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タグ:景勝地

先ず最初に御寺の解説よりも先に関東屈指の躑躅(つつじ)の景勝地の青梅市塩船観音こと大悲山観音寺で2018年04月26日現在、見頃で各種の躑躅がいっぺんに見られる最盛期を迎えている事を報告します。
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大悲山 観音寺
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今回、少しだけ御寺の紹介文を書いて、解説記事は金曜日に改めてこの記事をリニューアルする形で書く加えたいと思います。

さて、この観音寺、日本で初代の大僧正である行基大僧正が開いた凄い御寺で御寺の地形が船形の様に窪地なので地域一帯が塩船と呼ばれる様に成ったそうです。
青梅の山奥の御寺なのですが関わった人物は行基大僧正だけでも凄いのですが、実は人魚伝説のモデルでもある八百比丘尼(やおびくに)が住職を務めた時代も在ったと伝わる御寺です。
人魚と言えば昭和生まれは高橋留美子さんの❝人魚の森❞シリーズとか・・・
人魚の森 高橋留美子
・・・平成世代ならルパン三世の❝血の刻印 永遠のマーメイド❞とかで見た事も有る人もいるかな?
一応、近畿地方では若狭国(福井県の西部)が人魚姫と八百比丘尼伝説の舞台ですが、関東にも八百比丘尼が来ていた伝承が有るのが、この塩船観音こと大悲山観音寺なんです。一応、1000年の寿命の内200年を他人に譲って800生きて亡くなった八百比丘尼さんの供養塔か御廟所かは判りませんが塩船観音寺には墓所も存在しています、一般非公開だけどね。
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とっても広い御寺で、修験道の影響も受けた御寺なので神社も在り、更には近代化で破壊されずに奈良時代から続く山寺の雰囲気がすっごく素敵な御寺です。
戦国時代に北条家の家臣として白備え隊小机衆の与力に加えられ新横浜駅裏の篠原城代を任された金子十郎と言う殿様がいるのですが、その御先祖様の方の金子十郎公が平安時代末期~鎌倉時代に支援し、戦国時代には領主は代り勝沼城主の三田(さんだ)氏の庇護を受けた御寺でした。

・・・と、解説を書いていると寝る時間が無くなるし週末の皆さんのレクリエーションの参考に成る様にUPが間に合わなく成るので今回は御寺の雰囲気と開花状況だけ優先的に紹介する為に先ずは御寺と境内の多くの躑躅に囲まれた御堂のとても綺麗な2018年04月21日に撮影した写真を掲載します。

すご~い本当に躑躅が綺麗な御寺なのでゴールデンウイークの小旅行の参考にして下さい!
近くの二俣尾には天皇家の勅願所だった海禅寺さんや、羽村市は縁結びの武蔵阿蘇神社や、あきる野市には延喜式内社で武蔵国二ノ宮だった小川大明神こと二宮神社、秋川渓谷や高月城址の下の秋川ではバーベキューも出来たり圏央道あきる野インターチェンジ近くには東京都で珍しい千代鶴の酒蔵の中村酒造も存在し試飲も出来ますよ。
風景も空気も水も綺麗な奥多摩地方、是非塩船観音寺の躑躅見物と合わせて遊覧されては如何でしょうか?

こっからは写真だけ!最初に躑躅の写真を、後から御寺の参道から本堂までの写真を掲載します!
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・・・では金曜日にこの記事の文章をもっと関わった人物の事とか書き足します。
それと出来たら多目元忠公の記事も第③部を書きたいと思います。














17日は年末最後の遠出に大月市~都留市~相模原市~相模湖と廻り圏央道厚木Pで買食いして帰宅してきた。
ここ暫くブログを更新していないのだが、リアでの副業と執筆が間に合わない。
何処にも行ってなかった訳じゃなくて鎌倉にはしょっちゅう出かけていたし(主に文献読みに)、県央の寒川神社や前鳥神社方面にも久々に行ったりしていた。
でもブログを書く暇が無かった。

色々考えて、今年の遊び〆を17日にして、残り半月はダイエットと溜まってる事をやるのと、義祖母の墓掃除と御世話に成った神社仏閣への御礼参りと、年末の大掃除をする事にした。

