歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:日蓮上人

長興山妙本寺の紅葉
源氏の忠臣比企氏邸宅跡の大寺院の秋景色

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間宮家臣荒井家、中世には荒井家単独で鎌倉幕府征夷大将軍と室町幕府鎌倉公方の崇敬を集めた瀬戸神社の琵琶島弁才天の二重橋の架橋を許され、それを建築奉納出来る家格と財力を誇った鎌倉~室町時代の荒井家の幻の城址❝荒尾城❞は金沢文庫駅~六浦上行寺裏の浄願寺跡~権現山~御伊勢山全域が城址と思われます!
横浜市が開発利権の為に存在を認めたがらない“荒尾城跡”と推測出来る地形が金沢区六浦に存在するのを小生は藪漕ぎして突き止めました。 
入口は横浜市金沢区六浦の六浦山上行寺を目印にすると良いです。
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六浦山 上行寺この御寺の前まで昭和初期まで海が広がっており鎌倉の外港の六浦湊(みなと)として機能し、平安時代末期~鎌倉時代初期までは坂東武者として武勇名高い千葉家の船着き場で大檀那は当時は千葉家臣だった富木(とき)家でした。
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なので本堂の前には船を繋いだ松の跡が日蓮上人の史跡として記念碑が建てられ語り継がれています。
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平安時代から存続し鎌倉時代~室町時代初期にかけて非常に栄えた寺院ですので、鎌倉文化らしい矢倉が境内や周辺の山中や隣接地の廃寺跡の“スシロー”駐車場等に多く存在しています。
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ここの境内には“旧六浦文化研究所”が在り、横浜市域に置ける中世文化保護の拠点として近年まで機能していました。現在、その役割は神奈川県立金沢文庫に引き継がれています。
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この上行寺の背後には“城マニア”が歩くとどっからどう見ても“山城”な人工地形で溢れ返っているのですが、横浜市は城として話題にすら上げません。その城址と尾根続きの尾根の前には、やはり横浜市が開発利権の為に消滅させた“浄願寺跡”が存在した。
上行寺東遺跡
(※遺跡と言うのは嘘で、横浜市が破壊容認した六浦山浄願寺跡の巨大プラスチック製レプリカ)CIMG6416
この浄願寺は源頼朝公と頼朝公の親友だった真言宗の高僧文覚上人が一緒に開いたとても格の高い寺院で、鎌倉時代末期には京都は仁和寺の僧侶で徒然草の筆者として有名な兼好法師こと吉田兼好も滞在した場所でした。
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当時は浄願寺跡のマンションの丘の眼前に広がる平地は六浦の港、兼好法師が日々眺めた風景は、さぞ綺麗な風景だった事でしょう。
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これらの事実が浄願寺の後継寺院で金沢区町屋に存在する龍華寺に伝承しているのにも関わらず浄願寺跡の上行寺東遺跡は約30年前に横浜市と某建設会社と某大手不動産会社によってライオンズヒル金沢八景が建設され消滅させられました。
この遺跡は東大歴史編纂所の故:山中裕教授等の多数の著名な歴史学者が保護を訴えたのにもかかわらず横浜市は消滅させました。
そして時代は下って34年後、小生はその背後に荒尾城址と思われる地形を発見した訳ですが、恐らく以前からも多くの城マニアや日蓮宗信徒の方や千葉家臣団や三浦水軍に興味の有る人は御存知の方もいた筈です。
上行寺には日蓮宗に改宗する切っ掛けと成った日蓮上人(以下日蓮和尚御存命当時の尊称の上人を用います)の有名な船問答の伝承が有ります。日蓮上人と同じ船に乗船した千葉家臣の富木胤継公が当時は真言宗だった上行寺を管理していたのですが、その見識と法話に感銘を受けて同寺への滞在を請い、そのまま改宗したそうです。
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本牧山 妙香寺・・・国家君が代、吹奏楽、テニスの発祥地
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
