歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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前回のブログ⤵
コレ⤴で「峰の灸」こと古典落語「強情灸」の舞台が横浜市磯子区峰の「護念寺」である事と、その護念寺が城跡で風景の美しい古道が有る事等を紹介しましたが・・・

今日は、その続きです。

前回の記事で「護念寺」は元々は同じ磯子区峰と港南区港南台の中間にある「阿弥陀寺」の奥院だった事に触れました。
阿弥陀寺の正式な名前は・・・
安養山 浄土院 阿弥陀寺です。
・・・通称:峰の阿弥陀寺。
峰の地名に峯の灸:護念寺の本院だった頃の名残が有りますね。

ですから阿弥陀寺も歴史が有り御寺の雰囲気が、とても素敵です。
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古道だった昔の道からの参道はとても雰囲気が有ります。
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安養山 浄土院 峯の阿弥陀寺
※浄土宗総本山知恩院の直属末寺
夕方に近い頃に訪れると、境内の灯篭に火が点(とも)り、とても石畳も神秘的な雰囲気になります。
この右側には新編武蔵風土記稿にも記載が有る阿弥陀寺の境内本堂とは別に観音堂が在(あ)ります。
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そちらの石畳も良い具合に苔むして良い雰囲気です。
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観世音菩薩様が
誰でもいつでも御参りに来るのを待って下さっています。
観世音菩薩様の御堂から御本堂への歩道も灯篭が良い雰囲気を醸(かも)し出してくれています。
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新編武蔵風土記稿によると別に弁財天様を御祀りする弁天社も江戸時代には存在していましした。
ちょっと写真を撮り忘れてしまいましたが、後で紹介する元々は阿弥陀寺の境内社だった白山神社側の御寺の出入口の横に現在も石祠に姿を変えて弁天様は今も存在しています。
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因(ちな)みに阿弥陀寺の山門から古道へのアプローチは紅葉が奇麗です。
阿弥陀寺は江戸時代に苅部家によって開かれたと伝わりますが、実際はもっと早く恐らく最初は山の下に在り鎌倉時代には存在した筈(はず)です。
再興開基が江戸時代初期の苅部家の頃なのでしょう。
新編武蔵風土記稿の阿弥陀寺その物の記載でも以下の記述が有ります・・・

①本尊坐像にて長一尺餘、恵心の作、
當寺往古は村内小名道場と言う所にあり
本尊は其辺の田間より出現せるよし、故に鍬型の本尊とも呼べり、
鎌倉戦争の時火災に罹(かか)りてより以来、今の地に移れりと云(言)う、又里人の話に、鎌倉戦争死者の屍を埋め菩提の爲(ため)此(これ)に移せりと云、
⑤中興開山覺夢(覚夢)、寛永十八年(1641年)六月二十九日寂す、又第七世の僧淸譽(清誉)も寺に功勞(功労)あるを以て、是(これ)を中興と稱(称)すと云、
⑥地蔵堂
當寺の西の方一丁許隔てあり、もとより寺中のものなりと云、堂は二間に三間西向、本尊長二尺許の立像なり、此所の字を堂山と云、
これを読み解いて行きましょう。

①本尊坐像にて長一尺餘
現在も変わず阿弥陀様の座像です。
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②~③御本尊が出土した道場の近くの水田

境内地の道場の場所、実は現在も御近所に地名の名残が有ります。
前の護念寺の記事でも紹介しましたが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
昔、阿弥陀寺の奥院だった護念寺に伸びる赤い線の右端、洋光台6丁目に“坂下”と言うバス停が有ります。この坂下はどこの坂の下で地名に残ったかと言うと、正に、このバス停の有る場所の坂道が道場坂と呼ばれ、そこに阿弥陀寺の前身が在りました。次の④で説明しますが旧境内が道場坂に在った時代に戦災で御寺が焼失しているので、その時に一回慌てて御寺の池か周りの田圃とかに御本尊を投げ入れて隠したのが、田圃に成ってから暫くして発見されたと推測できます。
火災が発生した時に仏像を池や近所の田圃に避難させたと言う話は良く聞く話ですしね。

④鎌倉の戦災で移転
古い記録が残っていないのですが御本尊の解説で話した通り、道場坂の辺りが旧境内で600年前位に戦災に遭い周辺で起きた戦闘で亡くなった人を弔う為に山上の現在地に移り戦没者の菩提を弔った事が伝わっています。ですから遅くとも1400年代の室町時代に御寺が既に開かれていた根拠に成ります。
また、この話から巻き込まれた戦争はいくつかに絞り込めます・・・

上杉禅秀の乱
鎌倉府公方の足利持氏公vs犬懸上杉禅秀公の鎌倉府内の権力闘争と戦闘
【応永二十二~二十三年(1415~1416年)】

永享の乱
鎌倉府公方の足利持氏公vs京都の公方“くじ引き将軍”こと征夷大将軍の足利義教の戦い
【永享十年~十一年(1438~1439年)】

享徳の乱
鎌倉府公方の足利成氏公vs京都の管領細川勝元と手下の関東管領山内上杉憲実の戦い
【享徳三年(1455年)~文明十四年(1483年)】

この内、阿弥陀寺の旧境内地が戦火で焼失したのは恐らく上杉禅秀の乱でしょう。
上杉禅秀公の犬懸上杉家の本拠地は今の房総半島で、彼を支持する武将も大半が房総と北関東の武将でした。この地域は当時、上杉禅秀公が敵対した足利持氏公の腹臣だった宅間上杉憲直公の本拠地が近くの横浜市港南区上永谷(旧鎌倉郡)に伊予殿根の城館が在りました。宅間上杉家は今の横浜市緑区三保町の榎下城も重要な拠点としており、鎌倉への東側の経路の防衛網の最終ラインが当時の円海山と朝比奈切通しでした。
この合戦は鎌倉を占領され更に藤沢の扇谷上杉家本拠地だった大庭城まで戦闘が起きている事から、鎌倉の東側、侵入経路に当たる円海山~十二所大平山の古街道と朝比奈切通に繋がる金沢道が集合する地域なので、ここを守る宅間上杉家vs房総&北関東の将兵との間で戦闘が起きていて当たり前なんです。寺伝は恐らく上杉禅秀の乱を指すと推測出来ます。

御寺の開基年代は護念寺の解説でもしたのと同じ解説のリピートに成りますが・・・

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。

宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜とす。


これ、凄い事が書いて有るんですよ・・・
「護念寺の在る円海山は城だよ!」
「そんで往来が不便だったから星谷サンが近道を色々と切り開いてあげたらしいよ!」
・・・ついでに新編武蔵風土記稿の記者のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨ですね。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
なんで星谷サンが足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)としているんでしょう?その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しています。
これは多分、記者か編集かが他の元号と読み間違え更にそのまま風土記に編集された以外にないでしょう・・・
永楽帝の在位期間は1402年~1424年で永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。
では宝暦の草書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択してみましょう!
康暦二年(1390年)→1411年以前✖
宝徳二年(1450年)→1411年以後〇
・・・多分、宝徳を読み間違えたんでしょう。では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?

速攻で見ぃ~つけた(笑)♪
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるんですぅ~(笑)!
ネットじゃなくてもちゃんと書体の辞書って販売してるのにねぇ~。
この調査をした記者の間違った取材の結果を風土記に編集する際に峰村の説明に反映して書いたから、もの凄い誤解が産まれたんでしょ。

更に現代人にも責任が有ります。

この手の江戸時代の役人や著者が誤記したり誤解した武士の名前や地名を一々整合性を確認するのを面倒臭がり、菩提寺や御子孫に取材確認せずに間違えたままコピペして論文書いたり出版してる現代の学者や編集者も沢山います。

・・・誰とは言わないけど。

永錢が永楽銭て現代人の戦国ファンですら誰でも知ってるのに。
よって!

護念寺と本院の阿弥陀寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

⑤中興開山覺夢(覚夢)が寛永十八年(1641年)六月二十九日に入寂(開基の時期)から再興時期を見る。
この中興開山の方の亡くなった年代から、宝徳二年(1450年)の星谷氏による復興から戦国時代の1500年代に突入すると再び荒廃していた事が判ります。
実は里見家と正木家が大永六年(1526年)に鶴岡八幡宮合戦を起こして房総半島から海賊集団を連れて上陸し杉田辺り~鎌倉の玉縄城下や鶴岡八幡宮と鎌倉市街で略奪放火をしまくり、鎌倉の市街地が焦土化してしまった事が快元僧都の手記から判明しています。この戦いでは阿弥陀寺を江戸時代に復興した苅部家の領主だった間宮一族が走水で防衛戦を展開し里見の海賊を撃破し敵軍船を大量に鹵獲(ろかく=奪取)した記録と、その際に杉田間宮家の間宮常信公が討死した事も伝わっています。
更に天正十八年(1590年)に起きた豊臣秀吉公の小田原攻めの際も、既に北条家と同盟していた里見家は北条家を裏切って、再度海賊集団を編成して三浦半島東岸~東京湾で略奪放火を行いました。もっとも、これには抵抗しない庶民を攻撃する意図の無かった秀吉公から激怒された様です。
実際、間宮家の本領の笹下城下の真言宗東樹院に対して秀吉公による安全保証の為の“東樹院に対する乱暴狼藉の禁止”の命令が布告されていたりします。
戦国~江戸時代の「杉田」の字体。 久良岐のよし
これ⤴
東樹院の昔の御住職が過去帳とか火事で焼ける前に念の為に一切合切、今でいうバックアップデータ(写し書き)して置いてくれたので、今の過去帳見せて貰ったらわざわざ公文書館に読みに行かなくても済んだヤツ(笑)。
素晴らしい危機管理能力!
それに反して里見と来たら・・・
「北条にやり返せるぜ!」
「ヒャッハ~!」
・・・て略奪放火しまくったら、そりゃ秀吉公が安全を担保してあげた地域にアホの里見家は略奪に行ったんだからブチ切れられますね。そんな訳で、恐らく阿弥陀寺も奥院の御念寺も里見のせいで荒廃し、それを佐渡金山奉行&但馬代官(生野銀山奉行)&本牧奉行を兼任し実高5万石に成っていた旗本の間宮家に家臣化していた苅部さん達によって御寺が再興されたのが覺夢和尚の時代の江戸時代初期に成ったんでしょう。
因みに秀吉公は信長公の跡を乗っ取っただけあって、信長公が戦闘員に成った一向宗門徒を伊勢長島や比叡山で撫斬り(なでぎり=皆殺し)にしたのと同じ様に、北条家の善政に恩義を感じて反豊臣の為に武装蜂起して小田原城に自主的に立て籠りに参加した3万人の半農半士の武装農民は全員皆殺しにしています。なので相模国~武蔵国の農村は、豊臣の小田原征伐の際にだいぶ働き盛りの人口が粛清されて復興が遅れたのだと思いますよ。
徳川幕府の治世が安定して来て平和な時代が訪れた事で漸(ようや)く阿弥陀寺を再々復興できたのでしょうね。
江戸時代の5代征夷大将軍で犬公方と揶揄された綱吉公の頃に成ると、阿弥陀寺は更に浄土宗総本山知恩院の第四十七世御門跡を務めた了鑑大僧正の出生地となります。
了鑑大僧正の話はもう少し後で話すとして、先に風土記の記載の解説に戻りましょう。
⑥地蔵堂の場所
江戸時代に記載されている地蔵堂が寺の西方、約1丁(109m)離れた所に在ると書いて有りますが、今は西側100mに地蔵堂や旧跡地は有りません。
実は地蔵堂の史跡は横浜横須賀道路建設で地形ごと消滅破壊されたんですね。
阿弥陀寺周辺 久良岐のよし
※クリックして画面拡大して下さい。
画面中央やや右の緑色の屋根が阿弥陀寺の本堂です。この左109mは何もありませんが、最初公共の水道配水施設の辺りかなと思ったのですが、御住職の話では横浜横須賀道路の場所が昔の地番の小名で“堂畑”と呼ばれ、そこに地蔵堂があったそうです。実際は50m位しか離れてませんね。
ただ、実際に歩いて見ると実際に感覚的には100m以上有ります。
なのでもし新編武蔵風土記稿のこの阿弥陀寺の取材をした記者が直線距離で書いているつもりなら少し距離感音痴だったのかも知れませんね(笑)。
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阿弥陀寺は
名前が南無阿弥陀仏の阿弥陀寺だけあって法然上人の開いた「浄土宗」に属す御寺です。
つまり、総本山が京都市東山区の知恩院、大本山には京都市左京区百万遍の智恩寺が在ります。
何と磯子区の鄙(ひな)びた山寺の阿弥陀寺、実は総本山の京都の知恩院の直接末寺と寺格がとても高いんです。
知恩院の直接末寺なのには理由が有ります・・・
実は2015年4月に御住職と面会の機会を頂き御朱印を頂き、この阿弥陀寺について御伺いした際に御教授頂いたのですが・・・
何と!

