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タグ:明智光秀

遅くなりましたが真田丸第五回の解説です。
 
第五回では、当初から真田家にとってウザかった西村雅彦サン演じる室賀正武の存在が、いよいよ排除したい位に邪魔に成って来ましたね…
室賀正武コイツ
この室賀正武、実在した人物で真田家と酷く対立していた人物です。
ウザさは、その内訪れる展開への伏線でしょうかね~?
本来ならそろそろ、この室賀正武の弟も登場させないといけない頃のはずなんですが…。
今後の展開が楽しみです。 

さて、第五回の要点は3つ有りました。
要点1,信長公の死によって、その偉大な統治力が失われ再び戦乱が拡大する予感。
織田信長 織田信忠
そして、跡継ぎの信忠公まで二条城で討ち死にしてしまい、織田家そのものが存亡の危機に陥った事。
合戦シーンは簡略化されたものの、ちゃんと描かれていましたね。
あれで信忠公が亡くなった事を視聴者に印象付けると同時に、信長公の死亡はちゃんと描写されず、現代に続く本能寺の変での信長公の生死を巡るミステリーを演出していました。
又、明智光秀の起こしたこの事件によって周辺大名や信濃の国衆が相争い始める予感みたいな描写も少し描かれていたでしょうか?
真田丸勢力図 本能寺直前 久良岐のよし制作
今回、真田昌幸公は越後と北信濃に影響力を持つ上杉景勝公を頼ろうとしました。
上杉景勝
その際に、真田家は織田家を離反するので、織田家から攻撃される事を恐れて、上杉家に織田家を攻撃する様に要請して「あっさり断られ」ていました。
真田昌幸
上杉家は先代上杉謙信以来、この様に「不義理はしない」と言う家訓が有ると言う事を直江兼続が発言していました。
直江兼続
この直江兼続と言う人物は上杉家の❝家宰(かさい)❞です。
家宰と言うのは先代で長尾家出身の上杉謙信の継いだ関東管領(かんとうかんれい=関東の総理大臣)山内上杉(やまのうちうえすぎ)家の頃から代々置かれた役職で、上杉家内の政務や軍務を主君に代わって取り仕切る社長代行の様な立場でした。
それを、長尾家が上杉家を継いだので、直江家が家宰と成っていた訳ですね。
ところで、直江兼続は「不義理はしない」と言う主旨の事を言っていましたが、実際の上杉家は関東に略奪に毎年の様に攻め込んできては、若い女性を連れ去り奴隷として売買する等、だいぶん鬼畜な家柄でした。
ちなみに上杉家のライバルの北条家では一切その様な事は有りませんでした。
彼の言う処の「不義理の❝義理❞」と言うのは別に❝正義❞では無く、❝礼儀❞と将軍に対する❝忠義❞をさしています。
しかし、この上杉家は頼って来た没落大名家は必ず助ける言う❝義侠心❞は有りました。
…解りやすく表現すればヤクザぽい家柄なのかな?
因(ちな) みに、上杉景勝公の生家の長尾家は、横浜市栄区出身の平安以来の坂東武者の家系で、その居城は栄区の長尾城でした。
ハマっ子と上杉家は、横浜繋がりの御縁が有ったりします。
※上杉謙信のルーツ横浜の長尾城の記事は「ココ」←クリック!

要点2,明智光秀の謀反により堺の町を見学中の徳川家康公が明智家勢力下に取り残され窮地に陥った末に❝伊賀越え❞をした事。又、その際に忍者色の強い演出をされている真田家臣団のライバルに成りそうな服部半蔵を登場させた事。
徳川家康
もう一度、本能寺の変直後の関西の状況を見てみましょう。

この伊賀越えで糞裏切り野郎の穴山梅雪がもれなく自業自得の死亡しました。
穴山梅雪
コイツは史実でも、徳川家康公と違うルートを一人で進み、落ち武者狩りに討ち取られた事に❝されて❞います。
小生は、実際の所は穴山信君が明智家に内通し、徳川家康公と家臣団の在所を知らせる懸念が有ったので徳川家臣団によって先手を打って殺害されたのが真相じゃないだろうか?と思っています。
無論、個人的な意見ですが、三谷幸喜さんも穴山梅雪がそのような事を考えていたかも知れない可能性を彼のセリフとして「明智に付くか」と言う主旨のセリフで演出していたと感じました。
家康公一行が出発時点で滞在していたのは現在の大阪府堺市です。
その時の同行した重臣の名前をてみましょう…
【徳川四天王】
酒井忠次・本多忠勝・井伊直政・榊原康政
【家老クラス】
石川数正・大久保忠佐・大久保忠隣・渡辺守綱・阿部正勝・牧野康成
それと…服部(半蔵)正成

