歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:文覚上人

※2020年新型肺炎対応による駐車場と海の家の営業状況等は各自治体に問合せ願います。

燈明堂海岸と浦賀燈明堂
千代ヶ崎砲台
 (江戸幕府海防陣所跡)

【水質】
【景色】
【電車】
 浦賀駅~バス6分+徒歩9分。
 徒歩で36分
【  車  】
 駐車可能台数極少。
【休憩】
 史跡の為に公共トイレのみ。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 海が抜群に奇麗だよ~◎

 縁結びの西叶神社東叶神社が近い◎
注意するpoint(•ω•)       
 海の家は無いよ~。
 三浦東岸で夕陽は見えないよ~。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
海はピカ一奇麗!子連れの親子が浜辺で遊ぶのに最適だが、過去に公設海水浴場としての実績は無い。
東京湾の入口に存在している為に海水が市街地化の影響を受けておらず透明、更に砂岩と粉砕された貝殻で出来た砂浜は真っ白で美しい。ボぉ~っとしてるだけで幸せになる場所。
海岸の名前の由来は江戸幕府によって灯台として建設された浦賀燈明堂に由来する。燈明堂はその後も明治時代初期まで稼働していた。
西側岩場にワカメやヒジキが自生している。
付近は戦国時代からの要所で浦賀港の対岸には戦国時代の浦賀城址が有り、燈明堂海岸には江戸幕府によって要塞化された千代ヶ崎台場が建設され、明治に成ると千代ヶ崎砲台に近代化改修された。立地と縄張り的に戦国時代にも名前の残らない城塞だったのかも知れない。
浦賀港には縁結びで有名な源頼朝公と文覚上人が開いた東叶神社と西叶神社が有り、両方の神社を浦賀港を渡し船で海を渡って御参りすると“縁結び”の御利益が有ると若者に人気。
東叶神社西叶神社と渡船のリンク⤵️
東叶神社の山が浦賀城址で、西側の燈明堂側には江戸幕府の浦賀奉行所が存在した。
燈明堂沖の海獺島(あしかじま)は徳川埋蔵金伝説が有り、沈没船に幕府の蓄財が満載されていたらしい。
海獺島の名前の由来は、海水の奇麗な一帯には明治時代まで海驢(あしか)が生息していた事に由来し一帯の海が自然豊かな漁場だった歴史も垣間見える。
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※燈明堂海岸
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※浦賀燈明堂跡
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千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
※千代ヵ崎砲台跡
穴場海岸の紹介一覧へ⤵️
mixiチェック

「自粛やぁ~めた!」
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・・・で、車で30分の近くの海に潮風に当たりに行って来た。
三ヶ月前から中国から情報共有されてたし、中国反省してからの対応は参考に成った。中国から3月初旬には大量の検査キットや医療用具の提供も有った。
そもそも武漢肺炎爆発感染開始直後に上海の医療先進チームが100人編成で武漢入りした際の装備の不備で全員感染し壊滅した事実も、外務省から厚生労働省に情報共有されなかったのかダイヤモンドプリンセスの検疫に活かされてもおらず、厚生労働省と政府の相談役の有識者は自分達の方法に拘り全て後手後手に回り、現場の職員は感染リスクにさらされた。
台湾のサーズの経験活かした中国からの感染者流入阻止と感染者隔離と防疫も、1月初頭から良い御手本に成っていたにも関わらず、それも模倣出来なかった。

全て無視して対応が3ヶ月遅れたのは政府の責任。三蜜回避要請も1ヵ月の約束だったはず。
自営業の連中はどんどん倒産してる。

「阿呆(アホ)らしい」

スーパーに親子連れで買物来てて、あれだけ過密してて皆で商品べたべた触って三蜜回避も外出自粛も無ぇ~よな?
伊勢佐木長者町や曙町の性風俗店は普通に営業黙認してるよな?
黒岩神奈川県知事、林文子市長?
なんで真面目な洋食屋さんや居酒屋がダメで、濃厚接触どころか直接粘膜擦れ合う淫靡な接触でヤクザの資金源で最凶最悪の性風俗店が営業してるのを実名公表しないんですかね?

あ~御二人とも性風俗の常連客なんでしょうか?

性風俗に事実上の自粛無用の営業公認する黒岩知事と林市長。
約束守らないし、国民の生活守らないし、日本企業守らない政府。
特によくいる実力不足だけど自己顕示欲が強い“苛めっ子優等生”タイプの西村大臣の大阪府知事に対するマウント。
くだらねぇ~なぁっ、エライさん方!
末端の公務員と県民の事考えてなさそうだ。

「だから自粛やぁ~めた(笑)!」
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うひゃ~♪
人のほとんどいない海って気持ち良ぃ~(笑)!

どこの会社にもいそうな有能な後輩を潰しにかかる無能上司みたいな西村ってオッサンにクサクサしても意味ないし、安倍総理も約束と違う“緊急事態宣言延長”とか言い出したから、もう自分なりにしていた三蜜回避の為の自粛の御願い聞くも止めて飲食店にも行く事にした♪
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うぉ~!焼き鳥美味ぇ~(笑)♪
※店は後で紹介する。もろ三蜜♡で食べる立ち食いの御店!

感染源特定出来ない状況にまで事態が悪化してるのに、外出自由の現状で外出自粛要請は意味が無い。
一番ダメなのは電車バス通勤を禁止しない事。
もう手と手、頭髪と頭髪で間接接触も直接接触もしまくり!

でも庶民の小生がそんな事を考えても政治家じゃないから仕方ないもんね(笑)。
身の回りにいる“男性のバブル世代や団塊世代”に言っても・・・
「政府より偉いと思ってるの?」
「自分が政治家に成れば?」
・・・とか、民主主義の「み」の字も自覚してない自分達が国家運営を委託する人間を決める国家運営に関わってる一員と言う自覚が丸出ない、無責任な発言しか聞かなかった。