この阿弥陀寺からは浄土宗総本山知恩院の第46世住職を務めた了艦大僧正を排出しているそうです!
了鑑大僧正の御実家は今も阿弥陀寺の近くにも存続しています。
徳川家の宗旨は浄土宗なので当然ながら大きな人脈を持つ事と成りますね。
奥院だった御念寺を護念寺として再興した円海山の地名の由来と成った淸蓮社浄譽圓海和尚は薩摩藩主島津綱豊公の奥方の竹姫から仏像を寄進される等の支援を受けた様です。
竹姫はフルネームが清閑寺竹姫で、京都の貴族清閑寺家の出身で実父は権大納言を務めた程の家系で、後に徳川幕府五代将軍徳川綱吉公の養女に成っています。
徳川家の宗旨は浄土宗なので、竹姫が子供の頃にもしかしたら了鑑大僧正と面識を持ったかも知れませんね。

了鑑大僧正は阿弥陀寺の近所で生まれ、阿弥陀寺からスタートした人物です。
御近所の野村家が御実家と伝わります。
ただ、姓がずっと野村姓かは解りません。時代により養子縁組したり男系が耐え婿に譲る事もありますから。
或いは野村姓が元々は“星谷”だったかも知れませんし。
蒔田吉良家臣の森家の御子孫にも間宮家臣の内田対馬守の御子孫の家から養子が入っていたりします。この様な事はよく有りましたし、古文書に書き残していなかったり古文書が有ったけど長い歴史で捨てられたり火災で消える事も有ります。
だから現代でも歩いてピンポンしまくり確認して回る事が大切なんですね。
阿弥陀寺から知恩院四十七世と成った了鑑大僧正は慶安四年(1651年)~享保十二年(1727年)の人です。
島津家藩主の奥方で徳川綱吉公養女の清閑院竹姫は宝永二年(1705年)~安永元年(1772年)を生きた人。
護念寺中興の元光明寺の僧、淸蓮社浄譽圓海和尚は宝暦年間(1751~1764年)に亡くなった人です。
竹姫が子供の頃にもしかしたら了鑑大僧正と面識を持ったかも知れませんね。
だとすれば、竹姫は了鑑大僧正が亡くなった後、自分も老齢に成った頃にふと了鑑大僧正の故地を偲(しの)んで夫の島津綱豊公に阿弥陀寺と奥院の御念寺の支援をお願いしたのかも知れませんね~。

了鑑大僧正が住職を務めた知恩院の門前近くは日本神話に登場する牛頭天王=素戔嗚尊(すさのおうのみこと)の降臨神話の舞台でもあったりします。
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八坂神社(旧称:祇園社)
知恩院一帯が元々は牛頭天王降臨の神話の聖地だから、牛頭天王を祀る祇園社(ぎおんしゃ)が開かれ、更に門前町が京都で一番有名な“祇園”の門前町に発展した訳ですね。
そして明治時代の神仏分離令で神仏習合だった祇園社は八坂神社と改名し、牛頭天王と言う仏教の渡来神の漢字の名前から日本神話の素戔嗚尊の名前に御祭神の呼称を改めたので、現在は八坂神社が祇園の街を見渡す場所に存在する訳です。
因みに浄土宗の総本山知恩院ではなく、大本山の智恩寺の方ですが、そちらは徳川家の名将である鳥居元忠公の菩提寺だったりします。

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長徳山 功徳院 百萬遍 知恩寺
知恩寺の方は鎌倉時代末期~室町時代初期の変遷期、後醍醐天皇の治世に京都で疫病が流行った時に、後醍醐天皇の勅願(ちょくがん=直々の願懸け命令)で僧侶が疫病退散の御経を読み上げた所、その疫病が治まったので…
後醍醐天皇が僧侶に「いったい何回御経読んだら効果あったの?」
…と言う主旨の質問をされた際に、僧侶が・・・
「百万遍は読みましたよ」
・・・と言う様な事を答えたので、それ以降、百万遍知恩寺と呼ばれる様に成ったそうです。
小生は個人的に、この知恩寺がとても好きで、よく週末に近くの京阪電車出町柳駅から歩いて来る途中の商店街で「太巻き寿司」を買って、お散歩がてら知恩寺に行き、境内の御堂の階段に腰かけて御弁当代わりに食べてから、御堂に上がらせて貰って御参りしてました。
知恩寺は毎月縁日もやるんですよ。
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縁日やる位だから境内がとても広い!
色々有って当時人生の分岐点で疲れ切っていた時に知恩寺の和尚さんが・・・
「何にも無くてもいいから、疲れた時、何も考えたくない時はココに来てゆっくりしていったらえええんやで」
・・・と言って下さり、非常に安らぎの一助に成った事は今でも感謝しています。
実は!
この知恩寺に御廟所が在(あ)る鳥居元忠公は間接的に峯の阿弥陀寺と関係が有ります。
小生は戦国時代の建勲神:織田信長公と東照大権現:徳川家康公を崇敬し、地元玉縄城主の玉縄北条家の殿様の地黄八幡:北条綱成公と副将:間宮康俊公や北条氏康公の軍師:多米元忠公や笠原信為公や笠原康勝公を尊敬して顕彰しています。
なので横浜市域の、この殿様達の足跡を辿りに色んな場所に気まぐれで出かけます。
この阿弥陀寺を開いた苅部一族の戦国時代の領主が間宮林蔵や杉田玄白の御先祖の間宮康俊公で、間宮康俊公の御子息、間宮康信公が鳥居元忠公と戦った歴史が有るんです。
麒麟が来る 拝借画像 久良岐のよし
戦国時代に織田信長公が“麒麟が来る”の主人公、明智光秀公に本能寺で討取られると、当時の日本は大混乱に陥(おちい)りました。
この混乱を“天正壬午の乱”と言います。
織田家と同盟していたはずの、北条家は織田家を裏切ります。
百姓には優しいけど武将としては不義理な北条氏政公は織田家を裏切り織田家旧武田領、今の群馬西部に侵攻し、‟神流川の合戦”で織田家臣の滝川一益公率いる織田家関東軍と戦い、滝川一益公は敗走します。
その勢いのまま織田家の支配する旧武田領の信濃国に攻め込み佐久地方や諏訪地方を制圧、更に北条家は甲斐国に攻め込みました。
一方で織田家の同盟者であるはずの徳川家康公も織田家旧武田領に侵攻します。しかし徳川家は織田家の宿老と成っていた羽柴秀吉公に事前に外交的に織田家旧武田領を他の大名に奪取されない為に徳川家の方で接収する許可を取り付けての事でした。
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御坂城址(御坂峠)
この時、大船駅近くの玉縄城を治めた玉縄北条家の殿様の北条氏勝公や、新横浜の小机城主の北条氏光公は黒駒合戦と言う戦争の時に御坂城と言う標高1600mの山城に約1万の大軍勢で立て籠もって駿河国(静岡)と甲斐国(山梨)の県境の峠道の城を守備していました。
信じられない話ですが、この御坂城の所在する標高1600mの尾根道が古鎌倉街道の一つで、源頼朝公の時代の武士も江戸時代の庶民も険しい山道を普通に街道として往来していました。
富士三十六景甲斐御坂越え
この場所から見た風景を江戸時代に歌川(安藤)広重も絵に書いていますね。
・・・小生は上るだけでぜぇぜぇ大変でした(笑)。
ここを下ると甲州盆地で、小山城と言う城が在りました。
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小山城址
小山城は今では地形を活かして畑に囲まれた公園化しており、桜の名所として地域の人々の安らぎの場に成っています。
その小山城を戦国時代も終盤に差し掛かり黒駒合戦が勃発した天正十年(1582年)に守備していたのが鳥居元忠公と、徳川家の当時の無敗のエース水野勝成公でした。
御坂城を北条軍が降りて小山城を攻めに来る兆候(ちょうこう)を鳥居元忠公と水野勝成公が察知して峠道から降りて来たばかりの黒駒と言う谷間で待伏せし、北条軍に奇襲を仕掛けて“黒駒合戦”がは発生します。
御坂城周辺 久良岐のよし
谷間だから行軍中に隊列の側面を攻撃されたら兵の壁が薄く、又、態勢を立て直したくても陣形を展開出来ず瞬く間に壊滅してしまう訳です。
この合戦で上官の北条氏勝公や北条氏光公を逃がし徳川軍に討取られたのが、峯の阿弥陀寺を含む戦国時代の笹下郷を治めた玉縄衆副将の間宮康信公でした。
行軍中の敵に奇襲を仕掛ける際、敵の全体の中程を攻撃し前後の指揮系統を分断し混乱させ、指揮系統を失った敵を側面から順番に“狩り獲って行く”のが兵法の常套手段です。
ですから、討死した間宮隊は中軍~先方の何れかを担っていたはずです。
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竜玉山 称願寺
黒駒の麓には時宗の総本山遊行寺二代住職を務めた他阿真教和尚が開いた称願寺が在ります。
この御寺は戦国時代には武田信玄と対立して追放された武田信玄の父親、武田信虎公が支援した歴史も有る名古刹です。
現代人は野戦と言うと天幕(テント)を持参して野営するイメージが有るかも知れませんが、それは殆どの場合は間違いで、指揮所は普通に御寺や神社や屋敷に置かれる場合が多かったんですね。
恐らく北条軍は山を下りて来て峠道で伸び切った隊列を整え将兵に休息を取らせ軍議をする為に、この称願寺を目指したのだと小生は現地を歩いて推測しました。
他に目標物に成る建物も無いですからね、なので戦闘の火蓋が開かれた最前線は恐らくこの称願寺~御坂峠を降りて来たドライブイン黒駒の間くらいでしょう。
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桶狭間~田楽間と同じ兵を横に展開し難い地形で側面から攻撃されたらどうにもならない上に、恐らくまだ最後尾は峠を下りきってなかったんじゃないかと思います。
もしかしたら、苅部一族もこの合戦に従軍していたかも知れませんね。
黒駒合戦で鳥居元忠公と水野勝成公の奇襲により兵300と共に敗死した間宮康信公でしたが、実は合戦で物凄く強く武田信玄公にも勝っているんです。
武田信玄
武田信玄⤴
武田信玄が今川家との同盟を破棄して南下し、今川家の領国である今の富士宮市の富士浅間大社を代々治めていた富士氏を攻撃し更に駿河の重要な交易港だった蒲原を攻めた際に、間宮康信公が率いる部隊が武田家の軍勢を薩埵峠付近で撃破し更に撤退する武田軍を追撃して戦火を挙げた事が現代に伝わっています。
富士浅間大社周辺
苅部家は元々は鎌倉公方の代理を務めた蒔田吉良家の家臣団で恐らく更に以前は鎌倉公方の直臣だった代々の武士の家系なので、この合戦でも活躍したかも知れませんね。
間宮康信公の治めた
川崎市川崎区、鶴見区末吉、神奈川区富屋仲木戸一帯、旧杉田郷(磯子区~港南区)、戸塚区小雀、海老名市国分には間宮家臣に成っていた間宮・岩本・松本・武内・間辺の間宮一族の他に、荒井・斎田・金子・北見・苅部・岡本・槙田・野本・高梨・武田・笠原・内田・市村・山野井・田野井等の多くの大地主が現在も住んでいます。
この間宮一族以外の名字を見る人が見ると・・・
「あっ、鎌倉~室町時代からの武士の家ばっかだ」
「北条家臣の名字も凄く多い」
・・・と気が付くはずです。
実はこの間宮家旧領の大地主の内、苅部家が江戸時代に大檀那として再興開基した御寺が“阿弥陀寺”なんですね。
つまり、江戸時代の支援者は星谷サンでは無いと判ります。
星谷サンはもっと古い最初の阿弥陀寺~永享の乱頃しかも扇谷上杉側についた鎌倉以来の峰の小領主“地頭”だったんじゃないでしょうか。

小生は玉縄衆北条氏勝公の祖父の北条綱成公や副将間宮康俊公、臼井衆名代の臼居胤知公、小机衆の笠原信為公や中田加賀守をリスペクトしており、やたらめったら関係先をピンポンしまくり突撃していたら阿弥陀寺の歴史に行き着いた訳ですが・・・
何の因果か、小生が青春時代に御世話に成っていた京都の御寺と
鳥居と間宮と苅部一族の御縁で、横浜の阿弥陀寺は少しだけ歴史的に関係が有る訳です。

・・・以前、ブログで紹介しましたが実は京都にも阿弥陀寺が有ります。
この記事⤴
そちらは曾(かつ)て織田信長公の兄君の織田信広公が開いた御寺で、更に織田信長公が亡くなった本能寺の変の際に、信長公と交流浅からぬ阿弥陀寺の当時の住職だった清玉和尚が明智軍の包囲してない竹林伝いに本能寺に侵入し、切腹し家臣に火葬されている最中の信長公の遺歯等を供養の為に持ち帰り埋葬した事でも知られる朝廷公認の織田信長公御本廟の御寺です。
実はこの織田信長公にも間宮家は関係していて、当時、滝山城主北条氏照公の与力だった磯子区氷取沢の領主で間宮康信公の叔父に当たる間宮綱信公は外交の使者として安土城に赴き織田信長公に拝謁し、更に滝川一益公の案内で京都観光をした事が現在にも伝わっています。
同じ名前の京都の阿弥陀寺に眠る織田信長公と、峯の阿弥陀寺は偶然同じ名前ですが、もしかしたら苅部家の御先祖様も当時関西に同行し安土城を見たかも知れませんね。
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横浜市の阿弥陀寺は、夕暮れ時の本堂もとても神秘的に暗がりの中に照らされた仏様がうかびあがって見えます。
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夕方の仏様も奇麗ですが、阿弥陀寺の境内は庭を彩る季節の花も奇麗です。
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う~ん、雰囲気いいね。
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小生は円海山にハイキングに来る度に山頂の尾根から一度降りて遠回りして阿弥陀寺に廻り御参りします。量が多い訳じゃありませんが、御花や紅葉が奇麗ですから。
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阿弥陀寺と白山神社を御参りしてから円海山護念寺も御参りして尾根道に戻ってから一心堂広場に戻り鎌倉まで歩いたりします。周辺は景色もとても奇麗です。
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阿弥陀寺から徒歩5分、護念寺からは10分の円海山の海上保安庁の通信施設近くの畑からは横浜港が奇麗に見渡せます。
この辺りは江戸時代にも眺望が良く駿河国、伊豆国、甲斐国、相模国、安房国、上総国、下総国、常陸国、上野国、下野国が見渡せた頃から“十国見”と呼ばれたそうです。
正直、本当にそんなに見えてるのか冬の空気の澄んでる時でも分かりませんが(笑)。
確かに海抜296mの横浜ランドマークタワー展望台からは筑波山が見えるので、海抜300m超の円海山からは本当に十ヶ国見渡せているのかも知れませんね。
実は了鑑大僧正だけでなく、この辺りは日本神話の神様も往来したりしています。
古代、日本武尊(やまとたけるのみこと)と、その御妃様の乙橘姫(おとたちばなひめ)が三浦半島や横浜市の基(もと)に成った久良岐(くらき)郡と橘(たちばな)郡を訪問しています。
横浜市も浦島太郎の舞台だったり何気に他府県に負けず劣らず神話や歴史偉人とな関わりが深いんですよ(笑)?
横浜に関わった小田原北条家も京都から様々な文化を吸収し領国関東の繁栄の為にアウトプットし、それが鉢型城主北条氏邦公が築いた荒川大堤防だったり八王子城主北条氏照公等が氏邦公と一緒に奨励した養蚕だったりします。
養蚕は幕末明治の主要産業と成り、横浜の原財閥が経営する群馬の富岡製糸場から横浜港にヨコハマシルクとして出荷され、海外輸出品の主要産品になり日本の近代化の礎(いしずえ)と成りました。
本当に神奈川県は京都文化や中央の神社仏閣や歴史偉人と縁が深いですね…。
さて・・・
昔は神仏習合と言いまして、大らかな日本人の性質に合わせて仏教は神道の神様の一部の様に神様と仏様とは等しく人々がら大切にされていました。
この阿弥陀寺も例外では無く、冒頭で解説しましたが境内には今も弁天社の祠(ほこら)が存在します。
なんせ、昔の仏教は学問所(学校)として機能していた上に、そこで勉強する殆(ほとん)どの仏教各宗派の和尚さん達のも御寺の守護神として神社を参拝していましたから。
それに昔の神社は祖先神や御近所や地域との繋がりを維持し季節の神事と合わせて共同で農作業を行ったりする組織の役割を「氏子」と言う形で担(にな)ってました。
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峰白山神社
阿弥陀寺の隣には白山神社が存在します。
実はこの白山神社は阿弥陀寺の昔々の和尚さんが開いた神社です。つまり昔この山全体が阿弥陀寺だった事が神社の歴史を通じて解ります。
ここからの眺望は非常に良く、富士山と相模国人と武蔵国人にとって大切な大山祇大神の権化である石山権現と呼ばれた大山を一望する事が出来ます。
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しかし峰白山神社は悲しい事に明治政府の唯一の失政である「一村一社」「神仏分離令」政策で一度無くなりました。上笹下(かみささげ)神社として、今の磯子区洋光台近くの栗木地区に在ります"栗木神社"に合祀されてしまい他の神社がそうであったように廃(すた)れてしまいました。
昭和中期に地元有志により、鉄筋コンクリートの本殿で復活する事と成りました。
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地元の方々の努力には頭が下がります。
主祭神は神社の名前の由来の昔の神仏混交時代の名前では白山権現と言われた神様ですね。
天皇家の祖先神の伊邪那美(いなざみ)命と呼ばれる神様で、眺望の良い山に相応(ふさわ)しく山の神様です。実はこの場所はとても風が強いので、江戸時代の阿弥陀寺の御住職が山の風害から集落の農民を白山権現の神様に守って貰う為に神社を開いたのかも知れません。
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・・・この神社の両脇、摂社には大地神と御嶽大神が祀られています。
一度合祀されていた栗木神社は国常立尊(くにのとこたちのかみ)を祀(まつ)っているそうです。
国常立尊は歴史的には天皇家の天照大神より先に誕生した神様だったりします。
ですので大地神=
国常立尊なのかも知れませんが国常立尊が出口王仁三郎と言う近代のカルト宗教家に勝手に崇拝対象として利用されてしまった歴史が有り、戦時中は伊勢神道の考え方から国常立尊は一時期弾圧されていた歴史も有るそうです。
本当カルト宗教とか迷惑ですね。勝手に他の宗教の施設を利用したり三浦半島でも問題起こしてますよ。
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まぁ、そんな経緯で大地神は多分、
国常立尊でしょう。
もう一つの摂社は御嶽大神ですので、これは恐らく蔵王権現です。蔵王権現はそもそも日本独自の仏教と神道の価値観を併せ持つ奈良時代から存在する修験道の神様なので、明治時代に日本武尊に御祭神の名前を改めさせられた歴史が有ります。
御嶽大神=蔵王権現については以前も別の神社の記事で解説しています。