…いずれも徳川家の重臣達ばかりです。
もし、落ち武者狩りに打ち取られたり明智軍に捕縛されてしまえば、確実に徳川家は壊滅していました。

では次に、この帰還が、どれだけ困難なルートだったかを見てみましょう…
本来は主要街道は全て京都を起点にしています。
明智光秀 桔梗
しかし明智光秀と、その部下によって京都付近は既に制圧されていて京都市街地を抜ける事は出来ず、またピンポイントで明智光秀の部下の城の間を避けて通らねば成らず、更には伊賀国は反織田派の在地豪族(忍者)だらけなので、親織田政権の徳川家一行が伊賀を通過するのは極めて困難でした。
伊賀越えルート2 久良岐のよし
※拡大して見て下さい。
赤い線が家康一行が通った山越えのルートです。
最初の段階で既に危機状態に在るのが解ると思います。
そして極め付けが反織田の伊賀国人衆です。
この家康公の伊賀越えで、最大の功労者はこのルートの通過を可能にした人物でした。
服部半蔵
それが伊賀国の豪族(忍者)衆を懐柔(かいじゅう=味方にする)する事に成功した服部半蔵です。
第三回の解説❞でも書きましたが、忍者と言うのは所謂(いわゆる)映画の様な忍者は存在しません。
ゲリラ戦術や情報収集に長けた在地豪族や傭兵、商人のスパイの事を指します。
服部半蔵も父の代から2代仕える伊賀出身の武士です。
つまり、彼は自分の父祖の代からの縁故を頼り、伊賀の豪族を説得して回った情報収集と説得工作に長けた人物だと言うのが実像の様です。
戦国時代は、彼の様に直接的に合戦で活躍しなくても情報収集が高く評価される時代でした。例えば織田家が今川家に大逆転勝利を収めてた桶狭間(おけはざま)合戦でも、功績の第一等は今川家の動向を探ったとされる梁田政綱と言う人物だったとされています。
この様に情報収集をする人物の評価を査定するのは、現在の企業の人材評価には欠損してしまった部分ですね。
この伊賀越えを徳川家が成功させた事で、現代の我々の生活は有る訳です。
我々も服部正成公感謝しないといけませんね。

では次の要点に移りましょう。

要点3,好人物の滝川一益公が織田家の政治観を語り、今後の真田家の同行を演出。
滝川一益
ドラマの中で一益公は信長公の死を知らず、真田昌幸公に織田信長公が戦を無くす為に日本史上初めて完全な日本統一を行おうとしている事、戦を無くす事が滝川一益公の夢でも有る事をセリフの中で演出していました。
この回は滝川一益公の性格の良さを演出し、昌幸公が嫡男のセリフで「織田家臣」と強調されていた事も伏線として演出し、この放送回以後の歴史上の事実で滝川一益公が東海地方に撤退するまで真田家は一益公に与力した事実に繋げようとしたのだと思います。
ですから、もしNHKと三谷幸喜さんにヤル気が有れば、前回の第4回の解説でも説明した滝川一益公と真田昌幸公が劣勢の中、北条家の大軍と戦った❝神流川の合戦❞を真面目に再現すると思います。
もし、今後の放送で神流川の合戦をちゃんと再現し合戦として演出しなければ、もはや大河ドラマ❝真田丸❞は最終回も期待できず見る価値の無い物と判断材料にして良いでしょう。
神流川の合戦は関東最大の野戦ですからね。
※神流川の合戦の解説をした第四回解説記事は「ココ」←クリック!

では、また、第6回放送の解説で御会いしましょう!

あ!
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第4話の再放送には間に合わなかった第4話解説…
まぁ、明日の第5話には間に合うから良いか(笑)。

真田丸の第4回放送では、又々、ちゃんと作りこむべき合戦シーンが端折られてしまいましたね…
端折られたのは明智光秀が謀反を起こした「本能寺の変」です。
そして、何だか話の進み方が歴史的な経緯と比較すると尋常じゃない展開で進んでいる様な…

不満はさて置き、この第4回では真田家がいよいよ独立大名として歩みだす事を説明する物語と成っていました。
さて、その前に第3回~第4回の真田家の状況を理解する為に、まずは主要な城を各大名家の家紋で支配者を区別出来る当時の勢力図を見てみましょう…
真田丸勢力図 織田家全盛期2 久良岐のよし制作
※クリックして拡大して見て下さい。
※織田家と徳川家はこの時点で協力関係にあるので家紋を同一色で表示しています。
※羽柴秀吉の顔は、以前の大河ドラマ❝秀吉❞で秀吉の役をした時の竹中直人サンの画像です。
※重要な城だけ載せています。

