歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:横浜市


小机城址竹灯籠まつり2
2023年11月04日16:30~18:30にJR小机駅から徒歩直ぐの小机城址市民の森で小机城址竹灯籠祭が開催されます。
詳細は下記の公式ホームページをご覧ください!


小机城や、北条幻庵公や笠原信為公等の歴代城主や城代と、ここを拠点にして戦国時代に活躍した小田原北条家の主力5部隊の1つ白備え隊については過去記事でも紹介しているので、御興味有る方は下の過去記事リンクから御覧ください。

 
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ゴールデンウイークの歴史仲間との歴史散歩の記事
これ⤵の続き・・・

2年前に京都に転勤してしまった歴史仲間の車懸がゴールデンウイーク中当家へ3泊滞在し、一緒に歴史散策久しぶりにした2日目。

01富岡八幡宮(金沢区:源頼朝公開基)
02松方正義邸址(金沢区:第六代総理大臣松方正義公別邸跡)
——前回ここまで⤴——
車懸とは彼が横浜勤務時代だった頃は一緒に遊ぶと毎回、準備を十分にして史料と地図から効率良く且つ要点を抑えた訪問で、普通の人からしたら考えられない件数を1日で廻ってた。
なので、この日も未紹介部分が・・・
——まだコンナ⤵に残ってる(笑)——
03慶珊寺(金沢区:戦国期の旧北条家臣豊島氏の江戸初期の菩提寺、孫文先生密航地碑)
04長昌寺(金沢区:旧北条家臣柳下家子孫と近代の文豪、直木三十五先生の菩提寺)
05走水神社(横須賀市:旧名走水権現社、倭建と弟橘姫を祀る神話の聖地)
06味美食堂(横須賀市:横須賀市観光ガイド達も推薦の観音崎地区の名店)
07走水の古道(横須賀市:走水神社裏に残る国道16号開削前の走水~浦賀を結んでいた古道)
08御所ヶ崎走水低砲台(横須賀市:倭建と弟橘姫行在所址、明治時代の近代要塞)
09鴨居八幡宮(横須賀市:平安末期の名将、三浦氏族多々良義春公が開いた八幡宮)
10千代ケ崎砲台(横須賀市:上地市長と横須賀市教育委員会の尽力で整備公開されたばかりの要塞跡)
11塚山公園と三浦按針・お雪サンご夫妻の墓所の安針塚。
12王道之印(磯子区:家系ラーメン創始者吉村社長の片腕の一人だった鶴巻さんの御店)
13仲乃湯(南区:頻繁に映画ドラマのロケ地に選ばれる立派な日本建築の老舗銭湯)
・・・今日はこの残り、慶珊寺の話の部分まで書きたいと思う。
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松方正義公別邸跡

第四代、六代総理大臣を務めた元薩摩藩士の松方正義邸跡の前に慶珊寺と言う御寺が有る。
松方正義
そこに満州族による征服王朝の清朝を辛亥革命で打倒して中華民国を設立した孫文先生の上陸地の碑文が有る事を書いて前回の記事は終っている。
孫文先生は顔がイケメン。
孫文
孫文先生が日本に来た当時の清国大使館は横浜中華街の中の現在の山下町公園の場所に在った。
なので、孫文先生が日本に密航するに当たって中華街の目と鼻の先の横浜港=山下埠頭=現在の山下公園~象の鼻パークの埠頭に孫文先生が上陸するのは高リスクだった。
だって山下埠頭の近くに清の役人がウロウロしてたからね。
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写真は中華街南門の青龍門。この目と鼻の先に当時は港だった山下公園が有る。
更に中華街の中には山下公園ではなく山下町公園が有る。


山下町公園
旧清帝国大使館跡地で日本ラグビー発祥地

明治時代、山下町公園には清の大使館が存在していたが大正時代に関東大震災で倒壊して移転した。
その後は日本におけるラグビーの発祥地に成ったりしたが、孫文先生が日本に来た時代には清朝の役所が有った訳だ。
その頃、今の金沢区富岡は松方正義邸の目の前は未だ海で風光明媚な別荘地として貴族の三条家や川合玉堂の別邸が有り、富岡や釜利谷辺りは室町時代にも中国明朝の禅僧の心越禅師が訪れて現在の能見台の地名由来に成った能見堂から当時は海だった金沢八景一帯の景色を見て漢詩に読んだ事から八ヵ所の景勝地が有名に成り、金沢八景の駅名に成ったりしている。
洲崎〜金沢八景や野島側辺りは戦国時代〜江戸初期には太田道灌公、小田原城主北条家歴代当主、徳川家康公が龍華寺に滞在して景色を楽しみ、江戸時代にも歌川広重が絵に描いている。
この記事で紹介した喜多屋は現在は名前を料亭だった時代の金沢園に戻し営業再開している。
昔は与謝野晶子等文化人が集い、海軍の将校も訪れる場所だった。
野島には伊藤博文公が金沢別邸を構え、朝鮮皇太子李垠殿下が庇護者の博文公の家に海水浴か遊びに行ったりしていた。

別の時代の富岡周辺地域の事は孫文先生の事とは別に以前も紹介した事がある。

鎌倉時代には六波羅探題として関西を統治した金沢北条氏の拠点、青ヶ台城が存在した。その青ヶ台城の一部が寺院化され先程話した能見堂が築かれた。
孫文先生の時代の富岡周辺にも歴史偉人がいた。
昭和の埋立まで海が眼前に広がっていた富岡の近くには長浜と言う地域があり、明治時代には横浜港に貿易船や客船を入港させる前の検疫専用の長浜検疫港が建設されていた。
実はそこで勤務していた野口英世先生が中国人乗船員から世界初のペストの病原体を発見特定をして隔離に成功した事から日本はペストのパンデミックから守られたりしている。

つまり日本と敵対し尚且つ中華民族にとって宿敵である満州族政権の清朝に対抗している孫文先生の支援者として日本政府が清朝の目をかいくぐって彼を日本に密航させるには長浜検疫港と松方正義邸は打ってつけの場所だった事が地理的要因と伝承から解る。
余談だが清を没落させたのは西太后だが、西太后が暗殺した皇帝の光緒帝は日本と連合国構想を持っていた人物だったりする。
公文書に孫文先生の密航の詳細がハッキリ残らないのは中国政府にも日本政府にも都合が悪い事だったからだろう・・・
中国共産党にとっては中華民国設立者の孫文先生の支援者が明治政府だった事が容易に分かり非常に都合の悪い歴史である。
現在では江沢民さんの政権、習近平さんの政権等の各時代に中国が反日外交軍事政策を政策の根本としているのにも関わらず自政権の設立にかかわっているのが敵対した近代日本政府で非常に不味いのだろう。
更に中華人民共和国の設立者に孫文先生の妻女の宋慶齢さんがいる事は日本の極右と極左の双方にとっても都合が悪いらしく積極的に話題にはしない訳だ。
何が怖いのか知らないけど横浜市教育委員会も、そこ等辺りの事情のせいかダンマリで孫文先生の話は積極的に紹介しない。
笑えますな。

・・・普通に松方正義先生が孫文先生の清朝からの日本亡命の手引きを金沢区富岡で行い、その後の明治政府の保護下で孫文先生が日本留学していた歴史に繋がる郷土史を横浜市民の歴史オタクは皆知っている。松方正義
因(ちな)みに松方正義公がどんな人かと言うと、これも以前に開港資料館や小生が学生時代の車懸とは別の京都の親友ITが来た時に書いた記事で紹介したことが有る記事で説明出来る。

生麦事件は日本の儀礼を知らない英米国の国民が騎馬のまま故意に島津家の大名行列に突撃し、それに対して何度も薩摩藩士達がジェスチャーでSTOPする様に制止したにも関わらず、ついには大名の島津久光公の籠に近づこうとしたために「松方正義公等によって切り付けられた事件」だったりする。
その松方正義公が後に英国と同盟国になる明治新政府で総理大臣を務めたのは数奇な運命だったりする。
この歴史を車懸にチャチャっと解説して、松方正義邸跡の前の慶珊寺散策をした。
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花翁山 慶珊寺
孫文先生密航来日の上陸地
旧北条家臣の徳川幕府旗本豊島家菩提寺

門の右側に見えるのが孫文先生の上陸碑。
この御寺は現代では地方からの移民だらけの横浜市民は地元民以外は余り知る人もいない。
けれども、中世末期~近世は元は武州豊島郡の小大名だった豊島氏の一族で、恐らく小机城が太田道灌公によって落城させられた際に北条家を頼って家臣化した戦国武将で徳川幕府で旗本だった豊島家の菩提寺だっただけでなく近代に関わってる歴史人物が凄い。
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現在では同じく金沢区内の近所で豊島家が大檀那として支援した宝珠院の御住職が慶珊寺の運営を兼務しているが、孫文先生の上陸地で松方正義先生の家が目の前なだけでなく横浜で医療に活躍しヘボン式ローマ字の開発者でもあるヘボン博士が滞在していた場所でもある。
御寺に話を戻すと、御寺には管理人さんがちゃんと居て御庭も綺麗に保たれている。
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裏の墓地の中に、江戸幕府の旗本で旧北条家臣だった豊島家の墓所が在り、文化財に成っている。
御近所の方は機会が有れば是非、小机城落城の話を少し調べてから小田原所領役帳すら見ずに「豊島家は滅んだ」とか「小机城に逃げてない」と寝言を言うド阿呆が自称学者に多い事を知って欲しい(笑)。
結構、通説と異なり関東の武士団は大名としては改易されても縮小して各大名の庇護を受けて徳川家旗本にスライドして存続している家も多いし、北条家自体が本来は足利家の室町幕府で政所執事を勤めた伊勢家が本姓なので室町幕府時代の縁故を頼って現在の神奈川県域に移住してきている旧足利家幕臣や鎌倉公方足利家与力も多くいる。例えば朝倉家、荒川家、南条家、佐々木家、間宮家なんかが具体例だろうか。
御寺に話を戻すと、御本堂の裏の墓地に現在も豊島家の墓所はちゃんと守られている。
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ロクに自分の足でほうぼう廻って調べもしない学者と言う職業の人等が小机城落城の際に豊島氏は滅亡したとか秋田に移住したとか別系統の事を書いてるかせいで関西人の車懸もここ慶珊寺の話しを知らずにいたが、当時は統治機能の引継ぎ的にも敗軍の一族を意外に根絶やしにする事はなく、没落して他大名の家臣として生き延びてるので表舞台に出て来なく成るだけの場合が多く有るのを車懸も知ってるので「やっぱりね」とステレオタイプ学者は歴史民俗軽視で足元見てないテンプレに呆れつつ、豊島氏の存続を伝える金沢区の歴史を楽しんでいた様だ。
もし、読者で御興味が有る方は次回続きで書く近くの長昌寺も合わせて散歩すると良い歴史散策に成ると思う。
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慶珊寺から徒歩数分と直ぐ近くの長昌寺も旧北条家臣の柳下家が開いた歴史の有る御寺で柳下家自体は近世に緑区鴨居に多くが移住しており菩提寺として本柳寺を支援したりしてるが、長昌寺の方は現代では文豪の直木三十五先生の菩提寺として郷土史を知る人には有名だったりする。
この富岡の富岡八幡宮~慶珊寺~長昌寺は歩いて数分の距離で歴史散策に適している上に、車やバイクなら近くに野口英世先生の働いた旧長浜検疫所も無料公開されてるし、膨大な古文書を保管している神奈川県立金沢文庫と鎌倉幕府の重鎮で関西を統治した金澤北条家の邸宅跡の称名寺や、伊藤博文公の金沢別邸の現存公開されている野島公園、その野島公園にある戦時中のゼロ戦格納庫跡の野島掩体壕を見物して廻ると1日で有意義な歴史散策が出来るのでオススメだったりする。

さて、久しぶりの歴史散策記事更新ですが、今回はここまで。
また続きは長昌寺から順番に資格の勉強の合間を見て書ける時に書きますね~。

現在2023年08月06日、神奈川県はゲリラ豪雨に見舞われましたが全国気温が高いだけでなく蒸し暑く熱中症に成りやすい環境なので皆さん体調管理に気を付けて夏を乗り切って下さい。
学生の皆は青春を謳歌して、でも羽目を外し過ぎて人生台無しにしないように楽しんでね!