御興味が御有りの方は御覧下さい⤴
今ではいくつかの神社が規模はつつましやかに成っても、改めて地域の氏子さん達に勧進されて、元の場所に帰って来ている例も多いみたいです。
笹下城の若宮曲輪(わかみやくるわ)跡にある若宮御霊神社の例も、こちらの白山神社と同様ですね。

笹下城の記事はコレ⤴
阿弥陀寺~護念寺に抜ける道が阿弥陀寺参道を降りた先に在ります。
白山神社と阿弥陀寺の横には今では横浜横須賀高速道路が、昔の村を分断するかの様に通っています。
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この道路が出来た事で潰れた古道も多くあります。ですが、港南台から程近い清水橋と言う地域に戦国時代の昔、箱根の風魔忍者を管理した北条幻庵公の別宅があり、鎌倉に続く円海山の尾根道を鎌倉武士団や戦国時代には風魔忍者達も歩いていた事を考えると・・・
コンクリートとアスファルトで舗装された道でもロマンがわずかばかり感じられますね。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
古地図を見ると阿弥陀寺~護念寺に伸びる黒い線が古道ですが、この内の2本は手入れされず廃道同然に成り業者が廃車置き場にしてしまったりしています。更に1本は高速道路建設で寸断されてしまいました。
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昔は阿弥陀寺~護念寺~円海山峰の道へと接続し~更に鎌倉へと人が往来していました。
そこは現在の栄高校一帯に在った上郷深田遺跡でタタラ製鉄で製造された玉鋼を運ぶ鉄の道でもありましたが、上郷深田遺跡と言うタタラ製鉄遺跡で東日本最大規模を誇っています。
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念の為に言うと小生は仏教の殆どの宗派が好きですし、神社も大好きです。
仏教の果たした文化的な役割を評価しつつ、神道の自然崇拝と偉人啓蒙を大切にしている鎌倉武士と同じ様な宗教観なのだと思います。
今回、浄土宗の阿弥陀寺と智恩院の話から製鉄、鎌倉武士と話も広がったのですが・・・
実は以前紹介した、藤沢市渡内の二傳寺(にでんじ)も浄土宗でであり、鎌倉武士団の大半の武将の御先祖に当たる方の関係深い場所だったりします。
二傳寺は小生と御縁の有る鎌倉武士団と平氏系大名の祖先の鎮守府将軍平良文公の墓所のある御寺です。
平良文公と二傳寺の記事はコレ⤴
そして二伝寺の近くに戦国時代の苅部サンの上官の間宮家の所領も有りました。
まぁ、そんな訳で実は円海山の阿弥陀寺は浄土宗の大僧正を輩出した御寺でもあり、京都の御寺とも宗派的にも支援した人々の歴史でも御縁が有る御寺と言う事が伝わったでしょうか?

きっと皆さんの御家の近くにも、実はとんでもない歴史人物と関係ある神社仏閣や、御城の址の公園なんかが有るかも知れませんよ?
・・・だから、ちょっと御近所散歩して、たまには神社や御寺の看板を読んでみませんか?そしてら思いがけず自分の住む土地と殿様の御縁を知り、地元に更に愛着が湧くかも知れませんよ?

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~♪
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ブログネタ
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横浜市港南区~磯子区峰~金沢区氷取沢にかけて円海山と呼ばれる山がありまして・・・

風景がとても横濱と思えない綺麗さなんです。 IMG_5684
今では静寂な森の中の古道沿いにある阿弥陀寺と言う御寺と、昔は阿弥陀寺の奥院だった護念寺と呼ばれる御寺ですが、実は江戸時代~昭和初期まで凄く有名で、日々参拝客が蟻の行列の様に大量に列をなして訪れた名古刹なんです。

実はこの護念寺ですが、お灸治療の大本山とも言うべき御寺でして、古典落語「強情灸」の舞台でもあるんですね。
ですから、この御寺は「峰の灸」の別名でも呼ばれています。
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嘗(かつ)て、磯子区杉田〜港南区笹下にかけて点在した広大な杉田梅林は、江戸からの江戸っ子観光客で賑わっていました。

船で磯子区杉田の聖天川までクルージングし海からの屏風ヶ浦の美しい風景を楽しみながら、杉田梅林を見学に来る訳ですね。残念ながら杉田梅林は教育委員会が開発容認し消滅しました。…明治天皇や皇族もよくいらっしゃった美しい風景と最高級の梅のブランド杉田梅を教育委員会が消失させたんですね。

で、その江戸時代から昭和初期の観光コースに峰の灸も入っていたし、純粋な治療客も沢山いました。

横浜横須賀道路と言う高速道路の開通で阿弥陀寺と鎌倉古道が寸断され、鉄道の駅からも遠い事から、昭和の高度経済成長期に成ると段々、参拝客も減ってきてしまいましたが・・・
今でも慢性的に体の痛みがある人がココに来て治療を受ける、お灸の本場なんです。

もっとも・・・
小生はソンナ歴史も知らなかった20歳の頃、原付バイクでフラっと田舎道の風景を探して立ち寄って、その聖地のような清々しい空気感に呼びこまれて迷い込んだ御寺なんです。
その時は、竹林の風景の美しさと、何だか…
「あ~横浜市が久良岐郡と呼ばれた頃の風景はこんな感じで美しかったんだろうな~」
・・・と思っただけでした。
IMG_5706
この護念寺は清浄園と言う公園墓地に至るまでのアプローチが昔の鎌倉古道なので、とても神秘的な風景が残っているんです。
でも今じゃ落語の“強情灸”を知らない人の方が多いですよね?
せっかくの機会ですし、強情灸を御存(ごぞん)じ無い方(かた)の為にその噺(はなし)を紹介します・・・
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【強情灸】 
通りかかった知り合いが唸っているので、気になった男、家に招き寄せる。 
聞けば何でも体がだるいので、""という店に灸を据えてもらいに行ったらしい。


「このお灸な、凄まじく熱いんで評判なんだよ。気の弱い奴なんかな、一つ据(す)えただけで… 
「ギャー!!」
なんて天井突き破って飛んでっちまうんだと」 

余りにも熱すぎるので、せっかく来た人が怖気づくぐらいだが… 
それでも"効く"という評判のおかげで店の前は長蛇の列。 
仕方がないから、番号札を配って据えてもらっているらしい。


俺がもらったのが"への36番"行列のどん尻だぜ?これじゃ日が暮れちまう… 
「帰ろうかな」 
…って思ったらよぉ! 
先に並んでた綺麗なお嬢さんが先客が熱がってるんで心配(不安)に成っちゃったんだろ? 
…俺に 
「ねえ、アタシと代わってくれませんか」 
なんて… 
「ええ!ようござんす♪」 
…と、喜んで代わりましたとも。 

早速内に入ると、店の者が… 
「うちの灸は熱いですよ。大丈夫ですか?」


頭にきた友人、上半身裸になるや… 
「さあ据えてくれぃ!」 
…と怒鳴る。 

灸を36箇所に据えると言われ、なおも意気がった友人… 
「全部いっぺんに据えろ(怒)!」と一喝。 
啖呵に店の者も釣り込まれ、本当に全部いっぺんに据えてしまった。 

一つで飛び上がるような灸を、36個いっぺんに据えたんだからどうなるか?


身体中から煙が上がる…不動明王みたいになっちまったが…"ここで逃げたらカチカチ山のおタヌキ様"だ。 
我慢して唸ってたら… 
店にいた奴らがみんな寄ってきてヨ! 
「この人、本当に人間かい?」 
「神様の化身でしょう」 
…なんて感心してやがんだよ。 
…その中にね、さっき俺と札を取り替えたお嬢さんがいてさ、俺の顔を見てポーッとなってんだ。 
「あぁ…たくましい人ね、お嫁になるならこんな人が」 
…なんて思ってやしないかと。 

自業自得で熱い目に遭ってきて帰り道で唸っているような間抜けの(笑)、体(てい)もないノロケ話を聞かされ、呼び込んだ方の男は面白くない。 
元来こちらも同類の馬鹿である… 
「たかだか灸ぐらいで威張るな!」 
…と、奥から藻草(もぐさ)を持ってきて、腕に山盛りに積み上げるや早速点火(笑)♪


「活火山だよコリャ(笑)…見てろ!今に火が回ってくるから(笑)」 
火勢が強まり、煙が上がる。 
男、脂汗を流しつつ歯を食いしばる。

「うう(汗)…」 
「…灸ぐらいで威張るな、石川五右衛門なんか、油で茹でられたのに平気で辞世の句を詠んでたぞ!」 
「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ…ってな!」 
「八百屋お七なんか、15歳で火炙(ひあぶ)りだぞ?」 

