歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:歌川広重


茅ヶ崎市に旧相模川橋脚遺跡と言う場所が有ります。
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旧相模川橋脚(FRP模造展示)
大正十二(1923)年の関東大震災で水田に橋杭が出現した遺跡。
そのまま本物が展示されていると思っている人が多いみたいですが大間違いです。
これを本物と勘違いしてネットで情報書いてる人って、何を見てるんですかね?
「じゃあ、これは何なんだよ!」
・・・って思う人いますよね?
現地訪問した人の中でちゃんと観察したり看板読んだりする人はイライラせずに「だよね~」と思うと思いますが。
CIMG1858
これ、ちゃんと見れば直ぐに誰でも解ります。
歴史オタクの彼氏に付き合わされて嫌々見に来た彼女サンとかなら小生同様に瞬殺で・・・
「アレ?これ木じゃないよね?」
・・・と気が付くと思いますよ。
小生の感想はこうでした・・・
「あ~、これ上行寺東遺跡と同じアレだ、偽物だ。」
・・・ってね。

他人の書いたネットの情報や大正昭和の学者のレポートを脳内にコピペし「遺跡だ!」と先入観を持って見に来る人の中には看板読むまで気が付かない人も多いかと思います。
読まない人も多いはず、だから「遺跡そのもの」として情報を誤って拡散するんでしょうね。
そう、これ木じゃないんです、ちゃんと5秒くらい観察すればきっと皆さんも看板読まなくても解ります(笑)。
KIMG4023
めっちゃテカテカしてるジャン!年輪無いジャン!みたいな?
プラスティックなんですよ。
実はコレ、発見当時の実物は何故かコールタールでベッチョベチョに塗ったくられて放置されてしまって腐食が進んでしまったのでプールの中に沈められ再度空気から遮断され保存されています。
そして実物の姿をプラスティックでコピーして、現代人にも実物に近い形で展示する。

これ大正時代の人のミスをカバーする現代の茅ヶ崎市教育委員会の学芸員サン達のファインプレイだと、個人的には思います。

「ブラボー!平成令和の茅ヶ崎市の学芸員サン

昔の人や上司の適当な仕事と間違いや権威に囚(とら)われず、事実を見て誤りは誤りとして現代で是正しリカバリーする、これ大切。

いくら積み上げた物があろうが、その積み上げた土台が間違ってるなら破却して再構築するか旧状に復し保存し、更に未来に優れた保存展示手段が確立されるまで繋ぐのも心ある考古学の志士の仕事。
改善はトヨタ生産方式の基本。
ちなみに小生の宗旨はトヨタ生産方式教です(笑)。

下らない誰かのメンツの為に皆が実害を被るのは御門違い。
どうやら茅ヶ崎市役所の学芸員サンや市長サンには東日本最大の蹈鞴製鉄遺跡の上郷深田遺跡の破壊容認や続日本100名城の小机城を未だに史跡文化財指定してしない、どこぞの横浜市役所とは違って強い良心が有る様です。

これ⤴️以前、鎌倉の製鉄遺跡の上郷深田遺跡の事を書いた記事。

さてさて、ここからが本題です。

茅ヶ崎市の学芸員サン達の大正時代の学者のミスに対しリカバリーのファインプレイで済ませましたが、小生は大正時代の文献コピペ学者様の間違いを指摘したいと思います。
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現在“旧相模川橋脚”と言われている遺跡は当時の歴史学者沼田頼輔サンによって、鎌倉時代の建久九(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証されたとされています。
本当でしょうか?
多分、沼田サンは文献考古学者で地形をちゃんと見てないんじゃないだろうか?
少し範囲を広げて鎌倉や平塚等の周辺の伝承も拾うと当時の地形が見えるんですけどね~。
近代の自己顕示強い学者学者した妙な権威の有る人は何故か皆やらかしてるんですよね・・・

これ⤴️とかね。

そもそも論で大正時代の沼田頼輔サンが吾妻鑑から引っ張って来た文章は小出川の流路が相模川の本流なんて一文字も書いてないので平安末期~鎌倉時代の相模川の流路は特定出来ていない訳です。
そして小生に言わせれば・・・

