歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:建築遺産

司馬遼太郎先生も"街道をゆく"シリーズの"三浦半島編"で紹介した横須賀市の料亭、小松が焼失してしまった・・・
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※[ココ]クリックでニュースにリンク

幕末の戊辰戦争~明治に起きた日本最後の内戦西南戦争の動乱と敵味方の確執を越え、明治時代に海軍将校と成って協力した薩摩国島津家臣出身の東郷平八郎元帥や徳川親藩の伊予国久松家松山藩藩士出身の秋山真之参謀、會津藩出身の柴五郎中佐、西郷ドンの御息子の西郷菊次郎台湾宜蘭庁長等、それ等の日本や周辺国をロシア帝国による白人の植民地化から守った偉人達の内、海軍サン達が愛した店だ。
海軍は明治の元勲同様に料亭小松に通った井上成美サン始め諸将が、太平洋戦争開戦や中華民国との戦争にも外務省と連携し慎重だった事でも有名だ。
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もっとも、中華民国自体は尼港事件や三光作戦で日本人を含めた現地ロシア人や中国人を無差別虐殺して自滅する訳だが、それは又、別の話し。
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※写真は臺灣台北市の中正紀記念堂
奇しくも尼港事件でロシア共産主義者とソレに荷担する朝鮮兵と中華民国兵による、ロシア帝国国民と日本人への無差別虐殺を阻止すべく援軍に向かうはずだったのが東郷平八郎元帥が嘗(かつ)て乗艦した、三笠だった。
因(ちな)みに当時の中華民国国民党は既に孫文先生の実権が軍閥の袁世凱に乗っ取られ別物に成っていた。もはや民主化や近代化を目指した孫文先生のソレとは似ても似つかない政権だった訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし

※写真は南京市に在る孫文先生の御廟所、中山陵
残念ながら三笠は流氷に阻まれ尼港に辿り着けず日本人は全て無惨にロシア共産主義者テロリストと朝鮮兵、中華民国兵に虐殺され、女は犯されてから同じく全て殺された。日本人は文字通り一人も残さず殺され、尼港は町ごと廃墟に成った歴史を知る人は現在では余りいない。
この事件は法治主義教育の大切さや右派左派問わずテロリストはテロリストと学ぶ事例でもある。
孫文先生の理念を引く継ぐ現在の台湾には、小生も多くの友人がいるが袁世凱の中華民国と違い皆さんも御存知の通り親日家が多く日本の漫画や居酒屋が多い。
つまり、人種よりも教育によって人間は残虐にも成ってしまうし逆に文化交流と同じく教育によって親しくも成れると言う事が中華民国の歴史を見ると良く解る。
そして、自国も自己主張をしないと、誤った歴史観を拡散されてしまったり相手の問題点を指摘する事も出来ないと言う日本人と日本政府の問題点も、台湾や幕末の偉人~東郷元帥や明治の元勲の歴史を通して見る事が出来る。
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因みに三笠は現在、アメリカやイギリスの支援も在り世界三大記念艦として、今回火事で消失した料亭小松の近くに在る三笠公園に展示公開されている。

話を小松や、明治~昭和初期の建築遺産の料亭の話題に戻そう・・・
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残る海軍料亭は今回燃えた小松を含め三軒、残る二軒は横浜市神奈川区旧東海道神奈川宿の田中家と横浜市金沢区の金沢園。
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その内、今回の小松と横浜市金沢区の金沢園は建物自体が重文指定するべき程に価値が有るものだった。
田中家近景

現在の田中家↑と幕末の↓田中家
東海道五十三次 神奈川宿 田中家

※「さくらや」と書いて有る店が田中家の前身の旅籠
田中家は坂本龍馬夫人お龍サンが未亡人に成ってから暫く働いていた店として有名だが、先日ブラタモリで店が紹介された際は、その歴史は紹介されなかった。

