歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:横浜道

JRと相鉄線に乗って2年ぶりに西区の平沼を散策してきました。
小生は働きながら週末に国家資格取得のために学校に通っているのですが、それと合わせて今回は角平でランチするのと平沼の水天宮を御参りするのが目的でした。
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角平と言うのは横浜市南部の市民の間には有名な日本蕎麦店です。
その角平でのランチに合わせて平沼の水天宮を御参りしたいと思ったのは、7年前に戦国時代の蒔田湾と幕末の横浜開港の頃の歴史を調べていた際に現在の開港資料館に江戸時代末期まで存在した水神様の御社が有ったのを知り、その過程で平沼の水天宮をGoogleMapにチェックしていていつか参拝しに行こうと思ったからでした。
昔は平沼は平沼新田と呼ばれ吉田新田と同じく江戸時代以前には海でした。
江戸時代に先に新田開発されたのが洲乾湊(すがみなと)と呼ばれた砂浜の半島より内側に広がっていた蒔田湾とか考古学では大岡湾と呼ばれた入江でした。
個人的には洲乾湾と呼ぶべきと思うのですが。
幕末に成ると、この洲乾湊の半島の浜辺ににアメリカから来たペリー提督が上陸し、更に後に幕府によって外国人居留地に定められました。
ペリー艦隊の上陸
上のペリーさん上陸の有名な絵の右側の樹が今も開港資料館の中に現存する玉楠の樹の3代前の樹だそうで同じ位置に存在し、そお樹の麓の神社は横浜の水神社として知られた御社です。
また横浜村の有った洲乾浜の半島、その先端には淡水の湧水池が有り弁天様が祀られていました。
それ等は源頼朝公により開かれたそうです。

開港後に外国人居留地に定められた地域は旧半島と埋立地の間に残された海の名残りの運河がそのまま境界線に活用されました。
吉田橋の上に関所が設けられて外国人居留地は関内と呼ばれた事が今のJR関内駅始め関内と広く呼ばれる地域の地名由来に成っています。
関内周辺 久良岐のよし
上の明治時代初期の測量図ではまだ画面左下の平沼が今程には埋め立てられておらず海だった事が解りますね。
この関内の外国人居留地建設で移転した水天宮と現在の横浜市役所新市庁舎の場所に存在した弁天様の両方が源頼朝公が開いた物だと言うのを知った時に水神様の移転先を調べて、南区の河野サンと言う個人の御宅に移転し祀られた後で太田杉山神社に合祀されたのを色んな宮司様達に聞いて廻り辿(たど)り着きました。
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横濱水天宮太田杉山神社
元横浜村の水天宮を合祀した杉山神社
この杉山神社については改めて、今日の記事で書く平沼神社こと平沼水天宮の記事共々独立した紹介記事を書きたいと思います。
さて、この南区の水天宮は元々は杉山神社(ややこしい)で、今の関内地区や山下公園前の横浜村発祥地の砂州(さす)の半島だった洲乾湊(すがみなと)に存在したのですが、それは以前の横浜の戦国武将で江戸時代の本牧奉行や佐渡代官、生野代官、摂津代官、蒲原(駿河)代官を務めた間宮家や鎌倉時代に関西を統治した金澤北条家が支援した真言宗の江戸時代迄大寺院だった南区堀之内の寶生寺や北条政子様の隠居地で間宮忠次公が支援した寺院だった井土ヶ谷の乗蓮寺を紹介した時に少し書いた事も有りますね。


上の過去記事で少し触れた横浜村(関内地区の元町~中華街~日本大通り一帯~弁天町)には頼朝公のゆかりの神社が2つ在り、その内の一つの水天宮が現在の太田杉山神社に合祀されている横濱水天宮な訳ですが、横濱水天宮は外国人居留地に関内地区が成った際に旧家河野家へ引き取られ遷座を余儀なくされ更に現在の杉山神社に合祀されたそうです。
これについては平沼の水天宮の宮司様にも以前、色々と御教授頂いていたのですが実は電話で御話を教えて頂いただけで水天宮平沼神社様には未だ参詣した事が無かったんですね~。
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近くの平沼商店街を道筋に含む横浜道は調べたり散歩したりしたんですが・・・。

