歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:成田甲斐姫

(記事が年跨いだwww、前回2年前)
3年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした3日目の1回目の記事。
先ず昨年2023年の車懸とのゴールデンウィーク歴史散策のシリーズ一覧



この⤴前回の続き・・・


車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が大量なのは前回の説明通り。

・・・今回から車懸との歴史観光3日目。
——今回はココから⤵——
01【秦野市】
  マクドナルドで朝食(多分、秦野西大竹店)
02【山北町】
  河村城址駐車場(東側駐車場ではない)
03【小山町】
  道の駅富士小山
——ココ⤴まで——
04【御殿場市】
  深沢城
05【箱根町】
  大涌谷~黒玉子
06 箱根神社
07 箱根関所
08【三島市】
  山中城
09【箱根町】
  大観山
10【横浜市】
  G麺7

朝、何時に起きたろうか?
この日は城跡や関所を4つ+α、ベタに箱根の観光地巡りを出来る限りする予定だった。
当然ながら河村城址等に関する予習は事前に日本城郭大系で行っていた。
PXL_20230430_234319589.MP
訪問件数多めなのに遠距離移動なのでゴールデンウイークと言う事も有り、少し時間的に早く出発する必要が有った。
かなり早い時間に起きて、客間で寝てる車懸に声をかけると、流石真面目な彼は既に身支度を終えて出発OKな状態だった。
出発は朝の6時ちょい位だったと思う。

当然ながら朝食は途中のコンビニかファストフード店で済ませる予定だったので、東名の渋滞回避で下道を走りながら秦野市内でマクドナルドに入った。
恐らく地図を見る限り、秦野西大竹店だったと思う。
PXL_20230430_223235243.MP
チキンタツタが朝マックに有ったので迷いなく注文。
PXL_20230430_223659708.MP
美味かった~。何でレギュラメニューにしてくれないんだ?
マクドナルド、見栄え悪くて余り好きではないけれど、チキンタツタは美味しい。
車懸が何食べてたかは覚えてないwww。
そこから30分程度で河村城の駐車場に到着した。
小生達が到着したのは北側の駐車場だった。
そちらの方が古い尾根道等のハイキングコースに出れるのだけど、どうも本来は古街道の矢倉沢往還側に河村城を築城した河村氏の居館が有ったらしいので、皆さんが訪問される際は河村城東側駐車場を利用前提として、最初に河村館跡を見物してから来た方が良いと思う。

この河村城、想像より大きくて度肝を抜かれた!
当初の予習では南北朝時代、後醍醐天皇の南朝方の新田義興公・脇屋義治公&城主の河村秀国・河村秀経等vs畠山国清公が部将(軍団長)として率いる足利尊氏公の軍勢が戦った場所で、鎌倉時代末期~室町時代初期の城規模を想定していた。