小出川の橋その物のではない事も証明されていない。

・・・小出川が相模川の支流では無く今と同じく海に注ぐ河口でしか合流していなかった可能性の方が高いんです。
これどうすんの?
旧相模川橋脚とか名前付けちゃって。
クールポコ
「なぁ~にィ~やっちまったなぁ~!」
と、クールポコに言われても仕方ないくらい。

小生は現地を訪問してみた感想として、ここは地形的に現代に再考証が必要な場所だと思います、多分ここは相模川では無い。
先ず重要な事実を突きつけると、大正時代に沼田等が発掘調査した後に“コールタールを塗ったくった”影響で炭素年代測定法で橋脚その物を測定すると橋脚の加工された年代が弥生時代~古墳時代初期と驚愕の年代に成ってしまうwww
そしてコールタールの影響を考慮して推測しても“古くてザックリ1000位前~その後の時代の間”とスンゴイ広い振り幅でピンポイントで1200年代とは言えない。これは茅ヶ崎市教育委員会に炭素年代測定の結果を確認済みの事実だ。
・・・次に同時代の鎌倉市街地や古墳時代の平塚の地形を例に挙げて話をしてみたいと思う・・・
鎌倉城塞網 国立歴史民俗博物館を参考 久良岐のよし
上の画像は現在の鎌倉市の中心部に当時の海岸線と鎌倉防衛網の“鎌倉城”を再現した画像です。
国立歴史民俗博物館の研究報告第118集の絵を元にGoogleEarthで加工しました。
由比ヶ浜の砂浜は現在の“下馬”の交差点辺り、つまり鶴岡八幡宮の大鳥居の辺りに入り込んでました。
これより前の時代、現在の材木座と呼ばれる地域は入江を形成していたので文字通り貯木場として利用されていたのかも知れないですね。
そして昔から陸地だった部分の滑川の流路も川幅も現在と変化は有りませんでした。
鎌倉を例にとると、地盤のしっかりした場所から流れ下る部分では河川の流路は大きく変化する事は無さそうな事が解ります。昭和の河川工事を除いては。
GoogleMapに表示すると当時の名残が解ります。
材木座 久良岐のよし
※マーカーが入ってる場所は小生が訪問済みの場所なだけなので気にしないで下さい。

この赤線の枠内が材木座と呼ばれる地域。
その赤枠中の現在東海道線の横須賀線が走る場所より南側~当時の海岸線の内側に入江が広がってい現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。付近は鎌倉時代以前に近い平安時代、つまり材木座入江が広がってた当時に開かれたと伝わる神社仏閣が有ります。
由比若宮こと元鶴岡八幡宮は鶴岡八幡宮が現在の小林丘に移転する以前に源頼義公によって開かれた八幡宮です。
甘縄神明宮は鎌倉市内最古の神社で和同年間に行基菩薩によって開かれ、源頼義公が再興開基して子宝祈願をして源義家公を授かったと伝承しています。
鎌倉の光明寺は寛元元年(1243年)に前身寺院が現在地に移転し開かれた場所ですが、実は光明寺よりも先に現在は塔頭寺院と成っている蓮乗院が真言宗寺院として存在し弘法大師の霊場でした。この光明寺の裏山は鎌倉防衛網を担う要害化されており戦国時代まで住吉城として機能していましたが、その山腹にある桟道(さんどう)状の切通しで古代の東海道とされており、弘法大師の教団は古道の整備と布教を行っていたので此方も奈良時代には存在した事に成ります。
鎌倉市街 久良岐のよし
つまり、これらの寺社の立地と同じ標高の場所は平安時代末期の材木座入江が存在した時代には間違いなく陸地だったと言う事に成ります。更に、それらの鎌倉市内の場所と同じ標高の茅ヶ崎市の地形は旧相模川橋脚とされる物が建築された時代には既に陸地だったと解り、その標高が相模川の河岸段丘面と同等の高さであれば相模川の本流が当時の段丘面を超える事は無いと言う証明にも成る訳です。
これらを確かめる方法が有ります。
迅速測図(明治時代の帝国陸軍測量図)
※歴史的農業環境閲覧システムhttps://habs.dc.affrc.go.jp/
GoogleEarth衛星画像
※小生はGoogleEarthPRO版を使用
※WEB版https://earth.google.com/web/
国土地理院色別標高図
※地理院地図電子国土web版https://maps.gsi.go.jp/では小生と一緒に材木座入江の名残りと当時の陸地と同じ地形を標高から特定して見みましょう♪