この過去記事で紹介した戦争史跡の平沼廃駅の直ぐ隣に西区を代表する日本蕎麦の名店の角平と近代の❝横浜道❞が有り、更にその辺りから徒歩5分程度に平沼神社こと平沼水天宮が鎮座しています。
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水天宮平沼神社
平沼新田鎮守の水神様
この水天宮は天保十年(1839年)、つまり江戸末期に開かれた比較的歴史は浅い神社ですが、それはその通りですね。
なんせここは地名に成った平沼家が埋め立てるまで歌川広重が東海道五十三次の神奈川宿の絵に描いた海だったんですから。
その頃の地形については、神奈川駅近く台町の江戸時代の❝さくら家=明治の田中家❞で働いていた坂本龍馬サンの未亡人お龍サンの記事でも触れた事が有りました。


つまり、お龍サンが神奈川宿に居た頃に漸く埋立地から人が住める状態に成りつつあった程度の人工の土地ですから、神社の歴史も比較的新しくて当たり前な訳です。
今回小生は初参拝だったのですが、開基(かいき:社寺を造営する事)から約200年間、地元の人にとても愛され続けて現在も参詣者が絶えない様で現代的に綺麗に石畳と新しい社殿で整備された、町の神社の境内としても綺麗な神社さんでした。
では神社の大まかな歴史の話はここまでにして、参詣して来た様子を紹介します。
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詳しい歴史については上の社頭掲示写真の内容を拡大して読んでみて下さい。
水天宮様は相鉄線の平沼橋駅から角平に行くために国道1号線に向かう途中に在ります。
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水天宮平沼神社
平沼新田鎮守の水神様
道路から見ても境内が綺麗に整備されている事が分かりますね。
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まぁ、石畳でガチガチに境内を固めるのは現代的な造りで古来の自然信仰とは異なるのですが、小生はこれはこれで綺麗で有りだと思います。

由緒正しい醍醐天皇の律令改正法である延喜式の延喜式神名帳に掲載されている御社(おやしろ)、相模国一之宮の寒川神社でも現代は同じように境内の拝殿周辺を石畳で境内を固めており雨天の参詣もし易くしてあったりするので、小生は自然なままの古来の神社も現代の石畳も両方良いと思います。
さて、平沼の水天宮様は鳥居をくぐって右手に神楽殿があります。
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御神輿の保管所も有りますね。
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神楽殿と名付けれられていますが、3階建てで立派な建物でした。
鳥居をくぐり正面に本殿。
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参拝した昨日土曜日は雨天だったのですが、小生が参詣した時は2組の和装の若夫婦が幼子を連れて御宮参りで祈祷を終えた直後だった様で微笑ましい光景を見る事が出来ました。
後からホームページを拝見したら平沼の水天宮様は子宝の御利益でも有名な様です。
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扁額は大正時代の物ですね。
この神社の社紋が変わっていて初めて見る家紋でした。
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平沼家の家紋なのでしょうか?宮司さんに聞けば良かったな。
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本殿の左手前には水天様、仏教やヒンドゥー教の元に成ったゾロアスター教や古代インド神話での龍神を束ねる神様でした。アスラ族=阿修羅様の部族の最高神として崇拝されていたそうです。
日本の宗教は古墳時代や飛鳥時代~明治初期迄は神仏習合で海外から渡来した神様も仏様や日本古来の神様と一緒に祀られていたので、同じくインド神話の女神様である弁才天=サラスヴァティー神と同じように近世日本では水天様として親しまれ特に武蔵国域では信仰されていた様です。
本殿に向かって右側に色々な境内社が祀られていたので江戸時代に周辺にあった小さな神社が遷宮されているのかも知れません。
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お稲荷様が2座あります。
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その内の1座の前には何か可愛い河童の石像。
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更に奥には小生が日頃崇拝する天神様こと菅原道真公=天満大自在天神様も御社も在りました。
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ふむ、こちらの平沼神社こと水天宮様は本来の治水と地鎮の御利益に加えて子宝と学業上達や就学と芸能上達の御利益が有る事が祀られている神様から解りますね~。
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これだけ御利益が集まっているのですから、そりゃ地域の人に大切にされる訳だ。

