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タグ:延喜式内社

大庭神社旧蹟=元宮熊野社(延喜式内社・古代遺跡に囲まれた丘)
&臺谷戸稲荷(古代遺跡の台地に納得する水源と豊穣の神様の稲荷様)
&臺谷戸稲荷の椨(たぶ)の木(神奈川の名木100選)
舟地蔵(大庭城落城の原因の老婆の伝承の石仏様)
大庭城(扇谷上杉家初期の居城、有数の大城郭も今は半分に・・・)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公
 ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の歴史偉人の御祭神と神皇産靈神
 ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦火で仔細不明  
御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
関係者:
開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
         大庭 景親 公?
   左京大夫  山名 時氏 公(足利尊氏公の母の従兄弟)
   関東管領家 上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
   神祇伯   白川 資顕 王
   郷士    諏訪部定太郎公
   郷士    山崎 包高 公
旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
所在地:大庭神社旧蹟(熊野社)・・・藤沢市大庭1846の微高地
所在地:臺谷戸稲荷と椨の木・・・藤沢市大庭神社旧蹟徒歩1分南側
所在地:舟地蔵・・・大庭城南端直下の外堀、小糸川と引地川の合流地点
所在地:大庭城址・・・藤沢市大庭城址公園
※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
延喜式神名帳に記載が有るものの、大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が祀り始めと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
今宮である現在の大庭神社は引地川の対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。
その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
この扇谷上杉氏定公の家宰の太田家の太田道真公と太田道灌公親子が深く関与したと推測される宗賢院が近在し、この宗賢院も戦国時代以前の伝承は伝わらないが寺宝に大庭景親公の陣釜が有り、更には太田家の太田桔梗紋を寺紋としている上に同じく扇谷上杉家の後の居城だった伊勢原市の大城郭上杉糟屋館城下の政務所を兼ねた太田道灌公の詰所が❝蟠龍山❞洞昌院公所寺であり宗賢院も山号が❝蟠龍山❞である事から、宗賢院は前身寺院が大庭神社舊跡(元宮)に関与し大庭城主大庭家とも関係が有り室町時代には扇谷上杉家の政務所を兼ね、舟地蔵の地名が起こる以前は伊勢原の❝蟠龍山❞と同じく❝公所(ぐそ)❞が地名だった可能性が有る。
これらの事から宗賢院は太田家の支援を受け、大庭神社も大庭家、山名家、扇谷上杉家、太田家の関与が有った事が推測出来る。
そして大庭神社が鎮護した大庭庄で乱暴を働いた人物は悉く直後に滅亡している事から、その神威が強い事も歴史的に立証されている。
余談だが大庭城を攻めた北条家は繁栄したが、北条軍は大庭城を落城させた際は御丁寧に舟地蔵地区の堤を切り沼堀を水抜して防御を無力化した上で落城させ、更に周辺の神社仏閣を保護した事が宗賢院の曹洞宗寺院としての中興開基時期から判る。この沼掘りの弱点を漏洩してしまったのが扇谷上杉家の殿様を慕う地元の老婆で、北条家のスパイにそれとは知らずに大庭城の頑強さを自慢する内に堤防を切ってしまえば水が抜ける事を話してしまい結果的に殺害された供養の石仏が舟地蔵と伝わる。
この大庭城のエピソードや山城の大庭城山上に井戸がある事からも神話時代での創世記に相当する縄文時代の人の集落は台地上に必ず在るが、台地上で水が確保出来る泉が在った高いので可能性が熊野信仰にも結び付き、相模国造の穂積氏が弥生時代~古墳時代に周辺を開拓した事も推測出来る。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

大庭神社(延喜式内社・大庭神社の今宮)
稲荷山 成就院(足利家親族の山名時氏公が開いた大庭神社別当寺) 
日枝社(戦時中の軍飛行場建設で遷宮された神社)
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御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・天満大自在天神(菅原道真公)・大庭景親公・山王権現・愛染明王
  ※熊野社が旧蹟で、今宮の大庭神社には比較的新しい時代の御祭神と神皇産靈神
  ※状況から大庭神社の本来の御祭神は熊野権現と推測出来るが戦乱で仔細不明  
  御利益:武芸(スポーツ)上達・地鎮・雨乞い・治水・学問上達・子孫繁栄
  関係者:
  開基:※不明
旧蹟の伝承通り熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族と推測出来る。
  中興:鎌倉御家人 大庭 景義 公?
           大庭 景親 公?
     左京大夫  山名 時氏 公
     (足利尊氏公の母の従兄弟)
    関東管領家  上杉 氏定 公(扇谷上杉家) ?