国家❝君が代❞の発祥地である横浜市中区本牧の妙香寺も前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた東海寺と言う真言宗寺院でしたが、やはり日蓮上人の滞在が有り、当時の地頭の佐藤家が檀那だったので感銘を受けた佐藤家によって日蓮宗に改宗した歴史が有ります。恐らく、この妙香寺の本牧の丘のふもとに当時あった蒔田湾の港から船で金沢六浦まで移動したのでしょう。これが船中問答の発端に成った筈です。後に富木胤継公は出家し、日蓮宗の大本山、中山法華経寺の初代住職と成っています。
そして戦国武将で関東最強の北条綱成公の付家老で北条家相模十四騎筆頭だった間宮康俊公率いる間宮家の武将に荒井家がおり、その荒井家の祖先が六浦湊の上行寺を支援し杉田湊に妙法寺を開いた日荷(にちか)上人の俗名が❝荒井平二郎光吉❞でした。
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牛頭山 妙法寺
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
荒井家は恐らくは三浦一族の新井氏と同族で鎌倉時代、宝治合戦が起きるまでは三浦市三崎町油壷の新井城にいた一族の末でしょう。荒井と新井は両方とも水軍に長けた一族でした。
三浦本家が滅んだ際に佐原三浦家と供に北条家に臣従したのかも知れませんね。北条家宗家の領国には駿河国が有りましたが、実は和田合戦や宝治合戦で三浦一族と戦った北条家は三浦一族を自分の国で細々と家臣化させて生き長らえさせてた節があり、朝比奈や三浦や由比と言った三浦一族の姓を持つ武将が戦国時代まで存続しています・・・
磯子区杉田の妙法寺近くの杉田八幡宮の別当を代々継承したのが三浦家で、油壷の新井家は三浦一族と伝承します。そして妙法寺の開基は日荷上人であり大檀那は現在も荒井家です。そして江戸時代に荒井家を家臣としていた杉田間宮家の御廟所も未だに杉田妙法寺に存在しています。
荒井と新井は恐らく同族な訳ですが、更に荒井平次郎光吉公は平次郎の名を持つので歴史常識を照らし合わせれば平氏の人間であり、三浦家は平氏の一族です。
この日荷上人は出家前に鎌倉幕府の北条家の武将だったと伝わりますが、鎌倉幕府は1333年に滅亡しています。出家の時に師僧と成られたのは中山法華経寺の第三世住職だった日祐上人だったそうです。
この日祐上人ですが、後醍醐天皇により❝建武の新政❞が行われた建武四年(1337年)に日祐上人が六浦の荒井邸に滞在した事が“如来滅後五五百歳始勧心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)”と言う日蓮上人の遺産の写本から証明されているそうです。
・・・つまり、鎌倉幕府消滅の4年後に六浦に住んでいる旧北条家臣で荒尾城主だった荒井光吉公は、恐らくは北条宗家の北条高時公の旧家臣では無く、場所柄を考慮すると六波羅探題として関西を統治する役目を担った金沢(かねさわ)北条家の北条貞将公の旧家臣だったのでしょう。日荷上人は武士を辞してからは水軍を活かして廻船商人に転身していた様です。
この金澤北条家で一番有名な・・・と言うか、鎌倉時代最大の文化人として有名な北条実時公が邸宅の隣に日本初の私設図書館を開き、これが後の金澤文庫の地名由来と成り、邸宅が後に子孫によって稱名寺として寺院化されています。
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金澤山 彌勒院 稱名寺つまり、鎌倉幕府滅亡後に荒井光吉公は商人と成り、恐らく上行寺と同様に旧主金沢北条家の菩提寺として稱名寺を守りながら、その御縁で仁王門の仁王像を譲り受ける“賭け”に勝ち、身延山まで輸送し奉納したのでしょう。この仁王像、背中に担いで運んだと伝承が有りますが、まぁ~それは物理的に無理でしょうから人力で運んだ事の比喩が伝わっているんでしょう。
そんな自然信仰マニアの源頼朝公や仏教の偉人の文覚上人や日蓮上人や富木胤継入道日常上人や荒井光吉入道日荷が関わり宗教的にも大切な六浦の土地が宗教的な聖地な訳ですが、その地形は鎌倉の玄関口と成る金沢六浦湊を守るに適した地形に在ります。・・・ハッキリ言って城。
荒井光吉公が武士だった時代は鎌倉の玄関口としての六浦港を守る城だったんでしょう、そして領主は荒井光吉公、荒井光吉公の守備した城は荒尾城、と成れば御伊勢山~権現山~笠森稲荷~浄願寺跡の山が荒尾城だったと考えるのが自然です。
金沢区能見台~赤井稲荷~能見堂~釜利谷東の丘に存在した青ヶ台城(本来なら青野台城と呼ぶべき)の方が金沢北条家最後の居城として有名だったので、文献にも登場しない荒尾城は歴史家から着目されなかったのかも知れません。
青ヶ台城遺構の残るのが能見堂跡で、これは景勝地として江戸時代初期まで有名だった場所です。
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青ヶ台城址(能見堂跡~能見台森~釜利谷緑地)
※太字の城址名をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。

