歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:明治の元勲

6年前の3月11日
高速総てストップ。
首都機能麻痺。
東北諸県被災地のインフラ崩壊。
まだ雪降る現地。
補給が滞り石油灯油が枯渇寸前で死線が近づく
生き残った人々。
そんな中、本牧半島、横浜市中区根岸の石油コンビナートのエネオス社員達が無能な当時の政権を見捨て、民間の力で被災地へ命を繋ぐ油を届けようと行動し出す。

発災2日目、エネオス社員とJR貨物社員が明治の元勲、伊藤博文公が整備した横浜を起点とした無電線区間の貨物列車網と言う偉大な遺産の活用に気が付く。
この路線は日本海側に繋がっている、つまり遠回りだが新潟県~山形県~秋田県経由で被災地へ、文字通り命の灯火と成る油を一気に大量輸送出来るのだ。
壊滅した太平洋側の軌道を使わずに済む。
根岸のエネオスとJR貨物と臨港鉄道の社員達は神がかった連携を見せる。
この区間は無電線、電車が走れない上に明治~昭和初期の近代に建造された"煉瓦製の橋脚"の橋を超重量の貨物編成で渡り、磐梯山を越える急勾配を通過しなければいけなかった。
発災3日目、エネオスの油の準備万端、いつでも貨物列車に充填出来る体制が整う。
JR貨物職員も何と1日で通過予定区域の煉瓦製橋脚の橋の耐久確認し、更には日本全国から時代遅れで退役予定の"ディーゼル機関車"をかき集め無電線区間の通過を可能にした。

かくして当時の無能な民主党政権が右往左往する間に、民間の社員達が会社の垣根を越え、更に時代を越えて伊藤博文公をはじめとした近代の政治家達と連携し、大地震と大津波発生から1週間も経たずに被災地へ横浜市中区本牧半島のJR根岸駅を出発した第1便の貨物列車により灯油と石油が届けらた。

色々と忘れちゃいけない事も有る。
そして、一見価値の無くなった様に錯覚する物にも必ず残さなきゃいけない物も有る。
それを忘れちゃいけないし、これからも油断しちゃいけないんだと思う。

横浜は幕末から英国文化の強い影響を受けていまして…
中でも最近、平成21年にTVKによって開園された横浜イングリッシュガーデンは歴史こそ浅いものの、庭園としてはトップレベルの植物園とも言えると思います。
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神奈川県内で他と比較しても英国式庭園としては三本指の一番か二番目に入る規模、整備の度合いはトップレベルかもしれません。
神奈川県には大規模な植物園や、日本庭園、大公園の洋式庭園は沢山あるのですが、恐らく洋式庭園専門で運営されているのはイングリッシュガーデン含めて数件しか無いと思います。
港の見える丘公園のローズガーデンとかも有名。
薔薇の有名な所としては平塚市の花菜ガーデンとかの薔薇も有名です。
ここは住宅展示場に併設されているので、無料駐車場も完備されています。
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コンナ↑風に住宅展示会場自体が素敵な公園みたいな感じになってます。
…残念ながら(?)、今日も観光客は年配者が多く小生の様な若者(?)は女性が少しいる程度でした。
もっと若いカップルにデートや、男性にも小生みたいに花の写真を撮りに来て欲しいと思ったので今回ブログの記事で紹介したいと思います。
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年配者ばかり目立ちましたが、素敵な結婚式場↑コレも併設されていて、薔薇に限らず素敵な花々が季節毎に咲く庭園を見ながら挙式出来る様です。
イングリッシュガーデンの入口建物には、規模は小さい物のビュッフェレストランとしては美味しい店として推薦出来るシーズンズと言う店も有ります。
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御店は又、別記事で紹介しましょう。
先ずは今週末2016年05月28日~29日位までが見頃の薔薇の写真で、園内を紹介したいと思います。
その後で、横浜の庭園の話や、この場所が鉄道史跡である話を少し解説します。

イングリッシュガーデンの入口
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駐車場側から来ると、結婚式場が入口と勘違いしてしまうかも知れないので、住宅展示場のメインストリート側に一度出て下さい。屋台が数軒が出店している辺りが入口です。
ここから入り、御土産物屋やレストランを抜けると庭園の入口です。
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入口を抜けると、薔薇のアーチが出迎えてくれます。
本日2016年05月26日現在、アーチの薔薇は散り始めていますが、園内の薔薇はまだまだ見頃です。
今年は早く紫陽花も咲き始めているので、薔薇と紫陽花を同時に見る事が出来ます。
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さて、園内はバラのトンネルの一本道と言うわけでなく、小庭園や芝生の庭園等、見せ方を工夫して分けれています。
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こんな感じの小さいエリアの中を歩いたり…
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小さい庭を結ぶ通路にも豊富に薔薇が植えられていて…
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かと思うと、洋式庭園ぽい物も…
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とにかく色んな花が沢山あるので、ユックリと見ていて飽きません。
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写真に見切れていますが、時間をユックリ過ごすのがコンセプトの園の様なので、色んな所にベンチが設置されていて本当に自由に座って何十分でも話し込んで良いんですよ。
年間パスも有り、会話を楽しんでおられる御近所のBB・・・淑女の皆さんも沢山いらっしゃいました。本当に有意義な時間の過ごし方ですよね?
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あまり子連れで来る場所では無いですが、芝生もあり、少し開けた空間も有ったり…
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水辺の薔薇とか…
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まぁ、とにかく綺麗な薔薇を散歩したりベンチに座ってゆっくり鑑賞出来るのでデートにも暇つぶしにも持って来いの場所ですよ。

薔薇単体の写真もいくつか載せておきます。
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イングリッシュガーデンを今回は紹介しましたが、神奈川県下には和洋折衷の大規模な植物園がいくつかあって小田原市の辻村植物公園とか、小田原フラワーガーデンとか…
鎌倉市の神奈川県立フラワーセンター大船植物園とか。

和な場所だと植物園では無いですが、横浜市中区の三渓園の植物が季節毎に綺麗です。
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紅葉も、夜桜も綺麗。
鎌倉市の瑞泉寺や東慶寺サンや浄智寺サンも小規模ですが季節ごとに綺麗ですね。
特に瑞泉寺は花の寺として鎌倉時代から有名ですが新田義貞に焼かれて一度衰退してから復興し、徳川光圀(水戸黄門)サンなんかも好きで来ていたみたいですね。

これからの季節の紫陽花に特化すれば…
鎌倉の紫陽花寺として有名な長谷(はせ)の長谷寺とか…image
北鎌倉の明月院とか…
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それと、少し規模は小さく成るけれど横浜市内では貴重な紫陽花の山が有る港南区の永谷天満宮。
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あと、紹介済みですが横浜イングリッシュガーデンにも紫陽花が植えられていますよ。
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菖蒲だとマイナーな処で三浦の蜜柑狩りと西瓜の直売所で有名なザ作兵衛を営む石井園さんの菖蒲園とか…
横須賀市立菖蒲園は季節に成ると観光客で賑わいます。

梅だと曽我梅林や湯河原梅林は他地域を凌駕した広大で素晴らしい梅園が広がっています。あと横浜市磯子区の岡村梅林の夜間ライトアップとか最近有名。

竹林だと鎌倉の報国寺はミシェランガイドで三星だし。

桜は…まぁ、どの県に行っても大量に有りますから珍しくは無いですが、一応、県内にも有名どころは沢山有りますよね。特に伊勢原市大山の樹齢1000年越えの大山桜とか渋田川の芝桜とか、富士山をバックに桜を楽しめる秦野市の弘法山公園とか。
ここら辺は、以前の記事にしているので御興味有る方はカテゴリー「景勝地・公園・ドラマのロケ地」から探してみて下さい。

こうしてみると、横浜市を含めた神奈川県は花の生産農家が多い訳では無いのに、花を愛でる文化が県全体に根付いているんですね。
これは鎌倉武士の醸成した文化や、幕末から開港して間もない日本にいらっしゃって日本の近代化に貢献された外国人の皆さんの影響が関係有るのかも知れませんね。

話を横浜イングリッシュガーデンに戻します。

さて…
ココからは歴史の話を少し。興味の無い人も付き合ってね(笑)。
横浜市内には民間でも公営でも素敵な英国式庭園や洋館が数カ所現存していたり保護公開されていたりします。
日本初めての公立洋式公園が横浜スタジアムを含む一帯の山下町公園だったり…
港の見える丘公園には英国大使の館が現存していたり、バラ園も整備されていたり…
本牧には日本初のブラスバンド発祥地や国家君が代の発祥地である妙香寺と山手町公園があったりします。
そんな訳で、イングリッシュガーデンは横浜の洋式庭園では歴史の浅い新参者な訳ですが、実はこの場所は鉄道史跡でもあったりします。
横浜イングリッシュガーデン
この場所は、元々は江戸時代以前は海だった場所です。
平沼橋は江戸時代の東海道保土ヶ谷宿と神奈川宿の中間地に位置します。
江戸時代の神奈川宿には、幕末に坂本龍馬サンの奥さんの御龍サンが働いていた田中家と言う料亭の前身に成った❝さくらや❞と言う旅籠が存在したのですが、そのさくらが描かれている東海道五十三次神奈川宿の絵にも載っています。
その絵の風景を見ると、平沼辺りが海や干潟だった事が理解出来ます。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
現在の田中家↓の周辺。住所的には神奈川区台町かな?戦国時代の青木城の存在した丘の横。
田中家近景
その海に江戸時代、横浜市各地では埋め立て工事が盛んに行われ、この平沼一帯の海を埋め立てた平沼新田、蒔田湾と呼ばれた海を埋め立てた明治~昭和の横浜の中心街と成った吉田新田と言う現在の横浜市の南区北部~中区北西部~西区東部に跨る広大な土地や、金沢区の泥亀新田等が開かれました。
平沼も地名から推察して、昔は広大な干潟だったんでしょうね~。
昭和初期に成ると神奈中鉄道(かなちゅうてつどう)と言う当時存在した鉄道会社によって現在の平沼橋駅~西横浜駅の間イングリッシュガーデンの所在地近くに❝古河電線駅❞が設営されました。
神奈中鉄道は現在、相鉄と合併して社名は消えましたが、神奈川県民には馴染みのバス会社に神奈中バスとして名残が存続していますね~。
そんな訳で、つまり、このイングリッシュガーデンの場所は鉄道の史跡でもあるんですね。
そして、現在庭園や住宅展示場が開ける広大な敷地が有るのも、❝古河電線駅❞の名前でピンと来た人もいると思いますが、大企業❝古河電工❞の工場が存在した場所なので広大な土地が有ったんですね。
TVK(テレビ神奈川)が、その跡地の借地権を取得し現在のTVKハウジングモデルルーム展示場やイングリッシュガーデンが開園されました(TVKやるな!)。

昔の神奈川県には、明治天皇の御言葉「公益世務=世の中の為、公益公民の為に成る事をする」と言う気概を体現した、富岡製糸工場や横浜銀行のオーナーを務め関東大震災後の横浜復興に私財を投じ大貢献した原三渓サンの原財閥や、川崎の開発や鉄道敷設に活躍した浅野財閥の様な❝公益と市民の繁栄に力を還元する❞横浜商人の気概を持った方が沢山おられましたが…
現在の横浜市長や神奈川県知事や教育委員会や東急不動産や野村不動産や三井住友レジデンシャルは歴史史跡や緑地を開発利権の為に破壊しようとするベクトルの腐れ政治家や商人ばかりで、彼等からは横浜市民や神奈川県民の気概を微塵を感じません。
横浜市民=ハマっ子の気概、神奈川県民の気概と言うのは正に、明治天皇の金言「公益世務」そのものです。
素戔嗚尊の眷属~日本武尊~平良文公~源頼朝公~北条時宗公~太田道灌公~北条早雲公~間宮家~ハリス領事やコープランドさんや孫文先生、原三渓サン等の政治家や商人、色んな先人や親日派外国人からの気概と文化を引き継いだのが、我々横浜市民なんですよね。

