歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:弟橘姫

さて、皆さんは川崎市に井田城と言う名の御城が存在した事を御存知でしょうか?
実は戦国時代の川崎市を含む多摩川と鶴見川の流域一帯には沢山の御城が存在していました。
井田城と言うのは、その中の鶴見川の支流である矢上川上流を抑える御城で、水運を利用する物流の要所だった事が窺(うかが)い知れます。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
今では養護学校や宅地化によって城址としての遺構は乏しくなってしまいましたが、要害性在る高い断崖の上の台地が城域に成っています。
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落ちたら死にますね(笑)。
さて、この御城を目指すには“セブンイレブン川崎市井田2丁目店”さん横の神社を目指すと解り易いんでです。

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まぁ、セブンイレブンを目指せば良いんですが、何故(なぜ)この神社を目標に指定したかと言いますと、その先に在る井田城の“大堀切らしき地形”に行く事が出来るからです。
井田城址地形 久良岐のよし
このGoogle earthの立体地形画像だと大堀切の地形は良く解りますが更に地形が解り易い国土地理院の色別標高図を重ねて見ましょう!
井田城址地形図推定縄張り 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して見て下さい。
この画像で示した人口地形へは神社からだと“井田さくらが丘公園”を目標に進むと、丁度、その人工の大堀切跡と思しき住宅街に辿り着く事が出来ますよ~。
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まぁ今では宅地化されてしまい標高差にしか面影は有りませんね。
こう言った地形を読むには等高線の有る地図を見たり、事前に国土地理院の標高図を見て置くと非常に参考に成ります。
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まぁ、そこら辺は自分で歩いて見て下さい(笑)。
一応、セブンイレブンからの順路のGoogle mapのナビ画像を添付して置きますので参考にして見て下さい。
井田城推定大堀切地形への順路 久良岐のよし
※水色の点線が当該の地形の北端を通るルート。
小生もこの周りを大分グルグルと周りました。2014年当時妹夫婦が小田中に住んでいたので、以前から井田城に興味が有り訪れて見たかったので行ったら宅地化されてるわ、台地上の城址は昭和の農地改良で削平されて大半が無いわでガッカリしましたが、それでも神庭緑地と言う地域に行くと幾(いく)らか城址の名残が有りました。
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同地は古墳などもある古代の遺跡でもあります。
実は、この一帯は古代の早い内から開けており日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と御妃様の弟橘姫(オトタチバナヒメ)様の神話の土地でもありますが、そこら辺は以前に記事に書いているので御興味有る方は以下のリンクから過去の解説記事を御覧下さい。
CIMG2018
川崎の橘樹神社の記事リンクimage
横浜の宝秀寺の記事リンク
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三浦半島の走水神社の記事リンク
CIMG1942
相模原の石楯尾神社の記事リンク

さて、井田城址の神庭緑地に関して話を戻すと・・・
小生達歴史オタクや城址オタクから見ると土塁にしか見えない場所には教育委員会の説明では古墳とは書いて有りました。
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城郭ファンには土塁と見張り台の跡にしか見えない。まぁ円墳を繋げた可能性は高いし実はこの古墳群は先程見て頂いた断崖の縁(へり)に沿って築かれていて、教育委員会が気付いているとは思えないが、この位置には大変重要な意味が有る。
橘樹神社と蟹ヶ谷古墳群の位置関係 久良岐のよし
実は断崖の縁に古墳を築く事で、日本武尊の御妃、弟橘姫様の古墳を背後に抱える橘樹神社を遥拝出来る。
井田城址蟹ヶ谷古墳群と弟橘姫御陵の位置関係 久良岐のよし
そして橘樹神社は三浦半島の走水沖で海を鎮める神事の為(ため)に入水自殺し人柱に成った弟橘姫様の髪飾りの一つが流れ着いた場所と伝承しており、この矢上川流域は弥生時代後期まで大きく東京湾が入り込んでいて現在の川崎区や中原区の平地部分は海だった事が推測されます。
つまり、この神庭緑地に古墳を築いたのは海を治めた古代の弟橘姫と同族の豪族達で、その古墳群が室町時代の井田城築城時に土塁で連結されたのでしょう。
橘樹神社は橘樹郡の郡衙(ぐんが=郡庁舎)の跡と推測されており、小生の推測と神話では井田城址と橘樹神社の間の湾曲した丘陵地帯は文字通り“曲がった海”=“湾”だった筈です。
実は小生と同じ事を考えている人達が居て、その人達は“考古学者ではない”のだ(笑)。地質学者の人達なんだな。
そこ等の海底の陸地化の速度は以前の休日雑記の“諸磯隆起海岸”の訪問時の解説で触れているので、興味の有る人は小生の取材の様子を過去記事で見て下さい。
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●諸磯隆起海岸と海底の露出速度の解説記事リンク→
小生や地質学者は神話と地質を合わせた意見から土地の隆起速度や土砂の堆積からの陸地化の速さに対して弥生時代の海の範囲を考古学者よりも内陸に予想している訳ですが・・・
陸の隆起の速さと海が川の土砂か古代人の埋め立て工事で海の陸地化が早かった事を証明する様な記事が室町時代の文書から垣間見えます。
江戸時代には陸地に成っていた川崎市の砂子、つまり堀之内地区より南側は海だった事が太田道灌公の書いた日記に記されているんですよ。そして標高にも曾(かつ)ての海は見てとれたりします。
下の色別標高図をGoogle earthに張り付けた画像をクリックし拡大して御覧頂ければ一目瞭然。
川崎市川崎区周辺の海抜0m地帯 久良岐のよし
色別標高図で青で表示されている場所は海抜0m地帯です。
海抜0mと言う事は標高が海面より下に有ると言う事に成るので津波が来たり多摩川や鶴見川が増水して堤防が決壊したら水没し壊滅し死傷者が多数発生する可能性の高い地域です。
なんでコンナ地形が出来てしまったかと言うと大河川は昔は自然に氾濫して長い時間をかけて継続して土砂が堆積して行きどんどん陸地が広がって行くのが普通なのですが、江戸時代に成ると治安も良くなり幕府は治水等に力を注ぎ都市や耕地を拡充する余裕が出て来た訳です。そして大河川に堤防を築くと川は氾濫出来ずに横に土砂を広げる事が出来ずにドンドン川底に堆積してしまい川が浅く更に広く成ってしまいます。すると人間は更に高い堤防を築いて更に川が地面よりも高い位置を流れる様に成ってしまいますが、この様な川を“天井川”と呼ぶ事は中学校の授業で皆さんも習った筈(はず)です。
そうすると堤防の内側の人工的な陸地や土砂の堆積で陸地化した場所の内で標高の低い所は、自然に標高が高くなる機会を失ってしまい、この様な危険な0海抜地帯が出来てしまう訳です。
東京都江東区の深川や越中島や門前仲町界隈の隅田川沿いなんかは0海抜地帯だらけなので、ありとあらゆる水路に防潮堤や水門が築かれていたりします。
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こんな感じの水門ですね。
多摩川や鶴見川下流の川崎界隈は、昭和の埋め立て工事以前から川崎市一帯は鶴見川と多摩川の土砂の堆積や江戸時代の埋立地の拡大で恐ろしい速さで海岸線が後退して行った様です。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
※画像は小田原市の神奈川県立生命の星・地球博物館様が作成された縄文時代の海岸線の図をGoogle earthに重ね古代から存在する神社を表示した物です。
この画像で神奈川県域で内陸で白に塗られた地域が縄文時代の海岸線です。これを見ると橘樹神社や井田城址辺りの丘を除いて川崎市の中原区やや幸区や川崎区は古代には見事に海底だった事が判ります。
そして、古代に海底だった大河川の氾濫原に出来た平地は守備に不向きで築城には不適当な地形なので、古代の海岸線のリアス式海岸だった丘陵沿いに当たる井田の断崖の地に城が築かれた訳です。
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崖の上から住宅地の有る平地までは余裕で20m以上有るだろうか?傾斜角度も70°近いので甲冑を来た武者は登れなくて当然、健脚の農民や漁師ですら登る事は困難だろう。
そして目の前には矢上川が流れ、険阻な真に城向き地形をしている。
さて、この井田城址の神庭緑地内には城の遺構と思われる地形が土塁の他にも残っていました。
竹林は大堀切でそこから竪堀状に下に下っている地形に成っています。

IMG_2260
ここの説明から発掘調査には城郭専門家が加わっていなかったと推測出来るのですが、教育委員会の説明には空堀等の説明も無いんです。
まぁ、やっぱり発掘調査に神奈川県が例によって城郭の専門家を入れなかったんでしょう、宅地開発利権の為に。

さて・・・
以下は文字だらけに成りますが戦国時代の文書と江戸時代の文書の記録から、この御城に住んでいたのが一体誰だったかを予想してみましょう!同地は小田原所領役帳と言う文書に地名と武士の姓が登場します。
その小田原所領役帳には・・・
「拾(10)貫文 井田 沼上」
・・・と記録されている。
つまり姓が沼上で名は不記載の人物が治めたらしいですね。しかし新編武蔵風土記稿を読むと「中田加賀守の住した場所だった」可能性も指摘されています。しかし「世田谷の吉良家の与力だった」と否定的な見解も添え書きしてあります。
戦国時代に現在の川崎市域を含めた南関東一帯を統治した大大名の北条家ですが、この新編武蔵風土記稿を書いたのは北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信です。つまり、新編武蔵風土記稿の内容は間宮家の認識と成ります。

