北鎌倉には建長寺と言う大寺院が在ります・・・
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正式名称は巨福山建長興国禪寺と言い、京都南禅寺を別格として除いた鎌倉五山、つまり関東の臨済宗寺院の内で五つの筆頭寺院の内の第一位に位置づけられた寺院です。
・・・この鎌倉五山の凄さと言うのは征夷大将軍しか歴代住職の任命権を有していなかった事からも解ると思います。
さて、この建長寺、鎌倉時代~戦国時代当時は多くの学僧や武士が修行に集まっていた大寺院でした。
ですから現代でも日本有数の規模を誇る大寺院として存在しています。
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とは言え、この北鎌倉周辺には他にも先月紹介した円覚寺と言う鎌倉五山第二位の大寺院も在ったりして、北鎌倉を散歩していると少々感覚がマヒして他の大寺院が小さく見えてしまったりします(笑)。
円覚寺の記事はココ→
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天下禪林・・・つまり天下に名の轟いた学問所寺院と言う事です。
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これでも現代は開基(かいき=神社仏閣を造営する事。日本語で使う創建は漢字の意味の誤用)当時と比べて明治政府の宗教政策や、太平洋戦争敗戦後に規模が縮小しているんです。
信じられない位、昔は広大な境内地を有しており、更に寺領と呼ばれる御寺の収入源となる寺院の領地も昔は境内地と別に存在していました。まぁ、それは明治政府の宗教政策で没収され、そのせいで多くの御寺のみならず神社も荒廃した所が多かったんですが・・・
とりあえず、今回は建長寺と建長寺に関わった歴史偉人の紹介だけして行こうと思います。
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さて、略称建長寺の山号は巨福山(こふくさん)と言いますが、これは鎌倉幕府を開いた源頼朝公が鎌倉市街地防衛の為に築いた市街をスッポリ取り囲む丘陵城塞群の中の7つしかない入口の一つ、巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの近くに在ったからです。
現在の鶴岡八幡宮の西側を通る巨福呂坂は近代に成って開削された新しい道で、トンネル入口に有る石碑は歴史に疎(うと)い現代人が設置すべき場所を間違ってしまっている訳ですが、小生の様な歴史好事家(オタク)や建長寺や鶴岡八幡宮の鶴岡文庫や鎌倉国宝館の様な文化と歴史を守ってらっしゃる組織の職員サンの多くはこの事を知っています。
巨福呂坂切通し位置 久良岐のよし
現代では住宅街に埋もれている谷間の細い道が、本来の鎌倉防衛の要だった巨福呂坂切通しの跡です。
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さてさて、そんな鎌倉防衛拠点の手前に立つ関東最大で最高格の臨済宗寺院、建長寺は昔は鎌倉武士達の学問所としても機能していた訳ですが、この御寺を最初に造営した開基様が鎌倉幕府第五代執権の北条時頼公です。
そして、モンゴルによって滅亡した南宋国から亡命してきた四川省出身の名僧で日本武士に禅の精神と故国の情報を叩き込んだ蘭渓道隆和尚が開山(かいざん=初代住職)と成りました。
つまり、当時はモンゴルやモンゴルに服属している朝鮮人によって何時、侵略戦争を仕掛けられるか解らず日本は周辺国から危険に晒されていた状況でした。
ですから、鎌倉幕府を蘭渓道隆和尚が頼ってきたのも、故国の南宋王朝が如何(いか)にして滅亡したか日本に伝え備えさせる目的が少なからず有ったと推測出来る訳です。
そして、当然、武士達も蘭渓道隆和尚を師と仰ぎ、和尚が伝えた学問を取り入れ日本人としての武士の気概と禅の平静を保つ精神と中国渡来の兵法を融合させ、モンゴルの威を借りる朝鮮人とモンゴル人征服王朝の中国元朝の侵略に対して備えた訳です。
事実、この時期には朝鮮がモンゴルの名を挙げ日本を外交的に脅迫し始めていた時期でした。
・・・まぁ、今も昔も朝鮮半島の政府は古代からずっと隙有らば日本を侵略しようと何度も攻めて来たり日本を裏切って来た歴史が有るので彼らは鎌倉時代も通常営業、今と同じですね。
まぁ、日本は蘭渓道隆和尚の教えによって戦場でも冷静に敵と対峙した鎌倉武士達の準備の甲斐有って、元寇で朝鮮軍と江南水軍を2度に渡って日本の武士団が撃退します。
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この座禅を取り入れた精神修養は後に鎌倉文化や武士文化の形成に大きな影響を与えて行く事に成ります。