てなわけで、なんかクサクサした気分を「パっと!」晴れやかにしたい気分に気持ちの良い青空、三密回避に山歩き行くには雨翌日の泥濘(ぬかるみ)で無理なので海に行ってきた・・・
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浦賀燈明堂(とうみょうどう)
これどこよ?と歴史に興味ない人は思うだろうけど、歴史的に重要な場所で有りメチャメチャ奇麗な場所。
写真の右上を見ると和風の建物が見えるだろうか?それが復元された江戸時代の“灯台”なんだな。
浦賀城周辺 久良岐のよし
実はそこ、江戸時代初期はおろか平安時代から重要視された浦賀港の入り口で、岩礁が有るので慶安元年(1648年)に江戸幕府の命令で築かれた日本最初期の灯台で、近代の明治五年(1872年)まで稼働していた施設なんだな。
そして戦国時代には三浦水軍の重要拠点として浦賀港の入口東側の東叶神社の丘陵が城塞化され、神奈川県では有名な浦賀城が築かれ東京湾防衛を担った。
北条家臣間宮一族で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた間宮宗甫公、そして平安以来の三浦郡領主の三浦氏の分家である横須賀氏が在番した水軍拠点の城だった。
城主の横須賀氏は元は鎌倉武士として源頼朝公の最大の協力者だった三浦義澄(よしずみ)公の支配した三浦一族の子孫で、三浦本家が滅亡して分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を次いで室町時代に大名に返り咲くと横須賀氏も重要視され、三浦氏の戦国大名として最後の武将と成った新井城主三浦義意(よしおき)公の母君が横須賀秀連公の御息女だったりする。
つまり、この横須賀秀連公が北条氏綱公が相模を統一した頃の横須賀の浦賀城主で、間宮宗甫公は横須賀氏の目付(副将兼監視役)的な意味で配置されたのだろう。
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間宮宗甫公の宗甫は名前では無く入道号であり仏門に出家した法名だ。
1560年迄の領地も“北条所領役帳”に記載が有る。
八貫五百文 神奈川斎藤分
六貫文   鎌倉紺屋分
弐捨貫文  御蔵出し
この鎌倉紺屋分と言うのは鎌倉を支配した本光院殿(北条為昌)の死後に、その遺領が再分配された当時の軍団編成が“本光院殿衆=鎌倉領”だったから所領役帳を写本した人物が誤認して“鎌倉”の注釈を入れたのだろう。
小机領、神奈川領と似た様な編成由来だと思われる。
そもそも現存しない原本には各所領の郡名は書き記してなかった筈で、証拠に別の写本とは郡名の違う場所が有る。
間宮本家の間宮康俊公の所領に富屋とあるが、これの郡名が各写本で異なる。今の坂戸市戸宮としている学者さんもいるが恐らく違う。間宮家所縁の神奈川区に実は富屋は今も存在する。実はJR東神奈川駅一帯がそもそも富屋町で、今はだいぶ狭い範囲になり安土桃山時代か江戸時代には既に神奈川の名の方が有名に成り江戸時代に写本した連中が神奈川区富屋=そもそもの神奈川宿周辺に戦国時代今より大きく広がっていた富屋町を辿る事が出来なかったので、同時期に検地された埼玉県方面の中に戸宮の名を見つけて当て込んでしまったんじゃないだろうか?
学者さんが根拠にしているのは、その検地された時期だけで、同時期に離れた富屋の検地がされていてもおかしくない。寧ろ京急神奈川駅一帯の権現山城の合戦に間宮家が籠城側として参戦してる事も富屋は神奈川区の富屋と考えた方が極々自然だったりする。
権現山合戦を書いた記事⤴️
紺屋の地名で他に間宮家に所縁の有る場所は鎌倉市には無いが旧本光院殿衆の与力所領は三浦には沢山ある。宗甫公は氏康公の直属に成る以前は或いは本光院殿衆だったのかも知れない。
三浦半島の東岸は西浦賀の他にも不入斗一帯が間宮本家の所領で、杉田の間宮家は走水で里見水軍を一網打尽にし里見の軍船を多数滷獲(ろかく:乗っ取る)に成功した際に不運にも間宮常信公が討死にしている。浦賀の紺屋を除いて走水防衛を担う出撃拠点が見当たらない。
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斎藤分町と言うのは六角橋商店街で有名な近所の一帯だな。小生は学生時代に交通違反点数累積の1ヵ月免停で違反者講習を受けに行ったのも六角橋の斎藤分町側だった(笑)。
ところで間宮宗甫の宗甫と言う法名だが・・・
戦国時代の北条家臣団は多くは主家北条家の宗旨が曹洞宗だった事から、一般的に当時は臨済宗と一緒に“禅宗”で一括りにされていた禅宗曹洞派の寺院で学問や禅の精神を学び、入道号に臨済宗大徳寺系の“宗〇”と大徳寺で修業した主家の創始者である北条早雲(実名:伊勢盛時 入道号:宗瑞)に倣(なら)って師僧から“宗”の字を貰って法名を名乗る事が多かった。
当然ながら地元の由緒ある臨済宗の御寺が菩提寺だったり自分の領地内に在ったりすると“道〇”と臨済宗系の法名を貰っている人も多くいた。
それ以外にも千葉家臣団系や武蔵国南部を拠点にした武士は日蓮宗系の“日〇”と名乗る武将も多かった。
面白い事に、北条家臣団は禅宗で学びながらそれぞれの菩提寺の宗旨でも法名を貰っていた様で、戒名には禅宗系と日蓮宗系のMIX戒名(笑)も多く見られる。
例えば間宮宗甫公の一世代後の間宮家の同族でも北条氏康公直臣として横浜市磯子区杉田一帯を治め小田原水尾城代を務めた間宮信繁公の戒名が「法種院殿“道因”“日縁”大居士」と臨済系の道〇と日蓮宗系の日〇の両方が入っている。
これは簡単に説明がつく。
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霊桐山 東漸寺(臨済宗関東十刹の1つ)

寺領の陣屋に臨済宗の関東の十大道場の一つである東漸寺が存在したので、そこで平素は禅の修行をしたから師僧から“道因”の入道号を与えられたのだろう。
そして“日縁”の法名は・・・
2015-01-21-13-16-37
牛頭山 妙法寺
・・・同じ杉田に存在する実家の菩提寺である妙法寺が日蓮宗だったので、亡くなった際に日蓮宗の法名も加えて戒名の法種院殿道因日縁大居士に成っている事が判る。
日蓮宗の多い千葉家臣団の遺臣の末裔である房総半島の武将達も間宮信繁公と同じ様に鎌倉時代以来の日蓮宗系の日〇+臨済宗系の道〇の法名を持つ武将が多いのも同じ理由。

室町時代を通じて北条家は浄土真宗と敵対する足利幕府の方針に従っていたので、足利義明の将軍就任以前は浄土真宗とは敵対していたので、先ず、安土桃山時代になるまで浄土真宗に帰依している武将はいなかった。
間宮家でも豊臣秀吉による北条家改易後に徳川家臣となった間宮綱信公が氷取沢の寶勝寺を禅宗から浄土真宗に復興開基したりしているのは、正にその理由で徳川家康公の重臣である本多正信公が近くの玉縄城主に成り影響を強く受けたからだろう。本多家が没落すると今度は自分の領地の荒寺を徳川家の宗旨の浄土宗に改宗して復興開基した所が多い。

