歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:有鹿神社

有鹿神社本宮(延喜式内社・奈良時代の天皇勅願所)
有鹿森(弥生時代からの聖地)
有鹿神社中宮(聖地有鹿池の古址) 
海老名山 総寺院 満蔵寺(旧有鹿神社別当寺)
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  御祭神・御本尊等:
  有鹿比古命(あるかひこのみこと)・有鹿比売命(あるかひめのみこと)・天満大自在天神(菅原道真公)・虚空蔵菩薩
  御利益:雨乞い・農業豊作・縁結び・夫婦円満
  関係者:
  開基:有鹿比古・有鹿比売
  中興:天智天皇
     孝謙天皇
     清和天皇
     相模国司 歴代
     海老名郷司藤原 廣政 公
     権守     海老名 季定 公 
     海老名家   歴代当主
     相模守    北条 氏政 公
  旧郡名:高座郡 海老名郷(古代相模国府に近在)
  所在地:有鹿神社本宮・・・海老名市上郷の鳩川と相模川の合流地点、有鹿森
  所在地:有鹿神社中宮・・・海老名市上郷1丁目の住宅街の中
  所在地:総寺院・・・有鹿神社の旧参道住宅街の道路左手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
古代の相模国国府から徒歩30分程、奥宮の在る聖地有鹿谷から流れ出でる鳩川と相模川の合流地点の古代の有鹿森に有鹿神社本宮が所在し国府鎮護の祭祀が行われた記録が有る。現代では住宅街に成ってしまった場所に中宮が在り、有鹿神社本宮の旧参道沿いには有鹿神社の別当寺だった真言宗の総寺院が存在する。
有鹿神社の御祭神は夫婦神で夫神の有鹿比古は太陽神、女神の有鹿比売は水神。古代大和朝廷の時代に開かれた海老名市の条里制区画が残る海老名耕地を潤す農業用水でもある事から豊穣の神としての意味も強い。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された正一位の位階と幣帛を賜わり国家鎮護の祭祀が行われた歴史記録も残る。古代からの‟水引神事”が行われていたが新田義貞による倒幕の際に多くの神社仏閣が彼に襲撃略奪放火されたが、有鹿神社と総持院も同様に兵火に遭い水引神事は中世に一時途絶えたた。しかし戦国時代に関東覇者で小田原城主の北条氏政公によって神事が再興された。有鹿神社本宮の在る旧海老名郷は北条家臣で鶴岡八幡宮再建に携わり一族が江島神社別寺の修験道岩本院別当職を務めた間宮家の惣領である笹下城主間宮康俊公の所領だったので、間宮康俊公と江ノ島岩本楼の岩本(間宮)家の一族の関与が有り北条氏政公に由(よ)る水引神事復興が行われた事が推測出来る。
別当寺の総寺院は明治時代の神仏分離令で規模縮小させられる以前、江戸時代迄は塔頭寺院12坊を境内に持ち、更に末寺19ヵ寺を抱える大規模な神宮寺として機能していた。

有鹿神社奥宮(延喜式内社)・・・古代一之宮
有鹿谷(湧水聖地)
勝坂遺跡(縄文時代~の集落遺跡)
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  御祭神御本尊等:
  有鹿比売命(あるかひめのみこと)・有鹿谷湧水の聖地・勝坂遺跡(縄文~集落遺跡)
  御利益:雨乞い/農業豊作/縁結び/夫婦円満
  関係者:
  開基:有鹿比女と有鹿比古(あるかひこ)の夫婦神
  中興:天智天皇
     孝謙天皇
     清和天皇
     相模国司 歴代
     権守     海老名 季定 公
     海老名家   歴代当主
     相模守    北条 氏政 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:相模原市南区磯部、勝坂遺跡の有鹿谷
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
主祭神の有鹿比女命(あるかひめのみこと)が湧水の聖地を神格化し御祭した神社で、神奈川県下最古級の歴史を持つ。神社の上の丘には勝坂遺跡も有って、縄文時代の生活を学べる竪穴式住居等が再現されている。縄文時代~の遺跡のど真ん中に存在する古社で古代からの聖地として存在した。湧水は有鹿谷から流れ出し鳩川と成りやがて大河川の相模川と合流する。古代大和朝廷の時代に開かれた海老名市の条里制区画が残る海老名耕地を潤す農業用水でもある事から豊穣の神としての意味も強い。
その歴史の古さと有鹿谷の神秘性から歴代天皇から崇敬された幣帛を賜わり国家鎮護の祭祀が行われた歴史記録も残る。古代からの‟水引神事”が行われていたが中世に一時途絶え、後、戦国時代に関東覇者で小田原城主の北条氏政公によって神事が再興された。有鹿神社本宮の在る旧海老名郷は北条家臣で鶴岡八幡宮再建に携わり一族が江島神社別寺の修験道岩本院別当職を務めた間宮家の惣領である笹下城主間宮康俊公の所領だったので、間宮康俊公と江ノ島岩本楼の岩本(間宮)家の一族の関与が有り北条氏政公に由(よ)る水引神事復興が行われた事が推測出来る。
有鹿神社奥宮は現在では社殿こそ存在しないが、奥宮として鳥居と石の祠(ほこら)が鎮座しており湧水地と祠を御参りすれば古代からの強い聖地で御利益を授かれる。近くには延喜式内社の石楯尾神社の論社も在り、邪馬台国時代の古代大和朝廷との関係性が深い土地である事も垣間見える。

また歴史探訪記事ではありませんが、今日は京都の歴史仲間と川崎か三浦か丹沢方面のどこかに小旅行に行って夕方帰宅したらちゃんと歴史記事を書きますよ!
今晩書く予定の記事ではクリスマス前らしく「神奈川県の隠れキリシタン」に関わる場所を紹介したいと思っています。
それから神社仏閣一覧の編集して資格の勉強もして・・・
今も徹夜なのに今晩~明朝迄2日間連チャンで徹夜ですねコリャ。

さて!今日紹介するのは簡単に作れて、女性の肌にもとても良いオツマミにもオカズにも成る中華風の前菜を紹介したいと思います。
豚の耳、食べた事有りますか?実は中華料理では良く食べるんです。小生は横浜中華街では豚耳を出さない店も多いので中国居た時に食べてたの懐かしくて自分で作るんですよ。
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豚の耳と白髪ネギの前菜です。所謂(いわゆる)ミミガーって奴の中華前菜バージョンですね!
これがピリ辛でコリコリしてとても美味しいんですYO~♪
そしてコラーゲンと軟骨成分の塊なので御肌にも良い!
・・・そして関節にも良い・・・かは知らない(笑)。

豚の耳なんてどこで売ってるの?と思う人もいるかも知れませんが、昔は中華街の食料品店や八百屋サンでしか買えなかったのですが、最近ではファミリーマートや富士ガーデン等のコンビニやスーパーでも取り扱ってるんですよ!