この勢力図を見ると判(わか)る通り、織田家は❝真言宗の聖地の奈良県南部山間部や高野山❞と❝雑賀衆❞と呼ばれる鉄砲武装した豪族達が支配する和歌山県を除いて近畿地方もほぼ手中に収めています。
織田信長 織田木瓜
この時点での織田家の総石高は約700万石、展開可能な総兵力は21万以上有していたそうです。
滝川一益
既に、その支配地域は東は現在の群馬県に当たる上野国に及び北条家を従属させる事を成功させ、関東管領(かんとうかんれい=関東知事)として滝川一益公が厩橋城(現在の前橋市市役所の所在地)に配置しています。
前回も解説しましたが、滝川一益公は織田信長公が名古屋周辺の家臣達から酷い裏切りを何回もされていた時期からずっと信長公を支え続け、得意な鉄砲戦術と知略で勝利に貢献した名将でした。
真田丸第4話では、織田家の関東方面司令官として上野国に入り、真田家を傘下に置き岩櫃城や沼田城を接収していました。
羽柴秀吉
西は山陰山陽方面軍の司令官として羽柴秀吉を姫路城に配置し岡山城の宇喜多家を傘下に入れて、岡山城の目と鼻の先の備中国高松城を巡(めぐ)って山陰山陽地方の覇者の毛利家と対峙していました。
この時期の❝羽柴秀吉は、既に信長公の御子息を養子にしており織田家の親族として軍団長を務めていた❞のですが、余りその事実は語られません。
縁故主義より実力で出世した事にした方がロマンが有るんでしょうかね~?実際は彼の功績では無くて、織田家親族としての羽柴軍団を支えた竹中半兵衛や蜂須賀小六といった優秀な与力武将達の功績による所が織田家としては正常な評価なのですが…
柴田勝家
北は今の福井市の基礎設計をして市街地を整備した内政力も非常に高い柴田勝家公を配置し、現在の福井城に当たる北ノ庄城を拠点に北陸地方を支配させ、信越方面の制圧に取り掛かっていました。
しかし柴田勝家公は並みの武将より統率力や合戦の采配に優れていたものの、羽柴軍団の様な多彩な戦術や思い切った作戦を用いて合戦を出来る司令官ではありませんでした。
その采配で上杉家の前線の魚津城を攻略するものの、本能寺の変が起きても冬の北陸から近畿方面へ侵攻する手段を見出さず羽柴軍団の織田家乗っ取りの後手を踏み、勢力を拡大出来ずに終わる事に成ります。
明智光秀
そして明智光秀は、羽柴軍団と同じく❝信長公の親族❞として最も信頼される軍団長だったので近畿方面軍の司令官として、近江坂本城(現在の滋賀県大津市坂本町)を拠点に近畿地方の織田軍団を統括していました。
秀吉と同じく実力で出世したと見る方が多い武将ですが、❝明智光秀の出世は信長公正妻の帰蝶(きちょう)の従兄(いとこ)だった為に織田家の親族として外交面で重用された❞事実が一番大きいと思います。
名門美濃源氏土岐家の分家明智家として朝廷や足利家と将軍家との交渉役を担える武将だった訳ですが、血筋がサラブレッドと言える家臣の少ない織田家において織田家親族として外交を代表出来る人物は彼をおいて他に存在しませんでしたからね。
合戦も秀吉や柴田勝家程の実績は有りませんが、一般的な真面目で守旧派的な彼のイメージと事実は異なります。
当初は比叡山の権威を信長公に語りながら実は後に比叡山焼き討ちと皆殺しを積極的に進言したり、残虐な作戦も冷徹に行い時として敵に自分の母親を人質として渡す等、自己中心的な性格を垣間見える事実が多く残る武将でも有ります。

さて、第4話は、真田家が織田家に従属する所に多くの時間を費やしながら、恐ろしい速さで物語は展開し主人公真田信繁公の夢の中で急転直下、❝本能寺の変❞が起きて織田家が滅亡する所で終了しました。
…そのちょっと前に、諏訪の織田本陣に赴(おもむ)いた真田家の一行が、なんだかオカマっぽい明智光秀が織田信長公の折檻を受けて喜んでいる(?)ドMな場面に遭遇するシーンが有りましたが、あれは実際に起きた事件です。
実は織田家による武田家攻めは、その勝利はほぼ確定したものであり、織田家の御曹司(おんぞうし)である織田信忠公を2代目社長としての実績を積ませ箔付けするデモンストレーションでも有りました。
織田信忠
信忠公は優秀な2代目でしたが、傑出した将才が有ったかは現代でも疑問視され、御父上の信長公と比較されると微妙な立場でもあったので、❝強大な武田家を倒した功績を信忠公に積ませる❞事は織田家として内外に次代も盤石である事を示す目的が有りました。
ところが、明智光秀は自己中心的でKYな面が多々有ったのでやらかしてしまいます…
明智光秀←元祖KY
コイツ、信忠公の2代目襲名式みたいな甲州攻めの打ち上げの席で、あの❝折檻事件の原因に成った大失言をしている❞んですね…
コノKY野郎は、織田家に服属する武将や外様大名の使者達が参列する宴席でこんな事を言ってしまいました。
「いや~わざわざ私らが骨をおった甲斐が有りました~(笑)」
…もう、この一言で織田信忠公の事実上の2代目襲名披露儀式としての甲州征伐はオジャンですよね?
だって、「いや~わざわざ私らが骨をおった甲斐が有りました~(笑)」ってのは現在の会社の中のやりとりとして通訳しても…
「2代目だけじゃ力不足だから私らが頑張らなきゃいけなかった」
織田信忠←失言の被害者