    神祇伯    白川 資顕 王
    郷士     諏訪部定太郎公
    郷士     山崎 包高 公
  旧郡名:大庭御厨の内の高座郡域
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
【歴史概要】
大庭神社については延喜式神名帳に記載が有るものの、同地は度々戦乱に捲き込まれ近世以前の詳細な記録が残っていない。
旧蹟側の熊野信仰が原点ならば相模国造(くにつくりのみやつこ)穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)の一族が土地開拓し祀り始めたと推測される。旧蹟側周辺からは縄文~弥生~古墳~奈良時代の遺跡が発掘されており、この一帯が古墳時代には集落を形成していた状況と古墳時代の穂積忍山宿禰が相模国造である状況が古代から熊野信仰が存在した状況と整合性が有る。直ぐ近くには鎌倉景正公の御子孫、大庭家の居城だった大庭城が在る事から大庭景義公や大庭景親公が崇敬していた事は間違いない。又、戦国時代初期には扇谷上杉氏定公や、子孫の扇谷上杉定正公も大庭城に居住したと伝わる。この大庭神社舊跡(元宮)付近一帯は古来自然湧水地であり堤防を作って湧水を貯めて大庭城の外堀とした記録が有る。その沼掘りの伝承地が“船地蔵”と呼ばれた地域だった。又、湧水地だった事からか江戸時代には大庭神社舊跡(元宮)は水源の神様らしく熊野社であり、古代人の生活に必要な飲用水を確保する水源だった事も判る。直ぐ近くには臺谷戸稲荷神社も在るが古来、稲荷社も湧水地と関係の深い神様で、大庭神社舊跡や臺谷戸稲荷神社や大庭城址の在る大庭地区からは縄文時代~弥生時代の遺跡が出土している事から他の延喜式内社同様に古代人の集落が神社化した事が解かる。
現在の藤沢市善行側の大庭神社一帯が鎌倉景正公によって開拓され伊勢神宮の荘園と成って以降、今宮である現在の大庭神社は旧蹟側と引地川を挟んで対岸に在るが、最初に古代人による開拓が進んだのは大庭神社旧蹟側で有る事が周辺で遺跡発掘されている事で立証されているので、文献考古学から辿れない御祭神も伝承通り江戸時代に熊野社と記録されている大庭神社旧蹟が熊野権現を祀る延喜式内社として創始されたであろう事が推測出来る。
文献が一切残らないのは鎌倉景正公によって開拓された後に御子孫の大庭家は伊勢神宮の荘園として開発を進めるが、河内源氏の頭領の源義朝公に服属しなかった為に源義朝公や同族の三浦義明公等の乱入を招き大庭庄は戦火に捲き込まれ、更には鎌倉時代直前に足利尊氏公の母の従兄に当たる山名時氏公が藤沢市稲荷側の台地を領有した際に稲荷山成就院を開基し大庭神社も現在地に移転された様で、それ以前の記録が正しく伝わらなかった事も推測出来る。その直後の新田義貞の鎌倉乱入では高座渋谷方面から進軍した新田軍の通過点と成ったが、新田義貞はあらゆる神社仏閣で放火略奪を繰り返しているので大庭神社も略奪の対象に成り灰燼に帰したのだろう。
後に神仏の罰を受け滅亡している。南北朝の動乱期に鎌倉一帯を足利尊氏公が制圧する前後に足利尊氏公の母方従弟に当たる山名時氏公が別当寺の稲荷山成就院を再興している事から山名家による支援を大庭神社が受けている事が解る。その時に旧蹟の場所から現在地に社殿を移転したのだろう事も推測出来る。その後の室町時代末期にも戦国時代幕開けの原因と成った永享の乱が起きて、最後の鎌倉公方の足利持氏公に忠義を尽くした当時の大庭城主の扇谷上杉氏定公が犬懸上杉氏憲入道禅秀公に攻められ藤沢の時宗総本山の遊行寺にまで撤退しながら一帯で激戦を繰り広げ負傷、自決している。上杉禅秀公は暫く後に鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義持公の軍代今川範政公率いる幕府連合軍の大軍勢に報復され滅亡している。
善行側、現在の稲荷山成就院の丘上に現在は荏原冷却システム株式会社の広大な削平地が広がっているが、実はここ第二次世界大戦中の海軍飛行場だった。この飛行場の建設で当地に在った日枝神社も現在地に遷宮された。第二次世界大戦に日本が敗戦すると神社は国からの支援が無くなり何処も大規模な境内地を接収されてしまい氏子の寄付金に因る収入源だけが頼りに成るが、戦時中の空港建設で集落が移転してしまい過疎化した事で由緒ある延喜式内社の大庭神社は神主不在の惨状と成り、近年、神楽殿も解体され境内の石鳥居も崩壊したままに成っている。しかしながら、この神社の御利益は歴史が証明している。
初詣も兼ねて、これら一連の神社仏閣城址史跡を散歩すると悠久の歴史を感じられて良い休日に成るだろう。

宇都母知神社(延喜式内社・天皇の平和と繁栄の願いを叶えた出世の神)
&1万5千㎡に及ぶ自然保全地域指定を受けた境内と御神木の大樹
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  御祭神・御本尊等:天照大神(あまてらすおおみかみ)・稚産土神(わくむすび)・若日下部命(わかくさかべのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)  
  御利益:対人関係修復・家内安全・厄除け・立身出世・学業向上・農業豊穣
  関係者:
  開基:雄略天皇
  中興:朱雀天皇
     鎌倉幕府執権 北条 貞時 公
