歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:徳川家康

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2019年正月の14日、小生と妹夫婦の共通の来客が中国から有り、東京プリンスホテルの❝ポルト❞と言うビュッフェスタイルのレストランで一緒に食事をする事に成った。
来客と言うのは小生が中国に居た頃に大変お世話に成った人で家族同然に付き合っており「中国のお姉ちゃん」と小生が呼ぶ人で妹夫婦の病院に治療に来たり、日本で買物をするのが非常に好きで服飾関係を目当てにして半年に1回は遊びに来る親日家だ。
当初の予定では中国の姉さんは15日に横浜元町でショッピングをしたいとの事で二人で中華街で待ち合わせして食事をする予定だったが、妹がシャシャリ出て来て小生には何の相談も無く小生の仕事の都合も無視して勝手に日程を14日に変更した挙句、場所まで東京プリンスホテルに変更してしまった・・・
結婚して子供を産んでからの妹が独裁者化していて困惑する事が多い。
・・・兄ちゃんに事前に相談して!
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ホテルの駐車場に車を停めて「何だか人が多いな~」とか思ってたら14日は成人式だったんだな~。
綺麗な呉服で着飾った御嬢サン達、青年達が沢山集まっていたが港区の成人式は東京プリンスホテルでやるらしい。
リッチで横浜市とは大違いだな(笑)。港区だと横浜みたいにリーゼントに下品な紋付き袴を着こんだ様な輩(やから)も見当たらなかった(笑)。
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ポルト(東京プリンスホテル内)
ビュッフェスタイルのレストランだけどプリンスホテルの中だけあってとても綺麗な御店で、しかも高いのかと思いきや2800円と御手頃な値段だったので安心した。しかし、これの為に妹が小生の仕事を無視して勝手に予約してからここに来いと通知して来たのは心中複雑で、前日少し妹と喧嘩っぽく成った(笑)。まぁ、小生の一番の理解者なので小生の扱い方を心得ていて直ぐに建設的な話になるのだけど。
ここは今まで食べたビュッフェの中で1、2の美味しさだと思う。
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ローストビーフも切り分けてくれるのだが肉が柔らかくて美味しかった。
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蟹も手べ放題。
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すげ~食った。他にも肉料理や魚料理も沢山有って、他所のビュッフェが肉関連をランチタイムに出し渋るのとは違ってお得感が有ってとても良かった。
当然ながらスイーツ関連も沢山有り、子供のいる家族連れやカップルのデートや女子会でも使い勝手の良さそうなレストランだと思う。
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小生は甘いのは控えて・・・

代りに懐(なつ)いてくれている甥っ子と姪っ子を❝抱っこし放題(笑)❞ハグしまくって満足して来た(笑)。

・・・まぁ~確かに妹夫婦が中国の姉さんに会うなら病院祭日の成人の日しか無いし、子供連れて一緒に食事するとなるとビュッフェしかないし、❝小生の休暇申請を要する仕事事情無視❞は看過出来ないものの来客で失礼のない場所で御手頃な価格のランチと成ると結果的に妹の判断はベストだと思った。
ふむ、流石、独裁者に成っても我が妹は賢い。良き妹ぞ。
そして義弟君と夫婦に成り可愛い甥っ子と姪っ子を産んでくれて、その二人が❝オジちゃん❞て甘えてくれる至福を兄ちゃんにくれてありがとう~♪
食事が終わり、中国の姉さんは妹と銀座や新宿に買物に行くとの事で、ホテルの車寄せで皆を見送り解散した。
小生はその後で隣の芝増上寺として有名な徳川家の菩提寺、三縁山 広度院 増上寺に参拝に向かった。
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横断歩道を渡り歩道沿いに増上寺に向かって歩くと何やら日本庭園ぽい場所が在(あ)ったので何だろうな~?と思い其方(そちら)側に渡って行って見た。
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どうやら元々芝増上寺の山門の両脇の景色を良くする為に徳川幕府の命令で植林された松林がここに在ったらしい。第二次世界大戦で焼失したのを復元したんだな。流石、日本の国宝保有数最大の東京都、横浜市の史跡や自然破壊大好き現職市長とは大違い。
今の横浜市長なんて北条綱成公や徳川家康公の参謀だった間宮家の松本城址の桜の大木の並木を悉(ことご)く伐採したり、開発反対署名12万人集まり市の有識者も過半数が開発反対している横浜市最大最後の蛍の大生息地円海山瀬上沢の東急不動産による宅地開発計画を容認する様な発言をして大バッシングを受けていたり。
東京都は偉いね。
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戦後復元した松原も大樹に育っている。うん!素晴らしい。
そこを過ぎると増上寺の巨大な山門と東京タワーがコラボした素敵な風景の交差点に行き着いた。
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この写真で見切れている右手に実は歴史的に重要な場所が有る。
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見た目は古い御屋敷、実はこれは元々は増上寺の塔頭(たっちゅう:支院)の一つである広度院で、増上寺山門前のこの前の道の両脇や増上寺周辺芝公園一帯には江戸時代迄沢山の塔頭が建ち並んでいた訳だ。
そして現在、増上寺の院号が広度院と成っているので明治時代の廃仏毀釈で多くの支院が廃寺に成った際に増上寺の運営を担ったのがここの広度院だった事が解かる。
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今では普通の古民家の様な佇まいだが文化的な意味は深い場所。
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だから国の登録有形文化財にも指定され保護されているんだな。
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そこから増上寺の方に少し戻る。
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増上寺前交差点、現在の増上寺の山門=大門。
東京メトロ❝大門駅❞は増上寺の大門の目の前だから、そのまま駅名に成っているのを知らずに地下鉄に乗ってる人もいるんじゃなかろうか?
増上寺周辺 久良岐のよし
実はこの辺、東京都屈指の観光地が集約されており、朝から夕方日没までゆっくり散歩しながらグルメと文化と夜景を満喫出来るんだな~。だからカップルでデートにも、田舎からの来客を観光案内するにも❝使い勝手の良い地域❞なんだな。
例えば・・・
1朝、新橋駅に集合。
2築地場外市場に移動して朝御飯
3浜離宮恩賜庭園を散歩して徳川将軍家の御鷹狩場で甲府徳川家下屋敷でもあった日本庭園を散歩し抹茶で一服
4芝離宮恩賜庭園、徳川幕府老中で我が神奈川県の小田原城主だった大久保忠朝公の上屋敷だった日本庭園を見物
5芝公園方面に移動し東京プリンスホテルで昼食
6増上寺を参詣、徳川家歴代将軍の御廟所や家康公の守り本尊である黒本尊阿弥陀如来様を参拝
7芝東照宮を参拝し芝丸山古墳を見物
8東京タワーを見物、東京の風景を楽しむ
9夕方に霞が関方面に移動、虎ノ門ヒルズを物色
10夜、虎ノ門ヒルズの展望台で東京タワーを含む夜景を堪能。
・・・地図を見ながら無駄なく順路を廻ればこんだけ1日で楽しむ事が出来る。
重要な事は❝小生には一緒に廻ってくれる人がいない❞ので一人でこれやるしか無いんだな(笑)。
実に寂しい。
小生は好きに成る人に悉く嫌われて、好きじゃない人から好かれてしまう行動しか出来ないらしい。
まぁ、秋は芝公園も浜離宮も芝離宮も紅葉が綺麗なので、秋か蚊のいない春に行くのが良いかも知れない。その頃に小生みたいな阿呆と付き合ってくれる奇特な人との御縁が・・・無い(笑)。
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さて、そんな事を大門の前で地図を見てパパっと思い浮かばせながら増上寺を初参拝するべく横断歩道を渡る。
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行くまで知らなかったが、どうやら正月は色々と増上寺で徳川家康公の守り御本尊だった黒本尊様の御開帳とか色々な催事が行われている様だ。
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山門をくぐると広大な境内の御庭と正面に御本堂が目に入った。
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う~ん現代と江戸時代のコラボ!悪くない。
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実は現在の境内でも相当広いのに江戸時代の三分の一以下に規模は縮小されている。
昔はプリンスホテルの辺りも北廟と言って徳川幕府二代征夷大将軍の徳川秀忠公と信長公の姪のお江様御夫妻の御廟所等が有ったんだな。
とは言え今の境内も物凄く広い。
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山門潜って直ぐ目に入った観音様。
何やらその後方にも立派な御堂が見切れている。凄く気に成ったので其方から先に回る事にした。
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観音様の周辺には色んな供養碑とかが有った。
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仏足石とかもね~。
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まぁ、レプリカだけど大きい御寺にたまに有る。
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観音様の反対側には立派な鐘楼も在った。
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火事で一度焼け落ちたけど江戸時代の内に再建されたらしい。徳川家綱公の奥方様の簪(かんざし)まで寄付して鐘の再鋳造と鐘楼再建の費用が捻出された様だ。東日本最大級だってさ!凄い。
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あと催事のポスターとかの掲示板。
どうやら小生が気に成った建物は慈雲閣と言うらしい。
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でもこの建物の垂れ幕を見て小生は不思議だった。普通浄土宗は徳川家に三つ葉葵の徳川家の家紋の使用を寺紋として使用を許されているので三つ葉葵の家紋が垂れ幕に染色してあるものだけれど、この立派な御堂には❝八楊に月星=九楊と月❞紋だった。九楊紋、八楊に月紋、月星紋はいずれも平安時代以来の武家の名門である千葉家一族の用いた家紋だ。
後で若い僧侶に聞いた所、この慈雲閣は増上寺を開いた開山の和尚様を祀る開山堂だそうだ。つまり開山様は千葉家所縁の人間と言う事なのだろうか?詳しい事は調べていないので解らないままの参拝でそんな事を考えていたら予想は的中していた。
増上寺は西暦800年代に今の千代田区麹町辺りに空海和尚の直弟子である宗叡和尚が前身寺院の光明寺を開いたそうだ。当然ながら真言宗寺院だった訳だ。その後、南北朝~室町時代の人で増上寺の中興開基つまり浄土宗に改宗して増上寺と名を改めて御寺をリニューアルオープンしたのが酉誉聖聰和尚で、この人を祀っているのが開山堂である慈雲閣だそうだ。この酉誉聖聰和尚が小生の家紋からの見立て通り房総半島の大名の千葉家出身の人物だそうで、父親は千葉氏胤公、母親は新田義貞の未亡人らしき人物だそうだ。意外な事に酉誉聖聰和尚の甥っ子である馬場重胤公がおり、恐らく武田信玄の家臣で名将の馬場信房が家名を継いだ馬場家の御先祖様に当たるだろう。武田家は房総半島~茨城一帯出身の大名なので実は飯富虎昌公始め房総半島所縁の氏姓を名乗る武将が多かったりする。つまり馬場家の御先祖は千葉家で、増上寺を浄土宗に改めて中興開基した酉誉聖聰和尚様とも親戚だった訳だ。
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犬の散歩禁止。
歴史が好きだと家紋一つで色んな家の御先祖様がアッチ行ったりコッチ行ったりした移住の歴史も辿れたり御寺に関わった人物の出自もこやって推測し当てる事が出来るから面白い!
アッチ行ったりコッチ行ったりした千葉一族の酉誉聖聰和尚を祀る御寺の前だけど犬連れてアッチ行ったりコッチ行ったりするのは禁止(笑)。
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そこから御本堂の方向を見ると東京タワー、御本堂、光摂殿と言う左側の建物を一度に写真に収める事が出来る。小生はこの時に知らずに御参りしなかったのだが、そうやら左側の光摂殿は立派な天井絵が公開されていて見る事が出来るらしい。う~ん、次の参拝の機会に行きたい。
で、御本堂に移動して御本尊様を拝もうと思ったらとんでもない人の行列だった。
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う~ん・・・
別に正面から拝む必要無いよな~と思った小生。横入りもしたくない。
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でも、これ並びたくない。
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なので遠巻きに参拝した(笑)。無論、御賽銭は別の御堂に多めに入れたので大丈夫!
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で、この日、特別公開を意味する御開帳の黒本尊様、つまり東照大権現徳川家康公が戦場にも携行し拝んでいた阿弥陀如来様の黒い仏像を拝むのが徳川家御廟所参詣と同じ主目的の一つだった。
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安國(国)殿と言う御堂。ここに黒本尊様が祀られている。
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丁度多分凄く偉い和尚様が説法をされていて、色々と聞く事が出来て良かった。
黒本尊様は家康公の勝運を頂ける阿弥陀様だそうだ。
確かに家康公は姉川の戦いで浅井朝倉連合軍の猛攻を受けて本隊の織田軍が混乱する中、反攻戦を展開し不利な戦況を覆し織田徳川連合軍を勝利に導き、諸大名による織田包囲網を打開させる糸口を作りだしたり、初陣での大高城兵糧入れ作戦でも500人の小勢を率いて見事に作戦遂行し、更には小牧長久手の戦いでも豊臣(羽柴)秀吉の大軍を痛撃して堀秀政、池田恒興、森可成等の歴戦の勇将率いる軍勢も潰滅させている野戦上手だった。
しかも勝つだけじゃなく武田信玄に負けたり、今川家臣時代の不遇の経験を活かし学習し、そこから成長する人間力も有った人なので今、小生は家康公から多くの事を学ばなければいけないので粘り強くも反省を活かす性格に成る人間力向上の御利益にも預かる必要が有る訳だ。

黒本尊様 増上寺公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は増上寺様ホームページより拝借。
小生は反骨精神の強すぎる所に難が有り、理不尽な事を言われると我慢せずに論破してしまうし、冗談でも被害を被る事をやられたら冗談では済まさずましてや危害を加える心算で悪意ある事をされると半沢直樹みたいなスマートな「倍返しだ!」じゃなくて自分の大切な人達にも半端ない泥臭く自分も相手も傷つき確実にダメージを残す自爆テロみたいな事をやってしまう悪癖が有る。
これを浄土宗や日蓮宗や曹洞宗を大切にされつつ、身分問わず愛する人や町民を幸せにした信長公や家康公を今こそ歴史好きとして手本にして人を大切にする事を学び取り、現世でも今迄毛嫌いしていた人達からも色んな事を学んでいかなきゃいけない1年だと思う。
だから、実は下らない反骨精神で成人式すらしていない小生が成人の日に妹の気まぐれで東京プリンスホテルに勝手に集合場所を変えられて、奇しくも黒本尊様を拝めたのは家康公の御導きだと思えば、これも一つの小生が❝真実も見ながら人を幸せに出来る人間❞に生まれ変わる第一歩となる遅すぎる❝成人の日❞に成ったのかも知れない。
実は今年の小生の年齢は、母方の祖父が亡くなった年齢でもある。
小生の名前は母方祖父と、父方祖母から同じ字を一字頂いている。
祖父が死んだ年齢で小生が性格から改善し人として発展し人を幸せに出来る器量を持てる様に成るなら、やはり家康公の黒本尊様を拝めたのはターニングポイントだったのかも知れない。
黒本尊様を御参りして今度は徳川家歴代将軍の御廟所を御参りするべく移動開始。
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と、その入口の手前に観音様がいらっしゃった。
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西向観音菩薩様。
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石仏なんだね~。とても大切にされていて拝む小生も嬉しくなる。
さて、拝み終わり徳川家御廟所へ移動。
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立派な金属製の御廟所入り口の門。
鋳抜門(いぬきもん)と言うそうだ。元々は徳川幕府第六代将軍の徳川家宣公の御廟を守っていた門らしい。廃仏毀釈で仏教弾圧され増上寺の境内が縮小したり戦後の規模縮小での歴代将軍の合祀で移築されたそうだ。
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この門は平時は開かないので左手で拝観料を払って壁の横の入口から御廟所を参詣する。
普通小生は歴史偉人の御廟所を写真撮影しないのだが、徳川将軍家に限っては家康公からして東照大権現の神号を授かり、御廟所の日光東照宮が神社に成っているので小生の認識に於(お)いて徳川将軍家の御廟は御神孫と同等であり、その御廟一つ一つが神社と同じ役割とも考えているので今回は写真を撮影してブログに掲載させて頂く事にした。
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そもそも家康公の宗旨である浄土宗の大本山で、この御廟を管理している増上寺が絵葉書にしているのだから罰は当たらないし逆に御利益を授かれると思う。
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先ず御参りしたのが小生が江戸の町の基礎を築いた内政で尊敬する徳川秀忠公と、その妻ので信長公の姪で名将浅井長政公の姫の❝お江❞様御夫妻の御廟。元は別の場所にあり、東照宮みたいに立派な建物に囲まれていたが戦災で焼け落ちてしまった。
この秀忠公は小生の尊敬する北条家臣で名将の間宮康俊公の孫、今の横浜市長の前身にあたる本牧奉行や佐渡金山奉行や生野銀山奉行をしていた間宮直元公と非常に仲が良かった将軍様だ。
二人して御相撲サンを沢山部下に雇っていて、二人で相撲大会を開いて見物して遊んだりしたそうだ。
間宮直元公の伯母で間宮康俊公の姫の於久(おひさ)様が家康公の側室に成っていて駿府城で家康公の姫を産んでいたので間宮家も徳川家の血縁で、徳川秀忠公と間宮直元公は義理の従兄弟同士で同世代だから仲も良かったんだろうね~♪
間宮直元公は大坂城冬の陣で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を家康公に進言した名軍師でもあって、残念ながら後に横浜を開港させる井伊直弼公の祖先の井伊直孝公の軍団の与力として在陣したせいで井伊家が真田隊の経略に引っかかって真田丸に突撃して大損害を受けて潰滅した戦いで間宮家も間宮直元公や千葉県八千代市の分家高津間宮家の間宮正秀公を始め戦死者を出してしまってる。井伊直孝隊がアホみたいに真田信繁公の計略に引っかかって突撃せず、間宮直元公の大坂城総掘り埋め立て作戦の献策を徳川家康公が既に採用していたのだから、家康公と間宮家の作戦通り大坂城無力化させてから降伏勧告をしていれば良かっただけなんですがね。
まぁ、井伊家は先代の井伊直政公が名将だったので二代目はプレッシャーが大きく功を焦ったんでしょうね、結果的に徳川軍に大損害を招く失態を犯した訳ですが、まぁそれは今は必要の無い解説かな?
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これが徳川家宣公の御廟所。
本当に無駄な徳川綱吉の生類憐みの令を廃止して改革善政を行おうとした将軍様。
この家宣公の参謀が新井白石で、彼は鎌倉市玉縄の領主だった。間宮家が戦国時代に仕えた北条家の家臣時代は玉縄城主で関東最強の戦国武将だった北条綱成公の付家老(つけがろう:本社から赴任する支店長代理みたいな)が間宮直元公の御爺ちゃんの間宮康俊公だった。
何だかんだ、間宮家と因縁が有る新井白石。
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徳川家継公の御廟。
この人の跡を継いだのが暴れん坊将軍のイメージがTVでついてしまった徳川吉宗公。
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十四代将軍徳川家茂公。天皇の忠臣で、逆賊長州を征伐しようとして多分大阪城で毒盛られて暗殺された人。妻が有名な和宮内親王だった。
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で、奥さんの和宮内親王の御廟所。女性が参拝したら女子力上がりそう。
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第九代将軍の家重公。
物凄い美男子だったけど発達障害が有ってちゃんと言葉が話せなく、子供の頃から大奥に行って女性と淫らな事をしていたって余り良い伝承が残ってない人。
でも息子さんの徳川家治公がとても賢かった上に、父の吉宗公がサポートしたから何とか上手く次世代にバトンを繋げた将軍様。
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第十二代将軍の徳川家慶公。
この人の参謀が水野忠邦公で、有名な天保の改革が失敗しちゃった時の将軍様。
日本文化を守ろうとしたり緊縮財政で財政再建しようとしたんだけれど反発が強くて上手く行かなかった。
駆け込み女と駆け出し男
この時の時代背景を映画にしたのがに大泉洋サンと戸田恵梨香サン主演で2015年に公開された映画の❝駆け込み女と駆け出し男❞なんだな。
映画と舞台の東慶寺の解説を以前に記事に書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
記事リンク⤵

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で、最後の御廟は増上寺境内地の縮小で合祀を余儀なくされた将軍様御身内の御廟所。
それでも立派だな~。
そうそう、先に一度出したけど、この御廟所を拝観すると記念品にポストカードが貰える。
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どうです?芝の増上寺、凄く立派で見応え有るし東京タワーやプリンスホテルのランチと合わせても魅力的でしょう?

