歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:杉田梅林

杉田商店街の歴史をブログに書いたら“ウメニー”と言う可愛い“自称妖精(笑)”とお友達に成りました(笑)♪
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可愛いいでしょ?
でもTwitterで話し言葉が「中の人」の真面目さしか連想出来ないので、少し「キャラ固めてよ」といじくり倒してみました(笑)!
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・・・まだ中の妖精(精霊のが良い)サンのキャラ作り込みが固まって無い(笑)みたいですが、可愛いですね!
小生もTwitterでウメニー(中の人=妖精)にフォローされました!
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皆さんも可愛らしいので産みの親の杉田小学校の生徒さん達の為にもTwitterでフォローしてあげたり紹介して見て下さいねヽ(´ー` )ノ♪
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皆さんは京急杉田駅で電車を降りた事が有りますか?

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伊勢佐木町や横浜橋商店街程の規模は有りませんが、近くにはIHIや東芝、ヤマト運輸や日本飛行機、そして横浜南部市場が在り、多くの仕事帰りのビジネスマンと労働者が立ち寄る飲屋が存在する商店街で規模以上に通行人と飲食目的の客で賑わっています。
又、杉田商店街の属す横浜市磯子区はベッドタウンとしても発展したので精肉店、御茶屋さん、弁当屋さん等、庶民の台所を支える昔ながらの店舗も元気に市民生活の支えと成り商店街を構成しています。
実はこの杉田商店街、現在でこそ一般的な商店街ですが元々は東漸寺と言う大寺院の境内で古来開かれていた六斎市(月に6回開かれる市場)が起源に成っている事を地元の政治家や横浜市教育委員会の職員にも知る人は多く有りません。
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東漸寺は立派な釈迦堂が在りますが、これが❝昔の東漸寺時代の本堂❞でして、現在の東漸寺の本堂は・・・
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霊桐山 東漸實際禪寺 塔頭(たっちゅう) 真楽庵
東漸寺釈迦堂の右隣の不自然な位置に存在しています。
こはれ明治時代の廃仏毀釈で仏教が弾圧されたせいで、❝霊桐山 東漸實際禪寺❞と言う大寺院を運営していた周辺の塔頭寺院(大寺院の支院)の一つ、真楽庵(しんらくあん)に運営が委託され他の塔頭寺院は明治政府により潰され土地開発の為に接収されてしまったので、本来の東漸寺本堂たる釈迦堂ではなくて塔頭だった真楽庵が東漸寺を名乗らざるを得ない状況に陥り現在に至る訳です。
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現在も厄除け地蔵様が駐車場に鎮座していますが、本来は現在の3倍超の境内地を有していた頃に、この御地蔵様の前で市場が開かれたそうです。
そして人が定着し、やがて戦国時代に成ると間宮林蔵や杉田玄白の祖先である間宮信盛公が川崎駅前の堀之内から杉田に本拠地を移し、間宮家が東漸寺や杉田一帯の神社仏閣を支援し武士達と商人職人が定着し町の基礎が確立されていった訳です。
東漸寺は以前に解説記事を書いているのでもし興味が有れば下のリンクから記事を御覧下さい・・・
杉田の元大寺院の東漸寺(とうぜんじ)と、鎌倉時代に御寺を開いた名越北条家と戦国時代に御寺を支援した間宮家。←クリックで読めます。
それと横浜市教育委員会の東漸寺に対する解説は誤りが有るので一個人ですが小生が歴史オタクとして訂正して置きます。
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東漸寺は鎌倉時代開基の御寺では有りません。
前身寺院は鎌倉時代以前に天台宗として開かれており、境内には石塔も現存しています。
その天台宗寺院を名越北条宗長公が鎌倉時代正安三年(西暦1301年)に禅宗臨済派の寺院として釈迦堂を建立し改宗させて現在に至るので、1301年の出来事は❝中興❞と言うべきなんですね。
さて、東漸寺は以前に解説も書いているので今回は詳しい解説は触れず、商店街の老舗と新しく可愛い御店の紹介、そして江戸時代に殿様が住んでいた場所である解説に移りたいと思います。
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杉田商店街を新杉田駅京急杉田駅側から入ってくると上の写真の場所に出ます。
さて商店街のアーケードに❝杉田❞と書いて有るので少し地名の解説をしたいと思います。
杉田の地名はそもそもは杦田(すぎた)と書きましたが、歴史学者でもこの杦(すぎ)の字を知らず古文書で❝松❞と誤読し❝松田❞と間違って書いてると馬鹿にする人が居たりしますが、実は馬鹿にしている御本人が❝杦田❞の正式な字を御存知無いだけなんですね。
これは、その学者さんが悪い訳では無くて明治~昭和初期に活版印刷で複製刊行された史書の編纂に携わった国の御役人のミスでしょう。
字の意味は同じなので、現代の字体では杉田で統一しているだけと認識した上で本来は杦田と書くと知っていれば良いだけです。
実はこの商店街のメインストリート、昔は川だったんですよ!
迅速測図 杉田周辺 久良岐のよし
これは迅速測図と言う明治初期に作られた測量地図の杉田周辺の様子です。
地図の右端に杉田が登場し❝杦田村❞と標記されています。そして、そこには東漸寺が記載されているので現在の杉田商店街の目標物にも成りますね。
もう少し拡大した画像を見て見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
東漸寺の右側には道とは違う海へと続くL字にクランクした川が流れているのが判るでしょうか?
見ずらいので川の部分を書き加えて見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
ではこの測量図は精密ではないので、日本城郭大系に掲載された聖天川の位置を現代の衛星写真に当て嵌めて見ましょう。
聖天川と杉田間宮陣屋位置 久良岐のよし
この通り、現在の杉田商店街入口が江戸時代の船着き場で、現在の新杉田駅は海の底だった事が解ります。
そして商店街のメインストリートは❝鳥メロ❞の辺りまで真直ぐに海から船が入って来て、そこから先が水堀として間宮信繁公の邸宅=杉田陣屋まで船で出入り出来る構造に成っていた事が解ります。
間宮信繁公は徳川幕府初代将軍徳川家康公の直臣であり参謀を務めた旗本で、更に初代の徳川幕府鷹匠頭を務め隠密行動も得意とした人物でした。実は関ヶ原合戦で徳川軍が勝利したのは間宮信繁公と、その同族の近江源氏黒田長政公の御二人の諜報活動と策略による活躍が大きく起因していました。
以前、間宮家の事績を簡単にまとめた記事に間宮信繁公の事も解説しているので御興味の有る方は以下の記事リンクをクリックして御覧下さい・・・
間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリックで記事へリンク!
・・・そんな凄い間宮信繁公の邸宅跡は横浜市教育委員会が保護を行わなかったので、信繁公や間宮一族が造営した日本屈指の大梅林❝杉田梅林❞とともに消滅してしまいました。
間宮信繁公と御子孫の杉田間宮家の陣屋址には今は個人宅が並ぶ住宅地と成っていますが、道に名残を見る事が出来るので行き方を少し説明します。
先ず、新杉田側から杉田商店街に入ってくると左手に日高屋の横に❝居酒屋串まる❞の看板の小道が在ります。
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そこを入って下さい。
そこから暫く進むと野本園と言う御茶屋さんが在ります。
Googlemap 杉田間宮陣屋址 久良岐のよし
その野本園を左折すると、その道が海へと続く聖天川を引き込んだ杉田間宮陣屋=間宮信繁邸址の外堀の役目を担っていた聖天堀を暗渠化した川の跡です。
余談ですが、この野本園の御一族は恐らく鎌倉時代以来の名士で、金沢区富岡や杉田一帯に勢力を持っていた武士の御子孫に当たるはずです。御本人達が現在その事を御存知かは知りませんが、金沢区並木~富岡~杉田界隈は昔は野本家の領地でした。そして上司は状況的に記事冒頭で紹介した東漸寺を再興した名越北条宗長公の名越北条家だったでしょう。