     丹南藩大名  高木 正次 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:藤沢市、慶応大学湘南藤沢キャンパスの隣、古代の入江の最奥部だった微高地。
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
考古学的には獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)と実名が比定される雄略天皇より幣帛を賜り神事が行われた記録が有る由緒正しい古社。後に朱雀天皇によって大和国の泊瀬から若日下部命(わかくさかべのみこと)の御分霊が勧進され祀られた記録が残る。若日下部命は雄略天皇の皇后の事を指す。
日下部氏は屯田兵を率いた古代部族で軍事と開墾に従事した入植者を管轄する集団だった様だ。だとすると❝武蔵国造の乱❞を鎮定したと思われる雄略天皇によって前身の聖地が開かれていた可能性が推測され幣帛を賜わった伝承と整合性もある。又、一帯が武蔵国造の乱の頃から前線への食糧供給基地として店屋(てんや=兵站)の機能が設置され集落が出来たので宇都母知神社の前身の聖地が開かれた事も判る。つまり戦乱を治め相武国境の民に安寧を齎(もたら)した天皇の平和の願いが込められた神社であり事が解かる。
後の時代の朱雀天皇が関与した頃の歴史的な背景を見ると若日下部命と名が伝承する御祭神が実は聖地として雄略天皇によって開かれた宇都母知神社の神様が実は草壁皇子の事を指す可能性も高い。
この草壁皇子=若日下部命を御祭神として祀った朱雀天皇の時代は日本国内で立て続けに内乱が勃発し国内が疲弊し中央集権による地方統治が衰退した時期だった。関東八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)では藤原氏によって坂東平氏の内紛が誘引され平将門の乱が起き、四国や山陰地方では藤原純友の乱が起きて、戦乱状態が相次いだ。朱雀天皇がこれを憂いて民百姓と国家の安寧を由緒有る延喜式内社の一つ宇都母知神社に期待した事が解かる。
朱雀天皇が御祭神として加えた若日下部命=草壁皇子は和解の象徴の神と成り得る古代天皇家の皇子だった歴史事実が有る。
飛鳥時代、中臣の藤原氏によるクーデター誘発の煽動に乗って大臣の蘇我氏の実権を奪取した天智天皇と、その天智天皇に虐げられた弟皇子の天武天皇のニ系統の天皇家が対立し軍事衝突にまで発展した。藤原氏は朝廷権力を乗っ取り天智天皇を操ろうとしたのだが、天智天皇が崩御されるとそれまで権力争いを避け避難していた天武天皇が東日本の古代豪族の軍団の支援を受けて蜂起し藤原氏と天智天皇系統から権力を奪還した。古代天皇と言う称号はこの頃まで存在しておらず、それ以前は大王(おおきみ)=大君が天皇家に対する称号だった。歴史上最初の❝天皇❞の称号を用いたのは天智天皇だが、この最初の天皇と次代天皇の兄弟間抗争の融和の象徴が草壁皇子である。草壁皇子の母君は天智天皇の姫、父君は天武天皇と両系統の近親婚で生まれた和解の象徴たる存在だった。
その事から朱雀天皇は平和の象徴である雄略天皇や草壁皇子の御神威に授かろうと恐らく飛鳥時代に日下部氏を関係を示唆する名前の草壁皇子と、更に草壁皇子と名が同じ雄略天皇の皇后の一族の日下部氏の氏神である若日下部命の御分霊を主祭神に加えた事が推測出来る。
藤原家の専横されていた朝廷と、それに歯向かった本来は天皇家の協力者である皇族から臣籍降下した坂東平氏と関東に亡命した菅原氏の連合勢力と、対立した藤原氏政権との争乱後の和解や関東地方の平安を祈願した御心痛が垣間見える。
朱雀天皇の父上の醍醐天皇と祖父の宇多天皇は藤原氏の朝廷権力の横領に心を痛め、天皇による直接政治を目指された天皇だった。朱雀天皇は藤原氏の陰謀で国内で相次いだ天皇家の協力者潰しの兵乱を鎮めるべく宇津母知神社を重要視し、そこを根拠にする皇族から臣籍降下した坂東平氏で鎮守府将軍の平良文(たいらのよしふみ)公の協力を得ようとした事も判る。そして平安時代末期に成ると朱雀天皇の父天皇の醍醐天皇の御兄弟の子孫である宇多源氏の佐々木氏は関東の平良文公の御子孫を頼り協力する。
これが裏付けられる様に朱雀天皇の先代天皇であり父君の醍醐天皇は藤原氏の専横から政権を奪還するべく活動し協力者だったのが坂東平氏や菅原道真公だったのだが、菅原道真公の一族は藤原氏の陰謀で失脚した際に多く御子息の菅原景行公や菅原敦茂公は関東に一時亡命し平氏の庇護を受けている。三男の菅原景行公は北関東に勢力を誇った嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)公や坂東平氏の平良兼(たいらのよしかね)公の居た父上茨城県桜川市真壁町に亡命し大生郷天満宮を開いた。
神奈川県横浜市港南区(旧鎌倉郡)の永谷天満宮には五男の菅原敦茂公が一時亡命していた伝承が有り、ここは坂東平氏の平良文(たいらのよしふみ)公の庇護を受けた事が解かる。
平良文公は神田明神の御祭神に成っている平将門公に協力し、その対立者だった平良兼公と源護公と対立し戦乱に発展する。これを平将門の乱と言う。丁度朱雀天皇の生きた時代の話しだ。