材木座入江特定 久良岐のよし
※上の画像をクリックして拡大して見て下さい♪
一番下の色別標高図で蓮乗院、元鶴岡八幡宮、甘縄神明社と同じ色の場所が鎌倉幕府が開かれる以前から間違いなく陸地だった場所です。
これを見ると解りやすいですね~♪
一番上の迅速測図で“材木座村”と表記された地区の南側に岩礁と砂丘が有り、横須賀線の線路辺りは陸地だった事が解ります、そして材木座地区の真ん中辺りに水色の地盤の窪地(くぼち)が有るのが一目瞭然ですねぇ~。
ツマリそう言う事。そこが平安時代の入江だった場所です。
材木座地区の海抜 久良岐のよしその周りの薄い黄緑色が湾を形成した陸地、水色の部分が古(いにし)えの材木座入江と干潟。
これで鎌倉時代、稲毛重成が“相模川”に頼朝公が暗殺されたかも知れない橋を立てた時代の海岸線が解りましたよね?
この材木座の入江が有った時代は現在よりも1~1.5m高い位置に海が有りました。
入江が消滅した時期ですが、大正時代の関東大震災では三浦半島は西側が50cm隆起して東側は逆に沈下しました。つまり1回大地震が起きると神奈川県の旧相模国域は50cm前後隆起する様です。
関東大震災よりも前の応長元年(1311年)に現在の金沢区長浜~並木地区に在った長浜千軒と言う大海運拠点が津波と記録される天変地異で海没しました。
応長の大津波で長浜千軒はずっと海の底に沈んだままだったので、津波ではない事が解ります。
そして津波なら反射津波が房総半島も襲撃する筈なのに千葉県側には全く記録や伝承が残っていません。
どうやら横浜市の屏風浦と言われた地形が大断層で海に面した地盤が沈下し海に沈んだだけの様です。
この時代は花園上皇と後醍醐天皇の生きた時代で当時の京都では大地震が起きた記録が有り8ヵ月間余震が続きました。
これにより延慶四年四月(1311年5月)に縁起が悪いので元号が応長に改元されました。
つまり応長大津波とされる横浜市金沢区沿岸を直撃した天変地異は先に京都で起きた大地震に連動して関東の地盤も動き三浦半島東岸の付け根の横浜市沿岸部が沈下した様です。
当然ながらこの際にも神奈川県域の相模湾側は50cm前後隆起したんでしょう。

以前、富岡八幡宮の解説⇗を書いた時に少し触れた事が有るので興味がある人は下のリンクから記事を読んでみて下さい。
さて、関東大震災と応長大津波でザックリ合計1m隆起したとして未だ完全に材木座が隆起するには届きませんね?他に地震が起きたかも見てみましょう。

仁治鎌倉地震・・・M7クラス
仁治二年四月三日(1241年5月22日)に発生し由比ヶ浜の大鳥居が流され大鳥居の場所に在った八幡宮の施設も消失。
永仁鎌倉地震・・・M8クラス
正応六年四月十三日(1293年5月27日)に大地震が発生し火災により建長寺が倒壊し火災発生、死者2万3千人。参考までに当時の鎌倉市中心部の人口は3万人と言えば被害規模が解りやすい。この地震は相模トラフが動いたと考えられているので“鎌倉時代の関東大震災”でしょう。
つまり、材木座に入江が有った時代から令和まで応長~仁治~永仁~大正と都合4回の大地震が発生し相模湾を直撃しており1.5m以上の隆起は余裕で有った可能性が高い訳ですね~。
では次に茅ヶ崎市~平塚市の方を見てみましょう~♪
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
今はこんな感じ。旧相模川の橋脚とされる遺跡は小出川沿いに有りますね?
この小出川を大正時代の沼田頼輔博士が相模川と言ってるのはオカシイと言った訳です。
衛星写真を見てみましょう。
橋脚向き 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
旧相模川橋脚と呼ばれる遺跡は、橋脚が1列3本10m間隔×4set有ります。この事から橋の長さが40m前後、川幅が30m前後と解ります。そう、小生と同じ事を皆さんも思うでしょう?
「あれ?相模川、こんな細い訳ねぇ~じゃん(笑)?」
「丁度小出川と同じ川幅くらいにピッタリの橋じゃん(笑)。」
・・・と大正時代の沼田学者様の説に小生の中では既に草が生え始めますwww。
では川幅を見てみましょう・・・
小出川川幅 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
うん、27.5mだね、だいたい30m(笑)。
最初の方でも触れましたが、鎌倉時代の川幅と流路、似たような地形の鎌倉市内でも余り変わって無かったですよね?
そしてこの橋脚を見ると解りますが何故か小出川に並行して有りますよね?
つまりこの橋を元に考えると小出川の旧流路がこの位置で右に切れてれば10中8~9は小出川旧流路に架橋された橋と言う事が見えてきます。
未だ皆さんに昔のこの一帯の地形を御見せしてませんでしたので、一緒に昔の地形を見てみましょう。
さて迅速測図の出番です。
小出川旧流路比較 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
※クリックして拡大して見て下さい。
現在、小出川の横の橋脚遺跡はニトリ茅ヶ崎店の真横に所在しています。
小生の予測はドンピシャ!
きっと皆さんも同じ事を考えたのではないでしょうか?