今回の小松の火事の事で明治時代の横須賀の歴史がクローズアップされたが、実は、お龍サンの御廟所が横須賀市に有る事を知る人は現代では少ない。
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お龍サンは、横須賀市大津に在る信楽寺(しんぎょうじ)で眠っている。
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お龍サンの亡夫:坂本龍馬サンの祖先は明智光秀の縁者と龍馬サンは自称していたそうだ、だから苗字も琵琶湖の畔(ほとり)に存在した明智家居城の坂本城の地名を冠しているのだろう。
その龍馬先生の妻君、龍子夫人が、明智家所縁の地名近江国の信楽(しがらき)や大津と類似した地名の地横須賀市大津で終焉を迎え現在も眠っているのは、坂本龍馬サンとの因縁を感じられずにはいられない。

右翼は戦史を敗戦の原因までも美化する阿呆が多いが、逆に糞左翼は良い歴史や尊敬すべき先人や歴史文化財までもタリバンがカシミール遺跡を破壊したのと同じ様に敵視し阻害し否定する。

・・・今回の小松の火災が愚かな共産主義者過激派や社会主義のキチガイ、反日朝鮮人過激派や反日中国人過激派による放火が原因で無いと信じたい。

建築文化財も歴史遺産も認識出来ない様な奴は、文化も文治も文民も語る権利は無いと知れ。

料亭小松は、そんな深い日本や周辺国の歴史の明暗や半ばの朝夕の美しさを省みる事の出来る場所であり、建築文化財だった。

再建を祈る。
・・・と、同時に横浜市金沢区の金沢園の重要文化財指定を切に願う。
金沢園も美しい内装の昭和建築遺産だ。

数週間くらいの期間に成ると思いますが、しばらく間宮家と寄親の玉縄北条家の顕彰活動、それと熊本支援の活動に専念するので休日雑記は途絶えると思います。
しかしながら、川越市や東京江東区越中島とに出向く用事は有るので、もしかしたら、その休日雑記は書くかも。でも人との面会が主要目的だから記事にしようが無いかな?
もっとも、解説記事は時間に余裕有る時に書きますので(記事ネタのリザーブ大量に有る)ので、PCさえ持って行けばどこでも更新します。

そんな訳で、多分、しばらく書かない休日雑記ですが・・・

水曜日の休日雑記。
この日は鶴岡文庫(鶴岡八幡宮の図書資料室)や金沢文庫博物館の資料閲覧に行く用事が有って、金沢の風景も眺めたくなり少し遠回りして丘の上を走った。
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この金沢の丘からの眺めが大好きだ。

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特に秋の称名寺の裏、金沢城址の稲荷山から眺める六浦湾は秀逸。

そこから金沢文庫博物館に向かう前に気に成り行ってみたいと思った料亭金沢園の写真を撮りに立ち寄る。
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昭和5年以来の伝統建築。...
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でも営業しておらず昼食とれなかった。
ぐるなびとかで、心無い書き込みを書いたクズがいるが、ここは建物その物が文化財級の昭和建築で素晴らしい。
そしてランチタイムには小柴の名物アナゴ丼が食べられる良い場所だったのに…
公式ホームページリンクは「ココ」←クリック!
残念な気持ちのまま、金沢文庫に移動。
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金沢文庫博物館と鎌倉の鶴岡文庫では色々と相談し、学芸員サンと司書サンの研究成果を御教授頂いた上、小生の情報と照らし合わせて少し解った事が有った。
ほんの少し源義家公の伝承の検証が前進・・・
これで御世話に成っている東京の八幡宮の禰宜サンの助けにも成れるかも知れない。
実際に鎌倉古道をいつか岩手県まで自分で歩いた方が、より収穫が有りそうだ。
何泊かかって、経費はいくらかかるんだろう?
しかし八幡大菩薩を信仰した玉縄北条家の北条綱成公と北条氏繁公、その与力の間宮康俊公の顕彰をするには源義家公の足跡を辿る事も必要な事かな…
これもライフラークに成りそうだ。

帰路
昼食と夕飯を兼ねて江戸文化のファストフード、握り寿司をチャチャッと食べて帰宅。
おしどり寿司で食事。
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この日は北条家所縁の「小田原三昧」と言うのがあったので、それを先ず頂いた。美味いなぁ~♪
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あと、本マグロの極上大トロ。
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好物の卵とイカ三昧と海苔汁。
御馳走様でした。いつもながら美味しかったです。

