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タグ:弘明寺

前回の記事⤵
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・②玉前神社の地形と境内施設の解説。
これ⤴の続き。

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前回は千葉県一宮町の玉前神社の境内施設と地形を解説しました。
今回は玉前神社に住んでいた玉依姫(たまよりひめ)と、その夫の鵜茅葺不合命(うかやぶきあわずのみこと)の育った場所と伝わる千葉県長生郡睦沢町の鵜羽神社を紹介したいと思います。
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鵜羽神社(式外社)※住所クリックするとGoogleMapで所在地を確認出来ます。
先ずはこの神社の周辺の美しい農道の風景を紹介したいところではありますが、その前に鵜羽神社の名前の横に書いた“式外社”と言うカテゴライズの意味を解説します。
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この神社の御祭神は鵜茅葺不合命です。命(みこと)と言うのは肉体的に亡くなった後も神様として祀られる御神霊を指すので、小生のブログでは敢(あ)えて未だ肉体が有った時代の古代の話しをするので鵜茅葺不合“神”と表記します。その鵜茅葺不合神の奥さんが玉前神社の玉依姫です。
この御二人の縁結びの神事が今でも鵜羽神社と玉前神社の間で行われており“十日祭(とおかまち)”と呼ばれています。古代から続いており、夫婦神の居所を往来する内容なのでつまり玉前神社が存在した当時にコチラの鵜羽神社も聖地化されていた宮殿ないし“郡衙”が存在したのだと思います。
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玉前神社の様(よう)に古代から存在し平安時代の延喜式神名帳に記載されている神社は“式内社”とカテゴライズされています。
普通に考えても千数百年の歴史と由緒有る神社が式内社な訳です。
その式内社と同時期に存在しながら、例えば神格化された古代の豪族や天皇家の祖先が住んでいた宮殿が神社に後の世に聖地に成る場合が有ります。
聖地では有るけれど神社には成らず例えば国衙や郡衙と呼ばれる役所に成っていたので神社として自体の歴史が短かったり奈良時代に聖地から仏教施設化したり、神仏習合の修験道の聖地化して大切にされていた場所が有ります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺例えば横浜市民に有名な川崎大師よりも先に厄除け大師と呼ばれ弘法大師空海和尚が国家鎮護国民災難退散の護摩炊きを行った事で知られており、毎月8の付く日に今でも参拝者に無料で護摩行を見学させて貰えますし護摩札を購入すれば護摩焚きの際に御祓いもして下さいます。
この弘明寺が正に先に述べた“郡衙(ぐんが)”と呼ばれる郡役所の跡地であり聖地でも有る事が考古学的な発掘から証明されていたりします。ここは稲荷社や熊野社が同一丘陵上に古来から存在し今も弘明寺の守神として護摩行の際に名前を読みあげられます。どちらも水の神様ですね。
ここは久良岐郡、天皇家の直轄地の屯倉(みやけ)の郡衙が置かれた場所でした。
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西向山 乗蓮寺(北条政子の別宅)
この丘の周辺平地部は古代の海の跡で井戸水は余り飲用に適さない水質なのですが、弘明寺と同一丘陵上に存在する南区井土ヶ谷の乗蓮寺は水質が良かったそうです。そこで鎌倉時代に京都の貴族と鎌倉武士の間で承久の乱が勃発した際に避難の仮御所を置いた場所が乗蓮寺でした。
北条政子様が化粧水に適した良い水質の水がこの丘の井戸だけに湧くとして、ここの井戸を愛用した事から“井土ヶ谷”の地名が生まれました。
この様に質の良い飲用水が古代より湧くので集落が出来て聖地化し、更に古代大和王権の統治が及び豪族の宮殿周辺に郡衙が置かれたのでしょう。弘明寺の対岸の港南区上大岡には横浜市教育委員会が保護せずに宅地開発で証明した横浜市内最大の前方後円墳が昭和初期まで存在していた事からも弘明寺=郡衙の歴史的な整合性が有る訳ですが、この様な仏教の真言密教系の聖地や修験道系神社だったから延喜式神名帳編纂時に記載から漏れた場所の御社を“式外社”と呼びます。
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七所権現八菅神社
代表的な場所に八菅神社が有ります。
玉前神社と同じ日本武尊(やまとたける)神話の舞台の一つであり、恐らく日本武尊が行軍中に相模川を渡河する際に在陣したであろう場所が八菅神社で、日本武尊が中津坂本を行軍中に八菅山を見て山体が龍や大蛇に似ているから神聖地化し、後に修験道の開祖の役小角(えんのおずの)によって修験道の聖地として神社と仏閣が両方備えられた大道場に発展させられ、関東有数の修験道、仏教、神道の聖地と成りました。
ここ等はつまり玉前神社と同じ時代に既に聖地として存在した事に成るので“式外社”となる訳です。
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そこで鵜羽神社に話を戻すと、正にここは玉前神社と同じ時代に鵜茅葺不合神の宮殿が存在したので“式外社”に当たる訳です。
では何で鵜羽神社は神社化せずに式内社に含まれなかったのか?それは恐らく弘明寺パターンと同じ事がここでも有ったのだと思います。つまり宮殿が郡衙に成ったからであろうと推測出来るからです。
長生郡 久良岐のよし
旧長生郡は茂原市を含みますが、そもそも長生郡が古代の長柄郡と埴生郡を明治期に合併して誕生した郡なので長生郡+茂原市を見ても余り郡衙位置特定の参考には成りそうに有りません。
この地域は最初に伊甚(いじみ)屯倉(みやけ)が置かれた場所で、その大半が古代の夷灊郡(いすみぐん)であり、その郡域は現在の長柄郡や夷隅市や勝浦市一帯だった様です。
実は平安時代中期の武士団は朝廷の律令制度の影響下にいましたので、平安時代中期当時の政治は古代のまま郡衙で行われていました。神田明神の御祭神でもある平将門(たいらのまさかど)公が平将門の乱を戦った際に国衙や郡衙を占領したのは正にその為でした。
なので平安末期に成っても有力な在地武士の本家筋は旧郡衙の土地に本拠地を構える人物もいました。上総広常(かずさのひろつね)も恐らくその一人だったでしょう。
鵜羽神社と高藤山城の位置関係 久良岐のよし
画像をクリックして拡大して見て下さい。
鵜羽神社と同一丘陵上には平安時代末期の有力武将、平氏の上総広常(かずさのひろつね)公の居城の高藤山城が存在しました。居城の名前からして高藤山・・・
つまり古代には富士山形状の巨大な円墳が存在したのかも知れませんが只の地名からの推測です。
古代からの聖地でしたが古代には眼前まで海が入り込み豊浦(とよのうら)と言う入江が存在した事が古代の海岸線からも玉前神社の伝承とも整合性が有り証明出来ます。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
なので鵜茅葺不合神が御住いに成った恐らく高床式、草ぶき屋根か檜皮葺屋根の宮殿が存在した時代には未だそれ程に大規模な稲作農耕は行われていなかったでしょう。
鵜羽神社と高藤山城の位置関係 久良岐のよし
しかし平安時代には海だった入江の大半は地盤の隆起と土砂の堆積で湿地化し、古代大和朝廷や武士団による開拓が行われ生産力を備えた地域に変貌していた事でしょう。
そして恐らく鵜羽神社と高藤山城の丘あたりに神社の前身と成った宮殿が有り、そこが郡衙に成って行ったのかも知れません。なので郡衙を押さえる場所に上総広常公も居館を構えて郡の行政を取り仕切ったのでしょう。
上総国の国衙が市原市に国分寺跡が有るので市原市に国衙が存在したとする説も有りますが、相模国の例を見ても少なくても3回は国衙の位置が東に西に中央にとコロコロと移されているので、国分寺=飛鳥時代以後の国衙と考えた方が自然でしょう。
上総広常公の苗字は国名の上総です。実はこの名前の区切り方は間違っておりフルネームで読まないと正しい意味が解りません。
彼の本名は・・・
平 朝臣(たいらのあそん) 上総介(かずさのすけ) 八郎  広常
・・・です。
平は氏(うじ)です。朝臣は姓(かばね)で朝廷内での姓。上総介は上総国長官代理 八郎は八男と言う意味です。
ですので以後の表記は平広常と書きます。
本来、房総半島の平氏を治めていたのは平広常公の兄の印東常重公でした。しかし彼は残忍な性格だったので多くの親戚家臣団は弟の平広常公の所に亡命してしまいました。
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幕山公園湯河原梅林
源頼朝公が石橋山の合戦を神奈川県湯河原町で起こした際に、印東常重公は京都の平清盛側に付いて源頼朝公と敵対しますが人望が無さ過ぎて実弟の平広常公だけでなく息子達も頼朝公の側についてしまし、後に富士川の合戦で印東常重公は敗死する事に成りました。
すると房総の平氏の頭領を平広常公が務める事に成ったので、上総国長官代理の祖先の上総介の官位を苗字として上総国支配の正当性を演出したのかも知れませんね。
その際に高藤山城を居城にしたのは、もしかしたら一時期、この地域にも国衙が郡衙と一緒に存在したからかも知れませんが、残念ながら古来、房総半島は戦が絶えず古代の行政資料が残っていないので確証は有りません。
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ただまぁ、平安時代には豊かな穀倉地帯と古代の陸地の丘陵が堅固な要塞に成っていた事だけは間違いありません。
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鵜羽神社一帯には今も水田が沢山残り長閑な風景を見る事が出来ます。
さて、鵜羽神社の地形や恐らく郡衙や国に成っていた事の解説はこれくらいにして、神社の境内の説明に戻ります。
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鵜羽神社(式外社) ※住所クリックするとGoogleMapで所在地を確認出来ます。
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神社の鳥居は木造の立派な造形です。田舎の鄙(ひな)びた神社でありながら由緒正しい威厳を兼ね備えていますね。
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恐らく昔は手入れされて水質も良かった、豊富な水量の湧水も有ります。
今では飲むとか無理そうです。
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社殿は一台高い所に存在。
これは当たり前。昭和初期までその農家の家も水害対策で常識的にこうしていた。
現代の土建屋は昔の人の知恵を無視するばっかりに盛土せず、この間の台風の際の二子玉川界隈の様な水害に遭ってしまう。鵜羽神社や普通の神社が一段高い所に有るのは昔の人の知恵。
そりゃそうだ、古代は神格化された偉い豪族や天皇家の御先祖の王族が住んだ場所なのだから。
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拝殿、幣殿、本殿と全て木造。昔は多くの農民で賑わったんだろう、社殿の規模は結構立派です。
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摂社にも神様が祀られているけど、詳しくは解りませんでした。
明治時代に周辺の神社が廃社に成った際にコチラに合祀されたのだろうか?
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背後の神域の山頂に続く昔の登山口は長い年月、と言っても恐らく昭和以後の過疎化で人の往来も無く成り風化と雑木林化が急に進み道も風化し手入れされていない様だ。登れない。
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神社の前野農村は本当に長閑でゆっくりとした時間が流れ良い。
清々しい空気と柔らかな陽光に照らされた木漏れ日を感じられる神社。
そんな風景が広がる神話の舞台が、この鵜羽神社です。

きっと皆さんの御近所にも実は凄い歴史偉人と関わりの有った城跡の山や、古代からの聖地だったけど小さくなった神社や、凄い武士達が支援した御寺が有る筈です・・・

ちょっと、御近所の神社や御寺を散歩して、説明の看板を読んで見ませんか?
そこに書いて有る事を知ると、思いがけずその場所が皆さんと歴史偉人や神様とを繋ぐタイムカプセルの様な役割の場所に成り、郷土愛を持つ切っ掛けに成るかも知れませんよ?