話を杉田間宮陣屋に戻します。
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陣屋の跡は全くないですが、聖天堀の跡は住宅道路として残っていて、上の写真で手前の右から左に抜ける道と丁字に交差する白い軽自動車が走っている隘路(あいろ=狭い道)が聖天川から引き込まれた聖天堀の跡です。
武家屋敷の水堀の跡だから、暗渠化しても狭い道路のままなんですね。
さて、ここに住んでいた間宮信繁公に関する事は新編武蔵風土記稿や後北条所領役帳等の文献に記録が残っています。
【後北条所領役帳】
御馬廻り衆(北条氏康公近衛部隊)
一 間宮藤太郎
  五拾五(55)貫文 東漸寺分
  拾五(15)貫九百四拾六(946)文 同所壬寅増分
  以上七拾(70)貫九百四拾六(946)文

こはれ杉田間宮家の1559年迄の所得を示した記録で、当時の間宮家が仕えた北条家では100文銭=米1.4斗としていましたので、杉田間宮家の所得を計算して見ましょう。
1貫文=1000文 100文=米1.4斗 1斗=米15kg(現代) 米1kg=400円前後 
70貫946文=70946文
70946文=米993.244斗=米14898.66kg=5,959,464円
さて、杉田間宮家の1559年時点での収入は現在の年収に換算すると600万円弱と公務員と同じ位の現実的な夢の無い金額に成ってしまいます。しかしこれは1559年時点の話で当主は間宮信繁公でも無ければ当時の間宮本家は港南区笹下の笹下城主間宮康俊公698貫122文でしたので、時代的に1559年時点では杉田間宮家の当主は間宮信繁公の御父君の信忠公の世代に当たり、あくまで杉田間宮家は分家して2代目なので当然ながら所得も低かった訳です。

これが間宮信繁公が当主だった安土桃山時代に成ると様子が変わって来ます。
【新編武蔵風土記稿 久良岐郡 杉田村の項】
舊(旧)跡陣屋蹟
~冒頭省略~
北条氏に仕えて小田原水尾城を預かりて忠功あり(この時点で城代を任せられている)、文禄元年壬辰東照宮(徳川家康公)に召出され、舊領の内杉田中里村五百石の録を賜り、御使番御鷹方兼務む、慶長十五年正月十五日、武蔵国久良岐郡杉田村の内五百石、三河国碧海郡上條村七百石、近江国伊香郡の内五百石、合計千七百石、充行詑全可領知者也との御朱印を賜はる
~以下省略~
つまり間宮信繁公の代に成ると、徳川家康公の参謀や鷹匠頭として活躍した功績によって1700石に加増されている事が解るのですが、では1700石がどれ程の収入か計算して見ましょう・・・

