歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:東慶寺

昨日、梅を見に東慶寺に行った。
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道路に近い方は満開、谷戸地形に囲まれた奥の方は、まだまだ蕾(つぼみ)が多くて、今年は長い期間楽しめそうだ。
東慶寺の歴史については以前に書いた記事が有るので興味の有る人は以下のリンクをクリックして見て貰うと良い。

駆け込み女と駆け出し男
映画にも成っている御寺。
今回は梅の開花状況報告的な要素の記事なので、もう、黙って写真を列挙しようと思う。

山門の手前、昔総門が有った場所には石柱と説明の看板。
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この日は往年の名車も何故か境内に停まっていた。
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ダットサン。
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梅は個体によって開花状況が違う様で、今年は気温が寒かった分、日当たりによる開花状況の差が大きい様だ。
でも鎌倉市内は概ね7分~9分咲き。
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受付を済ませると、正面に真っすぐ、梅の並木が続く。
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傍らには尼寺らしい弟橘姫様と思われる石像。
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この御寺は映画にも成っているが、現在の境内には植物が多く植えられて心の癒しの寺に成っている。
特に梅が素晴らしい。
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鐘楼も梅が栄える。
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梅並木の途中、仏像が参拝客を御出迎え。
この辺りの梅は満開で見頃に近かった。
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ふむ。
仏様も癒されている様です(笑)。
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ピンクの梅、可愛いですね~。
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覚山尼様や天秀尼様の御墓へ御参りに行く途中、右手に御地蔵様・・・
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この森の右手に、北条時宗公の奥方で東慶寺を開いた覚山尼様と、豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様の御廟所が在ります。
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癒される良い御寺でしょう?
今なら水月観音様も特別公開中です。
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とても美人でした。
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皆さん、是非、この時期に東慶寺を訪問されては如何でしょうか?

2016年秋の横浜市中区の三渓園は今が今週(12月第1週~7日位までか?)が紅葉の見頃です。
過去にも解説記事を書いていますので、下に表示される“タグ”の中から“三渓園”をクリックして頂くと昔の記事を見て頂けます。

今回は2016年11月30日に撮影して来た三渓園の写真だけ列挙して置きます。
皆さん、是非、御散歩に出かけてみては如何でしょうか?
【はじめに】
横浜三渓園は、幕末~明治時代に活躍した横浜商人、原家(原財閥の当主)の私邸でした。
原財閥は現在の世界遺産である富岡製糸場、横浜銀行、ニューグランドホテル等の有名企業を運営し、生糸の輸出等を手掛けていた財閥です。
明治時代当時は明治政府唯一の失政、神仏分離令や一村一社政策と廃城令によって日本全国の神社仏閣が荒廃したり廃社や廃寺や御城の建築遺産がが風呂屋に買い取られ薪(まき)にされ、風呂釜の竃(かまど)の中で燃やされ世の中から消えてい行きました。
原財閥の当主達は、その広大な私邸、三渓園に当時、明治政府の宗教政策の失敗によって荒廃した神社仏閣を多く買取り邸内に移築させ保護しました。
近代において文化財保護の概念を理解していた稀有な一族だった訳です。
原三渓の代には住居でありながら市民に公園として自宅庭園を公開した事が三渓園の由来です。
原財閥は関東大震災で横浜市が壊滅した際に、私財を投じて市の復興を成し遂げた(横浜市の復興は国では無く原財閥の献身的自己犠牲による処が大きかった)義商の財閥でした。現代において、その様な商人は日本には皆無と言って良く、現代人にとっても手本とすべき人間像、企業像、商魂と言えます。
これは商人文化の先進地域、近江商人の理念や、日本の海運を支えていた淡路商人の高田谷嘉兵衛さんにも通づるところが有ります。

【以下建物と風景の紹介】
●大池と、旧燈明寺三重塔
燈明寺三重塔は室町時代後期1457年の建築。京都府木津川市の廃寺灯明寺から、大正時代に原財閥によって保護され1914年に三渓園に移築。
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●大池横の椿
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●旧西方寺の御門(山門)の横道の紅葉
西方寺山門は江戸時代中期1708年頃の建築。
西方寺は京都市東山区の寺院。廃仏棄釈で荒廃した際に原家が山門を引き取り移築、保護した。この道の右手に西方寺の山門と、その奥に白雲邸が在る。
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2016年11月30日現在はまだ紅葉は5分色付きと言う所、12月中旬頃まで楽しめそうだ。
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●臨春閣と紅葉
臨春閣は江戸時代初期1649年の建築。
元は紀州徳川家が和歌山県の紀ノ川の河畔に建設した別邸だった。廃藩置県による紀州藩解体による荒廃の危機から原家が買い取り三渓園に移築保護した。元は紀州徳川家の殿様が紀ノ川沿い春の景色を楽しむ場所だったが、三渓園では秋の紅葉の映(は)える場所に成っている。
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●旧天瑞寺寿塔の覆殿(おおいでん)の横の紅葉と臨春閣
天瑞寺寿塔の覆殿は安土桃山時代1591年建築。
天瑞寺は京都市北区に在る臨済宗の大寺院、大徳寺の塔頭寺院。寿塔と覆殿は豊臣秀吉が母の長寿祈願に建設奉納した建物。
明治時代1905年に移築保護。
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下は臨春閣の前から見た天瑞寺寿塔覆殿と横の紅葉。
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●月華殿の下、臨春閣横の橋と紅葉。
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●旧伏見城内御殿、月華殿の前の紅葉。
安土桃山時代後期~江戸時代の変遷期1603年に伏見城内に建築された御殿。
月華殿は徳川期の伏見城内に建築されていた建物で、将軍(徳川家康公や徳川秀忠公)が京都に滞在する際に諸大名に謁見する座敷だった。
大正時代1918年に移築保護。
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月華殿周辺の紅葉以外の広葉樹は枯れてしまったが、紅葉はこれからが見頃。
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●旧廃寺、心平寺 天授院(地蔵堂)
臨済宗南禅寺別格本山鎌倉五山の第一位、北鎌倉建長寺の塔頭寺院、旧心平寺廃寺の地蔵堂で江戸時代初期1651年の建築。
鎌倉五山の寺院は、鎌倉幕府以来、歴代住職の任命権は征夷大将軍のみだった格式を持つ。
現在では心平寺は遺址としてだけ名が残る。
大正時代1616年に移築保護。
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まだまだ、ここの紅葉は楽しめそう。
●旧二条城 聴秋閣
京都市中央区に在る、二条城の御殿の一部だった建築遺産で江戸時代初期1623年の建築。
二条城は徳川将軍家が京都での天皇家への拝謁や将軍宣下等、公式行事の際に滞在する場所として造営された城郭。現在も保存状態が良いものの、徳川幕府解体時に荒廃の危機に在った建築遺産群の内、聴秋閣を原財閥が引き取り保護した。
大正時代1922年の移築保護。
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名の通り秋に映える建物で、この時期だけ背後の丘の林道が通行可能に成る。
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●聴秋閣側の紅葉越しに見た亭榭(ていしゃ)の橋と、旧灯明寺三重塔。
亭榭の建築年代は不詳ながらも、建築様式を見るに安土桃山時代後期~江戸時代初期と思われる。
亭榭の榭(しゃ)は訓読みで榭(ウテナ)と読み、見晴らしの為の台や橋の上に建てられた東屋(あずまや)を指す。
2階建て以上の物を望楼や楼閣と中国語では呼称した。
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●蓮華院横の大銀杏(いちょう)と紅葉。
蓮華院は原三渓設計した茶室で大正時代1917の建築。
この日は幼い子と新米ママさんがイチョウの葉で戯れており、微笑ましい風景写真と成った。
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●大池横の鯖猫ちゃん。
三渓園は猫さんが沢山いて、皆人慣れしていてモフらせてくれるサービス精神旺盛な子達が多い。
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三渓園にはこの他にも沢山の建築遺産が保護されています。
小生の御勧めの場所は白川郷から移築された旧豪農の茅葺屋根の家です。
秋の写真じゃないですが、一応掲載しておきます。
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ここは中に入る事が出来て、当時の豪農達が一族で集団生活をしていた様子が解ります。
午後15時までに行くと、囲炉裏(いろり)に火が入っていて、現代では焚火をする機会の無い子供達にも、煙の良い香りを嗅がせてあげる事も出来たりします。
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この他に鎌倉の尼寺で縁切寺としても有名だった松岡山東慶寺の旧仏殿も在ります。
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東慶寺は昨年2015年公開された映画❝駆け込み女と駆け出し男❞の舞台にも成った場所ですね。
駆け込み女と駆け出し男

