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東京駅の近く、今の皇居は戦国時代には江戸城と呼ばれた御城が在(あ)りました。
きっと余り歴史に興味の無い人は…
「江戸城を築城したのは徳川家康と諸大名だろ?」
「何で安土桃山時代〜江戸時代に築城された江戸城が戦国時代から有るんだよ?」
…な〜んて思うかも知れませんが、それは違いますよ。
徳川家康公や徳川秀忠公をはじめ、黒田長政公や加藤清正公達は江戸城を拡張した「改修者」です。
今では江戸城は天皇家の皇居に成っていますね。
江戸城
…元々江戸城は、太田道灌(どうかん)公と言う戦国時代初期の名軍師として名高い殿様が築城した御城です。
道灌公は相模国や武蔵国南部を支配した扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家裁(かさい=首相)でした。
その太田道灌公が築城した当時の江戸城の一部が今も皇居に残っていて、正に天皇陛下の宮殿の横に在る水堀が戦国時代から今に残る、その名も「道灌濠(どうかんぼり)」と呼ばれる遺構です。
それが下の衛星画像。
実は太田道灌公は智謀と人望が非常に高かったので、器の小さい主君の扇谷上杉定正に恐れられ、更に他の奸臣(かんしん=悪事を働く家臣)に妬(ねた)まれ、今の神奈川県伊勢原市に在った扇谷上杉家の初期の本拠地七沢城に赴いた際に、別荘の粕屋館で入浴中に暗殺されてしまいました。

そんな事もあり上杉定正は更に家臣からの人望を失います。
結果、北条家が南関東に進出してくると間宮家や上田家、足利一門で太田道灌公の盟友の吉良家の離反を誘発してしまい、後に太田道灌公の一族も悉(ことごと)く北条家の傘下に入り江戸城も北条家の持ち城に成りました。
※吉良家と太田道灌公に関係の有る記事は「ココ 」←クリック!
※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
織田信長公達が活躍した所謂(いわゆる)戦国時代に江戸城に詰めて城代を務めたのが、北条家で5本指に入る戦功と智謀を誇った北条綱高(つなたか)公でした。
その功績は立派で、北条家の主力部隊五色備えと呼ばれた5色の旗指物や軍装で色分けされた部隊の内、赤備え隊の大将を務められた名将でした。
最初の頃は今の鎌倉市大船駅近くの玉縄城の城代を務め、後に世に有名な河越合戦後、今の東京都府中市や調布市や立川市の辺りの重要拠点だった深大寺城(現在の深大寺は戦国時代御城だった)を守備しました。
その際、深大寺城に攻め寄せて来た扇谷上杉家の重臣、難波田(なんばだ)家の軍勢を迎撃し撤退に追い込み、更に追撃して完勝しています。
又、伊豆方面の守備を担当する事も多く、最後は江戸城に詰めて、江戸城で79歳と当時としては長寿に数えられる年齢で亡くなりました。
綱高公の軍学の師匠は、今の京浜急行神奈川駅一帯に在った青木城主の多目元忠公で、この元忠公は北条家の軍師格だった知将でした。
※多目元忠公と青木城の記事は「ココ 」←クリック!

綱高公は智謀だけでなく、その武勇も評価が高く、関東で最強の武将だった義兄弟の北条綱成公と並ぶ評価を受けた方でした。
綱高公は元々は実家が九州の名族高橋(たかばし)家の血筋で、実父の代に北条家二代当主の北条氏綱公に仕えて才覚を気に入られ氏綱公の婿養子に迎えられて姓を北条に改めた方でした。
KOEIさんのゲームだとこんな感じ…

ゲームの絵なのに地味でしょ?
実は実績も名前も有名なんですが何故か人気が無くて、安土桃山時代はおろか江戸時代の肖像画も小生は見た事も無いんですよ。有るのかな?

