歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:東京都

東京都羽村市で現在、チューリップ祭が開催中です!
現在は6分咲きと言う事で、週末には見頃に成ると思います。
※場所やアクセス情報は文末に掲載します。
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周辺企業が多数スポンサーに成って地域活性化を兼ねた催事なのですが、その規模がとても大きく小生は横浜から今年も見学にいくつもりです。
場所は“根搦前新田”と言う水田で、休耕地を利用して開催されています。
羽村市周辺 久良岐のよし
カーナビでも根搦前水田で検索できると思います。
とにかく広大なチューリップ畑、一見の価値が有ります。
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多摩川から阿蘇神社近くで取水し羽根用水と言う用水路を使って水が引かれているのですが、昨年の大雨による多摩川増水で写真の場所の用水が決壊し、水が引けなくなり一時は開催も危ぶまれましたが、なんとか無事に今年も開催にこぎつけたそうです。
先ずは昨年の写真を添付しますので、どんな感じか御覧下さい。DSC_1113

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 まぁ、とにかく綺麗なんです。屋台も数件出るので子供も楽しめると思います。
そして近くには羽村市郷土博物館が有ります。
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ここは古民家の展示や・・・
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江戸時代~昭和初期まで利用された江戸の玉川上水の取水口だった町で、その仕組みの解説や模型も多数展示されている場所なので、チューリップ祭と合せて見学すると多摩地区が江戸市民の生活を支えていた歴史を学ぶ事が出来ます。
 そして根搦前水田(ねがらみまえすいでん)の直ぐ近くには関東地方で唯一の阿蘇神社が在ります。
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この阿蘇神社は平将門(たいらのまさかど)公が領民の平和を祈願して、肥後国(熊本県)の阿蘇山の神様である阿蘇神社から御分霊を勧進して開いた神社です。今でも宮司様達は肥後阿蘇神社と交流が有ります。
肥後の阿蘇神社と言えば、昨年の熊本地震であれだけの災害規模の震災でありながら、亡くなった犠牲者を100にも満たない最小限にとどめ熊本県民を守った強い御利益を発揮された神社でした。
しかし熊本の阿蘇神社の神様が多くの熊本県民の生命を守る為に、御自分の祀られている阿蘇神社の社殿や国宝の楼門を身代わりしたかの様に、境内の建物は倒壊してしまいました。
この時の御利益の強さと、その建物の立派さが全国に報道された際に、熊本復興義捐金と阿蘇神社再建義捐金を持って、羽村市の武蔵阿蘇神社に訪れた人が多かったそうです。
小生も熊本地震の鎮静と被災地の復興祈願の祈祷を行って頂く為に、昨年、宮司様を尋ねました。
その際に、偶然、チューリップ祭が開催されていて、その素晴らしさに感激して「来年も訪れよう」と決めていたんです。
今年も武蔵阿蘇神社を訪れ、御祭神の建磐龍神様と阿蘇国造様、阿蘇都彦様と阿蘇都媛様の夫婦神、それと宇多天皇の忠臣だった平将門公に熊本地震被災民の生活再建祈願を御願いして来ようと思います。
小生は土曜日に訪れる心算です。
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この阿蘇神社は裏側の参道が多摩川と羽根用水に面していて、風景もとても綺麗です。
チューリップ祭の会場から用水を遡(さかのぼ)って歩いて参拝するのも良いかも知れません。
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さて、熊本地震からも1年が経ちました。
皆さん、自身への備え、忘れていませんか?御油断無き様に。
どうでしょう?
熊本の被災地の復興祈願も兼ねて、羽村市にお出掛けして広大な敷地にチューリップが咲き誇るチューリップ祭りを見学して、ついでに災難除けに強い御利益の有る阿蘇神社様を御参りして御利益に授かり、熊本の被災者の人達の生活再建祈願もしてみませんか?
一応、熊本地震の義捐金募集公式ホームぺージリンク張っておきます→
熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページhttp://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

では、最後にチューリップ祭の会場等を張り付けておきます。

はむら花と水のまつり チューリップまつりチューリップ祭り 公式 拝借画像 久良岐のよし

開設期間:4月5日(水曜日)~23日(日曜日) 各日午前9時~午後5時30分

開設場所:宮の下運動公園グランウンド臨時駐車場

※チューリップまつり開催期間中は、環境整備費として1台500円がかかります。
以下のとおり無料臨時駐車場としてご利用できます。

開設期間:4月8日(土曜日)・9日(日曜日)・15日(土曜日)・16日(日曜日) 各日午前10時~午後5時

羽村市観光協会 電話:042-555-9667
羽村市観光協会ホームページ(別のサイトに移ります)

 

 