もし御興味有れば周辺の観光地と合わせてデートに家族のレクリエーションにと訪問して見ては如何でしょうか?

では!又、次の解説記事か休日雑記で御会いしましょう~♪

※追伸
木曜日投稿予告してたのに色々と用事が立て込み土曜日に成っちゃいました(笑)!又、次の記事も土曜日の夜中に書くから読んで下さいね~♪

冠大明神 比々多神社(延喜式内社・相模国三之宮・古代遺跡に囲まれた聖地)
比々多神社元宮(戦国時代の戦火で焼失した元の神殿が在った場所)
埒免古墳(建設業者に破壊された古代豪族古墳で旧境内の聖地)

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  御祭神・御本尊等:豊斟渟尊(とよくむぬしのみこと:豊国主命)・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)・稚日女尊(わけひるめのみこと)・日本武尊・大酒解神(おおさけとけのかみ:大山祇大神)と小酒解神(こさけとけのかみ:木花之佐久夜毘売)の父子神。  
  御利益:子宝・縁結び・子孫繁栄・地鎮・戦勝・酒造業繁栄・服飾業繁栄・交通安全(陸)・
  関係者:
  開基:神武天皇
  中興:崇神天皇
          垂仁天皇
          持統天皇
          孝徳天皇
          聖武天皇
          淳和天皇
          相模国司  布施 色布知 公
          初代宮司  紀     益麿 公          
          相模国司  橘     峯嗣 公                      
          征夷大将軍 源  頼朝 公
          相模守護  三浦 道寸 公
          征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:伊勢原市三ノ宮1472番地周辺の高速道路~丘一体全て旧境内地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
比々多神社の縁起にある歴代天皇から信奉された逸話を証明するかの様に、神社の周辺のみならず旧本殿の在った場所や境内からも縄文〜奈良時代の遺跡や古墳が大量に発掘されている周辺地域を含めて文化的歴史的にも重要な神社。
古代より天皇家や将軍家から信奉され、背後に控える大山と大山阿夫利神社を信仰対象とした古代人の聖地を引き継いでいる神社。
また管轄する神社に関東で子宝安産の神様として有名な子易神社の本家本元を抱えている。
源頼朝公と北条政子様が御夫妻で子宝安産祈願をして成就した御利益が有る。そして関東の古豪名門武士団の三浦家からも崇敬された。由緒有り歴史的価値に富む神社。
裏山のミカン畑の中の古代社殿跡の元宮でだが、そこに至るまでの広大な範囲が旧境内地。
元宮に至るまでの広大な土地は前政府の宗教政策と太平洋戦争の敗戦時の宗教政策で土地が接収された。
元宮に祀られる祠も自由に御参り出来る。元宮に行く途中の恵泉女子短大園芸生活科伊勢原校舎は古代の比々多神社境内地で埒免(らちめん:埒=防護壁、免=面=削平地・・・壁で囲まれた聖域)の名で呼ばれた聖域だったが、神奈川県教育委員会がその重要性を無視したまま発掘調査を怠ったばかりか恵泉女子短大伊勢原校舎建設時にも事前調査を行わず、結果的に発掘中に古墳が破壊され土木作業者によって多くの出土物が略奪された。しかし一部は義挙した比々多神社宮司家と氏子衆によって作業者から買い戻され、比々多神社内に併設された郷土資料館に保管展示される事となった。
併設されている郷土資料館では、古墳群から出土した宝剣等を見学出来ます。

前回の記事⤵
瀬戸神社と手子神社・・・②瀬戸神社は歴代幕府と将軍家が大切にした神社(瀬戸神社歴史解説編)。
コレ⤴の続き・・・

前回の瀬戸神社の歴史解説と、前々回の瀬戸神社の御分祀された手子神社と小泉弁才天の歴史解説の記事で瀬戸神社や金沢の地が、源頼朝公と北条政子御夫妻はじめ鎌倉幕府執権北条家、鎌倉幕府を打倒して樹立された室町幕府の鎌倉公方足利持氏公、戦国時代の太田道灌公や北条早雲公や北条氏綱公、安土桃山時代から江戸時代の転換期に徳川家康公が関わり各時代の歴史偉人達から大切にされて来た事は御理解頂けたかと思います・・・
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・・・今回は歴史解説は少なめにして、いよいよ横浜市による金沢六浦の海の埋立や鎮守の杜の山の掘削された景観破壊後の現代の瀬戸神社と琵琶島弁才天の風景を御紹介したいと思います。
さて、現代では周囲の海が埋め立てられてしまった瀬戸神社の周りはとても美しい2つの湾の入口に在る半島と半島を橋で結んだランドマークであり歴史偉人も遊覧した観光地でした。
昔の海を再現した模型と地図でしか現代人の我々は当時の様子を知る事が出来ませんが・・・
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
金沢地形図 久良岐のよし
・・・実は、この島と半島が入り組み東京湾~六浦湾~瀬戸の3つの湾の金沢の海の大半が埋め立てられたのは極々最近の話しで、他都市からの移住者が役人として就職していて横浜=赤レンガと中華街程度の認識しかない無文化で日本の歴史文化に興味が無い横浜市役所役人達によって開発許可が出され昭和期に消し去られてしまいました。
正直、現代では過疎化の進む横浜市栄区や緑区等で貴重な自然とは無縁の真っ平らな開発し易い田園地域を宅地開発させれば良かったのに、現代でも横浜市は栄区の中でも横浜市最大最後の蛍の生息地の瀬上沢でさえ林文子市長が東急不ループの自然破壊宅地化容認の発言が飛び出していたりします。
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以前、瀬上沢を紹介した記事リンク⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
だから景観破壊される前に日本屈指の観光地だった金沢の八景が瀬戸神社の周辺一帯だったので、近代にも千代本楼や金沢園と言う料亭が直ぐ御近所に存在し、現在も名前を変えたり規模を縮小しながらも存続し昔の景勝地だった頃の名残を残しています。
下の写真が琵琶島弁才天から見た料亭、千代本楼。江戸時代の観光案内図にも載っている老舗。
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千代本楼

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喜多屋(金沢園)&ぼたん(Café部門)
喜多屋に関しては以前に喜多屋サンに取材をさせて頂き、ランチも食べれるCafé部門と料亭時代のまま残る元客室の宿泊部屋等も写真で紹介した記事を書いて有るので御興味の有る方は御覧下さい。
喜多屋の記事リンク⤵
金沢区の喜多屋は元料亭の日本建築文化財の旅館&cafe。
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さて、元は湾の入口の半島の山に囲まれた瀬戸神社は眼前の弁才天様を祀る琵琶島まで境内地にしていたのですが、日本古来の神社文化や自然信仰を軽視する役人によって瀬戸神社本殿参道と真直ぐ繋がっていた琵琶島弁才天の間には国道16号線開通の為に境内が接収され分断されてしまいました。
・・・本当に罰当たりですね。
昔の地形と現代の国道16号を見比べると良く解りますが・・・
瀬戸神社周辺の元の地形 久良岐のよし
瀬戸神社周辺の現代の地形 久良岐のよし
瀬戸神社の鎮守の山と洲崎の半島の近接する景勝地、その山を掘削しなくても国道16号線は別名❝横須賀街道❞ですので、どうせ横須賀方面に抜ける道ならば平潟~乙舳(おっとも)方面を経由させ室ノ木へ抜ける道を国道16号線を引けば良かったのは一目瞭然です。
もしかすると神仏習合の弁天様を日本の神様である大山祇大神(おおやまづみおおかみ)=三島大明神を祀る瀬戸神社と分断する意図が最初から有ったのかも知れないと、近代の宗教改革の歴史を考慮すると勘繰ってしまいますね。
そんな訳で、国道16号の開通も横浜市の海の埋め立てと同じ程に日本の宗教文化を愚弄し自然景観を破壊する失政だった訳です。もし国道16号が小生の案と同じ様に引かれていたら、瀬戸神社は源頼朝公北条政子様御夫妻や江戸時代までの日本の神社界の最高指導者だった卜部朝臣(うらべのあそん)吉田家の吉田兼敬公が愛した当時のままの美しい風景を平成に成っても見られた筈なんですね。

では、先ずは分断されてしまった琵琶島神社こと琵琶島弁才天の方から風景を見て見ましょう。
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琵琶島弁才天様の参道は現代では埋め立てられていますが、昔、ここが二つの島で荒尾城主の荒井家によって二重橋が掛けられていた歴史は前回の記事で解説しました。
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説明の看板にも当時の様子を知る事が出来る絵図が有りますが、図の真ん中左端に瀬戸神社と琵琶島弁才天が描かれていますね。江戸時代の絵図では既に二重橋では無くて一つの太鼓橋に参道を改造した様です。
良く見ると千代本楼も描かれていますね。
琵琶島弁才天様の入口手前、右側には福石が存在します。
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本来はこの福石は❝服石❞と書きました。
源頼朝公が弁天様に御参りする際に、福石に❝服を脱いでひっかけ❞当時は海だった福石の右側で禊(みそぎ=身体を洗い清める事)をしてから参詣した事に由来しています。
そして、この服石と元は書いた❝金沢十石❞の一つにも数えられた頼朝公由来の奇岩の傍で拾い物をすると必ず幸福な事が起こった御利益から❝服石→福石❞と書き方が変化したそうです。
そんな頼朝公が服を掛けた福石の右に存在した海は御覧の写真の通りに歴史も神道文化も軽視した役人によって埋立許可が出されてしまい無残に禊を行う聖なる海が消え去りビルに成ってしまいました。
弁天様の居らっしゃる琵琶島に向かい参道へ歩みを進めてみましょう・・・
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・・・松の木のみが景勝地だったらしい名残を感じさせます。
もう少し先に簡素化されてしまった橋が在ります。
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少しだけ昔の雰囲気を感じられるかな~?
先に在る弁天様この橋に対してソッポを向いた様に社殿が設置されていますよね?歴史や観光や御朱印集めが好きで神社仏閣を多く参拝する人は予備知識が無くても誰でも何となく知っているん事ですが、神社の御社や御寺の仏閣は大体が南向きか東向きの御日様の方向を向いて建てられているもんなんです。
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だから京都の有名な八坂神社=祇園社も祇園四条通りから延びる参道の先、西楼門=随神門(ずいしんもん)は西を向いて建てられていますが境内に入ると本殿は南を向いて建っているので、この琵琶島弁才天と同じく参道に対してソッポ向いた配置に成っています。
八坂神社周辺 久良岐のよし
ね?衛星写真を見ると解り易い。ちなみに明治の神仏分離令で素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社に名前を改めされましたが、元は素戔嗚尊と同一視されたヒンドゥー教由来の牛頭天王を祀る神仏混交の仏教施設だったので江戸時代の終わりの昔迄は祇園社と呼ばれていました。
そんな訳で琵琶島弁才天を御参りすると日本の宗教施設が南や東を向いている事にも気が付ける訳です。
・・・あれ?結局歴史解説結構やってしまってる(笑)。
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社殿はとても小規模ですが、まぁ、頼朝公の時代もそんなに大きな社殿では無かったと思います。
頼朝公が復興した鎌倉の立身出世の御利益で有名な佐助稲荷神社や・・・
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佐助稲荷神社
近代のイギリス領事官(現:横浜開港資料館)の中庭の玉楠樹の下に源頼朝公が蒔田湾(横浜港の前身の湾、埋め立てられ消滅)の鎮守で海上交通安全の神様だった弁才天様の御堂も、現在の瀬戸神社の琵琶島弁才天様とほぼ同規模でした。
ペリー神奈川上陸
ペリーさんの横浜上陸の絵の右側に書かれているのが横浜の地名由来に成った蒔田湾の半島に頼朝公が建てた弁天様ですね。イギリス領事官建設の際に横浜市中区関内の羽衣町厳島神社と元町厳島神社に分祀され消滅しました。
神社の宮司様達の中には余り文化歴史に造詣が深く無い人もいて自分の神社が昔っから立派な社殿が在ったと誤認している人もいますが、そもそも日本古来の宗教は自然信仰で、そこに中国文化の影響を受けて御神像や御神鏡を祀る偶像崇拝が合わさり石祠(いしほこら)や社殿も建てられる様に成った訳ですから、金澤(かねさわ)の琵琶島弁才天様や横浜の元町厳島神社や羽衣町厳島神社の様に滋賀県琵琶湖の竹生島弁才天様の御分霊を頼朝公の時代に勧進した場所は概(おおむ)ね小規模な場所だったでしょうね。
昔の人は社殿の立派さよりも、自然信仰時代の影響も色濃く残し、特に修験道を大切にして神道仏教にアプローチした源頼朝公は神社の建物よりも神様その物を大切にされた訳です。
小生のブログを読んで下さってる方は記事で話題にしているので既知だとは思いますが、頼朝公は自然信仰で神仏共に大切にした希有な修験者でもあったので伊勢原市の大山阿夫利神社石山権現(大山山頂の神の依り代たる奇岩)を参拝に登山したり、富士山すらろくな登山装備の無い当時に踏破し富士山火口を一周回る荒行を成功させたアルピニストだったりするんですね。
瀬戸神社の神様は三島大社の大山祇大神です。
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三島大社
大山祇大神は神奈川県の延喜式内社で関東総鎮護とされた伊勢原市大山の神様でもあり、海を守る神様としても有名なので築地市場関係者も団体で昔から参拝に来る事で知られています。自然信仰で海の神様である大山祇大神と弁才天様、修験道にも仏教にも神事にも造詣が深く自然信仰を大切にされた源頼朝公。
・・・そんな頼朝公だったから海難事故防止や海の神様として有名な大山祇大神=三島大明神と竹生島の弁天様を六浦湾と金沢湾の2つの入江の接続点に勧進され、漁師や海運を生業とする人達の生活を守護して頂こうと考えた事が良く解りますね。
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今では狭くなった消滅した金沢湾ですが、琵琶島弁才天に御参りすれば六浦湾の一部が眼前に残っているので少しだけ往時に思いを馳せる事が出来ます。
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さて、琵琶島弁才天様から国道16号で分断された反対側の瀬戸神社に移動しましょう。
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社殿は遠目にも綺麗ですね!まぁ、裏山の鎮守の杜も一部だけ残っているので昔の風景を想像する事も出来ます。
鳥居の両脇にはとても立派な石灯籠が存在します。CIMG5077
大きいだけじゃなくて彫刻も良く出来ています。
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そこを通り過ぎると正面に社殿。右側に手水社(ちょうずしゃ)が在ります。
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更にその右側には市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在ります。
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立派ですね~。他にも沢山、立派な大樹が有りました。
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犬槇(イヌマキ)と言う木だそうです。これも立派。
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社殿の拝殿へは入る事は出来ません。普通に社殿の前までは参拝出来ます。
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現在では瀬戸神社と書かれた扁額が掲(かか)げられています。揮毫(きごう=代筆)したのは内閣総理大臣在職中の小泉純一郎元総理ですね。小泉家の発祥は正に金沢で後に横須賀に移る訳ですが、小泉純一郎元総理は祖父の小泉又次郎氏が六浦大道の出身でした。そして小泉元首相のお母さんが祖父又次郎さんの娘で、そこに父親の純也氏が婿養子入りしたんですね。その頃には横須賀市に既に移住していました。
・・・多分、現在の瀬戸神社の扁額を揮毫したのは小泉家と金沢家にそんな地縁が有ったからかも知れません。まぁ、書くなら古来の風習に則(のっと)って❝三島大明神❞と書いて欲しかったなぁ~。
本殿の裏には沢山の社殿が在ります。
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これは祖霊社、氏子サン達の御先祖様を神様として祀っています。
そして背後の山を御覧頂けると解るのですが・・・
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・・・山の斜面を人工的に❝法切(のりき)り❞された垂直の❝切岸(きりぎし)❞に成っているのが判るでしょうか?
この様に山を削った直角な谷間に鎌倉文化では神社仏閣を建設します。これを❝谷戸構(やとがま)え❞と呼び、城壁の様に垂直に加工した山で施設を取り巻く事で防犯と火災類焼防止の効果が発揮される訳ですね。
そしてもう一つの鎌倉文化に良く見られる特徴が瀬戸神社にも有ります。
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矢倉(やぐら=人工横穴)です。
元は横穴式石室に仏教文化がが合わさった鎌倉武士独特の墓所でしたが、仏様を埋葬するのと同じく矢倉に神様の祠を治めて崇拝する習慣が鎌倉文化には有ったりします。
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ここは御狐様がいらっしゃるので御稲荷様ですね。御稲荷様は良く全国各地の城址にも祀られ、歴史好きを見守ってくれる神様だったりもします。
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これは瀬戸神社の主祭神の大山祇大神の御息女=姫神様の石長姫(いわながひめ)様と此花咲耶姫(このはなさくやひめ)様の姉妹神様を祀る御社(おやしろ)でした。
石長姫は不老長寿、ある意味美の女神なのにブスな可哀相な役割の女神様。きっとクソ美人以外の普通に可愛い位の女性には美容と長寿の女神として御利益の御加護を下さるかも知れませんね。
妹の此花咲耶姫命様は天皇家の御先祖様の邇邇芸命(ニニギノミコト)の奥さんに成って天皇家を発展させた祖先神ですので縁結びと家内安全の御利益を与えて下さるかも知れません。
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更に塞がれた矢倉も有りました。きっと何か神様が祀られていたのに戦後の法律で封鎖させられたんでしょう。こんな物防空壕では無いと否定して撤去してしまえば良い。
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服装の様子からして菅原道真公=天満大自在天神=天神様かな?
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あと小さな祠が3ヶ所並んでいました。
その背後・・・
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どうも此処(ここ)は背後の鎮守の山への登り口だったみたいですが、山を国道建設で掘削されてからは登る人もいなくなってしまった様で草ぼうぼうでした。
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階段地形が今も残っています。もしかしたら征夷大将軍源頼朝公や室町幕府鎌倉公方足利持氏公はここを登って金沢八景の景勝を遊覧したかも知れませんね。

さて、これで金澤瀬戸の三嶌大明神=瀬戸神社と琵琶島弁才天=琵琶島神社の施設の解説の記事は尾張です。
皆さん、如何でしたか?実はつい最近まで鎌倉時代のままの風景が残っていた事、今もその足跡が辿れて歴史偉人の歩いた場所を皆さんも歩ける事が伝わったでしょうか?
瀬戸神社は金沢八景駅の目の前に在ります。野島公園の伊藤博文公金沢別邸に抹茶を飲みに行ったり、神奈川県立金沢文庫(博物館)に見学に行ったり八景島シーパラダイスに遊びに行くのと合わせて参拝に行かれて見ては如何(いかが)でしょうか?
江戸時代までの日本の神道のボスや、各時代の将軍様達と同じ空間で御参りすれば、昔の人達が大切にした意味を身体で感じられるかも知れません、瀬戸神社がタイムマシーンの様な役割に成って。

きっと皆さんの御近所の城址の山や神社仏閣も、凄い歴史偉人と関係が有る場所が今もあるはずです。
・・・家を飛び出して少し気分転換に御散歩してみませんか?

