JRと相鉄線に乗って2年ぶりに西区の平沼を散策してきました。
小生は働きながら週末に国家資格取得のために学校に通っているのですが、それと合わせて今回は角平でランチするのと平沼の水天宮を御参りするのが目的でした。
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角平と言うのは横浜市南部の市民の間には有名な日本蕎麦店です。
その角平でのランチに合わせて平沼の水天宮を御参りしたいと思ったのは、7年前に戦国時代の蒔田湾と幕末の横浜開港の頃の歴史を調べていた際に現在の開港資料館に江戸時代末期まで存在した水神様の御社が有ったのを知り、その過程で平沼の水天宮をGoogleMapにチェックしていていつか参拝しに行こうと思ったからでした。
昔は平沼は平沼新田と呼ばれ吉田新田と同じく江戸時代以前には海でした。
江戸時代に先に新田開発されたのが洲乾湊(すがみなと)と呼ばれた砂浜の半島より内側に広がっていた蒔田湾とか考古学では大岡湾と呼ばれた入江でした。
個人的には洲乾湾と呼ぶべきと思うのですが。
幕末に成ると、この洲乾湊の半島の浜辺ににアメリカから来たペリー提督が上陸し、更に後に幕府によって外国人居留地に定められました。
ペリー艦隊の上陸
上のペリーさん上陸の有名な絵の右側の樹が今も開港資料館の中に現存する玉楠の樹の3代前の樹だそうで同じ位置に存在し、そお樹の麓の神社は横浜の水神社として知られた御社です。
また横浜村の有った洲乾浜の半島、その先端には淡水の湧水池が有り弁天様が祀られていました。
それ等は源頼朝公により開かれたそうです。

開港後に外国人居留地に定められた地域は旧半島と埋立地の間に残された海の名残りの運河がそのまま境界線に活用されました。
吉田橋の上に関所が設けられて外国人居留地は関内と呼ばれた事が今のJR関内駅始め関内と広く呼ばれる地域の地名由来に成っています。
関内周辺 久良岐のよし
上の明治時代初期の測量図ではまだ画面左下の平沼が今程には埋め立てられておらず海だった事が解りますね。
この関内の外国人居留地建設で移転した水天宮と現在の横浜市役所新市庁舎の場所に存在した弁天様の両方が源頼朝公が開いた物だと言うのを知った時に水神様の移転先を調べて、南区の河野サンと言う個人の御宅に移転し祀られた後で太田杉山神社に合祀されたのを色んな宮司様達に聞いて廻り辿(たど)り着きました。
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横濱水天宮太田杉山神社
元横浜村の水天宮を合祀した杉山神社
この杉山神社については改めて、今日の記事で書く平沼神社こと平沼水天宮の記事共々独立した紹介記事を書きたいと思います。
さて、この南区の水天宮は元々は杉山神社(ややこしい)で、今の関内地区や山下公園前の横浜村発祥地の砂州(さす)の半島だった洲乾湊(すがみなと)に存在したのですが、それは以前の横浜の戦国武将で江戸時代の本牧奉行や佐渡代官、生野代官、摂津代官、蒲原(駿河)代官を務めた間宮家や鎌倉時代に関西を統治した金澤北条家が支援した真言宗の江戸時代迄大寺院だった南区堀之内の寶生寺や北条政子様の隠居地で間宮忠次公が支援した寺院だった井土ヶ谷の乗蓮寺を紹介した時に少し書いた事も有りますね。


上の過去記事で少し触れた横浜村(関内地区の元町~中華街~日本大通り一帯~弁天町)には頼朝公のゆかりの神社が2つ在り、その内の一つの水天宮が現在の太田杉山神社に合祀されている横濱水天宮な訳ですが、横濱水天宮は外国人居留地に関内地区が成った際に旧家河野家へ引き取られ遷座を余儀なくされ更に現在の杉山神社に合祀されたそうです。
これについては平沼の水天宮の宮司様にも以前、色々と御教授頂いていたのですが実は電話で御話を教えて頂いただけで水天宮平沼神社様には未だ参詣した事が無かったんですね~。
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近くの平沼商店街を道筋に含む横浜道は調べたり散歩したりしたんですが・・・。

