歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:横浜市


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G麺7
神奈川端麗系異端の個性的なスープの名店
横浜市港南区は京急上大岡駅近く・・・
中村屋の日本撤退後、神奈川端麗系を代表する5本指の内の1本の地位にあると言って過言ではないと思う。
個人的には5本の指に数えられる神奈川端麗系の名店を挙げるなら以下の様なイメージ。
志那そばや 
中村屋⇨ZUNDBAR/阿夫利 
飯田商店 
くじら軒 
G麺7

【店舗】
注文は店外の券売機で。
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店は余り大きくないけどオシャレで女性1人でも入り易い良い雰囲気です。
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比較的、大学生位のラーメンフリークやカップルの来店が多い人気店。
昼か18時位に行ければ落ち着いて食べれる。
駅から徒歩05~08分。
車なら目の前に大きなイトーヨーカ堂が有るので、そこの有料駐車場に停めると便利。

【商品】
醤油と塩がある。
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醤油拉麺のスープは甘味を感じて旨味もしっかり。
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スキ焼をすっきり端麗にしたようなスープは色も濃い目だが綺麗。
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麺はツルっとした感触でモチモチ感も強い麺で、これも個性的な印象。
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追い鶏節と言うのがあり、鰹節ではなく鶏燻製の鶏節を追加したメニューがある。
鶏節自体も美味しい。
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味玉も普通に美味しい。
叉焼は基本は鶏叉焼。
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トッピングで豚肉の叉焼が有る、そちらは昔ながらの回りが赤みの有る叉焼。
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あと、お冷やの代わりの無料のジャスミン茶が中華街の店並みに美味い(笑)。
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スープに甘味を感じるのでジャスミン茶が余計にスッキリ美味しく感じるのかも?

【周辺情報】
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源為朝之廟社
余り歴史興味無い人にはショボい史跡ですが源頼朝公の叔父で名将として名高い源為朝(ためとも)公を御祭神として祀る御霊社の祠(ほこら)がG麺7の最寄り駅上大岡駅の裏側に有ります。
鎌倉殿の13人で言うと人間関係はコンナ感じ・・・
        ↙(遠縁の親戚)↘ 
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿上総広常
 (三浦家二男)↘ ↙(有力者)(後見)
          ↙協力↘    ⇩
    (三男)    ⇔     (父親)   ⇩
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源義朝
    ⇩     ↘↙   (長男) ⇩
   (叔父) (弟) ↙↘   (叔父)  (弟)
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源行家
   (兄)   ⇔   (弟)
伊豆大島に島流しにされた後で、軍人として優れた資質と人望で瞬く間に島を支配下に治めてしまい更には伊豆諸島の離島も支配下に治めた事が京都の朝廷に伝わり後白河天皇が焦って討伐命令を出して殺害されたと京都の歴史観では表向き成っていますが、実は源氏の本拠地に成っていた神奈川県や東京都や埼玉県の旧相模国と武蔵国では兄の源朝公と三浦義明公&三浦義澄公の三浦一族の助けで朝廷軍の追討を逃れて三浦半島横須賀市浦賀港に上陸してから鎌倉、そして上大岡に来た事を窺わせる伝承地が夫々(それぞれ)に残っています。

伝承では上大岡は源為朝公の隠れ郷だったと古くは伝わっていたそうです。
上大岡は横浜市の中では比較的駅前の発展した場所ですが地元の人か歴史が好きな人位しか行く機会は無いと思いますから、市外からG麺7に拉麺を食べに行かれる御予定の有る方は、上大岡駅から徒歩圏内のヒマワリの名所の“大賀の郷”の向日葵や久良岐公園の桜が見頃に成ったら合わせて行くと良いかも知れないです♪

もし車での来訪でしたら、G麺7から車で5分の場所に東京神奈川千葉の東京湾岸の名物の❝黒湯炭酸泉❞の天然温泉の浴槽の有るスーパー銭湯❝みうら湯❞も有ります。

この他に一応、上大岡駅前には商業施設内にシネコンも入っており映画も見れるので、映画を見てG麺7で昼食か夕食と言うのも良いですね〜♪

拉麺だけじゃなぁ〜と言う人も、歴史だけじゃなぁ〜と言う人も、映画だけじゃなぁ〜と言う人も、温泉だけじゃなぁ〜と言う人も色々混ぜて訪問する理由を作れる場所が上大岡かも知れませんね(笑)。

さて、今回のラーメン屋紹介も、やはり郷土史歴史観光の小生の記事らしい展開に成りましたが皆さん良い休日を御過ごし下されやぁ〜♪
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前回の記事⤵

コレ⤴の続き・・・

前回の瀬戸神社の歴史解説と、前々回の瀬戸神社の御分祀された手子神社と小泉弁才天の歴史解説の記事で瀬戸神社や金沢の地が、源頼朝公と北条政子御夫妻はじめ鎌倉幕府執権北条家、鎌倉幕府を打倒して樹立された室町幕府の鎌倉公方足利持氏公、戦国時代の太田道灌公や北条早雲公や北条氏綱公、安土桃山時代から江戸時代の転換期に徳川家康公が関わり各時代の歴史偉人達から大切にされて来た事は御理解頂けたかと思います・・・
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・・・今回は歴史解説は少なめにして、いよいよ横浜市による金沢六浦の海の埋立や鎮守の杜の山の掘削された景観破壊後の現代の瀬戸神社と琵琶島弁才天の風景を御紹介したいと思います。
さて、現代では周囲の海が埋め立てられてしまった瀬戸神社の周りはとても美しい2つの湾の入口に在る半島と半島を橋で結んだランドマークであり歴史偉人も遊覧した観光地でした。
昔の海を再現した模型と地図でしか現代人の我々は当時の様子を知る事が出来ませんが・・・
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
金沢地形図 久良岐のよし
・・・実は、この島と半島が入り組み東京湾~六浦湾~瀬戸の3つの湾の金沢の海の大半が埋め立てられたのは極々最近の話しで、他都市からの移住者が役人として就職していて横浜=赤レンガと中華街程度の認識しかない無文化で日本の歴史文化に興味が無い横浜市役所役人達によって開発許可が出され昭和期に消し去られてしまいました。
正直、現代では過疎化の進む横浜市栄区や緑区等で貴重な自然とは無縁の真っ平らな開発し易い田園地域を宅地開発させれば良かったのに、現代でも横浜市は栄区の中でも横浜市最大最後の蛍の生息地の瀬上沢でさえ林文子市長が東急不ループの自然破壊宅地化容認の発言が飛び出していたりします。
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以前、瀬上沢を紹介した記事リンク⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
だから景観破壊される前に日本屈指の観光地だった金沢の八景が瀬戸神社の周辺一帯だったので、近代にも千代本楼や金沢園と言う料亭が直ぐ御近所に存在し、現在も名前を変えたり規模を縮小しながらも存続し昔の景勝地だった頃の名残を残しています。
下の写真が琵琶島弁才天から見た料亭、千代本楼。江戸時代の観光案内図にも載っている老舗。
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千代本楼
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カフェ金澤園この金沢園については一度閉店後にリニューアルして喜多屋と言う名前でオープンした際に取材をさせて頂きました。

コロナで喜多屋閉店後に金沢園として再復活していますが、日本建築の館内の紹介に成るかと思います。
金沢園の名に戻りカフェとして営業してるので料亭時代よりリーズナブルで御茶しに行きやすくなりましたし、海の公園や八景島界隈は埋立地で大人が落ち着ける店が余り有りませんが金沢園に来れば良い時間を過ごせるかと思います。
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さて、元は湾の入口の半島の山に囲まれた瀬戸神社は眼前の弁才天様を祀る琵琶島まで境内地にしていたのですが、日本古来の神社文化や自然信仰を軽視する役人によって瀬戸神社本殿参道と真直ぐ繋がっていた琵琶島弁才天の間には国道16号線開通の為に境内が接収され分断されてしまいました。
・・・本当に罰当たりですね。
昔の地形と現代の国道16号を見比べると良く解りますが・・・
瀬戸神社周辺の元の地形 久良岐のよし
瀬戸神社周辺の現代の地形 久良岐のよし
瀬戸神社の鎮守の山と洲崎の半島の近接する景勝地、その山を掘削しなくても国道16号線は別名❝横須賀街道❞ですので、どうせ横須賀方面に抜ける道ならば平潟~乙舳(おっとも)方面を経由させ室ノ木へ抜ける道を国道16号線を引けば良かったのは一目瞭然です。
もしかすると神仏習合の弁天様を日本の神様である大山祇大神(おおやまづみおおかみ)=三島大明神を祀る瀬戸神社と分断する意図が最初から有ったのかも知れないと、近代の宗教改革の歴史を考慮すると勘繰ってしまいますね。
そんな訳で、国道16号の開通も横浜市の海の埋め立てと同じ程に日本の宗教文化を愚弄し自然景観を破壊する失政だった訳です。もし国道16号が小生の案と同じ様に引かれていたら、瀬戸神社は源頼朝公北条政子様御夫妻や江戸時代までの日本の神社界の最高指導者だった卜部朝臣(うらべのあそん)吉田家の吉田兼敬公が愛した当時のままの美しい風景を平成に成っても見られた筈なんですね。

では、先ずは分断されてしまった琵琶島神社こと琵琶島弁才天の方から風景を見て見ましょう。
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琵琶島弁才天様の参道は現代では埋め立てられていますが、昔、ここが二つの島で荒尾城主の荒井家によって二重橋が掛けられていた歴史は前回の記事で解説しました。
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説明の看板にも当時の様子を知る事が出来る絵図が有りますが、図の真ん中左端に瀬戸神社と琵琶島弁才天が描かれていますね。江戸時代の絵図では既に二重橋では無くて一つの太鼓橋に参道を改造した様です。
良く見ると千代本楼も描かれていますね。
琵琶島弁才天様の入口手前、右側には福石が存在します。
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本来はこの福石は❝服石❞と書きました。
源頼朝公が弁天様に御参りする際に、福石に❝服を脱いでひっかけ❞当時は海だった福石の右側で禊(みそぎ=身体を洗い清める事)をしてから参詣した事に由来しています。
そして、この服石と元は書いた❝金沢十石❞の一つにも数えられた頼朝公由来の奇岩の傍で拾い物をすると必ず幸福な事が起こった御利益から❝服石→福石❞と書き方が変化したそうです。
そんな頼朝公が服を掛けた福石の右に存在した海は御覧の写真の通りに歴史も神道文化も軽視した役人によって埋立許可が出されてしまい無残に禊を行う聖なる海が消え去りビルに成ってしまいました。
弁天様の居らっしゃる琵琶島に向かい参道へ歩みを進めてみましょう・・・
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・・・松の木のみが景勝地だったらしい名残を感じさせます。
もう少し先に簡素化されてしまった橋が在ります。
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少しだけ昔の雰囲気を感じられるかな~?
先に在る弁天様この橋に対してソッポを向いた様に社殿が設置されていますよね?歴史や観光や御朱印集めが好きで神社仏閣を多く参拝する人は予備知識が無くても誰でも何となく知っているん事ですが、神社の御社や御寺の仏閣は大体が南向きか東向きの御日様の方向を向いて建てられているもんなんです。
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だから京都の有名な八坂神社=祇園社も祇園四条通りから延びる参道の先、西楼門=随神門(ずいしんもん)は西を向いて建てられていますが境内に入ると本殿は南を向いて建っているので、この琵琶島弁才天と同じく参道に対してソッポ向いた配置に成っています。
八坂神社周辺 久良岐のよし
ね?衛星写真を見ると解り易い。ちなみに明治の神仏分離令で素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀る八坂神社に名前を改めされましたが、元は素戔嗚尊と同一視されたヒンドゥー教由来の牛頭天王を祀る神仏混交の仏教施設だったので江戸時代の終わりの昔迄は祇園社と呼ばれていました。
そんな訳で琵琶島弁才天を御参りすると日本の宗教施設が南や東を向いている事にも気が付ける訳です。
・・・あれ?結局歴史解説結構やってしまってる(笑)。
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社殿はとても小規模ですが、まぁ、頼朝公の時代もそんなに大きな社殿では無かったと思います。
頼朝公が復興した鎌倉の立身出世の御利益で有名な佐助稲荷神社や・・・
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佐助稲荷神社
現在の横浜市役所新庁舎にも頼朝公が建てた弁天様が有りましたが、やはり水神社同様に接収され現在は横浜市中区関内の羽衣町厳島神社と元町厳島神社に分祀され消滅しました。

