歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:式外社

八幡橋八幡神社(式下社・古代欽明天皇の時代は滝頭の丘上に在った神社)
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  御祭神・御本尊等:大鞆別命(おおともわけのみこと:応神天皇)・大山祇大神(おおやまづみおおかみ)・神素戔嗚尊・奇稲田媛・大己貴命・東照大権現(徳川家康公)・宇迦之御魂神
  御利益:治水・地鎮・縁結び・交通安全(海)・工業発展・戦勝
  関係者:
  開基:伝承では欽明天皇以前、古墳時代の古代人。
  中興:徳川幕府旗本 小浜 志摩守
  旧郡名:久良岐郡
  所在地:横浜市磯子区原町、古代は今の滝頭辺り吉田新田埋立の土採掘で消えた久良岐の丘の上
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇の治世551年以前には存在したと伝承する八幡社だが、恐らく古くは霊場若しくは仏教色のより強い八幡社だった為か延喜式神名帳には記載は無い。周辺も平安時代末期以来の領主平子家が戦国時代に北条家を離れ越後に移住する等した上、神社の元在った丘の開削により現在地に遷宮する等あり詳しい文献は現存しない。
江戸時代、明和三年(1766年)に三島明神と氷川明神が勧進されるが両方とも海上交通に纏わる大山祇神と素戔嗚尊が御祭神の神社で、更に安永五年(1776年)に東照大権現徳川家康公の御神霊が勧進されて軍事的性格も強い八幡宮が更に武門の神社として機能する事と成った。
古代の神社はどこも半島の付根や先端、又は湧水池や滝や奇岩や山の頂上が聖地として造営されているが、この八幡神社は元々は現在の磯子区滝頭辺りつまり久良岐の丘の吉田新田埋立で開削され消えた部分の滝の近くに存在した。そこは江戸時代初期までの湾の入江の頂点部分に当たり、古代朝廷の軍馬生産の牧場が在った本牧半島の付根に当たる軍事的にも重要な場所で有り、かつ水神としての役割でも重要な位置に存在していた事が解かる。御祭神が八幡神なのも蒔田湾や本牧半島沖を行き交う船の海上航行の安全を願って八幡神社が造営されている事が容易に推測出来る。
この本牧半島と蒔田湾は安土桃山時代においても鎌倉公方代理の蒔田吉良家の水運の拠点だった事、古代の縄文人は既に丸木船で伊豆大島へ渡航し交易していた考古学的な事実が有る事からも、この地の鎮守の神様は海を治める八幡神でなければいけなかったのだろう。
近くには三殿台遺跡や根岸の丘からも多数の縄文時代〜弥生時代の遺跡も出土しており、本牧妙香寺も弘法大師空海和尚が前身寺院を開基した事実が有る事、本牧半島が古代大和朝廷の軍馬生産拠点だった歴史事実を踏まえると、古代の久良岐郡において、この式外社の八幡橋八幡神社は平塚八幡宮の様に重要な機能を有していた事が解かる。
平安時代末期~戦国時代初期には直ぐ近所に磯子城が存在し源頼朝公の随兵も務めた猛将の平子有長公が居城したので、神社の移転等で文献は現存しないが平子家も必ず支援していた事が推測出来る。
尚、この本牧半島の湧水は長期間放置しても腐らない為に幕末~大正時代に遠洋航海する船舶に飲料水として補給された。現在もワシン坂の霊水、打越の霊水等は一般に汲み取り出来る。
周辺は現代も貨物船の拠点、石油プラント、米軍の軍事拠点が有り、古代~現代に至るまで海上交通の要所、物流拠点、軍事拠点としての機能を有し発展して来た土地で、その繁栄を鎮護して来た八幡橋八幡神社の御神威はとても強い。
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江島神社=江ノ島弁才天
(式外社・日本三大弁財天・天皇勅願所の洞窟と鎌倉武士の聖地)
児玉神社
(初代台湾総督児玉大将を祀る台湾の人々が開いた神社)
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  御祭神・御本尊等:八臂弁財天(はっぴべんざいてん)・多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)・児玉源太郎大将
  御利益:戦勝・敵人懲服・立身出世・財運向上・芸能向上・縁結び 
  関係者:
  開基:欽明天皇
  中興:修験者      役 小角
     弘法大師      空海  和尚
     修験者 神融禅師   泰澄
     慈覚大師    円仁    和尚
     比叡山五代院  安然 阿闍梨
     征夷大将軍   源    頼朝 公
     征夷大将軍   源 實朝 公
     皇家護持僧  道智  大僧正
     証誠大師   一遍      上人
     立正大師     日蓮      和尚
     鎌倉府公方    足利 成氏 公
     相模守      北条 氏康 公
     北条家臣 岩本間宮 定次 公 以下江島別当岩本坊間宮家歴代(現:岩本楼)
  旧郡名:鎌倉郡(戦国時代:中郡)
  所在地:江島神社・・・藤沢市江の島全部が本来の江島神社聖域
  所在地:稚児ヵ淵・・・歌舞伎白浪五人男の弁天小僧の舞台、洞窟は天皇家の祈願所聖地
  所在地:児玉神社・・・児玉源太郎大将を慕う台湾の人々が建てた神社
  所在地:岩本楼・・・元は江の島の聖地の洞窟と江島神社を管理した真言宗修験道岩本坊が前身
