ名残りの地名がこの権現山です。
そして、この権現山からは貝塚が発掘されており、日本の神代に当たる縄文時代~弥生時代に既に人間の営みが行われていた場所なんです。
では何で、光孝天皇に聖地として勅願所に指定された、この師岡熊野神社の境内から貝塚が見つかるのでしょうか?


昔の海岸線
※ネット拝借地形画像
この師岡熊野神社の有る一帯は、古代、縄文時代~弥生時代位までは海でした。
つまり、古代から聖地であるこの場所は、周辺が海なのにも関わらず奇跡的に豊富な淡水の自然湧水が有ったので古代人も生活拠点を築けたんですね。
「は?」
「古代人が村作ってたから何なの?」
…と、思う人がいたら貴方の日本の神様に対する信仰心は偽物ですね。
関東最古の大社、鷲宮神社のある総国(下総上総)を鷲宮の土地から開発して行った神話の出雲族の御神孫達は、最初27人から土地開発を始めたんですよ。寧ろ、この人数は考古学的には村の初期の単位としては非常に信憑性が有る数字だとも言えます。
つまり、この師岡熊野神社の境内から貝塚が出て、嘗(かつ)ては海のど真ん中だった半島の上で貴重な飲み水が“こんこん”と湧き出ていたこと自体が当時の人からみても奇跡で、海が干上がって工作に適さないまだ塩分の多い土腐(どぶ)地帯に成っていた時でも平安時代の人々からすれば美味しい飲み水が有る事は奇跡で、そこを中心に街道が整備されて行って国が開拓されて行った訳です。
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※ネット拝借地形画像
縄文時代の横浜市北部は、半分は海の底で半分はリアス式海岸の体を成していました。
東急東横線の綱島駅一帯なんて、本当に綱❝島❞だったんですから。
師岡熊野神社の在る場所が、古代は❝太尾岬❞と言う半島だった平野にポコっとした丘陵地帯です。
古代は本当に❝太い尾っぽ❞の様な形状の半島だったので、太尾岬と呼ばれた名残が現代でも太尾と言う隣接地域の地名に留められている訳ですね。
この様に地名には本来の意味があるのに、勝手に大手開発業者や土建屋が「○○ニュータウン」とか「○光台」とか地名を変えてしまうのは日本宗教観から言っても不遜不敬極まりない行為な上に、その土地の特性を有耶無耶に隠してしまう彼等の悪事で詐欺的な土地評価額偽装行為なんですね。

この様に古い神社は大体が丘の上に在るのは、古代は海が今より内陸まで入り込んでいた為です。
その境内の古代人の生活跡の自然湧水の在る師岡熊野神社を光孝天皇が勅願所に定めたのは当然ですよね?昔は周りが海や土腐(どぶ)だったのに、枯れない清涼な飲み水の湧き続ける泉を有する神社なんですから。
ですから、恐らく、その光孝天王の祈願内容は旱魃(かんばつ)=旱(ひでり)による水不足が起きた際に対策としての❝雨乞い❞だったはずです。
この推測を証明してくれる神事が受け継がれている❝場所❞が、師岡熊野神社の「❝い❞の池」です。
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この「❝い❞の池」は古くから雨乞い神事が行われていたそうです。
他にも「❝ち❞の池」も有りましたが、例の如く文化史跡破壊が得意な横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が開発容認してしまいあろう事か埋め立てられ、現在では大曾根第二公園に成ってしまいました。
これらの池を並べると、❝い❞❝の❞❝ち❞と成るので、古来人々の命を繋ぐ水源だった事が伝承する神事と、記録と名前から解ります。

