歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:徳川家

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2019年正月の14日、小生と妹夫婦の共通の来客が中国から有り、東京プリンスホテルの❝ポルト❞と言うビュッフェスタイルのレストランで一緒に食事をする事に成った。
来客と言うのは小生が中国に居た頃に大変お世話に成った人で家族同然に付き合っており「中国のお姉ちゃん」と小生が呼ぶ人で妹夫婦の病院に治療に来たり、日本で買物をするのが非常に好きで服飾関係を目当てにして半年に1回は遊びに来る親日家だ。
当初の予定では中国の姉さんは15日に横浜元町でショッピングをしたいとの事で二人で中華街で待ち合わせして食事をする予定だったが、妹がシャシャリ出て来て小生には何の相談も無く小生の仕事の都合も無視して勝手に日程を14日に変更した挙句、場所まで東京プリンスホテルに変更してしまった・・・
結婚して子供を産んでからの妹が独裁者化していて困惑する事が多い。
・・・兄ちゃんに事前に相談して!
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ホテルの駐車場に車を停めて「何だか人が多いな~」とか思ってたら14日は成人式だったんだな~。
綺麗な呉服で着飾った御嬢サン達、青年達が沢山集まっていたが港区の成人式は東京プリンスホテルでやるらしい。
リッチで横浜市とは大違いだな(笑)。港区だと横浜みたいにリーゼントに下品な紋付き袴を着こんだ様な輩(やから)も見当たらなかった(笑)。
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ポルト(東京プリンスホテル内)
ビュッフェスタイルのレストランだけどプリンスホテルの中だけあってとても綺麗な御店で、しかも高いのかと思いきや2800円と御手頃な値段だったので安心した。しかし、これの為に妹が小生の仕事を無視して勝手に予約してからここに来いと通知して来たのは心中複雑で、前日少し妹と喧嘩っぽく成った(笑)。まぁ、小生の一番の理解者なので小生の扱い方を心得ていて直ぐに建設的な話になるのだけど。
ここは今まで食べたビュッフェの中で1、2の美味しさだと思う。
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ローストビーフも切り分けてくれるのだが肉が柔らかくて美味しかった。
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蟹も手べ放題。
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すげ~食った。他にも肉料理や魚料理も沢山有って、他所のビュッフェが肉関連をランチタイムに出し渋るのとは違ってお得感が有ってとても良かった。
当然ながらスイーツ関連も沢山有り、子供のいる家族連れやカップルのデートや女子会でも使い勝手の良さそうなレストランだと思う。
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小生は甘いのは控えて・・・

代りに懐(なつ)いてくれている甥っ子と姪っ子を❝抱っこし放題(笑)❞ハグしまくって満足して来た(笑)。

・・・まぁ~確かに妹夫婦が中国の姉さんに会うなら病院祭日の成人の日しか無いし、子供連れて一緒に食事するとなるとビュッフェしかないし、❝小生の休暇申請を要する仕事事情無視❞は看過出来ないものの来客で失礼のない場所で御手頃な価格のランチと成ると結果的に妹の判断はベストだと思った。
ふむ、流石、独裁者に成っても我が妹は賢い。良き妹ぞ。
そして義弟君と夫婦に成り可愛い甥っ子と姪っ子を産んでくれて、その二人が❝オジちゃん❞て甘えてくれる至福を兄ちゃんにくれてありがとう~♪
食事が終わり、中国の姉さんは妹と銀座や新宿に買物に行くとの事で、ホテルの車寄せで皆を見送り解散した。
小生はその後で隣の芝増上寺として有名な徳川家の菩提寺、三縁山 広度院 増上寺に参拝に向かった。
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横断歩道を渡り歩道沿いに増上寺に向かって歩くと何やら日本庭園ぽい場所が在(あ)ったので何だろうな~?と思い其方(そちら)側に渡って行って見た。
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どうやら元々芝増上寺の山門の両脇の景色を良くする為に徳川幕府の命令で植林された松林がここに在ったらしい。第二次世界大戦で焼失したのを復元したんだな。流石、日本の国宝保有数最大の東京都、横浜市の史跡や自然破壊大好き現職市長とは大違い。
今の横浜市長なんて北条綱成公や徳川家康公の参謀だった間宮家の松本城址の桜の大木の並木を悉(ことご)く伐採したり、開発反対署名12万人集まり市の有識者も過半数が開発反対している横浜市最大最後の蛍の大生息地円海山瀬上沢の東急不動産による宅地開発計画を容認する様な発言をして大バッシングを受けていたり。
東京都は偉いね。
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戦後復元した松原も大樹に育っている。うん!素晴らしい。
そこを過ぎると増上寺の巨大な山門と東京タワーがコラボした素敵な風景の交差点に行き着いた。
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この写真で見切れている右手に実は歴史的に重要な場所が有る。
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見た目は古い御屋敷、実はこれは元々は増上寺の塔頭(たっちゅう:支院)の一つである広度院で、増上寺山門前のこの前の道の両脇や増上寺周辺芝公園一帯には江戸時代迄沢山の塔頭が建ち並んでいた訳だ。
そして現在、増上寺の院号が広度院と成っているので明治時代の廃仏毀釈で多くの支院が廃寺に成った際に増上寺の運営を担ったのがここの広度院だった事が解かる。
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今では普通の古民家の様な佇まいだが文化的な意味は深い場所。
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だから国の登録有形文化財にも指定され保護されているんだな。
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そこから増上寺の方に少し戻る。
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増上寺前交差点、現在の増上寺の山門=大門。
東京メトロ❝大門駅❞は増上寺の大門の目の前だから、そのまま駅名に成っているのを知らずに地下鉄に乗ってる人もいるんじゃなかろうか?
増上寺周辺 久良岐のよし
実はこの辺、東京都屈指の観光地が集約されており、朝から夕方日没までゆっくり散歩しながらグルメと文化と夜景を満喫出来るんだな~。だからカップルでデートにも、田舎からの来客を観光案内するにも❝使い勝手の良い地域❞なんだな。
例えば・・・
1朝、新橋駅に集合。
2築地場外市場に移動して朝御飯
3浜離宮恩賜庭園を散歩して徳川将軍家の御鷹狩場で甲府徳川家下屋敷でもあった日本庭園を散歩し抹茶で一服
4芝離宮恩賜庭園、徳川幕府老中で我が神奈川県の小田原城主だった大久保忠朝公の上屋敷だった日本庭園を見物
5芝公園方面に移動し東京プリンスホテルで昼食
6増上寺を参詣、徳川家歴代将軍の御廟所や家康公の守り本尊である黒本尊阿弥陀如来様を参拝
7芝東照宮を参拝し芝丸山古墳を見物
8東京タワーを見物、東京の風景を楽しむ
9夕方に霞が関方面に移動、虎ノ門ヒルズを物色
10夜、虎ノ門ヒルズの展望台で東京タワーを含む夜景を堪能。
・・・地図を見ながら無駄なく順路を廻ればこんだけ1日で楽しむ事が出来る。
重要な事は❝小生には一緒に廻ってくれる人がいない❞ので一人でこれやるしか無いんだな(笑)。
実に寂しい。
小生は好きに成る人に悉く嫌われて、好きじゃない人から好かれてしまう行動しか出来ないらしい。
まぁ、秋は芝公園も浜離宮も芝離宮も紅葉が綺麗なので、秋か蚊のいない春に行くのが良いかも知れない。その頃に小生みたいな阿呆と付き合ってくれる奇特な人との御縁が・・・無い(笑)。
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さて、そんな事を大門の前で地図を見てパパっと思い浮かばせながら増上寺を初参拝するべく横断歩道を渡る。
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行くまで知らなかったが、どうやら正月は色々と増上寺で徳川家康公の守り御本尊だった黒本尊様の御開帳とか色々な催事が行われている様だ。
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山門をくぐると広大な境内の御庭と正面に御本堂が目に入った。
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う~ん現代と江戸時代のコラボ!悪くない。
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実は現在の境内でも相当広いのに江戸時代の三分の一以下に規模は縮小されている。
昔はプリンスホテルの辺りも北廟と言って徳川幕府二代征夷大将軍の徳川秀忠公と信長公の姪のお江様御夫妻の御廟所等が有ったんだな。
とは言え今の境内も物凄く広い。
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山門潜って直ぐ目に入った観音様。
何やらその後方にも立派な御堂が見切れている。凄く気に成ったので其方から先に回る事にした。
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観音様の周辺には色んな供養碑とかが有った。
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仏足石とかもね~。
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まぁ、レプリカだけど大きい御寺にたまに有る。
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観音様の反対側には立派な鐘楼も在った。
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火事で一度焼け落ちたけど江戸時代の内に再建されたらしい。徳川家綱公の奥方様の簪(かんざし)まで寄付して鐘の再鋳造と鐘楼再建の費用が捻出された様だ。東日本最大級だってさ!凄い。
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あと催事のポスターとかの掲示板。
どうやら小生が気に成った建物は慈雲閣と言うらしい。
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でもこの建物の垂れ幕を見て小生は不思議だった。普通浄土宗は徳川家に三つ葉葵の徳川家の家紋の使用を寺紋として使用を許されているので三つ葉葵の家紋が垂れ幕に染色してあるものだけれど、この立派な御堂には❝八楊に月星=九楊と月❞紋だった。九楊紋、八楊に月紋、月星紋はいずれも平安時代以来の武家の名門である千葉家一族の用いた家紋だ。
後で若い僧侶に聞いた所、この慈雲閣は増上寺を開いた開山の和尚様を祀る開山堂だそうだ。つまり開山様は千葉家所縁の人間と言う事なのだろうか?詳しい事は調べていないので解らないままの参拝でそんな事を考えていたら予想は的中していた。
増上寺は西暦800年代に今の千代田区麹町辺りに空海和尚の直弟子である宗叡和尚が前身寺院の光明寺を開いたそうだ。当然ながら真言宗寺院だった訳だ。その後、南北朝~室町時代の人で増上寺の中興開基つまり浄土宗に改宗して増上寺と名を改めて御寺をリニューアルオープンしたのが酉誉聖聰和尚で、この人を祀っているのが開山堂である慈雲閣だそうだ。この酉誉聖聰和尚が小生の家紋からの見立て通り房総半島の大名の千葉家出身の人物だそうで、父親は千葉氏胤公、母親は新田義貞の未亡人らしき人物だそうだ。意外な事に酉誉聖聰和尚の甥っ子である馬場重胤公がおり、恐らく武田信玄の家臣で名将の馬場信房が家名を継いだ馬場家の御先祖様に当たるだろう。武田家は房総半島~茨城一帯出身の大名なので実は飯富虎昌公始め房総半島所縁の氏姓を名乗る武将が多かったりする。つまり馬場家の御先祖は千葉家で、増上寺を浄土宗に改めて中興開基した酉誉聖聰和尚様とも親戚だった訳だ。
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犬の散歩禁止。
歴史が好きだと家紋一つで色んな家の御先祖様がアッチ行ったりコッチ行ったりした移住の歴史も辿れたり御寺に関わった人物の出自もこやって推測し当てる事が出来るから面白い!
アッチ行ったりコッチ行ったりした千葉一族の酉誉聖聰和尚を祀る御寺の前だけど犬連れてアッチ行ったりコッチ行ったりするのは禁止(笑)。
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そこから御本堂の方向を見ると東京タワー、御本堂、光摂殿と言う左側の建物を一度に写真に収める事が出来る。小生はこの時に知らずに御参りしなかったのだが、そうやら左側の光摂殿は立派な天井絵が公開されていて見る事が出来るらしい。う~ん、次の参拝の機会に行きたい。
で、御本堂に移動して御本尊様を拝もうと思ったらとんでもない人の行列だった。
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う~ん・・・
別に正面から拝む必要無いよな~と思った小生。横入りもしたくない。
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でも、これ並びたくない。
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なので遠巻きに参拝した(笑)。無論、御賽銭は別の御堂に多めに入れたので大丈夫!
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で、この日、特別公開を意味する御開帳の黒本尊様、つまり東照大権現徳川家康公が戦場にも携行し拝んでいた阿弥陀如来様の黒い仏像を拝むのが徳川家御廟所参詣と同じ主目的の一つだった。
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安國(国)殿と言う御堂。ここに黒本尊様が祀られている。
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丁度多分凄く偉い和尚様が説法をされていて、色々と聞く事が出来て良かった。
黒本尊様は家康公の勝運を頂ける阿弥陀様だそうだ。
確かに家康公は姉川の戦いで浅井朝倉連合軍の猛攻を受けて本隊の織田軍が混乱する中、反攻戦を展開し不利な戦況を覆し織田徳川連合軍を勝利に導き、諸大名による織田包囲網を打開させる糸口を作りだしたり、初陣での大高城兵糧入れ作戦でも500人の小勢を率いて見事に作戦遂行し、更には小牧長久手の戦いでも豊臣(羽柴)秀吉の大軍を痛撃して堀秀政、池田恒興、森可成等の歴戦の勇将率いる軍勢も潰滅させている野戦上手だった。
しかも勝つだけじゃなく武田信玄に負けたり、今川家臣時代の不遇の経験を活かし学習し、そこから成長する人間力も有った人なので今、小生は家康公から多くの事を学ばなければいけないので粘り強くも反省を活かす性格に成る人間力向上の御利益にも預かる必要が有る訳だ。

黒本尊様 増上寺公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は増上寺様ホームページより拝借。
小生は反骨精神の強すぎる所に難が有り、理不尽な事を言われると我慢せずに論破してしまうし、冗談でも被害を被る事をやられたら冗談では済まさずましてや危害を加える心算で悪意ある事をされると半沢直樹みたいなスマートな「倍返しだ!」じゃなくて自分の大切な人達にも半端ない泥臭く自分も相手も傷つき確実にダメージを残す自爆テロみたいな事をやってしまう悪癖が有る。
これを浄土宗や日蓮宗や曹洞宗を大切にされつつ、身分問わず愛する人や町民を幸せにした信長公や家康公を今こそ歴史好きとして手本にして人を大切にする事を学び取り、現世でも今迄毛嫌いしていた人達からも色んな事を学んでいかなきゃいけない1年だと思う。
だから、実は下らない反骨精神で成人式すらしていない小生が成人の日に妹の気まぐれで東京プリンスホテルに勝手に集合場所を変えられて、奇しくも黒本尊様を拝めたのは家康公の御導きだと思えば、これも一つの小生が❝真実も見ながら人を幸せに出来る人間❞に生まれ変わる第一歩となる遅すぎる❝成人の日❞に成ったのかも知れない。
実は今年の小生の年齢は、母方の祖父が亡くなった年齢でもある。
小生の名前は母方祖父と、父方祖母から同じ字を一字頂いている。
祖父が死んだ年齢で小生が性格から改善し人として発展し人を幸せに出来る器量を持てる様に成るなら、やはり家康公の黒本尊様を拝めたのはターニングポイントだったのかも知れない。
黒本尊様を御参りして今度は徳川家歴代将軍の御廟所を御参りするべく移動開始。
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と、その入口の手前に観音様がいらっしゃった。
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西向観音菩薩様。
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石仏なんだね~。とても大切にされていて拝む小生も嬉しくなる。
さて、拝み終わり徳川家御廟所へ移動。
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立派な金属製の御廟所入り口の門。
鋳抜門(いぬきもん)と言うそうだ。元々は徳川幕府第六代将軍の徳川家宣公の御廟を守っていた門らしい。廃仏毀釈で仏教弾圧され増上寺の境内が縮小したり戦後の規模縮小での歴代将軍の合祀で移築されたそうだ。
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この門は平時は開かないので左手で拝観料を払って壁の横の入口から御廟所を参詣する。
普通小生は歴史偉人の御廟所を写真撮影しないのだが、徳川将軍家に限っては家康公からして東照大権現の神号を授かり、御廟所の日光東照宮が神社に成っているので小生の認識に於(お)いて徳川将軍家の御廟は御神孫と同等であり、その御廟一つ一つが神社と同じ役割とも考えているので今回は写真を撮影してブログに掲載させて頂く事にした。
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そもそも家康公の宗旨である浄土宗の大本山で、この御廟を管理している増上寺が絵葉書にしているのだから罰は当たらないし逆に御利益を授かれると思う。
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先ず御参りしたのが小生が江戸の町の基礎を築いた内政で尊敬する徳川秀忠公と、その妻ので信長公の姪で名将浅井長政公の姫の❝お江❞様御夫妻の御廟。元は別の場所にあり、東照宮みたいに立派な建物に囲まれていたが戦災で焼け落ちてしまった。
この秀忠公は小生の尊敬する北条家臣で名将の間宮康俊公の孫、今の横浜市長の前身にあたる本牧奉行や佐渡金山奉行や生野銀山奉行をしていた間宮直元公と非常に仲が良かった将軍様だ。
二人して御相撲サンを沢山部下に雇っていて、二人で相撲大会を開いて見物して遊んだりしたそうだ。
間宮直元公の伯母で間宮康俊公の姫の於久(おひさ)様が家康公の側室に成っていて駿府城で家康公の姫を産んでいたので間宮家も徳川家の血縁で、徳川秀忠公と間宮直元公は義理の従兄弟同士で同世代だから仲も良かったんだろうね~♪
間宮直元公は大坂城冬の陣で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を家康公に進言した名軍師でもあって、残念ながら後に横浜を開港させる井伊直弼公の祖先の井伊直孝公の軍団の与力として在陣したせいで井伊家が真田隊の経略に引っかかって真田丸に突撃して大損害を受けて潰滅した戦いで間宮家も間宮直元公や千葉県八千代市の分家高津間宮家の間宮正秀公を始め戦死者を出してしまってる。井伊直孝隊がアホみたいに真田信繁公の計略に引っかかって突撃せず、間宮直元公の大坂城総掘り埋め立て作戦の献策を徳川家康公が既に採用していたのだから、家康公と間宮家の作戦通り大坂城無力化させてから降伏勧告をしていれば良かっただけなんですがね。
まぁ、井伊家は先代の井伊直政公が名将だったので二代目はプレッシャーが大きく功を焦ったんでしょうね、結果的に徳川軍に大損害を招く失態を犯した訳ですが、まぁそれは今は必要の無い解説かな?
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これが徳川家宣公の御廟所。
本当に無駄な徳川綱吉の生類憐みの令を廃止して改革善政を行おうとした将軍様。
この家宣公の参謀が新井白石で、彼は鎌倉市玉縄の領主だった。間宮家が戦国時代に仕えた北条家の家臣時代は玉縄城主で関東最強の戦国武将だった北条綱成公の付家老(つけがろう:本社から赴任する支店長代理みたいな)が間宮直元公の御爺ちゃんの間宮康俊公だった。
何だかんだ、間宮家と因縁が有る新井白石。
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徳川家継公の御廟。
この人の跡を継いだのが暴れん坊将軍のイメージがTVでついてしまった徳川吉宗公。
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十四代将軍徳川家茂公。天皇の忠臣で、逆賊長州を征伐しようとして多分大阪城で毒盛られて暗殺された人。妻が有名な和宮内親王だった。
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で、奥さんの和宮内親王の御廟所。女性が参拝したら女子力上がりそう。
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第九代将軍の家重公。
物凄い美男子だったけど発達障害が有ってちゃんと言葉が話せなく、子供の頃から大奥に行って女性と淫らな事をしていたって余り良い伝承が残ってない人。
でも息子さんの徳川家治公がとても賢かった上に、父の吉宗公がサポートしたから何とか上手く次世代にバトンを繋げた将軍様。
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第十二代将軍の徳川家慶公。
この人の参謀が水野忠邦公で、有名な天保の改革が失敗しちゃった時の将軍様。
日本文化を守ろうとしたり緊縮財政で財政再建しようとしたんだけれど反発が強くて上手く行かなかった。
駆け込み女と駆け出し男
この時の時代背景を映画にしたのがに大泉洋サンと戸田恵梨香サン主演で2015年に公開された映画の❝駆け込み女と駆け出し男❞なんだな。
映画と舞台の東慶寺の解説を以前に記事に書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
記事リンク⤵

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で、最後の御廟は増上寺境内地の縮小で合祀を余儀なくされた将軍様御身内の御廟所。
それでも立派だな~。
そうそう、先に一度出したけど、この御廟所を拝観すると記念品にポストカードが貰える。
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どうです?芝の増上寺、凄く立派で見応え有るし東京タワーやプリンスホテルのランチと合わせても魅力的でしょう?