ちなみに、少し歩きますが近くには良い昭和の日本建築銭湯が3軒も現存していて、小生はソチラの銭湯も以前入浴に通い詰めて数ヵ所写真を撮影させて貰ってるので、それもいつか紹介記事を書きたいと思います。
その銭湯が有る側の地域にも古い戸部杉山神社が有るのですが頼朝公が開いた杉山神社が横浜市内に数ヵ所有ったので、その内の1つは西区の杉山神社だと思います。
その頼朝公が御分霊を勧進した大元の杉山神社本社は横浜市緑区西八朔に現存しており横浜市唯一の延喜式内社だったりします。

これも以前紹介記事を書いているので御興味が有る方は御覧下さい。
さて、平沼の水天宮平沼神社さんはとても綺麗で気持ちの良い神社でした。
ここから蕎麦を食べに角平に行く途中、平戸橋と言う橋の上から京急が帷子川の上を横切る鉄橋を走る景色を見付けたので撮影してみました。
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きっと鉄道写真撮影が趣味の方なら上手に撮影出来るんでしょうね~。
ここは丁度、水天宮様と角平の中間位の場所ですから、角平に御蕎麦を食べに行ってみたい方はついでに電車の写真を撮影に行っても良いかもしれません。
寒い時期の快晴の日で夕焼か朝焼けの時間帯なら、恐らく帷子川に綺麗に京急が写り込むんじゃないかな?と富士山撮影が趣味の一環の小生は予想します。
さて、そこから徒歩数分で角平に到着。
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この写真の平沼商店街の看板の道が横浜道なのですが、JRと相鉄線が線路を通してしまって踏切化していた横浜道を平成十四年(2002年)に踏切閉鎖してしまった事で、既に貴重な近代街道史跡だった横浜道は通れなくなってしまいました。当然ながら平沼商店街衰退の原因に成った事も先に紹介した平沼廃駅の記事で書いています。

相鉄とJRは横浜道である元平沼橋と平沼商店街をアンダーパスか歩道橋で再度繋いで街道を復旧する責任が有りますね。
さもなくば文化と歴史史跡の破壊者でしかない。
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角平 名代 元祖つけ天
文化人も愛するつけ天蕎麦の名店

この角平は有名人も来る御店でランチタイムは遠方から食べに来る御客さんとビジネスマンで常に満員なのですが、この日に小生が訪れた際には待ち時間もほとんどなく入る事が出来ました。
店内はこんな感じ。
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THEそば屋的な昭和の感じ。
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一応、有名人の来てる証拠写真。
まぁ、こんな感じで有名人も食べに来る御店なのです。
メニューは❝つけ天❞が有名。
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小生、かかり付けの病院の美人女医サン(笑)から「ヤックスを食べてみて!」と言われてたので今回はヤックスを注文。
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ヤックスってのは野菜天+海老天のつけ天ザル蕎麦。
メチャ美味っ!
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蕎麦は腰が有って香りも良い。小生、学生時代に蓼科のリゾートホテルに夏冬にバイトに行ったりしてたのですが、信州の蕎麦の有名店と比較しても美味しい。
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海老天も普通にプリプリで美味い。
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この他にミニ・ハイカラ丼を注文した。
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天かすに海苔とネギと天つゆを沢山かけた丼ぶり。
まぁ、これは別に注文しなくてよかった。
食べ過ぎ。
てか隣の人が食べてたカツ丼がメチャクチャ美味そうだったので次回は蕎麦ではなくカツ丼だけでもアリだな!と思いました。
つけ天を美味しく頂いた後、平沼商店街(横浜道)の国道1号を挟み反対側にある老舗和菓子屋に遠回りして立ちよりました。
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寿ゞ㐂家(すずきや)
横浜道を代表する和菓子の名店
すみません、何故かこの店に来る度に写真撮影する前に買ったお菓子食べてしまって写真有りません(笑)。
寿ゞ㐂家は明治三十三年(1900年)創業で2023年時点で既に123年の歴史を有しています。
オススメはドラ焼きと平沼の鈴と言う御菓子と、和菓子屋なのにシナモンドーナッツ(笑)。
もし時間が有って歴史散歩したい方は、このまま道を進んで野毛の伊勢山皇大神宮~成田山~野毛山動物園~野毛商店街へと歩いて飲んで帰っても良いかと思います。

