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現在公開中の「駆け込み女と駆け出し男」と言う映画を御存知でしょうか?
主演:大泉洋さん、戸田恵梨香さんが主演の江戸時代が舞台のDV旦那から女性が逃げる為に鎌倉に実在する女性保護の尼寺「東慶寺」に逃げ込み、離婚成立までの2年間を過ごす物語です。
駆け込み女と駆け出し男
映画の公式ホームページは「駆け込み女と駆け出し男 」←ここクリック!

戸田恵梨香さんと大泉洋さん、江戸時代の格好が良くお似合いです。
駆け込み女
この戸田恵梨香さんは、東慶寺に駆け込んで生活をしている様子でしょうか?剃髪(ていはつ)していませんが尼さんの格好ですね。

駆け出し男
なんだか人情あふれるシーンのようですが、大泉洋さんはこういった役柄が大変お似合いですね。

とつぜん「駆け込み寺」とか「縁切り寺」とか「東慶寺」と言っても解らない人の方が、男女問わず若い人には多いかも知れませんね。

実は江戸時代は儒教思想が流行したせいで、幕府の法律で女性から離婚を請求する事がタブーでした。
いくら夫のDVが酷かろうが借金まみれだろうが、儒教思想と言うのは男尊女卑甚(はなはだ)だしい悪法な訳ですがそんな思想のせいで女性は結婚してしまうと恋愛に関して男性と対等の自由は許されませんでした。

そんな江戸時代の唯一の女性救済方法だったのが「駆け込み寺」または「縁切り寺」と呼ばれた幕府に公認された尼寺に逃げ込んでしまう事だったんです。
この縁切り寺、関東には二か所公認されていました。
その一つが、今の神奈川県鎌倉市北鎌倉駅近くに現在も鎮座する「東慶寺」さんなんです。
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この東慶寺へは、北鎌倉駅から徒歩でも行けますし、これから紫陽花(あじさい)が見頃の季節になりますが、その紫陽花寺として有名な「明月院」も徒歩5分位の距離なので…

 
明月院の紫陽花を見に行くのなら、東慶寺にも立ち寄ると尚、鎌倉文化と日本文化の素敵な風景を楽しめると思いますよ♪
どうせ東慶寺や明月院に行くのなら、「駆け込み女と駆け出し男」を映画館で見てから北鎌倉散策に行けば映画の登場人物と自分の歩く道や見える風景がシンクロし、思い入れを持って小旅行を楽しめると思いますよ!

話を東慶寺に戻します。
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東慶寺は開基(かいき=御寺を建てた人)が鎌倉幕府第8代執権を務めた北条貞時(さだとき)公と、その生母の堀内殿(ほりうちどの)こと覚山尼様です。
覚山尼様の実家は安達家で、鎌倉幕府の有力御家人でした。
覚山尼様の旦那様は北条時宗(ときむね)公で、元寇の際、モンゴル軍と戦い日本を守る事を決めた名宰相です。
北条時宗公がいらっしゃった御蔭で今の日本国が存続している訳ですが、北条時宗公と覚山尼様の子、貞時公の代に義務教育でも習う平頼綱(たいらのよりつな)と言う内管領(うちかんれい=北条家の執事)を務めた悪人が貞時公を騙し引き起こした事件が「霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ばれる内乱でした。
この内戦で、平頼綱はよりにもよって覚山尼様の実家の安達家を攻め滅ぼしてしまいました。
その際に、覚山尼は安達一族の子供達を匿(かくま)い育てたそうです。
その事が切っ掛けだと思いますが、覚山尼様は鎌倉幕府を取り仕切る立場だった息子の貞時公の許可を得て東慶寺を建立すると、立場の弱い人を助ける目的で様々な活動を実行されたそうです。
この活動が契機となって、DV旦那から当時の女性達を保護する「駆け込み寺」「縁切り寺」としての東慶寺の独特の女性救済文化が成立していったのだと思われます。

