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タグ:建長寺

毎日新聞記事 日中国交正常化45執念記念鑑真東渡
毎日新聞記事:[鑑真東渡]・・・日中国交正常化45周年記念オペラ
日中国交正常化45周年を記念した中国のオペラ「鑑真東渡(とうと)」日本公演(中日友好協会・江蘇省人民政府主催、ポラリス・毎日新聞社協力)が5日、東京都渋谷区のBunkamuraオーチャードホールで初日を迎えた。約1800人の観客は、苦難の末、日本に渡り戒律を伝えた鑑真和上の生涯を描いた叙情詩を楽しんだ。
    ↑  
小生はこの記事を読んで中国共産党に対して非常に憤りを覚えた。
鑑真和尚は日本の仏教文化のもたらした建築技術向上や精神教育や学問の発展に寄与して下さった偉人である。
小生の個人的な感覚から、その鑑真和尚を中華人民共和国の中国共産党が日中友好の題材にする事は非常に‟違和感と憤り”しか感じない。

鑑真和尚様は尊敬しているが、日中友好の演目に相応しくない。
現代の中国共産党は宗教と文化破壊集団でしかない。
中国共産党は信教の自由を保証しないどころか宗教に政治的に介入し恣意的に宗教指導者を選出しているんだがな?
また、イスラム教の新疆ウィグル自治区での新疆人への弾圧・・・
ウィグル自治区 Googlemap 久良岐のよし
及び仏教国チベットへの軍事侵略と併合と弾圧そして傀儡僧侶の擁立等々を行っている。
チベット自治区 Googlemap 久良岐のよし
どれをとっても、仏教的な事を含めて宗教的な要素を日中友好の演目にする資格は中国共産党にも中国人にも無い。

南宋が蒙古族により滅亡させられた際に、生粋の華人文化国再建を志した本来の仏僧や儒学者や忠義の士達は源頼朝公が開闢した日本武士の政権鎌倉幕府を頼り多く今の鎌倉市に亡命して来た。
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頼朝公が鎌倉の市街地整備の中心に据えたのが現在の鶴岡八幡宮だ。
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そして、その鎌倉に亡命してきた南宋の文化人であり元に屈服しなかった忠義の人々の中でも有名なのが蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様達だ。
鎌倉幕府の第五代執権北条時頼公や跡を継いだ時頼公の子で第八代執権の北条時宗公に請われ世界最強の坂東武者が構成する鎌倉武士団に蒙古族が中国に建てた征服王朝の元朝の情報や兵法や中国語を教授し禅による精神力を叩き込んだ。
特に蘭渓道隆和尚様は鎌倉に住み、日本で最初に法治主義思想を政治的に実現した第三代執権の北条泰時公の菩提寺でもある粟船山常楽寺(鎌倉市大船)に住んだ。
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※粟船山常楽寺の山門、往古の様式を守り茅葺屋根のまま現存する。
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後に北条時頼公の庇護下に在った時に巨福山建長興国禅寺(北鎌倉の建長寺)を開いて武士に仏教、禅の精神、兵法、天文学、中国語等の学問と中国の惨状や蒙古の戦法を日本人に叩き込み、日本防衛と後の明帝国初代皇帝朱元璋による元朝打倒に繋がる偉大な一助を為し遂げられた訳だ。
この建長寺は鎌倉防衛最後の拠点と成る巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの手前に存在し、位置的にも鎌倉市街地にとって重要な場所だった。
更に蘭渓道隆和尚様は日本文化を大切にもされたので現在も神仏分離令の影響を乗り越え建長寺境内には稲荷社や近代に成って新たに建長寺守護神と成った半蔵坊権現等も存在し修験道や神道の文化も大切に受け継がれている。
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この建長寺は戦国時代にも偉大な武将を多数輩出しており中でも太田道灌公、間宮士信・間宮林蔵・杉田玄白の祖先に当たる間宮信冬公に学問を叩き込んだ寺院として依然として機能していた訳だ。
一方、兀庵普寧和尚様も北条時宗公の師として帰依を受け瑞鹿山円覚興聖禅寺(北鎌倉の円覚寺)を開いて日本独自の文化と成った鎌倉文化の醸成と学問の発展に寄与され訳だ。
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尚、円覚寺は後に北条時宗公の菩提寺とも成り御廟が開基廟として築かれている。
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仮に鎌倉幕府執権の北条家が宝治合戦で三浦家の諸将に負けていたら今日の日本が存在したかは解らない。なんせ、臨済宗を保護して蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様から中国兵法や仏教等の学問を導入したのは北条時頼公と北条時宗公な訳だし、何よりも蘭渓道隆和尚達のもたらした蒙古軍の様子や中国語の学習も、戦時に敵の言語を理解し作戦を阻止し戦う為に斥候(せっこう)で非常に役に立った事だろう。

