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タグ:日本武尊

杉山神社(延喜式内社・武蔵国六之宮・横浜市唯一の式内社)
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  御祭神・御本尊等:五十猛命(いそたけるのみこと)・大日孁命(おおひるめのむちのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大田命(おおたのみこと)  
  御利益:腫瘍治癒・皮膚病治癒・戦勝・海外渡航安全・地鎮・産業発展。
  関係者:
  開基:出雲神族の御神孫(笠原氏か?)
  中興:忌部 宿禰 勝麻呂(いんべのすくね かつまろ)公
  旧郡名:都筑郡
  所在地:横浜市西八朔・・・罰佐久の神話の地名が転訛した場所
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
主祭神に五十猛命を頂き、嘗ては産土神(うぶすながみ)=土地を開拓した神様として武蔵国一圓から参拝者が多かった神社。五十建命や父神の素戔嗚尊は疱瘡(皮膚疾患)や疫病(感染症)を治して下さる神様として古来信仰されて来た。
この神社周辺には和邇氏=丸子氏、大伴氏、弟橘姫の神話や古代豪族の土地が近在する。この神社の神は出雲神系の神様で、関東最古の大社格である埼玉県久喜市の鷲宮神社も出雲神族が土地を開発したと伝承する。神社の在る西八朔の八朔は古代に罰佐久と書かれたとされ、佐久=信州出身の出雲神族が開拓した土地で其処を朝廷に懲罰で召し上げられた事を示唆する地名由来でもある。
史実として❝武蔵国造(むさしくにつくりのみやつこ)の乱❞では出雲神族の笠原一族が武蔵国を治めていたが同族間抗争に古代大和朝廷が介入して和解させ、武蔵国と相模国の国境沿いである久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡が朝廷直轄地として没収された歴史が有る。都筑郡の成立がこの後で有り、横見郡の稲荷山古墳からは雄略天皇と思われる獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)の銘が刻まれた鉄剣が出土している事から雄略天皇が武蔵国造の乱に軍事介入し和解させ懲罰的に相武国境を非武装地帯として召し上げ、そこに都筑郡を設置したと推測すると相模国域の神社に雄略天皇が開いた場所が多い事とも歴史的に整合性が出て来る。つまり杉山神社を開いたのは古代大和朝廷に土地を献上した笠原一族だった可能性が推測出来る。それを裏付ける様に都筑郡の西八朔杉山神社近郷のセンター南の茅ヶ崎城址周辺には大塚歳勝土遺跡等の古代の大環濠集落や方形周溝墓や横穴式墳墓が多数発掘されており早くから開発の進んだ土地だった事が解かる。更に茅ヶ崎城かの正覚寺は開基年代未詳ながら境内に神奈川県東部と東京都南部に多い大鷲神社(おおとりじんじゃ)が境内社として存在し、鷲=和邇氏との関連性も有る。隣の橘樹郡の郡衙が在った橘樹神社は倭建(ヤマトタケル)の妻の弟橘姫(オトタチバナヒメ)の遺品を埋蔵した古墳を背後に擁いているが、この弟橘姫は佐賀牟国造(横浜・川崎・東京都・埼玉県域の国主)だった穂積忍山宿禰(ほずみのおしやまのすくね)の姫だったと伝承する。つまり相模国成立以前の話しだが、大磯町の相模国二之宮川勾神社にもやはり相模国成立以前の磯長国(しながこく:西湘・伊豆・静岡県東部を併せた地域)の国造(国主)だった大鷲臣と共に穂積忍山宿禰が川勾神社を支援した伝書が伝わっている。その大鷲臣の氏神の大鷲神社と穂積氏=鈴木氏の氏神の師岡熊野神社が近郷に存在する事から杉山神社の成立が日本武尊が東征した弥生時代末期~古墳文化草創期に当たる事が解かる。
そして日本武尊は后の弟橘姫と暮らした行在所の在った三浦半島横須賀市走水で須賀社を祀っている事から出雲神族の素戔嗚尊を水神として信奉した歴史事実も有る。日本武尊の与力が水軍の大伴部氏で大伴久応黒主は日本武尊を神奈川区六角橋と横須賀市走水で接待したと伝承が残りいずれも沿岸部で古代も海だった地域であるが、六角橋近くの港北区大曾根地区に穂積氏の所縁(ゆかり)深い師岡熊野神社が現存し古来天皇家の勅願霊場として熊野権現信仰の舞台に成っていたので橘樹郡が弟橘姫と穂積忍山宿禰に所縁深く日本武尊の時代にも開けていた事が解かる。文章に罰佐久の字が登場して文献考古学的に存在を立証できるのは1200年前までだが、杉山神社の伝承と周辺の延喜式内社や神話をリンクさせると弥生時代末期~古墳時代初期の成立である事が解かる。
いずれにしても旧都筑郡だけでなく横浜市内唯一の延喜式内社であり埼玉県東京都川崎市横浜市を併せた地域で第六番目の地位を得ていた由緒ある神社で有ると言える。
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石楯尾神社(延喜式内社・日本武尊の鉄壁無双の楯)
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  御祭神・御本尊等:
  石楯尾大神(いわたておおかみ)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・坂上石楯公・守良親王・他・・・
  御利益:厄避け・敵人懲服・戦勝祈願・学問上達・立身出世
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:崇神天皇
     応神天皇
     文徳天皇
     中衛将監  坂上 石楯 公
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 氏政 公
     神祇管領  卜部家(京都市吉田神社宮司家)
  旧郡名:高座郡
  所在地:相模原市緑区名倉の相模川沿いの丘の上