この中田加賀守の所領も又、小田原所領役帳の御家中衆の小机衆の一覧に記載が有ります。
その所領は・・・
「拾壱(11)貫五百五十文 小机(領) 川島
 (※保土ヶ谷区~旭区の川島の地名の残る一帯)
 三貫八百七十文 小机(領) 矢上之内
 (※横浜市港北区日吉一帯)
           以上拾五貫四百弐拾文」
・・・と記載されています。つまり小机城を拠点とした小机衆の軍事管制域内だった様です。この地域を守備していたのが北条幻庵公や北条氏尭公と小机衆の拠点の小机城城代家老だった笠原信為公である事が判ります。
しかし、江戸衆の太田新六郎=太田康資公の所領にも中田領が登場します。
「一 太田新六郎知行
 (※以下中略)
   新六郎書立上被申員数辻 但此外私領之内を自分ニ寄子衆ニ配当候書立
 (※以下中略)
 稲毛(領)
 弐貫五百文 鹿嶋田借宿 中田分
 (※川崎市中原区刈宿一帯)
 同(稲毛領)
 小田中分 同人分」
つまり、中田さんは初期段階で太田康資公の直臣だった事が解り、江戸衆であった事も同時に解ります。
これ等の記載が登場する小田原所領役帳と言う史料は永禄二年(1559年)以後に編纂された物で、その資料の前後の期間の知行地に関しては不明。少なくとも1559年以後の数年間は中田加賀守は小机衆で矢上城に本拠地を置き井田には住んでいなかった事が判ります。しかし小田中は上小田中が蒔田吉良家の所領で下小田中が中田加賀守の所領なので御当地は吉良家の所領と接している事実も有ります。井田城と同じ川崎市中原区に存在する福聚山全龍寺と言う御寺は元々は蒔田吉良家の家臣が開いた御寺として有名です。
そうなると時代背景的に1559年頃の当主の吉良頼康公より以前の吉良成高公の頃の吉良家の版図と、吉良家が吉良氏朝公の代に世田谷城に拠点を移して世田谷衆が編成されているらしい史実を考えると、小田原所領役帳より以前か以後に中田加賀守が当地を治めた可能性は有る訳です。
若しくは沼上が中田加賀守の与力に編入され更に中田加賀守自身も吉良氏朝公の与力に再編されている可能性も有ります。
実は、この周辺は元々の戦国時代初期には太田家の統治下だった可能性が高く有ります。中原街道一帯~小机城址へ至る神奈川県東部沿岸部を太田家は自由に行き来していますからね。そして蒔田吉良家の所領だった横浜市南区蒔田と当時は蒔田湾(今の横浜市の吉田新田埋立地)を挟んで対岸の南区太田には太田道灌公の屋敷も存在しました。つまり江戸時代まで橘樹郡、都築郡、久良岐郡と呼ばれた川崎市~横浜市鶴見区~西区~中区~南区には太田家と蒔田吉良家の所領が入り乱れて存在していた様です。
そして蒔田吉良家の吉良成高公と太田道灌公が親友だった事も万里集九と言う禅僧の文化人が書いた“梅花無尽蔵”と言う文書から解っています。
だから太田道灌公の子孫の太田新六郎康資公の与力だった中田加賀守家は、安土桃山時代には勢力縮小していますが代々太田家の有力武将で奉行や代官の様な存在だった可能性が有ります。そして井田城の沼上家は旧中田家臣で太田康資公の謀反後に旧太田家臣団が小田原北条家の直臣や各軍団に再編されて行く中で中田家臣から北条直臣に分離され北条家親族に属す御家中衆に成り小机衆の与力に編入されたた可能性が有ります。

新編武蔵風土記稿には以下の記載が有ります・・・
「此所をいりの上と云。五町四方ばかりの間にかたち残れり。
 (1)されど何人の居城なりしことをしらず。
 (2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
 (3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし」
・・・とどのつまり、江戸時代に中田加賀守と同じ旧北条家臣の間宮家の子孫の間宮士信が江戸幕府官営の昌平坂学問所頭取として編纂した新編武蔵風土記稿編纂時にも「中田加賀守が住んでいたらしい」と口伝は周辺の村民に伝わっていたけれど遺物が無く何の確証も無かったらしい事が読み取れます。
少なくとも北条家の最期には中田加賀守は本領の矢上(慶應大学日吉キャンパスを含む周辺一帯)に城を築いていた事が判っています。北条家臣団の研究で有名な盛本昌広先生の書いた論文にも中田家の事が詳細に紹介されていますで、興味が有る人は慶応大学に問い合わせて見て下さい。
さて、恐らく井田を領した沼上と言う姓の武将を含めて周辺一帯の武将の寄親(よりおや=上司)として中田隊みたいな部隊が編成されていたので、江戸時代の伝承が残ったのだろうと言うのが小生の推測です。
そもそも所領役帳で中田加賀守は”御家中衆の中の小机衆”つまり北条氏康公直臣として小机衆与力に編入されているので、間宮士信サンの間宮家に伝わっている認識は所領役帳以前か以後の話である証明にも成ります。でも、江戸衆の太田康資公の与力としても記載が有ります。多分、永禄五年(1562年)に太田康資公は北条家に対して謀反を起こしているので、その際に本来は太田家与力だった中田加賀守家も巻き込まれ川崎市~横浜市北部にかけて大勢力を持っていた代官だったかも知れない中田加賀守家は北条家による太田家懲罰に巻き込まれ代官を解任されたり所領を削られたりしたのでしょう。
その混乱が伺えるのが中田加賀守の所領が“御家中衆(北条家直属部隊)”と“江戸衆 太田新六郎知行”の両方の部隊に分かれて登場してしてしまっている矛盾です。江戸衆太田隊が解体され、部分的に小田原北条本家直轄部隊に再編成されている事が予測でき、その短い期間に起きた太田家謀反事件のせいで両方の所属が併記されてしまっているのでしょう。つまり現代に写し本が伝わる小田原所領役帳は1559年~少なくとも1562年以降の年間に渡って検地(けんち=武士の所得調査)が行われて纏められた文書だと言う事が判ります。当然、これ以降に新しい検地帳も編纂されたでしょうが現存していません。
因みに、横浜市港南区野庭に移住し北条家臣化した千葉県の臼井城主の千葉家支族の臼居家と言う比較的高貴な家には中田加賀守の姫が嫁いでいます。
つまり中田加賀守家は少なくとも元小大名クラスと対等の家格を有していた証明にも成るんだな。

尚、新編武蔵風土記稿の解説に振った( )の数字で区切った内容を解説すると・・・
(1)されど何人の居城なりしことをしらず。
→実際の所は誰が住んでたかワカンねぇ~よ(※江戸時代時点)。

(2)此所の土中より壺の形したるものおよび種々の陶器のかけたるものを出すことあり。
→ここの地下からツボの形したのとか色々な陶器が見つかるんだよね。
※実は井田城址は神庭緑地と言って古墳時代の史跡でもある。間宮士信さんが陶器と言ってるのは江戸時代には井田城址の古墳時代の墳墓群や住居跡が畑地化されていて古墳時代の須恵器の土器の破片や土偶を農民が良く見つていたのを報告として受けて記録したんだろう。

(3)この所はもしかの北条の家人中田加賀守某がをりし所にや。されどその伝ふる処もなければさして知(しり)がたし
ココは北条家臣の中田加賀守の居た所だったかもだけど、伝える処(根拠)も無いから、ちょっとしかワカンね(笑)。
・・・こんな解説をしてらっしゃいます。

野庭城城下の臼居家を紹介した記事も以前に書いているので良かったら以下のリンクから御覧下さい。
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●臼居家の御子孫が営むcafeを紹介した記事リンク→
野庭神社の位置 久良岐のよし
●臼居家の居館の裏に存在する鎌倉時代~戦後時代の野庭関城と、そこに近年まで存在した旧:野庭高校の実話のTVドラマを紹介した記事リンク→

中田家に話を戻すと、小生の推測では中田家は代々の当主が加賀守を名乗った可能性も有るので中田加賀守が一人だとは限りません。
そして中田加賀守は吏僚として活躍している事も判明しているので、最初は江戸衆の江戸城城代太田家の家臣だったのが太田家謀反後に太田家臣団が解体され北条家直属の御家中衆を経て、間宮士信サンの認識の通り再び蒔田吉良家の北条家臣化後の部隊再編に伴って世田谷衆とも言うべき吉良家与力に再編された可能性も高い訳です。そして、その頃の居城が慶応大学日吉キャンパス一帯に在った矢上城だった訳です。
井田城址の前を流れる矢上川の下流に矢上城は存在しており鶴見川の水運を運用するに非常に便利な場所でした。
余談ですが日吉キャンパスは昭和にも重要な軍事拠点化して、海軍の参謀本部として大戦末期に地下基地が築かれており、その空気孔が石原裕次郎さんの映画にも映り込んでいたりします(笑)。

とどのつまり、中田さんが統括した沼上さんの所領だったのが井田城周辺って小生の説が一番自然な訳です。吉良氏朝公の時代の話に繋がっていくか、北条氏綱公の頃の古い話って事でしょう。

さて、歴史は記録に残っている事や発掘済みの場所の史料だけが全てでは無い事が良く解るのが、この川崎の謎の城、井田城址です。

きっと皆さんの御近所にも御城の跡の山や御寺や神社が有る筈(はず)です。その城跡は神様や仏様が祀られて昔の善政を布(し)いた北条家臣団の領主が民を守った様に、殿様達は神様仏様を通じて今も皆さんを守ってくれているかも知れませんね。
そして神社や御寺や城山には今も緑が多く残る場所が有り、散歩するだけでも気持ちが良く成ります。
皆さん、是非、御城の跡や神社仏閣を散歩して先人の武将達に御礼を伝えてみませんか?
きっと殿様達も自分の名前を憶(おぼ)えていてくれる人がいる事を喜んでくれるでしょうし、皆さんも良い気分転換にも成る筈ですよ~♪