…それに比べりゃこんな物…お七…五右衛門…お七… 

ぎゃぁあぁっつ!」

とうとう辛抱堪(たま)らず藻草を払い落とし、なおも「五右衛門んん…」と唸っている男に、友人が意地悪く声をかける…

「五右衛門がどうしたって(笑)?」 
「…」 
「……」

「………さぞ熱かったろう」 

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円海山 清浄院 護念寺

・・・どうです?強情灸、バカでしょう~(笑)?
いつの時代も男は可愛い女性の前で良い顔したがる見栄っ張りってネタでした(笑)。
ところで、この写真の建物はが仮本堂であり現在も御灸の施術をする建物でもあるそうです。
昭和の頃迄は沢山の御客さんで賑わっていたそうですが、現在は要予約だそうです。
定休日は月曜日。診療は午前中のみ受け付けているそうです。
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境内の雰囲気とても素敵でしょう?
丸で鎌倉の隠れ家に来たような・・・
神様の住んでる御社(おやしろ)でもありそうな雰囲気ですよね?
秋には紅葉もチラホラとあり、この季節はここに来てヒンヤリとした空気を吸い込むと、何だか生きてる感じが凄く静かに感じられるんです。
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少しこの御寺の歴史を見てみましょう・・・
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ハイキングコース地図の右下に阿弥陀寺、その少し真ん中寄りに護念寺、右側中央に“道場丸”と“いっしんどう=一心堂”の地名が残ります。この一帯は阿弥陀寺の奥院だった護念寺の寺領だったのでしょう。恐らく御寺の収入減は大岡川や鼬川の水運を利用した木材の売却だった筈です。二つの河川を使う事で相模湾側の鎌倉や、江戸湾の江戸方面に材木を出荷出来て昔は大いに繁栄したのでしょう。
新編武蔵風土記稿の護念寺の項目に“この一帯の緑は寺の敷地だったから残った”と言う記載に円海山の森林が残されていた理由と整合します。
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今でも樹木に囲まれた御寺です・・・
この、静かに遠慮気味に色づく紅葉達の奥に御念寺の現代の本殿があります。
撮影した日は法事の車が数台とまっていたので御本堂の写真は写しませんでした。 
御本堂を過ぎるとマイナスイオンでヒンヤリとし、静寂な神聖な霊気を感じる様な竹の隧道が出迎えてくれます。 
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さて、この護念寺には幾つかの由緒ある仏像が有り、その一つが薩摩の大名どうやら島津家から拝領した威徳明王の1寸八分(545mm)の伝弘法大師作の彫像らしいです。
元々は護念寺の向かいの山の上に堂が有って、そこに祀られていた物だけど御堂が壊れたから護念寺に移したと言う事が新編武蔵風土記稿に書いて有ります。
昔は坂下バス停辺りに本院だった阿弥陀寺が在りました。
そこから登って来る護念寺の清浄園墓地側の道は現在廃道ですが、恐らく、そちらが江戸時代の参道だった筈です。阿弥陀寺の方は1400年代には旧所在地に存在したと伝承しています。
鎌倉の戦火で矢部野(洋光台~峯)一帯が戦火に巻き込まれて阿弥陀寺が現在の山の上に移転したのが1400年代だと伝わりますので、この鎌倉の戦火は鎌倉公方足利持氏公と征夷大将軍足利義教公が対立した永享の乱か、足利持氏公の御子息で最後の鎌倉公方と成った足利成氏公の頃の話でしょう。
護念寺とその谷を挟んで反対の山上は現在の阿弥陀寺に当たり、既に阿弥陀寺は1600年代の頭には現在地に移転していたので護念寺の威徳天が祀られていた向かいの御堂は阿弥陀寺ではなさそうです。
では、どこでしょう?
一心堂位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大して下さい。
この威徳明王が祀られていたのは恐らく円海山の一心堂広場だろうと思います。
丁度現在も参道に使われている谷筋を登る道以外に私道になり廃道化してる道が有ります。
その谷道を挟んで一段高いのが“いっしんどう広場”=一心堂でしょう。
現在の位置関係で見てしまうと阿弥陀寺の場所が向かいの山に見えてしまいますが、時代的にも威徳明王が祀られた江戸時代には既に阿弥陀寺が存在していた為、阿弥陀寺の山ではなさそうです。
となると、向かいの山で更に“堂”の名前が付くので一心堂がその場所だろうと推測出来る訳です。
ちょっと今の阿弥陀寺との位置関係だと護念寺が阿弥陀寺の奥院として機能していた事が理解し難いのですが・・・
護念寺参道 久良岐のよし
・・・昔の阿弥陀寺は洋光台6丁目坂下バス停辺りに存在したそうで、確かに、その位置からだと真っすぐ直線状の背後の山に護念寺は所在しています。
画像に赤く引いた線は現在は廃道に成っている古い道で、実はそちらは切通状に成っていて重要な道だった事も解かります。
阿弥陀寺~護念寺位置関係
この道は明治時代初期の迅速測図にも-----の点線表記で護念寺の右手の舌状丘陵の尾根道として記載されています。
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その道がこの解体屋サンが並ぶ丘の道を更に一本裏側に入った場所です。
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今では草が鬱蒼としてしまっています。
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その先は円海山清浄園の墓地の先っちょ、この道に繋がっています。
昔は小道だったようですが、もしかしたら墓地造成で開削され、更に丘の入口が解体屋サンに払い下げられ今は使われなくなったのかも知れません。
一心堂の場所ですが・・・
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氷取沢側から見た円海山、鉄塔の辺りが一心堂広場の近くです。
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現在は遊歩道としては整備されていませんが、氷取沢側の農道から続く江戸時代の道は今でも生きています。
この道を登ると・・・
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ちゃんと昔の道標がわりだった交通安全の仏様の馬頭観音様が多分、昭和時代位に上の部分だけ作り直されて今も有ります。この場所がT字路に成っていて富士塚休憩所を経由して護念寺の墓地に成っている円海山清浄園の古道や鉄の道の尾根道に通じていました。
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又、迅速測図を見ると古代の尾根道の街道が悉(ことごと)く護念寺の辺りに集まっているので、前身の御念寺は逗子の岩殿寺や金沢区の浄願寺の様に山岳信仰的な要素が有り弘明寺や八菅山の様に山全体が聖地化されていて各所に御堂や神社が有った事が推測出来ます。
製鉄有る所に豪族有り、豪族有る所に神社仏閣有り・・・と言った所でしょうか。

新編武蔵風土記稿では阿弥陀寺の奥院だった護念寺の項目にこう書いて有ります。
コレ⤵️
宝暦二年(1752年)地頭星谷治兵衛智久志願に因(よっ)て、長野山(円海山)の内十丁四段二畝十九歩の地を寄付し、
又別に山、畠(畑)、永錢(永楽銭=戦国時代の通貨)一貫文を寺費に充(あて)つ、
且(かつ)當(当)寺城山に據(より)て往還便ならざれば、捷徑(ショウケイ/近道=間道)を開闢(カイビャク=開拓)して攀躋(ハンセイ=よじ登る=登山)の便宜(べんぎ=便利)とす。


要約すると・・・
「護念寺の在る円海山は城址」
「だから往来が不便で星谷智久公がショートカットの道を御寺の為に作りました」
・・・つまり円海山=長野山は城でした。
合わせて、この文書から調査した末端の記者か編集した人のミスも解かります。
永楽銭は明の皇帝、永楽帝が発行し日本では室町時代に輸入され江戸時代初期まで流通した通貨です。
織田信長公が積極的に経済活用に利用し旗印にまで使った事の有る通貨です。
そして一貫文と言う金額の単位も室町時代~安土桃山時代の貨幣の通貨単位です。
永楽銭
画像引用元⤵
https://shop.ginzacoins.co.jp/
星谷家が足利幕府の時代の輸入通貨の永楽銭を寄付しているのに、江戸時代も中期の宝暦二年(1752年)と調査した江戸時代の記者も編集者の間宮士信公も昭和の出版社も何故注意が向かなかったのでしょう?
その時代には既に江戸幕府発行の貨幣が流通しており単位も両・朱・分でしたし、永楽銭は廃れています。
つまり宝暦二年(1752年)に星谷家が永楽銭を寄付する事自体が変な訳です。
調べた記者か編集者かが他の元号と読み間違えた事は明らかです。
永楽帝の在位期間は1402年~1424年永楽銭の発行開始は1411年ですから、逆にそれ以前の話でもない事が判ります。なので宝暦の書体を読み間違えそうな元号を探して、取捨選択すれば正体が判明しますね。
康暦二年(1390年)→1411年以前
宝徳二年(1450年)→1411年以後
・・・宝徳を読み間違えたんでしょう。
では本当に徳と歴は草書体が似ているのでしょうか?
徳と歴 久良岐のよし
右の四角い枠で囲ったのが“歴”の字、左ので囲ったのが徳。
行書体が酷似してるので宝徳を宝暦と読み間違えて記者が取材し風土記の編集に間違えたまま峰村の説明にも反映されたみたいですね。
そのせいで現代にも混乱を及ぼしているのでしょう。
「そんな学者や編集者が間違える事有るんかい?」
・・・と思う人がいると思いますが、そんな事は現代でもしょっちゅうです。
江戸幕府の役人が書き間違えた杉田間宮家初代の名前を菩提寺や御子孫に調査すらせず間違えたままコピペ出版してる人もいます。
地名でも例えば阿弥陀寺や護念寺は昔は杉田郷と呼ばれた行政区分の地域でした。所が昔は現在とは字が異なります。
杉田=杦田
杉ではなく杦の字で表記したんですがコレが読めない学者サンが・・・
「“松”田とか書き間違えてる」
・・・と杦=杉を読めず杦を松と勘違いし“間違いじゃないのに間違えた指摘をする”事も有ります。
昭和のいい加減な仕事の出版物をコピペして終わってる学者サンいるんですね、それと武将の名前も江戸時代の幕府の誤記を子孫や御寺や神社に確認しないで誤記のまんまコピペしてる人もいます。
誰とは言いませんが横須賀市やNHKの歴史解説員をしていると自己顕示満々のプロフで宣伝してる勲章貰った学者サンとか。本当に歴史偉人をリスペクトしていて御墓参りすれば一発で気が付く事なんですんが。
さて、今回の間違いですが・・・
永錢が永楽銭と言う事は、戦国時代を好きな人は大概知っています。
徳と歴 久良岐のよし
永楽銭なら宝暦ではなく宝徳だと歴史学者でもなんでもない小生でも、この様に気が付きます。
これにより阿弥陀寺と奥院の御念寺は宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。
そして、この阿弥陀寺の奥院御念寺への寄進は応永二十三年(1416年)の戦闘によって阿弥陀寺は焼失後現在地の山の上に新しく御堂を建てて復興されたけれど、奥院の御念寺は一時は城塞化されていた不便な立地なので復興が遅れ、永享十一年(1439年)に永享の乱が終わり、鎌倉公方が一端途絶して平和な時代が来た宝徳二年(1450年)に漸(ようや)く再整備の手が回る様に成った状況が理解出来ますね。
余談ですが、戦国時代に旧間宮領にいて江戸末期に里正(庄屋)に成っていた旧北条家臣団の名字に星谷はいません。
ただし越前朝倉家臣に星谷家がいると沼津市では伝承しているそうですから、そもそも朝倉家の旧主斯波家臣に星谷家がいた可能性はあります。
北条家臣にも朝倉家がいるのは斯波家が南北朝時代に関東執事を務めていた名残りでしょう。
以前にコレ⤴️品濃白旗神社の記事で少し書いていますが、南北朝時代に近くの秋葉郷(戸塚区東戸塚~品濃辺り)に柴田勝家高経公が関わっていたり、足利尊氏公の御実弟足利直義公の頃に星谷家が杉田郷に関わっていてもおかしくはありません。
そして朝倉家は
右馬助(うまのすけ)朝倉政景が戦国時代の北条家臣として横須賀市の浦郷や追浜辺りや、伊豆半島三島市玉川辺りを支配していました。
この朝倉家の朝倉平次郎と言う武将が間宮家と玉縄衆と言う軍団で同僚だった事も解かっていますし、
南区太田にも朝倉又四郎と言う武将がいました。
ただ、峯町の星谷サンは北条家臣朝倉家の家来ではないでしょう。寧(むし)ろ旧間宮領にいる朝倉家は玉縄衆朝倉又四郎が豊臣秀吉による北条家改易後に本牧奉行、佐渡金山奉行、生野銀山奉行に成っていた間宮家を頼って江戸時代に移住して来て家臣化した一族かも知れませんね。

星谷の苗字を名乗る武将は戦国時代~江戸時代初期、そして現代に付近にいませんが、他の北条家臣団の苗字を持つ大地主達は現在も存続します。
この地域の地主は槙田家、塩沢家、大塚家、苅部(軽部)家、小原家です。
近くでは金子家、岡本家、野本家、内田家、市村家、荒井家、斎田家、北見(喜多見)家、朝倉家、笠原家、田野井家、山野井家、高梨家、武田家です。
もっと離れて南区まで行くと、森家、並木家、佐々木家等の蒔田吉良家臣団の名前が蒔田吉良家菩提寺の勝國寺の檀家さんに沢山いたりします。
加えて磯子区港南区地域では間宮一族分家や系図上養子が入っていると伝わる松本家、武内家、間辺家がいます。
沼津市の伝承では朝倉家臣星谷家がいるらしいですが朝倉はこの阿弥陀寺や護念寺近辺の峰地域に地主はいませんし、北条家臣朝倉家の更に家臣が杉田郷の地頭では北条家の公式記録の北条所領役帳に記載された間宮家の所領の歴史と整合性がありません。
どうも北条氏照公が元服前の藤虎丸時代に崇拝し、元服して北条氏照と名乗ってからも“陣屋”=“宿舎”としても利用していた座間市の星谷寺(しょうごくじ)辺りの現代の地名は“入谷”ですが、元々は星谷(ほしのや)が正式な地名なので、その辺りが出自でしょうか?
だとしたら、遠い祖先は横浜市港北区に移住して茅ヶ崎城代と成った座間家と親せきだったかも知れませんね。
この茅ヶ崎城主は平安時代末期~鎌倉時代初期には源頼朝公の協力者だった摂津源氏多田行綱公の関東における城館でしたが、戦国時代に入ると北条家臣座間家が城代を務めた場所でした。
 
駿河国戸倉城近く沼津市大平に、元今川家臣で後に北条家臣と成ったと言う星谷姓の武将がいて城館跡が有るものの出自は不明、沼津市では資料がなく、間宮や江川家と関わり深い伊豆の国市でも資料は無く、座間市にも全くありませんでした。
しかし現在も鎌倉時代位の星谷家の出身地域と思(おぼ)しき座間市~海老名市~寒川町辺りには星谷姓の家が点在するので、座間市入谷(旧:星谷)が出自“くさい”所ではあります。
偶然ですが、座間家の上官に当たる大曾根城主、小机城代だった笠原信為公の笠原家も伊豆出身で、その一族の笠原綱信公の養子、笠原政晴が戸倉城主を務めています。
何だか座間家と星谷家は笠原家与力として北条家で編成されてた家も存在した可能性があります。
しかし星谷家について現代では何も解りません。

・・・星谷家が座間市出身と仮定してすると・・・

南北朝時代に鎌倉公坊足利義詮公家臣になり・・・
関東執事の斯波高経公の与力として配属され南北朝時代に峰町辺り旧矢部野村を治めた分家の星谷家がいて・・・

足利尊氏公の二男、足利基氏公が鎌倉公方になり伊豆国一帯を自身の与力で固めた際に伊豆に入植した星谷家と、磯子区峯町一帯に地頭として残り室町時代初期まで存在した星谷家がいて、それぞれ別々の運命をたどり・・・
横浜市に残った鎌倉公方与力だったかも知れない星谷智久公は宅間上杉与力となり・・・

更にその後、永享の乱頃には扇谷上杉派の与力となり、北条氏綱公が扇谷上杉家と対立すると湘南に勢力を張っていた北条家臣間宮家により駆逐されたのかも知れません。
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※写真は伊豆半島、田方郡函南町“間宮町”の“間宮南”交差点。
もし、このプロセスならば阿弥陀寺を江戸時代に中興した苅部家の領主、間宮家が足利基氏公の家臣として近江国から伊豆国田方郡間宮、今の函南町間宮に移住し神奈川県東部に勢力伸長したプロセスと酷似しており有り得ると思います。
しかし新編武蔵風土記稿に話を戻すと、星谷家は室町時代末期にも杉田郷には名が見えず、安土桃山時代にも、江戸時代初期にも名が見えず、現代の地主にも名が見えず・・・
新編武蔵風土記稿の記載通りなら地頭なのに江戸時代中期の一時代だけいるのはおかしな話しだと個人的には思います。
・・・星谷家は北条家が武蔵国域を支配し杉田郷が間宮家臣団の支配地に組み込まれた頃には磯子区磯子城主の平子家と同じ様に駆逐されたと考えた方が自然でしょう。
平子家については以前書いた記事があります。
コレ⤵
 
仮に江戸時代に“地頭”と言うか在郷武士だったなら、隣の六浦には今も江戸中期に大名として入って来た米倉さんが横浜市大の近所の六浦藩陣屋跡に普通に現代の家を建てて住んでいますし、江戸時代中期に地主侍なら今も間宮家臣団の他の地主同様に現代の大地主としているでしょう。
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※江戸時代の六浦藩陣屋跡の旧藩主米倉サン家の石段。
米倉サン家のこの石段は陣屋(邸宅)の裏口だったらしいです。。
ちゃんと米倉さん家の奥さんに許可貰って撮影してますよ!
だから間宮家臣団や六浦藩主米倉家の事を踏まえると江戸時代の大地主なら今も大地主として住んでいるはずですから、星谷氏が護念寺の前身、御念寺や阿弥陀寺に関与したのは風土記の“宝暦”の記載は誤りで“宝徳”年間、永享の乱前後の話だと個人的には思います。