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊が装備していた天磐楯(あまのいわたて)=石楯尾大神を御祀りしたのが石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)の始まり。天磐楯が地下に埋蔵され神社が成立したとされ中央線の開削工事で破壊された烏帽子岩が聖地として近年まで鎮座していた。そこに応神天皇が東国へ行幸された際に行在所(あんざいしょ=仮御所)が建てられた場所が現在の神社の所在地と伝わる。
奈良時代には逆臣藤原仲麻呂を討伐した名将の坂上石楯(さかのうえのいわたて)公が当地に居館を構えていた。早くに朝廷から官位を賜り国家鎮護の神社として大切にされて歴代天皇に古代~近代に及び崇敬された。源頼朝公からも大鳥居を七基寄進された古社だが、武田信玄が三増峠合戦前の小田原城攻撃で進軍して来た際に武田軍に因(よ)る略奪で戦火に遭い古代からの社宝は消失した。この合戦については武田信玄の重臣高坂昌信が主君の行為を「何も得る物も無く身内もボロボロに成った」と酷評する程に武田軍は苦戦したが、その後の武田家の家運は御存知の通り一族ことごとく滅亡した。
日本武尊の災難を度々守った天磐楯を御神体として始まった神社だけ有り、八方除けの一之宮寒川神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。又、社殿を破壊した武田家を滅亡させ一族絶滅させた御神威、武田家による社殿破壊以前に石楯尾神社を保護した北条家が豊臣秀吉に改易されても北条家の一族と家臣団を生存させ多くの北条家家臣団を徳川幕府奉行職や学者として大成させた御利益は群を抜いている。
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走水神社(式外社・社殿地下に日本武尊の遺品の石棺を埋蔵)
奥宮(須賀社・神明社・諏訪社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の行在所跡)
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  御祭神・御本尊等:
  日本武尊(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)・大伴黒主(久應)
  社殿の下に日本武尊の遺品の入った石棺が埋蔵され御神体とされる。
  御利益:縁結び・夫婦円満・交通安全・海外渡航安全・戦勝祈願・漁業豊漁・料理上達・立身出世
  関係者:
  開基:日本武尊と弟橘姫の夫婦神・大伴黒主(久應)
  中興:東郷平八郎 公
     乃木希典 公
     伊東祐亨 公
     上村彦之丞 公
     高崎正風 公
     井上良馨 公
     藤井茂太 公
  旧郡名:御浦郡
  所在地:走水神社・・・横須賀市走水の漁港の目の前の丘の中腹
  所在地:御所ヶ崎砲台跡・・・日本武尊と弟橘姫の仮御所跡の聖地に作られた明治時代の砲台跡の史跡
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊と弟橘媛様の御一行が数日間滞在した場所に建てらた神社で神聖な場所。 
日本武尊達が房総半島へ渡る際に、こちらの走水神社の前の海の左側にある御所ヶ崎に数日間滞在していました。その事から同地は御所ヶ崎と呼ばれている。 
現代でも、この走水神社の前で神話の通り国道16号も東京湾をつっきって千葉県で国道16号が突然復活する。
大伴黒主(別名:久応)様は日本武尊達を歓待した地元の豪族で漁民で料理人。横浜市神奈川区六角橋の宝秀寺は大伴久応の邸址と伝わり、そこに日本武尊が滞在した伝承が有る。走水神社の伝承では大伴黒主は日本武尊を接待した後に請われて後に古代大和朝廷の料理長に成ったそうだが、日本神話では日本武尊は岐阜県と滋賀県の県境に在る伊吹山辺りの神(豪族)に帰路を阻まれ三重県の鈴鹿辺りで病没している。 史実としては大伴一族は水軍を率いて天皇家の御林軍も率いた一族なので、神話とも整合性が有る。
日本武尊と弟橘姫の仮御所だった走水海岸の御所ヶ崎周辺からの眺望は素晴らしく、海に突き出し昔は島だったであろう御所ヶ崎と地続きの丘の上から見る三浦半島の海岸線の先には富士山に夕日が沈む姿が見られ、正に乙姫伝説の海の中の竜宮城の形容に相応しい。
御所ヶ崎の社殿は砲台建設時に明治政府によって接収され破壊された。御分霊だけ明治の元勲の中の信仰心厚い面々によって奥宮に保護合祀されたが古代の仮御所の史跡は永遠に失われた。
日本武尊と、御妃様の弟橘姫様が仲睦まじい御夫婦の神様だった事と、更には走水神社の社伝で料理達者であったであろう大伴久応黒主様の家系は親衛隊や水軍の将を務めた歴史事実、東郷平八郎元帥達、対馬海戦でロシア帝国の大軍勢を撃破した名将達の崇敬した神社としての実績も有ったりする場所なので戦勝祈願の聖地として紹介しても過言では無い事、それら全ての御利益に預かれる場所である訳です。
※社殿を御参りするだけでなく、背後の鎮守の山に在る奥宮を御参りして下さい。そちらが日本武尊の時代の社殿跡と伝わり、日本武尊所縁の三柱の神様の祠(ほこら)が存在しています。
※御所ヶ崎は現在は御所ヶ崎砲台史跡と成っていて一般非公開。見学には横須賀市の公園管理課へ事前予約が必要です。
※近くには走水海岸や観音崎といった海水浴場、観音崎灯台もあり綺麗な風景を楽しめる観光地が多くあります。走水海岸には「やまに」と言う旅館や「かねよ食堂」といった地魚料理の有名な店もあり、観音崎にも料理が評判の京急観音崎ホテルが在ります。初詣に合わせて宿泊し、周辺の猿島や横須賀見物をするのも良いです。
※東郷元帥がバルチック艦隊を撃破した際の旗艦:戦艦三笠も走水神社から車で15分程の汐入地区に公開展示されています。
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橘樹神社(式外社・幕末の山岡鉄舟も参詣した日本武尊と弟橘姫夫婦神最強の縁結び)
子母口富士見台古墳(弟橘姫御陵)
橘樹郡官衙遺跡群
         