話を上行寺裏の権現山に戻します・・・
城マニアの小生が見ると浄願寺跡~権現山~稲荷山地形はどっからどう見ても衣笠城や青ヶ台城と似ている鎌倉時代の山城なんですよ。
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戦後の横浜市は開発利権に忖度して隠蔽しようとしたのかは解りませんが議論される事はありませんでした。てか、横浜市は城址の発掘調査に城郭専門家入れない事ばかりなんですよ(笑)。
それでも20年前に城郭専門家ではない先生達は自然と文化財の密集する重要区域として保護を訴える形で“金沢八景御伊勢山・権現山周辺文化財調査報告書”を纏め上げて下さったので、小生達は横浜市立中央図書館に行けば調査報告書を読む事が出来ます。
これ等の先生方の偉業、小生が後世に伝えずして何の歴史オタクだろうか・・・
小生は只の行く先々の綺麗な風景と史跡と郷土料理を愛する食いしん坊な歴史オタクだ。
・・・と言うのが今回の記事の投稿の発端に成りました。小生の実名など世に知られず、金にも成らず、現世に生きる小生の手柄に成らなくて良いですよ(笑)♪ 
上行寺~権現山周辺地形 久良岐のよし
地形図で見ても竪堀や堀切が見える程!
城郭研究で権威ある人物による調査支援を求む!
てな具合で、先ずは昨日撮影して来た写真を並べてみたいと思います。
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この階段が上行寺東遺跡の跡地(浄願寺跡)への入口ですが、恐らく浄願寺も大手口の要塞として機能していたの思います。
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その直ぐ先にはクランクした切通し状の地形が有りますが、この地形は上行寺の御住職様に確認した所、昔から存在する道を拡張したもので以前からクランクしていたそうです。
・・・食い違い虎口ですね。
先に進むと階段が在り、そこに小さな御社が在ります。
その御社の反対側には浄願寺跡に向かって供養塔が在ります。
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恐らく、この平場は近年の削平ですが、この台地も昔は曲輪の一つだったと思います。
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下に降りるとさっきの食違いの場所。
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そこから西に向かって伸びる上行寺の墓地は帯曲輪状に成っており上行寺の境内まで続くので、どうやら上行寺も虎口だった様です。つまり寺であり虎口の防塁として期待された配置だった様です。
もしかしたら浄願寺も源頼朝公が聖地霊場としての意味と、六浦湊を守る権現山の要塞の大手口を守る機能も合わせて開いた御寺だったのかも知れませんね。
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先に進むと林道は藪化していますが、今の時期なら蚊も蛇もいないので藪漕ぎしながら安心して歩けます。
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人工的に切り残された岩盤が台地状に成っており、横をすり抜ける順路でしか先に進めないのでこの岩場も曲輪の名残りだと思います。
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山裾は全て海蝕岸壁と言う訳ではなくと、下には上行寺始め谷戸構えの寺院が存在し、おのずと鎌倉時代の裾切り山城に見られる城壁と化しています。
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ここは左右の崖地が前後より尾根より竪堀状に抉(えぐ)れていました。
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そしてココは明らかに尾根を断ち切り敵の侵入を防ぐ堀切地形で引き橋が架かっていたと推測出来ます。同様の構造は衣笠城にも有ります。三浦半島の観音崎多々良浜は三浦一族多々良家の所領で観音崎灯台や近代要塞へと続く尾根道も同じような裾切りされた細い尾根に加工されています。
金沢北条氏の初期の邸宅跡の稱名寺を囲む谷戸の稲荷山は金沢城と推定されており、やはり同じ地形に人工的に加工されています。
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ここは権現山方面に伸びる尾根ですが、やはりこの箱状地形を巻く様に道が付けられており、ここも曲輪だった事が推測出来ます。
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・・・落ちたら死ぬyo~♪
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竪堀状地形の尾根の抉れだったかな?
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まぁ、明らかに連郭式山城ですかね。
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権現山の頂上。ここから上行寺~御伊勢山~笠森稲荷側に分岐します。
ここは以前からの削平地で現代の削平では無いので、城址の重要な曲輪で恐らく本丸か二の丸の様な役割を担っていた場所だろうと思います。鎌倉幕府が終焉を迎えて荒井家が守備を放棄した後、小栗判官と照手姫伝説の頃には盗賊の拠点と成っていた熊野権現の御堂が有った事が解る記述が万里集九の書いた梅花無尽蔵に掲載されています。
神奈川県立金沢文庫の学芸員さんの論文によるとそんな景勝地の権現山に万里集九禅師も鎌倉観光のついでか遊覧に来て以下の漢文で詩を残しているそうだ・・・
題名:入武蔵
同日有山曰権現堂(山有りて権現堂と曰(い)う) 
即相武両道之界(すなわち相(相模国)武(武蔵国)の境界である)
古云群盗所聚也
今則不然也
蓋昔有堂歟
駅樹風声入武州
山名権現憩無楼
旅衣未脱昏鴉尽
聊借民爐嘗濁蒭
・・・これは万里集九禅師が金沢区一帯に伝わる小栗判官と照手姫の伝説の一説の舞台として当時は権現堂と言う盗賊の巣窟に成っていた御堂が有ったのですが、万里集九禅師が生きていた戦国時代初期には既に無くて云々と同地を訪問した際に一般人と話している様子を詩にしている訳です。
そこに「権現堂」の名と「相武両道之界」と説名が有り、六浦は正に相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境だったので、この一文が権現山の地名由来の説明とも成る訳です。
権現山~笠森稲荷~東照宮跡に向かう方の尾根。
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先にズンズン進みます。
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ここ!
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帯曲輪状の地形と竪堀だと思う。
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そしてココは東照宮跡方面と、もう一つ北側の横浜市大が在る尾根との谷間。大空堀状に成っている。
恐らく緩やかな傾斜だった場所を掘り下げ拡張して空堀にしていると思う。
ここから権現山に戻り反対側の御伊勢山方面へ・・・
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ここも尾根の先の方から来る敵を迎撃する構造に山が切り残されていた。
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道幅も狭く残雪で少し危険かな。
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そこを抜けると普通に山道に戻る。
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御伊勢山から見える多分、長生寺方面を見た風景。
まぁ、写真に撮り損ねた平場なんかも沢山有って山城好きな人が見たら完全に城なんだよね。
そして、江戸時代の六浦藩米倉家が金沢八景駅と笠森稲荷の辺りに陣屋を置いたのも、有事の際に要害性の高いと言うか城としての機能を手入れすれば使えそうな荒尾城址が権現山だったからだろう。
まぁ~小生一人の意見では何とも説得力が低いので、城ファンに援軍を請う訳だ。