この過去記事で紹介した戦争史跡の平沼廃駅の直ぐ隣に西区を代表する日本蕎麦の名店の角平と近代の❝横浜道❞が有り、更にその辺りから徒歩5分程度に平沼神社こと平沼水天宮が鎮座しています。
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水天宮平沼神社
平沼新田鎮守の水神様
この水天宮は天保十年(1839年)、つまり江戸末期に開かれた比較的歴史は浅い神社ですが、それはその通りですね。
なんせここは地名に成った平沼家が埋め立てるまで歌川広重が東海道五十三次の神奈川宿の絵に描いた海だったんですから。
その頃の地形については、神奈川駅近く台町の江戸時代の❝さくら家=明治の田中家❞で働いていた坂本龍馬サンの未亡人お龍サンの記事でも触れた事が有りました。


つまり、お龍サンが神奈川宿に居た頃に漸く埋立地から人が住める状態に成りつつあった程度の人工の土地ですから、神社の歴史も比較的新しくて当たり前な訳です。
今回小生は初参拝だったのですが、開基(かいき:社寺を造営する事)から約200年間、地元の人にとても愛され続けて現在も参詣者が絶えない様で現代的に綺麗に石畳と新しい社殿で整備された、町の神社の境内としても綺麗な神社さんでした。
では神社の大まかな歴史の話はここまでにして、参詣して来た様子を紹介します。
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詳しい歴史については上の社頭掲示写真の内容を拡大して読んでみて下さい。
水天宮様は相鉄線の平沼橋駅から角平に行くために国道1号線に向かう途中に在ります。
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水天宮平沼神社
平沼新田鎮守の水神様
道路から見ても境内が綺麗に整備されている事が分かりますね。
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まぁ、石畳でガチガチに境内を固めるのは現代的な造りで古来の自然信仰とは異なるのですが、小生はこれはこれで綺麗で有りだと思います。

由緒正しい醍醐天皇の律令改正法である延喜式の延喜式神名帳に掲載されている御社(おやしろ)、相模国一之宮の寒川神社でも現代は同じように境内の拝殿周辺を石畳で境内を固めており雨天の参詣もし易くしてあったりするので、小生は自然なままの古来の神社も現代の石畳も両方良いと思います。
さて、平沼の水天宮様は鳥居をくぐって右手に神楽殿があります。
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御神輿の保管所も有りますね。
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神楽殿と名付けれられていますが、3階建てで立派な建物でした。
鳥居をくぐり正面に本殿。
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参拝した昨日土曜日は雨天だったのですが、小生が参詣した時は2組の和装の若夫婦が幼子を連れて御宮参りで祈祷を終えた直後だった様で微笑ましい光景を見る事が出来ました。
後からホームページを拝見したら平沼の水天宮様は子宝の御利益でも有名な様です。
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扁額は大正時代の物ですね。
この神社の社紋が変わっていて初めて見る家紋でした。
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平沼家の家紋なのでしょうか?宮司さんに聞けば良かったな。
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本殿の左手前には水天様、仏教やヒンドゥー教の元に成ったゾロアスター教や古代インド神話での龍神を束ねる神様でした。アスラ族=阿修羅様の部族の最高神として崇拝されていたそうです。
日本の宗教は古墳時代や飛鳥時代~明治初期迄は神仏習合で海外から渡来した神様も仏様や日本古来の神様と一緒に祀られていたので、同じくインド神話の女神様である弁才天=サラスヴァティー神と同じように近世日本では水天様として親しまれ特に武蔵国域では信仰されていた様です。
本殿に向かって右側に色々な境内社が祀られていたので江戸時代に周辺にあった小さな神社が遷宮されているのかも知れません。
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お稲荷様が2座あります。
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その内の1座の前には何か可愛い河童の石像。
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更に奥には小生が日頃崇拝する天神様こと菅原道真公=天満大自在天神様も御社も在りました。
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ふむ、こちらの平沼神社こと水天宮様は本来の治水と地鎮の御利益に加えて子宝と学業上達や就学と芸能上達の御利益が有る事が祀られている神様から解りますね~。
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これだけ御利益が集まっているのですから、そりゃ地域の人に大切にされる訳だ。

