歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:扇谷上杉家

2017年04月19日(水)、前日深夜まで仕事をして午前3時に徹夜で寝ずに青梅市へ移動した。
寝ずに移動した理由は2つ。
1、もし寝たら起きれなくなり、行動予定を熟(こな)す事が出来なくなるから。
2、東名高速や圏央道等の高速道路は午前4時まで深夜割引で半額に成るから。
そんな訳で寝ずに移動した。後はついてから8時位の予定開始まで1時間~2時間寝れば良いやと思っていたので睡眠時間は気にしなかった。
どうせ仕事に行くわけじゃないので寝不足でも関係ない。仕事ならば睡眠不足はミスの元、プライベートは事故ろうがなんだろうが自己責任なので、眠たくなり危険だと思えばコンビニか高速のPAで車中寝れば良いだけ。
んな訳で青梅市の二俣尾駅近くのセブンイレブンに着いた。
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写真は撮り忘れたが二俣尾のセブンイレブンは軒先に薪(まき)が売っていて大変吃驚(びっくり)した。
横浜から来たのだが横浜ではコンビニに薪は売っていない事を伝えた上で…
「何で薪を売ってるんですか?」
…と店員の方に尋ねたら、こんな答えが返って来た。
「え?横浜じゃ売ってないんですか?」
小生…
「う~ん、売ってないです。」
…と答えると、店員さんが売ってる理由を教えて下さった。
どうも青梅市界隈は多摩川の上流で水も綺麗なので水遊びや釣りに来る観光客が多いそうで、キャンプやBBQの需要が非常に有るそうだ。しかしながら、横浜で売ってないんですか?と聞かれるとは思わなかったので正直少し驚いた。

この日の目的は大きく3つ有った。
1、海禅寺さんへの参詣、そして御住職様への取材。
2、羽村市の阿蘇神社へ熊本の御酒「通潤」を奉納し、熊本復興と熊本県民生活再建の祈願を祈祷して貰う事。
3、チューリップ祭の見学。
なので高速料金の安い深夜移動で横浜から青梅市まで向かった所、道路も予想以上に空いていて、ものの1時間半もかからずに到着してしまった。
当然、小生の到着時点で未だ時間は5時前、御寺を訪問出来るのは常識的に9時から。
そこでコンビニで朝食を買い車中で少し休憩して、その後は海禅寺から直ぐ近くの辛垣城(からかいじょう)の城山を登り、9時~10時位に御寺を訪問する事にした。

実は青梅市へ訪問前に地図を見て海禅寺の近所に“コーポ西乃城”と言うアパートが有る事に気が付いた。
西乃城と言うのは恐らく昔の小名で、城が在ったのだろうと推測した。
そしてGoogle mapで「城」と入力して検索した所…
「辛垣城(からかいじょう)」
…と言う城が検索結果に出て来て海禅寺から徒歩直ぐの裏山一帯が城山で有る事が解っていた。
手元に日本城郭大系の神奈川県の部分は持っているのだが、東京の部分は持っていないので調べる事が出来ず、ネットで検索したら城址一帯ハイキングコースに成っていると紹介されていた。
そして去年訪問した同じ青梅市の勝沼城を本拠地にしていた戦国武将、三田家の終焉の舞台だと言う事も紹介されていた。
この三田家は祖先が平将門(たいらのまさかど)公と伝わる。
この青梅の隣接市、羽村市の武蔵阿蘇神社は平将門公が開基の延喜式内社なので、三田家の出自は恐らく本当だろう。ただ、千葉家分流と言っているので、それは誤りだと思う。
千葉家の分流には相馬家がいる。それとは別に平将門公の直系の御子孫にも相馬家がいる。
両方共同じ家紋の九陽紋だ。
九曜紋
千葉氏の祖先は平良文(よしふみ)公だ。平将門公の叔父であり協力者であり菅原道真公と共に3名は宇多天皇と醍醐天皇の御親政奪還に与力された天皇家の忠臣だ。しかし藤原家の讒訴により謀反人扱いされ平将門公は討伐された。
菅原道真公と平将門公と言う宇多天皇と醍醐天皇を支えた智と武の忠臣の排除に藤原氏は成功したものの、全てが藤原氏の思惑通りにはいかず、醍醐天皇の気転で平良文公は鎮守府将軍に抜擢され関東を治める権限を持ち、平将門公の遺領を掌握した。つまり、藤原氏に天皇家一族の支配地を横領される事は防げた訳だ。
この平良文公の本拠地は今の神奈川県藤沢市村岡城址だった。その子孫には、鎌倉武士として有名な神奈川の三浦家や戦国時代の大名、上杉謙信や蘆名盛氏公、正木時茂公等の名将が多くいる。
まぁ、三田家の祖先が平良文公でも平将門公でも、どちらだったとしても桓武天皇の末裔で宇多天皇と醍醐天皇を支えた忠臣には変わりない。

なので、この城を御寺に行く前に登って見る事にした。これが意外に険阻な山城だった…
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…しかし、城に行くまでの家々は、どこの家も綺麗な花が溢れており青梅市の方々の心の豊かさを垣間見る様な住宅街の様子だった。
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城山のハイキングコース入口にはちゃんと看板が有った。
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実は海禅寺の後方の山の地形もGoogle earthで見ていて人工的な凸凹地形が見て取れたのだが、この看板を見て自分の推測が当たっていた事が解った。海禅寺の裏手には枡形山と呼ばれる曲輪群が有った様だ。しかし、今回は御寺に行くまでの暇潰し程度に考えていて余り詳しく散策する心算(つもり)は無く、そちらへは訪問せずに真っすぐ頂上を目指す事にした。
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途中、枡形山の方を見ると自然では無い竪堀(たてぼり)地形が見て取れた。
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この橋の下の沢は道路を断ち切る様に流れているので、水掘りとして拡張された沢だったんだろう。
そして往時はここに引橋(ひきはし=戦時に引っ込めて撤去出来る橋)が掛かっていたのだろうと推測した。
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この辺りはまだ傾斜も緩やか、そして木陰で涼しく清々しい空気を満喫出来た。
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途中で小生が写真を撮りながらユックリ歩いていると、1人、登山客に先を越された。
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二つ目の橋。ここも当時の空堀の底の沢の流路を人工的に道を断ち切る様に変えている様だ。
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下を見ると「にしじょうにのはし=西城二之橋」と書いて有った。
どうやら辛垣状は東側の枡形山の曲輪群と西側の本丸と尾根の堀切等を分けて2城1体の構造で考えられていた城の様だ。確かに相模原市の津久井城に近い広大な城域を誇る山城なので、昔の人は西の城、東の城と分けていたんだろう。
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この城は現地に到着してから色々と地元の人に聞いて回ったが「何もないよ~」と言われていたので期待はしなかったが、上の写真の様に薬研堀形状の竪堀が山麓に沢山残っている。
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約9年前に森林再生事業も始まった様だ。
まぁ、そんなこんなで良い森林の中を気持ちよく散歩出来たのはこの辺りまで…
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少しづつ険しくなり
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途中、曲輪跡と思しき切岸も見ながら
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山の林道は段々と角度を益し
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尾根に出て「あ~ここからは楽だ」と思ったら荒れ道の始まりだった(笑)。
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この写真の部分はV字に尾根が掘り切られており、尾根を断ち切る空堀と引橋が有った様だ。
裾切(すそきり=尾根の両脇の傾斜を人工的に掘削し急にする事)された尾根道は階段などは未整備で滑ったら少し滑落して骨折とかするかも(笑)。
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登リ口(急坂)と書いて有る。
小生には崖にしか見えなかった(笑)。
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もう、戦国時代と違って杉の木が茂ってるし足場は枯れ枝で歩き難いし
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そして、この崖が恐らく、本丸入り口の木戸の城門が有ったで有ろう切通(きりとお)し状の林道。
ここは城の防衛の最終関門だった筈(はず)だ。
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頂上の本丸は江戸時代に石切り場に成っていたのか、看板が有って原型を留めていないと書いて有る。
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まぁ、登って見た感想も看板に書いて有る通り、削平された郭の遺構は少ないが、竪堀と堀切と裾切りした尾根は良く残っている山城の城址だった。
帰りも竪堀にかかる林道の橋を通過した。
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恐らく、この橋も戦国時代は引橋として似た様な簡素な橋梁が有ったはずだ。
この様な竪堀は山の斜面を敵が移動するのを防ぎ、橋を架ける事で進入路を限定し、戦時は橋を取り払い敵を足止めする訳だ。
この様な構造は奥多摩地方の北条家の城には良く見られる構造だ。特に北条氏照公が築城した八王子城に似た構造が多用されている。
下の写真が八王子城の竪堀と引橋。
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まぁ、八王子城の山城部分については構造は辛垣城と似た様な感じなのだが間宮綱信(つなのぶ)公が縄張りしたと伝わる御主殿等の居住空間は安土城を見て来た間宮綱信公らしく、総石垣で壮大な造りに成っている。
下の写真が八王子城の御主殿と引橋。
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もし完成していたら立派な城に成っただろうが、小生的には北条氏照公が滝山城を放棄し八王子城を築城した事に疑問を感じる。滝山城の防御構造と飲水の確保の方がよっぽど完璧だからだ。
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滝山城は侵入者を殺害する為の土の城だが、土の滝山城の方がよっぽど北条流の当時の先進技術が多用されており、堅固な造りに成っているので、仮想敵が織田に成り甲斐国からの敵進入を想定したとは言えあんな防衛施設の建設が限定される山城に拠点を遷(うつ)した事が小生は理解出来ない。
まぁ、山城ってのは高低差が有って敵も登山で疲れるし一見すると堅固に見えるけれど、実際は構築可能な防御構造と設置場所が限定されて余り城として強いとは言えないんだな。