東漸寺と妙法寺の紹介記事は以前書いているので、御興味有る方は御覧下さい。
これ⤵


鎌倉時代に話を戻す。
源頼朝公と文覚上人は真言宗の密教と山岳信仰の修験道としての修行に造詣が深く、伊勢原市の大山や富士山を登って富士山の火口を一周する修行をしたりしている。
現代の様な登山靴も衣類も何にも装備がない時代に・・・
鉄人すぎる。
それ以外に二人は法華経を大切にしていた様で、頼朝公の御廟所も法華堂だったりする。
その後。源頼朝公の死を境に衰退しする。その頃に成ると源頼朝公の忠臣だった熊谷直実公や土肥実平公は法華経と阿弥陀如来を大切にする法然上人に帰依して、二人はそれぞれ浄土宗の僧侶に成ったり浄土宗の寺院に仏像を寄贈したりと支援を行っているが、二人を含めた源家の忠臣は鎌倉幕府を牛耳った北条家に政治的に干される。
恐らく、鎌倉で法然上人と弟子の親鸞上人が北条家から迫害されたのは武士同士の信仰的な結束とか政治的な結び付きが直結したのだと思う。
鎌倉幕府の執権と成っていた北条家が京都の藤原氏と組むと、藤原家が影響を及ぼしていた天台宗系の禅宗臨済宗を北条家が導入し、旧頼朝公の古参遺臣派と親北条派の政治的衝突に巻き込まれ熊谷家や土肥家と関係の深い法然上人の浄土宗の寺院が鎌倉で焼討された時期が有ったのだろう。
その後、執権の北条家が導入した臨済宗に宗旨替えをする武士が多く成り、その武士達が支援した寺院も臨済宗が多く成った。
だから神奈川県域の街道沿いや海沿いの早くから開けた場所だった寺院は臨済宗や元臨済宗が多く、杉田間宮家が支配した屛風ヶ浦辺りにも篁修寺や林光寺と言った臨済宗寺院が残っている。
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鳳林山 篁修寺KIMG6145
晴峯山 林香寺この二ヶ寺は北条家分家の名越北条家の丸に三ッ鱗紋の家紋を今も寺紋として使用しており、東漸寺の末寺として開かれた歴史が有る。
丸に三ツ鱗紋
一帯を鎌倉時代まで支配していた名越北条家の北条宗長公が、天台宗だった東漸寺を建長寺の末寺として再興したので、東漸寺から北条家の三ッ鱗紋を引き継いだ事も解かる。
因みに東漸寺の方はと言うと・・・
CIMG6785徳川葵紋
徳川家から葵の紋の使用を許されているので、現代では名越北条家より権威の有る葵の紋を使用している(笑)。
現代では鎌倉五山の第五位に列せられている東日本で5番目の格式を持つ臨済宗の浄妙寺・・・
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実はここも元は真言宗の大寺院だった。
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浄妙寺は足利家の鎌倉幕府征夷大将軍の家臣時代の居宅地であり鎌倉の菩提寺で、室町幕府初代将軍足利尊氏公の御舎弟(弟)である足利直義公の菩提寺だったりする。

三浦半島の浦賀湊に話に戻す・・・

源頼朝公御存命の平安末期以来の在地武士は真言系宗派を信仰する一族が多かった。だから三浦一族の拠点には真言宗寺院や元真言宗の御寺が多い。一部、天台宗の寺院も現存したり元は天台宗だった場所も多い。
鎌倉時代の三浦本家の学問所だった大善寺。
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金峯山 不動院 大善寺
ここは奈良時代に行基大僧正によって不動明王と蔵王権現が祀られて寺院の前身が出来て、後に真言宗の寺となり衣笠山が平安末期に三浦一族の居城となり衣笠城内に組み込まれると三浦家の学問所として一時は大いに繁栄したそうだ。戦国時代に三浦半島が小田原城主北条氏綱公の勢力下に入ってからは曹洞宗寺院に改宗したが、曹洞宗に成ってからも護摩壇が御堂に残されており真言宗時代の御不動様の護摩焚きを現在も行っていたりする。
神奈川県域にも弘法大師つまり空海和尚が布教活動に来られていたので比較的天台宗より真言宗が平安時代末期までの関東では勢力が強かったようだ。又、頼朝公の源氏が熱心な密教的要素の強い修験道の信者だった事もあり、真言宗と天台宗が残る原因に成ったのかも知れない。
更に古い時代には関東一円には法相宗の寺院も有った様だ。
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梅花山 成就院(現在の寺号)
(開基当時:曲田山 帶行寺→改宗後:梅花山 南無佛院 成就坊)
又、三浦半島から横浜に話を戻すが、港南区笹下の間宮家の居城笹下城跡に在る成就院は、現在は浄土真宗高田派だが平安時代の早い時代には法相宗だった事が書かれていたりする。そして文覚上人が源頼朝公の戦勝祈願の護摩焚を行ったと新編武蔵風土記稿に書かれている事からも鎌倉時代の頼朝公の時代には文覚上人の真言宗に一時期属していた事が判る。
そして例によって頼朝公が暗殺されて後に荒廃し、後に親鸞上人が笹下に布教に来た時期に浄土真宗に改宗し蓮如上人によって曲田山帶行寺から浄土真宗の御坊(ごぼう)として“成就坊”に改められたと伝わる。

成就院も以前記事を書いているのでコレ⤴御興味有れば御覧ください。

因みに、さんざん登場した文覚上人・・・
源頼朝公と親友だった真言宗系の密教修験道の有名な“御坊様”だった文覚上人が開いたのが浦賀湊(みなと)の入口を守る東と西の叶神社だ。
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叶神社(西)
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叶神社(東)
この2社は実にロマンが有り、2社を隔てる浦賀港の渡船に乗って両方御参りすると縁結び祈願が成就すると言う。因(ちな)みに小生は未だ、船で御参りした事が無い。

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ここが渡船の乗り場で、海に治策見えているのが赤色の船が渡船。
機会が有ったら好きな女性を連れて来て一緒に御参りしようかしら(笑)?
この神社は西が先だ東が先だと下らない事を推論する“御朱印バカ”がいるが、そもそも開いた文覚上人が僧侶で今でこそ神社だがそもそも神社じゃない。
神仏混交の八幡宮として京都石清水八幡宮から勧進された八幡大菩薩=応神天皇=大鞆別命の御神霊を御祀りしている真言密教系修験の聖地だった訳だ。

国土交通省水管理保全局が判りやすいブログを書いてくれているので、それを見ると一目瞭然だと思う。
そもそも石清水八幡宮は湧水の聖地であり、眼下には江戸時代まで巨大な巨椋池と言う湖が広り淀川や宇治川と言う水害を起こす大河川が流れていたので治水の神様として、それらを見下ろす男山に神様が遷宮された訳だ。しかも修験道の聖地として、仏教の僧侶が得た神託によって筥崎宮から遷宮された。
そして古代から存在する神社である延喜式内社の沿岸部における立地はは湾の最深部、湾の入口を守る左右の丘や岬の先端に存在する。
 