あ~!
調べ物多すぎて、無駄に体デカくても体が一つじゃ足りないし1日24時間じゃ足りないよ…
もっと効率よく動かなければ。
その為にはより多くの知識を抱え込んで、点を線で繋いで動く情報の関連付けをもっともっと高めなければ。

ブログネタ
「夏の終わり」感じるのはどんなとき? に参加中!
横浜市金沢区の野島公園は、キャンプ場が有り夏はBBQで一家団欒を楽しむ家族連れや、近隣の大学生グループで賑わいます…
眼前には金沢八景島シーパラダイスがあり「海の公園」側やこの野島公園で潮干狩りをする人達も多くいます。
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実はこの野島公園が、江戸時代に徳川家康公の十男で、紀伊徳川家の初代藩主徳川頼宣公の別荘が在った場所だったり…
初代総理大臣の伊藤博文公の別宅があったり…
大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所であった事を知る人は今では少なく成ってしまいました。
また、太平洋戦争時の末期には隣接する横須賀市に横須賀鎮守府があった関連で現在の日産自動車工場追浜工場には横須賀海軍飛行場があり、野島には零式艦上戦闘機の防空格納基地が建設されました。

※その辺りの情報は以前の記事で紹介したので以下にリンクを貼ります。
●野島の零戦格納庫の記事は「ココ 」←クリック!

大きくは無い島で、現在はレジャーの島に成っていますが、こんな狭い面積に沢山の重要な歴史が詰まった場所なんです。
今回は夏も終わりに近づき、御抹茶を頂きながら海辺の夕涼みが出来る場所として、又、日本が法治主義国家を歩みだした、その場所としての伊藤博文公別邸を紹介したいと思います。

小中学生の残り少なく成った夏休みの自由研究宿題のテーマとしても役に立てるかな~と思います。
この施設や野島内の周辺史跡を見学して写真を撮影し、野島の歴史自由研究として時代と説明文を原稿用紙に書き、そこにプリントアウトした写真を貼れば十分、提出に十分足(た)る内容になるんじゃないかと思います。

では…
キャンプ場と反対側に閑静な松林が在ります。
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小生が子供の頃は、まだ眼前の八景島は無く、この豊穣な海では海苔の養殖が盛んに行われ、特産品の海鼠(なまこ)や小柴のシャコが沢山獲れました。
その横、駐車場の目の前の牡丹園と古民家が伊藤博文公の金沢別邸です。
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この伊藤公別邸は無料で拝観できます。
入口の係員の方に、抹茶を飲みたい事を伝えると客間で抹茶を頂けます。
御茶の料金は乾菓子のセットは300円、茶菓子のセットは500円で頂けます。
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小生は、この日は御乾菓子を頂きました。

さて、建物を解説します。
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建物自体は昭和まで良く見かけた、明治~大正期の日本建築で、入口からは解りませんが結構な奥行が有ります。
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この玄関、昭和生まれ世代は結構多くの人が御婆ちゃんの家を思い出すんじゃないでしょうか(笑)。
まぁ、実際、ここには明治~大正時代に伊藤家の御一家や、その後も管理人さんがいらっしゃったから生活感有って当たり前ですよね。
とは言いつつも、ここは一回老朽化で解体修理され復元再建された建築遺産でもあります。