神社の宮司様達の中には余り文化歴史に造詣が深く無い人もいて自分の神社が昔っから立派な社殿が在ったと誤認している人もいますが、そもそも日本古来の宗教は自然信仰で、そこに中国文化の影響を受けて御神像や御神鏡を祀る偶像崇拝が合わさり石祠(いしほこら)や社殿も建てられる様に成った訳ですから、金澤(かねさわ)の琵琶島弁才天様や横浜の元町厳島神社や羽衣町厳島神社の様に滋賀県琵琶湖の竹生島弁才天様の御分霊を頼朝公の時代に勧進した場所は概(おおむ)ね小規模な場所だったでしょうね。
昔の人は社殿の立派さよりも、自然信仰時代の影響も色濃く残し、特に修験道を大切にして神道仏教にアプローチした源頼朝公は神社の建物よりも神様その物を大切にされた訳です。
小生のブログを読んで下さってる方は記事で話題にしているので既知だとは思いますが、頼朝公は自然信仰で神仏共に大切にした希有な修験者でもあったので伊勢原市の大山阿夫利神社石山権現(大山山頂の神の依り代たる奇岩)を参拝に登山したり、富士山すらろくな登山装備の無い当時に踏破し富士山火口を一周回る荒行を成功させたアルピニストだったりするんですね。
瀬戸神社の神様は三島大社の大山祇大神です。
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三島大社
大山祇大神は神奈川県の延喜式内社で関東総鎮護とされた伊勢原市大山の神様でもあり、海を守る神様としても有名なので築地市場関係者も団体で昔から参拝に来る事で知られています。自然信仰で海の神様である大山祇大神と弁才天様、修験道にも仏教にも神事にも造詣が深く自然信仰を大切にされた源頼朝公。
・・・そんな頼朝公だったから海難事故防止や海の神様として有名な大山祇大神=三島大明神と竹生島の弁天様を六浦湾と金沢湾の2つの入江の接続点に勧進され、漁師や海運を生業とする人達の生活を守護して頂こうと考えた事が良く解りますね。
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今では狭くなり釜利谷側の泥亀新田や昭和の六浦埋め立てで大部分が消滅した金沢湾ですが、琵琶島弁才天に御参りすれば頼朝公と政子様が愛した湾の景色の一部が眼前に残っているので少しだけ往時に思いを馳せる事が出来ます。
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さて、琵琶島弁才天様から国道16号で分断された反対側の瀬戸神社に移動しましょう。
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社殿は遠目にも綺麗ですね!まぁ、裏山の鎮守の杜も一部だけ残っているので昔の風景を想像する事も出来ます。
鳥居の両脇にはとても立派な石灯籠が存在します。CIMG5077
大きいだけじゃなくて彫刻も良く出来ています。
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そこを通り過ぎると正面に社殿。右側に手水社(ちょうずしゃ)が在ります。
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更にその右側には市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在ります。
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立派ですね~。他にも沢山、立派な大樹が有りました。
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犬槇(イヌマキ)と言う木だそうです。これも立派。
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社殿の拝殿へは入る事は出来ません。普通に社殿の前までは参拝出来ます。
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現在では瀬戸神社と書かれた扁額が掲(かか)げられています。揮毫(きごう=代筆)したのは内閣総理大臣在職中の小泉純一郎元総理ですね。小泉家の発祥は正に金沢で後に横須賀に移る訳ですが、小泉純一郎元総理は祖父の小泉又次郎氏が六浦大道の出身でした。そして小泉元首相のお母さんが祖父又次郎さんの娘で、そこに父親の純也氏が婿養子入りしたんですね。その頃には横須賀市に既に移住していました。
・・・多分、現在の瀬戸神社の扁額を揮毫したのは小泉家と金沢家にそんな地縁が有ったからかも知れません。まぁ、書くなら古来の風習に則(のっと)って❝三島大明神❞と書いて欲しかったなぁ~。
本殿の裏には沢山の社殿が在ります。
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これは祖霊社、氏子サン達の御先祖様を神様として祀っています。
そして背後の山を御覧頂けると解るのですが・・・
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・・・山の斜面を人工的に❝法切(のりき)り❞された垂直の❝切岸(きりぎし)❞に成っているのが判るでしょうか?
この様に山を削った直角な谷間に鎌倉文化では神社仏閣を建設します。これを❝谷戸構(やとがま)え❞と呼び、城壁の様に垂直に加工した山で施設を取り巻く事で防犯と火災類焼防止の効果が発揮される訳ですね。
そしてもう一つの鎌倉文化に良く見られる特徴が瀬戸神社にも有ります。
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矢倉(やぐら=人工横穴)です。
元は横穴式石室に仏教文化がが合わさった鎌倉武士独特の墓所でしたが、仏様を埋葬するのと同じく矢倉に神様の祠を治めて崇拝する習慣が鎌倉文化には有ったりします。
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ここは御狐様がいらっしゃるので御稲荷様ですね。御稲荷様は良く全国各地の城址にも祀られ、歴史好きを見守ってくれる神様だったりもします。
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これは瀬戸神社の主祭神の大山祇大神の御息女=姫神様の石長姫(いわながひめ)様と此花咲耶姫(このはなさくやひめ)様の姉妹神様を祀る御社(おやしろ)でした。
石長姫は不老長寿、ある意味美の女神なのにブスな可哀相な役割の女神様。きっとクソ美人以外の普通に可愛い位の女性には美容と長寿の女神として御利益の御加護を下さるかも知れませんね。
妹の此花咲耶姫命様は天皇家の御先祖様の邇邇芸命(ニニギノミコト)の奥さんに成って天皇家を発展させた祖先神ですので縁結びと家内安全の御利益を与えて下さるかも知れません。
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更に塞がれた矢倉も有りました。きっと何か神様が祀られていたのに戦後の法律で封鎖させられたんでしょう。こんな物防空壕では無いと否定して撤去してしまえば良い。
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服装の様子からして菅原道真公=天満大自在天神=天神様かな?
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あと小さな祠が3ヶ所並んでいました。
その背後・・・
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どうも此処(ここ)は背後の鎮守の山への登り口だったみたいですが、山を国道建設で掘削されてからは登る人もいなくなってしまった様で草ぼうぼうでした。
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階段地形が今も残っています。もしかしたら征夷大将軍源頼朝公や室町幕府鎌倉公方足利持氏公はここを登って金沢八景の景勝を遊覧したかも知れませんね。

さて、これで金澤瀬戸の三嶌大明神=瀬戸神社と琵琶島弁才天=琵琶島神社の施設の解説の記事は尾張です。
皆さん、如何でしたか?実はつい最近まで鎌倉時代のままの風景が残っていた事、今もその足跡が辿れて歴史偉人の歩いた場所を皆さんも歩ける事が伝わったでしょうか?
瀬戸神社は金沢八景駅の目の前に在ります。野島公園の伊藤博文公金沢別邸に抹茶を飲みに行ったり、神奈川県立金沢文庫(博物館)に見学に行ったり八景島シーパラダイスに遊びに行くのと合わせて参拝に行かれて見ては如何(いかが)でしょうか?
江戸時代までの日本の神道のボスや、各時代の将軍様達と同じ空間で御参りすれば、昔の人達が大切にした意味を身体で感じられるかも知れません、瀬戸神社がタイムマシーンの様な役割に成って。

きっと皆さんの御近所の城址の山や神社仏閣も、凄い歴史偉人と関係が有る場所が今もあるはずです。
・・・家を飛び出して少し気分転換に御散歩してみませんか?

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪・・・次は何を書こうかな~?
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横浜市金沢区にある真言律宗別格本山
金澤山 弥勒院 称名寺の桃と桜が見頃ですよ~。
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隣の神奈川県立金沢文庫の企画展も大昔の僧侶の落書き漫画とか展示されて面白かったです。

東の正倉院と言われた称名寺でお花見散歩し、神奈川県立金沢文庫で展示を見てからか見る前に、武州小柴名物として江戸の町民に知られたシャコと穴子でランチを楽しむ何てどうでしょう?

明治大正の文化人に愛された料亭金沢園が今はカフェレストランとして営業しておりランチに最適。
今週皆さんお散歩に行かれては如何でしょうか?

いつもと異なり簡易なブログ記事ですが、週末の称名寺が八分咲きで素晴らしかったので、今年お花見が未だの方々に取り急ぎ御提案したく情報量少な目ですが纏めてみました。

皆さんの今年の花見の参考に成れば幸いです。

では、また次の記事で!
まだまだ寒い日も有るみたいです、皆さんコロナと言わず風邪に普通に気を付けて下されや~。
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記事に写真追加してリニューアルしました。

記事冒頭に政治の話題が有るので苦手な人は下の写真が、出る所までスクロールしてスッ飛ばして下さい。
コノ写真⤵
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コレ⤴が再登場する場所までスクロールしてスッ飛ばして漢字の意味に対応した写真の部分だけ読んで下さいね!

