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前回の記事⤵
北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。
コレの続き⤴

今回は河越夜戦で全軍の総指揮を執り北条11000vs上杉80000で北条家に奇跡の勝利を齎(もたら)した多目元忠公の隠居地であり菩提寺でもある神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺(ぶげんじ)を紹介します。
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法照山 豊顕寺・・・三つ沢壇林旧蹟
(だんりん=江戸時代の仏僧の大規模学問所)
北条五色備え 黒備え隊大将 多米元忠公と多米家の菩提寺
恐らく、この豊顕寺の寺名の読み方すら御存知無い方も幾らかいらっしゃると思います。
そして豊顕寺さんが多目元忠公の隠居地とは知らない人も多いでしょう。訪問さえすれば秀吉の小田原攻めで小田原城に籠城した❝多米長宗❞公が多米元忠公では無い事や、そもそも歴史学者が江戸時代の誤植した❝多目(ため)❞姓を現代では正式認定していますがコレが誤っており、正式には小田原所領役帳や新編武蔵風土記稿の記載の通り❝多米(ため)❞である事が直ぐ解ります。
又、小田原北条家の滅亡後は多米家は消息不明的なアホな事をテンプレ書き込みしている馬鹿学者もいますが大きな誤りであり、ソイツ等は先人を尊敬して文書にする際に菩提寺や氏神の神社を参拝して仁義を通したり取材して事実確認をしていない三文学者な事が歴史オタクには一目瞭然だったりもします。
今回、戦国時代の北条家研究をされる方にとって、多米家の事でとても大事な報告も有るので是非読んで頂きたいと思います。

27日の深夜にブログ更新する心算でしたが豊顕寺サンへ未取材のまま結局記事に書きたくなくて28日土曜日に御住職様に御朱印の拝領と合わせてアポをとり取材をして参りました。
色々と御話を聞けたし、実際に江戸時代までは江戸上野の寛永寺に匹敵する超大規模な壇林の三ッ沢壇林だった名残りが❝横浜市教育委員会が保護もせず放置したまま部分的に現存している❞事も確認して参りました。
そして、多米家嫡流の御子孫が戦国時代から現在まで筆頭の檀家として豊顕寺サンを歴代菩提寺にして来て御寺の歴代御住職も多米の殿様の御子孫の来訪時には丁重にもてなし続けている事も教えて頂く事が出来ました。そして今現在、❝多米家の直系最期の御子孫❞がいらっしゃり・・・

う~ん、多米の❝お姫様❞の話は先ずは置いておいて、御寺の歴史紹介から多米家のルーツを解き明かし、北条家臣化の通説とは違うプロセスの方が現実的と指摘したいと思います。
豊顕寺周辺 久良岐のよし
豊顕寺は正式名称を法照山 豊顕寺と言います。
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2018年04月28日(土)の躑躅が綺麗な日に訪問、横浜市営地下鉄ブルーラインの三ッ沢上町駅の目の前で、豊かな緑に囲まれた素敵な市民の憩いの場にも成っており、本日の参拝の折も横浜国大の生徒と思しきカップルが境内で仲良くデートしていました。
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なにやらスマホをいじくっていたのでポケモンGOでもやってたのかな?
この豊顕寺サン、元は三河国八名郡多米村(現:愛知県豊橋市多米町)に多米家の祖先の多米元興公が永正十二年(1515年)に多米家菩提寺として建てた❝本顕寺❞が存在しました。この永正年間に活躍した元興公の御父上の多米元益公には❝伊勢七騎❞と言う異名が有り、既に伊勢盛時宗瑞公の時代の元益公の代には北条家と“関わりの有る家”として活躍し重臣だった事が確認出来る訳です。しかし家臣かは別の話し。
多米家は伊勢国で伊勢姓時代の北条早雲の名で知られる本名:伊勢新九郎盛時公と出会ったと何だか書いているガクシャ先生もいますが、これは恐らく江戸時代に作られた俗説のデマを事実考証もせずにテンプレした結果の誤りでしょう。
そもそも永正十二年(1515年)頃に三河国に菩提寺を作っている多米家が永正年間頃に伊勢国で伊勢新九郎公と出会う訳が無いんです。
実は小生が間宮林蔵の祖先であり多米家と同じ横浜の戦国武将で笹下城主の間宮家の顕彰活動をする過程で、多米家が伊勢(北条)家の臣下に成る理由を発見していました。
永正年間の伊勢家は今川家臣ながら伊豆国と相模国西部の小田原城を手中に収めて今川家の従属大名として活躍していました。そして当時の伊勢家は北条早雲公の代には北条姓を名乗っておらず早雲公も正式な名前は伊勢盛時 入道号:早雲庵宗瑞が当時の御名前でした。
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この頃の伊勢家は永正三年(1506年)~永正四年(1507年)か永正五年(1508年)迄の足掛け3年間に渡って伊豆と相模の与力武将と今川家からの与力武将を従えて❝徳川家の祖先❞松平家と長期合戦の真っ最中でした。松平家初期の本拠地だった三河国碧海(へきかい)郡=現:愛知県三河安城市の安祥(あんじょう)城を攻め落とすべく今川家総大将として出陣しているんですね。
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現在、安祥城の本丸跡には大乗寺と言う浄土真宗の御寺が在ります。
この頃の今川家は東三河一帯を勢力下に置いていたので当然ながら多米元忠公の御父上と思しき多米元益公や多米元忠公御本人の別名と思われる多米元興公は、この時期に今川家臣と成ったと考えた方が自然でしょう。そして後に東三河は徳川家康公の祖父で戦上手で少々乱暴な人としても有名な松平清康公によって征服されて今川家が三河の領地を失陥(しっかん=戦に負けて城や領地を失う事)していますが、その前に松平家と当初は敵対していた戸田家によって先に豊橋市一帯は征服されているので、多米家は今川の勢力を離れた後で一時的に戸田家に従属し、更に今川家時代からの仇敵の松平家が一帯を征服したタイミングで出奔したタイミングもこの頃かと推測出来ます。
その時期は享禄二年(1529年)の松平氏による現在の豊橋市周辺併呑の頃でしょう。
当然ながら以前に松平家と敵対した今川家の総大将の伊勢盛時公に与力した多米家も松平家から領地を奪われて浪人したでしょう。
小生の推測では、この時に優秀だった多米元益公と多米元忠こと多米元興公は伊勢家を頼って伊豆の韮山城の北条早雲公こと伊勢盛時公か小田原城主で伊勢家二代目の北条氏綱公を頼ったのでしょう。小生思うに、親子は実力を買われたのと伊勢家が敗戦と浪人の責任から多米家を召し抱え重臣として取り立てたと考えれば伊勢家家臣化が極々自然に繋がると思います。
さて、小生が何故この事を気が付いたかと言えば全然関係ない久良岐郡の間宮家居城の笹下城の事を調べていて、中世武士の文化や北条家研究家として間宮家や中田家の事や久良岐郡研究で多大な成果を収められておられる盛本昌廣先生の論文と新編武蔵風土記稿の久良岐郡の笹下城下の事を読んでいたからでした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
この古文書の写しが新編武蔵風土記稿に紹介されています。
この内田対馬守は間宮家臣として笹下城下では代々続いた家でして、分家も多く本家は古門内田対馬守家として近年で知られた地主サンでした。
小生はこの古文書の写しを読んで間宮家臣古門内田家の御子孫を探しに港南区笹下町を訪れ朝から夕方まで内田姓の家を訪ね歩き回りピンポンしまくる怪しいセールスマン状態(笑)で御自宅を見つけ出し訪問していた事が有ったので多米家のルーツと繋がる❝今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻め❞に行き着いた訳です。まぁ、世界屈指のメーカーさん相手に企業営業の経験を積んだ小生に掛かればコンナ事は朝飯前(笑)!何にも恥ずかしくないし飛び込み営業と取材は何にも変わらん(笑)!
これが歴史オタクに活かせるスキルだとは思いもよらなかったし、研究職しか経験の無い学者サンが肩書が無いと仕事が捗(はかど)らないと思い込んでるのとの違いだなと今にしては思う。
この感状の古文書、年号が有りませんが寅三月ニ十八日と書いて有りますよね?
実はこれ、三河国碧海郡の安祥城攻めが終了した翌年の発行なんです。そしてこの寅三月の寅年がいつだったかは内田対馬守サンの死没年から特定できるんです。
三河安祥城攻めが終了したのは永正四年(1507年)とも永正五年(1508年)とも言われていますが、内田対馬守が死没したのは新編武蔵風土記稿に永正五年(1508)三月二日と記されています。つまり1508年を含むそれ迄の寅年、かつ永正年間で感状(かんじょう=感謝状と御褒美)を与えられる様な合戦が有った年と考えると推測が着きます。
この感状は死亡前の活躍に対して数ヵ月のタイムラグが有り、亡くなって初七日も終え暫くしてから今川家から送られている事も判ります。戦傷が元で亡くなったんでしょうかねぇ~?
内田対馬さんが感状には御大途(大殿様)と言う表現が有りますね?これは伊勢(北条)家が今川家の家臣だった頃に今川家から伊勢家与力の間宮家に発行されている事が解ります。当時の北条家臣団は北条早雲公に対して大殿様と言う表現を用いていなかったそうなので、間宮家の殿様の伊勢家の更に殿様の今川氏親公から下賜された官位に付随した書状である事が解ります・・・
「では質問!内田対馬さんが無く亡くなり今川家&伊勢家連合軍の松平家安祥城攻めが遅くとも終結した永正五年(1508年)の干支は何でしょうか!?」
・・・答えはね❝丙寅(ひのえとら)年❞、つまり寅年なんですよ!
だから今川家の殿様から内田対馬守の死没以前の活躍に対して感状が発行される寅年か前年の合戦は今川&伊勢連合軍の三河安祥城攻めしか無い事が解る訳です。
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※写真は駿府城、今川家の拠点が駿府城の前身とも言われるが定かでは無いと駿府城の学芸員サンがおっしゃってました。
この時期、今川家臣だった伊勢家は今川家の名代と言う名目と幕府の公認を受けていた古河公方家の支援と山内上杉家と扇谷上杉家の内紛鎮圧を大義名分に相模国東部~武蔵国久良岐郡に侵入し橘樹郡~都築郡と、武蔵国南部も浸食し始めていました。そして❝永正の錯乱❞と呼ばれる室町幕府管領細川家の内紛が起きて応仁の乱の西軍側の足利義稙公によって当時の室町将軍の足利義澄(よしずみ)公が征夷大将軍の職位を奪われ京都を追われる事件が発生します。
実は北条家が伊豆国を支配で来たのは、足利義澄公の母上の仇(かたき)であった異母兄の堀越公方足利茶々丸を討ち果たし仇を取ると言う❝大義名分❞が有ったからでした。その足利義澄公が将軍職を追放されてしまったので、伊勢家としては堀越公方やそれを支援する山内上杉家と戦い伊豆国と相模国の支配権を保持する正当性が無くなってしまいました。そして伊勢家の主君だった今川家は幕臣として室町幕府に仕えていましたが、足利義稙公と今川家との主従関係が確立されると山内上杉家は西軍との関係が良好であったので伊勢家と今川家の関係も問題に成って来てしまう訳です。
そして永正六年(1509年)頃から伊勢家は今川家臣としての活動を一切行わなくなり、この頃に断交している事も判ります。