TVKは、この先人達から引き継いだ鎌倉武士の気概や小田原北条家の理念、横浜商人の心意気を見事に受け継いでらっしゃる。
その精神文化を体現しているのが、この横浜イングリッシュガーデンなんだと思います。
ここの規模は凄まじく広い訳でも歴史が有る訳でも無いけれど存在価値は、横浜三渓園に匹敵する場所なんだな。

横浜イングリッシュガーデン公式ホームページ【ココ】←クリック!
住所:横浜市西区西平沼町6-1 tvk ecom park
TEL:045-326-3670 FAX045-313-2280
営業時間:AM10:00~PM6:00 (最終入園 閉園より30分前)

司馬遼太郎先生も"街道をゆく"シリーズの"三浦半島編"で紹介した横須賀市の料亭、小松が焼失してしまった・・・
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※[ココ]クリックでニュースにリンク

幕末の戊辰戦争~明治に起きた日本最後の内戦西南戦争の動乱と敵味方の確執を越え、明治時代に海軍将校と成って協力した薩摩国島津家臣出身の東郷平八郎元帥や徳川親藩の伊予国久松家松山藩藩士出身の秋山真之参謀、會津藩出身の柴五郎中佐、西郷ドンの御息子の西郷菊次郎台湾宜蘭庁長等、それ等の日本や周辺国をロシア帝国による白人の植民地化から守った偉人達の内、海軍サン達が愛した店だ。
海軍は明治の元勲同様に料亭小松に通った井上成美サン始め諸将が、太平洋戦争開戦や中華民国との戦争にも外務省と連携し慎重だった事でも有名だ。
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もっとも、中華民国自体は尼港事件や三光作戦で日本人を含めた現地ロシア人や中国人を無差別虐殺して自滅する訳だが、それは又、別の話し。
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※写真は臺灣台北市の中正紀記念堂
奇しくも尼港事件でロシア共産主義者とソレに荷担する朝鮮兵と中華民国兵による、ロシア帝国国民と日本人への無差別虐殺を阻止すべく援軍に向かうはずだったのが東郷平八郎元帥が嘗(かつ)て乗艦した、三笠だった。
因(ちな)みに当時の中華民国国民党は既に孫文先生の実権が軍閥の袁世凱に乗っ取られ別物に成っていた。もはや民主化や近代化を目指した孫文先生のソレとは似ても似つかない政権だった訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし

※写真は南京市に在る孫文先生の御廟所、中山陵
残念ながら三笠は流氷に阻まれ尼港に辿り着けず日本人は全て無惨にロシア共産主義者テロリストと朝鮮兵、中華民国兵に虐殺され、女は犯されてから同じく全て殺された。日本人は文字通り一人も残さず殺され、尼港は町ごと廃墟に成った歴史を知る人は現在では余りいない。
この事件は法治主義教育の大切さや右派左派問わずテロリストはテロリストと学ぶ事例でもある。
孫文先生の理念を引く継ぐ現在の台湾には、小生も多くの友人がいるが袁世凱の中華民国と違い皆さんも御存知の通り親日家が多く日本の漫画や居酒屋が多い。
つまり、人種よりも教育によって人間は残虐にも成ってしまうし逆に文化交流と同じく教育によって親しくも成れると言う事が中華民国の歴史を見ると良く解る。
そして、自国も自己主張をしないと、誤った歴史観を拡散されてしまったり相手の問題点を指摘する事も出来ないと言う日本人と日本政府の問題点も、台湾や幕末の偉人~東郷元帥や明治の元勲の歴史を通して見る事が出来る。
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因みに三笠は現在、アメリカやイギリスの支援も在り世界三大記念艦として、今回火事で消失した料亭小松の近くに在る三笠公園に展示公開されている。

話を小松や、明治~昭和初期の建築遺産の料亭の話題に戻そう・・・
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残る海軍料亭は今回燃えた小松を含め三軒、残る二軒は横浜市神奈川区旧東海道神奈川宿の田中家と横浜市金沢区の金沢園。
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その内、今回の小松と横浜市金沢区の金沢園は建物自体が重文指定するべき程に価値が有るものだった。
田中家近景

現在の田中家↑と幕末の↓田中家
東海道五十三次 神奈川宿 田中家

※「さくらや」と書いて有る店が田中家の前身の旅籠
田中家は坂本龍馬夫人お龍サンが未亡人に成ってから暫く働いていた店として有名だが、先日ブラタモリで店が紹介された際は、その歴史は紹介されなかった。

今回の小松の火事の事で明治時代の横須賀の歴史がクローズアップされたが、実は、お龍サンの御廟所が横須賀市に有る事を知る人は現代では少ない。
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お龍サンは、横須賀市大津に在る信楽寺(しんぎょうじ)で眠っている。
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お龍サンの亡夫:坂本龍馬サンの祖先は明智光秀の縁者と龍馬サンは自称していたそうだ、だから苗字も琵琶湖の畔(ほとり)に存在した明智家居城の坂本城の地名を冠しているのだろう。
その龍馬先生の妻君、龍子夫人が、明智家所縁の地名近江国の信楽(しがらき)や大津と類似した地名の地横須賀市大津で終焉を迎え現在も眠っているのは、坂本龍馬サンとの因縁を感じられずにはいられない。

右翼は戦史を敗戦の原因までも美化する阿呆が多いが、逆に糞左翼は良い歴史や尊敬すべき先人や歴史文化財までもタリバンがカシミール遺跡を破壊したのと同じ様に敵視し阻害し否定する。

・・・今回の小松の火災が愚かな共産主義者過激派や社会主義のキチガイ、反日朝鮮人過激派や反日中国人過激派による放火が原因で無いと信じたい。

建築文化財も歴史遺産も認識出来ない様な奴は、文化も文治も文民も語る権利は無いと知れ。

料亭小松は、そんな深い日本や周辺国の歴史の明暗や半ばの朝夕の美しさを省みる事の出来る場所であり、建築文化財だった。

再建を祈る。
・・・と、同時に横浜市金沢区の金沢園の重要文化財指定を切に願う。
金沢園も美しい内装の昭和建築遺産だ。

神奈川県横須賀市に、欧米諸国と南米諸国、アラブ中東諸国、アジア諸国から、ロシア帝国主義を打破した象徴として称賛された第一次世界大戦時の日本の海軍、連合艦隊の旗艦「三笠」を皆さんは御存知でしょうか?
実はその三笠、前々回の記事でも触れましたが「世界三大記念艦」として数えられているのですが…
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実は横須賀市の「三笠公園」に今も「世界各国からの後押しが有り」保存、展示公開されています。
因みに世界三大記念艦とは…
●大英帝国海軍…ヴィクトリー号
●アメリカ合衆国海軍…コンスティチューション号
●日本の明治政府時代の連合艦隊旗艦…三笠
…以上の三隻です。政治的に帝国主義打破、軍事的に稀有な戦果を挙げた名戦艦で、現在も記念艦として保存されているものを指します。
※そこら辺りの内容は前々回の記事リンク「ココクリックして御覧下さい。
(前々回の記事は左翼と右翼が両方発狂する内容ですので閲覧注意!)
※以下イギリス国名を「英国」と呼称します。
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今回は、その戦艦三笠の構造や性能、外観そのものを御紹介差し上げたいと思います。
まず三笠の正面から見た様子です。
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全幅23.2m 喫水8.3m
現代の艦船と比べると、余り大きさは有りませんね。
しかし、ペリー提督がアメリカから乗船して来た時代は木造蒸気船の戦艦だったので、英国の産業革命の偉大さが良く解ります。
因みにこの「三笠は完全な英国製」です。英国は明治政府の近代化を支援して下さっており、英国から軍艦の購入のみならず、太平洋戦争でも活躍した「金剛」の購入時等には建造技術も日本に教授して下さいました。
その後、不幸にも日本は陸軍の暴走により外務省の努力空しく英国との同盟が破たんしてしまい、敵味方に別れてしまいました。

後部はこんな感じ…
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全長131.7m
思ったより船体は背が低く見えますね。
戦艦なのですが、当時の戦艦は全長も現在のイージス艦より小さかったんですね。

現代艦と比較するのはオカシイ話ですが、明治時代の名戦艦と現代の名艦船で色々比べて見ましょう。
日本帝国海軍 戦艦 三笠
全長131.7m
海上自衛隊 護衛艦 こんごう
全長161.0m 
この時代の動力では、この大きさを動かすのが限界だったのでしょうか?
では、エンジンの性能差は? 
三笠
出力: 15,000馬力 
最高時速:33km
航続距離:12,964km(時速18km) 
乗組員:860名
こんごう
出力100,000馬力 
最高時速:55km~ 
航続距離:11,112km(時速36km) 
乗組員:300名
…明治時代の戦艦なので、やはり現代艦とは技術の差を感じますね。

しかし、現代艦が当時の戦艦に劣っている部分も有ります。
それは装甲の厚さです。現代の艦船は当時の戦艦の砲撃の直撃を受けたら大穴空いて沈没します。
これは海戦が直接砲撃合戦から、装甲など意味を成さないミサイル爆撃に戦術が変化した為に現代艦は頑丈な装甲を必要としなくなった訳です。
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これは前部指令室塔を守る装甲ですが、33cmの厚みが有ります。
もし、ミサイル無しで明治の戦艦と平成の護衛艦が主砲だけで打ち合いしたら、護衛艦が瞬殺されるでしょう。 
ただしミサイル撃ち込まれたら三笠も1発で沈みますが…。

砲撃戦闘をする時代の戦艦なので、側面はハリネズミの様に大砲だらけです。
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主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
凄いでしょ?
しかも、この大砲、コンピュータの無かった時代なので当然手動です。
では、この副砲の射撃はどの様に行われていたかを覗いてみましょう…
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1人が照準を合わせ、更に大砲を腰と両手を使って動かします。
1人は弾薬の装填と砲撃。
1人は弾薬の準備でしょうかね?
…超肉体労働かつ数学のクイズを永遠とやる状態。絶対にやりたくない。てか、そんな体力も根性も無い。
しかし当時の人は、体と頭と精神をフル稼働して日本人を守って下さった訳です。
因(ちな)みに、ロシアやソ連と交戦して負けた場合どんな事に成るかは「尼港事件」と言うのを調べれば解り易いかと思います。先人がロシアの植民地化に抵抗し日本海海戦で勝って下さったので現代人はコンビニで御菓子買ってTV見ながらのほほんと生活出来たり、日本や海外の伝統文化を楽しめる訳です。
もしロシアの植民地に成って、その後ソ連にでも成ってたら共産主義独裁政治で民主主義選挙政治は無くなり、伝統文化弾圧や報道規制が行われ、計画経済で商売も自由に出来なくなり、オシャレも楽しめない無文化時代に成っていた事でしょう。

少し脱線しましたが、この副砲のパーツ毎の写真も載せます。
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この手前の輪っかみたいのに腰を入れて左右に動かします。
左上の立て板は、肩を入れて動かす為の物だそうです。
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砲身の後ろには弾を込める蓋と、操縦の為のグリップが有ります。
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このハンドルを回すと、砲身が上下に動きます。
そのすぐ上にアナログの照準と言うか…
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敵艦の距離を計算し、砲弾の射出角なんかを自分で計算する為の機材が有ります…
多分、昔の人の方がPC任せの現代人より、よっぽど頭良かったんだと思います。
…本当に凄い。