明帝国の滅亡時にも日本に亡命して来た偉大な仏僧がいる。隠元隆琦和尚様だ。いんげん豆の名の由来の歴史偉人だな。
京都府宇治市の黄檗山萬福寺を開き、祖国の文化を日本でbackupした人物だ。黄檗宗は上杉謙信が真言宗と並んで帰依した宗派だったりするが今日の京都料理の発展に影響を与えたのが、隠元隆琦和尚様のもたらした明の発展した精進料理文化だった訳だ。
そして、明の忠臣であり日本人と華人混血児の名将軍、朱成功(初名:鄭森、後に鄭成功に改名、朱姓の名乗りを皇帝より許された忠義の名将軍)将軍は臺灣島をポルトガル植民地支配から奪還し根拠地を確保すると日本に度重なる援軍要請を出している。
仮に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公が御存命、若しくは徳川忠長公が第三代江戸幕府将軍に就任していたら日本は明を助け、明と日本、南北から後の初代清帝国皇帝のヌルハチを挟撃し撃破した事だろうよ。
ヌルハチの元々の王都は現在の瀋陽市、昔の奉天市で当時は盛都と呼ばれていた。
瀋陽の位置 久良岐のよし
明を裏切った朝鮮人と征服者の清を、明が江南地方(江蘇省、浙江省、福建省、臺灣)から攻め上がり、織田軍団乃至徳川幕府が裏切り常習犯の犯徒朝鮮を攻め下り、嘗(かつ)て日本人大量虐殺と拉致をやった女真族の末裔のヌルハチを明に協力して撃破した筈だ。
そして明の復興を助け、白人によるアジアの植民地化を阻止した事だろう。
余談だが、徳川家光公と権力争いに敗れ切腹させられた徳川忠長公は鄭成功将軍支援に非常に熱心だった事が有名な人物なのだが、今は御廟所は群馬県高崎市に在るのだが、本来ならば静岡市の浄土宗の玉桂山華陽院に成った筈だ。
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華陽院は徳川家康公の祖母の菩提寺であり、又、徳川家康公が今川家人質時代に読み書きを習った御寺でもあり、徳川忠長公が生前に大変に大切にされた御寺だったので忠長公の御存命中は日本中の大名から寄進が相次いで一時期は寺領2万石と驚異の勢力を誇った名刹だ。しかし忠長公の切腹時に当時の御住職が幕府と家光公に対して忠長公の影響力で得た寺領を返還したので、現在は広大な境内を有している訳では無い。
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徳川家康公を可愛がり教育を施した祖母の源応尼様の御廟所や、近代の徳川家当主の徳川家正先生の御手植えの松等も存在する。
更には家康公の愛妾となり姫を生んだ"於久の方(おひさのかた)"こと"間宮於久"様の菩提寺でもある。
そして、間宮於久様の御父君は豊臣軍を痛撃した北条家の忠臣の間宮康俊公であり、間宮康俊公の曾祖父が建長寺で学問を学んだ間宮信冬公に当たる。
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※上の写真は間宮康俊公が城将の松田康長公と300の寡兵で籠城し豊臣秀次の大軍2万6千を痛撃し活躍した山中城址。
更に康俊公の姫である於久の方と同時期に駿府城で徳川家康公の寵愛を受けていたのが間宮信冬公と同時期に建長寺で学問を学んだ関東最強の名軍師だった太田道灌公の曾孫に当たる"於梶の方(おかじのかた)"こと後の英勝院様な訳だ。その法名の英勝院から隠居地の鎌倉市扇ヵ谷にある菩提寺は英勝寺と名付けられた。
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英勝寺の境内は本来は太田道灌公の鎌倉における邸址と伝わる。
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境内の竹林の辺りが、室町時代初期の太田家の御姫様達の居住区域だったそうだ。
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徳川家との縁から寺紋に太田桔梗紋と徳川葵の両方の使用を認められており、背後の源氏山には太田道灌公の供養塔も在る。
そして於梶の方、於久の方と徳川家康公の暮らした駿府城を後に治めたのが徳川忠長公であり、駿府城の経済を担う蒲原奉行を務めたのが間宮康俊公の曾孫の間宮忠次公だった。
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駿府城下の華陽院と徳川忠長公には各時代の徳川家攻防の記憶と建長寺以来の太田家と間宮家の国防意識の高さが受け継がれていた訳だ。
だからこそ、徳川忠長公の鄭成功将軍支援に繋がるのだろう。これは奇しくも明治天皇の明治政府による孫文先生支援にも繋がる訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし
※上の写真は中国江蘇省南京市の中山陵、孫文先生の陵墓。同じ紫禁山の山中には明帝国の初代皇帝の朱元璋の陵墓である明孝陵と、三国志の英雄で呉の皇帝の孫権の陵墓の築山梅林も存在する。
今、中国に残る宗教指導者は南宋を裏切り、明を裏切り、華人の明帝国を滅ぼした満州族の清を取込み愛新覚羅溥儀を抑留し国家運営の大義名分とした逆徒「共産党」の建てた「中華人民共和国」に媚びへつらって今に至る連中な訳だ。
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※上の写真は台北市の中山記念堂。孫文先生や歴代中華民国総統に関する展示物が有る。
更に言おう。
鑑真和尚始め、歴代の華人の文化を取り戻したのは中華民国だ!
日本に留学し、小生の住まう横浜市の中の中華街等で漢族や日本人の支援を受け、満州族による征服王朝の清を政治的に打倒し華人の下に万里の長城内側の明帝国時代の国土を取り戻し 近代民主主義国家の中華民国の成立に寄与されたのは国民党初代総統の孫文先生だ!