  ↑
以前映画と東慶寺の紹介で書いた記事です。御興味ある方は御覧下さい。




神奈川県横浜市港南区野庭町1853
【営業】定休日:月曜日・火曜日・水曜日 AM11:30~PM15:00
【業態】Cafe (ランチタイム専門)
【アクセス】バス停深田橋から徒歩5分。※駐車場5台程度。
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実はここ、千葉県に在った臼井城から室町時代頃に野庭に移住して来た殿様の御子孫の御店です。
同地は旧鎌倉郡域の横浜市港南区野庭の緑地保存地域です。
その自然に囲まれた場所にに"カフェこやぎ"と言う店が在りますこの辺りは閑静な場所で鎌倉時代の雰囲気を留める谷間に成っていますそれだけに、この店では鎌倉の浄明寺地区や佐助地区に来たような錯覚の中でゆっくりした時間を過す事が出来ます。田舎でしょ?
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この様に横浜市内ながら緑豊かな谷戸(やと)に在るカフェなので、清清しい空気の中でランチや蕨餅(わらびもち)を頂く事が出来ます蕨餅と焙茶(ほうじちゃ)setは500円、ランチsetも1000円程度と御手頃ランチや昼下がりにまったり時間を過ごすのにはうってつけ。
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お子様ランチも有るので小さいお子様がいる御夫婦は安心してこられますね~しかもここは子供が喜びそうな生物もいます。もう店名でネタバレですね(笑) ?山羊(やぎ)です。
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でも「開店当時は子ヤギだったのに大きくなっちゃった」って御店主が言ってました(笑)。
食事をしだすと、こっち向いてメェ~メェ~もの欲しそうに鳴いてくれたり、可愛さアピールしてくれましたよ店の入口は元々農家で池田梨園と言う果樹園だった時代のままなので少し判り難(にく)いかも知れません。
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このアングルだと解るかな?
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車は5台ほどお庭に停められるそうです。
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元々梨の果樹園だったそうですが、現在は梨の樹は伐採されて、代わりに市民に畑地として貸し出されていて長閑(のどか)な田舎の風景。
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本当に横浜?
・・・と自然の無い横浜市の住宅街や商業地で育った若者は思うかな。
この空気感が、旧鎌倉郡らしい風景。
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本当に鎌倉市の浄妙寺地区とか十二所(じゅうにそ)とか佐助地区に来た様な感じ冒頭で少し書きましたが、この御店主一家は平安末期~室町時代中期までの臼井城主の御子孫に当たります。武家の名門、千葉家の分家が臼居家で、このcafeこやぎ周辺には臼居さんだらけです。
臼居さん一族の根本的な祖先は桓武天皇です。
醍醐天皇の時代に、醍醐天皇の忠臣で旧鎌倉郡村岡城主で鎮守府将軍を務めた平良文(たいらのよしふみ)公と言う人物がいて、その方が千葉家の御先祖様。
※下の写真は藤沢市の村岡城址公園。地形以外には何も遺構は残らない。
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ですから平良文公の御子孫は全員が臼居さんの家の親戚だったりします。
列挙すると・・・
●房総半島の千葉一族。
●三浦半島の三浦家と芦名家・朝比奈家等の一族。
●鎌倉藤沢の御霊神社の宮司を務めていた村岡家と俣野家・長尾家・大庭家一族。
●高座郡や綾瀬の渋谷家一族。
●湯河原の土肥家一族。
●南足柄の土屋家一族。
ついでに上杉謙信や東郷平八郎元帥も遠い親戚ですね。
・・・その歴史の入口に成る場所が、cafeこやぎの直ぐ近くに在ります。
野庭神社です。
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野庭神社…戦国時代の野庭関城域に存続する神社。←以前書いた野庭神社紹介記事。
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この説明は色々と登場人物や神様の名前が間違っているので、ブログ記事の中で訂正を表記してあります。
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野庭の臼居家の初代は臼居杢右衛門(もくうえもん)胤知(たねとも)公と言う人物です。
臼居家は最初、姓を臼井と書きました。
臼井家初代の祖先は千葉家の分家で、鎌倉幕府重鎮として有名な千葉常胤(つねたね)公の祖父の千葉常兼(つねかね)公に辿(たど)り着きます。
その千葉常兼公の子が臼井姓を名乗り、更に戦国時代に野庭に移住したのが❝臼居 杢右衛門 胤知❞ 公です。
千葉の方は臼井なので、野庭に移住以降に❝臼井❞から字を改め❝臼居姓❞を名乗り出した様ですね。
戦国時代初期の臼居家が臼井から退去した当時、臼井城周辺は北条家・千葉家・里見家・古河公方家が領土争いを行う係争地でした。
九曜紋
千葉家(臼井家の本家で主君、下総国の大名)
蔦の葉紋
臼井家(臼居さんの御先祖)
三つ鱗紋
北条家(伊豆国・相模国・武蔵国を支配し、千葉家を従属支配する大大名)
二つ両引き
里見家(安房国・上総国を支配し、千葉家・北条家と敵対する大名)
臼井城と周辺それぞれの家の主要な御城の位置。
臼井城周辺 久良岐のよし 
里見家(安房国・上総国の大名)画像の中心の上に在るのが臼井城。
臼居家の祖先は元は今の千葉県北部に当たる下総国印旛郡の臼井城主でした。
臼居家の家紋は蔦の葉紋(つたのはもん)と言いますが、恐らく千葉県時代は千葉家と同じ九陽紋だった可能性が有ります。臼居杢右衛門公は戦国時代に千葉家臣団の内紛により千葉胤富(たねとみ)公の重臣の原胤貞(たねさだ)公に攻められて臼井家の家政は原胤貞公に乗っ取られてしまいました。
臼井城の実権が原氏に乗っ取られた後、cafeこやぎの御店主や周辺の臼居さん達の御祖先の臼井杢右衛門さんは臼井の地を離れた様です。
因みに、この原胤貞公は臼居杢右衛門さんの母方の祖父に当たります。
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※写真は臼井家と争った原家の支城の弥富城から見た風景。
土着の年代は弘治3年(1557年)08月15日に野庭に入郷したと鎌倉の浄土宗大本山光明寺に残る臼居家の家系図に書かれている事から、2016年現在から461年前の夏、まだ十代前半だった杢右衛門公は横浜市に移って来たと解ります。
中学生か小学校高学年位の年齢で家臣に付き添われて、野庭まで逃げて来たんですね。

この年、実は原胤貞公が臼井家の家政を代行していたのですが上総(かずさ)国の大名、里見家の家臣で最強の正木時茂公に臼井城を攻め落とされて原一族も臼居一族も臼井城から退去しました。
臼居杢右衛門公は、この年、里見家と対立する小田原の北条家に臣従して家臣に成り、野庭に土着しました。
杢右衛門公の実兄に当たり、本家の臼井久胤公は結城城主の結城晴朝公の所に逃亡しました。この時に臼井久胤公は14才だったと伝わっています。
つまり、久胤公の年齢から弟の杢右衛門さんがまだ子供だった事も解る訳です。