――さて――
皆さんはマジックアワーは御存知でしょうか?私は最近インスタを多用する様に成って最近教えて貰った言葉です。
マジックアワーと言うのは日が沈んでから太陽光が雲と空だけを照らす完全に夜になる直前の時間帯を指す日本人の造語の様です。

その時間帯が薄明・曙・暘・黄昏・宵。

下の写真の様な色合い、日没後の時間帯を指します。
マジックアワー⤵
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マジックアワーの後半“ブルーアワー”⤵
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夕陽も綺麗ですが日没後15分後~30分後の方が富士山や夜景の撮影が綺麗だそうで、その時間帯を表現した言葉だそうです。
それを過ぎると凄く短いブルーアワーに変り更に時間が経って夜が来ます。
このマジックアワーに対応する漢字が実は日本では平安時代に貴族や鎌倉武士が教養として学んだ漢詩にその漢字が既に登場します。

薄明、曙、暘、黄昏、宵と言う時間帯による空の明るさを表現した感じが有るんです。
字が既に風流ですよね~。

その解説は後にしますが・・・
これらの漢字の表現や文化を取り入れ、日本の文化と精神と融合させ生まれた文化が平安文化です。
この平安文化の根幹が菅原道真公曰く“和魂漢才”で表される日本に合わせてチューニングして文化と学問を使い発展させてきました。
そこから武家政権が誕生すると関東に残る自然崇拝の日本の習俗に都の平安文化を合わせ、更に南宋の仏教文化を馴染ませ発展させたのが鎌倉文化。
・・・と独特の日本文化が生まれました。
平安~鎌倉を生きた人々は時間を表す言葉に対応する薄明、宵、暘等の漢字を導入し漢詩を読み和歌を詠み季節を感じて風流な文化を作って下さいました。
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武士の時代が終焉を迎え明治時代が到来すると急速な西欧化が進みますが、大正時代に入ると少し急激な西欧化に元来の日本文化を見直し活用し双方の良い所をに取り入れた大正時代の華やかで壮麗な西洋建築の町並みに、広大な敷地に移築保護される社寺建築と武家建築の日本庭園が増えます。現代の無文化成金と違って当時の財閥の総帥達は日本文化と芸術の保護を進め、その流れは昭和最初期まで続きました。
平安~鎌倉の人も明治~大正の人も海外文化と技術知識を取り入れ日本に合わせて活用し文化と国と庶民の生活基盤を再構築した訳ですね。
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正に菅原道真公の“和魂漢才”を更にアレンジした“和魂洋才”と言う四字熟語を実践し内外の文化や技術を発展させたのが幕末や明治に生まれて明治~大正時代~昭和最初期の時代を生き活躍した人々だった訳です。
最近、鬼滅の刃の時代考証したら改めて大正時代って素敵だなと思ったんですよね。
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横浜開港記念会館 国指定重要文化財
下の写真は初秋に三浦半島の長浜(なはま)から撮影した和田義盛公居城の和田城の丘に昇る月です。
ブルーアワー、宵の頃ですね。
我々日本人は公害も1990年代終盤から改善させて、関東各地からは秋~冬~春にかけて海の水蒸気が少なくなると空気も綺麗に澄む日が増えて富士山が綺麗に見えると感動し生活の中でも記念行事や季節折々に和服を着て漢詩や和歌を詠み特別な御重を食べ神社や御寺で祭祀を執り行い唐に憧れ独自の平安文化や鎌倉文化を築いた貴族や武士の人々と今でも価値観を共有しています。

特に文化財の有効活用と保護を行っていない町が横浜に縁深い“あぶない刑事”で主演し、歴史大河でも織田信長公の役も演じた事の有る舘ひろしサンの出身地の愛知県江南市役所。
舘さんの演じた信長公の愛妻、吉乃様の菩提寺をガンとして寺院部分を史跡指定せず廃寺に追い込もうとしています。
絶対に他都府県の自治体の史跡保護の仕方と相対評価してないし下らないローカル前例主義。

詳しくは⤴コレを読んで見て下さい。
まぁ、こんな風に令和の現代人は文化軽視で風流さのかけらも無い街づくり?破壊?をする訳ですが、横浜市役所にチクリ・・・

今の何の季節感も仕掛けも無ぇ東京に大量に有る様な新市庁舎とか新山下の閑散としてるガンダムばっか作ってる横浜市役所の人、本当ちょっと昔の人見習って、やるなら風流な事やって。
カジノ林文子から山中市長に代替わりしたんだし文化と史跡保護とその活用をちゃんとやって欲しい。
この最近20年間~令和2年までと違って以前の再開発で都市設計されたミナト未来21地区の景観、ドッグヤードガーデンとか赤煉瓦倉庫とか汽車道の活用とか、大黒海釣り公園とか、ベイサイドマリーナとか埋立地の施設にも史跡文化財を活用した所や季節感を出して人が集うように計算されて作られた仕掛けが沢山有るんだわ。
こう言う仕掛けが有るのは高秀市長や当時の市役所職員の文化的素養が高かったから。

横浜市役所が林文子時代にやった事、全部クソつまらんし自然破壊、景観破壊、史跡破壊ばっか!
センター南の史跡保護を見習って飛鳥時代~平安時代の可動期間を誇り且つ規模が日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡の国指定史跡化と横浜市南部最大の蛍生息地の瀬上沢の完全保護と自然公園指定、そして戦国時代の北条家の重要拠点で❝続日本の100名城❞の1つ小机城址と、神奈川区の旧高島線引込線に有る❝日本最古の溶接建造の鉄橋である高島線瑞穂鉄橋❞と線路の国指定史跡化はどっからどう見ても必須。
瑞穂鉄橋と高島線の線路を赤煉瓦倉庫みたいに活用した瑞穂埠頭再開発を成功させて、今の横浜の観光資源や美しい都市計画が成功して人口増加しているセンター南や、今の赤煉瓦倉庫周辺の高秀市長の様に史跡保護と自然環境の魅力を完全に残し横浜の歴史文化の個性を活用した素敵な都市開発参考にして“レガシィ”にして下さいね。
東京のコピーとか本当、2番煎じだらけにしたらコピペされる東京にも失礼だし無個性だから。

――ここから時間の漢字の話――
浅草の昔の写真とか見ても大正時代の人の町作りって素敵ですよね~!

これ⤴以前にも紹介したのですが原三溪サンの原財閥が創設した旧第二銀行=横浜銀行が明治~大正~昭和の昔の風景と現在の風景を比較する面白いコンテンツを作ってくれているので、是非皆さん見て見て下さいね♪
さて、そんな訳で大正時代の人は古代中国で生まれた薄明、曙、暘、黄昏、宵の各時間帯の美しさを表す漢字で漢詩や和歌を風流に詠み、和服と洋服を着こなして西洋建築と日本庭園を大切にし、文学でも街並みでも和洋折衷、オシャレを地で実践し西洋式の綺麗な町と自然と神社仏閣のを沢山私達に残してくれた訳ですが・・・
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・・・これ⤴曙と言われる時間帯です。
漢字が時間帯を表すって言われても情景がピンと来なくても写真で見ると解り易(やす)いですよね?
そこで小生の写真で時間帯の空の様子を見て頂いてから、この時間の感覚と日本文化の繋がりも書いて見たいと思います。
では薄明、曙、暘、黄昏、宵の時間帯を横浜ベイサイドマリーナと逗子マリーナの写真で解説します。
スタート!⤵
——薄明(はくめい)の頃——
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空が未だ宇宙の藍色で漸(ようや)く空が薄ら明るく成って来て、これから陽光が差し始める写真が丁度、薄明の時間帯です。
薄明(はくめい)は漢文から輸入された朝方のマジックアワーの時間帯の表現ですね。
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薄暗さの中に明るさが差し込み始め、空は宇宙の藍色が残り水平線にオレンジ色の線が浮かび上がる時間帯が“薄明”。夜だと“宵”と表現され、和製外来語だとブルーアワーですね。
——曙(あけぼの)の頃——
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薄明(朝のブルーアワー)から太陽が水平線に近づくにつれて藍色と橙色が交わり空が白色に変りやがて水平線にピンク色が広がり見る見る空のオレンジ色が濃く成って行きます。
日は出ていなくても、この時間帯も綺麗です。
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高秀市長の頃に第三セクターのベイサイドマリーナ建設担当の方が我々に残して下さったマリーナの個性を活かした秋分の日に暘(よう)の頃を楽しむ素敵な仕掛けが見られます。
——暘(よう)の頃——
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太陽が姿を表す様が暘(よう)です。
描写としては時間帯も曙(あけぼの)に含まれる様です。
秋分の暘にベイサイドマリーナ社屋に朝陽が真っ直ぐに登って来るのですが、これエジプトのピラミッドとか神殿群と同次元の事をやっているんですよね。
当時の市長だった高秀市長がいかに文化度が高い都市計画を志していたか解る現象であり、それを理解して具体的に形に出来るブレーンが当時の市役所にはいたって事が判るんですよね。
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暘(よう)は日本国の比喩としても中国では使われていたしそうです。
古代の中国では暘に谷の字を加え暘谷(ようこく)にすると日が昇る国である扶桑(FuSan:ふそう)を指し、暘“谷”=扶桑国=倭=邪馬台国=大和=日本の比喩の意味で漢詩に使われた単語でした。
12月冬の暘~曙にベイサイドマリーナの親水公園ではヨットの間から朝陽が昇る景色を見る事が出来ます。
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どうでしょうか?
ベイサイドマリーナの“薄明”も捨てがたいけど“暘”も美しいでしょう~♪でもベイサイドマリーナは西側が陸で夕陽が海に沈まないので、三浦半島の付根、鎌倉市と逗子市の境目のリビエラ逗子マリーナ周辺で“黄昏”と“宵”の景色を見て見ましょう~♪
——黄昏の頃——
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小坪飯島公園~逗子マリーナ
で、漢文に興味の無い皆さんにも先程写真を見て頂いたので黄昏や宵と言う夜に入った時間帯の情景が何となく伝わったと思います。
そこで、漢文の文化が日本人の文化に今も残っている事を少し紹介したいと思います・・・
——暦上の日本と中国の共通文化——
先程、時間帯を表す表現で宵(よい)の頃を紹介しました。
実は“宵”に関しては特に日本古来の特別な風習の1日にも関係が有ります。
中国では今も元宵節と言う冬の節分の習慣が残っています。


日本人の言う所の旧正月の第十五夜に行う御祭りで、つまりコレが日本の小正月の由来なんですね。
現在では何故か三賀日で終わってしまう風潮ですが、本来なら15日までが正月の祝日で元宵節=小正月が〆日なんですね。
本来は薄暗く成り始めたら町を提灯(ちょうちん)や行燈(あんどん)で飾り照らす御祭りでした。
私が中国に留学していた頃には爆竹をアホみたいに町中の皆で鳴らしまくって日が落ちてから夜中まで成りっぱなしで火薬の煙の臭いに燻された思い出が懐かしいです。
これが日本の小正月の由来な訳ですが・・・
つまり以前の記事でも紹介したのですが仁徳天皇と莵道稚郎子の御兄弟が漢皇室後裔の阿智使主(あちのおみ)に暦や政治制度を含む漢学を学んだ初代のなので、次代の履中天皇から日本の暦が古代の半年=1年から陰暦の12ヶ月=1年の計算方法に変っている事が歴代天皇の崩御の年齢から一目瞭然で解ります。