もし御興味有れば周辺の観光地と合わせてデートに家族のレクリエーションにと訪問して見ては如何でしょうか?

では!又、次の解説記事か休日雑記で御会いしましょう~♪

※追伸
木曜日投稿予告してたのに色々と用事が立て込み土曜日に成っちゃいました(笑)!又、次の記事も土曜日の夜中に書くから読んで下さいね~♪

※今回の記事は文字だらけです。
前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説③】・・・多❝米❞元忠公と❝多米❞家の菩提寺の豊顕寺は江戸時代の大寺院・・・横浜市神奈川区三ッ沢西町【歴史学者は必ず見る可し!】
コレの続き⤴


最近、断続的に書いている多米元忠公の解説記事に「多米氏を調べてらっしゃる」と言う❝ヨツ❞さんと言う方からコメントが付きまして、そのヨツさんは多米元忠公は多米長宗公と同一人物じゃないかと、戸倉英太郎サンと言う❝先生❞の持論を御参考にされているとの事で、小生が何故(なぜ)「多目元忠公と多米元興が同一人物だ」と推測しているのかと言う質問を頂きましたので、そのやり取りで返信した内容に一部挨拶の加筆と多目元忠公と一体誰が同一人物かと言うのを各時代の北条家周辺の人物名と歴史とを新たに書き加えながら解説したいと思います。

さて、小生は某大宮司家の自分の祖先と、菅原氏、河内源氏や坂東平氏、鎌倉幕府北条家、金沢北条家、名越北条家、室町幕府将軍家と鎌倉公方足利家、蒔田吉良家と宅間上杉家と太田家、小田原北条家と玉縄北条家と間宮家と多米家と福島家、崇敬する織田信長公の織田家と生駒家、徳川家、それ諸家の殿様や奥方様や御姫様を尊敬する所から日本の歴史オタクに成って行きました。
素人なりに色々と御子孫様達にも御会いする事が出来たり、色んな御寺や神社で宮司様や和尚様達に優しくして頂ける御縁にも幸運な事に恵まれ、普通は見せて頂けない過去帳や文書を見せて頂いたりコピーを頂く機会にも恵まれました。
すると面白い事に、文字しか読まず取材しない部類の❝ガクシャ先生❞達が後生大事に丸写しテンプレして論文の根拠にしている❝寛政重修諸家譜❞やら❝風土記❞やら諸々江戸時代の記録と言うのは幕府の一部の役人が字を書き間違えていたり、昭和期に活版印刷にする際に文字の読み間違え誤植が多く有る事に気が付きました(笑)。
なので小生は実際の取材による聞き取りの重要性に気が付いて・・・
と言うよりも、そもそも自分で尊敬する人達の話を御子孫や御住職様や宮司様達の当事者に御会いしに行くのは数百年前の御殿様達に時代を超えて御挨拶する機会を頂いている様な気がして嬉しく、距離感なんか気にも成らずに「自分で会いたい!」と言う衝動に駆られてアポを取り挨拶に伺ったり、直接御参りに行くと❝すっごく!良くして頂ける❞機会に恵まれて来ました。

そして、殿様達の名前は例えば諏訪家ならば諏訪❝頼❞水とか諏訪家の❝頼❞の様に必ず❝家ごとの通し文字❞が有る事、そして殿様達の当時の近郷に住む上司や近隣有力大名からも❝一字拝領❞して例えば間宮家なら間宮❝康❞俊公の御名前は北条氏❝康❞公から頂いた一字である事から、いつの時代に特に重用される存在だったかとか推測する基準に成る事にも気が付きました。
更に、その上司や近隣大名と不和に成り決裂したり別の主君に鞍替えすると名前を元の名前に戻したり、子孫が元の名前の間宮❝信❞俊と伝え直してしまって各家で家系図に混乱を来(きた)してしまう原因に成り、更に徳川幕府に家の惣領が家譜を提出する際に止む無く❝康俊と信俊は兄弟だった❞みたいな帳尻合わせつじつま合わせをせねば無くなり、もうしっちゃかめっちゃかに成っている事も気が付きました。
・・・実は、この現象が多米家の伝承でも起きている事に小生は玉縄北条家の顕彰活動を通じて知った鎌倉時代には❝金沢北条家❞重臣だった間宮家臣荒井家や、扇谷上杉家臣太田家の太田道灌公暗殺の現地伝承と150年後の子孫の口述記録の差異、間宮家の家系図と各家の伝承の混乱を見聞きした経験から気が付きました。
そして得た名前と時代的な周辺の状況から「多米元忠公=多目元興公」と言う結論です。
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写真は多米元興公の隠居地と伝わる豊顕寺さん、そもそも多目元忠公の隠居地もここと伝わるので訪問すれば直ぐに解る事なんですが・・・
さて、では何故そう思うかを豊顕寺の事は置いておいて多米家の殿様の名前から改めて解説しますが、ここからはもう、ヨネさんに書いた返信をテンプレに写真と場所の解説も書き加えたりしてみます。

【多米元忠公と多米元興公が同一人物と考える理由解説】
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※KOEIさんの信長の野望での多❝目❞元忠公の顔グラ。名前間違ってるし(笑)。
小生の推測は歴史オタクで素人の域を出ませんが、世代の比較をすると小生は自説の様に思います。
まず、多米元忠公が元の名を改めて元忠と名乗ったのか、それとも元忠が先で元興or長宗と名乗ったかを考えれば小生の説に合点が行くかと思います。
さて、先ず小生は戦国武士の名前は近在する有力武将の従属勢力が本人として考えた場合に有力武将から一字を頂く事を大前提として話させて頂きます。
先ず小生が多米元❝興❞公こそ河越夜戦に参戦し一軍の大将を任せられた上で全軍の進退を主君に代わって指揮を執れる人物だったと思うのは、多米家でそれが可能な人は世代的に他にいないからなのですが、多米元❝興❞公の名前に着目して世代を推測してみましょう。
この元興公の字は小生は扇谷上杉朝❝興❞公からの一字拝領だと推測しています。

御存知の様に北条(伊勢)家は古河公方家と扇谷上杉家と山内上杉家の複雑な外交関係の上で勢力地拡大の大義名分を成立していた家です。
扇谷上杉家とは初期段階で共闘関係に在り、それ故に扇谷上杉家旧臣の大森家が山内上杉家に内応した頃に小田原城攻略の大義名分を得て西湘に進出しています。
仮に多米長宗公が扇谷上杉家との抗争の終局である河越夜戦で一軍を率いた上で全軍を統率するのは年齢的に無理です。
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写真は扇谷上杉家終焉地、河越城下の東明寺。ここで扇谷上杉家の頭領の扇谷上杉朝定公は討死します。重臣で後の岩槻城主太田資正公の養父同然の存在だった松山城主の難波田善銀公もここで亡くなりました。
そもそもは時宗の開祖の一遍上人の開いた聖地で、扇谷上杉家と時宗は臨済宗と曹洞宗に並んで深い関係が有る宗派でした。恐らく、扇谷上杉家の初期の本拠地だった旧鎌倉郡大庭城の近くには現在では藤沢市と鎌倉市の市境付近の時宗の総本山格である遊行寺が存在した事や、この河越城下に東明寺が存在した事から関係を深め扇谷上杉家によって支援されたのでしょう。
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稲荷山 称名院 東明寺
この河越夜戦で活躍したの多目元忠公は小生は多米元興公だったと推測しますが、恐らくは次代の多米❝長❞宗公の❝長❞の字は北条長綱入道宗哲(北条幻庵)公か、その子息の北条時長公からの拝領でしょう。
多米家が城主を務めた青木城の所在地は江戸時代には眼前の横浜駅一帯は当時は海で港湾としても機能した上に東海道旧道だった重要性から東海道❝神奈川宿❞が設置されていますが、江戸時代の区分は❝神奈川領❞とされています。
坂本龍馬先生坂本龍子(お龍)さん
幕末には坂本龍馬さん亡き後に未亡人お龍サンが働いていた田中家と言う料亭も今でも営業しています。
有名ラーメン店と城址と交通の相関地図
余談ですが、北条家の御城跡の傍には現代では拉麺の名店が多く有ったりします(笑)。これは交通の要所を抑えて城を造るのと、昭和の高度経済発展期以後の拉麺文化がトラックの運転手相手にした業態で発展した文化だから奇しくも重なる訳ですね(笑)。
そこ等辺は間宮家や宅間上杉家と尊敬する大勝軒大将の故山岸サン達の顕彰文の廉価版みたいな記事や、お龍サンの記事でも紹介しているので御興味がれば読んでやって下さい。
※タイトルをクリックすると記事に飛びます!
●間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
●神勝軒:大勝軒山岸サンの弟子の店。…全ての拉麺繁盛店と御城の意外な関係。
●坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
●旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
●北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
間宮家顕彰文は正式版は出版物にします。
円海山の蛍生息地を東急グループが破壊した場合には工事責任者から営業担当者や経営者と責任者である市長と県知事と教育委員会教育長までの実名を併記して宗教と文化醸成と自然の聖地が消えた❝歴史事実❞として間宮家の歴史と一緒に永遠に語り継ぐコンテンツにするのが目的ですね。「破壊して宅地にしたら勝ち」と思ってる横浜出身じゃない築地出身政治家やその支援者や土建屋の人間は生粋の源氏平氏北条家の気質を受け継いだハマっ子、370万人の横浜市民をナメんなよ・・・
子々孫々までソイツの悪事の対価を背負わせてやるんだわ。
・・・極悪旗本木原家の様にな。そして100年後200年後と時間が過ぎる程に円海山の瀬上沢自然環境を破壊する奴は更に悪名を残す存在に成り、糾弾されるだろうよ。
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さて、間宮家や鎌倉武士団と所縁深い円海山の話は置いておいて、ここはそもそも足利尊氏公が南朝方と戦った際に城郭化し籠城し、後に戦国時代初期の間宮家が北条早雲(伊勢宗瑞)公の家臣として籠城した権現山城が前身な訳ですが、北条家が江戸城を奪取し安定するまでの初期段階では小机城を含めた領域も統治領域とした役割を持っていた筈です。
青木城から直ぐ近くの小机城は小田原所領役帳の成立時には❝小机衆❞を束ねる組織に成り、どうやらこの頃には❝北条五色備え❞も解体されている事が推測出来ます。

所で、この小机城、北条氏綱公が江戸城を制圧した帰りに笠原信為公を城代に据えています。つまり無城主だけど城として機能していた事が解ります。この頃には青木城の前身の権現山は廃城に成っていたのかも知れませんが神奈川斎藤領分を間宮宗甫公が領しておりますし更に北条早雲(伊勢宗瑞)公の時代の権現山合戦では間宮家の城として権現山城が登場します。青木城はまだ存在していません。
権現山城で活躍した間宮信冬公の子か弟か親類の間宮信盛公も多摩川渡河地点の今の川崎市川崎駅一帯の河崎堀之内館主、鶴見川渡河地点の鶴見区末吉一帯は間宮信冬公、そして神奈川権現山は間宮彦四郎(小生は信冬公と同一と推測)の城でした。
つまり北条早雲~北条氏綱公初期の世代では青木城が存在せず、小机城も城として存在しても無城主で城代は大曾根城主の笠原信為公、1560年以前に小机城主を務めたのが北条幻庵公の御子息の北条時長公です。ここで北条時❝長❞の長の字が登場しますね。
北条家の江戸城攻略は大永四年(1524)です。
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
小机城址では現代では毎年秋に竹灯籠祭りが行われたり・・・
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・・・春には笠原信為公を顕彰する小机城址祭りが開催されています。
●❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
●2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
さて、小机城代を務めた笠原信為公は弘治三年(1557)に亡くなっているので、小机城と小机衆を取り仕切った期間は1524年~1557年と判ります。
そして1557年~1560年まで城主だったであろう人物が北条時長公となる訳です。
この小机には、北条時長公の没後も御父上の北条幻庵公の所領が有りましたが後に北条氏繁公に譲られています。状況的には北条時長公が赴任した後に幻庵公の土地に成っのでしょう。
つまり、多米家で青木城の近所に住む❝長❞の字を持つ有力者の影響を受けれる人物は1560年前後の短い期間に元服したりまだ改名しても不自然ではない若かった人物だと思われます。当然ながら1560年代に十代~三十代位の人物ならば小田原城の落城時に小田原城を守備していた多米長宗公がその世代の人物と考えれば極々自然でしょう。
多米長宗公は多米家通し字の❝元❞の名が入って無いので初名は多米元宗だったかも知れないですね。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成
残念ながら多米長宗公は世代的に河越夜戦で全軍の指揮を執れる様な中年では有り得ないでしょう。
さて、では多米元興公はどうでしょう?
多米元興公の❝興❞の字が伊勢家⇔扇谷上杉家の友好的な時代に扇谷上杉朝興公から一字拝領した人物と考えれば、河越夜戦に参戦したのは多米元興公と考えるのが自然でしょう。そして古河公方足利家を頂点として管領格の扇谷上杉家に協力従属した伊勢(北条)家の武将が同世代の目上の武将から一字貰うのは当然普通に有り得る事ですよね。
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※写真は扇谷上杉家の戦国時代初期、北条(伊勢)家と協力関係に有り山内上杉家と対立していた時代の本拠地だった伊勢原市上粕屋の大城郭、糟屋舘址の大空堀。
糟屋舘は崖地系を人工的に切岸したり平地を掘削した大空堀の幅は余裕で50m有ります。糟屋の伝承地形は太田道灌公暗殺一部始終の現地取材を元に推定地を記事に書いて紹介していますが、2018年現在、神奈川県の黒岩知事による道路建設で破壊の真っ最中です。しかも事前発掘調査隊には城郭専門家は含まれていません。
●【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
では多米元興公に名前を与えたかも?知れない扇谷上杉朝興公はいつの時代の人物でしょう?
長享2年(1488)~天文6年(1537)を生きたのが扇谷上杉朝興公です。
では多米家はその頃に何をしていたでしょう?そこからはブログにも書きましたが…
永正三年(1506)~3年間、北条早雲(伊勢宗瑞)公は今川氏親公の名代として今川家の軍勢と伊豆と西湘の伊勢家軍勢を率いて三河安祥城の松平家を攻めています。

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※安祥文化のさと、ここの周辺一帯全てが三河安城市の市名由来と成った徳川(松平)家初期の岡崎尉移転以前の本拠地、安祥城。ここを訪問した時の記事は【休日雑記】として少し触れていたり、浄土真宗の寺院化した後の事も間宮家が関わった横浜市の梅花山成就坊の事と一緒に紹介しています。
●休日雑記 2016/09/29の訪問先 愛知県豊田市~安城市~刈谷市~豊明市~名古屋市緑区~熱田神宮~中区。
●横浜の梅花山成就院と愛知県三河安城市の大乗寺・・・戦国時代の徳川家と間宮家の❝本丸❞だった浄土真宗の寺院達。
この北条家の前身の伊勢家が今川家臣だった頃に活躍したのが❝三河の土豪❞だった多米元興公の御父上の多米元❝益❞公と伝わり、江戸時代に流布された❝伊勢神宮参りで伊勢盛時公と出会って以来の多米家と北条家の関係❞とか❝室町幕府で同僚だった❞とかは誤りな事が判ります。何たって、小生の三河土豪説は豊顕寺の歴代御住職に直接伝わってきた話で豊顕寺の説明の看板にすら紹介されている事ですからね(笑)。
多米元益公は❝伊勢七騎❞と呼ばれた北条早雲(伊勢宗瑞)公世代の今川家筆頭家老の伊勢家与力として活躍した人物です。もうこの時点で時代背景が判りますね。この頃、実際に北条家の運営をしていたのは二代目の北条氏綱公でした。その後、三河は松平家が制圧し、多米家を含めた親今川勢力は三河から駆逐されます。そして、その頃に相州の北条氏綱公を頼り扇谷上杉家とも友好な時代に生きていたと考えられるのは多米元❝興❞公を置いて他なりません。
多米家は「相模国に赴き北条家臣と成った」と伝承しており豊顕寺の説明にも書いて有ります。
余談ですが昭和の活版印刷版の寛政重修諸家譜とか新編武蔵風土記稿は編集者が天文と天正をしばしば誤読して字を誤植しているのも間宮家の御寺を廻って小生は良く知っています(笑)。なので一々、元号や武将の名前記載は江戸時代の役人の記述や昭和のいい加減な酒飲みながら残業した様なオッサンの仕事を鵜呑みにせずに、自分で御寺に行って過去帳や墓石を見て回らないとエライ目に遭ったり世の中にデマを流布する事に成りますよ~。御子孫には杉田間宮家初代の間宮常信公と名がちゃんと伝わる武将を、間宮信次とか間宮信常とか江戸の役人か昭和のいい加減なオッサンの誤植を丸写しして出版物に書いてしまってる人もいます(笑)。
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※写真は戦国時代の小田原城本曲輪前の東曲輪から見た、江戸時代の小田原城本丸。
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小田原城址公園
●小田原北条五代祭りと戦国時代の小田原城…防御力実積日本一の名城!
※以前書いた小田原城解説⤴
北条早雲公の時代の本拠地は伊豆国韮山城、北条早雲公の晩年に北条家の運営をしていたのは北条氏綱公、北条氏綱公以来の本拠地は❝相州❞の小田原城、多米元興公が相州に亡命し得る松平清康公による三河制圧も北条氏綱公の時代の話ですね。
もうここまで話せば御理解頂けるかと思いますが、青木城に赴任し得るのは多米元益公の次世代の多米元興公を置いて他におらず、元興公は扇谷上杉家の上杉朝興公の名を一字拝領していたが主家北条家と扇谷上杉家の対立が確定した時点で上杉朝興公との縁を切り名を多米元❝忠❞と改めたと考えれば極々自然でしょう。
そして青木城築城は永正五年(1508)の今川家の三河攻略失敗以降で更に永正七年(1510)の権現山合戦以降、小机城が小机衆として機能する大永四年(1524)迄の間と言うのが判ります。この時期は丁度、多米元興公が北条家を頼って相州に移住して来た頃とも重なりますね。
そして、多米元益公と北条早雲公が同時代に活躍した人物ならば、その子の多米元忠公は北条氏綱公や北条幻庵公と同世代か少なくとも北条氏康公よりは大分年長だったと推測出来ますから、その様な世代の人物が秀吉による小田原城攻略の頃まで生きていたとは全く考えられません。