ではサクっと材料から紹介しましょう。
材料は例によって小生には1人分、皆さんには2人分です(笑)
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●ミミガー(ファミリーマート)・・・1pack(1人分)×2
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長葱・・・5cm(1人分)×2=10cmくらい。
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●創味シャンタン・・・大匙2分の1杯
●ラー油・・・5~10滴(お好みで好きにして)
●にんにくチューブ・・・小匙1杯
・・・と
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ごま油・・・大匙1杯

では調理始めま~す!
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まず鍋で御湯を沸かしまぁ~す!
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御湯沸かす間にネギ持って来ま~す。
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白い部分を1人分5cmくらい、今回は2人分(小生の1人分)なので10cm切りまぁ~す。
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白髪禰宜・・・じゃなかった白髪ネギにしまぁ~す。
ちなみにネギの禰宜さんがいるのは神奈川県内最古級の神社の有鹿神社本宮で~す。
https://twitter.com/arukajinjanegi←興味有る人はTwitterフォローして差し上げて下さい(笑)。
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白髪ネギを切る時は先にネギを半分に切ってから❝真ん中の緑の芯❞の部分を外してしまうと切り易く成りますyo~♪・・・小生も余り上手ではないけどね(笑)!
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次、沸騰した御湯に豚耳ぶち込みまぁ~す!
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既に食べられるファミマのミミガーを熱湯に通す意味は小生が潔癖症だからと言う訳では無くて(笑)、湯煎する事で余分な脂分を取り除いてヘルシーにしたいからです~。
あと調味料を混ぜる時に暖かい方が混ざりが良いからね。
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熱湯入れて30秒位すると油とか色々汚そうなの(ヤッパ潔癖症じゃね~か)が浮いてきます。
そこまで来たらザルに引き上げまぁ~す。
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よく湯切りして下さいね~!
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神奈川県を代表する端麗系拉麺の名店、海老名市の中村屋の中村社長の天空落とし湯切り(笑)くらいちゃんと御湯を切って下さいね!
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湯切りしたらザルから器に移しまぁ~す。そしてネギを乗せましょう!
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ネギ乗せたらニンニクを小匙1杯落とします。
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次、ラー油。
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小生は辛いの好きなので10滴くらい落としますが、余り辛いのが得意では無い人なら5滴くらいか、それ以下でも良いと思いますが、ラー油だと普通のゴマ油より香りも少し良く成ります。
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ラー油掛けたら創味シャンタンの粉末を小匙1杯かけます。もちろん他社の顆粒の中華スープの素でも、少しの御湯で溶いた中華スープのペーストでもOKぇ~♪
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最後にゴマ油を大匙1杯かけまぁ~す!
もしラー油を少な目にしたい人は、この時にごま油を少しだけ多めにして香り付けしても良いと思いますよ~。
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よく混ぜたらアラ簡単、もう食べられます。
手際が良く出来る人なら御湯沸かす時間いれても10分で出来ますし、ポットの御湯をミミガー入れた器に注いで混ぜるだけでも出来ない事は無いから5分位でも出来るかも知れないですね~。

美味しくて簡単で関節にも御肌にも良いので、主婦のかた是非!御自分の為(ため)、御夫君の為にと酒のツマミやオカズの冷菜として御試しアレぇ~♪

では!今晩書けたら頑張って神奈川県の江戸時代の隠れキリシタンのマリア観音様を紹介記事を書きたいと思います。
・・・書けなかったら、ゴメンね(笑)。クリスマスまでには書きたい。


結論から言うと正月1日は横浜市栄区と港南区近辺をウロチョロしていた。
小生が横浜で1番の知恵の神様と崇拝する永谷天満宮に参拝客の少ない早朝に参拝してから、夜明けの時間に合わせて円海山に富士山を拝みに行った。
永谷天満宮では神職の方々が早朝の5時頃なのにも関わらず詰めておられた。
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永谷天満宮
大変だな…御正月とは。
御神籤を引きに社務所に行ったら禰宜サンがもの凄く眠そうだった(笑)。
「ご苦労様です、当直ですか?」と御声掛けした所・・・
「2日間泊まり込みなんです~」との事。
・・・こうやって神社の場合は神職の方々の御苦労と氏子サン達、御寺の場合は和尚サンや檀家サン達の努力がそれぞれ有るから一般参詣者は御祭りや神事や様々な行事に参加し日本文化を感じられるし、神仏に祈願する事で何だか安心する事も出来る訳だな。
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社務所の前では焚火の火も絶やす事なく燃えていて冷えた参拝者が手を温める事が出来た。
永谷天満宮の神職氏子の皆さん年末年始御疲れ様でした。小生が横浜に置ける知恵の神として崇敬する菅原道真公と菅原景行公と菅原淳茂公の御陰様で昨年1年間過し無事に新年を迎える事が出来ました。
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社殿に移動し天神様に参拝し、1年間の御礼と自分の祈願と諸外国の親日家の人々の平安祈願をした。
因(ちな)みに・・・
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御神籤は大吉だった(笑)!素直に喜んでおこうかな♪
栄区方面に戻り円海山で初日の出を見るのと土地神様の思金神社に御参りに行く為に車に乗り移動・・・
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円海山

う~ん、今年は少しガスってたけれど綺麗に雪化粧した富士山を拝む事が出来た。
富士山は只単に美しいと言うだけでなく明治時代までは自然信仰で神道修験道仏教の全てで此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の化身として崇拝の対象に成っていたんだな。そしてココは奈良時代の人達も製鉄を営みながら灌漑水田を開発し、鎌倉武士が使った間道が幾本も現存し、現代では横浜市最後の蛍の大生息地体でもある、貴重な自然と文明の史跡であり自然公園なんだな。
有る意味、横浜における聖地とも言える。そして此花咲耶姫命を拝む事の出来る場所なんだな。
だから涼しく気持ちの良い晴天の御正月に御化粧した綺麗な富士山を拝めて、とても晴々した気持ちで新年を迎える事が出来た。
・・・ちなみに日の出はポジション取り間違って見えなかった。円海山から日の出を見たかったら金沢区側の展望台じゃなきゃダメだな。

日は変わって正月2日目。
この日の早朝出発~深夜帰宅する約20時間で怒涛の19箇所の神社仏閣聖地と史跡を廻って来た。
この日は地元横浜の神社の思金神様や天満大自在天神菅原道真公や・・・
金沢北条実時公、蒔田御所吉良成高公、吉良頼康公、宅間上杉重兼公、上杉規富公、間宮康俊公、間宮於久様、間宮於継様、間宮綱信公、間宮常信公、間宮信繁公等の侍大将や姫様達。
渋沢栄一サン、原三渓サン、浅野総一郎サン等の横浜の発展と復興に力を尽くされた商人達。
・・・崇敬する横浜市に御縁深い歴史偉人のこれらのと同じく尊敬し毎日、心の中で拝んでいる神様仏様と県内他地域所縁(ゆかり)の歴史偉人に出来るだけ多く御参りしたいと思い訪拝先の予定を組んだら、当初の予定でも既に20個所ととんでも無い件数に成ってしまった(笑)。
多分、過去最多の1日での訪問件数、内容的にはコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路一覧 久良岐のよし
・・・我ながら良く廻ったもんだと思う(笑)、ちゃんと御参りして時間かけて廻ったし。
寝なければ時間は作れる(*´ω`*)!
実際には最終目的地の寒川神社までの順路は移動時間だけで4時間近く、家を出発したのは朝の3時少し過ぎた位、帰宅したのは23時位だったろうか?移動時間以外も略(ほぼ)現地を歩き回ってるので当然ながらつまり休憩した2時間を除いて18時間は運転するか、歩くか、買い食いしてるか、宮司サンか和尚サンと御話ししてた訳だな。
ジム行ってる御蔭で何とか成ったし(笑)。
経路をGoogle mapで可視化するとコンナ感じ・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
神奈川県の中部と東部を略グルっと回ったらしい。
上の一覧表は実際に回った場所だが、予定は少し違って伊勢原市の糟屋館と上粕屋神社は廻らずに厚木市七沢の徳恩寺、拉麺の名店ZUNDO BAR、七沢城址を廻るつもりだった。
・・・これは後で書く事に成るが、神様に「そっちでは無いヨ」仏様に「こっちに来なさい」と言われる様に道を間違った(笑)ので流れと直感に任せて洞昌院優先~糟屋館周辺散策ルートに変更した訳だ。