明治時代の流路も橋脚の遺跡の辺りで右折している事が解ります。
更に明治時代の流路が現在のニトリの前の道に成っているようですね。
現在直進している小出川ですが、これも藤沢土木事務所に確認済みです。
昭和30年代~40年代に河川改修工事によって直進にされたそうです。
そして昔の微妙な河川の位置のズレですが、橋脚の出現当時、現地は水田でした。河川敷の湿地が工作地帯に開墾されていた様です。つまり旧流路の誤差範囲内。
「おんや~?もうこれ、小出川の昔の橋でしょう(笑)?」
・・・と普通は思うでしょ?
次に相模川本流を見てみましょう!
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
小出川と目久尻川は河川改修部分以外の上流で大きな変化はないのに相模川本流はだいぶ現在と異なり真っ直ぐに成っていますね?
実はこれ・・・橋梁の遺跡が出現した際に関東大震災で河口部の砂丘が隆起して堰止湖が出来てしまったり水害の危険性が高まった為に大正時代から直進流路化の工事が行われたそうです。
これも茅ヶ崎市教育委員会から確認をとっています。
さて、先に長々と鎌倉市での鎌倉時代の陸地の標高の基準を解説しましたよね?
今度は平塚市域と茅ヶ崎市域で見てみましょう!
とその前に、先に鎌倉時代に陸地だった場所の色別標高図の色を思い出してみましょう。
材木座入江特定 久良岐のよし
鎌倉市⤴️
黄緑色
が陸地、水色が海。
茅ヶ崎市・平塚市⤵️
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし橋脚遺跡衛星写真 久良岐のよし
橋脚遺跡付近の色別標高図 久良岐のよし
御覧の通り、明治時代までは河口部分は複雑は汽水湖を形成していた湖沼地帯だった事が解ります。
そして、その地域を除いて相模川の東側は河岸段丘が有り、現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡の部分に相模川本流が鎌倉時代に流れていた事が有り得ないと言う事実が地形からも確認できましたね?
極め付きは、とどめの一撃に古墳時代に開かれた平塚八幡宮を表示して置きました。
そうすると平安時代以前の古墳時代に既に陸地だった地域が特定出来る訳です。
平塚八幡宮を基準にすると、現在の相模川東岸の北緯が橋脚遺跡と同緯度の地域は、平安時代末期には明らかに海岸段丘が存在した事が解りますね。そして相模川河口部分の蛇行してた旧流路や汽水湖だった部分も標高が低い地形として形が見えますね。
現在の柳島スポーツ公園総合競技場東側の畑地域と西側のゴルフ場、浜見平団地が汽水湖や干潟に成っていた湾部だった様ですね。ちょっと次の関東大震災で液状化が心配な地域でもあります。
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更に言えば液状化して橋脚が現れるのであれば、それは東日本大震災でも解ったように液状化により水が抜けた地盤沈下の影響なので一帯に他にも橋脚が有れば更に多くの橋脚が露出するので、この橋脚の本数が当時のままなのだと言う事も当然ながら周囲くまなく発掘調査されてますし推測出来ます。
つまり小出川の川幅は全く変わっていない訳です。平塚市河口付近海抜分析 久良岐のよし
ちなみに小出川と相模川の水面や昔の流路や入江だった地域の標高は1~3mです。
明治時代の陸地部分の海抜も概ね低くて5m~8mは有ります。
つまり現在は1.5m水位が下がってると考えて当時は4~4.5mの位置に水面が有ったとしてもやはり陸地だった事が解りますね。
平塚市河口付近海抜分析2 久良岐のよし
こちらは東西の地形の断面ですが、北緯が橋脚遺跡と同緯度の相模川は海抜1mとほぼ海面の海抜0mと変わらない高さで川底は深いままの様です。
つまり現在“旧相模川橋脚”とされる遺跡辺りは小出川の3mの水面に対して、相模川の1mの水面の位置では明らかに小出川が相模川が乗り越える事の無い河岸段丘の上を流れている事も解りますね。