歴代無教養系市長と横浜市教育委員会の城址破壊と自然公園破壊容認の悪事に抗い後世に自然と歴史の遺産を残す為、日本文化を愛する純潔日本人と親日外国人と富裕層と能力と見識の有る人々が蜂起して、力を貸して欲しい!

・・・本日、素人歴史オタクの小生のお散歩(調査)♪では同地の地形山々は全てが人工的に裾切りされた切岸、大きな竪堀が穿たれ、尾根には堀切、夥(おびただ)しい帯曲輪群、そして自然地形を裾切りし拡張大空堀が現存した。
そして新たに中世山城の荒尾城址として城郭ファンに知れ渡る事を期待する。
古代人や歴史偉人が守った横浜市域の古代からの自然崇拝の聖地と貴重な蛍の大生息地の水源と城址文化と歴史・・・
後世に残す為に城郭オタクと専門家、自然風景愛好家、蛍保護活動家の支援を求む!
目下横浜市長によって消滅の危機に瀕している円海山瀬上沢の蛍大生息地と、城址としての歴史を認めない今回の荒尾城、続日本100名城に選定された上で横浜市史跡認定が未だ行われない小机城、これらの場所が史跡認定されたり自然保護区域認定され、東急等の不動産会社の日本文化と宗教と歴史と自然環境軽視の開発利権から守り通せる様に我々横浜市民が守れと騒いでる場所へ援軍と成るリアクションを起こして欲しい!