先ず駐車場に着(つ)いてトイレを済ます(笑)。
CIMG1106
河村城址駐車場(北側駐車場)
上の写真の右側にちゃんとトイレが有る。
河村城は広いので、訪問される方は必ずトイレを済ませた方が良いと思う。
CIMG1107
ちゃんと予備知識が無い人も分かる様に説明の看板が数パターン親切に用意されている。
山北町、グッジョブ!
CIMG1108
ついでにハイキングコースの案内看板も有った。
CIMG1109
でも、この日は滞在時間1時間~2時間の想定だったの河村城だけで他はパス!
北側から上ると緑豊かで本当に気持ちが良い。
CIMG1110
CIMG1111
小生も車懸も南朝方の武将の子孫なのだが、この城は初登城、二人の御先祖もここには来てない(笑)。
この山々はちゃんと管理されているんだね。
CIMG1112
水源の森林づくり と 城址の保存ハイキングコースとしての観光活用がちゃんと両立されている。
山を頂上付近まで登ると、富士山で言う所の7合目位から城跡が見えて来た。
CIMG1113
お判りだろうか?
恐らくこの遊歩道は現代つけられたもので、左手の傾斜が遊歩道を挟んで右に続いてるのが裾切され整地されていたであろう地形の始まり。
CIMG1115
そして城初心者でも一目瞭然の曲輪の切岸(人口崖地)が姿を現(あらわ)す。
もう一度、日本城郭大系の掲載図を見てみると、この辺りは茶臼曲輪辺りらしい。
PXL_20230430_234319589.MP
これだと城規模が良く分からないので、小生のブログ恒例、GoogleEarthに張り付けて立体視すると理解しやすい。
河村城縄張り図
※クリックして拡大して見て下さい。
無茶苦茶広いでしょ?しかも恐らく、日本城郭大系で未調査の山の東側、大庭郭(おおばくるわ)よりも更に東にも恐らく要害構造は拡張されていたと個人的には推測している。
車懸と登ってきたJR山北駅側の北側から見ると更に良くわかる。
河村城址駐車場側 河村城縄張り図
もうね~、室町時代初期の城としては超デカい!
もっとも戦国時代に対 豊臣秀吉 の防衛拠点として小田原北条家によって改修されているので恐らく初期には立派な空堀は余りなくて、腰郭と平場を沢山設けて堀切が有った程度だと思う。
腰郭(こしくるわ)とか、堀切(ほりきり)とか言われても良く分からない人は下の参考webページを見て見れば関東の城や中世の山城の構造が理解出来ると思う。