多米家が勢力を抑えられたのは、もしかしたら多米元忠公と多米長宗公が関わったであろう本光院殿北条為昌公のせいかも知れませんよ?
そこ等辺も、その内に書きますね。
もし興味が有れば以前書いた❝ゆず❞の地元の龍珠院と金沢区伝心寺の記事とか小机城と篠原城の記事を読んで見て下さい。
ゆず
●❝ゆず❞の地元の岡村町の泉谷山龍珠院は戦国時代関東最強の武将、北条綱成公と北条氏繁公の親子が開いた御寺・・・磯子区
●横浜市金沢区の大永峯嗣法山傳心寺は関東で最も攻城戦に長けた戦国大名北条氏綱公が開いた寺院(かも)?
●篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。
これが小生の説で、実際に和尚様から聞いたり豊顕寺と多米家の伝承を紹介した文章から推測出来る事です。
これ、豊顕寺サンに御参りして色々と見聞きすれば直ぐに解ると思います。
江戸時代の人が狭い行動範囲で取材せずに書いた文献だけだと、ローカルな情報をカバーしきれて無い事が多いですしね。新編相模風土記稿も編集の過程で些末なエピソードは端折られてるでしょうし。
間宮に異常に詳しく書かれているのは、新編武蔵風土記稿の編集者が間宮一族の末裔の間宮士信サンだからでしょうね(笑)!

・・・まぁ、これで納得して下さる方も多くいらっしゃるのでは無いかと思います。
現在小生は趣味の歴史以外の事(泣)で多忙なのでいつか、多米家の御姫様に取材できるようにアポイントをとれたら、色々と持論も御話ししながら多米家の事で各時代の歴史家が紹介していない事も記録に残せたらなぁ~と思っています。
皆さん、その時まで待っててね?
落ち着くの、2年ぐらいかかるのかなぁ~。

→その⑤に続く(多米家が重臣ながら貫高を抑えられた原因の推測を書く予定)
   

前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。
コレの続き⤴

今回は河越夜戦で全軍の総指揮を執り北条11000vs上杉80000で北条家に奇跡の勝利を齎(もたら)した多目元忠公の隠居地であり菩提寺でもある神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺(ぶげんじ)を紹介します。
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法照山 豊顕寺・・・三つ沢壇林旧蹟
(だんりん=江戸時代の仏僧の大規模学問所)
北条五色備え 黒備え隊大将 多米元忠公と多米家の菩提寺
恐らく、この豊顕寺の寺名の読み方すら御存知無い方も幾らかいらっしゃると思います。
そして豊顕寺さんが多目元忠公の隠居地とは知らない人も多いでしょう。訪問さえすれば秀吉の小田原攻めで小田原城に籠城した❝多米長宗❞公が多米元忠公では無い事や、そもそも歴史学者が江戸時代の誤植した❝多目(ため)❞姓を現代では正式認定していますがコレが誤っており、正式には小田原所領役帳や新編武蔵風土記稿の記載の通り❝多米(ため)❞である事が直ぐ解ります。
又、小田原北条家の滅亡後は多米家は消息不明的なアホな事をテンプレ書き込みしている馬鹿学者もいますが大きな誤りであり、ソイツ等は先人を尊敬して文書にする際に菩提寺や氏神の神社を参拝して仁義を通したり取材して事実確認をしていない三文学者な事が歴史オタクには一目瞭然だったりもします。
今回、戦国時代の北条家研究をされる方にとって、多米家の事でとても大事な報告も有るので是非読んで頂きたいと思います。

27日の深夜にブログ更新する心算でしたが豊顕寺サンへ未取材のまま結局記事に書きたくなくて28日土曜日に御住職様に御朱印の拝領と合わせてアポをとり取材をして参りました。
色々と御話を聞けたし、実際に江戸時代までは江戸上野の寛永寺に匹敵する超大規模な壇林の三ッ沢壇林だった名残りが❝横浜市教育委員会が保護もせず放置したまま部分的に現存している❞事も確認して参りました。
そして、多米家嫡流の御子孫が戦国時代から現在まで筆頭の檀家として豊顕寺サンを歴代菩提寺にして来て御寺の歴代御住職も多米の殿様の御子孫の来訪時には丁重にもてなし続けている事も教えて頂く事が出来ました。そして今現在、❝多米家の直系最期の御子孫❞がいらっしゃり・・・

う~ん、多米の❝お姫様❞の話は先ずは置いておいて、御寺の歴史紹介から多米家のルーツを解き明かし、北条家臣化の通説とは違うプロセスの方が現実的と指摘したいと思います。
豊顕寺周辺 久良岐のよし
豊顕寺は正式名称を法照山 豊顕寺と言います。
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2018年04月28日(土)の躑躅が綺麗な日に訪問、横浜市営地下鉄ブルーラインの三ッ沢上町駅の目の前で、豊かな緑に囲まれた素敵な市民の憩いの場にも成っており、本日の参拝の折も横浜国大の生徒と思しきカップルが境内で仲良くデートしていました。
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なにやらスマホをいじくっていたのでポケモンGOでもやってたのかな?
この豊顕寺サン、元は三河国八名郡多米村(現:愛知県豊橋市多米町)に多米家の祖先の多米元興公が永正十二年(1515年)に多米家菩提寺として建てた❝本顕寺❞が存在しました。この永正年間に活躍した元興公の御父上の多米元益公には❝伊勢七騎❞と言う異名が有り、既に伊勢盛時宗瑞公の時代の元益公の代には北条家と“関わりの有る家”として活躍し重臣だった事が確認出来る訳です。しかし家臣かは別の話し。
多米家は伊勢国で伊勢姓時代の北条早雲の名で知られる本名:伊勢新九郎盛時公と出会ったと何だか書いているガクシャ先生もいますが、これは恐らく江戸時代に作られた俗説のデマを事実考証もせずにテンプレした結果の誤りでしょう。
そもそも永正十二年(1515年)頃に三河国に菩提寺を作っている多米家が永正年間頃に伊勢国で伊勢新九郎公と出会う訳が無いんです。
実は小生が間宮林蔵の祖先であり多米家と同じ横浜の戦国武将で笹下城主の間宮家の顕彰活動をする過程で、多米家が伊勢(北条)家の臣下に成る理由を発見していました。
永正年間の伊勢家は今川家臣ながら伊豆国と相模国西部の小田原城を手中に収めて今川家の従属大名として活躍していました。そして当時の伊勢家は北条早雲公の代には北条姓を名乗っておらず早雲公も正式な名前は伊勢盛時 入道号:早雲庵宗瑞が当時の御名前でした。
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この頃の伊勢家は永正三年(1506年)~永正四年(1507年)か永正五年(1508年)迄の足掛け3年間に渡って伊豆と相模の与力武将と今川家からの与力武将を従えて❝徳川家の祖先❞松平家と長期合戦の真っ最中でした。松平家初期の本拠地だった三河国碧海(へきかい)郡=現:愛知県三河安城市の安祥(あんじょう)城を攻め落とすべく今川家総大将として出陣しているんですね。
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現在、安祥城の本丸跡には大乗寺と言う浄土真宗の御寺が在ります。
この頃の今川家は東三河一帯を勢力下に置いていたので当然ながら多米元忠公の御父上と思しき多米元益公や多米元忠公御本人の別名と思われる多米元興公は、この時期に今川家臣と成ったと考えた方が自然でしょう。そして後に東三河は徳川家康公の祖父で戦上手で少々乱暴な人としても有名な松平清康公によって征服されて今川家が三河の領地を失陥(しっかん=戦に負けて城や領地を失う事)していますが、その前に松平家と当初は敵対していた戸田家によって先に豊橋市一帯は征服されているので、多米家は今川の勢力を離れた後で一時的に戸田家に従属し、更に今川家時代からの仇敵の松平家が一帯を征服したタイミングで出奔したタイミングもこの頃かと推測出来ます。
その時期は享禄二年(1529年)の松平氏による現在の豊橋市周辺併呑の頃でしょう。
当然ながら以前に松平家と敵対した今川家の総大将の伊勢盛時公に与力した多米家も松平家から領地を奪われて浪人したでしょう。
小生の推測では、この時に優秀だった多米元益公と多米元忠こと多米元興公は伊勢家を頼って伊豆の韮山城の北条早雲公こと伊勢盛時公か小田原城主で伊勢家二代目の北条氏綱公を頼ったのでしょう。小生思うに、親子は実力を買われたのと伊勢家が敗戦と浪人の責任から多米家を召し抱え重臣として取り立てたと考えれば伊勢家家臣化が極々自然に繋がると思います。
さて、小生が何故この事を気が付いたかと言えば全然関係ない久良岐郡の間宮家居城の笹下城の事を調べていて、中世武士の文化や北条家研究家として間宮家や中田家の事や久良岐郡研究で多大な成果を収められておられる盛本昌廣先生の論文と新編武蔵風土記稿の久良岐郡の笹下城下の事を読んでいたからでした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
この古文書の写しが新編武蔵風土記稿に紹介されています。
この内田対馬守は間宮家臣として笹下城下では代々続いた家でして、分家も多く本家は古門内田対馬守家として近年で知られた地主サンでした。
小生はこの古文書の写しを読んで間宮家臣古門内田家の御子孫を探しに港南区笹下町を訪れ朝から夕方まで内田姓の家を訪ね歩き回りピンポンしまくる怪しいセールスマン状態(笑)で御自宅を見つけ出し訪問していた事が有ったので多米家のルーツと繋がる❝今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻め❞に行き着いた訳です。まぁ、世界屈指のメーカーさん相手に企業営業の経験を積んだ小生に掛かればコンナ事は朝飯前(笑)!何にも恥ずかしくないし飛び込み営業と取材は何にも変わらん(笑)!
これが歴史オタクに活かせるスキルだとは思いもよらなかったし、研究職しか経験の無い学者サンが肩書が無いと仕事が捗(はかど)らないと思い込んでるのとの違いだなと今にしては思う。
この感状の古文書、年号が有りませんが寅三月ニ十八日と書いて有りますよね?
実はこれ、三河国碧海郡の安祥城攻めが終了した翌年の発行なんです。そしてこの寅三月の寅年がいつだったかは内田対馬守サンの死没年から特定できるんです。
三河安祥城攻めが終了したのは永正四年(1507年)とも永正五年(1508年)とも言われていますが、内田対馬守が死没したのは新編武蔵風土記稿に永正五年(1508)三月二日と記されています。つまり1508年を含むそれ迄の寅年、かつ永正年間で感状(かんじょう=感謝状と御褒美)を与えられる様な合戦が有った年と考えると推測が着きます。
この感状は死亡前の活躍に対して数ヵ月のタイムラグが有り、亡くなって初七日も終え暫くしてから今川家から送られている事も判ります。戦傷が元で亡くなったんでしょうかねぇ~?
内田対馬さんが感状には御大途(大殿様)と言う表現が有りますね?これは伊勢(北条)家が今川家の家臣だった頃に今川家から伊勢家与力の間宮家に発行されている事が解ります。当時の北条家臣団は北条早雲公に対して大殿様と言う表現を用いていなかったそうなので、間宮家の殿様の伊勢家の更に殿様の今川氏親公から下賜された官位に付随した書状である事が解ります・・・
「では質問!内田対馬さんが無く亡くなり今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻めが遅くとも終結した永正五年(1508年)の干支は何でしょうか!?」
・・・答えはね❝丙寅(ひのえとら)年❞、つまり寅年なんですよ!
だから今川家の殿様から内田対馬守の死没以前の活躍に対して感状が発行される寅年か前年の合戦は今川&伊勢連合軍の三河安祥城攻めしか無い事が解る訳です。
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※写真は駿府城、今川家の拠点が駿府城の前身とも言われるが定かでは無いと駿府城の学芸員サンがおっしゃってました。
この時期、今川家臣だった伊勢家は今川家の名代と言う名目と幕府の公認を受けていた古河公方家の支援と山内上杉家と扇谷上杉家の内紛鎮圧を大義名分に相模国東部~武蔵国久良岐郡に侵入し橘樹郡~都築郡と、武蔵国南部も浸食し始めていました。そして❝永正の錯乱❞と呼ばれる室町幕府管領細川家の内紛が起きて応仁の乱の西軍側の足利義稙公によって当時の室町将軍の足利義澄(よしずみ)公が征夷大将軍の職位を奪われ京都を追われる事件が発生します。
実は北条家が伊豆国を支配で来たのは、足利義澄公の母上の仇(かたき)であった異母兄の堀越公方足利茶々丸を討ち果たし仇を取ると言う❝大義名分❞が有ったからでした。その足利義澄公が将軍職を追放されてしまったので、伊勢家としては堀越公方やそれを支援する山内上杉家と戦い伊豆国と相模国の支配権を保持する正当性が無くなってしまいました。そして伊勢家の主君だった今川家は幕臣として室町幕府に仕えていましたが、足利義稙公と今川家との主従関係が確立されると山内上杉家は西軍との関係が良好であったので伊勢家と今川家の関係も問題に成って来てしまう訳です。
そして永正六年(1509年)頃から伊勢家は今川家臣としての活動を一切行わなくなり、この頃に断交している事も判ります。

さて、ここから多米家と北条家の歴史が繋がります・・・
この頃の永正五年(1508年)に徳川家康公の祖父の松平清康公が生まれ、大永三年(1523年)に清康公は父の松平信忠公の隠居を受けて15歳で松平家当主に就任すると享禄二年(1529年)頃に多米家の領地の有った三河国八名郡や宝飯郡を含む今の豊橋市界隈で一番有名な御城の吉田城の城主:牧野家も今川家臣でしたが松平家と縁戚の戸田家との合戦に敗れて降伏しています。そして八名郡や宝飯郡一帯は松平家の盟友の戸田家の領土と成ります。当然ながら今川家臣で旧伊勢家与力の多米家もこの時期に三河国の所領を失った筈です。
・・・そして永正十六年(1519年)に伊勢盛時入道宗瑞公も死没しているので、多米家は北条家二代目頭領で❝小田原城主の北条氏綱公を頼って北条家臣と成った❞と考えた方が通説よりも自然でしょう。
そこで大切なのが横浜市神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺サンが三河国八名郡多米村から移転して来た時期です。
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恐らく多米元忠公の初名と思われる多米元興サンは天文年間(1532~1555年)に青木城主を隠居して、三河国の多米家菩提寺の本顕寺を現在の神奈川区三ッ沢上町駅前に移転させて、自分の隠居所としている事が寺伝や新編武蔵風土記稿の記載から解っています。

【新編武蔵風土記稿 橘樹郡之十三 小机領 豊顕寺の項】
豊顕寺
~冒頭省略~
もとは三河國八名郡多米村にありて、本顕寺と云(言い)てかの地の士多米権兵衛(元益サン?)が世々の菩提寺成り(豊顕寺伝承では1515年造営)、
~以下中略~
長氏(北条早雲公の本名:伊勢盛時の別名)後に相武等を併呑せしかば、権兵衛かの家人となりて一方の大将を承(賜わ)れり、(※この時点で北条家の相武併呑後(北条氏綱公の代の事業)に北条家臣化している事が書かれているが、早雲公が今川家臣だったの頃からの与力としての付き合いである事が先に紹介されているので現代の解釈の混乱に繋がっている模様)天文年間中よりこの地(青木城一帯)の領主となりしゆへ、かの本國(三河国八名郡多米村)にありし本顕寺を當(当)所へ引うつして名を豊顕寺と改めしとぞ、
~以下省略~
ここまで読めば今川時代に伊勢七騎と呼ばれた多米元益の世代から多米家と伊勢家の付き合いは有って、でも北条家の家臣化したのは北条家が武蔵国まで勢力拡大した頃の話である事が解ります。
更に多米❝権兵衛❞の様に当時の武家の各家系が名乗る屋号や官職名は代々引き継がれる物だったので、世代的に多米家で北条家臣と成ったのは天文十四年(1546年)に活躍した多米元興(元忠)公の時代の話である事も推定できます。そして青木城主に成ったのは天文年中での事で、その頃に隠居所の草庵の所に三河国の多米家菩提寺の本顕寺を三ッ沢に移転している事が解ります。
もしかしたら多米元忠公が御隠居されたのは河越夜戦で指揮をとった記録が有るので、天文十四年か翌年の天文十五年(1545年)かな?と考えれば自然ですよね。

