歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:弘法大師

今日は一人称俺で・・・

今年の前半から色々有り過ぎて、やっとこ高校時代の同級生から優しいアドバイス貰ったり病院の御医者サンに根性有るとか精神力凄いとか褒められたりして何とか気力を保って、どん底ながらゾンビみたいに無理矢理動き回ってたのだけど・・・

この連日の天気の悪さと新型コロナの先行き不透明さと自分の環境に昨日とうとう感情的限界が来た。
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骨折する前は春~梅雨前だったので、天気が良いと横浜から鎌倉まで20km超歩いて山の空気と天園休憩所のオバチャンの田楽食べて帰りに銭湯入って「ヤバくなる前に」自分の感情をリセットしてた。

そんな感じでストレスを発散してたのに最近はずっと骨折療養後も雨で外出不可能。

更に最近、又無理難題頼まれたり・・・

評価して貰うのはありがたいけど、自分で「向かない、やりたくない、才覚は無い」と思っている事や「シガラミが出来ると言いたい事も言えないし書けなく成る」ので本当に自分を保つ為の趣味と仕事はくっきり分けたい。

そしてストレス発散に山歩きしていたのに骨折して行けず、骨折から略(ほぼ)回復してもずっと雨天で山歩き出来ない。

感情的な我慢の限界がLimit breakしてしまい「どよぉ~ん」と頭モヤモヤして「あ~これダメな奴だ」と昨夜~今朝にかけて自分の状態を認識してた。
なので自炊してる小生だけど昨晩は料理まともにする気に成らずに、昨日の手抜き野菜炒めをレンチンで作って済ませたり無気力状態に成っていた。
これね⤵
骨折中も片手で料理したり風呂も片手で入ってたんだよね。
自分で勝手に骨折したのだから自分の事は自分で処理するべきだと思ってる。
この年齢で家族に体触られたくない。

で、16日の気象を天気予報衛星画像のサイトで確認したら正午前後のわずかな時間だけ雲間から日光が指す予報だったので、ずっと行きたかったけど近くの山は歩いても未(ま)だ行った事の無い御寺の滝に-イオンを浴びて癒されに行って来た。
ここ⤵
御寺の解説としては又改めて書きたいと思うけど、弘法大師が開いた由緒ある不動堂が御寺の前身の鎌倉市今泉に所在する“称名寺”と言う御寺。横浜の大寺院の稱名寺じゃないよ。
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今泉山 一心院 称名寺
元は弘法大師空海和尚が滝の上の水辺に祀られる不動明王様を奉じた不動堂を建てたのが御寺の始まりで円宗寺と言う真言宗系の御寺だった。でも詳しい事は伝わって無い。
地形的に鎌倉七口の切通が鎌倉時代に開削される以前、恐らく鎌倉市北側の入口がここだったんだと思う。
現在の鎌倉市街の北側入口は巨福呂坂と朝比奈峠だが、奈良時代は現在の天園ハイキングコースの古代の尾根道の街道に入口だったのが、ここだと思う。
これは弘法大師空海和尚が平安時代に鎌倉に関与した寺伝の残る寺院の位置関係を見ても解かる。
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鷲峯山 真言院 覚園寺
その御寺と言うのが、この大平山北側の今泉に在(あ)る称名寺と、大平山南側に在る覚園寺、横浜市側の円海山~大平山の間の切通群と上郷深田遺跡と南側の浄土宗大本山光明寺の存在だ。
鎌倉七口位置関係 久良岐のよし
現代人は昔の鎌倉市街地への入口が鎌倉七口と呼ばれた切通しだと思ってる人が多い。
しかしこれは誤りで、切通は鎌倉時代に開削された“新しい道”でしかない。
鎌倉市街地北側の入口に言及すると源実朝公の時代にも“歌の橋”がようやく作られ浄妙寺地区の発展が始まったが、それ以前は永福寺跡の二階堂地区の覚園寺辺りから尾根に登り、尾根伝いに現在の横浜市域や鎌倉市北部~北西部に経由する道程が主要街道だった。
弘法大師は古街道沿いの湧水地や港湾や山の奇岩の有る古道に御寺を建てて廻っているが、給水施設となる湧水や滝と物資補給拠点や海道と成る渡船場の傍に布教の拠点としての機能を有する古街道の休憩施設としての御堂や寺院を設置し布教拠点にしていた様だ。
同じ様な事を行基大僧正も率いた財団にやらせていた歴史が有る。
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今は八菅神社と呼ばれる明治以前は神仏習合の修験者から日本屈指の聖地として知られた八菅山七所権現もやはり倭建命神話の舞台だが、大山に通じる尾根道が熊野古道と同じ様に修験者や神職や僧侶の巡礼道で、恐らく麓が相模川の渡河地点だったのだろう。
奈良時代~平安時代はまだまだ神話の弥生~古墳時代の道が現役で使われていて行基大僧正や弘法大師空海和尚も神格化された古代王族の行軍した道や古代の道のランドマークの聖地と峠の入口や給水拠点、川の渡河地点や海の乗船場は布教しやすかったのかも知れない。
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浄土宗大本山
天照山 蓮華院 光明寺

この光明寺の裏山、光明寺鎮守の神様の天照大神を祀る山の中腹が実は神奈川の景勝50選の一つでシン・ゴジラのロケ地にも成ってるのだが、その山~逗子側の海前寺まで全域が戦国時代の住吉城址だった。
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由比ヶ浜の材木座海岸側からリビエラ逗子マリーナに突き出す丘が全て住吉城址。
戦国大名化して相模国の大半を治めていた扇谷上杉家が乗っ取った三浦家の三浦道寸公実弟の三浦道香公が守備した城で、北条早雲公と激しい争奪戦が繰り広げられた。
住吉城址の正覚寺の参道の前に山裾(やますそ)を穿(うが)って昭和期まで利用されていた切通が古代の東海道と考えられている。現在は杜撰(ずさん)なトンネル工事の崩落により廃道に成ってしまった。
この写真に見えているコンクリで補強された灰色の壁面が元は露出した砂岩の岩盤で、その中腹に山を裾切(すそきり)した切通の道が今も廃道のまま残っている。
今では富士山撮影の絶景。
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ちょっと自慢だけど、この写真の構図は葛飾北斎も歌川広重も絵に描いていない、つまり二人が見つけられなかった富士山の絶景ポイントなので個人的に凄く好き♪
二人が見たら絶対に絵に書きたい場所だと思うから(笑)。
コレが光明寺の天照山展望台からの景色⤵
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ゴジラ由比ガ浜上陸 公式借り物 久良岐のよし
ゴジラの鎌倉上陸シーン⤴
このシーンの何フレームか前の撮影ポイントが光明寺裏の展望台だった。
丁度、神奈川の景勝50選、光明寺裏山の展望の石碑が有る辺り。
住吉城址は本丸跡と明治の軍部にも迅速測図で認識されていた源氏谷(げんじがやつ)に三菱財閥の岩崎家と縁籍の政治家が邸宅を建ててしまった都合から鎌倉市街を守る巨大城址の史跡として認めると、土地所有者に不都合が有った様だ。
その有力者に何かと不都合が有ったのか知らないが逗子市と鎌倉市は長らく忖度して城址としての所在不明と意味の解らない事を言っていた歴史が有ったりする。
この住吉城址の山=天照山のふもとに光明寺が築かれる以前に、現在は光明寺塔頭寺院に成っている蓮乗院と言う元々は弘法大師の霊場の一つで真言宗寺院だった御寺が在る。
この事を知ったのは戦国時代の南関東最強の武将、北条綱成公と軍事行動を共にした横浜市の武将、臼井胤知公の歴史を調べていて胤知の資料が光明寺に有る事が判り参拝した際に、現在は塔頭の蓮乗院が元は千葉常胤公が崇敬した真言宗寺院で尚且つ弘法大師霊場の一つだった歴史も芋づる式に辿る事が出来たのが切っ掛けだった。
安土桃山時代の臼居胤知公の身内が蓮乗院の御住職だったそうだ。今も鎌倉に臼井胤知公の兄方の直径子孫の御一族がいて蓮乗院の檀家さんは臼居サンだらけ。
どうやら三浦に抜ける古代の道の入口で材木座地区が入江で港だったから蓮乗院に弘法大師様が関与された事も解かる。
まぁ、ハイキングが趣味の人や古道フリークには常識なんだけど古代の街道は悉く尾根道と山裾の“急傾斜を回避した道”な訳だ。
そして鎌倉市街の古代の港湾だった材木座地区に抜ける“切通開削以前の道”の入口と出口に弘法大師様は休憩所としての寺院を行基大僧正の様に築いている事が位置関係と地形を見ると何となく解かって来たりする。