そんな訳で深夜まで働いてから、AM:2:00頃に高速道路使わずに下道で2時間半かけて山梨県大月市へ移動した。到着後はコンビニの駐車場で車中泊。
睡眠2時間前後?早朝7時半から活動開始。
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コンビニの前は旧甲州街道で、街道沿いには風情の有る建物が立ち並んでいた。
そこから最初の目的地である岩殿山を目指して移動。
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途中、岩殿城址である岩殿山が良く見える場所が在った。
この山は海抜では無くて比高(地面からの高さ)が632m、東京スカイツリーと同じ高さ有る。
今まで目の前の中央高速や甲州街道を原付や車で通過していて、いつかは登ってみたいと思いながら機会が無く、今回は大月市の猿橋や、相模原市の石楯尾神社と合わせて訪問する事にした。
遠くから見ると一枚岩の様に見えるが、実際の岩殿山は細石(さざれいし)で構成されている。
武田家滅亡の原因、小山田信茂の居城の岩殿城の麓に中央高速のトンネルが築かれたので、戦国時代当時と現在の登山口は違う。
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市営駐車場の前に、写真の軽自動車が停まっている場所が有り、その後ろに細い坂道の跡らしき地形が有る。
この地形は、駐車した際にこの路盤に気が付いて・・・
「あれ~明らかに現在の登城口が不自然でコッチの方が昔の道に見えるよな~?」
・・・と思っていたので、登山後に‟岩殿山ふれあい館”の職員さんに確認して御墨付を頂いたのだが、その軽自動車の背後の草がボーボーに生えた細い坂道が見えるが、実はこの坂道こそが本来の登城口だったそうだ。
現在は中央高速のトンネルが建設され道が寸断されているので通行禁止に成っている訳だ。
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地形を見ていつもなら其方(そちら)側から登りたい所だが流石に通行禁止のものを無理に登る訳にも行かず、普通の順路で山頂を目指した。
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岩殿山は富士山が綺麗に見える。好天に恵まれた事は神様仏様に感謝!
神様仏様と言ったのは、実はここは天台宗系の修験道の円通寺の道場として古代から戦国時代まで栄えていた場所なのだ。そしてその霊場である奇岩も山頂に極最近まで存在したのだが崩落の危険が有るとかで掘削撤去されてしまった。
天台宗の圓通寺が麓には在ったのだが、戦国時代には一時、この山自体が城に成っていたので霊場として使えなかった時期も暫く有った様だ。
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この眺望の良さなので、川沿いを進む中世の旧甲州街道廃道の‟いどみ坂”辺りと合わせて富士山信仰の霊場だったのだろう。
明治時代以前の修験道・真言宗・天台宗・臨済宗・曹洞宗・浄土宗等は古来の日本神話の神様も大切にする仏教宗派だったので、素戔嗚尊(すさのおうのみこと)=牛頭天王=武塔天神の御妃(きさき)様である木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身が富士山とされたので、昔の人達は富士山を見て美しいと思いながら同時に木之花咲耶姫様として遥拝(ようはい=遠くから拝む事)をした訳だ。
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途中、丸山公園が有り、そこに‟岩殿ふれあい館”が或る。ここは降りて来てから見学した。
・・・と、言うのも通過時点でまだ午前08:00ちょっと過ぎで営業時間外だったから。ここの営業時間は9時から。
この岩殿山は現代造られた登山道が有り登り易い。と言うか、本来は昔のままの道を残さないといけないのだが、中央高速のせいでそうもいかない。
先々月10月に登った静岡と山梨の県境に在る御坂城とは違い、この岩殿城は山頂を常に見上げて登れるので目的地が確認出来る事から「あとどれくらい」で到達出来るか実感が有り山登りも苦にならない。
どれ位歩けば着くか解らない道のりは疲れるから。
その点、御坂城より精神的に登り易い。
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こんな感じで、ふれあい館にあった看板の説明と実際の風景を見比べながら・・・
「あ~あそこ等辺にこんな感じの施設が有ったのか~」
・・・とか思いながら登れる。
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途中、遺構の説明もちょろちょろ有る。
小生の個人的な感想だが、この岩殿山は険阻な断崖で築城が困難な山城では有るが、実際の防御陣地面積や施設の構造を見て廻ると城としては大した事は無い様に思う。
正直、隣接市の相模原市緑区城山地区に在る北条家臣内藤家の居城、津久井城の方が構造も規模も岩殿城を上回っていると思う。
漫画家や小説家、更に学者まで小山田家は武田家の家臣と誤解してか恣意(しい=わざと)的にか説明をする連中もいるが、実際には武田家の従属同盟者に過ぎず家臣では無かった。例えるならば織田家/徳川家の関係と同じ。
そして、武田家中で最強の軍団が小山田軍団だった。この軍団は単体で何度も北条家を撃退したり、徳川家を翻弄したり活躍した。山県昌景公の赤備え隊や馬場信房隊を武田家臣団で最強とゲームの影響で思っている連中も多いが、実際は智勇兼備で軍団長としての作戦実績でも小山田信茂隊は、馬場・山県の両将を上回る。
その小山田家の居城としては余りにも防衛施設が小規模過ぎる。
丸で鎌倉時代以前の三浦家の居城、三浦半島横須賀市の衣笠城と同等、つまり多くても数百人~1000人位でしか守備出来ず、万単位の大軍団を相手にする戦国時代の籠城戦に耐えれないとの印象を受けた。
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山頂には本丸も有ったが、変電所に成っていた。
城として当たり前だが感心した事も有る。
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こんな岩山の高所にちゃんと湧水が有る。
まぁ、この水量、少なくとも秀吉が小田原を包囲した際に築いた石垣山一夜城の井戸より水量は豊富だし、北条家臣内藤家の津久井城の井戸よりも大きい。
これだけでも数百単位の将兵の飲み水なら配給に耐えるんじゃないかと思う。
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この岩殿城址を乃木大将も登られた様で漢詩を吟じている。
それを甥の正木正之中佐が揮毫して石碑が建てられた様だ。
正木姓からして旧里見家与力の三浦一族正木家の御子孫なんだろうか?
乃木大将は佐々木一族なので、武田家や小山田家とは直接関係も無く、ただ歴史マニアとして城址を訪問された様だ。
城を降りて、前日から徹夜で大月に来たので入浴もしておらず気持ち悪いので、事前に地図上から見繕(みつくろ)っておいた日帰り入浴の出来る温泉に連絡をして見た。
実は数日前から行きたいと思っていた‟日の出鉱泉”さんに電話したのだが取り次ぐ人も無く、岩殿山から車で15分と近くなので仕方なしに直接訪問して見た。
やはり御不在で「廃業されたのかな?」と思っていたら、経営者の方々が御帰宅された。
「営業は続けている」が、「事前に連絡が有れば準備する」と言った感じだそうだ。
「昼過ぎには沸かせるけど待てる?」
・・・と、親切に御主人が申し出て下さった。大月周辺の温泉は源泉が高温では無いのでどこも薪で追い炊きしているので、わざわざ小生の為に浴槽に温泉を張り沸かして下さると言うのだ。
どうも中央高速の開通以来、甲州街道の人通りも減り温泉への湯治客も減り大月市自体の観光産業が全体的に打撃を受けている様だ。
そんな背景も有り、御主人の申し出には正直感謝の念で一杯に成ったが・・・
生憎(あいにく)小生の予定上の時間が無いので「又来ますのでよろしくお願いします」とだけ伝えて、車に乗り、もう一つの候補の‟金山鉱泉山口館”に電話をかけた。
山口館も岩殿山から車で20分程度と近い。今回は運が良く、当日に宿泊客がいる事と小生と別に日帰り湯の予約が有った事で快く受け入れて頂けた。
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山口館への林道は細く車同士はすれ違えない。
しかも車道に枯れ枝や落ち葉が沢山有り、どうも遊歩道として主に登山者が使う道の様だった。
落ち葉を踏みしめる車の轍も僅(わず)かで少々不安な気持ちに成りながら、GoogleMap先生とポンコツカーナビを頼りに進むと長閑(のどか)な山荘に出た。
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山小屋と言うか自宅兼山荘と言った雰囲気。
小生の祖母が暮らした田舎に来た様な雰囲気・・・いや、それ以上に田舎(笑)。
山口館の前には渓流も在り、ここに宿泊してから山登りを楽しむ人には堪らない環境なんだろう。
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小生は山登りはもっぱら城址だけ。好き好んでゴールの見えない風景を楽しめる心の豊かさは無い(笑)。
山口館から50m位離れた場所に駐車場も5台分くらい在った。
車止めもフェンスも無いのでバックし過ぎたら渓流に真っ逆さまの駐車場だけど(笑)。
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小生は大きなホテルより、こう言った雰囲気の鄙(ひな)びた旅館が好きなので嬉しい。
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本当、昭和の山荘と言った雰囲気だった。
ちゃんと着替えもバスタオルとハンドタオルも持参して来て良かった。
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風呂は家族風呂が2つ、女性用と男性用が有るだけだが、家族や恋人同士で来ても貸切湯に出来るそうだ。
もっとも・・・
恋人同士で来る雰囲気では無いので二人とも城や山が好きなら心の底から楽しめるだろう。
・・・と言った感じの本当に山奥の長閑な山荘。でも、若い人は余りこう言う場所に来る経験も無いだろうから一度は来て、山奥でのんびり温泉に浸かる楽しみを経験するのもお勧めしたい。
宿の奥さんと色々と話していたら、結構、芸能人も来ている様で、山登りの前後に宿泊する山荘として有名な様だ。
又、こっち方面に来たら日の出鉱泉さんと合わせて温泉巡りで立ち寄りたいと思う。
御主人、奥さん、お嬢さん、御世話に成りました。又、宜しくお願いします。
金山地区を出て大月駅方面へ車で戻る途中、山奥なので廃屋が有ったり・・・
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浄照寺と言う室町時代に開かれた御寺サンが在ったりして寄り道して散策を楽しみながら大月駅の近くまで戻って来た。
岩殿山~山口館に行きしな気に成っていた饂飩(うどん)屋さんが在ったので、次の目的地に行く前に入って昼食をとる事にした。
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吉田屋と言う、山梨県名物と成った富士吉田市発祥の吉田ウドンを手打ちで提供している店だ。
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山梨県は水田を作るのに適さない地形と地盤なのだが・・・
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岩殿山から見た桂川(相模川上流域)の様子。
桂川の右手が急な段丘に成っているのが御解りだろうか?実はコレ、猿橋溶岩と言って富士山から流出した溶岩が此処(ここ)まで到達して相模川に冷やし固められた地形。だから写真の桂川左手の溶岩では無い地形は川に浸食されて一段低い地形に成っている。