つまり、豊顕寺サンとしての横浜市神奈川区三ッ沢西町でのスタートは、多米元忠公の引退時期の天文十四年~2年間の間の話だと推定できます。

そうそう、小生が参考にしている新編武蔵風土記稿ですが、そもそも新編武蔵風土記稿の近代の役人と出版社が編集した❝活版印刷版❞では❝本顕寺(ほんげんじ)❞の寺名すら誤植しています。❝本顕寺❞の草書体を本❝願❞寺と誤読した挙句に出版してしまっているんですね。更にソレを知らずにテンプレする歴史学者やら多米じゃなくて多目と書いてしまう学者やら・・・
コイツ等のせいで小生も豊顕寺の御住職に事実確認するまで「❝多目❞が正しいのかな?」と柄にも無く少数派で「❝多米❞だコノ馬鹿が!」とガクシャ先生を罵倒する事が出来なかった事を恥ずかしく思います。
よって今回の記事以降から多米家は全て多米姓で統一したいと思いますが、過去の記事の絡みも有り検索タグは❝多目元忠❞のままにして置きたいと思います。
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さて、多米家のルーツと豊顕寺の移転開基年代がだいたい推測出来た所で、もう一度御寺の参道の紹介から御寺その物の風景と施設を紹介しなおしたいと思います。
豊顕寺は市営地下鉄三ッ沢上町役を降りて国道一号線側から入ってくると外の大門代わりの石柱が有り、そこを入ると正面では無く右手に御寺が在(あ)ります。
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昔は大門を入ってくると真直ぐに丘の上に4万5千坪もの壇林(だんりん=学問所僧院の集合体)が存在していたのですが、明治のキリスト教徒政治家や戦後の宗教改革でアホの横浜市に接収され文化も史跡としての価値の高い大寺院群は上野の寛永寺同様に一部を残して徹底的に弾圧破壊されてしまいました。
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だから今も昔の壇林へと続く参道は豊顕寺市民の森の中に石畳と赤門だけが真直ぐ続き現存しています。
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先ずは御寺の風景を見てみましょう。
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緑豊かな豊顕寺の森に落ち着いた雰囲気の山門、昔は間宮家の杉田妙法寺や間宮家臣荒井家が鎌倉時代に中興した金沢区上行寺と同じく千葉県の中山法華経寺を開いた富木(とき)家出身の御住職が開いた前身寺院が存在しました。恐らく多米元忠公が御隠居された場所と言うのは、その前身寺院の事でしょう。
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山門をくぐると東を向いた御堂は初夏の午後16時頃の西日を背負って御寺に相応しい表現化は微妙ですが何だか神社の様に緑豊かな豊顕寺本堂は神々しい雰囲気に包まれていました。
山門から入って左手の竹の柵に囲まれた井戸が有りますが・・・
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この井戸はまだ現役で活用されています。
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手動ポンプで水も勢いよく出ました。
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・・・実はこの井戸の背後に歴代住職様と多米家嫡流で豊顕寺檀家の歴代御廟所が存在します。
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浄財寄進者名にはちゃんと多米家❝最後の御当主❞の御名前も刻まれていますが、予想外に❝間宮姓❞も多くいるので「何でだろな?」と思ったら、そう言えば神奈川区斎藤分町は間宮家の御分家の間宮宗甫サンの所領だったんです。これも御住職に取材をして解ったのですが、昭和初期まで神奈川区の間宮一族の中には大邸宅に住み使用人を住み込まれている家も有ったとの事なので地主と言う事を考えれば豊顕寺檀家の間宮さん達は笹下城主間宮康俊公の親戚の間宮宗甫公の御子孫達と考えられるでしょう。
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御本堂は戦災で焼けたのか鉄筋コンクリート造りの外観でしたが、屋根瓦に刻まれた地紋は北条家の三鱗紋でした。
丸に三ツ鱗紋
そして多米家の御廟所を参拝してから御住職にも確認しましたが、多米家の家紋は❝丸に北条三ツ鱗紋❞だそうです。
実は多米家の家紋を御存知無いガクシャ先生達が多いのですが、まぁ小生も昨日まで知らずにいたのですが、こうやって現地に行けば取材も出来るし、先人や歴史偉人や神仏を尊敬して神社や御寺を開いた殿様や歴代御住職様や宮司様に御参りするれば直ぐに家紋は判明するんですけどね。
ちゃんとした学者さんや博物館の学芸員サンは論文書く時に御墓参りしたり宮司様や御住職様に連絡したり御参りに行くから、素人の只の歴史オタクの小生と同じ程度の事は御存知なんですよ。
信仰心も先人への尊敬も無く、ただ飯のタネにしてる他地域からの移住して来たのに横浜を郷土として馴染み認識出来ない人ばっかの横浜市教育委員会の人達は知らないんですがね。
山門入って右手、多米家御廟所と反対側に庫裡(くり=居住空間)が在ります。
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庫裡の前にも真っ白な可愛い御花が咲いていました。
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とっても綺麗。
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その御花の前のベンチで和やかに時間を過ごす仲良さそうな大学生位のカップル。
羨ましいぞ!
誰か日本文化と歴史と散歩と旅行先の郷土料理食べるのと綺麗な風景好きな水商売経験や酒乱癖や違法薬物使用経験の無い真面目な女性、小生を婿にもろうてくれ(笑)。
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御寺の本堂の扁額には山号の法照山(ほうしょうざん)と書かれています・・・
読み様によっちゃ悩める人々の味方の「法テラス」とも読める(笑)。
・・・まぁ、弁護士サン達とは違う意味で人を精神的に助けれるのが宗教の良い所、ある意味で法テラスと同じ人助けの組織だね。
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御本堂の左手には日蓮上人像。あ、紹介し忘れていたけれど豊顕寺サンは法華宗です。
・・・豊顕寺サンの御本堂と庫裡の有る山門内はこんな感じ。
山門を出て旧三ッ沢壇林への参道の赤門前に戻ります。
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この赤門は江戸時代から第二次世界大戦の戦火も免れ存続し、老朽化で一度部材を解体して修理すべき箇所を手入れして組みなおした修復後の姿です。赤門と言うのは幕府の許可が無いと作れない寺格の高い御寺や医学書や大名屋敷にだけ許された特別な門でした。東京大学の赤門も加賀前田家の邸宅の門だったから朱塗りが許された門だったんですね。
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さて、豊顕寺から続く三ッ沢壇林の参道、横浜市は緑地として一部だけ残しましたがその山林の中には貴重な三ッ沢壇林の史跡が有るのを小生は確認してきましたが❝横浜市教育委員会は全く史跡として保護をしていません❞でした。アホなのかな?
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赤門をくぐると江戸時代からの壇林の参道を利用した遊歩道が在ります。
これを真っすぐ進まずに、最初の右手の削平地へ進んでみて下さい。
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左手に人工的に切岸にしてある段地を見ながら進むと・・・
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初夏には真っ赤な躑躅が咲く場所が在り、更に人気の少ないその奥には何やら削平地が有ります。
更にその奥に進んで下さい。
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・・・するとおそらく旧塔頭へと続く石段だったと思われる階段が登場します。
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近くで見ると石材を人力で加工した跡が有り、小生は江戸時代の石段だと思います。
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登り切ると不自然に階段は途切れ、少しずれて何かの私設の裏口が有ります。
これ、Google mapで見ると国土交通省関東地方整備局の施設らしいです。
三ッ沢壇林旧蹟衛星画像 久良岐のよし
この画像では北側が下に成っています。
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同じ角度で見た江戸時代の絵図だと、現在の豊顕寺サンの位置は手前右側の小さな御堂の集合体みたいな辺りで昔とは位置が違う様です。そして現代の立派な石段跡に続く国土交通省関東地方整備局の建物辺りに何か立派な御堂が有る事が解ります。
しかしこれ、何の御堂か新編武蔵風土記稿の豊顕寺の項目を読んでも良く解らないのですが、如何にざっと記述を載せて見ます。

三十番神堂 ・・・門を入りて左にあり
多米氏墓  ・・・門を入りて左にあり
多米彌七郎墓・・・同並の内にあり
蓮秀墓   ・・・前に言へる二基の間
運信齎日領墓・・・同並にて北のはしにあり
三澤壇林  ・・・境内の南の山上にあり
(赤)門    ・・・柱間一丈腕木つくり山上にあり
講堂 本院寮・・・講堂の表通りにあり今は廢せり
玄講寮   ・・・講堂の北下表通りの西側にあり
集講堂   ・・・同所の北の側にあり
條講堂   ・・・講堂の北下裏通北側にあり
自寮    ・・・十四棟
長屋    ・・・七軒

これを見る限り国土交通省関東地方整備局の辺りには講堂が在った様です。
その左手には何やら基壇が有りました。
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恐らくこれ玄講寮とか言う奴の基壇だと思うんですが、何んの説明も無いので不明です。
何故横浜市はこんな立派な基壇を保護も発掘もせずに風化させ放置するのだろう?
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周辺に削平地はまだまだ有るので、講堂周辺の御堂のいずれかの跡でしょう。
そして赤門をくぐり真っすぐ上まで行くと三ッ沢壇林の中心の御堂の石段と基礎が残っていました。
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これも保存する気無しの教育委員会、馬鹿なの?
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八幡広場と書いて有るので、往古は三ッ沢壇林の中心は多米元忠公の北条家が大切にした八幡大菩薩応神天皇が祀られた御神廟だったのかも知れませんね。日蓮上人と鶴岡八幡宮の結び付きも強いですし、法華宗の豊顕寺としても大切な場所だったのでしょう。
この様に、史跡としても学僧の聖地としても横浜市に破壊された三ッ沢壇林ですが、現在も放置された名残りは有るし深緑のとても気持ちの良い散歩道としても楽しめます。
そして豊顕寺を御参りすれば北条家の軍師だった多米元忠公に知恵の御利益を授けて頂く御釈迦様や八幡大菩薩応神天皇との橋渡しをして下さるかも知れませんね!

最後に戦国時代の北条家研究をしている歴史学者さんが見て下るかも知れないので一つ報告をします・・・
三ッ沢の豊顕寺で多米元忠公以来檀家として存続した多米家嫡流はもう直ぐ途絶えます。
御先代の男性当主がつい7年前に亡くなりました。そして現在の御当主は女性で残念ながら御子様に恵まれませんでした。
文字しか読まないタイプの学者には歴史上、江戸期の動向が良く解らないから断絶したとか言う人もいたりなんかする多米家ですが、ちゃんと多米家菩提寺豊顕寺では歴代の御当主を戦国時代からずっと事有る毎に来訪される旅にお迎えして来ました。
多米家を研究されたい学者さん、いますか?
もしアナタが本当に歴史が好きで先人を尊敬しているのならば、歴史偉人を呼び捨てにせずに敬称を付けて名を御呼びする様に態度を改め、豊顕寺を参拝し現在の御住職様に多米家最後の御姫様の女性当主様に連絡を付けて頂き家系図を見せて頂いたりする最後のチャンスですよ。
今やらないでいつやるの?
素人の小生が出来る事をアナタ達は何で出来ないの?
先人をリスペクトせず、神奈川県の史跡が開発の邪魔だから触れず?
歴史は飯の種で歴史人物も飯のタネだから敬称付けず人扱いせず呼び捨て?
それってさ、御子孫も菩提寺の御住職様も氏神様の宮司様も檀家サンも氏子サンも怒るよね?

歴史偉人も生きていた事を思い出し、そして子供の頃に憧れた戦国武将達への尊敬と日本の歴史を刻んで現在に繋げて下さった御恩を思い出して、敬称付けて名前を御呼びして自分で御墓に御参りする所から取材始めてみませんか?
多米家の事を調べるのは今しか無い最後のチャンスですよ。失礼な呼び捨てをするなら御寺とも御子孫ともコンタクト取るなよ。