藤原氏は本来藤原一族が就任する権利の無い鎮守府将軍に同族の藤原秀郷公を強硬に任命して関東征服と皇族の親類であり天皇家の協力者であり政敵菅原氏の庇護者である平氏の弱体化と遺産横領を目論んだ。この宇都母知神社に祀られた若日下部命の御利益か平将門の乱は収束し更に藤原氏の専横を抑止する事に成功する。結果的に平将門公は敗死するが遺産は朱雀天皇の上意により藤原氏に横領される事は無く、又、藤原氏に組した平良兼公にも与えられず、平将門公に協力した平良文公が相続し鎮守府将軍に任命され関東で更に元皇族の坂東平氏による開拓が進み武家文化の基礎が築かれている。
余談だが平良文公が協力した平将門公は藤原氏による「平将門は❝しんのう(新皇)❞を僭称し朝廷に叛旗を翻した」との讒言で藤原政権によって討伐されたが、これは冤罪だっただろう。そもそも平将門公は元皇族の一族で有り、平将門公が治める上総国や下総国は元は総(ふさ)国=宇佐(うさ)国と言う古代の行政区分で皇族の子孫しか治める事の許されない❝親王(しんのう)❞赴任国だった。そして平将門公は曾祖父が親王の葛城親王であり祖父が❝平高望(たいらのたかもち)王❞なので❝親王(しんのう)❞の子孫であるから藤原氏よりも自分が上総介として活動する正統性を忠義を尽くす醍醐天皇や朱雀天皇に上奏したのを❝親皇❞と僭称したと藤原氏に改竄され謂(いわ)れ無き陰謀に巻き込まれ❝親皇❞を自称する逆賊として討伐されてしまった藤原氏による親天皇勢力潰しの謀略がよく解る。
もう一つ余談だが平良文公と源護公の一族の源宛(みなもとのあつる)公は平将門の乱で敵対し合戦した後に互いに認め合い、密かに関東で源氏と平氏が協力する密約を結び、これが河内源氏に引き継がれ源頼朝公と平良文公の御子孫の三浦氏、梶原氏、土肥氏、土屋氏等による鎌倉幕府開府の礎(いしずえ)に発展した。
更に余談だが、現在は藤原氏の氏神である春日大社、鹿島神宮、香取神宮の武御雷神は元々は蘇我氏の氏神であり古代邪馬台国からの功臣の家系に蘇我氏が繋がる可能性が高い。
春日大社は本来は鹿島氏の氏神で、鹿島(かしま)=しかのしま=志賀島=蘇我嶋=蘇我嶋大臣家の馬子の遺産だった事が近年の研究で明らかに成っている。蘇我氏の名から❝嶋❞と❝大臣❞の字を消し去った藤原氏は元々は❝中臣❞であり大臣より下の血筋であり更に苗字を持たない他国の王族で有った可能性が高いが、それを証明する様に大阪府羽曳野市にある初代中臣鎌足の古墳は朝鮮由来の円墳で、蘇我氏の蘇我稲目の大古墳は日本古来の方形周溝墓が発展した方墳だったりする。つまり藤原氏の祖先が渡来系だったのを蘇我氏に押し付け財産も天智天皇政権下で横領した事が考古学的に解る。
しかし、歴代天皇の願い通り藤原氏の陰謀を打ち砕き、平氏同士の内乱を鎮め源平協力体制を確立し次代の村上天皇の代で再び天皇家による朝廷権力奪還の御親政を実現した宇都母知神社は強い家内安全や争い事回避の厄除けと和解の御利益が期待出来る神社なのが歴史事実から辿れる。
そんな御利益の強い宇都母知神社なので鎌倉幕府の執権と成った北条家や、江戸時代の領主だった高木家から支援を受ける事に成る。
鎌倉幕府の第9代執権を務めた北条貞時公に信奉され社殿が改めて造営された。貞時公の父上の北条時宗公は、朝鮮人と中国人とモンゴル人による侵略の元寇から日本を守った歴史偉人でもある。
江戸時代に成ると旗本の高木正次公に信奉され支援を受けたが、この正次公があれよあれよと立身出世し旗本からとうとう大名にまで出世した人物でもある。
境内社には菅原道真公の御分霊も祀られており、学問での御利益も期待出来るが直ぐ横には慶応大学湘南藤沢キャンパスが在ったりする。
現代、15000㎡に及ぶ比較的広い境内地は風致地区指定を受け、神奈川県下の貴重な緑地と成っており御神木のみならず、周囲の木々はどれも立派な大樹で現代では寂れてしまった社殿も実は凄まじい由緒を持つ歴史の古さと聖地である事を物語っている。
他の延喜式内社同様に神仏習合時代の文化が残り、立派な鐘楼が現存している。

深見神社(延喜式内社、名将達が崇敬した神社)
深見神社の春楡(神奈川の名木100選)
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  御祭神・御本尊等:
  闇神(くらおかみ)・武御雷神・建御名方神・宇迦之御魂神
  御利益:立身出世・雨乞い・農業豊作・治水・戦勝祈願
  関係者:
  開基:闇神(くらおかみ)
  中興:雄略天皇
     征夷大将軍    源 頼朝 公
     渋谷庄領主    渋谷重国 公
     相模守護代    太田道灌 公
     相模守      北条氏康 公・・・以下歴代北条家当主
     大膳太夫     武田信玄
     徳川幕府寺社奉行 坂本重安 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:大和市深見の境川沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
源頼朝公を始め、明治時代の帝国海軍東郷平八郎元帥の御先祖様で鎌倉武士の渋谷重国公、戦国時代の関東最強の無敗の軍師で名築城家の太田道灌公、日本三大夜襲の一つ河越合戦で手勢1万1千を率いて敵の大軍上杉勢8万5千を撃破した軍略と戦国最高の内政力を誇った北条氏康公、戦と治水で古今稀な事績を残した名将武田信玄等、戦と内政の天才達から崇拝され戦勝祈願と内政で高い御利益を歴史的に証明している延喜式内社。
境内には神奈川の名木100選の一つ‟深見神社の春楡(はるにれ)”が御神木として存在する。