杢右衛門さんの奥方は鶴野姫と伝わっています。鶴野姫の父上は、今の東横線の日吉辺りの殿様だった中田加賀守と言う方でした。つまり北条家臣と成った御縁で結婚相手との御縁も出来た様ですね。
不幸の後の普通の幸せかな?
まぁ、中田加賀守は白備え隊小机衆に属しており、そこそこの有力者だったので政略結婚的な意味も有ったかも知れませんね。
しかし杢右衛門さんや中田加賀守が仕えた北条家は豊臣秀吉によって滅ぼされてしまいます。
杢右衛門さんは武士では無くなりましたが、ちゃんと領地運営を考えていた様です。
江戸時代は日本屈指の尼寺として有名だった北鎌倉の松岡御所こと松岡山東慶寺の寺領として開拓する契約を結んだようです。
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そうして武士で無くなりましたが野庭の地の開発権を得て庄屋と成りました。でも他の大名家の支配地だったら郷士とか言われた身分に相当するかも知れないですね。
東慶寺の事は昨年公開の映画❝駆込み女と駆出し男❞の舞台に成った時に紹介した記事を書いたので、興味が有る人は読んで見て下さい。
駆け込み女と駆け出し男
※女性救済の寺院、北鎌倉の東慶寺と映画「駆込み女と駆出し男」←この記事。
そんな歴史が有る事から、この周辺一帯には臼居杢右衛門公の一族が現在も多く居住し、それぞれの分家に住した土地由来の屋号が有ります。
まぁ、そんな訳で杢右衛門さんが東慶寺と関わりを持った理由は、そもそも野庭一帯の土地が鎌倉幕府や東慶寺と所縁(ゆかり)の土地だからでもあります。
実は、この背後の丘一帯は鎌倉時代~戦国時代に野庭関城と言う御城でした。
その事を最近、とあるブログ記事で紹介しました。
※仰げば尊しと野庭関城を紹介したブログ記事←ここクリック!
仰げば尊し
以前、❝仰げば尊し❞と言う今年2016年の夏の間に放送していたドラマのモデルに成った実話の舞台、野庭高校を紹介した記事でも書いたのですが…
cafeこやぎや野庭神社の在る旧野庭高校(横浜市港南区野庭町1660)の前の谷が野庭関城の外堀だったんですね。
野庭神社の位置 久良岐のよし
横浜市は教育委員会がちゃんと歴史伝承を市民に伝えたり残したりする努力をしないので、野庭関城と言う御城が在った事自体を御存知(ごぞんじ)無い人の方が多いかも知れません。
野庭関城の本丸は今の野庭中央公園辺りだと伝わっています。
野庭関城を築城した和田義盛公は征夷大将軍の源頼朝公の存命中に初代の侍所別当(防衛大臣に相当)を務めた偉い人物です。
ここは鎌倉幕府執権北条家による源頼朝公一族の暗殺事件が連続して起きた際に、和田義盛公は二代将軍頼家公の遺児の千寿丸様を旗頭にして逆賊北条時政と北条義時を誅滅しようとしました。しかし、その際に和田義盛公は一族の内で最も有力な三浦義村が裏切り同調しなかった為に中村党と呼ばれた西湘地域の御家人と供に鎌倉の材木座海岸で敗戦し滅亡しました。
その後、中村党の残党で今の小田原辺りに勢力を誇っていた土肥実平(どいさねひら)公と泉親平(いずみちかひら)公の残党が野庭関城に籠城し、北条家と戦い忠義を尽くした歴史が伝わっています。
戦国時代にも城塞として活用され、小田原城主北条家の重臣の石巻康保(いしのまきやすもり)公や名奉行として記録の残る安藤良整(あんどうりょうせい)公が城代を務めていました。
昭和期に教育委員会が保護も調査も怠ったまま団地が建設されたので野庭関城址は現存せず縄張り図も作られていません。残念ですね。
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まぁ、そんな歴史がcafeこやぎ周辺地域に在ります。
ヤギさんが生活出来る緑地保存地域なので、今でも鎌倉郡だった頃の雰囲気を味わう事が出来るし歴史も田舎の風景に何となく詰まってる訳です。
後半の歴史解説は少し余計だったかも知れませんが、cafeこやぎ、ゆっくり時間を過せる良い場所です。
お近くの方は子連れで行って見るのと安心して御茶も飲めますし、大人だけで行って美味しい御茶と葛餅を頂きながらボぉ~っと過したり読書するのも良いと思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう

北鎌倉駅の近くには浄智寺と言う大寺院が在ります。
現在では自然に囲まれた、広大な敷地に静かに佇(たたずむ)む清々しい空気感に満ちた御寺です。
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この寺院は、鎌倉時代の名宰相北条時宗公が開基となり、当時モンゴル帝国に征服された南宗から亡命して来た兀庵普寧(ごったんふねい)和尚が開山と成られた由緒有る御寺ですね。
北条時宗公と言えば、朝鮮から日本討伐を提言された元帝国から降伏する様に脅迫の使者が送られて来た際に、モンゴル(元)に降伏せず戦う事を決定して日本を守った名宰相ですね。
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鎌倉五山のと言うのは建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺の五座の御寺の事です。
大変格式の高い御寺でして…
鎌倉時代は幕府の執権北条家の当主、室町時代に成ってからは京都の足利家の本家征夷大将軍しか、この鎌倉五山の御寺の御住職様を任命する事が出来ませんでした。
つまり、この歴代の住職は、室町時代までは将軍様の御声掛かりの御寺だった訳です。
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現代では6月にも成れば、参道境内の所々に紫陽花の咲く静かで素敵な御寺です。
ところで…
この御寺の開基(御寺や神社の造営者)の北条時宗公は開山(最初の住職)に招いた兀庵普寧和尚や蘭渓道隆和尚と言った中国大陸の漢族の和尚様達を大変尊敬していらっしゃった様ですが、同時に、南宗からの亡命者を受け入れる事で元の征服により滅びる南宋文化を保護し、更に元(モンゴル軍と朝鮮軍)の動向を詳しく聞いていたのだと思います。
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そして、元(の威勢を利用した朝鮮)との対決を決めたのだと思います。
なんだか今の台湾と日本の繋がりみたいですね。
日本に来た孫文先生がいなければ今の臺灣は無かったし、臺灣の蒋介石先生がいなかったら現代の日本も無かった。
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浄智寺は素敵な場所なのですが、若い世代に余り知られておらず観光客が少ないので、本当にゆっくり時間を過ごせます。
この御寺は、緑と花に囲まれた広大なスペースが有りますが、その規模を史実を用いて表現するなら・・・
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昔は鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府鎌倉府の将軍)が役職を就任して、鎌倉に入る時や戦地から帰ってくると真っ先にこの御寺に逗留(とうりゅう)する仮御所に成る程、立派な建物が沢山建ち並んでいました。
時代が下り、鎌倉幕府滅亡時や室町時代の戦乱、その時々に支援者が滅亡する度に建造物が維持できなく成り、極め付けは明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈で御寺の領地が接収されてしまい、多くの建物を失いました。
小生は毎回批判しますが、当時の明治政府はキリスト教国を模した国家統治を目指し国家神道と言う新しい哲学に基づいた宗教統治をしたせいで、多くの延喜式内社と呼ばれる縄文文化を受け継いだ古代から続く神社や仏教関連の文化財が荒廃或いは消滅してしましました。
明治政府の唯一無二の失政は、この古来の伊勢系以外の神社弾圧と仏教弾圧により多くの文化財を消滅させた事だけだと思っています。
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ここまで説明すると、何となく御理解頂けたと思いますが、つまり…
この御寺に自然が多いのは、古来多くの堂宇(どうう)が立ち並んでいた場所の建物を、新田義貞軍よる略奪放火や明治時代の宗教弾圧による困窮から、建物が失われた訳です。
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そして、建物の在った場所に歴代の御住職がせめて文化的な心の休まる場に成る様にと、多くの御花や樹木を植えられた訳ですね。
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関東の紫陽花の名所として有名な御寺は鎌倉の長谷寺と、浄智寺と同じ北鎌倉地区の明月院が有名です。
この浄智寺は紫陽花の株は少ないのですが、境内の各御堂の散策路は本当に素敵な雰囲気を醸し出していて、一人でゆっくりしに来ても、カップルで手を繋いで歩いても、良い時間を過ごせます。
ついでに神奈川県の紫陽花の名所も三ヵ所紹介して置きます。
●【北鎌倉駅から徒歩10分の明月院ここクリック!
●【鎌倉市江ノ電長谷駅近くの長谷寺】←ここクリック!
●【横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)の永谷天満宮】←ここクリック!
この内、明月院は浄智寺や2015年公開の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台に成った東慶寺からも徒歩圏内です。
東慶寺を紹介した記事は「ココ」←クリック!
駆け込み女と駆け出し男
この浄智寺、是非、紫陽花の季節や鎌倉江の島七福神巡りで他の御寺や神社サンと一緒に散歩されてみて下さい。
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鎌倉江の島七福神は↑こんな可愛い専用の色紙を購入すれば、こちらに各寺社の御朱印を頂けます。
この七福神御朱印巡りは1日では回り切れないので鎌倉や湘南に遊びに行く良い口実にも成り、数回に分けて充実した休日を過ごせると思います。
鎌倉の各地域を散策する事が出来ますよ~。
話を浄智寺に戻します。
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本当に色んな草花樹木が植えられていて、目の保養に成ります。