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中には、各部屋や歴史の詳細な説明も個々に展示されています。
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玄関を入ると、純和風の廊下の両脇に、客室用の雪隠(せっちん=トイレ)や炊事場(すいじば=キッチン)が在ります。
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その廊下からは中庭が覗けます。
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素敵な小庭ですね。
昔の少し立派な日本家屋は京都の京町屋と呼ばれる様式でもそうですが、この様な中庭を作る事で風の吹き抜ける通り道を作り、エアコンの無かった時代に自然の力で十分に涼む仕組みが設けられていたんですね。
中庭の右手に見える配管は、浴室から延びる煙突です…
実はこの煙突も明治時代には画期的な仕組みの一部なのですが、その説明は又後で。
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これが炊事場の写真です。
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明治時代の炊事場ですが、江戸時代の炊事場と余り機能的に変わりは無いですね…
まだまだ井戸水を汲み上げて飲料水にし、薪と炭で煮炊きし料理を作っていたようです。
…当時の使用人さん達は大変だったでしょうね~。
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それでも台所の外側の土間(どま=土足で行動出来る部屋)に、この家専用の井戸が有るだけ、別の庶民の家より重宝した事でしょう。

で、反対側の客間用の雪隠(せっちん=トイレ)へ…
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これも又、江戸時代の御城に有るトイレと余り変わらない木製の和式で、この状態からトイレの文化は近代に急速に発展した事が良く解ります。
大(笑)
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小(笑)
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小生、ここに来るまで知らなかったのですが…
トイレは和名では2種類に分類されるそうで、時代劇や老人が雪隠や厠(かわや)と呼ぶのは、実はトイレのタイプによって区別が有るそうです。
こんな感じ…
雪隠(せっちん)…ボットン便所、汲み取り式で人糞を肥料に再利用出来る様にトイレ下に穴が掘られている。
厠(かわや)   …水洗トイレ、川の水流を利用したトイレ。
…川の小屋のトイレだから、略して川の小屋=かわや=厠なんですね。

さて、客間です。
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この写真では余り解りませんが、眼前には海が広がり当時は金沢八景と称され、江戸時代に歌川広重が浮世絵に描いた程の景勝地でした。
水戸徳川家の黄門様こと水戸光圀公が明の禅僧の東皐心越(とうこうしんえつ)和尚を御連れして、この一帯の風景を遊覧された程でした。

この客間の入口からも中庭が見えます。
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反対側から見る中庭はさっきと様子が少し違います。
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さっきの煙突、実は浴室から延びています。
客間からも居間からもすぐに浴室に行ける便利な構造に成っていますね。
そして風呂場が中庭に面していると言う事は、入浴中、涼しい爽やかな風が吹き込んできたんでしょうね~。
流れで浴室を紹介しましょう。
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この浴室の壁は人口の御影石で出来ています。
昭和期まで、日本家屋に多く見かけられた人工石ですね。コンクリートより高級感が有ります。
さて、さっきの煙突の正体ですが…
右側から延びる配管が、浴槽の中に入って行ってますよね?
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実はコレ!明治時代には画期的だった湯沸かし器の構造物なんです!
当時は庶民の家では五右衛門風呂が主流で、直接、竈(かまど)の上にでっかい鍋みたいな風呂を置いて直に火力で御湯を温めましたが、この機能はボイラーの熱を配管で送り浴槽内の御湯を温める仕組みなので、火傷する心配が有りません。
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そして温泉の様に檜風呂で入浴出来る画期的な構造な訳です。
現代のガス式風呂釜湯沸かし器に通じる構造ですね。
この配管を伝う熱源の排煙をするのが、先程の中庭の煙突と言う訳です。

さて、客間に戻ります。
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御茶はこの客間で頂けるのですが、ここからの眺望は凄く素敵で、小生はたまにここにノンビリと頭をリセットしに来させて頂いています。
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繰り返しに成りますが、目の前が海。
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ここで御茶を飲んでゆっくり…いいでしょう?

昔の家らしく、縁側も有ります。
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平成世代は余り見た事が無いかも知れませんね。
昔の人は、こういう縁側でゆっくりと贅沢な時間を日常的に過ごしたもんなんですよ。