神(くらおかみ)と言う在地の神様がこの地を治めたのが聖地としての始まりと神社の縁起に伝わる。その後雄略天皇が社殿を造営して神社と成った。古くから存在して神社で闇神は雨乞いの神とされ、また境内社に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)も祀る事から古代からの農地開発と農業の豊穣に深い関わりが有って庶民~時代時代の権力者から崇敬を集めた。
神の龗は龍神を指し転じて水神の意味で有り、龍神は古来、雨乞いの神であり農業の神様でもある。
深見神社の縁起に記された社名由来の説明では古代、この地域に海の湾部が近在し❝深い海❞→❝ふかいうみ❞→❝ふかみ❞→深見と転化したのだろうと推測されているが、残念ながら深見神社周辺が海だった事実は無い。
深見神社の社名の由来のヒントに成る場所は玉川上水の取水堤の在る東京都羽村市に存在し、同市の田ノ上地区には古くから淵(ふち=川の深い場所=深水(ふかみ))に木製の龍を沈める雨乞い神事が行われていた事実が有る。もう一つのヒントは大山阿夫利神社の御祭神の一柱である高龗神(たかおかみ)が水神であり龗の字が龍神を指す事、この2つの事例を踏まえると深見神社の御祭神が闇(くら)い龍神である事、神社の社名が深見=ふかみ=深水に通じる事からも淵(ふち=底の見えない深水)にまつわる信仰と関係が有る事が解る。そして神社の背後には境川が存在する事からも社名の由来は龍神が住んだであろう境川の深水=深見と成るだろう。

杉山神社(延喜式内社・武蔵国六之宮・横浜市唯一の式内社)
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  御祭神・御本尊等:五十猛命(いそたけるのみこと)・大日孁命(おおひるめのむちのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大田命(おおたのみこと)  
  御利益:腫瘍治癒・皮膚病治癒・戦勝・海外渡航安全・地鎮・産業発展。
  関係者:
  開基:出雲神族の御神孫(笠原氏か?)
  中興:忌部 宿禰 勝麻呂(いんべのすくね かつまろ)公
  旧郡名:都筑郡
  所在地:横浜市西八朔・・・罰佐久の神話の地名が転訛した場所
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
主祭神に五十猛命を頂き、嘗ては産土神(うぶすながみ)=土地を開拓した神様として武蔵国一圓から参拝者が多かった神社。五十建命や父神の素戔嗚尊は疱瘡(皮膚疾患)や疫病(感染症)を治して下さる神様として古来信仰されて来た。
この神社周辺には和邇氏=丸子氏、大伴氏、弟橘姫の神話や古代豪族の土地が近在する。この神社の神は出雲神系の神様で、関東最古の大社格である埼玉県久喜市の鷲宮神社も出雲神族が土地を開発したと伝承する。神社の在る西八朔の八朔は古代に罰佐久と書かれたとされ、佐久=信州出身の出雲神族が開拓した土地で其処を朝廷に懲罰で召し上げられた事を示唆する地名由来でもある。
史実として❝武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱❞では出雲神族の笠原一族が武蔵国を治めていたが同族間抗争に古代大和朝廷が介入して和解させ、武蔵国と相模国の国境沿いである久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡が朝廷直轄地として没収された歴史が有る。都筑郡の成立がこの後で有り、横見郡の稲荷山古墳からは雄略天皇と思われる獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の銘が刻まれた鉄剣が出土している事から雄略天皇が武蔵国造の乱に軍事介入し和解させ懲罰的に相武国境を非武装地帯として召し上げ、そこに都筑郡を設置したと推測すると相模国域の神社に雄略天皇が開いた場所が多い事とも歴史的に整合性が出て来る。つまり杉山神社を開いたのは古代大和朝廷に土地を献上した笠原一族だった可能性が推測出来る。それを裏付ける様に都筑郡の西八朔杉山神社近郷のセンター南の茅ヶ崎城址周辺には大塚歳勝土遺跡等の古代の大環濠集落や方形周溝墓や横穴式墳墓が多数発掘されており早くから開発の進んだ土地だった事が解かる。更に茅ヶ崎城かの正覚寺は開基年代未詳ながら境内に神奈川県東部と東京都南部に多い大鷲神社(おおとりじんじゃ)が境内社として存在し、鷲=和邇氏との関連性も有る。隣の橘樹郡の郡衙が在った橘樹神社は倭建(ヤマトタケル)の妻の弟橘姫(オトタチバナヒメ)の遺品を埋蔵した古墳を背後に擁いているが、この弟橘姫は佐賀牟国造(横浜・川崎・東京都・埼玉県域の国主)だった穂積忍山宿禰(ほずみのおしやまのすくね)の姫だったと伝承する。つまり相模国成立以前の話しだが、大磯町の相模国二之宮川勾神社にもやはり相模国成立以前の磯長国(しながこく:西湘・伊豆・静岡県東部を併せた地域)の国造(国主)だった大鷲臣と共に穂積忍山宿禰が川勾神社を支援した伝書が伝わっている。その大鷲臣の氏神の大鷲神社と穂積氏=鈴木氏の氏神の師岡熊野神社が近郷に存在する事から杉山神社の成立が日本武尊が東征した弥生時代末期~古墳文化草創期に当たる事が解かる。