さて、昨日の休日雑記はここまで。
では又、次の記事でお会いしましょう~♪
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皆さんは京浜急行横浜駅と平沼橋駅の間に戦争中に廃駅に成り更に横浜大空襲で被害を受けて再利用計画も無くなった鉄道史跡が現存している事を御存知ですか?
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平沼駅跡
太平洋戦争中の横浜大空襲で被害を受けた戦争史跡である京浜急行の平沼駅は昭和六年(1931年)12月26日に開業しましたが、戦時中の昭和十九年(1944年)11月20日に廃駅に成りました。
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今も当時のプラットホームが残っています。
丁度、現在の平沼商店街の上を通過するのですが、この平沼商店街は実は横浜市の埋立地域で最初期に整備された野毛の富豪達が住んでいた旧高級住宅街~新規開業された横浜駅を結ぶ“横浜道”と呼ばれた近代の道がそのまま商店街に成っているんです。
有名な話ですが横浜駅は現在で三代目です。
初代が桜木町駅、二代目がほぼ市営地下鉄高島町駅一帯、今が三代目。

武蔵野鉄道(西武鉄道)の初代社長や貴族院議員(参議院議員)を務めた平沼専蔵の住宅跡の野毛山住宅亀甲擁壁辺りは浅野財閥や原財閥の当主の屋敷地で、その名残が野毛山公園に成っています。
そんな高級住宅地から現在はJRで寸断されてしまった初代平沼橋=元平沼橋まで一直線に“横浜道”が通っていました。
「何でコンナ場所に御金持ちが切通し道や埋立地の道を作ったの?」
・・・と皆さん思いますよね?
先程のGoogleMapのナビで表示した経路に高島町駅を組み込んで有る事に皆さん気付きましたか?
初代横浜駅が出来てから、明治時代初期には既に“横浜道”は旧東海道保土ヶ谷方面からの旅客用の道と、御金持ちの住んでた野毛から初代横浜駅~東海道に向かう道として整備されている事が明治時代の地図を見ると良く解ります。
下の迅速測図は明治時代の帝国陸軍が製図した物で、現在、農研機構サンがWeb版とGoogleEarth版のアプリを無料提供して下さっています。
※クリックして拡大して見て下さい。
横浜道と初代~三代横浜駅 久良岐のよし
横浜道と初代~三代横浜駅衛星画像 久良岐のよし
衛星写真と見比べると、現在の戸部通りと名前を変えている道が昔の横浜道だった事と、その道が元平沼橋に繋がっていた事が一目瞭然ですね。
二代目横浜駅が完全に海だった場所に作られていたので関東大震災を乗り切る事が出来ず倒壊してしまった原因が地盤の弱さだった事も解ります。
この道は現在の三代目横浜駅が出来てからも活用されていた様ですが平成の中頃にJR線の踏切が撤去され通行不可に成ってしまった時点で平沼商店街の先で行き止まりにされてしまい、元平沼橋とは分断され商店街の賑わいは衰退してしまいました。
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元平沼橋側に残る平沼商店街の角には戦後直ぐに開業した昭和二十五年(1950年)創業の日本蕎麦の名店、角平が今でも営業しており多くのビジネスマンに愛されています。

他にも様々な賞を獲得している和菓子の名店、寿ヾ㐂(スズキ)家菓子舗も有りますが、当時の賑わいを辿れる街並みは令和四年(2022年)現在、ほぼ無くなってしまいました。
平沼駅に話しを戻しますと、こちらはJRではなく京浜急行電鉄の駅でした。 
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この平沼駅の廃止の経緯は戦争と密接に関係していました。
開業からの変遷を箇条書きにしてみましょう。
昭和六年(1931年)12月26日に京急平沼駅開業。
昭和十二年(1937年)07月に日中開戦。

昭和十六年(1941年)に日本の中華民国侵攻に対して、元同盟国のアメリカ・イギリス・中華民国・オランダ等の連合国による経済制裁“ABCD包囲網”が行われ原油輸入が途絶えて日本のエネルギー政策が立ち行かなくなる。


昭和十七年(1942年)4月にはABCD包囲網の影響から、日米開戦直前に配電統制令が施行され電気発電会社が統合され国の管理下に置かれた。
配電統制令は日米開戦を想定した制度だった様で12月に真珠湾攻撃しアメリカに対して宣戦布告を行わず開戦するに至る。