では、又、次の解説記事で御会いしましょう♪

2017年03月18日、前日で台湾の知人が台北の日本式おでん居酒屋の写真を掲載していたのを見て六角橋商店街のオデン屋“かずさや”さんを思い出し無性に食べたくなり、六角橋に行く用事を作り、横浜市南部鎌倉近くの自宅から神奈川区六角橋界隈散策に行って来た。
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この店で久しぶりの屋台風のオデンはとても美味しかった。
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オデン種5つとドリンクで650円と格安!
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久しぶりに来たので、玉子とハンペンを追加注文した。美味い!
神奈川大学が近在する事も有り、学生の町で夜には女子大生も地元の爺婆(ジジババァ)(笑)も集う愛すべき店なのだが・・・
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実は小生の昔の彼女が神大の生徒で六角橋の白楽駅近くに住んでいた事も有り、この店を知り別れてからも一人たまに食べに来ていた(笑)。
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 ・・・最近は女の子向けの雑誌にも載ったとかで、小生が店に入った時も若い女性客が友達同士二人仲良くオデンを食べに来ていた。
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六角橋商店街裏通りの仲見世は、この通り昭和情緒に溢れる。
丁度、京都の錦市場と同じ程の道幅、同じ様な造り。昔の脇道と言うのは概(おおむ)ね、この様な道幅だった。
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学生の街だけあって、色んな店が軒を連ねる。
大正~昭和風の職人さんが営む時計屋さん・・・
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そして数年前に流行した和名:焼き小籠包こと生煎包(しぇんじぇんばお)。
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三国志が好きで行った中国留学時代に好きで良く現地の店で食べていたので非常に懐かしい。
さて・・・
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・・・このオデンを食べに行くのに小生が作った用事と言うのは2年振りの"塩嘗め地蔵"様と"寳秀寺"さんの参拝と写真撮影だった。
六角橋商店街にオデンを食べに行く前に、そちららを先に訪問してきた。
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塩嘗め地蔵は昔から「イボ取り地蔵様」として地元の信仰対象として大切にされて来た。
塩を供え物にする変わった習慣が有る。
解説を読む限り、この御地蔵さんを守る人より小生の方が少々塩嘗め地蔵の歴史について詳しそうだ(笑)。
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日本武尊(やまとたけるのみこと)が信奉した須賀神社は何処も大凡(おおよそ)が素盞嗚命(すさのおのみこと)や五十猛(いそたける)を御祭神として御祀(まつ)りしている。
この父子の神々は疱瘡(ほうそう=イボ皮膚病)治癒の神として昔から崇拝されて来た。
横浜市に唯一現存する延喜式内社(延喜式神名帳に記録された古い神社)の杉山神社の御祭神も五十猛神である地縁は、塩嘗め地蔵と無関係では無いだろう。
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杉山神社の方は今では参拝客も減り、ひっそりとしているが氏子さん達によって立派に守られている。
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以前書いた杉山神社解説記事→ 
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塩嘗め地蔵前の道は戦国時代まで、その近くに存在した神大寺の参道だったそうだ。
神大寺は江戸時代の人が城址と間違える程に立派な規模を誇っていたそうだし、戦国時代に火災で焼失している事から戦火に巻き込まれているのだろう。つまり、要塞としても転用出来る程の大寺院乃至神宮寺だった筈。
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そして塩嘗め地蔵尊の前の直ぐ下の道は古代~戦国時代の八王子往還の一筋であり、八王子の地名は素盞嗚命(すさのおのみこと)=牛頭天王(ごずてんのう)と、其(そ)の子の八人の神々を御祭神とした聖地、八王子神社に由来する。
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※写真は八王子城御主殿。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
八王子神社は戦国時代に八王子城が築城され、その八王子地域の鎮守の神としても本丸に今も鎮座し古代から崇められている。
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※写真は八王子城本丸の八王子神社。2016年02月、親友O型君と訪問した際の撮影。
塩嘗め地蔵が参道入口だった神大寺の寺名から推測出来るのは、“神”“大”“寺”、つまり"神様を祀る大きな寺"だっただろうと言う事だ。恐らく牛頭天王=素盞嗚命か、素盞嗚命を信奉した日本武尊が祀られていたのかも知れない。しかし、戦国時代に火災で焼失し詳しくは江戸時代には既に解らなかった様で"間宮士信"公が編纂した新編武蔵風土記稿にも書かれてない。

塩嘗め地蔵の直ぐ近く、六角橋には"久応山寳秀寺"と言う御寺が存在する。
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この久応山の山号は神話の人物に由来する。
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その境内が嘗(かつ)て倭建(やまとたける)命が滞在した大伴久応の邸址と伝承する。滞在時に食事に使用した"箸(はし)"が六角形の物で、大伴氏に神器として伝承していたそうだ。
この故事が六角橋の地名由来に成った。
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現在は大伴久応の陵墓の土饅頭が寳秀寺山門の前に行ちょこんと現存するが「後世の供養ではあるまいか?」と推測する。しかしながら、形状は円墳で時代的血統的な事実とも整合する。
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川崎市高津区子母口の弟橘媛を御祭神とする橘樹神社の背後に現存する弟橘媛の御陵もやはり、中国三国志時代以降の朝鮮半島渡来文化の影響が見てとれる。
倭建命は走水神社の神話と、それを編集に含も古事記や日本書紀の記載で西暦100年代の倭国の大王の太子だった人物とされる。
仮に、長い歴史の誤差で100年程度のズレなら文章に残らない古墳時代の人物に成り、三国志の記載と日本神話がリンクして証明と成ったりもす。
つまりこうだ・・・
倭姫(やまとひめ)
景行天皇の妹、倭建の伯母=卑弥呼(ひみこ=日巫女?)
※丹波国元伊勢神宮の斎王か?
大足彦忍代別大王(おおたらしひこおしろわけのおおきみ/すめらみこと)
倭建の父大王。倭姫の兄弟=景行天皇。
※三国志魏書倭人の項に登場する卑弥呼の実弟、唯一面会出来る男性とは古代神社の斎王制度の文化から見て景行天皇の事を指すのだろうと推測出来る。
※この時代に天皇の二字の称号は有り得ないので大王の二字に訂正し"すめらみこと(皇命)"の読み方のみ残す。
恐らく大足彦忍代別"天皇"の名は大化の改新時点で大王の二字が天皇に差し替えられ藤原氏に改竄されている。
倭健(やまとたける)命
景行天皇の次子、成務天皇の実弟、倭姫の甥。
そして景行天皇に指名された皇位後継権保有者。
※現在の神道に伝わる「命(~のみこと)」と言うのは、古代語で現代語の「霊位」「御霊」や仏教用語の「尊」の字に当たる言葉、つまり肉体を離れ現世で亡くなった神の霊魂を指すのだろう。日本の神様は我々の祖先だから、神様同士で喧嘩したり恋愛したり戦争して殺しあったり、海で溺死したり、酒に酔ったり、スケベだったり何とも人間らしい親しみを持てる日本の発展に寄与して下さった先人達を神格化した存在の事なんだが・・・
日本武尊は以下の通り少々悲惨な生涯の終え方をしている。
※東征からの帰路に伊吹山の神に妨害され病を得るのは、倭建の皇位継承を阻止し自ら皇位継承を画策した成務天皇による暗殺未遂乃至成務天皇派の豪族の王との合戦の傷に由るものと推測する。
仮に成務天皇派との合戦が起きたとすれば伊吹山の麓、関西へ抜ける関ヶ原の関所が舞台だろう。
鈴鹿の地で没したのは、関ヶ原通過を阻止されたので南側の鈴鹿の関を突破し河内王朝(応神天皇の代まで首府は河内国きんぺん)或いは大和国か丹波国の伯母の在所へ帰還中の事だろう。
大伴久応(黒主)
[六角橋の神話]
六角橋の伝承と寳秀寺の縁起では自邸に倭建を逗留させ歓待したとされる人物。
[走水の神話]
三浦半島の横須賀市走水に現存する走水神社の伝承では大伴黒主と名を伝えられ、やはり日本武尊(倭建命)に海鮮料理を振舞い歓待した人物と伝わる。やや倭建ははまぐりはまぐり蛤(はまぐり)の膾(なます)がお気に入りだったそうだ。故に現代では料理と漁師の神として祀られる。
[日本書紀]
日本武尊の東征に吉備一族、"大伴"部一族が与力として付けられている。大伴氏は和邇(和珥)氏の一族で佐伯氏とも同族であり、古代水軍拠点を治めた氏族。
六角橋周辺には丸子、大口の名を冠した町が有る。丸子は古語で"丸子(わに/わじ)"と発音する事から和邇氏の土地であった事が解り、大口は和邇氏の祖先神の大口納(おおぐちな)命に通じる地名でもある。
和邇(わに)は和珥(わに)と同義別字だが、和邇とは中国大陸の動物の鰐(わに)を転じて様子が古代の丸木舟に似ている事から"舟"の意味を指す事が用意に解る。この
解釈を用いると"因幡の白兎"の神話の元に成った話も容易に推測できる。
とどのつまり白兎(しろうさぎ/はくつ)=はくづ=ひゃくず=百済=百済国乃至百済人が和邇氏の統括する水軍を利用し隠岐国(隠岐島)を和邇氏の援軍により征服しようとしたが、バレて和邇氏に討ち取られ隠岐島が日本に帰属したと言う国の成り立ちが変化した例えの物語りだろう。因みに当時は朝鮮半島最南端まで漢帝国に倭人の土地と認知された邪馬台国(日本)領だった。
それ故に古代の中国語で日本国の事を扶桑(ふそう)=扶桑(FuSang=フゥサン )国、台湾を蓬莱島と呼んだが、現在でも名残として扶桑(フゥサン)に通じる中国語で釜山(FuShan)の町が在ったりする。
尚、新羅国は日本人により建国されたと中国語の史書に記されているが、古代、海の神でもあった素盞嗚命(すさのおのみこと)が朝鮮半島に渡った神話とも関連が推測出来る。

さて、話を寶秀寺その物に戻そう。
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境内には徳川家の三つ葉葵紋がふんだんに使用されているが、これが徳川家康公が浄土宗に帰依していて浄土宗に下賜した家紋だからか、それとも寶秀寺に直接徳川家から与えられた物かは未だ調べていない。
しかしながら近在する港北区鳥山地区の真言宗三会寺や浄土宗泉谷寺等は、戦国時代の鎌倉玉縄城主北条家の遺領を家康公の参謀、本多正信公が得た際、本多正信公を介して家康公から寺領保証の御朱印と家紋を頂いている事から、徳川家から下賜された寺紋なのかも知れない。
まぁ、三会寺に関しては徳川家より格上の源頼朝公から頂いた笹竜胆(ささりんどう)の源氏の家紋を寺紋としている。
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なので三会寺サンに限っては徳川家の家紋を寺紋としては使っていないし、北条家の家紋も当然使っていない。まぁ、平安時代に関東の文化水準を飛躍的に向上させたのは頼朝公の功績、そして武士文化を確立させたのは蘭渓道隆和尚や道元和尚と執権北条家の功績。だから鎌倉幕府を樹立した頼朝公の方が武士としては徳川家と功績は同等でも血筋が上な分、優先される訳だ。
寶秀寺には立派なイヌツゲの植木が有り、これが横浜市指定の銘木古木に成っている。
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その隣にも松の立派な植木が有る。
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今は境内に墓地が有るが、本堂前の植木は昔は立派な庭園の一部だったのかも知れない。
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本堂に参拝し、デジタル画像を撮影していなかったので境内の写真を一頻(ひとしき)り撮影させて頂いた。
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立派な新しい扁額。
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御本尊にもちゃんと御参りして・・・
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江戸時代の歴代御住職様の御廟所にも御参り。

塩嘗め地蔵尊と寶秀寺で六角橋と神大寺地区の歴史浪漫を探訪し、その後オデンを食べに六角橋商店街に移動した。

帰りは着替えを持参していたのでジムで汗を流してから、露天風呂に入りに行った。

まぁ、美味しいオデンを食べ、神話と歴史浪漫に想いを馳せ、ジムで汗を流し、大浴場で露天風呂満喫し寛(くつろ)ぎ・・・
しみじみ良い休日と感じる1日を過ごせた。
日本武尊様、弟橘媛様媽祖様、大伴久応黒主様、ありがとうございました!