何か又、歴史の話をしちゃったけど今日はソンナ話じゃなくて精神的に我慢の限界が来て頭オカシク成る前に称名寺に癒されに行きましたと言う話だったので散歩の風景に戻る。
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こっちが称名寺の現代の入口なんだけど、これは恐らく弘法大師の時代より後に成って作られた道。
それより古い道が鐘楼を経由して~不動堂に至る旧参道と思しきハイキングコース。
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なんか立ち入り禁止って書いて有ったけど普通に通れたから通った(笑)。
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山百合も咲いてて奇麗なんだけど、足元が雨上がりの砂岩で滑るから骨折したての小生ドキドキ。
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後で御住職に聞いたら、この道の先に鎌倉カントリークラブが出来てしまって天園ハイキングコースに抜けれなくなったのと、不動堂側に廻るのに道が荒れて少し危ないから通らない方が良いだろうと言う判断だったらしい。
現代の車が通る参道⤵️
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現代の参道に戻って六地蔵さんを拝んで、少し進むと右手に紫陽花。
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そのちょっと先に土橋が見える。
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この土橋の両側は沢。ここを渡っても今はゴルフ場に成ってしまった場所を通って天園ハイキングコースに数十年前まで繋がっていた様だ。
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昔は真言宗だったけど荒廃していたのを江戸時代に浄土宗寺院として再興され円宗寺から寺名を稱名寺に改めたので、浄土宗寺院らしく法然上人の幼少期の銅像が有る。
鎌倉の真言宗寺院は真言宗と法華経の信者だった源頼朝公の死後、支援者を失った場所が多くて衰退したりして鎌倉時代に執権の北条家によって支援され臨済宗に改宗したり、蓮乗院みたいに浄土宗に改宗して現代に至る場所が結構有る。
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現代の御本堂。円宗寺が廃れた後で復興してるとは伝わるけど、本堂が同じ位置だったかは不明。
御本堂の横には別の建物。
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う~ん・・・
何かガッツリ称名寺の解説に成っちゃってるから、今度、今書いてる内容を称名寺部分だけ編集しなおして称名寺解説の独立記事としてコピペしよう(笑)。
更に、この奥に不動堂と称名寺の“陰陽(おんみょう)の滝”が存在する。
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石仏の前を通り・・・
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左手の苔むした石段を登って行くと称名寺の前身で弘法大師様が開いた不動堂。
この苔生(こけむ)し昔の参拝客によって擦り減った鎌倉石の石段が何とも古刹(めいこさつ:古い御寺)らしい雰囲気を醸(かも)し出してる。
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不動堂は新しい。
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この裏手に昔の参道に続く大日如来様の石仏が祀られている。
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不動堂の前には浄土宗の信者だった徳川家康公の祀られる日光東照宮で有名な見ざる言わざる聞かざる三猿を可愛くした石像。
そして滝や湧水地の守護仏らしい不動明王様の御堂らしく、下には陰陽の滝が見える。
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で、当然、近くで陰陽の滝を見たく成るので、目茶クソ滑る苔生した石段を又骨折したくないから目茶苦茶慎重に降りて(笑)分かれ道を右手に進むと滝に行けた。
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滝の入口。
ここに又、すげ~滑る階段が有るので、それを降りると滝を眼前に見る事が出来る。
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何か大きな滝ではないんだけど、滝壺にいるとスンゴイ癒される。
左手にも沢から流れて来る細い滝が有る。
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-イオンのパワースポットだね。文字通り聖地。
弘法大師様がこういう地形を大切にしたのは現地に行って癒されると本当に良く解る。
蚊を手で払いながら、しばらくココでボぉ~っとしてたら何か元気が出て来て頭の“モヤモヤどよぉ~ん”とした気持ちが少し晴れて、せっかくだからリニューアルOPENしてから未だ1回も行ってなかった横浜ベイサイドマリーナにコーヒー飲みに行く事にした。
因(ちな)みに称名寺は歴史が古い不動堂の御朱印。
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御住職の字、カッコ良いね!
で、折れた左手も痛みは少し有るけど、もう動きに支障も無いし骨もほぼ完ぺきにくっ付いてるって御医者サンに御墨付を戴いてるので車に乗り込んでベイサイドマリーナに移動。
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2年ぶり。
・・・でもないか。4月のオープン前に大学院生の友達2人と3人で鎌倉でハイキングした後に車で来て、二人がTikTokに投稿するダンスを撮影するのにカメラマン兼監督みたいな事やって遊びに来たばっかだった。
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昔の写真だけどココとかね。
小生が景色奇麗な場所の詳細な構図を知ってるから、カメラのフレーム割り付けと二人の登場の仕方とか色々と説明してあげながら撮影した。
喜んでくれて良かったけど、新型コロナの後で失業してから色々有って連絡とって無い。
ベイサイドマリーナがリニューアルしてから来たのは今回が初めて。
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ここでアイスコーヒー買っていつものヨットハーバーのベンチに移動・・・
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・・・する途中に見る建物、奇麗なんだけど何だか東京の建物みたいで横浜らしさが無いよ。東京人センス臭い。
でも奇麗。
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ここがお気に入りの場所♪。
さっきの動画撮影した場所含めて昔のデザインの方が新しくてカッチョ良い♪
コーヒー飲み終わって屋内に移動。
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う~ん・・・
奇麗なんだけど無個性な東京感が・・・。
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虎ノ門の地下街歩いてるみたい。
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で、小生の馴染みのエディバウアーに服を見に行った。
前頑張って痩せたのに、小生は好きな女性が出来ると相手に釣り合う様に頑張って体を筋肉だけにするのに、モテるとか本当に興味が無いせいで女っ気無い時期や別に資格取得とか自然保護とか集中してやりだすとストレス溜めて脳味噌潰れる位に没頭してエネルギー注ぐから、ストレス発散に食べたい物を食べたい様に食べてあっという間に太ってしまう。
自分の容姿にも他人の外見にも価値を見出ださないから。
外見や人当たりなんか無価値。
だから体型の変化も何をしている時期かで差が都度大きい。
中学~高校前半は75kgでムキムキ
高校後半~20歳は100kgオーバー。
20歳の終わりに半年で69kgの体脂肪率09%に落とし。
留学中に又デブって95kg。
帰国して又一回痩せて75kg位。
そこから30代前半にかけて115kgまで肥大。
3年前の12月に痩せると決めて5月に78kg体脂肪率11%に絞り、その過程でエディバウアーの店員さん達と仲良く成った。
色んなセールの事前情報教えて貰ったり、体系が引き締まる度に店員の皆が凄く褒めてくれて痩せる助けになり、コチラも服のサイズが小さく成る度に買い替えて御互いもWin-Winの関係だったから顔も覚えて貰って、2年前のベイサイドマリーナ閉店前には店員の皆が一緒に写真撮影しようと言い出してくれて、最後の買い物の日は手でアーチを作って送り出してくれたりしたんだなぁ~。
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前の店舗の最終日、皆が撮影しようと言い出してくれた時の写真。
理想的な客と店員の関係だったと思う。
ベイサイドマリーナが潰れている間は新横浜のトレッサ横浜のエディバウアーに行ってた。
服買う店も浮気したくないの。
自分にはセンスが無いから店員さん達に色々とアドバイスをして貰って予算だけ伝えて選んで貰って助かった。
皆が褒めて伸ばして痩せさせてくれたのに又太っちゃったよ・・・
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その2年前の自分⤴
昔の写真だけど今これ位デブ⤵
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全く同じ顔の角度なので違いが余計に分かるでしょ?
人間1年間でこんな太れるんだね(笑)。
因みに20代の頃。
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今では2年前に割れてた腹筋は見る影も無し(笑)!
一昨年の自然保護活動と去年の嫌いな科目の資格取得したり資格の更新したり9個資格取得した学習のストレスで夜中にコンビニ行ってオニギリ2~3個夜食に食べまくってたらたらあっと言う間に太っちゃったよ(笑)。
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で、今日、称名寺の陰陽の滝で気力充電出来たのと、最近、高校時代の同級生がLINEで連絡くれたの読み返して昨日のドヨぉ~ンって気持ちも少し晴れて又、痩せる気に成ったのかな?
とりあえず、エディーバウアーに行って昔の店員さんに話ししに行ってたら又痩せようかな、と思えた。