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母の入院している国立ガン研究センター病院の目の前が築地市場なので、夜中に仕事終わって入浴してから、朝4時半に寝ずに家を出発し場外市場へ早朝散歩&朝食を食べに来た。
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公設市場は築地に限らず日本中で水曜日と日曜日は一般的に休みなので、最初から場外市場を散歩。
人もまばらだったが5時半位から御店もそれなりに開き始め、観光客も僅かに増え始めた。
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小生のお目当ては"つきじかんの"で早朝だけ特別に食べらる"目覚まし海鮮丼"だ。
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1000円で提供されていて、とてもお買得!CIMG1277
美味しかった。
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その後、築地山長の玉子焼きを購入に・・・
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(小)250円を購入。
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食べ歩きしながら波除稲荷神社へ御参りに・・・
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波除稲荷神社は小さいながらも名だたる築地の店店が氏子なだけあり儲かっ・・・活気が有り、社殿も立派。
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丁度酉の市で熊手を売っていた。
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江戸時代から観光名所だった稲荷社で、お歯黒した獅子の頭が有名な場所だ。
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徳川家綱公の時代に築地界隈の埋め立てが難行した際に海に光る稲荷様の御神体が発見されたので奉った所、波風は止み埋め立てが成功したそうで、以来、築地界隈の守神として地域の店屋や住人から崇敬を集めたそうだ。
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願掛けは御本殿と別に、この御獅子の中でも出来る。
小生は獅子頭と本殿とでちゃんと御賽銭を献じて両方御参りした。
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小さいけど良い神社。
そして変わった供養塔やスポンサーの石碑が沢山。
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さすが、吉野家一号店の在る築地らしい石碑。
それ以外にも寿司屋の多い築地の神社らしい変わった供養の石碑が沢山有った。
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海老塚(笑)。もしかして苗字が海老塚の人って、本当に海老塚の前に住んで居たんだろうか(笑)?
一しきり参拝し散歩もして満足すると一先ず病院の駐車場に戻った。
車で一時間半仮眠して母に面会。
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病院からの眺めは良く、築地市場や築地本願寺が目の前に見える。
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スカイツリーも。
母は睡眠薬が効いていて眠そうだったが元気だった。
子宮癌の手術後、腸の動きも回復しつつあるとの事で、重湯を午後からとる事が出来ると看護婦さんに説明されていた。
看護婦と言う仕事は本当に立派な仕事だと思う。
生産性の有る仕事では無いが、人の生き死にを毎日見て、色んな人間の不安と不平と不満を肌に感じ時には暴言も浴びせられる事だろう。仕事は不規則で、患者と関わってる看護婦自身が病むと思う。
精神的に健康で強い人、そして判断力と集中力の有る人じゃないと出来ない立派な仕事だ。
お医者様は技術屋だが、小生は看護婦さんの方が偉いと思う。でも自分が入院中に看護婦じゃなくて看護師さんに対応されたらあまり元気が出ないと思う(笑)。
冗談はさて置いて、看護婦さんと結婚する人は優しい旦那さんじゃないと可哀想だな、家の中で位、看護婦さんには楽させてあげたいよな。
母と1時間ちょっと一緒にいて、取りあえず元気だったので土曜日に又来ると伝えて昼食を食べる前に病院から築地市場の前を通って浜離宮恩賜公園に7年前後ぶりに行った。
途中、築地市場の壁に面白いプレートを見つけた。
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ビキニ環礁で被爆した船舶の話と・・・
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・・・なんと築地は松平定信公の屋敷地だったらしい。以前来た時は、こういったものに興味が無く気が付かなかった。ちゃんと見ないとダメだね。
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10分程歩いて浜離宮についた。
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これは完全に城だな!
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元々は将軍家の御鷹場だったのを、海辺の埋め立て拡張工事と甲府徳川家の下屋敷を造営する事を承認されて庭園の前身が出来た場所だったので、恐らくは平城として造営されたのだろうと推測した。
築山とされている土手が明らかに風化した土塁なんだな。
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更に堀の内側だけに土塁と思しき土手が在る。
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更に平地では喰い違い虎口状の土手が沢山・・・
帰り際に受付で職員さんから解説を受けたら、やはり、堀の横の土手は土塁で上には木戸やなんかが有ったそうだ。ついでに熱心に聞き入っていたら通常配布する物と別の資料も頂けたけれど公開しません(笑)。
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ただ、甲府藩下屋敷としての浜離宮は完成して間もなく明暦の大火に遭って屋敷地としての機能は失われたそうだ。
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現代では紅葉も美しい庭園。
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この庭園の草庵にはドイツ帝国のフリードリヒ皇太子やアメリカのグラント大統領が滞在した。
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記憶が確かならば以前はハワイのカラカウア国王も浜離宮に滞在されて、明治天皇陛下に日羽連合国構想を提案されたはずなのだが、浜離宮の説明にそれらしいものは見当たらなかった。
と、言うか、滞在された外国の要人の記録は一切、園内の説明看板には無かった。
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中島の御茶屋に移動
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上生菓子と御抹茶を頂いた。
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満足満足。
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続いて一しきり散策し、庭園内に在る稲生神社を御参りした。旧と成っているので御神体は遷宮されたのだろうか?不明。
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園内は江戸時代の鷹狩場、ついで鴨の狩猟場だったので、当時の施設がそのまま残っている。
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アホの犬公方、綱吉公(笑)によって生類憐みの令が発布されて鷹狩が禁止された後は下の写真のネットで捕まえる様に成った様だ。
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この法令は真に迷惑な物で、小生の住む横浜市の殿様だった間宮信繁公は鷹匠頭だったのだが、御子孫達は鷹匠の仕事からあぶれてしまったりした訳だ。
でも徳川吉宗公の時代に成って鷹匠は復活している。
久し振りの浜離宮の散歩はとても気持ちが良かった。
昼食にはまだ早かったので、まだ参詣した事の無い築地本願寺へ御参りに行って見た。
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もの凄い立派な近代建築だった!
最初の堂宇は江戸時代初期、徳川秀忠公の時代、准如上人によって大坂から移民した信徒等が動員され海を埋め立て造営された。
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度重なる火災や関東大震災の後、昭和初期に現在の重要文化財に指定されている近代建築に生まれ変わった。
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本当に綺麗だったよ。
中でこんなコーナーが有った。
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そう言えばHIDEの葬儀はここで行われたんだったね。
参拝を終えて、又、築地場外市場を散策。
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アイスクリームを購入。
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昼食で食べようと思っていたラーメン屋さんが午後は閉まってて、仕方がないから病院の喫茶店で昼食をとってから帰宅した。
母の調子も良さそうで心配が少なく成り、看病より観光に時間を使ってしまった(笑)
しかし母の御蔭で良い一日に成ったし、母も元気で良かった。