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪・・・次は何を書こうかな~?












前回の歴史解説記事⤵
瀬戸神社と手子神社・・・①金沢区の手子神社は瀬戸神社分社で東京の浅草寺の僧正が開いた神社。
コレ⤴の続き・・・

横浜市は実は鎌倉幕府の将軍や執権、室町幕府の将軍や鎌倉公方や関東管領上杉家、江戸幕府の徳川家康公を始め歴代将軍達が愛した景勝地や神社仏閣や関わった城址が沢山❝在(あ)った❞のですが、残念ながら2018年現在の横浜市長もそうである様に他所からの移民が政治家や市役所役人として就職する事が多く、その中の横浜への郷土愛も日本史や日本文化や文化財への理解も無い人によって大切な神社も境内地を大きく削られ歴史偉人の愛した景観が損なわれた場所も少なく有りません・・・
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実は金沢八景駅の直ぐ目の前に、そんな横浜市による文化軽視の悪い例でもあり、鎌倉幕府征夷大将軍の源頼朝公や執権の北条貞時公、室町幕府鎌倉公方の足利持氏公、徳川幕府初代征夷大将軍の徳川家康公が風景を愛し保護した神社の❝瀬戸神社❞が存在します。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
地図上の白い場所が金沢八景の地名由来に成った当時の日本に名を轟(とどろ)かせた景勝地時代に海だった範囲です。
瀬戸神社の山は元は半島の突端で金沢八景の海の入江と入江を繋ぐ半島と半島が近接し、そこに橋を架けられた❝ランドマーク❞と成る場所だったんですね。
今では面影も無く他都市からの移住者役人だらけの横浜市により瀬戸神社旧境内地の山は切り取られ見るも無残に僅かに社殿裏側の一部を残すだけに成ってしまいました。昔は金沢八景駅周辺までずっと続いていたんです。
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瀬戸神社(各時代の幕府の歴代将軍が大切にした神社)
さて、この神社は目の前の海に突き出した琵琶島弁才天と一体型の神社で、既にその事から昔は周辺をとりまく海の安全を守り且(か)つ周辺の海も山も含めて神社だった事が解かります。言葉を変えると自然信仰である神道の概念を無視し横浜市教育委員会が景観保護を怠り❝神社の一部を破壊した❞とも言えますね。
この瀬戸神社、最初は源頼朝公が伊豆の三島大社から大山祇大神(おおやまづみおおかみ/おおやまつみのかみ)の御神霊を分祀して頂き開いた神社です。
つまり・・・
源頼朝公が相武地方に三島大社から御分霊を勧進した10ヶ所の神社の一つである事が解かります。
足柄上郡開成町古田島の吉田神社や・・・
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吉田神社
三浦半島葉山マリーナ近く森戸海岸の森戸神社・・・
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森戸大明神(森戸神社)
・・・これらの源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進して開いた神社と同時に源頼朝公によって開かれた事が由緒から解りますが、特に鎌倉市街の外港玄関としての機能が在った金沢の瀬戸神社三島大明神と琵琶島弁才天は別格に将軍家から大切にされた様ですね。
今でこそ❝瀬戸神社❞と呼ばれていますが、三島大社の御分霊なので江戸時代までは❝三島大明神❞とも呼ばれ、当時の扁額(へんがく)にも三島大明神の名前が彫られ文化財に成っています。
三島大社や瀬戸神社の主祭神である大山祇大神は、神奈川県最古級の神社である延喜式内社としても有名な大山阿夫利神社と大山山体の神様でもあり、相模湾と相模平野のランドマークとして❝関東総鎮守❞の異名を持つ❝海の守り神❞でもあります。
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そして眼前の琵琶島弁才天も源頼朝公と北条政子御夫妻が今の滋賀県、近江国の琵琶湖に浮かぶ竹生島弁才天様から御分霊を頂き開いた、水神様で軍神で音楽神で美の女神でもあります。
そんなとんでもない由緒が有る凄い神社が瀬戸神社と琵琶島弁才天なんですが・・・
そんな事を知らない役人が横浜市には多い様です。
そんな凄い神社だけに残る文化財の数も現代の境内の規模から想像もつかない程沢山残っています。
数えればキリが無い位なので、もし興味が有る人は❝神奈川県立金沢文庫博物館❞で2013年に行われた特別展❝瀬戸神社~海の守護神~❞の時の図録が金沢文庫博物館の図書室で閲覧出来るはずなので探して見ると良いと思います。
一応、神社の説明の看板に幾つか文化財の説明が有りますので写真を添付します。
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この神社の凄い所は、江戸時代迄日本の神道の親玉で今の京都市左京区の吉田山~京都大学一帯が全て境内地だった吉田神社との関係が深く、明治時代に成ると国家神道から目の敵にされ弾圧された吉田神道と言われる神仏習合の神道の長であり、明治まで歴代天皇と将軍家から神祇官を束ねる役割を仰せつけられていた吉田(卜部)家からも大切にされていた事が古文書から解っています。
実際に享保三年(1718年)に神祇管領長上だった卜部兼敬(うらべかねたか)公は❝三嶌(みしま)大明神❞の揮毫(きごう=記念に書く事)をし扁額の字を書いています。そして彼はわざわざ京都から瀬戸神社に参詣に来て初穂料(はつほりょう=御賽銭)に白銀1枚、当時の宮司家の千葉胤治(ちばたねはる)公に金と藤原定家や寂連法師や西行法師(和歌三夕と呼ばれた和歌の名人達)の和歌が書かれた色紙を与えています。
今の横浜市は瀬戸神社の文化歴史を理解できておらず景観も破壊しますが、昔は神社世界のトップが直々に来る程に大切な場所だった訳です。
そして横浜市や房総半島や日蓮宗の歴史に詳しい人は「ん?」と思ったかも知れませんが、大名としての地位は戦国時代に終了した平安時代以来の武家の名門の千葉家は、実は金沢区六浦や瀬戸神社ととても関係が深く、日蓮宗の聖地の一つであり日蓮上人の船中問答の舞台である六浦山上行寺は千葉家臣団が房総から鎌倉に出勤する際の船着き場で、そこを管理した富木(とき)家の屋敷が前身に成っている御寺です。
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六浦山 上行寺
千葉家が没落し富木家の後に鎌倉時代上行寺を支援したのは金沢北条家臣と思われる荒井家で、後に戦国時代の北条家臣間宮家の家老の一家と成る家ですが、この荒井家も瀬戸神社に関わりが深く瀬戸神社と琵琶島の弁天様の在る島を結ぶ二重橋だった琵琶島弁才天の参道の橋を単独で寄進したのも荒井家でした。上行寺の御住職様に取材した時にこの話を伺(うかが)ってたまたま小生はこの歴史事実を知っていますが、恐らく知らない歴史学者の方が多いかも知れません。
この荒井家は横浜市磯子区杉田の牛頭山妙法寺も開いており、今も檀家として荒井家の御子孫が妙法寺には残っておりますし、江戸時代に笹下城主間宮家から分家した杉田間宮家の菩提寺として妙法寺は今も立派な間宮家御廟所が存在しています。
2015-01-21-13-16-37
牛頭山妙法寺
妙法寺はヤマトタケル神話の舞台の一つでもある元は弘法大師様が牛頭天王の御堂を立てた事に聖地としての歴史が始まる御寺ですが、こちらも以前に解説記事を書いたので御興味御有りの方は合わせて御覧下さい。
妙法寺の記事はコレ⤵
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
多分、瀬戸神社の琵琶島に架かっていた太鼓橋を荒井家が単独で架橋奉納した歴史を御存知なのは上行寺の御住職と檀家役員さん達位でしょう。それと北条家臣団と間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生なら御存知かも知れません。
鎌倉幕府将軍家や執権北条家が直接関与する程の格の「瀬戸神社」に単独で橋を寄進する事を許される家格と経済力が荒尾城主荒井家に有った事、そして千葉家が鎌倉時代~江戸時代末期までずっと金沢に宗教面で影響力を持ち続けて家も存続していた驚愕の歴史事実が、これらを繋ぎ合わせるとハッキリと解るんです。
因みに荒井家の荒尾城は幻の城ですが、小生は上行寺~横浜市大の裏山である御伊勢山~権現山一帯全てが荒尾城と推測し、実際に現地を歩いて城址としての削平地や竪堀や堀切の跡地形を見つけています。
それも以前、記事に書いて有るので興味の有る人は御覧下さい。
これ記事⤵
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。
室町時代には最後の鎌倉公方(関東を治める鎌倉将軍)と成った足利持氏公も直接参拝に来ていてこんな古文書が残っています。
塙不二丸所蔵文書
これは塙不二丸氏所蔵文書の一通として残る古文書の写しを小生がタイピングした物ですが、文中に登場する❝上様(将軍様)❞はつまり足利持氏公です。
因(ちな)みに何で小生がこの文書を知ったかと言うと、盛本先生が書いた❝瀬戸神社に来た足利持氏❞と言う文章を読んだからで、盛本先生の受け売りですね(笑)。
そしてこの文書のあて先は鹿島神宮の大禰宜(大宮司)中臣家宛てと盛本先生は推測されています。
ね?
神社仏閣好き、御朱印好きなら、もうここまでの小生の説明で瀬戸神社がとんでもなく格の高い神社だった事が御理解頂けるかと思います。
そして横浜市教育委員会が景観保護しなかったせいで土建屋が景観ぶっ壊しまくった悪事が判るでしょう?
そんな瀬戸神社と日本屈指の景勝地だった金沢の八ヵ所の景勝地、略して金沢八景を徳川家康公も遊覧に来ていて、洲崎町屋地区の龍華寺に徳川家康公が滞在し、瀬戸神社にも社領100石と破格の待遇で瀬戸神社を保護をしています。
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知足山 龍華寺
龍華寺の歴史は以前紹介記事を書いているので、御興味の有る方はソチラも合わせて御覧下さい。
龍華寺の記事はコレ⤵
龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。
瀬戸神社の社領(神社の収入)は徳川家康公から100石分与えられていますが、普通の神社や御寺の収入は歴史が有る場所も普通は5~10~15石程度が標準的なので、瀬戸神社がとんでもない大切な場所だったのがその社領の多さからも判ります。余談ですが出雲大社は2000石で最早ちょっとした勢力でした。

さて、瀬戸神社の歴史解説どうでしたか?
とぉ~っても!日本レベルで大切な神社さんなのが御解り頂けたでしょうか?
次回は三島大明神と呼ばれた瀬戸神社~琵琶島弁才天の社殿や風景を写真と共に解説します!
今日帰ってきたら書けるかな~?
もし書けなかったら又、来週末にUPしますね!

瀬戸神社と手子神社・・・③瀬戸神社、源頼朝公北条政子様御夫妻の愛した神社の現代の風景。の記事に続く・・・






北朝鮮問題の軍事的解決は「想像絶する悲劇」もたらす-米国防長官
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この人の事は本当に尊敬しています。
日本の物も含めアジアの六韜三略や曹操が編集した孫子等の戦略教本、平家物語や太平記なんかの戦史も凄まじい数を所持熟読してらっしゃるとか。

更には敬虔なプロテスタントで、明治以前の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗の僧侶の様な質素で清廉な生活をされ、浄土真宗以外の昔の仏教の様に不犯を守ってらっしゃるとか。
現代アメリカ人版の上杉謙信て所でしょうか?
上杉謙信

もっとも上杉謙信の場合は統治者としての所業は悪人でしたがね・・・
上杉謙信の場合は越後で飢饉が起きる度に掠奪目的で関東に来て、村々を焼き"女子供を拐(さら)って奴隷売買の公設市場を開いて年を越す"なんてトンデモ悪人の側面が有る。
彼が"義の人"と言われる由縁は政治的に権力が弱かった"剣豪将軍"足利義輝公に古今未曾有の忠義を尽くしたからで忠"義"の義なんだな実は。
・・・彼には正義は無かった訳だ。
頼って来た者が武田に侵略された領地に、"奪い返す"大義名分で攻め込んで支配下に組み込んでも実際には保護した者へ領地を返還せずに、代官として利用しただけだし。
そこへ行くと織田信長公は素晴らしい。
織田信長公

織田家が徳川家に度々援軍を送り更に遠江国の支配権を承認し恩賞に駿河を与えた事の寛大さが窺い知れるわな。
徳川家康公

裏切らず、兄貴分の織田信長公を信じて援軍を待ち続け、時には信長公の合戦に参戦した与党として誠実を貫いた本能寺の変以前の徳川家康公こそ正に「義」の人の称号は相応しい。
そこへ行くと徳川家康公の誠実さが良く解る不誠実で利己的な人物の代表は❝お艶の方❞だろう。
遠山家へ嫁いだ織田家の艶姫は酷い。女城主お艶の方として有名な人物だな。
おつやの方

遠山家臣団は織田家との関係を深める為に、艶姫を迎えて織田家と婚姻関係に成る訳だ。
城主は子が無く病弱(親武田派に毒を盛られていた可能性有り?)だったので、織田から見捨てられない為に❝織田信長公の実子の御坊丸を遠山家の養子に迎えた❞のだが・・・
織田包囲網が形成されて武田氏が織田領に侵攻して来るや、遠山景任公は戦傷が元で死ぬ。
果たして本当に戦傷が元なのだろうか?
この時期、織田家は岩村城救援の戦略で、明智光秀公や池田恒興公が東美濃で合戦に及んでいる。
しかし遠山家は情報過疎だったか武田領の信濃国木曽地方に隣接する所領を持つ親族衆達が鼻から武田派だったのか、当主倒れて後、秋山勢に屈し❝お艶の方と敵方の秋山信友の婚姻和議❞を画策して成立させてしまう訳だ。完全に保身の風見鶏。
織田が強ければ織田に靡き、織田が不利で武田が優勢なら武田に靡く。丸で某半島の国。
・・・決定的に酷いのは、お艶と秋山の縁談が纏まった際に❝信長公の実子の御坊丸を武田家に織田の人質として提供してしまう❞極悪非道な裏切り行為に出た訳である。
これで怒りに火が付いた織田信長公は、織田包囲網を打破する過程で裏切り者達の本拠地の岩村城を標的にする訳だ。そして殲滅戦を行い、風見鶏の様に信念も誠実さも無い遠山家の親族重鎮達を全て処刑し彼等に利用された艶を磔(はりつけ)にして獄門に処して裏切りの対価を払わせた訳だ。
岩村城に援軍を直接送らずとも戦略的に東美濃を奪還しようと奮闘した信長公と織田家臣団を利己的に裏切ったんだから当たり前だな。
この岩村城における織田信長公の戦略と事例と同じ事はマティス司令官もイラクで現地の酋長達に通達している。まぁ、現代人のマティス司令官の場合は軍事法廷に裏切者を引き出して裁判で処刑にするんだが。戦争中の基本的な事だな・・・
現代の軍隊なら世界各国どこも敵前逃亡と裏切りは軍事法廷で死刑は基本だ。
・・・但し裏切らず誠実に、そして勇敢に敵から領民を守った者は徳川家康公の様に評価され恩賞も貰えて信頼される訳だ。
この作戦を日本で早くから行った事で有名なのは坂上田村麻呂公だな。
坂上田村麻呂

蝦夷(えみし=アイヌ=縄文文化を続ける日本の民族)討伐でマティス司令官や織田信長公の戦略を先に行った人物。裏切ったり歯向かう敵は殲滅し、逆に縄文文化のアイヌ族でも友好的で協力的な豪族は朝廷に迎えて優遇し統治者として登用して行った訳だ。
因みに、この坂上田村麻呂公と同族と思われる古代の名将軍が神奈川県にも所領を持ち移住していた。
坂上石楯(さかのうえのいわだて)公だ。
藤原仲麻呂の乱で活躍して今の相模原市辺りを所領として賜り移住し、延喜式内社で相模原市の名倉に所在する石楯尾神社の近くに城館を構え、石楯尾(いわだておの)神社を支援した人物だ。
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上の写真は石楯尾神社は、そもそも日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、自らが装備していた草薙の剣と対に成る防具の天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の印として現在の石楯尾神社の辺りに埋蔵し、それが神格化された事に信仰が始まる。その化身として烏帽子岩も信仰対象に成っていたが近代、交通網整備の際に破壊されてしまった。