この金沢別邸には伊藤公の私室も当然有ります。
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意外かも知れませんが、居間は広くはなく、普通の家と余り変わらない大きさです。
伊藤公は賭け事が大嫌いな性格だったそうで、個人でいる時は余り華美な生活を好まれなかった様ですね。
公人として西洋式の華やかな生活を送らなければいけないので、普段は落ち着きたかったのかも知れませんね~。
この居間側にも裏口があり、そこからも庭に出られます。
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御庭から見た客間越しの金沢の海。
御庭は牡丹園の名前で同じく無料公開されています。
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牡丹園側から見た、居間の様子。
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庭には綺麗な花が咲いていました。
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こちらの牡丹園側の入口、つまり勝手口が下の写真です。
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意外かも知れませんが実は伊藤博文公、外戚閔妃派と日本政府の関わりで伊藤博文公のイメージを悪く混同されていますが…
韓国初代大統領の李承曉のロビー活動による結果で、悪いイメージを持つ韓国人も多くなっています。
しかし実は朝鮮王室との関係は極めて良好でした
ですので、、朝鮮の最後の皇太子李垠殿下も御滞在された場所でもあります。
李垠殿下も伊藤公の私邸へ度々(たびたび)御宿泊され金沢八景の風景を楽しみ遊覧される程に信頼関係が深かった訳です。
余談ですが、戦時中も日本の太平洋戦争終結後の無条件降伏時も李垠殿下は日本でちゃんと王族として保護されていました。終戦後に奥方と韓国に帰国しようとした所、李垠殿下御夫妻の韓国復帰を阻止したのが、朝鮮王室復興による失脚を恐れた李承晩だった事を多くの韓国人は知りません。
親日派だった朴正煕大統領に成って、漸(ようや)く李垠殿下御夫妻は韓国に帰国出来ました。
つまり、李承晩自身が知日派の李垠殿下に帰国されると非常に困る事情が有った訳ですね。
李承晩がいなければ、併合後に朝鮮王室を李垠殿下が復興し、現在の日本の天皇家と復興した朝鮮王朝で友好的な王室外交が成されていたはずなんです。
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野島の眼前には、野島と同じく伊藤公が大日本帝国憲法草案をまとめた場所の一つである夏島が見えます。
その夏島の前にあるのが、旧海軍飛行場、現在の日産自動車追浜工場です。

ここ野島は日本の近代化や法治主義化の礎と成った舞台でも有り、良くも悪くも、両方の歴史を伝える歴史遺産群が密集した場所でもあるんですね。
先人の苦労と同時に、明治政府樹立による法治主義の開始や鎖国からの脱却の重要性や、防衛戦争の必要性と、戦争の負の側面も考えさせてくれる場所であり、そして又、前政権徳川家の紀州藩別邸跡の有った場所であり徳川家が御参りした野島稲荷神社が現存し…
金沢八景の一つであり文化醸成地だった、横浜市民のみならず日本国民にとっても大切な場所と言えます。

夏も終わりですね…
皆さん、体調を崩されませんように。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

ブログネタ
風景写真 に参加中!
横浜市は余所(よそ)の地域の人から見ると「みなと未来21地区」や「中華街」や「山下公園」や「外人居留地」のイメージくらいしか無いそうですが…

とんでもない!
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里山に囲まれた素敵な古民家の御庭でしょ?
これ、昔は鎌倉郡だった横浜市栄区の鍛冶ヶ谷と言う地域にある「旧小岩井家住宅」です。
小岩井家は元々は、この地域の庄屋(しょうや=村長)さんだった御宅なので、その邸宅は茅葺屋根の立派な造りの古民家です。

何だか田舎の御婆ちゃん家に来たみたいでしょ?
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…もっとも、貴方(あなたの)の祖父母の住む家がこんなに立派な茅葺屋根の家だったら、そりゃもう大金持ちですね(笑)。
何故なら家の作りの立派さもさることながら…
茅葺(かやぶき)屋根の家は、藁葺(わらぶき)屋根の家と異なり大変に高価なんですよ。
屋根を葺(ふ)き替(か)えるだけで4000万円以上かかると言われています。
更に庄屋様の御宅ともなると平屋の入り母屋(おもや)作りなので、かなり大きな母屋と若夫婦の住む別棟の離れが有ったりします。