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何だか鎌倉時代にタイムスリップした様な雰囲気です。
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この、植木の散策路を歩いていると、そのまま大木に囲まれた道に出ます。
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この日は御婦達のグループもいました。因みに2年前の2014年の6月。
北鎌倉は紫陽花の季節なのに、こんなにユッタリ散歩出来るんですよ。
勿論、この遊歩道も広大な浄智寺の境内の一部分で、この先には昔の武将達の矢倉(やぐら=廟所)や布袋様の祀られているエリアにもつながっています。
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この隧道(トンネル)の先が布袋様。
残念ながら、布袋様の写真は撮り忘れていました。
そして、その先が庫裏(事務所:住居スペース)に繋がる出口です。
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どうやら家康公がちょくちょく旧鎌倉郡の野庭城~玉縄城周辺に鷹狩に来られた際に、浄智寺に山門を寄進されたそうで、それ以来、葵紋の使用を許されたそうです。
徳川家康公と参謀の本多正信公は熱心に神仏を保護された殿様だったので、横浜市や鎌倉市や藤沢市には、結構、徳川家所縁の御寺が残っているんですよ~。

6月、紫陽花の季節に成ったら是非!御隣の東慶寺サンや、北鎌倉の紫陽花寺として有名な明月院と合わせて御散歩してみては如何でしょうか?

あ~!そうだ!
開山の兀庵普寧(ごったふねい/ごつあんふねい)和尚様!
実は現代の日本語のグチャ混ぜって意味で使う「ごっちゃごちゃ」とか「ごったごた」の語源に成った人物だそうです。
鎌倉時代の臨済宗は、講義を中国大陸の華語(中国語)で行っていたので、恐らく兀庵普寧和尚はまだ華語の出来ない若い僧侶の為に、華語だけでなく日本語を交えながら解り易く御講義された様です…
だから❝日本語と華語が、ごったごた混ざってた❞事から、混ざってる事が❝ごったごた/ごっちゃごちゃ❞と成った様です。
建長寺はケンチン汁の発祥地ですし、当時の鎌倉が日本文化を昇華させた強い影響力を持つ重要な場所だった事が解る話ですね♪

では、又、次のブログ記事で。

早速ですが、横浜市中区の元原財閥私邸を公開している、桜と紅葉の名所、横浜三渓園の桜の夜間ライトアップが3月26日~4月3日の期間行われています。
横浜三渓園は❝神奈川の景勝地50選❞の一つにも選ばれている風光明媚な名園です。
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横浜三渓園のアクセス等に関しては最後に公式ホームページのリンクと一緒に掲載します。
昨日2016年03月30日現在の上京は、各樹の株によって全く開花状況は異なりは3~7分咲き程度とばらつきが有りますが既に添付写真の様に十分綺麗でした。

横浜三渓園その物については以前に紹介記事も書いていますが、明治時代に成り仏教が弾圧されたり伊勢系統の神様では無い神仏習合の天神様(菅原道真公)や御稲荷さんが粗末に扱われた時代に、それらの多くの文化財建築の寺院や御社群を、当時の原財閥の当主だった原三渓サンが自宅(広大な現在の三渓園は元は原家の私邸)の敷地に引き取り保護したので、この園内には恐ろしい程貴重な日本建築遺産群、宗教遺産群が現存しています。
中でも圧巻なのが聖武天皇の勅願所だった京都灯明寺廃寺の旧本堂や三重塔、それと後醍醐天皇の皇女用堂尼様や豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務められた鎌倉の縁切り寺こと尼寺の東慶寺旧仏殿です。
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写真は昨日撮影した桜と一緒に照らし出される旧灯明寺三重塔

綺麗でしょ?
他にも豊臣秀吉や徳川家康公が居城した京都伏見の旧伏見城の茶室やら…
織田信長公の御実弟で茶人として有名でもあり、東京の有楽町の地名の由来に成った織田有楽斎が建てた茶室、紀州徳川家の紀ノ川河畔に在った別荘も三渓園に保護され現存しています。
三渓園の歴史なんかに御興味有る方は、以下のリンクから過去に書いた解説記事を御覧下さい。
三渓園の紅葉と重要文化財群…原財閥の邸宅公園。…横濱市中区
2014年12月04日 今年の三渓園の紅葉写真。
2015/04/04(土)三渓園の桜、散らずに満開です!

三渓園は桜そのものも綺麗なので、是非!横浜に来られる機会が有れば皆さん見にいらして下さい!
無論、市民も。
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週末には更に綺麗にピンクに色着いた桜が池に映りこんで、神秘的な風景になりますよ~♪
今だけ、池のほとりの茶屋で期間限定の❝桜餡の御団子❞も食べれます。
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美味しですよ♪
因(ちな)みに小生が昨日食べたのは、左から大根おろし・海苔醤油・桜餡
池の横の茶屋では❝三景椀❞と言う、❝三種類の味が楽しめる手打ち蕎麦❞も提供していて、これが又、絶品です。
又、奥の旧灯明寺本堂の方に在る❝待春軒❞と言う茶屋は、目の前が桜の林で、外の席で桜を見ながら御茶菓子と抹茶を頂く事も出来ます。
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今はまだ、葉桜も目立つけれど、きっと週末にはきれいです。
小生、又、週末に写真撮影に行きます。
皆さんも、昼遅めに行って文化財建築群を観覧し、陽が落ちるまで茶屋で御団子食べて、夕方から夜桜を楽しんでみませんか?
ただし!
毎年いるのですが、垣根で進入禁止と解る芝生にレジャーシート敷いて酒盛りするような日本の恥晒しなDQNは来るな。
てか帰れ!

以下、公式ホームページリンクと交通アクセスと連絡先
【電車】
JR根岸線、みなと未来線、横浜市営地下鉄の根岸駅・元町中華街駅からバス。
三渓園様公式拝借 アクセス電車 久良岐のよし
【車】
駐車場は有りますが、夜間ライトアップ開催中は1時間以上普通に待つので、入る前に閉園してしまう恐れが有ります。電車とバス移動が無難です。
三渓園様公式拝借 アクセス 久良岐のよし
【横浜 三渓園】←ここクリックで公式にリンク!