ちなみに、少し歩きますが近くには良い昭和の日本建築銭湯が3軒も現存していて、小生はソチラの銭湯も以前入浴に通い詰めて数ヵ所写真を撮影させて貰ってるので、それもいつか紹介記事を書きたいと思います。
その銭湯が有る側の地域にも古い戸部杉山神社が有るのですが頼朝公が開いた杉山神社が横浜市内に数ヵ所有ったので、その内の1つは西区の杉山神社だと思います。
その頼朝公が御分霊を勧進した大元の杉山神社本社は横浜市緑区西八朔に現存しており横浜市唯一の延喜式内社だったりします。

これも以前紹介記事を書いているので御興味が有る方は御覧下さい。
さて、平沼の水天宮平沼神社さんはとても綺麗で気持ちの良い神社でした。
ここから蕎麦を食べに角平に行く途中、平戸橋と言う橋の上から京急が帷子川の上を横切る鉄橋を走る景色を見付けたので撮影してみました。
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きっと鉄道写真撮影が趣味の方なら上手に撮影出来るんでしょうね~。
ここは丁度、水天宮様と角平の中間位の場所ですから、角平に御蕎麦を食べに行ってみたい方はついでに電車の写真を撮影に行っても良いかもしれません。
寒い時期の快晴の日で夕焼か朝焼けの時間帯なら、恐らく帷子川に綺麗に京急が写り込むんじゃないかな?と富士山撮影が趣味の一環の小生は予想します。
さて、そこから徒歩数分で角平に到着。
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この写真の平沼商店街の看板の道が横浜道なのですが、JRと相鉄線が線路を通してしまって踏切化していた横浜道を平成十四年(2002年)に踏切閉鎖してしまった事で、既に貴重な近代街道史跡だった横浜道は通れなくなってしまいました。当然ながら平沼商店街衰退の原因に成った事も先に紹介した平沼廃駅の記事で書いています。

相鉄とJRは横浜道である元平沼橋と平沼商店街をアンダーパスか歩道橋で再度繋いで街道を復旧する責任が有りますね。
さもなくば文化と歴史史跡の破壊者でしかない。
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角平 名代 元祖つけ天
文化人も愛するつけ天蕎麦の名店

この角平は有名人も来る御店でランチタイムは遠方から食べに来る御客さんとビジネスマンで常に満員なのですが、この日に小生が訪れた際には待ち時間もほとんどなく入る事が出来ました。
店内はこんな感じ。
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THEそば屋的な昭和の感じ。
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一応、有名人の来てる証拠写真。
まぁ、こんな感じで有名人も食べに来る御店なのです。
メニューは❝つけ天❞が有名。
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小生、かかり付けの病院の美人女医サン(笑)から「ヤックスを食べてみて!」と言われてたので今回はヤックスを注文。
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ヤックスってのは野菜天+海老天のつけ天ザル蕎麦。
メチャ美味っ!
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蕎麦は腰が有って香りも良い。小生、学生時代に蓼科のリゾートホテルに夏冬にバイトに行ったりしてたのですが、信州の蕎麦の有名店と比較しても美味しい。
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海老天も普通にプリプリで美味い。
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この他にミニ・ハイカラ丼を注文した。
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天かすに海苔とネギと天つゆを沢山かけた丼ぶり。
まぁ、これは別に注文しなくてよかった。
食べ過ぎ。
てか隣の人が食べてたカツ丼がメチャクチャ美味そうだったので次回は蕎麦ではなくカツ丼だけでもアリだな!と思いました。
つけ天を美味しく頂いた後、平沼商店街(横浜道)の国道1号を挟み反対側にある老舗和菓子屋に遠回りして立ちよりました。
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寿ゞ㐂家(すずきや)
横浜道を代表する和菓子の名店
すみません、何故かこの店に来る度に写真撮影する前に買ったお菓子食べてしまって写真有りません(笑)。
寿ゞ㐂家は明治三十三年(1900年)創業で2023年時点で既に123年の歴史を有しています。
オススメはドラ焼きと平沼の鈴と言う御菓子と、和菓子屋なのにシナモンドーナッツ(笑)。
もし時間が有って歴史散歩したい方は、このまま道を進んで野毛の伊勢山皇大神宮~成田山~野毛山動物園~野毛商店街へと歩いて飲んで帰っても良いかと思います。

さて、昨日の休日雑記はここまで。
では又、次の記事でお会いしましょう~♪