この素敵な古民家…
実は無料公開されているばかりか、「本郷ふじやま公園」と言う緑地公園の一部なんです。

ですから…

「あれ?昭和初期に来たのかな?」とタイムスリップをした錯覚さえしそうな風景が庭先には広がっています。
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ヨコハマの子供たちが丸で「カッペ(笑)」の様にのびのび元気に遊んでいます。
横浜市は「里山思想」に基づいた都市計画がなされており、どんなに市街の中心地にいっても必ず、この様な里山が保存されているんですね。
ただし、その里山が必ず文化的に大切な場所とは限りませんが。

ここでは少し昔まで日本中にあった風景を垣間見れます。
昔の家の土間(床が靴履いて歩く屋内)の炊事場(キッチン)とか…
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一般人用の玄関入ってから靴脱ぐ土間とか…
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今じゃ少なくなった縁側とか…。
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本当、懐かしいな~。

離れもあるので、何だか昔の農村を訪ねて来たような雰囲気です。
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立派ですよね~?
お正月はここで餅つき大会も行われますし、春には凄く立派な桜の木に花が咲き誇ります。
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この下の写真は長屋門と言います。
長屋門は江戸時代、ある程度の格式の有る家にしか造る事が認められなかった建物です。

もうこれ、古民家好きにはヨダレだらだら出るくらい堪らないんじゃないかな(笑)?
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御屋敷と呼ぶのが相応(ふさわ)しい外観ですね。
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さて、ここからが歴史的な話題の本題部分です。

以下、文章だらけですが、歴史好きと特に横浜市栄区民にとっては読む意味が有ると思うので、どうぞお付き合いください!

この旧小岩井家が治めた地域は鍛冶ヶ谷村でした。
今のJR京浜東北線本郷台駅から少し離れた鍛冶ヶ谷地区一帯ですね。
その鍛冶ヶ谷を中心としていくつかの村が明治時代に合併され「本郷村」が設置されました。
それが本郷台の地名の由来ですね。

鍛冶ヶ谷はその名の通り、武具製造の鍛冶職人が昔から住む地域でした。
どれくらい昔かと言うと…
恐らくは平安時代中期です。

この鍛冶ヶ谷の付近には古代から武具製造や蹈鞴(タタラ)製鉄に関わる地域が多数有りました
その名残は今も地名に残っています。
…港南区の"日野"→日野=火野…この地域は実際、鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が建設した野庭城と言う御城もありましたが、お隣の上郷には平安時代より更に古い奈良時代からのタタラ製鉄の遺跡が発見されています。
そして隣の金沢区にはそのまま金沢の地名と釜利谷と言う地域もあり、いずれも製鉄に関わる地名です。
西暦110年頃には日本武尊が鎌倉の先ある三浦半島に遠征して来ているので、この一帯は早くから開けていたようです。

さて…
鍛冶ヶ谷一帯に話題を戻します。
実はこの鍛冶ヶ谷一帯、小生は関東人が軍神と崇(あが)める平安時代の名将、陸奥守(むつのかみ)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を歴任した関東の武士団の棟梁、源朝臣(みなもとのあそん)八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公の兵站(へいたん=補給基地)だったと推測しています

因みに源義家公は鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公の4代前の祖先です。

何故(なぜ)、鍛冶ヶ谷一帯が義家公の兵站だったと推測するかと言うと、旧鎌倉郡村岡郷=現藤沢市村岡の村岡城を拠点にした、鎮守府将軍の平良文公は源苑(みなもとのあつる)と一騎打ちの後に盟友となり共に源氏と平氏は関東の発展に協力し尽力する事を約束しあいました。
※平良文公に関する過去の記事は「ココ 」←クリック!

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(軍神と言われた源義家公)

その平氏と源氏の盟約を体現する様に、後に源義家公が前九年後三年の役に出征すると、坂東平氏はこぞってその幕下(ばくか=組織に入る)に入り協力します。
その時に鎌倉御家人の祖となる二人の名将が参陣しています。
一人目は鎌倉景政公…関東では御霊神社の祭神として信仰されています。
二人目は三浦為継公…御子孫には鎌倉御家人の三浦氏や和田氏、戦国大名芦名氏や正木氏や三浦氏がいます。
※三浦為継公に関する過去記事は「ココ 」←クリック! 