そして日本武尊は后の弟橘姫と暮らした行在所の在った三浦半島横須賀市走水で須賀社を祀っている事から出雲神族の素戔嗚尊を水神として信奉した歴史事実も有る。日本武尊の与力が水軍の大伴部氏で大伴久応黒主は日本武尊を神奈川区六角橋と横須賀市走水で接待したと伝承が残りいずれも沿岸部で古代も海だった地域であるが、六角橋近くの港北区大曾根地区に穂積氏の所縁(ゆかり)深い師岡熊野神社が現存し古来天皇家の勅願霊場として熊野権現信仰の舞台に成っていたので橘樹郡が弟橘姫と穂積忍山宿禰に所縁深く日本武尊の時代にも開けていた事が解かる。文章に罰佐久の字が登場して文献考古学的に存在を立証できるのは1200年前までだが、杉山神社の伝承と周辺の延喜式内社や神話をリンクさせると弥生時代末期~古墳時代初期の成立である事が解かる。
いずれにしても旧都筑郡だけでなく横浜市内唯一の延喜式内社であり埼玉県東京都川崎市横浜市を併せた地域で第六番目の地位を得ていた由緒ある神社で有ると言える。

柳田大明神 六所神社(式外社・相模国総社・・・古代の相模国府制定神話の神社 )
神揃山(神々が集った聖地、国府祭神事の舞台)
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  御祭神・御本尊等:相模国一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮の全ての御祭神  
  御利益:一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、五之宮平塚八幡宮の全ての御利益。
  関係者:
  開基:出雲神族の一族(関東最古の大社、鷲宮神社の伝承とも整合性有り。)
  中興:相模国歴代国司
   征夷大将軍 源 頼朝 公
   相模守   北条氏綱 公 以下歴代北条家当主
   征夷大将軍 徳川家康 公
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:六所神社・・・中郡大磯町の沿岸部東海道本線が参道をぶった切る。
  所在地:神揃山・・・大磯町国府本郷1408‐2の丘、古代の半島上。
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
❝国府祭(こうのまち)❞神事に登場する由緒有る神社。
崇神天皇の頃に出雲神族の末裔が当地に移住して来た際に、奇稲田媛の御分霊を主祭神として祀ったのが起源で当初の社名は柳田大神だった。神話では紀元前50年頃となる。
この伝承は初代相模国司が建御名方神(伊勢都彦)=諏訪神系出雲神族の御神孫とする伝承とも整合性が有る。関東最古の大社格の神社である埼玉県久喜市の鷲宮神社の伝承とも整合性が有る。
この神社一帯を開拓したのが出雲神族なのは他の延喜式内社のとも相似性が有り縄文時代の終わり~弥生時代に関東に稲作を広めたのが素戔嗚尊の御神孫で有る事良く解り、素戔嗚尊が建国したとされる須賀国の国名の須賀の二文字を含む地名が三浦~房総半島~北関東~東北南部に多く残る事とも整合性が有り、この六所神社の縁起とリンクしている。言い方を変えれば縄文時代を終わらせ農耕を広めたのは素戔嗚尊の眷属と言う事に成り、米の生産によって財産としての食料の備蓄の習慣が生まれ大規模な集落が形成され小規模国家が生まれた経緯を辿る事も出来る。出雲神族が農耕を広めた故(ゆえ)に出雲大社に神々が参集する神有月の神事が行われる様に成った事も理解が出来るのが、弥生時代以降に造営された六所神社や鷲宮神社の伝承と神事でもある。但し、地形上は紀元前50年代当時の現在の六所神社の境内地は海の底か海波に洗われる磯辺だった筈なので、現在❝国府祭(こうのまち)❞神事が行われる六所神社近所の❝神揃山❞の存在と、六所神社の異名が❝相模国総社❞で有る事、御祭神に奇稲田媛の他に一~五之宮を祀る事実を考慮すると、柳田大神と言われた頃の古代の境内地自体は神揃山だったと推測出来る。尚、神揃山周辺の住所は国府本郷なので相模国府の海老名移転以前の所在地とも考えられている。
総社だけあり、ここに御参りすると一~五之宮の御参りをしたのと同じ事に成るので、とても有り難(がた)い古社である。

前鳥神社(延喜式内社・相模国四之宮・応神天皇の皇子の莵道稚郎子が住んだ聖跡)
真土神明神社(近年建築業者に破壊され消失した真土大塚古墳:莵道稚郎子の御陵跡)
真土大塚山公園(真土大塚山古墳の偽物を模造した公園)
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  御祭神・御本尊等:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・大山咋命(おおやまくいのみこと)・日本武尊  
  御利益:交通安全(陸)・戦勝・学問向上・合格祈願・開運・適職就職
  関係者:
  開基:莵道稚郎子命(うじのわけのいらつこのみこと)・・・応神天皇の皇子、仁徳天皇の実弟。
  中興:征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:前鳥神社・・・平塚市四之宮の古代の海岸線上の、現在の河岸段丘上の微高地
  所在地:真土神明神社・・・古代の砂丘上に存在した前方後円墳を近年土建屋が破壊して造成した宅地
  所在地:真土大塚山古墳のニセモノ・・・真土神明神社の北に徒歩3分の公園