話を辛垣城に戻す。
まぁ~辛垣城の構造は八王子城や津久井城に似ている。どうも三田家の最後の居城とは言われるが北条流築城術の改修が入っている様だ。竪堀を多用した構造もだが、この規模の城を地方豪族の三田家単独で築城出来る訳が無い。或いは北条家以前の扇谷上杉家時代に既に城は存在し、扇谷上杉家が滅亡後に北条家に三田家が臣従した後、北条家が甲斐国境を守る城として改修したのかも知れない。
三田家は上杉謙信が関東に攻め上って来る以前は北条家臣だったので、その時代の話だろう。
そして滅亡したのは長尾景虎(後の上杉謙信)10万の大軍が、3万の北条家に圧勝すると思ったので最後の三田家当主の三田綱秀公は長尾景虎に味方し北条家を裏切った所、小田原城は落城せず北条勢の逆襲が始まり、やがて滝山城主北条氏照公に攻められ勝沼城を放棄し更に辛垣城に籠り、最後は家臣と徴用した農民兵士達の生命の保証と引き換えに自ら城を退去して自害し、当主としての責任を全(まっと)うされたのだと思った。
寺に行く為に山を下りる際に珍しい事が有った。
CIMG3371
ニホンカモシカと睨み合いに成った(笑)。
鹿とは言っても牛の仲間なのでカモシカの体躯(たいく)は結構デカイ。
こんなんに突進されたら谷に落とされて終わるだろうな(笑)。
でも小生は睨み合いに勝った気がしたのでデジカメ取り出して「パシャっ!」と撮影した瞬間に音でカモシカは逃げて行きました。
う~ん、図体デカいけど臆病な生き物なんだね。
しかし、出会ったのが“月の輪熊”じゃなくて良かった。
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寺へ行くまでの林道の草花も綺麗でした。
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 う~ん!三田綱秀公の御蔭で新鮮で清々しい空気を満喫できたし、鹿にも会えた!
綱秀公、ありがとうございました!
綱秀公、現代の会社経営者、市の執政官や、県や都の知事には、貴殿の様に己の失政の責任を取り部下を守る為に腹を切る様な政治家も経営者もいません。
皆、自分の事、不正で私服を肥やしたり名誉欲に駆られた輩しかいません。
ですから、己が上杉に寝返った責任を取って部下達の命を守る為に切腹された貴方は本当に立派な殿様だったと思います。
そして、恐らく開城勧告をしに行った海禅寺(当時の寺名は福禅寺)の御住職様も、地域の農民と低級管理職の命を守る為に殿様に生命を奪う勧告を行われ菩提を弔った事は、現在の青梅市に生きる旧三田家家臣団の子孫達に生命を繋いだ立派な行いだったと思います。
御住職様、三田綱秀公。貴方なりの正義を約400年の時を超えて見せて下さりありがとうございました。

さて!
次回は、この続き、海禅寺訪問~へそまんじゅう総本舗~阿蘇神社~チューリップ祭りを書きたいと思います。 
では、又、この日の休日雑記の続きで 御会いしましょう~♪

【大庭城】
大庭城址周辺図 久良岐のよし
[築城年代]
平安時代末期…良文流坂東平氏鎌倉家の子孫の大庭家。
[改修年代】
不明…改修次期は二期に分かれると推測、一期は扇谷上杉家、二期は北条家による落城後の北条早雲(伊勢盛時)公、又は北条氏綱公による改修。
[現在の様子]
腰曲輪群・土塁・空堀の遺構が一部保存されている。
大半が現代の神奈川県教育委員会が保護を怠った為(ため)に破壊されるも、昭和7年頃の近代には神奈川県に保護された史跡だった為、一部残存する。現代の教育委員会の意識と知識の低さと、近代の県職員の横浜の開港や近代化と県文化財歴史史跡保護を両立させた意識の高さの差異を感じる城址の一つ。
[所在地]
藤沢市大庭5230-1
[アクセス]
藤沢駅か辻堂駅からバスで20~30分。駐車場無料。
[周辺の見所]
大庭神社(延喜式内社)。
平安時代末期の大庭城築城時、もしくは室町期の領主山名時氏によって現在の境内地へ移されたと思われる。
大庭神社旧跡(延喜式内社大庭神社の元宮と伝承)。
江戸時代には熊野社と別名で呼ばれた。延喜式内社は遊水地や半島に創建された場所が多いので、かつての湖沼地帯である船地蔵地区に近在する大庭神社旧跡が旧境内地と伝承するのは、古代の地形との整合性が高い。
稲荷山成就院宝染寺
足利尊氏公と母方の従弟に当たる山名時氏公によって開基された。江戸時代には大庭神社の別当寺だった。現在の境内地は広くは無いが歴史の有る寺院。
蟠龍山宗賢院
城の南側に位置する大寺院、寺紋が桔梗紋で山号が蟠龍山である事から小生は曹洞宗改修以前は太田道灌の太田家の関与が有った大寺院と推測。寺宝として大庭景親(平安時代末期の領主)の陣釜が伝来する事から、平安時代末期には大庭家が大旦那に成り大庭城の鎮護寺院として開基されていた可能性が高い。
尚、鎌倉時代の周辺領主は大庭景親の亡き後、大庭家の名跡を一度は譲った大庭(懐島)景義公が復帰して鶴岡八幡宮造営等に活躍されているので、大庭景義公との関わりも否定出来ないが度重なった戦火と失火により寺伝は大庭庄の北条家統治後の歴史しか伝わっていない。
※独立解説記事は未だ未記載なので、その内にでも書きます。 