又、隣村の栗木村の項目でこうも書いて有ります・・・

古(いにしえ)は御料にて元禄九年に星合摂津守に賜い、今子孫鍋五郎知行す

・・・江戸時代の元禄の頃、徳川綱吉公の頃に磯子区栗木村に移住して来た星合サンと峯村の多分、南北朝時代~室町初期にいた星谷サンの項目は話がゴッチャに成ってるぽい雰囲気を感じます。
この古は御料にて元禄九年に星合摂津守云々~の御料は将軍直轄地と言う意味で“天領”だった、と言う事に成ります。

実は!
間宮家は鷹狩りに秀でた一族で氷取沢間宮家を開いた間宮綱信公は北条家の外交使者として織田信長公に謁見し鷹を献上したり、分家杉田間宮家が代々、徳川幕府鷹匠頭の職位を継承する程だったのですが、戦国時代~江戸初期に港南区~磯子区一帯を治めた間宮本家の笹下間宮家は下総国に転封され栗木を支配していなかったので、星合摂津守が一時期いた可能性は有ります。

まぁ~十中八九、星谷サンの話は間宮家が来る前の護念寺の前身の御念寺を復興した話と、似た元号と、隣村栗木村の星合サンの話を記者が頭の中でゴッチャのまま勘違いを書いちゃったのを昭和の出版社がそのまま丸写ししてそうな気がします。

しかし星谷知久公が足利幕府鎌倉府の家臣で在地領主として阿弥陀寺の奥院だった御念寺を支援したのだとしたら、それはそれで素晴らしい史話だと思います。
因みに、栗木のバッティングセンターは松坂大輔選手が横浜高校時代に練習に来ていたそうです


・・・話は飛びましたが(笑)・・・


護念寺と本院の阿弥陀寺は阿弥陀寺の旧境内地の逸話と元号の問題、そして星谷智久公の奉納したお金が永楽銭だった事実から、永楽銭が使われなくなっていた江戸時代中期の宝暦年間1750年代ではなくて宝徳二年(1450年)以前には既に存在していた事が証明されます。

しかし1400年代の開基では、江戸時代の人から見て“古刹”にはならないでしょう。
ですから鎌倉時代より前の平安時代には御念寺と阿弥陀寺は存在していたのでは無いかと、近隣の御寺の文書に残らない寺伝からも予想がつきます。
例えば以前にブログで紹介した間宮家の笹下城跡の本丸直下にある成就院・・・
・・・ここは現在は浄土真宗高田派ですが草創期は法相宗だったと伝わるので、下手したら奈良時代~平安時代初期位の行基大僧正に開かれていて真言宗開祖の弘法大師空海和尚や天台宗開祖の伝教大師最澄和尚達の時代より古い可能性が有ります。
他にも・・・
・・・ここ杉田商店街の東漸寺は鎌倉幕府の重鎮、名越北条家の名越北条宗長公によって正安三年(1301年)に開かれたと記録上される臨済宗の寺院で関東十刹に挙げられる名古刹ですが、実は境内にある法輪塔は更に古い時代の物で御寺の伝承でも名越北条家によって臨済宗として再興開基される以前に天台宗だった事が伝わっています。つまり鎌倉時代以前の平安時代から存在する事が法輪塔から証明されている訳です。
更に・・・
・・・同じく杉田の妙法寺は前進の牛頭天王社が弘法大師空海和尚によって開かれた事が伝承しており、文和元年(1352年)に荒井光吉入道日荷上人によって立派な堂宇が建立され寺院化しています。
他にも幕末の吹奏楽発祥地で国家君が代とテニスの発祥地の本牧の妙香寺・・・
・・・ここも元は真言宗でしたが日蓮上人が自ら滞在した際に御寺の大檀那(オーナー)だった佐藤家が日蓮上人に惚れ込んで門徒になり、日蓮宗に改宗した歴史が有る御寺です。滞在時の浴衣姿の日蓮上人の彫像が祀られている変わった御寺だったりもします。
この様に、横浜市域だけでなく鎌倉幕府~室町幕府の武士が多くいた地域の臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、法華宗等の鎌倉時代に流行したり起こった宗派は元々は更に古い奈良時代に始まる修験道や法相宗、平安時代に始まった真言宗や天台宗の寺院だった場所が多くあります。

更に護念寺と阿弥陀寺の歴史の証明となる星谷智久と言う“地頭”が護念寺の長野山が元々御城で不便だから色々ショートカットの道作ってあげた・・・と書いて有ります。
地頭職は鎌倉幕府以来の武士です。つまり鎌倉時代に既に地頭だった星谷氏が室町時代の宝徳二年(1450年)城跡と言っていると言う事は、既に室町時代には使われなくなっていた鎌倉時代か平安末期の城跡と言う事を言っている事に成る訳です。
鎌倉城防衛網円海山 久良岐のよし

護念寺の在る円海山と尾根伝いの円海山山系の観音山、大丸山、関谷見晴台、荒尾城(御伊勢山、権現山)、青ヵ台城(能見堂~阿王ヵ台~赤井)は完全に人の手が入って城塞化されていると小生はずっと主張している通り、鎌倉防衛網を構築し所々の要所が城塞化されており、護念寺の洋光台側の急峻な崖や各所の尾根道の掘切りも城跡だからと、この文章で証明されます。
本当、護念寺を取り巻く竹林の中には、竹林に成ったが故(ゆえ)に高速道路をブチ抜かれたり墓地を造成した場所以外は旧地形が良く残り、恐らく江戸時代には畑にも成っていたであろう、明らかにお城の帯曲輪郡と竪堀が幾筋も現存しています。
ここ円海山は飛鳥時代から東日本最大のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡猿田遺跡一帯で鉄が生産され、刀槍の材料となる玉鋼(たまはがね)を輸送するのが尾根道でしたから、流通や軍兵の交通を監視する要塞や関所が必要だったのでしょう。
実際、この尾根道だけを伝って昔は鎌倉に行きるだけでなく、更に尾根続きの鎌倉十二所からは元は真言や天台の修験者が御参りしていた岩殿寺や神武寺や鷹取山、更に三浦半島まで山の中の道が繋がっていました。
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ですから現在も鷹取山~神武寺の尾根道は修験者の人達や娯楽としてハイキングを楽しむ人達を見かける事が出来ます。

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醫王山 来迎院 神武寺

神武寺は現在も山の中で神秘的な雰囲気を保っています。
神武寺は神亀元年(724年)の開基(かいき=開かれる事)と伝わっています。
古代の街道は尾根道だったので、その中継拠点や湧水地だったので飲用水補給の聖地として神武寺は開かれたのでしょう。
・・・同じ様な立地の護念寺も、もしかしたら前身の御念寺は相当古いのかも知れませんね。

威徳明王が祀られたであろう一心堂の場所の話から威徳明王の像に話を戻します。
威徳明王の彫像は弘法大師の手彫りと伝承しています。
天長年間(824~834年)に弘法大師空海和尚が守敏僧都と法力争い(密教の問答だろう)をして威徳明王の威力で勝った事、更に威徳明王に関する宗論で守敏僧都を言い負かす事が出来たので掘った像が護念寺の威徳明王で嶋津又三郎の姫の竹姫様から元は鎌倉の浄土宗大本山光明寺の僧侶だった護念寺中興開山の淸蓮社浄譽圓海和尚(明和三年:1766年没)が拝領したと記載があります。

更に清和天皇(850~881年)の守り本尊だったのを嶋津家に伝えられていたと記載が有ります。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなっている事から亡くなる直前に彫られた仏像と言う事に成りますね。
そして、その後清和天皇に渡り、清和天皇の子孫の島津家にどういった経緯かは判らないものの伝わり、円海山に御縁が有って祀られる事に成った訳です。

次に竹姫は嶋津家=島津家の姫様は誰かと言う話ですが、実はココに誤解を生む罠が有ります。

この場合の竹姫の“姫”は父子関係ではなく尊称の“姫”なんですね。つまり御妻君も姫様と呼ばれるケースが有る訳です。例えば北条家から蒔田吉良家に嫁いだ“さき姫”や、前田家から義叔父の秀吉公の仲介で宇喜多秀家公に嫁いだ豪姫等は有名です。これを考慮すると謎は直ぐに解けます。

1766年に亡くなった浄譽上人が竹姫様から威徳明王像を貰っているから、威徳明王像が伝えられたのは1700年代と言う事が判ります。

この竹姫の“御身内”の嶋津又三郎サンですが、実は島津家歴代当主は“又三郎”を名乗っているので世代的には第五代薩摩藩主の島津継豊公の時代位の話しと解かります。
そして島津継豊公の継室(後妻)が竹姫なんです。しかも竹姫の人脈から更に凄い人達の名前が登場します・・・

御実家は権大納言と非常に地位の高い京都の貴族で、竹姫のフルネームは清閑寺竹姫、戒名が浄岸院です。
尚且(なおか)つ!徳川綱吉公の養女と言う立場に当たる人物です。そして薩摩藩主の妻。
凄いですね~!
当時の阿弥陀寺と奥院の護念寺の寺格の高さが解かるエピソードです。
何で竹姫が威徳明王を護念寺に寄進したか不明です。
もしかしたら・・・
御父上の継豊公が護念寺の圓海和尚に鍼灸治療をして貰ったのかも知れないですね。
圓海和尚の弟子で実際に護念寺の再興開基に寄与した法雲和尚と言う方は鎌倉の光明寺の僧侶だったそうですし、関東の浄土宗は織田信長公や徳川家康公が浄土宗(当時は法華宗として時宗や日蓮宗と一緒の別派閥と認識されていた)の信徒だった事から特に江戸幕府開府以来、他宗派よりも強く徳川幕府の庇護を受けていたので、その様な御縁が有っても不思議では無いんですね。
続きの阿弥陀寺の記事で書きますが、なんせ本院の阿弥陀寺の戦国時代の御住職は浄土宗のトップと京都知恩院で務めた任蓮社然譽了鑑大僧正ですから、この方の繋がりが有れば当然ながら徳川幕府とのコネクションは深いでしょう。
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現代には護念寺の周りは私有地だらけになり横浜市の今の市長の政策では私道を遊歩道として通行出来なく成ってしまい円海山護念寺に通じる古道だらけですが・・・
今の道は今の道で素敵ですね。
この竹の道を過ぎると、清浄園と言う御寺の院号からとった墓地に辿(たど)り着きます。 
そこからは横浜港が一望でき、ランドマークタワーやベイブリッジが見えます。
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この日は生憎の曇天でしたが、紅葉に色づく円海山の眺望に満足できました。
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御住職は御灸の施術を予約すると直接面会出来ますし、色々と昔々の横浜の風景や文化の御話を聞けて楽しそうです。
今はこの奇麗な景色の中に有る古道は間にゴルフ場は横浜横須賀道路が出来たせいで完全に寸断されてしまっています。

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とにかく景色は良いですよ!
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実はこの円海山山系の大丸山含め、この地帯が昔の久良岐郡と現在の横浜市で一番標高の高い場所なんです。
・・・と、言っても海抜300mくらいですが、それでも海から2km程度内陸に入っただけの沿岸部なのでだいぶん高低差があります。
だから景色の素敵な場所でしょう?

護念寺の本院だった「阿弥陀寺」と「白山神社」の話は、また改めて別記事にまとめましたので別に御覧頂ければ幸いです! 


以上、久良岐のよしがお届けしました「強情灸」と「護念寺の凄い歴史」、楽しんでいただけましたでしょうか?
きっと皆さんの御自宅の近所にも凄い歴史偉人と繋がりの有る神社仏閣や御城の址の山が有りますよ!
ちょっと御近所を御散歩して、神社や御寺や城址の公園の看板を読んでみませんか?
思いがけず凄い人達と土地の繋がりを知れば、更に地元に愛着が湧くかも知れませんよ?

ではでは、次回は護念寺の本院だった円海山、峰の阿弥陀寺と白山神社の記事でお会いしましょう!


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朝比奈峠等が鎌倉時代に整備される以前、平安時代の鎌倉武士達が鎌倉に集結する際に使っていたバイパスの古道が今も横浜市栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市朝比奈~十二所にかけて幾筋も現存しているのを皆さん御存知でしょうか?
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この写真の尾根道も、谷筋に降りる道も、実は昔々、武士のみならず多くの人が往来した古道です。
そして円海山の富士山と夜景の絶景地でもあります。
今回は随分前に歩いた際の写真を用いて、そんな富士山の絶景地を古道のスタート地点として選び解説したいと思います。
先ずは少し尾根道の話をします。
円海山の尾根の農道は武士達が往来した脇道でした。川沿いの鎌倉街道が平和になった鎌倉時代に整備される以前に使われていた“鎌倉上道”、“鎌倉中道”、“鎌倉下道”の鎌倉古道が存在し、更に毛細血管の様(よう)に張り巡らされたショートカットの道は全て水害に強い尾根道でした。
ですから今でも、この道を伝って1時間半~2時間くらい歩くと鎌倉市街地⇔横浜市栄区港南区磯子区金沢区を往来する事が出来ます。
鎌倉武士早駆けの道尾根道 久良岐のよし
第三管区海上保安本部関東統制通信事務所
※画像クリックして拡大して下さい。
このスタート地点、実は海上保安庁の通信事務所で普段は無人なのですが、この円海山の山麓には飛鳥時代~平安時代の長きに渡り大和朝廷に金環太刀や鏃(やじり)や馬具や鎧の軍事物資の材料となる玉鋼(たまはがね)を生産する“東日本最大のタタラ製鉄遺跡”の上郷深田遺跡と上郷猿田遺跡が2020年03月現在ではまだ存在しています。この地域は古代には鎌倉郡に属していました。
また横浜市最大最後の蛍の大生息地である瀬上沢の西側蛍生息地域も“まだ”存在しています。
・・・まだ、と敢えて言うのは東急建設が4月に遺跡と蛍のいる瀬上沢西側を削り取り商業地と宅地と人工池にする計画を横浜市が承認してしまう可能性が有るからです。
そこら辺りの歴史は以前、記事にもしているので興味の有る方は下のリンクから御覧下さい。
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鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
クリックで記事にリンク⤴