鎌倉時代以来~室町時代そして江戸時代に成るまでは、禅と言うのは武士の精神修養の嗜みとして武士文化に取り込まれ現代に残りました。
当時の武士達は例え信心する宗派が臨済宗でない武士も平素、参禅して修行に励んだ様です。
そして、建長寺では蘭渓道隆和尚の影響も有り、禅の他にも中国語も教養として学び武士達に易学や兵法を学ぶ場としても機能していました。
蘭渓道隆和尚については、以前、常楽寺の記事でも紹介したので興味の有る人は読んで見て下さい→
因(ちな)みに建長寺、“けんちん汁”の発祥地だったりします。
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写真の画像は建長寺の物とは違いますが、建長寺近くに在る“鎌倉五山”と言う和食屋さんで提供しているケンチン汁です。
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建長寺では参禅すると、本家本元の“けんちん汁”を食べさせて貰う事が出来ます。
まぁ、なかなか観光でしか普通の人は鎌倉に行く用事も無いので、北鎌倉駅周辺の和食屋サンで提供している店に入るのがデートや家族連れだったら無難でしょう。
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建長寺に話を戻しますと、多くの武士から崇敬を集め、その武士達の子弟が幼い頃に入門し学問と精神修養に励む場所であり、日本中の学僧が集まる場所でもあったので現代でも国宝や重要文化財の建物が多く現存しています。
そんな建長寺なので、鎌倉武士達のみならず戦国時代にも名将を輩出しています。
その名は太田道灌(どうかん)、江戸城や河越(川越)城を築城した名築城家であり戦っては無敗を誇った名軍師で、扇谷上杉家の執権(しっけん)でした。
太田道灌公
今の政権に例えると官房長官や幹事長みたいなもんです。
当時、日本を統治していたのが君主=天皇家。
その統治を代行していたのが征夷大将軍足利家。
足利家の政治を分業実行していたのが管領と関東管領。
その関東管領を務めた家が犬懸(いぬかけ)上杉家、宅間(たくま)上杉家、扇谷(おおぎがやつ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家の上杉家の筆頭4家。
その家、室町時代中盤~戦国時代に関東管領と務めたのが扇谷上杉家と山内上杉家。
その扇谷上杉家の軍事と政治を取り仕切っていたのが、この太田道灌公でした。
この太田道灌公は幼い時から非常に頭が良かったそうで、幼少期には大人も論戦で言い負かす事が度々有ったので、道灌公の父上の道真公が「この子、将来、人を見下す子に育たない様にしないと危ない」と感じて、建長寺に入門させて幼い時は建長寺で僧侶達から人としての道や学問を教わって育ったと言われています。
残念ながら建長寺も数度の戦火や火災に遭っており、建長寺で道灌公が具体的にどんな生活をしていたかは今の職員さん達も解らなく成っています。
戦国時代末期に成ると、扇谷上杉家も滅亡寸前、関東の覇者は小田原城を本拠地にする北条(伊勢)家に変わっていました。
戦国時代に関東で随一の学者文化人としても有名だった建長寺の玉隠英璵(ぎょくいんえいよ)和尚は、太田道灌公とも親交が有った人物なのですが、この玉隠英璵和尚と北条家の治世化で交流の有ったのが北条家相模十四騎筆頭の間宮家でした。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
横浜市南区に今も在る真言宗の名古刹で、弘法大師空海和尚所縁の弘明寺の江戸時代までの扁額は、間宮家が寄進した物でしたが、その扁額を揮毫(きごう=字を書く)したのが玉隠英璵和尚で、90歳の時の事と絵図が文献の挿絵で残っています。
まぁ、昔の禅宗は武士の嗜みだったので、他宗派の僧侶からも歓迎されていた様です。
徳川家と間宮家に所縁深い静岡市の華陽院も浄土宗ですが、家康公の祖母の戒名も“禅尼”となっていたりしますからね。
そんな建長寺と関わった間宮家からは有名な北条綱成公の副将として稀有な活躍をした間宮康俊公や、その孫で徳川家康公に重用されて佐渡奉行、但馬奉行として金山や銀山経営で他の代官より抜きん出た実績を残し更には大坂城総掘りと真田丸埋め立ての作戦を立案した間宮直元公を輩出しています。
つまり、建長寺は名軍師を生みだして来た御寺な訳です。
これは蘭渓道隆和尚や北条時頼公が後世に残したソフト面での偉大な功績でしょう。
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さて、そんな建長寺、ソフト面だけでなくハードも立派な事は冒頭で申し上げた通り。
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凄く立派な仏様が参拝客を出迎えて下さいます。DSC_2102
仏様も立派なのですが、天井の装飾も立派ですよね?