まぁ、そんな訳でマティス長官は日本の名将達と類似の戦略なんぞ頭の中に常識として入っている訳で、御本人も誠実で潔癖な様、そして実際に名将としても人格者としてもイラク現地で酋長達からも民百姓からも慕われた訳だ。
マティス司令官は法治主義者であらせられるので上杉謙信と違いモラルも高い紳士で、中東でも与力のイスラム文化の酋長達からも一目置かれた訳だな。これは凄い事だ。
或いは北朝鮮の軍人すら交流すれば彼を尊敬するかも知れない。
上杉謙信を引き合いにだしたので北陸の武将に例えるなら・・・
どちらかと言えば生活態度は上杉謙信、内面は直江景続、武勇は柿崎景家公、統治実績は柴田勝家公並の善政てとこか。
・・・ただ、色欲が無いので英雄では無く名軍師の範疇に留まる様だ。
欲の有る者のみが1番上に成りたがる。
まぁ、だから生涯陪臣を貫き通した小早川隆景公や黒田孝高公や直江兼続等は妻帯しても愛妻家で側室を持たなかったんだろうな。
「吾も斯く在りたい」とは思いつつ・・・
まぁ、小生は完全に名軍師じゃなくて短慮浅学でアホな猪武者人格なんだ。
だから、せめて社会の役に立つ事を1つで良いから行って死にたい、そしてそれは「小生がやった」と世に知られる必要も無い。
結果的に知っている人だけが知っていてくれて「あ~アイツだったのか」とか「アイツらしい」と死んだ時に友人達や歴代の彼女(笑)と恩師達や関わった宮司様達や和尚様達に心の中で褒めて貰えると嬉しい。
それで十分。

マティス司令官の様に生きてみたいなぁ~。
でも食欲の権化だし自分に甘から、憧れの域を出ないな~。
だから自分なりに小さくても社会の役に立つ事をしてから死のう。

佐助稲荷神社
御祭神:宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)=倉稲魂神
開基:不明
中興:征夷大将軍 源頼朝公
住所:鎌倉市佐助2-22-10
アクセス:鎌倉駅から徒歩15~20分程度
映画ドラマのロケ:駆込み女と駆出し男
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この鳥居が連続する風景が京都ではなく鎌倉に在る事を御存知でしょうか?
皆さんは鎌倉市に観光に行かれたら、やはり由比ヶ浜の海や鶴岡八幡宮、または小町通りでショッピングや食事を楽しむんでしょうか?
小生は八幡様にも御参りしますが、浄明寺地区と扇谷地区と佐助地区を季節の変わり目に好んで散歩します。 その地域は鎌倉市がまだ郡だった頃の原風景が残る風致地区で、神社や御寺が緑に囲まれていてとても景色が良いんです。
佐助地区には源頼朝公が再興した佐助稲荷神社と言う御稲荷様が鎮座していて、ここが特に日本らしい清々しい神々しい雰囲気を漂わせています。
実はここ、昨年2015年公開の‟駆込み女と駆出し男”でも登場した神社なんです。
駆け込み女と駆け出し男
映画の舞台はこの佐助稲荷神社や北鎌倉の東慶寺と七里ヶ浜を中心に物語が展開します。
女性の主権が儒教のせいで軽視された江戸時代、DV夫から逃げた女性が離婚し、恋愛し再婚する物語。

女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆け込み女と駆け出し男」
映画に興味が有る人は↑上のリンクをクリックしてご覧下さい。
ここは伏見稲荷大社みたいに全山が稲荷社と言う訳ではありませんが、谷戸の奥、宅地開発が規制された場所に佇んでいます。

入口には下社と言うか社務所と縁結びの観音様が有るのですが、 そこに至る住宅街には少しお洒落な住宅兼店舗のカフェも数件有ります。
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 こんな感じ。この辺りは御金持ちの家が沢山(笑)。
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 この道の先が佐助稲荷神社。
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参道にこの御社が登場しますが、ここは下社ですから!この先にもちゃんと行ってくださいね!
ここだけ拝んで帰ったら、兼好法師の石清水八幡宮詣でみたいな事に成っちゃいますよ(笑)。
でも、ここも大切な場所ですから、拝んで下さい。そして横に在る祠(ほこら)にも注目して下さい。
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 この十一面観音菩薩様は“縁結びの御利益”で昔から有名な場所です。
今でこそ外に在りますが、恐らく明治時代に神仏分離令が出るまでは先程の御社の中に祀られて佐助稲荷神社を参拝する人々を見守って下さっていたんだと思います。
今は外に出て御参りしてくれる人に縁結びの御利益を授けてくれます。
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さて、何故(なにゆえ)、ここの地区名の由来に成った佐助稲荷神社が、この社名に成ったかと言いますと、源頼朝公の御父君の源義朝(よしとも)公が平清盛に合戦で敗れ、更に愛知県の知多半島で家臣の長田忠致(ただむね)に暗殺されると、源頼朝公は伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)、現在の伊豆の国市韮山に抑留され浪人生活を送る事に成りました。
この後、北条政子と婚姻関係と成り北条家や旧家臣団の一部と共に石橋山の合戦で挙兵し、その後の鎌倉幕府樹立と成るのですが・・・
この伊豆に居た時代の頼朝公の官職は右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)を辞職し無官だったので、頼朝公の通称は前(さきの)右兵衛権佐殿と呼ばれていました。
その頃、頼朝公は三日三晩夢にうなされ、この地の御稲荷様が老人の姿で頼朝公の夢に出て挙兵を促(うなが)したので石橋山合戦を起したそうです。
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つまり、ここは下社の十一面観音様は縁結び、奥社の稲荷大神こと宇迦御霊神は頼朝公を出世させた出世稲荷として御利益が昔から超有名だったんですね。
頼朝公=前右兵衛権‟佐”を‟助けた”から、この御稲荷様が以降、佐助稲荷神社と言う名で呼ばれる様に成ったそうです。
その御縁で頼朝公から社殿を再建され、現在の稲荷社の基礎が復興されました。
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ここは冒頭でも紹介しましたが自然豊かで静かな場所です。
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小さな鳥居のトンネルをくぐると参道の階段に辿(たど)り着きます。
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ものすご~く神社神社した神社でしょう?
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鳥居と夏の終わりの緑も綺麗ですが、この境内には楓が沢山有ります。
今年は昨年と異なり涼しい秋に成るのできっと、紅葉も色づきが綺麗な事でしょう。
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ちっちゃい御稲荷様が沢山!
鳥居を潜って正面の社殿は拝殿です。
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御本殿は、背後の階段の更に上に在ります。
でも先ずはこちらで御参りして、それから境内の本殿等を散策しましょう。
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小生、先週写真撮影に御参りに上がって新しい御朱印帳も延喜式内社以外の神社使用に購入しました。
ここは宮司様が坂ノ下地区の御霊神社と兼任で務めておられます。
実は御霊神社の先代宮司の小林前宮司様は昨年御隠居されてしまいましたが、その小林様はもの凄い家系の方だったんです。非常に引退が悔やまれる。
と、言うのも鎌倉の権五郎御霊神社は鎌倉景正(かまくらかげまさ)公とその祖先の平良文(たいらのよしふみ)公が御祭神で、この御二人は上杉謙信の御先祖様にも当たる方々です。
その平良文公の居城の村岡城を姓にした直系の御子孫で、代々村岡家が御霊神社の宮司様を平安時代以来務めていましたが、小林前宮司様は女性だったので結婚し姓が変わり、更に跡継ぎがいなかったので現在の宮司様が外部から赴任する事に成り、その1100年近い御祭神の直系子孫が宮司を務める伝統が途絶えてしまったんです。
しかし、職員様の御話しでは新しい宮司様あ血縁こそ無くとも、とても熱心な方でどうやったら廃(すた)れつつ有る古来の伝統を未来に残すか日々チャレンジされているそうです。
御朱印を頂きましたがとても新しい宮司様は字がとても綺麗でした。

←以前紹介した御霊神社の記事。

さて、佐助稲荷神社に話を戻します。
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小さな本殿には沢山の折なり様がビッシリ奉納されていました。
可愛いけど少し多すぎ(笑)。
佐助稲荷神社は境内の左手にも古い御社が在りました。
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なんだか童話に出て来そうな雰囲気の場所。
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小さな神様の祠が沢山在りましたので、恐らく昔の境内社の何某かの神様が祀られているんだと思います。
詳細は不明。
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下に又降りて来て拝殿の右側に廻り、その奥に行くと・・・
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こんな場所が有ります。
自然湧水。
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昔の宇賀神信仰に欠かせない自然の湧水。
現在の手水舎の水は、この水が引かれています。
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社務所で御守り等も販売しています。是非!恋人同士デートで御参りして見ては如何でしょうか?
近くには‟銭洗い弁天”として有名な‟宇賀福神社”も鎮座していて徒歩で直ぐに行けます。
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ここで御金を洗って金運アップを祈願して、佐助地区から武士達が往来した‟化粧坂(けわいざか)の切通し”を散歩すると鎌倉の原風景を巡るコースを散策できます。
化粧坂の切通しを抜けて扇谷地区まで行くと、海蔵寺が近くに在ります。DSC_2487
海蔵寺は十六井と呼ばれる文化財の井戸と春に咲くカイドウと言う花が綺麗で有名な御寺も近くに在ります。
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ここも観光客が良く訪れる場所です。
そこから小町通へ歩いて行く途中には英勝寺と言う御寺も有ります。
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ここは紫陽花(あじさい)で有名な場所ですが、実は徳川家康公の側室として寵愛された‟お梶の方”様の開いた御寺であり菩提寺でもあります。
だから、お梶の方の御廟所は東照宮の様な唐門でとても綺麗な建築物も有ります。そして御梶の方様の御先祖で関東一の名軍師だった太田道灌公の旧屋敷地でも有るので、こちらも御参りすると恋と知恵の面で御利益が期待できそうですね!
そして小町通を目指して歩くと、途中で名刀正宗を平安時代から製造する刀鍛冶の正宗工芸さんも在ります。
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ここでは日本刀を作る各段階の実物が店先に展示してあって自由に見学出来ますし、刀以外にも御子孫が正宗の技術で鍛える包丁やナイフも購入出来ます。夫婦の散歩なら包丁を買って帰るのも良い財産に成るかもしれませんね。
正宗工芸を過ぎればもう小町通・・・
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夕暮れ時の小町通は、ほんとに映画の世界に入り込んだような雰囲気ですよ!
そして日没直後の鶴岡八幡宮・・・
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なかなか日没後に参拝する人はいませんが、運が良いと夕暮れ時に松明(たいまつ)の中を歩く婚礼の儀式を見る事が出来ます。
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どうです?
佐助~化粧坂切通し~扇谷~小町通り~夜の八幡宮散歩、とても幻想的で良いでしょう?

もし気に入って頂けたら、是非!佐助稲荷神社、素敵な場所なので御稲荷様に会いにいってあげて下さい!
きっと御稲荷様も喜んでくれると思います。
・・・そして、鎌倉の武士達が歩いた空気を感じてみて下さいな。

では!又、次の記事で御会いしましょう!



 

10月02日、愛知県を去る日。

…と、休日雑記を始める前に、この「去る」と言う言葉、これ不真面目な大和朝廷の国費留学生が中国の漢字の意味を日本語に誤植して広めてしまった言葉なんだよな。
本来「去(qu)」と言う言葉は日本語の「行く」と言う意味。
そして華語の「行(hang)」 には「行なう」と言う意味と「行(xing)」「出来るよ(❝いいよ❞と言う肯定的ニュアンス)」と言う意味しか無い。これは昔から変わらない。
だから仏教経典もそういう意味でしかこの漢字を使っていない。
日本人に広まった漢字の意味には色々と間違いが多い。
勉強も無理をすると言う意味しか無い。
日本語に誤植された「勉強」の意味の華語は「学習」か「学」しか無い。
「娘」は中国語で「母」の意味しか無い、ハッキリ言って真逆。娘の意味の華語は昔から「女児」、現代語では「女孩」とも書く。子供は孩子だな。子供と中国語で書いたら古語でも「子等(ら)」と複数形に成ってしまう。  
なんと漢字の誤植の多い事か・・・古代の国費留学生不真面目だな。絶対に大和朝廷の金で遊んでただろ。

さて、この日の朝は一宮市のアパホテルと言うチェーンのビジネスホテルの部屋から始まった。
このホテルを選んだ理由は愛知を去る前にどうしても参詣したい神社の近くに所在するからだ。
その神社の名は尾張国一之宮の真清田(ますみだ)神社。有る時期は熱田神宮より大切だった神社な訳だ。

この日の計画では8ヵ所巡る予定だった。その内、6ヶ所は静岡市内。6ヶ所回るには最低6時間強を見て置く必要が有る。日没が18時位、逆算すると昼の12時には市内に入ってないといけない。一宮市~静岡市まで休憩無しで運転しても約3時間かかる。そうなると朝の9時頃には真清田神社を参拝しないと予定がこなせなく成る。
一宮市で見たい場所は浅野公園(浅野長政の居城址) と真清田神社だ。
つまり、早朝9時に真清田神社の開門と同時に参詣出来る様に戻って来れる時間に 浅野城址を見学に行かなならない。そうなると必然的に7時頃には出発しないといけない。朝食も食べてられない訳だ。
そんな訳で6時に起きて荷造りし、少し時間が余ったので仮眠した・・・
失敗した(笑)。予定より遅刻だ。
・・・起きたら8時過ぎていて慌てて着替えて浅野公園へ出発。幸い、アパホテルから車で15分位と近かった。
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石柱に邸址とは書いて有るがハッキリ言って城。完全に小さい城。
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 水掘りが良く残る。
ここに義理の舅に会いに若い時分の秀吉も来た事だろう。妻の寧々さんも一緒に。もしかしたら前田利家も来たかも知れない。蜂須賀正勝公や前野長安公も生駒家長公も生駒一正公も来たかも知れない。織田信長公も遊びに来たかも知れない。皆、青春時代に上下身分主従関係の差は有れど友達だったみたいだからね。
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本当、一宮市は都会なのに、良くもこんなにちゃんと城址を保護して下さったものだ。素晴らしい。
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中は良い具合に苔むして、天然の日本庭園みたいな雰囲気だった。そして苔が生えている場所も土塁の遺構。
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いや~広くは無い小城だけど、すんごく雰囲気の良い日本庭園化した城址公園に成ってました。
 一宮市の人は意識が高いんだね~!丸で横浜の三渓園が普通の公園に成ったみたい。
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多分、井戸の跡。
木の葉に埋もれちゃってるけど‟寧々の水”と書いて有る。秀吉の奥さんの寧々さん、後の高台院様がここで水仕事した伝承が有るのかな?
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ちゃんと石碑が建っててね、後世に伝えようとした先輩達の記録を現代、小生達が読む事が出来る。
でもGHQの愚民化政策で日本の公用語の漢字が現代の字体にされたせいで、少し昔まで日本人が読んでいた繁体字の漢字が読めない人が多くなってしまった。台湾の人なら読めるかな。
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多分、ここは本丸。周囲より少し高い。でも狭い。本丸と言うより、館主の部屋が有ったスペースなのかな?
なんにせよ小さくもとても良い城址でした。
来て良かった。
満足して真清田神社に出発。
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さすが尾張一宮、すっごり立派!しかも延喜式内社で古代の水神信仰の伝統をちゃんと引き継いでいる神社。

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とにかく立派。多分、この橋の左右の石畳は昔は川だったはず。
安全上の都合か暗渠に成っている様だ。
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社紋が少し上杉家に似ている。雀がいない竹の社紋。初めて見た。
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社殿は当然だけれど立派。
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比較的新しい他の社殿が多く見受けられたが、延喜式内社らしく古代の自然信仰も境内のそこかしこに残っていた。

