北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
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コレのの続きの第二部。
現代の感覚で言うと地理的には京浜急行電鉄神奈川駅と横浜駅と市営地下鉄三ツ沢上/下町駅の殿様の多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説が前回の記事です。
多目元忠公を語る上で外せないのが現在の川越市で起こった俗(ぞく)に日本三大奇襲戦の一つに数えられる❝河越夜戦❞です。
※この縄張り図は江戸期河越城の絵図を元に河越市立博物館に勤務する教育委員会の当時の学芸員サンが企画展用に地図上に起こした物です。戦国時代には新曲輪・中曲輪・追手曲輪と田曲輪は存在しなかったと推測されていますが、北条流の築城術と太田道灌流の築城術の城を見て来た小生の意見では田曲輪は部分的に外郭として存在していたと考えています。
足利家❝二両引き紋❞
上杉家❝竹に二羽飛び雀紋❞
実は関東地方は近畿や東海地方よりも先に戦国時代に突入した地域でした。それは最後の鎌倉公方の足利持氏公と古河公方と成る足利成氏公の親子と上杉家の対立によって起きた❝上杉禅秀の乱❞、❝永享の乱❞、❝享徳の乱❞の3つの政治混乱と大軍勢同士の軍事衝突が配下の与力大名達の対立と私闘に繋がり領地の奪取戦へと混乱が拡大した事による結果でした。
この3つの大乱で鎌倉公方の配下でありながら関東の政治を乗っ取って反逆したのが犬懸(いぬかけ)上杉家、山内(やまのうち)上杉家、扇谷上杉家でした。
※KOEIさんのゲームより拝借画像
山内上杉家は長尾景虎こと後の上杉謙信が養子に成った家として有名ですが根拠地は埼玉県北部~群馬県でした。更に上杉謙信の父上で越後守護代を務めた長尾為景公は北条家と協力関係に在りましたが、その上杉謙信の実家の長尾家の根拠地の新潟県も上杉家の領地でした。
山内上杉家と扇谷上杉家のアホの上杉内部抗争に嫌気がさした山内上杉家執事の長尾景春公や越後守護代だった長尾為景は「実際仕切ってるの長尾家だし、俺達の方が平和な世の中作れるんじゃね?」と思ったかは知りませんが、実際に戦上手の名将として知られた長尾景春公は伊豆~相模東部を支配していた伊勢盛時(北条早雲)公と連合して両上杉家に対し叛旗を翻しています。
これが青木城の前身と成った神奈川駅前の権現山城の合戦を含む❝長尾景春の乱❞でした。
この長尾景春の乱については扇谷上杉家の家宰で名軍師の太田道灌公に鎮圧されています。
※長尾家については以前に祖先の居城横浜市栄区の長尾城を紹介した記事が有るので御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
横浜市栄区と鎌倉市大船にまたがる長尾城址…上杉謙信のルーツの城跡。
そして山内上杉家の対立勢力だった扇谷上杉家は上杉定正公が本拠地を伊勢原市糟屋館や藤沢市大庭城に置き、相模国~武蔵国南部の河越まで影響下に置いていました。
扇谷上杉家の家宰(かさい=社長)が太田道灌公や父上道真公の太田家で、オーナーCEOが扇谷上杉定正公でした。この扇谷上杉家、実は後に小田原北条氏に駆逐されるものの扇谷上杉定正公と太田道灌公の主従が没するまで戦上手の家柄で知られた家でした。
上杉禅秀の乱の頃までは扇谷上杉家は鎌倉公方(関東を統治する将軍)の足利持氏公を助けて山内上杉家と戦った家なのですが、当時は大庭城を本拠地にしていた扇谷上杉氏定公(定正公の祖父)は山内上杉家との合戦中に重傷を追い行動不能に成り所領の藤沢で切腹、鎌倉公方の足利持氏公も佐原三浦家の裏切りで背後を突かれ本拠地鎌倉を占拠されてしまった事で降伏を余儀(よぎ)無くされ、称名寺で出家しましたが結局は山内上杉家に襲撃され亡くなりました。
鎌倉市扇谷の海蔵寺は鎌倉公方の忠臣の扇谷上杉氏定公が造営した御寺で、現代ではとても風景の綺麗な若いカップルの鎌倉デートの散策コースとして人気に成っていたりします。
以前、海蔵寺や太田道灌公の屋敷跡の英勝寺を散歩した時の記事⤵
休日雑記 2016/06/15の訪問先…鎌倉市雪ノ下~小町通り~扇ヵ谷~佐助地区
この上杉禅秀の乱で扇谷上杉家は山内上杉家の影響下に下るのですが、後に足利持氏公の遺児の足利成氏公が室町幕府征夷大将軍によって鎌倉公方就任を認められ父の跡を継ぐと、足利成氏公は重臣の梁田等と謀議して父の仇の山内上杉憲忠や扇谷上杉家と対立色を強めて行きます。
そして勃発したのが❝江ノ島合戦❞でした。
※写真は江ノ島奥津宮、源頼朝公が奉納した鳥居。
この江ノ島合戦では宇都宮家・小山家・結城家・千葉家・小田家等の平安時代から存続する関東古豪が挙(こぞ)って足利成氏公に与力し間宮家が別当を務める江ノ島に籠城、上杉家を撃退して忠節を尽くし、更には当時の室町幕府管領の畠山持国公が鎌倉公方支援派だったので足利成氏公の派閥が幕府からも支援されたのですが、ここで関西を衰弱させた応仁の乱の戦犯である細川勝元に管領職に就任し大混乱に発展して行きます。
細川勝元は❝応仁の乱❞で近畿地方を荒廃させただけではなく、実はそれまでの幕府の方針を捻じ曲げ足利成氏公を冷遇し始め奸臣の山内上杉家を自分の影響下に置く事で鎌倉府の支配権までも己が手に入れようとしてしまします。これが❝応仁の乱❞だけではなく関西より少し早く戦国時代に突入した関東の混乱に拍車をかける事に成ります。