では・・・
又、次のブログ記事で御会いしましょう♪


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前回の記事⤵
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・①玉前神社と鵜羽神社の関係と地形解説。
・・・その続きです。今回は延喜式内社で神話の舞台、玉前神社の境内の紹介です。
先ずは玉前神社の地形の解説から始めたいと思います。
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玉前神社(延喜式内社)玉前神社は大通りを1本横に入った住宅街の中に存在しています。地形的には微高地に成っており、背後には一宮城址も存在しており前回の解説でも説明した通り、神話時代に相当する弥生時代当時は海に浮かぶ半島状の先端に存在している事が解かります。
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玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台でも有り、その後の時代の日本武尊神話の舞台の一つでもあります。
式内社と呼ばれる平安時代の人から見ても凄まじく歴史の在った神社には、縄文時代や弥生時代の祭祀遺跡を内包している場所、又は古代の集落遺跡に隣接していたり、集落遺跡の中に存在している場所も多く有ります。
下の二枚の画像は前回でも使ったGoogleEarthに古代の海岸線と神話の舞台の玉前神社と鵜羽神社を重ね合わせた画像と人工衛星写真の比較です。
玉前神社と鵜羽神社と三之宮神社の位置関係 久良岐のよし
現在の上総国神社位置関係 久良岐のよし
奈良時代以前の祭祀遺跡が出土する地形や、式内社にはこの様に古代の海に浮かぶ半島の先端や島、港に成る入江の最深部、又は大きな山の山頂、その様なランドマークに成る地形を守るような場所が聖地化しているケースが多く有ります。
走水神社 久良岐のよし
日本武尊(ヤマトタケル)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)神話の舞台の一つである走水神社と御所ヵ崎等も全く玉前神社と鵜羽神社との地勢と同じですね。
走水神社は日本武尊の冠を収蔵した石棺が本殿下に埋蔵されており、御所ヵ崎は日本武尊と弟橘姫の夫婦神が一時住んだ行在所として機能していた神話が有ります。
この御所ヵ崎の地形は完全に上総国一之宮の玉前神社と地形も日本武尊伝説の舞台としても一致します。
古代の貴人の住まいや聖地は半島の更に先の先端、海に浮かぶ島の様な地形ですね。
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古代の玉前神社辺りは真鶴半島の三ツ石の様な地形だったんでしょう。
三ツ石は今も自然崇拝の対象に成っていて注連縄と御社が存在しています。
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玉前神社は真鶴の三ツ石程の峻嶮な地形では無く略(ほぼ)なだらかな岬の先端だったと思いますが、この様な半島の先端部が古代の港湾守護の聖地化しました。
次回の鵜羽神社の紹介記事で説明する予定ですが、鵜茅葺不合神の母君の“豊玉姫の神話”でこんな話が登場します・・・
「海の中じゃ子供産めない!」と不安に駆られて陸の鵜羽神社を建設して出産した。
・・・と伝承が有ります。海中に突き出した玉前神社は台風や大潮の影響をモロに受けたでしょうから、古代の玉浦(たまのうら)の湾の最深部のシッカリした陸地多い所に居を一時的に移した事が解かります。
この聖地の立地条件は横浜市域(鎌倉郡・久良岐郡・都築郡・橘樹郡)と川崎市域(橘樹郡・多摩郡)でも同様です。
旧久良岐郡橘樹郡の古社古刹 久良岐のよし
横浜市域と川崎市域は武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱以後に古代大和王権に接収され天皇家の直轄領に成っていました。
久良岐郡・都築郡・橘樹郡・多摩郡ですね。
店屋(てんや)と表示されている場所は、古代の店屋と言うのは大和朝廷の軍事や物流の駅伝中継基地の在った場所が地名として残っていると推測される場所です。表示した場所以外にも沢山存在していたと思います。
日本武尊伝説の舞台となった場所が横浜市内には2ヵ所伝承していて神奈川区の宝秀寺と磯子区の妙法寺です。
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宝秀寺の一帯は神大寺地区と呼ばれ、戦国時代まで神大寺と呼ばれる大寺院が存在し宝秀寺には日本武尊一行を歓待したと伝わる大伴久応と伝わる人物の供養の土饅頭が存在します。
その神話伝承から横浜市神奈川区六角橋の地名は日本武尊の使った六角形の橋が宝として大切にされたのが六角橋の地名由来と伝わりますが、別の説では戦国時代の近江の大名の六角(佐々木)家が鎌倉時代に一帯の領主だったので、それに由来する説も有りますが・・・
神大寺は名前から神様を祀る神社だった事が容易に推測出来るので、元々は日本武尊と大伴久応とを祀った神宮寺だったのでしょう。
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三浦半島の走水でも日本武尊と弟橘姫を歓待したのが“大伴”黒主と伝わるので、この大伴久応と大伴黒主は同一人物でしょう。
そして古代の大伴氏が現在の横浜市域から三浦半島を治めていた事も同時に推測出来ますね。
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走水海岸の御所ヵ崎側からは真っ直ぐ先には富士山と夕陽が見える。
宝秀寺の近所に存在する塩嘗地蔵・・・
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・・・この御地蔵様前の住宅道路が古代の街道であり神大寺の入口と伝わっています。
古代天皇家の直轄領で無主の土地と成り、古代豪族がいなかった事で古代から聖地だったり豪族王の宮殿だった場所も郡衙(役所)以外は放置されて神社化せず平安時代に至り、そこを真言宗の開祖の弘法大師空海和尚が牛頭天王社や太子堂を建立して仏教や神仏習合の聖地として牛頭天王=素戔嗚尊を御祀りして聖地を保護して廻っている事が、各宗派の再興開基以前の前身寺院の寺伝から読み解く事が出来ます。
同様に修験道の聖地化した八菅山七所権現(八菅神社)や・・・CIMG6079
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・・・石山権現大山阿夫利神社等も存在します。
そして空海和尚は佐伯氏の出身です。
この佐伯氏は大伴氏の同族で水軍を統括し、大伴氏は天皇家の近衛軍を務めた一族だった事から空海和尚は日本武尊に与力した古代豪族大伴家所縁の日本武尊聖地を巡礼しながら仏教教化しながら神様を祀る神社を改めて建設して巡ったのかも知れません。
日本神話に造詣が深かったので、古代の港湾を守護する聖地に須賀神社や牛頭天王社を開き神話通り、海の守護神で軍神の素戔嗚尊を御祀りして海上交通の安全を祈願したのかも知れませんね。
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中でも弘明寺は古代大岡湾の最深部に存在しますが、そこは久良岐郡郡衙(ぐんが:郡役所)と推定されている遺跡も出土した場所です。現代では“厄除け大師”のキャッチコピーを川崎大師や成田山にパクられてしまいましたが古来厄除け大師と呼ばれ戦国時代にも有名で武士の崇敬を集めたのは弘明寺でしたが、このキャッチコピーの由来は弘明寺の表記が求明寺と言う字だった時代に空海和尚がここで国民の為に“国家鎮護”“災厄退散”の護摩行を行った“天皇家勅願寺”だった事を推測させる歴史が有る事から“厄除け大師”と呼ばれる様に成った歴史が存在します。
又、横浜市磯子区の古代の本牧半島上に存在した八幡橋八幡神社は舒明天皇の時代、西暦600年前後の成立と伝わります。同じく八幡橋八幡宮と本牧半島を挟んで反対側の古大岡湾に面した中村八幡宮も同時期の成立の社伝が有ります。
海上交通の神様として素戔嗚尊から八幡大菩薩=応神天皇に次第に役割が移って行くのは応神天皇が古墳時代の天皇家の祖先なので当然ながら古墳時代以後の事で、八幡橋と中村の八幡宮の成立時期も地形も整合性が有ります。
以上の様な古代の半島や湾の最深部以外にも古代の聖地は有ります。
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横浜市港北区の師岡熊野神社がやはり古代の太尾半島の上に存在し、縄文時代の貝塚が境内から発掘されており更に集落を建設するのに必要な聖地が存在します。
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熊野神社は水神様なので聖地化する由縁に成ったのがこの飲用水に出来る湧水池の存在に有る事が解かります。
他にも河川の合流する三角地形が半島と同じ様に聖地化します。
京都の下鴨神社や熊野大社本宮旧境内地の様な場所ですね・・・
下鴨神社 久良岐のよし
熊野大社本宮旧社地 久良岐のよし
・・・この三角州のケースは今回の玉前神社とは違うパターンですね。
しかし武蔵国には同じパターンの神社が有ります。
多摩郡の式内社 久良岐のよし
武蔵国の一之宮小野神社と二之宮小川大明神二宮神社です。
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古代の人が集落を築ける湧水も沸いています。川の水は飲めないんですよ、寄生虫なんかで御腹壊して薬の無い古代の人は死んじゃいますから。
さて以上の聖地の条件がバッチリ重なるのが玉前神社な訳です・・・
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・・・では、ここから玉前神社の境内を写真で紹介して行きたいと思います。
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参道正面に戻ります。
立派な朱塗りの鳥居の横の石柱に玉前神社と書いて有ります。
裏側を見ると・・・
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石柱の玉前神社の字は当時神社本庁のトップだった徳川宗敬(むねよし)公の揮毫らしいです。
徳川幕府のトップだったのに大坂城からスタコラ1人で逃げ出しちゃって幕府滅亡させた徳川慶喜公の甥っ子。よくよく考えると慶喜公が不戦の姿勢に転じた御陰で日本の近代化も成功してたりするので、何だかんだ叔父ちゃんが功績が有ったりする人ですね。
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一段低い場所の社務所。
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玉依姫と鵜茅葺不合神の夫婦神の神話の舞台だから当然、縁結びの御利益は強い!
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扁額は銅製。
個人的に銅製の扁額は平塚八幡宮で見て以来かな?
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日本武尊伝説の湧水。自由に御汲み取り出来ます。
伝説では走水から富津方面に渡り、鴨川市吉浦(葦浦)に回り玉前神社の辺りまで来たと伝わります。
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更に北上すると、やはり日本武尊神話の残る関東最古の大社格と伝わる鷲宮神社が存在します。
このルートから察するに・・・
古代の房総半島は入江が入り組んでるので行軍し難かったでしょう。東京湾岸古社と海岸線の位置関係 久良岐のよし
・・・一度外房に出てしまって船で北上しながら利根川を遡った方が行軍し易かったのかも知れません。
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境内のさざれ石。土砂も堆積すれば古代の玉浦も玉崎もさざれ石の様に陸地に成る・・・
当時は軍馬が余り普及して無かった筈なので、軍事物資の補給を絶やさない為にも輸送力の高い船での移動が都合よかったのでしょう。
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・・・神話では日本武尊が白鳥に成って飛来し、その羽が落ちた事で御神水となり日照りが続いて旱魃(かんばつ)に成っても水が決して枯れなかったと伝わりますが、その神話を正しくはどう解釈するのが正解なのか小生にも理解は出来ません。しかし軍事行軍する際に軍船の船団にも個人でも給水が必須です。
ですから天皇家とは別系統の鵜茅葺不合神と玉依姫の在地豪族化した御神孫の協力を得て、飲み水に成る湧水の有るこの土地に立ち寄り暫く駐屯し、軍事物資や食料と飲料水を補給したのかも知れません。
白鳥は何を比喩しているんでしょうね~?
もしかしたら弥生時代~古墳時代当時は麻布が衣料品の素材だったで、その時代に日本武尊は三国時代の魏から輸入した絹衣、真っ白なシルクの衣装を正装として着用していたりして、玉前神社に来臨した日本武尊の御姿が「舞い降りた白鳥の様だ」とか伝承したのがストレートに言葉だけ伝言ゲームで伝えられて、いつの間にか白鳥に成って飛来したとか変わったのかも知れませんね。
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社頭掲示に日本武尊の神話は掲載していませんでしたが、令和の今上上皇陛下も御若い頃に参詣されています。
仮に日本武尊の時代に当たる古代大和朝廷の邪馬台国の頃、既に魏から養蚕技術が導入されていたのならば・・・
古墳時代に入る寸前の時代に真っ白なシルクの衣装を着て行くだけで、大和王権の産業の質の高さを誇示出来た事でしょう。
・・・衣装だけで戦争を回避し、将来的に技術供与して在地豪族王族に富をもたらすと良い印象を与え、尚且つキラキラ光るシルクの衣装は神秘的な清潔感と権威を兼ね備えた印象も与える事が出来るでしょう。白鳥伝説はそんな日本武尊の外交と統治の戦略が形を変えて伝わった伝承だと思います。
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井戸の後ろに、半島の先っぽの島状の岬だった本殿の所在する一段高い壇地、その参道階段前の鳥居の左側奥側には摂社が存在します。
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一つは玉前稲荷神社、宇迦之御魂神。湧水地の水神で有り農業と商業を含めた富の象徴の神様。
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あと三峯神社。
秩父地方の山岳信仰の対象であり、やはり日本武尊神話の神社でもあります。
神話に由れば上総国辺りから関東平野の縁(へり)の秩父山系の三峯神社辺りに山が三つ並ぶ様子が美しく見えたので、三峯宮と名付けられたと言うのが三峯神社の由来らしいです。
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多分、その伝承に上総国が関係しているので上総国一之宮である玉前神社に近代に氏子サン達が三峯神社の御分霊を勧進されたのでしょうか?
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社殿は黒基調に金色の金属が映え、凛とした佇まいです。
古代は海に突き出し海に囲まれた聖地で、豊玉姫や玉依姫が恐らく斎王を務めたであろう神社。
その雰囲気に相応しい社殿ですね。
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本殿の近くに御神木の説明等も有りました。
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力石。
江戸時代の力士や力自慢農民の氏子が祭事に力比べで持ちあげてた石。
ネットの借り物画像⤵
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https://ameblo.jp/asonde-spain/entry-10014704968.html
画像拝借先⤴スペインのバスク地方とかでも同じ様な力比べ今でもしますよね。
昔は力持ちの男の人がモテたのかな?
ちょっと歴史のある神社なら結構現存してる場所も多い力石。
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あと本殿の裏っ側に戦没者を祀った御社みたいのも有りました。
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それと軍艦の砲弾。
境内には御神輿を展示した資料館的な綺麗な建物も有ります。
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この建物にトイレも有るので、トイレ綺麗で女性も安心だと思う(笑)。
全体的に神話が歴史とも整合して素晴らしい雰囲気の息づく神社です。
是非、皆さんも千葉県東部に足を運ぶ機会が有れば御参りされては如何でしょうか?
別記事にしますが、御近所には嵯峨天皇に菓子屋として珍しい勅許を頂いてる御店も有ります。