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  御祭神・御本尊等:
  弟橘姫と日本武尊の夫婦神
  御利益:縁結び・夫婦円満・交通安全(陸・海)・海外渡航安全・戦勝祈願・立身出世
  関係者:
  開基:弟橘姫(背後の住宅地の丘が弟橘姫の遺品を埋葬した大円墳跡)
  中興:徳川幕府浪士組取締役 山岡鉄舟(本名:鉄太郎)
     ※浪士組は新選組の前身組織。山岡鉄舟は明治政府でも活躍
  旧郡名:橘樹郡
  所在地:橘樹神社・・・川崎市高津区子母口、古代の矢倉沢往還と中原街道が通過する丘
  所在地:弟橘姫御陵と郡衙遺跡・・・橘樹神社真後ろの住宅街の丘北側
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊の軍隊が走水神社の在(あ)る場所から東京湾の海を越えて千葉に渡る際に、海が荒れて航行不能な事態に陥り、その危機を治めるべく弟橘媛様は自ら東京湾に入水する事で人柱になり海を鎮(しず)めた。 
その際に当時は海面が現代より高く、遺品の髪飾りが流れ着いたのが古代海に面していた高津区子母口で、橘樹神社で背後の円い丘の住宅街は弟橘媛様の大規模な円墳の跡。神奈川県教育委員会が保護も開発事前調査も怠った為に大部分が宅地開発されて破壊されてしまった。
因みに弟橘媛様の衣類が流れ着いたのが千葉県袖ヶ浦市や富津市(元は布津と書いた)で、日本武尊が弟橘媛様を思い出し嘆いた場所が君津市(君はもう帰らないんだねと悲しんだ港)。
背後の宅地に弟橘姫様の古墳の頭頂部の一部だけが公園として保存されて現存する。神社は、その古墳の最高部に向かって築かれている。恐らく、古代は背後の古墳そのものが御神体で、神社は遥拝所だったのだろう。弟橘姫の御陵周辺に古代から港を抱え栄えた村が広がっていた。
考古学的に境内地周辺一帯は橘樹郡の郡衙だったと推測されていたが 、2018年度、弟橘姫御陵の北側の橘樹郡官衙遺跡が発掘され川崎市初の国指定史跡と成った。
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久應山 攝取院 寶秀寺(日本武尊の滞在した六角橋地名由来の聖地)
塩舐め地蔵(神大寺廃寺参道址) 