それはコレ⤴今年の初春の頃に書いた上総国一之宮の玉前神社の記事を読んで頂ければ納得して貰えると思う。
叶神社の主祭神は石清水神社から勧進された応神天皇=八幡大菩薩で破魔の神様であり水上交通つまり航行と治水の神様であり仏様だ。それらの歴史事実を踏まえて再度、叶神社の位置関係を見ると・・・
浦賀城周辺 久良岐のよし
延喜式内社や本来の神様の役割を熟知されていた御二人らしい叶神社の配置である事が理解できる。
・・・だから叶神社は当初から軍港を鎮護する御神威を期待されて浦賀湊の入口、左右の高台に勧進された事が推測できる。
だから西が先だ東が先だ言ってる輩は、そもそもの‟石清水八幡宮の歴史や地形からして理解していない”訳だ。
どっちが先かと言われたら、恐らく同時に開かれたはずだ。そして東叶神社の方が歴史が浅いと誤認される理由は恐らく、佐原三浦家が室町時代に大名化して鎌倉公方足利持氏公の与力となり房総半島の犬懸上杉家と戦った事や、その後は足利持氏公と大庭城主の扇谷上杉氏定公を裏切って山内上杉家に付いたりと、房総半島方面の勢力に備える為に東叶神社の本殿なり本堂成りが元々在ったであろう裏山の頂上に浦賀城を築いた際に、参道の中腹まで神社が移し降ろされたんじゃなかろうかと小生は個人的に推測している。
それが証拠に城が築城されて北条家の統治下でも城の鎮守として奥院は山頂に祀られたままで現在に成っても頂上に奥院が残っている。
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石段の規模を見るに、もう少し大きい御社が当初は存在したんじゃないかと思う。
ここは東京湾と浦賀港を守る城だっただけあり眺望も良い。
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実はこの写真から見えている対岸の岬の先端の場所が、冒頭の潮風を浴びに行った燈明堂海岸だったりする。この写真を見れば、燈明堂海岸が正に灯台を築く必要性の高い地形だった事が判る。
・・・で、ここで・・・やぁ~っと!普通の休日雑記に戻る(笑)。
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はぁ~♪白い砂浜最高Da~Yo~ねぇ~(笑)!
三蜜?馬鹿じゃないの(笑)?
何で人のいる場所に態々(わざわざ)行くの?
外出自粛?何でスーパーに友達や家族で超濃厚接触しながら行くの?
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電車通勤しちゃダメじゃん!車通勤しなよ!
車通勤させない会社は在宅労働させろよな?従業員が感染したら経営者の責任だからな?
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めちゃくちゃ気持ちいィ~人の略いない海ィ~♡
もう、あとは自分の奥さんと二人だったら最高なのに(未婚)!
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泳いでる人が一人だけいた(笑)。
 
・・・とか思った瞬間に爽やかだけど少し御腹空いてきて移動しおうと思った。

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一応、これが復元された燈明堂。
周りに木が生い茂ってしまったので今は灯台の役割は果たせない。
この海岸の裏山は近代に浦賀造船所と横須賀鎮守府を守る砲台要塞が築かれた場所だったりする。
千代ヶ崎砲台跡 久良岐のよし
千代ヶ崎砲台跡保存状態は極めて良いものの、残念ながら現在は非公開で鉄錠門で封鎖され入れない。でも新型肺炎が終息したら横須賀市役所の公園管理してる部署に問い合わせれば、走水の御所ヶ崎砲台と同じで猿島ボランティアガイドの人が引率するツアーを組んで貰えるはず。
横須賀市長に成った上地雄輔クンの御父上、聞いた話だと浦賀奉行所も史跡として復興して神奈川県域の中高生の歴史教材に活用する計画とか。実に素晴らしい!
頑張ってくだされや~。
ところで小生、この千代ヶ崎砲台の地形を見て・・・
「あ~、これ城跡だわ」
・・・と速攻思いました。浦賀城と左右で港を守る名も無い要塞として戦国時代に整備されたんじゃないかな?と思ったんですが、御城ファンの皆さん、この構造体見てどう思います?
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さて、美しい燈明堂海岸で西村大臣の屑っぷりと加藤厚労大臣の対応遅れまくり無能ぶりにクサクサイライラしてた気持ちも横須賀だけに「スカっ!」と潮風で吹っ飛び(笑)・・・
自民党にはまだ河野防衛大臣や小野寺前防衛大臣やら、最近、総理に痺れを切らしたか覚醒されつつある岸田さん等の逸材がいる事を思い出し、何となく良い気分転換には成った。
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浜辺の草花も奇麗だったしね~♪
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本当、来て良かったよ。
東京も浜離宮恩賜庭園とか国立科学博物館付属自然教育園とか新宿御苑とか、今だからこそ開放して事前申請、2m以上離れて歩く事、ベンチに座らない事、とか規制かけて東京都民にガス抜きさせりゃ~良いんだ。
まぁ~我々庶民の声は自民党のド偉い、大阪府知事にマウントポジションとりたがる様な大臣先生様や10万円欲しい奴はくれてやるから手を挙げろよ的な感覚の富豪先生様には伝わらないだろう。
本当、今回は公明党の山口代表が良くぞガンっと言って下さったと思うよ。
さて、奇麗な海も見たし・・・
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次は浦賀港の対岸、東叶神社に正月以来の御参りに移動。
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東叶神社に到着、先に散々解説はしたからもう書かない(笑)。
本殿前で御参りしてから社務所奥の裏っ側に移動・・・
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実はこの弁天様が凄い厄除けの御利益が有って有名。
小生は毎年、年始の御参りで各神社で厄除けの御願いもするのだけど、今年は去年の受験した資格の合格の御願いばっかりして、余り厄除け熱心にお願いしなかったり、例年みたいに三賀日に沢山の神社仏閣を御参りして廻らなかった・・・
そしてら、1月に交通事故起こしたり、2月に右足首酷い捻挫して靭帯損傷して内出血するわ~、何回も風邪引いたり・・・
ん?あれ、もしかして東京に電車通勤してたから新型肺炎だったんだろうか?
でも一応、医者の言う通り4日間自宅待機して熱計測したら熱下がったし咳も出なかったしとか。
極め付きは今回の新型肺炎のせいで“失業するかも知れない(笑)”ピンチ(笑)!でもダメな時は何をやっても駄目なのよね~ん。
出来る事をやりながら、楽しまないとね♪
そんな訳で厄除けに東叶神社に今年2回目の御参りに来た。社務所で弁天様の厄除けの御守りを購入して、そんなこんな、今年の出来事を奥さんに話したら・・・
「あ~それじゃ是非!弁天様の矢倉の中に入って良いですから中で御参りして行って下さい」
「中に入って写真も撮影して良いですよ!」
「御利益ありますし、白い光も一緒に映るらしいですよ~」
・・・と、とっても親切に優しく明るく対応して下さった(笑)。
既に奥さんの対応が人の不幸にそっと寄り添いピンチを乗り越える為に元気に一歩踏み出す元気を下さる八幡様と弁天様みたいだ(笑)。
そんな訳で中に入らせて頂いて改めて参拝。
弁天信仰の歴史も少し知ってる小生、この頭が女神様胴体が蛇の神様を見てピンと来た・・・
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「あ~正しい弁天信仰の歴史がある」
「頼朝さんの頃から湧水の聖地だったんだな」
「だから、ここに八幡大菩薩が勧進されて今の叶神社が存在するんだな」
・・・実は現在は稲荷神社と呼ばれるところに祀られる神様の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が、元はこの女性の顔に蛇の胴体の神様だったんだな。関東での弁天信仰の流行は、欽明天皇の勅願所聖地だった江ノ島の洞窟の中に祀られている宇迦之御魂神に弁天様を同一視して習合し、それまで建物の無かった江ノ島に神社の建物を奉納して八臂弁財天様を御祀りした事で東日本武士文化の弁天信仰が湧水の聖地を守っていたり洞窟の中に祀られたこの蛇の女神様=弁天様=インドのサラスバティ神と同一視されて行った訳だ。
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江ノ島も海の中の島の洞窟に奇跡的に淡水の湧水の池が有る。
この池の御蔭で鎌倉公方足利成氏公が家臣の山内上杉家と扇谷上杉家に謀反され攻められた際に江ノ島を城塞化して相模国と北関東の武将の援軍を得て籠城し、豊富な水と堅固な地形を利用して両上杉家を撃退した歴史が有る。
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正に戦勝祈願の聖地な訳だ。
頼朝公は、この江ノ島の岩屋(洞窟)に籠って戦勝祈願をし、伊勢平氏の平清盛の一族に打ち勝って鎌倉幕府を開いた。
だから今も頼朝公が鎌倉武士団に広めた弁天信仰の聖地の江ノ島の洞窟にも蛇の女神様の石の御神像が有るし、鎌倉扇ヶ谷の海蔵寺の横井戸の中にも蛇の頭の神様が祀られているし・・・
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宇賀福神社