・・・さて豊顕寺と多米家の歴史解説と推測の記事はここまで。
次回は多米元忠公の御子息達の重臣にしては所得が低めな理由を考察したいと思います。

北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説④】へ続く。



北鎌倉には建長寺と言う大寺院が在ります・・・
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正式名称は巨福山建長興国禪寺と言い、京都南禅寺を別格として除いた鎌倉五山、つまり関東の臨済宗寺院の内で五つの筆頭寺院の内の第一位に位置づけられた寺院です。
・・・この鎌倉五山の凄さと言うのは征夷大将軍しか歴代住職の任命権を有していなかった事からも解ると思います。
さて、この建長寺、鎌倉時代~戦国時代当時は多くの学僧や武士が修行に集まっていた大寺院でした。
ですから現代でも日本有数の規模を誇る大寺院として存在しています。
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とは言え、この北鎌倉周辺には他にも先月紹介した円覚寺と言う鎌倉五山第二位の大寺院も在ったりして、北鎌倉を散歩していると少々感覚がマヒして他の大寺院が小さく見えてしまったりします(笑)。
円覚寺の記事はココ→
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天下禪林・・・つまり天下に名の轟いた学問所寺院と言う事です。
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これでも現代は開基(かいき=神社仏閣を造営する事。日本語で使う創建は漢字の意味の誤用)当時と比べて明治政府の宗教政策や、太平洋戦争敗戦後に規模が縮小しているんです。
信じられない位、昔は広大な境内地を有しており、更に寺領と呼ばれる御寺の収入源となる寺院の領地も昔は境内地と別に存在していました。まぁ、それは明治政府の宗教政策で没収され、そのせいで多くの御寺のみならず神社も荒廃した所が多かったんですが・・・
とりあえず、今回は建長寺と建長寺に関わった歴史偉人の紹介だけして行こうと思います。
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さて、略称建長寺の山号は巨福山(こふくさん)と言いますが、これは鎌倉幕府を開いた源頼朝公が鎌倉市街地防衛の為に築いた市街をスッポリ取り囲む丘陵城塞群の中の7つしかない入口の一つ、巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの近くに在ったからです。
現在の鶴岡八幡宮の西側を通る巨福呂坂は近代に成って開削された新しい道で、トンネル入口に有る石碑は歴史に疎(うと)い現代人が設置すべき場所を間違ってしまっている訳ですが、小生の様な歴史好事家(オタク)や建長寺や鶴岡八幡宮の鶴岡文庫や鎌倉国宝館の様な文化と歴史を守ってらっしゃる組織の職員サンの多くはこの事を知っています。
巨福呂坂切通し位置 久良岐のよし
現代では住宅街に埋もれている谷間の細い道が、本来の鎌倉防衛の要だった巨福呂坂切通しの跡です。
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さてさて、そんな鎌倉防衛拠点の手前に立つ関東最大で最高格の臨済宗寺院、建長寺は昔は鎌倉武士達の学問所としても機能していた訳ですが、この御寺を最初に造営した開基様が鎌倉幕府第五代執権の北条時頼公です。
そして、モンゴルによって滅亡した南宋国から亡命してきた四川省出身の名僧で日本武士に禅の精神と故国の情報を叩き込んだ蘭渓道隆和尚が開山(かいざん=初代住職)と成りました。
つまり、当時はモンゴルやモンゴルに服属している朝鮮人によって何時、侵略戦争を仕掛けられるか解らず日本は周辺国から危険に晒されていた状況でした。
ですから、鎌倉幕府を蘭渓道隆和尚が頼ってきたのも、故国の南宋王朝が如何(いか)にして滅亡したか日本に伝え備えさせる目的が少なからず有ったと推測出来る訳です。
そして、当然、武士達も蘭渓道隆和尚を師と仰ぎ、和尚が伝えた学問を取り入れ日本人としての武士の気概と禅の平静を保つ精神と中国渡来の兵法を融合させ、モンゴルの威を借りる朝鮮人とモンゴル人征服王朝の中国元朝の侵略に対して備えた訳です。
事実、この時期には朝鮮がモンゴルの名を挙げ日本を外交的に脅迫し始めていた時期でした。
・・・まぁ、今も昔も朝鮮半島の政府は古代からずっと隙有らば日本を侵略しようと何度も攻めて来たり日本を裏切って来た歴史が有るので彼らは鎌倉時代も通常営業、今と同じですね。
まぁ、日本は蘭渓道隆和尚の教えによって戦場でも冷静に敵と対峙した鎌倉武士達の準備の甲斐有って、元寇で朝鮮軍と江南水軍を2度に渡って日本の武士団が撃退します。
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この座禅を取り入れた精神修養は後に鎌倉文化や武士文化の形成に大きな影響を与えて行く事に成ります。
鎌倉時代以来~室町時代そして江戸時代に成るまでは、禅と言うのは武士の精神修養の嗜みとして武士文化に取り込まれ現代に残りました。
当時の武士達は例え信心する宗派が臨済宗でない武士も平素、参禅して修行に励んだ様です。
そして、建長寺では蘭渓道隆和尚の影響も有り、禅の他にも中国語も教養として学び武士達に易学や兵法を学ぶ場としても機能していました。
蘭渓道隆和尚については、以前、常楽寺の記事でも紹介したので興味の有る人は読んで見て下さい→
因(ちな)みに建長寺、“けんちん汁”の発祥地だったりします。
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写真の画像は建長寺の物とは違いますが、建長寺近くに在る“鎌倉五山”と言う和食屋さんで提供しているケンチン汁です。
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建長寺では参禅すると、本家本元の“けんちん汁”を食べさせて貰う事が出来ます。
まぁ、なかなか観光でしか普通の人は鎌倉に行く用事も無いので、北鎌倉駅周辺の和食屋サンで提供している店に入るのがデートや家族連れだったら無難でしょう。
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建長寺に話を戻しますと、多くの武士から崇敬を集め、その武士達の子弟が幼い頃に入門し学問と精神修養に励む場所であり、日本中の学僧が集まる場所でもあったので現代でも国宝や重要文化財の建物が多く現存しています。
そんな建長寺なので、鎌倉武士達のみならず戦国時代にも名将を輩出しています。
その名は太田道灌(どうかん)、江戸城や河越(川越)城を築城した名築城家であり戦っては無敗を誇った名軍師で、扇谷上杉家の執権(しっけん)でした。
太田道灌公
今の政権に例えると官房長官や幹事長みたいなもんです。
当時、日本を統治していたのが君主=天皇家。
その統治を代行していたのが征夷大将軍足利家。
足利家の政治を分業実行していたのが管領と関東管領。
その関東管領を務めた家が犬懸(いぬかけ)上杉家、宅間(たくま)上杉家、扇谷(おおぎがやつ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家の上杉家の筆頭4家。
その家、室町時代中盤~戦国時代に関東管領と務めたのが扇谷上杉家と山内上杉家。
その扇谷上杉家の軍事と政治を取り仕切っていたのが、この太田道灌公でした。
この太田道灌公は幼い時から非常に頭が良かったそうで、幼少期には大人も論戦で言い負かす事が度々有ったので、道灌公の父上の道真公が「この子、将来、人を見下す子に育たない様にしないと危ない」と感じて、建長寺に入門させて幼い時は建長寺で僧侶達から人としての道や学問を教わって育ったと言われています。
残念ながら建長寺も数度の戦火や火災に遭っており、建長寺で道灌公が具体的にどんな生活をしていたかは今の職員さん達も解らなく成っています。
戦国時代末期に成ると、扇谷上杉家も滅亡寸前、関東の覇者は小田原城を本拠地にする北条(伊勢)家に変わっていました。
戦国時代に関東で随一の学者文化人としても有名だった建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)和尚は、太田道灌公とも親交が有った人物なのですが、この玉隠英璵和尚と北条家の治世化で交流の有ったのが北条家相模十四騎筆頭の間宮家でした。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
横浜市南区に今も在る真言宗の名古刹で、弘法大師空海和尚所縁の弘明寺の江戸時代までの扁額は、間宮家が寄進した物でしたが、その扁額を揮毫(きごう=字を書く)したのが玉隠英璵和尚で、90歳の時の事と絵図が文献の挿絵で残っています。
まぁ、昔の禅宗は武士の嗜みだったので、他宗派の僧侶からも歓迎されていた様です。
徳川家と間宮家に所縁深い静岡市の華陽院も浄土宗ですが、家康公の祖母の戒名も“禅尼”となっていたりしますからね。
そんな建長寺と関わった間宮家からは有名な北条綱成公の副将として稀有な活躍をした間宮康俊公や、その孫で徳川家康公に重用されて佐渡奉行、但馬奉行として金山や銀山経営で他の代官より抜きん出た実績を残し更には大坂城総掘りと真田丸埋め立ての作戦を立案した間宮直元公を輩出しています。
つまり、建長寺は名軍師を生みだして来た御寺な訳です。
これは蘭渓道隆和尚や北条時頼公が後世に残したソフト面での偉大な功績でしょう。
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さて、そんな建長寺、ソフト面だけでなくハードも立派な事は冒頭で申し上げた通り。
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凄く立派な仏様が参拝客を出迎えて下さいます。DSC_2102
仏様も立派なのですが、天井の装飾も立派ですよね?
実はこの仏殿、元は江姫の御廟所だった建物で、江戸時代の徳川将軍家の菩提寺、芝の増上寺に在ったのを御夫君で二代将軍の徳川秀忠公から建長寺の建替えに際して移譲され移築された建物なんですね。
徳川秀忠公の奥さんの江姫と言うのは別名で御江与様、つまり織田信長公の姪っ子で、浅井長政公と信長公の妹の市姫様の娘さんに当たる人物でした。
元々霊廟だったので、少し普通の仏殿と違った造りに成っているそうです。
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仏殿の横には何故(なぜ)か梟(ふくろう)の置物が・・・。
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仏殿の奥には金ピカの門が在ります。
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これも徳川秀忠公の寄進した唐門で、龍王殿の入口に成っています。立派ですね。
黒と金のデザインが、江戸時代初期、安土桃山時代の文化の雰囲気がまだ残る色使いに成っていますね。
徳川政権の前、豊臣秀吉が北野天満宮や二条城の伏見城遺構や大坂城天守を見る限り黒と金の組み合わせを好んで使っていた様です。
さて、建長寺は他にも立派な建物が現存しますが、小生は特に紹介して置きたい場所が有ります。
それは建長寺の“守護神”の半蔵坊という“神社”です。
日本の文化は本来は神仏習合と言って神様も仏様も同じ様に大切にしたり、水が湧く場所聖地や霊場として大切にされた山も崇拝対象にしていました。
ですから、明治時代の神仏分離令までは御寺にも沢山神社が在って、御寺の中で神官が神事を行ったり、逆に神様に和尚様達が御経を読んで天下万民の安寧を祈願したりしていたんですね。
明治時代の神仏分離令で多くの神社の中の仏様や、御寺の中の神社の神様は撤去されてしまいましたが、臨済宗や曹洞宗や浄土宗や真言宗と言う武家文化と密接な宗派は神様を今でも大切にしている場所が多く有ります。
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半蔵坊へは少し判り難い上の写真の参道が建長寺境内の左側に在ります。
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そこを進んで行くと、御寺なのに立派な鳥居が見えてきます。
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半蔵坊は天狗(てんぐ)様を祀る建長寺の守護神なので、鳥居をくぐり御社を目指すと沢山の天狗様が御出迎えして下さいます。
天狗信仰は関東では古い文化で、延喜式内社の大山阿夫利神社も江戸時代には大天狗と小天狗も崇拝対象に成っていました。
源義経が鞍馬山で天狗に剣術を教わったのは有名な話ですね。
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さて、この半蔵坊、現代に凄い御利益を発揮した事で有名だったりします。
実は阪神淡路大震災の時に、この建長寺を参拝して半蔵坊の災難除けの御守り札を頂いて来た人達の家は、一軒も被害に遭わなかったそうです。
まぁ良い地盤の地域に御住まいの方が多かったのかも知れませんが、普段から古い習慣を大切にして、心に一本、神様仏様への信仰を持っている様な人だからこそ地震被害の多い埋め立て地を居所にしなかったりしたのかも知れませんが、こう言うのは信じて厄除けして頂いて、自分の心を安らかにする事が既に御利益なんだと思います。
そして、神様仏様の御利益が実際に授かれれば、それに謙虚に感謝して、日々生かされていると感じれたら良いのだと思います。
小生も自分の土地神様と仏様の厄除け祈願の御守り以外に、家の玄関には半蔵坊様の御札と氏神様の御札を掲げています。
お蔭様で、何とか無事に生きています。そして遊び友達みたい浅い関係ではない、日本の親友と国境を越えた親友にも恵まれています。
そんな訳で、建長寺守護神の半蔵坊大権現は災害除けの御利益が有るので、建長寺に参拝するならば一緒に是非参拝する事をお勧めしたい場所だったりします。
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ここからの眺望や良く、写真の日は生憎(あいにく)の曇天でしたが、晴れていると相模湾も一望出来る景勝地でもあります。
ただ、ここに御参りするには建長寺オリジナルの御朱印帳が必要です。
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御朱印授与の場所で売っているので、半蔵坊の御札も頂くならば、鎌倉五山や鎌倉の臨済宗寺院巡りの為にも購入すると丁度良いかも知れませんね!
小生は建長寺と半蔵坊の御朱印を頂いてから、鎌倉五山の御寺を順位の順番に再訪しました。
残念ながら、寿福寺の現御住職は昨年くらいから御高齢で御体が不自由になられた様で、御朱印の対応が困難だと奥様から伝えられ、再度御朱印をこの朱印帳に頂くには至っておりません。
寿福寺も由緒正しく、昔は歴代御住職様は猊下(げいか)と武士や僧侶から敬称で呼ばれた御寺なので、早く御住職様の体調が良くなり復帰される事を祈るばかりです。

さて、建長寺、立派で御寺でしょう?
半蔵坊からの眺めも良いので、北鎌倉散歩の際は是非、訪れて見て下さい!
・・・まぁ、円覚寺や東慶寺や浄智寺、明月院や長寿寺って他にも御参りして置きたい御寺が沢山有るのが北鎌倉なので、鎌倉江ノ島七福神の御朱印巡りがてら、数度に分けて鎌倉訪問して建長寺も浄智寺と一緒に訪れたり、明月院の紫陽花観賞と一緒に訪れるのも良いかも知れませんね!

さて今日はここまで!
今週末は台湾の友人夫婦の来訪が有り、水曜日はその事を休日雑記に書くかも知れません。
では、又、次の解説記事か休日雑記で御逢いしましょう!

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母の入院している国立ガン研究センター病院の目の前が築地市場なので、夜中に仕事終わって入浴してから、朝4時半に寝ずに家を出発し場外市場へ早朝散歩&朝食を食べに来た。
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公設市場は築地に限らず日本中で水曜日と日曜日は一般的に休みなので、最初から場外市場を散歩。
人もまばらだったが5時半位から御店もそれなりに開き始め、観光客も僅かに増え始めた。
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小生のお目当ては"つきじかんの"で早朝だけ特別に食べらる"目覚まし海鮮丼"だ。
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1000円で提供されていて、とてもお買得!CIMG1277
美味しかった。
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その後、築地山長の玉子焼きを購入に・・・
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(小)250円を購入。
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食べ歩きしながら波除稲荷神社へ御参りに・・・
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波除稲荷神社は小さいながらも名だたる築地の店店が氏子なだけあり儲かっ・・・活気が有り、社殿も立派。
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丁度酉の市で熊手を売っていた。
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江戸時代から観光名所だった稲荷社で、お歯黒した獅子の頭が有名な場所だ。
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徳川家綱公の時代に築地界隈の埋め立てが難行した際に海に光る稲荷様の御神体が発見されたので奉った所、波風は止み埋め立てが成功したそうで、以来、築地界隈の守神として地域の店屋や住人から崇敬を集めたそうだ。
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願掛けは御本殿と別に、この御獅子の中でも出来る。
小生は獅子頭と本殿とでちゃんと御賽銭を献じて両方御参りした。
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小さいけど良い神社。
そして変わった供養塔やスポンサーの石碑が沢山。
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さすが、吉野家一号店の在る築地らしい石碑。
それ以外にも寿司屋の多い築地の神社らしい変わった供養の石碑が沢山有った。
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海老塚(笑)。もしかして苗字が海老塚の人って、本当に海老塚の前に住んで居たんだろうか(笑)?
一しきり参拝し散歩もして満足すると一先ず病院の駐車場に戻った。
車で一時間半仮眠して母に面会。
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病院からの眺めは良く、築地市場や築地本願寺が目の前に見える。
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スカイツリーも。
母は睡眠薬が効いていて眠そうだったが元気だった。
子宮癌の手術後、腸の動きも回復しつつあるとの事で、重湯を午後からとる事が出来ると看護婦さんに説明されていた。
看護婦と言う仕事は本当に立派な仕事だと思う。
生産性の有る仕事では無いが、人の生き死にを毎日見て、色んな人間の不安と不平と不満を肌に感じ時には暴言も浴びせられる事だろう。仕事は不規則で、患者と関わってる看護婦自身が病むと思う。
精神的に健康で強い人、そして判断力と集中力の有る人じゃないと出来ない立派な仕事だ。
お医者様は技術屋だが、小生は看護婦さんの方が偉いと思う。でも自分が入院中に看護婦じゃなくて看護師さんに対応されたらあまり元気が出ないと思う(笑)。
冗談はさて置いて、看護婦さんと結婚する人は優しい旦那さんじゃないと可哀想だな、家の中で位、看護婦さんには楽させてあげたいよな。
母と1時間ちょっと一緒にいて、取りあえず元気だったので土曜日に又来ると伝えて昼食を食べる前に病院から築地市場の前を通って浜離宮恩賜公園に7年前後ぶりに行った。
途中、築地市場の壁に面白いプレートを見つけた。
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ビキニ環礁で被爆した船舶の話と・・・
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・・・なんと築地は松平定信公の屋敷地だったらしい。以前来た時は、こういったものに興味が無く気が付かなかった。ちゃんと見ないとダメだね。
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10分程歩いて浜離宮についた。
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これは完全に城だな!
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元々は将軍家の御鷹場だったのを、海辺の埋め立て拡張工事と甲府徳川家の下屋敷を造営する事を承認されて庭園の前身が出来た場所だったので、恐らくは平城として造営されたのだろうと推測した。
築山とされている土手が明らかに風化した土塁なんだな。
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更に堀の内側だけに土塁と思しき土手が在る。
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更に平地では喰い違い虎口状の土手が沢山・・・
帰り際に受付で職員さんから解説を受けたら、やはり、堀の横の土手は土塁で上には木戸やなんかが有ったそうだ。ついでに熱心に聞き入っていたら通常配布する物と別の資料も頂けたけれど公開しません(笑)。
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ただ、甲府藩下屋敷としての浜離宮は完成して間もなく明暦の大火に遭って屋敷地としての機能は失われたそうだ。
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現代では紅葉も美しい庭園。
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この庭園の草庵にはドイツ帝国のフリードリヒ皇太子やアメリカのグラント大統領が滞在した。
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記憶が確かならば以前はハワイのカラカウア国王も浜離宮に滞在されて、明治天皇陛下に日羽連合国構想を提案されたはずなのだが、浜離宮の説明にそれらしいものは見当たらなかった。
と、言うか、滞在された外国の要人の記録は一切、園内の説明看板には無かった。
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中島の御茶屋に移動
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上生菓子と御抹茶を頂いた。
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満足満足。
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続いて一しきり散策し、庭園内に在る稲生神社を御参りした。旧と成っているので御神体は遷宮されたのだろうか?不明。
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園内は江戸時代の鷹狩場、ついで鴨の狩猟場だったので、当時の施設がそのまま残っている。
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アホの犬公方、綱吉公(笑)によって生類憐みの令が発布されて鷹狩が禁止された後は下の写真のネットで捕まえる様に成った様だ。
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この法令は真に迷惑な物で、小生の住む横浜市の殿様だった間宮信繁公は鷹匠頭だったのだが、御子孫達は鷹匠の仕事からあぶれてしまったりした訳だ。
でも徳川吉宗公の時代に成って鷹匠は復活している。
久し振りの浜離宮の散歩はとても気持ちが良かった。
昼食にはまだ早かったので、まだ参詣した事の無い築地本願寺へ御参りに行って見た。
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もの凄い立派な近代建築だった!
最初の堂宇は江戸時代初期、徳川秀忠公の時代、准如上人によって大坂から移民した信徒等が動員され海を埋め立て造営された。
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度重なる火災や関東大震災の後、昭和初期に現在の重要文化財に指定されている近代建築に生まれ変わった。
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本当に綺麗だったよ。
中でこんなコーナーが有った。
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そう言えばHIDEの葬儀はここで行われたんだったね。
参拝を終えて、又、築地場外市場を散策。
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アイスクリームを購入。
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昼食で食べようと思っていたラーメン屋さんが午後は閉まってて、仕方がないから病院の喫茶店で昼食をとってから帰宅した。
母の調子も良さそうで心配が少なく成り、看病より観光に時間を使ってしまった(笑)
しかし母の御蔭で良い一日に成ったし、母も元気で良かった。

ふむ。満足な休日、そして母の容体に安心した日に成った。

野島稲荷神社
【御祭神】宇迦之御魂神=倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・・・伏見稲荷大社の御分霊。
【御利益】経済的な繁栄(弥生~古墳時代に於いては食料の豊穣の神、更に古代には清涼な飲み水の神)
【開基】西暦1227年、鎌倉時代に長島頼勝による勧進。※泥亀新田開発者の永島祐伯の祖先か?
【中興】紀州徳川家
【住所】横浜市金沢区野島町23
【アクセス】シーサイドライン野島公園駅~徒歩10分。京浜急行金沢八景駅~徒歩20分。有料駐車場有り。
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野島と言う、昔は島だった場所に野島稲荷神社と言う規模の余り大きくは無く目立たない稲荷社が在ります。
その場所、実は紀州徳川家初代藩主の徳川頼宜公が崇敬した神社なんですが・・・
「何で紀州徳川家と横浜が関係有るの?」
・・・と思う人がきっと多いと思います。
そこで神社の説明の前に、先ずは野島の説明からしようと思います。

京浜急行電鉄に金沢八景と言う駅が有りますが、この駅名が昔、金沢区に在った八ヶ所の景勝地に由来する事を知っている人は現代では余りいないかも知れません。
その場所は・・・
●小泉夜雨(こいずみやう)=小泉弁才天(現:手子神社)の周辺の埋め立て前の風景。金沢文庫駅辺り。
●称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)=称名寺の山を埋め立て前の海の公園辺りの海上から見た遠景。
●洲崎晴嵐(すざきせいらん)=現在の町屋町の龍華寺前に在る洲崎神社周辺の埋立前の景色。
●瀬戸秋月(せとしゅうげつ)=金沢八景駅前の瀬戸神社周辺の埋め立て前の景色。
●乙艫帰帆(おっともきはん)=現在の海の公園~洲崎辺りの埋め立て前の海から野島の乙艫町を見た風景。
●平潟落雁(ひらがたらくがん)=現在の野島周辺の宅地に在った湾の埋立前の風景。
●野島夕照(のじまゆうしょう)=野島の埋め立て前の風景。
●内川暮雪(うちかわぼせつ)=現在の内川橋周辺の埋立前の風景。
・・・歌川広重と言う江戸時代の著名な画家が、その景色を浮世絵にして販売した事で江戸市民にも大人気の旅行地と成りましたが、現在では昭和の埋め立て工事等で永遠に完全に消失してしまいました。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
上の画像は今の八景島辺りが海だった時代、そこから見た金沢称名寺の山の風景です。
この風景はもう、現代人は永久に見る事が出来ません。
過去の風景を知るには、過去の人が残してくれた資料からしか様子を知る事が出来ないんですね。悲しいけれど。
金沢八景を知りたければ、3箇所、その風景画を見られる場所が有ります。
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1つは八景島シーパラダイスに架かる連絡橋。
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その欄干に歌川広重の金沢八景を金属板に起こした物が展示されています。
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この展示はカラーでは無いので今一つ解らないかも知れませんが、絵の由来が説明されていて理解しやすいかと思います。
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2ヵ所目の金沢八景を見られる場所は、上の称名寺と下の金沢文庫博物館を繋ぐトンネルです。
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このトンネルの壁に、金沢八景の画の複製がはめ込まれています。
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※称名寺の記事は「ココ」←クリック!
このトンネルで見なくても、金沢文庫博物館に原本も所蔵されているので閲覧申請をすれば見られるかも知れませんが小生は試した事は有りません。
そして、詳しい情報が解る場所がもう1ヶ所あります。
そこが野島公園内に在る、初代総理大臣、伊藤博文公の別宅です。
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江戸時代の紀州徳川家の別荘地だった野島は、明治時代に伊藤博文公の別荘地でもあった訳ですが、この別宅の中に金沢八景を詳しく紹介した展示物が有ります。
※伊藤博文公の金沢別邸の記事は「ココ」←クリック!
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こんな感じ。八景島の橋の欄干のカラー版と言った所でしょうか?
因(ちな)みに、鎌倉時代~戦国時代にも金沢八景は景勝地として有名だったので、八景の一つ、洲崎の地に建つ龍華寺は兼好法師の別名で有名な吉田兼好、北条早雲こと伊勢盛時公や徳川家康公の宿泊地でもありました。
※龍華寺の記事は「ココ」←クリック!
ここまで読んで頂ければ、野島が如何に風光明媚な土地だったかが解るかと思います。
そんな訳で景勝地の一つだった野島に、徳川頼宜公が別荘を建てて風景を楽しんでいた訳ですが、その鬼門鎮護として紀州徳川家の崇敬を受けたのが野島の御稲荷様だった訳です。