ふむ。満足な休日、そして母の容体に安心した日に成った。
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2016年6月18日
休み恒例の仕事明け、郷土史雑誌の原稿PCで書き書き徹夜…...
恒例の寝ずに朝からお出掛け。
横浜

首都高速

江戸の下町の深川(江東区平野)に移動。
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日蓮宗の妙栄山本立院を訪問。
この御寺は日本人なら高校で勉強する江戸時代の地理学者で樺太探検で有名な「間宮林蔵」公の菩提寺。
間宮家の顕彰活動の一環で御住職様に面会。
ついでと言う訳では無くて、面会の際に御朱印も頂いた。
本立院に寺号が無いのは、この寺院はそもそも近在する大寺院の浄心寺の塔頭だったからで、寺院としては新田(称:清水)秀純公により開基された。
間宮林蔵公の御廟所は御寺から徒歩5分程離れた場所に在る。
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これは、本立院や浄心寺が本来の場所から移転して来たらだ。
元々は永代橋の傍に所在したそうだ。
浄心寺が先に幕府によって現在地に移転され、残った本立院も明治政府によって現在地に移転させられた。
寺域に広くはなかった。だから寺院その物と寺域が離れた飛び地に成っている訳だ。
しかしながら、間宮林蔵先生の御廟所は大正時代に政府によって改めて史跡認定を受けている。
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まだ東京都じゃなくて東京府だった時代だね。
和尚様はとても親切で笑顔の素敵な方でした。色々と親切に御教授下さいました。
因みに、元の寺院の在った永代橋付近の位置関係を再確認。
これを見ると、元々、この本立院の在った永代橋周辺は越中島が近いのが解る。
深川周辺
実は越中島に住んでいた榊原家の殿様は、間宮林蔵先生と遠縁の親戚に当たる。
杉田間宮家から榊原家に嫁いだ姫様の子が榊原越中守その人なのだ。
そして、この地域には間宮林蔵先生の邸宅もこの周辺に在り、林蔵公の師である伊能忠敬先生や佐久間象山先生等、幕末に活躍した人々の御屋敷がこの一帯に在った。
因みに本立院を開基した人物の新田秀純公は、徳川家が自称「新田家の子孫」だったので、徳川家に気を使って新田姓を名乗らず母方の清水姓を名乗ったそうだ…
清水と言えば小田原城を本拠にした戦国大名北条家の重臣の姓だ。
間宮家も同じく北条家臣、これは偶然の一致ではないだろう。この一帯には旧北条家臣団が多く住んでいた様だ。
伊能忠敬先生の弟子の中で際立って優秀だった人物が二人いて、一人が間宮林蔵先生、もう一人は高橋景保先生。高橋家も恐らく旧北条家重臣高橋家の子孫に当たるのだろう。
この地域は凄い…
ここに住んだ偉人は松平定信公、鶴屋南北先生、滝沢馬琴先生、市川団十郎…
幕末は伊能忠敬先生、間宮林蔵先生、佐久間象山先生、伊東甲子太郎等。
もう、江戸時代後期は深川を中心に回っていたと言っても過言じゃない。