銭洗い辯財天も湧水のある洞窟に祀られ、そもそも神社の名前が宇賀神に由来していたりする。
そんな訳で、浦賀の港を守る東叶神社には海の直ぐ目の前なのに奇跡的に飲用できる井戸水が有ったり、勝海舟さんがその井戸水で断食して体を清めてから咸臨丸に乗ってアメリカに行ったりしてる。
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叶神社の奥さんの御蔭でありがたい弁天様=宇迦之御魂神様に御参りする事が出来た。
残念ながら小生には白いオーブは見えなかったけど。
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でも暗い洞窟から見える入口の光と緑がとても奇麗で気持ちよかった!
弁天様ありがとうございます~♪
東叶神社を後にして、海沿いを走水方面に車を走らせて観音崎の多々良浜にも海を見に行った。
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もう陽が西側に回り三浦半島東岸の海辺には光が届かない時間だったので少し散歩して走水神社にお参りに移動した。
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こちらも御正月から既に今年3回目の参拝だろうか?
一応、怪我したりしても無事に再度御参り来れた事を感謝し、今の世界中で蔓延してる新型肺炎が集束する様に御神威を発揮して頂き日本人と世界の日本の友邦の人々と善良な人々を助けて下さるように御願いして来た。
御腹すいたし、そう言えば暫く横須賀の若松町の激安の焼き鳥屋、相模屋に行ってないなぁ~・・・
と思い、昼食兼夕食を相模屋で焼鳥食いまくりする事にした。

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やきとり相模屋
ここはメチャクチャ安くて何本でも安心して食べられる(笑)!
そしてシステムが面白い。
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店内でも食べられるのだけど地元民は御酒飲まない時は外で食べる。
この写真の焼鳥の調理場が外のテイクアウト窓口として店側面に空いているのだが、その陳列された焼きたてアツウマの焼鳥を立ち食い出来るのだ。
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1本80円均一。食べた櫛を前のカップに入れる。会計の時には櫛を持っていくと本数で勘定してくれるシステム。政府の30万円給付みたいに意味の分からん官僚オナニーなシステムと違い明瞭会計だ!
民を支配する又は国を運営し法律を定め尚且つ民の支持を得る為には法律やスローガンは解り易く実効性の高い物にしないといけないのは、既に紀元前300年頃に漢帝国を打ち立てた劉邦が秦の帝都の咸陽を陥落させた際に証明している事。
そして民草を優先順位で重視しないとイザと言う時に協力してもらえないし、普段から大切にして約束を守っていれば相手が強大な大軍勢でも庶民が殿様を助ける為に武装蜂起して駆け付けてくれるのは、既に500年前に神奈川県小田原城主の北条家が証明した事。

三蜜回避や経済の回し方どうするかは、もう感度も悪いし対応も3ヵ月遅れでしかやらないノロマな政治家に任せないで、我々庶民が自主判断自己責任でやれば良いんじゃないのかな?
ただ、大阪府知事と北海道知事サンの言う事は聞いていて酷い事にはならなそうね。
自民党の中のマトモな議員と吉村知事と鈴木知事等で、頓珍漢な事を安倍首相にさせ続ける奸賊佞臣をブッ潰して欲しいなと思う週半ばの休日でした。