ではでは!皆さん、三渓園で御会いしましょう♪

北鎌倉駅から徒歩で行ける所に明月院と言う紫陽花(あじさい)の綺麗な御寺が在(あ)るのを御存知でしょうか?
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今、その明月院の紫陽花が見頃を迎えています。
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この明月院の歴史は平安時代末にまで遡(さかのぼ)れます。
御寺の起源は鎌倉幕府5代執権の北条時頼公の邸宅に仏様を祀(まつ)り、そこに8代執権の北条時宗公が南宋から亡命して来ていた中国大陸四川省出身の高僧の蘭渓道隆和尚を開山と定めて臨済宗の福源山禅興寺として再興したのが始まりです。
明月院はその禅興寺と言う御寺の塔頭(たっちゅう=会社で言ったら子会社みたいな感じ)として存在していました。
※蘭渓道隆和尚については以前記事、「常楽寺 」←ここクリックで関連記事へリンク。

しかし明月院は本院だった禅興寺よりも古く、そもそも平治の乱で源氏の源義朝公の与力として戦い討死にした首藤俊通(くどうとしみち)公の菩提寺の草庵として、その子の首藤経俊(つねとし)公が建てた明月庵が前身と言われています。
その明月庵を室町時代に明月院として立派な寺院化したのが山内上杉(やまのうちうえすぎ)憲方(のりかた)公でした。

しかし明治時代に廃仏毀釈と言う愚策が行われ、明治の初めに明月院の本院=本体であった禅興寺は廃寺に追い込まれましたが、明月院はその命脈を保つ事が出来ました。

この明月院は参道に素敵な洋館のカフェも在り、今の季節はデートや散策に最適の散歩道でもあります。
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さて明月院の庭園と紫陽花に話を戻します。 2014-06-14-15-34-54
明月院は中に入ると先ず最初に、日本庭園風の喫茶スペースがあり、その手前の植え込みでは色んな種類の紫陽花を観察出来ます。
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小ぶりな紫陽花ばかりでなく大きい花を咲かせているか株も有り、見ていて飽きません。
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入口から続く平地の散策順路を過ぎると、次の斜面を登る順路には野性的に咲く紫陽花達が出迎えてくれます。
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長谷寺の紫陽花とは又、異なった雰囲気をかもしだしており本当に野性味溢れる感じなので、長谷寺と明月院の紫陽花を見比べる為に両寺院とも回っても飽きません。
実際、小生は両方回りましたが、どちらも其々(それぞれ)素晴らしかったです。

明月院の奥には御堂があり、また紫陽花の散策路とは異なった鎌倉時代にタイムスリップした様な空間も広がっています。
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御堂の付近には矢倉(やぐら)が在り、こちらが首藤俊通公の御廟所と伝承しています。
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どうです?明月院、素敵な所でしょう?
この明月院の近くには最近の記事で紹介した女性保護の文化を持つ尼寺の「松ヵ丘御所こと東慶寺」も在ります。
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この東慶寺、記事にも書きましたが今、公開中の映画「駆け込み女と駆け出し男」の舞台でもあるので…
駆け込み女と駆け出し男
…明月院に紫陽花見物に行くのなら、是非東慶寺も参詣し、後日映画も見るとこの北鎌倉に思い入れを深め良いデートや散策に成ると思います。
「東慶寺」参詣と「駆け込み女と駆け出し男」の映画鑑賞、明月院に行くなら是非!推薦いたします。
※東慶寺の記事は「ココ 」←クリック!
※映画の公式サイトは「ココ 」←クリック!

東慶寺と明月院の途中には「鎌倉江の島七福神」の一つである「金宝山浄智寺」さんも鎮座しています。
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この鎌倉江の島七福神の御朱印専用台紙は七福神の各神社仏閣の社務所で販売しています。
可愛いデザインですよね~♪
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こちらも大変雰囲気の有る御寺ですし、布袋様の御寺なので開運の御寺でもあり縁起の良い御寺です。
鎌倉に紫陽花見物に行くのを契機に、鎌倉江の島七福神の御朱印集めを始めるのも良いかも知れませんね~♪
明月院ともう一寺、前々回の記事で紹介した別の紫陽花の名所長谷寺も七福神の内、大黒様の御寺に成っています。
※長谷寺の紫陽花の記事は「ココ 」←クリック!
この七福神御朱印、鎌倉に小旅行に行く良い口実になり風流な時間を過ごせる切っ掛けに成るのも心が爽やかに成れる清涼剤の様な役割に成ってくれました。
そして毎回、鎌倉に美味しい物を食べに行く理由にも成りました(笑)♪

さてさて、紫陽花を見に鎌倉に行ってみませんか?
もし鎌倉までは行けないと言う人も、明月院や長谷寺よりは規模は小さくなりますが…
前回の記事で紹介した横浜市営地下鉄上永谷駅から徒歩で行ける「永谷天満宮」の鎮守の森天神山でも紫陽花を見物出来ますよ~♫
※永谷天満宮の紫陽花の記事は「ココ 」←クリック!
皆さんが季節を感じ梅雨を楽しんで過ごせますように祈願いたします~♪

では、又、次の記事でお会いしましょう!




また小田原城の記事更新じゃなくてすいません(笑)。

女性の地位の事を少し書きたくて…
休日前夜?当夜なのに寝付けないので文字だけの記事を自分への子守唄代わりに書きます。

写真が無いので読者様におかれましては物足りなくお感じに成られるかも知れません。


結婚適齢期で離婚を考えている既婚女性は小生のブログ読者に果たしているのでしょうか?
小生のブログ、ばらつきは有りますが今は毎日100人位の方が見て下さっているようです。

前回、映画「駆け込み女と駆け出し男」の公開に合わせ、鎌倉東慶寺の記事を書きました。
ふと、映画の時代設定の江戸時代より昔の離婚歴や出産歴の有る女性の再婚の事を思い出したので書いてみます。

さて…
江戸時代の中頃〜明治に成るまで、離婚は女性側から申し出る事は出来なかったのですが、現代人から見て寧(むし)ろ深刻な問題は「儒教」が流行し浸透していたせいで夫婦間における女性の地位は男性より下に見られていました。

しかし、実は江戸時代に成ったばかりの頃まで女性は男性からも尊敬され対等の存在だったのを御存知でしょうか?
特に関東=坂東と呼ばれた静岡県の御殿場市以東〜の地域は武士文化圏で腐れ藤原貴族の価値観とはだいぶん異なる世界観で皆生活していました。

まず女性の地位ですが…
例えば、女性でも儒教が流行する以前、平安時代の坂東武者文化圏では、女性も一族の惣領=旦那に成る事が出来ました。
又、男性に劣る体格を武芸と智謀でカバーし実際に軍兵を率いて合戦で活躍したり、或いは一族の政治を差配(さはい=とりしきる)する女性もいました。
その様な女性は戦国時代まで、ちらほら見かけられました。
神話の時代の古代日本では寧ろ女性がリーダーに成った方が上手く行く事もしばしば有ったようです。