店員さん、顔覚えてくれてて「お久しぶりです~」って声かけてくれて少し話し込んだよ。
エディバウアーの店員さん達はアメリカンサイズの2LデブからSサイズに痩せて行く過程も見ててくれたから痩せてる俺も太ってる俺も変わらず“判別(笑)”してくれるんだね。
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皆の御蔭でちゃんと料理する元気も戻って3日振りに1225kcalに抑えれて栄養素もバランスよく食べる事ができた。
前回は職場の女性にバカにされて言い返す為に糖質抜きとジム通いで痩せたけど、今はジムに行くのも怖いし自分の為に少しづつ食事制限とウォーキングで痩せようかな?
目標は75kg体脂肪率10%だけど、今が太ってるから先ずは最初の5kgかな。

人生いろいろ有り過ぎだ。
ちょっくら頑張り直すか。

でも御寺で頼まれた漢詩は思い付いた時にしか作りたくない(笑)。

趣味だから誰かに何か言われてやるもんでもないし。
趣味を“やらなきゃいけない事”に死んでもしたくない。
御金を貰う以上は完璧に相手が満足する物を作らないといけない。
それは最早“責任を持ってやらなきゃいけない事”成ってしまう。そんなの楽しくない。
漢詩なんて思い付いた時に自然に作るモノでしょう?
相手が「御金を払うから作って」と悪意が無く言うから余計に困る。
「金払うから」って言われるのも、こっちがソンナ金で動く下品な人間と思われてるみたいで不愉快な感情が湧いてしまう。
とにかく趣味は趣味で自分のリラックスの為に置いておきたい。
漢詩は自分の息抜きの方法だし本当に自分が何か感じた時にしか出来ない。
頼まれたのをやんわり「御金要らないから思い付いたら報告する」と金銭の授受を断る事でしか相手を傷付けず回避する事が出来ない。
御金を貰って相手が欲しい物を自分の感情ねじ曲げて作るのは趣味じゃなくて仕事でしょ?
だから仕事として受けたくない。

そんな事を考えてたら凄い嫌な気分に成って「どよ~ん」って成ってたんだね。

まぁ、そんな訳でパワースポットとか人との繋がりとか横浜らしい海辺の景色に癒された。
高校時代の同級生のアドバイス
陰陽の滝の優しいマイナスイオン
ベイサイドマリナーのヨットの景色
美味しいアイスコーヒー
エディバウアーの明るくフレンドリーな店員さん達
皆の御蔭で思考停止し死んだ感情も癒す事が出来ました。

皆の御蔭だよ、ありがとうね~。
・・・と、感謝と優しさをいっぱい感じた1日でした。
mixiチェック

前回の休日雑記→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先①・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、永谷天満宮、円海山、有鹿神社編、八菅神社編)
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
・・・日本武尊によって開かれた明治以前まで修験道が管理した日本神話の聖地の八菅山七所権現こと、現在の愛甲郡愛川町八菅山に在る八菅神社を参拝し正月2日目にして日の出を拝んで出発した所からの続き。