その深川の偉人達の足跡を辿(たど)る為に深川江戸資料館に移動、見学。
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ここは下町深川の江戸文化と相撲文化を伝える場所。
何故相撲かと言うと、江戸三大相撲と呼ばれた江戸時代の大相撲の一つが深川地域の富岡八幡宮で開かれていたからだ。
ここの博物館は小規模だが素晴らしい…
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人物解説は歴史入門者にも解り易い展示の仕方。御洒落だ。
何よりも素晴らしいのは…
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施設内に江戸時代の下町深川が再現されていて…
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実際に建物に入って展示物に自由に触れて良い。
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庶民の文化が良く展示されている。
これは立ち食い蕎麦の屋台で、御蕎麦屋サンはこの担げる屋台で夜店を出した。
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庶民の家や商家にも靴を脱げば上がり込んでよい。
縁側から裏庭を見たりも出来る。
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江戸の古地図も展示してあり、解説員の方は江戸時代全般の江戸の民俗や地理、深川の歴史人物の事は結構詳しく質問しても答えて頂けた。つまりボランティア解説員の方々の知識は結構詳しいレベル。
無論、歴史については小生の方が詳しくたまに質問の回答につまってらっしゃったが、解説員の方の方が江戸の町には当然詳しく、例えば上の写真の四角で囲まれたのが吉原(遊郭)で、その四角い囲いが当時は水掘りだった事等を教えて頂けた。
小生、遊郭の場所は知っていたけれど水掘りで囲まれていたとは知らなかった。
小さい博物館だったが、とても有意義な時間を過ごせた。そして結構、拝観者が多い事も意外だった。
因みに、この日は無料の落語講演も有った。

博物館を出たら御腹が空いたので食事をする事にした。
深川と言えば❝名物は深川飯❞なので、店を探したら深川江戸資料館の周辺に3軒も深川飯専門店が有った。
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小生が選んだ店は比較的入り易そうな❝深川釜匠❞と言う店。
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深川セットと言う名前だったと思う…
名物の深川飯と深川丼の両方が出てくるセットを食べた。
アサリで炊いた深川飯とアサリ汁かけた深川飯の丼ぶり深川丼が予想を上回って美味かった!
もっと生臭い香りを想像していたがとんでもない!
香りは釜飯の香ばしさが立ち、そして旨味がスンゴイんだよ!又食べに来たいと思う一品。

歴史で学ぶ寛政の改革を行った「松平定信」公の菩提寺、霊巌寺で御廟所と御本堂を御参り。
霊巌寺は深川江戸資料館のすぐ隣り。DSC_2610
松平定信公の御廟所は中には入れないが門の外から見える様に成っていて誰でも外から御参り出来る。
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定信公に御参り出来て光栄です。
この日は間宮林蔵先生と松平定信公と言う日本の為に偉大な功績を残した御二方に御参り出来て非常に充実出来た。
御参りの後、御朱印を頂いた。ただ、御朱印は御住職のいらっしゃる日にしか頂けないらしい。
ここは他にも江戸六地蔵と言われた地蔵菩薩も有り巡礼者も多い。
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銅製で珍しい。

深川の富岡八幡宮へ移動。
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ここが江戸三大相撲の一つだった史跡は残っていない。
同じく江戸三大相撲の一つだったのだが、小生が蒔田吉良家の顕彰活動で御世話に成っている世田谷八幡宮。
世田谷八幡宮には江戸時代からの土俵が現存していて、現在も奉納相撲が行われる。
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…日本人の中では身長体格ともに大柄な小生、しかし、この横綱の方が手も遥かに大きい。
この様に、史跡としての土俵等は残っていないが、歴代横綱に関する身長やなんかの記録が石碑に刻まれている。
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深川の富岡八幡宮、前に横浜市金沢区の富岡八幡宮の解説で書いたが、元々は横浜の金沢区富岡に鎌倉時代、源頼朝公が神戸の西宮から蛭子様を勧進した神社が本社だ。
横浜の富岡八幡宮は応長の大津波が発生した際に、神社の背後の村が無事だった事から波除八幡の名で有名に成った。江戸時代の深川は高潮が大敵だったので、江戸の庶民がこの逸話から、横浜より富岡八幡宮の御分霊を頂いて深川に勧進されたのが始まりだ。
もっとも東京の人は、この立派な深川の富岡八幡宮の由来を知る人はいないだろう。
この富岡八幡宮の境内社に七渡弁財天がある。
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ここは深川富岡八幡宮より以前から既に存在した神社。
その由来は社紋を見たら容易に推測出来た。
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北条三鱗に浪切紋。
これは鎌倉の銭洗い弁財天、横浜の元町にある元町弁財天と同じ社紋だ。
この社紋を使える場所は、鎌倉幕府の北条家と直接所縁の有った場所、更に言えば源頼朝公をリスペクトしていた北条時頼公の関与した可能性が高い。
銭洗い弁財天、元町弁財天は共に源頼朝公が御社を造営した神社で、後に北条時頼公が崇敬した場所だ。
恐らく、この深川の富岡八幡宮も同様の歴史が有るか、若(も)しくは、銭洗い弁財天か元町弁財天から御分霊を勧進した神社なのだろう。
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七渡辨財天の横には稲荷大明神様…
どこに行ってもいつもいらっしゃる御稲荷様(笑)。御城に行っても絶対に御参りの機会が有る(笑)。
ちゃんと今回も御参りし御挨拶して来た。
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なんか松尾芭蕉の神社も在るらしいのだが、残念ながら場所が解らなかった。