東慶寺は大変落ち着いた自然の美しい御寺です。
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そして明治の文豪達との関わりの深い御寺でもあります。
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看板の写真を拡大画面で御覧頂ければ解りますが、文豪達の菩提を弔う御寺でもあります。
夏目漱石先生も、こちらに座禅の修行にいらっしゃったそうです。
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それだけではありません…
この御寺は、幕府執権の奥方だった覚山尼様が開山(かいざん=最初の住職)だけあって、それ以降の歴代の尼御住職も全て格式の高い血脈の方達でした。
特に有名な人は2人います。

一人目は用堂尼(ようどうに)様…
用堂尼様は後醍醐天皇の皇女(こうじょ=天皇の娘)です。
兄の護良親王(もりながしんのう)が北朝の室町幕府将軍足利尊氏公と対立し、鎌倉に幽閉され尊氏公弟の足利直義(ただよし)に殺害されてしまった後で、菩提を弔う為(ため)に御父君の後醍醐天皇の命を受けて東慶寺に入られました。
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この階段の上に用堂尼様の御廟所があります。
先人に対し不敬に当たるのでお墓の写真撮影は今回も行いません。
お参りしたい方は、どうぞご自分で東慶寺を参詣されてみてください。

二人目は天秀尼(てんしゅうに)様…
天秀尼様は、なんと!あの豊臣秀頼公の御息女(そくじょ=むすめ)です。
伝承では大坂城での豊臣氏滅亡後、7歳の時に養育係だった成田甲斐姫に連れられて東慶寺に入り僧籍に入り、その後、元々父の豊臣秀頼公と婚約者だった徳川家康公の孫娘の千姫様が養女として天秀尼様を縁組し保護したそうです。
その後ろ盾の強力さから、東慶寺は天秀尼様が住職を務めた時代に様々な建築物が移築されて来て発展したそうです。
そして、この天秀尼様は「東慶寺らしい」「女性を守る文化」を発揮します。

下の写真は天秀尼様や用堂尼様、覚山尼様の御廟所が在る寺の奥の地区への入口
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天秀尼様の後ろ盾は凄まじく強力で、先に述べた徳川家康公の孫娘の千姫様の他に、あの春日局(かすがのつぼね)もいました。
その強力なコネクションで天秀尼様はある大名家を取り潰し女性と子供を助けました。
それが会津藩40万石の太守:加藤明成の改易事件です。
加藤明成は名将加藤嘉明(よしあきら)公の後を継いでいました。しかし明成の代に、家老の堀主水(もんど)と対立してしまいます。
堀主水は命の危険を感じたのか妻と子を鎌倉の東慶寺に逃がし匿ってもらい、自分は奈良県の仏教の聖地である高野山(こうやさん)に逃げようとします。
堀主水の妻子は無事に東慶寺に逃げ込めたものの、堀主水自身は加藤明成の追っ手に殺害されてしまいました。加藤明成は堀主水の妻子をも殺害しようと、刺客を東慶寺に送り込みます。そして追っ手は無礼にも東慶寺に対して堀主水の妻子を差出す様に要求しました…

しかし!

天秀尼様のすがすがしい事!追っ手に対し以下のタンカを切ります。
比丘尼(びくに=尼僧=天秀尼の事)大いに怒りて…
「頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然(しか)るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと !!」

現代語訳するとこんな感じ⇒
「源頼朝公(統治=鎌倉幕府)の頃から、この寺に来た(寺の身内の)者から罪人を出した事は無い!」
「それなのに理不尽な事を言うお前らみたいな連中は外道極まりない!」
「(お前らの主君の)明成(←呼び捨て)を滅ぼすか!さもなくば、この寺を廃寺にさせるか二つに一つだ!」
…みたいな内容です。
しかも、タンカ切っただけで天秀尼様の会津藩主加藤明成の暴虐に対する怒りと堀主水妻子の保護の意志は収まらず…
「更に此の儀を天樹院殿(てんじゅいんどの=千姫=天秀尼の義母で徳川家康の孫)に訴へこれによって会津四十万石は改易」
…になったそうです。
実はこの話し、近年まで創作だと思われていましたが、証明する堀主水の妻子が逃げ込んだ事が判る古文書が近年発見され事実と判り、この妻子が30年間寺で生き延びた事も解っています。