…って事を言って、織田家に挨拶に来ている真田家の様な他家の大名の使者や部下達の前で信忠公を馬鹿にしているのと同じ事に成るんですよね。
コレは…調子に乗った光秀はバカ過ぎるし、すべてを台無しにする一言でした。
それで、あのシーンに繋がる訳です。
織田信長←怒っちゃった
せっかくの2代目の晴れ舞台の事業を台無しにする明智光秀の「俺らの御蔭じゃね?」的な発言にブチ切れた結果の一言が、あの明智光秀の頭を掴んで廊下の欄干(らんかん=手すり)に頭ゴチゴチ叩きつけた折檻(せっかん)に繋がる訳です。
光秀シバキながら言ってましたよね…
「お前が何をしたぁ~(怒)!」
「申してみよぉ~(怒)!」
…って。
信長公は、情が深く身分の上下を気にせず庶民ともフレンドリーに接して下さったり法治主義を徹底して下さる代わりに、かなり感情的にキレ易い面も有りましたからね~。
原因の一つとして言われている事に、❝高血圧だったんじゃないか❞と推測されています。
実は信長公の好物は塩辛くて味の濃ゆぅ~い赤味噌を焼いた❝焼き味噌❞でした。
この焼き味噌、お茶漬けの具にしたりすると非常に美味しいのですが、高血圧の原因では?と言われています。
因みに、信長公は戦国時代なのに牛乳を飲んだ事でも有名ですね。
余談ですが、信長公は明智光秀がハゲ頭だったので「金柑頭(きんかんあたま)」と馬鹿にして折檻したそうです。
自己中でプライド高い明智光秀には耐えられない事だったでしょうね。
本能寺の変は、明智家の家老斉藤家と縁戚関係に有った長曾我部(ちょうそかべ)家や足利将軍家と貴族の山科言継(やましなときつぐ)の陰謀、泉州日蓮宗として安土宗論の仕置きに恨みを持っていた堺商人と日蓮宗の僧侶達やキリスト教宣教師の陰謀など複数の説も有りますが、小生は全ての説が関与して起きたのが本能寺の変だと考えています。
さて、本能寺の変に話が繋がった所で、第4話の直後の勢力図を見てみましょう。
※クリックして拡大して見て下さい。
真田丸勢力図 本能寺直前 久良岐のよし制作
上は❝本能寺の変❞を明智光秀が起こした直後の勢力図です。
北陸では柴田勝家公は上杉家の魚津城を奪取した直後で、反逆される恐れが有り近畿方面へ反転する事が出来ませんでした(羽柴軍団の様な外交が出来る武将が柴田軍団にはいなかった)。
しかも、第3話の解説でも説明した無能で残虐なだけの森長可が、信長公の死亡を聞くや己の行った悪事で信州の豪族達から復讐(ふくしゅう)される事を恐れて自己中心的に職務放棄し信州から撤退し、更に又々鬼畜ブリを晒(さら)して信州の豪族の妻や子を人質にとって美濃国まで逃げてしまいました。
鬼畜な森が職務放棄して逃げてしまったせいで、滝川一益公は前線の群馬県の厩橋城に取り残されてしまいました。
滝川一益公には、この時の誠実な御人柄を表す逸話が現在も伝承しています。
滝川一益 丸に竪木瓜

前線に取残され、退路の無くなった滝川一益公は、本能寺の変の直前まで部下だったり織田家に従属していた関東と信州の豪族や大名を集めてこう言う主旨の発言をされました…
「私は明智光秀を討伐し、信長公の遺子を守らなければいけません(しかし帰る道は閉ざされている)。」
「皆さんが私に協力して頂けるか離れて敵対するかは御任せするより無いので、敵対するなら私の首をとって手柄とするつもりで合戦をされても恨まない」
既に森長可が職務放棄してしまい織田本領と甲信越方面の兵站(へいたん=補給線)が寸断されてしまったせいで甲州では甲府を治める河尻秀隆が現地豪族の蜂起によって殺害されてしまっていました。
…森の愚行のせいで、一益公も河尻秀隆と同じ運命は避けられないと思っての御発言かもしれませんね。
出浦昌相
…しかし、この一益公の御発言に感動した後の真田家の家老と成る出浦対馬守は、滝川一益公が無事に信州から美濃国に辿りつける様に自軍を率いて護衛し見送られたそうです。
これに対して、徳川家康公や北条氏政公は森が職務放棄して空白地に成った織田家の甲信地方の遺領に侵攻し、支配地域の奪い合いを始めます。
徳川家康 北条氏政
二人とも不誠実の代表みたいな人ですね。
新府城址に行くと、この二人は今の山梨県北杜市に在った若神子城と韮崎市の焼け落ちた新府城跡に陣取って対立し、織田家遺領を巡って合戦を行った事が説明した看板が有ったりします。
真田家勢力図 本能寺直後関東 久良岐のよし制作
※拡大して見て下され。
森が逃亡したせいで甲斐国と信濃国には本能寺の変直後に徳川勢と北条勢が乱入している事や、滝川一益公が敵の真っただ中に取り残され、真田家より不利な状況に成っている事が解ると思います。
これが次回、第5回放送での真田家を取り巻く状況です。