溶岩の固い地盤は水捌けが良いので水田には向かなかった訳だ。だから富士山の影響を受けた山梨県の多くの土地では昔から小麦やトウモロコシが主食として良く食べられていた歴史が有る。
山梨県はホウトウやウドンの食文化が発展したのは、そのせいだろう。
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入って見たら結構な人気店の様だ。芸能人も小さな店なのに結構来ているらしい。
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小生は馬のモツ煮込みと・・・
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肉(馬)のせ月見饂飩を注文した。吉田饂飩の特徴は、讃岐うどんよりも更に歯ごたえが有る事。
小生はシッカリした感触が好きなので、前回に御坂城と甲斐一宮浅間神社を訪問して帰りに中央高速の初狩Pで馬肉のせ吉田饂飩を食べて以来、饂飩は吉田饂飩が一番好きに成った。
この吉田屋さんの饂飩、とても美味しかったので是非、この付近に観光に来る予定が有る人にはお勧めしたい。
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都留市に移動しリニア実験線駅の博物館を見学。
今は年末で年明け暫くまでリニアモーターカーは走って無いそうだ。
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その代わりと言ってはなんだが実物が常設展示と合わせて、超電導の科学実験なんかも見れた。
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液体窒素で超低温化した高磁力金属を使ったリニア実験を見せて貰えた。
電車や科学が好きな幼児~高校生くらいの子のいる家は、是非、訪れてみると良いともう。
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説明するオバ・・・係員さんの目の前には磁力で浮いた磁石金属。
中々良い実験を見せても貰えた。
季節を選べば少し先に在る甲州市でブドウ狩りやモモ狩りと併せて子供連れの夫婦やカップルのデート等のレクリエーションとしても楽しめるだろう。CIMG1873
乗れるリニア模型も有るし・・・
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綺麗なジオラマも有った。
もっとも、リニアの実物展示や、実験線が走ってるのを見られる所や電動磁石の実権以外の鉄道資料館としての機能は、京都や埼玉の鉄道博物館には遠く展示数は及ばない。しかし、ここに来る意味は有ると思う。
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なんせ実物を見られるのだから。
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一応、平常ならば一日に数回はリニアが走っているので、下の時刻表の時間に合わせて来ると良いと思う。
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見学を終えて物品を販売してる建物に移動。
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新幹線好きな甥と姪に新幹線靴下を買ってあげようと思ったが、妹に二人の足のサイズをlineで聞いても返信無かったので已(や)む無く電車の沢山かかれた茶碗を購入。
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ここで買い物をするとリニア乗車の抽選権が貰える。‟道の駅つる”で買い物もしてリニア試乗応募券にハンコを押して貰えると応募できるシステムらしい・・・
上手いぞ山梨県(笑)。素晴らしい販促活動だ(笑)。
その後、‟道の駅つる”に移動した。
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ここからもリニア実験線が走っているのを見られそうだ。線路が綺麗に見える。
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でも、直ぐ横で見学できるからリニア見学センターに行った方が良いだろう。
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中は物産展。
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桃ジュースを買ってちゃんとハンコ手に入れた。
茶碗と合わせて妹に渡そう。
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その後、大月市の猿橋地区に移動し、日本三大奇橋の一つ猿橋を見学した。
猿橋は日本でも例の少ない橋脚の無い木造橋で、建築業界では有名らしい。
実は猿橋の在る場所は、先に説明した‟猿橋溶岩”の上に在る。
富士山から流れて来た溶岩流が相模川(上流の桂川)にぶつかり急速に冷やされて固まったのだが、その溶岩が南北で一番幅が狭く近い場所まで寄った場所に建設されたのが猿橋なのだ。
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歴史は古く千数百年前に遡る伝承が有るらしい。江戸時代には猿橋と下を流れる桂川渓谷が景勝地として知られ、安藤広重が浮世絵にも描いていたりする。
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これは橋のたもとに在る大黒屋さんに在る絵。
段丘面から川底までは深さが50m近く有り、江戸時代の技術をもってしても橋脚を作るのは困難だったので、溶岩の堅い岩盤を利用して側面に穴を穿(うが)って、横向けに梁(はり)状に材木を突き出し、それを重ねて延長し橋を架ける構造に成っている。
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これを作るのに、江戸時代でもどれだけの危険が伴って、どれだけの時間を要した事か考えると先人に対して心底、敬服の念が沸いてくる。
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凄い。
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そして、この橋自体が旧甲州街道だった訳だ。
猿橋は一見の価値が有るが、その下の桂川渓谷も遊歩道も設置されていて、綺麗な風景を目で楽しむ事も出来る。
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川岸に降りる事も出来る。
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ただ、川幅の広い相模川が、ここで急に川幅が狭くなるので流れは速く深い淵ばかりなので、小さな子供連れの家族はちゃんと見て無いと危ないと思う。ママさん、パパさん、気を付けてね!
ここも岩殿城や金山鉱泉と合わせて小生オススメの見学コースだ。
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猿橋の横には大黒屋と言う御土産物屋さんが在るのだが、そこで御土産の野沢菜を買った際に、御店主の女性にこんな質問をしてみた・・・
「一帯の商店街の雰囲気が温泉街に似てますね。」
・・・と。そうした所、この猿橋一帯は旧甲州街道の中でも旅籠が立ち並んでいた場所だったそうで、中央高速の開通まで旅館が立ち並んでいた名残りで、現在も御土産屋さんが沢山有るらしい。
ただ、こんなに綺麗な桂川渓谷と素晴らしい文化財の猿橋自体を知る人も現代では少なく観光客もまばらだった。
もっと多くの人が来てくれると良いのにね。
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猿橋を後にして、相模原市緑区名倉に在る相模国延喜式内社13座の一つ石楯尾神社を御参りし御朱印を拝領。
現在の参道は昔とは違う場所に設けれている。昔の桟道とは反対の裏側から入る道に成っている。
そもそも、名倉の石楯尾神社は古代、高座郡寒川町の寒川神社、相模原市南区磯部(勝坂)の有賀(あるか)神社奥宮と並んで古代の朝廷から官位を与えられた凄く格式の高い神社なので、源頼朝公も鎌倉時代に土地を寄進したり旧地名で宮原と呼ばれた旧境内地にも7つの大鳥居を寄進したりして保護したのだが・・・
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だから随神門(たぶん、明治までは仁王門)が有るのは現在の入口とは正反対の方。
この神社は武田信玄に乱暴され略奪の被害を受けたり、明治時代に土地を縮小されたり色々と受難の歴史を超えて、今の氏子サンや先代、先々代の宮司様達によって守られて来た。
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参拝客はちゃんとこっちも歩いて欲しいな。
現在は知らない人が見ると、ただの山の中の立派な神社なのだろうが、この神社を守る為に、先代宮司様の没後は息子さん御兄弟が会社員を務めながら兼業でこの格式高い由緒正しい神社を守って宮司と禰宜を務めてらっしゃるそうだ。
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拝殿は立派で、彩色された彫像が四方にあり、扁額も凄く立派。
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訪問した際、拝殿に上がれる様に扉が開かれていたが、事前に許可を得る確認をしていなかったので外から撮影だけさせて頂いた。
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きっと昭和初期までの日本の農村部が元気だった頃、この拝殿には沢山の農家さんが集まって宮司様の祈祷を受けて農作物の豊作祈願をしたりしたんだろう。
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神殿にはちゃんと覆殿が設けられていて、風化しない様に保護されていた。歴史を知らない人間が増えて少なくなった氏子達が、歴史と由緒有る石楯尾神社を守ってる努力に感謝。
この人達の御蔭で古代の朝廷や歴代天皇や源頼朝公達が大切にして来た御神威と権威の有る神社が現在に存続していける訳だ。
御参りを終えて、御朱印を頂き、帰路に着きました。
帰りしな相模湖のイルミネーションをやっているのも思い出して見てきました。
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相模湖プレジャーランドのイルミネーションは関東最大規模で有名なのですが、入園料1700円、駐車場1000円と男一人でわざわざ見に行く金額では無いので、相模湖近くのコンビニで御茶を購入がてら、相模湖公園の無料のイルミネーションを見学。
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無料だけど、散歩するには丁度良い。きっとご近所の人も喜んでるでしょうね~。
この相模湖公園近くには貸しボート屋さんも沢山有って、昼間は船遊びも出来るのでピクニックにはもって来い。
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千葉県のドイツ村のイルミネーションも綺麗らしいですね~。今度行って見よう。
帰りは相模原市愛川町の辺りから圏央道にのり、新湘南バイパス経由で横浜に戻った。
普通に中央高速や東名や首都高速使ったら、高速料金片道だけで3000円くらい、年明けの甥姪姪姪の合計4人の御年玉出費に備え、オジちゃん節約しないとね。

