皆さんは京急杉田駅で電車を降りた事が有りますか?

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伊勢佐木町や横浜橋商店街程の規模は有りませんが、近くにはIHIや東芝、ヤマト運輸や日本飛行機、そして横浜南部市場が在り、多くの仕事帰りのビジネスマンと労働者が立ち寄る飲屋が存在する商店街で規模以上に通行人と飲食目的の客で賑わっています。
又、杉田商店街の属す横浜市磯子区はベッドタウンとしても発展したので精肉店、御茶屋さん、弁当屋さん等、庶民の台所を支える昔ながらの店舗も元気に市民生活の支えと成り商店街を構成しています。
実はこの杉田商店街、現在でこそ一般的な商店街ですが元々は東漸寺と言う大寺院の境内で古来開かれていた六斎市(月に6回開かれる市場)が起源に成っている事を地元の政治家や横浜市教育委員会の職員にも知る人は多く有りません。
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東漸寺は立派な釈迦堂が在りますが、これが❝昔の東漸寺時代の本堂❞でして、現在の東漸寺の本堂は・・・
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霊桐山 東漸實際禪寺 塔頭(たっちゅう) 真楽庵
東漸寺釈迦堂の右隣の不自然な位置に存在しています。
こはれ明治時代の廃仏毀釈で仏教が弾圧されたせいで、❝霊桐山 東漸實際禪寺❞と言う大寺院を運営していた周辺の塔頭寺院(大寺院の支院)の一つ、真楽庵(しんらくあん)に運営が委託され他の塔頭寺院は明治政府により潰され土地開発の為に接収されてしまったので、本来の東漸寺本堂たる釈迦堂ではなくて塔頭だった真楽庵が東漸寺を名乗らざるを得ない状況に陥り現在に至る訳です。
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現在も厄除け地蔵様が駐車場に鎮座していますが、本来は現在の3倍超の境内地を有していた頃に、この御地蔵様の前で市場が開かれたそうです。
そして人が定着し、やがて戦国時代に成ると間宮林蔵や杉田玄白の祖先である間宮信盛公が川崎駅前の堀之内から杉田に本拠地を移し、間宮家が東漸寺や杉田一帯の神社仏閣を支援し武士達と商人職人が定着し町の基礎が確立されていった訳です。
東漸寺は以前に解説記事を書いているのでもし興味が有れば下のリンクから記事を御覧下さい・・・
杉田の元大寺院の東漸寺(とうぜんじ)と、鎌倉時代に御寺を開いた名越北条家と戦国時代に御寺を支援した間宮家。←クリックで読めます。
それと横浜市教育委員会の東漸寺に対する解説は誤りが有るので一個人ですが小生が歴史オタクとして訂正して置きます。
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東漸寺は鎌倉時代開基の御寺では有りません。
前身寺院は鎌倉時代以前に天台宗として開かれており、境内には石塔も現存しています。
その天台宗寺院を名越北条宗長公が鎌倉時代正安三年(西暦1301年)に禅宗臨済派の寺院として釈迦堂を建立し改宗させて現在に至るので、1301年の出来事は❝中興❞と言うべきなんですね。
さて、東漸寺は以前に解説も書いているので今回は詳しい解説は触れず、商店街の老舗と新しく可愛い御店の紹介、そして江戸時代に殿様が住んでいた場所である解説に移りたいと思います。
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杉田商店街を新杉田駅京急杉田駅側から入ってくると上の写真の場所に出ます。
さて商店街のアーケードに❝杉田❞と書いて有るので少し地名の解説をしたいと思います。
杉田の地名はそもそもは杦田(すぎた)と書きましたが、歴史学者でもこの杦(すぎ)の字を知らず古文書で❝松❞と誤読し❝松田❞と間違って書いてると馬鹿にする人が居たりしますが、実は馬鹿にしている御本人が❝杦田❞の正式な字を御存知無いだけなんですね。
これは、その学者さんが悪い訳では無くて明治~昭和初期に活版印刷で複製刊行された史書の編纂に携わった国の御役人のミスでしょう。
字の意味は同じなので、現代の字体では杉田で統一しているだけと認識した上で本来は杦田と書くと知っていれば良いだけです。
実はこの商店街のメインストリート、昔は川だったんですよ!
迅速測図 杉田周辺 久良岐のよし
これは迅速測図と言う明治初期に作られた測量地図の杉田周辺の様子です。
地図の右端に杉田が登場し❝杦田村❞と標記されています。そして、そこには東漸寺が記載されているので現在の杉田商店街の目標物にも成りますね。
もう少し拡大した画像を見て見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
東漸寺の右側には道とは違う海へと続くL字にクランクした川が流れているのが判るでしょうか?
見ずらいので川の部分を書き加えて見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
ではこの測量図は精密ではないので、日本城郭大系に掲載された聖天川の位置を現代の衛星写真に当て嵌めて見ましょう。
聖天川と杉田間宮陣屋位置 久良岐のよし
この通り、現在の杉田商店街入口が江戸時代の船着き場で、現在の新杉田駅は海の底だった事が解ります。
そして商店街のメインストリートは❝鳥メロ❞の辺りまで真直ぐに海から船が入って来て、そこから先が水堀として間宮信繁公の邸宅=杉田陣屋まで船で出入り出来る構造に成っていた事が解ります。
間宮信繁公は徳川幕府初代将軍徳川家康公の直臣であり参謀を務めた旗本で、更に初代の徳川幕府鷹匠頭を務め隠密行動も得意とした人物でした。実は関ヶ原合戦で徳川軍が勝利したのは間宮信繁公と、その同族の近江源氏黒田長政公の御二人の諜報活動と策略による活躍が大きく起因していました。
以前、間宮家の事績を簡単にまとめた記事に間宮信繁公の事も解説しているので御興味の有る方は以下の記事リンクをクリックして御覧下さい・・・
間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリックで記事へリンク!
・・・そんな凄い間宮信繁公の邸宅跡は横浜市教育委員会が保護を行わなかったので、信繁公や間宮一族が造営した日本屈指の大梅林❝杉田梅林❞とともに消滅してしまいました。
間宮信繁公と御子孫の杉田間宮家の陣屋址には今は個人宅が並ぶ住宅地と成っていますが、道に名残を見る事が出来るので行き方を少し説明します。
先ず、新杉田側から杉田商店街に入ってくると左手に日高屋の横に❝居酒屋串まる❞の看板の小道が在ります。
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そこを入って下さい。
そこから暫く進むと野本園と言う御茶屋さんが在ります。
Googlemap 杉田間宮陣屋址 久良岐のよし
その野本園を左折すると、その道が海へと続く聖天川を引き込んだ杉田間宮陣屋=間宮信繁邸址の外堀の役目を担っていた聖天堀を暗渠化した川の跡です。
余談ですが、この野本園の御一族は恐らく鎌倉時代以来の名士で、金沢区富岡や杉田一帯に勢力を持っていた武士の御子孫に当たるはずです。御本人達が現在その事を御存知かは知りませんが、金沢区並木~富岡~杉田界隈は昔は野本家の領地でした。そして上司は状況的に記事冒頭で紹介した東漸寺を再興した名越北条宗長公の名越北条家だったでしょう。