先ず最初に魅了されるのが人工地形のソレと解る圧巻の御姫井戸付近の曲輪(くるわ)群。
PXL_20230501_000018565.MP
凄いよね~。空堀を蟻(あり)地獄にする障子(しょうじ)掘りと言う防衛構造。
PXL_20230501_000044702.MP
・・・和室の障子みたいだから障子掘り。
防衛構造と言うか、当時は各穴が深さ2mくらい有り、角度も60°以上有ったので刀や槍や鎧を着たフル装備の武士は30kgくらい余分な重しを背負ってるので、攻めて来た敵は曲輪に登ろうとしても登れずに障子掘りの穴に落ちたら、右側の穴のように雨水が貯まっていてドロドロに成って脱出不可能だった。
守る側はソコに敵を突き落としたら、あとは工場の生産ラインの様に流れ作業で一人づつ射殺したり長さ3mの槍で集団でブシャブシャと突き刺して❝処理❞して行くだけだった(怖っ)。
しかも、富士山周辺~南関東は関西の腐葉土や岩盤の山と違って関東ローム層と言う赤土の地盤なので、水で濡れると本当にドロドロに成って石垣より強力な防衛設備=人間ホイホイ殺人施設として機能した訳だ。
因みに関東ローム層ってのは小生のブログの古参読者は良く御存知だと思うけれどコンナの。
横浜市都筑区小机城⤵の関東ローム層の切岸。
2015-04-11-17-09-08
これが60°あって水で濡れてて、自分が30gの重り背負って登れる?
当時の男性は155~160cmくらい、蛋白質の多い食事もしてなかったから筋量も少なかったろうし、今の陸上競技のスポーツしてる女性みたいな体型だったと思う。
話を河村城に戻す。
PXL_20230430_234319589.MP
車懸と小生は、一先ず茶臼曲輪を見に行く事にした。
PXL_20230501_000322161.MP
PXL_20230501_000433629.MP
う~ん、杉が植林されて林に成ってる。
でも微妙に右と左で段差が残ってるのが解るだろうか?
恐らくこれが茶臼曲輪の境目。
PXL_20230501_000612219.MP
上の写真、右手が平場で左手が斜面なのは見て取れるだろうか?
ここから先は断崖なので、元来た道を戻り、お姫井戸付近に逆戻りして本城郭に出る。
PXL_20230501_000905454.MP
戻る途中はやっぱ藪化しつつあるので、よう解らんかったwww!
ギリ、藪蚊の未だ少ない4~5月だから良いけど皆さん、ハイキング以外の目的で林道から外れる城跡散策は夏にはしないでね!
蚊が凄いし、ハブやスズメバチにも遭遇しますからね。
だから山城の城攻めのは晩秋~冬~春までが限界。
PXL_20230501_001213552.MP
ここが、お姫井戸と本城郭mの間の障子掘り。分かり易い。
PXL_20230501_001254807.MP
右手の茶臼曲輪の間の三角形の曲輪の切岸空堀から堀底まで10mくらい有るのが解るでしょ?
右田の上が、先に紹介したコレ⤵
PXL_20230501_001419893.MP
本郭に向けて進む。
PXL_20230501_001513034.MP
何か途中に昔はミカンか何かを生産してたらしく、輸送用の私用トロッコのレールが有った。
PXL_20230501_001521562.MP
今の日本は農産物の生産をオザナリにして農家減ったから、円安に成ると直ぐに国民生活に被害直撃するよね。
戦時中に20代くらいで苦労した今は100歳以上の世代が、戦後頑張って農業も工業も生産力を世界有数に上げてくれたのに、その下の世代が全て海外に生産力依存する形に日本の産業売り払ってしまったり機能移転して、更にその下の世代が日野自動車も三菱もダイハツもエアバックの高田もビッグモーターもジャニーズ事務所も政治家も自分個人が上司に正論言わず可愛がられて立場だけ守る為だの利己的な価値観でもってデータ改竄不正や性犯罪や日本の次世代の未来を切り捨てる所業を見て見ないふりしたりしたせいで、戦中世代の先輩方が再興した日本は瀕死のボロボロですよ。
PXL_20230501_001908406.MP
PXL_20230501_001718205.MP
お姫井戸は全然お姫様みたいに美しくなく気持ち悪いオタマジャクシだらけだったwww
PXL_20230501_001547276.MP
本郭に上がって来る途中、城の施設の高低差が分かり易い写真を撮影していた。
PXL_20230501_002001459.MP
車懸と比較すると城の曲輪の高さが良く解る!
どうです?河村城は城規模だけでなく人工地形の巨大さが良く分かりますよね?
PXL_20230501_002019103.MP
堀切。
多分、本郭と蔵郭の間辺りかな?
本郭に行くと、山北町町役場で勤務していた当時の教育委員会だろうか?先輩達が残して下さった金属製の説明版が今も残っている。
PXL_20230501_002258492.MP
PXL_20230501_002304204.MPPXL_20230501_002320598.MP
PXL_20230501_002311810.MP
PXL_20230501_002325813.MP
PXL_20230501_002331217.MP
この本郭には他にも分かり易い縄張りの説明の仕組みが色々と有るので、是非じっくり見て欲しい。
PXL_20230501_002350897.MP
PXL_20230501_002420756.MP
床に略図と方位が示されて居たり、先程の解説銘板が有る。
PXL_20230501_002513505.MP
あと鎮守の神社。御祭神は不明。
PXL_20230501_002524418.MP
先程の本郭の石畳の縄張り図。
ここから小生達は先ず、馬出し郭に移動。
PXL_20230501_002804035.MP
PXL_20230501_002830390.MP
う~ん・・・
藪化しとった。
PXL_20230501_002843552.MP
でも平場構造が有る。
PXL_20230501_002947638.MP
あと、昔は山仕事に使ってたらしい家屋が残っていた。
上に排煙構造が有るので、煮炊きしてココで寝泊まりもしていたのだと思う。
住居ではないと思う。
PXL_20230430_234319589.MP
去年の事なので(笑)、記憶が曖昧だけど多分、馬出し郭の西郭辺りかな~?
こう言うの好き。
そこから北郭を目指して、馬洗場と言う谷を巻くように付けられた林道を歩いた。
PXL_20230501_003720477.MP
北郭を更に北に行ってくるわwww
PXL_20230501_003305094.MP
PXL_20230501_003308704.MP
これが先端の細い尾根道かな~。
PXL_20230501_003835048.MP
PXL_20230501_003850741.MP
何か森の間から景色が開けた場所に出た。
PXL_20230501_004130317.MP
神奈川県の職員の方かな~?
山林整備の際にチェーンソーで伐木した切り株に、彫刻作って置いてあった。
こう言う余裕の有る大人好き。
小生も今人に教える側に成ってる際には、いつも自作資料にフザケた挿絵を唐突に入れたりして意地でも笑わせようとしてるwwww
何かコレ以上進んだら城山を下りて山北町の町まで下りる感じだったので元来た道を又、本郭側に戻る。
PXL_20230501_004555363.MP
本当、山城は毎回行ったり来たり登山だよ。
本郭~大庭郭を目指す。
ソチラ側は明らかに平場の巨大さが安土桃山時代に拡張されたであろう、前身の山城とは異なるであろう、北条家の氏政時代の城の特徴の平場の広さだった。
PXL_20230501_004853283.MP
PXL_20230501_005024581.MP
しかも説明看板が親切。
PXL_20230501_005035759.MP
ね~、まっ平で広いでしょ~。
山をコンナ削り取るとか、当時の土木作業としては、とんでも無い工事量だったと思うよ。
PXL_20230501_005121758.MP
これ蔵郭らしい。
最初の方で通ったのはココの左手下。
PXL_20230501_005218252.MP
PXL_20230501_005129453.MP
河村城は案内図も豊富で現在地確認容易で本当に初心者にも良いと思う。
PXL_20230501_005240696.MP
この先が大庭郭。
PXL_20230501_005310717.MP
埋もれてるけど障子掘りの構造が見て取れる。
PXL_20230501_005342699.MP
埋もれてても結構深いのが解るでしょ?
PXL_20230501_005513211.MP
大庭郭・・・
だだっ広~いの!
恐らく北条家の豊臣家迎撃プランでは、豊臣軍が東海道か中山道から甲府経由して真っ直ぐ小田原城の方に一方向から攻めてくると思っていたのだと思う。
だから、河村城は万余の兵で防衛する規模に拡張されていたのだと思う。
ところが北条家(恐らく北条氏政)の目論見が甘くて、当初の予定では箱根の山中城と河村城で迎撃する予定が豊臣軍全軍20万が分散して各隊3万前後の大軍で、北陸や甲信越から北関東、ありとあらゆる方角から攻め込まれ、しかも本体の箱根攻め登ってきた豊臣秀吉の本隊は8万5千とトンデモナイ大軍で北条側は兵力分散する余裕が無かったので河村城はロクな戦闘も無く破棄されて小田原城に最初から撤退したのだと思う。
気概を示したのは、ただ北条氏規公と江川英親公の守備兵3000が守る韮山城・・・
KIMG5559
韮山城
(当時は天ヶ岳砦跡を含む規模に拡張)
成田甲斐姫と成田長親が兵500+農民町民の兵3000で守備した、映画「のぼうの城」でも有名な忍城・・・