1石=米150kg 米1kg=400円前後 間宮信繁公の総所得=1700石=米255,000kg
255000kg×400円=102,000,000円

・・・つまりですね、鷹匠頭と成った間宮信繁公の基本所得は現在の日本円に換算すると1億2百万円に跳ね上がってる訳です。そして鷹匠の奉行である鷹匠頭を務めたので当然ながら役職手当も有りましたが、鷹匠頭の役職手当は不明です。
例えば専門職の奉行で腰物奉行と言うのが有り、それは幕府の刀剣類を管理する部門の奉行職でした。
この管理職手当が米400俵でした。
1俵=60㎏ 60kg×400円=24,000円 400×24,000円=9,600,000円
鷹匠頭と同じ専門職の腰物奉行を参考にすれば960万円位の役職手当てだったかもしれません。
すると間宮信繁公の年収は・・・1億1千2百万円!とんでもない収入ですね。
無論、ここから約50人の兵隊を編成できるだけの武具を買い揃えないといけないので全部が全部生活に使って良い御金では有りませんが、基本的に奉行職に関しては与力が幕府から派遣され自分の所得から人件費を支出する必要は有りませんでした。
戦国時代に間宮本家から分家してから間宮信繁公は徳川家康公に信頼されて大変な出世をしているのが解ります。
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実は間宮信繁公の御姫様は久能山東照宮の初代大宮司と成り従二位の位を授かった榊原照久公に嫁いでいます。この事からも幕府内で旗本ながら杉田間宮家が高い地位を得ていた事が解りますね。
因みに本家の笹下城主間宮家の安土桃山時代の当主、間宮直元公は更に出世していて本牧奉行(横浜市長)、但馬奉行(朝来市長兼生野銀山社長)、佐渡奉行(佐渡市長兼金山社長)を兼務し、その所得は実に8億6400万円にも上りました。
杦田梅林 久良岐のよし
さて、そんな間宮信繁公が力を入れたのが梅の植林で、これが実は昭和初期まで横浜の特産品で関東で最高品質の梅として江戸で流通した❝杉田梅❞と成りました。昭和初期まで梅林は存続し、江戸時代を通じて江戸からのクルージングで旅行に来る多くの観光客で賑わい、船で杉田商店街入口に有った聖天川の船着き場で観光客は下船してから杉田梅林を観光しました。明治時代には明治天皇と皇族が杉田梅林まで観梅に行幸された程でした。
その梅林は横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が保護を怠り消えましたが、実は今現在(2018年2月22日現在)見頃を迎えている小田原市曽我梅林に大規模移植され存在しています。
曽我梅林 久良岐のよし撮影
曽我梅林
曽我梅林からは富士山も綺麗に見る事が出来ます。ここのブランド化に成功した曽我十郎梅は実は杉田梅を親木として品種改良された梅ですが、今でも杉田梅の広大な梅林も残されています。

一方杉田でも杉田商店街の中に今でも当時の杉田梅の文化を守る菓子一と言う和菓子屋さんが営業しています。
今回、「ブログ復帰の第一弾の記事を何にしようかなぁ~?」と考え思い付いたのが間宮家顕彰の原点でもある杉田間宮家の殿様の紹介で、そして一緒に殿様の商店街の菓子一サンの事も書きたいなぁ~と思い付き改めて御店に写真を撮影に行って来ました・・・
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菓子一
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この御店の御店主は老舗らしく杉田の文化にも御詳しく、そして商品にも昔からの文化を大切に取り込み残す努力をされていらっしゃいます。
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もし杉田梅に興味の有る読者の方がいらっしゃったら、折角の梅の季節なので曽我梅林や杉田商店街の菓子一サン、そして杉田梅を復興されようとされている杉田の牛頭山妙法寺の松本住職様を訪ねて見て下さい。妙法寺には間宮信繁公の御廟所と、御寺の山には松本住職様が復興の試みている杉田梅が植林されています。

この他にも今回は店の写真を撮影できなかった色んな個人店が杉田商店街には有ります。
おにぎり屋サンとか沢山の居酒屋も有る。
そして少し裏道を歩けば臨済宗鎌倉五山関東十刹第七位の格式を持つ東漸寺さんや・・・
源頼朝公が開いた熊野神社こと泉蔵院さん。
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熊野神社=修験道 大霊山 泉蔵院 桐谷寺
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
※以前書いた記事⤴
杉田間宮家陣屋址の堀の名残りの道路、杉田間宮家の杉田梅が有り巨大な御廟所もある牛頭山妙法寺も近い。
牛頭山 妙法寺
2015-01-21-13-16-37
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
※以前書いた記事⤴
杉田には色んな歴史偉人と関わる場所が有って、買物を終えて町のメインストリートを少し離れると家と店の只の往復からとても有意義な散策に変化して時間をユックリと楽しむ事が出来ます。

皆さん、是非、杉田商店街周辺、散策してみませんか?きっと有意義な時間が過ごせますよ!
では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!