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かねきち
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上皇陛下も召し上がったそう。
御店の方が店内の写真撮影許可して下さったんで、又玉前神社~鵜羽神社の記事と別に紹介したいと思います。
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さて、玉依姫と日本武尊、二つの異なる時代に渡って神話の舞台と成った玉前神社、どうですか?
本当に素晴らしい神社なので是非、御参りして縁結び祈願や夫婦円満、はたまた日本武尊の交通安全や勝負の御利益を祈願されては如何でしょうか?

では、次は鵜羽神社の記事で御会いしましょう~♪
又ね!
続く⤵️
千葉県の縁結びの聖地の玉前神社と鵜羽神社・・・③鵜羽神社の施設と景色の紹介。
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神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 
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午前中、Twitterでフォローしてる縄文時代の遺跡のど真ん中に奥宮と聖地が有る相模原市の有鹿神社さんの古代から続く“水引神事”に参加する予定だったのに…
深夜に職場から帰宅し更に家でも作業をしていたら既に早朝5時、神事は9時半から。
出発予定時刻は8時前を目途にして少し仮眠をとった。
…つもりが、起きたら9時、当然横浜から50km以上も離れた神社に間に合う訳が無い。
この水引神事と言うのは一度断絶したのを北条家の殿様が1575年に復興した神事で、玉縄北条家や与力の間宮家の顕彰活動を行っている小生は当然参加し宮司様に取材をしないといけない行事だったのだ。
落ち込んだ。
 
諦めて不貞寝した。天気も雨で神事に参加出来ず陰鬱とした気分だった。
 
昼過ぎ、少し気力復活。
もそもそ動き出す。午前中に雨風強かったので恐らく満開に成ったであろう桜が心配。
気分を切り替え桜の写真撮影に行く事にした。
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最初の訪問先は御寺の歴史が1300年以上有る横浜市南区の弘明寺。その旧境内参道に広がる弘明寺商店街と大岡川沿いの桜並木。
この桜並木は弘明寺~日ノ出町まで直線距離で約5kmも続く。桜並木は川に沿っている為、実際は7km程度は有るだろう。
更に上流の笹下川近くまで桜並木は続くので、全長にすると10km位は有るかも知れない。
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見慣れないピンクの緋桜が目を引いた。
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説明板が有り“横浜緋桜🌸”と言う品種だそうだ。横浜市民なのに知らなかった。
先日、横須賀市安針塚近くの住宅街で見たのも、横浜緋桜だったのかも知れない。 
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弘明寺近辺だけ散策し、屋台でタコ焼きとお好み焼きを朝食兼昼食に食べた。
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味は普通だった(笑)。食べ終わってから川下へ1km位歩いてから又戻り、今度は遊歩道へ降りてみた。
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川の遊歩道から写真撮影をしたりと楽しんでから、親子連れやカップルの幸せそうな笑顔を見てこちらまで幸せにして貰った。
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川面(かわも)に浮かぶ花弁(はなびら)がとても綺麗だった。
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 う~ん、仲良し親子!
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元気に遊ぶ子供達!うむ!浜っ子とは斯(か)くある可(べし)だ!
この子達の様に冒険心を持って遊んでこその浜っ子だ!
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車を泊めた商店街の駐車場に戻る途中にカフェが桜ソフトクリーム成る物を販売していた。
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それを買って見た。
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食べると、桜フレーバーが香って美味しかった。
他にも酒屋の川松屋サンが弘明寺オリジナルの日本酒とビールを販売していた。CIMG3043
これ、興味有る人は酒飲みには少なくないだろう。
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良い地域振興の試みだと思う。まぁ、小生は普段酒は一滴も飲まないし、飲んでも神奈川県名産の梅を使った田浦梅林の梅酒や横浜大倉山梅林の梅酒なんだな。だから購入しなかったが目を引く素晴らしい商売だと思う。
駐車場に戻る前に弘明寺さんを山門前から御参りしてから次の目的地に移動したのが15時位だったろうか?
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その後、中区の根岸森林公園に移動。CIMG3047
根岸森林公園は日本最初の競馬場として幕末に建設が始まり明治時代に完成し太平洋戦争直前まで使用された横浜競馬場の跡地を利用した市民の森林公園だ。
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 広大な芝生に桜林と梅林、遊水池が有る。恋人同士や子供連れの良いピクニックの場所に成っている。
他にも競馬発祥地だけあり馬やポニーに乗れる馬場と、“馬の博物館”等も有る。
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チューリップの花がもう直ぐ開き見頃に成りそうだ。
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 そう言えば、東京都羽村市のチューリップ祭りも開催されたそうだ。観光協会に問い合わせたら横浜と同じく見頃は15日位だろうとの事だった。
羽村市のチューリップ祭りは本当に素晴らしいので興味の有る人は 以前の記事↓を読んで欲しい。

さて、話を根岸森林公園の横浜競馬場跡に戻す。CIMG3068

幕末以来の競馬場史跡なので戦後、米軍に接収された区域には未だに当時の競馬場史跡“一等馬見席”の西洋の城の様な立派な建物が現存している。
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これはいつ見てもカッコ良い。

現在は米軍管理下で手入れが行き届かず、部分的には荒れているが…
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それでも凄くカッコ良い!
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 これ、何でTVドラマや映画の撮影で使用されないか横浜市民として不思議でならない。
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 やはり、米軍の敷地内なので許可が下りないのだろうか?
そろそろ横浜市か国の文化庁に返還されて重要文化財指定の上で再整備して赤煉瓦倉庫みたいにショッピングモールやカフェのテナントを入店させても良いんじゃないかと思うが需要が有るかは微妙な所ではある。
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 まぁ、場所柄ホテル等に転用出来れば、米軍の将校の方々の家族の来日の際は宿泊等も見込めたりして?

森林公園部分に話を戻すと公園内には多くの立派な桜の林が有る訳だが、桜の根元には菜の花も咲いておりとても綺麗だ。
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午前中は雨天、午後も霧雨が降ったが、それでも付近の山手地区や本牧や米軍基地用地に住む異人サンや日本人が一緒に花見の宴会を開いていた。
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 リア充も多数出没。
緑豊かな場所なので雨が上がってからは子連れの親子も遊びに何組か来ていた。
幸せそうで羨ましい( ´艸`)!
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そう、思わず顔文字で(笑)を( ´艸`)と表現したく成る位に温かいホッコリを分けて頂いた。
その幸せは普通の様でとても大事なものだから大切にしてね♪
あの子達がずっと幸せに育ちます様に!
パパさん、子供の為にも伴侶の為にもシッカリな。
ママさん、あんまりパパさんにガミガミ強く言わないでね(笑)。
根岸森林公園の近くには松任谷由実が荒井姓時代に歌った「海を見ていた午後」の歌詞の舞台“ドルフィン”と言うレストランも在る。今日は行かなかった。
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※昨年の写真。車に乗り込み次の目的地の国指定名勝 三渓園に向かったのが18時少し前だった。

三渓園はこの桜の時期と紅葉の時期は駐車場が混雑して中々入れない。
まぁ、小生は時間に余裕も有るのでそれを見越して車中でTVを見たりiPodで曲を聴きながら順番を待ち19時頃に駐車に入る事が出来た。
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今年の桜は近年中一番発色が良く、1本の樹木に対する花弁の密度も多い気がする。
とにかく、見頃だった。
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 枝垂れ桜だけはま未だ少し早い様で、12日位が見頃に成りそうだ。
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相変わらず、この時期に行われる桜のLight up行事「観桜の夕べ」の演出は素晴らしく三渓園の庭園と見頃を迎えた桜の調和した美しさが他所の夜桜の演出よりも際立っている。
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恐らく日本屈指の夜桜の美しい風景だろう。
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まぁ、美しい庭園に在る分、少し反則なんだが(笑)。
これに対抗出来るのは高遠城や弘前城程度の名所じゃないと無理じゃないかと個人的に思う。
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午前中は、いつもの自分なら出発してから仮眠するのに、先に仮眠をして寝坊し貴重な体験をする筈が台無しにしてしまいクサクサしたが、午後は桜🌸達と幸せそうなカップルと家族達の御蔭で幸せな時間と成った。