今年の遠出はこれで終わり!
あとは遠くても川崎と走水に日本武尊と弟橘姫様に御礼参りに行く程度。
もう、御金は使わない(笑)。

ふむ、17日は良い休日を過ごせた。

この後、年内いっぱいは間宮家の顕彰文の改訂版の作成と、ブログの神奈川県の御利益強い神社リストに自前の写真撮影して来た場所を追記しないといけないので、基本、年明けまで新しい記事は書けないと思います。
記事内容の更新のお知らせは改めて行います。
では!皆さん、年末健やかに恙無く御過し下さい~! 

又、記事更新報告で御会いしましょう! 

稲荷山浄妙広利禅寺(旧名:極楽寺)
【御本尊】釈迦牟尼仏
【御祭神】淡島明神、鎌足稲荷
【御利益】婦人病治癒・立身出世
【開基】足利義兼公
【中興】北条政子、月峰了然
【住所】鎌倉市浄明寺3-8-31
【アクセス】浄明寺バス停で降車、徒歩3分。有料駐車場有り。
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鎌倉市の浄明寺地区に、地区名と鎌倉の地名の由来に成った御寺が在ります。
その由緒は凄まじく、室町幕府将軍家の足利氏が鎌倉御家人だった時代に足利家菩提寺として開かれました。
小生の嫌いな渡来人、中臣鎌足の伝説も有る事や足利家の事績から出世の御利益も有り、婦人病治癒の御利益の有る淡島明神も祀られている神仏習合の文化の残る禅寺です。
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元来、周辺山林含め全てが境内地でした。
始めは源氏らしい真言宗の寺院と開基され、名前も極楽寺と言う御寺でした。
その後、臨済宗に帰依していた北条政子を始めとした北条氏一族の支援があり、鎌倉幕府執権の北条時宗公か北条時頼公の頃に、著名な高僧の退耕行勇禅師、その御弟子さんによって足利貞氏公の法名の浄妙寺殿義観から寺名を現在の浄妙広利禅寺に改め禅宗である臨済宗の寺院に改宗されました。
ここはとても素敵な御寺で、秋には境内の本堂前や裏山に紅葉の朱色が栄(は)えます。
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※昨年2015年12月07日の写真です。
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※昨年2015年12月07日の写真です。
綺麗でしょう?
因(ちな)みに2016年11月12日現在の写真はこんな感じです。
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まだ少し、紅葉には早いですが既に色付き始めていますね。
多分、来週位末には見頃に成るでしょう。
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境内の本堂を正面に見て、右手の道路の向こうには離れた神社も在ります。
この神社も含め、明治時代以前は周辺の山も全ての浄妙寺でした。確か、北条政子の持仏を安置した御堂が建てられたのが記録上は写真の神社辺りだった筈(はず)です。
写真は現在手元に有りませんが、その小山の上に石碑が有った様な気がします。ここ最近は直に本堂を拝んだ後で境内の草庵に御茶を飲みに行ってしまうので余り記録が確かでは無いのですが。
今、少し話題に上げたので先に紹介すると、浄妙寺の境内には素敵な喜泉庵と言う和菓子と抹茶を頂ける素敵な日本庭園を抱える草庵が在ります。
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秋にはコンナ素敵な風景に成ります。
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外国人向けにテーブル席が今年から設置されましたが、日本人は今まで通り、望めば畳の上で御抹茶と和菓子を頂けます。
小生は今日は足利家の❝二つ両引き紋❞の家紋をあしらった落雁(らくがん)を頂きました。
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抹茶の御菓子は落雁等の干菓子のセットが600円、その日の和菓子のセットが1000円です。
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昨年秋の写真。秋らしい柿の形の練り切りでした。
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素敵な空間なので、ここで抹茶を飲んでユックリするのは幸せな時間を過せます。
直ぐ近所の報国寺も竹林の中の草庵で御抹茶と干菓子を頂く事が出来ます。2012-11-04-07-12-50
※報国寺の竹林。
※以前、報国寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!
話を浄妙寺に戻しましょう。
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浄妙寺の本堂も、他の鎌倉五山の御寺と同様に立派です。
屋根の造りから想像するに、近年までは茅葺屋根だったと推測出来ます。
茅葺は屋根の吹き替えに数千万円単位の御金が必要なので、明治政府以前の様に将軍家の支援の無くなった現在では維持も難しく、管理しやすい銅葺き屋根に吹き替え本堂を維持しているのだと思います。歴代御住職様と檀家さんの努力の結果ですね。
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昔は数十の塔頭寺院を抱える大寺院だったので、この本堂の畳も朝に昼に、多くの学僧で埋め尽くされ禅問答や座禅が行われていたんでしょう。
現在のこの浄妙寺の魅力は歴史と、先に紹介した自然の風景にあります。
左手から奥の裏山に続く参道が有ります。
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紅葉の季節だと、参道をこんなきれいな紅葉が彩ってくれます。
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綺麗でしょう?
更に奥に進むと、素敵な洋館が見えてきます。
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この洋館は明治時代に建てられた文化財であり❝石窯ガーデンテラス❞と言う鎌倉の地野菜と石窯で焼いたパンを提供するレストランにも成っています。
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素敵な店構えですね。
石窯ガーデンテラスの詳細については公式ホームぺジ「ココ」←をクリックして御覧下さい。
この石窯ガーデンテラスを通り過ぎて山の奥からの眺望も素晴らしいんです。
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昔の鎌倉の山林を連想させる、大きな建物が視界に入らない風景が見られます。
そして、ここに祀られる鎌足稲荷は中臣鎌足の伝承が有り、鎌倉市の地名由来の伝説の内の一つ舞台でもあります。
実はこのもう少し先に行くと、室町幕府初代将軍の足利尊氏公の御実弟、足利直義公の御廟所が有ります。
そんな訳で、この浄妙寺は足利家の鎌倉御家人時代~室町時代初期の重要な御寺として機能していた歴史と、鎌倉五山の第五位の格式を持つ将軍家御声掛かりの凄い御寺と言う事が御理解頂けたでしょうか?
そんな格式と歴史を持ちながら、現在では小生達の様な一般の参拝客にも美しい風景と安らぐ御茶と空間を提供してくれる御寺として存在しています。

近くには先程紹介したミシェランガイド3星評価の報国寺が在りますし、明治の皇族の華頂宮邸の旧館の庭園が無料で公開されています。
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そして、浄明寺地区のもう少し先の十二所(じゅうにそ)地区まで歩くと、そこには鎌倉七口の一つ朝比奈切通しも在ります。
皆さん、是非、秋も深まり紅葉が綺麗に成った頃に、この浄妙寺周辺を散策して見ませんか?
きっと歴史を感じながらの鎌倉市の中でも自然豊かな地区を散歩すると、清々しくてリフレッシュ出来ると思いますよ!

では、又、次の解説記事で御会いしましょう!

第13回 小机城址市民の森 竹灯籠まつり
今年も開催されます!
竹灯篭祭公式様 借り物 久良岐のよし
この祭り、めちゃめちゃ綺麗だから是非にも足を運んでみて下さい!
【2016年度開催日】
10月29日土曜日※雨天順延

【アクセス】
JR横浜線 小机駅から徒歩5分。
車で行く場合は日産スタジアム付近に臨時駐車場が設置されます。
主催するボランティア団体「日本の竹ファンクラブ」の公式ホームぺージは「コチラ」←クリック!
詳細は上記の公式サイトをご覧ください。

戦国時代に北条幻庵公達が城主を務め、笠原信為公が城代を務めた小机城址に5000本近くの竹灯籠を設置して夜に竹林を浮かび上がらせます。
その幽玄な景色は他では見られない神秘的な物です。
そして子供も喜ぶ笹団子や焼き鳥等の食べ物や竹製品の物販も行われていて、老若男女問わず足腰健康なら皆楽しめます。
※小机城を詳しく知りたい方は以下の過去記事もタイトルクリックして御覧下さい。


他にも関連記事を書いてますが、上の二つの記事が小机城と周辺に関して良く解ると思います。

さて、昨年までの竹灯篭祭の写真も少し掲載します。

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だいたい皆さん18時頃から見に来るみたいです。
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少し暗いですがとても神秘的。
ただ、城址で戦国時代の土の城なので、スポーツシューズやトレッキングシューズ等の歩き易い靴、ジーンズ等の長ズボンで雑木林対策を十分にして行く事をお薦めします。
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工芸品の様に細工された灯篭等も沢山あり綺麗です。
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城の空堀や切岸を灯篭が浮かび上がらせます。
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笹団子と抹茶も美味しい!
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小生が推薦する夜祭の一つです。
もう直ぐ伊勢原市大山の灯篭祭も始まります。
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※大山ケーブルの秋季特別夜間運行は「公式ホームページ」←ココから御覧ください!
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 ←以前書いた祭の紹介記事
ついでに大山は日本酒と豆腐料理が名物なので以前の記事も紹介します。

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←クリックで!

大山夜間ライトアップ 公式拝借 久良岐のよし
とにかく綺麗なので、是非、訪れてみて下さい。
※車で行くと必ず渋滞し間に合いません。電車で伊勢原駅まで行き、そこからバスで移動し、渋滞にバスが嵌まったら麓(ふもと)から徒歩で登山してケーブルカー駅まで行く事をお薦めします。

そして他の紅葉の名所も・・・
大雄山最乗寺も綺麗に朱に染まります。
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【紅葉状況:2015年】神奈川県内の紅葉名所の11/18現在の状況と見頃予測。←昨年の今頃纏めてた紅葉の名所紹介記事。
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昨年は気温が高く色づき悪いまま枯れてしまう樹も多かったのですが、今年は涼しいのできっと綺麗に色づくでしょう。
鎌倉の紅葉も綺麗ですよ!
お薦めは浄明寺地区。
中でも浄妙寺は特に良い。
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下の写真の綺麗な庭園を見ながら抹茶も頂けます。
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そして報国寺。
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こちらは竹林で有名な御寺です。ミシェランガイドでも三星。
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奥の草庵でゆっくり時間を過せます。
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抹茶付の拝観券を購入すると、ここで抹茶と落雁を頂きながら風景を楽しめます。
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東京都世田谷区の豪徳寺も紅葉が綺麗です。
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豪徳寺は蒔田吉良家の居城、世田谷城址に在った寺院を、江戸時代に大名の井伊家が菩提寺に定め拡張して庭園を整備しました。
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これからは秋の風物詩が楽しみですね!

では!次は神社仏閣城址の解説記事で御会いしましょう!