では又、次の記事でお会いしましょう~♪
続き⤵
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今日はハマッ子として寺田社長と山中市長への御礼だけ。


日本最大級の規模と、飛鳥時代~平安時代の超長期の活動期間を有する鑪製鉄(たたらせいてつ)史跡の上郷深田遺跡と横浜市南部最大最後の自然森林とホタルの群生地瀬上沢の開発計画を東急建設さんが正式に断念して下さいました。
先ずは東急建設の寺田社長の英断に対して敬意を表します。


そして、これだけの英断を行って下さった東急建設及び母体の東急電鉄に不利益で終わらない様に切に願います。
東急建設と東急電鉄が日本人として日本の歴史文化自然の保護者活用者として正しい道を進む事で
旧佐賀牟国の開拓者達豪族の祖先神を祀る神社や彼等の子孫が崇拝した菩提寺の神仏の恩恵が与えられる様に祈願します。


米軍から返還される瑞穂埠頭や根岸居留地や新山下埠頭辺りの何れかが代替地として等価値交換と言う形で東急建設に提案されて、東急グループにとって不利益に成らない形で決着する様に個人的に願います。
代替地との等価値交換で、なとみらい線の本牧港湾部延伸を行い日本最初のアーク溶接鉄橋の高島線瑞穂埠頭鉄橋を産業遺産登録し引込線を遊歩道化等で活用する等の史跡保護と都市計画を融合した横浜らしい、旧新港埠頭(みなとみらい21地区)の再開発で活躍した頃の東急サンに様に、邪道ではない王道(君子の道理)で改めて活躍の場が多く切り開かれる事を神仏に祈願します。


山中市長、恐らく市長就任後に表ではなく組織内で様々な御尽力を行って下さったと思います。
ありがとうございました。

東急さん将来、本社横浜に移してくれないかな~?
東京の渋谷に居ては、自然や文化や史跡等の日本の良い面が全く見えて来ないし、各都市の個性を活かすと言う観点も生まれないと思います。
東急が東京ではなく神奈川の横浜市や鎌倉市に本社を移し歴史文化史跡自然との共存と完全保護を活用する第一人者として、他の日本文化の破壊者である某ゼネコンと一線を画すSDGs第一人者として、横浜発祥のワシントンの桜並木で活躍した横浜植木やプラント業の日揮や健康食品のファンケルや飛行機の修繕を行う日本飛行機や東急の旧横浜金沢プロパティーズ株式会社の方々等と共に世界に誇る横浜の企業連合体に成って下さったら良いなと個人的に願望を持っています。
横浜の企業ではありませんが海上自衛隊の艦船の建造補修を担うIHI等と一緒に、横浜市に拠点を置く企業同士の連携を活かし、世界の親日友好諸国で多文化共生と史跡文化自然保護と持続可能な社会の実現を担う世界有数の多業種連合体の様な活躍が未来に生まれて欲しいと個人的に妄想しています。

東京23区では作られた緑地しかなく住宅街も住む人々の階層や人種も区切られていて、自然林を見る事も否応なしに多文化の日常生活を経験する事も出来ないから日本文化や自然が何かも理解出来ないままでしょう?
東京は必要な時に必要な物や自分の見たい事を見るのには便利ですけどね~。ネット社会と同じで自分の求める事や物以外と多く触れる事が少ない町ですよね。
川崎や横浜や鎌倉や平塚に本拠を移せば我々下々の生活~高所得階層迄、様々な国籍の人のC文化もc文化も求めて無くても体感する事も関わる機会も多く有ります。


神奈川県の中部~東部に東急電鉄の本社移しませんか?
絶対にそっちの方が電鉄業としても不動産業者としても開発業者としても地政的に見える物が多いかと思うんだけどなぁ~・・・と。

明日の夜、また別に普通の記事を書きます。
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根岸森林公園の梅園
日本初の西洋式競馬場跡の遺構の残る公園の梅園
旧横浜競馬場一等馬見所と馬の博物館🏇
近くにはユーミンの歌の舞台ドルフィン🐬
縣下名勝史蹟四十五佳選の白滝不動尊も有るよ!
【根岸森林公園】
【馬の博物館】
【旧一等馬見所】
【馬の博物館】
 根岸森林公園の広大な芝生
 ✿✿

 森林公園の梅園
 

 根岸競馬場一等馬見所
 ✿

【電車】
 JR山手駅~徒歩 
 ・・・所要時間17分
 JR根岸駅~桜木町駅行バス乗車~
 ~滝の上バス停降車~徒歩01分。
 ・・・所要時間08分

【  車  】

 根岸森林公園第一駐車場
 収容台数・・・100台
 根岸森林公園第二駐車場
 収容台数・・・100台

※土日祝は駐車場入場待ち可能性大
【休憩】✿✿✿
 公共トイレ有り。
 自動販売機有り。
 レストハウス(喫茶店)有り。
 近くにレストラン・ドルフィン有り。
【梅の見頃】
 2月中旬~3月初旬。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )        
 広大な芝生の景色が気持ち良い◎
 桜の季節の景色も綺麗だよ~◎
 森林公園は実は日本初の競馬場跡◎
 ポニーの厩舎が見学出来るよ~◎
 馬の博物館◎
 近代西洋建築の旧一等馬見所必見◎
 ユーミンが❝海をみていた午後❞の
 歌詞に書いた舞台のドルフィン◎
 近くに昔の観光名所、白滝不動尊◎
☞注意するpoint(•ω•)         
 梅花300本弱で凄く多い訳じゃない。
 駐車場が土日祝に入場待ちの可能性。
 広いからトイレ先に済ませてね。
――森林公園の梅園――PXL_20230218_055429790.MP
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――森林公園の芝生――
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――旧一等馬見所――
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――ポニーセンターの景色――
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――馬の博物館――
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――桜の季節の景色――

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――レストラン・ドルフィン――
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――白滝不動尊の景色――
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―以下は詳細解説( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵―
【交通】
―電車・バス―
JR根岸駅からバスが根岸森林公園の近くの滝の上バス停まで来られるので便利。
また根岸駅~徒歩だと来る道に縣下名勝史蹟四十五佳選に選ばれた白滝不動尊やユーミンが荒井由実時代に❝海をみていた午後❞と言う曲の歌詞にしたドルフィンと言うレストランも有ったりして良い散策に成る。
〈バス〉

〈徒歩〉

JR山手駅~だと徒歩17分と少し歩くが山手駅周辺も歴史史跡が多く良い歴史散策に成る。
君が代と吹奏楽とテニスの発祥地の妙光寺、日本のビール発祥地で麒麟麦酒創業地のキリン公園、昔ながらの立派な日本建築の銭湯のいなり湯等、以前紹介した場所も多く有るので山手駅~徒歩コースの選択肢も捨てがたい。


【見所】
梅園は中規模で280本のよく手入れされた梅の綺麗な景色を見る事が出来、桜の季節も綺麗。
広大な芝生では通年ゆっくり時間を過ごせる良い場所。
根岸森林公園のポニーセンターでは馬が見れる他、日本最初の西洋式競馬場跡の一等馬見所と言う観戦席が現存する。
また日本初の競馬場跡なのでJRAが馬の博物館やポニーセンターを運営しており実際に馬を見学したり競馬の歴史を学ぶ事が出来る。
近くにはユーミンが曲の歌詞にしたレストランのドルフィンや、神奈川の縣下名勝史蹟四十五佳選に選ばれていた旧景勝地の白滝不動尊等が有るので合わせて散歩すると1日有意義に時間を過ごせる。
これらについては【歴史】の項目で解説したい。
参考散策路⤵



【歴史】
根岸
森林公園は日本初の西洋式競馬場で、とにかく広大な芝生が広がっており週末ともなると小さな子供のいる御夫婦や若い恋人同士がレジャーシートを広げてくつろいだり散歩したり、レストハウス前の席で珈琲を飲んだりと市民憩いの場に成っている。
梅の季節、桜の季節ともに景色も良い。
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幕末~近代の西洋式競馬場跡なだけあり現在も立派な近代西洋建築の競馬の観戦者用の一等席が現存しており、これは必見。梅を見るついでに是非見ておきたい所です。
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こちら側には児童用の遊具も設置されているので、子連れで梅園を散歩した後に子供が芝生で遊ぶのに飽きてしまったら遊ばせるのにも最適です。
この旧根岸競馬場一等馬見所については、以前❝あぶない刑事❞のロケ地や日本初のアーク溶接で建造された旧高島線引き込み線の瑞穂鉄橋等と合わせて紹介しているので御興味有る方は御覧下さい。

更に日本初の競馬場跡なので公園内にはJRAの馬の博物館やポニーの厩舎もあり見学出来るので、ポニー舎は子供も関心を持つでしょうし、高校生や大学生~社会人の恋人同士の大人デートならコチラの博物館も合わせて見学しても良いかもしれない。

他にも、この地域自体が鎌倉時代から景勝地としてう有名だった上に幕末~終戦直後に外国人居留地だった歴史があり、競馬場近くの遊歩道コースとして整備されていた。
更に戦後に米軍居留地になっていた名残りから、昭和ポップスの歌の舞台にもなっている。

以前、紹介記事にした事の有る、ユーミンこと松任谷由実が独身時代の荒井由実時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲の歌詞にまんま書いている❝ドルフィン❞と言うレストランが直ぐ近くに有る。

もしデートなら、ここで昼食を食べても良いかも知れない。
ドルフィンソーダを注文すると、海を見ていた午後を店内で流してくれる。
ドルフィンの前の道は幕末からある不動坂と呼ばれた散策路だったのだが、戦前には神奈川の❝縣下名勝史蹟四十五佳選❞にも選ばれている❝白滝不動尊❞への参道として栄えて昔は多くの旅館や茶屋が並んでいた場所です。