【備考】
走水神社、日本武尊、弟橘姫に関しては“タグ付け”しておくので、ブログ記事最後尾に付けられた「タグ」の中から興味の有るワードをクリックして昔の記事を御覧下さい!

寒田神社(さむたじんじゃ)…延喜式内社
主祭神:倭建命(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)・誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩・菅原道真公=日本太政威徳天(やまとだいじょういとくてん)
御利益:海外渡航安全・勝負運・縁結び
開基:仁徳天皇(それ以前に日本武尊が当地に滞在した)
中興:源頼朝公・徳川家光公
場所:神奈川県足柄上郡松田町惣領1767
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寒田神社と言う名前の創建年代が西暦315年と伝わるとても古い神社が神奈川県足柄上郡松田町惣領に存在します。
実は日本武尊(やまとたけるのみこと)=倭建命が滞在され神事を行った聖跡(せいせき)に、古墳時代初期に造営され現在も存続している神社で、平安時代の人達から見ても古い神社だったので、西暦900年代に醍醐天皇が当時の人から見て保護するべき対象の古い神社を纏めた❝延喜式神名帳❞にも掲載された神社です。
この様な延喜式神名帳に掲載されている神社を❝延喜式内社❞と呼びますが、寒田神社は神奈川県の旧相模国域に13座しか存在しない延喜式内社の内の一つで、とても権威と御利益の有る神社さんです。
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この日本武尊の伝承は、朝廷に提出された古風土記にも記載が有るそうで、実はこの神社の宝物と言うか御神体と言うか文化財に当たるものに日本武尊が戦勝祈願に用いた❝木椀❞が現存し、保管されているそうです。
伝説によれば、日本武尊は木製の御椀に酒を汲(く)んで現在の酒匂川に酒を撒き、東征に向かったそうです。東征を終えて当地へ戻って来た際に、御椀にまだ酒の匂(にお)いが残っていた事から、目の前の川の名前が酒匂川に成ったそうです。
日本武尊の聖跡な訳で正に聖地に建つ神社なのですが、江戸時代初期まではもっと広かった境内地と神社の所有した社領は酒匂川の氾濫(はんらん)で浸食されてしまい、だいぶ縮小してしまったそうです。
川の洪水は穀倉地帯の宿命ですね。
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ですから風害記念の石碑なんて物も有って、先人が我々子孫に自然災害の起きる土地だと警告を残して下さっています。
さて、この寒田神社、鳥居をくぐり参道を進むと歴史に興味無い人達には現在の知名度は低く成ってしまっているものの立派な社殿と社務所と神楽殿が有ります。
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と、社殿を紹介する前に手前左側に在る手水舎と、延喜式内社らしい神仏習合の神様の石碑を紹介します。
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手水舎も綺麗で、屋根も立派ですね…
正直、松田町は農村の過疎地なので、この規模の神社を維持し、この様に新しい手水を設置し清潔に管理を保つ事は、相当な氏子サン達の努力と出資が窺(うかが)える訳です。
古代からの文化と歴史を保護して下さっている寒田神社の氏子サン達には敬意を感じますね。
もし神社や御寺に参拝する場合は、利己的に心願を願掛けするだけでなく守って下さっている方々への敬意も神様に伝えると良いと思います。
この手水舎の傍らに、明治に成るまで当たり前だった土地神様信仰や神仏習合の名残があります。
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堅牢地神…
神仏習合の神様。新しい神社では余り見る事が無い神様ですね。
密教由来の神様で、土地を堅固にする神様です。
洪水の被害に遭ってきた寒田神社らしい、土地の人々が治水を願った事が良く理解出来る神様でもありますね。
参道を抜けて右手に在る神楽殿は現在でこそ金属製のシャッターで覆われていますが…
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…屋根に注目すると、その作りが立派な事に気が付きます。
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境内地が縮小したとは言え、そこは平安時代の醍醐天皇が保護すべき古社を記録させた延喜式神名帳に記録が残り、鎌倉時代には源頼朝公も松田の別荘の松田亭より度々参拝に訪れた権威有る神社だけあり境内はかなりの広さで、社務所や社殿の前のスペースはちょっとした広めの公園程も有ります。昔は更に様々な建物が建っていたんでしょうね。
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この美しい社殿は覆殿(おおいでん)です。覆殿は本殿を保護する為に本殿ごと覆い囲んでしまう建物の事です。
本殿は江戸時代慶長年間の再建だそうで、つまり1600年代の初期の再建と成ります。
この覆殿の中に、400年前に作られた本殿が在るんですね。
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中を除き込んで写真を撮影する訳にも行かないので、扁額の写真を…
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社殿の横には寒田神社の歴史と神器の解説が有ります。
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納札所。
この寒田神社、本殿の裏にも摂社がいくつか在り面白い御社もあります。
先ずは御稲荷さん。
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どちらの神社にも必ずと言って良い程、多くの人々に昔は愛された神様ですね。
稲荷神社の神様は宇賀御霊神=倉稲魂神(うかのみたま)=豊かさを象徴する神様で、鎌倉時代に成ると弁天様と習合される事も有りましたが、古代の農作物が大切だった時代の神様です。
農民にとって一番大切な神様でしょうか?
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こちらは確か、祖霊社だったと思います。
それぞれの御先祖様に繋がる神社ですね。
そして、この神社オリジナルの祠と言うか供養碑と言うか…
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❝歯❞の供養らしいです。
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何だか、歯の供養って珍しいですけど、ある意味日本らしい場所ですよね。
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こちらは何の神様か説明が無く、よく解りませんでしたが、摂社としては立派なので、もしかしたら主祭神の御祭神の境内社なのかも知れませんが、不明です。

まぁ~立派は境内の広さが有るのは伝わったでしょうか?
そして、日本武尊の御幸された聖地である事からも強い御利益が期待出来る事が御理解頂けたと思います。
因みに、アメリカ最初の宇宙飛行士のジョン・グレンさんは、この寒田神社で安全祈願をして無事帰還出来た事から更に御礼参りまでされたそうです。
海外遠征の事績の有る日本武尊所縁(ゆかり)の神社らしい御利益ですね!

さて、この寒田神社の先に紹介した御祭神の日本武尊ですが…
その寒田神社の土地に御幸した日本武尊の遺物で神器の木椀の神話を元に南関東周辺の延喜式内社の伝承や御祭神、弥生時代~古墳時代の地形を前提にして日本武尊の正体を解説する事で、日本神話と考古学の整合性を解説してみる。
小生の推測では日本武尊が立ち寄られた理由は、既に当時、この地に村が存在したのだと思います。この寒田神社は、古代佐武多神社とも書いたそうです。
恐らく、武塔天神(むとうてんじん)=牛頭天皇=素戔嗚尊(すさのおのみこと)、若(も)しくは、その御神孫の関与が有ったのだと思います。
武塔(むとう)は古い発音では武塔(むた)と読んだはずだからです。
以前も何回か書いた事が有るのですが、現在の漢字の音読みも実は中国由来より朝鮮渡来人のせいで訛(なま)ってしまっている字の発音が少なくないんです。
塔は華語の発音で塔(ta)と発音します。こちらの方が古代語の漢字の発音に近いはずです。
何故、武塔天神=素戔嗚尊の御神孫の集落が、日本武尊の時代に既に有ったと考えるかと言うと、先に触れましたが関東の延喜式内社には素戔嗚尊の御神孫が関東を開拓したと伝承を伝える場所が少なくないからです。
違う神社を紹介すると…
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関東最古の大社で、日本武尊御自身が最初に造営された埼玉県久喜市の鷲宮神社は出雲神族の御神孫の部族が土地を開拓し、日本武尊がお立ち寄りに成られ社殿を造営した歴史が有ります。
恐らく、寒田神社より少し古い神社です。
そして神奈川県の前身である佐賀牟国の初代国主は出雲神族建御名方神の6代後裔と伝承して、おり更に…
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寒田神社と同じ延喜式神名帳に掲載されている大山阿夫利神社も主祭神が出雲神族の大山祇大神と、大雷神、御当地の水神様の高神(たかおかみ)様が祀(まつ)られています。
雷神は出雲神族に習合されたシヴァ神=伊舎那天(いざなてん)=第六天魔王=大黒天=大国主命と同一視されています。
更に大山阿夫利神社の麓、同じ延喜式内社の比々多神社も…
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出雲神族で素戔嗚尊の御神孫である豊国主命(とよくにぬしのみこと)=大国主命が御祭神です。
大和市の延喜式内社の深見神社は土地の水神様の闇神(くらおかみ)が主祭神です。
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名前からして、大山の高神様と同じ系統の水神様でしょう。ただ大山は高い山の中腹に湧水地があり、そこが古代聖地だった事、深見神社の場合は深水(ふかみ)=川の淵(ふち)が聖地だったので底の深いイメージから闇神の名に成ったんでしょうね。
では淵辺が聖地に成り得るのかと言うと、立派に古代人の自然信仰にとっては聖地だったんですよ。
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東京都羽村市には雨乞街道が現存していて、古代からの神事で木製の竜頭を淵に沈めて神事を行ったそうです。つまり古代人にとって水神様は龍神であり泉そのものの象徴だったようですね。大山の高神も竜神とされています。
例外的に、海老名市と相模原市の延喜式内社の有鹿神社(あるかじんじゃ)の場合は、男と女神様に成っていて…
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相模原市の奥宮は縄文時代の遺跡群の中にあり、聖地の谷間が自然湧水地に成っています。
つまり神話の時代に当たる縄文~弥生時代~古墳時代の人々にとって、如何(いかに)に御腹を壊さない清涼な飲み水の確保が大切で、その水を与えて下さる自然を神様として大切にしていたかが解る場所なのですが、ここの神様は❝有鹿姫(あるかひめ)❞と言う土地の女神様です。
飲み水を育む源泉のイメージが女性を連想させるのでしょうか?
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平安時代末期に源頼朝公の重臣だった海老名氏によって海老名郷の鎮守の神様として有鹿谷から現在の本宮に本社機能を移転させて支援したのが現在の有鹿神社で、こちらは有賀彦(あるかひこ)つまり男の土地神様が主祭神になられて鎮座されています。
さて、この様に古代から存続する神社は、明治時代に❝水戸学❞を元に成立した戦前までの約100年間続き現代に影響を与えた❝国家神道❞の❝伊勢系統❞の神様を尊いとする価値観とは大分違った事が解り、寒田神社の御祭神も天照大神ではなく日本武尊である事にも納得していただけたんじゃないでしょうか?
ついでに古代の海岸線を見てみましょう。
神奈川県内の延喜式内社・式外社と古代の海岸線 久良岐のよし
神奈川県内で白く表示されている部分は、神話の時代より更に古い縄文時代の海岸線です。
面白い事に、大半の延喜式内社と式外社は縄文時代の海岸線に存続していませす。これは日本の神社文化には縄文文化が継承されている証拠にも成ると思います。
例外的に前鳥神社と平塚八幡宮は相模川沿いの古代の縄文時代の海中に存在しますが、それは地震で地盤が隆起し干拓が進んだ弥生~古墳時代成立の神社だからです。
地盤が隆起し人が住める土地が増え、各式内社の神社の古代の宮司や領主の役割を担った豪族の間で土地争いが起き、国境の再編と国府設置が必要に成ったのでしょう。これが現代にも伝わる国府祭(こうのまち)と言う神様同士が相模国の一宮=国府の座を争った事を現在に伝える神事で古墳時代~飛鳥時代の出来事と推測出来ます。
そして県央部に人が住むように成った原因が地盤の隆起による海面の後退だと言う仮説を証明する事実として、その時代に大きな地震が神奈川県で発生していた事が考古学的に地層から判明しています。
大正時代の関東大震災でも三浦半島は西側と南側が50~80cm隆起し、東側は東京湾に向かって沈下しています。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
古墳時代以降も伊勢原市の大山の地下で海底のプレートがぶつかり合い、度々大地震が起きています。
鎌倉時代と室町時代の間の時期に横浜市金沢区を襲った❝応長の大津波❞は、対岸の千葉県側で津波が発生していない事から、この三浦半島の付け根に当たる金沢区側が沈下したから❝海没❞したのが❝津波❞と伝承しているのだと思います。
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その際に津波を防いだ伝承が有り、後の江戸時代、高潮の危険の有る埋立地の深川に分祀されたのが、横浜市金沢区の源頼朝公が最初は神戸の西宮神社から御分霊を勧進し造営した富岡八幡宮です。