つまり鑑真和尚や蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚様や隠元隆琦和尚様の法脈を受け継いでいるのは中華民国臺灣の友人達しかいない!
南京の中山陵には先述の通り三国時代の呉皇帝孫権の陵墓址も存在するが、多くの三国時代の英雄達の陵墓や御廟は中華人民共和国に成ってから破壊され埋葬品は略奪された。
例えば江蘇省蘇州市、ここは古くは春秋戦国時代の呉の首都だった場所だが、三国時代にも建業の町が今の南京市に造営される以前の呉の首都として機能していたので多くの名将達の居宅や陵墓や御廟が“中華民国時代まで存在した”のだが文化大革命等の現代中国人による破壊で消滅した。
そもそも蘇州市中心部自体が呉王国の首都、姑蘇(グースー)城址であり、中国共産党の統治まで各時代に増築されたり改修された城壁等も現存した。
その失われた場所は・・・
・陸遜の陵墓
蘇州大学園区校区周辺、葑門址の近く。その門は春秋戦国時代の名将の伍子胥の死亡後にその目が吊り下げられた門でもある。
・周瑜の陵墓
蘇州市呉中区。
・孫権邸址
蘇州市議会の会議中心ホテル一帯。
・・・超有名どころだけでもゴロゴロ、他にも沢山の名将達に関する霊廟と宗教施設が中国共産党によって破壊され略奪された。

そして、今回の毎日新聞の記事で紹介されている「鑑真東渡」の上演は蘇州市の共産党の連中の支援で行われる訳だ・・・矛盾だらけ。

中国共産党は仏教にも全ての宗教にも関与するのを止めて信教の自由を保証すべきだ。
チベットとウィグル族への弾圧も止めるべきだ。
自国の文化財と自然環境を保護し、共産党の唯物主義、拝金主義、軍国主義、民族主義による侵略を止め改めるべきだ。