この根岸は鎌倉時代からの景勝地から本牧~根岸~磯子~杉田~富岡~追浜に続く海岸の断崖絶壁と森林は屏風ヶ浦の異名で呼ばれ観光名所だった。
また歴史的には縄文時代~弥生時代の遺跡が多く出土した地域でもあり湧水地や滝が古代の人々にとって聖地化する場所が多く、そこを平安時代~鎌倉時代に神道、修験道、真言宗、天台宗、時宗、曹洞宗、臨済宗等が宗教施設を建設して神社化や仏教寺院化して行く事が多い。その例に漏れず白滝不動尊や滝の上の地名由来に成った白滝が存在した。
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現在では寂れているが、これは昭和後期~平成の乱開発の景観悪化と観光名所だった滝の水量減少に原因がある。


ここは先述の通り白滝不動尊は神奈川の縣下名勝史蹟四十五佳選の一つに選ばれた名所でした。鎌倉時代~昭和初期まで景勝地だった事から参道には旅館や茶屋が建ち並び栄えたいました。
名前の由来の滝は嘗(かつ)ては二段の滝で幅5m、落差20mを誇り、眼下に広がっていた海岸の船着き場に江戸や遠くは房総半島、三浦半島から船で参拝客が多く訪れ栄えていたが平成期に周辺乱開発で極端に水量は失われてしまいました。
昔の写真を纏めた書籍等は横浜市立中央図書館等で閲覧する事が出来ます。


周辺は古代からの聖地で多くの縄文~弥生時代の遺物が多く発掘されているだけあり、古墳時代も重要な役割を担った地域で本牧半島は古墳時代も重要な場所で軍馬の生産地だでした。
更に時代が下ると平安末期に坂東武者にも重要視され三浦家の一族、久良木三郎公が久良岐郡に入植し今の中村町~岡村町辺りを拠点に周辺を統治していました。
当然ながら海上交通の要所であり、更には軍馬生産地だったので武士文化が早くから根付いた土地だった訳です。
比較的近くの本牧神社も昔は現在地と違う旧海岸線の元は本牧鼻十二天と呼ばれた場所が元宮でした。

現在は立ち入る事の出来ない北方消防出張所裏手の小山が昔は海に突き出した本牧半島の1番先の岬で、そこが古くから海上交通の要衝でランドマークに成る地形だった事から聖地化されて室町時代には関東管領上杉家等から崇敬を集めていましたが、軍用地になる際に移転させられました。

源頼朝公が今の横浜市役所新庁舎の場所に勧進し開いた洲乾弁財天やヤマトタケル神話の御所ヵ崎が砲台建設で廃社にされたのと同じですね〜。
また根岸の隣の磯子は平安末期〜鎌倉時代〜室町時代初期は平子氏の磯子城がありましたし、戦国時代にも北条家最強の黄備え隊の大将、北条綱成公が別荘を築き後に寺院化された龍珠院と言う御寺が今も存続していたりします。

この久良岐の丘〜本牧半島は、古代の聖地や神社化される典型的な地形が多く、白滝不動尊も例に漏れず丘陵から海岸に降りる重要な道でもあり海岸線に突き出した崖地の湧水地や滝も有り、鎌倉時代に湧水や滝に祀られる不動明王を御神体として仏教と密接な真言宗修験者により❝神社❞として開かれました。
この神奈川県域や多摩〜秩父地方は天台宗と真言宗、両方と密接な歴史を持つ修験道が栄えた地域なので、江戸時代に徳川家による宗教改革で修験者が真言宗か天台宗に明確に属す以前の修験道文化の名残を持つ寺院や神社も沢山有ります。
この周辺地域を平安時代の中頃に治めた久良木三郎の御子孫が岡村の磯子城主平子氏と石川氏でした。
平子氏で著名な平子有長公は源義朝公の暗殺未遂事件である曾我兄弟の敵討ちの際に、犯人の曽我兄弟に対して最初に抜刀して打ち掛かり仁田忠常公と共に曾我兄弟を逮捕した名将です。
平子有長公については以前、岡村天満宮の記事で少し紹介しているので御興味有る方は下のリンクから記事を御覧下さい。

平子氏の更に分家が石川町の石川家で、幕末にはペリー提督の接待を担当し周辺の奉行職を務めた。
平子氏からは鎌倉氏に養子が入っており、この鎌倉氏の著名な鎌倉景正公の御子孫には上杉謙信の祖先の長尾定景公がいる他、有名な頼朝公近臣の梶原景時公、大庭景義公、藤沢にある時宗の総本山遊行寺を発展させた俣野景久公等がいる。
実はこの上杉謙信公の祖先の長尾定景公の本拠地が横浜市栄区でした。
以前、その長尾城址を記事にした事が有ります。
御興味有る方は下のリンク⤵から記事を御覧下さい。
初期に書いた記事で余り情報が少ないので、後に歴史仲間と撮影した現存する空堀等の追加掲載のリニューアルもする予定です(いつになるか分かりませんがwww)。
また長尾城は戦国時代に玉縄城に取り込まれ玉縄城の一部に成っていたので、その解説をした記事もリンクを張り付けておきます。

白滝不動尊は近代以前の江戸時代までは、磯子区上町の宝積寺が本寺でした、しかし明治政府の神仏分離令と仏教制度改革で本寺末寺と言う会社で言うと本社と支社を切り離すような事が有り、更には神社や尾寺の所有地である社領寺領も明治政府や戦後にGHQに没収されて廃寺や廃社に追い込まれた神社や寺院も多く有りました。
しかし、ここは景勝地だったので明治以降に神仏分離令で村の鎮守の社格を無くされても観光名所として栄えて存続出来た様です。
しかし、景観の悪化後は参拝客すらまばらに成ってしまいました。
で!
話を白滝不動尊を取り巻く景観や環境悪化に戻すと、神奈川の縣下名勝史蹟四十五佳選に選出された横浜が誇る名瀑府だった白滝は、戦後の周辺乱開発による宅地化で滝に集まっていた沢が暗渠の雨水水道管かされてしまい、更に平成に滝之上地区の水源地下水脈がマンション建設で断ち切られて現在では滝の水量は水道の蛇口を捻った程度しか無い悲しい状態になっています。
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当然ながら戦後の海岸線の本格的な埋め立てと工業地帯化で眺望も失われたが、ユーミンが近くのドルフィンからの景色を❝海を見ていた午後❞の歌詞にしているので、平成に入るまでは眺望はそれなりに良かった事は間違いない。
この地域を宅地開発した土建屋、周辺の乱開発された住宅に住む住人が、ここを復興する責任が有ると思います。
典型的な聖地化する本牧半島の湧水地や地形から修験道の神社化した鎌倉時代の武士文化の聖地、江戸~近代の人々に愛された景勝地を維持出来なかった責任を感じて欲しいし、せめて祭礼は盛大に行って欲しいですね。

また、元々は沢だった雨水の下水管を複数繋ぐだけで滝の水量を戻す事が出来るのも明白な事実ですが、
何なら水道局に雨水下水道化で失った水量を戻す様に雨水水道管を白滝に接続する様な働きかけを行う責任が有るだろうかとも思います。
沢が唱歌❝春の小川❞の舞台の渋谷川の様に下水道化のみならず汚水の下水管にされているならば二度と聖地の白滝不動尊を滝の名所として復興する事は出来ませんね〜。
せめて、この地域を愛している地元民の方には白滝不動尊を大切にして頂きたいものですね。白滝不動尊については、いずれ史料をあつめて解説記事にしたいと思います。
——梅花の名所一覧へ⤵——

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横浜市最高峰円海山山系からの富士 
港湾都市の夜景と富士山の遥拝の名峰
と恋は雨上がりのようにロケ地


第三管区海上保安本部関東統制通信事務所側の林道

(富士山を見るのに適した場所)
(横浜の夜景を見るのに適した場所)
恋は雨上がりのようにロケ地
【景色】
富士山の眺望
(第三管区海上保安本部関東統制通信事務所横)
横浜市の夜景
(市民農園のベンチ付近)
【電車】
港南台駅~バス乗車06分~
~港南環境センターバス停~徒歩12分
          ・・・所要時間14分
洋光台駅~バス乗車05分~臼杵バス停
~徒歩10分    ・・・所要時間20分
【 車 】
海上保安本部関東統制通信事務所付近
の坂道の端に路駐可

※但し駐車可能台数05台程度。
ひよどり団地下の坂道に自己責任路駐
※あくまで自己責任。 
※バイクは海保施設駐車場に駐輪可。
☞オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )        
横浜市民とハイカーに有名な景勝地◎
鎌倉藤沢の山々の先に丹沢と富士山◎
富士山遥拝の林道は飛鳥時代の古道◎
横浜市沿岸都市部の夜景が綺麗◎
山の下の瀬上沢蛍生息地は横浜市南部
最大最後の自然の蛍の繁殖地

円海山の林道の古道ハイキングコース
を歩いて鎌倉天園ハイキングまで行く
事が出来る有名なトレランコース

恋は雨上がりのようにのロケ地だよ◎
☞注意するpoint(•ω•)         
行く時は歩きやすい靴必須!
車駐車台数少ないので気を付けて!
鎌倉まで歩いて行く人は最低でも日没
時間の3時間前に出発する様に!

トイレは円海山の当該地1個所のみ!
他は鎌倉の天園ハイキングコース上の
天園公衆便所だけ、1時間半の距離!

円海山~天園は毎年遭難者出るよ!
——海上保安庁施設横の富士遠景——
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——市民農園のベンチ付近の眺望——
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——恋は雨上がりの様にロケ地——
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
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【交通】
ー電車ー
最寄り駅はJR港南台駅か洋光台駅で、いずれもバス乗車5分前後+徒歩10分ちょっと。
バス停は港南台駅からなら港南環境センター前。洋光台駅からならう臼杵バス停。
いずれのバス停も直線距離では近いものの、住宅街~円海山の尾根まで直進と言う訳にはいかないので10分ちょっとかかる。

ー車ー
付近に駐車場は一切無いので、尾根の林道手前の海上保安庁施設横の坂道沿いの端に他の車両の交通を阻害しない様に駐車するか、❝恋は雨上がりのように❞のロケ地の坂道に自己責任で路駐して歩いて登って来る必要がある。
昼間は普通に海保施設周辺の道路沿いに駐車出来るスペースが空いてる場合が多い。
ー自転車・バイクー
2輪車なら海保施設の駐車場に駐輪可能。

【見所】
横浜市内から雄大な自然の景色としての富士山を見るのに最適な場所が、ここ円海山。
間違いない!
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手前に連なるのは円海山の山麓、その山裾には日本最大級の規模を誇り飛鳥時代~平安時代の数百年間も稼働し蹈鞴(たたら)製鉄遺跡の上郷深田遺跡・猿田遺跡が現存しています。
また同地の山裾を流れる瀬上沢は横浜市南部最大にして最後の自然林で自然なホタルの広域生息地としてホタル観賞の名所としても有名です。
御興味有る方は下の記事リンクから解説を御覧下さい。