※次回から↑こんなフォーマットで公園・城址・レストランの紹介は冒頭に纏めて、解説を下に書く様にしようと思います。

【以下大庭城址の風景写真と解説】
神奈川県藤沢市の市域の大半は、かつて鎌倉郡と呼ばれた場所に属していて現在の感覚で言うと鎌倉市の一部でした。
鎌倉市以外で嘗(かつ)て鎌倉郡だった場所は藤沢だけでは無く、更には横浜市戸塚区・栄区・港南区の鎌倉街道以西の地域も含まれていて、現在、その地域を鎌倉市に返還すると鎌倉市は政令指定都市に成れる位の広大な地域が昔の郡域でした。
室町時代には、この鎌倉を支配したのが鎌倉公方(くぼう=将軍)と家老の上杉家の武将達と、平安時代から関東を開拓して来た武将達でした。
特に上杉家は❝関東管領(かんとうかんれい)❞と呼ばれた役職を代々家柄で担(にな)っていた重要な家系で、現代の感覚で言えば関東自治政府の首相を務めた家でした。
その上杉家は犬懸上杉家・山内上杉家・扇谷上杉家・宅間上杉家が主要な4家で、それぞれに関東管領職を輩出した事のある家柄でした。
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その中でも扇谷上杉家の相模国支配の拠点として機能したのが、この大庭城址や伊勢原市の糟屋館や七沢城でした。
日本の戦国時代突入の発端に成ったのが、実は神奈川県の旧鎌倉郡で有る事は義務教育では教えないので余り知られていません。
鎌倉公方足利持氏(もちうじ)公と、鎌倉公方の政治を代理で行いながら京都の将軍の家来だった関東管領上杉家の対立が戦国時代突入の原因とされています。
そして、その最初の戦いが❝上杉禅秀の乱❞です。この上杉禅秀の乱勃発時、鎌倉公方の忠臣として活躍したのが扇谷(おおぎがやつ)上杉氏定(うじさだ)公です。
氏定公は鎌倉公方の武将として活躍し、犬懸(いぬかけ)上杉禅秀と対峙しますが緒戦劣勢だった鎌倉公方軍に在って傷を負ってしまった上杉氏定公は足利持氏公の鎌倉撤退に同行出来ず、❝藤沢で自決❞した事が解っています。
つまり、大庭城の城の規模や、この上杉氏定公のエピソードは戦火で失われてしまった神奈川県の戦国初期の歴史を補完してくれる材料にも成る訳ですが…
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大庭城址は、扇谷上杉家の城の中でも扇谷上杉家の初期の居城だった事が神奈川県には伝承していて、昭和7年に大庭城址を城址公園として指定した当時の神奈川県によって石碑が建てられています。
上杉氏定公の自決の逸話とも整合性が有ります。
残念ながら、大庭城址は現代の❝神奈川県教育委員会の不見識と怠慢❞により、城址公園と言う名前なのに大半が破壊され、城の北半分については完全に破壊され消滅してしまいました。
昭和初期の県知事以下職員が保護対象にしていたのにね…。
その大庭城址の規模は、後(のち)の扇谷上杉家の拠点の河越城や江戸城よりも巨大で高い丘に築かれ、伊勢原市の糟屋館や厚木市の七沢城の様に沼と大河川に囲まれて守りが堅固な巨大城郭でした。
恐らく規模では伊勢原市の三浦道寸の居城岡崎城や、北条家の小田原城に匹敵する規模と堅固さだったと推測できます。
では現在、この城は何も残ってないのかと言うと、実は空堀や腰曲輪等、部分的に現存しているので、今回、公園の風景と合わせて紹介していきたいと思います。
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大庭城址公園には無料の駐車場があります。こっち側には城としての遺構は余り残っていませんが…
ここからの登城をオススメします。
何故かと言うと後(のち)に解説しますが、こちら側の地区の近所に船地蔵と言う御地蔵様があり、そこが大庭城落城の秘密と関係が有るので、それを学ぶ為には此方(こちら)側の現代の施設に立ち寄る必要が有ります。
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駐車場の階段を登ると直(す)ぐに大庭城址公園管理事務所と言う場所が在(あ)ります。
ここは管理者が一人勤務してらっしゃるだけなので、昼食や警備の時間帯は開いていない場合が有りますが時間をズラして散策後に訪問すると中に展示されている貴重な縄張り模型等を拝観出来ます。
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こんな、嘗ての縄張りを推測出来る地形の模型の他に、小名として残る城施設名の航空写真に拠(よ)る解説や嘗ての城址全景等を学ぶ事が出来ます…
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ここの展示は御金はかかってはいませんが、藤沢市が戦国時代に突入する切っ掛けに成った舞台の地で有る歴史や、全国に先駆けて戦国時代の城塞化が行われたのが大庭城址や扇谷上杉家関連の太田道灌公達が関連した城だった事が良く学べる展示に成っています。
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この立地は本当に伊勢原市の糟屋館(扇谷上杉定正の初期の居城)や、厚木市の七沢城に、扇谷上杉家出身の三浦道寸公の居城だった伊勢原市の岡崎城の良い面だけを集めたような城ですね。
又、ここの展示は城見学入門者向けの丁寧で簡略化された優良な展示資料も掲示されていますので、是非、見学して欲しいと思います。
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こんな感じで「石垣の城なんて戦国時代初期の城じゃねぇ~よw」みたいな正しい知識を学べます。
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あと、通年で見れる花とかの資料も掲示されていますよ。
自動販売機・トイレも有るので水分補給と城址見学の敵、トイレで困る事も有りません。
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公園管理事務所側から登ると上の写真みたいな感じでハッキリ言って遺構は破壊され尽くしていますが、公園の区画自体は往時の縄張りの区画を損ねずに行われている様な気がしました。
50cm有るか無いかの段差は、戦国時代初期当時の縄張りのままの区画だと思うので衛星写真と縄張り図で見比べてみましょう…
大庭城址縄張り図 大庭城址公園管理事務所様 久良岐のよし
大庭城址公園Google衛星写真 久良岐のよし
樹木の残っている場所が縄張り図上の土塁や空堀と重なるので、やはり児童公園かされた部分も僅(わず)かな段差は当時の縄張りを変えずに作られたようですね。
さて、では城址公園内の現在の様子ですが…
駐車場や管理棟は城の現存部左上、そこから入り南側に移動するにつてれ残存遺構が多く成ります。
DSC_0269
最初に目に付くのが、この大庭城址残存部を南北に分断し敵の侵入を拒む最終関門だったと思われる❝堀切❞の跡ですね。
現在では風化していたり西側半分は埋められていますが、当時空堀だった事を知るには十分な地形です。
そこを進むと建築物の遺構が有ります。矢倉が組まれていたか、屋敷地だったのでしょうか?
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看板には「今後の全面的な発掘調査」なんて書いて有りますが、神奈川県教育委員会は自分達で城址の大半を土建屋がブっ壊す時に調査もさせず責務を果たさなかった癖に、何の寝言をホザいているんでしょうか?
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まぁ、それでも昭和の高度経済成長期の破壊を、現在の教育委員会の中の有志が、こうやって少しでも心意気を見せてくれるのは熱い物が有りますが。
別に宅地開発をするのは悪い事では無いんですよ、ただ、糟屋館・七沢城・大庭城・岡崎城・玉縄城・衣笠城・笹下城・蒔田城・青木城・小机城の様に特に重要だった場所、壊してはいけなかった場所が有るのに、神奈川県の史跡は外郭団体に管理丸投げしてしまい、そこが天下り先に成っていて市長や県知事の票田である土建屋と直結しているので現代では保護に後ろ向きなんですね。
いくら近代の政治家や役人サンが優秀だったから史跡が保護されて現代人に引き渡されても、左翼系や無文化な首長を有権者が選んでしまうと、自然や文化が破壊される負のモデルが大庭城の北半分の消失でも有る訳です。
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さて、掘っ建て小屋の遺構の傍には、ちょっと茂った小山みたいのがあります。
これは、城好きな人は直ぐに解る、土塁と言う戦国時代の城の土の壁です。
土の城の土塁は現在はどこも風化していますが、当時はちゃんと相撲の土俵みたいに押し固められていて高さも最低2~3mくらい通常ありました。
更に、敵が侵入してくる側には土塁の下に空堀が設けられているので、通常は最低でも堀底から5m位の高さ、角度60度くらいの防御壁として機能した訳です。
大庭城址の土塁は風化した現在で3mはあるので、当時は5mくらい有ったと思います。
空堀も最低でも2m以上の深さが有ったでしょう。
上杉家でも別系統、足利尊氏公と従兄だった宅間上杉家の拠点の一つだった横浜市緑区の榎下城址(舊城寺)も、その程度の堀の規模は有りました。
⇐榎下城址の過去の記事はここクリック!
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この大庭城址も、南端の方には豊富な曲輪群、写真の様な空堀が有ります。
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北半分は破壊されていますが、まだまだ、城址入門の良い教材に成ります。
それを理解する為にも、あの最初に紹介した大庭城址公園の管理事務所の掲示物を熟読し、縄張り図を写メしてから廻ると良いと思います。
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土塁が芝生取り払われて芝生に成った部分も、これはこれで子供連れの家族が御弁当を持って散歩に来たり、ボール遊びしたり良い親子の時間を過ごせる場所だと思います。

さて…
大庭城址自体の説明はここまでにして、大庭城落城の秘密と悲話を現代に伝える城址南端、引地川と支流の合流地点近くの話に移ります。
大庭城址の南側にコンビニと公園が有ります。
その公園は船地蔵公園と言うのですが、その前に地区名の由来に成った❝船地蔵❞と言う御地蔵様がいらっしゃる場所が有ります。
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実は、この御地蔵様が難攻不落の大庭城を、いとも簡単に北条家に落とされてしまった理由に成っています。
別に神通力や仏罰で城が落ちた訳では無いんですよ。
現代では詳しい場所までは解らないのですが、大庭城址は西側の守りが弱く、そこを堅固にする為に元々湿地帯だった東側の様に西側も川を堰(せ)き止めて湖沼にしていたそうです。
その堤防の傍に住んでいた老婆は、ある日、北条家の密偵とは知らず、大庭城の事を調べに来た人間に、根掘り葉掘り沼掘りの秘密を全て話てしまったそうです。
そして口止めに殺害されたと伝承しています。
その後、北条家によって城西側の水が抜かれて干上がった時に攻め落とされたと推測できます。
水不足の季節、夏か真冬に攻略されたんでしょうかね~。
落城年代も、この地域の宗賢院や成就院と言った大寺院が度々火災に遭っていて記録が現存しない為に、今では良く解りません。