桜を一頻り見て、帰りにスポーツジムに行き1時間ばかり汗を流してから、銭湯の大浴場の湯船に入り肉体的にも癒されて帰宅した。

ふむ。桜と皆の幸せそうな笑顔の御陰で午前中のブルーも吹き飛び良い一日と成った。
参加出来なかった神事、ちゃんと後日、宮司様に取材に行かないと北条家の顕彰文の記事にかけないな。
…幸せと同時に新たに行うべき事が出来た。

では、皆さんおやすみなさい♪

あ!そうそう、三渓園のライトアップは明日までですが、桜自体は12日頃まで楽しめそうですよ!
三渓園のアクセス方法は前回の記事に掲載して有ります。

コレ↑ね。
では皆さんにとっても良い春の日と今週が成ります様に♪
今日寝坊して御会い出来なかった有鹿媛様と有鹿彦様の夫婦神様に祈願しておきます( ´艸`)ブハっ(笑)。
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横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
北条政子様木像画像
今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

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下の写真は港南区笹下に所在する梅花山成就院です。
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この御寺の存在を横浜市でも知らない方が多いとは思いますが、杉田玄白や間宮林蔵の一族、間宮家の安土桃山時代~江戸時代初期の本家と歴代住職が深い関係が有ります。そして戦国時代の笹下城の一角に建っている御寺です。

この成就院の山門は江戸時代に本牧奉行を務めていた間宮家の本家、笹下間宮家が本牧奉行を辞任し、幕府により下総国に転封される際に笹下陣屋から移築されたものです。つまり江戸時代初期から存在する間宮家の屋敷の邸門です。
笹下間宮家と言うのは江戸時代に旗本として成立した家で、そもそもは室町時代に鎌倉将軍府の初代公方、足利基氏公に従って近江国より伊豆国に移住して来た佐々木一族の舟木信行が、現在の伊豆の国市、旧函南郡馬宮(まみや)に移住して来た際に、所領となた馬宮の地名をとって馬宮に改姓、後に間宮を漢字を改めた事に始まる一族です。
祖先は宇多天皇、近江国篠箇(ささげ)庄の出身の近江源氏佐々木家の一族です。
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六角家、京極家、黒田家、乃木家、間宮家は全て佐々木一門で、佐々木家の祖先で宇多天皇の御子息の敦実親王を御祭神とする滋賀県近江八幡市安土町に所在する延喜式内社(西暦800年代以前造営と朝廷公認の神社)の沙沙貴神社にも、間宮家の家譜が佐々木一族として記録されています。
その間宮一族は関東において武将として陸戦のみならず水軍も率いており、更に築城家、鷹匠、外交官、内政官としても活躍した記録の残る稀有な一族です。
戦国時代には北条家臣と成ると、“相模国人衆の14家の筆頭”に数えられました。
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上は神奈川権現山合戦で活躍する間宮彦四朗=間宮信冬公です。
戦国時代に最初に活躍したのが、鶴見区末吉、川崎市川崎区一帯を領有した間宮信冬公です。
間宮信冬公は扇谷上杉家と山内上杉家の連合軍を、北条家の先鋒として現在の京急神奈川駅一帯に在った権現山城に上田政盛公と共に籠城し迎撃すると、敗戦濃厚と成った際に敵陣への突撃を敢行し武名を関東中に轟かせました。
時代は下り、信冬公の系譜上の跡継の間宮彦二郎信盛(別名:信親)公が信冬公の権現山合戦の頃に川崎を一時失陥したと思われ、本拠地が川崎や末吉から磯子区杉田に移ります。
更にその後、信冬公の孫の間宮信元(別名:盛頼)公と曾孫の間宮康俊(別名:信俊)公と間宮綱信公時代には現在の港南区笹下地区~磯子区洋光台地区の広大な範囲に築城された笹下城に移されました
間宮康俊公は安土桃山時代の間宮家当主で、関東最強だった猛将の北条綱成公の付家老(つけがろう:家臣ではなくて役職上の補佐官)として大活躍します。北条綱成公は武田信玄や上杉謙信の侵略から幾度も防衛に成功した名将で“地黄八幡”の異名で周辺大名から恐怖の対象と成った人物です。
その綱成公の強さは、武田信玄は配下の真田家に対して「地黄八幡の武功に肖(あやか)れ」と、戦場に落ちていた北条綱成公と間宮家の率いた”黄備え隊”の軍旗を真田家に与え薫陶を授けた程でした。この”朽葉色の八幡旗”は以後真田家の家宝と成り、現在も松代市の博物館に保管されています。
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※写真は日本百名城の一つ、箱根の山中城。出丸と、それを取り囲む障子掘り状の三日月掘り。
間宮康俊公は北条綱成公の没後、豊臣秀吉の小田原攻めの際に箱根山中の山中城に城将松田康長と共に手勢200弱で籠城、秀吉軍本隊8万の先鋒豊臣秀次率いる中村一氏と渡辺了、一柳直末、堀尾吉晴、山内一豊、長谷川秀一等有名武将の大軍勢26,000を迎撃、圧倒的不利で玉砕するも奮闘し豊臣勢に寡兵で大打撃を与え、秀吉配下の小大名一柳直末を討取る大功を建てました。
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※上の写真は横浜市鶴見区下末吉に在る長谷山寶泉寺です。
鶴見区に在る長谷山寶泉寺は江戸時代に成っても毎年、間宮康俊公を慕う旧家臣団が集まり追善供養を行った場所で、康俊公の御位牌も最近まで安置されていた場所です。
現代では普元院殿武月宗閑が一般に康俊公の戒名と誤って認識されてしまっています。
これは康俊公の御息女で徳川家康公の側室に成った“間宮於久(おひさ)の方”様と御子孫の戒名取り違えによって康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名である普元院殿武月宗閑が誤認されてしまった様です。
この普“”院殿武月宗閑には間宮信元公の俗名の"元”の漢字が入っている事からも、戒名に俗名を一字取り入れる事の多い風習を考えれば、やはり信元公の戒名が現代、康俊公の戒名として取り違えられてしまっている様です。
この康俊公の入道号( にゅうどうごう=出家した僧名)は江戸時代に家臣団が度々追善供養を行った寶泉寺では正しくは「一宿宗覚庵主」として伝わり、戒名は「普光院殿壱宿宗覚庵主」とされています。。この戒名は康俊公が参禅した際に伝燈録の永嘉(ようか)大師の法話を紹介した間和の記録にも残っていたそうですが、近年の寶泉寺の本堂の火災で文書や康俊公の御位牌は焼失してしまいました。
しかし新編武蔵風土記稿に御位牌が祀られていた菩提寺である事が記録に残ります。寶
泉寺寺伝の戒名が正しいと断定出来る記録が更に別の御寺にも残ります。
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※上の写真は横浜市南区の瑞往山蓮華院弘明寺(ずいおうさんれんげいんぐみょうじ)です。
この弘明寺は元は求明寺と書いて「ぐみょうじ」と読みました。鎌倉時代に寺名を一字改名していますが、横浜市では最古級の御寺です。この御寺には間宮家の家臣団と武将が多く関与しています。
一つは、間宮信俊公と言う人物の記録が有ります。天正十八年(1590)年、間宮康俊公が山中城で討死する前年に官途が監物の間宮信俊公が弘明寺の寺宝の花瓶を私財で修理し奉納した記録が残ります。
信俊公と康俊公の名前が酷似していますね。これは同一人物で、信俊は康俊公の初名、もしくは北条家の武将としてでは無く個人として真言宗寺院に関与する際には祖先の佐々木家以来の“通し名”の一字である"信”の字の入った名前、初名の信俊を名乗ったのではないかと推測出来ます。
更に、有力な証拠が記録に存在しています。
江戸時代、間宮信元公の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌編纂で功績を上げて頭取を務めた間宮士信(ことのぶ)公が編集した記録にスケッチされた絵図と一緒に紹介されている、弘明寺の扁額に関する記載です。
この記載によれば、現代では紛失した“弘明寺”と書かれた扁額は入道号が宗閑と言う人物の同伴衆(家臣団)によって大永元年(1521年)に奉納したと扁額に裏書されているそうです。
その中には川崎大島村の伊左衛門と言う、寶泉寺で追善供養に参加していた人物の祖先と思われる人物の名も有り往島(おうしま)と記載されています。扁額の裏書には“板旦那神奈川住人”と書かれ製作出資者の一同が間宮家の所領、神奈川と呼ばれた川崎~末吉~権現山一帯の人間である事が解ります。続いて“端山内匠助国重”と書かれています。“端山(はやま)内匠助(たくみのすけ)国重”は製作者名でしょう。続いて書かれた“本願宗閑 同伴衆”奉納者達が宗閑の家臣団と解ります。つまり、この扁額の奉納時に、既に彼等を配下にしていた宗閑は生前から禅宗に帰依して入道(僧籍に入り)“宗閑”の入道号を名乗っていた証拠に成ります。
宗閑の戒名は一般的に間宮康俊公の戒名と言われていますが、間宮康俊公は永正十五年(1518年)生まれです。
この弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で間宮康俊公は僅(わず)か3歳ですので、当然、僧籍に入り入道号を得る程の年齢でも無ければ、家臣団を従えて神社仏閣に祈願の奉納もする訳も無いし、まだまだ間宮信元公が存命中なのに3歳の康俊公が家財を投入出来る訳も無い訳です。
こと、ここに至れば当然、戒名と名前の“元”の漢字の一致、年齢からやはり康俊公の御父君“間宮信元公”の戒名が普元院殿武月宗閑であると判断出来ます。
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※上の写真は伊豆山中城址に建つ宗閑寺。間宮康俊公の菩提寺。
間宮康俊公は天正十八年(1590年)旧暦三月二十九日(5月3日)に当時としては高齢の72歳で戦死しています。
恐らく、康俊公の御息女の於久様は旦那様の徳川家康公に御願いをして、山中城址に康俊公の菩提寺を建てる際に御寺の名前を決める為に康俊公の一番最近関与した御寺を訪ねて法名を決めて貰ったはずです。
つまり、信俊と康俊が同一人物であるなら、間宮家の関与していた弘明寺です。
そこに間宮康俊公が生きた時代に記録である入道号が“宗閑”と扁額に有ったので、そのまま御爺様の間宮信元公の事績を年齢的に知る筈(はず)も無い、於久様や徳川家によって派遣された人物が当時の弘明寺の調査をして、この“宗閑”を康俊公の入道号と誤認したのでしょう。そして、間宮康俊公の戒名にしてしまった。ところが、家臣団達は康俊公の没後直ぐに康俊公が信冬公が開基した寶泉寺を中興した事を当然知っていて、寶泉寺の住職にちゃんと戒名を付けてもらったので法謚(ほうし=入道号)は一宿宗覚庵主で普光院殿壱宿宗覚庵主と戒名が伝わったのでしょう。そして曹洞宗の僧侶達はそれを知っていたので、江戸時代の法話でも伝えたのだと推測が成り立ちます。
この一宿宗覚庵主が鶴見区の家臣団や川崎の家臣団の伝承通り康俊公の入道号ならば、更に信俊と康俊の事も差異が埋まります。
 では、間宮信俊と間宮康俊の謎に移りましょう。
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※御廟所の写真撮影は失礼に当たるので掲載しません。
この御本堂の左手に、間宮家や豊臣方の一柳家や長谷川家の戦死者の御廟所が在ります。
間宮康俊公の五代子孫、間宮正次公が箱根の山中城址で追善供養を行った際に、この信俊公と康俊公を別人で兄弟として間宮家の墓碑を建立しています。
この墓碑には間宮信俊公の異名が"一本将監(いっぽんしょうげん)”として、間宮康俊公の法名が“普元院殿武月宗閑”と彫られています。しかし、康俊公の生年から普元院殿武月宗閑が戒名で有る事は無い訳です。