つまり、武蔵・相模東部を合わせた古代の佐賀牟国、伊豆と相模西武を合わせた磯長国では古代から地震が起きていて、西暦400年代の大地震が起きた時にはとうとう古代相模湾多くの海岸線が隆起して新たな土地が造成され、豪族同士の領土と成る土地の占領合戦が勃発したと推測が成り立つ訳です。
この時期は❝武蔵国造の乱❞の推定発生時期とも合致します。武蔵国造の乱と伝わる事件は❝佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ=豪族の王)の乱❞だったと考えるのが自然です。
それを仲裁したのが大和朝廷で、佐賀牟国と磯長国を武蔵・相模・伊豆に分割し調停した。
旧街道と武蔵相模国境付近 久良岐のよし
…これ、この通り結果的に大和朝廷が、この地方の国造だった笠原家の内紛に介入し接収した記録が残る群が、久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡等で、それ等の土地を繋げると、綺麗に武蔵国・相模国の国境を分ける非武装地帯の様相を呈しているんですね。
この時代の政庁の役割を果たしていた場所は現在の神社に成っている豪族や地方の王達の宮殿でした。
ですから国土交通省関東地方整備局が作成した古代街道の簡易図を衛星写真に重ねると、古代の街道は全て延喜式内社と式外社の傍を通過します。そして郡衙も延喜式内社の傍に存在しています。
この地図上の誤差は、関東地方整備局が❝だいたい❞程度の制度でした旧街道を書いていないからで、地図上に詳細に再現すると全てが古代から存続する神社とピンポイントで重なります。
更に古代の海岸線上に延喜式内社と式外社を表示して見ましょう。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
さて、ここで皆さんに質問です。
神奈川県は何で県名が…
神(かみ)
奈(な=無い)

…なんでしょうか?
色んな説が有りますが、小生は正に、武相国境に大和朝廷が非武装地帯を設けて神(かみ)=お上(かみ)=支配者を排除した事に由来していると思っています。
丁度、この大和朝廷の直轄地として非武装地帯に成った場所が、南東~北西に延びる国境の一筋の❝川の様に❞❝神=支配者❞の❝奈=無い❞地域に成ったので、その無主の地域の海側に当たる現在の京浜急行神奈川駅辺りにも江戸時代まで地名として神奈川領と言う行政区分が地名に残り、古代の大和朝廷による相模武蔵地方の豪族の政治紛争への介入と解決の名残りが残ったのだと思っています。
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※写真は京急神奈川駅近く、青木城址の本覚寺から見た幸ヶ谷(こうがや)公園
その現在の神奈川区辺りの地域は全時代で交通の要衝だったので、そこは室町時代にも足利尊氏公が現在の幸ヶ谷公園に権現山城を築いて南朝と戦いましたし、戦国時代も北条家臣の間宮家と上田家がここに籠城し扇谷上杉連合軍を迎撃した歴史が有ります。
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そして、戦国時代の半ばにも成ると、本覚寺も取り込んだ大規模な青木城として改修され、城主には北条氏康公の名軍師として歴史好きには有名な❝多目元忠❞公が城主を務める程、重要な場所だた訳です。

そんな訳で非武装地帯が設けられ、佐賀牟国と磯長国から分割再編し新設された武蔵・相模・伊豆の3ヵ国で国府を設置する必要があり当時は地方王族や豪族の政庁の役割を果たしていた場所が神社だったので、相模国でどこが一宮(古代の国府設置以前の国府機能)に成るかで争いが起きたのが国府祭だったと解る訳です。
因(ちな)みに、小生は日本武尊は複数人いたと思っています。~建(たける)や~武尊(たける)と呼ばれる人物は、その事績から古代の大将軍に当たる官職名だったと推測出来るからです。
そして命(みこと)や尊(みこと)の字は、後に、その人物が神号を追贈され神格化されたと言う事でしょう。
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1人目は景行天皇の王子で❝倭建(やまとたける)❞の称号を初めて今の熊本当たりの部族王だった❝熊襲建(くまそたける)❞に贈号された古代大和朝廷ないし邪馬台国の王子。
その事績は走水神社に残っています。
この倭建命(やまとたけるのみこと)の御妃とされるのが弟橘姫(おとたちばなひめ)です。
その弟橘姫が東京湾に入水自殺し人柱と成った際に、海を漂って流れ着いた装飾品を埋葬して造営された古墳を古代御神体として造営されたのが、川崎市高津区の橘樹神社です。
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この橘樹神社の位置は古代の橘樹郡政庁の跡と推測されている上に、背後の宅地は実際に弟橘姫の古墳跡と伝わる大円墳の跡です。現在も円墳頭頂部の一部が現存していますが、神社の社殿の真っすぐ背後が古墳の頭頂部に向いているのは、古代、この神社が御神体の古墳の遥拝所(ようはいじょ=遠くから拝む為の施設)だったと考えて間違いないでしょう。
この時代の日本武尊が寒田神社の前身に成った集落で、現存する木製の神器に酒を注いで神事を行った人物でしょう。
神奈川県の延喜式内社の神話や、古事記で倭建命の妃として伝承する弟橘姫ですが、何故(なぜ)か渡来の百済人と思しき藤原氏が中心に成って編纂した日本書紀では❝景行天皇の妃❞に❝弟媛皇女❞として名を連ねてしまっています。
…この倭建命の子孫が藤原氏にとって非常に都合が悪い存在だったか、彼らが書かせ改竄させた日本神話に整合性を持たせる為に必要な事だったのでしょうか?
この時代は神話では西暦、考古学的には古墳時代に突入する時期の少し前ですが、歴史の誤差が数十年有ると考えると中国の三国志魏志に記された卑弥呼と卑弥呼の弟で執政官と記された人物も景行天皇と考えれば日本神話と整合性が出て来ます。
つまり日本武尊を助けた伊勢神宮の斎王で叔母だった倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼、卑弥呼を助けた実質的な執政者が景行天皇と成る訳です。景行天皇の時代に部族の叛乱が頻発したのも、三国志魏志の記録と整合性が有ります。
つまり、九州に追い詰められた卑弥呼達、倭姫命達の世代に伊勢まで征服乃至(ないし)奪還出来ていたと想像がつきます。そして、卑弥呼に盾突いた勢力の王が、出雲系の神で伊勢都彦の別名で呼ばれていた建御名方神(たけみなかたのかみ=諏訪大神)なのでしょう。そう考えれば、東海地方を支配した叛乱勢力の建御名方神の撤退した先が信濃国=長野県だった事も無理が無い訳です。
そして卑弥呼と景行天皇と日本武尊の代で一時収束した叛乱も、日本武尊を差し置いて大王(おおきみ=天皇)に就任した成務天皇の代で再び反乱が勃発し、日本武尊系の仲哀天皇と結婚した女王、神功皇后の代に成る訳ですが、これも「卑弥呼の後に男王が立王されたが混乱が収まらず、又、女王(臺与=とよ=いよ)が就任したら漸(ようや)く鎮静化した」と言う主旨の記載とも整合性が有る訳ですね。
この時代、邪馬台国の朝貢対象の目上の同盟国であった❝魏❞に対して遼東半島で❝公孫度❞や❝公孫恭❞と言った豪族が反旗を翻し朝鮮半島の鮮卑(せんぴ)と結びついて後漢から皇位を継承した魏皇帝の曹叡の領土である朝鮮半島の帯方郡のや楽浪郡の太守を殺害し魏皇帝曹叡(そうえい)に敵対していました。
当時の曹叡の軍師だった司馬懿仲達に公孫一族や、朝鮮半島の鎮圧を命じるのですが、司馬懿が朝鮮半島に出向く事は無く、司馬懿は軍を率いて公孫一族を討取るに留まりました。
では何故、魏は朝鮮半島に攻め込む必要が無かったのでしょうか?
実は、この事を日本神話が説明してくれます。
神功皇后が魏の盟友だった臺与だとすると、実は神功皇后は朝鮮半島に攻め込み新羅を討伐し、朝鮮半島の南部から魏の司馬懿仲達を助ける動きをした事が解る訳です。
この時代の倭国は魏の前身王朝の漢帝国から朝鮮南部の支配権を認められていた様で、それ故(ゆえ)、現在の朝鮮の釜山(プサン)辺りも倭人の国と認識されていた事が三国志魏志に書かれています。
ついで言うと中国では古代の日本を倭(わ=小さい)国と呼んでいましたが、それ以前は❝扶桑(FuSang=ふさん)国❞と呼ばれていた事が記録に残っています。つまり現代日本に残る扶桑の地名は古代の❝日本❞と言う意味なんですね。
この❝扶桑(ふさん)❞と❝釜山(プサン)❞発音が似ている上に、古代の邪馬台国の支配地域とも整合性がありますね…
つまり、そう言う事なんですよ、古代は朝鮮半島南部は古代中国皇帝に公認された日本の一部だった訳です。
これも素戔嗚尊(すわのおのみこと)が一時、朝鮮半島に行っていたと言う神話とも整合性が有りますね。
そんな訳で、寒田神社の所在地を訪れて神事を行った武将の日本武尊は、この時代の倭建命だと何となく解る訳です。
そして、日本武尊の大和帰還を伊吹山の神(豪族)に命じて関ケ原辺りで阻止させたであろう人物も、成務天皇と推測出来て、成務天皇の正体も大碓命(おおうすのみこと)と推測出来て、稚足彦(わかたらしひこ)命と推測出来る訳です。恐らく❝大碓命❞の❝碓❞は誤字か藤原氏による故意の改竄で、本来は❝大稚命(おおわかのみこと)❞と呼んだのではないだろうか?そうすると、大稚(おおわか)=❝大若❞となり、若(わか)=王子と成るので大
稚(おおわか)=長男と解釈出来るので、実弟に日本武尊がいて、長子の自分を差し置いて東征の功績で立太子された実弟の倭建命を尾張国で伊吹山の神(豪族)に命じて暗殺乃至帰国を阻止して成務天皇=大碓命=大稚命=稚足彦命が天皇=大王(おおきみ)を僭称(せんしょう=勝手に名乗る)したのでは無いかと推測出来る。
この成務天皇の政変が、三国志の魏志に書かれた❝男王が就任したが国が再び乱れた❞と言う部分なのだろう。
歴史と神話は御互いに補完しあう…