この口径15.2cm副砲が14門有り、下層階には更に20門の対水雷艇砲が有る訳です。

因みに手前の側面赤い階段が記念艦三笠への出入口です。
拝観チケットは、三笠公園入ってすぐの売店の自販機で販売しています。
入口階段の傍には、当時の色んな戦艦の砲弾が展示されています。
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世界最大の戦艦、大和の砲弾。
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明治政府時代の海軍と交戦した、満州族政府の中国清朝の戦艦鎮遠等の砲弾。
入口を上がると、後部主砲が出迎えてくれます。
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ベンチが有りますね。
主砲には三笠が参戦した海戦の戦歴が銘板に刻まれています。
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その下には、三笠の砲弾が展示されていて、実際に大きさを間近で体感できる様に成っています。
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でも、これだと良くわかんないでしょう?大きさ。
だから…
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…小生の靴を置いて比較してみました(笑)。
小生は足のサイズ28cmです。
だいたい砲弾は全長90cm位ですかね~?
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この砲弾に使われている下瀬火薬と言うのは、後の「焼夷弾」の様な性能を併せ持った艦船を「焼き尽くす」画期的で凄まじい兵器だったそうです。
もし、この主砲を現在ぶっ放した場合…
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射程距離は現在でも、とんでも無い範囲ですね。
10kmも先の標的を狙い撃ちに出来るようです。
関西で例えるならば…
京都駅から宇治や大山崎辺りまでバンバカ狙い撃ちにされる様な感じですかね。

大阪駅とか梅田駅からだと…
住吉大社や尼崎辺りまで正確に狙い撃ちされる感じですね。
…現代人の感覚でも凄まじい。しかもアナログ計算。明治の人間の脳内コンピュータ恐るべし。

所で、この後部主砲は皇族の伏見宮博恭(ふしみのみやひろやす)王が指揮官として黄海海戦時に任務に当たった場所です。その際に伏見宮閣下(当時は軍人だったのでこの尊称を用います)は負傷しました。
また、次の記事で書こうと思いますが、戦艦三笠でも沢山の将兵が戦死しています。
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戦争と言うのは日清・日露戦争の様に必要な防衛の為の戦争も有りますが、三笠は日中戦争や太平洋戦争の様に回避する努力を優先するべき戦争が有る事も考えさせられる場所です。
戦死した方々を含めた先人の御蔭で、日露戦争では日本はロシアの植民地に成らずに済みました。
しかし軍隊が、侵略側に回るか国民を守る側に回るかは政治家次第なので、しっかり国民が中道保守派の政治家を選ばないといけない事も解る場所が、この記念艦三笠なんだと思います。

因(ちな)みに、この後部主砲で活躍された伏見宮閣下の「皇族伏見宮家」ですが、幕末に勅願所(ちょくがんじょ=祈願成就のお願いをする神社仏閣)を福井県の「剣神社」と定めていました。
実は、福井の剣神社の宮司家の御子孫が織田信長公で、剣神社の最初の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)=牛頭天王でした。
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ですので織田家は、愛知に移住後も牛頭天王を祀る津島大社を大切に保護されていました。
なぜ、伏見宮家と織田家の話を出したかと言うと、実は織田信長公は御自身を「第六天魔王=第六天神」と武田信玄との文通の喧嘩の中で自称した事が有るのですが、この三笠公園からそう遠くない隣町の横須賀市田浦町には今上天皇(現在の天皇)陛下の御誕生を祝して造営された梅花の名所「田浦梅林」が在ります。
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その田浦梅林の発祥地は第六天神社の小さな御社(おやしろ)の在る場所です。
そこから第六天神は横須賀の港と市民を見守って下さっているんです。
つまり…伏見宮家⇔織田家⇔第六天神は横須賀と三笠でも御縁が有る訳です。
※以前書いた田浦梅林の風景紹介記事リンクは「ココクリック!

さて、話を三笠の構造と装備に戻します。
主砲がどんな大きさなのか、見て貰いましょう。
下は前部主砲の写真です。
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解り難いでしょうか?
真上から見るとこんな感じ…
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まだ解り難いですかね~?
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艦橋(かんきょう)と言う場所から見た前部主砲。
では正面から…
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横に居る人と比べると、主砲の砲台がメチャクチャ大きい事が御理解頂けるかと思います。
今、艦橋と言う施設に触れましたので、その構造物の説明をしますと…
三笠の前後の主砲付近には「艦橋」と呼ばれる構造物が有ります。
下は多分、後部艦橋の写真です。
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艦橋の下の大砲は主砲じゃなくて副砲です。
後部主砲はテントの屋根の下の先に有ります。
この環境と言う場所が、交戦状態の時に司令官や参謀達が居る場所です。
ここから双眼鏡を使って状況を観察しながら作戦を調整して、伝令用の配管から乗組員達に命令を伝達する訳です。
つまり指揮を執る場所です。
現代の自衛隊の艦船や太平洋戦争中の艦船の「艦橋」も高所に設置されていますが、現在ではちゃんとした指令室に成っており屋根の有る部屋の構造物に成っています。
明治時代当時の艦橋は、この様に文字通り艦「橋」つまり、艦船に設けられた橋の様な構造物で、雨ざらしだった訳です。
当時の将校は風雨に晒され、敵の砲弾が海水に着弾する轟音と自分の乗艦の射撃音の中で良くも冷静に指揮を出来たものだと、頭と精神面の弱い小生は感服するばかりです。

下は前部艦橋です。
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ここが、日露戦争の時に東郷元帥が指揮を執った場所です。
艦橋下部の円筒形の部分が「装甲の厚さの説明」で先に紹介した司令塔です。
司令塔とは書いて有りますが、中は船の舵を執る操舵室(そうだしつ)に成っています。
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後部司令塔は艦橋が敵砲撃で危険な際の指令室の役割を果たす場所なのだと思います。
舵を切る操舵(そうだ=ハンドル)の前に有る真鍮製の円筒形の物は方位磁石です。
方向定めるのに必要ですからね。
この方位磁石は操舵室の他に、司令官が指揮を執る前後艦橋にも有ります。
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上は後部艦橋の方位磁石。本来、正面から見れるのですが、何故か板で蓋をされていました。
下は前部艦橋の方位磁石。正面から見れる様に成っています。
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ついでい艦橋の設備を説明します。
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写真に撮り忘れて面目ないのですが、艦橋の方位磁石と反対のマスト寄りの方には敵艦との距離を計測する機材が備え付けられています。
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艦橋の下、箱状の部屋に成っている場所は正規の操舵室と、後方が海図室です。
つまり航海士がそこに詰めて、現代ならGoogle Earthや人工衛星の様なコンピュータソフトを用いる様な事を人力で地図を見ながら計算し「脳内作業で海上ナビを行っていた」訳です…
凄いですよね、本当に、昔の人達の頭の回転。
海図室はこんな感じです…
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完全に事務室。
操舵室はこんな感じ。
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先程、司令塔にも同じ操舵設備が有りましたよね…
多分、どちらかが敵の砲撃で損傷したり人員が被弾戦死しても、機能維持出来る様に予備施設として二つ準備されていたんだと思います。PCで言う所のバックアップですかね。
それにしても、当時の機材はどれも工芸品の様にきれいですね~。
流石、英国製!
…でも、この艦橋、戦後にアメリカやイギリスや台湾の後押しで復元再建した場所だから現代日本の物かな(笑)?そこら辺はよく解りません。もしかしたら、敗戦後の甲板上部構造物撤去時に米軍か海上自衛隊で保管していたのかも知れませんしね。

この艦橋からは明治時代に作られた要塞で、現在は東京湾の有名な無人島でキャンプ等レジャー施設として利用されている「猿島」が綺麗に見えます。
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つまり、この眺望が無いと戦況は確認出来ないので、艦橋=指令所だった訳です。

さてさて、司令塔周りは何となく御理解頂けたでしょうか?
では、甲板の構造物に話を移します。
三笠は入口から入って来た辺りに通信室が有ります。
艦の真ん中より少し後ろ位でしょうか?
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この写真じゃ良くわかんね~な…
じゃあ、↓こっちで。
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ここでモールス信号使って、世界中の中継地を使いながら日本本土の参謀本部や仲間の艦隊とやりとりしてたんですね~。
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…実は戦国時代の横浜市南東部の殿様、間宮家の顕彰活動で情報を提供して頂いた家臣の御子孫が太平洋戦争中に学徒動員で輸送艦の乗組員に成ったそうなんですが、その方はモールス信号の試験に合格した御蔭で通信兵として輸送船で、この役割を担ったそうです。
御話では、確か1週間位の学習期間で1発合格しないといけないそうです。
難関ですよね。
もし、試験に不合格だったら前線の水兵に成って戦死されていたかも知れませんね…
人間の運命なんて、本当にそう言った僅かな差や出来事で大きく左右される理不尽で無情な物なんですよね。
逆に僅かの差で大きな幸せを掴んだ人もいる訳です。
小生はこの通信室を見て、そんな事を思いました。

船の通信と言えば、艦隊編成で航行中に仲間の船と連絡を取り合う手段があと2つ有りますよね!
一つは手旗信号…
小生詳しくないですし、資料写真も無いので手旗信号はスルーします(笑)。
もう一つが「照明」によるモールス信号ですね。
その照明設備が下の写真です。
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電波通信が妨害されたり不具合生じた時に仲間と目視で連絡を取り合う手段です。
艦橋と確か甲板にも有ったような樹がします。
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又、艦橋の写真ですが、この通信も風雨に晒された中で行う作業なのでさぞかし大変だったと思います。
戦艦三笠は「尼港事件」の時に極寒のシベリア方面にも「邦人とアメリカ人・ロシア系一般市民の救出」に向かった事が有るのですが…
その際、流氷に阻まれて氷原の中で立ち往生した事が有るそうです。
当時、甲板で勤務された将兵は、さぞ辛かったろうと思いますが、小生と違って誰も弱音なんか吐かなかったんでしょうね…。
小生はつくづく現代でしか生きれない弱い魂の持ち主だと思うばかりです。しかも、こんな平和な時代でも生き辛いと感じてしまいます(笑)。海外で感情表に出して言いたい事言って良い環境で生活してる方が楽だったな~とか留学中の事も少し思い出してしましました。
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甲板を写真左側前部主砲の方から船尾の方までパノラマ撮影するとこんな感じに見えます。
多分、主砲を撃つ時に砲身の直ぐ近くにいると衝撃波で目玉が飛び出たり鼓膜が確実に破けると思います。
第2次世界大戦時の世界最大の戦艦大和は、主砲の砲撃時に主砲の傍にいると衝撃波で人が死ぬ程だったそうです。

では、攻防を巡る戦艦三笠としての説明はここまでにして、以下は戦艦三笠で任務に就いていた「水兵・将校・司令官達の居住環境」と「三笠にまつわる神様」の説明をしたいと思います。

まぁ~、軍隊と言うのは政治家の馬鹿さ加減や賢明さや、根本とする哲学で中共やソ連の様な社会主義覇権軍事国家として暴走したり、東条政権での陸軍暴走からの外交失政の様に統制を執れなく成ったり…
逆に!
明治天皇御存命中の東郷元帥の様に日本国民を外国の植民地支配から守ったり、柴五郎大将の様に宗教国籍問わず一般市民をテロリストや宗教差別から守る為に活躍されたり臺灣司令官として現地人からも尊敬されたり、正反対の評価を受ける将校がいる訳です。
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上は関内入口近くに在る「Z旗」の説明看板の写真ですね。
東郷元帥の冷静沈着で国際法も熟知した英明さの結果、日本と旗艦三笠が率いた連合艦隊の日本海海戦での勝利が有った訳ですが、Z旗は現在では「大成功を期する印」としての意味も持つ様に成りました。

軍隊は政治家次第で悪にも善にも成る訳です。
又、勝か負けるかでも将校の評価も変わって行く訳です。もっとも実力主義でなければいけない世界です。
現在の年功序列の公務員制度は自衛隊には相応しくないのも、東郷元帥の抜擢が証明に成っています。
さて…
そんな軍隊は軍隊内の秩序と業務グループ毎の効率を管理する為に厳しい「階級」を基準に組織が編成される訳です。
当然組織は階級によって給与や福利厚生待遇も変わります。これは当時の軍隊も現在の民間企業も同じです。
では、先ずは末端の水兵達の居住空間を覗(のぞ)いて見ましょう… 2015-10-28-14-41-54
下級兵士の寝る場所は、こんなハンモックでした…落ちるだろ(笑)。
こんな布団で寝ながら国をロシアの植民地化から守って下さった当時の水兵さん達に頭が下がります。
最初の方で現在の「護衛艦こんごう」と「戦艦三笠」の乗組員数は比較しましたが、当時の戦艦はアナログ機材とエンジンで動いていたので乗組員も多く、就寝場所の確保すら難しかったのが良く解りますよね。
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860名の乗組員中、830名がこの状況で睡眠をとっていたそうです。
中尉って決して低い身分では無いんですが…
仕事中に満足に休憩する暇が無いとイラツク根性無し小生には、軍隊生活は耐えれないと思います。
しかも!