やはり客観的に古墳時代まで遡(さかのぼ)って地形を見ても、現在、旧相模川橋脚とされる遺跡は・・・
相模川河口周辺地形 久良岐のよし
①小出川露出した橋脚の幅が川幅な訳だから正に現在の小出川の幅と整合している。
②ニトリと橋脚遺跡の間の道路が明治時代の流路で正に橋脚の列の向きとも仮定流路の向きもピッタリ整合し鎌倉時代の小出川の流路も明治時代の流路と同方向と考えるのが自然。
③鎌倉の材木座旧入江地区より上流の明治時代の流路を例にしても②を踏まえて相模川河口旧入江部より上流の小出川は余り変化をしていないと考えるのが自然。ただし河口部については地盤が砂丘だった為に浜見平団地の場所に有った湖では変化が多かったと推測出来る
④明時代に既に陸地だった地域の相模川の河岸段丘は古墳時代に開かれた平塚八幡宮や平安時代8世紀に開かれた三嶋神社と同程度の標高が有るので、昔の河口部の柳島~南湖にかけて存在した汽水湖部分を除いて鎌倉時代の相模川が橋脚遺跡の北緯以北で小出川に流れ込んでいたとは考え難い。
【小生の見解】
どうやら大正時代の沼田頼輔サンが旧相模川橋脚と断定した物は鎌倉時代も小出川にかかるだけの橋だった可能性の方が遥かに高そうと言うか、それ以外に無さそうです。
平塚市相模川河口(迅速測図)久良岐のよし
昔の幕末~昭和初期の近代の歴史学者さんって、よくこの手の事をしたみたいです。
なんせ判断材料が少なかったですからね、日本の発掘を主体とした考古学や地質学なんて明治十年(1877年)にモースさんが蒸気機関車に乗って新橋駅~初代横浜駅(桜木町駅)に行く時に車窓から大森貝塚を発見してから漸(ようや)く始まった位に歴史が浅くて未だ150年位しか情報の蓄積が無いですからね。だから未だに嘘か真か解らない文献考古学が中心で、学芸員サン達は古文書に書かれている事が嘘か本当か見抜く時代を超えた知恵比べを昔の人達としている訳です。
大和市の深見神社の社伝も神話時代の神様の話と古墳時代の人物を混同していたり全く海に成り得ない海抜標高80mの位置を海と断定したり・・・
横浜市戸塚区の徳翁寺は宅間上杉家の上杉乗国(乗忠)公の子、宅間上杉乗方(のりまさ)公の開基なのにも関わらず、この宅間上杉家の敵対勢力の山内上杉家を継いだ上杉謙信(長尾景虎)公の曾伯父(そうはくふ:曾祖父の兄弟)として意味不明な解説をしています。

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実際には上杉謙信は彼は実家が長尾家なので宅間上杉家と血縁は無いんですよ。
養子に入った山内上杉家に由来を求めても上杉謙信公の養父となった上杉憲政公の6代も前に上杉憲忠公が居ますが、この人物が別家の宅間上杉乗忠公と発音的には同性同名なので宣伝の為か間違えたのかは知りませんが混同して事が現代の歴史オタクには鼻の先で笑う位に間違った歴史認識である事が一瞬で見破れたりする訳です。
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宅間上杉乗国(乗忠)公は憲忠とは同一人物では無いですからね。
宅間上杉家の直接の祖先は京都の観修寺家ですし、宅間上杉家初代の上杉重兼公の母上と足利尊氏公と山名政氏公の母上が3姉妹で、その母達の実家が上杉家だったと言う程度の血縁です。
更に別流の犬懸上杉家から上杉憲政公の曾祖父の代前後に山内上杉家と血縁に成った人物はいますが、全然宅間上杉家じゃないですからね。特に江戸時代初期~中期と明治時代と昭和初期に書かれた古文書と論文には意図したデマと悪意の無い間違いがとにかく多い。
今回の“旧相模川橋脚”と決めつけられてしまった事は吾妻鏡を持ち出して文章の一部しか読まず地形を見なかった当時の沼田頼輔サンの検証不足の仕事の粗さが問題なだけ。