その上郷深田遺跡で生産された鉄を鎌倉郡に陸送で輸送していた道が実は、今回紹介した富士山が見える林道で❝鉄の道❞と呼ばれている古道で今でもハイキングコースとして多くの人に親しまれています。
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この古道は今でも道なりに鎌倉のハイキングコースの名所である天園ハイキングコースに繋がっていて、週末に成ると多くのハイカーやトレラン愛好者が御弁当を持参して鎌倉へ往来しています。
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その古道は自然豊かで無名の切通道も多く残っており鎌倉駅から歩き始めて鶴岡八幡宮を経由して十二所地区の紅葉の名所に獅子舞谷や梅花の名所の瑞泉寺側から天園ハイキングコースに入り、昼過ぎに天園休憩所で食事して円海山を目指しても良いと思います。
天園休憩所は東郷平八郎元帥と親交の有った小川家が海軍向け保養所として私有地に開いたのが始まりの休憩施設で現代でも休憩所として1オーダーで利用出来ます。
天園休憩所で昼食をとり、夕方に終点の円海山の海保施設の横で富士山夕景を見てから横浜港と街灯りの夜景を見て帰ると非常に有意義な休日を楽しむ事が出来ます。
逆に反対に港南台側をスタートにして鎌倉駅に到着するコースでハイキングを楽しんでも良いかも知れませんね。
円海山で富士山を見てから林道に入り鎌倉に向かい、昼過ぎに鎌倉に到着できれば春なら瑞泉寺の梅花も楽しめますし、秋なら獅子舞谷の紅葉も楽しめますね。
円海山↔鎌倉ハイキング参考ルート⤵

獅子舞谷や瑞泉寺の景色は以前紹介した記事が有るので、御興味の有る方は参考にされて見て下さい。


円海山はハイキングコースだけでなく夜景も奇麗なので、是非バイクや車をお持ちの方はカップルで訪れてみても良いでしょう、昼もベンチに座って遠く横浜港を見渡す事が出来ます。
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円海山の様な自然溢れる場所から見る富士山も良いけれど、もし都会の夜景と富士山の景色をもっと見たい!と言う方に是非オススメしたいのが横浜みなと未来21地区と富士山の夕勝の絶景を見る事が出来る大黒埠頭の大黒大橋上からの景色でしょう。
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こちらに関しては記事にして紹介しているので御興味が有る方は以下のリンクをクリックしてみて下さい。

他にも神奈川県内の富士山絶景の景勝地は以下のカテゴリー内に記事を少しづつ書き足しているので、過去分の逗子市、鎌倉市、藤沢市側に興味が有る方は以下から好みの場所を探して見て下さい。

また、この富士山の景勝地の直ぐしたの❝ひよどり団地前の坂道❞は映画版❝恋は雨上がりのように❞のOPのロケ地の1つだったりします。

このPVに登場する映画のOPのロケ地は以前に検証し紹介した記事を書いているので御興味有る方は下記事のリンクから記事を読んでみて下さい。
この記事⤵

ロケ地は港南台の円海山、磯子区の京急杉田駅近くの熊野神社参道前の京急高架線路アンダーパス、氷取沢高校周辺の団地の擁壁、金沢区能見台駅等が有ります。
他は県外の埼玉県や茨城県がロケ地に成っていますが、記事で市内のロケ地だけ纏めてあります。
この他にも円海山の富士山や夜景の景勝地から徒歩で直ぐの距離に江戸時代に島津家の姫様の信仰を集め、古典落語❝峯の灸❞の舞台である円海山護念寺や、浄土宗の総本山である京都の知恩院の四十六世住職を輩出した峰の阿弥陀寺等も近くに有ります。
護念寺の記事⤵

阿弥陀寺の記事⤵

この様に、富士山を見るだけで来ても楽しめるし、1日使ったレクリエーションとしてハイキングコースとしても歴史散策コースとしても映画のロケ地巡りでも楽しめるのが富士山景勝地が、この円海山です。

【名物】
味奈登庵の蕎麦
横浜市発祥の蕎麦チェーンの製麺所が円海山の麓(ふもと)に有り、ランチタイムは多くの人で賑わう。
中区の方のフルサービス店舗では居酒屋の様なメニューや多くの日本酒も楽しむ事が出来る。
港南台店はセルフサービス店舗で丼物とのSETメニュー等が人気。


桃太郎のワンタン
昔懐かしい醤油拉麺の店で、町中華メニューも提供する。中でも現在では提供する店が少なくなったワンタンだけのメニューを山盛り提供する店として栄区民、港南区民には有名。
醬油ベースのラーメンスープの入った拉麺椀に沢山入ったワンタンは食べ応えが有る。


瑠璃庵とブルージュの丘のケーキ
瑠璃庵はフルーツロールとキャラメルロールが円海山の麓に住む地元民の小生のオススメで珈琲を頂きながら店内でカットケーキを頂く事も出来る。

ブルージュの丘は栄区、港南区、磯子区で比較的有名で購入する為に駐車場入庫待ちが土日は発生し警備員が配置される名店。


【歴史】
先述の通り、富士山の景勝地であると同時にこの地域は古墳時代からの先進地域であり旧鎌倉郡と旧久良岐郡をまたいでいる場所で武士文化の反映した地域でもありました。
戦国時代突入する原因と成った永享の乱では、近くの阿弥陀寺は戦火に巻き込まれて現在の境内地に移って来ていたりします。
江戸時代にも島津家の姫様の信仰を集め、古典落語❝峯の灸❞の舞台である円海山護念寺があります。
護念寺の記事⤵

浄土宗の総本山である京都の知恩院の四十六世住職の了鑑大僧正を輩出した峰の阿弥陀寺等も近くに有り、今も了鑑大僧正の実家の御子孫が阿弥陀寺の近くに住んでいたりします。
阿弥陀寺の記事⤵

了鑑大僧正については、阿弥陀寺と護念寺の古文書が現代に残らない事から知恩院では出生地としての記録が確認出来なかった様ですが、知恩院の学芸員サンから色々と文献を頂いて調べられる事は調べて見て記事にしてみました。
円海山に存在する上郷深田遺跡は実は日本最大級であると同時に刀剣正宗の故郷である旧鎌倉郡で唯一の大和朝廷官営の蹈鞴製鉄遺跡であるだけでなく神奈川県で現存唯一の蹈鞴製鉄遺跡です。
上郷深田遺跡
しかも先述の通り日本最大級で有る事が2期に渡る発掘調査結果既に判明しており、その製鉄史跡は未発掘部分に更に広がっている事が明白に成っています。


2019年に東急建設による開発計画が表面化し地元栄区民12万人に対して開発反対の本郷台駅~港南台駅~周辺住民に対して行われた反対署名が11万人も集まり多くの歴史学者が保存の必要性を訴えました。
が!しかし、横浜市役所は当時の林文子前市長が多くの歴史学者や住民の反対を無視して開発容認ととれる発言をした事で彼女の市長選落選に繋がりました。
元々この地域の淡水棲の古代の貝の化石地層や史跡と自然環境保護に熱心だった横浜市大の教員出身である山中市長になり計画はストップしていますので、是非、遺跡を活用した計画変更と上郷深田遺跡の完全保護からの国指定史跡化とユネスコに世界遺産登録して欲しい所です。
開発計画では瀬上沢の流路を人工的に変更する自然環境破壊に成っていて蛍は住めなくなるでしょう。この計画は中絶して横浜市の保有する本牧ふ頭や米軍からの根岸の返還予定地を代替地として東急に渡し、高秀市長時代の教科書にも掲載される程の遺跡公園として保護された大塚歳勝土遺跡や茅ヶ崎城址公園様に後世に残る市の事業として、市民から徴収している❝緑税❞を活用して自然と史跡の公園にして欲しいと保護署名を行った市民や歴史学者達の願う所。
既に栄区も磯子区も金沢区も空き家が増え続けており、10mも遊水池の谷を盛土でしてまで熱海の盛土傾斜地の崖崩れも有ったのに新たな宅地開発をしたり、日本最大級の蹈鞴製鉄を削り取って消滅させて商業地宅地化する意味が無いと感じる横浜市民ばかり。
是非、このまま富士山の景勝地や手前に広大な森や畑地が有るからこそ綺麗な夜景の名所を残し、日本最大級の蹈鞴製鉄史跡も保護して史跡公園化整備して横浜の里山文化と半分は鎌倉郡に属す横浜市域の武士文化発祥地としても夜景や富士山を眺めながら歴史ロマンも感じる場所としても保護し、未来に日本の刀剣や神奈川県が誇る歴史史跡を残して活用して残して欲しい横浜市最大の自然の景色の中に富士山を見られる名所でもあります。
——他の場所はコチラ⤵️から——

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横浜に素敵なカフェが出来たと栄区の情報媒体で紹介されていたので行ってみました。

昔懐かしい喫茶店の雰囲気の外観とは異なり何だか日本風の造りを活かした小生が一時期住んでいた京都市左京区の下鴨神社に有りそうなcafeに近い雰囲気の外観でした。
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K2-7 de hitoyasumi
Uber Eats ホーム
https://www.ubereats.com/jp/store/k2-7-de-hitoyasumi/
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先に別の媒体で見た通りの前評判通り、お店の雰囲気はとても明るそうなのが伝わり住宅街の中に突然恵比寿とか京都に在りそうな喫茶店の登場に・・・
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「おお~ぅ・・・城下の村に京都とかに有りそうな素敵な御店が出来たね」
・・・といった雰囲気、昭和の日本のcafeの雰囲気の良さ+α、マスター御夫妻の若い世代らしい明るい雰囲気も持ち合わせたお店。
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コダワリの珈琲に手作りスコーンとケーキでもてなしてくれます。
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御主人は未だ三十代、脱サラしてパン屋で修業をしてから同じく同世代の奥様とコーヒー屋を週末限定で黄金町キッチンスタジオで開いていた所、港南台バーズの無印良品さんに認められて声をかけられ黄金町で営業を終えてから港南台の無印良品内のキッチンスタジオで週末限定の御店を開き、この度、笹下城下に御店を開かれたそうです。
小生は最初に頂いたコーヒーとスコーンがとても美味しくて又訪れた際に、今度はガトーショコラを頂きましたがこれも美味しかった!
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このコーヒーはベトナム式。
フランスの植民地だった影響で生まれた珈琲文化で、カップの下に予(あらかじ)めコンデンスミルクが入っていて、その上にドリップして頂いた珈琲を混ぜて飲むと言う変わった楽しみ方をする物でした。
再訪問した時には他にも中国雲南省の潞江坝(Lu Jiang Ba=ルゥジィァンバァ)と言う農村の特産品の珈琲も有りました。そちらは近代にベトナムから来たフランス人宣教師によって珈琲文化が根付いたそうです。
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K2-7 de hitoyasumi の御主人、コーヒーに非常に真面目らしく素人の小生の質問にも色々と丁寧に答えてくださいました。
とにかく雰囲気が良くて、小さな御店なのに周りのお客様の会話を聞いていたら遠方からも来客があるようです。
流石、復数の珈琲関連媒体やローカル情報媒体が目を付けるだけある。

可愛く明るい絵画で著名な芸術家の肥沼守先生や・・・


漫画家の金井たつお先生も黄金町時代でのオープンから既に関わりが有るそうです。


珈琲情報媒体の❝ひつじの珈琲タイム❞

小生の地元、円海山を中心にした栄区港南区の情報媒体❝号外NET❞

ついでに小生、広告付ければ収益100%自分の利益に成るのに広告一切付けず神奈川県の穴場景勝地や歴史観光支援の記事を書くアウトロー歴史的オタク(笑)な“久良岐のよし”www。

まぁ小生のブログは余計ですがK2-7 de hitoyasumiは横浜市やコーヒー関連のLocal媒体、それに文化人に既に注目されてる訳です。

ちなみ今回のK2-7 de hitoyasumi等の喫茶店とは関係ありませんが❝知の冒険❞と言う知り合いのブロガーは横浜を含む神奈川県周辺の花街や飲み屋街の歴史と言うニッチな文化歴史を研究し取材もしっかりしています。

彼はたまに横浜の花街の歴史散策のオフ会も企画したりしてます。

彼等の他にも横浜には❝はまれぽ❞と言うローカル媒体が有ります。
是非、横浜を地元として住み始めた初代の❝非ハマッ子❞の皆さんも、代々横浜に住んでいた武州人や鎌倉気質の方々も郷土のニッチな情報に興味が有る人はこれらも合わせて珈琲でも飲みながら読んでみてくださいな!