2人目の日本武尊は、先に説明した❝武蔵国造の乱❞を鎮圧したであろう。
しかしながら、この日本武尊=大将軍の称号を与えられた人物は、余程、藤原氏に邪魔な人物だったと見えて完全に功績が消されている。そして、日本武尊が他にも歴代いただろうが、それも消されている。
では、この武蔵国造の乱を鎮圧した人物は誰かと言うと、大地震による相模湾の隆起や武蔵国造の乱の発生時期の大王であった❝雄略天皇❞その人だろう。
何故なら、武蔵国造で雄略天皇の調停を受けて武蔵国造に就任したであろう人物の勢力地だった埼玉県行田市の稲荷山古墳から❝獲加多支鹵(わかたける)大王❞の金象嵌文字が彫られた鉄剣が出土しているからだ。
歴史では、この獲加多支鹵が雄略天皇とされている訳だが、獲加多支鹵(わかたける)の当字を先例に基づいて変換すると稚(わか)武尊(たける)大王と成る訳だ。若くて武勇に長けた大王と言う事、つまり王族であり大将軍=日本武尊と成る。
あくまで想像だが、調停を受けた地方の王=笠原(からはらの)使主(おみ=臣)が雄略天皇から、まだ当時は青銅器善政で珍しかった鉄剣を下賜され、記念に金象嵌を施した後、死後副葬品として一緒に埋葬されたのではなかろうか?
この天皇の歴史的文化的な事績は史実だけ見れば偉大なのに対して、何故か藤原氏が編纂させた日本書紀でだけ❝大悪人❞扱いをされてしまっている。
それ故に、思う。
恐らく、この雄略天皇の女系子孫、或いは素戔嗚尊の御神孫に実は蘇我氏がいるんじゃないかと。蘇我氏は藤原氏と対立して滅ぼされた家だ。まして、藤原鎌足の時代の少し前の天皇の継体天皇は、一度断絶した直系天皇家とは別系統から天皇家を相続した天皇だ。仮に小生の推測通り蘇我氏が素戔嗚尊の御神孫な上に雄略天皇の女系子孫にも当たると成れば、継体天皇系の中大兄皇子=天智天皇にとっても都合が悪く、中大兄皇子の家臣に当たる藤原氏にとっても出世の目を摘まれ非常に不味い訳だ。
素戔嗚尊と所縁の深い出雲大社の本殿の裏にある別の社には素我(そが)社が在る。蘇我氏が日本書紀の記載とは異なり本来は出雲族なのだろうと言う証明に成であろう御社だ。
ついでに言えば現在、日本書紀のせいで素戔嗚尊(すさのおのもこと)と読まされている字自体も本来は❝素我王命(そがのおうのみこと)❞だったんじゃないだろうかとすら思っている。
漢委奴国王の金印が出土した志賀島に在る志賀海神社も、昔の御祭神は五十猛(いそたける)=素戔嗚尊の御子息の神様だった。
そんな訳で、この時代の雄略天皇は藤原氏にとって非常に都合の悪い天皇だった訳だが、恐らく日本武尊の官職名を与えられたであろう日本の大王に成った大将軍王子だったはずですが、この人物は寒田神社の土地に滞在した日本武尊とは別人でしょう。寒田神社の木椀は弥生時代の物であるのだから、寒田神社に関与したのは弥生時代の倭姫命(卑弥呼)の甥っ子の日本武尊でしょう。
古墳時代も終りの頃の神様に成った人物では無いはずです。
そして古墳時代に東征を行って相模武蔵の国境確定を実施したのは雄略天皇で久良岐郡、橘樹郡、多摩郡を無主の非武装地帯にした人物だったかも知れんせんね。
この雄略天皇との縁起が多く残るのが西湘地域の延喜式内社と式外社です。この事は、縄文時代にはまだ県央地域が海だった事実、そして古墳時代には陸地に成っていて人が住みだした考古学的な歴史事実とも整合します。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
ですから、雄略天皇との関係が最初の神社の縁起に成っている神社と中原街道は、古墳時代頃に人が住みだした県央沿岸地域を通過します。
そして、縄文~弥生時代からの遺跡を抱える 神社の傍には大山街道(矢倉沢往還)が通っており、その先は平安時代までの東海道だった足柄道へと繋がっています。足柄道は平安時代の富士山の火山活動によって一時期、御殿場を通る足柄峠が通行不能に成った事で廃れた道です。つまり、古い時代の主要街道だった訳です。

この様に、考古学や地理を先に見てから神社の伝承で関わったとされる人物の生きた時代、遺物と出土品の年代を見ると意外に神話と歴史事実は密接に関係が有る事が解ります。
その代表例の一つが寒田神社や比々多神社や有鹿神社や橘樹神社や走水神社な訳です。

きっと、皆さんの家の御近所の小さな神社仏閣、普通にお墓参りに行っている御寺サン、御守りを買っている神社さんも、寒田神社の様に意外な歴史偉人との関りが有る場所が絶対に有るはずです。
…皆さん、たまには神社仏閣や歴史遺跡を御散歩して、郷土の歴史博物館も見に行ってみると面白いですよ!
では、又!次の解説記事で! 

ブログネタ
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神奈川県横須賀市走水海岸は、日本神話で日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)様が滞在された御所の在った場所なのですが…
※以前、日本武尊と弟橘姫様の神話を紹介した記事リンクは以下
走水神社の記事は「ココ 」←クリック!
橘樹神社の記事は「ココ 」←クリック!
妙法寺の記事は「ココ 」←クリック!

そこに「かねよ食堂」と言う、とても素敵なレストランBarが有るんです。
小生、3年前に来てからずっと気に成ってて、今日初めて入ってみました。
御店の紹介の前に、走水海岸の素敵な風景を紹介させて下さい。
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走水は現代では素敵な落ち着いた海水浴場に成ってまして、その風景はとても綺麗です。
今日は夕方に行ったので散歩しているのも地元の人だけで、ゆっくりとのんびりとした感じでした。

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あおさ~(笑)
とても美味しそうに見えませんが、これが味噌汁に入るととても良い香りを立たせてくれます。
この海の8km先が、もう房総半島の富津岬です。
つまりここは東京湾の入口に当たる訳です。

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走水には漁船を係留する突堤が有るのですが、そこにかかる橋が又、素敵な風景に成っていまして…
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今日は夕日越しの桟橋の写真を撮れました。
逆に端から見る走水の砂浜と背後の観音崎に連なる丘の風景も凄く綺麗です。
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のどかでしょ~?
砂浜には今の季節、いくつか海の家も出店していて、泳いだ後でシャワー浴びたりする事も出来るちゃんとした海水浴場として機能しています。

この素敵な海岸に在るのが「かねよ食堂」です。
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「どこが食堂だよ!」
…と、ツッコミ入れたく成る程にオシャレな外観と内装の御店でして、地魚料理でお酒も飲める店でして通年営業しています。
御店主は海大好きサーフィン愛好家。
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海が好きで海で仕事してるって羨ましいですよね~。
そんな海好きな御店主の御店なので、砂浜にもテーブル席が準備してあり今の季節は予約すればBBQも出来るそうです。
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さて、何で小生3年間も気に成っていて入らなかったですが…
ここも前回紹介した秋谷海岸の「DON」同様に、アイドルタイムは予約でいっぱいに成っちゃう地元民の集う御店なんです。
だから混んでいて入店せず、外から「素敵な御店だな~」と散歩に来る度にずっと思ってました。
知った切っ掛けは「日本武尊」の伝承のある走水神社を参拝した際に、気まぐれでこの海岸を散歩したからなんですが…
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入口には食堂って書いて有りますけれど、繰り返しに成りますが名前とのギャップがとにかく有り、店内の雰囲気も素敵です。
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横須賀の中心からそんなに遠くは無い海岸なので、なんとなくアメリカンな内装で、店内はとても落ち着きます。
今日、小生と同行者は外の砂浜の席でお食事を頂きました。
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一人予算、食事だけなら1500円位でしょうか?
写真のメニューはセットの御食事なのでライス、スープとサラダも付き、料理自体も結構なボリュームが有り、きっと皆さんも満足する納得の食事を素敵な風景を見ながら出来ると思います。