特に有名な代表格を挙げますと…

●神功皇后(じんぐうこうごう)…神話時代
卑弥呼にも比定されている神話の人物です。日本全国の八幡神社の神様で軍神の「応神天皇」の生母とされています。
また古代日本軍を率いて朝鮮半島の三韓を征伐したと記録されています。
神功皇后が卑弥呼と推測される理由は卑弥呼の時代背景との合致にあります。
卑弥呼の時代の古代日本王朝邪馬台国は、中国三国時代の「魏」と友好関係に有りました。
この当時の朝鮮半島は魏やその前王朝の「漢」が楽浪郡や帯方郡を今の平壌(ピョンヤン)や漢城(ソウル)の辺りに置き支配していました。朝鮮半島には統一王朝は未だ未だ存在しない時代でしたが、その帯方郡と楽浪郡の原住民が漢帝国から赴任している太守を殺害したり魏から造反した公孫度と言う武将に加担し謀反したりと魏王朝の皇帝「曹叡(そうえい)」は朝鮮半島に非常に手を焼いていました。
曹叡政権の首相を務めたのが丞相(じょうしょう)の司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)でした。
卑弥呼は魏帝曹叡に使者を送り以下の宝器を賜わります。
「黄幢(こうどう)」=魏皇帝軍の軍旗
「宝剣(長さ115cm)×2振り」
「銅鏡×100枚」
日本で一番古い銅鏡は「景初三年」の魏の年号が入った物で、実は卑弥呼の外交使節が最初に魏を訪れたのが景初二年
、景初三年には魏帝曹叡は崩御(ほうぎょ=死去)しているので使節の来訪と同時に製作開始された物だと推測出来ます。
景初元号で製造されてしまった物を作り直す余裕は無いので、そのまま日本に寄贈されたのでしょう。
その頃、司馬懿は朝鮮半島の反乱分子の皇孫氏一族を討伐しています。
つまり、卑弥呼も魏の援軍として朝鮮半島の南側から攻め込み敵勢が纏まる事を阻止した可能性は高い訳です。
もし、卑弥呼が神功皇后だとすれば神話とも整合性があり、正に女王として女性が日本を纏め、その実力を発揮した証拠にも成る訳です。

●臺与(とよ)=邪馬台国女王…古墳時代
卑弥呼の後を継いだとされる女王。
卑弥呼の死後、再び分裂しかけた邪馬台国をまとめ上げた名君主ですが事跡は良くわからない。

●巴御前(ともえごぜん)…平安時代末期
源(木曽)義仲の愛妾ながら武芸と統率力に優れた名将で、合戦に部将として参加し指揮官として実積が有るのみならず、男武将相手の一騎打ちで敵将を見事に討ち取っています。
その活躍から鎌倉幕府初代侍所別当の和田義盛に惚れられて、彼と再婚しています。

●赤井輝子…戦国時代
群馬県太田市一帯を支配した由良成繁の妻。
夫が死去すると小田原北条家が由良家の城に攻め寄せて来ました。しかも赤井輝子の息子二人が北条家に人質にされ、城を明け渡す様(よう)に降伏勧告して来たのですが、彼女は鎧兜を身に付けるや城兵を統率し北条家に大砲を打ち込み捲り降伏から和議に持ち込んだ女傑でした。
前回のブログで紹介した東慶寺の20世住職「天秀尼」様の教育係りと伝承する成田甲斐姫を教育した人物としても知られています。

●成田甲斐(なりたかい)姫…戦国時代
当時、「関東一の美人」と言われた人物。映画化された小説「のぼうの城」にも登場する姫武将の名将で、石田三成軍28000人に居住する今の埼玉県行田市に在(あ)った忍城を攻められた際、従兄弟の成田長親と共に3000人の兵士農民と籠城し戦の指揮をとり敵将を一騎打ちで討ち取り、更に指揮官としても遊軍200を率いて城内不利な味方の軍勢救援に縦横無尽に活躍した。
成田家が今の福島県に移転した際に家臣の浜田兄弟が200人の兵を率いて謀反し母親を殺害すると、自(みずか)ら武装し10人の手勢で浜田勢200人を苦戦させ成田軍本隊の到着まで時間稼ぎに成功する。しかも浜田兄弟の浜田十左衛門を追撃し斬り倒し討ち取り、浜田将監の右手を切り落とし生け捕りにする大武勲を発揮した。
後に豊臣秀吉の側室に成り、東慶寺20世住職で豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様の教育係りを務め東慶寺に同行したと伝承する。

●吉岡妙林(みょうりん)尼…戦国時代
今の大分県の大名大友家の重臣吉岡長増公の息子の吉岡鎮興(しげおき)公の妻。
居住する鶴崎城が島津家に攻撃された際に城主不在の中、僅かな城兵と農民を率いて籠城する。事前に妙林尼の周到な準備の元、鶴崎城域には様々な罠が準備されゲリラ戦術を用いて島津軍を数度に渡り撃退に成功した。
極め付けは偽降(ぎこう=嘘の降参)をして島津家諸将を信じ込ませると、島津軍が城から出るのを待って、妙林尼は島津軍を背後から奇襲し敵大将を討ち取る大功を立てた。
美人としても知られ豊臣秀吉が側室にしようとしたが、妙林尼は亡夫を大切にし僧籍に入ると二度と俗世には出て来なかったと伝承する。

他にも沢山、一族を率いて活躍した女性はいました。
この様に、昔は姫でも妻でも実力が有れば兵を指揮し家政を執行し活躍しました。

では、結婚恋愛について男性との関係や立場はどうだったかですが…
古代は多夫多妻、男女平等でヤリたい(笑)相手とやって良かったようです(笑)。
今でも南太平洋の島国では村全体で村の子として子供を育てる習慣が有りますが、それに近い家族の価値観だったんでしょうかね〜?

平安時代は恋愛は対等で、婚前交渉なんかも当たり前に有った様ですね。
しかし貴族社会の女性を口説くには男性に教養や芸術的な才能が必要で、女性を口説く和歌を詠んだり楽器を演奏して文化的な才能を見せないと顔すら見せてもらえ無かった様です。
恋愛においては女性上位だったようです。
ただ、この頃には男女共に結婚は家同士でするもので、本人同士の意図より家対家と言う認識だった様です。
ただ、儒教に毒されていた近世・近代日本との違いは、この時代の武家や庶民の家に置いて妻の地位は極めて高いものでした。
また、武家の妻は現代でイメージする妻とはだいぶん役割が異なりました。
当時は武家の家の家事労働は全て使用人が担いました。主婦は経理や他家との外交、或いは主家で使用人として勤務していました。
収入は今のように金銭給与では無く、その家に対して土地を与えらるので「旦那の稼ぎ」とか「妻の稼ぎ」では無く「家族や使用人全員で稼いでいるもの」と言う共有共存対等の意識が強かった様です。
豊臣秀吉なんかは出世してからも、よく正妻のネネさんと名古屋弁で夫婦喧嘩をしていたそうで、時代劇なんかで描かれる架空の社会みたいに女性側が男性に服従する構図は事実と異なっていた様ですね。
恋愛に関しても、安土桃山時代には外国人宣教師の記録が有りまして、恋愛は自由で当時の日本女性は奔放に振る舞えたそうです。
…つまり女性側から告白したり別れを切り出すのも自由だった訳です。
因みに16歳の女性を昔は「破瓜期」と言いましたが、それは瓜を女性器に見立てた隠語でして、つまりは、だいたい16歳に成ると恋愛したり結婚したりして女性が女に成る事を表現しているそうです。
つまり、江戸時代以前は昔から恋愛が自由だったんですね。
ただし、結婚は恋愛結婚以前に生まれてすぐに許婚(いいなずけ)が決まっていたり、仲人による紹介など家対家で決まってしまう事の方が多かったようです。
もっとも、昔は今と結婚だけでなく根本的に環境が異なりました。
江戸時代には今と違い教育を受けれる身分の人間は男女問わず少なく、自立する能力や経済力を有する女性は少なかったので結婚してから離婚したい場合は「東慶寺」の様な尼寺で修行し教養や技術を身に付ける必要が有ったのだと思います。
学問も無く、職人としての技術も働き口も無い侭では実家に帰ってもニートにしか成れないですからね…それは男女問わず今と同じ。

結婚や恋愛事情は各時代、伝わりましたでしょうか?