八菅神社から車で20~30分も走ると次の目的地に予定していた華厳山金剛寺に到着する。
市を跨いでいるけれども旧愛甲郡の郡内を移動している上に正月早朝の田舎道なので渋滞どころか余り車とスレ違う事も無く順調に到着した。
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冬に来てもパットしないが此処(ここ)は桜の名所として知る人ぞ知る場所で、近所にも温泉が有り桜の季節には背後の飯山観音と合わせて桜鑑賞を兼ねて散策に来る客が多い。
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華厳山金剛寺
春には同じ参道の景色も全く違って見える場所。
歴史は古く、弘法大師空海和尚様が修行の為に滞在した草庵が寺の起源に成っている。でも現代人は余りこの御寺が凄い事を知らないし、神奈川県民でも存在すら知らない人が多い。
早くから宗教的な集落として開かれたので、鎌倉時代には養蚕が盛んな土地に成っており有名だった。
そして、ここを鎌倉時代に支援した武士が有名な安達盛長公で、この武士は源頼朝公の秘書官兼ボディーガードの様な役割を担っていた人物だった。安達家は鎌倉市街で発生した宝治合戦では当時最強と言われた三浦武士団を圧倒する戦上手振りを発揮し北条家の執権体制を確固たる物にし、結果的に元寇で日本を守った北条時宗公を執権にせしめた日本人にとっても功臣と言える偉人一族だな。
無論、その鎌倉幕府樹立の一番の功労者である三浦家がいたので現在日本が有る事も忘れてはいけない。だから小生は源氏将軍家も執権北条家も三浦武士団も安達家も其々の偉人を尊敬している。
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現代では金剛寺は衰退し別寺院の御住職の兼務と成っており庫裡には管理人サンが御住いだが農村部で過疎化が進み山門の修復も行き届いていない。
厚木市の財産と言える御寺なんだけれどね。
この山門の横には御墓が在る。
普段は御墓や御廟所の写真は殿様を盗撮する様な行為だと思っており掲載しないのだけれど・・・
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・・・大変に重要な御寺の実情を知ってもらう為にも殿様に失礼して御力添え頂こうと思う。
安達盛長公の物と伝わり、3年前だったろうか檀家サンと御話しした際もやはり、その様に伝承している事を説明して下さった。
盛長公の戒名も現代に伝わっており“盛長院三空道無大居士”と記した御位牌も有るそうだ。
源頼朝公は神道と修験道と真言宗と法華宗を支援した方なので、安達盛長公も当初は真言宗寺院‟だった”ここを大切にしたのだろう。
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御寺の寺紋は足利家の❝二つ両引紋❞、鎌倉幕府滅亡後は恐らく室町幕府の鎌倉公方足利家によって支援されたのだろう、学問所としてそれだけの重要な寺院だったから、しかし・・・
もしかすると、安達盛長公の法名が❝道無❞と成っている事から、源頼朝公の亡き後は北条家と縁戚の安達家は臨済宗に改宗していたかも知れない。
❝道〇❞と言うのは鎌倉で興隆した臨済宗の信徒が用いる法名だからな、有名な大田道灌公や同時代の横浜の間宮家の間宮道圓公がその代表例だ。因みに二人とも戦国時代初期の関東の武将だな。
・・・実は戦国時代に突入する契機と成った上杉禅秀の乱で最後の鎌倉公方足利持氏公と犬懸上杉家上杉禅秀公が対立した合戦や、後に残忍な人物として有名に成る室町幕府クジ引き将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏公の対立した事から永享の乱が勃発すると、現在の神奈川県央部一帯から横浜市域まで広大な範囲が戦場に成ってしまった。
その後も扇谷上杉家と山内上杉家が直ぐ近くの七沢城や糟屋館で合戦を行って荒廃した時期が有った。
・・・そんな度重なる戦乱で荒れた後に戦国時代に北条早雲=伊勢盛時公と北条氏綱公の頃に愛甲郡一帯が小田原城主北条家の勢力下に組み込まれた際に北条家の支援を受けた様で、北条家の宗旨である曹洞宗寺院として再興開基された。もう、この頃には真言宗時代と同じ学問所としての機能は消失していただろう。
小生は伊勢原市の比々多神社にもここ数年間初詣を行っているので、八菅神社からの途中に在る金剛寺を素通り出来る筈も無く、弘法大師様と安達盛長公と釈迦牟尼仏様に御参りに来た訳だ。
山門の手前、参道左手には真言宗時代からの大切な御堂が神奈川県教育委員会が保護もせずに放置しておりボロボロに成っている。
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大師堂だ。
もう名前で解ると思うが、ここは弘法大師様が開いた草庵の場所で大同年間(806~809年)に現在の御堂が建てられ、弘法大師様が自らの容姿を写して木造を彫ったとか彫らせたとされる大師像が“散々な状況のまま”祀られている。
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今は御経をあげる仏僧も参拝者も来なくなったが、昔のままの御堂の中で弘法大師様が自ら手彫りされた御影彫像が周辺の人々を見守っている。
その左側には閻魔様=ヤマ(ヒンドゥー教の冥界の神様)と・・・
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右側には武将だか御公家さんだかの彫像。
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・・・前から思っていたのだが誰(笑)
この絶対に偉い人(笑)?家紋も見た事ない家紋で解らない。安達盛長公だったら御寺の由緒的にも自然なんだが眉毛が「麿(まろ)でおじゃる」とか言いそうな人なんだよな。でも公家にしては威厳が有る。