さて、ここから多米家と北条家の歴史が繋がります・・・
この頃の永正五年(1508年)に徳川家康公の祖父の松平清康公が生まれ、大永三年(1523年)に清康公は父の松平信忠公の隠居を受けて15歳で松平家当主に就任すると享禄二年(1529年)頃に多米家の領地の有った三河国八名郡や宝飯郡を含む今の豊橋市界隈で一番有名な御城の吉田城の城主:牧野家も今川家臣でしたが松平家と縁戚の戸田家との合戦に敗れて降伏しています。そして八名郡や宝飯郡一帯は松平家の盟友の戸田家の領土と成ります。当然ながら今川家臣で旧伊勢家与力の多米家もこの時期に三河国の所領を失った筈です。
・・・そして永正十六年(1519年)に伊勢盛時入道宗瑞公も死没しているので、多米家は北条家二代目頭領で❝小田原城主の北条氏綱公を頼って北条家臣と成った❞と考えた方が通説よりも自然でしょう。
そこで大切なのが横浜市神奈川区三ッ沢西町の豊顕寺サンが三河国八名郡多米村から移転して来た時期です。
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恐らく多米元忠公の初名と思われる多米元興サンは天文年間(1532~1555年)に青木城主を隠居して、三河国の多米家菩提寺の本顕寺を現在の神奈川区三ッ沢上町駅前に移転させて、自分の隠居所としている事が寺伝や新編武蔵風土記稿の記載から解っています。

【新編武蔵風土記稿 橘樹郡之十三 小机領 豊顕寺の項】
豊顕寺
~冒頭省略~
もとは三河國八名郡多米村にありて、本顕寺と云(言い)てかの地の士多米権兵衛(元益サン?)が世々の菩提寺成り(豊顕寺伝承では1515年造営)、
~以下中略~
長氏(北条早雲公の本名:伊勢盛時の別名)後に相武等を併呑せしかば、権兵衛かの家人となりて一方の大将を承(賜わ)れり、(※この時点で北条家の相武併呑後(北条氏綱公の代の事業)に北条家臣化している事が書かれているが、早雲公が今川家臣だったの頃からの与力としての付き合いである事が先に紹介されているので現代の解釈の混乱に繋がっている模様)天文年間中よりこの地(青木城一帯)の領主となりしゆへ、かの本國(三河国八名郡多米村)にありし本顕寺を當(当)所へ引うつして名を豊顕寺と改めしとぞ、
~以下省略~
ここまで読めば今川時代に伊勢七騎と呼ばれた多米元益の世代から多米家と伊勢家の付き合いは有って、でも北条家の家臣化したのは北条家が武蔵国まで勢力拡大した頃の話である事が解ります。
更に多米❝権兵衛❞の様に当時の武家の各家系が名乗る屋号や官職名は代々引き継がれる物だったので、世代的に多米家で北条家臣と成ったのは天文十四年(1546年)に活躍した多米元興(元忠)公の時代の話である事も推定できます。そして青木城主に成ったのは天文年中での事で、その頃に隠居所の草庵の所に三河国の多米家菩提寺の本顕寺を三ッ沢に移転している事が解ります。
もしかしたら多米元忠公が御隠居されたのは河越夜戦で指揮をとった記録が有るので、天文十四年か翌年の天文十五年(1545年)かな?と考えれば自然ですよね。

つまり、豊顕寺サンとしての横浜市神奈川区三ッ沢西町でのスタートは、多米元忠公の引退時期の天文十四年~2年間の間の話だと推定できます。

そうそう、小生が参考にしている新編武蔵風土記稿ですが、そもそも新編武蔵風土記稿の近代の役人と出版社が編集した❝活版印刷版❞では❝本顕寺(ほんげんじ)❞の寺名すら誤植しています。❝本顕寺❞の草書体を本❝願❞寺と誤読した挙句に出版してしまっているんですね。更にソレを知らずにテンプレする歴史学者やら多米じゃなくて多目と書いてしまう学者やら・・・
コイツ等のせいで小生も豊顕寺の御住職に事実確認するまで「❝多目❞が正しいのかな?」と柄にも無く少数派で「❝多米❞だコノ馬鹿が!」とガクシャ先生を罵倒する事が出来なかった事を恥ずかしく思います。
よって今回の記事以降から多米家は全て多米姓で統一したいと思いますが、過去の記事の絡みも有り検索タグは❝多目元忠❞のままにして置きたいと思います。
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さて、多米家のルーツと豊顕寺の移転開基年代がだいたい推測出来た所で、もう一度御寺の参道の紹介から御寺その物の風景と施設を紹介しなおしたいと思います。
豊顕寺は市営地下鉄三ッ沢上町役を降りて国道一号線側から入ってくると外の大門代わりの石柱が有り、そこを入ると正面では無く右手に御寺が在(あ)ります。
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昔は大門を入ってくると真直ぐに丘の上に4万5千坪もの壇林(だんりん=学問所僧院の集合体)が存在していたのですが、明治のキリスト教徒政治家や戦後の宗教改革でアホの横浜市に接収され文化も史跡としての価値の高い大寺院群は上野の寛永寺同様に一部を残して徹底的に弾圧破壊されてしまいました。
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だから今も昔の壇林へと続く参道は豊顕寺市民の森の中に石畳と赤門だけが真直ぐ続き現存しています。
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先ずは御寺の風景を見てみましょう。
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緑豊かな豊顕寺の森に落ち着いた雰囲気の山門、昔は間宮家の杉田妙法寺や間宮家臣荒井家が鎌倉時代に中興した金沢区上行寺と同じく千葉県の中山法華経寺を開いた富木(とき)家出身の御住職が開いた前身寺院が存在しました。恐らく多米元忠公が御隠居された場所と言うのは、その前身寺院の事でしょう。
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山門をくぐると東を向いた御堂は初夏の午後16時頃の西日を背負って御寺に相応しい表現化は微妙ですが何だか神社の様に緑豊かな豊顕寺本堂は神々しい雰囲気に包まれていました。
山門から入って左手の竹の柵に囲まれた井戸が有りますが・・・
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この井戸はまだ現役で活用されています。
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手動ポンプで水も勢いよく出ました。
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・・・実はこの井戸の背後に歴代住職様と多米家嫡流で豊顕寺檀家の歴代御廟所が存在します。
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浄財寄進者名にはちゃんと多米家❝最後の御当主❞の御名前も刻まれていますが、予想外に❝間宮姓❞も多くいるので「何でだろな?」と思ったら、そう言えば神奈川区斎藤分町は間宮家の御分家の間宮宗甫サンの所領だったんです。これも御住職に取材をして解ったのですが、昭和初期まで神奈川区の間宮一族の中には大邸宅に住み使用人を住み込まれている家も有ったとの事なので地主と言う事を考えれば豊顕寺檀家の間宮さん達は笹下城主間宮康俊公の親戚の間宮宗甫公の御子孫達と考えられるでしょう。
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御本堂は戦災で焼けたのか鉄筋コンクリート造りの外観でしたが、屋根瓦に刻まれた地紋は北条家の三鱗紋でした。
丸に三ツ鱗紋
そして多米家の御廟所を参拝してから御住職にも確認しましたが、多米家の家紋は❝丸に北条三ツ鱗紋❞だそうです。
実は多米家の家紋を御存知無いガクシャ先生達が多いのですが、まぁ小生も昨日まで知らずにいたのですが、こうやって現地に行けば取材も出来るし、先人や歴史偉人や神仏を尊敬して神社や御寺を開いた殿様や歴代御住職様や宮司様に御参りするれば直ぐに家紋は判明するんですけどね。
ちゃんとした学者さんや博物館の学芸員サンは論文書く時に御墓参りしたり宮司様や御住職様に連絡したり御参りに行くから、素人の只の歴史オタクの小生と同じ程度の事は御存知なんですよ。
信仰心も先人への尊敬も無く、ただ飯のタネにしてる他地域からの移住して来たのに横浜を郷土として馴染み認識出来ない人ばっかの横浜市教育委員会の人達は知らないんですがね。
山門入って右手、多米家御廟所と反対側に庫裡(くり=居住空間)が在ります。
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庫裡の前にも真っ白な可愛い御花が咲いていました。
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とっても綺麗。
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その御花の前のベンチで和やかに時間を過ごす仲良さそうな大学生位のカップル。
羨ましいぞ!
誰か日本文化と歴史と散歩と旅行先の郷土料理食べるのと綺麗な風景好きな水商売経験や酒乱癖や違法薬物使用経験の無い真面目な女性、小生を婿にもろうてくれ(笑)。
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御寺の本堂の扁額には山号の法照山(ほうしょうざん)と書かれています・・・
読み様によっちゃ悩める人々の味方の「法テラス」とも読める(笑)。
・・・まぁ、弁護士サン達とは違う意味で人を精神的に助けれるのが宗教の良い所、ある意味で法テラスと同じ人助けの組織だね。
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御本堂の左手には日蓮上人像。あ、紹介し忘れていたけれど豊顕寺サンは法華宗です。
・・・豊顕寺サンの御本堂と庫裡の有る山門内はこんな感じ。
山門を出て旧三ッ沢壇林への参道の赤門前に戻ります。
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この赤門は江戸時代から第二次世界大戦の戦火も免れ存続し、老朽化で一度部材を解体して修理すべき箇所を手入れして組みなおした修復後の姿です。赤門と言うのは幕府の許可が無いと作れない寺格の高い御寺や医学書や大名屋敷にだけ許された特別な門でした。東京大学の赤門も加賀前田家の邸宅の門だったから朱塗りが許された門だったんですね。
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さて、豊顕寺から続く三ッ沢壇林の参道、横浜市は緑地として一部だけ残しましたがその山林の中には貴重な三ッ沢壇林の史跡が有るのを小生は確認してきましたが❝横浜市教育委員会は全く史跡として保護をしていません❞でした。アホなのかな?
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赤門をくぐると江戸時代からの壇林の参道を利用した遊歩道が在ります。
これを真っすぐ進まずに、最初の右手の削平地へ進んでみて下さい。
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左手に人工的に切岸にしてある段地を見ながら進むと・・・
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初夏には真っ赤な躑躅が咲く場所が在り、更に人気の少ないその奥には何やら削平地が有ります。
更にその奥に進んで下さい。
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・・・するとおそらく旧塔頭へと続く石段だったと思われる階段が登場します。
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近くで見ると石材を人力で加工した跡が有り、小生は江戸時代の石段だと思います。
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登り切ると不自然に階段は途切れ、少しずれて何かの私設の裏口が有ります。
これ、Google mapで見ると国土交通省関東地方整備局の施設らしいです。
三ッ沢壇林旧蹟衛星画像 久良岐のよし
この画像では北側が下に成っています。
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同じ角度で見た江戸時代の絵図だと、現在の豊顕寺サンの位置は手前右側の小さな御堂の集合体みたいな辺りで昔とは位置が違う様です。そして現代の立派な石段跡に続く国土交通省関東地方整備局の建物辺りに何か立派な御堂が有る事が解ります。
しかしこれ、何の御堂か新編武蔵風土記稿の豊顕寺の項目を読んでも良く解らないのですが、如何にざっと記述を載せて見ます。