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御神水を大切にする風習。
この湧水や池を聖地とする縄文時代以来の風習、昔からある神社でも社殿が重視された明治時代以降に自然崇拝が廃れて只の池や井戸くらいにしか認識してない不勉強な職業神職がいる神社だとぞんざいに扱われていて荒れ放題だったりする。古い神社程、自然湧水地の山や池、古代の海に面していた元は半島だった丘の上やなんかに社殿が建っている。
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この風習を大切にしている事が真清田神社が由緒正しい神社である証拠でもある。素晴らしいね。
そして、もう2箇所、古代からの風習を受け継いでいると推測出来る境内社が在った。
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服織神社。
実は一宮市は近年まで繊維産業が主産業だった。養蚕や紡績業が盛んな地域なのは、ここ真清田神社が有る時代の古代の豪族の首府であり、布を生産する拠点が存在した証拠でも有る訳だ。
だから、この衣類に関わる神様が大切にされているんだろう。養蚕が盛んに成ったのは絹織物が入って来たであろう卑弥呼の弥生時代前後。その頃にはこの神社は豪族の領地運営の拠点だった名残りだろう。
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ただ、この御祭神と七夕の織姫を結び付けるのは後世の仮冒だろう。
そもそも‟端午の節句”‟七夕祭り”‟中秋の名月”‟正月”は中国伝来の習慣。
だから七夕の織姫と彦星も中国から来た伝承なのを、伝来から千数百年も経過すると有る時代から日本人は自分の文化と勘違いした訳だ。ともあれ、先人が守って来た伊勢神宮と同じであろう養蚕や繊維技術を伝承する為の神社として機能した事は疑う余地も無く、弥生時代の風習の名残を今に伝えてくれる大切な場所な訳だ。
そしてもう一つ・・・
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厳島社と八竜神社が仲良く並ぶ境内社。
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ここも広い自然湧水地の池だった。
実は真清田神社は弘法大師空海和尚が旱(ひでり)の酷かった年に来訪して雨乞い神事を行った伝承が有る。
現代の神社の建物と御神体重視の明治以来の神道と異なり、真言宗と天台宗と修験道の僧侶は神事にも精通していて、宮司様達と一緒に雨乞い神事を行ったりしていた。だから現代でも真言宗と天台宗の寺院には境内に神様の御社が在る場所も多く、修験道の山伏達は仏事にも神事にも精通している。天狗さんが山伏の代表みたいな存在だな。
古代、雨乞いが行われる場所は湧水地や枯れない池や水深の深い淵(ふち)、滝の傍等だった。
恐らく、この場所が空海和尚が雨乞いを行った場所だろう。
そして龍神信仰と弁天信仰は水神信仰とも密接に関係が有った。
八竜神社の御祭神は多分、元は八大龍王で仏教の取り込まれたヒンドゥー教の神様だったはず。明治の神仏分離令で八竜神社に名を改めている筈だ。
江南市の生駒家の龍神社と同じ経緯が有るはず。あちらも雨乞いの伝承が残っている。
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※江南市龍神社前の雨壺池
神奈川県の延喜式内社の大山阿夫利神社の主祭神は大山祇大神(おおやまづみのかみ)だが御祭神にも高神(たかおかみ)と言う湧水地に祀られる龍神様がいて天狗信仰とも習合されているが、大山阿夫利神社は古来、雨乞いの神様でもあった。
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※伊勢原市の大山阿夫利神社。本殿の地下に湧水地が有り、参拝者は水を飲める。大山の山体自体が御神体だが、大山には滝も多く在る。
弁財天様は日本の倉稲魂神(うかのみたまのかみ)=宇賀神(うがじん)/宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)に習合されているが、宇賀神は関東では水の湧く洞穴の中に祀られる文化が多く残った。
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※鎌倉市扇谷地区の海蔵寺。洞穴の湧水地に祀られる宇賀神。
宇賀神は鎌倉時代迄は女性の頭に蛇の半身を持つ姿が多い。
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※鎌倉市佐助地区の宇賀福神社。正式な社名よりも銭洗い弁財天の異名が有名。源頼朝公が神託を得て辯財天を宇賀神の祭祀様式で祀った神社。洞穴内の湧水地に祀られる。
この様に・・・
1古代の豊かさの象徴が❝安全な飲み水❞の段階で宇賀神として洞穴の水辺に祀られ・・・
2時代が下り豊かさの象徴が❝豊作の稲と保管する蔵❞に変わると宇賀神の字は倉稲魂神と書かれる様に成り御稲荷さん、稲荷社に姿を変え洞穴では無い耕作地に祀られる事が多くなった・・・
3武士の時代に貨幣経済が主流に成り豊かさが銭金に代わり、仏教の興隆で仏教に組み込まれたヒンドゥー教の軍神で財神の女神サラスバティ神が七福神の弁財天として日本に紹介され、豊かさの御利益の宇賀神と同一視され、水神の性格も持つ宇賀神と弁才天は平等に祀られる様に成った。
4明治の国策神仏分離令で弁財天は弾圧され、弁天信仰と社殿の存続を計った明治の宮司さん達の知恵で、水神様として有名な一杵島姫を祀る厳島神社に名を改める事で存続が図られた・・・つまり、この時点で稲荷社と宇賀神社・弁天社は別の性質に分かれた・・・
だから、恐らく真清田神社の厳島社も当然明治時代以前は弁天社か宇賀福神社の名前で呼ばれていた筈。
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雨乞いの水神様の性格が強かったから、八竜神社も一緒に存在するんだろう。
とにかく、真清田神社は古代の信仰の博物館の様に各時代の信仰が残り、先人達から引き継いだ文化を大切にしている神社であり、かつ神社の社殿を大切にする比較的新しい神社の信仰も併せ持っていて、古代から中世近世近代現代とある意味全ての時代の庶民の生活の守り神を担っている大切な場所な事も理解できた。
真清田神社参拝は当初30分程度を予定していたが、1時間以上も滞在し見応えが有った。
予定が押してしまったので、この後の行動に影響も出たが、参拝は非常に有意義だった。
ここを訪問して暫くの間、愛知を離れる事にした。
次の訪問は数ヵ月後か、1年後か・・・
車に乗ると、名古屋高速経由で新東名に入り、途中2回ほどPAで休憩した。
写真は撮り忘れたが昼食代わりに食べた名古屋の金山名物のあんこ巻きが美味しかった。
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静岡市街地に入る前、2回目の休憩を掛川でとり残り時間と訪問場所を再確認した。
この日の予定では・・・
・華陽院(徳川家康公の祖母と家康公の側室の間宮家の姫様の菩提寺)
・駿府城
・宝台院別院(旧:照久寺)
・久能山東照宮
・三保の松原
・薩埵峠展望台
・・・を廻る心算だったが残り時間的に4ヶ所を廻るのが限界だった。
静岡市に入るのが13時頃、1ヵ所の見学時間を急いで40分程度、移動時間に20分、17時半頃に日没。
そしてこの日は静岡市内の天気予報が降水確率が比較的高い曇天だったので必然的に天気に左右される場所を優先順位を下げる必要も有り、三保の松原と薩埵峠は結果次第で行けたら行くと言う感じに改めた。
最初に訪問したのが電話でアポを取っていた華陽院の御住職様の所だった。
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華陽院は江戸時代の静岡市の度重なる大火で建て直されて来たが、第二次世界大戦の空襲で再び焼けて、現在は火事に強い鉄筋コンクリートで堂宇を再建した。伝統ある建築も大切だが完全に焼失したのであれば残った寺宝や書物を保護する建築にする事も未来に先人の記憶を伝える崇高な手段の一つだと思う。
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この華陽院は徳川家康公の祖母の源応尼様の戒名の院号から現在の寺院名に改名された。実は家康公は今川家の人質時代にこの御寺に頻繁に遊びに来ており、当時の御住職から読み書きを教わったそうだ。
今川義元の軍師の太原崇孚雪斎(たいげんすうふ)が教育した等と俗説が有るが、三河の大名の嫡子の家康公に桶狭間合戦時にも手勢300を率いれる程度の処遇しかしておらず1万石規模?と相当に冷遇しているので、太原雪斎が自ら教育する等と言う事は無かっただろうと個人的に思う。やはり俗説だろう。
それよりは、ちゃんと記録に残る通り祖母に面倒を見られながら、この御寺で遊び学び面倒を見られて育ったんだろう。
そんな場所だったので、家康公は祖母の源応尼様が亡くなると子供の時に遊び学んだ御寺の御住職に、祖母の菩提を弔う様に供養を依頼した。
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その華陽院に、後に横浜の間宮康俊公の御息女の於久様が駿府城で徳川家康公の愛妾と成り姫を産み生涯を終えてから、御廟所が設けられ現在も、その菩提が弔われている。
家康公ととても御縁が深く、間宮家も家康公と直接御縁が有った事を強く伝える御寺の一つだ。
源応尼様や於久様の御廟所は現代も存続するが、小生の主義で理由もなく御墓の写真を掲載するのは偉人を盗撮する様なもので不敬なので今回も掲載しない。
墓前に参詣したい方は、華陽院を訪れ御住職様に許可を頂きにあがれば必ず快く受け入れて貰えると思う。
御住職様は知識が豊富で性格も偉ぶらずとても明朗な性格の方ですから。
小生も色々と一般的な書物には掲載されていない松平忠長公の逸話を聞かせてもらえたり・・・
華陽院は徳川家所縁の寺院なので浄土宗にも関わらず、小生が尾張生駒家の久昌寺の窮状を見て来てどうにか出来ないかと心痛抱いた話をしたら、色々と具体的なアドバイスも頂く事が出来た。
何にせよ、御住職のアドバイスを無駄にしない為にも、小生が日頃から信長公と生駒お類様を崇拝し、そして家康公と於久様も拝んで御加護頂いている以上は無力なりに動き回ってやれる事をやらないといけないと思う。
それに、織田・徳川・北条・間宮の殿様だけじゃなくて和泉式部様や菅原道真公達、文化の神様仏様に成られた偉人や不利な合戦でも戦い抜いた三浦義意公や北条綱成公や間宮康俊公や、源氏や平氏の歴代の棟梁様も崇拝している以上は何もしないで放置すると言う選択肢は自分の信心を失う事にも成るからね。
やらないと。
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一しきり、御住職から様々な表に出ない歴史話や、廃れ行く神社仏閣の話を聞いた所で一つ許可を貰って御寺の玄関に飾ってあった駿府城下町の町割り図の複製を写真に撮らせて貰って駿府城に移動した。
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駿府城坤櫓(ひつじさるやぐら)は城の入口近くの静岡県庁前の通りから見ると迫力がある。
最近の復元だそうだ。
もう、この時点で事前の昔の城域を確認してあった上に、実物の石垣の高さ、堀の幅を見た時点で東海地方一の城だと確信した。ハッキリ言って石垣を見ると一目瞭然、日本屈指のレベルで立派だよ、やっぱり。
現代でこそ多くの建物は明治時代に破壊されて現存しないが、それでも石垣は非常に素晴らしい。
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この入口は、昭和に成って石垣を破壊して後から作られた偽物の入口。どう見たってコンナ単純な構造を当時の人が縄張りする訳が無いし、石垣が綺麗に断面に成ってる時点で笑い話しにも成らない破壊だな。
我が神奈川県の名城小田原城も明治に大破壊に遭い、残った石垣も昭和の無文化建設会社による公園整備の際に変な場所に橋を架けられた。昭和の高度経済成長期の仕事って荒いし雑だったんだよね。
ともあれ、この駿府城、うちの神奈川県知事や横浜市長みたいに無文化な方では無い意識高い静岡市長と静岡県知事と静岡市民の皆さんの仕事で城址公園として再整備が進みつつある。
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例えば、石垣の構造が素人にも解る展示物が有ったりする。
説明看板と実物の展示だね。
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これは素晴らしい。解説を読んでこれを見れば、予備知識の無い人も構造を理解できる。
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何よりも素晴らしいのが、この坤櫓(ひつじさるやぐら)や東門の巽櫓(たつみやぐら)の復元だ。
復元したから素晴らしいのではなくて、その復元の方法が素晴らしい。
地下に元の地盤を発掘後埋め戻し、少し高く盛土して遺跡を埋蔵し破壊する事無く上に建設当時のままに櫓を再建したのだ。
しかも法令で層階に人を登らせる復元が出来なかったので、上層階まで建築した上で床板を貼らずに天井まで下層階から構造を見渡せる様に再建しているのだ。さながら江戸の築城技術の博物館の様に成っている。
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展示方法も素晴らしいのだが、ここの解説員様は本当に素晴らしかった!
小学生が聞き入っているのが一目で解る良い解説。
そして江戸の落語の噺家(はなしか)の様に声が良く通り聴き取り易い。
一しきり解説が終わった所で小生が個人的に溜まっている疑問で質問攻めしたが全てに明快に答えて下さり、仕事としてだけでなく個人的にも御城と歴史が大変に御好きな様だ。
駿府城の話を外れた今川家の居館跡に関して質問もしたが、現在では詳細不明でいくつか候補地が有る事等も丁寧に解説して下さった。
いや~復元も素晴らしいけれど、こういった一般受けもしてオタク受けも良い解説員を雇う静岡市の仕事は本当に素晴らしいと思いますよ。
神奈川だったら外見だけの女解説員か市役所の良く解ってない職員かなんかが業務的な面白くない解説して終りだろうね。
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その解説員さんに教えて頂いたのが、この‟きゃっしる”と言う簡易施設。
実はここ、現在発掘調査中の本丸水掘りの横に併設されている簡易展示室。
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こんな感じの資料とか・・・
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こんな徳川家康公に関する基礎知識を学べたりする。これ、中学生高校生の年齢で歴史好きな子だったら嬉しい掲示物だろう。
ここでは発掘調査中の石垣と水掘りが見られた。
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いや~凄い貴重な経験だよ!
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写真だと伝わらないかも知れないけれど、凄く巨大な石垣。石の一つ一つが巨大だから遠近感感じないけれど実物は物凄く大きい。
大阪城の石垣にも負けない巨大さ。
今しか見られない貴重な風景。
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本丸跡の中心は家康公の銅像が立っていた。
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あと、有名な金言の石碑。
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あと、家康公が自ら植樹した蜜柑が林に成って茂っていた。同じく手植えの蜜柑が華陽院にも有った。
家康公はミカン大好きだったんだね。だから静岡の特産品に成っているのかな?
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東側から発掘された本丸水掘りの遺構も展示されていた。
明治に軍の駐屯地に成った時にいしがきは崩されて堀は埋められてしまったそうだ。
これは先月見て来た佐原城や小田原城なんかと同じ。明治政府は世界的に見ても優秀な政府だが宗教政策の失敗と文化財破壊が汚点だったな。
この堀の先に、東御門と巽櫓が復元されていて坤櫓と合わせて有料だが拝観出来る。
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勿論、文化度の高い静岡県民の仕事、この矢倉の内部展示物も写真撮影自由!素晴らしい!
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中は豊富な展示物があり、江戸時代の駿府を知る事が出来る。
いや~本当に巨大な城だよ。
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ちなみに、これが巽櫓と言う東御門と枡形虎口が一体に成っている防御施設。
街道を城下に組み込み敵の侵入を阻む北条流の築城の影響が見られる。
そして縄張りの大まかな構造は長大な帯曲輪を屈曲させる徳川流と枡形虎口を多用する北条流の合わせ技。
関東東海の城の良い所を併せ持ってる城が駿府城な訳だ。
四角を三連にした造りはコンセプト的に西洋の城の構造にもなんとなく似ている。
三浦按針や耶揚子も関与したんだろうか?
滞在時間は早歩きで移動してもじっくり見学し40分程度。もう少しゆっくり見学したかったが予定がケツかっちんだったので駐車場に戻り、次の目的地の駿河区に在る宝台院別院と久能山東照宮を目指した。
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宝台院別院。
元々は照久寺と言う寺院だった。近代荒廃し徳川家所縁(ゆかり)の宝台院の御住職によって保護された。
この御寺は久能山東照宮にとっても、横浜の殿様の間宮家にとっても凄く大切な場所なのだが・・・
この宝台院別院の前には赤橋が架けられている。
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恐らく昔から赤橋だったのだろう。
実はこの道は久能街道の旧道、つまり江戸時代当時の道。そしてこの川を渡ると東照宮の参道に至る。
つまり、東照宮の最期の関門。恐らく、駿河に松平忠長公が居られた頃には、この場に架かっていた当時の橋を渡って東照宮を参詣されただろう。
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宝台院別院の話に戻る。
何故、この御寺が東照宮にとっても間宮家にとっても大切かと言うと、この照久寺は元々榊原照久公の菩提寺だからだ。この榊原照久公、偉大な人物で石高は1800石と大身とは言えないながらも最終的な官位は従二位、久能山東照宮の初代宮司を務めた人物なのだ。
そして・・・杉田間宮家の当主で徳川家康公の鷹匠頭を務め関ケ原でも活躍した間宮信繁公の御息女を娶った人物でもある。
この間宮の姫との間に生まれたのが榊原越中守照清公で、東京都江東区越中島の由来に成った人物だ。
この越中島周辺は後に埋め立てられて深川と呼ばれる地域に成り、そこに幕末に住したのが間宮林蔵だった。
地縁と血縁で間宮家と結びつきの有った人物で、日本の神職や徳川家臣団から見ても偉人と言える人物だ。
そんな照久公が葬られたのがこの御寺だが、明治以降の廃仏毀釈の影響で衰退し、廃寺同然に成っていたのと宝台院の御住職が救ったそうだ。
実は、その扁額は海に打ち捨てられていたのを御住職が発見して御寺を復興したそうだ。
学者達は知らないが、実は照久寺は今もひっそりと存続している・・・
御住職の熱意で、秘密の場所に。小生は訪問時に横浜と照久寺と間宮家の御縁を管理人様に御伝えし、御朱印を頂いた際に御好意で色んな事を御教授頂けて、更に、秘密の照久寺を参詣させて頂けた。
光栄だった。そこには榊原家の御子孫もいらっしゃるそうだ。
間宮家の顕彰文が完成したら、納経をしに行こうと思っている。顕彰文も見て頂こうと思ってる。
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宝台院から東照宮の参道は近い。徒歩で5分、車で2~3分だろうか?
車を大鳥居の前の“かどや名産店”さんの有料駐車場に停めて参拝した。
・・・この久能山東照宮、前進が久能山城と言う山城だけあって普通の神社を想像するとビックリする。
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鳥居を過ぎると右手には両大師こと天海大僧正所縁の塔頭が有る。今では無住職の小さい御堂が有るだけだが、徳川家の歴史を垣間見る事が出来る。
ここからが大変!
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階段が九十九(つづら)折りに続き一気に社殿の在る旧城域まで登って行く。これは山城時代に無かった参道を崖の壁面に後から作ったせいで急に成ったと個人的に推測している。
実際、旧道は東側に有ったらしい。
階段は蛇行している分、段差は緩く登り易い。とは言う物、かなりの高低差を一気に登るので見下ろすと高所恐怖症の小生には大分怖い。
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しかし絶景!
久野の海岸が一望できる。この景勝を東照大権現家康公は生前、大変に気に入っていたそうだ。
そして、久能山は駿府の本丸の様に感じるとも話していたそうで、この景色と街道と清水の港を押さえる久能山城の重要性から確かに納得出来る。
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途中で質素な門が有るが、ここは久能山城時代からの大手門だったらしい。
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先に進むと勘助井戸と言う井戸が有った。CIMG0828
武田信玄の馬回りを務めた山本勘助に関係が有るのだろうか?説明が無いので良く解らなかったが多分、推測の通りだろう。
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ちゃんと社殿の説明は有った。日光山東照宮と同じく、相殿に織田信長公と羽柴秀吉を祀っている。
羽柴と小生が書くのは、彼が織田家を討ち滅ぼした逆臣だから織田家臣時代の姓で敢えてそう書いて置く。
まぁ、経済制度を刷新した点は尊敬していない訳ではないが信長公が生きていれば、秀吉より素晴らしい事績を残しただろう。
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この東照宮は日光と違って朱漆が綺麗でより神社らしい。
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日光も格別だが、白が多く安土桃山時代から江戸期に入った直後の城郭的な印象が強い。
こちらは完全に神社。
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この日は16時30分頃にギリギリ参詣したが、外国人参拝客と一緒のグループと、2組のカップルがいた。
平日閉門に近い時間でもあり、参拝客は少なかった。
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明治時代の神仏分離までは熊野大社の様に神仏習合の神社らしく三重の塔も有ったらしい。
鶴岡八幡宮や石清水八幡宮にも同様に仏塔が有った。
まぁ、昔は大きい神社仏閣はだいたいが神宮寺だったからね。
神道も仏教も相互に協力して日本文化と歴史を守っていた訳だ。
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社殿はどれをとっても綺麗で、神社らしい神社の様式を守りつつ、安土桃山時代の文化の影響を留めている。
江戸時代の神社仏閣の社殿の様式より美しい。
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いくつかの社殿を通り過ぎる。
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するといよいよ本殿の前の門に辿り着く。
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残念ながら社殿は部分的に修復中で足場が組まれていていた。
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本殿の写真がぼやけているのは家康公に、プライベートな場所だから遠慮してねって注意だと思っておく。
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昔は恐らく徳川将軍家と親藩の大名しか入れなかったであろう家康公の舎利を祀った奥院へも参詣出来る。
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本殿美しいな・・・
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本殿の横を過ぎてこの門を過ぎると、奥院への階段に出る。
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この先に、家康公が今も祀られている聖廟が在るが写真を掲載するのは小生の主義で今回も止めて置く。
拝みたい方はご自分で是非御参りして家康公に御挨拶をなさって下さい。
ここに来れば信長公にも秀吉さんにも御参り出来るしね。
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奥院にはこんな場所も有った。
家康公らしいエピソード。でも後で細川忠興公が書き足した分は悪いけれどセンスを感じない(笑)。
忠興公の、ハッキリ言って無理やり過ぎ(笑)。でも内容は正しいね。
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帰り、社務所で御朱印を受け取り御挨拶をして、又、恐怖の階段を下りて行った。
そして車に乗って暫く走ると三保の松原に近づいた頃に日没を迎え、そのまま横浜を目指して帰る事にした。
夕食は東名高速のEXPASA富士川 の上りで静岡名物の桜海老の天ぷらそばを食べた・・・
写真撮影したのに何故か保存されてない。すいません。
でもこの桜海老の天ぷらが巨大で、とても食べごたえが有って最後に静岡らしい食事が出来て良かった。
上りの東名高速は工事渋滞で中々進まないので、大井松田で高速を降りて下道を進む事にした。
どうせ下道で帰るならと、途中、伊勢原市の義叔父の家によって愛知県土産の古式仕込みの味醂を持参した。
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これと同じ物。
津島市の鶴見酒造が醸造している神鶴純米と言う、昔は武士が高級酒としてリキュール的な飲み方をしていた高級味醂と同じ製法で作られた逸品。値段は高くはない。普通に日本酒と同じ値段。
帰って来て飲んでみたが、スーパーで販売しているのが偽物と言うのはハッキリと解る。
叔父達は喜んでくれたので良かった。
泊まっていけと言われたが、翌日は仕事も有るので、下道でそのまま横浜の自宅に帰宅した。