地域の伝承では北条家の密偵に殺されたと有りますが、北条家は新井城址攻防でも津久井方面の攻略でも似た様な伝承が有り、❝老人は口が滑りやすいのか老人に城の様子を偵察する習慣が有った❞ようです。
年取ると判断力無く成りますからね。
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但(ただ)し、新井城址の時もそうですが、北条家の密偵が聞いた相手を殺すとは考えにくく、寧(むし)ろ領主が秘密をばらした人間を誅殺したと考える方が自然でしょう。
だってね、集落で殺人なんか犯したら、瞬く間に騒ぎに成って敵方の追っ手に追跡されたり捕縛されてしまいますからね。
新井城址の場合は城の話を漏らした老夫婦は自害し、津久井方面の場合は現在では明治の小桜姫ブームに乗っかって話が小桜姫の伝承にすり替わってますが城主側が話を漏らした小桜姫を殺害した事に成っています。
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そんな船地蔵は、城の秘密を話してしまった御婆さんを供養する為に建てられた御地蔵様の御堂ですが、現在では水害と交通事故が発生しない様に地域と通行人を見守って下さる地域鎮守の有り難(がた)い御地蔵様として、藤沢市の市民に愛されています。きっと、御婆さんも多くの人に愛されて喜んでいるでしょう。

きっと、皆さんの御近所の御地蔵様や御寺や神社や今では公園に成っている場所も、昔は御城だったり凄い歴史人物が大切にした場所が普通に有る筈(はず)です…

余談ですが、最近流行しているポケモンGO、小生も初めてみました。
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ゲーム内では写真のようにポケストップと言う、ボーナスを貰える補給所みたいな場所が設定されているのですが、小生はこれが文化保護に役立つと思っていて非常に有用なコンテンツと評価しています。
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こんな感じで、余り知られていない重要文化財や石仏や神社、或いはキリスト教の教会等も紹介がされています。
小生、近所に昇竜橋が有る事を知りませんでした(笑)。
現代の道路の一段下の廃道にこんな場所が有ったとは…
これで、小生、❝神奈川の景勝50選❞❝神奈川の銘木100選❞に続いて❝かながわの橋100選❞も廻らないといけなくなりました(笑)・

だから皆さんもポケモンGOやりながら(笑)でもやらなくても、御近所を御散歩してみませんか?
きっと、そんな場所は古代の神様や鎌倉武士や戦国武将達と皆さんを現代に繋げてくれるタイムマシーンの役割を果たしてくれる筈です。

では、皆さん又次回の解説記事で御会いしましょう!




藤沢市大庭地区が、古代から戦国時代の初期まで神奈川県内でとても大切な場所だった事を知る人は、現代では多くは有りません…
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その大切さがどれほどの物かと言うと、大庭には縄文時代の遺跡が大量に出土しているだけでなく平安時代の醍醐天皇の時代、延喜年間の日本人から見ても「古い」「聖地」として認識され後世の人間に「保護しなさい」と言う意味で❝延喜式神名張❞に記載され我々に託された神社の一つ❝大庭神社❞が有るんですね。
上の写真が大庭神社です。
実は大庭神社は藤沢市内に2箇所あり、江戸時代に横浜の殿様間宮家の子孫で江戸幕府の昌平坂学問所で地誌を編纂した間宮士信(まみやことのぶ)達の新編相模風土記公でも、この件を取り上げています。

その2箇所の場所は…
藤沢市大庭…
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大庭神社舊蹟(きゅうせき=旧蹟)、つまり元々大庭神社が有ったとされ、後に熊野社と呼ばれた神社。
そして藤沢市大庭の大庭神社。
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新編相模風土記稿で、ここを取材した記者は、まだまだ考古学の❝こ❞の字も学問としての考古学が発展していなかった時代の人間なので、古代の大庭の様子も解らなかった結果、「舊蹟は元宮とは疑わしい」と言う事を言ってしまっています。
でも小生、この江戸時代の学者を論破できます「解ってねぇ~なオマエ(笑)」とね。
小生は断言します。
古代関東開拓の歴史と、旧跡が熊野社と呼ばれた事を証拠に大庭神社舊蹟こそ本来の大庭神社の元宮だと。
先ずはコレ↓を見て下さい。
大庭神社周辺
大庭神社と大庭神社舊蹟の位置を、古代の海岸線に重ねた地図です。
白い部分が神話の時代に海だった所」です。
解り易いように現代の鉄道も表示します。
これを見ると解ると思いますが、現代の藤沢市の中心を為(な)す平地は古代の海底です。
この藤沢本町一帯の地域が開拓されるのは大分遅く平安時代末期、鎌倉時代の少し前の話です。
もっと具体的に言うと、藤沢本町を開拓したのは平安時代の名将、鎌倉景正公です。
鎌倉景正公については以前に御霊神社の解説で紹介したので興味の有る人は当該記事を御覧下さい。
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※鎌倉景正公の記事は「ココ」←クリック!
さて、大庭神社に話を戻します。
大庭神社周辺
古代、日本人が住めた地域は現代人から見て丘や山の上の地域だけです。
だから縄文時代~弥生時代~古墳時代の遺跡は、山や丘の上から出てくるんですね。
そこで大庭神社の位置を見ると、やはり古代の海岸線にあります。
左上の同じ延喜式内社である宇津母知神社も、やはり古代の入江の付け根に所在しているのが解ると思います。
この海岸線は縄文時代の海岸線です。つまり古い神社と言うのは日本人本来の縄文文化を継承している場所でもある事が解るかと思います。だから日本人は沖縄やアイヌの人と古代は同族だったんですよ。

さて、では何で小生が大庭神社舊蹟を元宮だと思うか、状況証拠を箇条書きにしてみます…
1,縄文時代の遺跡は新旧大庭神社の在る入江の左岸から多く出ている。
  西岸に在る平安末期~戦国時代の大庭城の丘も縄文時代の遺跡が出土している。
2,東岸が開拓されるのは平安時代以降。
坂東平氏の祖である平良文(たいらのよしふみ)公が村岡城址を拠点に開拓を始めた。その後、東西北に子孫が拡散して行き関東全域に開拓地を広げていき武士文化の基礎を坂東平氏が築いた。
3,大庭神社舊蹟が❝熊野社❞と呼ばれたから。
熊野社とは新鮮で清潔な水の湧く場所や滝を聖地として開かれる神社。現代人も誤解しがちだが古代人は川の水をガブガブ飲んでた訳じゃなくて、自然湧水の有る地域にいついています。そりゃそうです、古代は抗生薬なんて無いですから腹壊す(=感染症や寄生虫)事は死に直結するんですよ、川の水なんかそのまま飲んだら。
だからこそ、井戸の掘削技術を手に入れた平安時代に至っても古代の聖地である自然湧水の有る神社を霊場として崇敬していた事実が有る。
つまり、大庭神社舊蹟が熊野社と呼ばれた以上、付近に古代は遊水地が有ったはず。遊水地が有れば古代人が住み着いた訳で、事実縄文時代の遺跡が周辺に在る。
…まぁ、挙げればキリが無い。

では、何で現在の大庭神社が新宮だと推測するかと言うと、理由は上記の2が絡んできます。そして大庭神社の別当寺だった稲荷山成就院宝染寺が原因だと思います。
成就院は、室町時代初期に山名氏公が造営した真言宗の御寺です。真言宗の開祖弘法大師空海和尚は日本神話や神様も大切にされた人物だったので、明治時代以前まで真言宗自体が神仏習合の要素の強い宗派でした。
よく有る事なのですが、武士が自分の領地の中心に守護神として近所の御利益の有る神社を移転させる事が良く有りました。室町時代にも成ると本来の自然信仰から御神体や偶像崇拝へと日本の宗教観も変化していたので、当時の人は罪悪感も無く聖地と神社を切り離してしまう事が有りました。
同じ延喜式内社の高部屋神社もその典型ですね。
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※高部屋神社の記事は「ココ」←クリック!
平安末期、源頼朝公の随兵も務めた糟屋有季(かすやありすえ)公は、本来、大山山系の渋田山に所在した高部屋神社が御自分が支配した糟屋郷の鎮守に相応しいとの独自判断から自分の居城だった千鳥ヶ城(糟屋城)の丘陵を通る大山街道前に遷座した歴史が有ります。
平安時代にも成ると、御神体が聖地で有る事を認識できなく成っていた人々も多かったと言う事でしょうね。
だからこそ、醍醐天皇が延喜式神名張を編纂させて保護すべき神社を指示したんですがね~。
源頼朝公も醍醐天皇と同じく自然信仰や古代の宗教観を引き継いでらっしゃったので、大山や富士山を登山し頂上で礼拝しています。