間宮信俊公の異名が"一本将監”で有る事、寶泉寺と川崎の家臣の伝承の間宮康俊公の戒名が“一宿宗覚庵主”である事、弘明寺の寺宝の壺を直した間宮信俊公の官途が“監物(けんもつ)”で有る事、これらの名前は少しづつ似ていて、他には例のない相似です。
時系列でまとめてみましょう。
間宮康俊公の名前の“康”の漢字は主君の北条氏康公からの一字拝領。
両者の年齢、康俊公の生年の永正十五年(1518年)と北条氏康公の元服の享禄二年(1529年)から1529年以降しか北条氏康と名乗った事実は無いので、弘明寺扁額の奉納された大永元年(1521)年時点で主君の北条氏康公から“康”の一字を拝領する事は不可能よって年齢から初名が間宮信俊と推測
②公私と宗派による名の使い分け。
北条家は曹洞宗で家臣もこれに従う習慣が有ったので、祖先の佐々木家以来の宗旨が真言宗で有る事から、公の北条家臣と私では名前を使い分けていたのでしょう。
北条家臣として御寺に関わる時は康俊。
佐々木家以来の伝統で真言宗の御寺に関わる時は祖先以来の信の字が入る初名の信俊。
③徳川家の使者の調査ミスによる間宮信元公の戒名を誤報告。
①や②の事情をを知らない於久か徳川家康公に派遣された徳川家の調査員が誤って間宮信元公の戒名を報告した。ところが笹下と杉田と氷取沢の間宮一門衆や旧間宮家臣団は間宮康俊公の入道号が“宗覚”と当然知っていて、康俊公と一番関係の深かった寶泉寺の当時の御住職に戒名を一宿宗覚庵主と決めて貰い既に寶泉寺で供養をしてしまっていた
④徳川幕府のミスを間宮家臣団が指摘できる筈も無く…間宮信俊の俗名と康俊普元院殿武月宗閑戒名の併用
戒名における徳川家のミスを間宮家や家臣団が指摘しよう物なら徳川家康公のメンツも潰す事に成る、於久様の立場も悪くする、更に家康公に外戚として重職を与えられ可愛がられた康俊公嫡孫の間宮直元公の地位も危うくなる。
そんな指摘を出来る訳が無い!そこで…
間宮一門衆はやむなく
公の立場で間宮康俊公の供養をする際は間宮康俊普元院殿武月宗閑と俗名の間宮信俊を兄弟として両方一緒に供養する事以外に手段が無かった。
⑤…ところが子孫には④のそんな事情も知らない物も100年も経てば当然出て来た。
間宮本家の五代目、間宮正次公は四代目の養子。しかも四代目の間宮正信公は実兄だった。つまり、間宮正次公は嫡子としての教育を受けないまま兄の養子に成って跡を継いでいる。一般的に兄弟間で養子に入る際は大体が兄の急死による末期養子か、無嗣子のまま体調が悪くなり途中から養子に入るパターンが多い
そして間宮正次公は兄の病死を祖先の戦死した山中城で供養をしなかった祟(たた)りとでも思ってか、山中城で追善供養を行う事にしたのだが…
間宮正次公は山中城で祖先達の追善供養を行う際に、家系図を調べたが、幕府提出用に編纂された家系図には④の事情から同一人物の間宮信俊と間宮康俊の名が有り、更に公式な戒名として記録されてしまっている普元院殿武月宗閑が間宮信元公の戒名と何ぞ知る訳も無く、墓碑に間宮信俊公と康俊公を別人格として彫らせてしまった。
そして、これが間宮家内で間宮信元公の戒名が忘れ去られる原因に成ってしまった。
以後、現代に至るまで多くの学者がこの事実を知らず、寛政重修諸家譜の誤りをそのまま引用するしか無く成り、間宮家の最古参の家臣団の集まる川崎や下末吉地域に伝わる正しい間宮康俊公の戒名の一宿宗覚庵主が現代では余り知られなくなってしまった…

そんな訳で、有名な文書しか読まない学者先生には申し訳有りませんが、時系列による寶泉寺や古参家臣団の伝承と弘明寺の記録上、寶泉寺の寺伝が正しい事に無いります(笑)。

又、間宮家では康俊公の御舎弟、間宮綱信公も大変に活躍されました。
滝山城主で北条家当主北条氏政公の御舎弟北条氏照公の付家老として活躍した人物です。間宮綱信公は築城家、内政官、外交官として活躍し、北条家の外交官として徳川家康公と謁見し、更には安土城に赴き織田信長公にも謁見した人物です。
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※写真は日本百名城の一つ、八王子城の御主殿(本丸)の石垣。八王子城は間宮綱信公の縄張りと伝わる。
また、間宮信冬公の孫の代に分家した杉田間宮家も初代の間宮信次(本名:常信)公が記録に残ります。
間宮家が三浦半島の走水で房総半島の里見家の水軍を撃破し敵軍船14艘を鹵獲する等の大活躍をした際に、杉田間宮信次公は手勢50人余りと玉砕した記録が現代に伝わります。この手勢50人は歴史に興味の無い人からすれば小勢ですが、実際は一万石の大名の動員可能兵士数が300人なので、石高換算すると江戸時代の1500石相当の大身旗本クラスに相当します。小大名の家来なら家老に成れる程でしょう。
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※上の写真は戦国時代からの杉田間宮家の菩提寺、牛頭山妙法寺。
杉田間宮家は水軍を持つだけでなく、笹下間宮家の間宮康俊公の子の間宮元重公、康俊公の娘の継姫(つぐひめ)様の子の間宮(旧姓:豊前)元盛公と並び“鷹匠”としての高い教養を備えた家柄でした。
当時の鷹匠は武士で、鷹狩は高貴な血筋の武士の嗜みでした。
江戸時代に成ると杉田間宮信次公の嫡孫、間宮信繁公が大規模な梅林を造営し杉田梅林として有名に成りました。
この杉田梅林で植林されたのが幻の高級梅干し“杉田梅”の原種で、この梅林は江戸時代を通じて江戸市民の観光旅行先として有名で、明治~大正にも皇族の方々が度々訪れる程でしたが、横浜市教育委員会が保護を怠った為に杉田梅林は宅地開発され消滅してしまいました。
現在の御住職様が妙法寺の裏山、“妙法寺山”と昔呼ばれた境内地の丘の上に梅林復興を目指し目下奮闘中です。
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※写真は小田原市の曽我梅林。神奈川県下最大の梅林で現在は曽我十郎梅の産地。
実は曽我梅林の起源は、昭和初期に杉田梅林が消える直前、杉田から移植された杉田梅の梅林を発端としています。そして、この梅林の杉田梅を更に品種改良したのが曽我十郎梅と言う訳です。つまり、間宮信繁公の植えた梅の遺伝子を継ぐハイブリッド品種が曽我十郎梅で、東の梅の横綱と言う訳です。
そんなこんなで間宮家は色んな殿様が色々あって家系図も混乱していますが、素晴らしい功績を残している訳です。
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※上の写真は駿府城。
間宮綱信公が徳川家康公と直接面識が有った事、間宮家が間宮信冬公~間宮信盛(信親)公~間宮信元(盛頼)公~間宮康俊(信俊は同一人物の可能性有り)と歴代水軍、陸軍の戦闘で北条綱成公の武名を支えた事、そして最後の山中城の戦いの活躍が徳川家康公の目に止まり、於久様が側室と成り御姫様を産み、駿府城で生涯を終えました。
※下の写真は家康公の祖母の源応尼様の菩提寺で、華陽院と名付けられた。
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華陽院の寺名は、家康公の祖母の源応尼の戒名をとって名付けられました。家康公に大切にされた於久様は、この華陽院に御廟所が設けられ、家康公の御婆ちゃんの近くで眠ってらっしゃいます。
さて、ここからやっと笹下城址に建つ梅花山成就院に話が戻ります。
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この成就院の山門は間宮家の笹下陣屋の邸門です。
つまり、徳川家康公の側室、間宮於久(おひさ)の方の甥っ子の間宮直元公が初代として数えられる笹下外戚で、間宮直元公~御子孫の正次公が本牧奉行を辞職して下総国へ転封されるまでの四代の間の邸宅の門だった訳です。

そして成就院の背後の丘一帯が冒頭で紹介した笹下城本丸跡です。

この成就院一帯には昭和のIHI団地開発で破壊されるまで境内と周辺一帯が江戸時代に植林された梅林に囲まれていました。先に紹介した磯子区杉田の牛頭山妙法寺周辺の杉田梅林と合わせて観梅の名所でした。

現在では杉田と笹下は近代の横浜市成立後の区域分割で分けられていますが、間宮家が川崎市堀之内に在った城館から久良岐郡に移った頃には、杉田と笹下は一つの久良岐郡“上/下杉田郷”と言う区分でした。1510年に権現山合戦が発生し間宮家が杉田郷に移住し、1526年に鶴岡八幡宮合戦が起きて鎌倉防衛と沿岸部の防衛を兼ねた城が必要に成り、間宮家が信元公の代に至って鎌倉街道と金沢(六浦)道を押さえるのに適した笹下村の丘陵に笹下城を築城し本拠地とすると、笹下の地名が記録に登場する様に成ります。これは笹下城の名が間宮家の故地、近江国篠箇(ささげ)から名付けたとする説にも整合性が有り、杉田を治めた間宮信次(常信)公と兄弟での統治区分から笹下城の笹下郷と杉田郷と区分された様です。しかし以降も江戸時代まで杉田郷を笹下郷の地名が両方混在して記録される事も有った様です。

そんな杉田梅の杉田梅林と笹下城址の梅林を江戸時代初期に非常に身分の高い方々が京都から見学にいらっしゃった事が成就院に関する記録に残ります。前関白の九条幸家公と京都の本願寺の第十三世良如上人が金沢八景を遊覧しに参られた時に、笹下城址の梅林も見学にいらっしゃいました。九条幸家公の御姫様は良如上人の御妻女でした。この間宮家の梅林見学の際、御二人は成就院に滞在され梅林の美しさを絶賛された事で成就院の山号は梅花山に改められた歴史が有ります。

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※上の写真は築地本願寺です。

現在の本堂は関東大震災後、昭和九年(1934)年に完成したインド様式近代建築で国の重要文化財に指定されています。
浄土真宗関東根本道場として徳川家康公、本田正信公、間宮直元公の没後直ぐの元和三年(1617年)に最初の堂宇伽藍が完成しました。築地本願寺の造営には、徳川家康公の要請で大坂から移住して来た佃島の漁師達の協力が有り当時は海だった境内地と周辺の築地の埋立工事が成功しました。

築地本願寺の建設中は丁度、大坂冬の陣の直前に当たり、徳川家康公が駿府城に御隠居し、徳川秀忠公は征夷大将軍として江戸城に在城していました。間宮家が付家老として与力した玉縄城主の北条氏勝公は下総国岩富城に転封され、家康公参謀の本多正信公が玉縄城主に成っていました。