さて、こんな風に古代から製鉄拠点としての文化歴史と、更に横浜市最大最後の自然林を残す円海山の尾根だから鎌倉市街に通じる道が当時のまま風化しながら現存しています。
今回は以前歩いた時の写真を交えながら解説したいと思います。
因(ちな)みに昨年9月の台風で倒木が多発しましたが、横浜市側は素早く倒木を撤去し遊歩道を再整備しました。
しかし鎌倉市の松尾市長は特に文化財の保護に不熱心な方で、貴重な文化財の釈迦堂切通や北條時政邸城塞跡の衣張山~名越の遊歩道の復旧を怠っています。
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未(いま)だに原状回復整備を怠っているせいで今は名目的に通行止めでハイカー達が自己責任で登山を楽しまざるを得ない状態が続いています。途中には私有地も有るので鎌倉市には史跡保護と生活道路保全の意味からも至急復旧する義務が有るのですが・・・
もっとも、昔から円海山のハイキングを楽しんでた横浜市民も、鎌倉市側から六浦や港南台方面にハイキングを楽しんでいた鎌倉市民も今でも横浜まで歩いてくるので、海上保安庁の通信事務所のあたりで富士山を撮影していると挨拶を交わす機会が良く有ります。
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さて・・・
スタート地点の海上保安庁の通信事務所から南に進みます。
円海山~大丸山~関谷見晴台 久良岐のよし
※クリックして拡大して下さい。
最初の目標地点となるのは大丸山、その次が関谷奥見晴台です。
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この少し左手前の農道を降りて行った先の丘からは横浜港の夜景が一望出来ます。
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ではズンズン進みます・・・
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分岐点の所々にちゃんと道標(みちしるべ)が有るので迷う事は有りません。
寧(むし)ろ現地案内図よりGoogleMapなんかを見ていると山では迷ってしまいます。
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ちゃんと案内図有るから安心してください。
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もし変な場所は入っちゃったらさきに進まずに元来た道を戻って下さいね。
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たかだが横浜市内の海抜300mの山でも昔の廃道とかに入ったら迷いますよ、本当に。
昨年、小生が昔の廃道を散策して遭難しかけましたから(笑)。
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こんな感じで景勝地や植生の解説も随所に有ります。
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横浜市でも貴重な自然が残されているのですが・・・
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・・・昭和期~平成の乱開発で庄戸地区等が宅地化され森林が消えた事で麓の生態系も変わってしまいました。
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でも歩いていると自然豊かで清々しい風景が続きます。
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道は前日の天候によってとんでもなくヌカるんでいたりしますので、いくら整備されていても注意して歩いてくださいね!
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横浜市側は割とサクサク歩けます。
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さて、看板に大丸広場と出て来ましたね。
前振りして置きますと、この大丸山は恐らく記録に残らない要塞の跡です。
それはもう少し後で話しましょう。
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荒れて通れなくなってる場所も有るので気を付けてください。
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こんな分かれ道もちゃんと手前の看板を見てくださいね!
間違えて降りた先が全然違う場所で目的地に行けなかったとか悲し過ぎますから(笑)。
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猿の腰掛が沢山木に寄生していました。
中国に売れば漢方薬ですね~。
さて・・・
そろそろ大丸山に話を戻します。大丸山一帯は恐らく周辺の地名“関”の由来になった尾根道を封鎖する関所=砦の跡でしょう。
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この付近で各方面に道が分岐するので、未だ鎌倉幕府が未整備で奥州だけでなく北関東武士団が敵だった時代に、円海山~天園ハイキングコースの鎌倉武士の古道を一歩鎌倉側手前の尾根が1本に纏まる大丸山に関所兼要塞を築いて鎌倉防衛網の一ヶ所としていたのでしょう。
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実は大丸山周辺まで来ると、尾根側面に人工的に竪堀(たてぼり)を掘って尾根道の道路を制限したような地形が増えます。そしてこの大丸山や見晴台は敵の襲来を伝える烽火台(のろしだい)の役割も有ったと小生は推測しています。
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何故なら・・・
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神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址という場所が有りますが・・・
ここと大丸山を経由し金沢区の白山古道に抜ける道が、どうやら平安時代末期に頻繁に使われ鎌倉時代初期に朝比奈峠の開通で廃れていた旧金沢湾に抜けるショートカットの道だった様です。
後に室町時代中期に戦国時代の発端となった永享の乱~享徳の乱頃に室町幕府最後の鎌倉公方と成った足利成氏公もこの古道を再整備して利用したようで、十二所~釜利谷~金沢称名寺や富岡並木千軒に通じる道の途中に“禅林寺”を、氷取沢側に“宝勝寺”を開いていたりします。
この道が大丸山一帯が旧尾根道古道の要所だった事を説明する為に鎌倉時代の事件を以前書いたブログの紹介を交えながら、少し解説します・・・
鎌倉幕府の成立数年後に鎌倉幕府執権北条家の陰謀で名将畠山重忠公が謀反の“冤罪”を着せられた事件が発生しました。
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※写真は旭区二俣川古戦場の畠山重忠公首塚。
御子息の畠山重保公は由比ヶ浜を北条家の手勢に襲撃されました。
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※引き潮の由比ヶ浜の風景
新編相模風土記稿では由比ヶ浜で交戦した伝承から重保公の討死の場所は恐らく由比ヶ浜の屋敷だろうと推測しています。しかし、それでは横浜市金沢区に畠山重保公が切腹した伝承地に供養の為の御廟所が昔から大切に地元民によって守られており由比ヶ浜での討死にでは整合性が無くなってしますます。
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※金沢区釜利谷の畠山重保公の御廟所
そこで小生が史跡と事件のパズルを組み合わせると、実は簡単に横浜市旭区と金沢区と鎌倉市の伝承の全てに整合性が有る事を開設する事が出来ます。
この伝承に、もう1つ、事件当日の伝承に登場していない場所を登場さてみましょう・・・
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実は鶴岡八幡宮の東側門前には畠山重忠公の館が存在しました。
恐らく鎌倉幕府執権北条家の与力武将達は、真っ先に鎌倉での畠山家武士団を無力化させる為に、留守居役であり指揮官の畠山重保公を討取るべく、鎌倉市での伝承通り由比ヶ浜の重保邸を急襲した事でしょう。所が当日もしくは翌日には畠山重忠公が鎌倉に入る予定だったので、重保公は恐らく自分の邸宅ではなく重忠公の屋敷で父上の到着に備えて色々と準備をしていたのだとしたら・・・?
由比ヶ浜の屋敷で畠山家臣団が襲撃され、北条家と交戦中に畠山配下の武士が鶴岡八幡宮横の畠山本宅に北条家急襲による危急を伝えたはずですね。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
※国土交通省関東地方道路整備局横浜国道事務所より拝借画像
上の画像は鎌倉街道が未整備だった平安時代初期くらいまでの主要街道です。
畠山重忠公は旭区の二俣川で八王子街道を下って来た愛甲季隆公や糟屋有季公の軍勢と衝突し討死にしていることから、埼玉県の秩父地方を出発して旧奥州街道から(町田の)店屋で鎌倉街道下道に迂回ないし、一度横浜市域のかなり鎌倉付近まで来てから知らせを聞いて秩父に戻る途中で交戦した事が判ります。
・・・すると由比の自邸が襲撃された事を知った重保公が逃げつつ父上に陰謀を知らせる為に進む道はおのずと大丸山に通じる“天園ハイキングコース”~“円海山”の平安時代の古道に限定されます。
大丸山地形 久良岐のよし
大丸山は今でも空堀地形が現存しています。そしてここを通過しないと鎌倉十二所方面から北側に抜ける事が出来ません。
畠山家史跡位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大し位置関係を確認して下さい。
新しく開削され通行しやすかった朝比奈峠は北条家の本拠地の衣張山直下の細い街道と歌の橋を越えなければ行けないので敵兵が待ち構えている事は間違いないでしょう。
更に円海山大丸山の要塞に北条家の兵士が既に配置されて居る事を想定すると、鶴岡八幡宮の横から畠山重保公が逃げ延びる道は鶴岡八幡宮から北東側の二階堂方面~十二所山中~円海山~白山古道1択しか残っていなかったはずです。
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今では畠山重保公が逃げた鎌倉武士の古道には横浜自然観察の森が有り、中にある上郷森の家には宿泊する事も出来ます。
白山古道周辺 久良岐のよし
この自然観察の森一帯が、北条家の陰謀で鎌倉に召還されて八王子街道~鎌倉街道下道を下って来ている最中の父上に北条家による罠だと言う緊急事態を伝える為に鎌倉を脱出した畠山重保公の逃走経路で、恐らく釜利谷西や関東学院大学金沢文庫キャンパス建設で消えた部分の白山古道でしょう。
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それよりも南に逃げてしまうと、浄願寺跡の上行寺東遺跡が存在する山が実は要塞でした・・・
六浦の港を守っていた権現山御伊勢山の荒尾城が存在し幕府の軍勢に捕まってしまいます。なので結局白山古道に入り、恐らく武士の屋敷か名も忘れられた寺院が有った様な谷戸地形の畠山重保公御廟所の場所に有った建物で束の間の休息をして、御父上に合流するのを諦めて自決したのかも知れませんね。
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大丸山の直ぐ近くには見晴台と言う広場があり、横浜港を遠望する事が出来ます。ですから、この一帯は烽火台にも適している訳です。
昔々、港南台や洋光台方面が開発される前は、ここの風景が東京湾を見る有名な場所だったのかも知れません。
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この見晴台の先に進むと鎌倉市との境目にたどり着きます。
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ここから先に進むには鎌倉市側の天園ハイキングコースに進まなければいけません。
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この先に進むと・・・
第一横浜霊園と鎌倉霊園の間を通過する鎌倉防衛網、鎌倉城の外郭にぶつかり、いよいよ鎌倉旧市街に入ります。
鎌倉市と横浜市の境、朝比奈トンネル 久良岐のよし
まぁ、実は自己責任で歩いてる人も多いしそんなに危ない訳でも無いので自分で行くか行かないかは判断してください。
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行く先には鎌倉武士が朝比奈峠開削以前に岩場を切り開いた切通も存在します。
さて・・・
長くなりそうなので鎌倉市域の天園ハイキングコースは、又、続きの記事を分けて書きたいと思います。次の記事、天園ハイキングコースで可愛い御婆ちゃんの休憩所を紹介するので楽しみにして下さい。

最後に今回解説した部分と関係の有る記事のリンクを以下に纏めて置きます。

興味の有る方は御覧下さい。
鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
蛍(ホタル)の季節到来!円海山瀬上沢で5月中旬から。
  東急建設の破壊計画で最後のチャンスかも?

神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町
畠山重忠公の最期の時、畠山重忠公と愛甲季隆公の二人の名将が死力を尽くし戦いあった古戦場
  ・・・横浜市旭区役所周辺一帯。

畠山重保公の御廟所、横浜にも御縁が有る鎌倉武士の名門畠山家御曹司の供養塔
  ・・・横浜市金沢区。

【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。

では、皆さん、また次の記事でお会いしましょう~♪
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恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
公式ホームページURL→http://koiame-movie.com/#/boards/koiame
主題歌「フロントメモリー」MPV→YouTube公開動画


2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
杉田~富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくる・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ沢山の蛍の見れる季節に成る貴重な横浜最後の自然が残る金沢区~栄区~磯子区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
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富士山の赤富士とダイヤモンド富士の景勝を見られるポイントとしても夕日の撮影が趣味の人達には広く知られています。
恐らく知らないのは❝築地育ち❞の林文子市長くらい。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
Google map→リンク
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守って来た❞貴重な自然を子供達の為、日本文化と自然保護の為に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 
〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299

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本当は今日はコッチ
       ↓
【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、龍散寺~式内社小野神社~毛利家発祥地)
 ↑ 
コレの続きの記事を書かなきゃいけなかったんだけど、1月2日と同じSuper moonでの皆既月食が見れたので、そっちの事を少し書こうかなと。

2018年01月31日、この日はSuper Moonの皆既月食・・・
横浜市の最高峰の円海山へと登り月食の様子を撮影に夜9時半頃からずっと観察してた。
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スーパームーンの皆既月食を観察する為に夜ジムに行かずに、横浜市最高峰の円海山の中腹の在る所に・・・そこは円海山の木々が少し開けた場所で星空が良く見える。
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そこで寝そべりデジカメを両手でシッカリホールドして皆既月食を撮影してた・・・
「クッソ寒い(笑)」
・・・でも夜の冷気と古代人が大切にした円海山の清々しい空気で最近クサクサした心が少し晴れた。
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2万円の安いデジカメを持参、望遠レンズも無し三脚も無し、別に天体観察オタクでも無いので歴史オタクの小生はこのクオリティーで満足。
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思った以上に綺麗に撮影で来たかな?
でも手振れが激しく(笑)月が分身した写真が何枚も撮れてしまった(笑)!
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まぁ、これはこれで面白い(笑)!
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誰もいない夜の山の広場に寝転んで星空を見上げて見る満月はとても神秘的だった。
きっと古代人は月読(つくよみ)の神様の命(みこと)を拝んで皆既月食を観察して閏年の調整を行ったのだろう。
天体観測を通じて何だか古代人と繋がった様な気分に成れ嬉しかった。
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この❝円海山の瀬上沢”は❝横浜市最大最後の蛍の群生地❞として有名ですが、アホの東急不動産と横浜の林文子市長が開発しようとして横浜市民の保護活動と交戦状態の最前線に成っている場所で、古代人の聖地と鑪(たたら)製鉄遺跡と灌漑水田史跡、更には鎌倉武士達が有事に使っていた高速道路鎌倉早駆けの道の間道も幾本も林道として残るのですが、林文子市長に成ってから林道保持が怠られた状態に成っていたりもします。
現地円海山の栄区庄戸地区側には白山神社古址や磯子区側には浄土宗総本山の知恩院住職となった任蓮社然譽了鑑大和尚を輩出した❝峯の阿弥陀寺❞も現存しています。
以前書いた記事が有るので、御興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして読んで見て下さいね!
●円海山と瀬上池の沢…蛍が見れる横浜南部の最後の大森林。
●円海山の蛍が観察出来る季節です。・・・過去記事の転載も。
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道①…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●古典落語「強情灸」の舞台と鎌倉古道②…円海山白山神社〜阿弥陀寺~護念寺。横浜市磯子区峯町・港南区港南台
●神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町


あ、それと梅の季節ももう直ぐなのでそれのリンクも貼ります・・・
●神奈川県内の梅花鑑賞に適した梅林一覧。
※イベント日付が以前のままなので、詳細は御自分で記事に掲載されている電話番号までお問い合わせくださいね♪