現代の中国共産党は日中友好の演目に鑑真和尚様を取り上げる資格は皆無だ。



北鎌倉には建長寺と言う大寺院が在ります・・・
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正式名称は巨福山建長興国禪寺と言い、京都南禅寺を別格として除いた鎌倉五山、つまり関東の臨済宗寺院の内で五つの筆頭寺院の内の第一位に位置づけられた寺院です。
・・・この鎌倉五山の凄さと言うのは征夷大将軍しか歴代住職の任命権を有していなかった事からも解ると思います。
さて、この建長寺、鎌倉時代~戦国時代当時は多くの学僧や武士が修行に集まっていた大寺院でした。
ですから現代でも日本有数の規模を誇る大寺院として存在しています。
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とは言え、この北鎌倉周辺には他にも先月紹介した円覚寺と言う鎌倉五山第二位の大寺院も在ったりして、北鎌倉を散歩していると少々感覚がマヒして他の大寺院が小さく見えてしまったりします(笑)。
円覚寺の記事はココ→
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天下禪林・・・つまり天下に名の轟いた学問所寺院と言う事です。
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これでも現代は開基(かいき=神社仏閣を造営する事。日本語で使う創建は漢字の意味の誤用)当時と比べて明治政府の宗教政策や、太平洋戦争敗戦後に規模が縮小しているんです。
信じられない位、昔は広大な境内地を有しており、更に寺領と呼ばれる御寺の収入源となる寺院の領地も昔は境内地と別に存在していました。まぁ、それは明治政府の宗教政策で没収され、そのせいで多くの御寺のみならず神社も荒廃した所が多かったんですが・・・
とりあえず、今回は建長寺と建長寺に関わった歴史偉人の紹介だけして行こうと思います。
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さて、略称建長寺の山号は巨福山(こふくさん)と言いますが、これは鎌倉幕府を開いた源頼朝公が鎌倉市街地防衛の為に築いた市街をスッポリ取り囲む丘陵城塞群の中の7つしかない入口の一つ、巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの近くに在ったからです。
現在の鶴岡八幡宮の西側を通る巨福呂坂は近代に成って開削された新しい道で、トンネル入口に有る石碑は歴史に疎(うと)い現代人が設置すべき場所を間違ってしまっている訳ですが、小生の様な歴史好事家(オタク)や建長寺や鶴岡八幡宮の鶴岡文庫や鎌倉国宝館の様な文化と歴史を守ってらっしゃる組織の職員サンの多くはこの事を知っています。
巨福呂坂切通し位置 久良岐のよし
現代では住宅街に埋もれている谷間の細い道が、本来の鎌倉防衛の要だった巨福呂坂切通しの跡です。
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さてさて、そんな鎌倉防衛拠点の手前に立つ関東最大で最高格の臨済宗寺院、建長寺は昔は鎌倉武士達の学問所としても機能していた訳ですが、この御寺を最初に造営した開基様が鎌倉幕府第五代執権の北条時頼公です。
そして、モンゴルによって滅亡した南宋国から亡命してきた四川省出身の名僧で日本武士に禅の精神と故国の情報を叩き込んだ蘭渓道隆和尚が開山(かいざん=初代住職)と成りました。
つまり、当時はモンゴルやモンゴルに服属している朝鮮人によって何時、侵略戦争を仕掛けられるか解らず日本は周辺国から危険に晒されていた状況でした。
ですから、鎌倉幕府を蘭渓道隆和尚が頼ってきたのも、故国の南宋王朝が如何(いか)にして滅亡したか日本に伝え備えさせる目的が少なからず有ったと推測出来る訳です。
そして、当然、武士達も蘭渓道隆和尚を師と仰ぎ、和尚が伝えた学問を取り入れ日本人としての武士の気概と禅の平静を保つ精神と中国渡来の兵法を融合させ、モンゴルの威を借りる朝鮮人とモンゴル人征服王朝の中国元朝の侵略に対して備えた訳です。
事実、この時期には朝鮮がモンゴルの名を挙げ日本を外交的に脅迫し始めていた時期でした。
・・・まぁ、今も昔も朝鮮半島の政府は古代からずっと隙有らば日本を侵略しようと何度も攻めて来たり日本を裏切って来た歴史が有るので彼らは鎌倉時代も通常営業、今と同じですね。
まぁ、日本は蘭渓道隆和尚の教えによって戦場でも冷静に敵と対峙した鎌倉武士達の準備の甲斐有って、元寇で朝鮮軍と江南水軍を2度に渡って日本の武士団が撃退します。
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この座禅を取り入れた精神修養は後に鎌倉文化や武士文化の形成に大きな影響を与えて行く事に成ります。
鎌倉時代以来~室町時代そして江戸時代に成るまでは、禅と言うのは武士の精神修養の嗜みとして武士文化に取り込まれ現代に残りました。
当時の武士達は例え信心する宗派が臨済宗でない武士も平素、参禅して修行に励んだ様です。
そして、建長寺では蘭渓道隆和尚の影響も有り、禅の他にも中国語も教養として学び武士達に易学や兵法を学ぶ場としても機能していました。
蘭渓道隆和尚については、以前、常楽寺の記事でも紹介したので興味の有る人は読んで見て下さい→
因(ちな)みに建長寺、“けんちん汁”の発祥地だったりします。
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写真の画像は建長寺の物とは違いますが、建長寺近くに在る“鎌倉五山”と言う和食屋さんで提供しているケンチン汁です。
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建長寺では参禅すると、本家本元の“けんちん汁”を食べさせて貰う事が出来ます。
まぁ、なかなか観光でしか普通の人は鎌倉に行く用事も無いので、北鎌倉駅周辺の和食屋サンで提供している店に入るのがデートや家族連れだったら無難でしょう。
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建長寺に話を戻しますと、多くの武士から崇敬を集め、その武士達の子弟が幼い頃に入門し学問と精神修養に励む場所であり、日本中の学僧が集まる場所でもあったので現代でも国宝や重要文化財の建物が多く現存しています。
そんな建長寺なので、鎌倉武士達のみならず戦国時代にも名将を輩出しています。
その名は太田道灌(どうかん)、江戸城や河越(川越)城を築城した名築城家であり戦っては無敗を誇った名軍師で、扇谷上杉家の執権(しっけん)でした。
太田道灌公
今の政権に例えると官房長官や幹事長みたいなもんです。
当時、日本を統治していたのが君主=天皇家。
その統治を代行していたのが征夷大将軍足利家。
足利家の政治を分業実行していたのが管領と関東管領。
その関東管領を務めた家が犬懸(いぬかけ)上杉家、宅間(たくま)上杉家、扇谷(おおぎがやつ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家の上杉家の筆頭4家。
その家、室町時代中盤~戦国時代に関東管領と務めたのが扇谷上杉家と山内上杉家。
その扇谷上杉家の軍事と政治を取り仕切っていたのが、この太田道灌公でした。
この太田道灌公は幼い時から非常に頭が良かったそうで、幼少期には大人も論戦で言い負かす事が度々有ったので、道灌公の父上の道真公が「この子、将来、人を見下す子に育たない様にしないと危ない」と感じて、建長寺に入門させて幼い時は建長寺で僧侶達から人としての道や学問を教わって育ったと言われています。
