歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:東郷平八郎

先日、神奈川県横須賀市の歴史有る料亭小松が火事で焼失してしまいました。
その小松は建物自体も、いつ重要文化財指定を受けてもおかしくない歴史有る場所だったのですが、その事を紹介した際に東郷平八郎元帥の事の名も挙げたので…
※前回の料亭小松の火災に関する記事は「ココ」←クリック!
ふと、神奈川県に東郷平八郎元帥の直系祖先の御城が二つ有る事を思い出したので、記事にしようと思います。

皆さんは、東京都の渋谷の地名が実は神奈川県の綾瀬市は発祥である事を御存知でしょうか?
その場所は、現在の綾瀬市の早川城址一帯です。
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最近、その一帯は北側が住宅街として開発されましたが、綾瀬市教育委員会は意識が高く早くから早川城址を城址公園として整備しつつ、城址の地形を活用し巨大な沼掘りを湿生植物園やバラ園や児童公園等を整備して歴史遺産の保護と公園としての実用性を地域社会の為に両立させる事に成功しています。
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大空堀の傾斜を利用して、巨大なスベリ台が設置されており、小さな子が沢山楽しそうに遊んでいました。
堀底にも遊具が設置されていますね!
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反対側の大空堀にも湿生園やバラ園等の植物園が堀の地形を利用して整備されています。
この綾瀬市の例は本当に素晴らしい事で、悪い具体例を挙げますと…
小生の住む横浜市の教育委員会は歴史史跡は発掘したら必ず破壊し、公園を作る際は自然を破壊し山を切り崩し無理やり公園にします。
現在の早川城址を衛星写真で見ると、こんな感じです。
早川城
北側が最初の写真の‟しろやま小道”と言う最初の写真の遊歩道が整備されている新興住宅街です。
しかし東西の地形の保存状態は素晴らしい物があり、西側駐車場等はかつて川の水を引き込んだ沼堀だった事が解る、平安時代~戦国時代初期の関東流の沼地と丘陵を利用した地形の城址だった事が良く解る地形に成っています。
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この幅80m前後の地形の中に川が流れていますが現在も田圃が広がっています。
その地形はそのまま、城址の大空堀に続いてきますので、現在も早川城址の南面の空堀遺構は一部ジュクジュクとした沼地状に成っている部分も残っています。DSC_0518
ここ↑とかね。
同時期に築城された土肥實平公~大森氏の時代の小田原城、三浦一族の岡崎氏の伊勢原市岡崎城、大庭氏の藤沢市大庭城も類似の地形を選んで築城されています。

早川城址を訪問するには、車かバスしかありません。
ただ、駐車場が豊富に整備されているので、城址見学だけでなく子連れで城址の自然を散策に遊びに行く事も出来ます。
早川城址 駐車場  久良岐のよし
城址散策の経験者は南側の駐車場、余り城を歩いた事が無い方は解説看板の多い城址北側の駐車場を利用すると良いと思います。
今回は南側から紹介して行きます。