次の❝【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑥❞はSuper moonの夜の日に訪問した、仁徳天皇=大鷦鷯尊大王の弟皇子で莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)命が埋葬されていたのに神奈川県教育委員会が保護せず破壊された真土大塚古墳と莵道稚郎子命が御祭神の延喜式内社である前鳥神社、そして古墳時代初期の神事を行う神奈川県の寒川大社の追儺神事つまり神社文化成立以前の古代から続く神事の事を書きます。この神事は上賀茂神社や寒川大社などの一部だけで中国渡来の陰陽道や仏教の文化の影響を受けず、そして明治基督教徒の政治家による宗教改革でプロテスタント化した国家神道の影響を受けずに続く貴重な❝日本古来の進行の原型を残す神事❞だったりします。

・・・では!次の記事で又皆さんに報告したいと思います~♪
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横浜市栄区長倉に江戸時代には経堂橋と呼ばれ、大正時代の補修以後は昇龍橋と呼ばれた橋が在ります。
この橋は上郷6号緑地沿いの遊歩道にかかっているのですが、旧鎌倉郡の原風景を見る事が出来る重要な場所で、上流の瀬上沢には自然の蛍も生息している貴重な自然公園に成っています。
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素敵な石橋でしょう?もう少し秋深く成った方が綺麗かも知れませんね。
石橋の左側の赤い筋は自然湧水の小さな滝です。
ここ等辺りの地盤は関東ローム層で鉄分が多く含まれているので鉄分のせいで酸化した赤い成分が沈着するんですね。ですから鎌倉は武士の首府だった時代に水質の良い井戸が少なくて、逆に水質の良い井戸には鎌倉十井と呼ばれた場所が出来たりしました。
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現地に行くと、栄区役所の熱心な御担当者がちゃんと調べた説明も有ります。素晴らしい。
この橋は横は風情があるだけでなく市内では最古の現存する石橋で、絶対に破壊させてはいけない文化財なんですね。
実はこの橋は白山社の旧参道で、その傍らには武士達が駆けた旧鎌倉街道の間道の1筋も残っていたりします。
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橋を渡った先に、白山社古址の石段が有ります。
何故、白山社“古址”と言う言い方をしたかと言いますと、もう廃社にされ近隣の庄戸地区に移転してしまったんです。
昔は、地域の殿様や庄屋さん達が神社に収入に成る土地を寄進して、その土地の田圃の年貢が神社運営費に成ったりしたのですが、明治政府の唯一の失政である宗教改革で、神社仏閣の土地は没収され多くの神社仏閣は運営困難に成り荒廃し、廃社や廃寺に成って行きました。
日本文化を大切にしようとした明治政府でしたが、この失敗で寧ろ日本文化と日本人の乖離(かいり)を招いてしまったんですね。そして多くの神社仏閣に止めを刺したのが敗戦後のGHQの統治とGHQ撤退後に行政に食い込んだ反宗教のマルクス主義者や左翼です。GHQは僅かに残った神社の土地の多くを更に奪いました。GHQの撤退後に市に返還されるのですが、この際、多くの市職員や政治家に戦時中の反動で左翼閥が多く成っており、GHQから返還された神社仏閣の土地を元に戻す事は無く、市の財産として売却してしまった場所がほとんどでした。
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この白山社も荒廃してしまったのですが、石段の様子を見るに古い時代からここに在った石材に見えます。
小生の経験だと摩耗の仕方から遅くても安土桃山時代か江戸時代初期ぐらいの石段じゃないでしょうか。
恐らく、鎌倉武士達も往来する際に、この白山社で御参りした事でしょう。
今では何も建物も石碑も、当然書物も無いですが、なんだか神秘的な雰囲気は漂っています。
何で小生が、ここを鎌倉武士達も拝んだと推測しているかと疑問に思う人もいるでしょうか?
ここには、鎌倉武士達が関与した証拠が残っています…
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最初の石段を登って境内に入ると左手には切り抜かれた箱状の穴が有るんですが、これは奈良時代~鎌倉時代末期までの武士の習慣で、矢倉と呼ばれる死者の供養塔を置くスペースだったんですね。
昔の鎌倉武士の御墓は御骨を骨壺に入れた後、地下に埋葬するのではなくて石塔(墓石とは形状が違う)の中の納骨スペースに骨壺を入れる事が多かったんです。
土地の狭い鎌倉に住んだ武士達らしい習慣ですね。
小生は偉人の御廟所の写真を普段は掲載しないのですが、一つ具体例として三浦義澄公の供養塔を皆さんに見て頂きたいと思います。
ちゃんと史跡保護しないと骨壺を海外への転売しようとする盗掘者や外国人犯罪者に破壊されるよと言う戒(いまし)めの意味も込めて…
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これは鎌倉武士の代表格、三浦家の棟梁、三浦義澄公の菩提寺だった薬王寺跡:横須賀市衣笠の写真です。
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御寺は明治政府の宗教政策の失敗で廃寺に成り、御墓は破壊され骨壺が盗まれてしまいました。
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納骨スペースが無残に叩き割られ石塔上部が直接おかれて中身が盗掘されています。
鎌倉武士達の御墓は西日本の文化と違って元来はこのような四角い石柱の中に空洞が彫られ、そこが納骨スペースに成っていて骨壺が納められていたんですね。
そして、供養の石塔が立てられる場所は先程の写真の様な壁面に掘られた矢倉と呼ばれる人工の半洞穴の中でした。
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だから、この矢倉が有る事で、この白山社が武士にとって大切な場所であった事が解るでしょうか?
この昇龍橋の少し下流には権現橋と言う橋が有ります。白山社はつい150年前に明治政府の宗教政策で神社と御寺が強制分離させられるまで多くが白山権現と呼ばれ神仏習合つまり神社と御寺の両方で祀られる神様でした。
そして、ここの昇龍橋も明治時代まで経堂橋と呼ばれた事から、この付近には御寺が在って白山社古址は白山権現を祀る御寺の経堂だった事が用意に推定出来ます。
白山社の矢倉は最初の矢倉を登った左手に在ります。正面を向くと、当たり前ですが神社?経堂?の跡の石段も現存しています。
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本当に残念ながら社殿は維持できずに取り壊されてしまい、今では武士達が歩いたであろう石段しか有りません。それでも、この境内に踏み入ると何だか陽が当たらずとも清々しい空気に満ちています。
さて、白山社古址と昇龍橋の説明からは少し離れて、周辺の遊歩道の風景を見てみましょう。
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白山社古址を正面に昇竜橋から左手を見た先が、遊歩道を瀬上池や瀬上沢に進む順路です。
それと反対方向の朝比奈峠側に歩いて行くと、下の風景が見られます。
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この一帯は小川の両岸が散策路に成っていますが、両岸に昔から道が有りました。
どっちかが崩壊してもどっちかが通れる様にする工夫でしょうかね?
暫く進むと権現橋が有ります。
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橋の先は今は民間に払い下げられてしまった様です。
橋の手前に辛うじて歩ける幅の遊歩道がギリギリ残っているだけ。
ふざけんな横浜市。
ところで、権現橋の奥には広い谷戸の削平地が広がっています。
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もしかしたら、ここに本来の白山社の仏教的な御堂や御本尊や御神体を祀っていた御寺が在ったのかも知れませんね。
今度、新編相模風土記稿を読む時に調べてみようと思いますが、果たして掲載されているかどうか…
さて、遊歩道として何となく歩いても良い場所ですが神社の建物は無くても雰囲気は残る事が伝わったでしょうか?
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川辺に降りる事も出来ますので、もし近くを通りがかったら散歩して見て昔の人の生活を連想してみて下さい。
この川辺で馬に水を飲ませる武士もいた事でしょうね…
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こんな恰好した鎌倉武士達が、ここを通って鎌倉と地元を往来したんですね。

さて、この昇龍橋が参道だった白山社は廃社に成ってしまった訳ですが・・・

神社や御寺と言うのは只の宗教施設では無くて、境内の石碑や建物、或いは所蔵されている文書に造営した武将達や地域の人々の生活が刻まれているタイムカプセルなんです。
そして、時に昔の人が未来の人、つまり私達へ当時の災害を伝えようとした警告の場所だったりする訳ですが…
残念ながら、現代人の信仰心が弱く成った事や、日本帰化民が多く働く土建屋にとっては邪魔な物が神社仏閣や城址で建設会社は史跡が出土しても教育委員会に届けずに破壊し宅地造成したり、史跡と解っていても届けずに破壊し宅地造成しようとします。

・・・悲しい事ですが、そうやって貴重な建築遺産や史跡が段々とこの世から消えていき、結果的に現代人にその代償が帰ってきます。

それが東日本大震災でした。

東日本大震災では昔の人々が経験した大津波の記録を石碑にして神社や道の傍らに建ててくれていたのに、多くの人間が神社仏閣に足を運ばなくなり、太平洋戦争の敗戦後GHQの制作で日本語の漢字の繁体字の使用が禁じられた為に石碑を読める人自体も少なく成っていたので、津波の到達地点の石碑より海抜の低い位置に多くの家が建てられており、1万3千人近くの人々が亡くなってしまいました。

小生は歴史偉人を尊敬し、神様と成られた前時代の日本人の偉人も崇拝しています。
それは現代人の生活が我々が突然手に入れた物では無くて、先人達の多くの悲しみと努力と別れの結果の少しの成功と喜びの上に成り立ってるからです。
今、小生が生きているのは神奈川県や日本を開拓して下さった神様に成った先人や武将達がいるからだと思っています。
ですから小生は歴史人物を尊敬しない人間以外、全て敬称を付けて呼びます。
歴史家は歴史偉人を物の様に呼び捨てにし、多くの観光協会は歴史偉人を商売で利用しても偉人の関わった神社仏閣は滅んでも良いと思っている連中ばかりです。特に先日喧嘩した社団法人〇〇県観光協会の管理職。
歴史オタクの小生と連中の違いは、歴史人物を生きていた人として尊敬して感謝しているかどうか、現実にいた人で御子孫達が居る事も考えて歴史に触れているかどうかだと思います。 
そして繰り返しには成りますが、先人が残して下さった物には東日本大震災で活用されなかった我々への警告も多く残っています。
だから大切にしたり、日頃から身近に感じる距離で散歩したりする事が 大切だったりすると思っています。

そんな思いで昇竜橋と白山社古址を紹介してみました。

では、次は愛知静岡旅行の休日雑記の続きを書きます。それでは又、次の記事で! 
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今朝~夕方まで散歩してた場所…


【しじま】
朝焼けのベイサイドマリーナ
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ポケモンGOやってるカップルが仲良しさんで微笑ましかった。
【朝方】...
柴漁港と名物の小柴の穴子天丼
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最近、忙しくて来れてなかった。癒しの郷土料理。
【正午】
金沢文庫博物館
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涼しい所で歴史を御勉強。

【昼下がり】
称名寺と境内地の稲荷山(金沢城址)
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参道の並木の木陰と心地良い風は天然のクーラー…
コンクリートジャングルにも緑を増やせば良いのに。
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称名寺は安らぎの場…
そしてポケスットップが大量、レアポケモンも沢山出たなこれ…
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称名寺の境内の稲荷山の眺望は…
多くの❝島だった❞地形に、埋め立てられた宅地を脳内で削除し海に書き換えなくても十分綺麗。
でも横浜市が愚かな埋め立てを行わなければ金沢八景と呼ばれた景勝地は更に美しかっただろう。
御老人夫婦が仲良く御弁当を広げていた。
もし結婚する事が有れば、この御夫婦を御手本にしたい。

【暮れ】
氷取沢市民の森と大谷戸広場付近の笹下川(大岡川本流)の源流と氷取沢神社(旧間宮綱信邸宅から現在地へ移転)
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ココか円海山の頂上か瀬上池で鳥のさえずりを聞くのが癒し。
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源流。泥岩と関東ローム層の山を削り流れる笹下川源流は沢と言うより沼なんだな。
これは鎌倉も同じ。
本来なら三浦半島の様に、沢蟹だけでなく陸生の蟹も沢山生きていた円海山の沢。
人が生物を消してしまった。
一見綺麗な大谷戸広場の沢も、下流の笹下川の分水路の建設で魚の遡上も無く成り魚類は絶滅してしまった。
反対側の瀬上池と瀬上沢も林文子市長が東急グル―プと結託し開発し同じ様に天然の蛍やフナを絶滅させようとしている…。
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氷取沢神社は間宮家と関係が有る…
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元々は背後のマンション団地の位置に在ったが、立ち退かされ現在の位置に遷座させられた。
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氷取沢神社の旧社地が、北条家の外交官として織田信長公にも面会し、日本100名城の一つ八王子城を設計し北条氏照公の付家老を務めた間宮綱信公の屋敷跡だった…
場所を移転してしまっては、神社を建てて氷取沢間宮家家老の岡本家が殿様の旧跡を守って来た意味が無い。
…しかしながら、ここに来れば間宮綱信公や御子孫の間宮士信公に御挨拶が出来る。
【黄昏】
円海山の森林越しの鎌倉遠景
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横浜最期の自然大森林…
まだ空が黄色に成り始めた時間、青い空が残っていた。緑が美しく、ここも鳥のさえずりが癒してくれる。

【宵~夜へ】
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ポケモンGO御散歩の成果…
どうやら円海山周辺は山と川と池が多い関係で、色んなレアポケモンが出るらしい。
オッサンがポケモンやりながら御朱印も集めて歴史資料も収集して…脂肪も収集。
脂肪はもう要らない。
まぁ、歩いて山登ってして、汗かいて天丼はチャラかな。

ふむ。
普通、でも休日らしい休日。良かった。
信奉する神仏と、尊敬する歴史偉人と日本の発展に寄与して下さった近代の横浜の外国人の皆さんに小生と多くの日本文化を愛する民と善良な世界の人々を今日も1日御加護頂いた事を感謝。

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ブログネタ
日本の政治 に参加中!
円海山を御存知ですか?
今、その円海山と言う山の「瀬上沢」と言う沢で蛍を見る事が出来ます。
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画面ぶれててすいませんね、街灯の無い真っ暗な農道での撮影…携帯ではこれが限界でした。

6月7日、横浜市港南区磯子区栄区にまたがり鎌倉まで繋がる横浜最後の大森林、そして平安時代からの武士達の駆けた鎌倉早駆けの道の史跡が林道として残る円海山に蛍を観察に行ってきました。

蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。
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この栄高校の有る場所一帯は奈良時代からのタタラ製鉄遺跡が出土した史跡だった場所であり、その瀬上沢も奈良時代から今に灌漑水稲耕作を今に伝える文化醸成地であります。
大げさでは無く、この一帯の田畑は農業の史跡であり、古代からの灌漑施設の史跡とも言えます。

今日、蛍は5~6匹出てきて可愛いオシリの優しい光をホワ~と照らしてくれました…
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携帯だから良く写せないけれど、それでも優しい光がわかりますよね~♪

小生が子供の頃は、良く瀬上池にザリガニを獲りに自転車で行って、みんなで瀬上沢で水遊びしたり瀬上池で釣りをしたり、林道を駆けずり回って遊んでいました。
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昔はもっともっと沢山の可愛い蛍が見れたんです。
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左上の2匹の蛍君達…オシリが光ってるの判りますか?
昔わね~瀬上沢には天然のフナもいたんですよ~!
今でも瀬上池にはいますけれど、もう、瀬上沢にはフナはいません…


この瀬上沢周辺、局地的に見るとぱっと見は有り余る自然に囲まれているようですが…
瀬上沢

少し離れて見てみると…
瀬上池の位置
…丘の上を宅地開発されてしまい自然環境が劣化したせいで蛍も激減し、フナも消えました。
沢蟹も減り、トンボの幼虫のヤゴのエサになるカワニナも減り…
この瀬上沢も自然環境が崩壊寸前、歴代市長の御蔭で首の皮一枚、繋がっている状況でした…

が!