横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ神様は近隣の上郷地区の思金神社に合祀されてしまったんです。↓以前、思金神社を紹介した記事。

昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 

前回07月10日の休日雑記の続き。

07月11日の朝は、宿泊先の三崎漁港のホテルで迎えた。
ビジネスホテルでは無くPCを置くスペースが無く、酒や菓子を広げる程度のテーブルしか無かったので、夜は良く眠れた。
朝、5時頃目が覚めただろうか?
この日の朝はホテルの朝食時間の7時過ぎまで、ドライブ&対岸の城ヶ島散歩を楽しむ事にした。
出発時、当初は大好きな城ヶ島公園の方を散策するつもりだった、そちらからは富士山も見える。
しかし、城ヶ島へ渡る連絡橋を走っていて…
「いつもと反対側、そう言えば行った事無いなぁ~?」
…と気に成ったので、公園駐車場との分岐点でハンドルを切らず、正反対の島の西側に行って見る事にした。
城ヶ島周辺
「どうせ開拓するなら思いっきり反対側が良い!」と思い、本当に真西に向かって車を走らせると暫くして東側とは違う何やら昼間なら賑やかそうな商店街が見えて来た。
その商店街の辺りの駐車スペースに車を停めて散策する事にした。
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最初に来たのが❝楫(かじ)の鼻❞と言う岩礁辺り。
この地形を見ると三浦半島は南西から地盤が押し上げられ隆起し、北東は東京湾に向かって沈下しているのが
一目瞭然だ。地層が斜めに立ち上がっている。
この楫の鼻の地名の由来に成った場所が有る。
この岩礁の手前がその場所。
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楫の三郎山。
三崎町の鎮守、海南神社の御祭神でもある藤原資盈(すけみつ)公が関東に亡命して来る際に、船の楫(かじ)を操船していた三郎と言う家臣が、資盈公の安住を祈願した伝承に由来する場所。
大正時代位まで大蛇が住んでいるから登ってはいけないと言って人々は崇拝対象としてだけ拝んでいた場所らしい。
頂上には楫三郎の神社が在った。
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なんか、名の有る武将の御廟所の様な造りで普通の神社とは又違う。
思うに、ここ実は菅原資盈公か楫三郎の御廟所なんじゃなかろうか?
ならば大蛇伝説が有った事が理解できる。
さて、三浦半島の崖地には、そこかしこに黄色い綺麗な花が咲いている。
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供えられていた。
余り花に関する知識が無いので解らないが、多分、ユリ科の植物。昔から気に成っていたが、三浦半島では良く見かける花だ。
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少し歩けば直ぐに見つける事が出来る。
楫の三郎山を離れ、細い商店街の路地を抜け、港屋や城ヶ島京急ホテルと言う風景の綺麗さで有名な宿泊施設の有る方に歩いて行くと、城ヶ島西側の灯台がある。
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灯台のの前は西洋式の庭園に成っているのだが、多分、カップルの観光客を呼びこむ為に作られたであろう西洋式の庭園だった。
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早朝で観光客はいないが、灯台が開いてる時間にくれば人が多いのだろうか?
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池には綺麗な蓮の花が咲いていて、何とも西洋と東洋の混じった不思議な空間だが、赤い花弁が白い庭園にマッチしていて雰囲気が良かった。
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綺麗だな…。
ここ城ヶ島灯台は明治時代に建設された場所で、云わば建築遺産でもある。
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漁船や太平洋を往来する船達の安全の為に建てられた場所で有るから、当然古い習慣の安全祈願も残っていて、庭園内には恐らく灯台より先に、この丘の住人だったと思われる御地蔵様もいらっしゃった。
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末永く旅人と地元民を御守護下さる様に御参りして、散歩を続ける事にした。
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城ヶ島灯台の遊歩道を西側に抜けると素晴らしい眺望に行き当たる。
その周辺に城ヶ島京急ホテルや、港屋が在る。
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途中、真っ赤な素敵な大人びた雰囲気の花も咲いていた。南方の植物だろうか?
今回、こちら側に来たのは偶然だったが、とても景色が良く東側城ヶ島公園も素晴らしいが甲乙つけがたいと言うのが正直な感想だろうか?又、こちら側には宿泊に来たいと思う。
小桜姫観音周辺 久良岐のよし
位置関係は衛星写真の通りで、一目瞭然、どの旅館も眼前に磯と海が広がり素晴らしい景色を部屋から楽しめそうだ。
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小生は城ヶ島京急ホテルの前の遊歩道を歩く事にした…
遊歩道に縁結びの聖地❝小桜観音❞と書いて有ったので気に成ったのも有るが、楫の三郎山から此方(こちら)側を見た時に素敵な遊歩道が設置されており、そこに沢山のユリ?が咲いていたので歩きたいと思ったのだ。
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ふむ。やはり雰囲気の良い遊歩道だ。
❝観光橋❞と、言う名らしい。
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橋の傍の崖には沢山の鼻が咲いている。
小生、元来、梅の花が一番好きなのだが…
どうやら蝋梅(ろうばい)、山吹、そしてこの三浦半島の海岸に群生するユリの様な黄色い花の写真も沢山撮っているので黄色い花々も好みらしい。
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実に明るい、なんだか南洋の島の女性の様な雰囲気の、笑顔を振りまいている様な花だ。
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この橋の上からユリ?の花の崖伝いに奥の方へ眼をやると、何だか御社らしき物が目に留まった。
どうやらアレが小桜観音のようだ。
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橋の上から澄んだ海を見ながら、御社を目指した。
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近くに行くと何やらホタテ貝に恋人同士で祈願を書いた絵馬?代わりの願掛けがされていた。
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どうやら洞穴に作られた御社の様だが、名前も観音様であり周辺に石塔が有るので、神社としての機能は極最近に設けられたのだろう。本来は小桜観音と言う名の通り仏教的な聖地霊場だったのだろうか?
後で調べたのだが、ここは小桜姫伝説の舞台らしい。小桜姫と言うのが小生はパッとしないのだが、戦国時代の三浦家所縁の御姫様らしいと言う事は解った。
ただ、平安時代~戦国時代の三浦家滅亡までの主だった御寺の住職様や神社の宮司様と直接面識の有る小生の知識をフル稼働しても、その様な人物は三浦家には実在していなかった。
どうやら小生の尊敬する三浦荒次郎義意(よしおき)公の奥方とか側室とか伝承が有るようだが、歴史上、小桜姫と言う名の奥方様の記録は無い。
三浦義意公の奥方は本妻も側室も房総半島の小大名、真里谷(まりやつ)武田家の姫君だけだ。
民間信仰として小桜姫と名が伝わっているこの伝承の理由、この後に書くが三浦同寸研究会副会長と面会した際に、副会長の御教授と小生の知識で詳しく解る事に成った。
姫様の名前の由来は置いておいても、三浦義意公には確かに真里谷家の奥方様がいたので、その方がモデルで有るかも知れないし、仮に小桜姫として拝んでも真里谷の姫を拝んでいるのと同じ事…
きっと縁結びの御利益は有るに違いない。

散歩を進めよう。
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車に戻る途中で、商店街の港屋の支店売店の前に大量に海藻が干してあった。
天草(てんぐさ)だな。
これを煮詰めて干して寒天の原材料にする訳だ。
寒天は現在ではカロリー0のデザートとしても重宝されている。小生も御世話に成っている。
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看板を見て気に成ったのだが港屋サンではどうやら、ヤドカリをアマ蟹と言う名で料理して提供しているらしい。
気に成るので次回食べに来ようと決めた。
早朝の5時過ぎ~7時半位の約2時間の散歩だったが、綺麗な花と海を見て、思いがけず三崎町の歴史に深い関わりの有る神社と観音様を御参りする事も出来て気分良く一日の始まりを迎える事が出来た。

宿に帰ると既に朝食の準備をして下さっていた。
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小生は働く時間が不規則なので、宿に外泊する時の和食の朝食がとてもありがたく美味しく感じる。
特に三崎はマグロと干物が名物なので、このエボダイも大変美味しく頂きました。
「美味しいよ」と宿の朝食調理担当の叔母ちゃんに御礼を言うと、そこから打ち解ける事が出来て談笑しながら三浦の事を色々話しをした。
すると来週(07月16日土曜日)は三崎町の鎮守、海南神社の例大祭でとても賑やかだから是非にも見たら良いと勧められたので、翌週も来る事に決めた…
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部屋に戻り、壁の絵画を見ながらチェックアウトの準備をして、散歩でかいた汗を流す為に大浴場で贅沢な朝風呂を浴びてから、少し仮眠してチェックアウトの時間を待つ事にした…

②へ続く。









好きな人がいる事
好きな人がいること
フジテレビ系放送局で放送開始されました。
小生が休日によく散歩に行く風景が沢山出ます。
1人のパティシエの女の子が、レストランを経営するイケメン3兄弟と同居し、恋をしながら成長していく話です。
好きな人がいる事2
是非、見てみて下さい。

一番上のドラマタイトルをクリックすると、公式ホームぺージにリンクします。

もう一作品、神奈川県が舞台のドラマが始まります…

廃校と成った旧神奈川県立三崎高校と野庭高校の卒業生に捧げる・・・
仰げば尊し
仰げば尊し
小生が住む横浜市に10年くらい前まで実在した神奈川県立野庭(のば)高校と、全国優勝常連だった吹奏楽部の物語です。
野庭高校は劇中で、とんでもない不良高校に描かれていますが、実際横浜市内で下から1、2番目の学力の普通科高校でした。
その高校を、これまた実在した❝中澤忠雄❞先生をモデルにした、寺尾聡さん演じる樋熊迎一が吹奏楽部を率いて学校を変えていく物語です。
仰げば尊し1
その学力底辺の野庭高校は、中澤忠雄先生の率いる吹奏楽部があれよあれよと言う間に全国で連戦連勝の優勝常連校に育って行き、全国から吹奏楽を志す中学生が受験する音楽の名門高校に生まれ変わった話です。
2016年7月17日放送開始です。詳しくは画像上のドラマタイトルをクリックして公式ホームページを御覧下さい。
仰げば尊し⇐クリック!
きっと面白いので、是非、皆さんに見て欲しいと思います。