時代劇の“柳生一族の陰謀”に登場する烏丸少将みたいな人なら貴族でも納得なんだが(笑)。
日本に仏教文化の礎の一端を齎した歴史偉人であり日本神話を大切にする空海和尚と非常に関連深い御堂と大師像をこの様な環境に放置するのは正直、如何な物かと思う。これは曹洞宗云々と言うよりも県の教育委員会の保護意識が低く県の文化財指定を受けれない事や明治時代と第二次世界大戦敗戦後の宗教弾圧が関係していると思う。
昔の人は歴史を知っていたので神話の祭祀場後も自然信仰の聖地も神様も仏様も全部古代からずっと江戸時代が終わるまで大切にされたが、明治時代にプロテスタントと密接なキリスト教徒の政府高官達が教育改革と宗教改革を担当したせいでプロテスタントが自然崇拝と偶像崇拝を否定するのと同じように、明治に成り成立した国家神道では古来の神道の自然崇拝と仏教哲学は否定された上に神社の御神像は廃棄され、歴代多くの天皇が支援した自然崇拝の修験道は禁教にされ神社では御神鏡を御神体とする事が義務化された上に、仏教施設祀る神様も強制的に分離させられた。
この時に多くの文化財が日本から失われた。
そして社領寺領と言う収入減を取り上げられ衰退した場所が多い。
丸で戦国時代のバテレンの宣教師が豊後国で大友宗麟にやらせた寺社破壊を彷彿とさせる大惨事が明治時代に起こっていた訳だ。
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例えば金剛寺近くの龍藏神社だが・・・
この金剛寺も同じく寺領を取り上げられた上に塔頭寺院は神社に鞍替えしたりした。その一つが龍藏神社で昔の金剛寺の山門はこの附近だったそうだ。塔頭だったのに神社化したので御堂として仏様を安置出来なく成り寺宝の“仏像”を当時の宮司に成った人間が持ち去って自宅で私物化したり、もう悲惨な事に成った。
更に敗戦後の宗教政策で県がハチャメチャな地元民の勝手な土地登記を認めて御寺の境内地が勝手に切り取られ乗っ取られ縮小した。
これは日本全国の神社仏閣で起きた大惨事だったんだな。特に神社は社領が乗っ取られたり武士階級がいなくなった事で小さな神社は支援者を失った上に、一村一社と言う庶民の信仰を集めた町中の神社を破壊する政策が成立され、それまでの各村の中の各地域で姓を同じくする一族の固まっている場所の氏神様の祠なんかが破壊対象にされて名目的には“合祀”や“習合”と言う言葉で誤魔化されて丸でキリスト教会の様に村の比較的大きな神社に集約され庶民が集まる形の信仰に模様替えされてしまい、逆に日本人と神様の距離が遠くなってしまった。そして御寺も悲惨な事に成った訳だ。
金剛寺の境内は現代でも町中の並の普通の寺院よりは比較的広い規模だが、元の広大な関東有数の仏僧の学問所として機能した頃の金剛寺からは考えられない程狭い境内地に成ってしまった。
実に開発利権の政治家と土建屋に都合の良い状態だな。そう言う目的も有っただろう。
京都市内の神社仏閣も大分と、この宗教改革で被害に遭っている。
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例えば京都の御土産購入スポットとして有名な錦市場近くの西京極商店街にある錦天満宮だが…
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境内地を乗っ取られたり接収されたりして石鳥居がビルに食い込む惨状。
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・・・錦天満宮の直ぐ近所の華嶽山東北寺誠心院も和泉式部と多くの人がその名を知る平安時代の才女で女官の歴史偉人の菩提寺なのだが錦天満宮と同じ悲惨な有様。全く明治時代のキリスト教派政治家の罪は重い。
そして多くの神社が戦後に、この金剛寺や錦天満宮と同じく有象無象の輩に土地登記を勝手にされ社領を乗っ取られたり、市に接収されたりした。
神奈川県には江戸時代まで誇張抜きで日本有数の聖地だった場所が有る・・・
愛甲郡愛川町“八菅山”と、伊勢原市‟大山”だ。こちらも神仏習合だったので弾圧の対象となり歴代天皇や将軍たちから支援され数十の社殿や御堂で満ちた山は荒廃してしまった。
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・・・そんな歴史を辿れる場所が、この金剛寺の大師堂な訳だ。
真言宗だった当時の名残で御堂を取り巻く様に石仏群が鎮座しているが、やはり粗末な扱いを受けている。本当、神奈川県か厚木市は白山温泉の金剛寺大師堂と御堂の仏像を調査して文化財指定出来ないか検討して欲しい。
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弘法大師様と安達盛長公に丸2年ぶりの御参りをしてから、御本堂に向かった。
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足利家の家紋だな。
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まぁ、散々プロテスタントと英米批判したのでフォローしておくと、英国が戦艦三笠を売ってくれたり東郷平八郎元帥の留学を受け入れて下さったので日本は明治時代にロシア帝国の植民地にされずに済んでいる。
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英国は日中開戦前夜も日米開戦前夜も仲裁に奔走していてくれた事実も有る。
それにアメリカの軍人サンは、日本軍人を非常に高く評価していて下さった。だから戦艦三笠の存続もニミッツ元帥達が中心と成って保護活動が広まり欧米社会の支援を受ける事も出来たんだな。
当然ながら敗戦からの復興にODAを注入してくれたのも欧米だ。
生麦事件を契機に江戸幕府に難癖付けて脅迫し慰謝料を脅し取ろうとしたのも英国だが、日本の近代化を支援してくれたのも英国、日本人を結果的に一番評価してくれた白人国家も英国だったんだな。
そして宗教改革に失敗した明治政府だって、経済改革と近代化を見事成功させ、階級差別を撤廃し法治主義を浸透させ見事に日本をアジアを代表する押しも押されぬ先進国に変貌させた訳だ。
・・・物事には万事一長一短有ると言う事だな。
御本堂でも釈迦牟尼仏様に御参りしてから次に七沢城址を目指すべくカーナビで目的地設定し出発した、とここで問題発生・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
小生が実際に当日廻ったルートに七沢城は入ってない。実は小生の自動車企業純正カーナビが実にフザケタ無能な物で、iPod繋げればバグるわ~、首都高乗れば変な出口で降ろそうとするわ~で実に仕えない。そして又、やらかしてくれた。
・・・遠回りして目的地を行き過ぎる誘導しやがった(笑)!
金剛寺から丹沢方面経由で行けば直ぐに行けるのにカーナビの通りに走ったら、何故か遠回しされ伊勢原まで来てしまった。
七沢城周辺位置関係
小生は織田信長公や徳川家康公や北条早雲公等の歴史偉人を崇敬しており毎日神様仏様と等しく拝んでいる。その中には横浜や神奈川県と関係の深い無敗の名軍師で築城家で高い教養の持ち主として有名だった太田道灌公も含まれるのだが、本来向かおうと思っていた七沢城址は太田道灌公を殺害した主君の扇谷上杉家の持ち城で城主も当主の扇谷上杉定正公の実弟の上杉朝昌公だった。
そこで思った・・・
「あ~太田道灌公や神様仏様が“ソッチ行くな”と言ってるのかも知れない(笑)」と、道を逆戻りするのが面倒なので勝手な解釈をして(笑)、反対に予定に組み込まれている伊勢原市三之宮比々多神社と途中に在る太田道灌公の菩提寺の洞昌院に正月の参拝に行く事にした。
洞昌院の正式名称は蟠龍山(ばんりゅうさん)洞昌院(どうしょういん)公所寺(ぐぞじ)と言う。
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蟠龍山洞昌院公所寺
ここは正に太田道灌公が生前に相模守護代として主君に代わって政務を行っていた御寺なので公所寺と言うのだろう。
・・・そして大城塞の糟屋館で主君に面会してから帰路、城の虎口で襲撃され、深手を負ったまま逃げて来てがたまたま御寺の山門が閉まっていて力尽きて息絶えた現場。御寺の境内では無く小生が写真を撮影している場所が太田道灌公が絶命した、その場所なんだな。小生の尊敬する先人の1人が絶命した現場。