こんな事を小生も例えば寛政重修諸家譜の歴史人物の名前すら間違ってたり、江戸時代の役人が御寺に寺領を保証する朱印を発行する際に寺院名を間違って発行しちゃったり、昔の古文書の草書体を昭和初期の出版社が読めずに間違って違う漢字に誤植してしまったり、素人でも資料読んでて良く見つけるので、今回も御世話に成った色んな学芸員サン達から御教示頂いたり意見交換していると、本当に頭が下がるばかりです。
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特に茅ヶ崎市の現在の遺跡のレプリカ使って実物は水中に密閉する保存方法は、昔の人がコールタール塗ったくって雨ざらしにして腐らせた物を未来に繋ぐ改善を施し現代人にも展示を見られる様にしたファインプレイでしたね。
ただ茅ヶ崎市と言うよりは・・・
国の文化庁さん旧相模川橋脚と言われている場所は相模川じゃないですよね、何で調べないんで国指定史跡天然記念物にしたんでしょう?
別にここが鎌倉時代も小出川だったとしても、鎌倉時代の大規模橋梁が有った遺跡な事には変わりは無いのですから間違いを再検証し名称も変えるべきではないでしょうか?

さて。

今回、この地域を調べたり散策していて茅ヶ崎市教育委員会さんも一つ間違いが有る事に小生気づきました。
皆さん、まず江戸時代の風景画を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
この絵は東海道五十三次の一つ“南湖の松原左不二(富士)”と言う絵で、江戸時代の画家、歌川広重サンの作品です。
横浜の金沢八景とかの絵を描いたのも歌川広重サンで、我々神奈川県民には馴染み深い絵師サンです。
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鶴嶺八幡宮
(鎌倉の鶴岡八幡宮の前身)

凄く素敵な神社で、鶴岡八幡宮と同じく源頼朝公の御先祖様の源頼義公によって京都の石清水八幡宮から御分霊を勧進して開かれた神社です。頼朝公も崇敬したので御手植えの銀杏が有ったりします。
この鶴嶺八幡宮を鎌倉に遷宮したのが何と由比若宮つまり鶴岡八幡宮の元宮の元鶴岡八幡宮なんです。
なので鶴嶺八幡宮の別称は本社宮でした。鶴岡八幡宮の元の元と言う意味ですね。
そんな神社ですが、戦国時代に小田原北条家が豊臣秀吉公に敗北して改易され関西に移住すると大きな後ろ盾が無くなり荒廃してしまったそうです。
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幕末に皇女和宮様が江戸城に嫁ぐ頃に領主だった山岡家と鶴嶺八幡宮の別当寺だった常光院の住職によって、皇女が東海道を通る際に再整備した立派な参道が700m超の松並木に成っているんですね。
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この松並木の入り口に大鳥居が有ります。
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確かに、ここからは松と富士山が両方見えました。
この写真を撮影した位置に“南湖の松原左不二”の紹介の看板がありました。
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この場所を“南湖の松原左不二”の“松原”を鶴嶺八幡宮の764mの参道の松並木と想定している様で、案内看板が鶴嶺八幡宮の大鳥居の交差点の鳥井戸橋に設置されていました。
ただね、この説明は位置関係がオカシイんです。
もう一度絵を見て下さい。
Nango-HidariFuji~2
根本的に松原が左に曲がってますよね?
説明は鳥井戸橋の位置としてますが仮にこれが鶴嶺八幡宮の松並木だとしたら、大鳥居側から松並木に向かって先には鶴嶺八幡宮、そして富士山も一直線に無いとオカシイ事に成ります。
そして下町屋が無いとオカシイ事に成りますよね?では迅速測図で位置関係を見てみましょう。
南湖の松原左不二 久良岐のよし
赤線が鳥井戸橋から富士山が見える方角です。
残念ながら富士山を絵の方角で見ると鶴嶺八幡宮の松原は絵の右手側に伸びて行かないといけないのが解ります。
Nango-HidariFuji~2
ね~これ場所が違うでしょう?
でも、これ、小生場所特定しましたよ!
大正時代の沼田サンの間違い検証の参考に迅速測図を見まくってたら場所が解っちゃいました。
そもそも南湖の"松原"左不二(富士)なのに何で参道の“松並木”を比定しちゃったんでしょ?
松原と松並木は大違いですよ。
それに当時の地形は当時の地形に近い地図を見ないと位置関係も解らないでしょ?
では場所です。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
赤線が富士山の見える方向です。そして始点の‐‐‐‐‐‐で表示されている道の視点で現在の住宅を無視して地形だけの風景を見るとこうなります。
南湖の松原左不二特定② 久良岐のよし
この道路は1880~1886年に測量された迅速測図にも乗っている道なので歌川広重の生きた1797年~1858年の間の景色の道でもある訳ですね。では絵と見比べてみましょう♪
Nango-HidariFuji~2
もう、ここでしょ(笑)♪
歌川広重さん、又みっけ!
迅速測図でも松原の右手側に3軒並ぶ家が書かれてますしね~。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
この絵の構図の地点はGoogleMapの下の地点です。