……
………驚愕の事実が………
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先に大砲の構造の紹介で見て貰いましたが副砲の直ぐ横に吊るされているんですよ!
しかも10名分。
ここで寝るとか…
「絶対に無ぅ~理ぃ~(泣)!」
…と思うのは小生だけですか?
横で同僚がバンバン大砲ぶっ放してる最中でも交代で睡眠とってたんでしょうかね~。
因みに、現代艦こんごうは三笠より全長が30m長く乗員も300名なので、こんなに狭い居住空間と言う事は無いでしょうね。
二段ベット位は有るんじゃないかな?

では、上級将校の職務室と個人部屋を見て見ましょう。
下は幕僚事務室。
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なんか撮影下手ですみません。
でも立派な家具が有るの見えますよね?
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会議を行う机とテーブルはちゃんとした物だし、周辺のソファーは革張りの立派な物ですね。
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まぁ~、これでもかなり狭いんでしょう。
下が参謀長公室です。
恐らく、兼用私室でもあった筈です。
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参謀長一人の部屋で、幕僚事務室と同程度の家具装飾品が備わっています。
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下の写真は箪笥(たんす=クローゼット)ですが…
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箪笥の上が立て板で囲われていますよね。推測ですが、恐らく当時は布団が敷かれていてベッドとしても機能していたんじゃないでしょうかね~?
部屋は5~6畳位、決して広くは有りません。
しかし!
長官=司令官にも成ると待遇がグッと変わり、ちょっと良いビジネスホテル並みに成ります!
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ちゃんと、ユニットバスが長官1人の為に用意されています。
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そりゃそうですよね~。
「偉いから」とか下らない理由じゃなくて、全ての判断に責任を持つ長官は常に心身とも清潔な状態でいてくれないとストレスで判断ミスをする事は許されませんから。この程度の最低限の準備は、従う下級士官達は自分達の生命の行く末を握っている長官の心身の健康の為に納得でしたでしょうね。
まぁ~、逆に悪い例が待遇が良すぎて「大和ホテル」と揶揄された太平洋戦争末期の世界最大の戦艦大和ですが、大和の通常献立も小生は見た事が有るのですが…
贅沢過ぎなんですよ、明治時代の軍人さんに比べて昭和の戦犯軍人達の待遇は。
戦艦大和の献立なんか、フレンチ料理3皿が常時出るんですよ?なんなんですかね?
結果、大和は自分達の役割を全うせず司令官の判断ミスにより、敵のいる陣地への艦砲射撃と敵殲滅をせず敵と交戦前に何故か反転撤退…
この自己防衛的な判断ミスで太平洋戦争の戦況悪化に拍車がかかって行く訳です。
上級公務員の待遇を良くし過ぎるのは既得権益や自己の保身に走らせる厭戦気分を起こす恐れが有る訳ですね。
続いて長官の公室を見て見ましょう。
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三笠に限らず、日本の戦艦には神社と言うか、神棚が据え付けられています。
三笠の鎮守の神様は海上航行の神で有り武神でもある「八幡大菩薩」ですね。
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三笠の起請文(きしょうもん=神様に願い事と、それを実現する為の誓いを立てる約束を記した文章)は八幡大菩薩に対して請願を立てています。
よく「天地神明に誓って!」と言うフレーズは、この起請文を立てるのと同じ意味が有り、嘘偽りが有れば己の氏神や誓いを立てた神仏から神罰仏罰を受けますと言う意味ですね。

国家神道が成立し(日本の古代神が政治上管理され)それが浸透した昭和には全国の八幡宮では「八幡神」と名前を改名してしましましたが、日本の歴史上は八幡宮の神様である応神天皇は「八幡大菩薩」と呼ばれて来ました。
つまり、東郷元帥達も平安貴族、平安武士や鎌倉武士、戦国武将や江戸時代の侍と同じ神仏習合の価値観を大切にされていた事の証明でもあります。
因みに、八幡大菩薩は最初、大分県の宇佐八幡宮に祀られた後で、御神霊が京都の石清水八幡宮に遷座され、現在は京都から日本の安全を見守って下さっています。
下は鎌倉武士団の子孫達や東日本の日本国民、横須賀ベースの米軍海兵から崇拝と人気を集める鶴岡八幡宮です。
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横須賀の三笠公園からほど近い鎌倉にも、現在は日本三大八幡宮と呼ばれる「鶴岡八幡宮」が在りますが、この鶴岡八幡宮を開いたのが京都石清水八幡宮で今で言う成人式を行った鎌倉武士団の始祖である源八幡太郎義家公とその御父君の源頼義公でした。 2015-01-07-17-47-47
写真は夜の鶴岡八幡宮
昔は福岡県の筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう)が宇佐八幡宮、石清水八幡宮と合わせて日本三大八幡宮と呼ばれたのですが、それに鶴岡八幡宮を合わせて現代では四大八幡宮の体を成して日本の武家の子孫達から崇拝を受けています。
八幡大菩薩は伝承では自ら名を「八幡大菩薩」と名乗ったと一番古い記録に登場するそうなので、古代からの価値観を踏まえても神仏融合の神様で有り、現代の国家神道を第一とする人の価値観で言う所の「八幡神」では無い事が三笠に来ると良く解ります。
…東郷元帥の御先祖様は、昔は鎌倉郡の一部だった現在の藤沢市に在った村岡城を本拠地にした平安時代の名将、鎮守府将軍平良文(たいらのよしふみ)公です。 2014-09-04-13-09-01
上の写真は平良文公の御廟所の有る藤沢市の二傳寺。
※二傳寺と平良文公の記事は「ココ 」←クリック!
平良文公は鎌倉武士団の元に成った坂東平氏系大名の祖先にも当たる方なので、鎌倉の鶴岡八幡宮とは創建に関わった人々と非常に地縁と血縁も深い殿様でもあるので、武士的な神仏の価値観に基づいて言えば「神仏の中でも軍神格の八幡大菩薩の御霊を備えた三笠に乗船して活躍するのは運命」だったのかも知れません。
下は第11代艦長久保少将の遺品の屏風だそうです。
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日本海戦時の三笠で活躍された当時の秋山真之先任参謀の元同僚だったそうです。
艦長クラスで漸(ようや)く軍務と関係の無い私物を持ち込めたんですね…
下は長官公室ですが、この部屋で漸く少しだけ贅沢な造りに成ります。
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…と言っても、ここも職務室を兼ねているので、完全に私室では無い訳です。
この部屋の下の写真の鏡台に小さい厨子(ずし=神像や仏像をしまう箱)が見えますよね?
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実は、その中には東郷元帥の御遺髪が納められていて御神体として保存されています。
…神仏に抵抗なく、良く歴史偉人の御墓参りに行く小生でも、御遺髪と言うのは少し「ギョっ」としました。
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皇族の御写真も展示されています。
この部屋から、長官専用の外部デッキに出る事が出来ます。
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それがここです。
外に出て気分転換が出来る様に成っていたんですね。
先にも述べましたが、リーダーは常に心身共に清潔で無くては行けない訳です。
ちゃんと寝ない睡眠時間の短い経営者とか、その自分の勝手を従業員にも押し付けたりする事件よく有りますよね?
あんなんじゃ軍隊で人心は付いて来ない訳ですよ。戦闘開始して命を預ける気にも成らない訳です。
心の腐ったリーダーだと「ワ○ミ」のオーナーとか、「たか○ゆり」みたいに従業員に対しブラックな業務を押し付けて従業員に訴えられる様な事を平気でしてしまう訳です。
…東郷元帥や明治時代のリーダーが現代の政商やブラック経営者と全く違う道徳心を持てたのは、ちゃんと心身ともに清潔だったからでしょうね。

この様に、軍隊としての三笠の生活は階級によって福利厚生に差が有りました。
しかし、長官の居住空間でさえ、凄く贅沢な物ではありませんでした。
そう考えると、国家公務員や議員の宿舎も、三笠の長官室程度の設備で十分なんじゃないかと思います。
ユニットバス+寝室+リビング+キッチン…程度?
家族出来たら自分で民間人みたいに勝手に外に家買って住めってんだよ。
…みたいな?明治の東郷元帥の待遇と、昭和の日本人から見た敗戦の責任の有る戦犯将校や現代の腐れ高級官僚と政治家の比較も、歴史の現場を実際に観察すると感じれたりする訳です。
現代社会の「悪」や「誤り」を過去に実例を元に比較判断出来る訳です。
だから、歴史事件の発生現場に行ったり、史跡や城跡や神社仏閣を保護したりちゃんと調査する事が大切な訳ですね。

さて…
小生の歴史観では「歴史は辛い部分もちゃんと見たり、名前を忘れず亡くなった方に対する敬意を大切にしたり、日本に災難や不利益を齎(もたら)した戦犯も名前を晒し続けたりしないといけない」と思っていますので。
ですから、日本海海戦の旗艦三笠ですら戦死者が当然いた事実も、ここに記しておきたいと思います。
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先ずは、戦艦三笠の戦歴の銘板写真です。
拡大しても見れる画素数ですので、じっくり見て頂ければ幸いです。
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【氏名】
 品川一郎 中将 戦死 ※他負傷者1名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 記録するのを忘れました。再訪問の際に再確認し、加筆します。

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【氏名】
 殖田謙吉      少佐
 藤瀬慎二郎 中尉
 深田太郎      上等信号兵曹
 山本佐太 郎 上等信号兵曹
 山口朝蔵   一等軍楽手
 渡辺領吉   一等兵曹
 深沢半次   二等信号兵
 山本寅一   一等軍楽手
 以上戦死。
 ※他負傷者17名、艦長伊地知大佐を含む。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 前部艦橋周辺。

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【氏名】
 水野榮次郎 二等機関兵
 安藤榮太郎 三等機関兵
 以上戦死。
 ※他負傷者09名。
【日時】
 明治37年(西暦1904年)08月10日18時30分頃。黄海海戦にて敵砲撃被弾炸裂により戦死。
【場所】
 左舷前部の兵員病室(現:講堂付近)。

この他にも多くの方が戦死されていたと思いますが、戦死者銘板を撮影し忘れた場所も有るので、再訪問の際には撮影し、改めて加筆します。

さて…
三笠でも多くの方が亡くなっている事は御理解頂けましたか?
この方々が奮闘して下さった御蔭で現在の日本は在ります。
…それは戦争賛美ではありません。ただ淡々と歴史事実としての無名戦士の記録を我々が忘れない為に記録されているんです。
ロシア帝国主義による日本植民地化を防いで下さったのは「東郷元帥や秋山参謀だけではない」と言う無名兵士達への敬意でもあります。
又、戦争をすれば必ず人は死ぬ、しかし防衛戦争をしなければ人は大量に殺される、大義無き侵略戦争をしても敵味方兵士も戦死するし敵国市民も戦災に遭うと言う、戦争観を示す意味にも成ると思っています。
小生のこの価値観と、この戦艦三笠を記念艦として残す事に御尽力された米国のニミッツ元帥をはじめ、日本人と世界各国の皆さんの思いも、この小生の歴史観と同じだったのだと思います。
それは左右両極端な異常な思考を持つ者への楔(くさび)にも成ると思っています。


では!次回、この記事の続きの更新で又お会いしましょう!