さてさて…
次は離婚経験の有る結婚適齢期の女性や、子連れ女性の再婚に対する各時代の考え方ですが…
昔は熟年の女性が夫と一緒に居たくない場合は出家するんですよ。
つまり世を捨てる訳です。
コレは今みたいに自由に教育を受けて就職出来る機会が無かった時代の悲劇ですね。
まぁ、今でも男だろうが女だろうが必要な社会経験や技術の無い人間に行き場は無いですし、まして若手でも無いなら尚更、再就職先も無いですよね。
離婚し自立するには先ず仕事が必要な訳です。

次に結婚適齢期の女性の子連れ再婚場合です。
先ず儒教思想に毒される江戸時代以前は、離婚経験の有る女性は人生経験が豊かと肯定的に受け止められていましたので、再婚の際は寧ろ「(仕事が)デキル女」的な扱いでした。
子連れ再婚に関しても好意的で子連れ再婚の女性は「子供を産める」し「子育てにも成れている」ので引く手数多(あまた)でした。
別に、今の夫婦1組で子供1人に至ら無い現代的な価値観で子供を産む産め無いの話ではなく当時は乳幼児の死亡率が高いし平均寿命が短かったので、子供を産み育てた実績の有る女性は再婚相手として人気が有った訳です。
勿論!現代でもし「女は子供を産んでなんぼ」とか言うオッサンが居れば、ソイツは時代錯誤甚だしいアフォでしょう。
昔と今では事情が違い、昔は子供を残さないと一族が滅亡する衰退するってのが子供の出生が多ければ多いほど良かっただけで、現代はそうではない訳ですからね。
昔の価値観を実はを元に話せば、実際、小生の家系も系図を見るに祖父母の両親、つまり三代前の幕末生ま世代の祖先の兄弟は夭逝(ようせい=早く死ぬ事)している人物が少なくありません。
だから子供を多く生んで上手く育てる母親が大切だったのだと思います。
しかし別に昔の人が皆んな短命だった訳ではなく、真田幸村の兄君の真田信幸公は93歳で幕府に出仕(しゅし=出勤)していましたし。
現代では別に結婚しても子供を作らない夫婦もいますし、幸せの形は昔とは比較出来ませんし恋愛結婚も御見合い結婚も色々自由度が高いですし、現代人は色んな形の幸せを追及出来るのが昔と違う悩みでしょうか?

江戸時代は女性から離婚を請求出来なかったり、女性が自由に学問する機会が極端に少なかったり…
男尊女卑思想の儒教が横行して以来、女性の地位は抑圧され不平等に成りましたが、明治時代に成ると福澤諭吉先生らが儒教を猛烈に批判し女性が学ぶ機会が戦国時代以来復活させられました。
しかし…
明治政府は何で儒教を禁教にし焚書坑儒しなかたったんでしょうかね~?
逆に平和的な仏教を廃仏棄釈なんかしたんでしょうか?
神道を尊重するのは当然ですが、仏教は極めて神道と関連も深く誘惑していた平和的な宗教なんですがね…。
仏教を衰退させ腐れ儒教を否定せずもてはやした結果の、本来の日本神話や価値観とかけ離れた男性優位的な勘違いオッサンがまだまだ跋扈(ばっこ)する現代社会…
とりあえず、国語の教科書から儒教「論語」を削除しないと、今回書いた諸々の事情で女性は本来の地位に戻れないんじゃ無いかと思います。
あと、女性の立場を男性に男性より下と勘違いさせる原因の一端は女性側にも有ると思います。
何にもしないで家事使用人任せ収入も男の経済力に依存したいだけの依存心強いカン違い姫気取り女がいて、家庭を切り盛りする責任感も社会で活躍する気も無く、女を武器にして発言力を持つ様な無能なヤツがいる限り、社会で活躍したい女性の足を引っ張り続けるでしょうね。
そんなヤツを減らす為には、先ずは保育園の数を十分に増やし戦国時代以前の昔の日本の様に社会全体で子育てをする仕組みを作ら無いといけないかも知れませんね…。

そうすれば、女性側に離婚歴が有ろうが子連れだろうが、寧ろ再婚しやすい環境、子連れでも活躍出来る社会に成るのかも知れないですね。

…と言う独り言でした。
おやすみなさい。
今回のは記事にカウントしないで、今晩、小田原城の記事の続きを書きます。


ブログネタ
ネタ画像 に参加中!
現在公開中の「駆け込み女と駆け出し男」と言う映画を御存知でしょうか?
主演:大泉洋さん、戸田恵梨香さんが主演の江戸時代が舞台のDV旦那から女性が逃げる為に鎌倉に実在する女性保護の尼寺「東慶寺」に逃げ込み、離婚成立までの2年間を過ごす物語です。
駆け込み女と駆け出し男
映画の公式ホームページは「駆け込み女と駆け出し男 」←ここクリック!

戸田恵梨香さんと大泉洋さん、江戸時代の格好が良くお似合いです。
駆け込み女
この戸田恵梨香さんは、東慶寺に駆け込んで生活をしている様子でしょうか?剃髪(ていはつ)していませんが尼さんの格好ですね。

駆け出し男
なんだか人情あふれるシーンのようですが、大泉洋さんはこういった役柄が大変お似合いですね。

とつぜん「駆け込み寺」とか「縁切り寺」とか「東慶寺」と言っても解らない人の方が、男女問わず若い人には多いかも知れませんね。

実は江戸時代は儒教思想が流行したせいで、幕府の法律で女性から離婚を請求する事がタブーでした。
いくら夫のDVが酷かろうが借金まみれだろうが、儒教思想と言うのは男尊女卑甚(はなはだ)だしい悪法な訳ですがそんな思想のせいで女性は結婚してしまうと恋愛に関して男性と対等の自由は許されませんでした。

そんな江戸時代の唯一の女性救済方法だったのが「駆け込み寺」または「縁切り寺」と呼ばれた幕府に公認された尼寺に逃げ込んでしまう事だったんです。
この縁切り寺、関東には二か所公認されていました。
その一つが、今の神奈川県鎌倉市北鎌倉駅近くに現在も鎮座する「東慶寺」さんなんです。
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松岡山 東慶総持禅寺
(通称:松ヶ岡御所 東慶寺、元は女性守護の縁切の尼寺)

この東慶寺へは、北鎌倉駅から徒歩でも行けますし、これから紫陽花(あじさい)が見頃の季節になりますが、その紫陽花寺として有名な「明月院」も徒歩5分位の距離なので…

 
明月院の紫陽花を見に行くのなら、東慶寺にも立ち寄ると尚、鎌倉文化と日本文化の素敵な風景を楽しめると思いますよ♪
どうせ東慶寺や明月院に行くのなら、「駆け込み女と駆け出し男」を映画館で見てから北鎌倉散策に行けば映画の登場人物と自分の歩く道や見える風景がシンクロし、思い入れを持って小旅行を楽しめると思いますよ!

話を東慶寺に戻します。
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東慶寺は開基(かいき=御寺を建てた人)が鎌倉幕府第8代執権を務めた北条貞時(さだとき)公と、その生母の堀内殿(ほりうちどの)こと覚山尼様です。
覚山尼様の実家は安達家で、鎌倉幕府の有力御家人でした。
覚山尼様の旦那様は北条時宗(ときむね)公で、元寇の際、モンゴル軍と戦い日本を守る事を決めた名宰相です。
北条時宗公がいらっしゃった御蔭で今の日本国が存続している訳ですが、北条時宗公と覚山尼様の子、貞時公の代に義務教育でも習う平頼綱(たいらのよりつな)と言う内管領(うちかんれい=北条家の執事)を務めた悪人が貞時公を騙し引き起こした事件が「霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ばれる内乱でした。
この内戦で、平頼綱はよりにもよって覚山尼様の実家の安達家を攻め滅ぼしてしまいました。
その際に、覚山尼は安達一族の子供達を匿(かくま)い育てたそうです。
その事が切っ掛けだと思いますが、覚山尼様は鎌倉幕府を取り仕切る立場だった息子の貞時公の許可を得て東慶寺を建立すると、立場の弱い人を助ける目的で様々な活動を実行されたそうです。
この活動が契機となって、DV旦那から当時の女性達を保護する「駆け込み寺」「縁切り寺」としての東慶寺の独特の女性救済文化が成立していったのだと思われます。