さすが!織田信長公の妹君のお市様と名将浅井長政公の血を継ぎ、更に教育係に成田甲斐姫がついていた天秀尼様らしい逸話だと思います。
なぜなら成田甲斐姫は小田原城の記事でも少し書きましたが…
甲斐姫は北条家臣時代にわずか3000の兵を率いて今の埼玉県行田市にあった忍城に籠城し、石田三成軍26000の大軍を迎撃し散々に翻弄した女傑なんですね。
しかも、その後、成田家が蒲生氏郷公に従って東北に移住した際に家臣の浜田兄弟が謀反を起こし母が殺されると、再び浜田兄弟の軍200人に僅(わず)か手勢10人で敵討ちの合戦を挑み散々に浜田兄弟を打ちのめした実話が残る訳です。
つまり…
もし本当に!東慶寺に成田甲斐姫も在住していたならば天秀尼様の一連の言動や対応は至極納得が行くんですね。
…成田甲斐姫が天秀尼様の軍師を務めて堀主水の妻子を守り通したのでしょう。
…恐らく天秀尼様ご自身も御父君豊臣秀頼公の滅亡を体験し、自分と同じ境遇の人間を見捨てれなかったのでしょう。

この様に、東慶寺は明治時代になり尼寺でなくなるまで、ずっと関東人と鎌倉文化の気概(きがい)と仏教文化の慈悲の心で女性を保護する役割を担っていた訳です。
この東慶寺の文化と歴史、覚山尼様や用堂尼様や天秀尼様の気概は神奈川県民として非常に誇りに感じるものがあります。

さて、東慶寺の存在意義はなんとなく伝わったでしょうか?
話を 東慶寺の施設そのものに戻します。
東慶寺は山門の向こう側に、豊かな緑が広がっています。
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その山門を抜けると本堂や宝物殿がありますが、その参道の正面にお釈迦様の銅像が鎮座されていて、参拝客を出迎えてくださいます。
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で、少し進むと掲示板があって季報なんかが張り出され、御寺の行事などが解るようになっています。
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東慶寺は入口にギャラリーがあり、そこで地元の若手芸術家の鎌倉彫や陶器の展示会が開催されるので、その開催期間なども季報で解ります。
参道を過ぎると左手に立派な茅葺屋根の鐘楼があります。
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風情がありますよね?
手前に誰か、この御寺所縁(ゆかり)の文豪の歌碑もありました。
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本堂は竹林と紅葉に囲まれており、初夏の新緑の風景も素敵ですが、秋も又綺麗だろうなと想像できますね。 

明治時代に廃仏毀釈の影響を受けて、この東慶寺も荒廃しかけましたが原財閥の原三渓さんが自宅の横浜三溪園に東慶寺の建物を一部引き取り保護しました。
下の写真は横浜三溪園。 
 
この三溪園に旧東慶寺本堂があり、その本堂は本来なら第3代徳川幕府将軍に成っていた駿河大納言徳川忠長公の旧邸宅の一部でした。

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本当に落ち着いた素敵な御寺です。
ここでDV旦那から逃げてきた昔の女性達が修行しながら離婚成立を待って、その間に色んな学問に励んだんでしょうね・・・
女性保護と文化情勢地としての役割も果たされた御寺な訳です。

東慶寺、素敵な御寺でしょう?
是非!映画の「駆け込み女と駆け出し男」を御覧に成って、この東慶寺を御散歩されてみては如何でしょうか?
さっきも紹介しましたが、紫陽花の季節ももうすぐです!明月院とセットで見学でいくのも良いですし、東慶寺を見てから長谷寺に紫陽花を見に行くのも良いかも知れませんよ!

では!又、次のブログ記事で!