_以下少しドロドロした市と開発業者への文句_

五十猛命、日本武尊、弟橘姫様、大伴久応黒主公、笠原直使主公、善無畏三蔵法師様、弘法大師空海和尚様、平高望王、平良文公、菅原景行公、菅原淳茂公、源義家公、久良木三郎通継公、源頼朝公、遠藤盛遠入道文覚上人様、和田義盛公、佐々木高綱公、多田行綱公、平子有長公、今井兼平公、佐々木泰綱公、金沢北条実時公、名越北条宗長公、見真大師親鸞和尚様、立正大師日蓮和尚様、富木胤継入道常修院日常上人様、覚山尼様、金沢北条貞顕公、金沢北条貞将公、守邦親王様、権僧都長円親王様、用堂女王様、荒井平次朗吉光入道日荷上人様、宅間上杉重兼公、宅間上杉憲清公、宅間上杉憲直公、万里集九禅師様、太田道灌公、蒔田吉良成高公、間宮信冬公、北条氏綱公、間宮信盛公、多目元忠公、間宮信元公、間宮常信公、笠原信為公、蒔田吉良頼康公、宅間上杉房成公、笠原政尭公、中田加賀守公、臼居久胤公、臼居杢右衛門公、中田鶴野姫様、宅間上杉富朝公、北条綱成公、間宮康俊公、間宮綱信公、北条氏繁公、間宮康信公、宅間上杉規富公、板部岡江雪斎公、石巻康保公、間宮信繁公、間宮於久様、間宮於継様、天秀尼様、間宮直元公、本願寺良如上人様、間宮忠次公、間宮士信公、任蓮社然誉了鑑和尚様、歌川広重先生、山岡鉄舟公、お龍さん、ジョン・ウィリアム・フェントン先生、ウィリアム・コープランド翁、伊藤博文公、大山巌公、渋沢栄一公、渡辺忠右衛門翁、浅野総一郎翁、原三渓翁、フランツ・エッケルト先生、有吉忠一公、渡辺はま子女史、島津忠秀公、柳家小さん師匠、中澤忠雄先生、桂歌丸師匠(笑)・・・
古代から中世の人々が守り伝え江戸時代の人々が保護し明治の元勲と聖商達が文化自然保護と開発を両立して大事にし近現代の文化人が語り継いで来た文化と史跡と貴重な自然と古代の聖地が、これ以上横浜から無文化市長と教育委員会と悪徳建築不動産関連企業に消されません様に・・・
多くの歴史と自然と日本宗教を愛する義士が蜂起し悪事を暴き出し拡散し、未調査、未自然保護区指定、未史跡指定の場所が市指定文化財や自然保護区域指定を受けられます様に・・・

そして、呪詛と言う訳では無いが…
歴史と日本文化と日本古来の宗教と聖地と自然を軽視し神奈川の事を調べもせずに無碍に開発を勧める企業担当者と経営者、それを容認する一部の教育委員会職員の中と一部の歴代市長と政治家に神様仏様とマリア様とキリストの神仏の罰が直撃し改心を促して下さいます様に。
・・・ん?呪詛だこれ(笑)。

まぁ~天罰神罰と言うのはオカルトな話だけでは無くて自分の心の中から湧き上がって来て抑えられなく成る物だ。それが失敗や動揺や判断ミスや病気を起こすもんだから逃げる事は出来ないわな。
困った時だけ厄払いしたとて何の役に立つものか(笑)。
仏教的に言えば利己的な邪(よこしま)な心が邪な物と不浄な物を呼び込むわけだ。
神道的に言えば普段から茅の輪も掲げず潜らずのままでも、忌むべき事が起きた後じゃ既に災難起きてるわな(笑)。普段から氏神様と土地神様と皇祖神に御挨拶して日々の生活を感謝してこそ、御先祖様や土地神様や諸々の神様が守ってくれるってもんだわな。

仮に遺跡や宗教聖地や自然を破壊した後で「ごめんなさい」と言っても取り返しがつかないが、日本古来の宗教でも「普段の行いから変えないと何にも変わらん」し「天罰食らった後で神様に御免なさいは既に不幸のどん底」なのだよ。
変えないとダメだし、データや心でモヤモヤ駄目だと感じたら停めてかいぜんする勇気も必要なのさ。
これね・・・宗教じゃないけどトヨタ生産管理方式でも同じ事言ってるよ。
目先の欲望や体面の維持は長期的には大損こくんです!

江戸時代まで法華衆にカテゴライズされた浄土宗や浄土真宗や時宗は「南無阿弥陀仏」、日蓮宗系宗派の「南無妙法蓮華経」と唱えるのだって、悪事を悔いて反省して以後に念仏を唱えて善行を積むと言う考え方だわな。善行積まずに許される訳ゃ無ぇ~わな。
徳と言えば江戸時代には禅宗の臨済派と曹洞派とカテゴライズされた哲学だって禅問答を重視するか座禅その物を重視するかの差は有れど、普段の生活の「積徳積善」を大事にせぇ~よって考え方だわな。