この様な横浜市の景勝地は特に昭和期に多くが乱開発で消え失せました。
杉田梅林や、金沢の八景が最たる例です。
横浜市は現在の林文子市長を含め歴代に市長の中に、日本歴史文化や日本の風景を大切にしない土建屋や港湾関連の組織票を票田にしている人物が少なくありませんでした。つまり低文化で知識に欠け景色と歴史の重要性を理解出来ない風流を理解できない人達が歴代市長に居る訳ですね。
横浜市教育委員会を含めた横浜市職員は、当然ながら地方公務員なので市長によって人事権を掌握されているので、市長が無文化だったり反日的な人物だったりすると市長の意を組んで歴史遺産や景勝地や自然を土建屋に開発=破壊させての土建屋と政治家の建築利権を確保させてしまいます。
現在の林文子市長も、横浜市内で最大最後の自然植生の大森林で自然公園の円海山瀬上池~瀬上沢周辺を、東急グループに宅地開発させようと策動しています。現に、開発を擁護する発言をしてバッシングを受けているのは栄区民、磯子区民、港南区民、多くの神社や御寺の氏子檀家さん達の知る所です。
仮に開発されれば林文子市長や、与党の候補者は市民感情逆なでしヤリ玉に挙げられた上で、史跡と自然の破壊者として過去帳等に記録され後世に悪名を残す事に成るでしょう。

さて、そんな過去の景勝地野島に紀州徳川家と関連も有った野島稲荷神社が有る訳ですが、現在では参拝客も減ってしまい、本殿裏から野島の頂上に通じた道も通行止めに成ってしまったりしています。
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でも小生は、とても雰囲気の有るこの神社が好きです。
伊藤博文公の金沢別邸に抹茶を飲みに行くと、たまに野島の御稲荷さんにも足を延ばして散歩します。
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何だか、御狐様が巫女さんに化けて境内を箒(ほうき)で掃除してそうな雰囲気の有る神社なんですよ!
この本殿の裏に、小生の子供の頃まで登れた崖を削って作った小さな石段が有ったのですが、現在は通行禁止に成ってしまいました。
こうやって少しづつ寂れて、将来廃社に成ってしまうかもと思うと小生は凄く危機感を感じてしまいます。
現代人は神社や御寺で自分勝手に願掛けはするのに、昔の人の様に神仏に対して願いが叶った際の御礼参りと御布施すらしませんからね・・・。
そして学校教育には左派で日本文化迫害を好む教職者も多くいるようです。ですから、学校で歴史の話を語る時に絶対に御寺や神社の伝承や関わった人物なんて教えてもらえません。そうすると、自分の地元の神社仏閣が凄い歴史偉人と関わりが有ったり強い御利益が有ったり、古代の史跡の上に建っている事を知らずに育ってしまうので、反日的な教育を受けた某隣国系のヤクザが多く入り込んでいる土建屋と左派政治家の好き放題に日本の自然と史跡と宗教施設の旧境内地が破壊されて日本の風景がどんどん劣化して無機質な町が増えてしまい風流さも伝統の欠片も無いコンクリートだけの町に成ってしまうんですよ。

ですから皆さん、御近所の山や御寺や神社を是非散歩して見て下さい!
町中に残る山は平安時代~戦国時代の史跡で有る事が多いですし、神社仏閣は小さくても、鎌倉時代や戦国時代の英雄や御姫様と関わりが有る場所が沢山有ります。

この野島稲荷神社が、その典型的な例なので紹介して見ました。
町の中の小さな神様の御社や御地蔵様を見かけたら、心の中で声をお掛けして、手を合わせて見て下さい。

無論、神社仏閣だけでなく我々の住む横浜には幕末に英国によって建てられた山手聖公会教会等も横浜市の歴史の一部に成って行き、我々異国文化にも寛容な日本人に史跡/文化財として大切にされて行く事でしょう。

皆さん、町の中の御寺や神社や自然の湧水池や森や山を散歩してみませんか?
きっと其処は、過去の神様に成った縄文~弥生時代の偉人達や鎌倉武士や戦国武将と我々を繋ぐタイムマシーンに成ってくれるはずですから・・・
 

間宮家の顕彰活動と信奉する信長公所縁の土地巡りへ3泊4日の旅へ行って来た。
最近、ブログを更新出来なかったのは遠征の段取りと会う人達へのアポ取りをしていたから。
今回の休日雑記は28日の訪問先。重要な報告も有るので、それも別途記事にする。

東名高速が集中工事中だからね。交通量の少ない深夜に出て朝からの予定に合わせる計画でこうなった…
28日の深夜25時半に出発、途中、浜松SAで休憩。
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朝食に静岡オデン食べ、車にガソリンも補給。
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まぁ、普通だった。
六時半頃に豊田に到着。少し寄る場所が有り、豊田で用事を終えてから安城市へ移動。
予定通り朝9時に目的地の安城市歴史博物館へ到着。
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実はこの博物館は徳川家が松平姓時代の初期の本拠地だった安祥城址だったりする。
学芸員さんに予めアポをとっていたので、可成り親切に熱心に安祥松平家の簡単な歴史を解説して頂けた。
そして城址の切岸の説明や現在は埋め戻されている水掘りの幅等も案内しながら教えて頂けた。
何故、小生がここに来たかと言うと間宮家が❝伊勢家❞の❝与力❞で今川家臣だったと思われる時代に、伊勢家=北条家が主家今川家に援軍を送り安祥城を攻めた時に間宮家も参戦していた事が推測出来る家臣に発給した感状が有る。それを間宮家顕彰文に掲載する為に城址写真撮影と調べ物に来たのだ。
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まぁ、間宮家の為だけでなく、そもそも三河の徳川家の偉大さも理解しているし家康公や初代東照宮大宮司様自体が間宮家と血縁を結んだ方々だが、小生は建勲神=織田信長公や東照大権現=家康公も崇拝し尊敬しているし、北条家の殿様方と並び毎朝起きたら拝んでいるので、三河尾張巡りをするのは当たり前、いつかしなければいけない事だった。
個人的に三河尾張は御縁も有り、以前も史跡巡りをした際に御縁が出来た偉人の血縁者の御子孫にも御会いしたかった。
この歴史博物館は松平家初期の本拠地なので博物館の中には家康公の祖父で松平家の勢力拡大に成功した松平清康公の銅像が有ったりする。
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ここ安祥城址の本丸は現在の大乗寺。
当時、周辺は深田だった。現在も水田だが、水田の周辺に干拓されていない湖沼が広がっていたのだろう。
でも正直、松平家の本拠地とは認めたくない程小さな規模。しかし立地的に関東の忍城や伊勢原市の岡崎城の様に沼城で守りも堅固だったのだろう。沼掘りの場合、攻城側が塹壕掘って城に近づく事が出来ない。
松平清康公の時代には既に岡崎城に転居したそうだ。
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写真は大乗寺。山門が丁度、城の櫓みたいに見えてしまう(笑)。
今回の訪問で持った感想だが、三河地方で戦国期には存在していた浄土真宗の寺院は構造がハッキリ言って城のソレだった。浄土真宗では昔、過激な軍事組織として活動していた同門の寺院の事を御坊と言って軍事拠点にしていた時代が有ったので、その名残だろう。最初から戦う為の寺だったんだろう。
学芸員さんに個人的に御勧めの安城市周辺の城を聞いた際も、「御城ではないけれど~」と渡されたのも浄土真宗の寺院の見取り図だったが、どっからどう見ても城の縄張り図だった。
安祥城の出丸の方は八幡社に成っている。
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これが又、相当に立派な八幡社で、東京横浜では余りこの規模の八幡社が町中に有る事は無い。
富岡八幡宮の様に相当な御由緒でも有れば別だが、三河人の信仰心と言うか伝統を大切にする心意気が強いのだろうと思う。
宗派を問わず、その信仰心の強さから、一度所属する宗派が軍閥化すると三河一向一揆の様に強烈な戦火を引き起こす集団にも成るのだろう。
三河気質は親切で柔らかいが情熱的に熱い。隣の某都市とはだいぶ異なり地域の人々の温かさから観光客も楽しめる。
宿泊するならトヨタ自動車の御蔭で外部からの客を受け入れる事に成れている三河地方、安城周辺や豊田周辺、もしくは古くからの観光地である犬山市の温泉街が親切で良い。
そんな「愛知県もあそこ除けば親切で観光資源も沢山有るのになぁ~」なんて事を感じながら次の目的地に移動。
刈屋城址に行った。
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現代では刈谷市は刈❝谷❞の字で表記されるが昔は刈屋だったんだな。
刈屋城の元に成った水野家の城館から、雁(かり)が飛ぶ姿が良く見られたのだろうか?
地名由来は調べていないので解らない。
刈屋城址は大半が破壊されたものの、恐らく戦国時代には存在した二ノ丸と本丸を隔てる水掘りは今も立派に原型を留めている。
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現代の刈谷市民の皆さんは意識が高い様で、城址を当時のまま復元できる場所だけを現代に蘇らせようとしているようだ。
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良い試みだと思う。
詳細の解らない部分や図面の無い部分をコンクリートで想像して固めるのは❝破壊行為❞な訳だ。
名古屋城天主や大坂城天主や小田原城天主みたいな外観だけ真似したハチャメチャな鉄筋コンクリートビルでは無く、解らない物や当時のまま同じ材料や同じ設計で復元できない場所は遺構をそのまま展示する方が史跡保護に成る。
愛知県で言えば名古屋城天守閣は汚点でしかない。もっと酷いのは全く史実と関係の無い小牧山城天守だろう。
でも刈谷市の試みや、安城市の安祥城の保護の仕方は本当に素晴らしい。擁護すると小牧市の現在の城址発掘保護の方法も素晴らしい。小牧山に邪魔なビルが建っているのは昔の無学な成金が自己満足で関係無いものを悪意無く作って破壊した結果なので、あの小牧山城天守は早く撤去して、あそこに信長公や吉乃様(仮称)が夫婦で暮らした御台所や御殿を発掘しガラス張りで浸食されないようにして公開し、麓に立派な博物館でも作った方が良いだろう。
発掘調査に基づいて公開していこうと言う小牧市の現在の取り組みや、刈谷市の計画は素晴らしい。
刈屋城址の中の❝十朋亭❞の中には、訪れて是非見て欲しい物が有る…
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江戸時代の刈屋城の縄張り復元模型だ。
そんなに大きい物ではないが、元々の城だった本丸周辺に、後から三河流の平地に水掘りを引き込んで細長い帯曲輪を巡らせる独特の築城術を見る事が出来る。
この構造は後の江戸期の河越城に追加された田曲輪や外曲輪等の築城術に繋がって行く。
徳川家と縁の深い水野家の城らしい構造が、この模型を見て貰えば理解出来る。
安祥城と同じく、戦国時代に突入して間もない頃の尾張三河の城は小城ばかりだったのだろう。これは大名の家臣達が自前で城を築城していた統治の問題だろう。
城を家=国単位で築城する財源捻出方法にした信長公の手腕はやはり素晴らしい。
清州城改修や小牧山城築城が出来てやっと関東の先に戦国時代に突入した大名達の築城規模に近づいている。

この日は翌日の行動地域を前提に名古屋市中区で宿泊を決めていたので、今川義元公が桶狭間合戦時に辿(たど)った進路に沿って(自分の推定)で熱田神宮を最終目標地点に名古屋へ行く事にして事前にアポどりをし準備をしてあった。
そんな訳で安城市や刈谷市を後しして義元公の足取りを辿り、ついでに信長公と家康公の関わった場所を巡って行った。
最初に来たのが沓掛城址。
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沓掛城址を目指すには慈光寺と言う御寺を目標にすると良い。
ここは桶狭間合戦後に沓掛城址と成った梁田政綱公の家臣が城址の一角に築いた浄土宗の寺院。
御朱印も頂ける。
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境内の広さは現代では町中の御寺より少し広い位。
御寺の家人もとても柔らかく三河地方の方らしく親切に御参りに来ただけなのに「城址は裏手に有りますよ~」「とか今川義元が桶狭間前日に宿泊したんですよ~」とか説明して下さった。…知ってる情報だけど親切心が嬉しい。
御寺が城域で曲輪だった事は裏手の城址公園に行くと良く解る。
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屈曲した人工的な空堀地形が御寺と城址公園の間に在るからね、御寺も曲輪の一部だった事が一目瞭然。
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簡単な説明文も有るので、訪れた際に読んで見ると歴史に興味無くてもここの意味が解る。
時代が大きく変わる切っ掛けの前日、ここに今川義元公が宿泊していたのだ。
ここに宿泊し、翌日に織田領の残る内陸の大高緑地では無く海沿いの今川領大高城を目指した結果が翌日の歴史転換地点に繋がった訳だ。
つまり、歴史が変わる契機に成った場所がここな訳だ。
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城址公園としては小さいが、上の写真の本丸と思しき一段高所の前にも内堀が残っていたりする。
今川義元公存命中の尾張三河の城は大半が、この規模だったんだろう。
堀の幅は広くても5m 位だろうか。堀底から土塁まで比高7m位有ったか無かったか。
まぁ、現在の城址公園を一回り広くしたくらいの範囲が当時の城域なんだと思う。
正直、同時代の関東の城に比べて工夫も少ない。
やはり築城術を飛躍的に進歩させた信長公は偉大だと思う。