只でさえ足利成氏公と関東武士団からすれば山内上杉家は先代公方の足利持氏公を殺害した仇(かたき)な訳です。その殺したくて仕方が無い奴が権力欲の塊で室町幕府を混乱に陥れる細川勝元と結託して再び鎌倉公方を蔑(ないがし)ろにし実権を奪ってしまった訳です。
・・・そして事件が起こります。
大晦日も間近に迫った享徳三年(1454年)の12月末、足利成氏公は自邸に山内上杉憲忠を呼び出して暗殺して亡父足利持氏公の敵討ちをしてしまいます。
現在の西御門辺りに足利成氏公の邸宅が在ったと伝わります。
この事件が発端と成り山内上杉家と鎌倉公方足利成氏公の合戦は長期化し戦乱は享徳の乱と呼ばれる様に成りました。足利成氏公は非常に合で強かったので、この時は上杉連合軍を完膚なきまでに叩きのめしていますが、細川勝元の介入のせいで戦乱が長期化してしまった訳です。
さて、この享徳の乱では山内上杉家の味方に付いていた当時の扇谷上杉家の当主だった扇谷上杉顕房が敗死して、実弟の上杉定正公が跡を継ぎます。この扇谷上杉定正公は兄や父とは思考が異なり祖父で鎌倉公方家の忠臣だった扇谷上杉氏定公の思考に近い人物だった様で扇谷上杉家は方針転換し山内上杉家と再度対立する事に成って行きました。
この頃に扇谷上杉家が本拠地にしていたのが大庭城や糟屋館でした。
糟屋舘を紹介した時の記事⤵
【後篇】蟠龍山洞昌院公所寺:太田道灌公暗殺の一部始終。伊勢原市上粕屋。
扇谷上杉定正公には名軍師の太田道灌公がいましたが、この太田道灌公は上杉定正公とは違う外交方針の人物で定正公の兄上の先代当主顕房公の路線を踏襲して勝手に山内上杉家と扇谷上杉家を和睦を勧めてしましました。そして主君の定正公に居城の糟屋舘に呼び出され暗殺されてしまいます。
関東の戦国時代を通じて多目元忠公を上回る❝最高最強の無敗の軍師が太田道灌公❞で、その太田道灌公と御父上の太田道真公が改修したのが沼に浮かぶ堅城❝河越城❞でした。この河越城が起点として現在の川越市の発展の礎(いしずえ)に成っているのですが、付近は豊かな穀倉地帯と水運と陸運の拠点だった事から扇谷(おおぎがやつ)上杉家と山内(やまのうち)上杉家の対立の場が武蔵現在の立川市周辺だったり河越辺りだった訳です。
その頃、鎌倉公方の足利成氏公は結果的に幕府の後押しを受けた山内上杉家に鎌倉を占拠され、現在の古河市に移住して古河城を拠点に古河公方と成り、更に古河公方家は成氏公の孫同士が争い小弓公方足利義明派と北条家や今川家の支援する古河公方足利高基公派に分断し関東の混乱は治まる事は有りませんでした。
この混乱の中で古河公方足利高基公を支援し扇谷上杉家や山内上杉家の所領を浸食していったのが北条早雲こと伊勢盛時入道宗瑞公と北条氏綱公の親子、日本初の下克上戦国大名伊勢氏でした。
伊勢(北条)家は小田城を大森家から奪取すると続いて扇谷上杉家と佐原三浦家の糟屋舘や七沢城や岡崎城を陥落させます。この伊勢原市の岡崎城は扇谷上杉家から佐原三浦家に養子入りしていた三浦道寸公の居城で北条早雲公親子をもってしても攻略に10年を要した沼に囲まれた堅固な平山城でした。しかし岡崎城が陥落すると三浦家も扇谷上杉家の両家とも北条家によって瞬く間に相模国域から駆逐され大庭城、住吉城が失陥、新井城で日本最長の4年間に渡る籠城戦の末に佐原三浦家は滅亡。
扇谷上杉家も家臣の太田家かから奪っていた江戸城に本拠地を移すも、そこも北条家二代当主の北条氏綱公によって陥落させられ、更に河越城へ移るも北条家によって奪い取られ、山内上杉家を頼って武蔵国北部に逃げて行きました。
そして勃発したのが・・・
扇谷上杉家と和解した古河公方家と山内上杉家の大連合軍vs北条家の❝河越合戦❞でした。
1545年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。
その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
【北条家兵力】
・籠城部隊・・・3000
河越城主:大道寺盛昌公
白備隊大将:北条幻庵公
黄備隊大将:北条綱成公
・本隊援軍・・・8,000
本隊総大将:北条氏康公
【鎌倉公方・上杉家連合兵力】
・関東諸大名・・・80,000超
古河公方:足利晴氏公(北条氏綱公の娘婿)
関東管領:山内上杉憲政
松山城主:扇谷上杉朝定公
小田城主:小田政治公・・・他
・参戦武将:梁田晴助公・長野業正公・倉賀野行定公・太田資正公・難波田憲重公・菅谷貞次公等
・・・河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。 敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
この戦、兵力差だけでなく実は上杉陣営も足利晴氏公の家臣も可也(かなり)の名将揃いでして、参戦武将に列挙した武将達はどれもが武略と統率に優れていました。中でも群馬県の箕輪城主だった長野業正(なりまさ)公は単独で武田信玄の大軍を何回も撃退している軍事に秀でた武将でしたし、太田道灌公の子孫に当たる太田資正(すけまさ)公も謀略で城を奪い取ったり合戦にも高い能力を持つ武将でした。ですから、彼等が能力を発揮出来ない様にするには足利晴氏公、上杉憲政や上杉朝定公等を油断させ敵軍の統制と連携を断つ必要が有った訳です。