…小生、その不人気の原因は綱高公の菩提寺の江戸時代の対応に有ると考えています。
実は綱高公は御父君が元々幕臣だった関係か、当時の上方の室町幕府管領(三好家)の支配地域で信者の多かった日蓮宗を信心していました。
しかし日蓮宗が悪いのでは無く、その後の御寺の歴史の話なので先ずは我慢して読んでください。
綱高公の戒名(かいみょう=亡くなった時に貰う僧籍の名)も高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と現代に伝わっています。
だから、その菩提寺(ぼだいじ=墓所の在る寺院)は碑文谷法華寺とハッキリ伝わっています。
今の御寺の名前は「円融寺」に変わり、宗派も日蓮宗から天台宗に改宗しています。
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円融寺の山門から続く参道は、綱高公の人物を表す様に落ち着いた趣(おもむ)きが有ります…
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当時の日蓮宗には対応に二種類の御寺が有りました。
一つは、一般的な参拝客も相手にする派閥
もう一つは、不受不施と言う檀家以外の参拝客からのお布施(寄付金等)を受け取らない自分達に非常に厳しく真剣に修行のみを追求した主義の御寺でした。
実は 、その主義の為に困窮する寺院が多数あり、更に、その主義を幕府より「排他的」と見做(みな)されてしまい不受不施だった法華寺は改宗する事に成り、日蓮宗から天台宗に改め御寺の名も現在の円融寺に改められたそうです。
天台宗に改宗した理由は、元々、法華寺の前身は天台宗の御寺だったからです。
元は日源上人と言う日蓮宗の有名な和尚様が、日蓮宗の御寺として再興開基したので江戸時代まで日蓮宗だった訳です。
この御寺からは日蓮宗で特に有名な「日進上人」様も排出しています。
日進上人と言えば、神奈川県鎌倉市の妙隆寺出身の有名な和尚様で、妙隆寺は七福神の寿老人を御祀りする御寺です。
鎌倉江の島七福神御朱印の一ヵ所にも成っていますね。
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そんな御寺が「菩提寺だった」ので、北条綱高公は戒名が日蓮宗の和尚さん風な訳です。
何で「だった」と言う表現は読み進めて頂ければ解ります。

この円融寺、宗派は変わっても今でもその規模は立派で、内門には仁王門も控えています。
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立派ですよね?
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正に綱高公の菩提寺に相応しいのですが… 2015-05-02-11-21-03
残念な事に、参拝した際に現在の円融寺の御住職に綱高公の御廟所の所在を伺(うかが)った所…
「現在、この御寺に俗名が北条綱高と呼ばれた人物の御廟所は無い」
…と衝撃的な回答が返って来ました。

最初、この回答を頂いた時に「あ~観光客とか歴史好きの訪問はウザいのかな?」とか解釈しましたが…
帰って調べてみたら、日蓮宗から天台宗に改宗した際に「日進上人の法脈は完全に途絶えた」と記載が有りました。
つまり!
天台宗に改宗した際に御廟所も全て廃棄されてしまったか、どちらかに移転させられてしまい、その際に日蓮宗の高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と言う戒名だった綱高公の墓標も撤去された可能性が非常に高い訳です。

綱高公の御廟が不明に成れば、当然、江戸時代にも拝む人が来なくなり、やがて其の綱高公御自身もマイナーに成ってしまいますよね…

残念ですね…
宗旨が変わって偉大な人物の御墓を撤去や移転するとは。
当時の和尚さんが歴史に無知な方だったんでしょうかね?
他の宗派では、その様な事は余り聞いた事が無かったので少し「イラっ(怒)」としました。
関東の発展に寄与して下さった人物の御廟所を無下に扱うのは、小生の信条としては歴史遺産の破壊活動としか受け止められなかったので。

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でも日源上人の追善供養はなさっているんですよね~。
これはやはり、当時の住職が歴史に無知で御廟所を移転してしまうか撤去してしまったと考えるのが自然なんでしょうか…?

そんな訳で今では名将北条綱高公の御廟所はありませんが、円融寺の雰囲気は北条綱高公の御人格を今にも伝える様な雰囲気は感じる事が出来ました。

今日はここまで!
では、又、次の記事でお会いしましょう!