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間宮家臣荒井家、中世には荒井家単独で鎌倉幕府征夷大将軍と室町幕府鎌倉公方の崇敬を集めた瀬戸神社の琵琶島弁才天の二重橋の架橋を許され、それを建築奉納出来る家格と財力を誇った鎌倉~室町時代の荒井家の幻の城址❝荒尾城❞は金沢文庫駅~六浦上行寺裏の浄願寺跡~権現山~御伊勢山全域が城址と思われます!
横浜市が開発利権の為に存在を認めたがらない“荒尾城跡”と推測出来る地形が金沢区六浦に存在するのを小生は藪漕ぎして突き止めました。 
入口は横浜市金沢区六浦の六浦山上行寺を目印にすると良いです。
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六浦山 上行寺この御寺の前まで昭和初期まで海が広がっており鎌倉の外港の六浦湊(みなと)として機能し、平安時代末期~鎌倉時代初期までは坂東武者として武勇名高い千葉家の船着き場で大檀那は当時は千葉家臣だった富木(とき)家でした。
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なので本堂の前には船を繋いだ松の跡が日蓮上人の史跡として記念碑が建てられ語り継がれています。
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平安時代から存続し鎌倉時代~室町時代初期にかけて非常に栄えた寺院ですので、鎌倉文化らしい矢倉が境内や周辺の山中や隣接地の廃寺跡の“スシロー”駐車場等に多く存在しています。
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ここの境内には“旧六浦文化研究所”が在り、横浜市域に置ける中世文化保護の拠点として近年まで機能していました。現在、その役割は神奈川県立金沢文庫に引き継がれています。
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この上行寺の背後には“城マニア”が歩くとどっからどう見ても“山城”な人工地形で溢れ返っているのですが、横浜市は城として話題にすら上げません。その城址と尾根続きの尾根の前には、やはり横浜市が開発利権の為に消滅させた“浄願寺跡”が存在した。
上行寺東遺跡
(※遺跡と言うのは嘘で、横浜市が破壊容認した六浦山浄願寺跡の巨大プラスチック製レプリカ)CIMG6416
この浄願寺は源頼朝公と頼朝公の親友だった真言宗の高僧文覚上人が一緒に開いたとても格の高い寺院で、鎌倉時代末期には京都は仁和寺の僧侶で徒然草の筆者として有名な兼好法師こと吉田兼好も滞在した場所でした。
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当時は浄願寺跡のマンションの丘の眼前に広がる平地は六浦の港、兼好法師が日々眺めた風景は、さぞ綺麗な風景だった事でしょう。
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これらの事実が浄願寺の後継寺院で金沢区町屋に存在する龍華寺に伝承しているのにも関わらず浄願寺跡の上行寺東遺跡は約30年前に横浜市と某建設会社と某大手不動産会社によってライオンズヒル金沢八景が建設され消滅させられました。
この遺跡は東大歴史編纂所の故:山中裕教授等の多数の著名な歴史学者が保護を訴えたのにもかかわらず横浜市は消滅させました。
そして時代は下って34年後、小生はその背後に荒尾城址と思われる地形を発見した訳ですが、恐らく以前からも多くの城マニアや日蓮宗信徒の方や千葉家臣団や三浦水軍に興味の有る人は御存知の方もいた筈です。
上行寺には日蓮宗に改宗する切っ掛けと成った日蓮上人(以下日蓮和尚御存命当時の尊称の上人を用います)の有名な船問答の伝承が有ります。日蓮上人と同じ船に乗船した千葉家臣の富木胤継公が当時は真言宗だった上行寺を管理していたのですが、その見識と法話に感銘を受けて同寺への滞在を請い、そのまま改宗したそうです。
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本牧山 妙香寺・・・国家君が代、吹奏楽、テニスの発祥地
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
国家❝君が代❞の発祥地である横浜市中区本牧の妙香寺も前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた東海寺と言う真言宗寺院でしたが、やはり日蓮上人の滞在が有り、当時の地頭の佐藤家が檀那だったので感銘を受けた佐藤家によって日蓮宗に改宗した歴史が有ります。恐らく、この妙香寺の本牧の丘のふもとに当時あった蒔田湾の港から船で金沢六浦まで移動したのでしょう。これが船中問答の発端に成った筈です。後に富木胤継公は出家し、日蓮宗の大本山、中山法華経寺の初代住職と成っています。
そして戦国武将で関東最強の北条綱成公の付家老で北条家相模十四騎筆頭だった間宮康俊公率いる間宮家の武将に荒井家がおり、その荒井家の祖先が六浦湊の上行寺を支援し杉田湊に妙法寺を開いた日荷(にちか)上人の俗名が❝荒井平二郎光吉❞でした。
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牛頭山 妙法寺
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
荒井家は恐らくは三浦一族の新井氏と同族で鎌倉時代、宝治合戦が起きるまでは三浦市三崎町油壷の新井城にいた一族の末でしょう。荒井と新井は両方とも水軍に長けた一族でした。
三浦本家が滅んだ際に佐原三浦家と供に北条家に臣従したのかも知れませんね。北条家宗家の領国には駿河国が有りましたが、実は和田合戦や宝治合戦で三浦一族と戦った北条家は三浦一族を自分の国で細々と家臣化させて生き長らえさせてた節があり、朝比奈や三浦や由比と言った三浦一族の姓を持つ武将が戦国時代まで存続しています・・・
磯子区杉田の妙法寺近くの杉田八幡宮の別当を代々継承したのが三浦家で、油壷の新井家は三浦一族と伝承します。そして妙法寺の開基は日荷上人であり大檀那は現在も荒井家です。そして江戸時代に荒井家を家臣としていた杉田間宮家の御廟所も未だに杉田妙法寺に存在しています。
荒井と新井は恐らく同族な訳ですが、更に荒井平次郎光吉公は平次郎の名を持つので歴史常識を照らし合わせれば平氏の人間であり、三浦家は平氏の一族です。
この日荷上人は出家前に鎌倉幕府の北条家の武将だったと伝わりますが、鎌倉幕府は1333年に滅亡しています。出家の時に師僧と成られたのは中山法華経寺の第三世住職だった日祐上人だったそうです。
この日祐上人ですが、後醍醐天皇により❝建武の新政❞が行われた建武四年(1337年)に日祐上人が六浦の荒井邸に滞在した事が“如来滅後五五百歳始勧心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)”と言う日蓮上人の遺産の写本から証明されているそうです。
・・・つまり、鎌倉幕府消滅の4年後に六浦に住んでいる旧北条家臣で荒尾城主だった荒井光吉公は、恐らくは北条宗家の北条高時公の旧家臣では無く、場所柄を考慮すると六波羅探題として関西を統治する役目を担った金沢(かねさわ)北条家の北条貞将公の旧家臣だったのでしょう。日荷上人は武士を辞してからは水軍を活かして廻船商人に転身していた様です。
この金澤北条家で一番有名な・・・と言うか、鎌倉時代最大の文化人として有名な北条実時公が邸宅の隣に日本初の私設図書館を開き、これが後の金澤文庫の地名由来と成り、邸宅が後に子孫によって稱名寺として寺院化されています。
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金澤山 彌勒院 稱名寺つまり、鎌倉幕府滅亡後に荒井光吉公は商人と成り、恐らく上行寺と同様に旧主金沢北条家の菩提寺として稱名寺を守りながら、その御縁で仁王門の仁王像を譲り受ける“賭け”に勝ち、身延山まで輸送し奉納したのでしょう。この仁王像、背中に担いで運んだと伝承が有りますが、まぁ~それは物理的に無理でしょうから人力で運んだ事の比喩が伝わっているんでしょう。
そんな自然信仰マニアの源頼朝公や仏教の偉人の文覚上人や日蓮上人や富木胤継入道日常上人や荒井光吉入道日荷が関わり宗教的にも大切な六浦の土地が宗教的な聖地な訳ですが、その地形は鎌倉の玄関口と成る金沢六浦湊を守るに適した地形に在ります。・・・ハッキリ言って城。
荒井光吉公が武士だった時代は鎌倉の玄関口としての六浦港を守る城だったんでしょう、そして領主は荒井光吉公、荒井光吉公の守備した城は荒尾城、と成れば御伊勢山~権現山~笠森稲荷~浄願寺跡の山が荒尾城だったと考えるのが自然です。
金沢区能見台~赤井稲荷~能見堂~釜利谷東の丘に存在した青ヶ台城(本来なら青野台城と呼ぶべき)の方が金沢北条家最後の居城として有名だったので、文献にも登場しない荒尾城は歴史家から着目されなかったのかも知れません。
青ヶ台城遺構の残るのが能見堂跡で、これは景勝地として江戸時代初期まで有名だった場所です。
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青ヶ台城址(能見堂跡~能見台森~釜利谷緑地)
※太字の城址名をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。