現代では松原は伐採され住宅が建ち並び、ここに立っても富士山は見えないし松も無いでしょう。
そもそも皇女和宮が関東に嫁いで来た際には駿府の相模川の氾濫を東海道を通りませんでしたし、年代も文久元年(1861年)の事なので、それ以前に鶴嶺八幡宮の参道を山岡家と常光院別当の朝恵上人が再整備するよりも早い1858年に亡くなってる歌川広重さんが当時の様子を荒れてると表現されている八幡宮をわざわざ見に行く必要もなければ鳥井戸橋の辺りは畑と川しかない殺風景な場所で絵の構図に成らないんですよね。
南湖の松原左不二特定 久良岐のよし
ところが南湖地区の南には大きな砂丘が有り、更には南湖地区と桺島(柳島)村の間の小出川河口は複雑な形の入江の干潟が広がる汽水湖に成っている上に“松原が広がっている”訳ですよ。
小生も4歳から絵画と彫刻の塾に通ってたのですが、今も綺麗な景色が好きなので自分が当時の茅ヶ崎市に行けるなら間違いなく南湖地区を旅して恐らく“南湖(なご)”の由来に成ってる複雑な汽水湖の景色や砂丘と松原を富士山の写真を撮影に行くでしょうね。
地形、当時の道路、GoogleEarthでの検証画像、全て丸っとパキっとひっくるめてココでしょ、歌川広重さんの描いた南湖の松原左不二。
小生が仮称:南湖(なご:なんこ)とした手の平型の湖は干拓され現代では浜見平団地に成っています。
旧相模川橋脚(絶対違う)の解説で少し話しましたよね?
・・・次の関東大震災が来たら液状化が心配だって指摘した団地です。
さて、広重サンの構図、現代でも綺麗なんですよ、神奈川県が地形消滅する開発許可を出して無い場所ね、この南湖松原も消えたけど。
ちなみに三浦の秋谷海岸の立石公園も歌川広重さん絵に描いてます。
まぁ、遠い富士山を近くに拡大して書いちゃったり漫画みたいな技法を凄く使うんですけどね。
相州三浦秋谷
秋谷の里広重構図 久良岐のよし
これが歌川広重さんの構図、綺麗でしょ?
こっち⇘は小生が選んだ構図。
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小生が当時の人間なら歌川広重さんに、いっぱい教えてあげたい構図が有る(笑)。
でも、もしタイムスリップ出来るなら中学時代に戻れるなら教師と親の言う事聞かずに中卒で鎌倉の正宗工芸に入門して包丁作りたかったかなぁ~。
でも、そうすると高校やアルバイトや留学で出会った親友や大切な人達にも出会ってなかったから、これからの人生をどうするかの方がやっぱり大切かな?