又々、解説が大庭からずれていたので話を大庭に戻します。
戦国時代初期まで鎌倉が東日本の首都だとすれば大庭は南関東の首府だった時代が有るんですね。
鎌倉公方足利家に忠誠を誓っていたのは、戦国時代の関東管領山内上杉家ではなくて、鎌倉公方配下の扇谷上杉家と宅間上杉家でした。
その内、宅間上杉家は足利尊氏公と母方従兄弟の血縁関係であり、扇谷上杉家は鎌倉公方の本拠地である相模国を拠点にしていました。
その初期の居城が藤沢市の大庭城と伊勢原市糟屋(上杉)館だったんですね。
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写真は大庭城址に昭和9年、当時の神奈川県知事や職員や教育者が、この城址の重要性を後世に伝える為に建てた石碑です。
残念ながら現代の教育委員会は無知無文化な上に土木事務所は❝土建会社に不利に成る事を妨げない様にする反日本文化的❞な連中なので、大庭城址も北半分が宅地開発され消失してしまいました。
大庭城址の南西は船地蔵地区と呼ばれ、大庭城落城の時の詳細な状況が伝承している船地蔵が地名の由来です。
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東の引地川は名前からして水掘りに水を引き込める程の河川の水量があったようです。
こちら側、船地蔵地区は古代から自然湧水の沢があり、そこを堰き止めて大庭城西側を湿地にしていた事が伝承から解ります。
つまり、寄生虫の危険の有る川の水では無く、古代人が飲料水に用いる湧水池が在った可能性が高い地域なんですね。
だからこそ縄文遺跡も、こちら船地蔵地区側や大庭城址から出土する。
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上の写真は扇谷上杉家の重要拠点だった糟屋館(上杉家の大城郭)の跡地の台地ですが現在の神奈川県の黒岩知事は、この糟屋館の丘を破壊して県道を通そうとしています。
そして、教育委員会は地元住民が伝える城址の地名を無視して、既に開発された産能大学の敷地だけが城址だと日本城郭体系や郷土史と異なる戯言を並べて黒岩知事の破壊行為支援をしているようです。
さて、こんな訳で県央の伊勢原市~大庭は古代から中世、関東で重要な場所だった事は御理解頂けたと思いますが…

糟屋館には大手を守る寺院、蟠龍山洞昌院公所寺が有ります。
実は、大庭神社舊蹟の在る船地蔵側には大庭城の鎮護だったと思われる寺院が有ります…
しかも山号が伊勢原市糟屋の寺院と同じなんです。
その名も❝蟠龍山❞宗賢院。
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この二つの御寺には更に凄い共通点が有ります。
…両方とも御寺の寺紋(じもん=御寺の家紋)が太田桔梗なんですね。
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上は藤沢市大庭の宗賢院。拡大して見ると太田桔梗紋が屋根の上に見える。
下は伊勢原市上粕屋の洞昌院、太田道灌公の菩提寺。同じく拡大して見ると、そこかしこに太田桔梗があしらわれている。
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この2つの御寺は、大庭城、糟屋館の鎮護の役割をしていたと推測できます。
扇谷上杉家は禅宗の臨済宗の信徒だった。同じく太田道灌公も鎌倉の建長寺で修業した臨済宗の信徒だった。しかし、この2つの御寺は北条家の時代に曹洞宗として中興している。
宗賢院に関しては、曹洞宗以前の記録が残っていないので開基を1505年としている。しかしながら、平安時代末期の当地大庭の領主大庭景親公の遺物が寺宝として伝わっており、更に太田道灌公ゆかりの桔梗紋が寺紋である事から、現在では名の伝わらない太田道灌公が支援したであろう前身寺院が間違えなく平安時代末期には存在した事が確実なんだな。
では何故現在、宗賢院も洞昌院も同じ禅宗でも曹洞宗かと言うと、太田道灌公亡き後に、道灌公をリスペクトしていた北条早雲公が曹洞宗の信徒で、北条早雲公が後に関与した寺院の殆どが北条家の庇護下に入る際に曹洞宗に改宗している。だから大庭城や糟屋館の落城後に御寺を復興したのは北条早雲公や北条氏綱公達だったからこそ現在は曹洞宗なんだな。

何でこの宗賢院と洞昌院の歴史に話を掘り下げたかと言うと…
これで、大庭地区の昔は海の入江だった東西どちら側が先に発展して来たか、関与した偉人達の足跡を辿(たど)る事で推測する事が出来るでしょう?完全に西側から発展してますね。
いよいよ本題です。
大庭神社の舊蹟が元宮だとするのは、ここまで話した通り県央から徐々に文化は東に伝播して行ったからです。
舊蹟と現大庭神社の間には湾があり、大庭城址や船地蔵地区の古代の湾の西側から人が住み始めたのは出土した史跡から明白である以上、考古学的にも大庭神社舊蹟=元宮=本来の大庭神社が有った場所=現在の大庭神社は後の支配者によって遷座された…
と周辺状況をまとめると容易に推測出来る訳です。

完全に西側から発展してるんですよ、縄文時代の古代だけでなく中世もね。
東側が開拓されるのは、坂東武者の鑑や軍神として鎌倉武士達に崇拝された鎌倉景正公が本藤沢を開拓して以降の話し。
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※写真は鎌倉市の御霊神社。本藤沢を開拓した鎌倉景正公を御祭神として祀る神社。
そして恐らく、大庭神社が現在の地に移されたのは、明治時代まで別当寺であった成就院との関係によると推測出来るんですね~。
下の写真が大庭の成就院。
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この成就院、足利尊氏公と母方の従兄だった山名時氏公が開基したと伝わっています。正確には山名伊豆守。
開基(かいき=寺社を造営する事)は1352年頃とされています。
…つまりね、平安時代の人から見ても古いと思われていた古代から存続する大庭神社の別当寺の割には歴史が凄く浅いんですよ、この成就院は。
でも、足利尊氏公や山内上杉重房公や宅間上杉重兼公と縁戚の山名時氏公の開基だから、否応無しに格式が高く成る訳です。そうなってくると当然、付近の神社の別当寺に成って管理業務を担う様に成った訳ですよ。
でも、御寺の傍に管理する神社が無いと不便でしょう?そこで二つの仮説が立つ訳です。
1、御寺の傍に大庭神社を移しちゃった。
2、本藤沢側の台地が後に発達したから、元々船地蔵地区に在った御寺が本藤沢側に移転して、その際に一緒に神社が移転されられた。
小生、この仮説を立てた時に気が付いたのですが、藤沢の成就院は御寺の山号が稲荷山です…
しかし御寺の有る地区は地名こそ❝稲荷❞ですが、この地区に稲荷社が在った歴史は無い!
ところがところがぁ~♪
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船地蔵地区の大庭神社舊蹟の直ぐ近くには❝臺谷戸稲荷❞が鎮座しています。
しかも、こちら側の大庭神社舊蹟の大庭神社(熊野社)も別当寺は成就院でした。
…もう、これで状況証拠は集まったでしょう。
恐らく、この地区に成就院の前身だった宝染寺が在った。そして当然、大庭神社舊蹟が元宮であり、古代から船地蔵地区に存在したので、宝染寺が別当寺に成った。
その後、1352年頃に鎌倉に近い現在の稲荷地区に山名時氏公が何らかの関わりが有って、宝染寺と大庭神社を東側の丘の麓に遷座し、宝染寺も成就院と院号に寺名を改める事に成ったが山号は船地蔵地区に在った時のまま稲荷山を引き継いだ。
結果的に成就院が移転して来た丘陵地帯の地名が御寺の山号をとって❝稲荷❞と呼ばれる地区に成った。
だから、現在の大庭神社は若宮で、地元の伝承の通り江戸時代に熊野社と一時期呼ばれた大庭神社舊蹟こそ元宮そのものだと推測が成り立つ。
そして、この大庭神社舊蹟や臺谷戸稲荷や大庭城の在る、古代の湾の西側の陸地からは縄文時代~弥生時代の史跡が出土している…
ダメ押しすると、大庭神社舊蹟の住所は藤沢市❝大庭❞。
つまり、伊勢神宮直轄地だった大庭御厨(おおばのみくりや)は大庭神社舊蹟の側一帯の丘を指す訳ですよ。
どうでしょう?
…以上が周辺の歴史ですが、もう元宮は大庭神社舊蹟で決定ですよね?
江戸時代の間宮士信先生の弟子の三文学者が、江戸時代に東海道が通っていた本藤沢側が栄えていたからって勝手に地元の伝承を否定したのは、現代の発展した考古学と古代からの地勢を見れば誤りだったのが良く解る訳ですね~。