梅花山成就院に良如上人がいらっしゃったのは、完成して数十年後の築地本願寺へ御越しに成る際に鎌倉~金沢~笹下と金沢道(笹下釜利谷道路)沿いに旅をし遊覧されて回った事が推測出来ます。そして笹下杉田の梅林の事を御存知だったのは、築地本願寺建設中に准如上人の時代に、本多正信公が熱心な一向宗(※当時、江戸幕府統治下での浄土真宗の名称)門徒だったので、居城の玉縄城から近い間宮家の笹下と杉田の梅林を観光地として准如上人へ紹介されていたのでしょう。

加えて、氷取沢間宮家の間宮綱信公の菩提寺である宝勝寺や、笹下間宮家臣団の関与の有った成就院が一向宗の寺院だった事から、間宮家の笹下城本丸跡の下に建つ成就院が良如上人御一行の滞在場所に成ったのかも知れません。

杉田梅林や岡村梅林に匹敵する規模を有した笹下の梅林も、横浜市教育委員会と観光協会による保護が無かった為に残念ながらIHI団地の建設で消失しました。
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※写真は鎌倉の若宮大路から見た鶴岡八幡宮。

この成就院には幕末に僧籍から還俗し、元治元年(1864年)11月21日に鎌倉の若宮大路で鎌倉事件を起こした間宮一の廟所も存在します。

鎌倉事件は攘夷派の間宮一と清水清次が起こした事件ですが、二人の姓は伊豆以来の旧北条家重臣の姓です。鎌倉事件は間宮林蔵公にも見られる旧北条家臣団の結びつきを伺わせる事件でもあります。

この鎌倉事件の発端に成った事件が2年前に横浜市の笹下間宮家の旧領、末吉から近い生麦で起きています。

生麦事件は英国政府による日本での租界地獲得の政治的意図が見え隠れする事件で、間宮一はこれに義憤を感じ事件を起こした様です。

間宮一が同じ旧北条家臣と思わしき清水清次と鎌倉事件を起こした元治元年の2年前、戦国時代に間宮康俊公の所領だった鶴見区末吉の直ぐ隣の鶴見区生麦で、文久二年(1862)年8月に日本人なら誰もが義務教育で“生麦事件”が起きました。
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上の写真は鶴見区生麦の旧東海道、生麦事件発生現場と、下の写真はそこに民間によって設置された碑文。
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文久二年(1862年)8月、公家と武家が過激派の攘夷分子と、現実路線で分裂し日本に内戦の気配が漂い始めた頃、内戦を阻止し日本の速やかな近代化を図(はか)る薩摩藩の前半主島津久光公は公武合体を将軍に具申すべく薩摩兵700を率いて江戸へ登り、その帰り道に現在の横浜市鶴見区生麦で事件は発生しました。
横浜の英国人商人マーシャル、マーシャルの従妹で香港在住のマーガレット、横浜の米国人商人のクラーク、上海在住の英国人商人リチャードソンが事も有ろうに薩摩藩の軍列に対し正面から騎乗したまま突っ込んで来ました。この様な行為は英国でもテロ行為と見做(みな)されて即時射殺か斬殺されて当然の行為なので、彼等の中に何某かの意図が有ったのは明白でしょう。

しかし薩摩藩士達は外国人で有る事から日本の作法を知らないものと解釈し、当初は前衛の藩士達が騎乗のまま突っ込んでくる欧米人に対して身体を使って道を明ける様にジェスチャーをしたそうです。しかし英国人達は騎乗のまま隊列に突っ込んで来ました。これは明らかな政治的な意図の介在する挑発行為、もしくは本当に愚かな白人上位思想からくる黄色人種蔑視から来る嫌がらせでしょう。英国でも当然、庶民が貴族の馬列に正面から突っ込み体当たりをすれば反社会的行為と見做されます。挙句の果てに、彼らは久光公の籠の傍まで来て薩摩兵の隊列を

き乱す動きをし縦横に動き回ったそうです。その暴挙に至り、薩摩藩士はやむなく前藩主久光公護衛の為に不良外国人4人に斬りかかりました。
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※上の写真はリチャードソン落命の場所に日本人によって建てられた供養碑です。

4人はアメリカ領事館であった本覚寺に逃げ込もうとしますが、結果的にリチャードソンに致命傷、現在の国道1号線(東海道)と旧東海道の合流地点近くまで来て落馬した所で止めを刺されました。マーシャルとクラークは重傷、マーガレットは騎馬で薩摩藩の隊士蹴散らし離脱しました。

リチャードソン落命の場に日本人が建てた供養碑が有ります。一連の事件は明らかに英国人集団に非が有ります。しかし英国は事件の発生直後に幕府に対して莫大な賠償金を請求します。日本への賠償金請求に発展した挙句、幕府が道理に乗っ取り拒否すると理不尽にも英国外務大臣のラッセルが対日宣戦布告の準備を横浜で始めさせます。極めて計画的です。

これは巧妙に仕組まれた英国による租界、或るいは植民地獲得の為の政治的意図が見え隠れします。

この英国の強硬な態度に対して、国際法を熟知していない老中並の小笠原長行は英国と日本国の間で調停裁判を起こす事も無く、臆して独断で賠償金支払いを決めてしまいました。幕府の賠償金支払い後も当然ながら英国は脅迫を止めず英国艦隊を鹿児島湾に強硬入港させ、薩摩に対しても賠償金を請求し挑発をします。英艦隊は薩摩藩軍艦を拿捕し更なる挑発をすると薩摩藩は生麦事件の時と同様に喧嘩を買ってしまい英国艦隊を砲撃し薩英戦争が勃発します。

しかし、ここからが面白い事に恐らく英国人にとっては予想外だった展開に発展して行きます。

薩摩藩は意外にも劣った武装と防衛施設で善戦し、英国艦隊に大打撃を与えてしまうのです。これは日本人にとって幸運な事で、英国人の日本人に対する明治期の好意的な評価につながって行ったと思われ、薩摩藩も英国の植民地化されずに済み、更には日本近代化の窓口を大きく開いた瞬間でもありました。後に英国は近代において最大の親日国、支援者に成りました。

※下の写真は横浜市中区の本牧山妙香寺です。
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妙香寺は弘仁五年(814年)に弘法大師空海和尚の開いた寺院で、本牧山東海寺と言う寺名でしたが、鎌倉時代に領主で御寺の大旦那だった佐藤家が、日蓮上人が同寺に滞在された際に感銘を受け宗旨を改宗したそうです。

山号の本牧山の通り、久良岐の丘、本牧半島の先端に在る寺院です。

古代の日本武尊の頃~奈良時代に本牧半島は軍馬の生産地でした。これによって本牧の地名が当地に残ります。妙香寺は江戸時代、多くの学僧を抱えた壇林として栄えた御寺で、間宮直元公が本牧奉行として治めた地域に在る御寺でもあります。幕末に成ると、江戸幕府に寺域が英国軍の駐留地として指定された事で日本の吹奏楽発祥地・国家君が代発祥地・テニス発祥地に成りました。
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※写真は山手町公園内に在るテニス発祥記念館。

薩英戦争の際の薩摩藩の善戦によって英国はアプロ―チを変えて行きました。薩摩と英国は蜜月な中に成って行き、現在の横浜市中区の本牧山妙香寺に英国軍駐屯地が置かれると、薩摩藩士が妙香寺に入りびたり英国軍のジョン・ウィリアム・フェントン軍楽団長に師事して吹奏楽を学ぶ様に成ります。

このフェントン軍楽団長が「世界に通用する国として国歌を持つべき」との提言が有り、日本国歌が作曲される事に成りました。“君が代”はフェントン軍楽団長作曲、歌詩は後の大山巌(おおやまいわお)元帥により行われ、古今和歌集第七巻賀歌の部から選定されました。
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※写真は江戸時代に榊原照清公の邸宅が在った当時は海に浮かぶ島だった越中島跡に架かる錬兵衛橋。
杉田間宮家の間宮信繁公の御息女は、久能山東照宮初代宮司の榊原照久公に嫁いで、榊原照清公を産みました。その居所が在ったのが東京都江東区に在る越中島と言う当時は島だった場所です。現在は埋立られて地域名に成っています。
明治三年(1872年)9月8日に国歌君が代は初めて日本で演奏されました。その場所が越中島でした。
この越中島は紹介した通り間宮家と所縁の深い土地でありますが、大山巌元帥も間宮家と同じ近江源氏佐々木家支族で家紋も間宮家の家紋と酷似した“丸に隅立て四ツ目紋”です。         
丸に隅立て四ツ目紋丸に隅立て四ツ目紋、大山家の家紋。
隅立て四ツ目結び紋隅立て四ツ目結び紋、近江源氏佐々木家と間宮家の家紋。

この様に、間宮家が嘗て治めた土地で、同じ佐々木家の御子孫の大山巌元帥とフェントン軍楽団長によって最初の君が代が作られた事も、有る意味御縁なのかも知れません。今の君が代はドイツ人音楽教師エッケルト先生の編曲です。
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※上の写真は横浜市中区に有る横浜開港資料館です。

昭和六年(1931年)年に英国領事館として建築されました。
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※ペリーが上陸した際の絵図。横浜開港資料館の屋外展示でも見れます。
この庭に在る玉楠(たまくすのき)はペリー提督が上陸した際の絵にも描かれていて、英国領事館は横浜の地名の由来に成った半島の上に建っている事が解ります。
開港資料館には生麦事件で起きた薩英戦争の白人犠牲者だけを追悼するプレートが壁に有ります。
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玉楠の樹の横には絵図の通り昔、弁財天様の御社が在りました。この弁天様は源頼朝公が勧進し造営した弁天様でしたが、関内地区が外国人居留地に成った頃、元町と羽衣町にそれぞれ分祀遷座されました。
明治の神仏分離令で渡来神で神仏習合の弁天様は、そのまま神社に御奉り出来なくない名前を厳島神社に改められて主祭神の名も日本神話の市杵島姫様に変えられてしまった事で、現在では源頼朝公が勧進した神社と言う縁起を知る人は宮司様と禰宜様達を除いては横浜市民にも御存知の方もほとんど居ません。
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元町の弁天様の御神紋は鎌倉の銭洗い弁財天こと宇賀福神社と同じ北条三鱗に浪切紋なので、恐らくは源頼朝公が開いた宇賀福神社から勧進され、後に鎌倉幕府執権の北条時頼公の支援が有ったと推測出来ます。
昔の横浜の地名の由来の半島の内側が、戦国時代の蒔田湾で、戦国時代の鶴岡八幡宮再建で、蒔田吉良家の殿様の吉良頼康公と、間宮家の間宮康俊公が再建の際に笹下川~大岡川~蒔田城下の蒔田湾へ材木を集積し、間宮家の杉田湊に水運で運び、更に鎌倉まで輸送しました。そんな港、蒔田湾が在ったのが横浜開港資料館を挟んで現在の山下公園や大桟橋と反対側の横浜球場~吉野町一帯でした。
蒔田湾は江戸時代に埋め立てられて吉田新田と成り消えましたが、安土桃山時代~江戸初期まで間宮直元公~間宮正次公の五代の間、本牧奉行として間宮家が管理した港でもあった訳です。

この様に間宮家の歴史は横浜と深い関わりが有り、所縁の神社仏閣史跡を廻るだけでも横浜や東京を散歩して回る口実も出来ます。
そして、その神社仏閣は思いがけず皆さんと昔の偉人達を繋ぐタイムカプセルに成ってくれる訳です。