そんなん神様仏様怒るような事しといて何の反省も無く改心も行動も無ければ神様も怒るわな!
浄願寺をぶっ壊した東急リバブルと同系列の東急不動産が横浜市最大の蛍生息地で水源の円海山の瀬上沢の自然環境を破壊して宅地開発しようとし、それを林文子市長が容認する発言をして栄区民と港南区民と磯子区民が怒り狂ってるわな!
仏教で前科に寛容で反省を促す宗派だって「やった後で御免なさいってのは反省して改心して日々の生活で善行を積んでナンボの物」だからな。
・・・オマエ等、上行寺東遺跡破壊から何も進歩してねぇ~じゃね~か!
現実に言い換えれば酒飲んで飲酒運転して警察に捕まってから「ゴメンなさい反省してます」は意味が無いわな。
東横神社の御祭神、渋沢栄一公は神道無念流の剣術の達人で元武士だったから、伊藤博文公や東郷平八郎元帥と同じく土地開発にも古来の自然信仰や文化や史跡に配慮してたんだぜ?
それを知らない今の東急グループの不動産と開発関連企業の経営陣な・・・
アンタ等、自分の会社の神様からも天罰食らうよ?
御地蔵様の姿した閻魔様や、道祖神様や土地の古代豪族の氏神様が至る所で日本文化と貴重な自然環境破壊をジッと見ているよ~。多分ね。
菅原道真公を左遷した藤原時平の一族郎党が天満大自在天神様と宇多天皇の御霊を怒らせてどんな目に遭った事か…
・・・祟りってな、身分上下関係無く、やった本人の家族にまで降りかかるんだぜ?心の中に自分のやった事で不安が沸き起こり健康と精神のバランス狂って仕事で重大なミスしたり事故起こしたり退職後に死ぬの恐怖してボケと病気の進行が早く成ったりな。
ほれ、三井不動産レジデンシャルの傾きマンション見て見な?

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ブログネタ
神社・仏閣 に参加中!
前回、君が代の発祥地である妙香寺さんを紹介する記事を書きましたが、今回はより詳しく説明する為に「テニスの発祥地」でもあり元々は妙香寺さんの寺領だった「山手公園」を紹介したいと思います。
2015-07-29-12-47-44
この建物、何かのオカルト記事とか、都市伝説のTV番組とかで見た事が有りませんか?
実は、この建物は日本で最初に吹奏楽=ブラスバンドのコンサートが行われた場所なんです。
今では山手公園として整備されており、後で説明しますが若かりし頃の今上天皇陛下御夫妻もこちらに来られた事がありました。
そして、この場所は…
フリーメイソンの日本最初のロッジが在った場所でもあるんですね。
今では山手の中の端っこの野原みたいに成っていますが、実は凄い由緒の有る東屋なんです。
最初のコンサートの場所だからでしょうか?ベンチも東屋を取り囲む様に配置されています。
…まさか幕末当時のままの配置ではないでしょうが。

この山手公園は近くに「日本のビールの発祥地」麒麟公園や…
※麒麟公園記事⤵

この山手公園を含む広大な寺院で空海和尚や日蓮和尚と直接の所縁の有る妙香寺サン・・・
※妙香寺の歴史の話しの記事は「ココクリック!
2015-07-29-12-29-33
…から歩いて直ぐの距離に在ります。

位置関係を下の衛星写真を御覧下さい。
山手公園位置関係
全て徒歩圏内です。
因みに前回の記事でも少し触れましたが、この妙香寺の丘一帯が幕末時、イギリス軍の駐屯地として利用されていました。
衛星写真の右上、今の港の見える丘公園の辺りはフランス山と呼ばれていますが、そのまんまフランス軍の駐屯地でした。
港の見える丘公園からも近いので、山手の洋館見学がてら散歩に来て歴史に触れるのも悪くない休日を過ごせる事間違い無しですよ!
幕末、この本牧半島には沢山の外国の領事館が在り、軍人も居た訳ですが…
まぁ~、軍と言っても、在日外交官を守ったり移動に利用される軍船の将兵程度で恐ろしい占領軍とかではありませんでした。
…占領されるのは太平洋戦争の敗戦後です。
本題に戻りましょう!
山手公園に行く目印は、住宅街の中に見えるこんもりとした森の麓の下の写真の道標ですかね。
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これならトイレに困ってる人も助かりますが、公園を強調したいのだかトイレを強調したいのかサッパリ解らない(笑)!
因(ちな)みに、この付近には麦田トンネルと言う隧道が在り、明治時代に新橋~横浜(現・桜木町駅)間で開通した蒸気機関車は、その先まで延伸され麦田トンネルを通っていました。
それだけでも想像するだけで大正浪漫を感じるのは小生だけでしょうか(笑)?
小生の横浜の祖母の家は明治~大正時代にシルク商人だったのですが、大正時代まだ女性の学生が珍しかった当時、日本初の女学校「フェリス女学院」に「蒸気バス」で通学したと言っていました。
…英米との戦争さへ起きなければ、日本は和洋折衷の大正文化が花開いた頃の栄華を更に発展させた美しい時代を実現できたんでしょうかね~?