次回は京都の御寺や安土城等を紹介し、12月には初詣向けに神奈川の凄い神社仏閣記事を更新したいと思います!
…気まぐれで最近訪問した御寺や神社やレストランの記事に成るかも知れませんが(笑)! 




皆さん、横浜の三塔ってご存知でしょうか~?
幕末~昭和初期の横浜市の旧中心街の日本大通りに、KingとQueenとJackと呼ばれる江戸幕府が終了し文明開化を迎えた頃に建てられた美しい近代西洋建築遺産があります。

本当は今回の記事で、公開中の映画「HERO」のロケ地にも成っている神奈川県庁旧庁舎に特化した記事を書くつもりだったのですが…
その前に、この地域の近代西洋建築と発展の歴史を写真と衛星写真で軽く解説させて頂く事にしました。
じゃないと、何で西洋建築をブログで取り扱うか意味も解らないと思うので。

冒頭で述べた「横浜三塔」と言うのは、実は横浜発展の歴史とも関係が有るんです。
では、まず、三塔の外観の写真を御覧下さい…

KING
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キングは神奈川県の旧庁舎の塔の事。

QUEEN
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クイーンは横浜税関の塔の事。
JACK
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ジャックは横浜開港記念館の事です。
横浜三塔
別角度でもGoogle Earthの3D地図で位置関係を見て見ましょう。
横浜山下地区:3塔位置関係
すべて幕末から文明開化を迎えて建設された近代西洋建築ですが、昔、海外から来日する国際航路の船舶の乗船者が船上から、この3塔を同時に見られたら幸運に成れると言われたそうです。
美しい建築遺産ですね。

実は、この3塔の前に今は山下公園や象の鼻パークが在りますが…
キングこと県庁旧庁舎の辺りは昔は今の横浜市の市名の由来に成った半島があり、その半島は海側から見ると本当に横に長い浜だったそうです。
ペリー提督
そこにアメリカのペリー提督が上陸し、その際、米国艦隊の海兵軍楽隊が演奏する吹奏楽を聞いたのが日本人が初めて西洋の音楽に触れた瞬間でした。
これを契機に日本と西洋諸国の間で通商条約が結ばれ、江戸幕府が国際船舶の貨物の荷揚げ積み下ろしの為に作った波止場が象の鼻パークでした。
ですので、現在も国際航路客船が停泊する「大桟橋」こと国際客船ターミナルが、象の鼻パークの前に建設された訳です。

では、三塔と象の鼻パーク周辺の位置関係を見て見ましょう。
横浜三塔と周辺位置関係
横浜市の都市設計は、今の林市長以前は海から来る外国の客船に綺麗に見える様に設計されていたと言うのは割かし有名な話で、明治時代から先代市長まで歴代市長が景観を大切に都市を創造されてこられました。
ので、大桟橋から見ると、正面に横浜スタジアムが見え… 横浜三塔と山下公園
右手には「赤レンガ倉庫」の立ち並ぶ旧新港埠頭やランドマークタワーとクイーンズスクエアが立ち並び夜景を彩るミナト未来地区…
横浜山下地区:大桟橋
左手には関東大震災以降に、市民の退避場と海浜公園の機能を兼ね備えて造られた「山下公園」や「みなとの見える丘公園」のあるオシャレな山手地区への海岸が在ります。

次回、HEROの公開中と言う事もあるので、HEROや華麗なる一族等のロケ地である、神奈川県庁内の写真を掲載したブログを書きますが、実は神奈川県庁、一般公開されています(ただし平日に限る)。
で、屋上のキングもすぐ目の前で見れますし、横浜市民も余り知らないのですが屋上からの横浜港の絶景を眺める事も出来ます。
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この県庁旧庁舎屋上からの写真、象の鼻(メリケン波止場史跡)の手前の方に左右に横切る陸橋の遊歩道が見えませんか?
実は、この遊歩道、昭和末期まで活用されていた鉄道輸送網の一部で、西郷さんや伊藤博文公が乗車した新橋~初代横浜駅(現:桜木町駅)を走ったSL(蒸気機関車)の路線を新港埠頭の赤レンガ倉庫へ延伸し、更に後に建設された新山下埠頭や本牧埠頭にも延伸されたその路線の線路の跡なんです。
ですので、小生が子供の頃この遊歩道にまだ線路が通っていて、開港記念日には記念にSLが走ったりしていました。

この地域、幕末に逸早く開かれた関内(かんない:関所の内側の外国人居留地)だったので、県庁の目の前には又じずれ別記事で詳しく書きますが、旧イギリス大使館の横浜開港資料館も在ったりします。
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この他にも沢山の近代西洋建築遺産があります。
いずれ順番に紹介しますね!沢山写真は撮り溜めてありますがか♫
なんで日本大通り周辺にこの様に近代西洋建築が密集しているかは、先程ちょっと触れましたが、横浜の地名の由来に成った半島が有ったので、その地盤がちゃんとした半島の上や山手地区から先に開発が進み、その後で埋め立て地である関内は旧吉田新田方面が発展していったんです。

実は地形を見ると、昔、この辺りが半島だった名残りが解ります。
それは横浜中華街に有る特徴で解るんです。
横浜の地名由来説明
横浜中華街だけ、他の道と違って斜めに町が設計されていますよね?
実は、この画像で赤い範囲で囲った辺りが、おおよそ横浜とも弁天半島とも呼ばれた半島だった場所なんです。
中華街が斜めに成ってしまったのは、最初に山手の丘の麓の、今の元町商店街がある海岸と半島の付け根に当たる部分から埋め立て始めたから、その様に斜めに道路が設置されてしまったんですね。
元々は町では無く、海を干拓し水田にする予定だったので、その畦道(あぜみち)の名残なんです。

さて、そんな訳で、この地区は日本の中でも兵庫県神戸市と並んで逸早く文明開化を迎えたので、沢山の西洋建築や文化の発祥地に成っている訳です。
数回前のブログ記事で紹介した「かをり」と言う老舗洋菓子店の話で少し触れましたが、この地域が西洋文化の日本発祥地に成った物は本当に多くて…
※「かをり」の記事はカテゴリー「スイーツ」から探してください!
●国家「君が代」
●鉄道
●電話事業
●西洋式ホテル事業
●吹奏楽
●テニス
●石鹸
●西洋野菜(現在一般的に売られているニンジンやキャベツやネギなどは西洋種で神奈川奉行が幕命で栽培)
●アイスクリーム
…他にも腐る程あるのですが、小生、不勉強なので余り知りません。又、機会が有ったら調べて見ます。

さて、次回からは、今回の記事を契機に、この地域の近代西洋建築遺産を順々に紹介しますね!
まずはHEROのロケ地のキングの内部の写真を次回の記事で沢山載せるので、また御覧頂ければ幸いです。

前回の記事で横浜市中区の麒麟公園が日本におけるビール事業の発祥地である事を書きましたが…
※前回の記事は「ココ 」←クリック!
header_grouplogo_01キリンさんのロゴは、このローマ字書体の物の他に…


…もう一つ、ネットの借り物の画像ですが、この麒麟のロゴが有りますよね?

麒麟2
この麒麟は、昔の中国人がアフリカのキリンから連想した馬と龍が混じった架空の動物です。
なんでビール会社のロゴが伝説の麒麟なんでしょうね?
実は、この事は麒麟麦酒の広報が認めている事実として、ある歴史偉人との関係が有ります。

昔、別の記事で少し触れた事が有ったかも知れませんが、現在のKIRINの創業者は三菱財閥の創業者でもある岩崎弥太郎サンと、もう1人、幕末のグラバー商会の社長だったトーマス・ブレーク・グラバーさんです。
麒麟
前回の記事で紹介したコープランド先生が創業した、日本初のビール醸造場のジャパンブルワリーの事業を後に買収し引き継いだのが、現在のキリンホールディングスの前身と成った麒麟ブルワリーで、その出資者が岩崎弥太郎サンとグラバーさんだった訳です。
そして、この御二人の創業者と友人だった歴史偉人の偉業を顕彰する意味で、この麒麟のロゴが選定されたと言われているそうです。
では、岩崎弥太郎サンとグラバーさんの友人だった歴史偉人とは誰でしょうか?
その答えは既に、このロゴで表現されているんですが…
先程、麒麟は馬と龍が混ぜられた架空の動物と御説明さしあげました。
その馬と龍の字が名前に成っている坂本龍馬サン、その人こそが、実はこのロゴで顕彰されている人物です。
坂本龍馬
では、御二人は坂本龍馬先生と、どの様な関わりが有って、結果リスペクトしていたのでしょうか?
実は、明治時代初期、坂本龍馬さんの存在は大日本帝国(明治時代の日本)の一般国民には知られていませんでした。その坂本先生の存在と偉業を世間に公表した人物が、当時、既に三菱財閥のトップだった岩崎弥太郎サンだった訳です。
岩崎弥太郎
岩崎弥太郎サンと坂本先生の繋がりは、出身が同郷である事と共に商業により日本の近代化を推進した事に有ります。
御二人は今の高知県、土佐藩の出身で幕末当時、先に世間に功績を残し頭角を現したのは坂本先生の方でした。坂本先生は商社海運業者兼軍事会社である「海援隊」を設立し、薩摩藩と長州藩の同盟を成功させた外交活動や、軍艦・武器購入の代理店として、軍事物資補給で多大な事績を残されました。
そして、その協力者の海外武器商人こそがトーマス・ブレーク・グラバーさんだった訳です。
グラバー
グラバーさん、長崎に拠点を構えていたのですが、今もその邸宅はグラバー邸として長崎の観光地に成っています…
そして!そのグラバー邸、実は世界中で革命を起こし民主化を進める事を目的とした結社フリーメイソンのロッジとして機能していたと言われています。
事実、グラバーさんはフリーメイソンの構成員だったと言われているので、坂本龍馬先生もフリーメイソンの一員だった可能性は否めません。
つまり、ペリー提督の来航から既に、日本を民主化させる策謀が有ったのかも知れません。
ペリー提督の母国アメリカ合衆国の創始者であり初代大統領であるワシントン大統領もフリーメイソンの一員だったので、龍馬先生がフリーメイソンと何某か連携し活動した可能性は有ります。
ワシントン大統領
坂本龍馬と言う人物がフリーメイソンの一員であったとするならば、大政奉還の草案に議会制民主主義を想定していた事にも整合性が確かに有ります。
そして、それを知る可能性の有る人物は坂本龍馬本人、大久保利通先生や西郷隆盛先生も幕末や明治時代に悉く暗殺されたり、政争に因(よ)る内戦により戦死しています。
…ですので事実の確認は今では出来ません。
まぁ~、よくTVのCMに出演してる美容整形外科の経営者の高須さんはフリーメイソンの一員なので、あの方に真相を聞けば直ぐに解るんでしょうが、小者の小生に当然ながら、その様な人脈が有る筈がありません(笑)。

因(ちなみ)みに、麒麟公園の直ぐ近くの山手公園は日本最初の吹奏楽のコンサートが行われた史跡が有るのですが、その場所に日本最初のフリーメイソンのロッジが在った事は結構、有名な歴史事実でもあります。

さて、坂本先生、以下、親しみを込めて龍馬サンと呼ばせて頂きますが…
上記の方々の他に、龍馬サンと特に関わった歴史偉人が3人と龍馬さんと他人ではなかった人物が1人、神奈川県にも深い関わりが有ります。
1人は勝海舟先生…
勝海舟
坂本龍馬サンの海軍軍事技術と思想的な師匠に当たる人物ですが…
以前、戦後時代の城址、京浜急行神奈川駅近くの「青木城城址」に関する記事を書いた時に触れましたが、神奈川駅近くの金港町周辺、今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に「神奈川台場」と言う要塞を設計しています。
※青木城に関する記事は「ココ 」←クリック!