皆さん、近所の神社仏閣や史跡を御散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

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2016年11月26日は関東南部の平野部は絶好の紅葉狩りの1日と成った。

本来なら小生は早朝4時に友人のO型君と横浜市中区を出発し、伊勢原市の大山阿夫利神社の御神体である大山に山登りに行って紅葉のライトアップを見るか、あきる野市の秋留野渓谷に紅葉を見に行くはずだった。
前日の25日、小生にO型からメッセージが届いた・・・
「明日どうする?」
・・・と。
だから❝予定は早朝から出発、雨天なら世田谷豪徳寺か三渓園って1週間前に決めてあったろ~が!❞と思ったが、何かO型君が遠出を面倒くさがってそうなので「築地にセリを見に行かないか」と改めて新しい提案もしてみた。
O型:「英会話の予約9時に入れたから早朝は無理。」
何で予定入れるか!と思ったが・・・
小生:「あ~朝から動くの嫌なんだな」
・・・と思い、英会話優先して貰う代わりに貴重な休日を半日何もしないのは勿体ないので本日はO型君と別行動にして貰い、小生は1日個人行動をする事にした。
O型がちゃんと準備して紅葉を見に行く気が無いのなら、単独行動で別に人の多い日曜日じゃなくて小生は定休の水曜日に一人で行けば良いからね。
個人行動にしたので、今日は行かない心算だったが母の所に顔を出す事にした。
でも母の病院に行って築地で食事して終わりでは味気無い。
そこで思い付いたのが下の訪問先・・・
2016年11月26日訪問先位置関係
旧泉蔵院~弘明寺~寶泉寺~築地の拉麺屋❝若葉❞。
「そうだ!まだガラケー以来、デジカメで写真を撮影していなかった間宮家関連の神社仏閣を高速道路を使わずに巡りながら、築地まで下道で行こう!」
・・・と言う思い付き、これなら早朝出発し、午前中丸々と有意義に時間も使えるし築地の食事以外無駄遣いもしないで済む上、午後は病院に行ける。
で、出発の前に早朝に一仕事。
母も入院しているので自分の洗濯物3日分を、自宅洗濯機では洗わずコインランドリーでさっさと洗って、その足で出発する事にしたのが午前5時半くらいだろうか?
家じゃ夜中に洗濯機回せないし、コインランドリーだと大型洗濯機で洗濯して乾燥機で直ぐに乾くから便利だ。
まぁ、1回の洗濯に拉麺1杯と同じ700円かかるのは微妙だけど、時間を700円で買ったと思うと有意義だ。
コインランドリーでは洗濯を待つ間は缶コーヒーを飲みながら間宮家関連の古文書のコピーを読んでいた。
そうこうしていると、直ぐに洗濯➡乾燥が終了。フカフカで気持ち良い!
便利だなデカい乾燥機。

最初の訪問先は小生の住まう久良岐郡内に在った物凄く由緒正しい大寺院の❝跡❞、つまり廃寺に成った御寺の旧跡。
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その場所は現在では住宅地に成っている。
鎌倉時代は山崎泉蔵院と呼ばれ、源頼朝公が鎌倉のどの寺院よりも深く崇敬した修験道の寺院だった。
在る時期に戦火に捲き込まれて(恐らくは和田合戦か新田義貞の鎌倉乱入のどちらか)、鎌倉の山崎から道場の在った久良岐郡森村(磯子区中原)に移転して来た。
何故(なぜ)ここに移転したかと言うと、泉蔵院の山崎泉蔵坊は源頼朝公の命を受けて、この場所に熊野那智大社から熊野権現の御分霊を勧進したのだ。だから、この泉蔵院跡の熊野権現や屏風浦の森浅間神社は泉蔵院の支配地で、転居するのに便が良かった。
頼朝公の亡き後も、九条将軍や親王将軍の歴代から崇敬を集めた。
そして戦国時代には北條家臣の相模十四騎筆頭、間宮家から保護をされた。旦那が間宮家の頃に房総半島の里見家の海賊に略奪された歴史も有ったりする。新編武蔵風土記稿によれば、間宮家の奉納した太刀も寺宝に有ったようだ。
しかし明治政府の宗教政策神仏分離令と1村1社政策の失敗によって多くの神社仏閣が日本から消え失せたのと同じく、この磯子区中原に移転した泉蔵院も当時の僧侶が僧籍を捨て宮司に成った際に、社地確保の為に止むを得ず泉蔵院を廃寺にした上で更地にして頼朝公が勧進した熊野権現の名を熊野神社に改めて、神社としてだけ存続するしか無かった。
つまり、明治政府は水戸学と言うカルト宗派の影響を強く受けていたので、歴代天皇達が信仰した権現様の存在も山伏達の修験道も存在を弾圧した訳だ。
明治政府は概ね、外交と商業工業では日本の発展を成功させたが、日本文化を急速に弱体化させた罪は重い。
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ところで、この旧泉蔵院の宅地には修験道の道場だった頃の自然が一部保存されていて、緑地帯に成っている。
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余り歩く人も多くなさそうだが・・・
熊野神社の参道は、宅地化によって泉蔵院の頃とは恐らく違う、若干斜めに付けれている。
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ここは規模が大きい訳では無いが雰囲気が良い。
宅地化されたとは言え、背後に中原緑地が残り、鎌倉文化らしい谷戸地形に在る神社(元は修験道の道場)なので、早朝の凛とした空気と合わさって清浄な空気が漂う。
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ちゃんと、明治時代に泉蔵院を廃寺にして熊野神社だけを残して宮司に成った初代の宮司様は、歴史を残す為に境内社に泉蔵社として名前を一部残している。
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ここは(修験道の)寺院だった時は湧水地で修業の場として栄えた場所だった。
鎌倉幕府が滅亡して戦国時代には、横浜市南部の殿様で間宮林蔵達の祖先だった間宮家の殿様一族が深く信仰し、泉蔵院の山崎泉蔵坊泉勝は熊野那智大社に大旦那(スポンサー)として間宮与七郎と同平那隼人佑達を報告している。
小生はこの間宮与七郎こそが間宮林蔵の祖先に当たると推測している。間宮林蔵の祖先は間宮康俊公の子とされ実名は伝わらず間宮隼人とだけ官途名が伝わる。間宮与七郎も元服後の名と官途が伝わらず、字(あざな)だけが伝わっている。しかし部下と思われる同 平那隼人佑と記載される人物の官途が隼人佑なので、この部下に隼人佑の官職を授けれれると言う事は律令制度の隼人正(はやとのじょう)の官職を代々世襲した家系だろうか?
間宮一族は北条家中でも一番、鷹匠としての教養も備えた集団だった。間宮林蔵公の家系は鷹狩りに造詣が深かったと伝わる。
この間宮与七郎の名が登場する文書の年代は天文八年(1530年)なので、間宮康俊公は当時12歳で有る事から康俊公とは完全に別人だろう。恐らく、父の間宮信元公の字は伝わっていないので、この信元公本人かも知れない。若しくは信元公の兄弟か、名が登場する年代から康俊公の従兄くらいの関係だろう。
つまり、間宮林蔵の祖先が間宮康俊公とするのは誤りの可能性が高いが、少し惜しい外れで、正解はその父の間宮信元公の世代か康俊公の年長親族が間宮与七郎公が一番有力な祖先の候補に成ると小生は思っている。そして、間宮元重公の実父なのでは?とも思う。

泉蔵院の熊野権現への参詣を7時半頃に終えて、次は弘明寺に移動した。
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弘明寺と言うと京浜急行や横浜市営地下鉄の駅名や地名と認識されがちだが、元々は無畏三蔵法師と言うインド人の高僧が聖地と定め結界石を配置した場所に天平九年(737年)聖武天皇の時代に行基大僧正が開山と成って造営され後に天皇家の悪病平癒の勅願所だった。更に後の弘仁五年(814年)には弘法大師空海和尚が当地にて護摩を焚かれた記録が有る。
ここには新編武蔵風土記稿に❝弘明寺❞の字を建長寺の高僧玉隠が揮毫した扁額の裏面には奉納者達の名前が載っていて中心に❝本願宗閑同伴衆❞と刻まれ以下に同伴衆往嶋道徳面々の名も刻まれている。
同伴衆と言うのはつまり与力武将や家臣の事だ。道徳と言うのは臨済宗の入道号だな。
間宮家の家臣団の多くは、生前から入道号(禅宗修行僧としての名前)や、屋号を名乗る者が非常に多い。
そして屋号に川崎市由来の名を持つ者も多く、例えば間宮信親(信冬公と同一人物と推測)から感状を与えられている屋号が古門の内田対馬守の同族に、紺屋の屋号を持つ内田家がいる。紺屋と言うのは間宮家の旧本拠地の川崎の地名だ。
そして、その川崎の紺屋の地名の由来は三浦半島浦賀港西岸一帯の嘗ての地名の紺屋町の筈だ。
西浦賀(旧紺屋地区)は間宮家の所領だった。その紺屋を屋号に持つ紺屋内田家は現在も笹下城跡近くに住んで居て、近年までアパートを経営し、そのアパート名すら紺屋荘だったので小生は間宮家臣内田家のこの文書を読み古門内田家を探しに笹下を散策した際は、ものの3時間程度と直ぐに紺屋内田家を探し出し、そこから古門内田家と、高津間宮の間宮正秀公の遺骸を印旛郡高津村(八千代市高津)まで届けた源左衛門の祖先とおぼしき内田源左衛門家の足跡も探し出せた。
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❝本願宗閑同伴衆❞と扁額に書かれているそうだが、この宗閑と言うのは実は、間宮康俊公の戒名として現代に伝わる名だ。しかし扁額の奉納は大永元年(1522)年であり整合性が無い。3~4歳の間宮康俊公に同伴衆の大人が10人以上も連名で扁額を奉納するとは考え辛い。
実は間宮家は、近親ですら系図上で親や祖父、従兄弟の名や戒名を間違えて伝えた結果、寛政期の家系譜作成で同一人物と思しき人物の初名や改名後の名と思われる物が数人分有ったりする。
小生は、この弘明寺の扁額の記載事実から実は間宮康俊公の戒名が宗閑と伝わるのはそもそも間宮一族による事実誤認だと思っている。年代的に宗閑の戒名は康俊公の父の信元公の物であるべきだ。
恐らく康俊公には戒名が無かったのを、娘の於久の方が父の菩提を旦那様の徳川家康公に弔って貰う際に、誤って弘明寺に記録の在った祖父の入道号を父の入道号と事実誤認して以降、間宮信元公の入道号だった宗閑が、間宮康俊の戒名として後世に伝わってしまったと可能性が高いと推測している。
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何でこんな可能性を指摘するのかと言うと、弘明寺の寺宝だった花瓶にこんな文が書かれているそうだ。
「間宮監物コレを修理 天正十八年(1590年)二月吉日」と。この間宮監物と言うのは間宮家の寛政期の系譜上では間宮信俊と言う人物とされているが、小生の推測では間宮康俊公と同一人物だろう
❝信❞の字は間宮家の出自である近江源氏佐々木家の通し名であり、弘明寺の宗派真言宗は佐々木氏の本来の信仰する宗派である事から、北条家臣として主君北条氏康公から賜った❝康❞の字を使う間宮康俊の名と佐々木一族として神社仏閣と関わる際の間宮信俊としての名を使い分けていたのだろうと思う。
北条家では曹洞宗に帰依する事を家法とされていたので当然の事だと思っている。
つまり、康俊公が戦死した際に娘の於久様が父の近々の事績の残る寺院で父の戒名と成る入道号を知らなかった娘の於久さんが間違て調べて来てしまったか、後に追善供養を間宮正次公が行う際に誤って弘明寺の扁額に有る宗閑をもう一世代前の間宮信元公の戒名の可能性を考えずに間宮康俊公の戒名としてしまった可能性が高いと考えられる。
娘の誤解のせいで根本的に間宮康俊公には入道号も戒名もまだ現代に至っても実は無いままなんじゃないだろうか?
こう言う事が間宮一族には多過ぎる。
常に前線で戦う事を求められた一族だったので戦死者が多すぎて、一族内でも祖先達の氏名を間違えて追善供養を行ってしまったりしている。
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しかもよりにもよって、弘明寺の僧侶たちは歴史的な知識が欠如しているのか、この扁額をどっかにやって新調してしまったようで改めて訪問したが「弘明寺」と書かれた扁額が見当たらなかった。
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歴史を知らない神主や和尚が、宮司や住職に成ると起きる悲劇がここでも起きたのかも知れない。
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何はともあれ、弘明寺は巨大寺院だったのだが、こちらも明治政府の弾圧によって境内地が大規模に接収されてしまい、現在の弘明寺商店街と京浜急行電鉄の線路と駅が建設されてしまった。だから、現在でも普通よりは大きい規模の御寺では有るが、一時は無住職に成り廃寺の危機に陥った。
真言宗と修験道を崇拝した源氏の源頼朝公は度々、この弘明寺を参詣した。妻の北条政子も港南区の野庭関城の下の鎌倉街道下道を通って弘明寺を訪れている。或いは夫婦で参詣したのかも知れない。
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だから北条政子木像が有ったり・・・
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頼朝公を始め鎌倉武士が軍神として信奉した弁財天様が祀られれいる。
弘明寺で僧籍職員を質問攻めにしたが、全く歴史知識が欠如していて寺院を保護して下さった歴代の壇那様に対する感謝も無い。
むしろ、清掃していた事務員の方が詳しい始末。
僧侶がそんな事では御寺を維持するのは難しいだろう。その破滅の一歩が扁額の紛失かも知れない。
ちゃんと自分の御寺の歴史くらいは小生の様な素人一般人に突っ込まれない程度には学習するべきだと思う。
ところで、弘法大師様が護摩焚きした伝承が残る寺院や霊場(神道の聖地も含め昔は区別して無かった)では、不思議な事に自然湧水地と延喜式内社や式外社と日本武尊伝説の残る聖地が多い。
走水神社の辺りにも弘法大師は来ているが、走水は古代から飲用に適した湧水があり聖地とされていた。
尾張一宮真清田神社や横浜市港北区の師岡熊野神社や相模原市の有賀神社奥宮等の延喜年間以前からの天皇家の勅願所や祈願所も全て湧水地な訳だが、これは神社文化の成立を考古学的に考えると当然の事なん訳だ。
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古代人にとっては飲んでも御腹を壊さず清涼な生活水が確保出来る土地そのものが聖地であり、その湧水地を中心に集落が形成され、リーダーが生まれ豪族の住む場所が高床式の屋敷と成り、そこがやがて神殿となって行った訳だ。
空海和尚は、日本神話を大切にしておられたので自分で日本武尊伝承地を廻っている内に、恐らくそう言った歴史事実に考古学が存在しなかった時代にお気付きに成られていたのだろう。
そして弘明寺も、そう言った意味で凄まじい聖地である・・・
ここは昔からの温泉地だった。今ではそれを知る人も少ないけどね。