※縄文・弥生時代の平均寿命30歳
伝承年齢 → 1年=6ヶ月で再計算

神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳
これを見ると仁徳天皇の次代、履中天皇から明らかに1年=12ヶ月に暦が変わっている事が判ります。
なので、どんと焼=小正月=元宵節も、その時に導入されている可能性が有る事が判ります。
逆に言うと古墳時代以来遅くとも1500年前から脈々と日本人は少し御祭りの形を和風に変えて、この古代の習慣を受け継いできている事が判りますね。
この行事が終了すると本格的に春の到来に成る訳ですが、中国で旧正月=春節と言うのは正に“春の節目”であり、他にも端午節、七夕節、中秋節と日本に輸入されている陰暦の季節の行事が漢字もそのまま暦として導入されている事も解る訳すが、当然ながら内容は変化が有りますよね。
例えば・・・
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中秋の名月では食べる物が日本と中国で違っていますが、出来る限り近い事をしようとして文化に残っている事も解ります。
日本では中秋の名月に団子を御供えしますよね。

まぁ団子なので“餅”な訳です。
中国の文化でも“餅”を食べます月餅ですね。

ただ漢字の意味が今の日本と違って穀類由来のコネて作った物に餅と言う字を当てるので小麦粉由来の物にも“餅”の字を使います。
餅干と書くとビスケットに成っちゃったりしますしウィグル族のパンにも“餅”の字を当て嵌めます。
この様に古墳時代から日本では中国の暦や仏教文化の影響を飛鳥時代には形を変えて日本文化に融合し馴染み、村の鎮守の神社の氏子が集まり旧暦(陰暦)の暦が農業の共同作業にも役に立っていたり昔は村々の農家や町なら町人が、“どんと焼”で正月飾りを焼いた訳です。
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今でも郊外の神社では“文化として保存する為に”わざわざ小学生を近隣の学校から招待して“どんと焼”を行ったり、氏子サンがシッカリしている場所は古代古墳時代の履中天皇が暦を改める以前の日本が1年=6ヶ月だった時代の風習の名残りが夏越大祓と冬越大祓として神事に有るんですね。
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茅の輪くぐりを行う神事ですね。
そんな訳で日本の神社には中国から渡来した小正月の“どんと焼”や“七夕祭り”の風習も残るし、日本の伝統的な追儺祭の神事の風習に中国伝来の仏教の不殺生の哲学を実践する放生会が平安時代には融合されて池に生き物を放す習慣が出来たりしています。
今でも上賀茂神社と神奈川県相模国一之宮寒川神社では仏教の影響を受けていない古来の追儺祭の神事が行われています。

そんな訳で今でも神社や御寺では毎年1月15日前後にで正月飾りや去年(きょねん=中国語)の神棚の御札を“どんと焼”で処分して貰いますよね。
でもね、その“どんと焼”を新暦=西暦=太陽暦でやっては本来の農業と結びついた季節感の陰暦と旧暦の呼称と整合性が無くなってしまうんです。

例えば旧暦の正月で1年を始めなけれ睦月や水無月等の季語と季節感もズレてしまうんですね。
今の年賀状で昔のまま“迎春”とか書いてもアホらしいくらいに真冬でクッソ寒いでしょ(笑)?
今の季節感で水無月と言うと6月で梅雨じゃん!と成りますが、実際は月齢の陰暦だと梅雨明けの時期にちゃんとかかって当て嵌まるんですね。
更に旧暦は閏7月=閏文月も有ったり全く違うので、この混乱は旧暦の月名を無理矢理に明治政府の西暦導入時に当て嵌めてしまったから混乱を生んだんですね。
西暦(太陽暦)の運用と、神事は旧暦と分けて行えば良かったんですがね~。
今この記事を書いているのは西暦の2021年12月22日です。もういくつ寝ると御正月です。
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・・・でも西暦での正月は未だ陰暦(月齢計算)では真冬の師走の最中なんですよ。
そもそも古代と師走の漢字も変わっていると思いますよ、完全に。
元々は師走(しわす)では意味不明な漢字に成ってしまいますが、これは100%当字でしょう。和尚さんが忙しく成るからなんてのは後付けでしかない。
本来は臘数(しわす)の漢字だったと考えられます。
この臘数=歳末と言う意味で仏教用語として現在の日本でも残っていますし中国由来ですから、もうそのままですね。
仏教の僧侶が出家してから男性なら比丘(びく)や女性なら比丘尼(びくに)と言う位階を得てからの年数を数える単位に用いられるそうです。

これについては“字通”と言う書籍に記載が有ります。
小生はこの説を支持します。旧暦に当て嵌めれば季節感も意味も暦の漢字とピッタリに成りますしね。
でもこの臘(しわ)の字をいつの時代にか音読みしか残らなくなり臘(ろう)とだけしか漢字の文化として発音が伝わらなくなったのは難読漢字で浸透せず師走(しはする→しわす)と言われる様に成ったと推測出来ます(当字の由来は推測www)。

どうでしょうかマジックアワーの写真撮影が得意なカメラマンの皆さん。
マジックアワーやブルーアワーやトワイライトの表現も何だか可愛らしいですよね。
漢文に使われた時間帯の表現、和文の季節感の暦も両方とも風流で“エモイ”でしょwww?
最後にもう一度、各時間帯の漢文の単語と情景を見比べて今回のブログ記事を終わりにしましょう。

——薄明(はくめい)――
朝のブルーアワー、日の出前の薄暗く明るく成り始める頃。 
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——暘(よう)――
朝陽が昇る様。
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——曙(あけぼの)の頃——
太陽の昇る方向と反対の空を低い位置から陽光が照らすとピンク色の帯を作る。
太陽の昇る方角の空は少しづつオレンジ色に染まって行く。
二つの色の空を楽しめる時間帯。
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——黄昏(たそがれ)の頃――
日没~黄昏時の夕焼けと青空、午後のマジックアワー。
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——宵(よい)の頃――
午後のブルーアワー、陽の光がほぼ水平線を照らすだけになり宇宙の藍色と陰影の世界。
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・・・漢詩に使われた時間帯の空のピンクとブルーとオレンジのコントラスト綺麗でしょ?
これを知ってから、薄明、曙、暘、黄昏、宵と漢字を見ると表現も風流で綺麗な情景が目に浮かびませんか?

朝焼けや夕焼けの写真が好きな人、機会が有ったら漢詩の表現を写真のタイトルに使ってみて下さいね~♪

また瑞穂埠頭の記事書かなかった(笑)。絶対に明日の夜書く!・・・と、思う。
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記事を書く材料が揃ったので、ちょっと待ってて下さいね!
さて・・・

では次回❝こそ(笑)❞は、この記事⤴の続きの記事で御会いしましょう~♪
風引かないでね~!

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新横浜の日産スタジアムの近く、JR小机駅の側に在(あ)る小机城址で今年も竹灯籠祭りが開かれるよ〜!
記事の中で沢山、以前の竹灯籠祭りの写真を紹介したいと思います。
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小机城址(続日本100名城の一つ)
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もうすぐ仲秋の名月ですね~♪
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・・・皆さんは仲秋の名月が近づくと“彼岸花”が咲き誇る名所が横浜市港北区に在(あ)るのを御存知でしょうか?
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横浜市営地下鉄新羽駅から徒歩5分。
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・・・そんな駅近な立地の住宅街の真ん中に、元々は源頼朝公が鎌倉に開き、戦国時代に今の新羽の境内地に移転した事がちゃんと記録からも解る由緒正しい御寺です。
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補陀洛山 安養院 西方寺
西方寺の彼岸花の季節は9月下旬です
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すんごく彼岸花綺麗です。
この写真は2019年09月29日に撮影した写真です。
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西方寺は元は源頼朝公が建久年間(1190年頃)に鎌倉市極楽寺坂に開いた由緒正しい御寺。
鎌倉幕府の鎌倉城陥落時に新田義貞の軍勢に略奪狼藉を受け衰退してしまいました。
西方寺旧蹟
その西方寺が元在った鎌倉の場所は極楽寺坂を坂ノ下地区から登った先の、成就院さんの向かい側。
そこに如何にも御寺が在りました~!って解る地形が残っていて、いまではオレンジと言う御店が在る辺りですね。
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後に約500年前に現在の神奈川県域を戦国大名の北条家が統治下に入れ鎮撫すると、荒廃した鎌倉から現在の横浜市港北区新羽に移転再興され再び武士達に大切にされる様に成った。
その時は御寺の家財道具を船に積んで鶴見川を遡上(さかのぼ)って新羽迄移転して来たそうです。
西方寺と小机城の位置関係
衛生写真の“赤いマーク”の上のマークが西方寺、下のマークは北条家“白備え隊”小机衆の拠点だった小机城です。
確かに衛星写真を見て見ると戦国時代当時は水運に利用されていた大河川(かせん)の鶴見川が西方寺や小机城の直ぐ近くを流れています。
小机城は笠原氏が城代でしたが、初代の城主は恐らく北条幻庵公で、文書で確認出来る初代城主とされる推定次代城主が幻庵公の御子息の北条時長公でした。
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北条早雲公は皆さんご存知ですよね?
本名は伊勢盛時入道宗瑞公。北条幻庵公は北条早雲公の三男です。
北条幻庵公や小机城については以前、小机城の解説記事を書いているので御興味の有る方はそちらを御覧下さい。
これ記事へのリンク⤵
❝続日本百名城❞の1つ小机城は城主北条幻庵公と城代笠原信為公が率いた北条家白備え隊後の小机衆の拠点。
北条幻庵
北条幻庵公はゲームではこんな感じにされちゃってますけど、戦国時代の関東で恐らく一番の教養を誇った武将で、高位の武家と貴族の礼儀作法に秀でて外交官として活躍した上に、北条家を裏から支えた名軍師としても戦国時代のファンには知られている名将です。
そして余り知られていないのは、箱根権現(現在の箱根神社)の別当職(宮司や住職みたいな)を務めた宗教家としても大変に大きな権威を備えた大人物でした。
そして箱根権現と言うのが修験道の聖地だったので、真言宗の西方寺は密教の寺院でもある事から、鎌倉で荒廃して消滅の危機に陥っていた所を小机城の北側の鬼門鎮護の御寺として移転復興したのが北条幻庵公だったのかも知れませんね。
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まぁ~北条家は豊臣秀吉に無理難癖つけられて小田原城に20万の大兵力で攻め寄せられて滅亡してしまいましたので、歴史文書は勝者側の物しか余り残らないので、現在では西方寺がどういった経緯で移転して来たか、北条家の来た時期との関係性の状況証拠しか残っていません。
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なので御寺の説明もザックリしていますし、新編武蔵風土記稿と言う江戸時代に書かれた歴史ガイドブックみたいな資料にも余り詳しい事は書かれていませんが、現代では鎌倉市の学芸員や神奈川県の教育委員会からは大変に重視されている御寺が、この西方寺です。
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解かる事と言えば、周辺の折本町や東方と言う地域は北条家臣の鈴木家が治めていました。
この文書に出て来る岩本豊後と言う武将は、横浜市磯子区と港南区の大半と横須賀市汐入~不入斗や海老名市一帯を治めた間宮林蔵の先祖の笹下城主間宮康俊公の同族で、やはり北条幻庵公と同じく修験道の大人物だった今の江ノ島の江島神社、当時の江島別当職だった間宮一族岩本家の人物でしょう。
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まぁ、今では余り鎌倉時代や室町時代の歴史を辿れる文書は残っていないんです。
でも西方寺は見事に残り、今でも厳かさに風流を加えた武士の仏教文化を伝えてくれています。
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手水(ちょうず)にもさり気なく彼岸花が飾り浮いていてとても綺麗でした。
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御本堂の屋根は吹き替えに数千万円かかる高価な茅葺(かやぶき)でした。
現代だから高価と言う訳では無く、昔から茅葺屋根は藁葺(わらぶき)とは違い庄屋サンや由緒ある御寺等、御金の有る所の建築物にしか用いられない様な高価な物だったんですよ。
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御本堂の左手に廻ると御朱印を受領出来る寺務所です。
その前にも素敵な赤と白の彼岸花が参拝客を迎えてくれる花壇が在ります。
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とても綺麗ですね。
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御本堂から向かって右手に廻ると・・・