さて、2018年01月02日03時ちょっとに自宅を出発すると、有鹿神社には4時ちょっと過ぎに着いた。
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参道が雪洞(ぼんぼり)代りの提灯に照らされてとても美しい・・・
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有鹿神社本宮
有鹿神社様への初参拝は3年前、愛川町に三増峠合戦の現場歩き取材に行った帰りに、聖地として名高い有鹿谷と勝板遺跡を訪問し奥宮を御参りし、その勢いのまま海老名の本宮を御参りに来て、御朱印頂に宮司様の別事務所を訪問したのが最初だった。
それ以来、小生は有鹿比賣(あるかひめ)様と有鹿比古(あるかひこ)様の御夫婦の神様も崇拝する様に成り、頂いた御朱印を大切にしている。
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本殿で有鹿の夫婦神様に御参りし、昨年1年間の御礼と今年の小生個人の心願と友人家族恩人恩師の平安祈願と親日諸外国民の平安祈願をした。
本殿も幻想的に提灯の明かりで浮かび上がって美しかった。
所で初めて正月に御参りに来たのだが…
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何か狛犬サンの御胸の辺りがウルトラ怪獣のゼットンみたい光ってて(笑)
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・・・コチラの禰宜さんの遊び心。
天智天皇が国家鎮護の勅願所にする前から庶民に寄り添い農耕を守護し家内安全と良縁結びの神様として存続して来た人懐っこい神様の神社らしい遊び心。
古社なのに偉ぶらず、尚且つ水引き神事の様に古代からの神事を大切にする、こんな柔軟な場所も有って良いと思う。石清水八幡宮の宮司様も神社本庁トップだけど歴代天皇の御意思を尊重され古来の神仏習合時代の文化も大切にされたり新しい催しにも協力されたり色んなアイディアを出されているので現代の柔軟な神社本庁トップの方針にも合っているんじゃないかと思う。
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有鹿神社の境内には有鹿天神社が在り、此方でも前日元旦に永谷天満宮で正月の御参りをした菅原道真公に改めて参拝し、新年の御挨拶と2日当日の旅の無事を祈願した。
車に乗り八菅山に移動。
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八菅山は明治時代に日本の宗教が森有礼(ありのり)等、キリスト教信者政府高官等によってプロテスタント国の英米の猿真似で自然崇拝の神様と平和の哲学の仏様が引き裂かれ宗教自体が作り替えられるまで日本神話の聖地で神職のみならず修験者や仏僧からも聖地として崇拝され多くの寄進が集り物質的にも興隆し、神仏ともに尊重する修験道が仕切る日本屈指の大道場だった。そして行基大僧正が来訪し天皇の勅願を祈願した神仏ともに大切にされた天皇家の勅願所としても機能した霊場でもあった。
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始まりは日本武尊の来訪に由る・・・
「山体の形状が蛇に似ている」
・・・と言う主旨の発言を日本武尊がして聖地として大切にされる様に成ったそうだ。しかし今では山での採石やゴルフ場の乱立で美しさが無いし宅地化で細かい地形は良く解らないが、確かに河岸段丘で細長い形はしている。八菅神社周辺地形 久良岐のよし
宅地化した部分も昔は山でもっと長い山体だったのかも知れない。
まぁ~小生は相模川の大きな支流が八本有って八岐大蛇(やまたのうきろち)の様に見えたんじゃないかな~とか伝承と違う山の名の由来を考えたりした。菅(すげ)は菅(すが)とも読むし菅は須賀神社の須賀に通じるからね~。
須賀神社の御祭神は素戔嗚命だし元は相模川を八岐大蛇に見立て河の氾濫を抑える祈願所で、だから日本武尊が東征の折りに立ち寄ったんじゃないの?多分、古代は渡河地点が付近に有ったんじゃなかろうか?
・・・とか考えてしまう。日本武尊は走水にも須賀社を開いて軍神海上交通の神様として素戔嗚命を祀ってるからね~。
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何にせよ修験道や神職や僧侶の聖地として栄えたので明治の破壊までは神廟や御堂合わせて50余りの大小神社仏閣が混在し大変多くの参拝者と修行者で賑わっていたそうで、この愛川町の八菅山と伊勢原市の大山、そして京都の男山に在る石清水八幡宮等と合わせて日本で5本の指に入る大聖地だったそうだ。
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そして、参道を奥に進み、そんな歴史を説明している看板の写真を撮ろうとした際に気が付いた・・・
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「夜明け前で何も見えねぇ~」
「階段超急だし!」
「クロックスで夜に来る所じゃねぇ~(笑)」
・・・う~ん、甘かった。
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本殿に着いたがハッキリ言って真っ暗で何も見えない(笑)!
でもちゃんと参拝して御賽銭を払って日本武尊と弟橘姫様と神様達に諸々の祈願をして、一度山を下りて車まで戻って1時間程待機してから日の出を待って再度、参拝して写真撮影する事にした。
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そして夜明け到来。
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八菅神社(八菅山七所権現:天皇家勅願所)
当たり前だが朝を迎えると自然豊かな参道が良く見える。
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夜は何がなんだか解らなかった鐘楼の文化財として解説も読める様に成り・・・
石段もちゃんと見える様に成った。
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本殿は木々に囲まれまだ薄暗かったが、造りが観察出来る様に成った。
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改めて社殿を見ると、どうも神社と言う感じでは無い。元々は修験道の御堂の一つだったんだろうか?
しかしながら規模は大きい方だ。
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御賽銭箱には八菅山七社権現=八菅神社の社紋・・・九曜紋だな。
これ、後日03日にPCに写真を取り込んでいて気が付いたのだが、八菅山の神様が参拝を歓迎してくれた様な写真が撮影出来ていたのと関係してる紋様なんだな。
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額の字の色は薄く成っていた。
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さて、ここは凄い人物が関わっている事が説明書きにも有る。
小生は以前、愛川町の観光課の職員さんと教育委員会の職員さんに愛川町ガイドブックを頂いたり解説をして頂いていたので少し知っている。
小生が尊敬する戦国時代の北条家とも関係が有る。
先ず、ここの凄い所は関わった人物達だ・・・
日本武尊に始まり、
行基大僧正(日本最初の大僧正)
源頼朝公(征夷大将軍)
足利尊氏公(征夷大将軍)
足利持氏公(鎌倉公方)
遠山綱景公(北条家重臣、江戸城代)
徳川家康公(征夷大将軍)
・・・等々、名だたる歴史偉人が崇敬し支援していた歴史が有るんだな。そりゃそうだ、日本有数の聖地だったのだから。
まぁ、そんな訳で八菅山の修験道と神話の聖地は明治以降、英国の猿真似をやった役人によって寂れてしまったけど神様達は今もここで愛川町の人々や参拝客を守って下さっている様だ。
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まぁ、そんな場所だが明るい朝陽に照らされている八菅山の神社の在る場所を改めて見ると、三角形をしていて丸で奈良の大神神社(おおみわじんじゃ)の様な佇(たたず)まいなのが理解出来た。
帰ろうとして駐車場に向かう前に鳥居の前で朝陽の方を振り返ると日の出が見えたので写真を撮影して置いた。
どうやらこれが八菅山七社権現の神様達から小生への御褒美だったんだな。
八菅神社の御神紋は九曜紋・・・
九曜紋
そして3日に成って気が付いたが、八菅神社の前で撮影した日の出の光が九曜紋に成っていた。
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神様、御褒美ありがとうございます~♪
まぁ偶然レンズに写り込んだ光だけど、御参りした八菅神社の御神紋と同じ九曜の朝陽の写真、縁起良いよね。
こんな幸運にその時は気が付かないまま駐車場に戻り車に乗ると、次の目的地の厚木市飯山温泉の華厳山金剛寺に向けて出発した。