近年、歴代市長や市民の意志を踏みにじり、ふとどきにも!この沢の自然環境にトドメをさして宅地開発しようとする業者とそれを止めない市長が出てきてしまいました。
東急グループと、その労組と、林市長です。

蛍を消し去る意志が無かろうが、宅地化した瞬間に間違いなく蛍は消えます。
結果的に消えてしまえば、自然環境を破壊したのは開発した業者」と、その業者の労働者の代表の「労組」と、歴代市長の「里山思想に基づく円海山の保護」と乖離した「開発容認する市長」です。
つまり、この瀬上沢においては「林文子市長」と「東急グループの労働者」と「東急グループの経営者」と言う事に成ります。

皆さん、横浜市にこんな素晴らしい自然環境が首の皮一枚つながった程度の危うい状況で残っているのを知っていましたか?
円海山は横浜市で一番高い山なので風景も綺麗です…
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この通り、まだ神社や御寺が生活に密着していた昔の古代~戦前、多くの関東地方の先人が「此花昨夜姫(このはなさくやひめ)」の化身として仰ぎ見た富士山も綺麗に見えます。
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先に述べましたが、円海山の林道は鎌倉武士達が利用した古道の史跡で、今でも円海山~鎌倉の古代の出入口だった十二所の大平山の古道や鎌倉時代の出入口だった朝比奈峠の朝比奈切通しへ通じています。
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皆さん、蛍を見に行って古代人から受け継いだ自然を鑑賞してみませんか?
可愛い蛍君達に、弱ってしまった自然の中、ギリギリ残った儚(はかな)い可愛さを見せてもらい、瀬上沢の自然の大切さを感じて見ませんか?

円海山に富士山を見に行って、先人達が女神さまとして拝んだその美しい姿を心で感じてみませんか…?

この円海山は文化醸成地だったので、以前のブログ記事で紹介した竹林の風景が美しく古典落語「峰の灸」の舞台に成った「円海山護念寺」と言う御寺や…
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元々は護念寺の本院だった安養山 峰の阿弥陀寺も在ります。
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この阿弥陀寺は浄土宗総本山である京都の知恩院の第四十六世、了鑑大僧正を排出した由緒の有る御寺でも有ります…
その阿弥陀寺の前にある峯白山神社は阿弥陀寺の昔の和尚様によって当時の阿弥陀寺境内だった現代の境内地に白山権現様を勧進して開かれた神社です。
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瀬上池と瀬上沢の近く、阿弥陀寺とは円海山の反対側八軒谷戸には白山神社古址と旧参道に架かけられた横浜最古の石橋で神奈川の橋100選の一つにも選ばれている昇竜橋と、庄戸地区に移転した白山神社も有ります。
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この神社の白山権現の神様は天皇家の御先祖様に当たる女神様です。
そんな神様が鎮座し、大僧正を排出し、古典落語の舞台にも成った円海山ですが…
可愛い蛍も「瀬上沢」で待ってくれていますよ~!

皆さん、鎌倉文化や古代人の歴史を刻んだ円海山、是非、この機に散歩しみて下さい。

注意!
蛍を鑑賞する際は以下の事を順守して下さい!

蛍を見に行く時は大人数で行かない!…大人数の集団だと虫さんがビックリして逃げてしまします!
暑くても長袖長ズボンに虫よけちゃんと塗って行くのをお勧めします。…自然の中、夏、当然、蚊がいます。
タバコを吸わないで!…火事の元な上に、匂いで虫が逃げます。そもそも条例で禁止されています。
火気厳禁!…当たり前。見かけたら通報します。
ゴミは持ち帰れバカ野郎!…そもそも自然公園でゴミを出すな。
夜中に騒ぐなバカ野郎!…風流の欠片も無い事をするなら来るな!騒ぐなら昼間の川遊びにしろ!てか祭りに行って騒げ!てか寧ろ日本人辞めてどうぞ!
以上、宜しく。



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ブログネタ
風景写真 に参加中!
横浜市は余所(よそ)の地域の人から見ると「みなと未来21地区」や「中華街」や「山下公園」や「外人居留地」のイメージくらいしか無いそうですが…

とんでもない!
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里山に囲まれた素敵な古民家の御庭でしょ?
これ、昔は鎌倉郡だった横浜市栄区の鍛冶ヶ谷と言う地域にある「旧小岩井家住宅」です。
小岩井家は元々は、この地域の庄屋(しょうや=村長)さんだった御宅なので、その邸宅は茅葺屋根の立派な造りの古民家です。

何だか田舎の御婆ちゃん家に来たみたいでしょ?
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…もっとも、貴方(あなたの)の祖父母の住む家がこんなに立派な茅葺屋根の家だったら、そりゃもう大金持ちですね(笑)。
何故なら家の作りの立派さもさることながら…
茅葺(かやぶき)屋根の家は、藁葺(わらぶき)屋根の家と異なり大変に高価なんですよ。
屋根を葺(ふ)き替(か)えるだけで4000万円以上かかると言われています。
更に庄屋様の御宅ともなると平屋の入り母屋(おもや)作りなので、かなり大きな母屋と若夫婦の住む別棟の離れが有ったりします。

この素敵な古民家…
実は無料公開されているばかりか、「本郷ふじやま公園」と言う緑地公園の一部なんです。

ですから…

「あれ?昭和初期に来たのかな?」とタイムスリップをした錯覚さえしそうな風景が庭先には広がっています。
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ヨコハマの子供たちが丸で「カッペ(笑)」の様にのびのび元気に遊んでいます。
横浜市は「里山思想」に基づいた都市計画がなされており、どんなに市街の中心地にいっても必ず、この様な里山が保存されているんですね。
ただし、その里山が必ず文化的に大切な場所とは限りませんが。

ここでは少し昔まで日本中にあった風景を垣間見れます。
昔の家の土間(床が靴履いて歩く屋内)の炊事場(キッチン)とか…
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一般人用の玄関入ってから靴脱ぐ土間とか…
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今じゃ少なくなった縁側とか…。
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本当、懐かしいな~。

離れもあるので、何だか昔の農村を訪ねて来たような雰囲気です。
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立派ですよね~?
お正月はここで餅つき大会も行われますし、春には凄く立派な桜の木に花が咲き誇ります。
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この下の写真は長屋門と言います。
長屋門は江戸時代、ある程度の格式の有る家にしか造る事が認められなかった建物です。

もうこれ、古民家好きにはヨダレだらだら出るくらい堪らないんじゃないかな(笑)?
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御屋敷と呼ぶのが相応(ふさわ)しい外観ですね。
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さて、ここからが歴史的な話題の本題部分です。

以下、文章だらけですが、歴史好きと特に横浜市栄区民にとっては読む意味が有ると思うので、どうぞお付き合いください!

この旧小岩井家が治めた地域は鍛冶ヶ谷村でした。
今のJR京浜東北線本郷台駅から少し離れた鍛冶ヶ谷地区一帯ですね。
その鍛冶ヶ谷を中心としていくつかの村が明治時代に合併され「本郷村」が設置されました。
それが本郷台の地名の由来ですね。

鍛冶ヶ谷はその名の通り、武具製造の鍛冶職人が昔から住む地域でした。
どれくらい昔かと言うと…
恐らくは平安時代中期です。

この鍛冶ヶ谷の付近には古代から武具製造や蹈鞴(タタラ)製鉄に関わる地域が多数有りました
その名残は今も地名に残っています。
…港南区の"日野"→日野=火野…この地域は実際、鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が建設した野庭城と言う御城もありましたが、お隣の上郷には平安時代より更に古い奈良時代からのタタラ製鉄の遺跡が発見されています。
そして隣の金沢区にはそのまま金沢の地名と釜利谷と言う地域もあり、いずれも製鉄に関わる地名です。
西暦110年頃には日本武尊が鎌倉の先ある三浦半島に遠征して来ているので、この一帯は早くから開けていたようです。

さて…
鍛冶ヶ谷一帯に話題を戻します。
実はこの鍛冶ヶ谷一帯、小生は関東人が軍神と崇(あが)める平安時代の名将、陸奥守(むつのかみ)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)を歴任した関東の武士団の棟梁、源朝臣(みなもとのあそん)八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公の兵站(へいたん=補給基地)だったと推測しています

因みに源義家公は鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公の4代前の祖先です。

何故(なぜ)、鍛冶ヶ谷一帯が義家公の兵站だったと推測するかと言うと、旧鎌倉郡村岡郷=現藤沢市村岡の村岡城を拠点にした、鎮守府将軍の平良文公は源苑(みなもとのあつる)と一騎打ちの後に盟友となり共に源氏と平氏は関東の発展に協力し尽力する事を約束しあいました。
※平良文公に関する過去の記事は「ココ 」←クリック!

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(軍神と言われた源義家公)

その平氏と源氏の盟約を体現する様に、後に源義家公が前九年後三年の役に出征すると、坂東平氏はこぞってその幕下(ばくか=組織に入る)に入り協力します。
その時に鎌倉御家人の祖となる二人の名将が参陣しています。
一人目は鎌倉景政公…関東では御霊神社の祭神として信仰されています。
二人目は三浦為継公…御子孫には鎌倉御家人の三浦氏や和田氏、戦国大名芦名氏や正木氏や三浦氏がいます。
※三浦為継公に関する過去記事は「ココ 」←クリック! 

実はこの二人は従弟同士で、更に平良文公の子孫です。
つまり良文公以来の源家との盟約が履行されていた訳です。
この時、平家側は義家公に対し、居住地等を提供しています。
その場所が今の鎌倉市扇谷(おおぎがやつ)地区にある「亀ヶ谷(かめがやつ)にある寿福寺」のある場所
とその一帯なんですね。
亀ヶ谷は狭い地域です。
源頼朝公が鎌倉幕府を開く以前、実はこの父祖の故地(こち=ゆかりの土地)である亀ヶ谷に幕府を開こうとしたのですが、狭すぎて御家人達から反対され、やむを得ず鶴岡八幡宮の東側の大蔵地区に大蔵幕府を開いたなんてエピソードがある位なんです。
ですから鍛冶ヶ谷では軍隊の物資補給や武具補修の職人集団や商人を住ませる町形成はままならないんですね。
その亀ヶ谷から徒歩でも行ける距離には、現在でも源義家公と関連の有る地名や施設名が溢(あふ)れかえっているんですね。

亀ヶ谷の有る場所から現在の北鎌倉は歩いて15分程の距離ですが、その北鎌倉から20分位歩くと鍛冶ヶ谷の最寄駅の本郷台地区に至ります。
この鍛冶ヶ谷を含めた本郷台地区には、「河内」と「公田」と言う地名の場所が有ります。
河内とは大阪市の東部にあった国の名前です。
何故、唐突にこの地名が旧鎌倉郡、現横浜市栄区に出て来るんでしょうか?

実は源義家公以来、関東武家の盟主(めいしゅ=主従ではない協力関係のリーダー)としての立場を築きますが、この義家公の家の「源家」は源家の中でも河内源氏と呼ばれた今の大阪府羽曳野(はびきの)市を本拠地とした一族なんです。
そして、その羽曳野市の有る場所は、昔は「河内国」と国名を呼ばれた地域なんですね。
恐らく、亀ヶ谷に住んで居た義家公の荘園だったから河内の地名が横浜市栄区に残っているんでしょうね。

更に「公田」の意味ですが…
公方(くぼう=将軍)様+田畑…公方様の田畑…公方の田…公田となる
訳です。
この栄区本郷台の「公田地区」と「河内地区」は隣合わせの位置です。
そして更にその隣にあるのが鍛冶ヶ谷です。
つまり、町形成の不可能な亀ヶ谷に住む義家公は、公田一帯に生活用の食糧補給の荘園を坂東平家の武士から提供されており、武器を鍛冶ヶ谷で補給していたのだと考えるのが自然なんです。
港南区の日野や栄区上郷地区のタタラ製鉄所で製造された鉄で、隣村の鍛冶ヶ谷の鍛冶職人が義家公率いる源氏軍の武具補給補修を担っていたんでしょう。

ここから源氏と与力の平氏や菅原氏や橘氏や丸子氏が出撃して清原氏や藤原氏との死闘を演じたんですね…
その前九年後三年の役や関東の武士団の繋がりの話は過去に「永谷天満宮」の記事でも触れていますので、ご興味ああれば御覧下さい。
※永谷天満宮と菅原氏と平氏の関係に関する記事は「ココ 」←クリック!

余談ですが、鎌倉市は現在でも伝わる有名な刀鍛冶のブランドが有ります。
以前の記事で紹介した名刀「正宗」の工房ですね。
※過去の関連記事「ココ 」←クリック!

今回は八幡太郎義家公の話に話題を広げる事で、たまたま大阪府と神奈川県の関連に話が及びましたが、実は神奈川県は古代から大阪府と京都府と御縁があり、御互いの土地は本来は兄弟の様な協力関係にあったんです…
ま、その噺(はなし)は又、気が向いたらします(笑)。

今回も長くなってしまいましたね。
でも今は新興住宅地の本郷台も、鎮守府将軍様の根拠地だったかもしれないと言う、失われた歴史と誇りを皆さんに再認識して頂ければ幸(さいわい)です。

ではでは…又、次の記事でお会いしょましょう!
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