そして龍馬サンの没後、未亡人と成ってしまった「お龍サン」も、この勝海舟先生の紹介で神奈川台場の近く、江戸時代に東海道の神奈川宿で有名だった料亭の「田中家(たなかや)」で働いていました。
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この田中家は場所がら、東京から海軍の拠点であった横須賀鎮守府(現:横須賀市汐入一帯)に出張する政府の要人が利用する料亭だったので、きっと勝海舟さんのコネが有ったのでしょう。
現在も田中家サンは横浜市神奈川区、当時と同じ場所で営業していますが…
…ランチで1人予算1万円と少し敷居が高いので、まだ行った事が有りません(笑)。
機会が有ったら是非、行ってみたいと思います。

お龍サンのその後ですが…実は余り幸せではありませんでした。
実は、再婚して横須賀市に移住しています。
そこで亡くなったのですが、旦那サンは一般人の商人だったのですが余り大きい事業では無かったので龍馬サンと比べちゃうと可哀そうですね、しかし誠実な人物なら、お龍サンも幸せだったのかも知れませんが…
この再婚相手、とんでも無い事に、よりにもよって、お龍サンの妹と内縁関係に成った挙句、お龍サンを捨てて二人で出て行っちゃったんですね…。
…可哀想過ぎる。
しかし、この頃に成ると、先に説明した岩崎弥太郎サンの証言で坂本龍馬の存在が世間でも認知され、更に当時の美子皇后(昭憲皇后)が龍馬サンの霊夢を見た事で、お龍サンも世間に知られる様に成りました。
しかし、時既に遅く、その2年後に、お龍サンは危篤状態に陥って帰らぬ人と成ってしましました。

しかし救いは有りました。
井上良馨
お龍サンが危篤に成った際、当時、海軍大将だった井上良馨が発起人と成り、お龍サンへの見舞金の義捐金を集め、幕末の海軍の父とも言える龍馬サンの後輩、ある意味弟子に当たる多くの海軍軍人達が此れに賛同し、寄付金が集まったそうです。
残念ながら、お龍サンは生前不幸な余生を過ごしましたが、対馬海戦で大活躍し日本をロシアの侵略から守った多くの海軍軍人は、龍馬サンと御龍サン夫婦が残して下さった子供達みたいな存在とも言えます。
当時の海軍の士官達には、その様な意識が有ったからこそ、多くの見舞金が御龍サンに集まったのかも知れませんね。
現在、御龍サンの御廟所は横須賀市大津町に在る宮谷山信楽寺に有ります。
そこの墓碑には「贈正四位坂本龍馬之室」と刻まれ、龍馬サンの正妻として明治政府にも没後再評価された様です。

そして、御龍サンが働いた田中家や勝先生の設計した神奈川台場の傍に新港埠頭建設を決め、日本鉄道輸送網の基礎を創建したのが井上良馨卿の親友で日本の初代総理大臣と成った伊藤博文公です。
伊藤博文
後の2011年3月11に我々の世代が経験した「東日本大震災」の発災時、津波により東北沿岸部の石油関連施設と鉄道網は壊滅しました。その影響でまだ真冬の寒さの真っただ中の被災地は燃料枯渇により暖房が使用不能に成り、人々は多くが凍死の危機に瀕していました。
その際に、東北への燃料輸送に活用されたのが、福島県から北陸へ抜ける日本海側からの鉄道輸送網でした。
この話も以前の記事で紹介した事が有ります。
※関連記事のリンクは「ココ 」←クリック!

前回の記事でも今有る我々の生活は、昔の人の多くの苦労とちょっとの成功と幸せの経験の上に成り立ってると書きましたが、この様に、麒麟麦酒からも現代人を助けた鉄道輸送網や、その建設に関わった人や、その人と様々な人々の関わりは繋がりが有り、現代人を助けた組織や設備や人々にまでリンクしていたりするんです。

ですから、古代からの神話も、平安時代の伝承も、武士達の築いた歴史も、全てが大切で、その一人一人の先人達の悲哀と成功と喜びの経験が我々の生きるヒントでもあるんですね。

では!又、次の記事で御会いしましょう!

皆さん、日本のビールの発祥地が横浜なのを御存知ですか?
エビスビールの工場が在(あ)った、東京都の恵比寿駅近くが発祥地と思い込んでる人もいますが違いますよ~。
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現在の横浜市中区のキリン公園一帯に在ったスプリング・ブルワリーと言うビール醸造場が、日本のビール事業の創業地とされています。
横浜成立以前の話ですが、幕末、江戸幕府が横浜を米国特使のペリー提督の要求により開港すると、現在の中区、つまり旧久良岐郡の内、本牧半島には多くの外国人が居留する土地が解放され、それによりビール工場も設立されました。
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北方小学校横に在る小さな公園を中心に、北方小学校の敷地と合わせた一帯に作られたのが、スプリングブルワリーで、その事業をジャパンブルワリーとして受け継いだのが、現在の麒麟麦酒株式会社(KIRIN)なんです。
麒麟公園
ね?
隣の北方小学校の地下には当時の貯蔵庫が防災水槽として残っていると、以前、何かで目にした記憶が有ります。
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麒麟公園は本当に規模も普通の公園ですが…
遊具も普通の公園です。
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しかし、ここの直ぐ近くの日蓮宗の本牧山妙香寺の幕末当時の敷地(接収され現在は縮小)に、イギリス軍の駐屯地が有ったので、周辺には色んな「日本初」の史跡が有ります。
麒麟公園周辺位置関係
「吹奏楽」・「テニス」・国家の「君が代」は、この妙香寺さんと、幕末まで妙香寺さんの敷地だった山手公園がその発祥地です。
更に元町や山下公園や中華街一帯を加えると、パンの発祥地の「内木パン」が有ったり、その隣の中華街近くは、「かをり」を紹介した記事でも書いた「電話事業創業地」「ホテル事業創業地」のかをり、「鉄道事業創業地」等々、他にもアイスクリームや西洋野菜等、キリが無い程の「日本初」の発祥地が集まっている訳です。

つまりビール醸造以外にも、この本牧の丘の周辺だけでも、日本初が多数有る訳です。
その話は、いずれ又、今度紹介します…

話を麒麟公園に戻しますと、普通の公園との違いは公園内には石碑が有ります。
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横浜ペンクラブが、ジャパンブルワリーの創業者、ウィリアム・コープランド先生の偉業を顕彰して建てた石碑です。
横浜市は教育委員会がなかなか史跡を保護しないどころか宅地開発する際に事前調査すら放棄するので、こうやって民間が自主的に動かないと何も残らないんです。
このコープランド先生はノルウェー人で、この地で創業したのがジャパンブルワリー(スプリングブルワリーとも言う)なので、この方無くして現在の麒麟麦酒とKIRINホールディングスは存在しなかった訳です。
そして横浜市民にとっても、渡来の西欧料理文化の発展の一助と成ったビール文化を根付かせて下さった大恩人と言うべき方な訳です。

コープランド先生はビール事業売却後、日本文化の紹介を日本製品販売を通じて海外で行って下さいましたが、晩年は事業が立ち行かなくなり余り幸せでは無かったようです。
それでも日本人の奥さんの梅子さんを大切にして下さったようですが、海外から日本に帰国して直ぐにコープランド先生は没し、今は山手の外人墓地に梅子さんと御夫婦寄り添っている様に御廟所に眠っておられます。
横浜人としても、日本人としても感謝しないといけない親日外国人の先駆者と言う訳ですね。

もちろん、KIRINサンもコープランドサンの偉業を忘れてはおらず、公式ホームページで顕彰文を掲載しています。
コープランド
KIRIN公式ページ「ビール醸造のパイオニアたち 」←ココをクリックすればリンクします。

さて、麒麟公園には当然、KIRINの皆さんが建てたと思われる巨大な石碑や顕彰碑も有ります。
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それが冒頭に掲載した写真ですね。
その横には御覧の通り、金属製の歴史を説明した顕彰碑も在ります。
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以前も小生の歴史観を書いた事が有りますが…
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今有る我々の生活は、昔の人の多くの苦労とちょっとの成功と幸せの上で成り立ってるんです。
それは正に、幕末の外国人居留地の外国人の為にビール製造を始め、後に日本文化を紹介する事業を展開して下さったコープランド先生の人生が、小生の歴史観念を全て体現している様に思えてなりません。
…晩年、余り経済的に幸せとは言えなかったかも知れませんがコープランド先生!
貴方と貴女の奥方の偉業を小生の様に忘れない日本人が、まだ平成27年に成ってもちゃんと居ますよ!
どうぞ、山手で安らかに眠って下さい。
そしてコープランド先生、御願いです。
また、日本人が幕末や明治のような困難、大正期の大震災の様な苦難に直面する時は、どうぞ、日本人の鎌倉武士の宗教観ではありますが、偉大な先人として神仏として後輩である我々を見守って下さい。
実際にこれから起きる事を解決できるのは、コープランド先生や先人の記録を活用する我々の側ですが、見守って下さっていると思う事で、同じ困難に直面した際の解決方法が思いつくかも知れません。

次回の記事は、この記事の後編としてKIRINグループの創業に関わった歴史偉人の話をしたいと思います。
では!また次の記事で御会いしましょう!

ブログネタ
「夏の終わり」感じるのはどんなとき? に参加中!
横浜市金沢区の野島公園は、キャンプ場が有り夏はBBQで一家団欒を楽しむ家族連れや、近隣の大学生グループで賑わいます…
眼前には金沢八景島シーパラダイスがあり「海の公園」側やこの野島公園で潮干狩りをする人達も多くいます。
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実はこの野島公園が、江戸時代に徳川家康公の十男で、紀伊徳川家の初代藩主徳川頼宣公の別荘が在った場所だったり…
初代総理大臣の伊藤博文公の別宅があったり…
大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所であった事を知る人は今では少なく成ってしまいました。
また、太平洋戦争時の末期には隣接する横須賀市に横須賀鎮守府があった関連で現在の日産自動車工場追浜工場には横須賀海軍飛行場があり、野島には零式艦上戦闘機の防空格納基地が建設されました。

※その辺りの情報は以前の記事で紹介したので以下にリンクを貼ります。
●野島の零戦格納庫の記事は「ココ 」←クリック!