弘明寺で扁額の喪失の事実を確認してしまって大分、テンションが下がったまま、次の目的地の横浜市鶴見区下末吉の寶泉寺へ移動した。
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この御寺は間宮家で最初の武勇が記録に残る間宮信冬公の開基と御寺では伝えている。
つまり権現山合戦で活躍したあの間宮彦四郎だ。
所が、川崎大島村(現在の川崎駅前から徒歩20分超の大島町)の伊左衛門の官途名を屋号に持つ間宮家臣子孫達が毎年旧暦八月二十六日に箱根の山中城で討死した間宮康俊公の追善供養を行っていたそうだ。この大島村の伊左衛門は、弘明寺の扁額に間宮宗閑同伴衆として名を連ねた往嶋道徳(おうしまどうとく)の子孫だろう。
この大島家を始めとした家臣団の康俊公の追善供養と、開基の間宮信冬公の話がいつの間にか、寶泉寺の外で語られる寺の歴史が間宮康俊公開基と話が混同されてしまって、事も有ろうに昌平坂学問所の頭取で間宮家の子孫である間宮士信公が編纂した新編武蔵風土記稿でも同様に間宮康俊開基と紹介してしまっている。
しかしこれは誤りで、寶泉寺が正しく、恐らくは間宮康俊公は寶泉寺を❝中興❞されていたのだと小生は推測する。
間宮家が末吉や川崎辺りを本拠地にしたのは間宮信冬公や間宮信盛公の時代の話なので、やはり当事者である寶泉寺の寺伝が正しいだろう。
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ところで、この御寺は都会の中に在りながら、御庭は中々広く綺麗な御寺だ。
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手入れが行き届いている。素晴らしい。
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建築も素晴らしい。
そして寺紋は間宮家所縁の四ツ目結び紋に丸を配した物。
丸に四ツ目結びは紋は、間宮家の分家や家臣団が間宮本家から与えられる家紋だ。
分家の嫡流は間宮本家と同じ四ツ目結び紋。それ以外の末端の一族や有力家臣や神社仏閣が〇で囲ってある丸に四ツ目結び紋な訳だ。
だから間宮家の戦国時代の本拠地の磯子区や港南区の地主達は、この寶泉寺と同じ家紋が多い。
寶泉寺の現住職の若様と一しきり寶泉寺の事を話し込んで、御寺の寺伝を纏めた冊子を頂きました。
若様に感謝。
御参りと写真撮影を終えて、思い付きで川崎駅前の瑞龍山宗三寺もついでに寄る事にした。
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宗三寺は旧東海道の目の前に在り、直ぐ裏には京浜急行川崎駅も在る。
一帯は堀之内の地名が町名だが、これは間宮信盛公の城館が在った事に由来する。
そもそもは源頼朝公に与力した平安時代末期の名将、佐々木高綱公の城館が在った場所が現在の宗三寺の境内地だ。佐々木高綱公の引退後、この地を引き継いだのは甥っ子の佐々木信綱公だった。佐々木高綱公と間宮家の祖先とは祖先同士が親戚に当たる。
高綱公の祖父の佐々木秀定公と間宮家の祖先の佐々木行定公が御兄弟に当たる訳だ。
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宗三寺の場所に在った佐々木家は、信綱公の子、佐々木泰綱公の代に横浜市港北区の小机の開発願いを鎌倉幕府に届け出て承認されている。この川崎多摩川を利用した水運には適するものの、当時は砂州で耕作に適さなかったからだろう。その頃に関東に残った佐々木一族は小机を本拠に移したと思われる。
小机も佐々木高綱公の居城跡の鳥山八幡宮や高綱公が開基した三会寺が現存する。
川崎の宗三寺は、元々は勝福寺と言う真言宗の寺院だった。
佐々木高綱公の甥の信綱公の子、佐々木泰綱公が弘長三年(1263年)に同志5000人の寄付で梵鐘を鋳造させて勝福寺に奉納している。そんな川崎に間宮家が戦国時代に入ったのは北条家の事情に由ると思われる。
北条家が関東で勢力を伸張するに当たり、獲得した領地支配の正当性を主張する為に、古来の領主の子孫を故地に配属していたので、佐々木一族の間宮家を川崎に配置したのだろう。
ここを本拠地にしていたのは間宮信盛公だ。
そして間宮信盛公が元々真言宗の勝福寺を中興するのだが、その縁で信盛公の入道号、宗三をとって是(これ)を寺名と改め、宗旨も北条家の帰依した曹洞宗に改宗された。
さらに時代が下って子孫の氷取沢間宮家の一族、間宮孫兵衛盛重公が宗三寺を中興した。
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しかし、この間宮盛重公、とんでも無いミスをやらかしていて、間宮信盛公の墓碑に誤って間宮本家の名将、間宮康信公の名を彫り込んでしまっている。
しかも子の間宮盛正が元禄四年(1702年)に刃傷沙汰を起した挙句に預かり先の旧武田家臣、依田家で不可解な火災を起こして改易されている。
この一連の事件の責任をとってか、間宮家の本家や杉田間宮家は奉行職を同時期に辞任している。
更に同時期に高津間宮家の間宮信要も延宝四年(1677)年に刃傷沙汰を起し切腹されられている。
更に少し前の延宝元年(1673年)には大田区の善慶寺が菩提寺の間宮太郎兵衛達が起こした義民六人衆の事件が起きている。
小生は、これ等一連の事件を義民六人衆事件を契機に間宮家を敵視し、更に旧北条家臣団を敵視して金権政治を行っていた側用人達の陰謀と後に旧武田家臣の柳沢吉保の関与が有ったのではないかと推測している。
同じ時期の元禄二年(1700)年には間宮と同じ旧北条家臣で蒔田吉良家の与力だった世田谷の喜多見家が喜多見重政の代に2万石の大名から改易されている。これも柳沢吉保の陰謀と言われている。
写真を撮影し終わって、間宮信盛公の御廟所と本堂にも御参りして、築地に向かった。
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日曜日の築地場外市場は大盛況で、中々歩くのも大変な程だった。
小生の目的はもう少し歩き易い門跡通りの歩道に面した拉麺屋の❝若葉❞。
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ここは築地に始めて来た10年位前に気になって、母の入院以来ずっと食べるチャンスをう窺(うかが)っていたのだが毎回、お店が早すぎてもやってないし午後だとやってなくて食べれなかった。
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今回はやっと席に着く事が出来た。
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シンプルな醤油ラーメン。でもこれが凄く美味い!
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極細縮(ちぢ)れ麺が旨味の深い醤油スープを良く持ち上げてくれるんだな。
700円と築地に在りながら割と良心的な値段で味も凄く良く大満足。
しかし食べたりない小生は、この後、鶏肉の総菜で有名な鳥藤に移動・・・CIMG1571
チキンペッパーステーキを食べ歩きして・・・
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更に!
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イチゴ大福も食べました(笑)
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餡までイチゴが入っていて美味しかったよ。
御腹もいっぱいに成った所で国立がんセンター研究病院に移動。
母は火曜日に手術して4日目だが、何と、見舞いに行った日から食事が復活していた!
まだ柔らかいオカズが多かった様だが、回復の速さにビックリした。
帰りに病院のロビーで面白い展示物が有るのに気が付いた。CIMG1577
医療器具やら病院の歴史の展示。
こうやって時間系列での器具の発展や、病院解説なんかの展示してあると興味が注がれる。
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ここは今上天皇陛下御夫妻も見学に来られたそうだ。
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ふむ、予定通りの紅葉見学とは行かなかったが、尊敬する間宮家の殿様達の足跡を改めて辿り写真撮影を行えて、美味しい拉麺も食べて、母も回復しつつ有り、大変良い休日を過ごせた!
水曜日はあきる野に紅葉を見に行こう。

では!又、次の記事であいましょう!
そろそろ、何か解説記事書きたいな・・・


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