【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先②・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、大師堂~華厳山金剛寺~蟠龍山洞昌院公所寺~太田道灌公御廟)に続く。

まだ未参詣なのですが、海老名市今泉に浅間大神と言う神社様が在りまして、Twitterで御話してたら面白い事が解ったんで転載して見ます。
久良岐のよし 自作指輪アイコン
小生。自作の指輪をアイコンにする一般人素人歴史オタク。だから失礼な質問もしてしまいます。
間違いを色んな宮司様や和尚様に指摘して頂きながら民俗伝承史書実情を繋げるのが好きな人。

有鹿神社宮司様
有鹿神社宮司様、海老名の郷土史に御詳しく歴史学者よりも周辺民俗学に御詳しい方々と勉強会を開かれる熱心な方。

小生と有鹿神社宮司様とは直接関係有りませんが、有鹿神社奥宮の神秘的な様子が好きで参拝以来、Twitterでフォローしています。

さて、有鹿神社宮司様が海老名市今泉の浅間大神が農業にとってとても大切な神様だとTwitterで解説してくださっていました。しかし素人の小生には浅間権現=此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命=富士山とステレオタイプで余り海老名の事はまだまだ知らないので普通にこんな疑問が湧きました。
「絶対に富士山が見える場所のはず」
所が御当地の“浅間大神様では富士山が見えない立地!”と衝撃の事実を御教授頂いた小生、そこから少し調べものしたら色々繋がりました…

以下はTwitterのやり取りの転載。

有鹿神社宮司様
浅間大神は、木花咲耶姫を祭神とし、また、海老名耕地の用水を守る位置に鎮座する、という問題について用意した回答です。
「山の森林に雨が降ると、雨は浸み込み腐葉土などで濾過され、酒清水の湧き出す泉となり、川となり、大地を潤し、また、海に流入し、漁場を形成する。 そうすると、山と水は関係するので、浅間大神は、山の神であって、水の神ということになります。」
   ↓
有鹿神社宮司様
海老名耕地は、今も、碁盤の目のように、古田条里制の名残りを示しています。古くは、有鹿の泉を水源の一つとする鳩川を用水としていました。いや、鳩川沿いに農耕地が広がり、海老名耕地にまで到達しました。 そのため、この用水の節や分岐点に鎮座する数多くの神社があり、浅間大神も一つです。
   ↓
有鹿神社宮司様
かって、世の男性が細君を「山の神」といっていたことがあります。 山の神の娘は、美人の「木花咲耶姫」ですね。自慢しているのでしょうか。 実は、もう一人娘がいます。それは、醜女といわれる「磐長姫」(磐長姫)です。 どうも、夫が謙遜して、こちらの方を行っているように思われます。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで無学な小生がしゃしゃり出る。
木花咲耶姫命の存在そのものが神仏集合時代の富士山信仰の対象でして浅間権現と呼ばれていますので、寧ろ世の男性は御妻君を建てたのが山の神かなと。 そして・・・
山の神なので抗う事の出来ない存在=独裁者=恐妻=かかぁ天下 ・
・・と比喩で自分の存在を矮小化して失笑を誘う洒落かとも。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン
宮司様には釈迦に説法、神に道を説くような無礼を失礼致します。 余談ですが磐や巖は山の象徴とされますから、磐長姫も含まれているかも知れませんね~。
結局、美人でも非美人でも奥さんには抗えない男性が今も昔も多いのかも。
小生は美人だろうが権力だろうが理不尽に従いませんが。
   ↑
(※小生の思考なぞどうでも良い余計な事を書く。馬鹿丸出し。)
   ↓
有鹿神社宮司様※ここで寛大な宮司様が無礼を看過下さりレスポンス下さる。
その通りです。有難うございます。
   ↓
有鹿神社宮司様
浅間大神は、古くは、海老名耕地の用水を守る神として祀られていたと考えられます。 その後、水神としての性格を維持しつつ、時の領主が信仰する浅間神社の神霊を勧請し、特に、浅間大神という名称で地域性を出しています。 神社の名称は、地名と同様に、時の権力者により変更されて来ました。
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン※ここで疑問を質問する。文字数都合で話し言葉の失礼な文。
富士山が見える場所に鎮座してらっしゃるんじゃないですか? 江戸時代の旧甲州街道沿い相模川上流の桂川沿いなんかも富士講の富士山遥拝地の御祓をした河原近くとか遥拝地跡には必ず浅間権現の石碑が在りますよ! もしかしたら、その浅間権現の在所は旧甲州街道に通じた道では?海老名だし。
   ↑
※本当は敬語で書きたかったんです(泣)!
   

有鹿神社宮司様※又も寛大に小生の無礼口調を見逃して下さる宮司様。
ところが、富士山が見えないのです。だから、富士塚をつくりたいと願っております。
   ↓
ここから少し調べ物を始める小生…
   ↓
久良岐のよし 自作指輪アイコン
面白い事が解りました。 海老名市今泉の浅間大神からは間違いなく富士山が見える様です。 正確に言うと、昔の人は富士山の位置を正確に把握していらっしゃった様です。 未だ参詣していなので余計に先入観無く調べる事が出来ました。 さて、御当社からは添付の風景が見える筈です。 大山。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所① 久良岐のよし
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
御存知の通り、石山権現大山阿夫利神社上社の御祭神、大山祇大神様と大雷神様が祀られてらっしゃいますが、浅間権現此花咲耶姫命様の御父神様に当たられます。 実は海老名市今泉の浅間大神から大山阿夫利神社上社を遥拝すると、その背後には富士山が存在しており、昔の人はこれを知る術がありました。
海老名市今泉浅間大神は大山と富士山の遥拝所② 久良岐のよし
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
現代人の我々にとって富士山は休火山です。死火山ではありません。 古来の名の通り富士山は不死山な訳ですが… 浅間大神の御社が成立した時期をずばり質問致します。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
富士山の延暦十九年~二十一年(800年 - 802年)の噴火の頃か…
貞観大地震が起きて噴火した貞観噴火の年、貞観六年~八年(西暦864年~866年)中もしくはその直後、或いは…
江戸時代の宝永四年(1707年)の富士山の宝永噴火の直後、そのいずれかの頃の成立ではありませんか?
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有鹿神社宮司様
延暦元年(782)と言われています。
※この成立年代で延喜式神名帳に掲載は無いが式外社だと間接的に教えて頂いている事に成る。
   

久良岐のよし 自作指輪アイコン
お!じゃあそれより前の噴火が有るかも知れませんね!