大きくは無い島で、現在はレジャーの島に成っていますが、こんな狭い面積に沢山の重要な歴史が詰まった場所なんです。
今回は夏も終わりに近づき、御抹茶を頂きながら海辺の夕涼みが出来る場所として、又、日本が法治主義国家を歩みだした、その場所としての伊藤博文公別邸を紹介したいと思います。

小中学生の残り少なく成った夏休みの自由研究宿題のテーマとしても役に立てるかな~と思います。
この施設や野島内の周辺史跡を見学して写真を撮影し、野島の歴史自由研究として時代と説明文を原稿用紙に書き、そこにプリントアウトした写真を貼れば十分、提出に十分足(た)る内容になるんじゃないかと思います。

では…
キャンプ場と反対側に閑静な松林が在ります。
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小生が子供の頃は、まだ眼前の八景島は無く、この豊穣な海では海苔の養殖が盛んに行われ、特産品の海鼠(なまこ)や小柴のシャコが沢山獲れました。
その横、駐車場の目の前の牡丹園と古民家が伊藤博文公の金沢別邸です。
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この伊藤公別邸は無料で拝観できます。
入口の係員の方に、抹茶を飲みたい事を伝えると客間で抹茶を頂けます。
御茶の料金は乾菓子のセットは300円、茶菓子のセットは500円で頂けます。
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小生は、この日は御乾菓子を頂きました。

さて、建物を解説します。
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建物自体は昭和まで良く見かけた、明治~大正期の日本建築で、入口からは解りませんが結構な奥行が有ります。
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この玄関、昭和生まれ世代は結構多くの人が御婆ちゃんの家を思い出すんじゃないでしょうか(笑)。
まぁ、実際、ここには明治~大正時代に伊藤家の御一家や、その後も管理人さんがいらっしゃったから生活感有って当たり前ですよね。
とは言いつつも、ここは一回老朽化で解体修理され復元再建された建築遺産でもあります。

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中には、各部屋や歴史の詳細な説明も個々に展示されています。
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玄関を入ると、純和風の廊下の両脇に、客室用の雪隠(せっちん=トイレ)や炊事場(すいじば=キッチン)が在ります。
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その廊下からは中庭が覗けます。
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素敵な小庭ですね。
昔の少し立派な日本家屋は京都の京町屋と呼ばれる様式でもそうですが、この様な中庭を作る事で風の吹き抜ける通り道を作り、エアコンの無かった時代に自然の力で十分に涼む仕組みが設けられていたんですね。
中庭の右手に見える配管は、浴室から延びる煙突です…
実はこの煙突も明治時代には画期的な仕組みの一部なのですが、その説明は又後で。
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これが炊事場の写真です。
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明治時代の炊事場ですが、江戸時代の炊事場と余り機能的に変わりは無いですね…
まだまだ井戸水を汲み上げて飲料水にし、薪と炭で煮炊きし料理を作っていたようです。
…当時の使用人さん達は大変だったでしょうね~。
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それでも台所の外側の土間(どま=土足で行動出来る部屋)に、この家専用の井戸が有るだけ、別の庶民の家より重宝した事でしょう。

で、反対側の客間用の雪隠(せっちん=トイレ)へ…
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これも又、江戸時代の御城に有るトイレと余り変わらない木製の和式で、この状態からトイレの文化は近代に急速に発展した事が良く解ります。
大(笑)
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小(笑)
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小生、ここに来るまで知らなかったのですが…
トイレは和名では2種類に分類されるそうで、時代劇や老人が雪隠や厠(かわや)と呼ぶのは、実はトイレのタイプによって区別が有るそうです。
こんな感じ…
雪隠(せっちん)…ボットン便所、汲み取り式で人糞を肥料に再利用出来る様にトイレ下に穴が掘られている。
厠(かわや)   …水洗トイレ、川の水流を利用したトイレ。
…川の小屋のトイレだから、略して川の小屋=かわや=厠なんですね。

さて、客間です。
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この写真では余り解りませんが、眼前には海が広がり当時は金沢八景と称され、江戸時代に歌川広重が浮世絵に描いた程の景勝地でした。
水戸徳川家の黄門様こと水戸光圀公が明の禅僧の東皐心越(とうこうしんえつ)和尚を御連れして、この一帯の風景を遊覧された程でした。

この客間の入口からも中庭が見えます。
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反対側から見る中庭はさっきと様子が少し違います。
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さっきの煙突、実は浴室から延びています。
客間からも居間からもすぐに浴室に行ける便利な構造に成っていますね。
そして風呂場が中庭に面していると言う事は、入浴中、涼しい爽やかな風が吹き込んできたんでしょうね~。
流れで浴室を紹介しましょう。
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この浴室の壁は人口の御影石で出来ています。
昭和期まで、日本家屋に多く見かけられた人工石ですね。コンクリートより高級感が有ります。
さて、さっきの煙突の正体ですが…
右側から延びる配管が、浴槽の中に入って行ってますよね?
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実はコレ!明治時代には画期的だった湯沸かし器の構造物なんです!
当時は庶民の家では五右衛門風呂が主流で、直接、竈(かまど)の上にでっかい鍋みたいな風呂を置いて直に火力で御湯を温めましたが、この機能はボイラーの熱を配管で送り浴槽内の御湯を温める仕組みなので、火傷する心配が有りません。
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そして温泉の様に檜風呂で入浴出来る画期的な構造な訳です。
現代のガス式風呂釜湯沸かし器に通じる構造ですね。
この配管を伝う熱源の排煙をするのが、先程の中庭の煙突と言う訳です。

さて、客間に戻ります。
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御茶はこの客間で頂けるのですが、ここからの眺望は凄く素敵で、小生はたまにここにノンビリと頭をリセットしに来させて頂いています。
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繰り返しに成りますが、目の前が海。
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ここで御茶を飲んでゆっくり…いいでしょう?

昔の家らしく、縁側も有ります。
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平成世代は余り見た事が無いかも知れませんね。
昔の人は、こういう縁側でゆっくりと贅沢な時間を日常的に過ごしたもんなんですよ。

この金沢別邸には伊藤公の私室も当然有ります。
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意外かも知れませんが、居間は広くはなく、普通の家と余り変わらない大きさです。
伊藤公は賭け事が大嫌いな性格だったそうで、個人でいる時は余り華美な生活を好まれなかった様ですね。
公人として西洋式の華やかな生活を送らなければいけないので、普段は落ち着きたかったのかも知れませんね~。
この居間側にも裏口があり、そこからも庭に出られます。
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御庭から見た客間越しの金沢の海。
御庭は牡丹園の名前で同じく無料公開されています。
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牡丹園側から見た、居間の様子。
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庭には綺麗な花が咲いていました。
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こちらの牡丹園側の入口、つまり勝手口が下の写真です。
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意外かも知れませんが実は伊藤博文公、外戚閔妃派と日本政府の関わりで伊藤博文公のイメージを悪く混同されていますが…
韓国初代大統領の李承曉のロビー活動による結果で、悪いイメージを持つ韓国人も多くなっています。
しかし実は朝鮮王室との関係は極めて良好でした
ですので、、朝鮮の最後の皇太子李垠殿下も御滞在された場所でもあります。
李垠殿下も伊藤公の私邸へ度々(たびたび)御宿泊され金沢八景の風景を楽しみ遊覧される程に信頼関係が深かった訳です。
余談ですが、戦時中も日本の太平洋戦争終結後の無条件降伏時も李垠殿下は日本でちゃんと王族として保護されていました。終戦後に奥方と韓国に帰国しようとした所、李垠殿下御夫妻の韓国復帰を阻止したのが、朝鮮王室復興による失脚を恐れた李承晩だった事を多くの韓国人は知りません。
親日派だった朴正煕大統領に成って、漸(ようや)く李垠殿下御夫妻は韓国に帰国出来ました。
つまり、李承晩自身が知日派の李垠殿下に帰国されると非常に困る事情が有った訳ですね。
李承晩がいなければ、併合後に朝鮮王室を李垠殿下が復興し、現在の日本の天皇家と復興した朝鮮王朝で友好的な王室外交が成されていたはずなんです。
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野島の眼前には、野島と同じく伊藤公が大日本帝国憲法草案をまとめた場所の一つである夏島が見えます。
その夏島の前にあるのが、旧海軍飛行場、現在の日産自動車追浜工場です。

ここ野島は日本の近代化や法治主義化の礎と成った舞台でも有り、良くも悪くも、両方の歴史を伝える歴史遺産群が密集した場所でもあるんですね。
先人の苦労と同時に、明治政府樹立による法治主義の開始や鎖国からの脱却の重要性や、防衛戦争の必要性と、戦争の負の側面も考えさせてくれる場所であり、そして又、前政権徳川家の紀州藩別邸跡の有った場所であり徳川家が御参りした野島稲荷神社が現存し…
金沢八景の一つであり文化醸成地だった、横浜市民のみならず日本国民にとっても大切な場所と言えます。

夏も終わりですね…
皆さん、体調を崩されませんように。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

ブログネタ
旬なニュース に参加中!
この間、小田原城の記事を書きましたが…
小田原城には江戸時代、大地震で天守閣が傾いた歴史が有ったりします。
大正時代にも神奈川は皆さん御存知の「関東大震災」が起きました。
関東地方全体では105,000人弱が死亡したこの大地震、神奈川県では約3万人超の方が亡くなりました。
大地震発生した時に水の確保?する準備出来てますか?
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横浜市には富士山系の水脈の湧水が沢山有り、昔は飲み水にされていました…
その水源を2ヵ所、この記事の最後に紹介しますね!
何故この話をするかは、以下に書いてみますので、ゆっくり読んで見て下さい。

最近、地震や噴火、本当に多いですね?
と、言うかここ数百年が偶々(たまたま)地震や噴火が少なく気温が低めだっただけでしょうかね~?

さて…
地震が起きると一番怖いのは建築物の崩壊よりも建築物密集地の火災です。
横浜市の様な市街地で火災が起きるとどうなるか、実は江戸時代の文献を読むと良く解ります。
都市型大火災の説明を江戸時代の火災記録で行う前に…

大地震起きて都市壊滅したら一番困る事って何かって「通信」とか直接命の関わらない事じゃなくて「水」の確保なんですよね。
これは関東大震災を経験した祖母からも聞いた事です。
そして、井戸がほぼ使われなくなり大正時代より水道の普及した現代は、もし大震災で都市が壊滅したら前回の関東大震災より更に困る事に成るでしょうね?
水道管は破裂し、水道からは水が出なくなります

火災を消火出来ない。
飲み水も無い。
水洗トイレしか無いからトイレが使用不能に成り「野糞」するしかないのにアスファルトで固められた地面には簡易トイレも掘る事が出来ない、だから感染性腸炎なんかの病気が流行する。
その中でも飲み水が無いのが一番深刻な問題に成りますね。

横浜市は明治~大正時代に全国でも先駆けて水道網が整備されていた都市の一つです。
その弊害で、老朽化した煉瓦製や陶器製の水道管が使われている地域も少なくなく

前の横浜市長の中田サンは優秀な政治家だったので、この歴史事実を把握しており、中田市長の時代から横浜市は水道管を耐震の物に取り換える事業を開始しています。
しかし、それ以前は市内で水道管が破裂し数十mの高さに水道水が噴出する事もたまに有りました。
これには横浜市の給水施設と地形が関連しています。
円海山の配水施設
横浜市南部は水道水の供給を、円海山と言う山の配水施設から行(おこな)っています。
小生のブログで何回か紹介している円海山は蛍が見れる水源が有るだけでなく、山頂は標高が300m超あり関東平野南部に位置する横浜市内で一番高い場所でもあります。
そこから高低差を利用し、サイフォンの原理で市内に水道水を供給する施設が有ります。
その水は山梨県を経由し丹沢山系から注ぐ相模川から給水し、鎌倉市と横浜市の市境近く戸塚区の小雀浄水場で処理されています。

この円海山からの水圧に、横浜市内、特に山から一気に水が駆け下ってきて最初に標高が一番低い場所の水道管にブチ当たる磯子区では古い水道管が水圧に耐えれず、過去に磯子駅前の水道管が破裂し隣りの商業ビルよりも高く水道水が巨大噴水の如(ごと)く吹き上がってしまった事も有りました(笑)。
ですから、直下型大地震が横浜市を直撃すれば至る所で水道管が大噴水化する懸念が有り、中田市長の政策は市長が代替わりした現在でも受け継がれている訳です。