城址は南側の方が原風景を良く留めています。
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駐車場の横には城址の切り岸や空堀を保護する竹林が有り、その横が遊歩道に成っています。
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先に紹介してしまいましたが、看板右側の花木園や湿生園、左側の遊具園は大空堀(沼掘)の跡です。
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南側遊歩道の道も、小規模な空堀と腰曲輪らしき地形に成っています。
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地形的に、この会談は恐らく公園整備の時に設置されたものでしょう。
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多分、正しい順路はこの遊歩道。
この遊歩道は腰曲輪だと思われます。一段右下にも似た地形が有ります。
腰曲輪を突き当りで屈曲し左手に曲がり、上の広場に成っている大きい曲輪に登って行きます。
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ここを登ると広場なのですが、恐らく城だった当時の順路は左の階段ではなく、右側柵沿いの歩道では無くなっている傾斜でしょうね。
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写真を撮影する為に訪れたのは3月で、少し桜の季節には早いのですが、この本丸跡と思しき地形の広場で花見をしている方々がいらっしゃいました。
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園内には桜も多く、地域の桜の名所だそうです。
この桜の木の左手に若干盛り上がってる地形が見えませんか?
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これは櫓(やぐら)の跡と推測されています。
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つまり人工的に作られた土台の遺構ですね。
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ここには現在、東郷氏発祥の地と言う石碑が有りますが、その東郷氏の事は今回の記事の後半部分で説明したいと思います。
この広場を北の方に行くと、北側の公園入口に繋がっていますが…
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…広場と北側公園入口を繋ぐ場所が、城址の遺構で空堀に繋がる土塁と土橋で、極めて良好な状態で保存されています。
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土橋の上から左↑↓右の空堀を見るとコンナ感じ。
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広場の本丸と思(おぼ)しき曲輪は土塁に囲まれていました。
その事が解る土塁遺構も、この土橋の上から見ると良く解ります。
土塁↓部分
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だいたい、平安時代~鎌倉時代の城址は地形の風化で空堀は1.5m近く埋没し、土塁も1m近く低く成っている物なので、この土塁や空堀は築城当時は一番高所から堀底まで深さ4m以上有ったはずです。
普通に鎌倉武士の大鎧や太刀や弓をフル装備すると30kg近くに成るので、当時の身長150cm前後の人達が重装備で4ⅿの略(ほぼ)垂直の土壁を登るのは不可能だったでしょうね。
広場の曲輪から、大空堀の底までは現在でも可也(かなり)の高さが有ります。
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恐らく高さで6m以上、幅で10m以上有るので…
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築城当時は土塁~堀の深さは10m近く有ったんじゃないかと思います。
因みに、早川城址公園北側入口は南側と全く異なり、綺麗で現代的に整備されています。
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変な彫刻の時計台も有るので、時間も解るヨ…
駐輪場が有るのは御近所の子供には嬉しいね。自転車で来ても路駐しないで済む。

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トイレと自動販売機も北側に有るので、城址特有のトイレが無い心配に悩まなくて済みますし(笑)、水分補給も出来ます。

さて、この早川城址一帯は、実は東京都渋谷区の地名の由来の地です。
その説明をする際に、一人叩いておかないといけない俳優がいます。
武田鉄矢です。
武田鉄矢氏は昔、TVでこんな事を言っていました…
「渋谷は、昔は渋い谷と書くくらいだから、何にも実らないデス・バレーみたいな不毛な土地だったんですよ(推測)~」
…この発言は武田鉄矢の知識が如何に乏しいか、調べもせずに適当に話しているかを現している発言なんですね。武田鉄矢の渋谷地名由来は全くのデマです。

綾瀬市教育委員会が早川城址に設置した説明看板の内容と小生の拙(つたな)い知識を合わせて解説します。

東京都渋谷区の地名の由来は、現在の神奈川県綾瀬市を拠点に一帯を治めた渋谷氏の苗字に由来しています。
現在の綾瀬市一帯は江戸時代までの地名は高座(こうざ/たかくら)郡 渋谷庄(しぶやのしょう)と言う地名で呼ばれる地域でした。
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この高座郡地域は古来延喜式内社の神社も多く早くから開けた土地で、早川城址からは縄文~古墳時代の遺跡も出土している程です。
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その渋谷庄を坂東平氏、平良文(たいらのよしふみ)公の御子孫に当たる平朝臣(たいらのあそん)重国(しげくに)公が、早川城を治め土着して苗字として地名の渋谷を名乗る様に成りました。
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この渋谷氏、横浜の戦国時代の殿様の間宮家の平安時代の一族、平治の乱の際に鎌倉の源義朝公に味方して平氏の近江国の領地を没収された近江源氏佐々木氏を早川城で保護したりしています。
後に鎌倉幕府を開く源頼朝公が、石橋山合戦で伊勢平氏(いせへいし)の平清盛に対して挙兵すると、渋谷一族は頼朝公に加勢し活躍しました。その際の恩賞として現在の東京都渋谷区中心部辺りを与えられ城を築き、その城を渋谷城と名付けたのが、現在の東京都渋谷区の地名の由来です。
ね?
武田鉄矢が如何(いか)に適当な事を言っているか御理解頂けましたでしょうか?
さて、この渋谷氏、実は薩摩国の太守島津家の重臣達の祖先でもあり、その中の一人が東郷平八郎元帥の祖先でもあります。
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渋谷家は、鎌倉武士として活躍し、頼朝公より薩摩国の祁答院(きとういん)庄、東郷(とうごう)庄・鶴田(つるた)庄・入来院(いりきいん)庄を与えられ、その地に土着した渋谷一族がそれぞれに地名を苗字として名乗る様になりました。これが東郷平八郎元帥の祖先に当たります。
つまり、早川城主渋谷家が東郷家の直接の祖先なので早川城址には…
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…東郷氏の子孫達の集まり、東郷会によって建てられた東郷氏発祥地の石碑が有ります。
渋谷氏の祖先の平良文(たいらのよしふみ)公は現在の藤沢市に在った村岡城を治めて、そこから一族が綾瀬市の早川城、藤沢市の大庭城、三浦市の衣笠城、横浜市の長尾城等に散らばて行き水田を開拓して行きました。
それ故、この一族を坂東平氏とも呼びます。この一族は渋谷氏だけでなく多くの名将を輩出しています。
大庭を開拓した鎌倉景正公
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鎌倉市の権五郎御霊神社に御祭神として祀(まつ)られ、平安時代~戦国時代の武士達から軍神として崇拝されました。
※御霊神社の記事は「ココ」←クリック!