❝はまれぽ❞は今は無き、東京都民に御忍びで行ける天然温泉の宿として有名で弘明寺に有った❝中里温泉❞の記事を読めたりします。

記者の松宮サンは触れていませんが、この弘明寺公園の近くに有った中里温泉は彼女の取材後の2015年に閉業し2016年に更地にされるまで120年近い歴史有る旅館で明治期には明治天皇の保養地でもあったんです。更にK2-7 de hitoyasumiが店を開いた笹下は昔は笹下郷と言われ観光梅林として有名な杉田~港南台まで広がっていた杉田梅林が存在していたので、明治天皇等皇族の皆様が御来訪された際に御休憩所とされた石川楼と言う立派な料亭も有りました。

実はK2-7 de hitoyasumiが店を開いた港南区は近代西洋文化の中心だった横浜市に属しますが、半分は昔の鎌倉郡で鎌倉武士団の鉄工や海運の重要拠点を押さえる古街道の交通要所でした。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿北条政子2
上永谷駅近くの永谷天満宮前の馬洗い川は北条政子様が夫の源頼朝公と源氏の戦勝祈願デートで弘明寺に御参りに行ったり隠居地の井土ヶ谷乗蓮寺と鎌倉を往来する際に馬を洗ったり涼をとった場所と伝承し、野庭地区は彼女の領地だった政所の地名も昭和初期の郵政法施行まで残っていました。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿巴午前3
その野庭地区には鎌倉幕府初代侍所別当職の和田義盛公が建設した野庭関城や、南区別所と港南区大久保との区境の餅い坂には彼の設けた関門の関所が嘗て存在しました。
鎌倉殿北条時政
更に野庭関城の近くの磯子区洋光台と港南区日野地区との区境には北条時政が支援した徳恩寺と春日神社が現存していますし、他にも上大岡駅近くには源頼朝公の叔父に当たる源為朝公の隠里と伝承し御霊社の祠が有ったり、市会議員の田野井一雄サンの御先祖は源行家公の家臣の子孫と伝承し元々は港南区日野辺りは源行家公の所領だった事は以前の記事でも紹介しました。
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源行家
興味の有る方は、カテゴリーの「歴史偉人」後ろの「+」を押して枝カテゴリー「平安~鎌倉時代」から記事を探して見て下さい。
この辺りの話は下の記事内にもリンクを纏めて貼って有ったはずです。

ここまでは港南区の北西半分の旧鎌倉郡の話で鎌倉時代の武将ばかりですが、更に港南区の南東側の半分は昔の久良岐郡で、こちらは安土桃山時代~江戸時代~明治時代の久良岐郡の中心地として機能した郡役所が有った上に、戦国時代には北条家最強部隊❝黄備え隊❞の副将で間宮林蔵や杉田玄白の祖先の間宮康俊公の居城の笹下城が存在した場所でした。
なので何気にK2-7 de hitoyasumiがある住宅街は武士の歴史も豊かな地域なんですね。
K2-7 de hitoyasumiの近所のファミマから見える崖は笹下城の本丸跡と伝わり間宮家臣の武内家や市村家や内田対馬守家のここ10年で亡くなってしまった世代の御子孫に小生が取材した時に伺った話では山上に防衛時に用いる投擲用の石礫が沢山残されていたそうです。
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まぁ、この様に実は只の住宅街に見えて、実はK2-7 de hitoyasumiの前の道路も昔の御城の外廓の空堀として用いられた谷地形の名残りだったりする訳です。
武州久良岐郡地名考 武内廣吉氏作図笹下城推定図 久良岐のよし
さて、K2-7 de hitoyasumi周辺の歴史の話をさせて頂きましたが、小生が特にオススメする媒体は歴史分野では自分のブログですが(笑)、他に面白いブロガー達の記事が読めるのは❝はまれぽ❞と❝知の冒険❞です。
是非、喫茶店で珈琲を飲みながら僕等の横浜ローカルブロガー達の記事を読み、BarやJazzや西洋式ホテルや洋食屋サンやアイスクリームや喫茶店をはじめ横浜が発祥だったり横浜で醸成された文化とハマッ子気質が、元々は鎌倉武士団から引き継がれ戦国時代の北条家の善政や先進的な文化を受け入れ古い文化も大切にする習俗に根差している事を感じて貰えたら嬉しいですね~。


K2-7 de hitoyasumiでも、中華街のJazz‐BarのWind Jammerでも、港の見える丘公園のKKRポートヒル横浜のカフェレストラン❝山手ローズテラス❞でも、文化財洋館のカフェ❝えの木てい❞でも、珈琲を飲みながら横浜らしい文化を感じ横浜の郷土史に触れてリラックスして欲しい。


話がK2-7 de hitoyasumi のファンに成ったローカル情報媒体の紹介に偏ってしまったので話を戻しますwww。

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もし港南台~洋光台方面か杉田方面に車で用事の有る人は訪れて見る価値が有るので今回紹介してみました!

店専用の駐車場は有りませんが、近くにファミマやコインランドリーの駐車場•••

・・・
ゲフンっ💨🤭。

駄菓子やジュースを買うついでに喫茶店で癒やされては如何でしょうか(笑)?

K2-7 de hitoyasumiでビックリしたのが小生が訪問した際に、御近所の小学生が御小遣いで友達同士でクリームソーダやスコーンを食べに来ていた事。
それだけ雰囲気が良く入りやすいんですね。

とにかくスコーンとか珈琲に合うように考えて作られていて美味しかったです。
是非、皆さんんも美味しい珈琲と焼き菓子を楽しんで下さい。

K2-7 de hitoyasumi はUberもやってるそうなので、UberからK27-de-hitoyasumiを探して下さい。


Uber Eats ホーム リンク⤵

https://www.ubereats.com/jp/store/k2-7-de-hitoyasumi/
他にも公式ホームページも有るので、直接御店の雰囲気を体験したい方は冒頭の方に張り付けた公式ホームページやFacebookやInstagramから問い合わせしてあげてみてください!

今後、喫茶店シリーズも銭湯シリーズみたいに記事にしてみようかな?と思います。

では皆さん、歴史散策のついで美味しい珈琲や郷土料理を楽しんで、神社や御寺や洋館で歴史偉人の残した文化に触れて、町の銭湯でサッパリして昭和の庶民文化を感じたり、日々に癒しをみつけて御給料の上がらない日本ですが楽しく(笑)生きていきまっしょい!

さて、いつもの景勝地や銭湯や歴史散策の記事以外にも、また良い御店の情報が有ったら発信するので、是非次回の記事をお待ち下さいね!

あ、小生、仕事しながらオンライン学校で資格を取得しようとしてるのですが学習時間が足りないのでもしかしたら今後、ブログ投稿頻度が2週間に1回位に減るかもしれません。学習時間が足りない。
でも、頑張るしかないですね~。
・・・とか言いながら、又直ぐ書いたりしてwww。

皆さん、又次の記事でお会いしましょう~♪

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大黒大橋
富士山とミナト未来の夕景
&大黒海つり公園海の広場
クリスマス~正月の朝陽の名所
大黒大橋
大黒海つり公園
【交通】
ー電車ー
大黒大橋は生麦駅からバスだと最寄り、大黒海つり公園は横浜駅から直通バス停が有る。
両方とも駅からバスの時間帯さえ合えば不便では無い。
ただし大黒大橋は景色の良い位置までバス停から700m近く歩く。
いずれにせよ、両方ともバスの時間は要確認。


ー車ー
大黒大橋は近くの大黒ふ頭中央公園が便利なものの09時~17時の営業なので日没の早い冬季でもマジックアワーのミナト未来と富士山を見る時間的な余裕は無いので、日没前後の景色を見たければ大黒大橋近くで路上駐車可能な場所に自己責任で駐車して1km近く徒歩で歩くしかない。


大黒海つり公園は駐車場がそこそこ充実しているが、大晦日~元日は休業。


【見所】
今回紹介した大黒大橋の景色は恐らく横浜市域で最高の富士山の景勝地であると同時にミナト未来21地区の夜景スポット。純粋に景色を見に行く価値が有るが行くのに難儀な場所でもある。
大黒海釣り公園は2019年の台風でキャンプ場が破損し更にコロナ禍で2022年現在は再開されていない。
いずれにせよ横浜市域最高の景色を見たいなら大黒大橋は行く価値が有るし、秋季~春季の空気がつめたく空が澄んで見える期間は厚着をした富士山撮影愛好家の姿が絶える事が無い。
車ならば横浜中華街もミナト未来21地区も山下公園も首都高速ベイブリッジを通らずとも高速の下を通っている国道ベイブリッジで直ぐに山下埠頭経由で行く事が出来きて近いので、大黒大橋からの昼間の富士山とミナト未来景色や夕景、大黒海釣り公園の広場モニュメントの間に登る朝陽を見て釣りを楽しんでから昼食を取りに横浜市街地に行っても楽しく思い出に残る1日を過ごせるでしょう。
特にクリスマスの12月25日の朝陽が綺麗に大黒海釣り公園の広場に真っ直ぐ登るので、前日のイヴに一緒に過ごした恋人同士でホテルを少し早く出て朝焼けを見るのはオススメ💛(笑)!
【名物】
波止場食堂