三十番神堂 ・・・門を入りて左にあり
多米氏墓  ・・・門を入りて左にあり
多米彌七郎墓・・・同並の内にあり
蓮秀墓   ・・・前に言へる二基の間
運信齎日領墓・・・同並にて北のはしにあり
三澤壇林  ・・・境内の南の山上にあり
(赤)門    ・・・柱間一丈腕木つくり山上にあり
講堂 本院寮・・・講堂の表通りにあり今は廢せり
玄講寮   ・・・講堂の北下表通りの西側にあり
集講堂   ・・・同所の北の側にあり
條講堂   ・・・講堂の北下裏通北側にあり
自寮    ・・・十四棟
長屋    ・・・七軒

これを見る限り国土交通省関東地方整備局の辺りには講堂が在った様です。
その左手には何やら基壇が有りました。
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恐らくこれ玄講寮とか言う奴の基壇だと思うんですが、何んの説明も無いので不明です。
何故横浜市はこんな立派な基壇を保護も発掘もせずに風化させ放置するのだろう?
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周辺に削平地はまだまだ有るので、講堂周辺の御堂のいずれかの跡でしょう。
そして赤門をくぐり真っすぐ上まで行くと三ッ沢壇林の中心の御堂の石段と基礎が残っていました。
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これも保存する気無しの教育委員会、馬鹿なの?
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八幡広場と書いて有るので、往古は三ッ沢壇林の中心は多米元忠公の北条家が大切にした八幡大菩薩応神天皇が祀られた御神廟だったのかも知れませんね。日蓮上人と鶴岡八幡宮の結び付きも強いですし、法華宗の豊顕寺としても大切な場所だったのでしょう。
この様に、史跡としても学僧の聖地としても横浜市に破壊された三ッ沢壇林ですが、現在も放置された名残りは有るし深緑のとても気持ちの良い散歩道としても楽しめます。
そして豊顕寺を御参りすれば北条家の軍師だった多米元忠公に知恵の御利益を授けて頂く御釈迦様や八幡大菩薩応神天皇との橋渡しをして下さるかも知れませんね!

最後に戦国時代の北条家研究をしている歴史学者さんが見て下るかも知れないので一つ報告をします・・・
三ッ沢の豊顕寺で多米元忠公以来檀家として存続した多米家嫡流はもう直ぐ途絶えます。
御先代の男性当主がつい7年前に亡くなりました。そして現在の御当主は女性で残念ながら御子様に恵まれませんでした。
文字しか読まないタイプの学者には歴史上、江戸期の動向が良く解らないから断絶したとか言う人もいたりなんかする多米家ですが、ちゃんと多米家菩提寺豊顕寺では歴代の御当主を戦国時代からずっと事有る毎に来訪される旅にお迎えして来ました。
多米家を研究されたい学者さん、いますか?
もしアナタが本当に歴史が好きで先人を尊敬しているのならば、歴史偉人を呼び捨てにせずに敬称を付けて名を御呼びする様に態度を改め、豊顕寺を参拝し現在の御住職様に多米家最後の御姫様の女性当主様に連絡を付けて頂き家系図を見せて頂いたりする最後のチャンスですよ。
今やらないでいつやるの?
素人の小生が出来る事をアナタ達は何で出来ないの?
先人をリスペクトせず、神奈川県の史跡が開発の邪魔だから触れず?
歴史は飯の種で歴史人物も飯のタネだから敬称付けず人扱いせず呼び捨て?
それってさ、御子孫も菩提寺の御住職様も氏神様の宮司様も檀家サンも氏子サンも怒るよね?

歴史偉人も生きていた事を思い出し、そして子供の頃に憧れた戦国武将達への尊敬と日本の歴史を刻んで現在に繋げて下さった御恩を思い出して、敬称付けて名前を御呼びして自分で御墓に御参りする所から取材始めてみませんか?
多米家の事を調べるのは今しか無い最後のチャンスですよ。失礼な呼び捨てをするなら御寺とも御子孫ともコンタクト取るなよ。

・・・さて豊顕寺と多米家の歴史解説と推測の記事はここまで。
次回は多米元忠公の御子息達の重臣にしては所得が低めな理由を考察したいと思います。

北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説④】へ続く。



間宮家の顕彰活動と信奉する信長公所縁の土地巡りへ3泊4日の旅へ行って来た。
最近、ブログを更新出来なかったのは遠征の段取りと会う人達へのアポ取りをしていたから。
今回の休日雑記は28日の訪問先。重要な報告も有るので、それも別途記事にする。