次こそ「小田原城」の記事の続きを更新します。










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みなさん、チャッキラコと言う御祭を御存知でしょうか?
多分、余り御存知無い方が多い御祭です。

毎年1月15日に行われるローカルな御祭なのですが、ユネスコに世界無形文化遺産登録されたお祭りなんです。
12月中に存在を皆さんに伝えておかなければ、御祭りを見学なさりたい方がいらっしゃった場合に開催当日までに予定が組めない方もでると思い、旬を先取りする形でブログに掲載します。

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このチャッキラコと言う神奈川県の鮪で有名な三崎漁港の海南神社で行われる御祭なんですが、実は!富士山より先に…
"ユネスコの世界文化遺産認定を受けた"
…由緒も正しく歴史も古い御祭なんです。


御祭は海南神社の有る場所に御住まいだった平安時代の貴族藤原資盈(ふじわらのすけみつ)公と鎌倉幕府の征夷大将軍源頼朝公に由来しています。

海南神社は御祭神も藤原資盈公と奥様の盈渡姫様です。
海南神社はこんな場所です…
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三崎の観光漁港「うらり」とはバスターミナルを挟んで反対側、本来の三崎町である「三崎銀座商店街」の中に神社へ通じる参道があります。

こちらの神社の成立は清和天皇の皇位継承に関する政争に巻き込まれ敗北し、大宰府に左遷されるはずだった藤原資盈公が暴風雨に遭(あ)い三浦半島に漂着(ひょうちゃく)した事に始まります。
貞観6(西暦864)年の話です。
余談ですが貞観年間と言えば"貞観の大地震"が起き、東北地方では東日本大震災を上回る規模の地震と津波被害が有った時代です。

その時代に、三浦の三崎に辿(たど)り着いて来た資盈公は推薦を受け同地の長を務める事となり、その後、房総半島の海賊を討伐するなど活躍されたそうです。
この時代、三浦半島を含めた関東一帯は平高望(たいらのたかもち)王が皇族出身武家として治めていましたので、藤原資盈公を庇護したのは後に鎌倉武士団を形成する平高望王の御一族だったと容易に推測できます。
そして三崎領主として善政を布(し)かれ、今で言う教育と福祉政策に力を注いだ藤原資盈公は同地の住民達から深く慕われたそうです。

三崎の御祭り"チャッキラコで歌われる唄(うた)の歌詞には多くの和歌や昔話が盛り込まれています"ので、恐らく資盈公と盈渡姫は「チャッキラコ」を広める事で、当時文盲だった漁民達に文字を教えたり学問を広めたのではないかと推測出来ます。
現代にも残ったご夫妻のとても偉大な業績ですね。

しかし在任僅(わず)か2年間の統治の後、資盈公は亡くなってしまったそうです。
その際、公を慕う住民達は、公の亡骸を海に水葬し、祠(ほこら)を海岸に奉(たてまつ)りました。
すなわち!
その場所が現在の海南神社本殿とは別に、商店街の中にひっそりと佇(たたず)む本来の神社の在(あ)る場所だと推測される訳です。
ここ本宮神社ね
  ↓
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資盈公と盈渡姫の漂着についてですが…
まぁ、普通に考えれば、平安京~九州筑紫(筑前)国の大宰府への航路は瀬戸内海ですし、門司港辺りまでは陸路で行く方が安全だったはずなので、資盈公の三浦半島漂着は恐らく最初から狙って行(おこな)った亡命行為だったと考えるのが自然でしょう。
当時、すでに三浦半島と房総半島は"平高望(たいらのたかもち)王"を初代とする元皇族の坂東平家が統治しており、中央の政争に勝っている方の藤原政権と対立の火花が散り始めていましたからね。 

そして相模国鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍の平良文公と…
良文公の甥で房総の太守だった後の神田明神の神様になる平将門公の一族は、資盈公同様に中央で政略に巻き込まれて後に大宰府に左遷された菅原道真(すがわらのみちざね)公の一族を庇護しています。
三男:菅原景行(かげゆき)公と五男:敦茂公は平将門公や平良文公を頼って関東に亡命してきてますから。
同じ様に資盈公も、中央の藤原家が手出し出来ない、平高望王の子孫一門を頼って計画的に亡命されたのだと推測する方が…
地勢的にも政治的にも軍事的にも自然な事だと思います。
※平高望王の一族に関わるブログ記事は「ココ」と「ココ」←クリック!