そして、我らが横浜が誇る笹下城主間宮康俊公と、山中城主の松田康長公の二人が守備兵300vs豊臣軍本体85000で守った箱根最後の防衛ライン、山中城・・・
PXL_20230501_084220000.MP
山中城
特に山中城の戦いは凄惨を極め、元は玉縄城主の北条氏勝公が総大将だったのに、この人は守備兵3000を率いながら豊臣軍がトンデモない大軍と知るや、間宮康俊公の嫡孫の間宮直元公等を一緒に連れて(人質ね)、職場放棄して配下の堀内氏等とともに自分の居城の鎌倉市の玉縄城に逃走してしまった。
結果的に間宮家の手勢と松田康長公の守備兵合計300のみで戦うハメに成った。
そこに当時は僧兵が沢山いた伊勢原市大山寺と大山阿夫利神社の修験者達が武装して援軍に来て、最初から命捨てて玉砕戦を展開した物だから豊臣軍は85000の大軍にも関わらず配下大名の一柳直末公が討死したり、守備兵300に対して攻城側豊臣軍の戦死者は3000を超える悲惨な戦いに成った。
この北条氏規公、江川英吉公、成田長親公、成田甲斐姫、間宮康俊公、松田康長公等の率いた部隊の将兵だけが気勢を吐き実際に防衛戦を戦い抜き、そして戦後もその勇敢な戦いから子孫が豊臣秀吉や徳川家康公から登用されて、江川家は伊豆代官、間宮家は本牧奉行(横浜市長)・佐渡金山奉行・但馬代官(生野銀山奉行)、北条氏規公は大阪府の狭山藩主として存続した。
更に江川家の養女だった於万(おまん)サンと、間宮康俊公の息女だった於久(おひさ)サンはそれぞれが徳川家康公の側室となり子を産んでいる。
於万(おまん)サンが生んだ子が徳川頼房公、つまり水戸黄門こと徳川光圀サンのパパ。
於久(おひさ)サンは姫を生んだけど、その御姫様は早くに亡くなり駿府城下の徳川家所縁の御寺である華陽院に母子ともども今も供養されている。
家康公の御祖母ちゃんの御墓⤵
DSC_1127
於久サン⤵
DSC_1125
家康公と於久さんの御姫様の市姫の御墓⤵
DSC_1130
ちなみに、自分で取材もロクにしない文献コピペが仕事のガクシャ様は、於久サンや於万サンを「侍女」扱いして書籍出版して赤っ恥書いてます。
さてさて、話を河村城に戻すと・・・
PXL_20230501_005513211.MP