話を杉田間宮陣屋に戻します。
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陣屋の跡は全くないですが、聖天堀の跡は住宅道路として残っていて、上の写真で手前の右から左に抜ける道と丁字に交差する白い軽自動車が走っている隘路(あいろ=狭い道)が聖天川から引き込まれた聖天堀の跡です。
武家屋敷の水堀の跡だから、暗渠化しても狭い道路のままなんですね。
さて、ここに住んでいた間宮信繁公に関する事は新編武蔵風土記稿や後北条所領役帳等の文献に記録が残っています。
【後北条所領役帳】
御馬廻り衆(北条氏康公近衛部隊)
一 間宮藤太郎
  五拾五(55)貫文 東漸寺分
  拾五(15)貫九百四拾六(946)文 同所壬寅増分
  以上七拾(70)貫九百四拾六(946)文

こはれ杉田間宮家の1559年迄の所得を示した記録で、当時の間宮家が仕えた北条家では100文銭=米1.4斗としていましたので、杉田間宮家の所得を計算して見ましょう。
1貫文=1000文 100文=米1.4斗 1斗=米15kg(現代) 米1kg=400円前後 
70貫946文=70946文
70946文=米993.244斗=米14898.66kg=5,959,464円
さて、杉田間宮家の1559年時点での収入は現在の年収に換算すると600万円弱と公務員と同じ位の現実的な夢の無い金額に成ってしまいます。しかしこれは1559年時点の話で当主は間宮信繁公でも無ければ当時の間宮本家は港南区笹下の笹下城主間宮康俊公698貫122文でしたので、時代的に1559年時点では杉田間宮家の当主は間宮信繁公の御父君の信忠公の世代に当たり、あくまで杉田間宮家は分家して2代目なので当然ながら所得も低かった訳です。

これが間宮信繁公が当主だった安土桃山時代に成ると様子が変わって来ます。
【新編武蔵風土記稿 久良岐郡 杉田村の項】
舊(旧)跡陣屋蹟
~冒頭省略~
北条氏に仕えて小田原水尾城を預かりて忠功あり(この時点で城代を任せられている)、文禄元年壬辰東照宮(徳川家康公)に召出され、舊領の内杉田中里村五百石の録を賜り、御使番御鷹方兼務む、慶長十五年正月十五日、武蔵国久良岐郡杉田村の内五百石、三河国碧海郡上條村七百石、近江国伊香郡の内五百石、合計千七百石、充行詑全可領知者也との御朱印を賜はる
~以下省略~
つまり間宮信繁公の代に成ると、徳川家康公の参謀や鷹匠頭として活躍した功績によって1700石に加増されている事が解るのですが、では1700石がどれ程の収入か計算して見ましょう・・・