同じく旧鎌倉郡(現在の藤沢市内)に在るのが、村岡城址公園。
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遺構は破壊しつくされ存在しませんが、現在も要害性の有る崖地に面した地形だけは見てとれます。
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そして、この村岡城の城主だった平良文公は東郷家の祖先の渋谷家の更に御先祖様に当たるので、村岡城址の石碑の揮毫(きごう=文章を毛筆で書く事)したのが、東郷平八郎元帥の甥っ子で海軍中将を務めた東郷吉太郎元帥でした。
昭和初期位までの日本人は、本当に日本の歴史と文化を大切にしていたんですよ。

鎌倉景正公の更に別流子孫が横浜市栄区の長尾城を根拠地にしていた長尾家で、その子孫が上杉謙信(長尾景虎)です。
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※長尾城の記事は「ココ」←クリック!

その鎌倉景正公と一緒に活躍したのが三浦半島の衣笠城主三浦義継公で、三浦家や和田義盛公、東北の大名の芦名家、千葉の大名正木家や、静岡の大名今川家重臣の朝比奈家や由比家、横浜市東部の武将平子家の御先祖様に当たる方です。
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※衣笠城の記事はココ←クリック!

綾瀬市も米軍基地の存在の方がクローズアップされがちな新興住宅地ですが、実は農作物豊かな土地だったので古代から開けていたんですよ。
綾瀬市民の方々も移住者が多く、御存知無い方も多いと思いますが、この土地は重要な場所だったので付近には歴史遺跡が多く、平安時代~室町時代の人から見ても重要な土地だった訳です。
そして、日本に散らばった武士の名族の発祥地でもある訳です。

皆さんの御近所にも、この綾瀬市の早川城の様に、何気なく公園や山に成っている場所に凄い歴史が有る場所が有ったり、小さい神社や御寺でも実はとんでもない歴史偉人と繋がりの有る場所が沢山残っているかも知れませんよ~♪
ですからね、皆さん、近所の城址や神社や御寺や歴史史跡や博物館をちょこっと散歩してみませんか~?

今日はここまで。

では、又、次回の記事で御会いしましょう!










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司馬遼太郎先生も"街道をゆく"シリーズの"三浦半島編"で紹介した横須賀市の料亭、小松が焼失してしまった・・・
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※[ココ]クリックでニュースにリンク

幕末の戊辰戦争~明治に起きた日本最後の内戦西南戦争の動乱と敵味方の確執を越え、明治時代に海軍将校と成って協力した薩摩国島津家臣出身の東郷平八郎元帥や徳川親藩の伊予国久松家松山藩藩士出身の秋山真之参謀、會津藩出身の柴五郎中佐、西郷ドンの御息子の西郷菊次郎台湾宜蘭庁長等、それ等の日本や周辺国をロシア帝国による白人の植民地化から守った偉人達の内、海軍サン達が愛した店だ。
海軍は明治の元勲同様に料亭小松に通った井上成美サン始め諸将が、太平洋戦争開戦や中華民国との戦争にも外務省と連携し慎重だった事でも有名だ。
2015-10-28-13-50-39

もっとも、中華民国自体は尼港事件や三光作戦で日本人を含めた現地ロシア人や中国人を無差別虐殺して自滅する訳だが、それは又、別の話し。
2014-10-04-00-44-52