夕方は17:30から歯医者、それに合わせて横浜に戻った。
歯医者通院の理由は10年程前、梅干しの種の中身を食べたくて殻を噛み砕いた際に自分の歯の根っこが割れてしまい、歯の根に金属入れて差し歯にしてあった。
でも結局、ヒビが細菌感染して歯根周辺の骨が溶けだしたので今日抜歯した。
その際、自分の血液から骨に成る成分を作る治療を施して貰ったが保険適応外の最新治療なので治療費6万円近く。
まぁ、将来インプラントにする為の土台の骨再建だから良いね。
抜いた歯を見たら、やっぱり根っこ全部虫歯に感染してた。
抜歯した歯も10年間延命してくれて良く頑張ってくれた、ありがとうね。

歯医者がメインイベントに成りかけた一日だけれど、帰りに行きつけの肉屋さんで焼き鳥買って来て満足、でも麻酔が効いてて直ぐに食べれなかったし、片側の歯でしか噛めなかったので食べ難かった。

これで、しばらく固形物食べれない事に気が付いた。仕方ないね。

まぁ、回った件数は少ないけれど、すごく親切な和尚さんと沢山御話出来て充実した1日でした。

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東京都江東区に越中島と言う土地が在ります。
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上の写真がヒントかな?独力の成果ではないので一応ヒント代わりに御礼を…
江東図書館の司書様、個人名を出すのは控えますがありがとうございました!又、間宮家顕彰文に書き加える資料が見つかったのは、貴方の御蔭です。

さて、この越中島の土地は横浜市民には少々関係の有る土地である事を知る人は、今ではほとんどいません。
この越中島は、榊原照清と言う江戸時代初期の殿様の御屋敷が有った場所なのですが…
隅田川河口の守りを担う位置に江戸幕府より屋敷地を与えられて居住したのが❝榊原照清公で、その官途が越中の守だった事が現在の越中島の地名の由来”に成りました。
まぁ~郷土史だけ読んでも、照清公の御名前は出て来ないので郷土史家でも余り知らないでしょう。
ソースも意地悪で示さない小生(笑)。
越中島周辺
その屋敷地の所在地、元々の❝越中島❞と呼ばれた島は現在のヤマタネ株式会社の倉庫の所在地辺りです。
では何故、この越中島が横浜と所縁が深いかと言うと、それもやはり榊原照清公の御縁です。
実は、この照清公、母君が横浜の磯子区杉田出身の元北条家臣で徳川家康公の直臣にして鷹匠頭を務めた間宮家の分家杉田間宮家当主の間宮信繁公の御息女でした。
つまり、榊原照清公は横浜の間宮家の血を引いていた訳です。そして間宮信繁公の御姫様、つまり照清公の母上様が晩年住んでいた場所も、この越中島の御屋敷だったと成る訳ですね。
そして、何故、この場所が江戸幕府によって榊原越中守に当てがわれたかも、母上の家系、間宮家の家系を知っていると説明がつくわけです。
先に少し触れましたが、この越中島は江戸時代当時の江戸の大外堀りの役割を成した隅田川の河口に位置しています。
江戸時代の地図と現在の衛星写真を見比べてみましょう。
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現在では埋め立てが進み大分様子が異なりますが、下の江戸時代の地形図面の左下の四角い島が元々の越中島です。
正に江戸の海防を担う当時の❝台場❞の一つだった事が解りますね?
実は榊原照清公の母上の御実家の間宮家は❝築城技術❞❝鷹の飼育❞❝外交儀礼❞❝水軍❞に精通した武家でした。水軍に精通した家系であった事から、この位置に間宮家のノウハウを得れる照清公が住まされたと容易に推測が出来るんですね。
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現在、昔の越中島に当たる場所にはヤマタネと言う企業が在ります。そこに掛かる橋の名前が❝練兵衛(れんべえ)橋❞なのですが、幕末、ここ越中島が砲兵の練兵場として使用されていた事が橋の名前として残った訳です。
つまり、幕末には砲兵の訓練をする場所であり江戸を守る台場としても機能していた訳ですね。
そんな要衝に居住した間宮の血を引く榊原照清公ですが…
間宮一族からは合戦や鶴岡八幡宮の再建、築城で活躍した内政と武勇に秀でた玉縄北条家の付家老を務めた間宮康俊公…
武田信玄や徳川家康公の水軍大将を務めた間宮信高公、この信高公は間宮康俊公の系図上の御子息です…
北条氏照公の家老を務め、北条家の外交官として織田信長公への使者を務めたり日本100名城の一つ八王子城の縄張り(設計)をした間宮綱信公、間宮康俊公の弟…
そして、榊原照清公の祖父に当たり北条家臣を経て徳川家康公の直臣として鷹匠頭を包めた間宮信繁公、間宮康俊公のハトコ等がいらっしゃいます。杉田間宮家も又、初代間宮信次公が水軍を率いて活躍された武将です。
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ヤマタネと交差する橋は巽橋、更に近所には隅田川に掛かる永代橋があります。