話を上行寺裏の権現山に戻します・・・
城マニアの小生が見ると浄願寺跡~権現山~稲荷山地形はどっからどう見ても衣笠城や青ヶ台城と似ている鎌倉時代の山城なんですよ。
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戦後の横浜市は開発利権に忖度して隠蔽しようとしたのかは解りませんが議論される事はありませんでした。てか、横浜市は城址の発掘調査に城郭専門家入れない事ばかりなんですよ(笑)。
それでも20年前に城郭専門家ではない先生達は自然と文化財の密集する重要区域として保護を訴える形で“金沢八景御伊勢山・権現山周辺文化財調査報告書”を纏め上げて下さったので、小生達は横浜市立中央図書館に行けば調査報告書を読む事が出来ます。
これ等の先生方の偉業、小生が後世に伝えずして何の歴史オタクだろうか・・・
小生は只の行く先々の綺麗な風景と史跡と郷土料理を愛する食いしん坊な歴史オタクだ。
・・・と言うのが今回の記事の投稿の発端に成りました。小生の実名など世に知られず、金にも成らず、現世に生きる小生の手柄に成らなくて良いですよ(笑)♪ 
上行寺~権現山周辺地形 久良岐のよし
地形図で見ても竪堀や堀切が見える程!
城郭研究で権威ある人物による調査支援を求む!
てな具合で、先ずは昨日撮影して来た写真を並べてみたいと思います。
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この階段が上行寺東遺跡の跡地(浄願寺跡)への入口ですが、恐らく浄願寺も大手口の要塞として機能していたの思います。
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その直ぐ先にはクランクした切通し状の地形が有りますが、この地形は上行寺の御住職様に確認した所、昔から存在する道を拡張したもので以前からクランクしていたそうです。
・・・食い違い虎口ですね。
先に進むと階段が在り、そこに小さな御社が在ります。
その御社の反対側には浄願寺跡に向かって供養塔が在ります。
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恐らく、この平場は近年の削平ですが、この台地も昔は曲輪の一つだったと思います。
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下に降りるとさっきの食違いの場所。
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そこから西に向かって伸びる上行寺の墓地は帯曲輪状に成っており上行寺の境内まで続くので、どうやら上行寺も虎口だった様です。つまり寺であり虎口の防塁として期待された配置だった様です。
もしかしたら浄願寺も源頼朝公が聖地霊場としての意味と、六浦湊を守る権現山の要塞の大手口を守る機能も合わせて開いた御寺だったのかも知れませんね。
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先に進むと林道は藪化していますが、今の時期なら蚊も蛇もいないので藪漕ぎしながら安心して歩けます。
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人工的に切り残された岩盤が台地状に成っており、横をすり抜ける順路でしか先に進めないのでこの岩場も曲輪の名残りだと思います。
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山裾は全て海蝕岸壁と言う訳ではなくと、下には上行寺始め谷戸構えの寺院が存在し、おのずと鎌倉時代の裾切り山城に見られる城壁と化しています。
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ここは左右の崖地が前後より尾根より竪堀状に抉(えぐ)れていました。
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そしてココは明らかに尾根を断ち切り敵の侵入を防ぐ堀切地形で引き橋が架かっていたと推測出来ます。同様の構造は衣笠城にも有ります。三浦半島の観音崎多々良浜は三浦一族多々良家の所領で観音崎灯台や近代要塞へと続く尾根道も同じような裾切りされた細い尾根に加工されています。
金沢北条氏の初期の邸宅跡の稱名寺を囲む谷戸の稲荷山は金沢城と推定されており、やはり同じ地形に人工的に加工されています。
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ここは権現山方面に伸びる尾根ですが、やはりこの箱状地形を巻く様に道が付けられており、ここも曲輪だった事が推測出来ます。
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・・・落ちたら死ぬyo~♪
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竪堀状地形の尾根の抉れだったかな?
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まぁ、明らかに連郭式山城ですかね。
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権現山の頂上。ここから上行寺~御伊勢山~笠森稲荷側に分岐します。
ここは以前からの削平地で現代の削平では無いので、城址の重要な曲輪で恐らく本丸か二の丸の様な役割を担っていた場所だろうと思います。鎌倉幕府が終焉を迎えて荒井家が守備を放棄した後、小栗判官と照手姫伝説の頃には盗賊の拠点と成っていた熊野権現の御堂が有った事が解る記述が万里集九の書いた梅花無尽蔵に掲載されています。
神奈川県立金沢文庫の学芸員さんの論文によるとそんな景勝地の権現山に万里集九禅師も鎌倉観光のついでか遊覧に来て以下の漢文で詩を残しているそうだ・・・
題名:入武蔵
同日有山曰権現堂(山有りて権現堂と曰(い)う) 
即相武両道之界(すなわち相(相模国)武(武蔵国)の境界である)
古云群盗所聚也
今則不然也
蓋昔有堂歟
駅樹風声入武州
山名権現憩無楼
旅衣未脱昏鴉尽
聊借民爐嘗濁蒭
・・・これは万里集九禅師が金沢区一帯に伝わる小栗判官と照手姫の伝説の一説の舞台として当時は権現堂と言う盗賊の巣窟に成っていた御堂が有ったのですが、万里集九禅師が生きていた戦国時代初期には既に無くて云々と同地を訪問した際に一般人と話している様子を詩にしている訳です。
そこに「権現堂」の名と「相武両道之界」と説名が有り、六浦は正に相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境だったので、この一文が権現山の地名由来の説明とも成る訳です。
権現山~笠森稲荷~東照宮跡に向かう方の尾根。
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先にズンズン進みます。
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ここ!
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帯曲輪状の地形と竪堀だと思う。
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そしてココは東照宮跡方面と、もう一つ北側の横浜市大が在る尾根との谷間。大空堀状に成っている。
恐らく緩やかな傾斜だった場所を掘り下げ拡張して空堀にしていると思う。
ここから権現山に戻り反対側の御伊勢山方面へ・・・
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ここも尾根の先の方から来る敵を迎撃する構造に山が切り残されていた。
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道幅も狭く残雪で少し危険かな。
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そこを抜けると普通に山道に戻る。
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御伊勢山から見える多分、長生寺方面を見た風景。
まぁ、写真に撮り損ねた平場なんかも沢山有って山城好きな人が見たら完全に城なんだよね。
そして、江戸時代の六浦藩米倉家が金沢八景駅と笠森稲荷の辺りに陣屋を置いたのも、有事の際に要害性の高いと言うか城としての機能を手入れすれば使えそうな荒尾城址が権現山だったからだろう。
まぁ~小生一人の意見では何とも説得力が低いので、城ファンに援軍を請う訳だ。

歴代無教養系市長と横浜市教育委員会の城址破壊と自然公園破壊容認の悪事に抗い後世に自然と歴史の遺産を残す為、日本文化を愛する純潔日本人と親日外国人と富裕層と能力と見識の有る人々が蜂起して、力を貸して欲しい!

・・・本日、素人歴史オタクの小生のお散歩(調査)♪では同地の地形山々は全てが人工的に裾切りされた切岸、大きな竪堀が穿たれ、尾根には堀切、夥(おびただ)しい帯曲輪群、そして自然地形を裾切りし拡張大空堀が現存した。
そして新たに中世山城の荒尾城址として城郭ファンに知れ渡る事を期待する。
古代人や歴史偉人が守った横浜市域の古代からの自然崇拝の聖地と貴重な蛍の大生息地の水源と城址文化と歴史・・・
後世に残す為に城郭オタクと専門家、自然風景愛好家、蛍保護活動家の支援を求む!
目下横浜市長によって消滅の危機に瀕している円海山瀬上沢の蛍大生息地と、城址としての歴史を認めない今回の荒尾城、続日本100名城に選定された上で横浜市史跡認定が未だ行われない小机城、これらの場所が史跡認定されたり自然保護区域認定され、東急等の不動産会社の日本文化と宗教と歴史と自然環境軽視の開発利権から守り通せる様に我々横浜市民が守れと騒いでる場所へ援軍と成るリアクションを起こして欲しい!