※写真は臺灣台北市の中正紀記念堂
奇しくも尼港事件でロシア共産主義者とソレに荷担する朝鮮兵と中華民国兵による、ロシア帝国国民と日本人への無差別虐殺を阻止すべく援軍に向かうはずだったのが東郷平八郎元帥が嘗(かつ)て乗艦した、三笠だった。
因(ちな)みに当時の中華民国国民党は既に孫文先生の実権が軍閥の袁世凱に乗っ取られ別物に成っていた。もはや民主化や近代化を目指した孫文先生のソレとは似ても似つかない政権だった訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし

※写真は南京市に在る孫文先生の御廟所、中山陵
残念ながら三笠は流氷に阻まれ尼港に辿り着けず日本人は全て無惨にロシア共産主義者テロリストと朝鮮兵、中華民国兵に虐殺され、女は犯されてから同じく全て殺された。日本人は文字通り一人も残さず殺され、尼港は町ごと廃墟に成った歴史を知る人は現在では余りいない。
この事件は法治主義教育の大切さや右派左派問わずテロリストはテロリストと学ぶ事例でもある。
孫文先生の理念を引く継ぐ現在の台湾には、小生も多くの友人がいるが袁世凱の中華民国と違い皆さんも御存知の通り親日家が多く日本の漫画や居酒屋が多い。
つまり、人種よりも教育によって人間は残虐にも成ってしまうし逆に文化交流と同じく教育によって親しくも成れると言う事が中華民国の歴史を見ると良く解る。
そして、自国も自己主張をしないと、誤った歴史観を拡散されてしまったり相手の問題点を指摘する事も出来ないと言う日本人と日本政府の問題点も、台湾や幕末の偉人~東郷元帥や明治の元勲の歴史を通して見る事が出来る。
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因みに三笠は現在、アメリカやイギリスの支援も在り世界三大記念艦として、今回火事で消失した料亭小松の近くに在る三笠公園に展示公開されている。

話を小松や、明治~昭和初期の建築遺産の料亭の話題に戻そう・・・
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残る海軍料亭は今回燃えた小松を含め三軒、残る二軒は横浜市神奈川区旧東海道神奈川宿の田中家と横浜市金沢区の金沢園。
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その内、今回の小松と横浜市金沢区の金沢園は建物自体が重文指定するべき程に価値が有るものだった。
田中家近景

現在の田中家↑と幕末の↓田中家
東海道五十三次 神奈川宿 田中家

※「さくらや」と書いて有る店が田中家の前身の旅籠
田中家は坂本龍馬夫人お龍サンが未亡人に成ってから暫く働いていた店として有名だが、先日ブラタモリで店が紹介された際は、その歴史は紹介されなかった。

今回の小松の火事の事で明治時代の横須賀の歴史がクローズアップされたが、実は、お龍サンの御廟所が横須賀市に有る事を知る人は現代では少ない。
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お龍サンは、横須賀市大津に在る信楽寺(しんぎょうじ)で眠っている。
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お龍サンの亡夫:坂本龍馬サンの祖先は明智光秀の縁者と龍馬サンは自称していたそうだ、だから苗字も琵琶湖の畔(ほとり)に存在した明智家居城の坂本城の地名を冠しているのだろう。
その龍馬先生の妻君、龍子夫人が、明智家所縁の地名近江国の信楽(しがらき)や大津と類似した地名の地横須賀市大津で終焉を迎え現在も眠っているのは、坂本龍馬サンとの因縁を感じられずにはいられない。

右翼は戦史を敗戦の原因までも美化する阿呆が多いが、逆に糞左翼は良い歴史や尊敬すべき先人や歴史文化財までもタリバンがカシミール遺跡を破壊したのと同じ様に敵視し阻害し否定する。

・・・今回の小松の火災が愚かな共産主義者過激派や社会主義のキチガイ、反日朝鮮人過激派や反日中国人過激派による放火が原因で無いと信じたい。

建築文化財も歴史遺産も認識出来ない様な奴は、文化も文治も文民も語る権利は無いと知れ。

料亭小松は、そんな深い日本や周辺国の歴史の明暗や半ばの朝夕の美しさを省みる事の出来る場所であり、建築文化財だった。

再建を祈る。
・・・と、同時に横浜市金沢区の金沢園の重要文化財指定を切に願う。
金沢園も美しい内装の昭和建築遺産だ。
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