・・・次は間宮家の上司の玉縄北条家の御殿様の事を書こうかな。











梅花山南無佛院成就坊と言う横浜市港南区に存在する御寺を御存知でしょうか?
きっと地図を見ても、ネット検索してもヒットする事はないはずです。
この御寺、現在は院号と寺号が簡略化され梅花山成就院とされているからです。
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実はここ、戦国時代には北条家臣として武勇と築城と鷹の飼育で名を馳せた間宮家の居城だった笹下城の本丸だった地形の真下に存在する御寺なんです。
そして現在では成就院とされていますが、本来の梅花山南無佛院成就“坊”の方が浄土真宗の宗主であり戦国時代には軍閥化していた一向宗門徒の総帥に当たる本願寺家当主から直々に名乗りを与えられた由緒正しい名前なんです。
さて、御寺なのに“成就坊”って何?・・・って思う人が歴史に興味の無い人には多いですよね?
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写真は笹下城の本丸跡。成就院の直ぐ裏手の地形ですが、本丸の右側切岸と大空堀地形は三井不動産レジデンシャルによって宅地造成され2017年に完全消滅しています。
さて、本来は江戸時代までは成就院は成就坊と呼ばれた浄土真宗高田派の御坊だった御寺です。
御坊とは浄土真宗の寺院や道場を指した総称の事です。
現代でも僧侶を“お坊様”と呼ぶのは、この御坊や、昔は浄土真宗以外でも大寺院の回りには支院の塔頭寺院が“○○院”や“○○坊”と呼ばれた場所が多く在ったので、今でも僧侶の俗称として“御坊さん”を用いますよね?
そんな浄土真宗の御坊の一つだった成就院は間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院なんです。
では何で、成就院は御城の一部に取り込まれる険阻な防御力の高い地形に存在していたのでしょうか?
実は浄土真宗は戦国時代には軍閥化して守護職の大名や地方領主を攻撃し国を乗っ取り完全に坊官(ぼうかん)と呼ばれる僧籍の軍人が治める形であちこちで飛び地を持つ大名化していました。
その為に室町幕府は浄土真宗を禁教にしていた時代も有り、特に越前国・加賀国・越後国の北国街道方面と三河国・伊勢国の東海道方面での一向宗の軍事クーデターは苛烈を極めて長享二年(1488年)には守護大名の富樫政親公を敗死させ国を乗っ取る程の勢力と成りました。
・・・まぁ、こんな事やってれば当然、室町幕府に弾圧されるわな。
同じ様に三河では徳川家康公が一揆勢に苦戦し、重臣の中にも多くの一向宗門徒がいたので家臣の離反も相次ぎ参謀の本多正信公まで一揆に加担して敵対する様な事態を招いてしまいました。
この本多正信公、恐らく後に港南区笹下城址の成就院に関わりが有った筈なのですが、その話はまた後で。
さて、そんな風に軍閥化した仏教勢力の一つが浄土真宗な訳ですが、実は浄土真宗に属し江戸時代以前に成立している寺院には特に城砦化の傾向が多く見られます。
そもそも城址や要塞址に建てられているんです。
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写真は三河安城市の安祥山了雲院大乗寺と言う浄土真宗の御寺です。
・・・もう見た目からして御城ですよね(笑)?実はこの御寺、徳川家最初の本拠地だった安祥城の城址を乗っ取る形で寺院化しているんです。
まぁ大乗寺は平和に成った江戸時代の寛政四年(1792年)に開かれた御寺ですので、一向一揆とは全く関係していない御寺なのですが、浄土真宗が好んで城砦址に御寺を建てたがる具体的な例として写真を保有しているので挙げて置きます。
三河国の浄土真宗の寺院は一向一揆を盛んに煽動して軍閥化していたので、小領主達が坊官に城を差し出し要塞化した寺院として布教と交戦の場として特殊な発達の仕方をしていく事に成りました。
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・・・もうね、大乗寺に関しては完全に本丸乗っ取ってるんですね。
因(ちな)みにここは間宮家とも関係が有ります。
安祥城は同時期の関東の城郭と比較すると規模は矮小ながら周囲を水田と沼地に囲まれた堅城でした。
眼前が耕作地であり街道にも面しているので当然ながら豪族達の勢力争いの舞台と成る訳で、織田家vs松平家&今川家&北条家が壮絶な戦闘を繰り返し行った城としても有名です。
ここは小田原城主の北条家がまだ今川家臣で苗字も“伊勢”を名乗っていた頃に、北条家の伊勢盛時(北条早雲)公が今川家の総大将として永正三年(1506年)~永正五年(1508年)にかけて伊豆と小田原の伊勢家与力衆の軍勢を率いて攻めています。
実は笹下城址に建つ成就院の大旦那(おおだんな=スポンサー)だったと伝わる間宮家も北条家がまだ姓を伊勢と名乗っていて今川家臣だった時代に伊勢家の与力として参戦している事を伺わせる感状(かんじょう=表彰状)が新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の項に以下の記載が有ります・・・

舊(旧)家者百姓利兵衛
氏を内田と云(言う)、居住の地を土人(どじん=地元民)古門(ふるかど)と呼べり
~以下中略~
先祖内田對馬守(つしまのかみ)某(なにがし=名称不明)は永正五年(1508年)三月二日卒(そつ=死)す、法名淨元居士
~以下中略(※下の添付画像が感状の文面)~
内田対馬守家感状 久良岐のよし