PXL_20230501_005557912.MP
PXL_20230501_005716700.MP
PXL_20230501_005758847.MP
本当に景色も保存状態も良いし、城規模のデカさにビックリするよ~!
ちなみに、この城の城主は裏切者一家の松田憲秀でした。
河村城の大庭郭には展望台休憩所が有って、御城印の情報等も掲示されています。
PXL_20230501_005821979.MP
PXL_20230501_005827481.MP
双眼鏡は最早、民度の低くなった日本人に性善説通じず盗まれてた😮‍💨🖕
PXL_20230501_005901165.MP
PXL_20230501_005909451.MP
PXL_20230501_005923369.MP
PXL_20230501_005931967.MP
PXL_20230501_010754932.MP
この日は藤の花も綺麗でした。
PXL_20230501_010758741.MP
PXL_20230501_010933220.MP
色々と周辺の解説も充実してる。
PXL_20230501_010937511.MP
PXL_20230501_010959471.MP
PXL_20230501_011003559.MP
PXL_20230501_011239776.MP
で、この先が東側駐車場、皆さんはコッチから来た方が便利だと思う。
でも御城印が購入できるのは山北町駅側の・・・
ここ⤵


御城印、購入したんですが、どこにしまったか忘れて御見せ出来ないwww
御城印収集の趣味無いのに御朱印のノリで買っちゃったから、多分、どっかに適当にファイリングしたんだと思う。
ともしびショップさくらの前にはSLも展示されていたり、❝日帰り温泉❞も有るので、是非、城で一汗かいた人は御城印の購入と合わせて立ち寄っては如何だろう?
そこから山中城へ向かって出発し、途中、昼食に❝道の駅ふじおやま❞に立ち寄った。
PXL_20230501_021039414.MP
道の駅ふじおやま
地勢柄、小田原~箱根~御殿場~伊豆と神奈川県西部と静岡県東部の特産品が色々と売ってて良かったので皆さんにもオススメ。
ここで買った何かよく覚えて無いけどwwwシラス煎餅とかパンとか車懸と車中でパクつきながら運転して、御殿場市の深沢城へ移動した。

・・・次回へ続く⤵


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
ネタ画像 に参加中!
現在公開中の「駆け込み女と駆け出し男」と言う映画を御存知でしょうか?
主演:大泉洋さん、戸田恵梨香さんが主演の江戸時代が舞台のDV旦那から女性が逃げる為に鎌倉に実在する女性保護の尼寺「東慶寺」に逃げ込み、離婚成立までの2年間を過ごす物語です。
駆け込み女と駆け出し男
映画の公式ホームページは「駆け込み女と駆け出し男 」←ここクリック!