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  御祭神・御本尊等:阿弥陀如来・大伴久應供(黒主)養墳墓・塩嘗地蔵尊
  御利益:料理上達・立身出世・交通安全(陸・海)
  関係者:
  開基:大伴久應(黒主)
     日本武尊
  中興:秀蓮社清譽達道上人
  旧郡名:橘樹郡
  所在地:神奈川区神大寺地区の耕地近く六角橋
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
六角橋地名由来に成った聖地が後に寺院化した場所。ここに居館を構えていた大伴久應(走水神社社伝では大伴黒主)が日本武尊を自邸に招き歓待したとされる。その際に日本武尊が使用した箸が六角形で以後、宝とされ伝わっていたので六角橋の地名由来と成ったとする説がある。日本武尊の伯母の倭姫が日本武尊に与力として協力させた大伴部氏の拠点の一つだったと推測出来て、大伴部、大伴と呼ばれた氏族は神話でも日本武尊に叔母で元伊勢神宮(丹波国)の斎王だった倭姫から与力として大伴軍団と草薙の劔を貸与されている記載が有り走水神社と宝秀寺の神話とも整合している。
史実から推測すると当時の六角橋付近は湾が入り込み軍港だったのだろう。
宝秀寺の入口には大伴久應の供養碑と土饅頭(小型円墳)が有るが後世の供養塔替わりの物だろう。
宝秀寺の近くに塩嘗地蔵があり実はこの塩舐め地蔵前の住宅街の小道が古代の街道であり神大寺と言う大寺院の参道址だった。神大寺は寺名からするに前身寺院が神道的な聖地だった事が推測され、微高地に存在するのでこちらは元々は日本武尊か大伴久應を祀った神宮寺だったろう事が推測出来る。
戦国時代には塩嘗地蔵~寶秀寺~六角橋中学校の丘は神大寺跡と呼ばれ太田道灌公が小机城攻略の際に通った事から道灌森とも呼ばれている。
塩嘗地蔵は昔から疱瘡(ほうそう)=皮膚病治癒の御利益が有るとされ大切にされて来たが、疱瘡治癒の御利益が有る神様は五十猛や素戔嗚尊を御祭神とする場合が多く宝秀寺と関係が深い日本武尊は走水で海上交通の神である須賀神社を信奉して素戔嗚尊を祀っていた。
実は古代の神奈川区域は“店屋(てんや)”と呼ばれ橘樹郡衙(ぐんが=郡の政庁)と久良岐郡衙を繋ぐ中継拠点だったと推定されている。新編武蔵風土記稿にも江戸時代に現在の神奈川区三枚町(旧:三枚橋村)に天屋(てんや)=店屋の地名が残っており古代の駅伝制の名残と紹介されている。実際、橘樹郡衙だった橘樹神社~久良岐郡衙跡と推測されている横浜市南区の弘明寺の中間地点に当たるのが六角橋を中心とした地域で、六角橋商店街は旧綱島街道に当たり、その先には古代から聖地だった師岡熊野神社が存在する。
何にせよ神話に残る人物が直接関わり、大将軍を神格化した様な日本武尊に料理を提供して接待した接待奉行で料理奉行で水軍の武将の大伴久應が神格化された聖地の歴史を祀る寺院なので料理上達や立身出世の強い御利益が期待できる上に、海上交通交通安全の御利益も期待出来る。皮肉な話だが、近くには免停食らった人間を改心させる為に集める神奈川県警の交通安全センターが在ったりする。
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五社神社(式外社・浩宮殿下も御参詣された日本武尊の聖地)
日本武尊の腰掛石(日本武尊東征のおり腰掛休息した聖跡)
尾の池(古代~近世迄雨乞い神事等が行われた湧水の聖池)
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  御祭神・御本尊等:日本武尊・天照皇大神・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・天津比古比瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほおでみのみこと)・鵜草茸不合尊(うがやふきあえずのみこと)・倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・須佐之男命(すさのおのみこと)          
  御利益:交通安全(陸・海)・農業豊穣・子宝・子孫繁栄
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:渋谷荘領主 渋谷 重国 公 以下渋谷一族
     西大寺長老 浄覚 大徳宣瑜和尚
     (天台密教や真言律宗を学んだ高僧)
     征夷大将軍 徳川 家光 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:綾瀬市早川、古代の矢倉沢往還~中原街道~古東海道のバイパス沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
平成30年時点の皇太子浩宮殿下も歴史が御好きで神奈川県の岡崎城址や玉縄城址を調査されにいらしてらっしゃるが、この五社神社にも歴史調査の一環として来訪された程に神話伝承と歴史に整合性が有る由緒正しい神社。神社の前身の聖地としての始まりは景行天皇の皇子、日本武尊が東征の際に榊(さかき)を植樹し地神五代を祀り五頭宮(ごずのみや=牛頭の宮)として信仰の場を開いたのが始まりと伝わる。後に浄覚大徳 宣瑜和尚が社殿を再建し、地元民から五社宮(ごしゃのみや)との呼称で崇敬される様に成った。明治の軍人、東郷平八郎元帥の御先祖で御当地の渋谷荘領主だった早川城主渋谷重国公に代表される鎌倉時代の渋谷一族から崇敬され五社神社宛ての文書も現存する。近隣に日本武尊東征の兵站陣城址と思しき国指定史跡の神崎遺跡が有り、出土物は神話と整合するように弥生時代の東海地方の影響を受けた土器ばかり出土している。日本武尊は伯母で伊勢神宮の恐らく斎王だった倭姫から兵や草薙剣を貸与されているので東海地方の文化を持ち込める軍団を率いれる人物は神格化された日本武尊を置いて他にいないと考えられ納得が行く。
神崎遺跡が兵站と考えられるのは人が定住した痕跡が無く住人埋葬の痕跡が無い事から、あくまで❝城砦❞であり❝輸送基地❞としての機能しか考えられないからだ。或いは日本武尊が屯田兵を率いていたとすると日本武尊と同時代に世界初の屯田兵制度を発明した三国志の後漢丞相で魏公の曹操の技術が日本で直ちに導入されていた事が解かり、卑弥呼と魏の繋がりが垣間見える。となると日本武尊の伯母に当たる倭姫の正体が卑弥呼で有る事も見えて来る。又、この付近は古代の東海道である矢倉沢往還から鎌倉郡に抜ける古代街道だったと思われる県道406号線沿いに神崎遺跡や五社神社が存在し、日本武尊が開いた兵站基地が神崎遺跡だとするとそこから古墳時代~奈良時代の店屋(てんや=中継基地)に発展して行った可能性も有る。神崎遺跡は地形的にも舌状丘陵の先端に位置し、周辺は湿地帯だったので軍事的に❝城❞を築城する立地として神崎遺跡は最適であり、その城が守る街道が五社神社の前を通る県道406号線なのが解る。この406号線の先の秋葉台で分岐し旧高座郡大庭御厨(おおばのみくりや)に発展した大庭神社から海沿い甘縄神社側から葛原岡に抜ける道と、飯田牧場や小栗判官と照手姫伝説の花應院前の間道を通過し遊行寺直下に至り旧鎌倉郡村岡城址方面へ抜け鎌倉玉縄城址を通過し鎌倉市山崎へ抜けるのが2本の鎌倉郡衙へ通じるバイパスだったのだろう。鎌倉郡衙の先で逗子住吉城址の切通しを通過し三浦半島走水神社の前から船で海路房総半島へ通じるのが古代東海道だった。
古代の東海道は今の東名高速に近い御殿場市側を通る矢倉沢往還側から鎌倉辺りで海側に出るルートだったが、平安時代に御殿場市側の古代東海道が富士山の噴火による火山灰堆積や土石流で長い間廃道に成り、今の東海道の箱根越え~横浜市の旧鎌倉郡~旧久良岐郡を通過する道の原形が開拓された。