「歴史に「if」は無いし考えるのは無駄」

…と、言うのが持論の小生なので、この話は置いておきましょう(笑)。
フェリスや麦田トンネルも近い山手公園ですが、冒頭で申し上げた通り、「日本の国家」である「君が代」の発祥地であり、吹奏楽の発祥地であり、テニスの発祥地でもあります。
最初に吹奏楽の話をしているので、次は国家君が代の話をしましょう。

今回の記事のタイトルは「歴史を知らないアフォ左翼が発狂しそうな題字」ですが(笑)、実は歴史を知ってるつもりの極右も発狂する歴史事実を説明しないといけない回なんですよ~。
な~んにも知らない人が多いと思いますが…
日本の国家君が代は、天皇陛下礼賛云々以前に、日本人では無くて「イギリス人が作曲した曲」と言う事実を御存知でしたか(笑)?
国旗
国家「君が代」は明治02(西暦1869)年の秋、英国領事館の護衛武官として来日していた英国陸軍常備歩兵隊第10番大隊長付きだったジョン・ウィリアム・フェントン軍楽長により作曲されました。
その後、明治03(西暦1870)年の09月08日今の東京都江東区に当たる江戸時代当時の「越中島公式に御披露目されました
薩英戦争以来、島津家と英国は協力関係に在った関係で、島津家薩摩藩は英国から様々な近代技術と西洋文明を技術供与されていました。明治02(西暦1869)年の戊辰戦争終結後、島津家薩摩藩と毛利家長州藩を中心に樹立された明治新政府は日本の早急な近代国家化を目指す必要が有りました。フェントン軍楽長に近代国家として国歌の必要性を説かれた新政府は、島津忠義公と共に鹿児島を出港した汽船に乗船して横浜に来航した薩摩藩の軍学生を当時の妙香寺に寄宿させ吹奏楽を学ばせました。君が代の歌詞選定は当時の砲兵隊長で後の陸軍大将と成る薩摩藩士の大山巌(いわお)公が中心と成って古今和歌集の賀歌部の中から選定されたんですね。
大山巌↓陸軍大将
大山巌
…だからね、全然、右翼の民族主義の歌でも軍国主義の曲でも無ければ、寧ろ、国際社会から必要性を説かれて後押しを受けて作曲作詞されたのが君が代なんですね。
その後、ドイツの海軍軍楽教師で音楽家のフランツ・エッケルト先生によって現在の曲調の君が代が完成されたそうでう。
…どうです?君が代って超!国際的で平和的で、更に外国人の方々が作曲の中核を担ったのに凄く日本的でしょう?
よく、日本の良さって日本好きの外国人の方が知っていたりしますけれど、それと似た様な感じで本牧半島の海に面した情景を日本らしい感じでフェントンさんやエッケルトさんが表現して下さったんですね♪
フェントン軍楽長とエッケルト先生に感謝!

因みに君が代が御披露目された越中島の地名の由来は、戦国武将で徳川四天王の1人、榊原康政公の兄君である榊原清政公の御孫サンの榊原照清公の屋敷が在った事で、その照清公の官職名の越中守に由来して命名されています。
偶然ですが、照清公は横浜の殿様間宮家と榊原家の血を引いた方でした。
戦国時代~江戸時代のこの横浜市東部を本牧奉行として治めた間宮家の分家、今の横浜市磯子区杉田辺りを領地にしていた杉田間宮家の当主である間宮信繁公の御姫様が榊原清政公の御子息の榊原照久公に御嫁入されていて、その照久公の御子息が榊原照清公でした。
つまり間宮家と榊原家の血を引いた方が江東区に屋敷を構えていたので、横浜市の本牧は江東区越中島と殿様同士の御縁が有ったりします。

薩摩とイギリスに話を戻します。
薩英の結びつきに関しては、薩英戦争で大英帝国様に敗北した薩摩藩が事実上の従属同盟をしていた的な解釈も成り立つので微妙ですが、その後のロシア帝国のアジア植民地化計画を打破した対馬海戦の折りにイギリスが国際社会に日本に協力する様に呼びかけて下さった御蔭で、ロシア帝国のバルチック艦隊は補給を満足に受ける事が出来ず、ヘロヘロな状態で大日本帝国海軍と交戦する状況を演出して下さったり、太平洋戦争で決別するまでは日本と英国は良き師弟の様な協力関係にあった訳で、正に、外交と戦争の良い面と悪い面、必要性と危険性の両方を示した逸話とも言えます。
そこら辺りは以前の記事「横浜開港資料館=元・英国領事館」を紹介した記事で詳しく書いているので、そちらを読んでみて下さい。
※横浜開港資料館の記事⤵