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大悲閣と言う、十一面観音菩薩様が祀られている御堂が在ります。
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御堂内は撮影禁止だそうです。由緒ある観音様を拝みたい方は、是非!参拝して見て下さい。
この大悲閣の右隣には鐘楼が在りました。
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こちらも茅葺でとても風流な佇(たたず)まい。
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その前には横浜市の名木古木指定を受けている楠(くすのき)が在りました。
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大悲閣に向かって左側には元々は大師堂か太子堂が在った場所に石倉が設けられています。
その隣には、古い御寺らしく神仏習合の文化が今も守られていて、御稲荷様が鎮座していました。
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いつも行く先々で御参りさせて頂く事の多い御稲荷様、宇迦之御魂神様に西方寺で又、御参りの機会を頂き、今日まで無事に過せた事の御礼をさせて頂きました。
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御参りし終り御預けしていた御朱印帳を受け取りに行く為に階段を降りると右側の紫色の素敵な御花の中にクマン蜂が蜜を吸っているのが見えました。
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今から寒くなるから、シッカリ栄養補給しないとね~♪
この子達はイタズラしない限り人間に攻撃を加えて来ない優しい子達。
蜂さんの写真を撮影し、寺務所にて御朱印を押印して頂いた御朱印帳を受け取り帰りに又、参道の彼岸花と御朱印を一緒に記念撮影~。
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西方寺サンでは、今の季節だけ彼岸花のデザインされた限定の御朱印が頂けます。
可愛いでしょ?
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正午を過ぎて続々と参拝客が増える参道。しかし本当に綺麗だ。
彼岸花って御彼岸の季節のイメージで何だか明るいイメージが余り無かったけれど、西方寺に初めて彼岸花の季節に来てみて大分とイメージが変わりました。明るくて可愛い!
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ついでに幸せ家族のほのぼの風景。幸せそうで羨ましい~!

まぁ~西方寺と彼岸花の解説はこんな所ですが、今年2019年を参考にするなら10月1日の仲秋の名月の日位までがタイムリミットだと思います。
2019年09月29日は、もう御花が部分的に萎(しお)れ始めていました。
なので見に行きたい方、限定御朱印を受領されたい方は、是非、平日でも休みをとれる方は急いで行かれる事をお勧めします。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

※小生のブログは【カテゴリー】
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行きたい場所の参考に成りそうな場所を探せる仕組みに成ってます♪
興味の有る方は参考にされて下さい。
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仲乃湯
凄い宮大工が建てた銭湯でドラマやCMのロケ地
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JR新横浜駅は新幹線が通る交通の要所で、その直ぐ裏手が旧街道なのを知る人は今では多く有りません。その旧道の他に第三京浜道路と言う自動車専用道路が通り、近くの神奈川区三枚橋町は江戸だ時代まで三枚田と呼ばれた地域で、古代の“店屋”と言う古代大和朝廷の駅伝制(伝馬制とも言う)の馬を交換する情報伝達網の中継基地が置かれた重要な地域でした。
そんな重要な地域を抑える城がJR横浜線小机駅の直ぐ隣の“小机城”と新横浜駅裏に存在した篠原城でした。

篠原城については以前、別に記事にしているので御興味有る方は上のリンクをクリックして記事を御覧下さい♪

さて、今回紹介する小机城ですが・・・
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小机城は現代では竹灯籠祭りが行われる風流な竹林の城址に成っています。この小机城と篠原城は鶴見川の水運を守る位置に築かれとても重要な役割を果たした城でした。
室町時代の初期に恐らく扇谷上杉家により築城され、東京の石神井公園の場所に在った石神井城城主の豊島家の一族が籠城し、関東を代表する名軍師の太田道灌公と攻防戦が行われた事でも歴史ファンには有名な御城です。
太田道灌公
・・・そして太田道灌公が内紛によって主君に暗殺されると扇谷上杉家が衰退し、そこに北条早雲こと伊勢盛時、改め入道(にゅうどう=出家する事)宗瑞(そうずい)公と跡継ぎの北条氏綱公が神奈川県東部まで侵攻して来て小机城は北条家の持ち城と成りました。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
この頃、明確な史料は現存しませんが所領や後の城主等を見ると状況的に初代の城主は北条早雲公の三男の北条幻庵公だった様です。
多摩川~鶴見川流域の城と神社仏閣 久良岐のよし
太田道灌公や北条早雲公の生きた戦国時代初期には経済は一部輸入した中国貨幣と日本で産出される金銀の粒、そして直接商品を交換する物々交換によって経済が成立していましたが、鶴見川を使った水運の流通経済網に置ける重要地点だったんですね。
その小机城や篠原城の先には現在の六角橋商店街が有りますが、その直ぐ近所の久応山寶秀寺は古代の大伴久応とも大伴黒主とも呼ばれた日本武尊の与力豪族の邸址で日本武尊が滞在した伝承も伝わっていたりします。
更に、直ぐその横には神大寺と言う江戸時代の人が“城址”と間違える程に巨大な寺院跡が存在したのですが、その御寺の址に陣地を置いて太田道灌公が休息した伝承が現在も一帯には伝わっており昔は道灌森と呼ばれ緑豊かな場所でしたが、現在では農地開拓と戦後の農地改良でスッカリ削平地にされて何も遺構は残っていません。
ただ、神話の弥生時代後半~古墳時代には既に超重要な交通の要所だった事は神話と店屋の地名の伝承から伝わっている訳です。
もっとも、神話時代の少し前の縄文時代には鶴見川は小机城の辺りまで海で考古学的には鶴見湾と呼ばれています。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
白い部分が縄文時代の鶴見湾と現代人に名付けられている海だった地域で、一帯は鎌倉時代初期に成っても古代海だった名残で湿地帯でした。
今では干拓され広大な平地と成り、小机城の近くには日韓共催サッカーワールドカップの決勝戦が行われた日産スタジアムも在ります。
交通の要所なので昔は湿地帯でしたが鎌倉時代には佐々木泰綱公が開拓を幕府に申請している事が記録に残っており、鎌倉幕府成立以前、源頼朝公による関東統治過程で重要な与力だった佐々木高綱公に一帯の土地が与えられていたりします。


だから別のブログ記事でも触れた鎌倉時代の佐々木高綱公の館址の鳥山八幡宮も在ったり…
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新横浜駅裏には篠原城と言う御城の在った大豆戸町と言う地域が在ったりします。

以前、に行われる小机城址竹灯籠祭りの紹介ブログでも少し触れた「小机城」と言う戦国時代のお城が在ったり城址だらけなんです。
これ↴は小机城現存部の復元縄張り図。

現在城址に在る看板は↓こちら。
看板を見て頂くと分かりやすいのですが、現在城址はJR横浜線と第三京浜高速道路に分断されています。
しかし!
複数の地権者の方々の郷土愛により現存部は守り抜かれ「非常に良好な状態で空堀や曲輪群が現存してる」んです!


その様子は本当に素晴らしいので、小机城の殿様の紹介を始める前に城址公園の写真を先に御覧頂こうと思います…


伝・本丸直下の空堀
この空堀、風化している現在でさえ高さ6m以上なので当時は堀底〜曲輪まで7〜8m、土塁を入れれば10m近い高低差が有ったはずです。


本丸に続く土橋


写真だと判り難いけど横堀と帯曲輪
小机城は素人でも土の城を理解出来る程に状態が良いのです。
石垣よりタチが悪く殺傷能力の高い、土を削りこんで作る関東流の城を一目瞭然理解出来ます。
石垣城はライフタイムが長いのですが、敵兵が登れてしまいます。
しかし
土塁と土の空堀の北条流の空堀は、戦時には堀底に大量の竹槍が設置され、更に水がブチまけれ壁面は泥と化し、屈強な武者や忍者も登れなくなります。
落ちれば竹槍に串刺しに成ってしまうんですね…。
怖い!痛い!エグい!


更に北条流の空堀を発展させたのが障子堀(しょうじぼり)と言う、その名前の通り和室の障子みたいに仕切りがついた空堀です。
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これ↑ね。
これは伊豆山中城の障子堀です。
山中城は横浜の戦国武将で名将北条綱成公の副将だった間宮康俊公が籠城し、豊臣の大軍80000を間宮勢200で迎撃した場所です。
豊臣方の大名を道連れにして豊臣軍死者3000の大損害を与えました。
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それぞれの凹みは深さが当時は2m以上で堀の底から5m位上に曲輪(くるわ)と呼ばれる防御陣地が障子堀の上に有り、更に曲輪の上に土塁と言う高さ2m位土壁が有りました。
ここの空堀は当時は関東ローム層の赤土剥き出しで戦時に水をブチまけ泥ドロにしてしまうと空堀に進入した敵は必ず穴に落ちます。
武者は総重量30kgの鎧兜や刀を装備しているので当然登れませんし、穴の狭さで逃げる事も出来ません。
その逃げる事が出来なく成っている敵を、防衛側は淡々(たんたん)と弓矢や鉄砲で射殺して行くんですね…。
北条流の空堀は凄く残虐で堅固な防御施設なんです。
関東の戦国時代の城が石垣城では無い理由は関東ローム層を活用した方が石垣を組むより“殺傷力の高い要塞”を作る事が出来たからなんですね。

2015-02-28-14-09-16
写真は戦国時代の小田原城遺構の“小峯の大堀切”です。風化した今でも深さ8m程度有りますが、当時は堀は更に深く曲輪に土塁が巡らされていて堀底から上まで10m超の深さが有りました。
更にこの様な大規模な空堀と水堀で小田原城は町ごと囲まれていて“総構(そうがま)え”と呼ばれ堅固で、豊臣軍20万は小田原城の北条軍3万に手も足も出ませんでした。
実はこの北条流の空堀を、小田原城攻めで苦戦した豊臣秀吉も模倣し大坂城の総堀に採用していたんですよ。