戸田恵梨香さんと大泉洋さん、江戸時代の格好が良くお似合いです。
駆け込み女
この戸田恵梨香さんは、東慶寺に駆け込んで生活をしている様子でしょうか?剃髪(ていはつ)していませんが尼さんの格好ですね。

駆け出し男
なんだか人情あふれるシーンのようですが、大泉洋さんはこういった役柄が大変お似合いですね。

とつぜん「駆け込み寺」とか「縁切り寺」とか「東慶寺」と言っても解らない人の方が、男女問わず若い人には多いかも知れませんね。

実は江戸時代は儒教思想が流行したせいで、幕府の法律で女性から離婚を請求する事がタブーでした。
いくら夫のDVが酷かろうが借金まみれだろうが、儒教思想と言うのは男尊女卑甚(はなはだ)だしい悪法な訳ですがそんな思想のせいで女性は結婚してしまうと恋愛に関して男性と対等の自由は許されませんでした。

そんな江戸時代の唯一の女性救済方法だったのが「駆け込み寺」または「縁切り寺」と呼ばれた幕府に公認された尼寺に逃げ込んでしまう事だったんです。
この縁切り寺、関東には二か所公認されていました。
その一つが、今の神奈川県鎌倉市北鎌倉駅近くに現在も鎮座する「東慶寺」さんなんです。
2015-05-20-15-39-23
松岡山 東慶総持禅寺
(通称:松ヶ岡御所 東慶寺、元は女性守護の縁切の尼寺)

この東慶寺へは、北鎌倉駅から徒歩でも行けますし、これから紫陽花(あじさい)が見頃の季節になりますが、その紫陽花寺として有名な「明月院」も徒歩5分位の距離なので…

 
明月院の紫陽花を見に行くのなら、東慶寺にも立ち寄ると尚、鎌倉文化と日本文化の素敵な風景を楽しめると思いますよ♪
どうせ東慶寺や明月院に行くのなら、「駆け込み女と駆け出し男」を映画館で見てから北鎌倉散策に行けば映画の登場人物と自分の歩く道や見える風景がシンクロし、思い入れを持って小旅行を楽しめると思いますよ!

話を東慶寺に戻します。
2015-05-20-15-37-30
東慶寺は開基(かいき=御寺を建てた人)が鎌倉幕府第8代執権を務めた北条貞時(さだとき)公と、その生母の堀内殿(ほりうちどの)こと覚山尼様です。
覚山尼様の実家は安達家で、鎌倉幕府の有力御家人でした。
覚山尼様の旦那様は北条時宗(ときむね)公で、元寇の際、モンゴル軍と戦い日本を守る事を決めた名宰相です。
北条時宗公がいらっしゃった御蔭で今の日本国が存続している訳ですが、北条時宗公と覚山尼様の子、貞時公の代に義務教育でも習う平頼綱(たいらのよりつな)と言う内管領(うちかんれい=北条家の執事)を務めた悪人が貞時公を騙し引き起こした事件が「霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ばれる内乱でした。
この内戦で、平頼綱はよりにもよって覚山尼様の実家の安達家を攻め滅ぼしてしまいました。
その際に、覚山尼は安達一族の子供達を匿(かくま)い育てたそうです。
その事が切っ掛けだと思いますが、覚山尼様は鎌倉幕府を取り仕切る立場だった息子の貞時公の許可を得て東慶寺を建立すると、立場の弱い人を助ける目的で様々な活動を実行されたそうです。
この活動が契機となって、DV旦那から当時の女性達を保護する「駆け込み寺」「縁切り寺」としての東慶寺の独特の女性救済文化が成立していったのだと思われます。

東慶寺は大変落ち着いた自然の美しい御寺です。
2015-05-20-15-41-02
そして明治の文豪達との関わりの深い御寺でもあります。
2015-05-20-15-39-33
看板の写真を拡大画面で御覧頂ければ解りますが、文豪達の菩提を弔う御寺でもあります。
夏目漱石先生も、こちらに座禅の修行にいらっしゃったそうです。
2015-05-20-15-40-02
2015-05-20-15-40-15
それだけではありません…
この御寺は、幕府執権の奥方だった覚山尼様が開山(かいざん=最初の住職)だけあって、それ以降の歴代の尼御住職も全て格式の高い血脈の方達でした。
特に有名な人は2人います。