…ここまでハッキリとした歴史事実が伝わってるんですが、何故か極左教師や歴史事実を直視しない左派は「右翼の曲だ」とギャ~ギャ~大変な誤りを騒ぎ立てたり…
…右翼は右翼で「外国人作曲」と言う不都合な歴史は伝えようともしないんですよね(笑)。どっちもどっち。
…横浜生まれ横浜育ち以外のハマっ子でも知っている人間は少ないですが、知っている人は知っている君が代の成り立ちでした。
因みに、小生は「中道寄りの保守派」「法治主義者」だと思っています。
よく中国政府をコケにしながら中国文化好きだったり、矛盾した記事書いてるので皆さん、御存知だと思いますが(笑)。

さて、テニスの話に話題を移します。
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この、元・妙香寺の敷地である山手公園は、テニスの発祥地でもあるので、今でもテニスコートとテニス発祥記念館が在ります。休日は多くの初老の先輩方が男女で半合コンみたいな感じでテニスを楽しんでらっしゃるのを良く御見掛けします…
…小生等、現役世代はテニスしてるオッサン達世代の負の遺産で四苦八苦してるのに何だか不平等だよな…
とか思っちゃいますが、まぁ~、明治大正の先人が残して下さったテニス文化を発祥地で満喫するのは風流だから棺桶に片足突っ込んだ日本工業商業没落の戦犯世代ジジババも風流に免じて見逃してやろう(笑)。
…と、上から見るとイライラしないで済んだりする、心の狭い小生(笑)。
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このテニスコートは、若かりし頃の今上天皇陛下と美智子皇后様からもテニス発祥地として御来訪を賜り、テニスをされた事の有る、なんだかほのぼのとする聖跡でもあります。
あ、聖跡ってのは、皇族が何かした史跡の事ですよ。
東京都多摩市の聖蹟桜ヶ丘も、明治天皇が鷹狩りを楽しまれた場所だから「聖跡」って付くんですよ。
つまり、軽井沢のテニスコートも今上天皇陛下と美智子皇后様が愛を育まれた恋愛の聖跡=パワースポットって事に成りますね~。
…ここでテニスしたら、女の子にモテる様に成るだろうか?
…ここでテニスするのが似合う様な大人に成ってたらオシャレでモテるのか?どっちが先だろう(笑)。
…又、脱線してしまいました。
先程の道標に「テニス発祥記念館」って有りましたよね?
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それが↑コレです。
後ろ姿は全然セクシーじゃない建物。
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ステンドグラスは綺麗でしょ?繰り返しに成るけれど後ろ姿は地味だけれど。
でも前から見ると…

……
………一生の不覚!なんと、正面からの写真を撮り忘れてました!
…今度、近く行く時に撮影してきます。でも、中の写真はちゃんと撮影しているので、見て見ましょう!
このテニス発祥記念館は無料で拝観できます。
中にはテニスの歴史や、当時のテニスの様子や道具が再現されたり保存されています。
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小生、不勉強で知らなかったのですが、テニスは昔は貴族のスポーツでドレスコードだったらしいです!
ドレスなんか着ながらテニスやるとか、御婦人方、オシャレの為に動き難いわ~熱いわ~で大変だったでしょうね。
壁のいたる所にコンナ↓解り易い年表とか資料が展示されています。
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あと、昔のテニスラケットがどんな物だったかとか、道具の発展もよく解る展示物が有ります。
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昔は木製だったんですね~…って当たり前か。
しかし、こんなんでやってたら、今のプロスポーツ化してアホみたいに凄いサーブ打とうとしてもラケットの方が折れちゃうでしょうね?
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それだけ、昔のテニス…と言うか、本来のテニスは上品にゆったりしたラリーを楽しむような大らかなスポーツだったんでしょうかね~。

今回はテニスとブラスバンドと国家の発祥地としての妙香寺=横浜の歴史の御話しでしたが、皆さん如何でしたか?

次は京都とか安土の事を書こうかな~♪
それとも10月末の小机城址竹灯籠祭りの見学報告でも書こうかな~♪
以前の小机城址竹灯篭祭りの記事⤵


では、又、次の記事で御会いしましょう!

前編を読む⤵



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