この野庭高校は劇中では❝美崎(みさき)高校❞に名前が変わっています。多分、ロケ地が神奈川県三浦市三崎町だからでしょうか?
猿島が見える海辺も出るので横須賀市の馬堀海岸もロケ地の様ですね。他にも日本武尊と弟橘媛神話の舞台の走水海岸、三崎町三崎漁港の風景も登場していました。
学校の校門前や屋上の風景は野庭関城址である野庭団地が見えるので、本当に旧野庭高校で撮影している様です。

さて…
小生のブログは腐っても歴史解説と郷土史とグルメ探訪のブログなので野庭高校に関連する歴史を…

余談ですが、このドラマの舞台となる美崎高校のモデル野庭高校の一帯は鎌倉時代に築城され安土桃山時代まで城塞として活用された❝野庭関城❞の城址なんです
旧野庭高校の西を流れる川と畑地は、鎌倉時代~戦国時代水掘りと水田、沼掘りでした。丁度ドラマの校門のシーンで見える一段下の茂み辺り一帯ですね。屋上のシーンで見える野庭団地の中心地の野庭中央公園が本丸と伝わっています。
位置関係はこんな感じ…
旧神奈川県立野庭高校と野庭関城の位置関係 久良岐のよし
残念ながらアホの神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が保護を怠った為に城址は団地建設で破壊されましたが、一時、中澤忠雄先生と吹奏楽を志す生徒達によって日本に誇る❝音楽の拠点❞として有名に成ったのはせめてもの先人への手向けに成ったでしょうか?
この城を築城したのは、義務教育で誰もが習う鎌倉幕府の初代侍所別当を務めた和田義盛公です。
戦国時代には名奉行として有名な安藤良整公や北条氏康公の近臣だった石巻康保公等が城将を務めた城でした。
この城は、鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公と御子息で二代将軍の頼家公が暗殺された(小生は頼朝公の死因は稲毛氏と北条氏によるヒ素中毒毒殺未遂後の直接暗殺と推測している)後に義挙した泉親衛(いずみちかひら)公と和田義盛公に同調した土肥実平(どいさねひら)公の一族郎党が野庭関城に籠城し、壮絶に討死にした忠義の城としての歴史も有ります。
そんな誠実な名将達の城跡の高校に赴任した中澤忠雄先生が底辺高校の生徒達の才能を引き出して全国優勝するまでに導いたのは、浪人だった源頼朝公に忠義を尽くしてとうとう鎌倉幕府を開闢せしめた和田義盛公や土肥實平公の偉業を再現したかの様な物語ですね。

和田義盛公は鎌倉市の材木座で討ち死にしてしまいました。
しかし、野庭城の周辺には3軒ほど和田姓の御子孫が昭和期まで在住されていました。
和田義盛公と配下の武士達は鎌倉市の和田塚(正式名:無常堂塚)に葬られました。
和田塚(無常堂塚)の場所 久良岐のよし
和田塚には地表に露出した当時の武士達の人骨片がムキ出しに成っています。
近隣の学校の❝校庭でキラキラ光る砂のようで砂とは違う物も、人骨が破砕されて光に反射している❞のだと、小生や鎌倉市の古老と似たような知識を司馬遼太郎先生も❝街道を行く❞シリーズの三浦編で紹介していたと思います。
因(ちな)みに鎌倉市は、何処(どこ)を掘り返しても人骨が出ます。そりゃそうですよね…
和田合戦・宝治合戦・新田義貞による鎌倉攻め・中先代の乱・足利尊氏公の鎌倉奪還戦等々、歴史の節目毎に多くの武士が戦って亡く成ってますから。
でもね、❝心霊現象がどうとか言う偽霊能者❞は根本的に解ってないんですよ。
武士は戦死する事も勝つことも「武運」と言い信念の末の戦死は名誉な事であった訳ですから、仮に彼(あ)の世が有っても人を祟ったりはしません。
寧(むし)ろ神道の考え方では荒神様は強力な守り神に成って下さる訳ですし、現在の日本の繁栄や、鎌倉で仲良くデートするカップルを見たら、和田義盛公も平和な時代の恋人を微笑ましく見守って下さる事でしょう…
それは野庭高校の生徒達に吹奏楽で天下を取らせて下さったようにね。

ささ!
歴史は現代に繋がりますが、歴史を映像化するのもドラマにしか出来ない事です。
現代の江ノ島の美しい風景や、吹奏楽で落ちこぼれ高校から日本一の高校に成った野庭高校の歴史、是非!ドラマで楽しんでみて下さいな♪

では!次は先週末の休日雑記の続きか、大庭城の紹介記事で御会いしましょう!

横須賀汐入地区のフェリー乗り場で、横須賀の軍港巡り遊覧船に乗船する事が出来る。
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そのフェリー乗り場の横がヴェルニー公園と言う素敵な庭園。
このヴェルニー公園は薔薇が豊富な海辺の庭園で、梅雨入り前~今の頃が一番綺麗な時期なのだが…
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同じ港の公園でも、横浜の山下公園な港の見える丘公園と一味違う所が、この公園には有る。
目の前が幕末~の造船所❝横須賀製鉄所❞の史跡のドッグであり、東アジアと太平洋の治安維持に活躍して下さっているアメリカ第七艦隊の首府であり海上自衛隊の主要な基地なのだ。
だから海側を見ると、迫力の有る❝モノ❞が停泊して居たりする。
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潜水艦。
潜水艦の後ろが江戸時代末期に、徳川幕臣:小栗上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ)公の建設した横須賀製鉄(造船所)のドッグだ。現在も現役で使用されている。
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明治時代に東郷平八郎元帥も、旧幕臣として明治新政府に処刑された小栗上野介サンに「貴方の御蔭で日本はロシアの植民地に成らずに済みました。」との主旨の謝意を公然と述べて小栗家の残された家族の名誉回復をしたりしている。
敵味方別れたり勝敗の分かれ目は時の運、これを武士は「武運」と呼び互いに恨みに執着せず、旧敵もリスペクトする如何にも武士らしい価値観だ。
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このヴェルニー公園は本当に設計も薔薇も綺麗な公園で…
とにかく薔薇の種類が豊富。そして全ての種類別に丁寧な解説もされている。
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原産地国なんかでカテゴライズもされている。
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本当…
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花が好きな人も、庭園が好きな人も、海風が好きな人も、横須賀の文化が好きな人も、色んな人が楽しめる素晴らしい公園。
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この公園の海沿い側はウッドデッキに成っていて、またそれが庭園と重厚な軍港の雰囲気を親和性を高める風景の接着剤に成っていて、景勝地としての完成度を高い物に仕上げている。
この公園設計した人は本当に素晴らしい仕事をされた。
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存じ上げなかったが…
日本の皇族の方々の名を冠した薔薇も多い様だ。
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確かに内親王(当時)に相応しい上品さの有る薔薇。

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まぁ~こんな感じでちゃんと説明を全部読んで廻ると、見ていて飽きないし外国の要人の名前がついていたり時間が経つのも早い。
ただ…梅雨の時期に成っちゃって蚊も多いので、虫よけスプレーは必需品。
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本当に薔薇を見ていて飽きない。
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キリが無いので薔薇の紹介はここまでにして、公園の風景に戻る。
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少し奥に行くと、なかなか他の町では見られないイージス艦が3隻(せき)並んでいる。
しかも公園の風景にマッチしているのが不思議だ。
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格好良いなぁ~♪この船達と乗船員達が、中国やロシアの(笑)不審船達から日本国民を守って下さっている訳だ。
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夕暮れにも成ると、又、一味違う雰囲気に成る。
グッと大人っぽい雰囲気に成る。
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これ、横須賀市の町どくとくの光何だろうか?夜空が凄く青い。
横浜の夜空は落ち着かないオレンジ色、商業港湾の灯りの色で。
だから余計に横須賀の町が綺麗に見える。
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夜の薔薇も又、綺麗。
公園自体の紹介はここまで。
ヴェルニー公園の中には素敵なカフェが有る。
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Cafe Restaurant CORSAIRE(コルセール)。
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ここは公園内なので、窓から見える風景が素晴らしい。
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場所的にもJR横須賀駅からも、京急汐入駅からも近い。
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ここの店では、ネイビーバーガーと横須賀海軍カレーも食べられるので、風景重視でランチやディナーをとりたいなら、この店で名物のハンバーガーに舌鼓を打つのも良いと思う。
写真はネイビーバーガーとミニ海軍カレーのセット、1800円位かな?