残念ながら建長寺も数度の戦火や火災に遭っており、建長寺で道灌公が具体的にどんな生活をしていたかは今の職員さん達も解らなく成っています。
戦国時代末期に成ると、扇谷上杉家も滅亡寸前、関東の覇者は小田原城を本拠地にする北条(伊勢)家に変わっていました。
戦国時代に関東で随一の学者文化人としても有名だった建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)和尚は、太田道灌公とも親交が有った人物なのですが、この玉隠英璵和尚と北条家の治世化で交流の有ったのが北条家相模十四騎筆頭の間宮家でした。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
横浜市南区に今も在る真言宗の名古刹で、弘法大師空海和尚所縁の弘明寺の江戸時代までの扁額は、間宮家が寄進した物でしたが、その扁額を揮毫(きごう=字を書く)したのが玉隠英璵和尚で、90歳の時の事と絵図が文献の挿絵で残っています。
まぁ、昔の禅宗は武士の嗜みだったので、他宗派の僧侶からも歓迎されていた様です。
徳川家と間宮家に所縁深い静岡市の華陽院も浄土宗ですが、家康公の祖母の戒名も“禅尼”となっていたりしますからね。
そんな建長寺と関わった間宮家からは有名な北条綱成公の副将として稀有な活躍をした間宮康俊公や、その孫で徳川家康公に重用されて佐渡奉行、但馬奉行として金山や銀山経営で他の代官より抜きん出た実績を残し更には大坂城総掘りと真田丸埋め立ての作戦を立案した間宮直元公を輩出しています。
つまり、建長寺は名軍師を生みだして来た御寺な訳です。
これは蘭渓道隆和尚や北条時頼公が後世に残したソフト面での偉大な功績でしょう。
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さて、そんな建長寺、ソフト面だけでなくハードも立派な事は冒頭で申し上げた通り。
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凄く立派な仏様が参拝客を出迎えて下さいます。DSC_2102
仏様も立派なのですが、天井の装飾も立派ですよね?
実はこの仏殿、元は江姫の御廟所だった建物で、江戸時代の徳川将軍家の菩提寺、芝の増上寺に在ったのを御夫君で二代将軍の徳川秀忠公から建長寺の建替えに際して移譲され移築された建物なんですね。
徳川秀忠公の奥さんの江姫と言うのは別名で御江与様、つまり織田信長公の姪っ子で、浅井長政公と信長公の妹の市姫様の娘さんに当たる人物でした。
元々霊廟だったので、少し普通の仏殿と違った造りに成っているそうです。
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仏殿の横には何故(なぜ)か梟(ふくろう)の置物が・・・。
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仏殿の奥には金ピカの門が在ります。
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これも徳川秀忠公の寄進した唐門で、龍王殿の入口に成っています。立派ですね。
黒と金のデザインが、江戸時代初期、安土桃山時代の文化の雰囲気がまだ残る色使いに成っていますね。
徳川政権の前、豊臣秀吉が北野天満宮や二条城の伏見城遺構や大坂城天守を見る限り黒と金の組み合わせを好んで使っていた様です。
さて、建長寺は他にも立派な建物が現存しますが、小生は特に紹介して置きたい場所が有ります。
それは建長寺の“守護神”の半蔵坊という“神社”です。
日本の文化は本来は神仏習合と言って神様も仏様も同じ様に大切にしたり、水が湧く場所聖地や霊場として大切にされた山も崇拝対象にしていました。
ですから、明治時代の神仏分離令までは御寺にも沢山神社が在って、御寺の中で神官が神事を行ったり、逆に神様に和尚様達が御経を読んで天下万民の安寧を祈願したりしていたんですね。
明治時代の神仏分離令で多くの神社の中の仏様や、御寺の中の神社の神様は撤去されてしまいましたが、臨済宗や曹洞宗や浄土宗や真言宗と言う武家文化と密接な宗派は神様を今でも大切にしている場所が多く有ります。
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半蔵坊へは少し判り難い上の写真の参道が建長寺境内の左側に在ります。
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そこを進んで行くと、御寺なのに立派な鳥居が見えてきます。
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半蔵坊は天狗(てんぐ)様を祀る建長寺の守護神なので、鳥居をくぐり御社を目指すと沢山の天狗様が御出迎えして下さいます。
天狗信仰は関東では古い文化で、延喜式内社の大山阿夫利神社も江戸時代には大天狗と小天狗も崇拝対象に成っていました。
源義経が鞍馬山で天狗に剣術を教わったのは有名な話ですね。
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さて、この半蔵坊、現代に凄い御利益を発揮した事で有名だったりします。
実は阪神淡路大震災の時に、この建長寺を参拝して半蔵坊の災難除けの御守り札を頂いて来た人達の家は、一軒も被害に遭わなかったそうです。
まぁ良い地盤の地域に御住まいの方が多かったのかも知れませんが、普段から古い習慣を大切にして、心に一本、神様仏様への信仰を持っている様な人だからこそ地震被害の多い埋め立て地を居所にしなかったりしたのかも知れませんが、こう言うのは信じて厄除けして頂いて、自分の心を安らかにする事が既に御利益なんだと思います。
そして、神様仏様の御利益が実際に授かれれば、それに謙虚に感謝して、日々生かされていると感じれたら良いのだと思います。
小生も自分の土地神様と仏様の厄除け祈願の御守り以外に、家の玄関には半蔵坊様の御札と氏神様の御札を掲げています。
お蔭様で、何とか無事に生きています。そして遊び友達みたい浅い関係ではない、日本の親友と国境を越えた親友にも恵まれています。
そんな訳で、建長寺守護神の半蔵坊大権現は災害除けの御利益が有るので、建長寺に参拝するならば一緒に是非参拝する事をお勧めしたい場所だったりします。
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ここからの眺望や良く、写真の日は生憎(あいにく)の曇天でしたが、晴れていると相模湾も一望出来る景勝地でもあります。
ただ、ここに御参りするには建長寺オリジナルの御朱印帳が必要です。
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御朱印授与の場所で売っているので、半蔵坊の御札も頂くならば、鎌倉五山や鎌倉の臨済宗寺院巡りの為にも購入すると丁度良いかも知れませんね!
小生は建長寺と半蔵坊の御朱印を頂いてから、鎌倉五山の御寺を順位の順番に再訪しました。
残念ながら、寿福寺の現御住職は昨年くらいから御高齢で御体が不自由になられた様で、御朱印の対応が困難だと奥様から伝えられ、再度御朱印をこの朱印帳に頂くには至っておりません。
寿福寺も由緒正しく、昔は歴代御住職様は猊下(げいか)と武士や僧侶から敬称で呼ばれた御寺なので、早く御住職様の体調が良くなり復帰される事を祈るばかりです。