一人目は用堂尼(ようどうに)様…
用堂尼様は後醍醐天皇の皇女(こうじょ=天皇の娘)です。
兄の護良親王(もりながしんのう)が北朝の室町幕府将軍足利尊氏公と対立し、鎌倉に幽閉され尊氏公弟の足利直義(ただよし)に殺害されてしまった後で、菩提を弔う為(ため)に御父君の後醍醐天皇の命を受けて東慶寺に入られました。
2015-05-20-15-58-18
この階段の上に用堂尼様の御廟所があります。
先人に対し不敬に当たるのでお墓の写真撮影は今回も行いません。
お参りしたい方は、どうぞご自分で東慶寺を参詣されてみてください。

二人目は天秀尼(てんしゅうに)様…
天秀尼様は、なんと!あの豊臣秀頼公の御息女(そくじょ=むすめ)です。
伝承では大坂城での豊臣氏滅亡後、7歳の時に養育係だった成田甲斐姫に連れられて東慶寺に入り僧籍に入り、その後、元々父の豊臣秀頼公と婚約者だった徳川家康公の孫娘の千姫様が養女として天秀尼様を縁組し保護したそうです。
その後ろ盾の強力さから、東慶寺は天秀尼様が住職を務めた時代に様々な建築物が移築されて来て発展したそうです。
そして、この天秀尼様は「東慶寺らしい」「女性を守る文化」を発揮します。

下の写真は天秀尼様や用堂尼様、覚山尼様の御廟所が在る寺の奥の地区への入口
2015-05-20-15-57-13
天秀尼様の後ろ盾は凄まじく強力で、先に述べた徳川家康公の孫娘の千姫様の他に、あの春日局(かすがのつぼね)もいました。
その強力なコネクションで天秀尼様はある大名家を取り潰し女性と子供を助けました。
それが会津藩40万石の太守:加藤明成の改易事件です。
加藤明成は名将加藤嘉明(よしあきら)公の後を継いでいました。しかし明成の代に、家老の堀主水(もんど)と対立してしまいます。
堀主水は命の危険を感じたのか妻と子を鎌倉の東慶寺に逃がし匿ってもらい、自分は奈良県の仏教の聖地である高野山(こうやさん)に逃げようとします。
堀主水の妻子は無事に東慶寺に逃げ込めたものの、堀主水自身は加藤明成の追っ手に殺害されてしまいました。加藤明成は堀主水の妻子をも殺害しようと、刺客を東慶寺に送り込みます。そして追っ手は無礼にも東慶寺に対して堀主水の妻子を差出す様に要求しました…

しかし!

天秀尼様のすがすがしい事!追っ手に対し以下のタンカを切ります。
比丘尼(びくに=尼僧=天秀尼の事)大いに怒りて…
「頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然(しか)るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと !!」

現代語訳するとこんな感じ⇒
「源頼朝公(統治=鎌倉幕府)の頃から、この寺に来た(寺の身内の)者から罪人を出した事は無い!」
「それなのに理不尽な事を言うお前らみたいな連中は外道極まりない!」
「(お前らの主君の)明成(←呼び捨て)を滅ぼすか!さもなくば、この寺を廃寺にさせるか二つに一つだ!」
…みたいな内容です。
しかも、タンカ切っただけで天秀尼様の会津藩主加藤明成の暴虐に対する怒りと堀主水妻子の保護の意志は収まらず…
「更に此の儀を天樹院殿(てんじゅいんどの=千姫=天秀尼の義母で徳川家康の孫)に訴へこれによって会津四十万石は改易」
…になったそうです。
実はこの話し、近年まで創作だと思われていましたが、証明する堀主水の妻子が逃げ込んだ事が判る古文書が近年発見され事実と判り、この妻子が30年間寺で生き延びた事も解っています。