本能寺の変はドラマでは端折られ合戦シーンは有りませんでしたので、せめて真田家も関わりの有る滝川一益公の神流川(かんながわ)の合戦くらいは、ちゃんと合戦をドラマで再現して欲しいなと個人的には思っています。
神流川の合戦 場所 久良岐のよし作成
この神流川の合戦は、関東で今の埼玉県川越市で起こった河越夜戦や、今の横浜市神奈川区神奈川駅一帯の本覚寺~幸ヶ谷公園周辺で起こった権現山合戦と並んで大規模な合戦でした。先述の2例が籠城戦なのに対して、この神流川の合戦は野戦としては特に大規模な例として有名です。
合戦は滝川家とそれに加勢する関東豪族勢vs北条家とそれに加勢する関東豪族勢によるものでした。
滝川一益 丸に竪木瓜
滝川勢…18,000前後
●滝川家…滝川一益公・滝川益重公・前田(慶二郎)利益(史実での在陣有無は不明)
●上野衆…真田昌幸公・北条高広公・小幡信貞公・倉賀野(くらがの)秀景公・安中久繁公・佐野宗綱公 等々。
北条氏政 三つ鱗紋
北条勢…50,000前後
●北条家…北条氏政公・北条氏直公・北条氏邦公・北条氏規(うじのり)公
●家臣団…石巻康保(やすもり)公・成田氏長公・大道寺政繁・松田憲秀 等々。

双方の兵士数だけ見ても凄まじい会戦だったのが理解出来ると思います。
そして、この合戦は真田昌幸公が人生で2番目に体験した大合戦であり敗戦でした。
もし!NHKと三谷幸喜サンが真田昌幸公が参戦した大戦(おおいくさ)の神流川合戦をドラマ真田丸の中で端折ったら、もう、ハッキリ言って大河ドラマとしてヤル気無いでしょうね。
この中で、前田慶次(利益)は作家隆慶一郎の小説❝一夢庵風流記❞の主人公であり、漫画化された事で歴史に興味が無い人にも有名な人物です。
真田丸で後に登場する直江兼続…
直江兼次
…彼とも親友だった武将なので、もしかしたら、その内登場するかも知れませんね。
あともう一人。
石巻康保(やすもり)公は、小生の住む横浜市と所縁の深い殿様で、北条家本家の重臣であり、横浜市港南区野庭に在った野庭関城の城代を務めた方でした。
もし、ドラマに登場したら個人的には嬉しいのですが、可能性は無いでしょうね。
この神流川の合戦や、若神子城や新府城での織田家遺領を巡る各大名の領地争いの事を❝天正壬午の乱❞と現代では呼んでいます。
おエライ学者様達は何でも名前付けたがりますね…
別に小生、一、歴史好事家としては、どっからどこまでとか線引きする必要なんか無いと思うんですがね。
もし天正壬午の乱で最大の合戦である神流川の合戦をNHKが真田丸で再現しなかったら…
マジくそ!
…以後、見なくて良いレベルですね。

さて、では、この本能寺の変と森の鬼畜バカのせいで発生した天正壬午の乱ですが、この乱後、織田家の遺領を巡った戦いから織田信長公の掌握していた権力を巡る織田家の内戦が勃発し、織田家臣団は分離独立して行く事に成ります。
その中で最大級の派閥が柴田勢と羽柴勢でした。
柴田勝家 二つ雁金
妻が信長公の妹の市姫。
織田家の生来の武士出身の派閥で最大の棟梁。
羽柴秀吉 太閤桐
尾張国愛知郡中村の村長の子で商人を経て、後に信長公の実質的な本妻の生駒お類(るい=別名:吉乃)様の実家に出入りする様になり、生駒家の鉄砲頭から織田家に仕官した。縁故主義だが稀代の出世頭。
太閤桐
この家紋↑太閤桐と呼ばれ、豊臣家の家紋です。
この時点では瓢箪(ひょうたん)や織田家から下賜された家紋を使っていましたが、真田丸では豊臣家は後に主人公真田信繁公の主家に成るので、この家紋に統一します。
勢力図を見てみましょう。
真田丸勢力図 織田家分裂後 久良岐のよし制作
上の勢力図で、東海地方の中で長島城だけが柴田勝家公の勢力下に置かれていますが、実は、関東から帰還した滝川一益公の本貫地(ほんがんち=所領)です。
柴田勝家公は織田信長公の側室の子供の❝織田信孝❞公を滝川一益公と共に支持し、織田家を乗っ取らんとする羽柴秀吉と対立します。
つまり、滝川一益公は亡き信長公への忠誠心から、関東退去時と同じく又も誠実な生き方を選んで織田家を乗っ取る羽柴秀吉と対立する道を選んだんですね。