今日は運転なので、又もや小生はノンアルコール生殺し(笑)。
前菜には地蛸(ぢだこ)のカルパッチョを…
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フレンチドレッシング仕立てでした。
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前回も「DON」で地ダコのカルパッチョを食べましたが、どうやら三浦半島はシラスとサザエとマグロ以外に、蛸も特産品の様です。…恥ずかしながら最近知りました。

ドリンクはバナナシェイクを…
そして料理は…「本マグロの鉢の身の網焼きwithラタトゥイユ」のセットを頂きました。
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この本マグロの頭の身、グリルされていて身が締まっているかと思いきや!
とってもフワフワと柔らかく、ラタトゥイユのトマトソースの優しい味で、美味しい上に「ほんわか」した逸品でした。
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又、食べたいな~。
結構なボリュームでしょう?男性も満足だし、これ2人で行って別の料理を頼んでシェアしても楽しいですよ。

良い御店でしょう?
是非!綺麗な雰囲気と美味しい料理を楽しみに、ついでに日本の神話と伝承を感じれる走水海岸と走水神社を御散歩がてら、この「かねよ食堂」さんに来てみては如何(いかが)でしょうか?

関係有りませんが漁村らしくニャンコが沢山いました…
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どの子も毛並みがとても綺麗だった♫

にゃ~ん
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では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!


日本武尊(やまとたけるのみこと)と
弟橘媛(おとたちばなひめ)の夫婦神
漁師と料理人の神様の大伴黒主(おおとものくろぬし)
…その三人の神様をお祀(まつ)りする神社が三浦半島の走水海岸の御所ヵ崎近くに在(あ)ります。

付近は風恋明媚(ふうこうめいび)な漁村です。
釣船屋さんと地魚料理の食堂が立ち並びます。

今回ご紹介する神社の神様は川崎市高津区子母口の橘樹神社とも同じ夫婦神様の日本武尊と弟橘媛です。
川崎市の橘樹神社には弟橘媛様の古墳も一部分現存しています。
詳しく知りたい方は以下の関連ブログのリンクをクリックして見て下さい。
橘樹神社のブログ記事はココ←クリック!

さて、横須賀市の走水神社の御祭神(ごさいしん)が日本武尊と弟橘媛と大伴黒主である理由は、実は御三方はここに住んでいらっしゃったからなんです。
日本武尊と言えば日本を代表する武神であり軍神です。
弟橘媛はそのお妃(きさき=王様の妻)で、海上交通の神様で、浦島太郎伝説の乙姫様のモデルでもあります。
夫婦が揃うと文字通り"日本最強の縁結びの神様"の御利益を発揮される訳です。

走水神社のすぐ近くに小さな半島の"御所ヵ崎(ごしょがさき)"が在ります。
正に其処(そこ)が御二人が夫婦生活を営まれた「御所=高貴な人の館」の所在地だったのです。
だから神社の目の前は海♪
写真左上が御所ヵ崎。

そして御二方に海鮮料理を作り接待したのが"大伴黒主"様なんですね。
走水神社の氏子さんの話では大伴黒主様は後に日本武尊にスカウトされて古代大和朝廷(やまとちょうてい)に仕え総料理長に成ったそうです。
だから料理の神様なんですね。

関係有るかは不明としておきますが…
逸話の内容や古代服装からして、"大伴黒主様は七福神の大黒天"の日本でのモデルだと思います。
大伴黒主の時代の服装の方がより大黒天に近いですからね。
ただ、大黒様はインドのヒンドゥー教由来の神様です。
歴史的には古代の豪族大伴氏は天皇の近衛兵と水軍の管理を任された名族です。

走水神社の上からは走水神社を中心にした漁村が良く見えます。
港の左手には御所ヵ崎…
…海面の高かった古代では"浦"に浮かぶ"島"…浦島に見えたでしょうね。
湾を挟んで対を成す神明神社の在った半島…
埋めたてられる前は、走水神社を中心にして鶴が羽を広げた様な風光明媚な海岸だったんでしょうね。
航空写真を見て頂ければ、その位置関係と地形も一目瞭然…
しかし
明治時代に御所ヵ崎と神明神社の半島は明治政府に接収され破壊され砲台が築かれたので、それ以来入る事は出来ません。
誠に不敬で遺憾な事です。
ですので、心を痛めた東郷元帥や乃木大将や伊東祐亨閣下等の有志により、湾の中心に有る走水神社に橘樹神社と神明神社を合祀(ごうし=同じ神社の敷地内に神様をお引越しする事)しました。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応し場所です。
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御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊されました。
御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われ訳です。
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冬季であれば雑草も枯れて門の入口から中の様子が少しだけ見えます。
見学されたい方は横須賀市公園管理課に問い合わせて予約すると、御所ヶ崎砲台史跡として見学する事が出来ます。
走水神社から御所ヶ崎に行く途中には下の看板も有り簡単な説明が掲載されています。
CIMG1996

因みに神社には弟橘媛と日本武尊の暮らした御所ヵ崎の砂を"縁結びのお守り砂として無料配付(はいふ)"しています。
スプーン一杯分くらい持って帰ってお守りにして良いそうなので、小さなジップロックみたいな袋か和紙を持参して行くと良いですよ!
この神社の手水(ちょうず)は正に御神水とも言える自然湧水で、富士山系の腐り難いバナジウム天然水らしいです。
ですので、昔は船に積み込むミネラルウォーターに用いられたそうです。
同じ泉質の横浜市中区の打越の霊水は、やはり明治時代に遠洋航海する船の飲水や、同横浜市中区に在った幕末のキリンビールの最初の本社工場で使われた水も同じ泉質でした。
走水神社本殿自体は建て替えられたばかりの綺麗な社殿です。
写真撮り忘れましたすいません…
…面目無い_| ̄|○
神社内には弟橘媛と日本武尊が詠(よ)んだとされる和歌が刻まれた石碑も有ります。
走水神社は古代から此方(こちら)に在ったそうで、伝説では日本武尊が来る西暦2世紀より以前の紀元前には有ったそうです。
建て替えの際に社殿の床から伝説通り日本武尊から奉納(ほうのう=神仏への寄付)された冠(かんむり)を保管する石室の壁が出て来たそうです。
本殿横には弟橘媛の侍女を祀るお社もあります。
今も古代の石造りのお社が走水神社の奥宮に移築され祀らています。
右から…
須賀神社=素戔嗚雨之命(すさのおうのみこと
神明神社=天照大御神(あまてらすおおみかみ)
諏訪神社=建御名方神(たけみなかたのかみ)
つまり…
須賀神社=軍神と水運=日本武尊の信仰した神様。
神明神社=大和朝廷皇族の祖先神
諏訪神社=弟橘媛と大伴黒主の祖先神と同じ渡来系技術の神様。
…と言う感じです。
大伴黒主は別名:久応と伝わります。は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没しています。
史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、走水で日本武尊を大伴黒主様が歓待された事は神話とも整合性が有り、六角橋の大伴久応の伝承とも整合性が有ります。
つまり、大伴久応黒主様の正体は、東京湾沿岸部西部を支配した豪族だったのでしょう。
六角橋の近くには塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と呼ばれる御地蔵様が鎮座していて、そこは火事で戦国時代に廃寺に成った神大寺と言う大寺院の参道入口と伝承します。
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大伴久応邸址の在る六角橋近くには浦島町が在り浦島太郎伝説の舞台で有る事や背後の浦島町~新横浜駅近く篠原城址に繋がる丘は古代に海に面した半島で亀甲岬と呼ばれた事、その半島の一部だった鶴見区に亀甲山の地名が現存する事、現在の新横浜に太田道灌公が小机城攻略の前衛拠点として‟亀甲山城”を築いた記録が残る事、陸奥話記にも登場する源義家公与力武将の丸子宿禰家の所領も中原街道沿い川崎の対岸に丸子の地名が残り大伴家と同族である事から、古代の大伴家が支配した地域が陸海交通の要所だった事が解ります。
江戸時代に東海道神奈川宿が置かれた京急神奈川駅近くの幸ヶ谷~台町一帯は足利尊氏公の時代も交通の要所で権現山城が築城された亀甲岬の一部の小さい半島でした。
その重要性から古代に大伴家が支配したこの一帯は戦国時代も北条家臣で間宮林蔵や杉田玄白の一族の祖先に当たる間宮信冬公が活躍した権現山合戦の舞台に成っています。
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出雲大社はじめ古代の水軍を司った出雲神族の家系は家紋に亀甲紋を用いる事から、現在の浦島太郎の物語は関東の日本武尊神話が元に成っている事も判ります。
浦島太郎が帰る家が無くなる様は、兄王成務天皇に皇位継承権を巡って帰京を阻まれた日本武尊の悲運を抽象化したものでしょう。
そして、その東征の目的は佐賀牟国の国司の内紛鎮定だった筈で、現在の神奈川県の地名由来に成った神奈川と呼ばれた地域、久良岐郡~橘樹郡~多摩郡(川崎市域)は古代大和朝廷の直轄地とされ神(かみ=支配する豪族)奈(無し)の地域が川の様に細長く設置されました。
郡衙と国府と延喜式内社と古墳と縄文弥生遺跡 久良岐のよし
それは、あたかも国境非武装地帯の体を成し武蔵国と相模国の国境地帯に重っています。
この佐賀牟国が相模と武蔵に分割され争乱を鎮めた事が垣間見える神無しの地域こそ、‟初代か二代目の”日本武尊の偉業が豪族紛争鎮定であり、天皇家介入による非武装地帯の設置の聖跡だろうと推測出来ます。
それを示す様に同地域には延喜式内社が存在していません。
本来ならば、この走水神社も延喜式神名帳に載るべき場所なのに掲載が無いのは奈良時代~平安時代初期に支配者豪族不在で上奏が無かったか大和朝廷から派遣された代官が働くに郡衙政庁として機能していた為でしょう。つまり、古代からの政庁機能が生きたまま神社には成らなかった場所だと推測出来ます。
更に、日本武尊の人物像に習合されている可能性の有る人物がいます。
雄略天皇の時代450年代~500年頃にも武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱が勃発しており、埼玉県稲荷山古墳出土した金象嵌鉄剣に彫られた‟獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)”の名こそ雄略天皇であり多支鹵=武尊(たける)の名を継承した大将軍職の尊称だろうと推測出来て、日本武尊神話に複数人の事績が後から習合されているとされる説が根強く有る事も理解出来ます。
応神天皇の別名が大鞆和気命(おおともわけのみこと)や誉田(=多)‟別”尊(ほんだわけのみこと)である事から「和気(わけ)」「別(わけ/わか)」の「わか/わけ」が獲加多支鹵大王の「獲加(わか)」に通じ、「稚」にも通じる音である事から、「ワケ/ワカ」は仁徳天皇以降使われなくなり現代には伝わらない皇族の青年将軍に対する尊称であったと解釈出来ます。
下の写真は延喜式神名帳に掲載される相模国四之宮前鳥神社です。
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相模国四之宮前鳥神社の主祭神で京都の宇治市から神奈川県平塚市に移住した応神天皇の皇子、莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命(のみこと)は、やはり御名に「稚」の字を含んでいます。
前鳥神社の近くには、その御陵と推測される真土大塚山古墳も在り古代大和朝廷や卑弥呼が魏の皇帝曹叡と丞相の司馬懿仲達から送られた200枚の銅鏡に繋がる三角縁神獣鏡が発掘されています。
莵道稚郎子命は日本で最初に漢学(兵法や儒学や雅楽)を学んだ人物とされています。
中世~近世の武士達が当主の嫡子を「若(わか)様」と呼んだのも、この古語の名残でしょう。
この関東で活躍した日本武尊の叔母君の倭姫命が卑弥呼で景行天皇が卑弥呼の弟ならば、走水神社は初代日本武尊の聖跡となり時代的にも史実と誤差が近く成ります。
そもそも卑弥呼も卑弥呼(ヒミコ)=日巫女(ひのみこ)や媛御子(ひめみこ)の音に通じる事から、皇女(内親王)が受け継ぐ斎王職の原型の役職名だった可能性も有る。奈良~平安時代に斎王が支配した伊勢神宮で日本武尊が叔母の倭姫命から神剣を貸与され与力に大伴家を付けられている事からも、六角橋と走水の伝承に整合性が認められ、倭姫命は古代の斎王で正体は卑弥呼本人か、中国で卑弥呼の当て字に翻訳されたを官職名として斎王職の原型の女性宮司を継承し務めた皇女(内親王)でしょう。
この走水の海岸から日本武尊は房総半島の富津へ渡って行きました。
パワースポットでもありますが…
古代へのロマンを感じる場所です。
そんな訳で、景行天皇の皇子で関東鎮撫の大将軍を務めた初代の日本武尊であろう神様と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
皆さんもどうぞ、参拝して日本武尊と弟橘媛様と大伴黒主様に想いをはせてみては如何でしょうか?
近くには「かねよ食堂」と言う素敵なCafeレストランBarと、走水名物の海苔の生産直売をする「ながつか水産」さんも有ったり、昔から東京近郊の御金持ちにリゾート地として親しまれた観音崎灯台や観音崎要塞史跡、多々良浜も有ります。
走水神社に関連する橘樹神社さんもブログ冒頭でリンク貼った関連記事も読んで見て下さい!
きっと皆さん中で歴史の紐が結ばれ繋がりますよ〜♫