大黒ふ頭内各所に有る港湾労働者向けの波止食堂の安く早く美味い朝食は是非食べて置きたい。
【歴史】
大黒ふ頭は歴史は浅く平成二年(1990年)の完成。
隣の扇島~東扇島界隈は嘗ては遠浅で干潮に成ると干潟が現れ潮干狩りで賑わった場所で一帯は豊かな漁場だった。
神奈川沖浪裏
葛飾北斎の神奈川沖浪裏は丁度、本牧埠頭~この辺りと考えられています。これについて千葉県側は富津沖の景色と主張する方がいますが題名から解る通り江戸市民の葛飾北斎からすれば東京湾の中で同じ位置で富士山が見える富津沖でも神奈川沖と題名を付けている事から現在の本牧埠頭~大黒ふ頭辺りの海で有る事は間違いないでしょう。
神奈川沖東京湾 迅速測図
そもそも論で葛飾北斎がこの景色を描いたのは江戸時代当時江戸城の将軍に献上する魚を三浦半島の三崎漁港から届ける定期便に乗船したと考えられており、東京湾の潮流は正午頃から時計回りに流れますから富津側に行く訳が無いんですね、千葉県民の皆さんゴメンナサイ(笑)。
潮流については横浜の倭建伝説が残る杉田妙法寺や白楽の宝秀寺、横須賀の走水の倭建神話を検証した際に走水の漁師さん達や海上保安庁の人の話をヒントに紐解いた際の記事を御覧下さい。



そんな訳で大黒ふ頭は実は葛飾北斎が見た富士山の景色を現在は波越しではなくミナト未来21地区の夕景越しに見る現代の富士山絶景スポットで有り横浜屈指の夜景スポットだったりします。
——他の場所はコチラ⤵️から——
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ブログネタ
紅葉の写真 に参加中!
さて今年も秋に入り、もう直ぐ紅葉の季節です。
過去に書いた記事をベースに新しい写真に差し替えて、何ヶ所か追記して紅葉の名所紹介をリニューアルします。

●各所紹介に個別の詳細解説へのリンクが貼って有ります
この記事の一覧と異(こと)なり
個別の詳細解説には更に多くの写真と情報を掲載してあります。
個別の解説記事では住所をクリックするとGoogleMapにリンクし場所が表示されます。
GoogleMapをスマホで使うと電車乗換検索やカーナビとして機能しますので非常に便利です。

現地写真と現地を訪問した小生の個人的感想で各項目毎に評価します。
最良を★★★★★5~最低を1で相対評価します。
(参考例)
【景観】
    ←本数ショボい、もしくは見る価値無い景色。
★★   ←まぁ、近所なら悪くはない。
★★★  ←紅葉少ないが景色が綺麗。
★★★★ ←紅葉も多く景色も素晴らしい。
★★★★★←スペシャル!
※電車アクセスに関して
    ←2kmは歩くよ~。
★★   ←バス乗換え乗車30分超。
★★★  ←バス乗換え乗車30分内。
★★★★ ←駅を降りて徒歩圏内。
★★★★★←駅の目の前。

【紹介箇所】
東京都中央区  

浜離宮恩賜庭園(甲府松平家邸址)

東京都世田谷区 

大谿山豪徳寺(世田谷城址)~世田谷八幡宮

東京都世田谷区
九品山淨眞寺(奥沢城址)

川崎市多摩区
生田緑地
岡本太郎美術館~生田緑地菖蒲園のセコイアの林
~日本民家園~桝形城跡

川崎市宮前区
東高根森林公園(神奈川の景勝50選)

川崎市麻生区
星宿山王禅寺(歴代天皇の勅願寺)の紅葉

横浜市中区
山下公園~横浜スタジアムの銀杏並木
と彼我庭園(旧岩亀楼庭園)の紅葉

横浜市中区   

国指定名勝:横浜三渓園(原財閥邸址)

横浜市戸塚区
舞岡公園


鎌倉市北鎌倉
松ヶ岡御所東慶寺~金峰山浄智寺(鎌倉五山第四位の寺院)

鎌倉市雪ノ下

鶴丘八幡宮~白幡神社(鶴岡八幡宮境内社)~鎌倉国宝館

鎌倉市浄明寺地区①

稲荷山浄妙寺(足利家菩提寺)

鎌倉市浄明寺地区②
功臣山報国寺(宅間上杉家菩提寺)~華頂宮邸(旧皇族邸宅)~釈迦堂切通し

鎌倉市二階堂
金屏山瑞泉寺~天園休憩所

伊勢原市大山

大山国定公園~雨降山大山寺(関東三不動)~大山阿夫利神社(延喜式内社)

秦野市曽屋

弘法山公園~鶴巻温泉

秦野市今泉    

震生湖~福寿稲荷社

南足柄市大雄町

大雄山最乗寺

足柄下郡箱根町 
←追記予定
公時神社~金時山周辺(伝:金太郎出生地の一つ)



浜離宮恩賜庭園の紅葉
(旧甲府藩松平家邸址)
〒104-0046 東京都中央区浜離宮庭園1−1
【景観】★★★
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皆さん鎌倉殿の13人はご覧に成ってるでしょうか?
源頼朝公や源範頼公、義経の兄弟は歴史上でも個性を活かして活躍しましたが、ドラマでも夫々(それぞれ)史実と異なる描写は有りますがドラマのキャラクターとして人を引き付ける演出がされていましたよね〜?
鎌倉殿源頼朝3
鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経2
実は彼等よりも武将として優れた人物が彼等の近親にいたのを御存じでしょうか?
しかも、その人物は京都から見た中央史観では伊豆大島で死んだ事に成っているのですが、どうも源氏の根拠地に成っていた相武地域、つまり現在の神奈川県〜東京都〜埼玉県では状況的に・・・
「あれっ・・・これ生きてたんじゃね?」
・・・と言う複数の繋がりが出来る史跡が有るんです。
その源氏最強武将と言うのが、京都から追放されるたびに流刑地を一人で征服して領地にしてしまう凄まじいバイタリティーと指揮官としての軍才と個人戦闘能力の高さを合わせ持っていた武将で名前を源鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)と言います。
鎌倉殿源為朝
「ん・・・呼んだ?」
この人の事を知らない人の方が余り歴史に興味の無い人は多いと思いますので、皆さんも見ているかも知れない鎌倉殿の13人の登場人物紹介を拝借して人間関係を整理するとコンナ感じの相関図です・・
↙(遠縁の親戚)↘ 
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿上総広常3
 (三浦家二男)↘ ↙(有力者)(後見)
         ↙協力↘     ⇩
  (三男)    ⇔      (父親)  ⇩
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源義朝
   ⇩     ↘↙  (長男) ⇩
  (叔父) (弟) ↙↘  (叔父)  (弟)
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源行家
(兄)   ⇔   (弟)
さて、朝廷側の史観からは源為朝公は伊豆大島と伊豆諸島を征服した後で後白河天皇から討伐軍を送り込まれて死んだ事に成っています。
しかし神奈川県内には、彼が匿われながら移動していたと解る点が線で繋がる生存伝承地が幾つか現存していて、伊豆大島から横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と一筋に繋がる生存ルートの為朝公伝承地が有ります・・・

DSC_0524
鎮西八郎為朝神社
(濱町の為朝神社)

この鎮西八郎為朝神社は実は伊豆大島に討伐軍を差し向けられた際に彼が浦賀に逃げて来たと伝わり、彼の武勇を慕った地元の方達の御先祖様が源為朝公を御祭神として神社を開いたそうです。この鎮西八郎為朝神社は西叶神社の宮司様が兼務されていますが、神社庁に属さない地域持ちの神社なので余り知られていない上に、地域の人達に取材しないと説明書きも無いので由来も解らず終わってしまします。
この場所は完全に三浦家の支配圏内ですから、状況的には彼は保元の乱では対立した源義朝公や三浦家によって救出されて死んだ事にされた上で、横須賀の浦賀港に上陸し更に鎌倉に一度入った様です。
DSC_0521
DSC_0527
ですから源為朝公は、目立つ三浦半島西海岸の三崎港や新井城下の小網代港や諸磯港ではなく、伊豆半島の網代港でもなく、平塚市の須賀港等の古代からのメジャーな風待ち港ではなく、この地域に上陸し密かに匿われた様です。
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源義朝
「兄上HELP!」「もぅ仕方無いなぁ」
         「三浦サン頼むわ!」
            ⇩
         鎌倉殿三浦義澄
       「・・・合点でぇい!」
鎌倉の方の話しに移る前に・・・
余談ですが鎮西八郎為朝神社は以前紹介した燈明堂海岸の比較的近くに存在しています。


もし源為朝公ファンの方は上大岡の歴史散策とSETで浦賀も訪れ、千代ヶ崎砲台や燈明堂海岸や西叶神社と東叶神社を散策すると非常に充実した1日に成るかと思います。

千代ヶ崎砲台は見学済みですので又、改めて解説記事を書きたいと思います。
江戸時代にも千代ヶ崎台場が築かれ明治時代には砲台化され、更に対岸の東浦賀の叶神社の背後の山稜は三浦氏の浦賀城として城塞化され戦国時代にも北条家によって配下武将が配置される等、浦賀は重要な港湾であり尚且つ平安時代には既に海上交通の要衝に成っていました。
それを説明するのに保元の乱の話しをしたいと思います。
保元の乱では兄の源義朝公の敵側である崇徳上皇に父の源為義公と共に与力してしまい、後白河天皇に与力した義朝公と平清盛と戦う事に成りました。
鎌倉殿後白河法皇
鎌倉殿平清盛鎌倉殿源義朝
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿大庭景親
VS
鎌倉殿源為朝

崇徳上皇、藤原頼長、源為義(義朝/為朝/行家実父)、源頼憲、平忠正、平家弘等・・・
この戦いで源為朝公は善戦しますが、彼と父の源為義公等の与力した崇徳上皇の軍勢は、為朝公の実兄の源義朝公や平清盛公の軍勢に大敗します。
結果的に源為義公と平家弘公は斬首に成り、源為朝公は逃走して近江国に隠れていた所を捕縛されて、三浦家や伊東家等の水軍を持っている武家しか行く事の出来ない伊豆大島に島流しに成りました。
伊豆大島に島流しに成った源為朝公は元々個人的な武勇が優れているだけでなく可也(かなり)指揮官として優れた軍人で人望も有ったので瞬く間に伊豆大島を支配下に治めてしまうと、今度は伊豆諸島の離島まで征服してしまいました。その為に追討軍を差し向けられて殺害されたとメジャーな話では伝わるのですが、伊豆大島から横須賀~逗子鎌倉~上大岡に足取りを辿れる様に中継地点の史跡が幾つか残っています。
鎌倉市の材木座海岸と逗子市の小坪の丁度、境界線に当たる地域にも源為朝公の足跡を辿る事が出来ます。
当時の旧鎌倉郡は逗子市も含まれていました。戦国時代頃には三浦郡に成っていた様です。
江戸時代の三浦郡小坪村飯島には鎌倉十井の一つに数えられる六角井が有り、この井戸が現存しているのですが、実は源為朝公の伝説が残っている場所です。
CIMG0397
鎌倉十井の1つ 六角ノ井
すみません、しょっちゅう行ってる場所なのに史跡としては鎌倉市が管理を怠っていてブルーシートで覆われている様な状態でショボ過ぎる写真しか有りません(笑)。
CIMG0398
この六角井は伊豆大島から放った為朝公の屋が井戸の中に落ちた云々の非現実的な伝承が伝わっていますが、現実的な解釈をすれば伊豆大島で戦乱を起こした為朝公は実兄の源頼朝公と三浦義明公義澄公に救出部隊を送られ浦賀に上陸してから、更に海路で小坪か材木座に上陸し、この付近に一時期潜伏していた時に、当時は井戸を掘る時に水神様や土地神様への御供物として武具や調度品を入れたり神事を行う習慣が有ったので、為朝公が六角井の建設に関わったのかも知れないのが死んだ事に成っていたので伝承が間違って伝わったと考えると現実的ではないでしょうか?
この六角井辺りは丁度最近、富士山の景勝地として3ヵ所に分けて紹介しています。