さて、建長寺、立派で御寺でしょう?
半蔵坊からの眺めも良いので、北鎌倉散歩の際は是非、訪れて見て下さい!
・・・まぁ、円覚寺や東慶寺や浄智寺、明月院や長寿寺って他にも御参りして置きたい御寺が沢山有るのが北鎌倉なので、鎌倉江ノ島七福神の御朱印巡りがてら、数度に分けて鎌倉訪問して建長寺も浄智寺と一緒に訪れたり、明月院の紫陽花観賞と一緒に訪れるのも良いかも知れませんね!

さて今日はここまで!
今週末は台湾の友人夫婦の来訪が有り、水曜日はその事を休日雑記に書くかも知れません。
では、又、次の解説記事か休日雑記で御逢いしましょう!

自宅のある横浜を出発したのは午前11時頃…
北鎌倉までは車で1時間とかからないで到着する。
渋滞に捲き込まれてやっと60分程度、普段なら40分くらいだろうか?

小生の仕事は連休が無い。
世間がゴールデンウィークも仕事した分、本来、6月1日には休暇を使って一週間ぶっ通しで京都~愛知に行ってるはずだった。
京都の阿弥陀寺様に、昨年の間宮家の顕彰活動で訪問した際に追善供養に参加する様に御声がけ頂いていたからだ…
めちゃくちゃ贅沢してやる心算で半年超かけて30万円旅費を積み立てていた。
移動にタクシー借り切って、食事は全て有名な料亭や西洋料理のレストランを予約して食べるつもりだった(笑)。
…しかし、熊本大地震が発災。
京都行の旅費は全て熊本に送ってしまった。

でも、せっかく休むつもりだったのをキャンセルして何もしないのも癪(しゃく)に障(さわ)る。
けど、今月の小遣いは京都に行くいは足りない…
「そうだ!鎌倉に行こう(2週間に一回は来てる)‼」と、成った訳だが、断念した旅行を諦めたくない。
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で、こうなった。
「車で一瞬で帰宅できる距離だけど、宿泊しちゃえば良いんジャネ?」
…てな感じで三浦半島に宿泊中。
1週間ブっ通しの休暇をキャンセルして日曜日1日だけ休暇にし1泊2日の連休。