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
応神天皇の皇子である‟莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)”様が移住した場所。
前鳥神社の伝承と日本神話を考古学的に証明する真土大塚山古墳と言う古墳時代初期に造営された大古墳が、前鳥神社の1.5km西の近所に存在している。古墳からは大和朝廷の王族と緊密な繋がりを示唆する三角縁神獣鏡が発掘され国立博物館に持ち去られ収蔵されている。この銅鏡の存在からも莵道稚郎子命の御陵とされる伝承とも合致している。又、日本武尊が当地に滞在したのの伝承も有る事から、日本武尊(ヤマトタケル=倭建)と言う神号は一人の古代の王族に対して用いたものではなく征夷大将軍の様な古代の官途名に当たる神号であり古代の四道将軍成立以前の大将軍を務めた複数人の皇族将軍を1人の神格として習合している事も示唆される。
莵道稚郎子命は日本で最初に大陸由来の漢学や工業技術を学んだ実在した皇族の歴史偉人で、更には摂社に菅原道真公も御祭する事から前鳥神社は古くから学問の神様としても有名。現代では合格祈願に来る学生も多い。
源頼朝公が北条政子様からの崇敬も有り、戦国時代初期には北条早雲公と北条氏綱公の父子の名将が前鳥神社の宮司家の支持を受け、当時戦略家の名将として有名だった三浦道寸公の居城を岡崎城を落城させ三浦家を三浦半島の油壷マリンパークの半島に存在した新井城まで追い詰め勝利した歴史が有る事から勝負運向上の戦勝祈願や合格祈願の御利益も期待出来る。

冠大明神 比々多神社(延喜式内社・相模国三之宮・古代遺跡に囲まれた聖地)
比々多神社元宮(戦国時代の戦火で焼失した元の神殿が在った場所)
埒免古墳(建設業者に破壊された古代豪族古墳で旧境内の聖地)

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  御祭神・御本尊等:豊斟渟尊(とよくむぬしのみこと:豊国主命)・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)・稚日女尊(わけひるめのみこと)・日本武尊・大酒解神(おおさけとけのかみ:大山祇大神)と小酒解神(こさけとけのかみ:木花之佐久夜毘売)の父子神。  
  御利益:子宝・縁結び・子孫繁栄・地鎮・戦勝・酒造業繁栄・服飾業繁栄・交通安全(陸)・
  関係者:
  開基:神武天皇
  中興:崇神天皇
          垂仁天皇
          持統天皇
          孝徳天皇
          聖武天皇
          淳和天皇
          相模国司  布施 色布知 公
          初代宮司  紀     益麿 公          
          相模国司  橘     峯嗣 公                      
          征夷大将軍 源  頼朝 公
          相模守護  三浦 道寸 公
          征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:伊勢原市三ノ宮1472番地周辺の高速道路~丘一体全て旧境内地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
比々多神社の縁起にある歴代天皇から信奉された逸話を証明するかの様に、神社の周辺のみならず旧本殿の在った場所や境内からも縄文〜奈良時代の遺跡や古墳が大量に発掘されている周辺地域を含めて文化的歴史的にも重要な神社。
古代より天皇家や将軍家から信奉され、背後に控える大山と大山阿夫利神社を信仰対象とした古代人の聖地を引き継いでいる神社。
また管轄する神社に関東で子宝安産の神様として有名な子易神社の本家本元を抱えている。
源頼朝公と北条政子様が御夫妻で子宝安産祈願をして成就した御利益が有る。そして関東の古豪名門武士団の三浦家からも崇敬された。由緒有り歴史的価値に富む神社。
裏山のミカン畑の中の古代社殿跡の元宮でだが、そこに至るまでの広大な範囲が旧境内地。
元宮に至るまでの広大な土地は前政府の宗教政策と太平洋戦争の敗戦時の宗教政策で土地が接収された。
元宮に祀られる祠も自由に御参り出来る。元宮に行く途中の恵泉女子短大園芸生活科伊勢原校舎は古代の比々多神社境内地で埒免(らちめん:埒=防護壁、免=面=削平地・・・壁で囲まれた聖域)の名で呼ばれた聖域だったが、神奈川県教育委員会がその重要性を無視したまま発掘調査を怠ったばかりか恵泉女子短大伊勢原校舎建設時にも事前調査を行わず、結果的に発掘中に古墳が破壊され土木作業者によって多くの出土物が略奪された。しかし一部は義挙した比々多神社宮司家と氏子衆によって作業者から買い戻され、比々多神社内に併設された郷土資料館に保管展示される事となった。
併設されている郷土資料館では、古墳群から出土した宝剣等を見学出来ます。

川勾神社(延喜式内社・相模国二之宮)・・・古代天皇~明治元勲にも大切にされた古社
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  御祭神・御本尊等:大名貴命(おおなむじのみこと)・大物忌命(おおものいみのみこと)・級津彦命(しなつひこのみこと)・級津媛命(しなつひめのみこと)・衣通姫命(そとほりひめのみこと)  