色んな人に会えた愛知静岡旅行、凄く早く時間の過ぎた5日間だったが自分の人生を少し豊かにしてくれたと思う。
そして、織田信長公の愛妻の生駒お類様の菩提寺久昌寺が廃寺の危機に有るのを知った以上、帰って来て以来ずっと何とかせねばと思う日々を過ごしている。
間宮家の顕彰文の素材の写真は、この後の10月15日に山梨県笛吹市の御坂城址へ登山して最後の素材が揃った。後は書き上げて冊子を印刷して配布するだけ。
少しでも、新しく引っ越してくる人たちに間宮家の殿様の偉業や横浜の綺麗な自然と神社仏閣の事を知って貰って愛着と郷土の誇りを感じて貰えたら嬉しいなと思い3年間やってきた。一先ず、これを完成させたら今度は織田家の久昌寺の救援活動と自分自身の改造に打ち込もう。そして後世の日本人に先人の遺産を残す手助けをしよう。

そんな事を強く思った。







 

間宮家の顕彰活動と信奉する信長公所縁の土地巡りへ3泊4日の旅へ行って来た。
最近、ブログを更新出来なかったのは遠征の段取りと会う人達へのアポ取りをしていたから。
今回の休日雑記は28日の訪問先。重要な報告も有るので、それも別途記事にする。

東名高速が集中工事中だからね。交通量の少ない深夜に出て朝からの予定に合わせる計画でこうなった…
28日の深夜25時半に出発、途中、浜松SAで休憩。
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朝食に静岡オデン食べ、車にガソリンも補給。
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まぁ、普通だった。
六時半頃に豊田に到着。少し寄る場所が有り、豊田で用事を終えてから安城市へ移動。
予定通り朝9時に目的地の安城市歴史博物館へ到着。
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実はこの博物館は徳川家が松平姓時代の初期の本拠地だった安祥城址だったりする。
学芸員さんに予めアポをとっていたので、可成り親切に熱心に安祥松平家の簡単な歴史を解説して頂けた。
そして城址の切岸の説明や現在は埋め戻されている水掘りの幅等も案内しながら教えて頂けた。
何故、小生がここに来たかと言うと間宮家が❝伊勢家❞の❝与力❞で今川家臣だったと思われる時代に、伊勢家=北条家が主家今川家に援軍を送り安祥城を攻めた時に間宮家も参戦していた事が推測出来る家臣に発給した感状が有る。それを間宮家顕彰文に掲載する為に城址写真撮影と調べ物に来たのだ。
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まぁ、間宮家の為だけでなく、そもそも三河の徳川家の偉大さも理解しているし家康公や初代東照宮大宮司様自体が間宮家と血縁を結んだ方々だが、小生は建勲神=織田信長公や東照大権現=家康公も崇拝し尊敬しているし、北条家の殿様方と並び毎朝起きたら拝んでいるので、三河尾張巡りをするのは当たり前、いつかしなければいけない事だった。
個人的に三河尾張は御縁も有り、以前も史跡巡りをした際に御縁が出来た偉人の血縁者の御子孫にも御会いしたかった。
この歴史博物館は松平家初期の本拠地なので博物館の中には家康公の祖父で松平家の勢力拡大に成功した松平清康公の銅像が有ったりする。
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ここ安祥城址の本丸は現在の大乗寺。
当時、周辺は深田だった。現在も水田だが、水田の周辺に干拓されていない湖沼が広がっていたのだろう。
でも正直、松平家の本拠地とは認めたくない程小さな規模。しかし立地的に関東の忍城や伊勢原市の岡崎城の様に沼城で守りも堅固だったのだろう。沼掘りの場合、攻城側が塹壕掘って城に近づく事が出来ない。
松平清康公の時代には既に岡崎城に転居したそうだ。
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写真は大乗寺。山門が丁度、城の櫓みたいに見えてしまう(笑)。
今回の訪問で持った感想だが、三河地方で戦国期には存在していた浄土真宗の寺院は構造がハッキリ言って城のソレだった。浄土真宗では昔、過激な軍事組織として活動していた同門の寺院の事を御坊と言って軍事拠点にしていた時代が有ったので、その名残だろう。最初から戦う為の寺だったんだろう。
学芸員さんに個人的に御勧めの安城市周辺の城を聞いた際も、「御城ではないけれど~」と渡されたのも浄土真宗の寺院の見取り図だったが、どっからどう見ても城の縄張り図だった。
安祥城の出丸の方は八幡社に成っている。
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これが又、相当に立派な八幡社で、東京横浜では余りこの規模の八幡社が町中に有る事は無い。
富岡八幡宮の様に相当な御由緒でも有れば別だが、三河人の信仰心と言うか伝統を大切にする心意気が強いのだろうと思う。
宗派を問わず、その信仰心の強さから、一度所属する宗派が軍閥化すると三河一向一揆の様に強烈な戦火を引き起こす集団にも成るのだろう。
三河気質は親切で柔らかいが情熱的に熱い。隣の某都市とはだいぶ異なり地域の人々の温かさから観光客も楽しめる。
宿泊するならトヨタ自動車の御蔭で外部からの客を受け入れる事に成れている三河地方、安城周辺や豊田周辺、もしくは古くからの観光地である犬山市の温泉街が親切で良い。
そんな「愛知県もあそこ除けば親切で観光資源も沢山有るのになぁ~」なんて事を感じながら次の目的地に移動。
刈屋城址に行った。
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現代では刈谷市は刈❝谷❞の字で表記されるが昔は刈屋だったんだな。
刈屋城の元に成った水野家の城館から、雁(かり)が飛ぶ姿が良く見られたのだろうか?
地名由来は調べていないので解らない。
刈屋城址は大半が破壊されたものの、恐らく戦国時代には存在した二ノ丸と本丸を隔てる水掘りは今も立派に原型を留めている。
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現代の刈谷市民の皆さんは意識が高い様で、城址を当時のまま復元できる場所だけを現代に蘇らせようとしているようだ。
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良い試みだと思う。
詳細の解らない部分や図面の無い部分をコンクリートで想像して固めるのは❝破壊行為❞な訳だ。
名古屋城天主や大坂城天主や小田原城天主みたいな外観だけ真似したハチャメチャな鉄筋コンクリートビルでは無く、解らない物や当時のまま同じ材料や同じ設計で復元できない場所は遺構をそのまま展示する方が史跡保護に成る。
愛知県で言えば名古屋城天守閣は汚点でしかない。もっと酷いのは全く史実と関係の無い小牧山城天守だろう。
でも刈谷市の試みや、安城市の安祥城の保護の仕方は本当に素晴らしい。擁護すると小牧市の現在の城址発掘保護の方法も素晴らしい。小牧山に邪魔なビルが建っているのは昔の無学な成金が自己満足で関係無いものを悪意無く作って破壊した結果なので、あの小牧山城天守は早く撤去して、あそこに信長公や吉乃様(仮称)が夫婦で暮らした御台所や御殿を発掘しガラス張りで浸食されないようにして公開し、麓に立派な博物館でも作った方が良いだろう。
発掘調査に基づいて公開していこうと言う小牧市の現在の取り組みや、刈谷市の計画は素晴らしい。
刈屋城址の中の❝十朋亭❞の中には、訪れて是非見て欲しい物が有る…
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江戸時代の刈屋城の縄張り復元模型だ。
そんなに大きい物ではないが、元々の城だった本丸周辺に、後から三河流の平地に水掘りを引き込んで細長い帯曲輪を巡らせる独特の築城術を見る事が出来る。
この構造は後の江戸期の河越城に追加された田曲輪や外曲輪等の築城術に繋がって行く。
徳川家と縁の深い水野家の城らしい構造が、この模型を見て貰えば理解出来る。
安祥城と同じく、戦国時代に突入して間もない頃の尾張三河の城は小城ばかりだったのだろう。これは大名の家臣達が自前で城を築城していた統治の問題だろう。
城を家=国単位で築城する財源捻出方法にした信長公の手腕はやはり素晴らしい。
清州城改修や小牧山城築城が出来てやっと関東の先に戦国時代に突入した大名達の築城規模に近づいている。

この日は翌日の行動地域を前提に名古屋市中区で宿泊を決めていたので、今川義元公が桶狭間合戦時に辿(たど)った進路に沿って(自分の推定)で熱田神宮を最終目標地点に名古屋へ行く事にして事前にアポどりをし準備をしてあった。
そんな訳で安城市や刈谷市を後しして義元公の足取りを辿り、ついでに信長公と家康公の関わった場所を巡って行った。
最初に来たのが沓掛城址。
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沓掛城址を目指すには慈光寺と言う御寺を目標にすると良い。
ここは桶狭間合戦後に沓掛城址と成った梁田政綱公の家臣が城址の一角に築いた浄土宗の寺院。
御朱印も頂ける。
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境内の広さは現代では町中の御寺より少し広い位。
御寺の家人もとても柔らかく三河地方の方らしく親切に御参りに来ただけなのに「城址は裏手に有りますよ~」「とか今川義元が桶狭間前日に宿泊したんですよ~」とか説明して下さった。…知ってる情報だけど親切心が嬉しい。
御寺が城域で曲輪だった事は裏手の城址公園に行くと良く解る。
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屈曲した人工的な空堀地形が御寺と城址公園の間に在るからね、御寺も曲輪の一部だった事が一目瞭然。
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簡単な説明文も有るので、訪れた際に読んで見ると歴史に興味無くてもここの意味が解る。
時代が大きく変わる切っ掛けの前日、ここに今川義元公が宿泊していたのだ。
ここに宿泊し、翌日に織田領の残る内陸の大高緑地では無く海沿いの今川領大高城を目指した結果が翌日の歴史転換地点に繋がった訳だ。
つまり、歴史が変わる契機に成った場所がここな訳だ。
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城址公園としては小さいが、上の写真の本丸と思しき一段高所の前にも内堀が残っていたりする。
今川義元公存命中の尾張三河の城は大半が、この規模だったんだろう。
堀の幅は広くても5m 位だろうか。堀底から土塁まで比高7m位有ったか無かったか。
まぁ、現在の城址公園を一回り広くしたくらいの範囲が当時の城域なんだと思う。
正直、同時代の関東の城に比べて工夫も少ない。
やはり築城術を飛躍的に進歩させた信長公は偉大だと思う。

今川義元公はここ、沓掛を出発し、現代では決戦地は狭間古戦場と言われる場所は幾つか有り、桶狭間病院と高徳院の辺りにて合戦が発生したとする学者もいる様だ…
もっとも小生の意見は現地を廻っているので文字しか読まないガクシャ先生とは少々異なり、更に地域の方々の伝承に近い。つまり、主戦場と呼ばれる場所は無く、移動しながら戦っていたはずだと思う。
石碑の名前は桶狭間古戦場。高徳院や桶狭間病院の目の前。
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伝承では今川義元は休憩中に襲われたと言う事に成っている。
その場所が高徳院だとする説を唱える学者がいるが、小生は周辺の戦場と名の付かない宗教史跡も回るタイプなので高徳院前が主戦場説は違うと言う感想を持った場所に行けた。
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ここ高徳院前も戦場だったと思う。
ただし戦場は戦場でも、今川義元公は別の休息地で襲撃され、更に近習が身を盾にして討ち取られつつ御本人は後退し、現在の桶狭間古戦場公園当たりで討ち取られ、今川本隊の後続は細い街道と谷間で前線に出れないまま後退し続け、この高徳院辺りまで追撃戦で追い上げられて戻って来たんじゃないかと推測している。
では今川義元公が最初に織田信長公本隊2000に強襲された場所はどこか、そして在所を捕捉されたのは何処かと言うと古戦場以外に神社も回るとヒントがまんま隠されている。
桶狭間公園と言う緑地辺りには桶狭間神明社と言う神社が在る。ここの背後の山に行くと、桶狭間合戦当時の雰囲気がどんなもんだったか良く解るのだが…
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当時はこの参道みたいな山林に囲まれた、敵側に行軍を捕捉され難(にく)い間道が大高緑地に沢山有ったんだろう。
そこを織田軍は進んだと思う。メジャーな街道を通ってはいないだろう。そして現在その道は廃道に成って残っていないのだろう。
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今川軍はこの桶狭間神明社を高徳院の次の休息地に定めていた筈(はず)だ。
沓掛城→高徳院→桶狭間神明社→大高城と入る予定だったんだろう。
その証拠がコレ…
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この桶狭間合戦時に、ここで武運長久を祈願した瀬名氏俊公は今川一族なのだが、この合戦当日先発隊だったのは今川義元の休息場所を設営する任務に当たっていたからだそうだ。
恐らく、この神社に来たのも、ここを義元公の小休止の場所に定め休憩の用意を整えたからだろう。
そして、自身は次の義元公休息地で当日の目標地点で有る大高城に移動したんではないだろうか。
高徳院も沓掛城から3km程の距離に在り休息地だった筈だ。昔の城はだいたい3~5km毎に1つ築かれているので、丁度高徳院の位置は沓掛城から次に立ち寄りに相応しい距離だ。
しかし、この桶狭間神明社は高徳院から1.5kmしか離れていない。しかし、ここは正に大高城に向かう途中に在る神社なので武運長久祈願を兼ねて立ち寄った可能性は有る。
丁度、義元公が立ち寄るタイミングに成る頃、織田家は千秋季忠公と佐々政次公が今川家を陽動する様に無茶な出撃をしたのも、義元公の休憩を長引かせる為だったのかも知れない。
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この瀬名氏俊公の行動を織田軍はずっと捕捉していたのだと思う。
そして、ここに今川家本隊の前衛や義元公がぞくぞくと先着し、義元公は神明社で祈願をはじめたか休息中に周辺住民からの進物を近習に報告されていた最中、善照寺砦から出撃した信長公が街道では無く山伝いに突如林道から襲来し、桶狭間神明社で参拝中の義元公は戦闘態勢も整えられず引くしかなかったんじゃないか…
と、個人的に推測している。
…そうすれば高徳院・桶狭間古戦場公園・桶狭間公園の三ヵ所で戦闘が起きたと伝承が残る事にも整合性が有る。
さて…
先に述べた通り義元公は大高城に入ろうとしたのだが、ここで休憩なり参拝なりして待機しなければいけない事情が有った。
善照寺に信長公が到着するのと前後して、熱田神宮大宮司で信長公に与力する千秋季忠公と佐々政次公の軍勢が大高城を攻撃したからだ。
この千秋・佐々隊の作戦を小生は❝陽動❞と❝足止め❞だったはずだ。
揺動の相手は今川軍の本隊以外の諸隊。目的は注意を引く或いは、千秋・佐々隊が大高城を攻撃する事で今川諸隊に大高城を救援させ織田信長公の本隊2,000が今川本隊を急襲する行軍が目に届かない場所に陽動する事。
かくして岡部元信の陽動に成功した筈だ。
千秋・佐々隊の陽動に引っかかった岡部は鳴海城を打って出て、大高城の救援に行く。
信長公は指揮官不在と成った鳴海城の真ん前を迅速に通過し林道を伝って桶狭間神明社を急襲したはず…。
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写真は丸根砦。本当に丸い尾根に築かれた小さな砦。
徳川家康公は当時、名を松平元康と名乗り今川家臣だった。この桶狭間合戦の前哨戦で松平元康公は丸根砦の前を通過し、大高城へ兵糧の搬入に成功している。その際、丸根砦に放火、囮部隊で攻めかかり、その隙に兵糧を見事運び込んだそうだ。
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※鷲津砦。
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鷲津砦は若干の堀切等も現存している。
実は、大高城に行くには今川家は織田方の丸根砦と鷲津砦の目の前、大高道を通らなければいけなかった。
今川方の大高城~織田方の鷲津砦は直線距離で600m、大高城~丸根砦も800mしか離れていない。
ここを落とさないと当然、今川義元公本隊は大高城に入れない。無視すれば背後から攻撃されるから。
そんな訳で、義元公が沓掛城に宿泊したり高徳院で休憩したのは、この2つの砦を陥落させながら安全が確保されたのを確認しながら進んだからだろう。
丸根砦は大高城を救援した松平元康公によって攻落され、鷲津砦は今川家随一の名将朝比奈泰朝公によって落城させられ、沓掛城を出立した当日の今川本隊の行軍の安全は事前に確保されていた。
桶狭間神明社が休憩場所に成っていたならば、千秋・佐々隊の陽動にかかった大高城の松平隊と鳴海城の岡部隊が千秋・佐々隊を掃討するのを待って今川家本隊は待機、戦勝祈願していたからだろう。
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大高城址公園
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土塁は撤去されていて、正直、城址公園としては物足りない。
規模も織田家の勢力拡大期の城で、正直、縄張り構造も未発達で規模もそれほど大きくは無い。沓掛城よりは大きい。
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曲輪跡の削平地は、そこかしこに残る。
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城址公園の遊歩道は、恐らく最近作られた道。
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凄く広い削平地が有ったので、恐らくここが本丸だろう。
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その奥に神社が在る。
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小生の郷里神奈川県の鶴岡八幡宮から勧進した御分霊を祀っているそうだ。つまり八幡社だ。
この神社の辺りには、城址らしい施設が残っていた。
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この細い道の左右の雑木林は空堀。つまり、この道は曲輪と曲輪を繋ぐ土橋。
秋の終わり位、雑木林が枯れた頃に来れば見応えが有りそうだ。
大高城の見学を終えて、鷲津砦の説明看板が腐食により解読不能だったので資料を貰いに名古屋市緑区役所の生涯学習課を訪れた。
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資料としては簡単な説明程度の物しか無かったが、緑区内の史跡観光案内のパンフレットを頂けたので収穫に成った。
ここを発つ時、既に16時に成っていた。この後、熱田神宮へ向かう予定だったので少々時間的に余裕が無く正直焦ったがナビでは30分とかからないはずだったので落ち着いて運転は出来た。
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熱田神宮東側大鳥居。
10年近く前にも来たのだが、その時は余り神社仏閣城址に関心は深くなく勉強もしていなかったので「大きい神社だなぁ~」程度の感想しか無かったが、今回改めて訪問して見ると第二次世界大戦での焼失後に明治神宮を意識した再建計画をしているのが良く解る。
木地のままの鳥居、広大な森林。自然崇拝を意識した境内。
しかしながら戦国時代当時の熱田神宮は、現在の様式の境内ではなく、恐らく三嶋大社や津島神社や石清水八幡宮の様に絢爛豪華な社殿が立ち並ぶ神社だった筈だ。
明らかに明治時代に成立した国家神道の影響が見える。
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とは言え、この境内の森林は神聖な雰囲気を醸し出し良い。だから熱田神宮と同じ造営設計の明治神宮が小生は好きなんだな。
ここに来たら皆にも是非食べて貰いたい料理が有る。
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熱田神宮の中には❝きし麺❞の専門店が有るのだが、1杯600円前後と安い上に名古屋駅の高い店で食べるよりよっぽど美味しい。
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遅い昼食に❝宮きし麺❞を注文して食べた。10年位前に来た時もこれを食べたので、今回は来る前から食べると決めていた。
先程、緑区役所で出発時に焦っていた理由は、実はこの店が16時30分閉店で間に合うか微妙だったからだ。
運よく、丁度16時29分位に店に到着し注文する事が出来た。
急いで食べて、参拝再開。
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参道には以前は無かった熱田神宮の各時代の説明看板が出来ていて、これが簡素ながら解り易くとても良かった。
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この参道を過ぎて社殿の在る領域に入る手前に上の壁が有る。
これが織田信長公が桶狭間合戦の戦勝祈願を、熱田の神に成就させて頂いた御礼に奉納した築地塀だ。
この塀が社殿の有る領域を取り囲んでいる。
信長公は神仏に対する信心がとても強かった方で、古典礼儀にも精通した人物だった事を知らない人も多い。
酷いと小説家や学者ですら信長公が信仰心が強かった事を良く知らないまま無宗教とかアホな事を言っている事が有る。バカだな。
信長公程、天皇家に対する忠義深く、天皇の住まう御所や伊勢神宮の復興に大金を投入して力を尽くしてる事は他大名に例を見ない。神社だけでなく寺院も多く再建している。
大坂の本願寺や伊勢長島願証寺や比叡山が信長公に攻落されたのは、彼等僧侶自身が武装化し町を襲ったり守護を襲うテロ組織化していたからで滅ぼされて当たり前の事をしていただけだ。その証拠に信長公以前に六角定頼公や北畠晴具公もそれぞれ武装した宗教集団を攻撃した歴史が有る。
ついでに言えば熱田神宮の大宮司千秋家も武装した武士?豪族?だったので織田家を支持して今川家と戦った訳だ。
当時の宗教観は現代とは全く違い、武士との違いは支配権を明示する大義名分が宗教集団には無かった事くらいだろうか。
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社殿も改めて見るとやはり、明治神宮にソックリ。色的には地味。でもこれが本来の神社。
朱塗りで派手に成るのは仏教建築の影響を受けた飛鳥時代以降の事。
更に造形が細かく色彩鮮やかに成るのは信長公が安土城を築いた頃のから。俗に言う安土桃山文化建築だな。
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小生は神社の社殿が有るなら赤くて綺麗な方が好き。でも境内の雰囲気は熱田さんや明治神宮の様な感じが好き。
でも社殿も何も無い縄文文化を受け継いだ有賀神社奥宮みたいな本来の自然崇拝も好き。
熱田神宮は信長公や源頼朝公と深い御縁が有るので参拝出来て良かった。
参拝を終えて名古屋城近くの錦と言う地区の有名なビジネスホテルに移動した。東〇インね。
19時頃にホテルついたら40時間位寝てなかったんで1時間くらい意識が飛んだ。
夜23時位…ホテル近くの焼鳥屋で一人夕食。
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名古屋飯旨いわ~。