・・・まぁ内容を砕いて現代口語に翻訳するとコンナ感じです。
  ↓
「今回はスゲぇ~活躍してくれたみたいだね。
 御大殿(今川氏親)様がメッチャ褒めてくれて俺のメンツも内外に対して立ったよ。
 (なので内田さん)親子に(御褒美として)官職をあげちゃうZぇえ~♪
 まっ、そんな感じだよ~ん。
 寅(丙寅年=永正三年=1506年)三月二十八日 ♡(←間宮信親公の花押の代り)
                             内田對馬守殿へ
         同源左衛門殿へ」
この内田対馬守家は現在も笹下城城砦群の城域の一角に住んでらっしゃいますが江戸時代までの居所とは場所が若干違うそうです。本来の古門内田対馬守家は入口が切通し状に成っていたそうで、別の間宮家旧臣の市村家の御子孫から聞いた話では笹下城と北見掃部屋敷と出城松本城と旧鎌倉街道の間道を守る位置に在り、市村家と内田家で洋光台方面からの敵の進撃を阻止し内田家と市村家の配置は虎口状に成っており侵入した敵を挟撃する位置に屋敷地が置かれているそうです。
源左衛門家も“ゲンザムさん”の屋号で近年まで存続していたそうですが、借金で逃散し競売にかけられ断絶したそうです。
実はこの古門内田家に対して発給された感状に登場する“御大途(おおおとの)”と言う表現が当時の北条家では使われていないので、この文章は偽書だと推定する学者さんがいますが、その方々は肝腎な事を忘れてらっしゃって、この時期に伊豆と相模国に勢力を持っていた元は古河公方の家臣だった間宮家は当時は今川家臣です。
そして北条家もまだ伊勢を名乗り、1506年当時は今川家臣でした。
・・・ですからこの感状の示す御大途は、当時の間宮家の寄親だった伊勢盛時(北条早雲)公を指す言葉では無く更に上の今川氏親公を指す言葉と考えた方が自然でしょう。
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そして永正七年(1510年)に現在の京急神奈川駅に在った権現山城で起きた“権現山の戦い”迄の間宮家の棟梁は間宮彦四郎信冬公か間宮彦次郎信盛公と世代的にも文書からの生存確認でも推測出来ます。
では内田對馬家に対して永正三年(1506年)に“間宮信親”の名、この現代の間宮家系図では名前が掲載されておらず誰の旧名か伝わらない名乗りを使った殿様は信冬公と信盛公のどちらか?と謎が湧いてきますが・・・
これは小生の推測では恐らく、間宮信冬公の旧名でしょう。
実は笹下城の築城された笹下村は室町時代まで“杦(杉)田郷”の一部でした。そして間宮家が川崎駅前の堀之内の城砦から今の京急杉田駅前で昔は寺家町と呼ばれた地域に本拠を移したのは永正七年(1510年)の権現山合戦で扇谷上杉家に敗北して杦田郷に逃げて来て以降の話です。
そして杦田郷を本拠にした初代は間宮信盛公で、権現山合戦以後に間宮信冬公の名前は歴史に登場しなくなるので大活躍の記録が残るものの討死した様です。
つまり、間宮信冬公が信盛公以前の間宮家の当主だった可能性が高い訳です。
そして間宮信盛公の別名も伝わっていて、間宮信頼=間宮信盛公とされています。
更に間宮信盛公と直接的に血縁上の親子では無いものの系図上で父とされるのが間宮信冬公なのですが、間宮信冬公と北条家以前の小田原城主だった大森藤頼公は義兄弟だった事も判っています。
つまり、間宮信冬公は元々は古河公方足利家の家臣で格上の同僚の大森藤頼公と仲が良かったので義理の息子か後に末期養子(まつごようし=死後に跡を継いだ人物)と成る程に目をかけていた近親の信盛公が元服する際に大森藤頼公から一字を貰い初名を間宮信“頼”と名乗らせていたと考えると自然でしょう。
そうなれば伊勢盛時(北条早雲)公の存命中の間宮家当主の間宮信親公は当然、今川氏親公の存命中の人物でも有りますし、今川家と協力関係に有った扇谷上杉家とその与力の小大名の大森家とも関係が深いのも自然な話に成る訳ですね。
つまり、間宮信親公は当時の間宮家棟梁だった間宮信冬公の初名でしょう。
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大乗寺の場所に在った安祥城を北条早雲公が今川家臣として攻めた初年度(永正三年:1506年)に、今川家臣として伊勢家に与力して従軍した間宮信親公の部下だった古門内田家の内田對馬守サンは息子の源左衛門さんと大活躍して褒められて朝廷の官職を貰った訳ですね。
まぁ、この安祥城争奪戦は永正五年(1508年)まで続き、結果的に今川家が諦めて敗北している合戦で領地も増えていなので、今川家の殿様も官位しかあげられるモノが無かったんでしょう。
さて、こうやって見て見ると、“御大途(おおおとの)”様が北条早雲公ではなく今川氏親公で間宮信親が間宮信冬公と推定出来ると小生が個人的に思っている事も何となぁ~く皆さんに伝わったでしょうか?
こんな感じで三河安城市安祥城址の大乗寺はじめ、横浜市笹下城址の成就院だけでなく多くの浄土真宗の御寺は城砦の跡に存在しています。
こんな文献に登場する事を辿れる場所が現在も笹下城の跡を訪れに港南区笹下に行くと残っています。
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内田対馬守家の御廟所と、その入口に建つ庚申塔馬頭観音様です。
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御墓は私有地なので勝手に入る事は出来ませんが、馬頭観音様の足元には江戸時代の内田家の御子孫達の御名前が彫られていますね。
そんな内田さんの家は間宮家臣で成就院は一向宗と言われた浄土真宗の御寺な訳ですが、軍閥化した仏教宗派は浄土真宗だけでは無いんですよ。
それに浄土真宗の中にも当然ながら高田派や西本願寺派の様に学僧として又は僧侶として修行と学問と布教に励むタイプの御坊さん達も多かった訳で、軍閥化したのは特定派閥の問題でした。
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※写真は西本願寺内に在る重要文化財の飛雲閣。飛雲閣は一般非公開で不定期に公開される。
だから豊臣秀吉も西本願寺を支援して自分の居城だった聚楽第の飛雲閣を寄贈したりしてる訳です。
浄土真宗の中でも例えば今回の解説で取り上げる成就院の属す高田派や、後の本願寺十一世宗主の本願寺准如上人に始まる西本願寺派等は穏健派として知られ細川政権~織田政権時の室町幕府や後の豊臣政権とも友好関係を維持し布教活動で宗教としての信頼と勢力を拡大する事に成功しています。
そして当然ながら東本願寺も(主に本多正信公の影響で)徳川家の支援を受けて江戸時代には平和でとても立派な修行を重んじる宗派に成って行った訳です。
まぁ、各時代の人の価値観を現代人の価値観で見ても何にも共感できない部分が有って当たり前なんですよ。
日馬富士の暴行を「格上だからやってよい」と肯定するモンゴル国民が多いのを、法治主義国家の日本国民が理解不能なのと同じです。

まぁ、浄土真宗だけが軍隊を持って暴れまわってた訳では有りません。
天台宗の総本山だった比叡山延暦寺も平安時代末期には軍閥化した上に度々、僧兵が京都市街で横暴を働いて困っていた様子が平安時代末期の白川天皇のこんな言葉として伝わっています・・・
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
・・・この山法師と言うのが比叡山延暦寺の僧兵で、彼らは延暦寺の守護神だった日枝権現の御神体を神輿に載せて担ぎだしては不敬にも天皇家に対して無理難題を強訴(ごうそ=武力で脅迫し採決させる事)していました。
比叡山は鎌倉時代には近江国守護の佐々木家と合戦をしたり・・・
鎌倉時代末期には天台座主として延暦寺に君臨した大塔宮(だいとうのみや)護良(もりなが)親王は軍事修練を好んだ人物で、自ら軍勢を率いて鎌倉幕府倒幕の戦争を起こしたり南朝の将軍として鎌倉に赴任すると北朝の光厳天皇派の足利尊氏公とも合戦をしています。
室町時代には天台座主だった足利義教がクジ引きで将軍に成ると、彼は無用な殺戮を繰り返し残虐さを露呈したり・・・
戦国時代にも延暦寺は佐々木家の子孫の大名の六角家と合戦を行ったり・・・
六角家が織田家によって近江から駆逐されると今度は織田家の対立勢力である朝倉家の軍勢を比叡山に招き入れ織田家に対して戦争を嗾(けしか)けたりしています。
・・・まぁ、結論から言うと天皇家の忠臣だった織田信長公によって御存知の通り誅され全山焼き討ちされ、その後に明智光秀公の女婿の明智秀滿が正体と言う説も有る天海大僧正と徳川家によって大復興されるまで、天台宗は完全に軍閥化していました。
因みに現代でも延暦寺はヤクザの山口組と関係が深かったりします。