今川義元公はここ、沓掛を出発し、現代では決戦地は狭間古戦場と言われる場所は幾つか有り、桶狭間病院と高徳院の辺りにて合戦が発生したとする学者もいる様だ…
もっとも小生の意見は現地を廻っているので文字しか読まないガクシャ先生とは少々異なり、更に地域の方々の伝承に近い。つまり、主戦場と呼ばれる場所は無く、移動しながら戦っていたはずだと思う。
石碑の名前は桶狭間古戦場。高徳院や桶狭間病院の目の前。
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伝承では今川義元は休憩中に襲われたと言う事に成っている。
その場所が高徳院だとする説を唱える学者がいるが、小生は周辺の戦場と名の付かない宗教史跡も回るタイプなので高徳院前が主戦場説は違うと言う感想を持った場所に行けた。
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ここ高徳院前も戦場だったと思う。
ただし戦場は戦場でも、今川義元公は別の休息地で襲撃され、更に近習が身を盾にして討ち取られつつ御本人は後退し、現在の桶狭間古戦場公園当たりで討ち取られ、今川本隊の後続は細い街道と谷間で前線に出れないまま後退し続け、この高徳院辺りまで追撃戦で追い上げられて戻って来たんじゃないかと推測している。
では今川義元公が最初に織田信長公本隊2000に強襲された場所はどこか、そして在所を捕捉されたのは何処かと言うと古戦場以外に神社も回るとヒントがまんま隠されている。
桶狭間公園と言う緑地辺りには桶狭間神明社と言う神社が在る。ここの背後の山に行くと、桶狭間合戦当時の雰囲気がどんなもんだったか良く解るのだが…
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当時はこの参道みたいな山林に囲まれた、敵側に行軍を捕捉され難(にく)い間道が大高緑地に沢山有ったんだろう。
そこを織田軍は進んだと思う。メジャーな街道を通ってはいないだろう。そして現在その道は廃道に成って残っていないのだろう。
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今川軍はこの桶狭間神明社を高徳院の次の休息地に定めていた筈(はず)だ。
沓掛城→高徳院→桶狭間神明社→大高城と入る予定だったんだろう。
その証拠がコレ…
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この桶狭間合戦時に、ここで武運長久を祈願した瀬名氏俊公は今川一族なのだが、この合戦当日先発隊だったのは今川義元の休息場所を設営する任務に当たっていたからだそうだ。
恐らく、この神社に来たのも、ここを義元公の小休止の場所に定め休憩の用意を整えたからだろう。
そして、自身は次の義元公休息地で当日の目標地点で有る大高城に移動したんではないだろうか。
高徳院も沓掛城から3km程の距離に在り休息地だった筈だ。昔の城はだいたい3~5km毎に1つ築かれているので、丁度高徳院の位置は沓掛城から次に立ち寄りに相応しい距離だ。
しかし、この桶狭間神明社は高徳院から1.5kmしか離れていない。しかし、ここは正に大高城に向かう途中に在る神社なので武運長久祈願を兼ねて立ち寄った可能性は有る。
丁度、義元公が立ち寄るタイミングに成る頃、織田家は千秋季忠公と佐々政次公が今川家を陽動する様に無茶な出撃をしたのも、義元公の休憩を長引かせる為だったのかも知れない。
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この瀬名氏俊公の行動を織田軍はずっと捕捉していたのだと思う。
そして、ここに今川家本隊の前衛や義元公がぞくぞくと先着し、義元公は神明社で祈願をはじめたか休息中に周辺住民からの進物を近習に報告されていた最中、善照寺砦から出撃した信長公が街道では無く山伝いに突如林道から襲来し、桶狭間神明社で参拝中の義元公は戦闘態勢も整えられず引くしかなかったんじゃないか…
と、個人的に推測している。
…そうすれば高徳院・桶狭間古戦場公園・桶狭間公園の三ヵ所で戦闘が起きたと伝承が残る事にも整合性が有る。
さて…
先に述べた通り義元公は大高城に入ろうとしたのだが、ここで休憩なり参拝なりして待機しなければいけない事情が有った。
善照寺に信長公が到着するのと前後して、熱田神宮大宮司で信長公に与力する千秋季忠公と佐々政次公の軍勢が大高城を攻撃したからだ。
この千秋・佐々隊の作戦を小生は❝陽動❞と❝足止め❞だったはずだ。
揺動の相手は今川軍の本隊以外の諸隊。目的は注意を引く或いは、千秋・佐々隊が大高城を攻撃する事で今川諸隊に大高城を救援させ織田信長公の本隊2,000が今川本隊を急襲する行軍が目に届かない場所に陽動する事。
かくして岡部元信の陽動に成功した筈だ。
千秋・佐々隊の陽動に引っかかった岡部は鳴海城を打って出て、大高城の救援に行く。
信長公は指揮官不在と成った鳴海城の真ん前を迅速に通過し林道を伝って桶狭間神明社を急襲したはず…。
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写真は丸根砦。本当に丸い尾根に築かれた小さな砦。
徳川家康公は当時、名を松平元康と名乗り今川家臣だった。この桶狭間合戦の前哨戦で松平元康公は丸根砦の前を通過し、大高城へ兵糧の搬入に成功している。その際、丸根砦に放火、囮部隊で攻めかかり、その隙に兵糧を見事運び込んだそうだ。
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※鷲津砦。
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鷲津砦は若干の堀切等も現存している。
実は、大高城に行くには今川家は織田方の丸根砦と鷲津砦の目の前、大高道を通らなければいけなかった。
今川方の大高城~織田方の鷲津砦は直線距離で600m、大高城~丸根砦も800mしか離れていない。
ここを落とさないと当然、今川義元公本隊は大高城に入れない。無視すれば背後から攻撃されるから。
そんな訳で、義元公が沓掛城に宿泊したり高徳院で休憩したのは、この2つの砦を陥落させながら安全が確保されたのを確認しながら進んだからだろう。
丸根砦は大高城を救援した松平元康公によって攻落され、鷲津砦は今川家随一の名将朝比奈泰朝公によって落城させられ、沓掛城を出立した当日の今川本隊の行軍の安全は事前に確保されていた。
桶狭間神明社が休憩場所に成っていたならば、千秋・佐々隊の陽動にかかった大高城の松平隊と鳴海城の岡部隊が千秋・佐々隊を掃討するのを待って今川家本隊は待機、戦勝祈願していたからだろう。
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大高城址公園
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土塁は撤去されていて、正直、城址公園としては物足りない。
規模も織田家の勢力拡大期の城で、正直、縄張り構造も未発達で規模もそれほど大きくは無い。沓掛城よりは大きい。
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曲輪跡の削平地は、そこかしこに残る。
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城址公園の遊歩道は、恐らく最近作られた道。
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凄く広い削平地が有ったので、恐らくここが本丸だろう。
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その奥に神社が在る。
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小生の郷里神奈川県の鶴岡八幡宮から勧進した御分霊を祀っているそうだ。つまり八幡社だ。
この神社の辺りには、城址らしい施設が残っていた。
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この細い道の左右の雑木林は空堀。つまり、この道は曲輪と曲輪を繋ぐ土橋。
秋の終わり位、雑木林が枯れた頃に来れば見応えが有りそうだ。
大高城の見学を終えて、鷲津砦の説明看板が腐食により解読不能だったので資料を貰いに名古屋市緑区役所の生涯学習課を訪れた。
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資料としては簡単な説明程度の物しか無かったが、緑区内の史跡観光案内のパンフレットを頂けたので収穫に成った。
ここを発つ時、既に16時に成っていた。この後、熱田神宮へ向かう予定だったので少々時間的に余裕が無く正直焦ったがナビでは30分とかからないはずだったので落ち着いて運転は出来た。
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熱田神宮東側大鳥居。
10年近く前にも来たのだが、その時は余り神社仏閣城址に関心は深くなく勉強もしていなかったので「大きい神社だなぁ~」程度の感想しか無かったが、今回改めて訪問して見ると第二次世界大戦での焼失後に明治神宮を意識した再建計画をしているのが良く解る。
木地のままの鳥居、広大な森林。自然崇拝を意識した境内。
しかしながら戦国時代当時の熱田神宮は、現在の様式の境内ではなく、恐らく三嶋大社や津島神社や石清水八幡宮の様に絢爛豪華な社殿が立ち並ぶ神社だった筈だ。
明らかに明治時代に成立した国家神道の影響が見える。
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とは言え、この境内の森林は神聖な雰囲気を醸し出し良い。だから熱田神宮と同じ造営設計の明治神宮が小生は好きなんだな。
ここに来たら皆にも是非食べて貰いたい料理が有る。
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熱田神宮の中には❝きし麺❞の専門店が有るのだが、1杯600円前後と安い上に名古屋駅の高い店で食べるよりよっぽど美味しい。
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遅い昼食に❝宮きし麺❞を注文して食べた。10年位前に来た時もこれを食べたので、今回は来る前から食べると決めていた。
先程、緑区役所で出発時に焦っていた理由は、実はこの店が16時30分閉店で間に合うか微妙だったからだ。
運よく、丁度16時29分位に店に到着し注文する事が出来た。
急いで食べて、参拝再開。
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参道には以前は無かった熱田神宮の各時代の説明看板が出来ていて、これが簡素ながら解り易くとても良かった。
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この参道を過ぎて社殿の在る領域に入る手前に上の壁が有る。
これが織田信長公が桶狭間合戦の戦勝祈願を、熱田の神に成就させて頂いた御礼に奉納した築地塀だ。
この塀が社殿の有る領域を取り囲んでいる。
信長公は神仏に対する信心がとても強かった方で、古典礼儀にも精通した人物だった事を知らない人も多い。
酷いと小説家や学者ですら信長公が信仰心が強かった事を良く知らないまま無宗教とかアホな事を言っている事が有る。バカだな。
信長公程、天皇家に対する忠義深く、天皇の住まう御所や伊勢神宮の復興に大金を投入して力を尽くしてる事は他大名に例を見ない。神社だけでなく寺院も多く再建している。
大坂の本願寺や伊勢長島願証寺や比叡山が信長公に攻落されたのは、彼等僧侶自身が武装化し町を襲ったり守護を襲うテロ組織化していたからで滅ぼされて当たり前の事をしていただけだ。その証拠に信長公以前に六角定頼公や北畠晴具公もそれぞれ武装した宗教集団を攻撃した歴史が有る。
ついでに言えば熱田神宮の大宮司千秋家も武装した武士?豪族?だったので織田家を支持して今川家と戦った訳だ。
当時の宗教観は現代とは全く違い、武士との違いは支配権を明示する大義名分が宗教集団には無かった事くらいだろうか。
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社殿も改めて見るとやはり、明治神宮にソックリ。色的には地味。でもこれが本来の神社。
朱塗りで派手に成るのは仏教建築の影響を受けた飛鳥時代以降の事。
更に造形が細かく色彩鮮やかに成るのは信長公が安土城を築いた頃のから。俗に言う安土桃山文化建築だな。
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小生は神社の社殿が有るなら赤くて綺麗な方が好き。でも境内の雰囲気は熱田さんや明治神宮の様な感じが好き。
でも社殿も何も無い縄文文化を受け継いだ有賀神社奥宮みたいな本来の自然崇拝も好き。
熱田神宮は信長公や源頼朝公と深い御縁が有るので参拝出来て良かった。
参拝を終えて名古屋城近くの錦と言う地区の有名なビジネスホテルに移動した。東〇インね。
19時頃にホテルついたら40時間位寝てなかったんで1時間くらい意識が飛んだ。
夜23時位…ホテル近くの焼鳥屋で一人夕食。
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名古屋飯旨いわ~。

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八丁味噌ベースの串カツ最高!
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八丁味噌ベースの土手煮も美味かった。
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焼き鳥も焼きそばも美味しかった。
翌日は友人と合流し津島大社や蟹江辺りの味醂造蔵本見学予定。


まぁ~、小生の率直な初日の感想を言えば…
「愛知県が観光したくない県ワーストワン」に選ばれてしまったのは100%新幹線の停車駅のある名古屋市街地のありとあらゆるサービス業の接客の悪さと、名古屋から周辺都市の観光地への交通の不便さのせいだ。
名古屋の中心街には熱田神宮と名古屋城位しか観光でメイン張れる物が無い。それ以外はどの大都市に行っても有るものばかり。
周辺の自治体の観光資源を殺す鉄道網の弱さ。東西を結ぶ線の欠如からくる連携の弱さと、バスの異常な少なさが問題だろう。例えば桶狭間合戦の史跡巡りを周遊するバスでもあって緑区周辺の豊明市~刈谷市なんかを一日乗り放題で順繰り観光出来たら、名古屋だけでなく豊明市側の沓掛城址や刈谷市側も廻れて協力地域で潤うだろうし観光客も増えるだろう。戦国ファンとしては名古屋市中心部よりそっちの方が楽しい。
そして車が無いと観光出来ない状態であること自体がダメ。
翌日、翌々日と回った犬山市・江南市・小牧市・蟹江町・あま市・愛西市・稲沢市・津島市・一宮市には名古屋以上に見て楽しい場所が多いし、町の人も接客する店員もどこに行っても笑顔で親切だ。
…名古屋の中心街だけはどこにいっても仏頂面のホテル店員と料理店の店員とコンビニ店員だらけ。ダメこれ。
それに反比例して翌日宿泊した木曽川沿いの旅館なんて、嘗てない程親切でビックリした。 
津島市の人も暖かかったし、とてもフレンドリーだった。

あれだな、名古屋の感じって東京都23区に住んでる江戸っ子じゃない他地域から移住して来た人達のソレに似てる気がする。名古屋で働いてる人も名古屋人じゃなくて警戒心ばっかりで生きてるんだろうか?
それと、今回名古屋に車で行って人生で初めてカーナビで「車両荒らし多発地域です」とか「盗難多発地域です」ってナビを連発された。完全に山口組のせいだろ。 
そりゃ、そんなに治安悪いなら印象も悪くなるほど警戒して生きていくしかないよね。これは名古屋のヤクザのせいだろう。名古屋市長、暫くフィリピンのドルテ大統領 に成って貰ってヤクザ組織を何とかして貰ったら良くなるんじゃないだろうか(笑)。
名古屋の中心街に行くまで凄く印象が良かった愛知旅の初日でした。

あ、名古屋市緑区の人達は親切だったよ。きっと地元で生まれ育って、豊かな自然環境で生活してるから心にも余裕が有るんだろうね。多分、本来の名古屋人てのは緑区の人達みたいので、小生が「おい」と思った接客業の連中は名古屋市街に他地域から移住して来て警戒心満載で生活して客にまで警戒心丸出しなんだろうね。凄くツンケンした感じ。

ま~、名古屋中心街の接客以外は、初日の愛知県東部旅は大変満足、旅行で行きたくない県No1どころか小生の中では愛知良い所って印象の初日でした。

東京都江東区に越中島と言う土地が在ります。
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上の写真がヒントかな?独力の成果ではないので一応ヒント代わりに御礼を…
江東図書館の司書様、個人名を出すのは控えますがありがとうございました!又、間宮家顕彰文に書き加える資料が見つかったのは、貴方の御蔭です。

さて、この越中島の土地は横浜市民には少々関係の有る土地である事を知る人は、今ではほとんどいません。
この越中島は、榊原照清と言う江戸時代初期の殿様の御屋敷が有った場所なのですが…
隅田川河口の守りを担う位置に江戸幕府より屋敷地を与えられて居住したのが❝榊原照清公で、その官途が越中の守だった事が現在の越中島の地名の由来”に成りました。
まぁ~郷土史だけ読んでも、照清公の御名前は出て来ないので郷土史家でも余り知らないでしょう。
ソースも意地悪で示さない小生(笑)。
越中島周辺
その屋敷地の所在地、元々の❝越中島❞と呼ばれた島は現在のヤマタネ株式会社の倉庫の所在地辺りです。
では何故、この越中島が横浜と所縁が深いかと言うと、それもやはり榊原照清公の御縁です。
実は、この照清公、母君が横浜の磯子区杉田出身の元北条家臣で徳川家康公の直臣にして鷹匠頭を務めた間宮家の分家杉田間宮家当主の間宮信繁公の御息女でした。
つまり、榊原照清公は横浜の間宮家の血を引いていた訳です。そして間宮信繁公の御姫様、つまり照清公の母上様が晩年住んでいた場所も、この越中島の御屋敷だったと成る訳ですね。
そして、何故、この場所が江戸幕府によって榊原越中守に当てがわれたかも、母上の家系、間宮家の家系を知っていると説明がつくわけです。
先に少し触れましたが、この越中島は江戸時代当時の江戸の大外堀りの役割を成した隅田川の河口に位置しています。
江戸時代の地図と現在の衛星写真を見比べてみましょう。
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現在では埋め立てが進み大分様子が異なりますが、下の江戸時代の地形図面の左下の四角い島が元々の越中島です。
正に江戸の海防を担う当時の❝台場❞の一つだった事が解りますね?
実は榊原照清公の母上の御実家の間宮家は❝築城技術❞❝鷹の飼育❞❝外交儀礼❞❝水軍❞に精通した武家でした。水軍に精通した家系であった事から、この位置に間宮家のノウハウを得れる照清公が住まされたと容易に推測が出来るんですね。
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現在、昔の越中島に当たる場所にはヤマタネと言う企業が在ります。そこに掛かる橋の名前が❝練兵衛(れんべえ)橋❞なのですが、幕末、ここ越中島が砲兵の練兵場として使用されていた事が橋の名前として残った訳です。
つまり、幕末には砲兵の訓練をする場所であり江戸を守る台場としても機能していた訳ですね。
そんな要衝に居住した間宮の血を引く榊原照清公ですが…
間宮一族からは合戦や鶴岡八幡宮の再建、築城で活躍した内政と武勇に秀でた玉縄北条家の付家老を務めた間宮康俊公…
武田信玄や徳川家康公の水軍大将を務めた間宮信高公、この信高公は間宮康俊公の系図上の御子息です…
北条氏照公の家老を務め、北条家の外交官として織田信長公への使者を務めたり日本100名城の一つ八王子城の縄張り(設計)をした間宮綱信公、間宮康俊公の弟…
そして、榊原照清公の祖父に当たり北条家臣を経て徳川家康公の直臣として鷹匠頭を包めた間宮信繁公、間宮康俊公のハトコ等がいらっしゃいます。杉田間宮家も又、初代間宮信次公が水軍を率いて活躍された武将です。
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ヤマタネと交差する橋は巽橋、更に近所には隅田川に掛かる永代橋があります。

照清公の榊原家そのものの血筋も凄く、御父君の叔父が徳川四天王と呼ばれた榊原康政公でした。
榊原康政公の兄上の榊原清政公が照清公の祖父に当たります。
この榊原清政公は、徳川家康公の御長男の徳川信康公に御仕えしていたのですが、その徳川信康公が織田信長公の敵である武田家に内通した容疑で切腹させられた際に、連座して責任を取らされて榊原家の惣領は後に徳川四天王と呼ばれた榊原康政公に移った訳です。
間宮の血を引く榊原照清公、その御父君で間宮信繁公の姫君を娶った人物は榊原照久公です。
以上の説明で、この越中島が横浜市とも殿様の御縁で繋がっている事は御理解頂けたでしょうか?
この江戸時代重要な場所だった越中島には現在、津波対策の水門と公園が整備されています。
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大島側水門です。
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越中島と永代通りを隔てる水掘りは現在では大島川と呼ばれているんですね。
後で説明しますが、これらの水掘りが江戸時代~昭和初期まで運河として活用されたので、この付近には昔からの商家が多く存在します。
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現在の越中島公園
満潮時には遊歩道まで海水に浸かるようですね、これは確かに水門を作らないと心配な地形です。
でも河口側は風景が綺麗な場所でしょう?
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屋形船も多く見られます。
そして、旧江戸の中心側を見ると…
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現在では高層ビルと美しい吊り橋の風景を見る事が出来ます。
川がこれだけ何本も集まる河口だったので軍事にも物流にも重要な場所だった訳です。
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現在では水運は余り利用されなく成り、隅田川にも多くの橋がかけられました。
さて、この越中島周辺は水運の拠点だったので、多くの商家の蔵屋敷が立ち並ぶ場所でした。
その名残を見る事が出来る場所が、越中島公園から徒歩5分の場所にあります。
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徳壽神社と言う名前の御稲荷様です。
実はこの神社の縁起(えんぎ=由来)その物がネタバレなので、先に史跡としての痕跡を紹介しますと…
この徳壽神社、実はですね、鰹節のメーカーとして現代でも有名な❝にんべん❞の発祥地に建てられた神社なんです。
ですから周辺には屋号や企業名のある自宅兼事務所みたいな建物だらけで蔵町の跡が残っているんでしょうね。
そして、この徳壽神社の縁起ですが…
江戸時代、稲荷大明神の御神像がこの付近で隅田川から引き上げられた際に、❝にんべん❞の境内に神社を建て祀ったのが、この徳壽神社の始まりでした。
つまり元々は、にんべん社や周辺の商家の守り神としてスタートしている訳です。
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思いがけない場所に、沢山の歴史が詰まってるでしょう?
これだから歴史訪問と神社仏閣の参拝や城址や史跡訪問は発見だらけで楽しいんですよ♪

きっと皆さんの御近所の神社にも、思いがけない歴史が詰まっていたり、歴史上の人物との繋がりが有るかも知れませんよ~?
ですから、御近所の御城跡や神社仏閣、里山を散歩して見ませんか?
…と言う、一、歴史オタクからの御誘いを以て今日の〆とさせて頂きます。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

早速ですが、横浜市中区の元原財閥私邸を公開している、桜と紅葉の名所、横浜三渓園の桜の夜間ライトアップが3月26日~4月3日の期間行われています。
横浜三渓園は❝神奈川の景勝地50選❞の一つにも選ばれている風光明媚な名園です。
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横浜三渓園のアクセス等に関しては最後に公式ホームページのリンクと一緒に掲載します。
昨日2016年03月30日現在の上京は、各樹の株によって全く開花状況は異なりは3~7分咲き程度とばらつきが有りますが既に添付写真の様に十分綺麗でした。

横浜三渓園その物については以前に紹介記事も書いていますが、明治時代に成り仏教が弾圧されたり伊勢系統の神様では無い神仏習合の天神様(菅原道真公)や御稲荷さんが粗末に扱われた時代に、それらの多くの文化財建築の寺院や御社群を、当時の原財閥の当主だった原三渓サンが自宅(広大な現在の三渓園は元は原家の私邸)の敷地に引き取り保護したので、この園内には恐ろしい程貴重な日本建築遺産群、宗教遺産群が現存しています。
中でも圧巻なのが聖武天皇の勅願所だった京都灯明寺廃寺の旧本堂や三重塔、それと後醍醐天皇の皇女用堂尼様や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務められた鎌倉の縁切り寺こと尼寺の東慶寺旧仏殿です。
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写真は昨日撮影した桜と一緒に照らし出される旧灯明寺三重塔

綺麗でしょ?
他にも豊臣秀吉や徳川家康公が居城した京都伏見の旧伏見城の茶室やら…
織田信長公の御実弟で茶人として有名でもあり、東京の有楽町の地名の由来に成った織田有楽斎が建てた茶室、紀州徳川家の紀ノ川河畔に在った別荘も三渓園に保護され現存しています。
三渓園の歴史なんかに御興味有る方は、以下のリンクから過去に書いた解説記事を御覧下さい。
三渓園の紅葉と重要文化財群…原財閥の邸宅公園。…横濱市中区
2014年12月04日 今年の三渓園の紅葉写真。
2015/04/04(土)三渓園の桜、散らずに満開です!