実はこの仏殿、元は江姫の御廟所だった建物で、江戸時代の徳川将軍家の菩提寺、芝の増上寺に在ったのを御夫君で二代将軍の徳川秀忠公から建長寺の建替えに際して移譲され移築された建物なんですね。
徳川秀忠公の奥さんの江姫と言うのは別名で御江与様、つまり織田信長公の姪っ子で、浅井長政公と信長公の妹の市姫様の娘さんに当たる人物でした。
元々霊廟だったので、少し普通の仏殿と違った造りに成っているそうです。
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仏殿の横には何故(なぜ)か梟(ふくろう)の置物が・・・。
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仏殿の奥には金ピカの門が在ります。
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これも徳川秀忠公の寄進した唐門で、龍王殿の入口に成っています。立派ですね。
黒と金のデザインが、江戸時代初期、安土桃山時代の文化の雰囲気がまだ残る色使いに成っていますね。
徳川政権の前、豊臣秀吉が北野天満宮や二条城の伏見城遺構や大坂城天守を見る限り黒と金の組み合わせを好んで使っていた様です。
さて、建長寺は他にも立派な建物が現存しますが、小生は特に紹介して置きたい場所が有ります。
それは建長寺の“守護神”の半蔵坊という“神社”です。
日本の文化は本来は神仏習合と言って神様も仏様も同じ様に大切にしたり、水が湧く場所聖地や霊場として大切にされた山も崇拝対象にしていました。
ですから、明治時代の神仏分離令までは御寺にも沢山神社が在って、御寺の中で神官が神事を行ったり、逆に神様に和尚様達が御経を読んで天下万民の安寧を祈願したりしていたんですね。
明治時代の神仏分離令で多くの神社の中の仏様や、御寺の中の神社の神様は撤去されてしまいましたが、臨済宗や曹洞宗や浄土宗や真言宗と言う武家文化と密接な宗派は神様を今でも大切にしている場所が多く有ります。
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半蔵坊へは少し判り難い上の写真の参道が建長寺境内の左側に在ります。
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そこを進んで行くと、御寺なのに立派な鳥居が見えてきます。
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半蔵坊は天狗(てんぐ)様を祀る建長寺の守護神なので、鳥居をくぐり御社を目指すと沢山の天狗様が御出迎えして下さいます。
天狗信仰は関東では古い文化で、延喜式内社の大山阿夫利神社も江戸時代には大天狗と小天狗も崇拝対象に成っていました。
源義経が鞍馬山で天狗に剣術を教わったのは有名な話ですね。
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さて、この半蔵坊、現代に凄い御利益を発揮した事で有名だったりします。
実は阪神淡路大震災の時に、この建長寺を参拝して半蔵坊の災難除けの御守り札を頂いて来た人達の家は、一軒も被害に遭わなかったそうです。
まぁ良い地盤の地域に御住まいの方が多かったのかも知れませんが、普段から古い習慣を大切にして、心に一本、神様仏様への信仰を持っている様な人だからこそ地震被害の多い埋め立て地を居所にしなかったりしたのかも知れませんが、こう言うのは信じて厄除けして頂いて、自分の心を安らかにする事が既に御利益なんだと思います。
そして、神様仏様の御利益が実際に授かれれば、それに謙虚に感謝して、日々生かされていると感じれたら良いのだと思います。
小生も自分の土地神様と仏様の厄除け祈願の御守り以外に、家の玄関には半蔵坊様の御札と氏神様の御札を掲げています。
お蔭様で、何とか無事に生きています。そして遊び友達みたい浅い関係ではない、日本の親友と国境を越えた親友にも恵まれています。
そんな訳で、建長寺守護神の半蔵坊大権現は災害除けの御利益が有るので、建長寺に参拝するならば一緒に是非参拝する事をお勧めしたい場所だったりします。
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ここからの眺望や良く、写真の日は生憎(あいにく)の曇天でしたが、晴れていると相模湾も一望出来る景勝地でもあります。
ただ、ここに御参りするには建長寺オリジナルの御朱印帳が必要です。
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御朱印授与の場所で売っているので、半蔵坊の御札も頂くならば、鎌倉五山や鎌倉の臨済宗寺院巡りの為にも購入すると丁度良いかも知れませんね!
小生は建長寺と半蔵坊の御朱印を頂いてから、鎌倉五山の御寺を順位の順番に再訪しました。
残念ながら、寿福寺の現御住職は昨年くらいから御高齢で御体が不自由になられた様で、御朱印の対応が困難だと奥様から伝えられ、再度御朱印をこの朱印帳に頂くには至っておりません。
寿福寺も由緒正しく、昔は歴代御住職様は猊下(げいか)と武士や僧侶から敬称で呼ばれた御寺なので、早く御住職様の体調が良くなり復帰される事を祈るばかりです。

さて、建長寺、立派で御寺でしょう?
半蔵坊からの眺めも良いので、北鎌倉散歩の際は是非、訪れて見て下さい!
・・・まぁ、円覚寺や東慶寺や浄智寺、明月院や長寿寺って他にも御参りして置きたい御寺が沢山有るのが北鎌倉なので、鎌倉江ノ島七福神の御朱印巡りがてら、数度に分けて鎌倉訪問して建長寺も浄智寺と一緒に訪れたり、明月院の紫陽花観賞と一緒に訪れるのも良いかも知れませんね!

さて今日はここまで!
今週末は台湾の友人夫婦の来訪が有り、水曜日はその事を休日雑記に書くかも知れません。
では、又、次の解説記事か休日雑記で御逢いしましょう!