次は大庭神社元宮と近所の稲荷社を写真で紹介します。
では次回の記事で御会いしましょう~♪

2016年06月15日水曜日休日…
この日は、歴史に興味無い観光客は知らないいくつか名寺院と史跡を訪れる事に成った。

いつもの休日通り、時間が寝る時間勿体なくて徹夜のままお出掛け。
小町通りに買い物と、鶴岡八幡宮の某所に用事が有り鎌倉訪問。
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曹洞宗の道元禅師の顕彰碑が有る辺り、鶴岡八幡宮の駐車場からスタート。
鶴岡八幡宮の蔵書管理部門に鶴岡八幡宮の研究職の方の研究報告のコピーを依頼に行って来た。
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世間は平日のはずなのに、すげ~観光客。
それもそのはず、長谷寺と明月院の紫陽花が見頃だからね。長谷寺なんか整理券貰って1時間くらい待つし。
昼チョット前に到着、小腹空いていたので小町通に買い食いの為に移動。
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行きつけの❝シラスたこ焼き❞の店でブランチ。
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これ、シラスは入っててもアンマリ感じない(笑)けれど、関西に御縁の有る小生からしても❝たこ焼きその物❞として結構美味しい。
目標はミカドコーヒーの有る路地。その隣がタコ焼き屋。
食べ終わり、依頼した資料のコピーに時間がかかるとの事で普段は余り行かない扇ヵ谷(おおぎがやつ)地区を散歩に行った。
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小町通りの北側から脇道に入り東海道線の踏切を超えると、そこが扇谷地区。
そこは源頼朝公の祖先の代からの屋敷が存在した地区。
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実は鎌倉は、この扇ヵ谷地区、それと反対側の材木座地区の両端からスタートした町だ。
そしてメインストリートから外れている為(ため)に、この地区と浄明寺地区と言う辺りには鎌倉市の原風景が良く残っている。
小生が毎日心の中で御参りをする神社の一つが、ここに在る。
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八坂神社。
坂東でも名門の武家、相馬氏の居館に勧進された牛頭天王素戔嗚尊を奉る神社。
相馬家の居館の役割を終えて、神社として造営さた。
相馬氏は平将門(まさかど)公の子孫。更にそこに平良文(よしふみ)公の子孫が養子に入り家を継いだ坂東平氏きっての名門。何故名門かと言うと桓武天皇の直系子孫に当たるからだ。
桓武天皇統治の世は牛頭信仰が盛んだったので桓武天皇の建設した長岡京からは民間の牛頭信仰の遺物が発掘されてもいる。
DSC_2429桓武帝御子孫の坂東平氏の武将達も当然その牛頭天王=素盞嗚命と桓武天皇の御霊を崇拝した。
その典型的な場所が、この相馬氏邸宅跡の八坂神社だ。
この八坂神社の隣が報国寺で、そこが河内源氏の棟梁の屋敷地古址。
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明治政府成立以後、多くの神社仏閣の組織が解体されて個人の所有物として独立したり、組織的には国家体系に組み込まれ民間信仰が破壊された。
こちらも鎌倉時代~江戸時代終焉の長きに渡って鎌倉五山と呼ばれた国家運営の寺院だったのに、現在は個人経営状態に成ってしまった。
なので現在の御住職が老齢で体調も可成り悪いのに引退出来ず、巡礼者への御朱印も満足に応対出来ない程の状況に陥っている。そうやって多くの寺や小さい神社が滅んで行った。
現在の状況に困り果てた奥さんは参拝客に応対する事もままならず、御朱印も一切受け付けていない。
防犯すらも老人二人では覚束(おぼつか)無いので共に疲弊し、本堂への参拝も進入禁止されてしまっている。
御住職の妻帯による世襲や家族運営に頼らない、本来の仏教組織形態を維持出来ていたならば、こんな事にも成っていなかっただろう。
明治政府の唯一の失敗は、宗教改革の一点に尽きる。明治政府の宗教改革の失敗のせいで多くの神社と御寺が此の世から消えてしまった…

さて、寿福寺は今回は山門の前から御参りして終り、目的地じゃないから。
行きたかったのは銭新井弁天、鎌倉山の反対側の佐助地区。
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そこに至る道は緑深く空気も綺麗な上に、鎌倉時代に掘られた岩屋=❝やぐら❞や小さな御社や御地蔵様等、鎌倉文化の原風景が先述の通り多く残っている。
そして歴史に興味が無い観光客には余り知られていない名寺院が沢山在る…
例えば、この御寺…
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英勝寺。
浄土宗の尼寺。鎌倉で唯一現存する現行の尼寺。
そして、ここが何故臨済宗の多い扇ヵ谷地区において浄土宗として存在するかと言うと、浄土宗に帰依していた徳川家康公の愛妾の❝お梶の方❞が晩年、尼僧として暮らした御寺で彼女自身の菩提寺だからだ。
更に、この御寺は❝お梶の方の祖先の太田道灌公の屋敷跡❞に建つ寺院でもある。
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ここは建築遺産も立派だが❝隠れ紫陽花の名所❞であり❝隠れ竹林の名所❞で歴史好きと日本文化好きの隠れオアシスの様な聖地に成っている。規模が広い訳じゃない。
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詳しい事は、又、独立した解説記事を書きたい。
ここは小生が崇拝する偉人の一人の太田道灌公の邸宅古跡だけあり思い入れが有る。
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扇ヵ谷地区は観光地区では無いので、平地には鎌倉市民の一般住宅が多い。
さて、英勝寺を後にして先(ま)ず訪れたのが海蔵寺。
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ここは❝井戸❞と❝やぐら❞の御寺。
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山門入口に在る❝底抜け井❞は鎌倉で名水と言われた鎌倉十井の一つで、安達家の姫君の逸話が残る。
この井戸だけでなく、海蔵寺所管の井戸には名所が多い。
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普段は非公開の十六井
ここの御寺は多くの文化人が俳句に詠んだ場所でもある。
いずれ又、詳しく解説しようと思うが海蔵寺は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家が開基したと現在は伝承しているが小生は状況証拠から少々違うと思う。
ここは恐らく佐原三浦家が扇谷上杉家の命で開基した寺だと思う。
何故なら、三浦家終焉の土地、三浦半島油壷の新井城址、その傍に在る三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の名前も海蔵寺だからだ。そして、❝海❞蔵寺の海は正に水軍の三浦家に相応しい寺名。
恐らく歴史はこうだと思う…
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佐原三浦家の祖先、三浦家の宗家が存命中、まだ鎌倉時代に成る以前の平安時代末期、鎌倉の館を構えていたのがこの海蔵寺の場所。近くには三浦家が与力した大将の源義家公の御屋敷跡の寿福寺もある。
近習するには扇ヵ谷に屋敷も必要だったろう。
時代は下り、三浦家の宗家は鎌倉幕府の執権北条家に滅亡させられ、分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を継いだ。
その佐原三浦家の鎌倉時代の菩提寺は以前も紹介した横須賀市大矢部の清雲寺、三浦家の本城の衣笠城近くに現存する臨済宗の寺だ。
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対して新井城址近くの海蔵寺は、曹洞宗。
この海蔵寺は三浦道寸公が開基した寺だ。
現在でこそ曹洞宗だが、これは戦国時代の三浦家を滅ぼした小田原北条家が曹洞宗に帰依していたので曹洞宗寺院として改宗させたのだと思う。
元は恐らく鎌倉の海蔵寺、それを佐原三浦家が本拠を新井城に定めた時代、つまり道寸の時代に鎌倉の海蔵寺を三浦半島新井城の近くにも分教区の寺院の様な存在として勧進したのだと推測している。
…あくまで、想像。
そこで、この鎌倉の海蔵寺の話に戻る。
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海蔵寺は裏庭が綺麗なのに、ここを見ようとする参拝客は少ない。
この海蔵寺、鎌倉時代に将軍家を守ろうとした三浦家の本家の事績に肖りたかった鎌倉公方(鎌倉公方足利家は京都の足利将軍家と対立していて常に窮地に在った)が、三浦家の子孫である佐原三浦家に祖先の屋敷地の跡に鎮護の寺院を開基する様に❝佐原三浦家に佐原三浦家の上官である扇谷上杉氏定を経由して命令を下し造営させた寺院❞だったのでは無いかと妄想している。
証拠が状況証拠しか無いので、妄想や推測としか言えない。
因みに、この上杉氏定、鎌倉公方足利持氏公と山内上杉(やまのうちうえすぎ)家の上杉禅宗(うえすぎぜんしゅう)が対立した際に❝足利持氏公に忠義を尽くし負傷、藤沢で自害❞とされているが、この❝藤沢で自害❞の舞台が初期の扇谷上杉家の居城と考えられる藤沢市の大庭城だと推測出来る。
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もっとも、この大庭城址、メジャーな古文書しか読まない若しくは誰かの書いたメジャー論文しか読まないパクり俄か学者や研究者は存在すら知らないバカが多い(笑)。
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実は、扇谷上杉家の居城の中でも糟屋館と同規模、初期の江戸城や河越城を凌駕する規模と堅固な地勢に在った。
扇谷上杉家が江戸城や河越城を本城に定めるのは糟屋館や七沢城や大庭城を次々と失陥した後の話し。
これは関東南部の郷土史を読み漁る人間しか知らない事で、近畿と東海地方史観のメジャーな本を幾ら読んでいても微塵も登場しない事実。