他にも領土的な野心は無くても真言宗も紀州(和歌山県)の根来寺を本拠地にした根来衆と呼ばれた僧兵と傭兵集団は鉄砲で武装した強力な軍隊として存在していました。
この根来衆も後に徳川家臣の成瀬正成公の配下に組み込まれ活躍した“軍人”でした。成瀬家は後に犬山城主と成り尾張藩主徳川家の付家老を務めた徳川家の譜代大名ですね。

そんな訳で、戦国時代当時の仏教の宗派の中には武装して軍隊を持っている宗派もおり、中でも浄土真宗は城や要塞に寺院機能を置いて政庁や防衛拠点としていた訳です。
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さて、笹下城址の成就院に話を戻すと、隣には笹下城の大空堀の跡が近年まで有りました。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
ここは港南歴史協議会が編纂した“こうなん道ばたの風土記”に挿絵があり、昔は畑地で良く空堀の形状が残っていたので、IHIが土地を買い駐車場にしても地形を見る事が出来ました。
この写真の風景も近年宅地化で盛土され消滅しました。
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写真の空堀跡の横のアスファルトの歩道は昔はもっと狭かったそうで、これが武者走りだったそうです。そしてこの空堀が畑地だった頃にはまだ梅の木も有ったのですが、実はこの梅の木が成就院の山号の由来と関係が有ります。
山号の由来は“杉田梅”です。
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写真は小田原市の曽我梅林に移植され今も残る“杉田梅”です。
室町時代~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だったとされる間宮家は主家が北条家の時代に北条家臣団に広まっていた梅の植林を実施していたので、成就院のみならず旧杦田郷の間宮領は全て広大な梅林が有り「杉田梅林」として有名でした。
間宮家と同時代の殿様で北条家臣化した蒔田吉良家の拠点にもやはり梅林が造営され今も梅林に関する地名や梅林そのモノが残っています。
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写真は世田谷の豪徳寺です。今の季節は紅葉の名所としても有名で、江戸時代は大名の井伊家の菩提寺だったので現在放映中の歴史大河ドラマ“おんな城主直虎”の影響で歴史に興味の有る観光客で賑わっています。
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招き猫発祥の御寺としても多くの参拝客で賑わいます。
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まぁ、本来の豪徳寺が発祥の招き猫は”厄除け”と“立身出世”の御利益で財運ではないんですがね(笑)。
豪徳寺は世田谷城だった訳ですが、そこを治めた蒔田吉良家は横浜市南区に存在した蒔田城を戦国時代まで本拠に後に、世田谷区の世田谷城(豪徳寺境内を含む一帯)を本拠にした小大名で足利家一族として高い家格を有した家でした。
そんな蒔田吉良家の居城跡の豪徳寺の周辺一帯の住所が今も“梅丘”で、蒔田城の近くの岡村天満宮には岡村梅林も残っています。
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成就院の梅林が杉田梅林と呼ばれたのは、先述の通り戦国時代には笹下村は杉田郷の一部だったからです。笹下村が笹下郷として分離するのは江戸時代に成って分家の杉田間宮家、氷取沢間宮家が成立してからの話で、それまでの北条家臣時代の古文書には杦田郷と笹下の地名の両方が登場します。
笹下と同じく間宮家旧領に当たる現在の港南台地域南西部にも近年まで梅林がいくつも存在していました。調べると港南台地区では小原サンと言う旧家が治めた一帯に特に梅林が多かったそうです。
これが小生の栄区に成ると、途端に梅林は無くなりますので間宮家が梅の生産に力を入れていた影響は近現代まで残っていた様ですね。
江戸時代には“杉田梅林”は日本規模で有名に成り笹下城址の梅花山成就坊や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、第十三世本願寺家当主であり宗主の“本願寺良如上人は当時は日本屈指の景勝地だった金沢八景を遊覧した後に、杉田梅林に観梅に来られ成就坊に滞在された”歴史が有ります。
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特に杉田間宮家の菩提寺である杉田駅近くの牛頭山妙法寺はズバリ、杉田梅の名所として特に人気の有った観光地でした。しかしコチラも横浜市教育委員会が梅林を保護しなかったせいで戦後の宗教政策で御寺の土地を接収されて後に梅林は伐採され杉田の杉田梅林も消えてしましました。
現在の妙法寺の御住職様が境内地の山上に杉田梅林を僅かでも復興しようと努力されています。
この妙法寺は日蓮宗の御寺です。
杦田郷笹下村の梅林を見に来て成就院に滞在された良如上人は成就院の梅林の見事さに感動したそうで、以後、寺の山号を「梅花山」とし寺号を梅花山南無佛院成就坊と名乗らせました。
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※写真は曽我梅林、昔は笹下や杉田や港南台にもこんな広大な杉田梅林がそこかしこに広がっていて、明治には皇族も度々観梅に来た程でした。
しかし、その梅林を含む成就院の境内地は戦後の宗教政策で接収され、横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった訳です。

そんな間宮家が保護した成就院ですが、良如上人の逸話と浄土真宗が城跡を好んで御寺を建てる事を紹介したので成就院の宗旨の歴史についても調べてみましょう。
昔の宗旨と寺域についてですが、現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に境内の広さは普通の規模の寺院です。
しかし御寺の歴史は中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有あります。
法相宗だった当時の寺号は曲田山帶行寺と判明しています。
この曲田山の山号は地名由来です。新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の解説に以下の記載が有ります・・・
雑色村
高札場二ヶ所
 一は村の中程、
 一は北にあり、
小名(こな=住所の丁番地に相当) 曲田 村の東を云
・・・つまりですね、笹下郷の中の雑色村の中の東側だったそうです。そして、その更に東の先に立野(たての=館野)と呼ばれる地名が有ったのですが、これが現在のファミレスのバーミヤン等が在る辺りの様です。この曲田と立野の境目が笹下川だった様ですね。