東名高速が集中工事中だからね。交通量の少ない深夜に出て朝からの予定に合わせる計画でこうなった…
28日の深夜25時半に出発、途中、浜松SAで休憩。
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朝食に静岡オデン食べ、車にガソリンも補給。
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まぁ、普通だった。
六時半頃に豊田に到着。少し寄る場所が有り、豊田で用事を終えてから安城市へ移動。
予定通り朝9時に目的地の安城市歴史博物館へ到着。
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実はこの博物館は徳川家が松平姓時代の初期の本拠地だった安祥城址だったりする。
学芸員さんに予めアポをとっていたので、可成り親切に熱心に安祥松平家の簡単な歴史を解説して頂けた。
そして城址の切岸の説明や現在は埋め戻されている水掘りの幅等も案内しながら教えて頂けた。
何故、小生がここに来たかと言うと間宮家が❝伊勢家❞の❝与力❞で今川家臣だったと思われる時代に、伊勢家=北条家が主家今川家に援軍を送り安祥城を攻めた時に間宮家も参戦していた事が推測出来る家臣に発給した感状が有る。それを間宮家顕彰文に掲載する為に城址写真撮影と調べ物に来たのだ。
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まぁ、間宮家の為だけでなく、そもそも三河の徳川家の偉大さも理解しているし家康公や初代東照宮大宮司様自体が間宮家と血縁を結んだ方々だが、小生は建勲神=織田信長公や東照大権現=家康公も崇拝し尊敬しているし、北条家の殿様方と並び毎朝起きたら拝んでいるので、三河尾張巡りをするのは当たり前、いつかしなければいけない事だった。
個人的に三河尾張は御縁も有り、以前も史跡巡りをした際に御縁が出来た偉人の血縁者の御子孫にも御会いしたかった。
この歴史博物館は松平家初期の本拠地なので博物館の中には家康公の祖父で松平家の勢力拡大に成功した松平清康公の銅像が有ったりする。
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ここ安祥城址の本丸は現在の大乗寺。
当時、周辺は深田だった。現在も水田だが、水田の周辺に干拓されていない湖沼が広がっていたのだろう。
でも正直、松平家の本拠地とは認めたくない程小さな規模。しかし立地的に関東の忍城や伊勢原市の岡崎城の様に沼城で守りも堅固だったのだろう。沼掘りの場合、攻城側が塹壕掘って城に近づく事が出来ない。
松平清康公の時代には既に岡崎城に転居したそうだ。
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写真は大乗寺。山門が丁度、城の櫓みたいに見えてしまう(笑)。
今回の訪問で持った感想だが、三河地方で戦国期には存在していた浄土真宗の寺院は構造がハッキリ言って城のソレだった。浄土真宗では昔、過激な軍事組織として活動していた同門の寺院の事を御坊と言って軍事拠点にしていた時代が有ったので、その名残だろう。最初から戦う為の寺だったんだろう。
学芸員さんに個人的に御勧めの安城市周辺の城を聞いた際も、「御城ではないけれど~」と渡されたのも浄土真宗の寺院の見取り図だったが、どっからどう見ても城の縄張り図だった。
安祥城の出丸の方は八幡社に成っている。
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これが又、相当に立派な八幡社で、東京横浜では余りこの規模の八幡社が町中に有る事は無い。
富岡八幡宮の様に相当な御由緒でも有れば別だが、三河人の信仰心と言うか伝統を大切にする心意気が強いのだろうと思う。
宗派を問わず、その信仰心の強さから、一度所属する宗派が軍閥化すると三河一向一揆の様に強烈な戦火を引き起こす集団にも成るのだろう。
三河気質は親切で柔らかいが情熱的に熱い。隣の某都市とはだいぶ異なり地域の人々の温かさから観光客も楽しめる。
宿泊するならトヨタ自動車の御蔭で外部からの客を受け入れる事に成れている三河地方、安城周辺や豊田周辺、もしくは古くからの観光地である犬山市の温泉街が親切で良い。
そんな「愛知県もあそこ除けば親切で観光資源も沢山有るのになぁ~」なんて事を感じながら次の目的地に移動。
刈屋城址に行った。
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現代では刈谷市は刈❝谷❞の字で表記されるが昔は刈屋だったんだな。
刈屋城の元に成った水野家の城館から、雁(かり)が飛ぶ姿が良く見られたのだろうか?
地名由来は調べていないので解らない。
刈屋城址は大半が破壊されたものの、恐らく戦国時代には存在した二ノ丸と本丸を隔てる水掘りは今も立派に原型を留めている。
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現代の刈谷市民の皆さんは意識が高い様で、城址を当時のまま復元できる場所だけを現代に蘇らせようとしているようだ。
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良い試みだと思う。
詳細の解らない部分や図面の無い部分をコンクリートで想像して固めるのは❝破壊行為❞な訳だ。
名古屋城天主や大坂城天主や小田原城天主みたいな外観だけ真似したハチャメチャな鉄筋コンクリートビルでは無く、解らない物や当時のまま同じ材料や同じ設計で復元できない場所は遺構をそのまま展示する方が史跡保護に成る。
愛知県で言えば名古屋城天守閣は汚点でしかない。もっと酷いのは全く史実と関係の無い小牧山城天守だろう。
でも刈谷市の試みや、安城市の安祥城の保護の仕方は本当に素晴らしい。擁護すると小牧市の現在の城址発掘保護の方法も素晴らしい。小牧山に邪魔なビルが建っているのは昔の無学な成金が自己満足で関係無いものを悪意無く作って破壊した結果なので、あの小牧山城天守は早く撤去して、あそこに信長公や吉乃様(仮称)が夫婦で暮らした御台所や御殿を発掘しガラス張りで浸食されないようにして公開し、麓に立派な博物館でも作った方が良いだろう。
発掘調査に基づいて公開していこうと言う小牧市の現在の取り組みや、刈谷市の計画は素晴らしい。
刈屋城址の中の❝十朋亭❞の中には、訪れて是非見て欲しい物が有る…
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江戸時代の刈屋城の縄張り復元模型だ。
そんなに大きい物ではないが、元々の城だった本丸周辺に、後から三河流の平地に水掘りを引き込んで細長い帯曲輪を巡らせる独特の築城術を見る事が出来る。
この構造は後の江戸期の河越城に追加された田曲輪や外曲輪等の築城術に繋がって行く。
徳川家と縁の深い水野家の城らしい構造が、この模型を見て貰えば理解出来る。
安祥城と同じく、戦国時代に突入して間もない頃の尾張三河の城は小城ばかりだったのだろう。これは大名の家臣達が自前で城を築城していた統治の問題だろう。
城を家=国単位で築城する財源捻出方法にした信長公の手腕はやはり素晴らしい。
清州城改修や小牧山城築城が出来てやっと関東の先に戦国時代に突入した大名達の築城規模に近づいている。

この日は翌日の行動地域を前提に名古屋市中区で宿泊を決めていたので、今川義元公が桶狭間合戦時に辿(たど)った進路に沿って(自分の推定)で熱田神宮を最終目標地点に名古屋へ行く事にして事前にアポどりをし準備をしてあった。
そんな訳で安城市や刈谷市を後しして義元公の足取りを辿り、ついでに信長公と家康公の関わった場所を巡って行った。
最初に来たのが沓掛城址。
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沓掛城址を目指すには慈光寺と言う御寺を目標にすると良い。
ここは桶狭間合戦後に沓掛城址と成った梁田政綱公の家臣が城址の一角に築いた浄土宗の寺院。
御朱印も頂ける。
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境内の広さは現代では町中の御寺より少し広い位。
御寺の家人もとても柔らかく三河地方の方らしく親切に御参りに来ただけなのに「城址は裏手に有りますよ~」「とか今川義元が桶狭間前日に宿泊したんですよ~」とか説明して下さった。…知ってる情報だけど親切心が嬉しい。
御寺が城域で曲輪だった事は裏手の城址公園に行くと良く解る。
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屈曲した人工的な空堀地形が御寺と城址公園の間に在るからね、御寺も曲輪の一部だった事が一目瞭然。
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簡単な説明文も有るので、訪れた際に読んで見ると歴史に興味無くてもここの意味が解る。
時代が大きく変わる切っ掛けの前日、ここに今川義元公が宿泊していたのだ。
ここに宿泊し、翌日に織田領の残る内陸の大高緑地では無く海沿いの今川領大高城を目指した結果が翌日の歴史転換地点に繋がった訳だ。
つまり、歴史が変わる契機に成った場所がここな訳だ。
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城址公園としては小さいが、上の写真の本丸と思しき一段高所の前にも内堀が残っていたりする。
今川義元公存命中の尾張三河の城は大半が、この規模だったんだろう。
堀の幅は広くても5m 位だろうか。堀底から土塁まで比高7m位有ったか無かったか。
まぁ、現在の城址公園を一回り広くしたくらいの範囲が当時の城域なんだと思う。
正直、同時代の関東の城に比べて工夫も少ない。
やはり築城術を飛躍的に進歩させた信長公は偉大だと思う。