さて、この小机城、古くは関東一の名軍師で江戸城を築城した太田道灌公と豊島氏が1ヶ月に渡る攻防を繰り広げた舞台でもあるのですが…


小田原北条家の宿老で箱根の風魔忍者を管理した怪軍師北条幻庵公か御子息の北条時長公が城主を務めていたんです。


KOEIのゲームでは↑こんな頭デッカチに描かれてます(笑)。
この北条幻庵公は先程も話した通り、北条早雲公の三男で長生きしたので第三代小田原北条家の当主で名将名高い北条氏康公の時代に成っても活躍しており名軍師であり外交官としても歴史ファンには有名な方です。
文化人としても日本古来の神仏習合時代の伝統を守る宗教家としても教養高く当時から有名な方だったのですが、その教養の高さを示すのが衰退した室町幕府が本来行っていた武家としての儀式を鎌倉公方(くぼう=将軍)代を務めた蒔田(まいた)吉良家の吉良頼康公に北条家から姫が嫁(とつ)ぐ際に有職故実(ゆうそくこじつ=当時は失われかけていた武家の儀式)や人間関係の掌握方法や個々の人物毎での対応の仕方等を書付けアドバイスした“北条幻庵覚書”と言う古文書が今も残っており、室町時代の武士の生活を知る貴重な第一級資料として有名だったりします。
実は北条幻庵公は北条家の家臣団の中で最大の領地を有しており、“小田原衆所領役帳”とか“北条家所領役帳”とか色んな呼び方の有る古文書(小生は小田原所領役帳と言う名を採用している)によると合算して五千四百四拾弐貫百文の永代(子孫まで保証された)給与を貰っていました。
安土桃山時代の石高に換算すると1貫文=2石です。
北条幻庵公の所領=5442.1貫=10884.2石。これを収入にすると・・・
1石=米150㎏ 現代の米相場平均1㎏=400円前後。
10884.2石×150㎏×400円=年収653,052円(6億5千3百5万2千円)となります。
この1万石がどれ程凄い事かと言うと、初期の北条家が治めた相模国は1国で16万石しか有りませんでした。そして小田原所領役帳が編纂された1559年頃には武蔵国南部も支配地に組み込んでいましたが、武蔵国は1国で約67万石ざっくり半分で33.5万石です。
16万石+33.5万石=49万5千石が北条幻庵公や息子さんの北条時長公が城主だった当時の大凡(おおよそ)の北条家の総石高だと試算出来ます。
北条家も所領役帳に乗る幹部クラス社員や管理職社員だけでも、ここで書き込めない程大量の北条家の社員がいた訳ですが、そんな中で北条幻庵公の所領は実に広大だった事が解りますね。
では49.5万石の内の1万石もたった一人で領有してしまっている訳です。
現代の感覚では6億5千3百万の収入はカルロスゴーンさんが日産自動車の社長だった頃の年収に匹敵しますが、ただ、この1万石の収入で非正規の兵士も含めて戦時には兵士500人を集めないといけなかったので幹部でも決して豊かな状態とは言えないのが当時の武士でした。
しかし初期の北条家で所領以外にも本光院殿(所領役帳編纂時既に亡くなってる北条為昌公の戒名)衆の代理統率官を行っていたので、支配した勢力数は北条家中で相当な物が有りました。
この様に直臣では無くて本家の家臣を預かる武将を寄親(よりおや)と呼び、その部下に成る人を(寄子)と呼びますが、有名どころだけでも相当数の寄子が記録に残っています。
【小机衆】に関しては、本稿の最期の方で歴代城主と与力武将達の簡単な紹介を纏めて載せようと思います。きっと港北区や都筑区に住んでいる人は「おっ!」と思う地名が出てくると思います。
白備え隊の笠原信為公を小机城代として小机城近辺の武将で構成された軍団を率いた北条幻庵公は武人としても功績を挙げており、中でも河越合戦や国府台合戦での活躍が有名です。
河越夜戦布陣図 久良岐のよし作成

北条幻庵公は関東最強だった武将の北条綱成公と今の埼玉県川越市に在った河越城に援軍に赴き河越城主の大道寺盛昌公と合計3000の兵士と共に籠城します…
敵兵80,000を率いる関東管領上杉家と古河公方との合戦で半年間も防衛に成功した上、大逆転勝利に導いた名軍師でした。
8万対3千と絶望的な戦力差ですね。
・・・こんな兵力差の敵兵に囲まれて、小田原の主君北条氏康公との連携を可能にしたのが彼が管轄した「風魔忍者」とその首領「風魔小太郎」の存在でしょう。


KOEIでは↑こんな感じに描かれてる風魔の小太郎。
彼等忍者がいたからこそ、外部との連絡が取れ、また謀略に長けた北条幻庵公だからこそ軍略に長けた北条綱成公と共に河越への後詰(ごづ)めを任されたんでしょうね。
さて、いくら北条幻庵公が謀略に長けていても統率者として優れた副官がいないと軍は統制出来ません。
この小机城、実は平時は笠原信為と言う武将が城代を務めていたのですが…
実はこの笠原信為公も優れた武将で文化人でした。
戦国時代の北条家には五色備えと言う5色に色分けされた5つの主力部隊が存在しました。
その内、"白備え"を率いたのが北条幻庵公で、老齢の幻庵公の代官を務めていたのが城代の笠原信為公だったんですね。
更に里見家と正木家による鎌倉市街地と鶴岡八幡宮への乱入、掠奪、放火、破壊で鎌倉が壊滅した鶴岡八幡宮合戦の復興を統括し、北条家の敵対勢力である上杉家の協力まで取付け鶴岡八幡宮再建を成功させています。

この事業では同じく横浜の蒔田城主吉良頼康公や笹下城主間宮康俊公も活躍しています。
笠原信為公は血筋も由緒ある家系で、古代、律令制以前に存在した相武国(さがむこく:埼玉県東京都神奈川県全域を合わせた行政区域)を治めた相武国造(さがむのくにのみやつこ)の子孫に当たる方なんですが、武士として教養も高く和歌の名人として有名だったそうです。
彼は1557年没なので、丁度、河越合戦で白備えを指揮したのは彼だったはずです。
この信為公と小机城を顕彰する祭りが毎年春に行われています。
小机城址祭り
…と言うお祭りです。
白じゃないじゃん!赤じゃんか!
…なんて無粋なツッコミはしないだけてくだせぇな。
何せ、地域振興のボランティアだから皆。


横浜市港北区長が信為公に扮し、地域住民の方々が扮する白備え部隊を率いパレードや小机城にていくつかの演出もあります。
屋台も沢山出るので家族連れも楽しめるイベントです。
冒頭で触れた今月の竹灯籠祭りと合わせてオススメのレクリエーションです。
イベント抜きにしても、小机城は歴史好きな方にはオススメの場所です。
JR小机駅から徒歩10分もかからないので竹林に覆われた城址公園の遊歩道で、是非、一度お散歩されてみてはいかがでしょうか?
御祭りの様子を崩壊した過去記事へのリンクを以下に掲載して置きます。
※以下のタイトルをクリックすると記事へリンクします。



さて、最後に小机城の歴代城主と小田原所領役帳に掲載される白備え隊小机衆の主だった武将達を紹介して記事を〆たいと思います。

【歴代城主】
●北条 長綱公・・・入道号:幻庵宗哲。
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその家臣団も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。先述の通り、河越夜戦で白備え隊を率いて黄備え隊大将北条綱成公と黄備え隊副将間宮康俊公等と古河公方ー上杉連合軍8万の大軍を城兵3千で半年間の防衛に成功し、更に国府台合戦でも活躍した文武両道を地で行く武将だった。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・戒名:宝泉寺大年用公。
早世したので城主としての事績は詳(つまび)らかでは無い。
所領役帳には“三郎殿”と記されている人物。近年になり実名が時長と判明したが城主としての在任期間は短命の為に短かった。“新編相模風土記稿 足柄下郡の風祭村(小田原城下の東海道から箱根への入口) ”に在る宝泉寺の“開基北条時長”と書かれた文書の存在や、永禄三年(1560年)07月20日が命日と判明している事、同年に北条氏尭公が小机城主の座を継承している事の整合性から宝泉寺が菩提寺の北条時長公が三郎殿だと推定されている。
※風魔忍者の根拠地が風祭で箱根の山を熟知した集団と言われている。
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
永禄三年(1560)年に小机城址と成る前は平井城主だった。平井城は上杉謙信が相続した山内上杉家の本拠地だった事もある重要な城だった。武蔵国の防衛で活躍し、上杉謙信の関東侵略に際して河越城に援軍に赴き撃退に成功している武勇の持ち主だった。
伊達家との外交でも活躍していた事が古文書の存在によって明らかに成っている。
●北条 氏光公・・・北条氏康公の八男と言われるが確定されてはいない。
北条幻庵公の姫が正室(せいしつ=本妻)。元々は戸倉城主だった。
織田家の中部地方支配が本能寺の変で崩壊すると、羽柴秀吉の了解を得て甲府を制圧した徳川家康公が武田家最後の居城だた新府城(山梨県韮崎市)へ入城する。武田家と縁戚だった北条家も織田領へ侵攻し旧武田領を切り取り始める。新府の徳川家康公を挟撃殲滅するべく北条家第五代当主の北条氏直公の大軍は新府の北の若神子城(山梨県北杜市)に大軍着陣し徳川軍を引きつけ、別動隊として北条氏光公の小机衆と北条氏勝公の玉縄衆が富士山の東側を回り甲斐と駿河国境側から御坂城(標高1600m山梨県笛吹市)へ兵10000で着陣し挟撃の機会を伺った。しかし小山城(笛吹市)を兵3000で守備していた鳥居元忠公が北条家の動きを察知しており、統率者が若い小机衆と玉縄衆は急峻な山を下り黒駒の狭隘な谷間で鳥居元忠公の急襲を受け壊滅、殿軍(しんがり)を務めたと思われる玉縄衆の付家老である間宮家を継承していた間宮康信公が討ち死にする等大損害を受けた。
尚、間宮康信公は当時、父の間宮康俊公の跡を継ぎ笹下城(横浜市港南区)の城主に就いていたと思われるが武田信玄の存命中に駿河東部で当時の寄親である玉縄城主北条綱成公が深沢城(静岡県御殿場市)の守備も兼務したいた時代に、間宮康信公が率いる黄備え隊の分隊は武田軍を駆逐して追撃壊滅させる大活躍をしています。
代替わりした大将が実力不足だと河越城防衛で活躍した白備え隊も黄備え隊も軍団の実力を発揮出来なかった様です。
【歴代城代】
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。

【小机衆寄子】
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際に豊臣軍に内通した松田憲秀の子、笠原政晴が継いだのはこの弥十郎の家系と思われる笠原綱信の跡目だと近年の研究で判明している。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。
領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
●福田    ・・・領地は都筑区大熊町。
●高田 玄蕃助・・・領地は川崎市宮前区中部~西部一帯。

他にも小机衆は沢山居て切りが有りませんが主だった人達は又おいおい追記しようとおもいます。
どうですか?小机城と小机城に関わった人々、皆さんの地元が関わりの有る武将も多かったんじゃないでしょうか?
又、こんな感じで北条家の各軍団と皆さんの地元の御縁を紹介して行けたら良いなぁ~と思います。