昭和十七年(1942年)の日米開戦後のミッドウェー海戦大敗北に始まる太平洋戦争での戦況悪化で燃料不足から電力確保が困難な状況に陥る。
昭和十八年(1943年)06月30日から戦局の悪化により平沼駅は休業。
昭和十九年(1944年)11月20日に平沼駅は廃止。
昭和二十年(1945年)05月29日に米軍による横浜大空襲。

――横浜大空襲の彼我の損害――
ー日本軍ー
[戦力]
厚木海軍飛行場所属
第三〇二海軍航空隊
航空機数不明。
横浜市、横須賀市、三浦市、鎌倉市、藤沢市内各地に高射砲配備
[死者]
10,000人/横浜市総人口951,000人
※死亡率1.05%
[被災]
311,218人
※被災率32.7%
ー米空軍ー
[戦力]
マリアナ基地所属
米第21爆撃機集団
B-29爆撃機・・・517機
P-51戦闘機・・・101機
[損害]
航空機合計・・・175機
戦況としては厚木の海軍航空部隊の活躍や横浜市内~三浦半島各所に設けられていた高射砲部隊が善戦して米軍航空機へ大損害を与えたが、いかんせん大軍団には太刀打出来ず横浜市の生活インフラが徹底的に破壊されて、平沼駅も廃止後も再建待望論が有ったが空襲の被害を受けた事も有り、廃駅後は駅敷地にくっつくように私有地の建物が駅と同じ高さまで建ち並んでしまい駅拡張も再開も困難に成り現代に至ります。
戦争史跡としても価値が有るが整備公開の予定は無く、京急としては駅を再開業したい所だけれども既に私有地が駅跡を取り囲んでいて不可能な状態。
昭和後期の好景気の時代に再開待望の機運も有りましたし、もしJRが平成14年に踏切を存続し横浜道を分断せずにいれば更に需要が高くなり京急平沼駅は再開業出来たかも知れませんね。
隣に橋をかければ良いと言う訳ではなく、別に開かずの踏切は歩行者専用に変える等して残し対応すれば良かったのにねぇ~と個人的には思います。

世間では戦争をしたがる国がいて、攻め込まれた国が似た様な状況に成っているのを見て、ふと横浜大空襲の歴史と平沼橋と近代の成長著しかった時代の横浜の歴史を思い出してブログに書いて見ました。

以前書いた鬼滅の刃の時代考証も合せて読んで頂けれたら昭和の時代の農村の生活が良く解ったりするかと思います。
鬼滅の刃の主人公達が生きた時代に多くの人が行き交った横浜道ですが、元平沼橋と反対側の野毛側についても少し紹介して置きたいと思います。
実は野毛地域は御金持ちが沢山住んでいたからかは解りませんが、横浜の国家神道の中心として伊勢山皇大神宮が開かれたり有名な成田山の別院が開かれたりして、横浜のみならず神奈川県内外からの観光客が集まる様に成り、成田山横浜別院や伊勢山皇大神宮の参道には旅館街が形成される程でした。
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成田山 横浜別院 延命院
通称:野毛山不動尊

横浜市民なら1度は横浜市立中央図書館か野毛山動物公園に行った事が有るとは思うのですが、伊勢山皇大神宮よりも図書館と成田山の所在する側に近代に野毛地区が栄えた旅館街の名残が残っています。
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何だか雰囲気の有る路地ですよね~?
この路地沿いに今でも時代が止まったかのような看板が、旅館が消滅した後も幾らか残っていたりします。
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最近では古い建物がエモく感じる人が多いらしく、センスに富むユトリ世代くらいの経営者達の飲食店がポツポツ入居し始めています。
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小生は幼かった頃に野毛山動物園に連れて来られたり学生時代に予備校に行った帰りや予備校の無い日に自転車で中央図書館まで遠距離はるばる来て自習してた思い出が有ります。
まぁ~当時の小生のグループはキチガイな程にチャリの行動範囲が広くて、中学生の時に自転車こいで茅ヶ崎市のキャンプ場に行ったり伊勢原市の日向薬師まで行ったり小田原城を見に行ったりした事も有りますし、自転車で鎌倉市の由比ヶ浜にもしょっちゅう行ってました。
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野毛山住宅亀甲積擁壁
旧平沼専蔵邸石垣
普通の観光客はこの地域を自転車でプラプラはしないと思いますが、横浜道から野毛山住宅亀甲擁壁(旧平沼専蔵邸石積み)まで来ると、目の前は横浜市立中央図書館で昔の写本を閲覧したりDVDで映画鑑賞も出来ます。
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車だと駐車場が近くに無くて不便ですが日ノ出町駅から直ぐ、桜木町駅からも徒歩圏内なので野毛の飲食店街で夕食の前に昼下がりフラっと散歩するには適している立地です。
野毛はコロナ禍で寿司居酒屋の名店❝秀吉❞が聘珍樓横浜本店同様に倒産してしまい、樹木希林サンの御実家の叶家までも一度閉店しましたが、叶家については自社ビルだった事や復活を望む声が多かった事から規模縮小し復活しています。
他にも戦後直ぐに開かれた洋食店のセンターグリルやミツワグリル、美味しい鯨肉の刺身を食べさせてくれる文次郎野毛店や横浜くじら、昔からリーズナブルで知られる焼き鳥と満州焼きの庄兵衛・・・