さて、いくら水道管を交換しても、きっと何処(どこ)かで破裂するでしょうね。
絶対に水道水が来ない地域も出てくる訳です。
先述の通り火災を消火出来ず、崩落した建築物の粉塵を抑える散水も出来ない訳です。
関東大震災の時、横浜市の旧中心部の関内地区では壊滅した市街地の瓦礫を海に集めて沿岸部を埋め立て、次の大地震に備えて火災からの非難施設を建造しました…
山下町周辺
それが上の衛星写真右上の山下公園です。
繰り返しますが、ここは関東大震災の瓦礫で作られた先人が我々子孫に残して下さった震災発生時の避難所なんです。
写真の中に横浜スタジアムも写っていますが…
横浜スタジアム周辺の公園は「横浜公園」と言う公園です。
ここは近代日本初の西洋式公営公園でして、元々は幕末に外国人向けの港崎遊郭と言う遊郭(ゆうかく=売春する料亭)の密集地帯でした。
豚屋火事と呼ばれる大火災が発生し多くの遊女が犠牲に成った場所でもありました。
そこに明治政府が公園兼災害時の避難場を設けるべく、リチャード・ブラントンさんと言うスコットランド人の土木設計技師に依頼し建設されました。
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この写真に見える一帯が全て港崎遊郭でした。
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因みに、すぐ横に在る首都高速横羽線の山下公園入口が有りますが、この首都高横羽線が走っているトンネルが昔は掘割(ほりわり=水掘り)でした。
その掘割の海岸側を関内と呼び、幕末ここに関所があり内側が外国人居留地に成っていました。
つまり、港崎遊郭は関内=外国人居留地に在った訳です。ここには日本初の西洋式ホテル「横浜ホテル」も在りました。
横浜中華街は関内で最初に埋め立てられた場所でもあります。
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丁度(ちょうど)、豚屋火事の話題に触れたので、都市型の建築物密集地で大火災が発生するとどうなるか…
次は、そちらを説明したいと思います。
江戸時代、実は江戸の町は数回の大火災に遭(あ)い、大量の死傷者を出しました。
この横浜の豚屋火事でも沢山の人が亡くなったそうです。
当時の文献を読むと…
例えば「明暦の大火」と現代人は教わる「振袖火事」と言う大火災が有ります。
この火事は元々は、その振袖を着た町娘が次々と急逝するので、最後の振袖のオーナーの親が娘の供養の為に呪われた振袖を御寺で「御炊き上げ(おたきあげ=宗教的に焼却)」して貰おうとした所、その火の付いた呪いの振袖が強風で飛散してしまい江戸中を焼き尽くしてしまいました。
この火の勢いは凄まじく、江戸城の天守閣もその時に消失しました。
この時、川向こうへ逃げようとしても逃げる場所も無く炎に焼き殺される人が続出しましたが…
更に怖いのは、空き地に逃げた人も焼け死んだんです。

都市で大火災が起きると、熱風で吹き上げれた火柱が集まり炎の竜巻が起きるそうです。
その炎の竜巻が空き地の隣接する類焼地帯から上空を跨(また)いで襲って来て、空き地に逃げ込んで密集している人々を生きたまま火炙りにしてしまうそうです。
だからこそ、現代の都市計画は幹線道路の道幅を広くとり、類焼するスピードを遅らせようとしている訳です。

さてさて…
大震災が発生すると大火災も発生する訳ですが、大正時代と異なりオフィス街に木造建築物は少なく前回の関東大震災程には火災で死傷する人はいないでしょう。
…とは言っても被害は大きいし、水道管が使い物に成らないと飲み水も無く災害用の備蓄(びちく)飲料水も数日間しかもたないでしょう。
実は大正の関東大震災で水道水の供給が止まった際に、横浜の人々を救ったのが冒頭で写真を掲載した場所の湧水なんです。

「打越の霊泉」と言います。
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この打越の霊泉に行くには近くにある「打越橋」と言う鉄橋を目標にして下さい。
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この鉄橋の少し手前に打越の霊泉が在ります。
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現代の志(こころざ)し高い地元町内会長さんが石碑にも残し、後世に伝えて下さっていますが横浜市民にも知っている人は少ないでしょう。
ここにはJR元町駅から徒歩で行けますし、みなとみらい線の中華街元町駅からでも行けない事はありません。
水を汲みに行きたいなら運搬するでしょうから車をすすめます(笑)。
関東大震災で水道管が使い物に成らなくなって給水出来なくなった時、関内や元町周辺の人々はこの湧水の御蔭でインフラ復旧まで持ち堪(こた)えれたそうです。
関内は埋め立て地「吉田新田」の一部ですからね…井戸掘ると海水しか出なかったんですよ。

ここと、近所の中区本牧側、下の写真ワシン坂にも「ワシン坂の霊水」が在ります。
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ワシン坂一帯の丘は、ジブリ映画「コクリコ坂」のモデルに成った場所でもあります。
観光地「港の見える丘公園」も徒歩圏内です。

実はこの2ヶ所の霊水、両方とも富士山系水脈のバナジウム天然水で腐り憎く良質な軟水で、その長期保存が効く性質から幕末に横浜が開港されると、外国船に飲料水として補給されていました。
現代では付近が開発され、ビル建設の基礎工事などで水質が安定せず、飲用を推奨出来ない水源と管理上便宜的に看板が有りますが…
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小生はこの水を以前、汲んでよく家で御茶を淹(い)れていました。
この水は美味しく、煎茶を淹れるのに適しています!御茶に甘みが増すんですよ!
特に民主党政権時代の2011年03月11日に当時の無能な菅直人内閣と枝野官房長官が福島原発の放射能飛散に対応しきれず対応が遅れた時期、小生は水道水の安全性が確認されるまでワシン坂の霊水をタンクに汲んで持ち帰り、煮沸してから飲用としていました。
関係ないですけれど、この本牧半島地域を江戸時代に本牧奉行として治めたのが、笹下城主間宮家の子孫の笹下間宮直元公とその御子孫でした。
※打越の霊泉とワシン坂の霊水を飲んでみたい人は、自己責任でどうぞ(笑)。

この水脈を利用して日本初の麦酒(ビール)醸造所として開かれたのが今の中区の横浜市立北方小学校の敷地一帯に建設された「スプリングバレーブルワリー」でした。
このスプリングバレーブルワリーの創業者はウィリアム・コープランドさんで、ノルウェー系アメリカ人でした。
コープランドさんは晩年余り幸せでは無く、その後、彼の事業を引き継いだのが、三菱財閥とその創始者の岩崎弥太郎でした。
余談ですが…
キリンビールのロゴの「麒麟」は「龍」と「馬」を足した様(よう)な架空の動物ですよね?
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何でこのデザインにしたかってのは有名な話で、麒麟麦酒の出資者の岩崎弥太郎とグラバーさんが共通の友人だった「坂本龍馬」サンをリスペクトして後世に偉業を伝える為に麒麟をデザイン化したと伝わっていますが…
実は神奈川県、坂本龍馬先生と所縁が有ります。
奥さんの「お龍サン」の「終の棲家(ついのすみか)」は、横須賀市でした。
お龍さんが龍馬さんに先立たれ未亡人に成ってから働いていたのが、京浜急行神奈川駅の近くに現在も営業している料亭「田中家」でした。
その京急神奈川駅の目の前に「神奈川台場」と言う砲台を設計したのが、龍馬サンの師匠の勝海舟先生でした。
今回の記事で紹介した麒麟麦酒の創業地と、2ヶ所の湧水や山下公園の位置関係はこんな感じ…
水源と周辺位置関係

話が脱線しましたが…
買える水は直ぐに備蓄が尽きますよ?
皆さん、先人の教訓を活用する為にも少し歴史を調べて、御近所で飲用出来る湧水を知っておくのも何かの助けに成るかもしれませんよ?

ブログネタ
大富豪になったら何をしたい? に参加中!
昔の人って常に社会貢献を考える人が多く、裕福な人も今の成金と違い、横浜の原三渓さんや淡路島の高田屋嘉兵衛さんみたいな人が多かったみたいです。
まかり間違って自分に纏まった財が転がり込んだら社会貢献したいね…
昔の日本人みたいに。

昔の偉人や台湾の人との交流を垣間見れるKANOと言う良い映画が残念ながら川崎チネチッタでは明後日3月20日で上映打ち切りに成ってしまいました。
※追加朗報!神奈川県内では以下2カ所で上映予定ありです!
厚木市の「アミューあつぎ映画.comシネマ 」←で4/25~5/8 上映
横浜市中区の「シネマジャック/ベティ 」←3/21~4/10 上映

昨年台湾で先行上映された映画で、物語りの舞台は台湾の嘉義市と甲子園球場です。
嘉義市は現在の台湾の台中市と台南市の間、解り易く言うと台湾島の西側の真ん中より少し下くらいに在(あ)る町です。
台湾自体は九州とほぼ同じ大きさです。

小生、このKANOの上映終了を知り慌てて見に行ってきました。

物語りは史実を基に作られているので、創作ドラマより余程泣けます。
映画は台湾の監督により撮影され台湾の高校球児がエキストラや俳優でも沢山出演します。
また、日本の極左傾化したマスコミと異なり、台湾の人々自らの手により作中には台湾統治当時の日本人が台湾の発展に寄与した事が描かれています。

KANOの公式サイトは「ココ」←クリック!

中には小生の尊敬する八田與一先生と言う偉人も登場します。

この方、鳥山頭ダム建設に貢献し、水不足で不毛だった嘉南平野を肥沃な大地に変えた事で、今でも台湾の方々から感謝されているんです。
映画の舞台の嘉義市も関わりが有るので、作中度々登場します。

この八田さんの他にも沢山、台湾の人々に今も愛されている日本人がいます。
西郷ドンと呼ばれ上野の銅像で若い人も知ってる西郷隆盛公…
…の!息子さんの西郷菊次郎さんとか。

菊次郎さんは、父君西郷隆盛公の起こした日本国内最後の内戦である西南戦争に薩軍=西郷隆盛派として参加し負傷、片足を切断し障害を負った珍しい政治家なんです。
日本台湾統治時代の宜蘭庁長を務めた時代に先住民の味方として尊敬され、学校教育を普及させ道路交通網を整備し治水事業に実績を残す八面六臂の活躍をしたので、現地の方に顕彰碑を建てられた程でした。
日本がアメリカに降伏し中華民国統治が始まると、中華民国は現地の方が建てた菊次郎さんの顕彰碑を破壊しようとしましたが、住民の強い反対により今でも現地に碑文が現存しているそうです。

他にも下淡水渓に蒸気鉄道の大鉄橋の架橋に成功し、過労死され亡くなった設計士の飯田豊二さん…

5000円の新渡戸稲造さんも、砂糖製造工場を作り、台湾の砂糖生産の近代化に寄与されたりしました。


北京での清国軍と義和団による欧米大使館襲撃とキリスト教徒無差別襲撃大量虐殺が起きると各国の外交武官と共にキリスト教徒や大使館員を保護し、欧米各国から勲章を送られ尊敬を集めた柴五郎中佐も台湾軍司令官として赴任していました。


日本のマスコミは、とても中道とは言えない極左ばかりで情報操作を好みますが、台湾の方々は、嘗ての日本の悪い面も良い面も平等公平中立に理解して下さっているんですね。

作中に登場する台湾球児達は実在した人物ばかりです。
恥ずかしながら映画を見るまで、この実話を知りませんでした。
しかし、アジア人初、甲子園球場の外野フェンスに打球を当てた蘇正生さんは現在の神奈川大学に留学したり、嘉義農林野球部が甲子園で戦った相手は神奈川県代表で今の県立商工高等学校でした。
ですから、小生の故郷とも嘉農の縁は有るんです。
横浜中華街には中華民国の国父孫文先生が滞在されていた事も有ります。

映画の内容で不覚にも泪を流してしまいましたが…
…台湾と神奈川県の縁、大切にしなきゃいけないなぁ〜、と、しみじみ感じた1日でした。

でさ、又、次ぎのブログで!

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