この柴田vs羽柴の争いは、謀略と外交に巧みな羽柴勢に軍配が上がり、柴田勝家公は北ノ庄城で自害し、市姫様と娘達は小谷城での浅井家滅亡以来2度目の落城を経験しました…

さて、第4回の解説と、関連事項を紹介しましたが如何(いかが)でしたでしょうか?
NHKさんと三谷幸喜さんが真面目に合戦の壮大さと残酷さと、先人の悲しみと少しの幸せの上に現在の生活が成り立ってる事を演出して下さるのを、ただ願うばかりです。

もし神流川の合戦を端折ったら、真田丸はマジ糞ですね。

では…また次の解説で!

信長公の自害の直後、御遺骸の一部が埋葬された寺院が実在する事を皆さんは御存知でしょうか?
その御寺の名前は蓮臺山(れんたいさん)阿弥陀寺(あみだじ)と言う、京都市上京区(左京区との境界近く)に現在も実在する御寺です。
実は信長公は本能寺で間違いなく自害しています。
死後、数日と経たずに信長公の御遺体の一部が葬られた阿弥陀寺
の住職に当時の朝廷の勅使が来て「信長公本廟」として認定を受けているんですね。朝廷公認なので疑う方がオカシイ訳です。
先ずは御寺その物の説明からしたいと思います。

阿弥陀寺は度重なる火災で、信長公の遺品も焼失し、御寺の御堂も安土桃山時代の建物ではありません。
しかし、明治時代にも調査が行われ改めて信長公御本廟として認定を受けているんですね~。
image
上の写真が現在の阿弥陀寺の山門です。
この日は台湾人の友人夫妻と訪れました。

間違いなく信長公の御本廟で朝廷公認なのですが…
現在の規模はそんなに大きくありません。
元は今の京都市北区の蓮台野と地名が残る地区に在る大規模な寺院でした。
阿弥陀寺と相国寺比較
現在では、豊臣秀吉の嫌がらせで元の場所から強制移転させられた挙句(あげく)、規模まで縮小されてしまった為です。
何故、秀吉に嫌がらせをされたかと言うと、この御寺の当時の住職だった玉誉清玉和尚が信長公の遺骸を秀吉に渡さなかったからなんですね。
2011-03-16-12-42-16
実は、信長公は切腹された後、家臣達に自分の身体を火葬する様に指示していました。
首は…
首は首で、静岡県の西山本門寺に、信長の囲碁仲間の本因坊算砂によって葬られたと伝わっています。
小生、個人的に、この本因坊一門も信長公暗殺に一役買っていたんじゃないかと思ってしまう事が有るんです。
本因坊算砂の弟子の本因坊算悦の更に弟子の「本因坊道策」が毛利家に召し抱えられていた事実が有るんですね。
毛利家は信長公を勝手に逆恨みして暴走した室町幕府最後の将軍「足利義昭」が頼った先でもありますし、信長公の没後、あれ程、信長公には抵抗したのに、秀吉とはアッサリと不可解に深い協力関係に成っていますからね。
本因坊道策の時代は1600年代中期~。つまり、徳川家の天下が定まって織田家が台頭する心配が完全に無くなった時期、しかもまだ3世代目で前時代の影響が色濃く残る面も有る時代に堂々と毛利家から給料を貰っているんですよね。
…まぁ、本当に囲碁の腕を見込まれたのかも知れませんが。
それはさて置き、信長公の御本廟阿弥陀寺の玉誉清玉和尚は、明智光秀の謀反、本能寺急襲の際に信長公の身を案じて一番最初に駆け付けた人物でした。
当時の僧侶と言うのはとても特別な権威を武士達からも認知されていて、合戦の最中でも攻守勢力に関係無く双方を説得する為に往来する事が認められていたのですが、玉誉清玉和尚は明智光秀の軍勢の包囲の手薄な門の兵士を説得し本能寺の中に進入します。すると、燃え盛る本堂とは別の当時広大な境内を誇った本能寺の奥の竹林で焚火をしている織田方の武士を見つけ、何をしているか問い詰めると「信長公の名で御遺骸を荼毘にふして誰か解らない様にする様に命を受けた」と言うので、その武士に「遺骸は引き取るから家臣として存分に最後の戦いをして来なさい」と言う主旨の事を言うと、信長公の家来達は和尚に感謝して敵勢のいる場所に向かったそうです。
その後、玉誉清玉和尚は信長公の遺骸の一部を隠し持ったまま同じ様に二条城にも侵入し、織田信忠公等の遺骸の一部を持ち帰り供養したそうです。
そして、これが当時の朝廷公認の事実であり、明治政府に再公認された事実でもあります。
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※上の写真は阿弥陀寺の山門前にある、当時のあらましを説明した看板。
何故、秀吉が信長公の遺骸を引き取らせてくれなかった阿弥陀寺を移転縮小したのかですが…
それは秀吉自身が織田家を乗っ取る心算(つもり)だったので、後継者として権力を掌握するには織田信長公の葬儀の喪主を務める必要が有り、当然、信長公の御遺体が必要だった訳です。
別に忠義で信長公の供養をしたかった訳じゃありません。
しかし、信長公に忠義を尽くす玉誉清玉和尚は秀吉にとうとう信長公の遺骸を渡さなかったんですね
秀吉が織田家を乗っ取ろうとしているのが見え見えだったんじゃないでしょうか?
結果的に強引な性格の秀吉は信長公の遺体の代わりに香木で信長公の彫像を作り仮火葬しました。
…そうまでして喪主を務めたかったんですね。
本来なら信長公の御嫡孫「三法師」君が喪主、三法師君の叔父である織田信雄公が代理を務めるのが筋です。
秀吉は意地でも織田家を乗っ取りたかった訳です。 