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八丁味噌ベースの串カツ最高!
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八丁味噌ベースの土手煮も美味かった。
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焼き鳥も焼きそばも美味しかった。
翌日は友人と合流し津島大社や蟹江辺りの味醂造蔵本見学予定。


まぁ~、小生の率直な初日の感想を言えば…
「愛知県が観光したくない県ワーストワン」に選ばれてしまったのは100%新幹線の停車駅のある名古屋市街地のありとあらゆるサービス業の接客の悪さと、名古屋から周辺都市の観光地への交通の不便さのせいだ。
名古屋の中心街には熱田神宮と名古屋城位しか観光でメイン張れる物が無い。それ以外はどの大都市に行っても有るものばかり。
周辺の自治体の観光資源を殺す鉄道網の弱さ。東西を結ぶ線の欠如からくる連携の弱さと、バスの異常な少なさが問題だろう。例えば桶狭間合戦の史跡巡りを周遊するバスでもあって緑区周辺の豊明市~刈谷市なんかを一日乗り放題で順繰り観光出来たら、名古屋だけでなく豊明市側の沓掛城址や刈谷市側も廻れて協力地域で潤うだろうし観光客も増えるだろう。戦国ファンとしては名古屋市中心部よりそっちの方が楽しい。
そして車が無いと観光出来ない状態であること自体がダメ。
翌日、翌々日と回った犬山市・江南市・小牧市・蟹江町・あま市・愛西市・稲沢市・津島市・一宮市には名古屋以上に見て楽しい場所が多いし、町の人も接客する店員もどこに行っても笑顔で親切だ。
…名古屋の中心街だけはどこにいっても仏頂面のホテル店員と料理店の店員とコンビニ店員だらけ。ダメこれ。
それに反比例して翌日宿泊した木曽川沿いの旅館なんて、嘗てない程親切でビックリした。 
津島市の人も暖かかったし、とてもフレンドリーだった。

あれだな、名古屋の感じって東京都23区に住んでる江戸っ子じゃない他地域から移住して来た人達のソレに似てる気がする。名古屋で働いてる人も名古屋人じゃなくて警戒心ばっかりで生きてるんだろうか?
それと、今回名古屋に車で行って人生で初めてカーナビで「車両荒らし多発地域です」とか「盗難多発地域です」ってナビを連発された。完全に山口組のせいだろ。 
そりゃ、そんなに治安悪いなら印象も悪くなるほど警戒して生きていくしかないよね。これは名古屋のヤクザのせいだろう。名古屋市長、暫くフィリピンのドルテ大統領 に成って貰ってヤクザ組織を何とかして貰ったら良くなるんじゃないだろうか(笑)。
名古屋の中心街に行くまで凄く印象が良かった愛知旅の初日でした。

あ、名古屋市緑区の人達は親切だったよ。きっと地元で生まれ育って、豊かな自然環境で生活してるから心にも余裕が有るんだろうね。多分、本来の名古屋人てのは緑区の人達みたいので、小生が「おい」と思った接客業の連中は名古屋市街に他地域から移住して来て警戒心満載で生活して客にまで警戒心丸出しなんだろうね。凄くツンケンした感じ。

ま~、名古屋中心街の接客以外は、初日の愛知県東部旅は大変満足、旅行で行きたくない県No1どころか小生の中では愛知良い所って印象の初日でした。

有鹿神社(あるかじんじゃ)本宮・中宮…延喜式内社
主祭神:有鹿比古命(あるかひこのみこと)。 ※相模原市の有鹿神社奥宮は有鹿比女命(あるかひめのみこと)が主祭神。
御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・家内安全・家運発展
開基:奥宮は縄文時代にには存在。本宮は弥生時代の遺跡を内包し、奈良時代には国府鎮護として鎮座した。
中興:天智天皇・孝謙天皇・清和天皇・相模国司歴代・海老名家
場所:海老名市上郷。相模国国府跡や国分寺跡が徒歩30分程の場所に在る。DSC_0138
平安時代に関東総鎮守と朝廷に認定された神社の一つ有鹿神社(あるかじんじゃ)が海老名市に鎮座している事を皆さん御存知でしょうか?
前回の記事で紹介しましたが、この有賀神社は元々相模原市緑区に縄文時代の遺跡と共に存在する聖地❝有鹿谷❞に鎮座する奥宮から海老名郷の鎮守として遷座させられ、更には貞観年間に関東総鎮護、正五位の格式に成り、更に鎌倉時代に成ると正一位の各式に定められました。
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上の写真は相模原市南区勝坂に存在する聖地❝有賀谷❞の有賀神社奥宮。縄文時代の遺跡を旧境内地に内包し、その場所には縄文時代からの湧水地の聖地がある原始神道の文化を良く留める。

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さて、何で現在の場所に本宮が有るかと言うと、本来の有鹿神社の草創期の史跡は縄文時代の勝坂遺跡と共に相模原市緑区に現存するのですが、この本宮の場所も❝有鹿の社(もり=森)❞と言われた聖地であり弥生時代の遺跡が周辺から発掘されていたりします。
…神奈川県教育委員会は土建屋と結託しているので、ここでも旧境内史跡を保護せず神社は衰退していくのですが、昔の人がどれだけ、この神社を大切にしていたかと言うと凄まじい歴史が有りまして…
ここが本宮と成った所以(ゆえん)は奈良時代に海老名郷(昔は有鹿郷と言った)が相模国の国府と成った事が一番大きいと小生は推測しています。
有鹿神社は近所に現存する真言宗総持院は明治時代に成るまで有賀神社と一帯に成り神宮寺として機能していましたが、その規模は塔頭僧房合計12坊や幾つもの摂社を巨大な境内地に抱える大規模なものでした。
更に、中宮、奥宮を抱え、天智天皇の時代の西暦664年に国家鎮護の祭礼が行われた記録も有ります。
現在の本宮周辺の位置関係を見るとこんな感じ…
有賀神社と相模国府の位置 久良岐のよし
丁度、聖地❝有鹿谷❞から流れ出す鳩川(有鹿川)と相模川の合流する流域であり、相模川が蛇行しながら河岸段丘にぶつかり、他の支流とも合流する増水すると氾濫(はんらん)する辺りに本宮が鎮座し、更にその本宮の東側には旧相模国国府や国分寺の跡が在ります。
つまり、国府の政庁を守る治水の神様の役割も期待されていた事が位置的に推測出来ます。
まぁ、そもそも、本宮の御祭神は有賀比古(あるかひこ)様ですが、奥宮の神様は水神様でもある奥さんの有賀比女(ありかひめ)様ですから、これは当然とも言える配置ですね。
因みに有賀比古の神様は太陽神です。ですから、治水と太陽に関連深く農業とも関連の有る神社とも言えます。
余談ですが、この地域が奈良時代の相模国の中心だった事を示す国分寺の史跡は発掘され公開されています。
相模国国分寺跡 久良岐のよし
この国分寺は歴史に疎(うと)い人は知りませんが、古代、全ての国府に置かれた寺院でした。
ですから、ここが相模国の中心として機能していた時代が有った証明に成る訳です。
この辺りまで古代は海だったので、現在ではだいぶ内陸の海老名市が現在の感覚で言う神奈川県の県庁所在地に成っていたんでしょうね。
延喜式内社・式外社と縄文時代の海岸線 久良岐のよし
小生のブログを読んでくれている人にはもう御馴染(おなじみ)の画像ですが、Googleearthの画像に古代から存続する延喜式内社と式外社を表示させ、そこに縄文時代の海岸線の画像を貼ると、大凡(おおよそ)延喜式内社と式外社の位置は縄文時代の海岸線と符号します。
そんな訳で、古代から存続し霊験鮮(あらた)かな有賀神社ですが、現在は近所に遷座した中宮も古代は聖地有賀谷から流れる鳩川沿い座間市入谷の左岸の諏訪明神辺りに在ったそうで、西暦500年代に伊勢鈴鹿から移って来た右岸の鈴鹿神社の神様と争って敗戦し、現在の本宮へ本拠を移したと伝承が有るそうです。
鈴鹿の神様は船で遭難し入江の東岸に流れ着いたとされており、それが現在の場所だとされています。
上の画像で説明すると、当時の海岸線は白く表示した部分と推定されていて恐らく西暦500年代位はまだ、この地域は浅い入江だったと思われます。歴史とも神話は整合性が一部有ります。
有賀神社中宮推定値の諏訪明神と鈴鹿明神の位置関係 久良岐のよし
この画像は有鹿神社中宮の在った場所と推測されている諏訪明神辺りと、鳩川を挟んで右岸が有鹿神社の神様と争った鈴鹿明神です。
縄文時代より弥生時代の方が温暖だった可能性が有り、上の上の画像で示した西暦紀元前6000年頃より弥生~古墳時代の入江は更に内陸に広がっていた可能性が有ります。
その証拠に伊勢原市比々多神社周辺や足柄上郡寒田神社周辺には、縄文時代の海岸線より更に内陸ですが❝島❞と名の付く地名が多数現存しています。
因みに、初代の佐賀牟国司は建御名方(たけみなかた)神の御神孫と伝わっています。
建御名方神は、長野県諏訪大社の御祭神で軍神あり治水神です。
この座間市の鈴鹿明神の伝承では、鈴鹿明神の神様の財産を有賀神社の相模原市勝坂の有賀神社の神様が横領しようとして争った際に諏訪明神や弁天様が鈴鹿の神に与力し有賀神社の神様は敗戦し、現在の本宮に来たとされています。
もう一度位置関係を見てみましょう。
有賀神社の奥宮中宮本宮の位置関係 久良岐のよし
実は西暦500年代に大地震が有って神奈川県内陸まで広がっていた海の入江の海底が隆起し土地が出来たはずなので、中央から開拓目的の人間が鈴鹿の移民し入植して来てもおかしくない訳です。
この土地隆起による耕作地の出現が佐賀牟国の武蔵国・相模国分裂の切っ掛けに成り、更に旧相模国の国府祭(こうのまち)と言う神事の元に成った神様同士の争いや、武蔵国造の乱の切っ掛けに成ったと小生は推測しています。
しかも建御名方神の別名は❝伊勢都彦❞だった事が解っていて、現在の伊勢の鈴鹿辺りもこの諏訪神の一族がいた筈(はず)なので、諏訪神=建御名方神=建御名方神の御神孫=佐賀牟国司が鈴鹿からの入植者をかばい在来の有鹿神社の豪族と争った可能性は非常に高いと思います。
もっとも、有鹿神社や先住民からすれば、国司の一族と推測出来る鈴鹿明神の入植者達は侵入者な訳ですがね…。
更に言えば建御名方神は本来、建南方神と書いたそうなので、卑弥呼に敵対した南方の狗奴国と言うのは弥生時代末期~古墳時代の諏訪神族を指し当時の諏訪神族は伊勢辺りまで勢力を誇っていた、もしくは伊勢辺りが根拠地で後に諏訪にまで押し込まれたと神話と歴史を融合させると推測出来ます。
この辺りが、後に天智天皇等、皇統系に有賀神社が国府鎮護や関東鎮護とされ朝廷の後援を受けた理由でもありそうです。建御名方神は朝廷方の祖先神達と争った神様ですからね。
昔の神社は政庁であり豪族の宮殿でしたからね、神(かみ)=上(かみ)=守(かみ)=支配者を示す訳です。
そんな感じで、恐らく有鹿神社の聖なる川の鳩川沿いに隆起した土地に入植してきた建御名方神の御神孫の国司一族と、在地豪族だった有鹿神社の神様の御神孫の争いが、この有鹿神社中宮と鈴鹿明神の争いだったと推測出来ます。

さて、有鹿神社本宮の解説に戻ります。
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有鹿神社は、奈良時代~室町時代中期が最盛期でした。
当時は先述の通り凄まじい広さの境内地を抱えていましたが、平安時代から当地の在郷領主だった海老名家が室町時代中期に滅亡すると、後援者を失い社領を乱入者に横領され衰退して行きました。
しかし天正3年(1575年)、北条氏の治世下で神事❝水引祭り❞の復興が成され相模国五の宮、海老名郷総鎮守にまで復権し、天正19年(西暦1591年)には徳川家康公によって10石の社領を保証する朱印が発行され、江戸時代初期の元和8年(西暦1622年)には領主高木家の奥方によって社殿が寄進されました。
古代程の規模は継続していないものの、この神社の各式の高さと歴史の深さと古代日本文化を守って来た神社である意義は大切で、神社を守って来た氏子サン達の業績は偉大です。
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有鹿神社は境内に立派な御神木が有ります。
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樹齢は書いてないので解りませんでした。
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社務所は宮司様御不在の日がほとんどなので、事前に電話番号を調べて連絡の上、御出勤される日を確かめれば御朱印を頂けると思います。
小生は連絡の上、ここと別の事務所へ訪問し朱印帳に判を頂きました。
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とても凛々しい狛犬さん。石材の状態を見るに江戸時代の作でしょうか?
石の腐食具合がそれくらいに見えるかな。
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社殿外観は覆殿(おおいでん)で、文化財指定されている本殿はこの中に保護され鎮座しています。
本殿は春日造り、屋根は檜皮葺だそうで、格式の高い有鹿神社に相応しい造りです。
残念ながら、訪問した日は時間も遅く既に覆殿の扉が閉じられていて本殿を拝観する事は出来ませんでした。
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扁額は地震かなんかの落下で欠損部分が有りますが、とても立派ですね。
往時の社殿は、この扁額や広大な社領に見合った立派な建築物が何棟も有ったんでしょうね~。
境内の摂社には有鹿天神社と言う菅原道真公を御祀りする神社が在ります。
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元々、海老名源八季貞(すえさだ)公の館跡に鎮座していたのが、この有賀天神社の御神霊で、近年、その御神霊を境内に遷宮する際に御社の形をした祠を新築し直したそうです。
歴史的には海老名氏の崇敬を集めた天神社の今宮に成るので、こちらも霊験鮮かな神様と言えますね。
さて、有鹿神社の前編と合わせて有鹿神社を含めた延喜式内社の大切さが少し御理解頂けたでしょうか?
そして、縄文時代~古墳時代の海岸線沿いや湧水地に延喜式内社が集中して存在している事も御理解頂けたと思います。

ところで、この日の帰りは高速道路の海老名SA上りで豚の串焼きを食べたのですが…
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神奈川県の名物の一つである高座豚(こうざぶた)ですが、この高座豚の高座は古代律令制度の行政区分の高座郡に由来しています。
この高座郡、現代人は高座(こうざ)と読みますが、古代は高座(たかくら)と読んだそうです。
つまり、海底が隆起して現れた平地が有鹿川(鳩川)・相模川・中津川の氾濫や降雨を繰り返して平地の塩分が抜けて工作に適した場所に成り、水田開発が進み、多くの米を保管する❝高床式の倉❞が立ち並ぶ村々が増えって行って古代の開拓先進地域に成って行った事が地名からも伺えますよね。

では!
又、次のブログ記事で御会いしましょう!