東慶寺は大変落ち着いた自然の美しい御寺です。
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そして明治の文豪達との関わりの深い御寺でもあります。
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看板の写真を拡大画面で御覧頂ければ解りますが、文豪達の菩提を弔う御寺でもあります。
夏目漱石先生も、こちらに座禅の修行にいらっしゃったそうです。
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それだけではありません…
この御寺は、幕府執権の奥方だった覚山尼様が開山(かいざん=最初の住職)だけあって、それ以降の歴代の尼御住職も全て格式の高い血脈の方達でした。
特に有名な人は2人います。

一人目は用堂尼(ようどうに)様…
用堂尼様は後醍醐天皇の皇女(こうじょ=天皇の娘)です。
兄の護良親王(もりながしんのう)が北朝の室町幕府将軍足利尊氏公と対立し、鎌倉に幽閉され尊氏公弟の足利直義(ただよし)に殺害されてしまった後で、菩提を弔う為(ため)に御父君の後醍醐天皇の命を受けて東慶寺に入られました。
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この階段の上に用堂尼様の御廟所があります。
先人に対し不敬に当たるのでお墓の写真撮影は今回も行いません。
お参りしたい方は、どうぞご自分で東慶寺を参詣されてみてください。

二人目は天秀尼(てんしゅうに)様…
天秀尼様は、なんと!あの豊臣秀頼公の御息女(そくじょ=むすめ)です。
伝承では大坂城での豊臣氏滅亡後、7歳の時に養育係だった成田甲斐姫に連れられて東慶寺に入り僧籍に入り、その後、元々父の豊臣秀頼公と婚約者だった徳川家康公の孫娘の千姫様が養女として天秀尼様を縁組し保護したそうです。
その後ろ盾の強力さから、東慶寺は天秀尼様が住職を務めた時代に様々な建築物が移築されて来て発展したそうです。
そして、この天秀尼様は「東慶寺らしい」「女性を守る文化」を発揮します。

下の写真は天秀尼様や用堂尼様、覚山尼様の御廟所が在る寺の奥の地区への入口
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天秀尼様の後ろ盾は凄まじく強力で、先に述べた徳川家康公の孫娘の千姫様の他に、あの春日局(かすがのつぼね)もいました。
その強力なコネクションで天秀尼様はある大名家を取り潰し女性と子供を助けました。
それが会津藩40万石の太守:加藤明成の改易事件です。
加藤明成は名将加藤嘉明(よしあきら)公の後を継いでいました。しかし明成の代に、家老の堀主水(もんど)と対立してしまいます。
堀主水は命の危険を感じたのか妻と子を鎌倉の東慶寺に逃がし匿ってもらい、自分は奈良県の仏教の聖地である高野山(こうやさん)に逃げようとします。
堀主水の妻子は無事に東慶寺に逃げ込めたものの、堀主水自身は加藤明成の追っ手に殺害されてしまいました。加藤明成は堀主水の妻子をも殺害しようと、刺客を東慶寺に送り込みます。そして追っ手は無礼にも東慶寺に対して堀主水の妻子を差出す様に要求しました…

しかし!

天秀尼様のすがすがしい事!追っ手に対し以下のタンカを切ります。
比丘尼(びくに=尼僧=天秀尼の事)大いに怒りて…
「頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然(しか)るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと !!」

現代語訳するとこんな感じ⇒
「源頼朝公(統治=鎌倉幕府)の頃から、この寺に来た(寺の身内の)者から罪人を出した事は無い!」
「それなのに理不尽な事を言うお前らみたいな連中は外道極まりない!」
「(お前らの主君の)明成(←呼び捨て)を滅ぼすか!さもなくば、この寺を廃寺にさせるか二つに一つだ!」
…みたいな内容です。
しかも、タンカ切っただけで天秀尼様の会津藩主加藤明成の暴虐に対する怒りと堀主水妻子の保護の意志は収まらず…
「更に此の儀を天樹院殿(てんじゅいんどの=千姫=天秀尼の義母で徳川家康の孫)に訴へこれによって会津四十万石は改易」
…になったそうです。
実はこの話し、近年まで創作だと思われていましたが、証明する堀主水の妻子が逃げ込んだ事が判る古文書が近年発見され事実と判り、この妻子が30年間寺で生き延びた事も解っています。

さすが!織田信長公の妹君のお市様と名将浅井長政公の血を継ぎ、更に教育係に成田甲斐姫がついていた天秀尼様らしい逸話だと思います。
なぜなら成田甲斐姫は小田原城の記事でも少し書きましたが…
甲斐姫は北条家臣時代にわずか3000の兵を率いて今の埼玉県行田市にあった忍城に籠城し、石田三成軍26000の大軍を迎撃し散々に翻弄した女傑なんですね。
しかも、その後、成田家が蒲生氏郷公に従って東北に移住した際に家臣の浜田兄弟が謀反を起こし母が殺されると、再び浜田兄弟の軍200人に僅(わず)か手勢10人で敵討ちの合戦を挑み散々に浜田兄弟を打ちのめした実話が残る訳です。
つまり…
もし本当に!東慶寺に成田甲斐姫も在住していたならば天秀尼様の一連の言動や対応は至極納得が行くんですね。
…成田甲斐姫が天秀尼様の軍師を務めて堀主水の妻子を守り通したのでしょう。
…恐らく天秀尼様ご自身も御父君豊臣秀頼公の滅亡を体験し、自分と同じ境遇の人間を見捨てれなかったのでしょう。

この様に、東慶寺は明治時代になり尼寺でなくなるまで、ずっと関東人と鎌倉文化の気概(きがい)と仏教文化の慈悲の心で女性を保護する役割を担っていた訳です。
この東慶寺の文化と歴史、覚山尼様や用堂尼様や天秀尼様の気概は神奈川県民として非常に誇りに感じるものがあります。

さて、東慶寺の存在意義はなんとなく伝わったでしょうか?
話を 東慶寺の施設そのものに戻します。
東慶寺は山門の向こう側に、豊かな緑が広がっています。
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その山門を抜けると本堂や宝物殿がありますが、その参道の正面にお釈迦様の銅像が鎮座されていて、参拝客を出迎えてくださいます。
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で、少し進むと掲示板があって季報なんかが張り出され、御寺の行事などが解るようになっています。
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東慶寺は入口にギャラリーがあり、そこで地元の若手芸術家の鎌倉彫や陶器の展示会が開催されるので、その開催期間なども季報で解ります。
参道を過ぎると左手に立派な茅葺屋根の鐘楼があります。
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風情がありますよね?
手前に誰か、この御寺所縁(ゆかり)の文豪の歌碑もありました。
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本堂は竹林と紅葉に囲まれており、初夏の新緑の風景も素敵ですが、秋も又綺麗だろうなと想像できますね。 

明治時代に廃仏毀釈の影響を受けて、この東慶寺も荒廃しかけましたが原財閥の原三渓さんが自宅の横浜三溪園に東慶寺の建物を一部引き取り保護しました。
下の写真は横浜三溪園。 
 
この三溪園に旧東慶寺本堂があり、その本堂は本来なら第3代徳川幕府将軍に成っていた駿河大納言徳川忠長公の旧邸宅の一部でした。

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本当に落ち着いた素敵な御寺です。
ここでDV旦那から逃げてきた昔の女性達が修行しながら離婚成立を待って、その間に色んな学問に励んだんでしょうね・・・
女性保護と文化情勢地としての役割も果たされた御寺な訳です。

東慶寺、素敵な御寺でしょう?
是非!映画の「駆け込み女と駆け出し男」を御覧に成って、この東慶寺を御散歩されてみては如何でしょうか?
さっきも紹介しましたが、紫陽花の季節ももうすぐです!明月院とセットで見学でいくのも良いですし、東慶寺を見てから長谷寺に紫陽花を見に行くのも良いかも知れませんよ!

では!又、次のブログ記事で!

次こそ「小田原城」の記事の続きを更新します。










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