  御利益:安産・地鎮・技術振興・自然災害除け・農業豊穣
  関係者:
  開基:垂仁天皇=活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
     磯長国国宰 阿屋葉造(あやはのみやつこ)・・・垂仁天皇の勅命で社殿造営。
  中興:日本武尊
     依通姫
     磯長国造   大鷲臣命(おおわしのおみ/おおとりのおみのみこと)=和珥(丸邇)氏=丸子氏
     相模国造   穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)=鈴木氏
     鎮守府将軍  源  義家 公
     征夷大将軍  源  頼朝 公
     征夷大将軍  宗尊   親王
     相模守    北条 氏政 公
     征夷大将軍  徳川 家康 公 以下歴代徳川家当主
     初代総理大臣 伊藤 博文 公
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:中郡二宮町の内陸部の丘
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国東部)国が分割されて、磯長(伊豆と相模西部)国も伊豆と相模西部に分割され、相模国東西が合併する際に、新設される国の国府=一之宮の座を佐賀牟国側の寒川神社と磯長国側の川勾神社が争ったと思われる神話が残る。これが神奈川県で行われる国府祭(こうのまち)と言う無形文化財の伝統神事に成っていて、一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮までが神揃山に集まり論戦をする内容に成っている。
日本武尊を初め多くの古代からの支援者の名が伝わり、依通姫が安産祈願を川勾神社で行った伝承から、現在では広く安産の御利益で知られる神社と成っている。源頼朝公も妻君北条政子の出産の際に安産祈願を行い成就した事から社殿を造営寄進している。
上杉謙信と武田信玄の小田原侵攻時に放火され焼失、武田信玄との三増峠合戦が起きた1569年の翌年、北条氏政公によって社殿が再建された。徳川家康公も名護屋駐留前に祈祷を受けて、朝鮮出兵せずに済んでいる。明治時代には伊藤博文公等の参詣を賜わり直額に揮毫を頂いている。
宮司家は代々二宮家で、二宮一族は旧北条家臣団であり江戸時代の子孫に二宮尊徳もいる。同じく旧北条家臣で黄備え隊玉縄衆副将の間宮康俊を輩出した間宮家は合戦以外に外交・築城・修験道に通じた一族だが室町時代に間宮家から二宮家には養子が入っている事が間宮家関連の文献から辿れる。
歴史事実から厄除け、安産祈願の神社として特に強い御利益が期待出来る。

寒川神社(延喜式内社・相模国一之宮)・・・古代の追儺神事を行う大社
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寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
  御祭神・御本尊等:寒川比古命と寒川比女命の夫婦神  
  御利益:八方除け(災厄避け・交通事故除け)・縁結び・夫婦円満・芸事上達・TV視聴率向上
  関係者:
  開基:寒川比古命・寒川比女命
  中興:雄略天皇
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公・・・以下歴代北条家当主
     大膳太夫  武田 信玄 
  旧郡名:高座郡
  所在地:高座郡寒川町、古代の海岸線沿いの微高地
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歴史概要】
相模国十三座の内で早々朝廷から官位を与えられた3座の内の1座で、相模国の一之宮の格式を持つ。
追儺祭と言う神事が毎年1月2日に行われるが、現代の神道では仏教の様式の影響を受けた追儺祭を行う場所が多い中で、この寒川神社や京都の上賀茂神社等の生粋の古社は古代からの様式を継承しており境内に在る湧水池の水を夜中に神職が採取して神前に供える事で清前(きよさき=御神水)にした後に、境内の四方八方に清前を撒いて清める。
古代に一之宮にも定められた格式から朝廷や多くの武将に重視され雄略天皇を初め、源頼朝公や北条家歴代当主、武田信玄等から崇敬を集めた。
現代ではTV関係者の崇敬厚く、崇敬すると高視聴率が得られるとされ芸能人も多く信奉している。
又、長い参道は蛇行しており、古代の相模川河畔にそって参道が設置されていた名残と伝承しているが、実は丁度縄文時代の海岸線がこれに当たる。寒川神社が有る場所の目の前の相模川下流域は古代に海だった。一之宮だった歴史と大和朝廷に重視された八方除けの御利益は、日本武尊を幾度も戦場で守った天石楯を御神体として始まった石楯尾神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。
現在の社殿は平成に成って建て替えられた物だが、他の一般的な神社とは比較にならない規模を有している。現代の氏子衆の努力によって供出される資金力も豊富だが、崇敬した歴史偉人達も名将揃い。

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