今検索した所、天応元年(781年)に大噴火が起きていますね! これに対応して神社が開かれたと推測出来ますね!
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この歴史事件や地理に基づき考えると自ずと昔の人がどうやって大山山頂と富士山がピッタリ重なって見える位置に浅間大神様の御社を開いたかも解りますね。 つまり噴煙の位置が大山山頂から見える位置まで徒歩で移動して勧進した御分霊を祀ったと考えられます。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
そして富士山と相模川と鳩川を挟んで反対側なのは、二段構えの火砕流防壁の願いも込められていたのではないかと思われます。 源頼義公が鎌倉材木座、昔は由比と言った場所に八幡社を勧進し源頼朝公が横浜市金沢区富岡に兵庫県西宮市の西宮神社から蛭子神様を勧進した防潮の願いと同じ防災祈願かと。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
恐らくこうなる訳です。
①正確に富士山の位置が判る時代、噴煙の上がっていた時代に浅間大神の御社は造営された。
②富士山の噴火を恐れた防災の為の神社で、富士山と大山の遥拝所であり祭祀場所としてスタート。
③立地は火砕流予防の願いを込めて大河川のこちら側。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
④天応元年(781年)に大噴火があり、社伝に延暦元年(782年)の造営と伝わるそうで、天応大噴火の鎮化を願った神様の可能性が高い。
⑤娘(富士山)さんが怒っているので御父(大山)さんに守ってもらおうとした。
⑥恐らくは江戸時代に宝永噴火等あり富士講に大切にされた。
※この段階で浅間大神の神様の農業用水守護としての役割が頭からすっ飛んでる小生。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
こんな感じだと思いますが、夜分失礼しました。 宮司様、地理関係と噴火年代と神社の造営年代の一致、小生は偶然では無いと思いました。
ちょっと面白かったので、ブログにそのまま転載して掲載してみます。
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有鹿神社宮司様※寛大な宮司様、小生に農業用水守護の役割を思い出させて下さる。
いろいろと推測していただきましたが、有鹿神社から国分寺に続く一大縄を底辺とする三角形の頂点にあります。また、海老名耕地の用水の分岐点にあります。そこで、海老名耕地の稲作のための用水事情を背景として、水の神と考えています。
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※この宮司様のご指摘はとても大切で、農業用水に限らず小田原用水や玉川上水等の上水道も全ては最初の用水の幹線からの分岐点が最重要、そこに鎮座している事が凄く大切。
   

※これを受けて小生は思った。海老名の用水路はわざわざ富士山と大山が重なって見える場所に噴火の跡の農地復興の為に、噴火の鎮化と農業守護の目的で“有鹿神社~国分寺に続く一大繩を底辺とした大三角形”そこを頂点として浅間大神の神社が開かれ、そして神社の勧進と供に現在の用水路網の原型の建設が始まり、用水路と供に現在に至るのではないかと。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
確かに農業用水の神様としての機能は主要な御神威だったでしょうね! 何せ富士山と大山が重なる。 富士山噴火開始の翌年の創建。当然、火山灰が大変な事に成って農地も存続の危機だから水の神様の大山阿夫利神社の大山祇大神と高お神様に富士山が隠れる位置が大切。 そして農業の聖地鳩川。その水で復興する海老名の農地。用水路も水田も再建され、復興の願いの込められた浅間大神様な訳ですね。
※鳩川は有鹿神社奥宮、縄文時代の遺跡のど真ん中に在る聖地の断崖から水の湧く有鹿窟を水源とした聖なる川で、流域の農業用水として活用されていた。
※大河川の相模川の河川敷からそう遠く無く、川近くの平原に弥生時代に人の定住は無かったと少し前まで歴史学者は発掘調査もせずに一笑に付していたが昨今、海老名市を始め相模川等の大河川近くの平原部からどんどん弥生時代の遺跡が発掘され神奈川県の古い神社の伝承が正しい事が多い。県内の河川近くの平地に従来の考古学の一般論が通用しない場所が多い事が近年、証明されている。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
この条件が全部丸っとスッポリ治まるのが今泉の浅間大神様に成りますね。 恐らく宮司様達の伝承が主要な目的で、その為の鳩川を守る場所に富士山鎮火と大山阿夫利神社の降雨の御神威を勧進したのかなと。 それで富士山山頂、大山山頂の真っすぐ延長線上で、海老名の三角形頂点に置かれたのかなと。
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久良岐のよし 自作指輪アイコン
凄く神秘的な立地でとても楽しかったです。 では本当に夜分失礼しました。また、重ね重ね御教示賜りありがとうございます。

以上、Twitterでのやりとり。
やはり地元の古い神社や御寺の当人や博物館の学芸員さんや御詳しい人と話すと、嘘も多い文字から想像するよりも発見が多い。無論、文書を読み込むのもすごく大切で、両方しないとダメ。
小生はいつもなら直接突撃訪問して色々と御教授頂くのだが、今年は何だか体力も無く仕事も忙しく自分の副業もやらないといけず、ジムにも行く暇が余り無い。
去年はそれでも仕事終わってから風呂だけ入って徹夜で遠出し、車中泊で1時間くらい仮眠したら朝から夜まで活動で来たのに…
今年は無理だ。体調悪いのかな?
う~ん楽しみたい。


さて、今回、有鹿神社の宮司様に色々とヒントを頂いたり、無知のままに偶然地図を見て位置関係を把握したり、こう言う楽しみが有るのが郷土史なんだな。
だから皆さんにも御近所の神社や御寺や御城の跡を散歩して、古代の人の痕跡と接して見たり、思いがけない場所でトンでもない歴史偉人の足跡を見つけたりしたら良い気分転換に成りますよ~って御薦めしたい!

そう言えば、2016年と2017年、神奈川県と横浜市によって破壊された史跡や破損させられた古文書も盗難に遭った文化財も沢山有りましたが、国や民間に寄って文化財指定や特別な場所として認定された場所が少し有るので紹介します!
●高部屋神社の社殿…国登録有形文化財 伊勢原市下糟屋
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●高麗寄日本書… 国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●大乗起信論別記…国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
●華厳経問答…  国宝 金沢文庫博物館 横浜市金沢区金沢
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●小机城…続日本100名城125番 横浜市港北区小机
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※小机城は全国的に横浜市内に在って奇跡的な保存状態である事や、歴史的にも北条家の軍団の小机衆の拠点として重要性が知られているのだが、未だに横浜市教育委員会が史跡登録や歴史文化財指定申請を行わない不可解な状態が続くので、市による建設利権の為の破壊が懸念される。

是非みなさん、お散歩に行って見て下さい~♪
無論、海老名の浅間大神の御社で神様にも御参りして大山を遥拝してみて下さいね~!

では、又、次のブログ記事で!
次は多分、7月中旬の休日雑記。

2017年04月22日、有鹿(あるか)神社で海老名の歴史解説の講義受講をTwitterで宮司様から御声掛け頂いて参加しに行って来た。
今年の水引き神事に(寝坊して)参加出来なかったので、文献には載らない祭祀内容や相模国延喜式内13社に伝わる海老名地名の由来の解説等を聞きに行く為だ。
海老名に行くなら未訪問で訪れて見たかった場所も数ヵ所有り、事前に計画を立てて訪問予定地をGoogle mapに登録しておいた。
結果的に行き当たりバッタリ思い付きで突然訪問した場所を含めて書き出すと、この日の行動を纏めるとこんな感じだ。
有鹿神社本宮
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旧有鹿神社別当寺 総持院
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有鹿神社中宮跡
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相模国国分寺跡
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海老名市温故館(郷土資料館)
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中村屋
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有馬のハルニレ(神奈川の名木100選の一つ)
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高座豚手作りハム(ブランド豚の高座豚の養豚、ハム製造の直売所)
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国指定史跡 神崎遺跡(綾瀬市の郷土博物館と国定の弥生時代環濠集落遺跡)
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飯田牧場(酪農家直営のアイスクリーム製造販売店)
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花應院(照手姫伝説の舞台の一つ) 
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コンビニの駐車場で車中で爆睡
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地元のスポーツジム