三渓園は桜そのものも綺麗なので、是非!横浜に来られる機会が有れば皆さん見にいらして下さい!
無論、市民も。
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週末には更に綺麗にピンクに色着いた桜が池に映りこんで、神秘的な風景になりますよ~♪
今だけ、池のほとりの茶屋で期間限定の❝桜餡の御団子❞も食べれます。
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美味しですよ♪
因(ちな)みに小生が昨日食べたのは、左から大根おろし・海苔醤油・桜餡
池の横の茶屋では❝三景椀❞と言う、❝三種類の味が楽しめる手打ち蕎麦❞も提供していて、これが又、絶品です。
又、奥の旧灯明寺本堂の方に在る❝待春軒❞と言う茶屋は、目の前が桜の林で、外の席で桜を見ながら御茶菓子と抹茶を頂く事も出来ます。
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今はまだ、葉桜も目立つけれど、きっと週末にはきれいです。
小生、又、週末に写真撮影に行きます。
皆さんも、昼遅めに行って文化財建築群を観覧し、陽が落ちるまで茶屋で御団子食べて、夕方から夜桜を楽しんでみませんか?
ただし!
毎年いるのですが、垣根で進入禁止と解る芝生にレジャーシート敷いて酒盛りするような日本の恥晒しなDQNは来るな。
てか帰れ!

以下、公式ホームページリンクと交通アクセスと連絡先
【電車】
JR根岸線、みなと未来線、横浜市営地下鉄の根岸駅・元町中華街駅からバス。
三渓園様公式拝借 アクセス電車 久良岐のよし
【車】
駐車場は有りますが、夜間ライトアップ開催中は1時間以上普通に待つので、入る前に閉園してしまう恐れが有ります。電車とバス移動が無難です。
三渓園様公式拝借 アクセス 久良岐のよし
【横浜 三渓園】←ここクリックで公式にリンク!


ではでは!皆さん、三渓園で御会いしましょう♪

横浜市には神奈川屈指、いやいや日本規模でも聖地(パワースポット)に挙(あ)げられる熊野社(くまのしゃ)が在るのを御存知の方は少ないと思います。
その名も師岡熊野神社(もろおかくまのじんじゃ)と言います。
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昨今、自作自演の詐欺紛いの偽パワースポットを捏造する新しい神社仏閣も多いですが、ここは光孝天王の勅願所だった由緒正しい熊野社です。
天皇家の勅願所(ちょくがんじょ)と言うのは、天皇自らが祈願する国の安寧や何某(なにがし)かの重要な御祈りを、その神社仏閣の宮司様や和尚様が天皇陛下に代わって神様や仏様に御願いする場所の事です。
つまり、この師岡熊野神社は古くは光孝天王の時代から、天皇家が祈願を依頼した霊験あらたかな場所と言う訳です。
境内には古代からの自然湧水のパワースポットも現存し、その聖地としての存在価値は光孝天王以来歴代天皇の勅願所だった事が示しています。
聖地や施設の説明は後回しにして…
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熊野社と言ったのは敢えてそう言いましたが、昔の人は神様ごとに神社の種類をちゃんと分けて呼んでいたので敢えて、昔の人の風習に従って熊野社と言ってみました。
神社を何でもかんでも一色単にして❝神社❞と言う様に成ったのは、たかだか150年ちょい前、国家神道と言う新しい神道を管理統合する為の宗教観が出来てからの話なので、本来、全ての神社はそれぞれの系統に従って区別された名前で呼ばれる方が相応しい訳ですね。
例えば…
●熊野社
熊野社なら水神様の御霊を御祀(まつ)りする御社(おやしろ)で、滝や自然湧水の聖地そのものが御神体であったり境内の聖地の場合が本来の形です。別名で十二所神社と呼ばれる場合も有ります。
正に、この師岡熊野神社は自然湧水の聖地が数カ所有りますし、鎌倉市十二所の十二所神社は周辺の朝比奈峠に小さいながらも滝や多くの沢の水源が有ります。
熊野社の総本山の熊野大社は、本来は聖地熊野三山から流れる熊野川の中州に在りました。
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上の写真は師岡熊野神社本殿裏の「❝の❞の池」です。
古代から自然湧水が枯れる事の無い、小さくとも聖なる池です。

●八幡社
八幡社なら誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩を御祭りする御社で、古い八幡社は大河川や海辺の水害の多い地域や古代の港湾の近くに御祀りされています。
日本でも指折りの鶴岡八幡宮は本来は現在の位置では無く、鎌倉市の材木座海岸に面した土地に、源頼義公が石清水八幡宮の御分霊を勧進し社殿を建立しました。由比ガ浜や材木座の海の安寧を願っての正に高潮避けの治水の神様としての勧進なのが解ります。
平安時代からの八幡社の総本社格である石清水八幡宮は、その鎮座する男山に自然湧水の池と小規模な滝が有り水神の性格も有りますが、何よりも古代は眼前に巨椋池と言う巨大な湖が有り、その巨椋池から流れる木津川や淀川は度々決壊する大河川でした。八幡社総本社格だけあり典型的な八幡社の役割を期待され誉田別尊の御霊を勧進する事で治水を祈願した先人の苦労が判ります。
又、応神天皇の武勇に肖(あやか)り軍神としての性格も持ち合わせています。

●弁天社
現在では弁財天と書かれますが、本来は❝才天❞と書かれ後に日本で❝財天❞とも書かれる様に成ったインド神話の神様でサンスクリット語の名前はサラスバティーです。
明治時代に成ってから弁天社の神様は壱杵島姫が習合されました。
才天財天と敢えて書いたのは、この神様は御利益が多く、本来は軍才の神様の性格を持つ戦神でしたが後に江ノ島の弁天様を信仰した河内源氏の源頼朝公や、滋賀県の竹生島の弁天様を信仰した宇多源氏の佐々木家が大いに繁栄した事から財神としての性格がクローズアップされる様に成り日本で辨財天の字も当て嵌めれる様に成りました。
戦神だったので、鎌倉時代、頼朝公の成功に肖(あやか)って自領に弁天社を作る武将が多かったので鎌倉武士の居た土地には大体、弁天社が鎮座しています。
この様に、本来、神社は神様によって役割が異なり、やたらめったら縁結びを御願いしたり合格祈願をするもんじゃないんですね。

さて、神社の神様にはそれぞれに役割が有る事が解った所で、師岡熊野神社が何で聖地なのかに話を戻しましょう。
この師岡熊野神社は周辺が平地で、この岡は比較的高い場所に在るのに、その丘の上と周辺に自然湧水地が在るので聖地なんです。
「それの何が珍しいの?」
と思うでしょうか…
地理の歴史を説明します。
この師岡熊野神社の鎮守の森は権現山と言われています。
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熊野神社は、どこも奈良時代~江戸時代が終わるまで神仏習合の神様でしたから、師岡熊野神社の事も熊野権現と呼んだ訳で、つい160年前までの長い文化を引き継いだ名残りの地名がこの権現山です。
そして、この権現山からは貝塚が発掘されており、日本の神代に当たる縄文時代~弥生時代に既に人間の営みが行われていた場所なんです。
では何で、光孝天皇に聖地として勅願所に指定された、この師岡熊野神社の境内から貝塚が見つかるのでしょうか?


昔の海岸線
※ネット拝借地形画像
この師岡熊野神社の有る一帯は、古代、縄文時代~弥生時代位までは海でした。
つまり、古代から聖地であるこの場所は、周辺が海なのにも関わらず奇跡的に豊富な淡水の自然湧水が有ったので古代人も生活拠点を築けたんですね。
「は?」
「古代人が村作ってたから何なの?」
…と、思う人がいたら貴方の日本の神様に対する信仰心は偽物ですね。
関東最古の大社、鷲宮神社のある総国(下総上総)を鷲宮の土地から開発して行った神話の出雲族の御神孫達は、最初27人から土地開発を始めたんですよ。寧ろ、この人数は考古学的には村の初期の単位としては非常に信憑性が有る数字だとも言えます。
つまり、この師岡熊野神社の境内から貝塚が出て、嘗(かつ)ては海のど真ん中だった半島の上で貴重な飲み水が“こんこん”と湧き出ていたこと自体が当時の人からみても奇跡で、海が干上がって工作に適さないまだ塩分の多い土腐(どぶ)地帯に成っていた時でも平安時代の人々からすれば美味しい飲み水が有る事は奇跡で、そこを中心に街道が整備されて行って国が開拓されて行った訳です。
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※ネット拝借地形画像
縄文時代の横浜市北部は、半分は海の底で半分はリアス式海岸の体を成していました。
東急東横線の綱島駅一帯なんて、本当に綱❝島❞だったんですから。
師岡熊野神社の在る場所が、古代は❝太尾岬❞と言う半島だった平野にポコっとした丘陵地帯です。
古代は本当に❝太い尾っぽ❞の様な形状の半島だったので、太尾岬と呼ばれた名残が現代でも太尾と言う隣接地域の地名に留められている訳ですね。
この様に地名には本来の意味があるのに、勝手に大手開発業者や土建屋が「○○ニュータウン」とか「○光台」とか地名を変えてしまうのは日本宗教観から言っても不遜不敬極まりない行為な上に、その土地の特性を有耶無耶に隠してしまう彼等の悪事で詐欺的な土地評価額偽装行為なんですね。

この様に古い神社は大体が丘の上に在るのは、古代は海が今より内陸まで入り込んでいた為です。
その境内の古代人の生活跡の自然湧水の在る師岡熊野神社を光孝天皇が勅願所に定めたのは当然ですよね?昔は周りが海や土腐(どぶ)だったのに、枯れない清涼な飲み水の湧き続ける泉を有する神社なんですから。
ですから、恐らく、その光孝天王の祈願内容は旱魃(かんばつ)=旱(ひでり)による水不足が起きた際に対策としての❝雨乞い❞だったはずです。
この推測を証明してくれる神事が受け継がれている❝場所❞が、師岡熊野神社の「❝い❞の池」です。
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この「❝い❞の池」は古くから雨乞い神事が行われていたそうです。
他にも「❝ち❞の池」も有りましたが、例の如く文化史跡破壊が得意な横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が開発容認してしまいあろう事か埋め立てられ、現在では大曾根第二公園に成ってしまいました。
これらの池を並べると、❝い❞❝の❞❝ち❞と成るので、古来人々の命を繋ぐ水源だった事が伝承する神事と、記録と名前から解ります。

さて、古代の聖地と水源が関連深い事が御理解頂けたと思いますが、実は、この事が多くの平安時代~戦国時代の御城が神社や御寺の在る場所に建てられた理由でも有る訳です。
御城と言うのは敵が攻めて来た時に、領民の農民を匿(かくま)って防衛戦争を行う場所なので、険阻な丘陵地形と同時に❝飲み水の確保❞が第一条件に成る訳です。ですから、聖地に後に社殿が造営された神社仏閣の場所に御城が築城される事が多かった訳ですね。
その南関東での代表例が東京都の深大寺城、滝山城です。
深大寺城は豊富な水源を利用した水車動力の石臼で引く蕎麦切りが名物で現在もその伝統が受け継がれていますし、滝山城には弁天池と呼ばれる水源を堰き止めた池と山王権現社が有りました。
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さて、ここまで話して何故(なにゆえ)、師岡熊野神社の湧水が昔の人にとって聖地としての価値を有していたか、そして何故にそこに貝塚が有るかが御理解頂けたとも思います。
貝塚があり海の真ん中の半島に飲み水に成る自然湧水が有る事が聖地なのか、紐解けたと思います。
この聖地としての価値を証明する材料が冒頭で述べて歴史偉人の、この熊野社に対する信仰です。
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では、師岡熊野神社を勅願所にしたり、社殿を建設した歴史偉人を列挙してみましょう…
光孝天皇・宇多天皇・醍醐天皇・朱雀天皇・村上天皇…
歴史好きで感の良い人は直ぐに判(わか)ると思いますが、源氏の始祖の天皇ばかりです。
そして…
北条早雲公・徳川家康公・徳川家光公・徳川家綱公。
…関東の覇者達から、領地の安寧を願って信仰された訳ですね。
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それ故(ゆえ)、権現と呼ばれ自然崇拝の神仏習合の発想に基づいて❝関東随一大霊験所熊埜宮❞の異名を光孝天皇より賜(たまわ)っているんですね。DSC_0217
その異名は完全に聖地認定を天皇家より受けている証拠と成る訳です。西暦800年代後半の話です。
凄いでしょう?
古い神社ですので最初の本殿も光孝天皇の代に造営され、その後、幾度の再建を経ているとは雖(いえど)も現在の本殿も正徳4年(西暦1714年)の建立(こんりゅう)です。既に300年の歴史が有ります。
拝殿は明治17年(西暦1884年)の建立です。
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因(ちな)みに、この外観は覆(おお)い殿と言って昨今歴史有る神社仏閣で見られる建物ですが、本来の歴史有る神社仏閣の建物が文化財指定されたり貴重な建築文化財の場合に、本殿や御堂を丸ごと囲って保護してしまう建築物の事です。
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覆い殿の部分は材木が新しいので一目瞭然。
この師岡熊野神社の建築物と神事を後世に伝承させようと言う、宮司様や氏子サン達の気概を感じる覆い殿の増築ですね。
素晴らしい!
港北区民は郷土愛が深く実に文化と史跡保護に熱心な文化度の高い方が多い!実に素晴らしい!
この歴代天皇と関東統治者が大切にした師岡熊野神社を守って来た氏子さん、笠原家の大曾根城址の景観を守ろうとした大曾根商店街の皆さん、鎌倉時代の名将佐々木高綱公の居館跡の鳥山八幡宮や高綱公が源頼朝公の命令で開基した三会寺を守って来た鳥山地区の氏子サンや檀家さん、北条幻庵公が城主を務めた小机城址市民の森を守り通した区民皆さん、それ等全ての港北区民の心意気と言い、真に敬服するばかりです。
そんな郷土愛の強い港北区の師岡熊野神社の氏子サン達なので、明治時代の一村一社令と言う政令で破壊された周辺神社の御霊もちゃんと遷座した上で新たに綺麗な摂社の御社を建て、神仏習合文化の石仏も大切に保護されていました。
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この関東地方は出雲神族の御神孫が古代に開拓を行い、平安時代に菅原氏と桓武平氏と源氏の武将達が文化を昇華させたので、この摂社に御祭りされている神様はどれも坂東武者が進行した神様ばかりですね。
ここの説明では山王社は日吉神社とされているますが、関東の開発に貢献された河内源氏の御一族は神仏習合と自然神に対する信仰心が強く修験道の影響も受けていたので関東における山王社と呼ばれる神社は山王権現だけでなく蔵王権現を明治時代に習合している場合が多く、実際に軍神として武士団に崇められた名将の源義家公は八王子の滝山城址に蔵王権現の御堂を修復していたりします。源頼朝公も山岳信仰をされた方で伊勢原市の大山や富士山を登山したり富士山の化身とされた此花咲耶姫命を御祀りする浅間神社を横浜市内に造営されています。
その他に、海や大河川を鎮める鶴岡八幡宮を元とした八幡社も多く造営した伝承が関東各地の八幡宮に残ります。
八幡社も明治以前は御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)は別名❝八幡大菩薩❞と呼ばれ神仏習合の天皇家の文化を代表する神様の一つです。京都府八幡市の石清水八幡宮や鎌倉市の鶴岡八幡宮には明治時代まで多宝塔も有りました。
師岡熊野神社を“大霊験所”として信仰した光孝天皇はじめ宇多天皇、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇等源氏の始祖に成られた天皇のいずれも神仏習合の時代に生きた方々ですので、神職と仏僧の両方の特性を持つ修験道の山伏達や修行者も大切にされたのでしょうね。
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その影響を引き継いだのが源義家公や源頼朝公は自然信仰を大切にされたのでしょう。
日本人の宗教観は明治時代以前はおおらかなものだったので、八幡信仰や、この熊野神社に見られる権現信仰の様に自然崇拝や自分の祖先に当たる神様を祀る祭礼や歴史偉人を供養する菩提寺や仏教経典を全て、文化として等しく継承したんですね。
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そして、この師岡熊野神社は、周辺が海に囲まれていた縄文の古代からの聖地なので、裏の権現山に貝塚が有る訳ですが、この権現山は少し変わった風景を見る事が出来ます。
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新幹線が丘の下を走っているんですねぇ~。
望遠レンズを持ってる人なら、横浜~品川間の新幹線が住宅街の真ん中を走り抜ける様子を撮影する事が出来ます。
古代の人に大切だった、この師岡も…
平安時代~戦国時代には古代からの開拓された集落を結ぶ街道が出来て、その街道を抑える師岡付近には大曾根城や小机城、佐々木高綱公の鳥山城館が築かれました。
…現代には新幹線や第三京浜道路が通り人と物の輸送を担う日本の大動脈とも言える土地にまで成長した訳ですね。
最初に、この師岡熊野神社の神泉を見つけ飲料水を確保し集落を形成した先人への歴代天皇と関東統治者のリスペクトが、この❝関東随一大霊験所熊埜宮❞には沢山詰まっている訳です。

きっと、皆さんの御自宅の近くにも、思いがけない歴史を持つ神社や御寺さんや城跡の山が有ると思います。
町で買い物をするのも良いですが、ちょこっと都会の喧噪を離れて近所の鎮守の森を散歩してみませんか?
そこには先人とのタイムカプセルの役割を果たして来た歴史が詰まっているかも知れませんよ?

では!、又、次のブログ記事で御会いしましょう!








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