今川義元公はここ、沓掛を出発し、現代では決戦地は狭間古戦場と言われる場所は幾つか有り、桶狭間病院と高徳院の辺りにて合戦が発生したとする学者もいる様だ…
もっとも小生の意見は現地を廻っているので文字しか読まないガクシャ先生とは少々異なり、更に地域の方々の伝承に近い。つまり、主戦場と呼ばれる場所は無く、移動しながら戦っていたはずだと思う。
石碑の名前は桶狭間古戦場。高徳院や桶狭間病院の目の前。
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伝承では今川義元は休憩中に襲われたと言う事に成っている。
その場所が高徳院だとする説を唱える学者がいるが、小生は周辺の戦場と名の付かない宗教史跡も回るタイプなので高徳院前が主戦場説は違うと言う感想を持った場所に行けた。
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ここ高徳院前も戦場だったと思う。
ただし戦場は戦場でも、今川義元公は別の休息地で襲撃され、更に近習が身を盾にして討ち取られつつ御本人は後退し、現在の桶狭間古戦場公園当たりで討ち取られ、今川本隊の後続は細い街道と谷間で前線に出れないまま後退し続け、この高徳院辺りまで追撃戦で追い上げられて戻って来たんじゃないかと推測している。
では今川義元公が最初に織田信長公本隊2000に強襲された場所はどこか、そして在所を捕捉されたのは何処かと言うと古戦場以外に神社も回るとヒントがまんま隠されている。
桶狭間公園と言う緑地辺りには桶狭間神明社と言う神社が在る。ここの背後の山に行くと、桶狭間合戦当時の雰囲気がどんなもんだったか良く解るのだが…
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当時はこの参道みたいな山林に囲まれた、敵側に行軍を捕捉され難(にく)い間道が大高緑地に沢山有ったんだろう。
そこを織田軍は進んだと思う。メジャーな街道を通ってはいないだろう。そして現在その道は廃道に成って残っていないのだろう。
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今川軍はこの桶狭間神明社を高徳院の次の休息地に定めていた筈(はず)だ。
沓掛城→高徳院→桶狭間神明社→大高城と入る予定だったんだろう。
その証拠がコレ…
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この桶狭間合戦時に、ここで武運長久を祈願した瀬名氏俊公は今川一族なのだが、この合戦当日先発隊だったのは今川義元の休息場所を設営する任務に当たっていたからだそうだ。
恐らく、この神社に来たのも、ここを義元公の小休止の場所に定め休憩の用意を整えたからだろう。
そして、自身は次の義元公休息地で当日の目標地点で有る大高城に移動したんではないだろうか。
高徳院も沓掛城から3km程の距離に在り休息地だった筈だ。昔の城はだいたい3~5km毎に1つ築かれているので、丁度高徳院の位置は沓掛城から次に立ち寄りに相応しい距離だ。
しかし、この桶狭間神明社は高徳院から1.5kmしか離れていない。しかし、ここは正に大高城に向かう途中に在る神社なので武運長久祈願を兼ねて立ち寄った可能性は有る。
丁度、義元公が立ち寄るタイミングに成る頃、織田家は千秋季忠公と佐々政次公が今川家を陽動する様に無茶な出撃をしたのも、義元公の休憩を長引かせる為だったのかも知れない。
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この瀬名氏俊公の行動を織田軍はずっと捕捉していたのだと思う。
そして、ここに今川家本隊の前衛や義元公がぞくぞくと先着し、義元公は神明社で祈願をはじめたか休息中に周辺住民からの進物を近習に報告されていた最中、善照寺砦から出撃した信長公が街道では無く山伝いに突如林道から襲来し、桶狭間神明社で参拝中の義元公は戦闘態勢も整えられず引くしかなかったんじゃないか…
と、個人的に推測している。
…そうすれば高徳院・桶狭間古戦場公園・桶狭間公園の三ヵ所で戦闘が起きたと伝承が残る事にも整合性が有る。
さて…
先に述べた通り義元公は大高城に入ろうとしたのだが、ここで休憩なり参拝なりして待機しなければいけない事情が有った。
善照寺に信長公が到着するのと前後して、熱田神宮大宮司で信長公に与力する千秋季忠公と佐々政次公の軍勢が大高城を攻撃したからだ。
この千秋・佐々隊の作戦を小生は❝陽動❞と❝足止め❞だったはずだ。
揺動の相手は今川軍の本隊以外の諸隊。目的は注意を引く或いは、千秋・佐々隊が大高城を攻撃する事で今川諸隊に大高城を救援させ織田信長公の本隊2,000が今川本隊を急襲する行軍が目に届かない場所に陽動する事。
かくして岡部元信の陽動に成功した筈だ。
千秋・佐々隊の陽動に引っかかった岡部は鳴海城を打って出て、大高城の救援に行く。
信長公は指揮官不在と成った鳴海城の真ん前を迅速に通過し林道を伝って桶狭間神明社を急襲したはず…。
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写真は丸根砦。本当に丸い尾根に築かれた小さな砦。
徳川家康公は当時、名を松平元康と名乗り今川家臣だった。この桶狭間合戦の前哨戦で松平元康公は丸根砦の前を通過し、大高城へ兵糧の搬入に成功している。その際、丸根砦に放火、囮部隊で攻めかかり、その隙に兵糧を見事運び込んだそうだ。
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※鷲津砦。
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鷲津砦は若干の堀切等も現存している。
実は、大高城に行くには今川家は織田方の丸根砦と鷲津砦の目の前、大高道を通らなければいけなかった。
今川方の大高城~織田方の鷲津砦は直線距離で600m、大高城~丸根砦も800mしか離れていない。
ここを落とさないと当然、今川義元公本隊は大高城に入れない。無視すれば背後から攻撃されるから。
そんな訳で、義元公が沓掛城に宿泊したり高徳院で休憩したのは、この2つの砦を陥落させながら安全が確保されたのを確認しながら進んだからだろう。
丸根砦は大高城を救援した松平元康公によって攻落され、鷲津砦は今川家随一の名将朝比奈泰朝公によって落城させられ、沓掛城を出立した当日の今川本隊の行軍の安全は事前に確保されていた。
桶狭間神明社が休憩場所に成っていたならば、千秋・佐々隊の陽動にかかった大高城の松平隊と鳴海城の岡部隊が千秋・佐々隊を掃討するのを待って今川家本隊は待機、戦勝祈願していたからだろう。
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大高城址公園
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土塁は撤去されていて、正直、城址公園としては物足りない。
規模も織田家の勢力拡大期の城で、正直、縄張り構造も未発達で規模もそれほど大きくは無い。沓掛城よりは大きい。
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曲輪跡の削平地は、そこかしこに残る。
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城址公園の遊歩道は、恐らく最近作られた道。
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凄く広い削平地が有ったので、恐らくここが本丸だろう。
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その奥に神社が在る。
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小生の郷里神奈川県の鶴岡八幡宮から勧進した御分霊を祀っているそうだ。つまり八幡社だ。
この神社の辺りには、城址らしい施設が残っていた。
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この細い道の左右の雑木林は空堀。つまり、この道は曲輪と曲輪を繋ぐ土橋。
秋の終わり位、雑木林が枯れた頃に来れば見応えが有りそうだ。
大高城の見学を終えて、鷲津砦の説明看板が腐食により解読不能だったので資料を貰いに名古屋市緑区役所の生涯学習課を訪れた。
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資料としては簡単な説明程度の物しか無かったが、緑区内の史跡観光案内のパンフレットを頂けたので収穫に成った。
ここを発つ時、既に16時に成っていた。この後、熱田神宮へ向かう予定だったので少々時間的に余裕が無く正直焦ったがナビでは30分とかからないはずだったので落ち着いて運転は出来た。
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熱田神宮東側大鳥居。
10年近く前にも来たのだが、その時は余り神社仏閣城址に関心は深くなく勉強もしていなかったので「大きい神社だなぁ~」程度の感想しか無かったが、今回改めて訪問して見ると第二次世界大戦での焼失後に明治神宮を意識した再建計画をしているのが良く解る。
木地のままの鳥居、広大な森林。自然崇拝を意識した境内。
しかしながら戦国時代当時の熱田神宮は、現在の様式の境内ではなく、恐らく三嶋大社や津島神社や石清水八幡宮の様に絢爛豪華な社殿が立ち並ぶ神社だった筈だ。
明らかに明治時代に成立した国家神道の影響が見える。
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とは言え、この境内の森林は神聖な雰囲気を醸し出し良い。だから熱田神宮と同じ造営設計の明治神宮が小生は好きなんだな。
ここに来たら皆にも是非食べて貰いたい料理が有る。
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熱田神宮の中には❝きし麺❞の専門店が有るのだが、1杯600円前後と安い上に名古屋駅の高い店で食べるよりよっぽど美味しい。
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遅い昼食に❝宮きし麺❞を注文して食べた。10年位前に来た時もこれを食べたので、今回は来る前から食べると決めていた。
先程、緑区役所で出発時に焦っていた理由は、実はこの店が16時30分閉店で間に合うか微妙だったからだ。
運よく、丁度16時29分位に店に到着し注文する事が出来た。
急いで食べて、参拝再開。
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参道には以前は無かった熱田神宮の各時代の説明看板が出来ていて、これが簡素ながら解り易くとても良かった。
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この参道を過ぎて社殿の在る領域に入る手前に上の壁が有る。
これが織田信長公が桶狭間合戦の戦勝祈願を、熱田の神に成就させて頂いた御礼に奉納した築地塀だ。
この塀が社殿の有る領域を取り囲んでいる。
信長公は神仏に対する信心がとても強かった方で、古典礼儀にも精通した人物だった事を知らない人も多い。
酷いと小説家や学者ですら信長公が信仰心が強かった事を良く知らないまま無宗教とかアホな事を言っている事が有る。バカだな。
信長公程、天皇家に対する忠義深く、天皇の住まう御所や伊勢神宮の復興に大金を投入して力を尽くしてる事は他大名に例を見ない。神社だけでなく寺院も多く再建している。
大坂の本願寺や伊勢長島願証寺や比叡山が信長公に攻落されたのは、彼等僧侶自身が武装化し町を襲ったり守護を襲うテロ組織化していたからで滅ぼされて当たり前の事をしていただけだ。その証拠に信長公以前に六角定頼公や北畠晴具公もそれぞれ武装した宗教集団を攻撃した歴史が有る。
ついでに言えば熱田神宮の大宮司千秋家も武装した武士?豪族?だったので織田家を支持して今川家と戦った訳だ。
当時の宗教観は現代とは全く違い、武士との違いは支配権を明示する大義名分が宗教集団には無かった事くらいだろうか。
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社殿も改めて見るとやはり、明治神宮にソックリ。色的には地味。でもこれが本来の神社。
朱塗りで派手に成るのは仏教建築の影響を受けた飛鳥時代以降の事。
更に造形が細かく色彩鮮やかに成るのは信長公が安土城を築いた頃のから。俗に言う安土桃山文化建築だな。
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小生は神社の社殿が有るなら赤くて綺麗な方が好き。でも境内の雰囲気は熱田さんや明治神宮の様な感じが好き。
でも社殿も何も無い縄文文化を受け継いだ有賀神社奥宮みたいな本来の自然崇拝も好き。
熱田神宮は信長公や源頼朝公と深い御縁が有るので参拝出来て良かった。
参拝を終えて名古屋城近くの錦と言う地区の有名なビジネスホテルに移動した。東〇インね。
19時頃にホテルついたら40時間位寝てなかったんで1時間くらい意識が飛んだ。
夜23時位…ホテル近くの焼鳥屋で一人夕食。
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名古屋飯旨いわ~。

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八丁味噌ベースの串カツ最高!
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八丁味噌ベースの土手煮も美味かった。
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焼き鳥も焼きそばも美味しかった。
翌日は友人と合流し津島大社や蟹江辺りの味醂造蔵本見学予定。


まぁ~、小生の率直な初日の感想を言えば…
「愛知県が観光したくない県ワーストワン」に選ばれてしまったのは100%新幹線の停車駅のある名古屋市街地のありとあらゆるサービス業の接客の悪さと、名古屋から周辺都市の観光地への交通の不便さのせいだ。
名古屋の中心街には熱田神宮と名古屋城位しか観光でメイン張れる物が無い。それ以外はどの大都市に行っても有るものばかり。
周辺の自治体の観光資源を殺す鉄道網の弱さ。東西を結ぶ線の欠如からくる連携の弱さと、バスの異常な少なさが問題だろう。例えば桶狭間合戦の史跡巡りを周遊するバスでもあって緑区周辺の豊明市~刈谷市なんかを一日乗り放題で順繰り観光出来たら、名古屋だけでなく豊明市側の沓掛城址や刈谷市側も廻れて協力地域で潤うだろうし観光客も増えるだろう。戦国ファンとしては名古屋市中心部よりそっちの方が楽しい。
そして車が無いと観光出来ない状態であること自体がダメ。
翌日、翌々日と回った犬山市・江南市・小牧市・蟹江町・あま市・愛西市・稲沢市・津島市・一宮市には名古屋以上に見て楽しい場所が多いし、町の人も接客する店員もどこに行っても笑顔で親切だ。
…名古屋の中心街だけはどこにいっても仏頂面のホテル店員と料理店の店員とコンビニ店員だらけ。ダメこれ。
それに反比例して翌日宿泊した木曽川沿いの旅館なんて、嘗てない程親切でビックリした。 
津島市の人も暖かかったし、とてもフレンドリーだった。