この日は前日と言うか当日の1時位に仕事から帰宅して、風呂に入ったり食事をし夜にジムに行く準備をして寝ずに朝の6時前に出発した。
早朝の移動なら道路も混まないし、コンビニで仮眠すれば良いかなと思って、いつもの休日鉄板の行動パターンを選択した。
事故渋滞も無く順調に海老名市に7時頃に到着し、有鹿神社近くのセブンイレブンで朝食を購入して駐車場で1時間位ダラダラ休憩してから有鹿神社本宮へ移動した。
有鹿神社の境内駐車場に車を停めさせて頂き社務所へ移動。
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複数人の神職の方が慌ただしく準備をしておられる中、スーツの紳士が声を掛けて下さった。
「久良岐さん?」
「はい」と返答すると、「車から降りて来られて直ぐに解りましたよ」と柔らかく話すスーツの人物が宮司様だった。
実は宮司様との面会は2度目、1度目は昨年07月20日の愛川町の三増峠合戦古戦場と愛川町郷土資料館を見学し相模原勝坂の有鹿神社奥宮と海老名市の本宮を初参拝した日の事だ。
当日は日没直前の17時少し前の訪問で本宮社務所は無人、社務所に書いてあった電話番号へ連絡を入れた所、宮司様の別の仕事の事務所で御朱印を頂ける事に成り、其方(そちら)へ訪問して御朱印を拝領した時が宮司様との初対面だった。
「奥宮とここまで来るのは余程、神社が好きなのですね~」と御優しく対応して下さったのが印象深い。
 宮司様に社務所に上がる様に促(うなが)されて玄関へ回ると可愛らしい鹿の人形が出迎えてくれた。
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 有❝鹿❞神社だけに鹿を寵愛されているのだろうか?
その割には宮司様のTwitterアイコンは「パンダ」なんだよなぁ~(笑)。
 https://twitter.com/mikagenomori
有鹿神社の宮司様は実は宮司職を務める他に社会的な地位が高い人物なのに全く偉ぶる感じの無い、寧ろ柔らかく気さくに親切に話しかけて下さる万葉集にでも登場してきそうな雰囲気の方なのだけれども、Twitterを見ている限りでは内面に遊び心を持つ側面もチョクチョク垣間見える。
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この日の歴史解説と神事の講義は非常に楽しく、相模国13座の延喜式内社と神奈川県教育委員会の認識では海老名の地名の由来が違う事なんかも教えて頂けた。
実は江戸時代に相模国一之宮寒川大社(寒川神社)の当時の宮司が書いた掛け軸あ有り、その記載なんかからも海老名の由来は相模国五之宮有鹿神社の五之宮を文字って当字されたのが由来だと推測出来るそうだ。
海老名の有鹿神社は律令制度確立以前は実は古代の一之宮だった。
しかし 古墳時代に成り海だった県央部が隆起して湿地に成っていた辺りへの人の入植が進むと、寒川神社が一之宮に成った。
どうやら神社の伝承や延喜式内社と式外社の分布と土地の隆起した年代を見ていると現在の中原街道に当たる道が奈良時代位には主要街道に成っていた様だ。だから有鹿神社から寒川神社に一之宮が移されたんだろう。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
しかし、相模国国分寺と国府は古代に有鹿郷と呼ばれた海老名地方に置かれた事からも、依然として重要な土地と認識されていた事が良く解る。
もっとも小生の推測は教育委員会とも宮司様達とも少しだけ違い、神奈川県内には「3つの国の国府」が存在していたのだろうと推測している。
3ヵ所の国府では無く、3ヵ国の国府だ。
小生は有鹿郷(海老名)は古代の佐賀牟国の国府跡、六所神社と川勾神社近くが磯長国の国府跡、そして前鳥神社の周辺が相模国が成立して置かれた一時期の国府だったんじゃないかと思っている。
まぁ詳しい事は解らないが江戸時代の中原街道の元に成っている古道自体の成立は大山街道(矢倉沢往環)よりも新しい道なのは地形的にも付近の延喜式内社の縁起からも間違いない。 