照清公の榊原家そのものの血筋も凄く、御父君の叔父が徳川四天王と呼ばれた榊原康政公でした。
榊原康政公の兄上の榊原清政公が照清公の祖父に当たります。
この榊原清政公は、徳川家康公の御長男の徳川信康公に御仕えしていたのですが、その徳川信康公が織田信長公の敵である武田家に内通した容疑で切腹させられた際に、連座して責任を取らされて榊原家の惣領は後に徳川四天王と呼ばれた榊原康政公に移った訳です。
間宮の血を引く榊原照清公、その御父君で間宮信繁公の姫君を娶った人物は榊原照久公です。
以上の説明で、この越中島が横浜市とも殿様の御縁で繋がっている事は御理解頂けたでしょうか?
この江戸時代重要な場所だった越中島には現在、津波対策の水門と公園が整備されています。
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大島側水門です。
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越中島と永代通りを隔てる水掘りは現在では大島川と呼ばれているんですね。
後で説明しますが、これらの水掘りが江戸時代~昭和初期まで運河として活用されたので、この付近には昔からの商家が多く存在します。
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現在の越中島公園
満潮時には遊歩道まで海水に浸かるようですね、これは確かに水門を作らないと心配な地形です。
でも河口側は風景が綺麗な場所でしょう?
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屋形船も多く見られます。
そして、旧江戸の中心側を見ると…
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現在では高層ビルと美しい吊り橋の風景を見る事が出来ます。
川がこれだけ何本も集まる河口だったので軍事にも物流にも重要な場所だった訳です。
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現在では水運は余り利用されなく成り、隅田川にも多くの橋がかけられました。
さて、この越中島周辺は水運の拠点だったので、多くの商家の蔵屋敷が立ち並ぶ場所でした。
その名残を見る事が出来る場所が、越中島公園から徒歩5分の場所にあります。
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徳壽神社と言う名前の御稲荷様です。
実はこの神社の縁起(えんぎ=由来)その物がネタバレなので、先に史跡としての痕跡を紹介しますと…
この徳壽神社、実はですね、鰹節のメーカーとして現代でも有名な❝にんべん❞の発祥地に建てられた神社なんです。
ですから周辺には屋号や企業名のある自宅兼事務所みたいな建物だらけで蔵町の跡が残っているんでしょうね。
そして、この徳壽神社の縁起ですが…
江戸時代、稲荷大明神の御神像がこの付近で隅田川から引き上げられた際に、❝にんべん❞の境内に神社を建て祀ったのが、この徳壽神社の始まりでした。
つまり元々は、にんべん社や周辺の商家の守り神としてスタートしている訳です。
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思いがけない場所に、沢山の歴史が詰まってるでしょう?
これだから歴史訪問と神社仏閣の参拝や城址や史跡訪問は発見だらけで楽しいんですよ♪

きっと皆さんの御近所の神社にも、思いがけない歴史が詰まっていたり、歴史上の人物との繋がりが有るかも知れませんよ~?
ですから、御近所の御城跡や神社仏閣、里山を散歩して見ませんか?
…と言う、一、歴史オタクからの御誘いを以て今日の〆とさせて頂きます。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪
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東京駅の近く、今の皇居は戦国時代には江戸城と呼ばれた御城が在(あ)りました。
きっと余り歴史に興味の無い人は…
「江戸城を築城したのは徳川家康と諸大名だろ?」
「何で安土桃山時代〜江戸時代に築城された江戸城が戦国時代から有るんだよ?」
…な〜んて思うかも知れませんが、それは違いますよ。
徳川家康公や徳川秀忠公をはじめ、黒田長政公や加藤清正公達は江戸城を拡張した「改修者」です。
今では江戸城は天皇家の皇居に成っていますね。
江戸城
…元々江戸城は、太田道灌(どうかん)公と言う戦国時代初期の名軍師として名高い殿様が築城した御城です。
道灌公は相模国や武蔵国南部を支配した扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家裁(かさい=首相)でした。
その太田道灌公が築城した当時の江戸城の一部が今も皇居に残っていて、正に天皇陛下の宮殿の横に在る水堀が戦国時代から今に残る、その名も「道灌濠(どうかんぼり)」と呼ばれる遺構です。
それが下の衛星画像。
実は太田道灌公は智謀と人望が非常に高かったので、器の小さい主君の扇谷上杉定正に恐れられ、更に他の奸臣(かんしん=悪事を働く家臣)に妬(ねた)まれ、今の神奈川県伊勢原市に在った扇谷上杉家の初期の本拠地七沢城に赴いた際に、別荘の粕屋館で入浴中に暗殺されてしまいました。