詳しい事は御住職から御教授頂いた寺伝や現地の地名を含めて以前書いた解説記事が有るので、其方(そちら)を読んで頂ければ解り易く、江戸時代に現地訪問も取材もせずに適当に書かれ通説の解釈が誤りで有る事もスパッと御理解頂けると思う。
コレ→【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
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さて、現在の山門代りの石柱の横には立派な枝垂桜が有り、近くの上粕屋神社の桜並木や糟屋館と合わせて春には良い歴史散策の散歩コースと成るが、現在、太田道灌公を暗殺した主君の扇谷上杉家の居城だった糟屋館の巨大な城砦の舌状台地は神奈川県の黒岩知事による破壊の真っただ中に晒されている。
新東名に接続するバイパス工事で壁面の帯曲輪群や土塁が城跡認定されないまま既に掘削開始されているんだな。
昨年、発掘調査結果が出たが発掘調査した学芸員サン達の中には意図的にか城郭の専門家はおらず、調査報告の内容も既に農地改良された削平地の“道の跡しか無い”と言う事に成ってしまった。
実際に城好きが歩けば一目瞭然、彼等素人が❝自然地形❞と勘違いした大空堀は明らかに裾切りされているし壁面は帯曲輪や武者走りが沢山残っていて更には一部土塁も有るのに、故意にか解らないが調査対象から外されていた。伊勢原市サンの方では県の事業なので横槍も出せない状況なんだな。
・・・だから、カーナビに任せて遠回りしてコチラに来させられたのは「正月の間に城址の残存地形探して写真撮っとけ!」って太田道灌公に言われた様なもんなのかな?とか思ったりした。
・・・まぁ、車の純正ナビがクソ性能なだけだけど(笑)。有る意味丁度良かったのかも知れない。
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太田道灌公をリスペクトしていたライバルの北条早雲公が伊勢原市や厚木市一帯を支配地域に組み込むと、太田道灌公の親友だった万里集九と言う禅僧文化人を招待して太田道灌公の菩提を弔った。
北条家は曹洞宗に帰依していたので当然、こちらも復興される際は厚木白山温泉の金剛寺と同じく曹洞宗寺院に成った様だ。御住職の御話しでは建長寺で学問を治めた太田道灌公の御存命時は太田家所縁の寺らしく臨済宗だったそうだ。そもそも“道灌”の“道”は臨済宗に多い入道号だからな。
御住職様と面識が出来て以来、太田道灌公の文書で解った事の報告に来たりローカルな情報を色々と御教示頂いたりしているんだな。だから御正月に太田道灌公の御霊と御住職に挨拶差し上げに来れたのは有る意味幸運だったのかも知れない・・・ぽんこつカーナビの御陰(笑)?
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御本堂には太田家の太田桔梗紋。
庫裡に行く前に本堂で金剛寺に続いて釈迦牟尼仏様に改めて御参りしていたら御住職様がヒョコっと横から出て来られたので、はからずも立ち話しをする事に成り、そのまま新年の御挨拶をしたのだが・・・「太田道灌公の論文を週刊プレイボーイが掲載し写真使用許可の挨拶に来て読んだけど面白かったよ」
・・・と、まさかのグラビアとゴシップ中心の雑誌(笑)で真面目な太田道灌公がらみの記事が掲載された事を知らされた。全く縁の無い方面の雑誌なので意外だったが、やはり実際に色んな人に有って話をして回らないと自分だけで取捨選択する情報と言うのは偏りがちになるので幅が広がらないな。
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暫く話し込んで、再度新年の挨拶をしてから道灌公の御位牌が安置されている霊廟(歴住の御廟も兼ねる)への参詣許可を御住職に頂いた上で御堂の扉を開いて先ずは御位牌に新年の挨拶をした。
中には❝洞昌院殿心圓道灌大居士不退位❞と書かれた位牌が安置されている・・・
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つまり太田道灌公の戒名であり、普通見慣れないであろう❝不退位❞号は菩薩様の入口段階の位階を表す。太田道灌公は幼少期より鎌倉の巨福山建長興国禅寺=建長寺で学問学び精神を修練された“禅僧”でもあったんだな。
アホのWikipediaでは伊勢原の大慈寺が道灌公の首塚と伝わる事から大慈寺殿心圓道灌大居士と戒名を書いてしまっているが、近年の研究で大慈寺の道灌さんは江戸時代の別人じゃないのと疑義がかかっている(笑)。江戸時代にいた下糟屋の高部屋神社界隈を開拓した道灌さんと混同している可能性が高いんだな。
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写真は鎌倉市の英勝寺、徳川家康公の愛妾で太田道灌公の御子孫に当たる於梶(おかじ)の方が尼住職を務めた御寺だったが、この境内は室町時代の太田家の屋敷跡だったりする。
・・・そして決定的な事実として、道灌公の首塚は鎌倉市の太田道灌公の屋敷地である英勝寺に守られていて、昔から道灌公の鎌倉邸の直ぐ裏の源氏山に御首(みしるし)は埋葬されていると、鎌倉市と英勝寺と徳川幕府は認識していた。まぁ、そこ等辺は置いておいても大慈寺の件は地元民の太田道灌公リスペクトが生んだ伝承なので悪意も無いし、間違えられている人も有る意味光栄だろう。
・・・歴史学者の中は宗教に対する信仰心も先人へのリスペクトも無い人が可成りの割合でいて、御子孫や御霊を守る社寺の宮司様や和尚様や氏子サン檀家サンに向かって其処(そこ)に関わる歴史人の名を呼び捨てにする不届き者が沢山いる。それが小生は気に食わないので昔、とある歴史学者と喧嘩した事も有る。自分だけでも偉人の俗名を呼ばせて頂く際は“公”を付け様と心がけているし、世間に先人の正しい戒名も伝えたいと思っている。戒名には色んな意味が含まれているし、徳川幕府役人の中には教養が無い奴も仕事が出来ない奴も当然いて社寺領安堵の御朱印で寺社の名前を間違って発給したり法名の抜粋すべき所が解らず見当違いな部分を戒名から抜き取っていたり、有ろう事か戒名=入道号だと思っている奴までいて誤った記録が幕府編纂の諸家系図にも記載されてしまっていたりするんだな。
太田道灌公と歴住の御位牌を拝んでから御廟を離れ、境内に有る太田道灌公胴塚に向う途中で境内社の吉祥弁才天様に参拝。
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弁天様に昨年一年御加護御守護頂いた御礼を申し上げ新年の祈願を御伝えした。
弁天様と言えば江ノ島の八臂弁財天様と天皇家勅願所の岩屋だが、これを管理した別当岩本坊は代々、横浜の殿様の間宮家の同族の岩本坊間宮家が別当職を務めたので、横浜市民の小生にとっては弁天様は何よりも代えがたい勝利と開運の女神様なんだな。
吉祥弁才天様の奥に太田道灌公の胴塚が存在している・・・
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太田道灌公とライバルであり道灌公をリスペクトしていた北条早雲公と、道灌公の親友だった万里集九禅師が御一緒に道灌公の御首の無い胴体を改葬され御廟所とされた場所。
ここは小生にとっては思金神や莵道稚郎子命や天満大自在天神菅原道真公に次ぐ知恵を授けて頂く仏様であり高い教養と無敗の軍師としての道灌公に文化と勝負の御利益を授かる為の場所でもあり、何より尊敬する道灌公に御挨拶と報告と御礼をする場所なんだな。
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御廟所の枯れた大木は北条早雲公と万里集九禅師が二人で道灌公の供養に植えた松の枯れ木だ。
500年の時を超えて今も幹が大切にされており、ここでは太田道灌公、北条早雲公、万里集九公と時間を超えて空気を共にする事が出来るんだな。
今年は正月から御参りで来た御礼と、再び新年の心願を伝えた。
扇谷上杉家糟屋館周辺地形 久良岐のよし
この公所寺から太田道灌公が主君の扇谷上杉定正公に襲撃された糟屋館の湯殿入りの虎口は近い。
付近には道灌公の7人の配下武将が敵勢を食い止めようとして落命した場所の七人塚や、延喜式には掲載無いが延喜年間以前から存在した式外社の山王権現、現在の上粕屋神社も在る。
せっかくカーナビの御蔭で(笑)七沢城に行かなかったので糟屋館城址周辺で規制のかかってない無い地域を歩いて廻る事にした・・・