もう、コイツは反逆者明智光秀と同罪でしょうね。

そんなこんなで、玉誉清玉和尚に仕返しをしたかったであろう秀吉ですが、朝廷公認の信長公御本廟なので取り潰す事も出来ず、阿弥陀寺の強制移転規模縮小と言う形で玉誉清玉和尚に仕返しをした訳なんですね。

玉誉清玉和尚が織田家に忠義を尽くした理由ですが…
和尚の母上が和尚を妊娠中に生き倒れに成っていた所を、信長公の異母兄の織田信広公により助けられたので、和尚は此の世に産まれたんです。
和尚の母上は和尚を出産後間も無く亡くなってしまいましたが、和尚は更に織田家の支援で御寺で出家し和尚様に成るまで育てられたそうです。
だから、織田家と信長公に大恩を感じて忠義を尽くされた訳です。
実に庶民と距離の近かった織田家と信長公らしいエピソードです。

ところで、現在の規模がどんな感じか、御近所の大規模寺院の相国寺さんと比べてみましょう。
阿弥陀寺と相国寺比較
…右上に阿弥陀寺、左半分が相国寺。本来の阿弥陀寺なら相国寺と同規模とまではいかなくても、もっと巨大な境内を持っていたはずです。
ところで、阿弥陀寺の在る、斜め「\」左に傾いている道筋を「寺町通り」と言います。
秀吉が京都を再整備した際に、秀吉が「謎」基準で多くの御寺や神社を、その通りに並べて移転させたんですね。
阿弥陀寺付近は秀吉にとって「タブー」の隠したいものが沢山あります。
例えば…
秀吉が見殺しにした名将「山中鹿之助(しかのすけ)幸盛(ゆきもり)」の廟所のある「広布山本満寺」。

当時、世間の風俗を乱すと考えられていた「ややこ踊り」=歌舞伎の原型の色っぽい踊りの創始者である「出雲の阿国(おくに)」が幼少期に巫女さん見習いとして働いていた、当時の「出雲路(いずもじ)=出雲に通じる街道」に在った「出雲路幸神社」。
出雲阿国が通説では出雲大社出身とされていますが、ここにくれば、実際は「"出雲"路幸神社の出身の"阿国"さん」だと言う事が良く解ります。
…歴史はね、特に郷土史レベルでは実際に歩いて回らないと解んない事が多いんですよ(笑)。
で、歩いて見ると秀吉の「ドロドロと澱(よど)んだ薄暗ぁ~い性格」が一目瞭然、解ったりする訳です。
勿論!秀吉も偉大な人物である事には間違いないですが、小生は秀吉を好きな反面「大っ嫌い」だったりします(笑)。