そんな事もあり上杉定正は更に家臣からの人望を失います。
結果、北条家が南関東に進出してくると間宮家や上田家、足利一門で太田道灌公の盟友の吉良家の離反を誘発してしまい、後に太田道灌公の一族も悉(ことごと)く北条家の傘下に入り江戸城も北条家の持ち城に成りました。
※吉良家と太田道灌公に関係の有る記事は「ココ 」←クリック!
※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
織田信長公達が活躍した所謂(いわゆる)戦国時代に江戸城に詰めて城代を務めたのが、北条家で5本指に入る戦功と智謀を誇った北条綱高(つなたか)公でした。
その功績は立派で、北条家の主力部隊五色備えと呼ばれた5色の旗指物や軍装で色分けされた部隊の内、赤備え隊の大将を務められた名将でした。
最初の頃は今の鎌倉市大船駅近くの玉縄城の城代を務め、後に世に有名な河越合戦後、今の東京都府中市や調布市や立川市の辺りの重要拠点だった深大寺城(現在の深大寺は戦国時代御城だった)を守備しました。
その際、深大寺城に攻め寄せて来た扇谷上杉家の重臣、難波田(なんばだ)家の軍勢を迎撃し撤退に追い込み、更に追撃して完勝しています。
又、伊豆方面の守備を担当する事も多く、最後は江戸城に詰めて、江戸城で79歳と当時としては長寿に数えられる年齢で亡くなりました。
綱高公の軍学の師匠は、今の京浜急行神奈川駅一帯に在った青木城主の多目元忠公で、この元忠公は北条家の軍師格だった知将でした。
※多目元忠公と青木城の記事は「ココ 」←クリック!

綱高公は智謀だけでなく、その武勇も評価が高く、関東で最強の武将だった義兄弟の北条綱成公と並ぶ評価を受けた方でした。
綱高公は元々は実家が九州の名族高橋(たかばし)家の血筋で、実父の代に北条家二代当主の北条氏綱公に仕えて才覚を気に入られ氏綱公の婿養子に迎えられて姓を北条に改めた方でした。
KOEIさんのゲームだとこんな感じ…

ゲームの絵なのに地味でしょ?
実は実績も名前も有名なんですが何故か人気が無くて、安土桃山時代はおろか江戸時代の肖像画も小生は見た事も無いんですよ。有るのかな?

…小生、その不人気の原因は綱高公の菩提寺の江戸時代の対応に有ると考えています。
実は綱高公は御父君が元々幕臣だった関係か、当時の上方の室町幕府管領(三好家)の支配地域で信者の多かった日蓮宗を信心していました。
しかし日蓮宗が悪いのでは無く、その後の御寺の歴史の話なので先ずは我慢して読んでください。
綱高公の戒名(かいみょう=亡くなった時に貰う僧籍の名)も高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と現代に伝わっています。
だから、その菩提寺(ぼだいじ=墓所の在る寺院)は碑文谷法華寺とハッキリ伝わっています。
今の御寺の名前は「円融寺」に変わり、宗派も日蓮宗から天台宗に改宗しています。
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円融寺の山門から続く参道は、綱高公の人物を表す様に落ち着いた趣(おもむ)きが有ります…
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当時の日蓮宗には対応に二種類の御寺が有りました。
一つは、一般的な参拝客も相手にする派閥
もう一つは、不受不施と言う檀家以外の参拝客からのお布施(寄付金等)を受け取らない自分達に非常に厳しく真剣に修行のみを追求した主義の御寺でした。
実は 、その主義の為に困窮する寺院が多数あり、更に、その主義を幕府より「排他的」と見做(みな)されてしまい不受不施だった法華寺は改宗する事に成り、日蓮宗から天台宗に改め御寺の名も現在の円融寺に改められたそうです。
天台宗に改宗した理由は、元々、法華寺の前身は天台宗の御寺だったからです。
元は日源上人と言う日蓮宗の有名な和尚様が、日蓮宗の御寺として再興開基したので江戸時代まで日蓮宗だった訳です。
この御寺からは日蓮宗で特に有名な「日進上人」様も排出しています。
日進上人と言えば、神奈川県鎌倉市の妙隆寺出身の有名な和尚様で、妙隆寺は七福神の寿老人を御祀りする御寺です。
鎌倉江の島七福神御朱印の一ヵ所にも成っていますね。
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そんな御寺が「菩提寺だった」ので、北条綱高公は戒名が日蓮宗の和尚さん風な訳です。
何で「だった」と言う表現は読み進めて頂ければ解ります。

この円融寺、宗派は変わっても今でもその規模は立派で、内門には仁王門も控えています。
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立派ですよね?
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正に綱高公の菩提寺に相応しいのですが… 2015-05-02-11-21-03
残念な事に、参拝した際に現在の円融寺の御住職に綱高公の御廟所の所在を伺(うかが)った所…
「現在、この御寺に俗名が北条綱高と呼ばれた人物の御廟所は無い」
…と衝撃的な回答が返って来ました。