あれだな、名古屋の感じって東京都23区に住んでる江戸っ子じゃない他地域から移住して来た人達のソレに似てる気がする。名古屋で働いてる人も名古屋人じゃなくて警戒心ばっかりで生きてるんだろうか?
それと、今回名古屋に車で行って人生で初めてカーナビで「車両荒らし多発地域です」とか「盗難多発地域です」ってナビを連発された。完全に山口組のせいだろ。 
そりゃ、そんなに治安悪いなら印象も悪くなるほど警戒して生きていくしかないよね。これは名古屋のヤクザのせいだろう。名古屋市長、暫くフィリピンのドルテ大統領 に成って貰ってヤクザ組織を何とかして貰ったら良くなるんじゃないだろうか(笑)。
名古屋の中心街に行くまで凄く印象が良かった愛知旅の初日でした。

あ、名古屋市緑区の人達は親切だったよ。きっと地元で生まれ育って、豊かな自然環境で生活してるから心にも余裕が有るんだろうね。多分、本来の名古屋人てのは緑区の人達みたいので、小生が「おい」と思った接客業の連中は名古屋市街に他地域から移住して来て警戒心満載で生活して客にまで警戒心丸出しなんだろうね。凄くツンケンした感じ。

ま~、名古屋中心街の接客以外は、初日の愛知県東部旅は大変満足、旅行で行きたくない県No1どころか小生の中では愛知良い所って印象の初日でした。

唐突ですが…
歴史と言うのは学者は既存の文献を読むだけでは解らない事の方が多いと思っています。
良し悪しに関わらず筆者の「意図」が介在していて、本当は起きていた事実も演出の為に書かれていなかったり歪曲されたり、理由が有って紹介されない話も有りますからね。

ところが小説家のみならず歴史学者サンの中には現地を訪れた事も無ければ、関係者の子孫の伝承も拾い集めない「ド阿呆」も多くいるし、逆に司馬遼太郎さんや黒田基樹さんみたいに実際に現地に行き検証活動をしたり関係者本人や御子孫から事情を聞いて回る人もいる訳です。

小生、少し不思議な御縁が有りまして、よく神社サンで境内の一般非公開の領域に入らせて頂けたり、御寺サンで非公開の仏様を拝ませて頂けたり、直接、歴史人物の御子孫と御話する機会を得たり、偉い宮司様や和尚様に相手して頂ける事が一般人なのに良くあります。
これは、リスペクトする歴史偉人の皆さんの御霊の御導きだと思っています。
…オカルト的な意味じゃなくてね、本当に尊敬しているから御褒美として呼んで貰えるんだと思います。

愛知県の小牧市に昔、小牧山城と言う山城が在ったのを皆さんは御存知でしょうか?
小牧山城址
上はGoogle earthの衛星写真に、その小牧城の縄張り図を重ねた画像です。
戦国時代が好きな人なら誰でも知っている御城ですが、歴史に興味が無い人は知らないマイナーでは無いけれど超メジャーでも無い御城です。
信長公の尾張時代の最終的な居城だったのが、この小牧山城でした。
そして、この小牧城の周辺地域には信長公の青春時代の足跡が沢山散らばって伝承していたりもするんですが、今も、この地域には信長公や秀吉の関係者の御子孫が住んでいたり、主従関係に成る前の各自館跡が沢山有ったりします。

そんな関係で、小生は不思議な御縁も有り、小牧城から程近い江南市の小折町で、信長公の母上の「土田(どた)御前」の御実家の御子孫、また事実上の正妻の生駒家の吉乃様の菩提寺の檀家様達と面会の機会を得て御話しを聞かせて頂いたり、信長公の御位牌を直接拝ませて頂いた経験が有ります。
その際に、信長公が青春時代を過ごした地域を自分の足で歩いて回った結果ですが、ドラマや小説で描写されている信長公の性格や、それに影響されて有名文献しか読まない学者の解説が如何にイイ加減な思い込みかと言うのを痛感する機会が有りました。
それから、以前よりも現地にいって散策検証したり、色んな人から話を自分で見聞きして回る事を大切にする様に成りました。
無論、郷土資料館等の学芸員さん達から調査結果の資料のコピーを頂いたりもしています。
来年は信長公の菩提寺で追善供養にも参加させて頂く事に成っていたりもします。
そんなこんなで、愛知県での信長公親族の御子孫の証言や、京都の阿弥陀寺の話しなど地元の方々の信長公像の伝承を元に信長公がとても暖かい人物だった説明をしたいと思います。
※土田御前の苗字の「土田」の"土"には右側に「、」が付くのですがPCにも携帯にも、その字が無いので以下「土田」と表記します。
タイピングされた文章しか読まず、現地を訪問し「直接関係者から取材しない部類の人」「関係する古文書読まない人」は、そんな事すら知らないんですがね。

今回は小牧城自体を詳しく説明しませんが、信長公の性格の実像を伝える話が小牧城の周辺地域には沢山残っています。
また、どんな人物だったは地図を見る事でも読み解けます…
2011-03-16-12-42-16

信長公がとても人情深く明るく優しく、公平で仕事に対して真剣過ぎる位に真剣だったのを皆さんは御存知でしょうか?
…先ずは、良く知られている実話から。

1,仕事に対する真面目さが尋常じゃない
足利将軍家・武田・朝倉・浅井・本願寺によって俗(ぞく)に言う「信長包囲網」と言う、反信長政権連合が結ばれ信長公が窮地に陥っていた時期は多忙を極めていました。当時処理すべき軍務・政務に関わる書類、重要な裁判に関する書類の決済が大量で、数日間も寝ずに処理しなければいけない事もしばしばあったそうです。
…逆に言うと、リーダーにも関わらず何日間も徹夜で仕事をする事が有った反面、部下達にそれを強いる話は残っていません。
築城等の突貫工事も十分に人を雇い準備して事業を実現している訳です。
現代のバブル世代管理職の様に無責任にヤレヤレ押し付け丸投げでは無く、織田家の政はピリピリしたムードで議論が尽くされていたのが宣教師の証言でも伝わっています。
信長公は部下達にプレゼンをさせて、御互いの意見の合理性を比較させ、その中から実現可能そうな物を採用するスタイルだったそうです。
無論、桶狭間での今川軍強襲や北近江での朝倉勢追撃戦や、石山本願寺包囲後の木津川渡河の時の様に、迅速な行動を要する場合は率先して御自分から危険な任務も行う事が多かった様です。

2,部下のヤル気と才能を引き出す管理能力が尋常じゃない。
秀吉達の清州城城壁修復や墨俣一夜城の逸話は、自己推薦で立候補した部下に仕事を一任し責任を持たせて全権委任していましたから、「現代の無能管理職の無茶振り」とはだいぶ違いますね。部下がプレゼンした事を判断してやらせる方だったそうで、評定(ひょうじょう=会議)の席は部下同士にプレゼンさせて、その中から良い案を提言した人間に全権を与えて仕事をさせるスタイルだった様です。
そして結果を出した部下は生まれの貴賤(きせん=血筋の良し悪し)を問わず、出世させました。
この代表例が清洲城代家老の榛原常安(植安とも)や、初期の木下秀吉な訳です。
小生に言わせりゃ、年功序列の腐れ昭和スタイルより、よっぽど健全で部下も仕事に励みたく成る環境ですね。
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「禿(はげ)ネズミ」↑と信長公にあだ名されていた秀吉。生存中は猿じゃなくて鼠と呼ばれていました。
「猿」と後に呼ばれているのは、信長公の猿真似をして天下人の素振りをしたからでしょう。
しかし戦乱を収束させた功績は偉大です・・・
まぁ、この人がやらなくても信長公が生きていれば実現したでしょう。
ただし、秀吉に関しては、軍団長クラスに出世する頃には「信長公の御実子を養子をとり」既に「織田家の親族」だったので、晩年の出世は信長公の信頼する人達で構成された部隊を信長公の代わりに「親族」として率いていた感が否めないので、本能寺前後の出世は個人の実力より血縁による縁故と優秀な与力武将達の活躍による所が大きいです。これは信長公の親族だった明智光秀と同じ状況ですね。
信長公は親族に冷たい様な「捏造」された人物像がちゃんと検証しない小説家の思い込みで流布されていますが全く違います。
信長公御自身は親族をもっとも信頼し重要な御城や自分の本拠地周辺に配置していました。
つまり縁故や義理も大切にしたのが信長公ですが、バランスよく実力主義の人材登用も積極的にされた理想的な組織運営をされた訳です。
言うなれば…
伝統や倫理を守る「貴族院」と実益を生み出す「衆議院」の二院制みたいな政権運営をされた上で、物事の決着をつける裁量は御自分で責任を持たれた訳です。