長者ヶ崎の砂浜に面しロケーション最高の家族経営の旅館「大海荘」。
今は持ち込んだPC叩いてる訳だ。
結局、京都に行かなかった分、❝作家ゴッコ❞みたいな(笑)プチ贅沢な土曜日を
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ここは海辺まで徒歩30歩(笑)と近い。
そして、この長者ヶ崎は❝神奈川の景勝50選❞の一つだ。当然風景は綺麗。
朝食だけの素泊まりで6,500円。家族経営なので規模は小さいが部屋は清潔。
でも天然ラドン温泉。風呂トイレは昭和初期の旅館らしく共用。
車で10~15分程度の近所には以前も記事で紹介した秋谷海岸の地魚地野菜のイタリアン「DON」や、佐島マリーナの海に張り出したウッドデッキの最高のロケーションで食事出来る「海辺」なんてレストランも有る。
だから、ちょっと三浦半島のドライブ兼ねて、もの凄く美味しい料理店でランチをとる事も出来る。
素泊まりにすれば逗子マリーナや葉山マリーナの御洒落なレストランで食事も出来る訳だ。
夕食付にすると8000円。
事前に相談すれば、旅館の庭先では天候に関係なく屋根の下でBBQも出来る。
夕食をBBQに変えるのも家族連れやカップルには良いかも知れないが…
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小生は一人旅なので、和食を頂いた。
葉山だけあって御刺身と魚の天ぷら美味しかった。
サーファーや夏休みの子供連れ家族の海水浴や鎌倉旅行兼ねた旅には丁度良いだろう。
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雰囲気は外観がオシャレな海の家、中は典型的な大正~昭和の日本旅館。
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小さい家族経営の旅館らしく、ロビーもこんな感じ。
江戸時代の旅籠もこんな規模が多かった。坂本龍馬サンの定宿の寺田屋とか近江屋とかね。
小生が箱根で良く宿泊する温泉も、家族経営だが築100年の小さい旅館だったりする。
小生はホテルより日本旅館が好きなので、プチ旅行でシティホテル泊まるよりも風景の綺麗な葉山は長者ヶ崎のこの旅館が好きだ。
本当、帰ろうと思ったら、横浜横須賀道路で30分チョイ(笑)。でも近くに宿泊するチョットした贅沢に満足(笑)。

本当に車移動なら海水浴や鎌倉旅行にロケーション良いからオススメしたいんだよね。
この旅館の部分は別記事でもう少し追記して紹介しようと思う。

こっから6月4日の訪問地域。
昨日は珍しく余り多くの場所を訪問しなかった。
行ったのは北鎌倉と宿泊地の海岸だけ…
●明月院…紫陽花の名所。
●鎌倉五山(と言う飯茶屋)。
●長寿寺…足利尊氏公の菩提寺。
●亀ヶ谷の切通…鎌倉七口(昔の鎌倉の出入り口は7ヵ所の切通ししか無かった)の一つ。
●建長寺…臨済宗の大本山、歴史の授業でも習う鎌倉五山の第一位の禅宗寺院で道場。
●半蔵坊…建長寺の守護神として裏山に鎮座する塔頭とは異なる修験道の神社。天狗様。

横浜を出て35分位だろうか?無事北鎌倉駅近くに到着し車を駐車。
先ず訪れたのが第一の目的地だった紫陽花の名所、明月院。
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昨日は6~7分咲き。
ここは紫陽花が綺麗なだけでなく、鎌倉武士文化中興の祖とも言える北条時頼公の菩提寺でもある。
又、中の草庵で御抹茶と和菓子を頂く事も出来る。
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当然、紫陽花は6分咲きでも綺麗だった。
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明月院は初めてではないのに、今まで裏の庭園(拝観料500円別途)に足を運んだ事が無かった。
警備院サンに質問したら菖蒲が見頃との事で、これも良い機会と思い足を運んでみたら…
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…これが予想外の美しさ!なんで今まで来なかったのか!
そして発見も有った…
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なんか菖蒲庭園の奥に❝通せん棒❞されている場所があり、その更に奥の右側には不自然なツタに覆われた路盤と思しき地形が見えた。古道の跡に見えたので、御寺の園芸部の職員さんや寺事務所の方に質問した所やはり、このツタに覆われた場所は古道の跡で、ここは表通りを通らず此(こ)の道を通って直接、臨済宗大本山の建長寺サンや円覚寺サン行ける昔の古道だそうだ。
今では、御寺同士の関係性は本山末寺の関係よりも現代の法律による土地の所有権等の事で各自境界が明確に成っているので封鎖されているそうだ。
ここを通れば山の尾根伝いに、関東の臨済宗の大本山の建長寺や円覚寺に行ける訳だ。
裏庭だけでなく、通常の順路も紫陽花以外に躑躅(つつじ)が綺麗だった。
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海の向こうに紅葉した山々を表現したような枯山水なのかな?
ところで、不敬無礼無秩序な輩が竹林に落書きをしていたので晒して置こうと思う。
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久保寺誠、松本、この両名の身の上にに釈迦牟尼仏と北条時頼公の仏罰と祟りが降りて以後、悪事を行えなく成ります様に。
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ちゃんと御寺サン書いてるでしょう?