成就院が“梅花山南無佛院成就坊”と呼ばれたのより更に昔の曲田山帶行寺と呼ばれた時代の宗旨だった法相宗は歴史の古い宗派です。奈良時代~平安時代初期が全盛期だった宗派で、その後は中国留学から帰って来た伝教大師最澄様が伝えた天台宗や、弘法大師空海様が伝えた真言宗が流行しました。
空海 公式ホームぺージより拝借 久良岐のよし
空海和尚と言えば来年公開される日中合作の映画の主人公に成っていたりします。
公式ホームページ→http://ku-kai-movie.jp/
まぁ、浄土真宗は空海和尚=弘法大師様の系統ではなく最澄和尚=伝教大師様の系統から分派した宗派です。成就院は鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に法相宗から浄土真宗に改宗しています。
江戸時代の風土記稿の記録を見ると、最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった様です。
具体的に・・・
本堂 ・・・間口七間=12.7m、奥行き六間半=11.8、護摩壇が存在した。
     ※源頼朝公が一百座の護摩修行を行った日に壇上に守護仏の観音像を一体奉納。
鐘楼 ・・・享保五年鋳造の梵鐘
薬師堂・・・行基作の薬師如来を祀る。元は香林寺と称して境内の外の東側に在った塔頭。
     ※地震で倒壊し江戸時代も未再建。
     ※数度の賊難に遭っている
    (鎌倉時代に新田義貞が鎌倉幕府打倒で鎌倉に来襲した際に周辺に略奪放火を行ている)
    (戦国時代に房総半島の里見家の海賊が杦田郷で略奪放火繰り返す)
     ※承應年間に境内地に写し薬師堂と成った。
山門 ・・・四つ足の門、旧間宮家の笹下陣屋の邸門を、間宮家の下総転封時に移築した。
林貞寺・・・塔頭寺院。元和元年開基。
      境内の巽(たつみ=南東)の方向に在ったが江戸末期には建物は消滅。
乘船寺・・・塔頭寺院。艮(うしとら=北東)の方に在った。江戸末期には消滅。
      開基の乘船と言う人物は天文二年(1533年)八月二日に亡くなった人。
     ※実は乘船が実は墓所の解らない間宮信元公と同一人物の可能性有り。 

この様に全盛期には比較的大きな規模を有していた事が解る御寺なのですが、先代の檀家総代様に取材をした際に「無住職だった時代が有る」と教えて頂く事が出来ました。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有ったんですね。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていましたから。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然でしょう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いてんでしょうね・・・
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていませんから。
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その西本願寺派の初代と数えられる准如上人が、大阪佃村から移住した江戸の佃島の漁師達の協力で海を埋め立てて開いたのが現在の築地本願寺だったりします。まぁ、今の建物は近代建築ですが。
築地の名前の由来だったりもしますね。
・・・なので穏健派の高田派だったので、北条家に憚り大々的な間宮家の支援が無かった時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのでしょう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせられずに存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた訳です。
それが解るのが塔頭寺院として戦国時代に存在していた乘船寺の記載で、乘船寺を開いた乘船(間宮信元公か?)が天文二年(1533年)八月二日に亡くなったと書かれている事から北条家臣間宮家の時代に塔頭寺院を開く様な支援が有り成就坊が機能していた事が解る訳です。
信元公の御子息の間宮康俊公が天文五年(1536年)から間宮家を代表して鶴岡八幡宮の再建に参加しています。ですから間宮家が支援した成就院で塔頭乘船寺を開き1533年に亡くなったのは間宮信元公かも知れないと個人的に推測しています。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然でしょうね。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来ます。
以後は江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然。

ここからは成就院に関係した人物と関係者一族で歴史記録に残る人を見て見ましょう・・・
主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っています。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公。
玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公。
滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した氷取沢間宮綱信公。
徳川家康公の参謀で江戸幕府初代の鷹匠頭と成った杉田間宮信繁公。
間宮家の一族は伊豆や神奈川県の二宮~大磯、海老名市国分寺、江ノ島界隈、横浜市磯子区~港南区~神奈川区~鶴見区、川崎市川崎区等に間宮一族の領土が有りました。
そして重要な江ノ島神社の別当も間宮一族が勤めていた。
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江島神社と聖地の岩屋の別当寺だった岩本坊は代々間宮家が宮司を勤め祭祀を勤める際は本姓佐々木を使い、明治に成ると間宮と岩本姓に分かれた。
岩本坊は廃仏棄釈で寺院機能を棄て宿望機能を活かし現代も名旅館岩本楼として存続している。
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室町時代に養子を送り込み縁戚と成っている相模国の二之宮の格を持つ川勾神社宮司家一族二宮家もいる。
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江戸時代には久能山東照宮宮司の榊原照久公の奥方に成ったのは杉田間宮信繁公の姫様だった。
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その東照宮宮司家初代の榊原照久公の菩提寺は浄土宗の宝台院別院。
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同じ浄土宗で駿府城近くの華陽院は徳川家康公の祖母の於満様の菩提寺であり、徳川家康公の愛妾となり姫を生んだ間宮康俊公の姫の於久様の菩提寺でもある。
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関東最古の大社の埼玉県久喜市の鷲宮神社宮司の大内泰秀公には間宮康俊公の御子息の間宮康次公の姫が嫁いでいます。
大内泰秀公は徳川家光公が利根川で溺れた際に救助して宮司ながら大名格を与えられた人物です。
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家臣の内田対馬守家の御子孫も旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出せる程の家格が有りました。