仕事面での良く知られている逸話はここ等辺りしして、マイナーで小牧辺りを実際に回らないと解らない話を下に。

3,自分と恋愛結婚で結ばれた事実上の本妻を愛し、奥さんが体調崩すと自ら介護した「深い愛情の持ち主」だった。
信長公は、恋愛で結ばれた事実上の本妻「お類」と言う女性を深く愛されていました。
愛称の生駒吉乃の方が有名に成っちゃってる女性です。
小説では「吉乃」の名で知られる実質本妻のこの女性、本名は「お類」の名で現地の小折町でも生駒家の御子孫の間でも伝わっています。
生駒家は馬借商家で、今で言えば運送業を営む商家であり、武装した土豪でもありました。
要するにお金持ち。
それすら知らない学者や小説家が「吉乃」とあだ名を実名と思い込んでいたり、ただの商人の娘扱いしているのですが。
生駒家は大和国(奈良県)の御出身の一族なので、あるいは信長公が雅な雰囲気の奥方を、実家の故地大和国に因(ちな)んで「吉乃」とあだ名で読んだのかも知れませんが、この吉乃と言うあだ名の由来は定かではありません。
※本記事では以下呼称を「お類様」で統一します。
NHKの少し(だいぶ…)昔のドラマでは女優の高木美保サンが役を演じられたりしているのですが、現代の小説家が江戸時代の作り話の影響を受け過ぎていて(笑)、形式的な正妻の帰蝶(濃姫)さんしか登場しないドラマが多く、お類様の役柄を演じる女優さんは少ないんですよ。
少し昔(笑)↓の高木美保さん。御綺麗ですね。
高木美保
生駒お類様と信長公、その出会いは信長公が家臣団に「ダメ御曹司」扱いされて、実弟の信勝(信行)公を担ぐ家臣達に家中でイジメられて不穏な空気に包まれていた頃にまで遡(さかのぼ)ります。
信長公は初期の居城は那古屋(現在の名古屋)城でしたが、心が休まる場所は吉乃様のいる生駒家の小折城だった様で、頻繁に小折城の在った今の愛知県江南市~小牧市辺りに遊びに来ていた様です。
…名古屋や清州から馬でも3時間位かかるんでしょうかね?
実は、吉乃様は信長公との間に重要な子を3人も年子で生んでいます。
●織田信忠公…織田家の跡継ぎとして御活躍されましたが、本能寺の変の際に二条御所で討死されました。
●織田五徳姫…徳川家康公の嫡男、徳川信康公に嫁ぎましたが義母との確執から夫婦義絶し離婚。
●織田信雄公…信長公に余り能力的に期待されていなかった様ですが、お類様との子なので厚遇されました。
お類様は、この年子での御3方の出産が生命力的にも大変だった様で、信雄公を出産後に体力が回復しないまま36歳の若さで亡くなってしまいました。
この、お類様の晩年、当時の常識では普通は有り得ない事なのですが、信長公は居城の小牧城に病床に在るお類様の為の居室を築いて、そこに迎え、自ら介護をされたと言う伝承が残っています。
…それだけ深くお類様を愛してらっしゃったんですね。
お類様は亡くなると、生駒家居城の小折城の当時の西の端、今の田代墓地の在る場所で荼毘に伏されました。
荼毘に伏すと言うのは火葬する事ですが…
信長公は、お類様の死後、暫くの間は毎日、居城の小牧城から見える小折城のお類様が荼毘に伏された方を見ては泣きじゃくっていたそうです。
だからね、信長公は凄く人間臭い人物で優しい方だったんです。
位置関係は下の衛星写真をクリックし拡大画面で確認してみて下さい。
田代墓地位置
因みに、現在の久昌寺が昔の小折城の中心、龍神社が在る辺りが小折城の中で信長公とお類様の部屋と言うか離れと言うか居住する建築物が在った地域だそうです。
田代墓地周辺には現在も「西ノ丸」の地名が残り、小折城の西側が田代地区まで及んでいた事が解ります。
又、田代墓地は、お類様が荼毘に伏された土地で更に、その中の「吉乃桜」と言う桜の古木の立つ場所が正に、お類様が火葬された場所だそうです。
小折城については、蜂須賀家や信長公や秀吉の部下に成った方々の屋敷跡地との位置関係と合わせて再度別記事で説明します。

4,優しいのは庶民に対しても同じ。
信長公は奥さんのお類様を大事にされましたが、同じ様に庶民にも凄く御優しい方だったようです。
例えば、信長公が京都方面まで制圧した際に、とある村に昔、不義を働いた家系の者が代々被差別を強いられている事に気が付きました。信長公は「この人間本人が犯罪者でもないのに、先祖の罪で今も差別されるのはオカシイだろ(怒)」と憤慨され、その者を差別から解放し、いくらかの生活資金を与えて再起させてあげたそうです。
これは現代人の法治主義や自由平等の思想にも通じる信長公の個人的な思考を垣間見れるエピソードですね。
政治家としての信長公も、庶民に対して御優しい政策を行っています。
楽市楽座じゃないですよ!あれは自由経済圏構想であって感情とは無関係でしょうから。
信長公、実は京都の統治に着手した時期に街道の整備をされています。その街道を往来する旅行者達が熱射病に成らない様に道沿いに日陰を作る為、街路樹を街道沿いに植えたんですね。
こんな事をする大名は当時いなく、正に、出身の貴賤に拘らず奥さんを商家の生駒家から貰い(通い婚だけど)庶民の文化を愛して青春時代遊びまわっていた信長公らしい逸話です。
現代人の政治家みたいに踏ん反り返って偉そうな人間からは想像も付かないほど、お若い頃の信長公と庶民の距離は近かったのですが、実は織田家は本姓が古代豪族の忌部(いみべ/いんべ)氏で、祖先は福井県の劔(つるぎ)神社の宮司家でした。劔神社の御祭神は牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおうのみこと)なのですが、信長公の支配した尾張国には津島大社と言う立派な神社が在り、そちらも御祭神が牛頭天王です。
その津島大社の例大祭で庶民が楽しんでいる所に加わり、信長公は家老の平手政秀公や家来と一緒に踊り子の格好をして笛を吹かせ自らも参加し、身分の区別なく一緒に楽しんだエピソードも現代に伝わっています。
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織田家と劔神社にかんしては、以前「明治時代の戦艦三笠」の記事でも書いたので、そちらも御覧下さい。
※三笠の記事は「ココクリック!
…こんな感じで、信長公が他の大名と圧倒的に異なる点は、庶民との距離が近い点でした。
この事は、豊臣秀吉・徳川家康公の若い頃とも共通し、庶民の事を良く理解している武将だけが続けて天下を獲れたと言う面白い結果でもある訳ですが、もう一つ、信長公・秀吉・家康公に共通するのは「東海地方の武士達から若い頃イジメられたり嫌われていた」と言う皮肉な事実も有ります。

では、何故、この小牧城周辺の地域に織田信長公の実像を伝える青春時代の多くの伝承が有るかに話を進めてみましょう…
歴史好きの皆さんも興味の無い人も御存知の方が多い歴史事実ですが、先程述べたように「信長公は尾張の武士に嫌われていた」んですね。
家臣にも何回も裏切られ合戦をけし掛けられ圧倒的な不利な状況においこまれ殺されそうに成っています。
その信長公を嫌っていた面々が又、信長公の最初の本拠地名古屋近郊出身者ばかりなのですが具体的には…
織田広信(後に信友と名乗る)
織田信友
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田信長公の元の上司。権力闘争は得意だったが取り立てて内政力が有る訳でも軍事的な才覚が有る訳でも無く何の実績も残していない。
織田家の主君だった斯波(しば)家の殿様を暗殺し主殺しをやった人物。
無能な癖に権力の駆け引きだけは上手く、実績も実力も無いが家柄の優位性を利用し斯波家の家政を実質乗っ取っていた。しかし本人の領地の軍事と政治は家臣に任せっきりで実力は皆無だったようだ。
昭和~平成の政治家にも多いタイプ。
実際に斯波家の勢力を復興したのは部下である織田信秀公(信長公の御父君)なのにも関わらず、その手柄を妬み足を引っ張る事ばかりして合戦までけし掛けた挙句に敗北し和睦。
信長公と主君斯波義統(よしむね)公の直接的な結びつきが深くなると、嫉妬の挙句に血迷って主君の斯波義統公を暗殺して家政を乗っ取った。しかし信長公の策略で信長公の叔父の織田信光公が偽降(ぎこう=偽りの従属をして裏切るチャンスを待つ事)してくると、その計略にひっかかり誅殺された。
無能な癖に常識人面して職位を守る為に部下の足を引っ張る典型的ダメ役員タイプ。
織田信安(のぶやす)公
織田信安
※KOEI信長の野望の画像拝借
岩倉城主で、信長公より格上の岩倉織田家の当主だった。当初は信長公と一緒に遊びまわった仲で信長公の最大の協力者だった。自分が信長公に協力した結果、不幸にも信長公が政権を盤石にし尾張を統一する頃に成ると家臣団が直接信長公に従う様に成り、危機感を抱いて信長公と対立してしまう。
情に熱い御人良しでは有るが、信長公が天下の覇者に成るのを見抜ける人物眼は持ち合わせてはいなかった事が彼の不幸だった。仮に、岩倉織田家の家臣団を信長公に差し出して奉行職に徹したとしても、信長公が覇者に成る頃まで仕えていれば信頼出来る親類として羽柴秀吉や明智光秀の様に大大名に取り立てられた可能性は高い。
深い情を持ちながら、将来を見通す判断力が無かった小者だった事で没落した責任は自業自得と言えるが、有る意味で被害者的な立場でもある。
林秀貞
林通勝(秀貞)
※KOEI信長の野望の画像拝借
織田家初期からの家老で、本人は常識人の心算(つもり)だったのか信長公が武士階級に拘らず庶民と強い結びつきが有る事などが非常識に見えたのか、品行方正な信長公の実弟信勝公を主君にしようと何度も反逆した。
大身(たいしん=大領主)だったので織田家中での地位が高かったが、信長公が尾張統一後は多くの兵を率いながら何の活躍も出来なかった。只(ただ)性格が四角四面な常識派面(ツラ)した大凡人で信義は皆無。
その実は不正義で利己的な悪事しか残せなかった。典型的な身の丈に合わない地位にいた人物。
後に信長公の支配体制が強固に成ると、尾張時代の反逆前科から追放された。
全く良い所の無い典型的な多数派主義。
柴田勝家
柴田勝家
織田家の初期からの重臣で、当初は林秀貞と同じく信長公の才知を見抜けず、信長公実弟の信勝公を担ぎ出し謀反した。しかし圧倒的な多数である自陣が幾度も少数の信長公の直属部隊に敗られた事から、信長公に服従した。その後、信勝公が再度謀反を企てると信長公に内部告発し信勝公誅殺事件の発端を起こす。
信勝公が粛清されて以降は信長公の支配体制が確立された功績により処罰されなかった。
信長公からは、その後も暫く信頼されておらず「桶狭間決戦」や「美濃攻略戦線」には裏切りの懸念からか活躍の場を与えられなかった。
信長公が尾張美濃から反乱分子を駆逐して柴田勝家から反乱要素が無くなった後に大将格として起用された。
戦術は堅実で機略には富まないが、指揮官としては一流の実績を残している。又、今日の福井市の基盤を築き上げた人物で内政力が高かった。
精神的には常識人で真面目だったのかも知れない。内面は凡人のそれかも知れないが、実績的には名将の部類。でも天下の奇才では無い。織田家を主導しよう等と身の丈に合わない権力闘争をした事が彼の不幸。
信長公に使われて何ぼの名将。

