八幡橋八幡神社
【御祭神】
●大山祇神(おおやまづみのかみ)
●素戔嗚尊(すさのおのみこと)
●誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩
●徳川家康公
【開基】欽明天皇の治世12年(西暦551年)以前
【中興】西暦1776年(安永05年) 小浜志摩守
【住所】横浜市磯子区原町10‐9
【アクセス】JR根岸駅から徒歩10分。駐車場無し。
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磯子区原町、ほぼ中区根岸の場所に八幡橋八幡神社と言う八幡宮が在ります。
余り知る人もいないのですが、ここの歴史は古く伝承では西暦551年以前から存在するそうです。
そんな昔に大和朝廷の勢力が及んでいたのかと思う人もいると思いますが、有名な所では江ノ島の弁財天様の在る島全体が欽明天皇が聖地と定めた場所で源頼朝公が弁財天様を祀った洞窟が天皇家の勅願所だった歴史が有ったりします。ついでに鎌倉の杉本寺も欽明天皇の開基だったりします。
そんな訳で、欽明天皇の時代に神奈川県は積極的に大和朝廷から重要視された場所だった様ですね。
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この八幡橋八幡神社、凄く古い神社ですが、八幡宮としての歴史はそんなに古くなくて、1766年に元々ここに在った神社に八幡宮が合祀された歴史が有ります。
八幡宮は比較的新しい神社ですから、南関東で西暦551年以前から存在する神社ならば素戔嗚尊か大山祇神が御祭神の神社だった筈です。
関東を開拓したのは大山祇神や素戔嗚尊の御神孫に当たる出雲族と言う事が関東の延喜式内社(えんぎしきないしゃ)を巡礼すると神話から良く解るのですが、延喜式内社と言うのは西暦900年代の醍醐天皇や当時の神職達から見ても「歴史が古い」と認識されていた神社の事で、延喜式内社は縄文時代や弥生時代の遺跡の中、又は傍らに神社が有り古代の文化を継承している場所が多く有ります。
そこら辺は…
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ここに幾つかの延喜式内社を紹介した記事を書いて有るので興味の有る人は読んで見て下さい。
八幡信仰が広まるのは平安時代初期からなので、この推測はまず間違いないでしょう。
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この八幡橋八幡神社は今も庶民に愛されており、しっかり夏祭りや年末年始の初詣では賑わいます。
何で、この現在は川岸の目立たない場所に神社が有るかと言うと、実は、この神社のある平地は江戸時代まで本牧半島、或いは久良岐の丘と呼ばれた丘陵でした。
江戸時代まで、今の中区関内地域より北側~南区吉野町辺りまで蒔田湾と呼ばれた海が広がっていたのですが、久良岐の丘を切り崩し、その土で蒔田湾を埋め立てて❝吉田新田❞と言う埋立地を造成したんですね。
その際に現在の川沿いの平地に成りました。
横浜の地名由来説明
上の写真が現在の関内地区で、赤い線で囲まれた地域が昔の横浜半島と呼ばれた砂州の後の地域です。
この上側が全部海でした。
そして、八幡橋八幡神社が昔在った丘の上は、古代の大和朝廷の軍馬の生産地だったんですね。
そんな訳で欽明天皇以前から大和朝廷にとっても大切な場所だった訳です。
地理的には昔から半島で、海に面していた為に、海の神様だった素戔嗚尊や、三嶋大社の御祭神の大山祇神が祀られ、更に平安時代に治水と海上交通の神様に成った八幡大菩薩が合祀されたんでしょうね。
江戸時代に小浜志摩守が地頭に成ると、東照宮から東照大権現(徳川家康公)の御分霊が勧進されました。
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名前が八幡神社に改められたり、誉田別尊=八幡大菩薩=応神天皇が筆頭に挙げられるのは天皇家の祖先神だからです。
しかし古くから祀られたのは、以下の2神でしょう。
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本殿は大きくは有りませんが、境内は住宅街の中に在って現在でも、それなりに広い境内を維持しています。
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ここの狛犬さんは躍動感が有りますね!
もう一組狛犬さんがいらっしゃるのですが…
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目が泳いでるし口が朱色で…
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・・・何か怖い(笑)。
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社殿の彫刻も立派です。昔ながら、江戸時代の雰囲気を残す神社です。
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神社入口には敬神の石碑。東郷平八郎元帥の揮毫ですね。
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ふむ。海の神様に相応しい、海軍の英雄の揮毫。
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記念碑には、この神社の縁起が書かれています。
駅からも商店街からも外れ、住宅街と交通量の多い自動車道が目の前に在り、余り目立たない場所に在る神社ですが歴史は古いんですよ。

皆さんの家の御近所にも、絶対にとんでもない歴史深い神社や御寺が在ると思います。
是非、ご近所を散歩して、神社仏閣の石碑に目をやってみて下さい!

では!又、次のブログ記事で!