この箱根峠越えルートを開拓したのがどうやら状況的に“金太郎”や“坂田金時”のモデルの古代豪族である下毛野氏で一族に下毛野公時(しもつけのきんとき)がおり、金太郎伝説の箱根金時山の麓に公時神社も有る。下毛野朝臣は京で宮仕えした武将もいるが本来は栃木の古代豪族なので一族は山岳道の開拓に適しており下毛野公時公の近親者が箱根峠越えルートを開削し源頼光(みなもとのよりみつ)公の箱根峠越えの道先案内を勤め下毛野公時公が源頼光公に仕える御縁が出来たとするば伝承地理歴史の全てに整合性が高い。坂田の苗字に成るのは大江山の鬼(渡来系民族の反乱)を鎮圧した功績で近江国坂田郡を与えられたのだろう。
何にしても日本武尊の時代の東海道は今の国道1号線とは大幅に違うルートで、矢倉沢往還~寒田神社付近~八菅山七所権現付近~有鹿神社本宮付近~五社神社~県道406号~神崎遺跡を経由するルートが国土交通省関東地方整備局の古東海道推定部分とも限り無く重なり合うのが事実だったりする。
近郷の早川城址公園は平安時代末期に渋谷家の居城が築かれた場所だが縄文時代からの遺跡でもあり、五社神社の周辺が古代から人の定着した重要な地域だった事が解かる。
境内の裏手には明治の宗教改革が行われる以前、古代から近世まで湧水地を聖地化した雨乞い等の神事が行われた❝尾の池❞も現存している。
境内には❝日本武尊の腰掛石❞が在るが、日本武尊が滞在した聖跡が神社化した場所には他にも腰掛石が有るので弥生時代~古墳時代への転換期に当たる頃は、鎌倉時代~戦国時代の武将の様な床机(しょうぎ=折りたたみ椅子)の様な便利な物はまだ開発されていなかった当時の文明も判る。金属で釘やビスの様な物を作り出す技術がまだまだ普及して無かった時代なので当然ながらヒンジなんぞ作れれず折りたたみ椅子なんてのは当時の皇族将軍である日本武尊も目にした事も無かっただろう。この日本武尊の時代の神格化された豪族武将達が手にしていたのは中国から輸入した鉄剣やそれを元に青銅で鋳造した物が将軍級の物部(もののふ=武士)の武具で、甲冑も皮鎧、楯も木製革張りの物だっただろう。金属製の甲冑や刀剣の製造が本格化するのは古墳時代に入って以後の事、なので大将軍たる日本武尊も金属で釘やヒンジを作る技術が無かった時代にはパイプ椅子に座る事も出来なかったので手頃な岩に腰をかけ、配下の大伴家や吉備家の豪族武将達と軍議をしたのだろう。
そう考えれば古来の神社建築が釘を用いないのはそもそも釘が無かった時代の神話の縄文~弥生の米蔵=高床式倉庫=高倉=高座の建築様式が有力者の宮殿化した頃の文化を継承した証拠だとも言えなくもない。伊勢原市に存在する延喜式内社の高部屋神社の2016年に国指定文化財に成った社殿を見学させて頂くと、内側から見た屋根の構造などは本当に古代の竪穴式住居を彷彿とさせる。
この五社神社と周辺遺跡と古代街道と歴史背景は斯くの如く整合性が高い。
江戸時代には徳川家光公から13石の社領を保護する朱印を賜わっている。
近くに渋谷家の早川城址城山公園、高座豚手作りハム綾瀬本店、牧場が直営するソフトクリーム販売所のカナサシファーム、神崎遺跡等が有り、ちょっとした散策ルートにも適している。
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七所権現 八菅神社(行基大僧正も関わった修験道大霊場跡で日本武尊の聖地) 
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  御祭神・御本尊等:日本武尊・国常立命・伊弉諾尊・伊弉冉尊・誉田別命・金山毘古命・大己貴命・天忍穂耳命  
  御利益:戦勝祈願・交通安全(陸・海)・治水・地鎮・子孫繁栄
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:修験者   役  小角(えんのおづの)
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     征夷大将軍 足利 尊氏 公
     鎌倉府公方 足利 持氏 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公 
  旧郡名:愛甲郡
  所在地:愛甲郡愛川町の八菅山全山が七所権現の聖地で修験道の大霊場
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊が東征の際に愛川町中津坂本地区から八菅山を見た所、蛇の形をしている事に気が付いたので蛇形山と呼ばれる様に成り、その後、修験者で古代豪族の賀茂氏出身の役小角が日本武尊の聖地として日本武尊に加えて六柱の神を祀り修行をした所奇跡が起こり神座の菅の菰(こも)から八本の根が生えたので八菅山七所権現の名前が定着した。丹沢山系を八菅山から大山阿夫利神社山頂本社の石山権現まで修行して廻り、後に京都の八幡市男山に在る修験道の聖地だった石清水八幡宮まで廻るのが東日本の修験道の重要な聖地巡礼の修行だった。現在でも山の峰々に神仏習合の修験道時代の堂塔の名残が地名に残り、明治政府の神仏分離令の宗教改革まで源頼朝公、足利尊氏公、足利持氏公、徳川家康公等が僧坊や社殿を多く寄進し最大時には別当寺だった光勝寺を含め50を越える僧院社殿が存在する神道・仏教・修験道の一大聖地だった。
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寒田神社(延喜式内社・日本武尊が神事を行った聖地)
寒田神社のカシ(神奈川の名木100選)
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  御祭神・御本尊等:
  倭建命(やまとたけるのみこと)・弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)  
  御利益:交通安全(陸・海)・海外渡航安全・宇宙旅行安全・勝負運
  関係者:
  開基:倭建(日本武尊)
  中興:大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     征夷大将軍 徳川 家光 公
     米海軍大佐 ジョン ハーシェル グレン氏(NASAの初代宇宙飛行士)
  旧郡名:足柄上郡
  所在地:松田惣領町の日本武尊の神事の伝承の有る酒匂川沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
日本武尊が滞在し神事を行った神社。日本武尊の腰掛石も現存する。
神社としての最初の社殿造営年代が仁徳天皇の時、西暦315年と伝わる古社。
伝承では神社造営以前に日本武尊が東征の際、この地に在った集落に滞在し、木製の御椀に注いだ酒を寒田神社の前を流れる川に撒いて神事を行ったのが聖地としての由来。その後、日本武尊が戦後に戻るとまだ御椀に酒の香が残っていた事から現在神社の前を流れる川の名前が酒匂川に成ったとされる。この神話を証明する様に、社宝の欅白木で作られている大小一対(いっつい)の御椀が現存し考古学的に弥生時代の形状をしている。
その歴史と日本武尊の武運に肖(あやか)る為に多くの武士が崇敬したが、源頼朝公や徳川家光公から社領を寄進されている。しかし江戸時代初期の酒匂川の氾濫で境内地と社領が広範囲に被害を受けて縮小し現在に至るものの、今でも寒田神社の境内は普通の神社と比較してかなり広大な規模を維持している。
後に日本武尊の御妃、弟橘姫様の御分霊も勧進された事から夫婦神となり縁結びの御利益も授かれる神社でもある。アメリカ最初の宇宙飛行士と成ったジョン・グレン氏も宇宙飛行前に寒田神社を参詣し、日本武尊の海外渡航の御利益に預かって地球圏外の旅から無事に帰還した歴史が有る
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⬆️
一昨日の事件のニュース記事リンク。
楽しい旅行中の乗客は凍りついたろうな。