先日、山手に在る素敵なプロテスタント系の教会、横浜山手聖公会の教会を紹介した。
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ここは週末、運が良ければ一般公開していて無料で入館出来る。
山手の教会の内装展示資料 久良岐のよし
この教会は、幕末、横浜の山手地区や関内に駐留する英国軍人や英国人のモラルを保つ為、精神衛生の安定の為に建てられた教会だそうだ。
当時の欧米人は、まだまだ信仰心が強かったので、こういった施設は治安維持にも一役買った訳だ。
そして、日本の近代化に寄与して下さった異人サン達の心の拠り所にも成ったはずだ。
横浜は素戔嗚尊の御神孫や日本武尊とも御縁深い土地だが、こう言ったキリスト教の文化も横浜らしい近代文化の一部だと言える。

実は、現在のキリスト教が確立される以前の原始キリスト教は日本にも早くから伝わっていた事が多くの歴史学者の指摘する処である。
もっとも小生はキリスト教の元に成ったゾロアスター教の事だと推測しているが。
小生の尊敬する小説家、司馬遼太郎先生も小生と同様の認識だったので、❝街道を行く❞シリーズの京都か奈良の回で太秦氏の事を紹介している。
この太秦氏と言うのは読んで字の如(ごと)く、今の中国の基礎を築いた秦の始皇帝の統治した根拠地の中国の西方に居た部族で、この部族「太秦」は中国の歴史書にも記載が有る。
中国 秦
秦と言うと、この統一された地方を思い出す人が多いと思うが、元々は中国の西北の一部の国だった。
中国戦国時代 ネット拝借
現在で言うと陜西省や甘粛省辺りを治めた騎馬民族の地方部族。
秦 領土
自分達より歴史の古い貴種や都合の悪い事を認めたく無い藤原氏が、他の氏族の出自を改竄しまくった形跡だらけの日本書紀では秦氏は百済人扱いされているがとんでもない。
朝鮮半島なんかより遥かに歴史の有る氏族で中国の歴史書にも登場するのだから。
しかし、同じ渡来系でも朝鮮系統より古いなんて歴史は認めたくない連中が、太秦氏を百済人とか中国の記録を見れば簡単にバレる改竄をしてしまったのだろう。
残念、世界の距離が近く考古学の発達した現代、そんなメンツに拘った嘘は通じない。

この中国の戦国時代、秦が精強に成り得たのは西方の優れた文化を交易で導入出来たからだ。だから、この地方に小麦の麺文化も逸早く根付いた。
実は中国人は麺文化は中国文化と勘違いしているがとんでもない話で、元々は騎馬民族の文化だ。
だから拉麺の本場は今でも蘭州だったりする。
同じ様に羊肉の料理で羊肉串と言うのも有るが、これも中国人は中華料理と言い張るが新疆ウィグル族の料理だ。
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スパイシーで美味しい。
※羊肉串を紹介した記事は「ココ」←クリック!
因(ちな)みに中国大陸で拉麺と言うのは本当に拉(ひっぱった)麺(めん)の事で、刃物で切ったり機械で裁断した面は拉麺とは呼ばない。最近では日本の拉麺が逆輸入され、日本の様に機械での押し出し麺や裁断麺も拉麺と言う❝逆輸入ジャンル❞として確立されたが。
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※横浜家系拉麺の名店、環2家の以前の拉麺。現在はオーナーが家系創始者吉村社長では無い。
日本の様な❝汁ソバ❞は本来の中国語では湯麺と言う。湯(スープ)麺(めん)だな。
日本で湯麺(たんめん)と誤解された料理は、❝スープに入った麺❞と言う訳だ。
本来は❝拉麺❞と言う字は麺の種類を指した意味しか無い。これは日本人の漢字の意味の理解不足が原因だ。
この麺文化や騎馬文化や刀剣の製造技術と同じ様に、古代の交易で宗教も伝わった。
つまり、古代のユダヤ人のゾロアスター教か原始キリスト教が太秦氏に伝わったのは、この騎馬民族の交易によって伝播した訳だ。
この交易路が後にシルクロードの基礎に成った。
日本の牛頭天皇もヒンドゥー教のシヴァ神が原型だが、このルートを通って中国から直接入って来て、似たような神話の有る日本の素戔嗚尊と習合され等しく信仰された。
武塔(むとう)神とも同一視されるが、この武塔神と関わりの有る土地が牟田(むた)や宇田(うた)を地名に含む場所だと思う。
たまたまだが、九州の大牟田市には八剣神社があり、水神様だった素戔嗚尊の八岐大蛇退治の神事が今も行われる。
武塔(むとう)は日本で朝鮮訛りに毒された発音だが、本来の華語の発音では武塔(WuTa)と読む。
もうそのまんまムタかウタに成る訳だ。そして武塔神も素戔嗚尊もシヴァ神も水神の性格を持つ。
シヴァ神の下の神様がナーガ神を含めた(ガンジス河の神様)なので、そうされている。
牛頭天皇の子、八王子も素戔嗚の神話では無くて習合されたシヴァ神のこの神話が元に成っている。
つまり八王子と言うのは仏教で言う所の八大龍王だ。
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…そして西暦600年頃に応神天皇を習合した八幡大菩薩もこの八大竜王の事を指すはずだが、天皇家の祖先神を習合した事で、出雲系の神様の素戔嗚尊より下に置かれては困るので❝八幡大菩薩と八幡宮の神様が自称した❞のだろう。現在の八幡宮では八幡大神とされているが、奈良時代~鎌倉時代の人達の認識では神様の神託による自称を元に「八幡大菩薩」と呼ばれていた。八幡大神で統一されたのは明治時代に成ってから、160年しか歴史が無い。
素戔嗚尊も、八幡大菩薩も日本神話でもインド神話でも似たような水神様だから、水に関する神社では一緒に祀られている事も多々ある。それに弁財天様が加わるケースも多い。
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※写真は源頼朝公が軍神として信奉した江ノ島弁財天こと江島神社。
❝弁天様❞は今日では❝弁財天❞と書くが、昔は❝弁才天❞と書いた。
それには以下の理由が有る。
実は、素戔嗚尊に習合された牛頭天皇=シヴァ神は奥さんがパールヴァティーと言う女神様だ。
このパールヴァティー神は軍神や学問と美の女神で水にも関係が有る、似たような美と水の女神の女神サラスヴァティー、美と農業の女神ラクシュミーと言う神様と一緒に三人の女神として崇拝され後に習合されて、デヴィ神と呼ばれる様に成る。
このデヴィ神のイメージが日本における弁財天の本来のイメージなんだな。
軍神の要素が有るからこそ、源頼朝公や坂東武者達は江ノ島の弁天様を信奉した訳だ。
若いデヴィ夫人
…余談だが、タレントのデヴィ夫人もスカルノ大統領から今の名前を貰った意味はデヴィ神=弁天様みたいに美人だったからだろうか?
今ではクソBB…今でも御綺麗ですが。若い時の写真は本当に弁天様と呼んでも弁才天様が認めちゃいそうな美人。
すっごい美人‼
そんな訳で、日本には古くからインドや中東からの文化がシルクロード経由~中国経由~日本へ直接流入していた。

日本の聖徳太子のイメージは古代京都の豪族太秦氏が中国経由でもたらしたユダヤ人の聖典を翻訳した福書を参考にして、誰か別に実在した偉人の功績を無かった事にして象徴的に粉飾した聖徳太子と言う人物とさも別に記載したと言う説が最近の学説だったりする。
京都太秦周辺
そんな感じで日本にはかなり早く初期キリスト教、若(も)しくはキリスト教の元に成っているゾロアスター教的なものの考え方も太秦氏経由で入って来ていた歴史が有るんだな。つまり、秦帝国の滅亡が西暦紀元前200年頃だから、その頃に日本に渡って来て、稲作や織物の作り方や金属器の製造なんかを少しずつ日本に広めた一族と成る訳だ。
そして古代は神様の集まる場所、一時期日本の中心だった出雲の神様を彼等太秦氏が開いた土地の人々が多く信仰するのは当然な事だ。
日本人は無意識にアジア人や西洋人やアラブ人と違う名前の同じ太陽を神様として拝んでいる。だから文化的に似てはいなくても日本人は、アジア人とも西洋人ともイスラム教のアラブ人とも仲良く出来るんだろう。
出雲で神様達は太秦氏を受け入れ、京都辺りを任せたんだろう。
東映の太秦撮影所の一帯が太秦氏の居住域だった場所。これも有名な話し
話は逸れるが京都北部は映画撮影所の関連で、俳優の芸名の由来に成った土地が多い。北大路とかね。
画像真ん中下の梅宮大社なんかは梅宮辰夫サンの芸名由来地だけれど、実は神社でも神奈川県とも所縁(ゆかり)が有り、梅宮大社も関東総鎮護の延喜式内社と鎌倉武士に崇敬された大山阿夫利神社も共に主祭神大山祇神様を御祀りしている。
渡来人の太秦氏が出雲神族を崇拝するのは紀元前から出雲神族の眷属たる一族に技術開発等で協力していた証拠。太秦氏は受け入れられ亡命し帰化し日本人に成ったからこそ、出雲神族を崇拝したんじゃないだろうか。
太秦辺りは出雲の神様を祀る神社が少なくない。
素戔嗚尊の御神孫は、神話と考古学の符号を考えて古代邪馬台国の発展に寄与した伊都王の一族と関連が有ると思っている。以前も書いたが志賀島出土金印と蘇我氏もそこに関係が有りそうだ。
出雲大社の本殿の裏には素我(そが)社が有る。
奇しくも神奈川県や東京埼玉千葉は、出雲系の神様の一族が開拓した事が古い神社を回ると御祭神や伝承から察する事が出来る。

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※上は東京国立博物館の聖徳太子木像。髪の毛を両脇で結ぶ本来の日本人スタイル。
※下は中国唐帝国の文化を受けた聖徳太子画像。
聖徳太子
※日本神話に熱心だった仏教の真言宗宗祖、弘法大師空海和尚が開いた神奈川に有る太子堂の聖徳太子像は上の日本人スタイル。
ところでキリスト教徒が「アーメン」て祈るが…
そのアーメンが神様の名前なんだよね、イエスやマリア様は救い主と聖母様。
キリスト教の「アーメン」て言葉こそ神様の名前なんだな。ゾロアスター教の拝火(太陽神)信仰の影響でペルシャ南部やエジプトで崇拝された太陽神アメン神が崇拝対象に成っていた。キリスト教の布教の過程で太陽神の名前が使われた訳だ。
もっと言えば古代エジプト神話の神様のアメンラーとして太陽神ラーと融合したアメン神の事なんだな。キリスト教と別派同根のイスラム教では神の名前は「アラーフ」とされるが語源は良く解らないそうだ。
もっともイスラム教とキリスト教では神の名前だけでなく天使の地位が異なるらしい。
・・・でも天使の名前は同じミカエルやイスラフェルがいる。
西洋でキリスト教で主神=ゼウスとされるのは、古代ローマ神信仰者を改宗させる為に、イスラエルから時代を経てローマに辿り着いた宣教師達が、ローマ人の信仰する全能神ゼウスをアメン神と習合して布教した結果なんだな。
つまり「アーメン」てのは神様の名前、英語で「イエス」て返事するのも「救い主=Jesus Christ=宗祖」の名前なんだな。Jesusをラテン語で発音するとイエズスに成り英語では省略して発音表記でYESに成る。
これはラテン語勉強しない英語圏キリスト教信者が認めたがらないらしい。そして英語圏の信者はかつてキリスト教がローマ神話のゼウスを習合した歴史も知らない人間が多いし、アメンの意味も解ってないで言ってる不勉強な奴も多い。
ザビエル
イエズスとカタカナで書くと歴史好きは思い出す人もいるだろうけれど、ザビエル神父の所属したイエズス会の名前は「救い主(メシア)」キリストの名前を冠した宗教会派て事だね。
このゼウスとアメン神を習合するのと似たような布教を日本でもキリスト教宣教師達は行っていて…
日本に浸透していた神道や仏教で天照大神の別の姿とされた大日如来にアメン神を習合させようとして、切支丹(キリシタン)達に「アメン=大日如来=神=大日」として「大日」と言わせ布教した歴史が残っている。
インカ帝国時代のペルーにキリスト教布教させた時も、現地の神様を習合したしね。
…彼等の問題は自分達の宗教観しか認めず、多くの神社仏閣を破壊させ先人と偉人達の文化を破壊しようとした事。奴隷を当たり前に持っていた事。
そして織田信長公は宣教師の神社仏閣破壊の様な要求を飲まなかったし、譲り受けた奴隷を解放し白人と黒人を平等に扱った。
そして神道の価値観を守る為に、己を御神体とした奇岩=御嶽(おんたけ=みたけ=うたき)を安土城内に築いた。
信長公本人を神としてしまえば、信長公の保護下で布教を許されている宣教師達も日本古来の神道文化や信長公の信奉する法華の教え=仏教にイチャモンつけれない訳だ。
だからキリスト教の宣教師から悪魔扱いされた。

イスラム教はキリスト教とは源流は同じだけれど教義と人種問題で数千年間も対立してきた。
しかしゾロアスター教とも融和した名残りがうかがえる日本人は、その両方とも上手くやれている。

まぁ、日本人の思想は多神教の寛容さや仏教的な自省と武士文化的な礼儀が根幹に強く有るのは間違いない。
だから日本人が神道や仏教の信者でも素直に教会の建築の美しさやキリスト教の友愛の善の面、イスラム教の互助思想を肯定的に受け入れられるのは日本人の本来の神道的な多神教の文化と日本の神様の寛容さなんだろう。
この日本の神様の寛容さが、日本人の精神的な文化の根幹に有るんだろう。
モスクの写真を見ても素直に綺麗だと思うしね。
日本文化大切にする日本人とも西洋人ともアラブ人とも仲が悪いのは、無宗教の唯物主義の共産主義者と親族の利益だけを追求する儒教主義者だけ(笑)。
2011-03-16-12-42-16
日本の法律と日本の文化と秩序を守り、先人の残してくれた偉人や自然を神として奉る神社や祖先を大切にし自省を根幹にした仏様の価値観を肯定してくれれば、別に異人サンが幕末みたいに日本に住んで日本で働いても問題ないんだよ。
牛頭天皇=素戔嗚尊と草薙剣=熱田大神と法華宗(主に浄土宗と日蓮宗)を信奉した織田信長公も、山科羅久呂佐勝成(ラクローサ )てイタリア人武将や、弥助(ヤスフェ)って言う元奴隷のアフリカのモザンビーク人武将を召し抱えていたからね。
織田信長公を無宗教者扱いするバカ小説家やアホな漫画家は、実際に文献も読まなければ現地も歩かないクズばかり。
実際の織田信長公は多くの神社仏閣を復興し朝廷の宮殿を再建したりしていらっしゃった。朝廷の伝統儀式を神道に則り復古されたのも信長公だ。
浄土真宗東本願寺派(高田派は親幕府親信長派、後に本願寺光佐顕如も武装解除し豊臣政権と友和)の石山本願寺や天台宗の比叡山延暦寺が攻められてのは、当時は彼らの一部が軍事力を持った現在のISみたいな武装テロリスト集団に堕落していたからなんだな。
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だからこそ、法華衆徒を堕落させるが真剣に修行に励む物は救う「第六天魔王=伊舎那天・伊舎那后=シヴァ神」の代理人と名乗り、天台座主と自称する武田信玄と宗論で喧嘩した歴史も残っているんだな。

どこの宗教も過激派が問題なんだけ。
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その過激派から国を守る為に、豊臣秀吉がスペインとポルトガル人宣教師を追放した。
理由は宣教師が勝手に日本に教会の領地を持ったり日本人を奴隷として連れ出した犯罪者だったから。
これは日本人として正しい対応。白人が同じ事されたら怒り狂って戦争をけしかけるだろう。
同じ様にイギリスのプロテスタントを徳川家康公が日本入国禁止にしてキリスト教禁止たのは彼等がやはり日本人を奴隷として強制連行したから。
外国ではオランダと清が江戸時代に日本と交易を許されていたのは、オランダは日本人を奴隷にしたり日本に植民地を持つ領土的な野心が無く純粋に交易が目的だったから。
キリスト教国も時間が経って日本に遅れる事、千数百年、漸(ようや)く奴隷禁止に成ったけれどね。

そんな訳で、横浜には幕末~大正時代に花開いた西洋渡来の洋館や西洋料理の文化が今も根付いているけれど、元々、日本の宗教の中にも色んな国の神様が平等に祀られていたんですよ~!とか、色んな外国人も日本に帰化して頑張ったり発展に寄与して下さったんですよ~って話と…
信長公・秀吉・家康公然(しか)り、犯罪犯したら罰しろ、犯罪を起こしそうな奴は入れるな、日本が大好きで日本の価値観を尊重してくれて日本の為に成る人物なら外国生まれでも身内として受け入れてやれ!
…って話でした。

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