ヴェルニー公園、良い所でしょう?もしドブ板通りに飲みに行ったり猿島や三笠公園に観光に来る方は、行き帰りのどちらかに、こちらを御散歩されても如何でしょうか?

では、又、次の記事で!


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今日は朝、少しだけ寝て家を出た。
最初に訪れたのは称名寺…
と、昔は同じ金沢北条家の敷地内に建てられた武家初の図書館だった金沢文庫。
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今では金沢文庫博物館と名を替え県営と成っている。
現在、金沢文庫は泥亀新田開発者の永島家の特別展示を行っている。この永島家の邸宅は伊藤博文公が大日本帝国憲法草案を起草した場所の一つ、野島の伊藤邸近くに在った。
昭和後期、小生が子供の頃まで永島家の敷地と立派な門が文化財として保護されていたが横浜市教育委員会が保護を怠り破壊され宅地化されてしまった。
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金沢文庫が県営に成ったのには色々な経緯(いきさつ)が有るが、明治時代に領主や幕府達に寄進されていた寺領が没収されてしまい、米穀の収入があった寺領や社領を接収されたので、神社仏閣の僧侶や神職達は収入源が無くなったせいで墓地の経営や冠婚葬祭なんて商売を行わなければいけなくなった。
つまり明治政府の宗教政策の失敗によって神社仏閣の多くは哲学や学問や文化を学ぶ場所としての機能を停止せざるを得ない状況に陥らされた。
更に封建社会での御寺は公共施設だったのに対して明治時代は住職の個人資産、世襲制に成ってしまった事で称名寺も当時の❝住職の資産❞に成ってしまった。
これが金沢文庫の不幸の始まりで、当時の住職は仏僧にもあるまじき堕落をし水商売の女に狂って日本国民にとって❝東の正倉院❞の異名で呼ばれた称名寺の寺宝を私有財産の様に売り払い、水女に使い込んでしまった。
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それを保護すべく称名寺の檀家や宗派真言宗の認知の下で、寺宝管理を神奈川県営の金沢文庫博物館に寄託する形で、日本国民にとって有益な研究対象文化財として世間に多くの寺宝が日の目を見て日本のみならず
東アジアの文化史解明に役に立ったと有名に成った程の場所…
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…なのだけれど、歴史に興味が無い人達には認識されておらず知名度が低い。江戸時代までは真言宗内では称名寺は凄まじい知名度の庭園と壇林としての機能を有して居た。
称名寺=金沢北条氏邸宅の谷戸と文庫の谷戸を繋いでいた鎌倉時代から使われていた隧道も現存する。
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まぁ、現在の黒岩知事と県の教育委員会が金沢文庫の文化財保護の為の老朽化した空調交換に予算を回さなかったせいで、称名寺の重要文化財は昨年カビに腐食されてしまってニュースに取り上げられ事件に成った事も有った。
文化財保護と言うのは知事や市町の文化度が低いと、この様に直ぐに被害をうける。
これが城址や神社仏閣の古址と成ると、あくどい市長は発掘調査もせず重要性を隠匿したまま土建屋に宅地開発容認してしまう。
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今、宅地開発されてる横浜市港南区笹下4丁目は、笹下城址の主要部分の一角だった。
現在、本丸直下の切岸と空堀後は❝傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャル❞に破壊されて家が建設される最中だ。

さて、閉館16時半金沢文庫を後にして何だか休日に1ヵ所しか廻らないのは不完全燃焼…
「歴史成分」「自然が足りない」
…てな訳で、ここから車でそう遠く無い神奈川の景勝50選に選ばれている鷹取山に廿数年ぶりに登ってみようと思い立ち移動した。鷹取山の写真は全く無かったから。
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なんだか久しぶりの鷹取山は本来の登山道とは別のアスファルトの広い歩道が整備されてしまい自然環境が破壊されていた。
まぁ、その分、ちゃんと紫陽花が植えられて遊歩道として綺麗ではあった…
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小生は現在の遊歩道を嫌って、紫陽花の切れ目から子供の頃に歩いた古道を見つけてソッチから登山する事にした。
因(ちな)みに、普通のアスファルトの遊歩道を歩けば鷹取山公園の入口から展望台の有る岩場まで10分足らず、遊歩道をそれて古道に入ると危険極まりない(笑)風化した鎌倉石と自然を満喫する道なので展望台まで30分以上かかる。
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嘆かわしい事に、来なかった二十数年の間、岸壁に掘られた石仏群を何の心算か勝手に彩色して文化財破壊する輩がいたような。
犯人捕まえて刑務所ブチ込んで欲しいレベル。こんな事したら原状回復は不可能。
そんな悲しい発見も有ったが…
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こんな場所が緑の中、随所にあり不思議な空間に成っている。
マイナスイオンも感じる様な気がする…
途中、この古い登山道は本当に険しく、落ちたら死ぬ所ばかり(笑)。DSC_3023
それでも、この本来の道を通る価値は有る。

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頂上の広場は、まるでカッパドキアの様な異世界の風景。
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でも、この岩場の壁面に沢山穴が開いてるでしょう?
これ、先日も文化財破壊で問題に成った団塊~バブル世代の無文化ロッククライマー達が私欲の為に鉄杭を打ち込んで破壊した傷後です。
現在は根本的にロッククライミング禁止なのに、無許可で登ってるクソがいました。
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装備を置いて岩の上にいるようだ。
そんな憤りもあるが、この日は久しぶりに拝みたかった大石仏の弥勒菩薩様に会いに来たので…
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久しぶりに御会いできて嬉しかった。
そして、この鷹取山や神武寺付近は小生が尊敬する戦国時代、関東最高の軍師の太田道灌公も鷹狩に訪れた伝承があり、鎌倉時代には源実朝公も来訪されたそうだ。
ここの存在を思い出したのは先月、葉山に宿泊した際に訪れた逗子市郷土資料館の学芸員さんの話で、鷹取山の話が出て来たから。