実はこの二人は従弟同士で、更に平良文公の子孫です。
つまり良文公以来の源家との盟約が履行されていた訳です。
この時、平家側は義家公に対し、居住地等を提供しています。
その場所が今の鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)地区にある「亀ヶ谷(かめがやつ)にある寿福寺」のある場所
とその一帯なんですね。
亀ヶ谷は狭い地域です。
源頼朝公が鎌倉幕府を開く以前、実はこの父祖の故地(こち=ゆかりの土地)である亀ヶ谷に幕府を開こうとしたのですが、狭すぎて御家人達から反対され、やむを得ず鶴岡八幡宮の東側の大蔵地区に大蔵幕府を開いたなんてエピソードがある位なんです。
ですから鍛冶ヶ谷では軍隊の物資補給や武具補修の職人集団や商人を住ませる町形成はままならないんですね。
その亀ヶ谷から徒歩でも行ける距離には、現在でも源義家公と関連の有る地名や施設名が溢(あふ)れかえっているんですね。

亀ヶ谷の有る場所から現在の北鎌倉は歩いて15分程の距離ですが、その北鎌倉から20分位歩くと鍛冶ヶ谷の最寄駅の本郷台地区に至ります。
この鍛冶ヶ谷を含めた本郷台地区には、「河内」と「公田」と言う地名の場所が有ります。
河内とは大阪市の東部にあった国の名前です。
何故、唐突にこの地名が旧鎌倉郡、現横浜市栄区に出て来るんでしょうか?

実は源義家公以来、関東武家の盟主(めいしゅ=主従ではない協力関係のリーダー)としての立場を築きますが、この義家公の家の「源家」は源家の中でも河内源氏と呼ばれた今の大阪府羽曳野(はびきの)市を本拠地とした一族なんです。
そして、その羽曳野市の有る場所は、昔は「河内国」と国名を呼ばれた地域なんですね。
恐らく、亀ヶ谷に住んで居た義家公の荘園だったから河内の地名が横浜市栄区に残っているんでしょうね。

更に「公田」の意味ですが…
公方(くぼう=将軍)様+田畑…公方様の田畑…公方の田…公田となる
訳です。
この栄区本郷台の「公田地区」と「河内地区」は隣合わせの位置です。
そして更にその隣にあるのが鍛冶ヶ谷です。
つまり、町形成の不可能な亀ヶ谷に住む義家公は、公田一帯に生活用の食糧補給の荘園を坂東平家の武士から提供されており、武器を鍛冶ヶ谷で補給していたのだと考えるのが自然なんです。
港南区の日野や栄区上郷地区のタタラ製鉄所で製造された鉄で、隣村の鍛冶ヶ谷の鍛冶職人が義家公率いる源氏軍の武具補給補修を担っていたんでしょう。

ここから源氏と与力の平氏や菅原氏や橘氏や丸子氏が出撃して清原氏や藤原氏との死闘を演じたんですね…
その前九年後三年の役や関東の武士団の繋がりの話は過去に「永谷天満宮」の記事でも触れていますので、ご興味ああれば御覧下さい。
※永谷天満宮と菅原氏と平氏の関係に関する記事は「ココ 」←クリック!

余談ですが、鎌倉市は現在でも伝わる有名な刀鍛冶のブランドが有ります。
以前の記事で紹介した名刀「正宗」の工房ですね。
※過去の関連記事「ココ 」←クリック!

今回は八幡太郎義家公の話に話題を広げる事で、たまたま大阪府と神奈川県の関連に話が及びましたが、実は神奈川県は古代から大阪府と京都府と御縁があり、御互いの土地は本来は兄弟の様な協力関係にあったんです…
ま、その噺(はなし)は又、気が向いたらします(笑)。

今回も長くなってしまいましたね。
でも今は新興住宅地の本郷台も、鎮守府将軍様の根拠地だったかもしれないと言う、失われた歴史と誇りを皆さんに再認識して頂ければ幸(さいわい)です。

ではでは…又、次の記事でお会いしょましょう!

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