本当、酒の上なら許されるとか思い込んでる法治主義のカケラも理解出来て無い奴は、んなもん・・・
法の世界じゃ非常識な反社会的思考者なだけだわ!日本の恥。酒飲んで暴れる韓国人留学生集団と変わらん。
三國志じゃ張飛が酒で度々失敗し、最後も酔ってパワハラ指示部下に出して寝首掻かれて死んどる。
日本神話でも八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)は八塩折之酒で酔わせてから素戔嗚命が首を切り落とし殺し、熊襲長が倭建命に酔った所を暗殺され、酒天童子も源頼光公が八幡大菩薩応神天皇の御神霊から授かった神変奇特酒で酔わされてから寝首を掻かれ討伐されている。
酒は“万人之敵=万夫不当”つまり一騎当千を超えた一騎当万の名将軍張飛の判断力も奪い、日本神話の豪傑や荒神や鬼神すらも酩酊意識混濁させ、そしてそれらの全ての命を奪い去る道具に成った。
だ~か~ら~!
仏教では明治以前までは酒を禁じていたし、禅寺の入口には「酒の匂いさせて境内に入るなクソが」って意味の「不許葷酒入山門」がどこも有るんだよな。
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関東屈指の堅城、八王子の滝山城址に在る少林寺は北条氏照公が先立った奥方様の菩提寺として開いた御寺だが、やはりこの石柱が境内地入口に在る。
「不許葷酒入山門」
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
小生は基本的に大社格の某神社の宮司家一族の末裔だが、仏教の倫理観は大いに賛成だ。
まぁ小生も清めの御神酒は神事の時に神社で有り難く頂くよ、後は遠方から親友が来た時かJazz聞きに行ったら少しは飲むが基本的に車移動だから飲まないし酒は祖先も失敗してるから飲まないし父が酒飲むと他人の悪口を言うので飲みたく無いし、酒の席にも居たくない。
多くの神話の化物や歴史偉人が命を落とした酒、それでも「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う輩がいる。何の自信だコラ?
いくら飲んでも全く酔わない小生でも飲まない酒を、酩酊したくて飲む奴はクズだ、最初から倫理観が欠如している。
「おい、オマエは張飛以上の豪傑かヤマタノオロチより酒強いんか?」
・・・「俺は大丈夫」「酒の席の事はチャラ」と言う思考の人間は弁護士や警官の知り合いに言わせると民事なり刑事なり少なからず法律に抵触する事をやりながら生活してるパターンの奴が多いそうだ。
最近、法律的な事に詳しい友人から色々話を聞く機会が有って非常に面白かったので酒乱の行動パターンを列挙してみる。
確かに当てはまるんだなコレが(笑)!
①業務中の不正・・・社内規定や法で定められた事項を違反する、労働時間申告の粉飾、休憩時間をとった時間を申告しない、業務をエスケープしてサボる、部下への管理責任違反やアルハラ等。
②不倫・・・まぁ民事だから相手か自分か自分の家族が不幸せに成る。必ず人生が狂う人間が出る。
③脱税・・・関係無い領収書を利用したり架空の経費計上するカス、年金保険料の滞納又は虚偽申告による軽減や免除詐欺。健康保険の不正還付詐欺。
④程度の酷い道交法違反・・・故意の車線変更禁止区域での車線変更や信号無視や一時停止や進入禁止の違反、警察に届けず当て逃げ、免停中運転や異常なスピード超過、飲酒運転、轢き逃げ。
⑤シンナー吸引、脱法ドラッグや違法な睡眠薬や向精神薬の入手と使用、麻薬や覚醒剤の使用。
⑥犯罪性の高い詐欺。
⑦傷害事件、殺人事件。
・・・確かに当てはまる奴がいる(笑)!
酒の席ならOKと考える思考の人間は、例え今やってなくても法治意識や倫理観が欠如しているので必ず上記の何れかに当てはまる行為をしながら生きている、若(も)しくは過去にやっていたが一時的にそれ等から離れているだけ。
「酒飲んだら何しても良いって」思考の奴は大なり小なり必ず民法か刑法に抵触する事をしながら生きてるって事だわな~確かに(笑)。
具体的に刑事事件だと言えばコンナ事するそうだ。
①酒飲んだから暴言が許される←侮辱罪だわな。
②酒飲んだから凶器を所持したり振り回して良い←普通に逮捕されるわ(笑)!
※今回の新幹線での記事は☝️コレな。
※少し前のコレ👇は①②に傷害罪が加わる。
③酒飲んだから後輩を説教の為にカラオケのリモコンで殴って良い←日馬富士山か!普通に傷害致傷だわ!
⑥酒飲んだから泥酔した女犯してよい←慶応大学生が葉山で事件起こしたけどな、普通に強姦罪だ馬鹿か!
⑦酒の席で喧嘩に成ったから相手を殴ったら死んじゃいました←たまに有るけどな、殺人だわ。