さすが!織田信長公の妹君のお市様と名将浅井長政公の血を継ぎ、更に教育係に成田甲斐姫がついていた天秀尼様らしい逸話だと思います。
なぜなら成田甲斐姫は小田原城の記事でも少し書きましたが…
甲斐姫は北条家臣時代にわずか3000の兵を率いて今の埼玉県行田市にあった忍城に籠城し、石田三成軍26000の大軍を迎撃し散々に翻弄した女傑なんですね。
しかも、その後、成田家が蒲生氏郷公に従って東北に移住した際に家臣の浜田兄弟が謀反を起こし母が殺されると、再び浜田兄弟の軍200人に僅(わず)か手勢10人で敵討ちの合戦を挑み散々に浜田兄弟を打ちのめした実話が残る訳です。
つまり…
もし本当に!東慶寺に成田甲斐姫も在住していたならば天秀尼様の一連の言動や対応は至極納得が行くんですね。
…成田甲斐姫が天秀尼様の軍師を務めて堀主水の妻子を守り通したのでしょう。
…恐らく天秀尼様ご自身も御父君豊臣秀頼公の滅亡を体験し、自分と同じ境遇の人間を見捨てれなかったのでしょう。

この様に、東慶寺は明治時代になり尼寺でなくなるまで、ずっと関東人と鎌倉文化の気概(きがい)と仏教文化の慈悲の心で女性を保護する役割を担っていた訳です。
この東慶寺の文化と歴史、覚山尼様や用堂尼様や天秀尼様の気概は神奈川県民として非常に誇りに感じるものがあります。

さて、東慶寺の存在意義はなんとなく伝わったでしょうか?
話を 東慶寺の施設そのものに戻します。
東慶寺は山門の向こう側に、豊かな緑が広がっています。
2015-05-20-15-41-27
2015-05-20-15-41-47
その山門を抜けると本堂や宝物殿がありますが、その参道の正面にお釈迦様の銅像が鎮座されていて、参拝客を出迎えてくださいます。
2015-05-20-15-46-14

で、少し進むと掲示板があって季報なんかが張り出され、御寺の行事などが解るようになっています。
2015-05-20-15-44-43
東慶寺は入口にギャラリーがあり、そこで地元の若手芸術家の鎌倉彫や陶器の展示会が開催されるので、その開催期間なども季報で解ります。
参道を過ぎると左手に立派な茅葺屋根の鐘楼があります。
2015-05-20-15-44-51
風情がありますよね?
手前に誰か、この御寺所縁(ゆかり)の文豪の歌碑もありました。
2015-05-20-15-45-06 
本堂は竹林と紅葉に囲まれており、初夏の新緑の風景も素敵ですが、秋も又綺麗だろうなと想像できますね。 

明治時代に廃仏毀釈の影響を受けて、この東慶寺も荒廃しかけましたが原財閥の原三渓さんが自宅の横浜三溪園に東慶寺の建物を一部引き取り保護しました。
下の写真は横浜三溪園。 
 
この三溪園に旧東慶寺本堂があり、その本堂は本来なら第3代徳川幕府将軍に成っていた駿河大納言徳川忠長公の旧邸宅の一部でした。

2015-05-20-15-47-11
本当に落ち着いた素敵な御寺です。
ここでDV旦那から逃げてきた昔の女性達が修行しながら離婚成立を待って、その間に色んな学問に励んだんでしょうね・・・
女性保護と文化情勢地としての役割も果たされた御寺な訳です。

東慶寺、素敵な御寺でしょう?
是非!映画の「駆け込み女と駆け出し男」を御覧に成って、この東慶寺を御散歩されてみては如何でしょうか?
さっきも紹介しましたが、紫陽花の季節ももうすぐです!明月院とセットで見学でいくのも良いですし、東慶寺を見てから長谷寺に紫陽花を見に行くのも良いかも知れませんよ!

では!又、次のブログ記事で!

次こそ「小田原城」の記事の続きを更新します。










このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