凄く綺麗な場所なので天気の良い日に逗子〜鎌倉観光をされる人は是非、源為朝公の六角井や富士山の景色を見に訪れてみては如何でしょうか?
さて、この六角井は現代の鎌倉と逗子の境界線に成る訳ですが、鎌倉郡と三浦郡と久良岐郡は共に三浦家の氏族の領地が多く有りました。
今回紹介する場所には上大岡も有ります。六角ノ井の所在地は当時の鎌倉郡に当たる訳ですが、もう1つ為朝公の隠れ里の伝承が有る上大岡は久良岐郡に在り鎌倉郡に隣接します。
ここまで伊豆大島⇨浦賀港⇨小坪港西浜〜材木座と着実に上大岡に近づいてきていますね〜。
これね、メジャー文献しか読まずコピペばっかして自分で歩いて見て取材しないガクシャ様は知らない伝承なんです。
文献考古学で解る範囲の事は必ず為政者や筆者にとって都合の悪い事って書かれないんですよ、ほとんどね。だから歴史民俗は状況判断にとっても重要。
現代だって御役所の中でソンナ事は沢山有るし、公務員に限らず民間人の皆さんだって小生と違って自覚が有るんじゃないですか〜?
上司の命令で法律や規定を逸脱した方法で仕事したりしてませんか?
契約の評価基準下回ってるのに良品として納品したりしてませんか?
中小企業の社長サンにも求人は偽の雇用条件が堂々と記載されていて労働条件通知が出されると全然内容が違ったり、労基法すら全く順守せずブラックな労働条件で働かせたりする人沢山いるでしょ?

中小企業の社長サンには労働基準法を順守せずに新しい親日国のベトナムの友人達を技能研修性と称する❝奴隷化❞して反日ベトナム人を増やして将来の反日国を増やす事を何とも思わず日本の国防と国益を脅かす❝国賊❞の様な真似をしておきながら「自分は普通の市民」面して生きてる人もいるでしょ?
日本の国力を衰退させ友好国を非友好国に変えてしまう「外患誘致」ならぬ「外患製造装置」みたいな中小企業の経営者が現代の日本にも沢山いるよね〜。
ハッキリ言って中道保守派の小生から見てソイツ等悪人中小企業経営者は、友好国ベトナムの方々を奴隷化して友好国を減らし反日装置を製造する❝国賊❞だわな。
そんな連中は日本人失格。
武士も嘘を吐きますけど家族みたいに部下を大切にして部下が死んでも収入を保証して結婚相手まで面倒見たり、当主が討死した家の子の後見人に成ったり配下武将の家族の面倒を見たりするから、武士の棟梁に対する忠誠ってのは強固だったんです。
この理念を常日頃言っていたのが松下幸之助師匠ですね。

つまり松下幸之助師匠や町単位で市民の生活を考える豊田章男社長の様な人は、現代人ですがやっている事は丸っきり武士の発想なんですよね。

皮肉な話ですが、この御二人は紀州人と三河人なので平安末期の感覚で言う所の三河以東や関東地方以東を意味する坂東人ありませんが、東海地方や畿内に平安時代の武士イズムが脈々と受け継がれているのは、逆に腐れ儒教の影響を色濃く受けた江戸幕府の影響下に無かったから平安武士と同じ感覚が企業経営理念に残っているのかも知れませんね~。
小生の雇い主は客観的に見て松下幸之助サンに理念が似ている上に営業職の小生が加工技能習得の研修を志願したら意を組んで下さったり豊田章男社長の理念も持ってらっしゃいます。
頼朝公や信長公が頼りにした平安時代~室町時代の熱田神宮の宮司家であり武装豪族だった千秋家や、平安末期の坂東武者の棟梁の様に兄貴的な人なので、小生は雇用主の配下として三國志の孫策・孫権に仕えた呂蒙や関東地方の北条綱成公や梶原景時公や長尾定景公の様に働く存在に成りたいと思えたりします。
小生の雇用主御本人には、直接こんな小生が思ってる事なんて言いませんけどね、なぜなら小生は上司に媚び売る姦賊が大っ嫌いなので。
実力でサポートし、雇用主が言い難い事ややり辛い事を先陣切ってやったり、実力を付けて時には雇用主が危険な判断をしそうな時は数パターンの諫言を用意出来る様な人材でありたいと思う、今直ぐじゃなくても。
立派に業績を打ち立てる日本を代表する経営者は坂東武者に似ていると言う話をした訳ですが・・・
まぁ、武士の時代以前の神話の神様に神格化された古代の豪族の時代~現代まで人材を人材として家族の様に扱わない集団、過去の成功パターンに固執して新しい事に挑戦しない集団、家族や配下を食わせる為に必要な潮流を読み時流が動き出す前に機会を先取りしない集団は必ず滅びた例が現代企業でも溢れているって事です、歴史を見れば。
現代の日本企業は外資系企業と比較して人を大切にしないし従業員の家族なんて眼中に無い場所ばかり。古い事に固執して発展を止め、挙げ句の果てにデータの数値改竄や労基法違反隠蔽し更に友好国から来た研修生を奴隷にし反日国を増産してる国賊経営者もいる訳で、ソンナ連中は昔風に言うなら国賊です。
鎌倉殿源頼朝2
鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経3
鎌倉殿源大姫鎌倉殿源頼家鎌倉殿源実朝

鎌倉殿北条時政2鎌倉殿牧りく鎌倉殿北条政範
鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条時連
鎌倉殿北条泰時

そんな現代日本人の悪人首領と同じように吾妻鏡だって北条家にとって都合の悪い事は粉飾したり削除してる形跡だらけですしねぇ〜。
恐らく源頼朝公も北条家が主導した暗殺だったでしょうし、源実朝公を殺害させた主犯も北条家でしょう。何だったら大姫だって毒殺で殺されたかも知れないし、上総広常公の暗殺も北条家や三浦家の主導だった可能性が可也高く有ります、だって上総広常殺害して奪った領地を給与されたのは三浦一族と北条一族と千葉一族ですからね。
まぁ、北条家は謀略で沢山の主家源氏の忠臣である同僚を謀殺し、更には主君の源家を暗殺で根絶やしにし、発言権の強い別の鎌倉御家人を全てから滅ぼして❝身内人❞と呼ばれる自分の家族に等しい北条家臣団中心の幕府運営に組織を作り替え、従属する源氏の御家人も大切にして日本を纏め上げた結果、元寇襲来時に武士団がバラバラにならず指揮系統が強固に保たれ世界最強のモンゴル軍を追い返せた訳です。
現代の国賊中小企業経営者とは違いますね・・・
今の日本企業経営者は海外に技術流出させまくり。
親日国の人々を技能研修生の名目で奴隷化して反日国を量産、日本の発展と日本国民の生活を脅かす内憂であり国賊でしたかない。
・・・とは言え先述の通り吾妻鏡は北条家にとって都合の悪い事は省かれている様に、メジャー文献からは消されたり違う事を書かせたり愚管抄の様に他人の又聞きを書いてるに過ぎなかったり粉飾や隠蔽で辿れない事も多いんです。
例えば愚管抄は比企氏と源頼家公を守ろうとして死んだ小生の尊敬する武将の一人である糟屋有季公の子等の伝聞で書かれた物で、多くの❝鎌倉時代の研究者❞を自称する文献考古だけでは見落としがちなのですが・・・
広範囲に調べたりせず自分で地元を歩いて廻ったり別の時代の史料を読まないタイプの文献考古のセンセイ様(笑)は愚管抄を妄信したり思い込みで伊勢原市の糟屋氏は相模国では滅亡したと思っている人が多いのですが、実際は室町時代にも相模国に一族が生き残り扇谷上杉家の家臣団として藤沢市域に残っていたり、室町時代後期にも小田原北条家臣として所領役帳に記載が有ったりします。
ましてや畠山重忠公討伐の北条家による騙し討ちの二俣川の合戦では愛甲季隆公が活躍していますが、この時に活躍したのが伊勢原市~厚木市の軍勢だったのは有名な話ですね。

そりゃそうですよね~、三浦家だって本家は滅亡しても分家の佐原義連公の家系が存続して活躍し苗字を佐原から三浦に復しているのですからwww。
和田義盛公の御子息の朝比奈義秀公の御子孫と思しき三浦一族も戦国時代に北条家の主な根拠地の1つになっていた駿河国に戦国時代も存在して今川家臣団として登場します。
吾妻鏡の隠蔽については以前に書きましたが、上総広常公の死に様の1年間の削除なんて代表例でしょ?
この人⤵
鎌倉殿上総広常3
「え、俺の話?」

だから色々と古文書に書かれた事なんて検証せずに鵜呑みにしてコピペして本にしたら❝OUT❞なんですよねぇ〜。
本物の歴史家を尊敬する小生は素人歴史オタクとして数人の歴史かの知り合いがいます。
尊敬するプロの歴史家の博士や学芸員サンとダメな❝歴史ガクシャ先生❞化した人を見て来て思うのは、歴史のプロの方々にとって大切な刑事の様な人の嘘を見抜いて情報を収集し取捨選択して、現代の行政区分の市境や区境の範囲や地形の先入観にも捕らわれず、自分の興味や研究の対象外の雑談からも情報を吸収し関連付けてから立証していくエジプト考古学の様なスタンスが必要なのだと思います。
だから小生が尊敬する歴史家ってのは現地を実際に見て廻ったり現代に成っても御子孫達に聞き取りをして廻ってる人ばかりなんですが・・・
神奈川県には鎌倉殿の13人に登場した源氏の人物に関連する武家の御子孫が2家現存しています。
その鎌倉殿の13人に登場した重要な人物はこの人です・・・
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源頼家
※故人:息女が嫁ぐ↗     ⇩
    実弟  甥    親子
    ⇩     ↘    ⇧
2鎌倉殿源行家鎌倉殿源頼朝
「挙兵しろぉ〜」⇨「煩い叔父だ」
    ⇩        ⇩
鎌倉殿源行家鎌倉殿源頼朝2
「領地よこせぇ」⇨「オッサン邪魔」
この源為朝公の子孫が海老名の大島家や源頼朝公に伊豆大島の代官に任じられた大島家な訳ですが、もう一人の頼朝公と対立した源行家の関係先と伝わる家が、為朝公生存説の史跡の有る地域に存在します。
それが源行家公の家臣団と伝わる家柄の田野井家、山野井家で、この家が為朝公の隠れ里と伝わる当時は三浦一族の領地だった大賀郷と呼ばれた地域一帯に現存しています。
山野井と田野井って何だか童話に出て来る金閣・銀閣のコンビ名の様な苗字ですが(笑)、横浜市の郷土史では田野井家と山野井家は新宮十郎行家の家臣と伝承しています。