さて、海蔵寺が鎌倉公方鎮護の寺と位置付けられていたと推測するには一つ根拠が有る…
実は鎌倉幕府が滅亡した際に、幕府の執権だった北条高時を攻めた新田義貞が鎌倉への侵攻口が正に、この海蔵寺に近在する鎌倉の切通し七口の一つ、❝化粧坂(かわいざか)の切通し❞なのだ。
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化粧坂に通じる道の入口には当時の道の高さに石碑が立っている。
実は!この上部の石碑がある方形の窪み、有名な悪七兵衛景清こと、伊藤(藤原)景清が閉じ込められた当時の岩屋牢屋の跡で歴史遺跡でもある。
現在では道が掘り下げられてしまい、当時の地表の高さの位置に牢屋の岩屋が半分破壊された様態で取り残された訳だ。
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現在は歩きやすく舗装され、道幅も車が通れる様に開削されているが、明治時代に成るまでの切通の道は人二人が並んで歩ける程度、つまり往来があって辛うじてスレ違える程度の道幅だった訳だ。
ただの街道なら道は広く真っすぐ作るが、鎌倉は幕府の首府だったので山々を直角に切削し城壁として防衛し、出入り口も防衛施設の機能を有していた。
この道も屈曲しているが、昔はもっと鋭角にS字に成っていて軍馬に騎乗した武者が容易に通れない構造だったと推測出来る。つまり、後の城郭の喰い違い虎口の走りだな…。

ここを過ぎると直ぐに、鎌倉時代の切通しが姿を見せてくれる。
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鎌倉石と呼ばれる砂岩の地層を削りだした道は、豊かな緑が雨水を染み込ませ粘土層との隙間から僅かな湧水をしたたらせ要害性を増す泥坂と成る…
この地層を利用して日本屈指の城郭建設技術を確立したのが戦国時代の小田原北条家の北条早雲公な訳だ。
そして、古代の海底だった土腐(どぶ)に囲まれた低湿地地帯の丘に築城する技術を発展させたのが先に訪れた英勝寺の❝お梶の方❞の祖先の太田道灌公だ。
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この切通しが貫く鎌倉城(山に囲まれた鎌倉市街中心部を歴史的には鎌倉城と呼ぶ)の城壁代わりの鎌倉山や十二所の山々は、直角に削られている訳だが、この構造は以前「カテゴリー城郭」で紹介した三浦家の❝衣笠城❞の記事でも紹介している。鎌倉武士が培(つちか)った築城技術だ。
この道を多くの人々が往来した。
既に季節は梅雨だが、鎌倉山は新緑に覆われ日差しから小生を守ってくれ、風も涼しかった。
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化粧坂を越えて、再び分かれ道を鎌倉市街方面に降りて行くと佐助地区に出る…
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佐助地区に入って最初の神社仏閣が銭洗い辨財天で有名な宇賀福神社だ。
独立解説記事をその内書いて改めて解説するが…
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ここは本来、弁財天を奉っている神社と言う訳では無い。
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宇賀神と平安時代の人々が呼んだ神様が、後に弁財天様と習合されて同一視されたので名前は宇賀福神社として残りながら御祭神が弁天様として現在に至っている訳だ。
この宇賀神と言うのは日本神話による所の❝倉稲魂命(うかのみたまのかみ)❞=❝宇迦之御魂神❞を指す。
豊かさの象徴の女神として信仰されていた。
古代に於(お)いては穀物やなんかの豊穣の女神で、頭人体蛇の姿をした女神だった。
鎌倉時代に成ると、中国から宋銭が輸入され富の象徴は穀物経済から貨幣経済に変化したので、本来は穀物の豊穣の女神が財神の性格を持つ様に成った訳だ。
そして、後に日本に来られた七福神の弁天様が戦神と財神と美人神の性格を併せ持った、宇賀福神様と似た神様だったので武士や民間の信仰で同一視される様に成った訳だ。
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なんにせよ、富の神様。
ちゃんと弁天堂の霊水で御金を洗って来た。今は小生の部屋で神様と仏様の前に御供えしている。
もし、御利益が有って大金が手に入ったら、必要な分以外の富は全て日本文化保護と郷里の産業振興に役立てたいと心願を御伝えして来た。

この日はこの後で、佐助稲荷神社にも御参りしようと思っていたら…
トイレでチャックが壊れて社会の窓が閉じなく成った‼
…そんな状況で観光を続けれる訳も無く、ズボンの前が開かない様にズボンのベルトを上に引っ張りポロシャツを下に伸ばして不自然な状態で鶴岡八幡宮に戻った。
鶴岡八幡宮の親切で美人な司書の巫女さんが準備していて下さった研究報告書のコピーを受け取り代金を払い、いつも親切にして下さる御礼に、いつもの小生の儀礼通り小町通りで購入した御菓子を差し入れして帰って来た。

ふむ、社会の窓のチャックが壊れてブルーに成った以外、非常に充実した1日に成った♪

水曜日は昼から藤沢市の大庭城址公園に行って来た。
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戦前のカタカナ送り仮名は若い人には読み難いので石碑の碑文を平仮名に書き下すと…

この地は大庭景親(おおばかげちか=平安末期の武将)の居城と云(い)う、
後、(扇谷)上杉定正が修(おさ)めて居城せしが、永正9年、子の(扇谷上杉)朝長(ともなが)の時、北条早雲に攻め落とされ是(これ)より北条氏の持ち城と成った。
廃城の年代は未詳(みしょう=くわしく判らない)、空塹(からぼり)の蹟(あと)等(など)當代(とうだい=その時代)の城郭(じょうかく=御城)の制(おさえ=構え=構造)を見るに足(た)るが有る。

はしょって現代語にすると…
ここは大庭景親って武将の御城の跡なんだけれど~、後に上杉さんの御城に成って更に北条さんの御城に成ったんだけれど~空堀とか良く残ってて戦国時代の御城の良い教材だよ~
…ってせっかく昭和初期の神奈川県知事以下職員や教育者が石碑を建てたのに、現在では城址は半分ぶっ壊されて宅地にされちゃったんだよね。
石碑は昭和9年、今の建設業界と密着した腐れ教育委員会や利権政治家と違って当時の文化度の高かった県の行政によって保護されていた大庭城址に建てられた石碑。
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※空堀と土塁↑歴史興味ない人には只の雑木林にしか見えないだろな。
水曜日の訪問で大庭城址公園は3度目の訪問に成る。
前の携帯(ガラケー)の写真をバックアップしてなかったので、同城址の写真を再度撮影に来た次第だ。

ここは、寂(さび)れた管理事務所に実は戦国時代の城入門者には打ってつけの常設展示資料が有るんだな。
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小生も、御城に本格的に興味を持ちだした8年前位に来たのが最初で、良い勉強に成った。
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桜も綺麗な城址なので、是非近隣の人には先人の記憶を辿(たど)る散歩がてら、花見に来て欲しいなぁ~。