泥酔して判断力も記憶力も法治意識も理性も無くなる奴は一生酒飲むんじゃねーよ、最近そんな奴がいたな・・・そう言えば。

酒飲んでようが飲んでいまいが罪は罪なんだよな~。
本当に酒嫌いだし飲みたく無いし、その場にいたくないし酒乱死ねよと思う。
酒で暴言吐いて自分の最大支援者を失う事に成る奴もいるだろうし、日馬富士みたいに酒飲んで判断力無くなり他人に暴言吐いて勝手に逆上して凶器を手に取り暴行傷害事件や殺人事件を起こす人間の屑もいる。
酒なんて飲むな。特に鬱病経験者や依存症持ちはな。悪酔いして失敗するだけ。そんな奴をこの間も見たばかり。


酒は万人之敵と称された豪傑の張飛も殺す万人之敵の敵、普通の人間がコントロール出来る訳が無い。まして細身の渡来人骨格と一重瞼の遺伝子の人間は遺伝的にアルコール分解能力低い。小生の様な骨格がゴツく二重瞼の縄文系遺伝子の強い生粋の日本人やサモアン等太平洋の海洋民族と比較して酔い易く酒に弱い。
だから韓国人と同じ朝鮮半島渡来系の骨格や一重瞼の奴は酒飲んで暴言吐く奴も多い。
酒弱い奴は飲むな。
酒を飲んで酩酊する事を良しとする思考は不倫と軽犯罪の始まり。そして重大な犯罪への入口。
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北朝鮮問題の軍事的解決は「想像絶する悲劇」もたらす-米国防長官
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この人の事は本当に尊敬しています。
日本の物も含めアジアの六韜三略や曹操が編集した孫子等の戦略教本、平家物語や太平記なんかの戦史も凄まじい数を所持熟読してらっしゃるとか。

更には敬虔なプロテスタントで、明治以前の臨済宗や曹洞宗や黄檗宗の僧侶の様な質素で清廉な生活をされ、浄土真宗以外の昔の仏教の様に不犯を守ってらっしゃるとか。
現代アメリカ人版の上杉謙信て所でしょうか?
上杉謙信

もっとも上杉謙信の場合は統治者としての所業は悪人でしたがね・・・
上杉謙信の場合は越後で飢饉が起きる度に掠奪目的で関東に来て、村々を焼き"女子供を拐(さら)って奴隷売買の公設市場を開いて年を越す"なんてトンデモ悪人の側面が有る。
彼が"義の人"と言われる由縁は政治的に権力が弱かった"剣豪将軍"足利義輝公に古今未曾有の忠義を尽くしたからで忠"義"の義なんだな実は。
・・・彼には正義は無かった訳だ。
頼って来た者が武田に侵略された領地に、"奪い返す"大義名分で攻め込んで支配下に組み込んでも実際には保護した者へ領地を返還せずに、代官として利用しただけだし。
そこへ行くと織田信長公は素晴らしい。
織田信長公

織田家が徳川家に度々援軍を送り更に遠江国の支配権を承認し恩賞に駿河を与えた事の寛大さが窺い知れるわな。
徳川家康公

裏切らず、兄貴分の織田信長公を信じて援軍を待ち続け、時には信長公の合戦に参戦した与党として誠実を貫いた本能寺の変以前の徳川家康公こそ正に「義」の人の称号は相応しい。
そこへ行くと徳川家康公の誠実さが良く解る不誠実で利己的な人物の代表は❝お艶の方❞だろう。
遠山家へ嫁いだ織田家の艶姫は酷い。女城主お艶の方として有名な人物だな。
おつやの方