_以下少しドロドロした市と開発業者への文句_

五十猛命、日本武尊、弟橘姫様、大伴久応黒主公、笠原直使主公、善無畏三蔵法師様、弘法大師空海和尚様、平高望王、平良文公、菅原景行公、菅原淳茂公、源義家公、久良木三郎通継公、源頼朝公、遠藤盛遠入道文覚上人様、和田義盛公、佐々木高綱公、多田行綱公、平子有長公、今井兼平公、佐々木泰綱公、金沢北条実時公、名越北条宗長公、見真大師親鸞和尚様、立正大師日蓮和尚様、富木胤継入道常修院日常上人様、覚山尼様、金沢北条貞顕公、金沢北条貞将公、守邦親王様、権僧都長円親王様、用堂女王様、荒井平次朗吉光入道日荷上人様、宅間上杉重兼公、宅間上杉憲清公、宅間上杉憲直公、万里集九禅師様、太田道灌公、蒔田吉良成高公、間宮信冬公、北条氏綱公、間宮信盛公、多目元忠公、間宮信元公、間宮常信公、笠原信為公、蒔田吉良頼康公、宅間上杉房成公、笠原政尭公、中田加賀守公、臼居久胤公、臼居杢右衛門公、中田鶴野姫様、宅間上杉富朝公、北条綱成公、間宮康俊公、間宮綱信公、北条氏繁公、間宮康信公、宅間上杉規富公、板部岡江雪斎公、石巻康保公、間宮信繁公、間宮於久様、間宮於継様、天秀尼様、間宮直元公、本願寺良如上人様、間宮忠次公、間宮士信公、任蓮社然誉了鑑和尚様、歌川広重先生、山岡鉄舟公、お龍さん、ジョン・ウィリアム・フェントン先生、ウィリアム・コープランド翁、伊藤博文公、大山巌公、渋沢栄一公、渡辺忠右衛門翁、浅野総一郎翁、原三渓翁、フランツ・エッケルト先生、有吉忠一公、渡辺はま子女史、島津忠秀公、柳家小さん師匠、中澤忠雄先生、桂歌丸師匠(笑)・・・
古代から中世の人々が守り伝え江戸時代の人々が保護し明治の元勲と聖商達が文化自然保護と開発を両立して大事にし近現代の文化人が語り継いで来た文化と史跡と貴重な自然と古代の聖地が、これ以上横浜から無文化市長と教育委員会と悪徳建築不動産関連企業に消されません様に・・・
多くの歴史と自然と日本宗教を愛する義士が蜂起し悪事を暴き出し拡散し、未調査、未自然保護区指定、未史跡指定の場所が市指定文化財や自然保護区域指定を受けられます様に・・・

そして、呪詛と言う訳では無いが…
歴史と日本文化と日本古来の宗教と聖地と自然を軽視し神奈川の事を調べもせずに無碍に開発を勧める企業担当者と経営者、それを容認する一部の教育委員会職員の中と一部の歴代市長と政治家に神様仏様とマリア様とキリストの神仏の罰が直撃し改心を促して下さいます様に。
・・・ん?呪詛だこれ(笑)。

まぁ~天罰神罰と言うのはオカルトな話だけでは無くて自分の心の中から湧き上がって来て抑えられなく成る物だ。それが失敗や動揺や判断ミスや病気を起こすもんだから逃げる事は出来ないわな。
困った時だけ厄払いしたとて何の役に立つものか(笑)。
仏教的に言えば利己的な邪(よこしま)な心が邪な物と不浄な物を呼び込むわけだ。
神道的に言えば普段から茅の輪も掲げず潜らずのままでも、忌むべき事が起きた後じゃ既に災難起きてるわな(笑)。普段から氏神様と土地神様と皇祖神に御挨拶して日々の生活を感謝してこそ、御先祖様や土地神様や諸々の神様が守ってくれるってもんだわな。

仮に遺跡や宗教聖地や自然を破壊した後で「ごめんなさい」と言っても取り返しがつかないが、日本古来の宗教でも「普段の行いから変えないと何にも変わらん」し「天罰食らった後で神様に御免なさいは既に不幸のどん底」なのだよ。
変えないとダメだし、データや心でモヤモヤ駄目だと感じたら停めてかいぜんする勇気も必要なのさ。
これね・・・宗教じゃないけどトヨタ生産管理方式でも同じ事言ってるよ。
目先の欲望や体面の維持は長期的には大損こくんです!

江戸時代まで法華衆にカテゴライズされた浄土宗や浄土真宗や時宗は「南無阿弥陀仏」、日蓮宗系宗派の「南無妙法蓮華経」と唱えるのだって、悪事を悔いて反省して以後に念仏を唱えて善行を積むと言う考え方だわな。善行積まずに許される訳ゃ無ぇ~わな。
徳と言えば江戸時代には禅宗の臨済派と曹洞派とカテゴライズされた哲学だって禅問答を重視するか座禅その物を重視するかの差は有れど、普段の生活の「積徳積善」を大事にせぇ~よって考え方だわな。

そんなん神様仏様怒るような事しといて何の反省も無く改心も行動も無ければ神様も怒るわな!
浄願寺をぶっ壊した東急リバブルと同系列の東急不動産が横浜市最大の蛍生息地で水源の円海山の瀬上沢の自然環境を破壊して宅地開発しようとし、それを林文子市長が容認する発言をして栄区民と港南区民と磯子区民が怒り狂ってるわな!
仏教で前科に寛容で反省を促す宗派だって「やった後で御免なさいってのは反省して改心して日々の生活で善行を積んでナンボの物」だからな。
・・・オマエ等、上行寺東遺跡破壊から何も進歩してねぇ~じゃね~か!
現実に言い換えれば酒飲んで飲酒運転して警察に捕まってから「ゴメンなさい反省してます」は意味が無いわな。
東横神社の御祭神、渋沢栄一公は神道無念流の剣術の達人で元武士だったから、伊藤博文公や東郷平八郎元帥と同じく土地開発にも古来の自然信仰や文化や史跡に配慮してたんだぜ?
それを知らない今の東急グループの不動産と開発関連企業の経営陣な・・・
アンタ等、自分の会社の神様からも天罰食らうよ?
御地蔵様の姿した閻魔様や、道祖神様や土地の古代豪族の氏神様が至る所で日本文化と貴重な自然環境破壊をジッと見ているよ~。多分ね。
菅原道真公を左遷した藤原時平の一族郎党が天満大自在天神様と宇多天皇の御霊を怒らせてどんな目に遭った事か…
・・・祟りってな、身分上下関係無く、やった本人の家族にまで降りかかるんだぜ?心の中に自分のやった事で不安が沸き起こり健康と精神のバランス狂って仕事で重大なミスしたり事故起こしたり退職後に死ぬの恐怖してボケと病気の進行が早く成ったりな。
ほれ、三井不動産レジデンシャルの傾きマンション見て見な?

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