横浜市会議員だった田野井一雄サンは源行家公の御家臣に当たる訳ですね。
この田野井家は現在の港南区日野と言う旧鎌倉郡との郡境に根付き室町時代には豪農的な立場に成っていた一族の様で、その一帯は室町時代に成ると地域的に戦国大名の北条一族で北条本家の軍師を務めた北条幻庵公の所領に成っていたので小机衆として動員されていた可能性が有りますが、その地域一帯は概ね間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の領地にも被っていたので玉縄衆だったかも知れません。
玉縄衆や間宮家に関しては以前紹介した記事が有るので、御興味有る方は以下の過去記事を参考にして下さい。


山野井家の方はと言いますと現在のG麺7の有る上大岡地区、旧久良岐郡禅馬郷大賀村とか平子郷大賀村とか大賀郷大賀村上大岡村とか地名が何回か変わってり村区分が分割されたりしたらしい京急上大岡駅の辺りにいて、その辺りは平安時代末には源頼朝公の父君の源義朝公と源行家公の実弟の源為朝(ためとも)公の所領だった様です。

以前、G麺7の紹介記事や、この地域の丘を登った場所にある森浅間神社の記事では上大岡は少し紹介した事があります。
今回は源氏最強の源為朝公の史跡紹介で上大岡に辿り着いた訳ですが、本題の源為朝公の史跡の話に戻ります。
G麺7から上大岡駅東口の方へと戻る途中、駅の右手は丘に成っているのですが上大岡駅を少し過ぎて右手のビル1Fに❝花ともだち大塚❞と言う生花店が有りますので、そこを右折して少し上がると駐車場の中にヒッソリと源為朝公の御霊社が現存しています。恐らく江戸時代に作られた供養塔の祠ではありますが、この地域は大昔から源為朝公の隠れ郷と伝承していた様です。
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源為朝之廟社
この一帯は律令制度では武蔵国久良岐郡に当たり郡役所の郡衙は弘明寺だったと考えられています。その久良岐軍を平安時代に治めたのが坂東平氏であり、大江山の鬼退治で活躍した三浦一族初代の平為通(ためみち)公の子孫の久良木三郎通継(みちつぐ)公でした。三浦為通公の御子息に三浦為継公がいますので、その子供の三浦義継公の御兄弟が久良木三郎通継公に当たる様です。
この久良木三郎は後にこの地域を治めた平子家の祖先でも有るので平子の苗字で江戸時代には記録されているケースも有る様です。
鎌倉殿源義朝鎌倉殿源行家鎌倉殿源為朝
源為朝公達兄弟の父上の名は源❝為❞義ですから、三浦氏の家祖である三浦大介(三浦郡知事)を務めた平❝為❞通(ためみち)公の代から既に三浦家と源頼朝公の家系の河内源氏は関係が有った事が窺えます。
その様な状況から久良木三郎公の治める久良岐郡に源為朝公の所領が有り、三浦家が当初は為朝公を後見していた可能性も有るかも知れませんね。
この上大岡一帯が源為朝公の隠れ郷だったそうです。
久良木通継公に関しては、未だちゃんと紹介した記事を書いていないので何(いず)れ久良岐郡の中で現在の磯子区~中区と南区の本牧半島を治めた三浦一族の平子家の紹介記事を書いて又いつか歴史を今回みたいに無理やり絡めて紹介したいとおもいます・・・いつかね(笑)。

さて、ここで源為朝公の消息は途絶えますので、もしかしたら死没地はここだったのかも知れません。
上大岡の丘の周りには御寺が沢山有りますし、近くには久良岐郡衙(ぐんが:郡役所)跡と伝わる弘明寺も有りますから、もしかしたら弘明寺は源為朝公の菩提寺だったりしたかも知れませんね~。
源為朝之廟社の近所には初夏には3万本の向日葵(ひまわり)が咲き誇る❝大賀の郷ひまわり畑❞も有ります。
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大賀の郷ひまわり畑
3万本の向日葵が咲き誇り入園無料

この大賀の郷は現代では横浜市港南区と南区と磯子区の区界の地域で港南区に属しますが、公式の広報ページが無く港南区も2021年度の❝ひまわりフェスタ❞中止と言う告知しか無かったので下のInstagramの♯大賀の郷で皆さんが投稿している一覧を表示するリンクを貼って置きます。
Instagram⤵の皆サンの投稿
https://www.instagram.com/explore/locations/676722655/?hl=ja
小生の写真⤵
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近所の人に親しまれているイベントのようで、為朝公の史跡巡りがてら初訪問だった2021年には多くの親子連れや女性同士で写真撮影している姿を見かけました。
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是非、源為朝之廟社と合わせて大賀の郷ひまわり畑で写真撮影やTOHOシネマズ上大岡で映画デート~G麺7でのランチ等と合わせて休日の歴史散策をされては如何でしょうか?
映画館の話しをしてて思い出しました。

東野圭吾原作小説のドラマ、ガリレオの映画「沈黙のパレード」を土曜日に見て来たのですが凄く楽しかったですよ!ロケ地巡りをもししたら、いつか記事にしたいと思います~。
話を上大岡に戻します。
大賀の郷まで行くと、徒歩の距離に❝ゆず❞の地元の岡村町も有ります。

その周辺には先に紹介した玉縄衆の総大将の玉縄北条家所縁(ゆかり)の龍珠院と言う御寺も有ります。

更に歩けば未だ紹介して無い平子家の菩提寺の真照寺や戦中戦後のブラックマーケットから商店街化した浜マーケットも在ります。

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浜マーケット
さて、横浜市は他都市からの移民だらけで郷土史は忘れ去られがちですが、こうやって実は伊豆大島や横須賀市の浦賀や鎌倉市や逗子市とは源氏と北条家の歴史で密接に繋がっているんですね~。
浜マーケットの直ぐ近くの金蔵院も未だ紹介していませんが北条泰時公が磯子区広地町のマンションが建っている場所に前身寺院を開基(かいき:社寺を開く事)した御寺だったりします。

今回は伊豆大島~三浦半島の横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と源為朝公の史跡を辿ってみましたが、きっと皆さんの地元にもスゴイ歴史偉人との繋がりが有る伝承地の史跡が有る筈です。
だから皆さん、ちょっと近所の城跡の公園や山、神社や御寺を参拝して説明書きの看板を読んでみませんか?
散歩すると気分も良いですしね~♪

さて、今日はここまで!
では皆さん、又、次の記事で御会いしましょう~♪
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読者の皆さん、08月11日の更新から半月以上もブログ更新をサボっていた久良岐のよしですwww

2017年から始めた三浦半島の水質の良い穴場の海岸の紹介一覧記事を、コロナで三浦半島の観光産業と水産業農業の生産者が困窮しているのを目の当たりにした2020年夏、三浦半島の人達の力に成りたい一心で少しでも多くの人の役に立ちたいと思い記事のリニューアルを二十代~六十代までの男女問わず友人や恩師や後輩に「どうしたら見やすいか」「どういう情報が欲しいか」数パターンのプロトタイプを作って意見を聞いて再編集して、2022年08月03日に最終回の記事を書き終えて燃え尽きました。
コレが⤵2017年から約5年間かけてまとめた一覧。

最終回の記事はコレ⤵

これ書き上げてからブログをまともに更新せず夏休みを頂いていましたwww。
この間に何をしていたかと言うと、減量の為に丁度車検切れる車を6月に手放して7月からは自転車に乗り換えて、毎日天気の良い夜は最低20km、昼から動ける日は18時~19時の日没のマジックアワーに合わせて夕方に太陽が傾き始めて熱中症にならない15時~16時頃から中距離(往復40km~50km)を❝ぜぇぜぇ❞言いながらチャリンコで走って夕陽や夜景や朝陽の写真を撮影に行ってました。
なので・・・
チャリ乗ってる時間=今までブログ書いてた時間
・・・に成っていたので必然的に更新が途絶えた訳です(笑)。
会社の総務部長様に許可を貰い09月から片道15kmのチャリ通勤を「減量の為にやらしてくだせぇ~!」と御願いした所・・・
「いいですよぉ~」
・・・と快諾して下さった上に・・・
「なんならバイク通勤扱いと同等の交通費支給するので雨の日は電車で良いですよ~」
・・・とまでに言って下さいました。
4年前に減量して最終的には体脂肪率10%の全身筋肉量65kg、体重78kgに成って6packだったのは古株読者の方は御存知の所かと思います。
これ途中⤵基本目標達成時に書いたヤツ。

腹筋はコロナ禍でジム通いを止めて炭水化物を夏祭りの粉物食べてから歯止め効かなく成り又食べ始めたらあっという間に太りまして、いや~、人間って簡単に太れるものですね・・・
78kg⇒115kgに約40kg太りました(笑)!
・・・まぁ、そんな訳で一念発起して自分が強制的に移動手段で痩せる為に車を売り払いチャリンコに乗り換えて移動手段を❝運動❞にした所、07~08月現時点で12kg±01kg減量しました。
±は運動量の水の抜け方で最大1日の体重差が約03kg有るので、食事しても01kg前後の変動が有るんです。
で、08月中頃からはチャリに乗っててブログは書いていませんでしたが、それなりに写真は撮影したのでベチャベチャ写真だけ貼ってみます!
また、それぞれチャントした記事に編集しますが、今日は風景写真だけで勘弁してください。
23時に寝ても05時に起きないといけないので、記事書いてると睡眠時間無く成っちゃうんですwww。
【逗子市 披露山公園の夕景】
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【横須賀市 走水海岸破崎の夕景】
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【横浜市中区 横浜港シンボルタワー夕景】
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【横浜市中区 山下公園の朝焼け】

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【みなと未来21地区~象の鼻パークの夜景】
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【鎌倉市 稲村ケ崎の夕景】
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この他にもチャリでの行動範囲なので同じ場所ばかり(笑)沢山写真撮影しましたが、これらの景色や神社仏閣の紹介と富士山の景勝地の紹介記事や、05月に調べ始めて少し書いてた逗子市小坪の神社仏閣の廃仏毀釈での変遷の歴史や逗子市と鎌倉殿の13人に登場する平維盛公の関係等、前半部分だけ書いて放置してる記事の続きも書いていきたいと思います。
この辺り⤵の記事の続きやシリーズかした個別解説ですね。


・・・小生はそろそろ寝ないと明日仕事中に寝てしまうので、他にも御見せしたい写真も有りますが、今日は09月からブログ記事再開の告知と言う事で今日はここまでにさせて頂きます。

では皆さん、まだまだ暑い日も有ります、熱中症に気を付けて今年残り4ヶ月間を実り多く健やかに過ごして下されやぁ~♪

また、次の記事で御会いしましょう~♪
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