御酒を飲まない小生でも通う御飯の美味しい店が昔から野毛地区には沢山有り、紹介していない場所にもホルモン専門店や焼肉屋、美味しい中華店や居酒屋やスナック等が沢山あります。
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ですから例えば横浜駅西口から昼過ぎに散歩開始~元平沼橋~平沼商店街の名残を散歩し~横浜道を辿り~伊勢山皇大神宮と成田山を参詣し~野毛山動物園を見物~野毛商店街に夕方到着し夕食~そのまま福富町の韓国人街の韓国料理や伊勢佐木長者町の中華料理店で飲みなおしJR関内か市営地下鉄伊勢佐木長者町から帰宅なぁ~んてのも良いかと思います。

逆回りで散策しても良いかも知れませんね!
なんせ無料で散歩できる野毛山動物園は横浜道や野毛商店街の目と鼻の先、近代横浜の名残散歩にはもってこいの目的地です。
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横浜市立野毛山動物公園
(入園無料)
野毛山動物園は気分転換をするには良い場所です。
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何か昔と比べて大分と動物が減らされてシロクマ舎なんてハリボテに成ってしまいました。
ズーラシアとか金沢自然動物公園とか交通の不便な動物園じゃなくて、こっちに力入れたら良いのになぁ~と思うんですよねぇ~。
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実は野毛山公園は日本初の近代上水道遺跡でも有り、動物園が撤去された公園側には、その史跡が残っていたりします。
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更に野毛山公園には展望台も有ったりします。
まぁ、みなと未来21地区や桜木町の高層ビル街化で眺望は悪く成ってますが無料なので横浜道と水道道散策や野毛山動物園デートに行かれたカップルや家族連れは一見して置いても良いかと思います。
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野毛山公園展望台
(入園無料)
野毛山~平沼の発展した時代、日本はチャレンジし変わる事で強い経済力を持っていた訳ですが・・・
天皇家を軽視し世の中を混乱させ各地の神社の儀式を途絶させて日本文化を衰退させた室町幕府足利家を追放して古来の宮廷祭祀を復活させた織田と国内の戦乱を収束させた豊臣政権。
江戸幕府否定し日本が外国の植民地に成らない様に明治維新後の近代化を進めた薩長土肥同盟を中心に設立された新政府。
それ等の時代の様に昭和の良い部分だけ残しつつ、昭和〜平成時代の悪しき部分とデジタル導入の情報管理手段更新が遅れた部分と未だに労基法違反ブラック体質な生産効率の悪い仕事の仕方をマルッと意識ごと捨て去り改めて、現役世代が下剋上し頑張ってみるっきゃ無さそうですね・・・
江戸時代生まれ近代文明開化を成し遂げた散切り頭のサムライ達みたいに。
・・・じゃないと日本は東芝、SANYO、SHARP、レナウン、山一證券みたいに外国に食い物にされて死ぬ。

では皆さん、日本は死にそうですが自分は死なないで下さいね、辛い事が有っても。
辛い事が有ったら平沼駅跡見て空襲が無い時代に生きている平和を噛みしめ、野毛山動物園で動物に癒されて忘れちゃってください!
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