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③に続く。





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日本で初めてラーメンを食べたのは誰なのか 水戸黄門だったという従来説が覆った?

経帯麺 東洋経済オンライン画像 

この記事読んで正直ラー博にも東洋経済オンラインにも失望した。

記事中、拉麺の起源を室町時代まで遡(さかのぼ)れるとし、その起源を「経帯麺」と解説している。
解説は中村正博さん、恐らく中国に行ってちゃんと食べ歩いた事も無ければ、麺料理のカテゴライズがちゃんと出来ていない程度の知識しかない「ラーメンオタク」であって「拉麺」を食べた事が無いひとなんだろう。

日本人が拉麺(ラーメン)と思っている食べ物は中国語で「湯麺」と呼ばれるスープに入った中華麺の事で文字の誤植だ。
一方、湯麺は何故か個別の中華ソバの料理名として成立してしまった。これは日本の中華屋に如何に本場で学んだ人間が昭和期に少なかったか解る事実だな。

そもそも拉麺と言うのは文字通り拉(la)麺(mian)で、拉の字の意味は「引っ張る」と言う意味だ。
そして拉麺と言うのは古今ずっと中国や新疆ウィグル自治区や台湾では、注文してから作る「小麦の手延べ麺」の事だ。
更に言おう、拉麺の起源は中華料理ですら無い。新疆ウィグル族やトルコ人の祖先達の突厥達騎馬民族の料理文化だ。保存に手間取らず携行出来る小麦粉を生地にして、必要な人数分だけその場で手延べして作る麺料理が拉麺だ。
中国に行けば現代でも拉麺を提供する店は多く有り、拉麺は一貫して手延べ麺の事を指す。そして、その店の多くは新疆ウィグル族の店や、その文化を受け継いでいる事が解る「蘭州拉麺」と看板を出す店が多い。蘭州とは三国時代で言う所の西涼辺り涼州や、唐の時代に栄えた石窟大寺院で有名な敦煌(トルファン)辺りだな。つまりウィグル人由来の料理であり、小麦を使ったナン等も彼等の得意とする料理だったりする。
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例えば台湾に行くと牛肉麺と言う料理を出す店が多い。見た目は完全に日本の拉麺のソレだが、これは拉麺では無い。煮て味付けした牛肉や牛筋の入った麺、そのままの内容を形容した料理だ。
コレが拉麺の麺を使用していれば名前が「牛肉拉麺」に成る訳だが、どうも、そういった基本的な知識が新横浜ラーメン博物館の広報の中村正博さんには足らない様だ。
別に知識が無い、中国や台湾やウィグル自治区で様々な拉麺を食べ歩きした事無いのは恥では無い!職務特権を使い出張出来るなら出張して今からド素人の小生達、中国経験者を超える知識と美味い店を沢山発見して日本で紹介すれば良い。
ラーメンは拉麺で手延べ麺、そして麺の調理法で刀削麺や餃子の様に名前が変わり、今では新疆ウィグル族の住むタクマラカン砂漠~内モンゴル~モンゴル国~中国東北地方(旧:満州)の騎馬民族文化圏のみならず中国大陸北部でも主食として親しまれる様に成った訳だ。
餃子も麺料理と列挙したが、日本人は誤解しているがアレはイタリア料理のペンネの様に麺料理で主食なんだな。だから焼き餃子を食べながら白米を食べる日本人の姿は中国人や台湾人には滑稽に映るし、本来の餃子は水餃子で余った分を翌日に油で煎って食べるので煎餃(jianジェン jiaoジャオ)と言う訳だ。
もっとも点心の発達した広東料理では点心のメニューとして煎餃もラインナップされている事は少なくない。
同じく点心の発達している福建省では、蒸餃(蒸し餃子)が主流だったりする。
拉麺や餃子や刀削麺等は面の打ち方の種別を指す、そして全て主食な訳だ。

だから重ねて言うがラー博の広報の中村正博さんの認識は事実誤認であり経帯麺は拉麺とは別料理!
きっと中村さんの知識では中国料理の湯麺が全てラーメンに脳内変換される程度の知識しかまだ拉麺にかんしては無いのだろう。無論、日本のラーメンに関しては素晴らしい博識でらっしゃるのだろう。

余談だが、弘法大師空海和尚様が持ち帰った品種の小麦の遺伝子はウィグル自治区の物と一致するそうだ。中国の唐朝廷時代に既に首都の長安(現:西安市)で、ウィグル人の麺料理人達が拉麺や饂飩の原型の様々な料理を作って漢族の胃を満たし、商売繁盛大活躍していた事が窺い知れる史実だな。
空海和尚様は僧侶だったので肉を食べる訳にも行かず、ウィグル族の作る麺料理に舌鼓を打って精進料理の代わりに楽しんでおられたのだろう。

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ブログネタ
神社・仏閣 に参加中!
前回、君が代の発祥地である妙香寺さんを紹介する記事を書きましたが、今回はより詳しく説明する為に「テニスの発祥地」でもあり元々は妙香寺さんの寺領だった「山手公園」を紹介したいと思います。
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この建物、何かのオカルト記事とか、都市伝説のTV番組とかで見た事が有りませんか?
実は、この建物は日本で最初に吹奏楽=ブラスバンドのコンサートが行われた場所なんです。
今では山手公園として整備されており、後で説明しますが若かりし頃の今上天皇陛下御夫妻もこちらに来られた事がありました。
そして、この場所は…
フリーメイソンの日本最初のロッジが在った場所でもあるんですね。
今では山手の中の端っこの野原みたいに成っていますが、実は凄い由緒の有る東屋なんです。
最初のコンサートの場所だからでしょうか?ベンチも東屋を取り囲む様に配置されています。
…まさか幕末当時のままの配置ではないでしょうが。

この山手公園は近くに「日本のビールの発祥地」麒麟公園や…
※麒麟公園記事は「ココクリック!
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この山手公園を含む広大な寺院で空海和尚や日蓮和尚と直接の所縁の有る妙香寺サン
※妙香寺の歴史の話しの記事は「ココクリック!
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…から歩いて直ぐの距離に在ります。

位置関係を下の衛星写真を御覧下さい。
山手公園位置関係
全て徒歩圏内です。
因みに前回の記事でも少し触れましたが、この妙香寺の丘一帯が幕末時、イギリス軍の駐屯地として利用されていました。
衛星写真の右上、今の港の見える丘公園の辺りはフランス山と呼ばれていますが、そのまんまフランス軍の駐屯地でした。
港の見える丘公園からも近いので、山手の洋館見学がてら散歩に来て歴史に触れるのも悪くない休日を過ごせる事間違い無しですよ!
幕末、この本牧半島には沢山の外国の領事館が在り、軍人も居た訳ですが…
まぁ~、軍と言っても、在日外交官を守ったり移動に利用される軍船の将兵程度で恐ろしい占領軍とかではありませんでした。
…占領されるのは太平洋戦争の敗戦後です。
本題に戻りましょう!
山手公園に行く目印は、住宅街の中に見えるこんもりとした森の麓の下の写真の道標ですかね。
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これならトイレに困ってる人も助かりますが、公園を強調したいのだかトイレを強調したいのかサッパリ解らない(笑)!
因(ちな)みに、この付近には麦田トンネルと言う隧道が在り、明治時代に新橋~横浜(現・桜木町駅)間で開通した蒸気機関車は、その先まで延伸され麦田トンネルを通っていました。
それだけでも想像するだけで大正浪漫を感じるのは小生だけでしょうか(笑)?
小生の横浜の祖母の家は明治~大正時代にシルク商人だったのですが、大正時代まだ女性の学生が珍しかった当時、日本初の女学校「フェリス女学院」に「蒸気バス」で通学したと言っていました。
…英米との戦争さへ起きなければ、日本は和洋折衷の大正文化が花開いた頃の栄華を更に発展させた美しい時代を実現できたんでしょうかね~?

「歴史に「if」は無いし考えるのは無駄」

…と、言うのが持論の小生なので、この話は置いておきましょう(笑)。
フェリスや麦田トンネルも近い山手公園ですが、冒頭で申し上げた通り、「日本の国家」である「君が代」の発祥地であり、吹奏楽の発祥地であり、テニスの発祥地でもあります。
最初に吹奏楽の話をしているので、次は国家君が代の話をしましょう。