遠山家臣団は織田家との関係を深める為に、艶姫を迎えて織田家と婚姻関係に成る訳だ。
城主は子が無く病弱(親武田派に毒を盛られていた可能性有り?)だったので、織田から見捨てられない為に❝織田信長公の実子の御坊丸を遠山家の養子に迎えた❞のだが・・・
織田包囲網が形成されて武田氏が織田領に侵攻して来るや、遠山景任公は戦傷が元で死ぬ。
果たして本当に戦傷が元なのだろうか?
この時期、織田家は岩村城救援の戦略で、明智光秀公や池田恒興公が東美濃で合戦に及んでいる。
しかし遠山家は情報過疎だったか武田領の信濃国木曽地方に隣接する所領を持つ親族衆達が鼻から武田派だったのか、当主倒れて後、秋山勢に屈し❝お艶の方と敵方の秋山信友の婚姻和議❞を画策して成立させてしまう訳だ。完全に保身の風見鶏。
織田が強ければ織田に靡き、織田が不利で武田が優勢なら武田に靡く。丸で某半島の国。
・・・決定的に酷いのは、お艶と秋山の縁談が纏まった際に❝信長公の実子の御坊丸を武田家に織田の人質として提供してしまう❞極悪非道な裏切り行為に出た訳である。
これで怒りに火が付いた織田信長公は、織田包囲網を打破する過程で裏切り者達の本拠地の岩村城を標的にする訳だ。そして殲滅戦を行い、風見鶏の様に信念も誠実さも無い遠山家の親族重鎮達を全て処刑し彼等に利用された艶を磔(はりつけ)にして獄門に処して裏切りの対価を払わせた訳だ。
岩村城に援軍を直接送らずとも戦略的に東美濃を奪還しようと奮闘した信長公と織田家臣団を利己的に裏切ったんだから当たり前だな。
この岩村城における織田信長公の戦略と事例と同じ事はマティス司令官もイラクで現地の酋長達に通達している。まぁ、現代人のマティス司令官の場合は軍事法廷に裏切者を引き出して裁判で処刑にするんだが。戦争中の基本的な事だな・・・
現代の軍隊なら世界各国どこも敵前逃亡と裏切りは軍事法廷で死刑は基本だ。
・・・但し裏切らず誠実に、そして勇敢に敵から領民を守った者は徳川家康公の様に評価され恩賞も貰えて信頼される訳だ。
この作戦を日本で早くから行った事で有名なのは坂上田村麻呂公だな。
坂上田村麻呂

蝦夷(えみし=アイヌ=縄文文化を続ける日本の民族)討伐でマティス司令官や織田信長公の戦略を先に行った人物。裏切ったり歯向かう敵は殲滅し、逆に縄文文化のアイヌ族でも友好的で協力的な豪族は朝廷に迎えて優遇し統治者として登用して行った訳だ。
因みに、この坂上田村麻呂公と同族と思われる古代の名将軍が神奈川県にも所領を持ち移住していた。
坂上石楯(さかのうえのいわだて)公だ。
藤原仲麻呂の乱で活躍して今の相模原市辺りを所領として賜り移住し、延喜式内社で相模原市の名倉に所在する石楯尾神社の近くに城館を構え、石楯尾(いわだておの)神社を支援した人物だ。
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上の写真は石楯尾神社は、そもそも日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路、自らが装備していた草薙の剣と対に成る防具の天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の印として現在の石楯尾神社の辺りに埋蔵し、それが神格化された事に信仰が始まる。その化身として烏帽子岩も信仰対象に成っていたが近代、交通網整備の際に破壊されてしまった。

まぁ、そんな訳でマティス長官は日本の名将達と類似の戦略なんぞ頭の中に常識として入っている訳で、御本人も誠実で潔癖な様、そして実際に名将としても人格者としてもイラク現地で酋長達からも民百姓からも慕われた訳だ。
マティス司令官は法治主義者であらせられるので上杉謙信と違いモラルも高い紳士で、中東でも与力のイスラム文化の酋長達からも一目置かれた訳だな。これは凄い事だ。
或いは北朝鮮の軍人すら交流すれば彼を尊敬するかも知れない。
上杉謙信を引き合いにだしたので北陸の武将に例えるなら・・・
どちらかと言えば生活態度は上杉謙信、内面は直江景続、武勇は柿崎景家公、統治実績は柴田勝家公並の善政てとこか。
・・・ただ、色欲が無いので英雄では無く名軍師の範疇に留まる様だ。
欲の有る者のみが1番上に成りたがる。
まぁ、だから生涯陪臣を貫き通した小早川隆景公や黒田孝高公や直江兼続等は妻帯しても愛妻家で側室を持たなかったんだろうな。
「吾も斯く在りたい」とは思いつつ・・・
まぁ、小生は完全に名軍師じゃなくて短慮浅学でアホな猪武者人格なんだ。
だから、せめて社会の役に立つ事を1つで良いから行って死にたい、そしてそれは「小生がやった」と世に知られる必要も無い。
結果的に知っている人だけが知っていてくれて「あ~アイツだったのか」とか「アイツらしい」と死んだ時に友人達や歴代の彼女(笑)と恩師達や関わった宮司様達や和尚様達に心の中で褒めて貰えると嬉しい。
それで十分。

マティス司令官の様に生きてみたいなぁ~。
でも食欲の権化だし自分に甘から、憧れの域を出ないな~。
だから自分なりに小さくても社会の役に立つ事をしてから死のう。
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