さて、そんな藤原資盈公ご夫妻の教育政策であっただろうチャッキラコは御祭りとして残り、近年ユネスコの無形文化遺産に登録された訳ですが…
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御祭り自体は未成年の"女性が舞を踊り唄を歌う"御祭りです
ですので…
何か見た目からしてロリコンっぽそうな外見の中年男性も観光客に多数いますが…
この御祭り自体は由緒も正しい御祭りなので、純粋に文化として楽しみましょう!

三崎銀座商店街の中には元廻船問屋の旧家を利用した「チャッキラコ三崎昭和館」と言う博物館や、NPO法人三浦映画社の展示館もあります。
実は三崎漁港は映画撮影のバックアップをしているんですね。
ご近所の旧三崎高校や漁港周辺で色んな映画が撮影されているので、ぜひ三浦映画社の展示館を見学されるのも良いかと思います。 
ちなみに旧三崎高校は三浦水軍の基地だった三崎城跡でもあります。

チャッキラコですが・・・
何でこの御祭りが幼女に舞わせるかと言うのも、ちゃんと由緒があるのです。
その昔、征夷大将軍と成り鎌倉幕府を開かれた源頼朝公は春の季節専用の御所を、この三崎町に持っていました。
その場所は現在「本瑞寺(ほんずいじ)」と言う御寺に成っており、鮪料理で有名な黒羽亭」のすぐ近くに有ります。 

本瑞寺の写真は生憎現在手元にありませんが、ろう梅がとても綺麗でしたので、その写真だけはありますので載せますね。
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さて、ここの春の御所に訪れた頼朝公が、ある時、土地の漁民女性に…
「何か楽しい事無い?」
…と聞いたそうです。
で、聞かれた女性が…
「私は何にもできませんが、娘に舞を披露させますよ!」
…と答えて、母親が歌い娘が舞を披露しました。
この事がきっかけで、「チャッキラコ」が鎌倉時代以来1月15日のお祭りとして行われる事に成ったそうです。
ですから…
別にロリコンが趣向で御祭りにみんな集まる訳じゃない!
…はず、と、結婚適齢期以上の女性が恋愛対象の小生は信じる事にしています。

三崎には浅間神社もありますよ。
…人口が減ったせいで神社も寂れてきてしまってますが。 2014-01-15-14-14-27


そして!
この三崎町=三崎漁港の醍醐味と言えば!「三浦野菜」と「鮪料理」ですよね! 
その他に高級魚「松輪鯖」も名物です。
小生は先程紹介した「黒羽亭」は居酒屋として利用させていただいてます。
実際、黒羽亭は鮪の色々な部位の料理を食べれる居酒屋ですので。

で、お寿司を食べたい時は黒羽亭のお隣の「紀の代」と言う御寿司屋さんに良く行きます。
本当に美味しい御寿司屋さんでして、小生は寿司を食べる為だけに横浜から行く事も有ります。

そちらに関しては別に記事書いて紹介しますね!

三崎は港町らしくニャンコもたくさん居る街ですよ~ 2014-01-15-14-42-02
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かわいいなぁ~

隣の城ケ島と言う風景の綺麗な島とも橋でつながっていますし、油壺マリンパークと言う水族館も近く家族連れで楽しめる観光地です。
新年の家族旅行や小旅行にチャッキラコ見学とセットで如何(いかが)でしょうか?
ただ…
平日の木曜日なんですよね、2015年の01月15日。

●城ケ島の絶景に関する記事は「ココ 」←クリック! 
●紀の代と言う一押しの三崎漁港の御寿司屋さんの記事は「ココ」←クリック! 
●黒羽亭と言う鮪料理居酒屋の記事リンクは「ココ 」←クリック! 

ではでは、又、次の記事でお会いしましょう!

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