ふむ、古道を歩いた御蔭で汗もかき、何とか休日らしい充実感を味わえて良かった。








前回の記事では大庭神社の論社(推定地)の一つで伝承上の元宮(もとみや=元々の所在地)だと伝承する❝大庭神社舊跡❞と近くの❝神奈川の銘木100選の一つ臺谷戸稲荷の椨の樹❞の風景を紹介しました。
※前回の記事は「ココ」←クリック!
さて…
今回はいよいよ、現在にも江戸時代の建築遺構が多く残る現在の大庭神社と周辺の風景を写真と解説で紹介したいと思います。
現在の大庭神社は、人口の少なく成った大庭の引地川沿いにヒッソリと佇んでいでいます。
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一見すると余り目立たない普通の神社に見えてしまいますが、ここは前回、前々回の記事でも解説した通り、平安時代の醍醐天皇達から見ても古い歴史を持ち保護すべき神社として延喜式神名張に記載された神社の現在の所在地で、凄まじい由緒と権威の有る神社です。
この神社の現在の所在地は、嘗ては目の前に海の入江が広がっていました。
大庭神社周辺
※拡大して見て下さいね。
画面左に大庭神社の所在地がマークされています。
白い部分が古代の海です。
元宮の大庭神社舊跡とは、湾を挟んで反対側に在ります。現在の大庭神社の在る丘は、平安時代末期に成って鎌倉景正(かまくらかげまさ)公によって開拓された地域です。古代の史跡は全て古代の湾の左岸、つまり大庭神社の舊跡側から出土しています。
さて、何故、現在地に大庭神社が移ったかは【前編】で解説した通りです。
※【前編】解説記事は「ココ」←クリック!
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鎌倉時代末期~室町時代初期の武将で、室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公の母方の従弟だった山名時氏公が1352年頃に恐らく元は大庭地区に所在した成就院と言う御寺を現在の稲荷地区に移転させ再興開基した際に、同寺が別当寺として管理を任せていた大庭神社も一緒に舊跡=元宮から現在地に移転させたと考えられるからです。
余談ですが、山名時氏公は横浜市港南区上永谷の永谷城主宅間上杉家の御先祖の宅間上杉重兼公の従兄でもあります。つまり、足利家・山名家・宅間上杉家は親戚なんですね。
稲荷の成就院と大庭神社の歴史を裏付ける様に、成就院の元の寺名は院号では無くて❝宝染寺❞であった事が伝わっていますが現在はその寺名が使われていません。つまり前身寺院が移転して来て名を変えた可能性が成り立つ訳です。
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この様な例は他にも良く有る事で、例えば戦国時代の北条家の重臣の笠原信為公の造営した雲松院と言う御寺が横浜市港北区に在りますが、元々は神奈川区の神大寺の別院的な御寺だったのが神大寺が後に焼失したので神大寺の機能ごと雲松院に移転した歴史が有ったりします。
※笠原家菩提寺の雲松院の記事は「ココ」←クリック!
他にも大庭神社と同じ延喜式内社の比々多神社や高部屋神社等も古代の位置から遷座している歴史が有ります。
その辺にも御興味が有る方は【カテゴリー:延喜式内社と歴史千年以上の古社】←このの中から記事を探して見てみて下さい。
さて、藤沢市稲荷の成就院解説は又、別記事にするとしましす。
と山名時氏公の解説も後回しにして、先に大庭神社の風景と施設を紹介します。
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大庭神社の石の大鳥居の前には、自然公園が広がっています。
引地川親水公園周辺 久良岐のよし
引地川親水公園と言う、引地川の湿地を利用した広大な自然公園で、稲荷の大庭神社の前には湿生園もあり子供達に湿地帯の植物を観察せるのに適した場所であり、都会の藤沢市街地の直ぐ近所で子供が自然に触れられるとても大切で貴重な場所でもあります。
…藤沢市土木事務所、公園課の方々Good Job!
さて、その引地川親水公園の前の鳥居をくぐり、階段を登ると…DSC_0346
写真撮影に行った時は3月下旬で、綺麗な木蓮(もくれん)の花が咲いていました。
参道は鳥居の在る階段を上ると左に折れて社殿へ続きます。
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参道の入口には、格式の高さを感じさせる立派な灯篭が在りました。
氏子サン達、頑張って醍醐天皇の御意思を継いで大庭神社を守って下さっています。
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推測するに、延喜式内社の格式と、足利家の縁戚で室町幕府重鎮と成った山名家の関与が有った神社なので、この周辺、神社境内と平行する削平地と裏の傾斜地は往時は全て大庭神社の境内地だったのだと思います。
丘の上は現在は大企業の工場に成っていますが、この神社の境内と平行した削平地と傾斜地だけは緑が保存されています。
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さて、延喜式内社の解説で良く話すのですが、明治時代に明治政府によって神仏分離令・一村一社令・神仏分離令と言う愚かな政策と、伊勢系統の神様を優遇する政策が行われたせいで歴史の古い多くの延喜式内社を含めた神社と御寺が破壊されたり、❝合祀(ごうし=別の神社に神様を移す)❞と言う名目で聖地を御神体とした神社が消滅させられました。
明治政府には森有礼等の日本文化の破壊を目論んだ勢力が多く入り込んでいて、天皇系統の祖先神を優遇するとの宗教改革の名目で多くの神社仏閣が破壊され聖地霊場も埋め立てられたり掘削されて姿を消してしまいました。
何とか古(いにしえの)社(やしろ)に伝わる文化を保護しようとした方々がいらっしゃって、それが平氏や源氏の武家の御子孫であられた東郷元帥や乃木大将達でした。
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三浦半島の横須賀市走水に在る日本武尊と弟橘姫の神話の舞台の走水神社と言う神社には、現在もその歴史と明治の元勲達の逸話が残っています。
因みに首相も務めた伊藤博文公も横浜市金沢区の野島の別宅から、隣接する横浜市磯子区氷取沢の寶勝寺と言う名の御寺に良く通われていた歴史と遺物が残っていて、どうやら❝明治の元勲達と違う勢力❞が暗躍して、国家神道と言う新しい宗教観が神道に導入され、仏教徒の分離も為(な)されたたようです。
そして多くの延喜式内社は縄文文化を受け継いだ神様が多く、伊勢系統の神様を御祭神としていない場所が多かったので、歴史の浅い伊勢神道系の神社の管理下に置かれ衰退してしまった訳です。

しかし、古代からの神事を守りながらも実は多くの延喜式内社には奈良時代~明治時代に成るまでの日本の千数百年来の伝統が守られている場所が多く有ります。
仏教の文化も異文化でも良い物として、日本の神様達の神社の中に受け入れて融合した神仏習合の日本文化です。
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だから、この大庭神社には成就院が別当寺の役割を解任された現在も、鐘楼が保護されています。
つまり延喜式神名張を編纂させた醍醐天皇達天皇家の方々本来の寛容性の高い価値観を守る神社が、偶然にも宮司様不在に成っている大庭神社や他の延喜式内社には多く残っている訳です。現代の比較的新しい神社では縄文~弥生~古墳時代からの聖地も神事も無い上に、神仏混交時代の遺物や行事も残らない場所が多く古代から大庭神社をはじめとした延喜式内社とは大分、様子が異なります。
さてこの鐘楼の前を通り過ぎると、いよいよ社殿です。
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神社なのに瓦葺(かわらぶき)なので、建物は江戸時代中期以降か最近の建て替えが有った様ですね。
歴史があり格式の高い古社は、金銭的に余裕が有る歴史偉人との関わりから板葺(いたぶき)、それも檜皮葺(ひわだぶき)か、茅葺(かやぶき)の屋根が奉納されています。
ここ大庭一帯は、神奈川県下でも過疎に成りかけていた場所なので、寧(むし)ろ瓦葺でも新しい立派な屋根を奉納で来た氏子サン達は本当に身を削って神話時代(縄文末期)からの神社文化に残った伝統を守ってらっしゃると思います。敬服するばかり。
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拝殿の注連縄(しめなわ)も立派です。本当に氏子サン達の努力の賜物。
神様も喜んで下さるでしょうね。
縄文文化の伝統が現存する神社では、この注連縄に莫告藻(なのりそ=ホンダワラ)と呼ばれる海藻が更に装飾されます。
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この海藻が後に海の遠い大和国に朝廷が転居した頃に、代用品として紙垂(しで)が作られる様に成った事は想像に容易(たやす)い事ですね。
でも、そんな古代の歴史を一度断ち切ってしまった神道では、この伝統が伝わっていない場所が大多数で、代用品の紙垂が「稲妻に似てるから邪気払いとか稲光の梅雨の季節の豊穣祈願」とかバラバラな説明がされているようです。
古代の大王(おおきみ)/大君、その先人達の古墳が海に近い九州や河内や摂津の各地に在る歴史事実を考えれば、莫告藻が紙垂に変化したのは直ぐに理解出来る話です。
聖地霊場や神様に成られた先人の古墳の大切さよりも、神社の建物を作る事と神器の鏡を奉るを重視した明治の国家神道だけ学んでも解らない事です。
考古学や地理、神話の神様の御陵の現在地と古代の海岸線を知らないと繋がら無いですからね。
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順番があべこべには成りますが、大庭神社の御祭神は…
●神皇産靈(かみむすび)の神
女神様で、出雲大社の御祭神である大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命=素戔嗚尊の子孫を助けた神様です。つまり、長寿や治病に御利益が有りそうな神様ですね。

●熊野久須比(クマノクスビ)の命(みこと)…元宮の主祭神

本来の熊野大社や熊野那智大社の主祭神だったと考えれている神様。つまり、大庭神社の歴史が熊野大社の主祭神が入れ替わる以前から存在した証明に成る。遅くとも飛鳥時代より前の造営。

●大庭三郎景親(おおばさぶろうかげちか)公
元宮や稲荷地区の大庭神社一帯を平安時代末期に治めた在地領主の大庭景親公が御当地の人々によって死後、御祭神として祀られたと考えられる。
大庭氏から領土の守護神として崇拝されたのだろう。それ故に元宮は大庭城の近くに在る。

●菅原道眞(すがわらみちざね)公
江戸時代の天明3年(1783年)秋に地頭(じとう=土地の所有者)の諏訪部定太郎と、名主(なぬし=町長)の山崎六郎兵衛(ろくろうひょうえ/ろくろべえ)包高(かねたか)によって、勧請された。
実は、この西暦1783年は旧暦7月8日(太陽暦の6月くらい?)に浅間山が大噴火している。大噴火の際は雷雲が火口に発生するので、平安時代に雷神として神格化れた菅原道真公を奉(たてまつ)る事で天災から逃れたかった当時の江戸時代の人々の思いが伝わる御祭神だと推測出来る。
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一見して、宮司様も御不在、しかも少し寂しい所にある神社ですが凄い歴史が有るでしょう?
きっとね、皆さんの御近所にも、同じ様に神社や御寺の大きさに関わらず凄い歴史が有って思いもよらない神様のモデルの偉人や武将達との所縁(ゆかり)のある神社や仏閣が有ると思いますよ~。
そして、近所の公園や山は、実は武士達が命を懸けて領民と農地を守る拠点だった旧街道沿いの古城の城址かも知れませんよ?
だからね、少し、御近所の神社や御寺や山を散歩して見ませんか~?
きっと、小さな御社や御地蔵様も、神様や先人と皆さんを結び付けるタイムカプセルに成ってくれるかも知れまんよ~♪

では、又、次の記事で御会いしましょう!
次は大庭城か、藤沢市稲荷地区の成就院と山王社かな?

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