さて、海老名の地名の起源だが、記録に残るものは有鹿神社別当寺だった総寺院の住職が書いた「大きなエビが取れた場所だから」と荒唐無稽な説が文書として残っている為に海老名市教育委員会では延喜式内社一之宮寒川神社と五之宮有鹿神社に伝わる本来の伝承を伝える事が出来ず、歴史学のセオリー通り残った文献から僧侶が書いた物を紹介しているそうだ。
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上の写真は江戸時代の相模国一之宮寒川神社(大社格)の宮司が書いた掛け軸。
一之宮寒川神社~二之宮川勾神社~三之宮比々多神社~四之宮前取神社までは漢数字の宮の順位が書かれているが有鹿神社だけは現代では使われない書体で「護尾」と書いてある。
この「護」が「五」の当字で、本来は衛尾(えび)と書いていたんだろう。そして五之宮と書いては旧一之宮の社格に面目ないので配慮も有り衛尾の衛を洒落て同じ意味の「護」に置き換えて「五」と掛けたんだろうと言うのが有鹿神社の説だそうだ。
これに小生の意見を加えると、衛尾は更に「衛備(えび)」と書いて「衛(まもり)備(そなえる)」と言う意味が有り名付けられた地名なんじゃないだろうかと思う。
古代は有鹿郷と呼ばれていた場所を、大和朝廷が介入してきてから衛備となり→衛尾→海老と変遷したと考えるのが「でっかいエビが獲れました」より遥かに自然な解釈だと思う(笑)。
天智天皇の時代には相模国府が置かれた場所なので、東日本の防衛拠点的な意味で衛備ならシックリくる。当時の武蔵国は開発途上の草原と軍馬生産地だったので、大規模水田の耕作地を抱えて条里制で区画整理された街並みは関東では海老名が一番大きい都市だったんだろう。
まぁ~この海老名の地名は色々と歴史ミステリーを含んで非常に面白い事で有るのは間違いない。
所でこれと似たような良く解らない地名の由来というのは幾らでも全国各地に有って、例えば愛知県名古屋市の地名由来も神奈川県鎌倉市が起源と伝わっていたりする。
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※写真は愛知県名古屋市の熱田神宮の大鳥居。
実は愛知県名古屋市周辺の旧愛知郡や、海部(あま)郡蟹江町一帯の旧海部郡は鎌倉時代は名越北条氏の領地だった。名越北条氏と言うのは鎌倉幕府二代執権北条義時の本来の嫡男(跡継ぎ)の家系なのだが、執権には成れなかった家系だ。しかし祖父の北条時政の名越邸と呼ばれた邸宅を相続して今の釈迦堂切通し辺りに住んでいた。
因(ちな)みに名越北条家初代は名を名越北条朝長公と言う。
名越北条朝長公は承久の乱でも軍の指揮官として大活躍し極めて優秀だったのだが、本来は“正妻の子”だったが母の家系が比企氏だった為、執権北条家と比企氏が源頼朝公の跡継ぎを巡って権力抗争をして行く過程で不和に成り母が離縁された事で嫡男の座を失った。一方で諸長子(しょちょうし:側室の子だが長男)の北条泰時公は母が源実朝の乳母(うば)で三代将軍と成った実朝公と乳兄弟(ちきょうだい)だった事も有り立嫡されて北条家嫡流と成った。
以後、北条得宗家(とくそうけ:嫡流)と名越流北条家は子孫に渡って対立し、極め付けに宮騒動を起こして執権で得宗家の北条時頼公と名越北条の対立は軍事衝突に発展、構図は執権政治を行う得宗家と源頼朝公に恩義を感じている名越北条家と三浦家等の御家人の連合軍の対立だった。
得宗家派の勝利によって名越流北条家は権力の中枢から遠ざかるが最後まで頼朝公の立てた鎌倉幕府を支えようとした一族でもある。
もっとも、対立した北条泰時公も極めて優秀な政治家で日本で最初に法治主義を浸透させた名宰相であり、やはり名指揮官でもあったのだが…
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上の写真の釈迦堂の切通しの近くの山の中に名越邸が存在したのだが…
今の左派推薦の鎌倉市長が落盤を理由に交通封鎖、崩落を食い止める策も講じず、この数年で寧ろ風化が進み消滅を促している様な状況に追い込まれている。真に文化歴史軽視の市長である。
この名越北条氏が住んだ平野が名越野と呼ばれたとの説が有り、それが転化して那古野(なごの)と成り更に那古野(なごや)と呼ぶ様に成り、江戸時代に名古屋城の築城と共に名古屋に地名も変わったそうだ。
こんな風に、漢字を音で時代時代に当字するのは歴史の常識なので、海老名の地名も衛尾と考えるのが最も自然だと確かに思う訳だ。
デッカイ海老が獲れたって何だソレ(笑)。確かに縄文時代なら寒川神社の眼前まで海は迫っていたが…
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
…文章に書いてあるからって信憑性も調査せずに資料として採用するなら、そりゃ神奈川県教育委員会さん、あんた等は書籍に成ってれば何でも資料として使用して良いって素人のwikipedia編集者と同次元ですぜ(笑)?
有鹿神社の宮司様の講義に話を戻すと、有鹿神社の水引き神事や他の神社との位置関係の解説等を一頻(しき)り楽しく受講して瞬く間に1時間が経ってしまい講座が終了してしまった。
しかし宮司様(本職は大学名誉教授と法律関連)の著書を頂いたり、色々と親切にして頂いてとても有意義な1時間と成った。
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境内の銘木や何かを写真撮影していると…
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…宮司様が社務所から出てらっしゃって、わざわざ本殿背後の御神木まで案内して下さったり、旧境内地で昭和の高度経済成長期のむやみな砂利採石による川の浸食で縮小した「有鹿の森」を案内して解説して下さったりした。
有鹿の森は昔は相模川と鳩川の合流地点に広がっていた広大な森だったのだが、砂利の採石と治水工事で川の水面が低い位置に下がってしまった為に森との高低差が大きくなり、木々が水を吸い上げる事が出来なくなり森林が消えて川辺の草原に変化してしまったそうだ。
わずか70~50年位前の話しだ。
そして面白い物も見せて頂けた。写真を撮影し忘れたので禰宜様のwitterの画像の転載許可を頂いた写真を掲載する。
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この本殿前の特に立派な1枚の敷石、実は源頼朝公に仕えた海老名の在郷武士の名門、海老名家の邸宅の敷石13枚の内の現存する一枚だそうだ。
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他の12枚はそれぞれ散逸して行方不明に成ったり別の場所に現存したりするそうだ。
まぁ、そんな感じで本当に御多忙なのに付きっ切りで懇切丁寧に解説をして下さった上に、本殿の覆い殿の中まで通して頂き拝殿の天井の龍や本殿の彫刻の解説もして頂く事が出来た。
この際に写真撮影まで許可して下さったのだが小生のデジカメは性能が悪く帰宅して見てみたら真っ暗で何も見えなかった…小梅太夫じゃないけれど「悔しいです!」としか言葉が出ない。
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宮司様とお別れし、有鹿神社の境内社の天神社で小生の崇敬する歴史偉人の一人で神様に成られた天満大自在天神こと菅原道真公にいつも御守護頂いている御挨拶をして有鹿神社を後にした。
車に乗り直ぐ隣り、昔の有鹿神社別当寺の総寺院へ初参拝した。
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昔は塔頭寺院が幾つも建ち並ぶ大寺院で、有鹿神社を守っていた場所だ。
まぁ、弊害も有って昔の和尚様は世襲じゃないから情報が密に伝わらないし、歴史に興味の無い人も当然いるので「デッカイ海老がとれたから海老名」とか書く人も出て来る訳だ。
神道の儀式に仏教様式が混ぜ込まれてしまう事も有ったり、新編武蔵風土記稿なんかに御祭神が本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想で御神体の本地仏の大日如来に近い大日霊(おおひるめ)の名前しか記録せずに「有鹿姫」様や「有鹿彦」様の神様の本来の在郷の神様の名前が出て来なかったりしてしまう訳だ。
とは言え、神社を守ってくれた事には間違いないし、総寺院は真言宗の寺院なので明治の廃仏毀釈神仏分離令まで日本の神様も大切にして下さった訳だ。
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現代の境内は普通の規模だけれど、とても緑と建築の調和した素敵な御寺だった。
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簡単な歴史の説明も有る。
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そして真言宗寺院らしくお地蔵様がお出迎えして下さった。
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花もとても綺麗。
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本堂は比較的新しい再建の様だった。
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見た感じでは古くても昭和初期だろうか。
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扁額。
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唐破風の軒下には獅子が彫刻されていて、この彫刻が立派だった。
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既に散ってしまっていたが枝垂れ桜も。
又、有鹿神社の紹介記事を追記して、別途、総寺院様も独立した解説記事を書きたいと思う。
この日、まだ御住職様と御話する機会を得なかったので、それは取材してからにしよう。
総寺院を後にして、次の目的地の有鹿神社中宮に移動した。
車で10分もかからず到着。
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中宮と言っても元の場所から移動し、更に新田義貞の乱暴狼藉、永享の乱の戦災、そして武田信玄の乱暴狼藉等の戦火が有鹿神社を何度も襲ったので中宮は現代では縮小してしまった。
ここには奥宮とは別の聖なる池が存在したのだが現在は干上がってしまった。
恐らくこれも相模川の砂利の採石で水面が下がったせいだろう。
ともあれ、ここが有る時期から中宮として機能した場所には違いなく、現代人にとっても日本文化の一端を担った場所として大切な事には違いない。
こちらにも御参り出来て良かった。
参拝を終えて、次の目的地の相模国国分寺跡へ移動した…

国分寺から先の話は次の休日雑記の続き[第2部]へ続きます!
では又、次の休日雑記の続きで!
 