最初、この回答を頂いた時に「あ~観光客とか歴史好きの訪問はウザいのかな?」とか解釈しましたが…
帰って調べてみたら、日蓮宗から天台宗に改宗した際に「日進上人の法脈は完全に途絶えた」と記載が有りました。
つまり!
天台宗に改宗した際に御廟所も全て廃棄されてしまったか、どちらかに移転させられてしまい、その際に日蓮宗の高栄院殿紗前礼治部浄德日真大居士と言う戒名だった綱高公の墓標も撤去された可能性が非常に高い訳です。

綱高公の御廟が不明に成れば、当然、江戸時代にも拝む人が来なくなり、やがて其の綱高公御自身もマイナーに成ってしまいますよね…

残念ですね…
宗旨が変わって偉大な人物の御墓を撤去や移転するとは。
当時の和尚さんが歴史に無知な方だったんでしょうかね?
他の宗派では、その様な事は余り聞いた事が無かったので少し「イラっ(怒)」としました。
関東の発展に寄与して下さった人物の御廟所を無下に扱うのは、小生の信条としては歴史遺産の破壊活動としか受け止められなかったので。

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でも日源上人の追善供養はなさっているんですよね~。
これはやはり、当時の住職が歴史に無知で御廟所を移転してしまうか撤去してしまったと考えるのが自然なんでしょうか…?

そんな訳で今では名将北条綱高公の御廟所はありませんが、円融寺の雰囲気は北条綱高公の御人格を今にも伝える様な雰囲気は感じる事が出来ました。

今日はここまで!
では、又、次の記事でお会いしましょう!



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秋と言えば紅葉、紅葉と言えば風流、風流と言えば…庭園!

東京の新橋駅や築地市場から程近い汐留に立派な日本庭園があり紅葉が綺麗なんですが…
浜離宮恩賜庭園…と言う場所です。
ここは江戸時代の甲州徳川家の下屋敷を経て将軍家の別荘として活用されていた日本庭園です。
ほら!

ほらほら!
秋らしくとても風流。

周りは高層ビル群に囲まれましたが、紅葉がとてもきれいでしょう?

写真は中之島茶屋と言い、浜離宮の中の池に浮かぶ島にある茶屋です。

実はここ、明治時代にハワイ国王がアメリカ人に国を乗っ取られる寸前に明治天皇に助けを求めて日本に来航した際に宿泊していたばしょでもあるんです。

ハワイ国?ハワイはアメリカじゃないの?
…と思う人!
全然違いますよ〜!
ハワイは明治時代まで独立国で、日本の超友好国だったんですよ〜!

当時のアメリカは先ず、江戸幕府を武力で脅して開国させたのと同じ様に、軍事力でハワイ国王に脅しをかけ、アメリカ人移民を大量に受け入れさせました。
その後、外国人参政権(外国人のまま政治家に成る権利)を寄越(よこ)せ!と外圧をかけ、ハワイ国王に脅迫して認めさたとたん、ハワイ原住民の数を超えるかと言う程のアメリカ人移民を送り込みハワイ王国を乗っ取ってしまいました。

残念ながらハワイ国王の日本政府に提案した「ハワイ王女を明治天皇に嫁がせて、日本と連合王国化して下さい」と言う打開策は間に合いませんでした。
勝手に井上馨(いのうえかおる)と言うアメリカ狂いな政治家が明治天皇とハワイ王女の縁談を断ってしまって対応が後手に回ってしまったり、ハワイ国王の日本渡航を察知したアメリカ政府とアメリカ海軍がハワイに軍艦を集結さへ暴動が起きる前に反動を鎮圧してしまったんですね。

どっかで聞いた様(よう)な話ですよね?

そうです。
今の"クリミア半島のロシア軍と全く同じ事をアメリカ政府は世界中でしていた"んですよ。

アメリカは正義の盟主面していますが、特に第二次大戦以前は今のロシアや中国と変わらない事を沢山していたんですよ。
どの面下げてロシアを批判するのか訳が判りません。
ま、中国韓国やロシアより今のアメリカはまだマシなんですが。
今もアメリカや韓国や中国が日本に外国人参政権を求めるのはつまり、こう言う意図があるからなんですが…

そりゃ日本の工業力もお金も盗み取れたら楽だもんね?ハワイみたいに。

欧米列強がアジアや太平洋を侵略していたていたのは、つい80年前までの話しです。
幕末の英雄達は幕府側にせよ維新側にせよ、よく日本を守れるように上手く外国相手に交渉し国際社会で日本政府を育てて下さったと思います。

浜離宮恩賜庭園はそんな幕末の江戸幕府の歴史や明治の志士やハワイ国王の物語を回顧(かいこ=おもいだす)場所でもあります。

近くには築地市場や新橋や銀座もあります。
御飯を食べに行ったり買い物ついでに、是非足を延ばして訪れる価値のある場所です。
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