さて、古代の聖地と水源が関連深い事が御理解頂けたと思いますが、実は、この事が多くの平安時代~戦国時代の御城が神社や御寺の在る場所に建てられた理由でも有る訳です。
御城と言うのは敵が攻めて来た時に、領民の農民を匿(かくま)って防衛戦争を行う場所なので、険阻な丘陵地形と同時に❝飲み水の確保❞が第一条件に成る訳です。ですから、聖地に後に社殿が造営された神社仏閣の場所に御城が築城される事が多かった訳ですね。
その南関東での代表例が東京都の深大寺城、滝山城です。
深大寺城は豊富な水源を利用した水車動力の石臼で引く蕎麦切りが名物で現在もその伝統が受け継がれていますし、滝山城には弁天池と呼ばれる水源を堰き止めた池と山王権現社が有りました。
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さて、ここまで話して何故(なにゆえ)、師岡熊野神社の湧水が昔の人にとって聖地としての価値を有していたか、そして何故にそこに貝塚が有るかが御理解頂けたとも思います。
貝塚があり海の真ん中の半島に飲み水に成る自然湧水が有る事が聖地なのか、紐解けたと思います。
この聖地としての価値を証明する材料が冒頭で述べて歴史偉人の、この熊野社に対する信仰です。
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では、師岡熊野神社を勅願所にしたり、社殿を建設した歴史偉人を列挙してみましょう…
光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇…
歴史好きで感の良い人は直ぐに判(わか)ると思いますが、源氏の始祖の天皇ばかりです。
そして…
北条早雲公・徳川家康公・徳川家光公・徳川家綱公。
…関東の覇者達から、領地の安寧を願って信仰された訳ですね。
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それ故(ゆえ)、権現と呼ばれ自然崇拝の神仏習合の発想に基づいて❝関東随一大霊験所熊埜宮❞の異名を光孝天皇より賜(たまわ)っているんですね。DSC_0217
その異名は完全に聖地認定を天皇家より受けている証拠と成る訳です。西暦800年代後半の話です。
凄いでしょう?
古い神社ですので最初の本殿も光孝天皇の代に造営され、その後、幾度の再建を経ているとは雖(いえど)も現在の本殿も正徳4年(西暦1714年)の建立(こんりゅう)です。既に300年の歴史が有ります。
拝殿は明治17年(西暦1884年)の建立です。
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因(ちな)みに、この外観は覆(おお)い殿と言って昨今歴史有る神社仏閣で見られる建物ですが、本来の歴史有る神社仏閣の建物が文化財指定されたり貴重な建築文化財の場合に、本殿や御堂を丸ごと囲って保護してしまう建築物の事です。
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覆い殿の部分は材木が新しいので一目瞭然。
この師岡熊野神社の建築物と神事を後世に伝承させようと言う、宮司様や氏子サン達の気概を感じる覆い殿の増築ですね。
素晴らしい!
港北区民は郷土愛が深く実に文化と史跡保護に熱心な文化度の高い方が多い!実に素晴らしい!
この歴代天皇と関東統治者が大切にした師岡熊野神社を守って来た氏子さん、笠原家の大曾根城址の景観を守ろうとした大曾根商店街の皆さん、鎌倉時代の名将佐々木高綱公の居館跡の鳥山八幡宮や高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺を守って来た鳥山地区の氏子サンや檀家さん、北条幻庵公が城主を務めた小机城址市民の森を守り通した区民皆さん、それ等全ての港北区民の心意気と言い、真に敬服するばかりです。
そんな郷土愛の強い港北区の師岡熊野神社の氏子サン達なので、明治時代の一村一社令と言う政令で破壊された周辺神社の御霊もちゃんと遷座した上で新たに綺麗な摂社の御社を建て、神仏習合文化の石仏も大切に保護されていました。
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この関東地方は出雲神族の御神孫が古代に開拓を行い、平安時代に菅原氏と桓武平氏と源氏の武将達が文化を昇華させたので、この摂社に御祭りされている神様はどれも坂東武者が進行した神様ばかりですね。
ここの説明では山王社は日吉神社とされているますが、関東の開発に貢献された河内源氏の御一族は神仏習合と自然神に対する信仰心が強く修験道の影響も受けていたので関東における山王社と呼ばれる神社は山王権現だけでなく蔵王権現を明治時代に習合している場合が多く、実際に軍神として武士団に崇められた名将の源義家公は八王子の滝山城址に蔵王権現の御堂を修復していたりします。源頼朝公も山岳信仰をされた方で伊勢原市の大山や富士山を登山したり富士山の化身とされた此花咲耶姫命を御祀りする浅間神社を横浜市内に造営されています。
その他に、海や大河川を鎮める鶴岡八幡宮を元とした八幡社も多く造営した伝承が関東各地の八幡宮に残ります。
八幡社も明治以前は御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)は別名❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の天皇家の文化を代表する神様の一つです。京都府八幡市の石清水八幡宮や鎌倉市の鶴岡八幡宮には明治時代まで多宝塔も有りました。
師岡熊野神社を“大霊験所”として信仰した光孝天皇はじめ宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇等源氏の始祖に成られた天皇のいずれも神仏習合の時代に生きた方々ですので、神職と仏僧の両方の特性を持つ修験道の山伏達や修行者も大切にされたのでしょうね。
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その影響を引き継いだのが源義家公や源頼朝公は自然信仰を大切にされたのでしょう。
日本人の宗教観は明治時代以前はおおらかなものだったので、八幡信仰や、この熊野神社に見られる権現信仰の様に自然崇拝や自分の祖先に当たる神様を祀る祭礼や歴史偉人を供養する菩提寺や仏教経典を全て、文化として等しく継承したんですね。
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そして、この師岡熊野神社は、周辺が海に囲まれていた縄文の古代からの聖地なので、裏の権現山に貝塚が有る訳ですが、この権現山は少し変わった風景を見る事が出来ます。
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新幹線が丘の下を走っているんですねぇ~。
望遠レンズを持ってる人なら、横浜~品川間の新幹線が住宅街の真ん中を走り抜ける様子を撮影する事が出来ます。
古代の人に大切だった、この師岡も…
平安時代~戦国時代には古代からの開拓された集落を結ぶ街道が出来て、その街道を抑える師岡付近には大曾根城や小机城、佐々木高綱公の鳥山城館が築かれました。
…現代には新幹線や第三京浜道路が通り人と物の輸送を担う日本の大動脈とも言える土地にまで成長した訳ですね。
最初に、この師岡熊野神社の神泉を見つけ飲料水を確保し集落を形成した先人への歴代天皇と関東統治者のリスペクトが、この❝関東随一大霊験所熊埜宮❞には沢山詰まっている訳です。

きっと、皆さんの御自宅の近くにも、思いがけない歴史を持つ神社や御寺さんや城跡の山が有ると思います。
町で買い物をするのも良いですが、ちょこっと都会の喧噪を離れて近所の鎮守の森を散歩してみませんか?
そこには先人とのタイムカプセルの役割を果たして来た歴史が詰まっているかも知れませんよ?

では!、又、次のブログ記事で御会いしましょう!








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