北条方の河越城守将は城主の大道寺盛昌公と小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。
この北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。
小机城址では毎年10月に竹林と成っている城址の竹を伐採して数千本の竹キャンドルで城を幻想的に照らし出す❝竹灯籠まつり❞が行われます。
以前竹灯籠まるりを紹介した記事⤵
2015年10月24日は小机城址 竹灯籠まつり 今年も開催されます!
北条氏康公は小田原城から出陣した当日、最初の宿泊を現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊に逗留し、その際に戦勝祈願をしています。
既に解説済みですが、この岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。小田原所領役帳に登場する鵠沼領主の❝岩本❞と言う武将は、この佐々木間宮一族の岩本間宮家でしょう。岩本坊は現代、上の写真の鳥居参道に在る老舗旅館の岩本楼として存続しています。
岩本楼サンのホームページ→http://www.iwamotoro.co.jp/
氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、河越城内の籠城兵と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。
そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけたと伝わります。この作戦立案者がもしかしたら多目元忠公だったかも知れませんね。
実際には戦闘は上杉憲政の軍勢が単独で北条氏康公の本隊に先に仕掛けて開始されている事が解っています。ですから、この氏康公の手勢の突出は恐らく上杉家本隊を突き崩す為の陽動作戦だったのでしょう。山内上杉憲政の軍勢の配置は南側ですが、当時は河越城の外郭が八幡曲輪までだっただろうと川越市教育委員会の某先生への取材でもおっしゃっていたので、その八幡曲輪の城門の前に陣取っていたのが上杉憲政治の部隊だった事が解ります。この山内上杉軍を城門前から北条氏康公が囮(おとり)と成り引きはがし・・・
それと同時に河越城から北条綱成公と副将の間宮康俊公の黄備え隊が出撃し、山内上杉家の手勢を背後から大混乱に陥れたのでしょう。そして氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。
この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公だった訳です。
敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、他の大名や与力武将との連携もままならず北条氏康公、綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅したと伝わります。この作戦を可能にしたのは北条氏康公と北条綱成公の高い武勇と統率だけなく、挟撃作戦を成功させる為には城内籠城部隊と本隊の連絡を保持する必要が有ります。これは北条幻庵公の管理下にいた風魔小太郎等の風魔忍者達が民間人や修験者に扮したり敵軍をかいくぐって城内に潜入を出来たからかも知れませんね。
そして北条幻庵公と多目元忠公の謀略と軍略も有ったから成功を見たのだと思います。
この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で・・・
・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。
・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。
・・・いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 北条氏康公は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていましたが、初期に氏康公の直面した難局を打開する軍事作戦を立案し合戦の指揮を代行していたのが多目元忠公と現代に伝承する訳です。 菩提寺は横浜市神奈川区三ツ沢公園近くの豊顕寺(ぶげんじ)です。多目家は地元では多米家と異なった漢字で苗字が伝わりますが、多米姓は三河国出身で遠江の大名遠州今川家との関わりが推測出来る一族です。
この続きは多目元忠公の御子孫らしき人物達の所領が低く抑えられている謎と一緒に紹介したいと思います。それまでに三ッ沢の豊顕寺サンも訪問して写真を撮影し、合わせて紹介出来たら良いなと考えています。
だから中1週間程ブログ更新の間隔が空く可能性も有りますが、御了承下さいね!
※昨年の写真、東京都羽村市根搦前水田のチューリップ祭り。
明日、東京都羽村市のチューリップ祭りを見に行くのでもしかしたら今年もその様子を報告する休日雑記を間に書くかも知れません。
・・・では!また皆さん、次の記事で御会いしましょう。