では!、又この記事の小机衆の名簿更新と新しい別の記事で御会いしましょう!
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神奈川・横須賀市で、14日も「"異臭" がする」との通報があり、消防が出動した。
14日午後3時すぎ、横須賀市安浦町で「ガスくさい臭いがする」と、近所の住民から119番通報があった。
横須賀市役所周辺でも異臭があり、消防隊員が空気を採取したという。 採取された空気は、神奈川県の環境科学センターで分析され、今週中にも結果が公表される予定。
市内では、異臭騒ぎが相次いでいることから、環境省から空気を採取する機械を40台借りるなど、対策を講じることにしている。
14日午後3時すぎ、横須賀市安浦町で「ガスくさい臭いがする」と、近所の住民から119番通報があった。
横須賀市役所周辺でも異臭があり、消防隊員が空気を採取したという。採取された空気は、神奈川県の環境科学センターで分析され、今週中にも結果が公表される予定。

横浜市や横須賀市などでは、ことし6月以降、海に近い地域を中心に異臭がするといった通報が相次ぐようになりました。

6月事案
はじめて通報が相次いだのはことし6月4日の午後8時すぎでした。
三浦市で「ゴムが焼けるような異臭がする」と消防に通報がありました。
同じような通報はこのあと徐々に北上しながら横須賀市や逗子市からも寄せられるようになり、この日は、午後10時までに消防だけで200件以上寄せられました。
このとき、横須賀市内に住む女性が気分が悪くなって救急搬送されました。

7月事案
およそ1か月後の7月17日にも再び横須賀市で同じような通報がありました。
午前10時40分ごろから30分ほどの間に横須賀市浦賀や久里浜など市の沿岸部から消防に7件の通報が相次ぎました。

8月事案
さらに3回目は8月21日でした。
午前8時半ごろから午前9時すぎにかけて横須賀市津久井や久里浜など沿岸の地域から「ガスのような臭いがする」といった通報が消防に30件以上相次ぎました。
また、横須賀海上保安部によりますと、このときは横須賀市沖の海上でも若干異臭がしたという情報があったということです。

9月事案
4回目は、9月19日でした。
午前9時半ごろまでの1時間ほどの間に横須賀市馬堀海岸や大滝町、安針台などから「ガスの臭いがする」などといった通報が7件ありました。

10月事案-1
今月に入ると通報が寄せられるエリアは横浜市にも広がりました。
今月1日午後6時半前から9時ごろにかけて中区や南区、港南区、戸塚区などから通報が寄せられたほか、横須賀市でも同様の通報があり、合わせて20件ほどでした。
10月事案-2
その2日後、今月3日にも横浜市で同じような通報が消防に相次ぎました。
午後5時ごろから夜にかけて中区や神奈川区、港北区などから25件寄せられました。
10月事案-3
そして12日も夕方、横浜駅やその周辺から消防に通報が10件相次ぎました。
県が本格的な調査に乗り出していますが、これまでのところ原因は分かっていません。

三浦半島(横須賀市・三浦市)&横浜市の異臭騒ぎ・・・

原因の可能性有るんじゃなぁ~い?
と、ずっと不安視してる事が有るんだけど、今から確証は無いので只、疑ってると言う話をするんだけど。
・・・皆はどう思う?

小生が関係有るのかな~有りそうだな~?
と思ってる事⤵️
①今年に入ってから横須賀市走水沖等の海に土砂を投棄している船がいる事。
IMG_20180818_001724_757

②東急と相鉄線の直接乗り入れ日吉⇔西谷線と市営地下鉄と関係が有る事業地域で陥没事故が起きてる事と掘削した土砂の行方が謎過ぎる。

httpswww.city.yokohama.lg.jpkurashimachizukuri

③市営地下鉄新線や神奈川東部方面線(相鉄線⇔東横線)の地下掘削現場に港南区~戸塚区と同様に亜炭層が有った可能性。
港南区の亜炭地層②
港南区の亜炭地層①
地元の人⤴️の写真と元記事⤵
亜炭関連での検索結果⤵
https://www.google.com/search


④神奈川東部方面線(相鉄線⇔東横線)、横浜市営地下鉄新線、もしくはリニア新幹線の工事で生まれる建設残土を投棄している可能性。

仮に①~④の予想が全て合わされば起きうる。
これが不幸にも全て当て嵌るなら横浜市消防局が仮にガスを採取成功しても、横浜市役所も神奈川県庁も正直に原因を話すとは思えない。



何故(なにゆえ)そう思ったかは・・・
コンナ⤵感じ。
①今年に入ってから横須賀市走水沖等の海に土砂を投棄している船がいる事。
・・・について。
この⤴情報について異臭と関連性の有無は知らないが時期が重なる事。
全く関係ない記事⤴三浦半島の観光地が新型コロナでピンチだったので助けたい一心で綺麗な景色や周辺の関係ない情報も含めて地元の人達を捕まえては雑談して廻(まわ)る中、走水の方から聞いていて既に夏に知っていた。
地元の方々の話では、土砂を投棄する船の会社は漁場を荒らされると周辺漁師から反対運動が起きない様に金銭の授受により承諾を得て土砂の投棄を行っているとの事。
異臭騒ぎと偶然でもタイミングが重なり過ぎる。

②東急と相鉄線の直接乗り入れ日吉⇔西谷線と市営地下鉄と関係が有る事業地域で陥没事故が起きてる事と掘削した土砂の行方。
・・・について。
この事件は新路線の地下工事が原因で③の部分に関わって来るかもしれない項目。古代の海で鎌倉時代まで湿地だった軟弱地盤や❝化石燃料の地層と重なってしまっている可能性が有るんじゃないかなぁ~?
横浜市役所はハマっ子じゃなくて、他地域から就職した役人が多いから横浜市内の土地の特性なんてコレっぽっちも知らないんじゃない?
実は❝ハマっ子❞かどうかの判別は横浜市歌を歌えなるか歌えないかで解る(笑)。
一部インターナショナルスクールや私立小中学校の卒業生を除いて、横浜市かを歌えない横浜市民の大部分が横浜市で育ってない。
横浜市歌を歌えない人は横浜の里山で遊んで育ってないから人工緑地と里山の違いも判らないし里山文化も理解出来ないでしょ、郷土史なんか知らない人達だらけ。
横浜は昔は半分は鎌倉郡だった横浜の鎌倉文化と幕末に神奈川県庁の場所にペリーさんが上陸して以後の近代西洋文化に里山文化の融合したのが横浜文化。
横浜市歌を歌えない人は横浜文化を理解出来ない❝非ハマっ子❞と瞬殺で見抜けたりする(笑)。
横浜市歌を歌えない人には横浜市の平地部分の大半が元々は古代海だったり市内で亜炭の採掘が埋め戻されてない空洞が有る事すら知らないと思う。
本当に横浜育ちじゃない人は、地盤の評価に関して近世以後の埋立地の軟弱地盤にしか注意は向いてないんじゃないだろうか?
しかも住宅街で一々ボーリング調査なんか出来ないでしょ?
実際に陥没事故続きで詳細な事前調査が行われているとは思えない。
横浜市の郷土史を知っていれば普通に危険性を認識出来ると思うのですよね~?
新線工事と陥没事故発生個所 久良岐のよし
丁度、道路陥没事故が頻発した地域が相鉄線⇔東横線の直接乗り入れ工事の場所と重なる・・・
この工事の掘削後、膨大な土砂はどこに廃棄されてるのでしょう?
平成狸合戦ぽんぽこの様に藤野町の谷を埋める訳に行かないし、三浦市の蛍の谷も埋め立て終わって開発してるし、横浜市栄区の深田や瀬上の渓谷の埋め立て開発とは別枠に土砂を投棄する場所を必要としているはず。
横浜市営地下鉄や相鉄線、東急東横線以外にも神奈川県内ではリニアモーターカーの建設で膨大な土砂が発生してるけど、相模原市と愛川町の志田峠の谷の埋め立てでも地元住民の同意を得ずに埋め立て計画に巻き込まれた地権者等がいて問題が発生してるし。
・・・もう、海に捨てる以外に土砂を捨てる場所は無いんじゃないかな~?

仮に最初は横須賀沖や三浦沖に捨てたけど、事件に成ったから横浜港にバシャバシャ捨ててる様な事って有り得るんだろうか?とか。
有るなら異臭発生源が横浜市に移って来たのと何か関係が有る様な気もする。

③市営地下鉄新線や
神奈川東部方面線(相鉄線⇔東横線)の掘削現場に戸塚区下倉田や港南区大久保地区と同様に亜炭層が有った可能性。・・・について。
これについては横浜ふるさと歴史財団や神奈川県の教育委員会の学者サンでなくても知っている人は神奈川県民には可也(かなり)多い。
本当に神奈川県や
横浜市域の歴史が好きな歴史オタクや郷土史家なら誰でも知ってる事ですが、横浜市戸塚区下倉田や港南区上大岡は戦時中まで❝亜炭❞と呼ばれる石炭より質が悪く❝燃やすと匂いの強烈な化石燃料❞が採掘されていたのは結構有名。

横浜市に亜炭層が有る事は結構有名だからネットで検索すれば直ぐに出るし、横浜市ふるさと歴史財団やブログに書いてる人がいる港南歴史協議会とかに問い合わせれば直ぐに解る。

横浜市の花街や赤線の文化を掘り下げて調査するのが好きな❝知の冒険❞と言うブログなんか、上大岡界隈の取材した時に亜炭にも触れていたので彼のブログが好きな水商売の歴史好きな人も思いがけず知るきっかけに成ったんじゃないかな?
何で③の亜炭の炭鉱と②で市営地下鉄や相鉄線東横線の工事の話題に触れたかと言うと、①の部分で触れたとおり横須賀沖、最初に異臭騒ぎが問題化した場所に土砂を捨ててる船がいるって話をしたけど・・・
実は亜炭って燃やすとメッチャ臭いらしいんだよね。
ざっくりコレ⤴読んでくれたらどんなモンか解るよ。
亜炭の土砂をもし海に捨ててたら、すんごい臭く成る可能性って無いのかなぁ~?
とか
船積して慎重に扱わないと圧力とか粉塵が発熱して煙り出たりして臭く成ったりしないのかな?
とか
肥料に使われるらしいから赤潮とか平気なのかな?ってのが素人だけに頭を過(よぎ)るんだよねぇ~。

そしてもう一つ、港南区上大岡や戸塚区下倉田と道路が陥没した地域も歴史的地形的に大きな共通点が有る。
縄文海進と呼ばれた地球が温暖化していた縄文時代に最大限まで海が内陸に入り込んでいた時代、日吉駅~羽沢横浜国大駅~西谷と上大岡駅周辺は古代の海の底だった。
古代の海岸線と新線工事 久良岐のよし
この通り⤴ね~。
上大岡駅前で亜炭が取れるのは実は古代の大岡湾、戦国時代には上大岡駅から離れ市営地下鉄吉野町辺りが湾の最深部に規模縮小したものの依然として蒔田湾と呼ばれた海が広がっていた。
恐らく干潟だった時代に樹木が埋没して亜炭に成っているはず。
亜炭は水分量が多い場所で生成される植物性化石燃料で、海辺の干潟だった場所だから上大岡駅辺りの丘陵地帯の山裾(やますそ)部分に亜炭の地層が出来た事が解る。
上大岡駅~関内駅の❝古大岡湾❞と全く同じ地形だったのが、❝神奈川東部方面線(相鉄線⇔東横線乗り入れ線)❞の建設予定地なんだなぁ。
亀甲山推定範囲と城址の位置 久良岐のよし
※拡大して見て下さい。