周辺の観光地も素敵な場所です。
皆さん、ここに来て散歩してみませんか?
そして、御近所の神社仏閣や城址も御散歩して見て下さい。
近所の小さな神社や御寺や御城の址の山にも思わぬ歴史偉人や武将との関わりが有るかも知れませんよ?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

朝から由緒ある神社にお参りに来ました。
橘樹(たちばな)神社と言う日本神話にも登場する神社で、弟橘媛(おとたちばなひめ)をお祀りしています。
この姫神様は日本の軍神:日本武尊(やまとたけるのみこと)の御后(おきさき)様です。
二柱(神様の人数を数える単位は"柱")は夫婦一組で"縁結びの神様"として御利益が有ります。
日本武尊は日本最強の軍神なので、弟橘媛御夫妻は文字通り"最強の縁結び"の神様なんです(笑)。

この神様、実は台湾の媽祖廟の神様とも同一視されており日本と台湾友好の神様でもあります。

そして、浦島太郎伝説の乙姫(おとひめ)様のモデルに成っている古代の人物で神様に成られた方です。
弟橘媛と日本武尊が一緒に過ごした場所が神奈川県の三浦半島の横須賀市にある走水海岸の御所ヶ崎(ごしょがさき)と言う場所で、そちらにも明治時代までは橘樹神社がありました。
明治時代、日本に来航する西欧列強の亜細亜侵略が激しく、外国軍船の侵略に備え御所ヶ崎の橘樹神社は明治政府に接収されてしまい砲台が築かれ破壊されてしまいました。
御所ヶ崎は正に「海中に浮かぶ島」=「海の中の島」と呼べる地形なんですね。
写真は走水(はしりみず)海岸。
此処(ここ)から日本武尊は房総半島の富津に渡りました。
今では公園化されていますが、神社の在った砲台跡には未だに入れません。
走水神社に伝承する御所ヶ崎と川崎市の橘樹神社の神話を説明します。
日本武尊が東征する際、奥さんの弟橘媛様と御所ヶ崎で3年間過ごした後、海路房総半島を目指すのですが今と同じくらい浦賀水道の流れは早く、当時は更に海が荒れ渡航できずにいました。
そんな中、弟橘媛は夫である日本武尊に愛してくれた事と三年間の生活が幸せだった事を告げると自ら東京湾に入水自殺し人柱(ひとばしら)に成る事で海の荒波を沈め旦那様の渡航を助けたそうです。
戦国時代もそうでしたが、今の東京と千葉の間には江戸川=隅田川と利根川が流れ江戸城や国府台城や葛西城等の要害地域が沢山あり陸路東征は困難だったのだと思います。
まして弥生時代〜古墳時代は今より海面が高く平地は少なかったですからね。

昔の海岸線
この通り…神話の頃の縄文〜弥生時代は殆ど海の底。

今も貝塚や神社のある地域は不思議と当時の半島の上。
…つまり、そう言う事なんですよ。
歴史を知っていれば分かりますが、二酸化炭素で地球温暖化なんて「大嘘」なんですよ。
寧ろ長い歴史の中で氷河期でもないのに今程に陸地が広いのが異常な状態。
水没地域が増えて正常なんですね。

さて…

弟橘媛入水自殺の、その7日後に弟橘媛様の櫛(クシ)が流れ着いたのが、今の橘樹神社のある橘樹郡だったそうです。
因(ちな)みに袖が流れ着いたのが千葉県の袖ヶ浦かな?
だからか、千葉県にも橘樹神社はあります。

話を川崎市高津区の橘樹神社に戻します…

橘樹神社は今では神主不在の住宅街の中の神社ですが…
昔は神域の規模も広かった様(よう)です。
しかし、大半が農地として開拓されてしまっていたので昭和の高度経済成長期に無文化な神奈川県教育委員会が宅地化を見過ごし乱開発され、結果的に旧社域内の小さい御社は散り散りに分散してしまいました。
この写真に写ってる範囲全てが昔の神社の敷地と推測され、尚且つ古代の橘樹郡の郡役所、つまり政庁機能を有した城だったと考えられています。
少し前までは有名な神社だったんですよ。
幕末に政治家/軍人としと勝海舟と供に活躍した剣豪で新撰組の前身:浪士組を編成した"山岡鉄舟"も、この神社を訪れ短歌を詠んでいます。

神社には今も彼が句に詠んだ御神木の"松"の大木の枯れ木が有ります。
上の写真で神社の背後に見える住宅街に成ってしまった丘には、今でも弟橘媛の御陵と伝わっている富士見台古墳の破壊された残った一部分が現存しています。

橘樹神社の裏の住宅街は弟橘媛の「巨大な円墳」の跡です。
写真見て貰った方が解りますね。
      
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写真の中心やや上寄りに「●子母口富士見台」と表示の有る場所がありますよね?
その直(す)ぐに左、十字路の直ぐ下の茶色畑みたいな色の場所が古墳円形部の最高部です。
そこから真下に行った写真一番下の緑の屋根が「橘樹神社の社殿」です。

「●子母口富士見台」の近くの古墳最高部、そこを中心に周りの住宅街を見て下さい…
円形に並び、古墳円形部の形と巨大さがそのまま見てとれますよね。
教育委員会は円墳と言っています。

皇族や神様の古墳は入口に神社や鳥居が有ります。
その背後には古墳を囲む「堀(ほり)」が置かれます。

橘樹神社の社殿の裏は正に堀割状(ほりわりじょう)の地形の「谷」に成っている上、先程説明した富士見台古墳残存部を中心にした巨大円形台地の下に入口の様に神社が有ります。

神社〜古墳の残存部分までの散歩道、付近には元々の地元民の皆さんの郷土愛と信心深さを感じられる程、散り散りに分散された旧神社域の小さな御社廟は今でも沢山残っていました。
昔は橘樹神社と一つだった、お隣の実相寺にも天神様の小さい御社があり…

住宅街の中には土地神様を祀る御社も在ります。

弟橘媛の御陵の残存部は、近年、県の教育委員会の怠慢で土建屋に半分削られて破壊されてしまいました。
写真左のコンモリした丘は弟橘媛様の御陵の一番高い部分のほんの一部の残存部です。

…てか!
これ…
…明らかに石室狙って土建屋に破壊→盗掘された痕(あと)じゃね〜か(´Д` )?

本当、神奈川県の教育委員会は土建屋の文化史跡破壊に協力的だな?
オイ!((((;゚Д゚)))))))マジメにヤレ!

古墳の説明看板

古墳の先端の削られてない側。

古墳の頂上。

頂上から見た朝日…

土曜日の早朝、橘樹神社をお参りし清浄な空気を感じれて幸せでした…。


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