1石=米150kg 米1kg=400円前後 間宮信繁公の総所得=1700石=米255,000kg
255000kg×400円=102,000,000円

・・・つまりですね、鷹匠頭と成った間宮信繁公の基本所得は現在の日本円に換算すると1億2百万円に跳ね上がってる訳です。そして鷹匠の奉行である鷹匠頭を務めたので当然ながら役職手当も有りましたが、鷹匠頭の役職手当は不明です。
例えば専門職の奉行で腰物奉行と言うのが有り、それは幕府の刀剣類を管理する部門の奉行職でした。
この管理職手当が米400俵でした。
1俵=60㎏ 60kg×400円=24,000円 400×24,000円=9,600,000円
鷹匠頭と同じ専門職の腰物奉行を参考にすれば960万円位の役職手当てだったかもしれません。
すると間宮信繁公の年収は・・・1億1千2百万円!とんでもない収入ですね。
無論、ここから約50人の兵隊を編成できるだけの武具を買い揃えないといけないので全部が全部生活に使って良い御金では有りませんが、基本的に奉行職に関しては与力が幕府から派遣され自分の所得から人件費を支出する必要は有りませんでした。
戦国時代に間宮本家から分家してから間宮信繁公は徳川家康公に信頼されて大変な出世をしているのが解ります。
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実は間宮信繁公の御姫様は久能山東照宮の初代大宮司と成り従二位の位を授かった榊原照久公に嫁いでいます。この事からも幕府内で旗本ながら杉田間宮家が高い地位を得ていた事が解りますね。
因みに本家の笹下城主間宮家の安土桃山時代の当主、間宮直元公は更に出世していて本牧奉行(横浜市長)、但馬奉行(朝来市長兼生野銀山社長)、佐渡奉行(佐渡市長兼金山社長)を兼務し、その所得は実に8億6400万円にも上りました。
杦田梅林 久良岐のよし
さて、そんな間宮信繁公が力を入れたのが梅の植林で、これが実は昭和初期まで横浜の特産品で関東で最高品質の梅として江戸で流通した❝杉田梅❞と成りました。昭和初期まで梅林は存続し、江戸時代を通じて江戸からのクルージングで旅行に来る多くの観光客で賑わい、船で杉田商店街入口に有った聖天川の船着き場で観光客は下船してから杉田梅林を観光しました。明治時代には明治天皇と皇族が杉田梅林まで観梅に行幸された程でした。
その梅林は横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が保護を怠り消えましたが、実は今現在(2018年2月22日現在)見頃を迎えている小田原市曽我梅林に大規模移植され存在しています。
曽我梅林 久良岐のよし撮影
曽我梅林
曽我梅林からは富士山も綺麗に見る事が出来ます。ここのブランド化に成功した曽我十郎梅は実は杉田梅を親木として品種改良された梅ですが、今でも杉田梅の広大な梅林も残されています。

一方杉田でも杉田商店街の中に今でも当時の杉田梅の文化を守る菓子一と言う和菓子屋さんが営業しています。
今回、「ブログ復帰の第一弾の記事を何にしようかなぁ~?」と考え思い付いたのが間宮家顕彰の原点でもある杉田間宮家の殿様の紹介で、そして一緒に殿様の商店街の菓子一サンの事も書きたいなぁ~と思い付き改めて御店に写真を撮影に行って来ました・・・
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菓子一
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この御店の御店主は老舗らしく杉田の文化にも御詳しく、そして商品にも昔からの文化を大切に取り込み残す努力をされていらっしゃいます。
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もし杉田梅に興味の有る読者の方がいらっしゃったら、折角の梅の季節なので曽我梅林や杉田商店街の菓子一サン、そして杉田梅を復興されようとされている杉田の牛頭山妙法寺の松本住職様を訪ねて見て下さい。妙法寺には間宮信繁公の御廟所と、御寺の山には松本住職様が復興の試みている杉田梅が植林されています。

この他にも今回は店の写真を撮影できなかった色んな個人店が杉田商店街には有ります。
おにぎり屋サンとか沢山の居酒屋も有る。
そして少し裏道を歩けば臨済宗鎌倉五山関東十刹第七位の格式を持つ東漸寺さんや・・・
源頼朝公が開いた熊野神社こと泉蔵院さん。
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熊野神社=修験道 大霊山 泉蔵院 桐谷寺
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
※以前書いた記事⤴
杉田間宮家陣屋址の堀の名残りの道路、杉田間宮家の杉田梅が有り巨大な御廟所もある牛頭山妙法寺も近い。
牛頭山 妙法寺
2015-01-21-13-16-37
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
※以前書いた記事⤴
杉田には色んな歴史偉人と関わる場所が有って、買物を終えて町のメインストリートを少し離れると家と店の只の往復からとても有意義な散策に変化して時間をユックリと楽しむ事が出来ます。

皆さん、是非、杉田商店街周辺、散策してみませんか?きっと有意義な時間が過ごせますよ!
では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!











・・・次は間宮家の上司の玉縄北条家の御殿様の事を書こうかな。