織田家の元来の家臣団は根拠地が今の名古屋周辺の愛知郡や、津島市や弥冨市辺りの海部郡でした。
しかし、その地は今挙げた様な信頼出来ない家臣団の領地だったのですが…
まぁ、今の名古屋人がどうかは知りませんが当時の名古屋人は多数派=常識と言う意識が有ったり、忠誠心と言う概念が皆無で利己的な人間が多かったり、信長公や秀吉の出身地なのに革新的な意見には否定的な思想が定着していた様です。
要するに、名古屋周辺の織田家重臣はこんな連中ばっかりだったので、初期~尾張統一直後の織田信長公は、まだまだ、その愛知郡や海部郡の旧来の部下達を信頼して運用出来る状況では無かった訳です。

その状況を打開する為には、敵対者から領地を奪い直接、御自身の信頼できる仲間に領地を与えて御自分の親衛隊を組織する必要が有った訳ですね。
では、小牧城周辺にはどんな地名が有るか衛星写真で見てみましょう…
※写真をクリックして画面を拡大して見て下さい!地名と史跡名が記載して有ります。
信長公家臣団配置図
…木下藤吉郎秀吉が任せられた実質本体だった部隊に当てがわれた土地が、今の愛知県小牧市~江南市~一宮市だった事が丸っと解りますね。
地図上に表示した地名と施設名を説明しましょう。
●右側 織田家:小牧城
…信長公の本拠地で、周りに旧来の重臣は配置されていません。
●中心 生駒家:小折城
…信長公の事実上の本妻の生駒吉乃様の実家、生駒家の居城です。
生駒家は後に豊臣秀吉の家老としても活躍しますが、そもそも豊臣秀吉は名前が木下秀吉だった時代に小折城で生駒家に仕えて鉄砲頭を務めていました。秀吉と信長公の関係は生駒吉乃様を通じて結ばれた主従関係だった訳です。
●小折城西側 祖父江家:津島神社
…ここ一帯は織田家が崇拝した津島大社宮司家の祖父江(そふえ)家の一族の子孫が多く現在も住んでいます。当時の神社は武装した軍事集団でもありました。吉乃様の火葬された場所である田代墓地には祖父江家子孫の墓地も在ります。この地域に隣接した岩倉城主の岩倉織田家の旧臣だった山内一豊(やまのうちかずとよ)の家老を務めた祖父江 勘左衛門は、地域的にこの一帯の出身だった事が推測できます。
祖父江勘左衛門の主君の山内一豊は後に木下秀吉が出世すると大名に取り立てられています。
●左下側 千秋家:千秋(せんじゅう)町
…千秋と言うのは織田信長公を支援した熱田神宮の宮司家である千秋家の苗字です。
千秋家の中でも千秋季忠(すえただ)公は桶狭間合戦で信長公に味方し、揺動部隊として囮に成り今川軍を引き付け討死にされました。その活躍で信長公本体が今川義元公本体への直接強襲に成功し織田家が勝利しました。
左端 浅野家:浅野城
…後にこの一帯の国人衆の統率を任された木下秀吉の嫁である浅野寧々(ねね)様の義父である浅野長政公の元々の居城です。この浅野城は織田家小牧城、生駒家小折城を除いた信長親衛隊軍団の城館では最大規模でした。つまり秀吉は、嫁の義父の軍事力を背景に周辺の信長公親派の国人衆の統率を委(ゆだ)ねられていた事が解ります。
小折城北東 堀尾家:堀尾屋敷
…後に木下秀吉の重臣となり大名に取り立てられる堀尾吉晴の邸宅跡です。現在もバス停に「堀尾前」と残っていて、邸宅跡には堀尾神社が在り、彼の出身地で有る事が伝えられています。堀尾吉晴は元々は山内一豊と共に岩倉織田家の重臣だった。木下秀吉旗下では貴重な生粋の武士。
上側 前野家:前野長安屋敷
…館主の前野長安公は、木下秀吉の初期の実務官僚で数少なかった生粋の武士、軍事指揮官。
彼も又、山内一豊や堀尾吉晴と共に岩倉織田家の重臣だった。数々の作戦を成功に導いた名将で秀吉の名将の一人だったが、豊臣秀頼が生まれた際に、秀吉の甥っ子豊臣秀次の家老を務めていたので秀次の存在が邪魔になった秀吉によって切腹させられてしまった。
最上部 蜂須賀家:宮後城(蜂須賀館)
 …木下秀吉の初期の参謀で実務官僚の蜂須賀小六正勝公の最初の居城。蜂須賀小六は数々の実現困難な軍事作戦や土木工事を成功させた名官僚で指揮官としても一級の名将だった。秀吉の功績の大半は彼の能力による。清州城城壁の修復事業、墨俣一夜城(砦)の建設事業の手配と指揮、鳥取城の兵糧攻めでの鳥取城下の米の買占めや経済封鎖などなど…
彼が存在していなければ、秀吉は出世出来なかった。

もうここまで見て貰えば解ると思いますが…
つまり、小牧城を築城し居城としたのは裏切る可能性の有る家臣団優位の政治体制から、御自身の親派を居城中心に配置出来る政治体制に移行する目的が有ったと思われます。
…この事は今も、その地域の地名が物語っているのですが、文献しか読まない行動力の無いタイプの学者様にゃ幾ら文章ばっか追いかけても永久に気が付けない事なんです。
勘の良い歴史好きな人は、これだけ読めば織田信長公が何故、当初は協力者だった岩倉織田家当主織田信安と対立する事に成ったかも解ると思います。
織田信長公の親友達が岩倉織田家家臣だったので、信長公が政治基盤を強固にし始め尾張を統一する頃から岩倉織田家の家臣団は直接信長公に従う様に成ってしまい、事実上岩倉織田家が解体されるていく状況から危機感を抱いた織田信安が反旗を翻してしまったのは有る意味不幸ですね。

これらの事実から、信長公は身分や元の敵かどうかに関わらず、信頼出来る人間を見抜き登用した公平な方だったのが見てとれるのではないでしょうか?

この後、民族資料館の学芸員サンから貰いうけたレポートのコピーで生駒家の居城、小折城を解説しようと思ったのですが…
小折城縄張り図
これね。
でも、これ見て、GoogleEartnの衛星写真で検証してもスッパリ!照合出来ないんですよ!
なぜかと言うと、この地域は明治時代以降に稲作の生産量を向上する為に土地改良をしてしまっているので、本来なら堀の名残りを辿(たど)れる用水路や農道や幹線道路が全く当時と違う配置に成ってしまってるんですよね…
一応、国土地理院の昭和40年代後半~昭和50年代の航空写真も閲覧したのですが全く解らない!
小折城縄張り
これ現在↑の城址のはずの一帯。
地名に田代(たしろ=田城)と在るのは、池沼や河川に囲まれた縄張りの平城だった小折城は恐らく江戸時代には曲輪の多くが水田化されていたからでしょうね。
一応、少しでも昔の地形を辿ってみようとした努力の跡を見て、許してください(泣)。
丸1日あ~でもない、こ~でもないってやってましたが無理でした!
これ↓昭和後期の周辺航空写真
小折町上
小折町下
小折町西
もう、明瞭な航空写真が有る時代には、この付近、完全に農地改良の完了後だったみたいで、これ、全く縄張り図が有っても手がかりが掴めないんです。

10年前位に、数日間この江南市を歩き回った当時に写真撮影したのはガラケーだからもう写真引っぱり出せないし…
ですから又、御類様のお墓参りも兼ねて来年訪れてみます。
現代の航空写真と比較して小折城の縄張りが解る資料が無いか、ちょっと郷土資料館の学芸員さんにも問い合わせてみます。

今回はここまでで許してください(泣)。
資料いろいろ引っ張ってきて見たんですがね、レポートの縄張り図では現在の地名も載ってないので航空写真と整合出来ませんでした。

生駒家の居城の解説は現段階では詳しく出来ませんでしたが、とりあえず、信長公が奥さんをとても愛していた事や、とても家族を大切にした事、でも親族だけでなく血縁や出身にとらわれず信頼出来る友人達を自分の懐刀として居城周辺に配置していた事実は伝わったでしょうか?
信長公は実際は法治主義者、経営者としては厳しい方でしたが、為政者としては稀有な情に厚く庶民との距離が近く個人的に愛情にも溢れた方だった訳です。

この続きは、現地で写真バシャバシャ撮影したら、信長公没後の生駒家の歩みとかを解説しながら写真載せて報告します!

この記事はここまでで…

次回は神奈川に話しを戻して記事を書きます!

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