まぁ~小生の秀吉に対する主観は置いといても、秀吉と信長公のイメージは、実際は真逆に入れ替えた方がより実像に近いんですよ。
と、言うか、家康公の「忍耐強いイメージ」と、秀吉の「明るい性格と強引なイメージ」を足したのが実際の信長公に近いと思います。
家康公の実際の性格は「人を見ぬく力が強く、冷血で執念深くて、反面宗教に熱心」と言う所でしょうか。
実際の秀吉は一般的に認識されている「明智光秀の印象に近い」と思いますよ。
これ↓も秀吉の肖像画。
秀吉はね…
「若い頃は友達の縁故で出世」
「中盤は信長公の親戚として出世」
「晩年は金で役職買って出世」
「自分より与力武将達が優秀」
「計算高い」
「カリスマ性は無い」
「上役にイエスマン、部下に丸投げ」
「無茶振り営業担当者」
…と言う所でしょうか。 
秀吉の実力じゃなくて、生駒家の財力、蜂須賀小六政勝の采配、前野長安の人脈、竹中半兵衛重治の智謀、養子で信長公の御実子於継丸様の存在…
それを信長公の事実上の正妻生駒吉乃様から仲介されて得たからの出世でしょう。
まぁ、「油売りの商才=営業力と金勘定」と「ブ男なのに女を口説く力」は、ずば抜けていたんだと思います。
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上の写真は阿弥陀寺の本堂です。
本来、信長公の御本廟でしたら巨大でも可笑しくないのですが、先述の通り何回も火災に遭った上に、根本的に秀吉に境内を縮小された為に現在の規模に成っています。
…関東なら十分立派な規模に数えられる御寺の建築物群を有しているのですがね。
ところで織田信長公の遺骸が埋葬された事実がある事を、多くの小説家は「信長ミステリー」を作り出す為に語りたがりません。
自分の小説が面白ければ良いと思う
外道作家が世に蔓延(はびこ)っているせいで世間に誤解を与えてしまっている訳です。 織田信長公は多くの小説家が自分の小説を面白くする為に、よく調べもせず適当に書くので冷淡な人物に描かれたり又は短気で変な人物にされている事が多いですね。
ちゃんと自分の足で歩いて現場を検証したり、地元の人に地元にしか残らない伝承を取材しているのは司馬遼太郎先生と黒田基樹先生くらいかも知れません。
作家兼学者さんの方が、大学のへっぽこ歴史教授よりよっぽど研究も現地検証も郷土伝承研究もされてます。

…あと、御二人の1000分の1以下くらい小生も歩き回ってる郷土史好事家だと思います(笑)。
小生は歴史学者ではありません。あくまで郷土史と郷土料理食べ歩き専門オタクです。

学者の中には文字ばっかり追いかけて、その実、現地を一度も訪れた事が無い!な~んて脳の腐った歴史学者も大勢います。
信長実像は「短気でも無ければ冷淡でも無い」と言う、小説やTVドラマしか見ない人には意外な姿が見えて来ます。
それは次回の小牧城周辺の説明をする記事で地元の伝承等を交えながら詳しく話そうと思います。

さて、阿弥陀寺は蓮台野に在ったので山号が「蓮臺山」です。
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本堂の扁額に書いて有るでしょう?
境内には立派な植木も有りますが、小生、余り植物に対する知識が無いので何の樹なのか解りません(笑)。
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阿弥陀寺は現在、本堂こそ普通の大きさですが、庫裡(こり)は立派な規模を維持していました。
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庫裡と言う漢字の意味は「倉庫の中」と言う意味ですが、プライベートスペース=一般立ち入り禁止の場所ってな意味からか、日本では御寺の事務所や和尚様家族の居住スペースを指す言葉に転化されました。
御朱印を頂きに上がり庫裡に伺い、更に織田信長公と関わりの有った横浜の殿様「間宮家」の顕彰文を御寺に奉納させて頂きました。
小生は実は、この付近に若い頃御縁が有って住んでいたので、織田信長公の崇拝者としても何回か御参りさせて頂いており、阿弥陀寺は小生にとって大切な場所でもあります。
※信長公と関係の有った横浜の殿様の間宮家の事績を紹介した記事は「ココ」←クリック!
来年の信長公の追善供養に参加するように御寺で言われたので、是非及ばず、当然参列させて頂きます。
…仕事休んでも行く!

織田信長公や御曹司(おんぞうし=跡継ぎ)の織田信忠公の御廟所は下の写真、本堂と庫裡を結ぶ渡り廊下の奥にあり、庫裡で御寺の方に一言、信長公の御廟所を御参りしたいと伝えれば誰でも拝ませて頂けます。
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どうですか?
歴史って、三文小説なんか読んでも筆者が面白く脚色してるから真実とかけ離れている事や、古文書ばかり読んでいても自分の知りたい情報ばかり無意識に選んでしまうから、実際にその場所に赴き、周囲の一見無関係そうな歴史史跡も回って観察するのがどれだけ大切か伝わりましたでしょうか?

逆に言えば…
何気な~く普段散歩して、道すがら在る今は小さな皆さんの御近所の神社仏閣も、実はとんでもなく大物の歴史偉人と所縁(ゆかり)が有ったりするものなんですよ~♪
だから、皆さん、地元に愛着を感じたら、是非!御近所の神社仏閣や城跡の山を散歩してみて下さいな!
そして、立っている説明看板を読んでみると、すごい発見が有ったりするかも知れませんよ~?

歴史や文化は学者が守って来たのではなく、神社の宮司様や氏子さん達、御寺の和尚様や檀家さん達がずっと守って下さってるんですよ、だから御寺や神社を散歩すると、その裏山の自然や庭園や彫刻の美しさに心が癒されるだけでなく少しだけ昔の人と時空を超えて繋がる事が出来る場所でもあるんですよ~♪

では!又、次回の記事で御会い書ましょう!
次回は信長公の本当の性格を、信長公とその奥さん吉乃(きつの)様の実家の周辺に伝わる御二人に関する歴史事実と逸話で解説したいと思います。






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