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。 参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)で元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。その別当職を務めたのが 社長の家の御先祖、宇多源氏佐々木家諸流の間宮一族、岩本家だった。
頼朝公が戦勝祈願に岩屋に参篭された後に社殿と銅製鳥居が寄進され神社として整備された。江の島の岩屋で御神体とされたのは八臂弁財天で江島神社と岩本楼にそれぞれ御祀りされていた仏像が現存する。戦国時代には日本有数の大合戦で戦勝の御利益を発揮されてる。鎌倉公方足利成氏公と北関東の鎌倉公方軍が江ノ島に籠城し、反逆した関東管領山内上杉家と扇谷上杉家の連合軍の大軍勢と戦い、見事に足利成氏公に不利な戦を勝利させている。その後も❝日本三大奇襲戦❞の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万余りの上杉家連合軍の大軍相手に勝利を治めている。
江戸時代には徳川幕府から保護を受けただけでなく富士山詣で、大山詣り、杉田梅林等と並び江戸市民の人気の観光地として栄え歌舞伎の演目の白浪五人男の❝辨天娘女男白浪❞のモデルにも成った。
明治時代には、この江の島に児玉源太郎陸軍大将が逗留され軍事作戦を練られて、ロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
現在は女性の縁結びの神様としても有名で江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 他所の弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されているが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれ落城した歴史が有るから? 
弁天様について解説すれば本来、弁天様はインド神話のヒンドゥー教由来の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天/大黒天に習合された神様)の後妻であり多くの男神様から求婚されたモテモテの神様だったので女性にとっては心強い縁結びが期待出来るのは当然だろう。
明治時代には江ノ島に福沢諭吉先生、伊藤博文公、児玉源太郎大将や早川雪舟(日本人初のハリウッド俳優)も宿泊しており江ノ島の御利益を代弁する様な偉業を成し遂げている。
他にも俳画会を形成した文化人、間宮霞軒先生等を江ノ島から輩出している。
※北条氏康公と間宮家が活躍した河越夜戦解説の記事リンク
→杉田玄白と間宮林蔵の祖先、笹下城主間宮家の事績。

江の島に行ったら現代の名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?昔からの名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)と江ノ島丼も美味。 
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平塚八幡宮=鶴峯山八幡宮(式外社・一国一社八幡宮・相模国五之宮格・凄い地鎮の神様)
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平塚八幡宮様公式拝借画像七夕祭り 久良岐のよし
  御祭神・御本尊等:大鞆和気命(おおともわけのみこと)=誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇  
  御利益:関東最高級の地鎮・治水・工業発展・交通安全(海)・海外渡航安全
  関係者:
  開基:大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)=仁徳天皇
  中興:推古天皇
     天武天皇
     文武天皇
     聖武天皇
     征夷大将軍     源  頼朝 公
     征夷大将軍     徳川 家康 公
     徳川幕府関東代官頭 伊那 忠次 公
     周宮 房子 内親王 様
  旧郡名:大住郡
  所在地:平塚市浅間、平塚駅近く古代の砂丘上。
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
平塚八幡宮は明治時代まで鶴峯山八幡宮と言う名前だった。古墳時代に大地震が起きた際に仁徳天皇が国土安穏を祈り應神天皇の御神霊をお祀りされたのが始まりで、各国に一社づつ勧進された相模国八幡宮の本来の元締め。鶴岡八幡宮は平安時代末期の造営で、歴史的に一国一社八幡宮は鶴嶺八幡宮だった。
後に推古天皇の時代にも大地震があり、人々を案じられた推古天皇は「鎮地大神」の御宸筆を捧げて国家安泰を祈願して社殿を造営した。天武天皇はこの地租を寄進、文武天皇は宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納、そして聖武天皇は相州一国一社の八幡宮(霊場)として法華経を奉納した。
寛治元年(西暦1087年)には平塚八幡宮の御分霊が岐阜県高山市山口に桜ヶ岡八幡神社として分祀された。
鎌倉時代以降も源頼朝公が夫人政子様の安産を祈願して神馬(白馬)を献上した。
江戸時代に慶長年間も徳川家康公により社領が寄進と参拝を賜り、関東総奉行の伊奈忠次公社殿を再建を御命じに成られた。徳川幕府治世下では
東海道8番目の宿場として賑わい門前の大門通りは東海道、須賀港、厚木往還、大山道の重なる交通の要衝として発展した。
明和2年平塚宿の僧本誉還真が18年間集めた浄財で青銅製の二の鳥居を奉納。