実は、この日のドライブの目的地は、この大庭城址を当初は含めて3カ所だった。
もう一つは地図を見ていて城址の近くに❝宗賢院❞と言う御寺を見つけたので、そこに行くのは既に決めていた。
実は❝宗❞の字が使われる御寺は、概(おおむ)ね曹洞宗の御寺で、戦国大名の北条家は曹洞宗の禅の修行を配下武将達に取り入れさせる目的で多くの曹洞宗の御寺を保護した歴史が有ったので、大庭城址の南側大手に当たる位置の宗賢院サンも北条家と必ず関係が有るだろうと推測しての訪問予定だった。
それともう一つは…
綾瀬市の早川城址公園に散歩に行って写真を撮ってくる予定だった。
でも、大庭城址に行く途中、車の中で…
「ん?そう言えば大庭城址公園の近所には延喜式内社の大庭神社が有ったな…そっちを優先するか!」
…と気が変わり、結局、当日回ったコースはこう成った。
●大庭城址公園
再訪問して管理事務所で大庭城落城のきっかけの船地蔵の伝承を知った。
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●船地蔵の近くのコンビニに移動、車止めて船地蔵を御参り。DSC_0324
船地蔵由来の御婆さんに、安らかに眠って下さいね、これからも地元の人と大庭城を見に来る人を見守って下さいねと御願いして来た。
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●大庭神社に移動する心算(つもり)が、セルフカーナビ(自分の記憶)ではなくて車の❝くそカーナビ❞に任せたらスゲぇ~遠回りされて、思いがけず別の神社経由で遠回りされた。
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実は、この思いがけない山王社参拝で、氏子サンが石碑に残して下さっていた、この神社の歴史を読んでいて藤沢のこの大庭の地に戦時中は海軍飛行場が在った事を知った。
貴重な訪問と成った。サンキューくそカーナビ(笑)。
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●山王社の坂を降りて大庭神社に行く途中で成就院と言う真言宗の御寺を見かけた。大庭神社との位置関係上、江戸時代までは大庭神社の別当時だった可能性が有ると推測出来たので、帰りに寄る事にした。
そして大庭神社へ…
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神社は今も立派な境内を抱えているのだけれど、残念ながら宮司様不在の荒廃ぶり。
ここは由緒正しい延喜式内社なのに、こんな有様なのは悲しすぎる。
本来は神奈川県神社庁が資金を投入しても神主様を常駐させ、もっと参拝客を増やす努力をしないといけない場所なんだと思うけれどなぁ~。
でも逆に明治の廃仏毀釈の影響を受けず境内には貴重な梵鐘も有った。DSC_0340
奈良時代~江戸時代が終わるまで、歴代天皇が大切にされた文化が、この式内社には残っていた。
きっと、この大庭の御厨(みくりや)を開拓された鎌倉の権五郎御霊神社の御祭神である鎌倉景正公や御子孫の大庭景義公、後にこの地を治めた扇谷上杉定正や太田道灌公、北条早雲公や北条氏綱公も、この鐘の音を聞いた事だろう。
そして、古来の日本の宗教としての大庭神社も参詣し、この土地を開発した平安時代の鎌倉景正公や古代~奈良時代の先人に感謝の念を抱いたのかも知れない。
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●大庭神社を御参りし終わって、近所の成就院に移動…
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門前の看板を読むと予想通り、明治時代の廃仏毀釈神仏分離令で仏教弾圧されるまでは、大庭神社を守っていた別当寺だった。
大庭神社は、この成就院さんと切り離されてしまったから荒廃したんだな。
だいたい、鵠沼とか3kmも離れた神社の宮司様に管理させる自体ナンセンスな気がする。
住民と顔つき合わせて普段から話すチャンスなんか無いだろう。そりゃ、地域住民も宮司様への親しみも感じる以前の問題に成るから、当然、宮司様との距離が地域住民との距離に成って行くだろうな。
もし、更に地元の人との郷土文化を保存する気概が有り効率的に古社に対する信仰心を維持する気概が神奈川県神社庁に有るならば、この管理体制は改革させるべきだと民間人としては思う。
どこの業界でもエリアマネージャーや支店長管轄区ってのは地域で担当区分するのが常識的かつ効率的な管理手段なのだから。
別に昔の様に御寺サンに御任せする代わりに、御住職に神事も勉強して貰えば良いのだし、逆に明治以降のまま神仏分離で棲み分けが共存に繋がると意固地に思うのであれば、神社の管理は明治時代の宗教観を忠実に復古して、郷社や村社の制度を再導入させるべきだろう。
地域ごとにそれこそ昔の様に郷社や村社といった神社の管理区分を明確にしたら管轄が地区ごとに集約出来るし神職者への資金分配や管理が行い易くて良いだろう。
そして、管理事務所兼戸建て宿舎を建設し、所管の神社の禰宜さんを支店長みたいに住ませ所得の低い内の家賃手当代わりに神社の保全に務めて貰った効果的なんじゃないのかな?
これから益々外国人が増えるんだから、本来の神仏習合のAll Japan体制で移民による文化破壊を食い止めないと、宮司不在の神社なんか無文化政治家の土建屋マッチポンプで瞬く間に強制移転や破壊対象にされてしまうぞ。
…なぁ~んて考えさせられる良い機会にも成った。
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●当初からの訪問目的である、宗賢寺さんに移動。
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結構な規模だった。
意外な発見も有った。
開基は1505年と伝わるが、平安末期の大庭城主大庭景親公所有の陣釜が有るなど、平安末期には前身の大寺院として同地に存在した匂いがプンプンしたが、やあはり戦国時代に移行する前の室町時代の大庭城所縁の上杉家と家宰太田道灌公の足跡が沢山御寺には残っていた。
自分の推測を御寺の家人に提起した所、目を白黒されて聞かれていたが、色々と御納得頂けた様で、檀家信徒以外読む機会の無い、戦国時代以降の寺史を纏(まと)めた書籍を貸与して頂けた。
最初、是非、これを御貸ししたいと本を手渡された時は「次、いつ参拝出来るかも解らないので無責任に拝借出来ません、購入させて頂きます」と固辞したのだが…
小生の人格を初対面で信頼して頂けた様で、「1年先でも2年先でも返却は良い」と、御好意の御言葉を頂けたので、恐縮しながら宗賢院様の歴史の本を拝借して帰路についた。
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●何か真っすぐ帰るのがシャクだったんで、大庭城と同じくガラケーでしか写真撮影していなかった藤沢市の村岡城址公園に帰り立ち寄って、改めてバシャバシャ写真とってきた。
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やっと満足して帰ろうと思ったら…
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●先週買ったジーンズの裾上げ頼んだまま引き取って無かったので、帰りに取って帰って来た。
又、徹夜だったので、帰宅し記事更新しようとしたら直ぐに寝落ちしてしまった。

今回の活動の主な範囲…
大庭城周辺
こんな感じ。横浜からは20km位離れてるけれど、藤沢市内では極めて狭い大庭地区周辺だけ。
あとは鎌倉との市境の村岡城址。因みに、藤沢市は昔は旧鎌倉郡で鎌倉の一部だったんだな。
今回参拝した山王社で、大庭に戦時中は海軍飛行場が在ったと知ったので、終戦直後の米軍が空撮した写真を見たら本当に荏原製作所の所在地が空港だった…
大庭城周辺(昔)
Google Earthに当時の写真を重ねるとこんな感じ。
右側の白い線が滑走路だね。
この広大な平地に昔は山王社が在って、大庭神社と並んで村民の崇敬を集めて、昔は村の御祭りなんかで賑わっていたんだろうなぁ~。

そう言えば…
大庭神社を含めて神奈川県神社庁は早急に復興するべき神社がいくつか有ると思う。
それは…
●大庭神社 藤沢市稲荷 合わせて古代の旧社地である大庭の現熊野社。
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
鵠沼の皇大神宮の管理。
●高部屋神社 伊勢原市下粕谷 
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
伊勢原大神宮の管理。
●杉山神社 横浜市緑区西八朔
延喜式内社なのに神主が常駐していない。
延喜式神名張を編纂させ後世に古社を荒廃させず伝えようとされた醍醐天皇と天皇家に対して不敬である。
川崎市麻生区の琴平神社の管理。
●烏山八幡宮 横浜市港北区鳥山
平安時代~鎌倉時代の名将で醍醐天皇の御実弟で沙沙貴神社の御祭神である敦実親王の御神孫に当たる佐々木高綱公の居館跡に開かれた立派で由緒有る八幡社なのに神主不在。
横浜市東神奈川の熊野神社の管理。
●森浅間神社 横浜市磯子区森
源頼朝公が海岸の断崖にコンコンと湧き出る滝の在る同所に神仏混合崇拝の修験道の山伏の修行場を兼ねて鎌倉幕府の陣所と合わせて開いた由緒ある神社な上に、鎌倉幕府最後の将軍を匿った場所だが、過去の横浜市による社地接収と団地と宅地造成により、周辺から存在を認知され難い不利な立地にされてしまっている。
関東武士団の鎌倉文化の醸成地の一つで有るだけに、もっと資金を投入し支援するべきだと個人的に感想を持つ。

由緒ある延喜式内社や凄まじい歴史偉人の関与と、古代からの遺跡や自然湧水等のパワースポットが境内や近所で確認出来るの神社を神主非常駐にせず、せめて管理神社の禰宜サンを常駐させるべきだと思う。
宿舎も兼ねた管理棟を県の文化財管理棟として建てて、禰宜さんの宿舎兼支店営業所的な運営させるべきだと思う。
そうする事で若い世代の神職サンの生活も安定させられる上に、神職者と住民の距離も近くなり親近感も湧き往時の信仰心と日本の文化を復古に役立つ事も出来るのでないだろうか?
なぁ~んて考えさせられた、今週の水曜日でした。
しょせんは歴史好事家(オタク)の世迷言。

今回、写真撮って来た城址や神社仏閣は、いずれ解説記事にちゃんと書きますよ~♪
さぁ~て、今日こそは綾瀬市の早川城の写真をとらないと…
来週再来週には桜が咲き始めてしまうので、今度は桜の名所巡りしないといけないからね。
そろそろ藪蚊と虻が増えてくるし、今年の古城廻りシーズンは終了かな?


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