今回の記事のタイトルは「歴史を知らないアフォ左翼が発狂しそうな題字」ですが(笑)、実は歴史を知ってるつもりの極右も発狂する歴史事実を説明しないといけない回なんですよ~。
な~んにも知らない人が多いと思いますが…
日本の国家君が代は、天皇陛下礼賛云々以前に、日本人では無くて「イギリス人が作曲した曲」と言う事実を御存知でしたか(笑)?
国旗
国家「君が代」は明治02(西暦1869)年の秋、英国領事館の護衛武官として来日していた英国陸軍常備歩兵隊第10番大隊長付きだったジョン・ウィリアム・フェントン軍楽長により作曲されました。
その後、明治03(西暦1870)年の09月08日今の東京都江東区に当たる江戸時代当時の「越中島公式に御披露目されました
薩英戦争以来、島津家と英国は協力関係に在った関係で、島津家薩摩藩は英国から様々な近代技術と西洋文明を技術供与されていました。明治02(西暦1869)年の戊辰戦争終結後、島津家薩摩藩と毛利家長州藩を中心に樹立された明治新政府は日本の早急な近代国家化を目指す必要が有りました。フェントン軍楽長に近代国家として国歌の必要性を説かれた新政府は、島津忠義公と共に鹿児島を出港した汽船に乗船して横浜に来航した薩摩藩の軍学生を当時の妙香寺に寄宿させ吹奏楽を学ばせました。君が代の歌詞選定は当時の砲兵隊長で後の陸軍大将と成る薩摩藩士の大山巌(いわお)公が中心と成って古今和歌集の賀歌部の中から選定されたんですね。
大山巌↓陸軍大将
大山巌
…だからね、全然、右翼の民族主義の歌でも軍国主義の曲でも無ければ、寧ろ、国際社会から必要性を説かれて後押しを受けて作曲作詞されたのが君が代なんですね。
その後、ドイツの海軍軍楽教師で音楽家のフランツ・エッケルト先生によって現在の曲調の君が代が完成されたそうでう。
…どうです?君が代って超!国際的で平和的で、更に外国人の方々が作曲の中核を担ったのに凄く日本的でしょう?
よく、日本の良さって日本好きの外国人の方が知っていたりしますけれど、それと似た様な感じで本牧半島の海に面した情景を日本らしい感じでフェントンさんやエッケルトさんが表現して下さったんですね♪
フェントン軍楽長とエッケルト先生に感謝!

因みに君が代が御披露目された越中島の地名の由来は、戦国武将で徳川四天王の1人、榊原康政公の兄君である榊原清政公の御孫サンの榊原照清公の屋敷が在った事で、その照清公の官職名の越中守に由来して命名されています。
偶然ですが、照清公は横浜の殿様間宮家と榊原家の血を引いた方でした。
戦国時代~江戸時代のこの横浜市東部を本牧奉行として治めた間宮家の分家、今の横浜市磯子区杉田辺りを領地にしていた杉田間宮家の当主である間宮信繁公の御姫様が榊原清政公の御子息の榊原照久公に御嫁入されていて、その照久公の御子息が榊原照清公でした。
つまり間宮家と榊原家の血を引いた方が江東区に屋敷を構えていたので、横浜市の本牧は江東区越中島と殿様同士の御縁が有ったりします。

薩摩とイギリスに話を戻します。
薩英の結びつきに関しては、薩英戦争で大英帝国様に敗北した薩摩藩が事実上の従属同盟をしていた的な解釈も成り立つので微妙ですが、その後のロシア帝国のアジア植民地化計画を打破した対馬海戦の折りにイギリスが国際社会に日本に協力する様に呼びかけて下さった御蔭で、ロシア帝国のバルチック艦隊は補給を満足に受ける事が出来ず、ヘロヘロな状態で大日本帝国海軍と交戦する状況を演出して下さったり、太平洋戦争で決別するまでは日本と英国は良き師弟の様な協力関係にあった訳で、正に、外交と戦争の良い面と悪い面、必要性と危険性の両方を示した逸話とも言えます。
そこら辺りは以前の記事「横浜開港資料館=元・英国領事館」を紹介した記事で詳しく書いているので、そちらを読んでみて下さい。
※横浜開港資料館の記事はココクリック!

…ここまでハッキリとした歴史事実が伝わってるんですが、何故か極左教師や歴史事実を直視しない左派は「右翼の曲だ」とギャ~ギャ~大変な誤りを騒ぎ立てたり…
…右翼は右翼で「外国人作曲」と言う不都合な歴史は伝えようともしないんですよね(笑)。どっちもどっち。
…横浜生まれ横浜育ち以外のハマっ子でも知っている人間は少ないですが、知っている人は知っている君が代の成り立ちでした。
因みに、小生は「中道寄りの保守派」「法治主義者」だと思っています。
よく中国政府をコケにしながら中国文化好きだったり、矛盾した記事書いてるので皆さん、御存知だと思いますが(笑)。

さて、テニスの話に話題を移します。
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この、元・妙香寺の敷地である山手公園は、テニスの発祥地でもあるので、今でもテニスコートとテニス発祥記念館が在ります。休日は多くの初老の先輩方が男女で半合コンみたいな感じでテニスを楽しんでらっしゃるのを良く御見掛けします…
…小生等、現役世代はテニスしてるオッサン達世代の負の遺産で四苦八苦してるのに何だか不平等だよな…
とか思っちゃいますが、まぁ~、明治大正の先人が残して下さったテニス文化を発祥地で満喫するのは風流だから棺桶に片足突っ込んだ日本工業商業没落の戦犯世代ジジババも風流に免じて見逃してやろう(笑)。
…と、上から見るとイライラしないで済んだりする、心の狭い小生(笑)。
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このテニスコートは、若かりし頃の今上天皇陛下と美智子皇后様からもテニス発祥地として御来訪を賜り、テニスをされた事の有る、なんだかほのぼのとする聖跡でもあります。
あ、聖跡ってのは、皇族が何かした史跡の事ですよ。
東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘も、明治天皇が鷹狩りを楽しまれた場所だから「聖跡」って付くんですよ。
つまり、軽井沢のテニスコートも今上天皇陛下と美智子皇后様が愛を育まれた恋愛の聖跡=パワースポットって事に成りますね~。
…ここでテニスしたら、女の子にモテる様に成るだろうか?
…ここでテニスするのが似合う様な大人に成ってたらオシャレでモテるのか?どっちが先だろう(笑)。
…又、脱線してしまいました。
先程の道標に「テニス発祥記念館」って有りましたよね?
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それが↑コレです。
後ろ姿は全然セクシーじゃない建物。
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ステンドグラスは綺麗でしょ?繰り返しに成るけれど後ろ姿は地味だけれど。
でも前から見ると…

……
………一生の不覚!なんと、正面からの写真を撮り忘れてました!
…今度、近く行く時に撮影してきます。でも、中の写真はちゃんと撮影しているので、見て見ましょう!
このテニス発祥記念館は無料で拝観できます。
中にはテニスの歴史や、当時のテニスの様子や道具が再現されたり保存されています。
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小生、不勉強で知らなかったのですが、テニスは昔は貴族のスポーツでドレスコードだったらしいです!
ドレスなんか着ながらテニスやるとか、御婦人方、オシャレの為に動き難いわ~熱いわ~で大変だったでしょうね。
壁のいたる所にコンナ↓解り易い年表とか資料が展示されています。
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あと、昔のテニスラケットがどんな物だったかとか、道具の発展もよく解る展示物が有ります。
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昔は木製だったんですね~…って当たり前か。
しかし、こんなんでやってたら、今のプロスポーツ化してアホみたいに凄いサーブ打とうとしてもラケットの方が折れちゃうでしょうね?
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それだけ、昔のテニス…と言うか、本来のテニスは上品にゆったりしたラリーを楽しむような大らかなスポーツだったんでしょうかね~。

今回はテニスとブラスバンドと国家の発祥地としての妙香寺=横浜の歴史の御話しでしたが、皆さん如何でしたか?

次は京都とか安土の事を書こうかな~♪
それとも今週24日土曜日の小机城址竹灯籠祭りの見学報告でも書こうかな~♪
以前の小机城址竹灯篭祭りの記事なんかは「ココ」←クリックして御覧下さい!

では、又、次の記事で御会いしましょう!



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