大政奉還の後、明治政府の宗教政策により社名を「八幡宮」から「八幡神社」と改称させられた。
明治27年には明治天皇の王女常宮昌子内親王、周宮房子内親王の御参詣を賜り、社頭に松樹を御手植えされ、御神池に緋鯉を放生された。
大正12年、関東大震災の震災で社殿が倒壊、再建が昭和三年に完成した。
第二次世界大戦後の昭和53年8月に表記を「八幡宮」へ戻した上で、現在の平塚八幡宮に改称した。
7月7日には日本三大七夕祭りの一つ“平塚七夕祭り”が門前町で開催され大変賑わう。
8月15日の
例大祭、5月5日に斎行される千数百年来の歴史を持つ“国府祭(こうのまち)”の他の5社宮司家との問答神事が行われる。席次の譲り合いの神事は神揃山に移動して行われる。
9月中旬に行われる“
ぼんぼり祭”が行われる
※ロシア帝国が日本を含む東アジアの植民地化を狙いバルチック艦隊を東アジアに遠征させた際に、日本の東郷元帥率いる日本初の連合艦隊が対馬海戦でロシア帝国海軍を撃破した際の旗艦:戦艦三笠は、八幡宮の御祭神、大鞆和気命(誉田別尊)の神仏習合時代の尊称、‟八幡大菩薩の名の御分霊”を艦内に守護神として安置していました。太平洋戦争で戦艦大和や武蔵が撃沈された際は軍部は信仰心薄く戦艦内から各御神霊を撤去していたのは知る人ぞ知る史実だったりします。
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高麗権現 高来神社(神功皇后と渡来人が開いた神宿る山) 
鶏足山 慶覚院 高麗寺(行基菩薩が開いた高麗権現社の別当寺)
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  御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(こまおおかみのわこう:高麗権現)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后  ・東照大権現(徳川家康公)
  御利益:海外渡航安全・交通安全(陸海)・敵人懲服・子宝・安産・地鎮・技術発展
  関係者:
  開基:武内宿禰
     神功皇后
     古代渡来人
  中興:高句麗王族帰化人 若光
     日本初の大僧正  行基 菩薩
     征夷大将軍    源  頼朝 公
     源頼朝公室    北条 政子 様
     相模守      北条 氏綱 公 以下歴代当主
     征夷大将軍    徳川 家康 公
     慈眼大師     天海  大僧正
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:高来神社・・・中郡大磯町の高麗山の国道一号線側、山全体が旧境内地
  所在地:慶覚院・・・高来神社の参道右手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
明治時代以前の神仏習合時代の旧社名は高麗権現社。
神功皇后が三韓征伐の帰国時、当時はまだ日本の一部だった朝鮮半島南部から移住して来た人々と共に高麗山の山上に日本神話の神皇産靈神と高麗の神である高麗大神和光を共に御祭りしたのが始まり。
神功皇后の時代は丁度、臺与の頃、古墳時代初期に当たると考えられるが実は伝承を立証する様に高来神社周辺一帯は渡来人の遺跡が多く、例えば高麗山南部には釜口古墳、王城山横穴墳墓群、旧吉田茂邸や旧三井家別邸の在る大磯城山公園の城山にも横穴式墳墓が大量に存在する。
時代は下り日本が天智天皇の治世となって7年後の668年に朝鮮半島北部の古代日本の友邦だった高句麗が中国の唐帝国によって滅亡させられる。滅亡した高句麗から高句麗王族の若光が日本に亡命帰化し、大磯の高麗に定住したと伝わる。この頃の唐帝国はそれまでの周辺国との友好関係を破棄し侵略戦争を開始しており、その外交政策の転換には則天武后が台頭した時期と重なるので則天武后の影響力で唐が侵略政策を開始している中国の権力争い等政治的な背景が神社の歴史から見てとれる。
更に後、養老元年(717年)に日本初の大僧正に任命された行基菩薩によって高麗権現社を保護する鶏足山 慶覚院 高麗寺を造営し以後、高来神社の前身である高麗権現社の別当寺と成り神功皇后以来の日本と渡来人の文化が神仏習合の聖地として更に発展、最大時には境内に24の僧院社殿が建ち並ぶ大規模な神宮寺と成った。鎌倉時代にも源頼朝公と北条政子様御夫妻や幕府の御家人立からも崇敬を集めた。
しかし室町時代に成ると度々戦火に遭い、僧坊は焼失してしまった。小田原城主と成った北条家によって領地が寄進され存続し、豊臣家の天下が定まり関東の戦乱が就職した頃に徳川家康公が江戸に入ると徳川家から100石もの寺領を賜わった。普通は5~10石、歴史有る場所で20石程度、100石は異例。余談だが出雲大社は2000石で最早大身旗本なみの軍事力を持てる石高だった。
江戸時代には高麗山の前が東海道だった為、参勤交代する大名も必ず籠を降りて参拝するのが習慣化していた。
明治時代に成ると明治政府の宗教改革で神仏分離令が励行され、北条家や江戸幕府の支援で復興した高麗山山上に在った社殿や僧坊は撤去され、更に高麗権現と朝鮮半島由来の名前も高来神社と改めさせられた。山上の社殿で御神体とされた仏像や仏教由来の文化財は旧観音堂である下社に移された後、知足山慶覚院に移され現代に至る。
古来からの古代日本文化と渡来人文化が融和し、坂東平氏が相模国へ移住し日本独自の武家文化を発展させた基盤と成る騎馬文化や醸成した土地でも有る。
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