願わくば歌川広重さんや葛飾北斎さんが描いた景色や、彼等偉大な絵師が見つけられなかった綺麗な構図の景色が、これからもずっと残って欲しいと願います。

綺麗にまとめようと思ったけどやっぱり最後に小生らしく追撃の一言。

旧相模川橋脚は相模川の橋脚じゃなくて小出川の橋脚だよ(笑)。
ただし、こうも考えています。
小生は個人的に当時は暴れ川で川幅も広い相模川を跨ぐ様な大きな橋は建設する技術や財力が稲毛重成一人で揃えれたとは思えません。
現在も地名由来には諸説有りますが平塚市側に“馬入”の地名が有ります。明治時代の迅速測図を見ても、そして現代でもその一帯の相模川には中洲が多く有り比較的浅い馬で渡れる程の深さの場所が有ったのかも知れません。
だとしたら・・・
現在の旧相模川橋脚は相模川の橋脚では無くて小出川の橋脚だったとは思いますが、源頼朝公が落馬したのは小出川の橋の上だったかも知れないかな?とは少し思います。

special thanks!
鎌倉市藤沢市茅ヶ崎市平塚市の学芸員さんや土木事務所や発掘調査会社の元職員の皆さんのローカルな情報提供と御紹介頂いた資料と郷土史話も検証で役に立ちました。
ありがとうございました~♪

では皆さん、又、次の歴史解説記事か休日雑記か綺麗な景色の紹介か御料理のレシピ記事で御会いしましょう~♪
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みなと湯
現代では希少なビジネス旅館みなと旅館の銭湯
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☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 ビジネス旅館みなと旅館の銭湯。
 共済病院前で御見舞い滞在に便利。
 タイルのモザイク画が可愛い
 鷹取山ハイキングコース近く。
 野島公園BBQキャンプ場近く。
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人470円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等浴室に有り
 使い切りシャンプー類販売有り
 レンタルのハンドタオル有り
 飲料販売有り
 ビジネス旅館併設
【電車】
 京浜急行追浜駅~徒歩8分
【  車  】
 駐車場若干有り
 周辺に有料駐車場複数
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
ーー入口~建物の外観ーー
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――番台――
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――更衣室――
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――浴室――
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横浜では少なくなった日本建築のビジネス旅館が運営する銭湯。
外観は日本風だが男湯と女湯でピンクと水色のパステルカラーに分かれていてタイルのモザイク画が可愛い~(笑)。しかし天井は高く昔ながらの風格と威厳有る建築に成っている。
老舗銭湯は据付のシャンプーとボディーソープが無い場所が大半だが、ここはビジネス旅館の運営する銭湯なので購入不要。突然行っても貸しタオルをレンタル出来るので、タオルを2本レンタルすれば持参しなくても大丈夫。
バスタオルは要持参。
立地的に野島公園のBBQ場から徒歩20分ちょと、神武寺~神奈川の景勝50選の一つ鷹取山の鎌倉石採石場跡や磨崖仏のハイキング帰りに立ち寄り入浴してサッパリしてから帰るにも丁度良い。鷹取山からは徒歩25分位。
近代には伊藤博文公が野島と夏島に滞在し大日本帝国憲法の草案を起草した。
実は平成世代には余り知られて無いが釜利谷~能見台~瀬戸神社~琵琶島~須崎や野島~六浦や内川周辺は江戸時代の歌川広重等が愛した景勝地で、見所が8ヵ所有った事から“金沢八景”の駅名由来に成っている。瀬戸神社と琵琶島辯財天は源頼朝公と北条政子様の御夫妻によって伊豆国一之宮三嶋大社と近江国竹生島辯財天が勧進され開かれた由緒ある神社で金沢八景駅前に存在する。
戦国時代にも太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公等が町屋町の龍華寺に滞在し周辺を楽しんだ事が現代に伝わり、昔は名将達のリゾート地だった。
その龍華寺の元の境内地が浄願寺跡と伝わった上行寺東側の丘陵の上で鎌倉時代末期には兼好法師の名で有名な吉田兼好も浄願寺に長期滞在した程の景勝地が、みなと旅館周辺の埋め立てられる以前の景色だった。
そんな訳で、現代では埋め立てられて景勝地ではなく成ったが、鷹取山~神武寺ハイク、野島公園BBQ、周辺の歴史散歩で汗をかいた後に立ち寄るにはもってこいの銭湯が、みなと旅館の“みなと湯”だったりする。

みなと旅館の直ぐ目前にはヘルニアの手術やスポーツ選手の機能改善治療で有名な横浜南共済病院が有るので、長期の御見舞いで滞在する場合の宿泊にも便利だったりする。

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