北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てられ一門からは家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元公、江戸幕府初代鷹匠頭の杉田間宮信繁公等の名将を多数輩出しています。
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江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築し、それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有ります。
しかるに第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とされますが、仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語です・・・
・・・戦災で焼けたのは本堂で、それは近年再建されています。
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しかし山門は戦後も存在していたのが“こうなん道ばたの風土記”に掲載されている事なんですけどね。
礎石を見ると修繕は間違いなくされています。
個人的な意見ですが、現代の山門は復興された門ではないかと感じる木材の腐食具合いと礎石の新しさなので、“こうなん道ばたの風土記”の記載は情報がアップデートされていないのだと思います。

さて、そんな浄土真宗高田派の成就院を支援した間宮家の宗旨についてですが・・・
実は浄土真宗以外の神道・仏教・修験道にも深く関わています。
・浄土真宗
先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
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同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。内田家も御廟所は私有地だが東福寺檀家と新編武蔵風土記稿に書かれている。
・神道と修験道と真言宗
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間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。

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祖先は近江源氏の氏神である敦実親王。その敦実親王の邸宅址で敦実親王を御祭神とする延喜式内社の沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。沙沙貴神社は近江源氏一族の氏神であり佐々木家、六角家、京極家、間宮家、黒田家、乃木家等の氏神でもある。
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更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二之宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
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真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である瑞應山蓮華院弘明寺は間宮家が深く関わっていた寺で“宗閑”の名の初出展となる寺院だ。
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安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺。
御本尊は間宮直元公が極彩色の檀那に成っている。
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江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
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本来の名前を大靈山泉蔵院桐谷寺と言った磯子区中原の熊野神社。
ここは元々は鎌倉の山崎地区に在った修験道の大道場で源頼朝公の命令で当地に熊野権現が勧進され以来、泉蔵院の大道場として栄えた。鎌倉の本社である山崎泉蔵院が戦火で焼けると本社機能がここに移され、以後、大靈山泉蔵院桐谷寺と名乗った。ここも間宮家がずっと支援していた修験道の大道場で神谷信久公の古文書の記録も残っている。
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磯子区屛風ヶ浦の森浅間神社ここも又、戦国時代に間宮家が支援した修験道場の跡だが、鎌倉亀ヶ谷権現堂福禅寺の道場として源頼朝公によって開かれ霊場の滝に不動明王が祀られ、後に頼朝公の命令で富士山の化身である此花咲耶姫命の御分霊を勧進し浅間権現が開かれた。福禅寺はどうも鎌倉幕府最期の将軍守邦親王が森浅間神社に逃げて来ている事や弟君の長円親王が福禅寺の住職を務めている事や権僧都と比較的高い身分である事から“門跡寺院”だった事が推測出来る場所。
・曹洞宗
間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
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間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。そして旧家臣団によって毎年間宮康俊公の追善供養が行われた間宮康俊公の菩提寺でもある。
この宝泉寺を開く際に開山として招かれたのが青梅市の“福禅寺”の住職。
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福禅寺は今では瑞龍山海禅寺と称するが、これは江戸時代のアホで仕事の出来ない役人が朱印発給の際に寺号を誤記したせいで以後、この寺名を名乗らなければいけなかったから。
以前の寺号や戦国時代に突如天皇家の勅願所に成っている事から、室町時代にこの地で復興される以前の前身が鎌倉の権現堂福禅寺だった事が推測出来て、永享の乱の際に扇谷上杉家によって三田家を通じて当地に福禅寺の字名を復興した事が推測出来る。
つまり横浜の森浅間神社とは別れこそすれ同根から生じた由緒ある寺院と言う事だ。それを裏付けるのが宝泉寺開基の際に福禅寺の住職がわざわざ招かれていると言う事だと推測出来る。
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又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。ここは鶴見区下末吉の宝泉寺の末寺として最初は開かれ、宝泉寺が火災に遭った後は氷取沢間宮家がこの宗三寺で間宮信盛公の追善供養を行っている。尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来し信盛公の菩提寺でもある。
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子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に高津山観音寺を菩提寺として支援している。
高津間宮家は氷取沢間宮家の子孫に当たり、江戸幕府の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信を輩出した家だ。
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そして真田幸村隊と戦い討死した間宮正秀公は間宮士信公の祖先に当たり観音寺境内社の高秀霊神社に御祭神として祀られ墓所も兼ねている。
・日蓮宗
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安土桃山時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家が杉田の牛頭山妙法寺を菩提寺にしている。
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江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
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本立院の飛地境内には間宮林蔵公の被葬地の御廟所が有り東京府時代に史跡文化財していを受けている。
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間宮一族から帰農し江戸時代には豪農と成って東京の大森界隈を開拓し農民を旧北条家臣団の仲間五人と協力して守ろうとした間宮是信サンは悪人領主木原家に殺された後、一族にひっそりと大森の法光山善慶寺に埋葬された。
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明治に成り封建政治の終了とともにタブーが解禁されるや、義話伝承の通りに直訴状や遺骨が発掘され東京都指定文化財に成っている。
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この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。

なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が御理解頂けたかと思います。
この成就院から還俗したのが間宮一さんで、鎌倉事件の犯人とされますが小生の予想では当時の神奈川奉行が依田盛克さんで、この依田家は武田家旧臣ながら氷取沢間宮家から江戸時代初期に養子が入っている家なので、江戸幕府と日本を守る為に間宮本家と所縁が深い成就院の身内が犯人として名乗り出て、英国政府との外交の為に人柱に成ったのかも知れないと小生は考えています。
まぁ、こんな風に成就院には間宮家に関する歴史資料が散逸してしまっている部分を埋めるかも知れないヒントが多く有る訳です。

面白い御寺ですよね?
きっと皆さんの御宅の周辺にも実は凄い歴史偉人と繋がりのある神社仏閣や城址が在ると思います。
是非、お散歩して見て下さい。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホの左派市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にあり(現在の東漸寺運営)ー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










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