上は戦国時代の城の配置を古代の海岸線と合わせた地図です。白い部分は古代の海で鎌倉時代迄は水田や湿地帯だった場所。
その一帯は考古学的に“古鶴見湾”や“古帷子湾”と呼ばれる地域で、平安時代には湿地帯に成っていて鎌倉時代初期に川崎堀之内や神奈川区六角橋~小机一帯の領主だった佐々木(六角)泰綱公が鎌倉幕府に対して開発許可を得て水田を開発した記録も残ってたりする。
御城が古代の海岸線に面した湿地に囲まれた急な崖の上に造成されている事が解る。
更に古墳時代以前、縄文時代や弥生時代の集落や祭祀遺跡を内包したり近在する❝延喜式内社❞や式外社と呼ばれるカテゴリーの神社も古代の海岸線沿いに聖地化されている事が解る。
東京湾岸古社と海岸線の位置関係 久良岐のよし
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
聖地化した場所は古墳時代以後に成立した平塚八幡宮や前鳥神社を除いて、全てが古代の海の半島の先端や湾の付け根、川の合流地点、ランドマークと成る山、集落を形成するのに必要不可欠な湧水地の何(いず)れかが聖地化されている事が解ると同時に、その様な場所が農耕開始以前の人達にとって狩猟採集で生活がし易い環境だった事も解ったりするんだな~。
この通り、亜炭の地層が有る港南区上大岡~南区~中区関内地区の大岡川と中村川を挟んだ吉田新田と周辺の微高地や平地部は古代の大岡湾で海だった。
戸塚区の柏尾川沿い~鎌倉市の腰越海岸も古大船湾。そして戸塚にも亜炭層がある。
昔の海岸線
※神奈川県立生命の星・地球博物館制作古代の海岸線⤴
そして中山駅~鴨居駅~新横浜駅~片倉町駅~大倉山駅~綱島駅~日吉駅~川崎駅~鶴見駅一帯の平地も❝古鶴見湾❞と呼ばれた海の底だった。だから綱島って本当に島だったんだよね。
同様に保土ヶ谷区星川~天王町~西区平沼橋~横浜駅は古代の帷子(かたびら)湾で、後に規模は縮小しても明治時代までは横浜駅一帯は海だった。だから平沼橋って干潟だった時代の名残りが地名にも残ってる。
・・・つまり、鶴見湾
、帷子湾、大岡湾だった地域には当然ながら上大岡と同じ様に亜炭が有っても可笑(おか)しくない訳。
古代の海岸線の事を知りたい人は神奈川県立生命の星・地球博物館を見学して学芸員の先生に質問したら親切に教えて貰えますよ~♪

④神奈川東部方面線(相鉄線⇔東横線)、横浜市営地下鉄新線、もしくはリニア新幹線の工事で生まれる建設残土を投棄している可能性。
・・・について。

もし本当に神奈川東部方面線(相鉄線⇔東横線)や市営地下鉄線のトンネル掘削工事で亜炭の地層が有ったのだとして、①~③全部が行われていたら・・・
それを捨てるのに一番便利なのは漁師達に金銭面で投棄の合意を得て海に土を捨てるのが便利な気がするのよ。

仮にね、これが本当に不幸にも小生の気に成る①~④の可能性が全部本当に起こっていたりして、もし事実確認がされて事が表沙汰に成るか、成る直前に菅総理大臣が知ったら激怒するんじゃないかな?
菅総理の地盤の横浜市民を不安に陥れたり、横須賀市や三浦市に迷惑をかけたら菅総理が知った時点で激怒するでしょ。

仮に小生の懸念が丸当たりしていて亜炭なんかが原因でも臭気が無害で臭いだけなら正直に説明すれば良いのだし、事前の説明が不足して関係者が段取り悪かっただけでしょ?
絶対に臭いの原因起こした組織はいるんだから謝っちゃえば良いのに。
仮に亜炭が何かの原因で臭い出ても臭いだけでしょ、元々戸塚区や港南区で掘ってたんだし。
戦時中に家の燃料で使ってたんだし。
何か別に有害な事だから言えない事態が発生してるなら尚更に早く神奈川県とかに正直に報告した方が良いでしょ、市を複数跨いで事件に成ってるから。

まぁ小生の妄想が丸ハズレしてくれているのを願うばかり。
仮に亜炭が原因だったとして亜炭なんか海に捨てたら素人目線じゃ環境にも影響無いか少し心配だしね。
まぁ魚が汚染される事なんか無いと思うけど。
昔の京浜工業地帯の環境汚染とかに比べたら。

横浜市や鎌倉市は上の人達がダメでブレブレだから対応が心配。

まぁ・・・
「今の地下トンネル工事で亜炭の地層にぶつかってるなら、船積みした時に圧力で発熱して煙り出たり海に捨てたりしたらスッゲェ~臭く成るんじゃないのかな~?」
「横須賀の地元の人達から聞いた船の話と異臭と地下トンネル工事と横浜の地誌が何となぁ~く繋がって連動してそうだなぁ~?」
・・・とか思ってるんだけど、詳しい人教えてよ?と言う只の独り言。

誰か亜炭とかトンネル工事とか公式に調べる事が出来る立場の学者の人がいたら・・・
「違うよ」とか「可能性有るよ」
・・・とか答え出そうだけど、小生は何となぁ~く頭で繋がっても調べる権利も立場にもいないから、こうやって可能性有るかなぁ~?って皆に投げかけて見るしか無いんだよね。

まぁ、これが只の❝小生の見当違い❞な不安で終わって
れば良いなぁ~と思う。

とりあえず、この臭い事件でも新線建設でも今後もずっと誰も事故に巻き込まれたり健康を害したりしません様にぃ~。
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国指定名勝 横浜三溪園 
(旧原財閥総帥 原三渓私邸)
【景観】★★★
 戦国時代の文化財建物群
 &紅葉のコラボした絶景!
【電車】 
 元町中華街駅・・・所要時間25分
 中華街入口バス停で乗換16分~
 ~桜道降車~徒歩8分。
 根岸駅   ・・・所要時間15分
 バス乗換6分~間門小学校降車~
 ~徒歩8分。
 根岸駅   ・・・所要時間20分
 バス乗換9分~三の谷降車~
 ~徒歩10分。
【  車  】★★★
 駐車場有り、但しオンシーズンは
 入庫待ち1時間。
 裏技として本牧市民公園の駐車場
 に駐車すると待たないが、そちら
 の出入口は閉門時間が早い。
【休憩】
 園内に御茶屋サンが3軒有る。
 周辺商店街にも飲食店有り。
オススメpoint( •͈ᴗ•͈ )       
 織田有楽斎、豊臣秀吉、徳川家康や
 大名の城から移築した建築文化財◎
 文化財と広大な庭園と紅葉コラボ◎

 原財閥、原三渓の私邸だった歴史◎
 御茶屋が3軒あり団子美味しい◎
 入口にも御煎餅屋さんとか有る◎
注意するpoint(•ω•)       
 紅葉シーズン駐車場メチャ待つ。
 池の右奥のエリア見落とすな!
 
聴楓閣は秋期限定公開。
 夜間ライトアップは期間限定。
――以下 詳細( ゚∀゚)つ ダョ♪⤵――
——入口周辺——
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——池の右奥側——
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——池の左奥側——
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——観月会(期間限定夜間ライトアップ)——
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——三渓園茶寮の団子——
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——猫沢山いるよ~♪——
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交通
紅葉シーズンと春の桜の季節は駐車場が混み合うので早い時間に訪問する事をお勧めします。
15時以降は聴秋閣等の多くの建築文化財の在る区域が封鎖れてしまいますので、土日の場合は駐車場に入るのに1時間は余裕を見て置けば間違い無いでしょう。
裏技としては本牧市民公園の駐車場に停めて、本牧市民公園側の入口から入ると待ち時間が無く駐車し易い。しかしそちらの出入口は閉門時間が早いので午前中~正午頃の見物に向いています。
紅葉シーズンは公共交通機関での来園を推奨します。
【見所】
何も予備知識が無い人は説明の看板をちゃんと読まないでスルーすると・・・
「すっごい!綺麗だな~」
・・・と言う感想で終わってしまうが、ちゃんと説明書きを読むか、このブログ記事を読んで予備知識を持っていくと‟目玉ブっ飛ぶ”位にたまげる事に成る建築文化財群・・・。
どれもこれも、元は徳川家康公が京都伏見城に建てた茶室だったり、織田信長公の実弟で名茶匠として知られ東京有楽町の地名由来にもなってる織田有楽斎の使っていた建物や、豊臣秀吉公が母親の為に京都の大徳寺に建てた建物等を、明治政府の廃仏毀釈(仏教弾圧)の発生時に原財閥の総帥だった原三渓が私財で買取り建物を部材に解体して船で輸送し当時原家の私邸だった三渓園に移築し保護し、三之谷と呼ばれたこの土地の大庭園化が始まった
しかも明治当時に公共福祉を意識して原家私邸の三渓園を公園として無料公開し、一般市民も散策する事が許されていた。原三渓の友人だった芥川龍之介等の著名人も散歩しに訪れていた。
その後、第二次世界大戦の敗戦時にGHQによる財閥解体で原家単独の維持管理が困難に成ると横浜市に‟寄贈”された。現在では国により‟名勝(すごい風景の場所)”に指定されており、三渓園全体も文化財扱いに成っている。
原三渓本人が大経営者でありながら日本画家として有名で、建物の配置と紅葉や桜の配置も計算され尽くされており‟スペシャルな紅葉の景色”を見る事が出来る。
・・・横浜市とは思えない凄まじい梅と桜と紅葉の名所。
※なので説明の看板は熟読する事を推奨!
特に聴楓閣等の重要文化財の多い池の右奥のエリアは初見だと入口を見落とし易いので要注意!
【催事】
観月会の中秋の名月の前後と桜の季節のみ夜間ライトアップされる。
今の季節のみ紅葉の古建築公開され、重要文化財の聴秋閣、林洞庵の近くで紅葉を撮影出来る。
聴秋閣は裏山が普段非公開で撮影出来ないので、紅葉シーズン限定の撮影チャンスです!
【名物】
“三渓園茶寮”で、三溪碗(さんけいわん)と言う三種類の味の御椀に盛られた美味しい手打ち蕎麦がオススメ。 
3つの茶屋とも団子各種と抹茶を楽しめる。
【歴史】
原三溪(旧原財閥当主、横浜銀行・富岡製糸場の創設者、関東大震災横浜復興の恩人)・タゴール(インドの文学者)・芥川龍之介 
原三渓や当時の浅野財閥等の横浜の富豪は関東大震災で横浜市街地が壊滅した際に、私財を持ち出し横浜復興に貢献する等、商人の鑑とも言える功績を立てた人物でもある。
【関連記事】



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