明月院を出てから表通り(鎌倉街道)に移動する途中の風景…DSC_2055
少し趣が京都の哲学の道に似てるかな?水路沿いに在る邸宅は全て石橋が掛かっている。
この地域は山ノ内と呼ばれる場所で、その名の通り、関東管領山内(やまのうち)上杉家の邸宅がこの谷戸の奥には在った。つまり、この道を山内上杉家の歴代殿様や配下武将達が行き交(か)っていた訳で、恐らく上杉謙信も関東管領就任の前後は、この辺りに宿泊したんだろうか。
因(ちな)みに玉縄城の目と鼻の先なので、仮に宿泊したなら危険が伴い防備を怠れなかったはず。
明月院を出て鎌倉街道に復帰するとすぐに鎌倉五山と言う茶屋が有って…
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北鎌倉名物の建長寺汁(けんちんじる)を食べる事が出来る。
けんちん汁は、建長寺発祥の料理なんだな。
御寺の精進料理なので、本来のケンチン汁には肉魚は一切入っていない。
ベジタリアン歓喜の料理。素朴で小生は好き。でも魚食べたい。
美味しく頂きました。

その後は臨済宗大本山建長寺へ…
行こうと思って歩いていたら、普段は一般参拝不可の長寿寺サンが特別公開を行っていた!
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ここは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の関東における菩提寺で、寺の開基(かいき=オーナー)は尊氏公の御子息で鎌倉公方の足利基氏公と言う、由緒正しい格の高い御寺サン。
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庭園も見事だったが、御住職様と御話しさせて頂く機会があり、有意義な時間を過ごせた。
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秋に奉拝出来たらきっと庭の紅葉が綺麗な枯山水の御庭。
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尊氏公は南朝の後醍醐天皇とは政権運営で対立したが、明朝の文化と日本の武士文化を融合した華美と質実を領有した室町文化の礎を築いた偉人である。尊敬すべき先人だ。

ここを出るとすぐの所に鎌倉七口の切通しの一つが在る…
亀ヶ谷(かめがやつ)坂の切通し。
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この切通の先には河内源氏の幼き日の源頼朝公や源義朝公が住んだ源氏の邸宅跡寿福禅寺が在る。
現代は少し広く開削さえているが、当時は人が2人程度しか横に並んで歩けない幅に、騎馬武者が侵入困難な程に急角度で屈曲させた喰い違い虎口(こぐち)が全ての切通しに設けられていて鎌倉市街防衛の要だった。
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事実、新田義貞は鎌倉の切通しを突破できず、一年に数回の大干潮を待って稲村ケ崎の海中に露出した磯から侵入してやっと鎌倉を攻略できた。

ここを歩いていたら、鎌倉文化らしい路地の壁面に掘られた地蔵菩薩様がいらっしゃったので、鎌倉を旅する人達と地域の方々の安全と御地蔵様御自身が末永く存続する様に御祈り申し上げて来た。
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御地蔵様の周りの壁面の形状を見るに、元々は矢倉に掘られていたのが、矢倉部分が崩壊して露出したのだと推察出来る。

そして、いよいよ臨済宗鎌倉五山第一位の建長寺へ…
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ここは桁違いの規模を現在でも維持していて、だいぶん減少したものの塔頭寺院もいくつか現存している。
又、明治時代以前の神仏習合の文化も維持していて、境内の奥院と言う場所には神仏習合山岳信仰の象徴である天狗様を祀る半蔵坊と言う寺の名前の神社が有る。
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総門をくぐると・・・
更に中には立派な門。

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京都の大寺院の南禅寺よりも大きい門。
南禅寺は立派な御堂が現存しているから甲乙つけがたい。
規模は京都の同じ臨済宗の大徳寺にも勝るとも劣らないが、鎌倉は度々戦火に捲き込まれているので大徳寺の方が塔頭寺院は多く現存している。
詳しい事は、いずれ建長寺様だけの記事を改めて書くとして、見所としては徳川秀忠公の奉献された金ピカの唐門なんかも有る。
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奥のやつね。

半蔵坊へ移動。
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半蔵坊は建長寺オリジナル御朱印帳を持つ人だけが入れる。
参道は少し歩く。
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正に神仏を共に大切にされた歴代天皇と武士達の価値観を大切に受け継がれいる証拠。
御寺の守護神として神社がある。
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そして山岳信仰の天狗様。
こちらからは、晴れていると相模湾が一望出来る。
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生憎の曇天で相模湾と曇り空が一体化してしまった(笑)。

その後、建長寺様の参拝を終えて、昨晩から宿泊している葉山の海辺に在る「大海荘」さんへ移動。

で、記事冒頭の長者ヶ崎に戻る。
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昨日は曇天だが、なんとか富士山が見えた。
良い一日でした。

さぁ、チェックアウトだ…
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久しぶりに食べた朝ごはんも美味しかった!
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長者ヶ崎も朝から散歩出来て、朝風呂にラドン温泉にも入れたし満足!
さてさて…もうすぐチェックアウトの時間。

今日は何をしようかな?
生憎雨天、鎌倉の紫陽花は満開の来週に長谷寺を再訪するとして…
…三浦も雨では佐島マリーナの「海辺」と言うレストランに行こうと思ったが、それも変更。
やはり鎌倉に行くか!
う~ん、三崎漁港に行こうか?作兵衛の菖蒲園も見頃だろうし。

そんな休日雑記でした。


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