午前中、Twitterでフォローしてる縄文時代の遺跡のど真ん中に奥宮と聖地が有る相模原市の有鹿神社さんの古代から続く“水引神事”に参加する予定だったのに…
深夜に職場から帰宅し更に家でも作業をしていたら既に早朝5時、神事は9時半から。
出発予定時刻は8時前を目途にして少し仮眠をとった。
…つもりが、起きたら9時、当然横浜から50km以上も離れた神社に間に合う訳が無い。
この水引神事と言うのは一度断絶したのを北条家の殿様が1575年に復興した神事で、玉縄北条家や与力の間宮家の顕彰活動を行っている小生は当然参加し宮司様に取材をしないといけない行事だったのだ。
落ち込んだ。
 
諦めて不貞寝した。天気も雨で神事に参加出来ず陰鬱とした気分だった。
 
昼過ぎ、少し気力復活。
もそもそ動き出す。午前中に雨風強かったので恐らく満開に成ったであろう桜が心配。
気分を切り替え桜の写真撮影に行く事にした。
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最初の訪問先は御寺の歴史が1300年以上有る横浜市南区の弘明寺。その旧境内参道に広がる弘明寺商店街と大岡川沿いの桜並木。
この桜並木は弘明寺~日ノ出町まで直線距離で約5kmも続く。桜並木は川に沿っている為、実際は7km程度は有るだろう。
更に上流の笹下川近くまで桜並木は続くので、全長にすると10km位は有るかも知れない。
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見慣れないピンクの緋桜が目を引いた。
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説明板が有り“横浜緋桜🌸”と言う品種だそうだ。横浜市民なのに知らなかった。
先日、横須賀市安針塚近くの住宅街で見たのも、横浜緋桜だったのかも知れない。 
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弘明寺近辺だけ散策し、屋台でタコ焼きとお好み焼きを朝食兼昼食に食べた。
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味は普通だった(笑)。食べ終わってから川下へ1km位歩いてから又戻り、今度は遊歩道へ降りてみた。
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川の遊歩道から写真撮影をしたりと楽しんでから、親子連れやカップルの幸せそうな笑顔を見てこちらまで幸せにして貰った。
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川面(かわも)に浮かぶ花弁(はなびら)がとても綺麗だった。
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 う~ん、仲良し親子!
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元気に遊ぶ子供達!うむ!浜っ子とは斯(か)くある可(べし)だ!
この子達の様に冒険心を持って遊んでこその浜っ子だ!
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車を泊めた商店街の駐車場に戻る途中にカフェが桜ソフトクリーム成る物を販売していた。
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それを買って見た。
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食べると、桜フレーバーが香って美味しかった。
他にも酒屋の川松屋サンが弘明寺オリジナルの日本酒とビールを販売していた。CIMG3043
これ、興味有る人は酒飲みには少なくないだろう。
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良い地域振興の試みだと思う。まぁ、小生は普段酒は一滴も飲まないし、飲んでも神奈川県名産の梅を使った田浦梅林の梅酒や横浜大倉山梅林の梅酒なんだな。だから購入しなかったが目を引く素晴らしい商売だと思う。
駐車場に戻る前に弘明寺さんを山門前から御参りしてから次の目的地に移動したのが15時位だったろうか?
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その後、中区の根岸森林公園に移動。CIMG3047
根岸森林公園は日本最初の競馬場として幕末に建設が始まり明治時代に完成し太平洋戦争直前まで使用された横浜競馬場の跡地を利用した市民の森林公園だ。
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 広大な芝生に桜林と梅林、遊水池が有る。恋人同士や子供連れの良いピクニックの場所に成っている。
他にも競馬発祥地だけあり馬やポニーに乗れる馬場と、“馬の博物館”等も有る。
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チューリップの花がもう直ぐ開き見頃に成りそうだ。
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 そう言えば、東京都羽村市のチューリップ祭りも開催されたそうだ。観光協会に問い合わせたら横浜と同じく見頃は15日位だろうとの事だった。
羽村市のチューリップ祭りは本当に素晴らしいので興味の有る人は 以前の記事↓を読んで欲しい。

さて、話を根岸森林公園の横浜競馬場跡に戻す。CIMG3068

幕末以来の競馬場史跡なので戦後、米軍に接収された区域には未だに当時の競馬場史跡“一等馬見席”の西洋の城の様な立派な建物が現存している。
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これはいつ見てもカッコ良い。

現在は米軍管理下で手入れが行き届かず、部分的には荒れているが…
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それでも凄くカッコ良い!
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 これ、何でTVドラマや映画の撮影で使用されないか横浜市民として不思議でならない。
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 やはり、米軍の敷地内なので許可が下りないのだろうか?
そろそろ横浜市か国の文化庁に返還されて重要文化財指定の上で再整備して赤煉瓦倉庫みたいにショッピングモールやカフェのテナントを入店させても良いんじゃないかと思うが需要が有るかは微妙な所ではある。
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 まぁ、場所柄ホテル等に転用出来れば、米軍の将校の方々の家族の来日の際は宿泊等も見込めたりして?

森林公園部分に話を戻すと公園内には多くの立派な桜の林が有る訳だが、桜の根元には菜の花も咲いておりとても綺麗だ。
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午前中は雨天、午後も霧雨が降ったが、それでも付近の山手地区や本牧や米軍基地用地に住む異人サンや日本人が一緒に花見の宴会を開いていた。
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 リア充も多数出没。
緑豊かな場所なので雨が上がってからは子連れの親子も遊びに何組か来ていた。
幸せそうで羨ましい( ´艸`)!
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そう、思わず顔文字で(笑)を( ´艸`)と表現したく成る位に温かいホッコリを分けて頂いた。
その幸せは普通の様でとても大事なものだから大切にしてね♪
あの子達がずっと幸せに育ちます様に!
パパさん、子供の為にも伴侶の為にもシッカリな。
ママさん、あんまりパパさんにガミガミ強く言わないでね(笑)。
根岸森林公園の近くには松任谷由実が荒井姓時代に歌った「海を見ていた午後」の歌詞の舞台“ドルフィン”と言うレストランも在る。今日は行かなかった。
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※昨年の写真。車に乗り込み次の目的地の国指定名勝 三渓園に向かったのが18時少し前だった。

三渓園はこの桜の時期と紅葉の時期は駐車場が混雑して中々入れない。
まぁ、小生は時間に余裕も有るのでそれを見越して車中でTVを見たりiPodで曲を聴きながら順番を待ち19時頃に駐車に入る事が出来た。
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今年の桜は近年中一番発色が良く、1本の樹木に対する花弁の密度も多い気がする。
とにかく、見頃だった。
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 枝垂れ桜だけはま未だ少し早い様で、12日位が見頃に成りそうだ。
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相変わらず、この時期に行われる桜のLight up行事「観桜の夕べ」の演出は素晴らしく三渓園の庭園と見頃を迎えた桜の調和した美しさが他所の夜桜の演出よりも際立っている。
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恐らく日本屈指の夜桜の美しい風景だろう。
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まぁ、美しい庭園に在る分、少し反則なんだが(笑)。
これに対抗出来るのは高遠城や弘前城程度の名所じゃないと無理じゃないかと個人的に思う。
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午前中は、いつもの自分なら出発してから仮眠するのに、先に仮眠をして寝坊し貴重な体験をする筈が台無しにしてしまいクサクサしたが、午後は桜🌸達と幸せそうなカップルと家族達の御蔭で幸せな時間と成った。

桜を一頻り見て、帰りにスポーツジムに行き1時間ばかり汗を流してから、銭湯の大浴場の湯船に入り肉体的にも癒されて帰宅した。

ふむ。桜と皆の幸せそうな笑顔の御陰で午前中のブルーも吹き飛び良い一日と成った。
参加出来なかった神事、ちゃんと後日、宮司様に取材に行かないと北条家の顕彰文の記事にかけないな。
…幸せと同時に新たに行うべき事が出来た。

では、皆さんおやすみなさい♪

あ!そうそう、三渓園のライトアップは明日までですが、桜自体は12日頃まで楽しめそうですよ!
三渓園のアクセス方法は前回の記事に掲載して有ります。

コレ↑ね。
では皆さんにとっても良い春の日と今週が成ります様に♪
今日寝坊して御会い出来なかった有鹿媛様と有鹿彦様の夫婦神様に祈願しておきます( ´艸`)ブハっ(笑)。

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