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タグ:武田信玄

Twitterで朝日寺サンと言う志田峠に在る御寺の方に武田家vs北条家の大合戦、三増峠合戦の経過を時系列で話す機会が有ったので、そのツイートを画像に切り取って転載しときます。
    武田軍       北条軍
武田菱vs 三つ鱗紋
兵力  20,000                  20,000

死傷    1,000                    3,000
武田信玄が北条家の息子達を翻弄し、北条家も局地戦で黄備え玉縄衆大将の地黄八幡北条綱成公が活躍した合戦なのに結構、歴史ファン入門くらいだと知らない人も多い名合戦なんだけど。
因みに話題に登場する主要人物紹介。
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ゲームの武田信玄⤴
肖像画の武田信玄⤵
武田信玄

北条氏康
ゲームの北条氏康公⤴
肖像画の北条氏康公⤵
北条氏康公
北条氏政
高嶋政伸サンの北条氏政公(笑)
丸に三ツ鱗紋玉縄北条家

隅立て四ツ目結び紋間宮家
蔦の葉紋臼居家


では以下Twitterからの転載です。
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神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
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・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
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昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
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玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
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黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
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今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
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この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
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ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
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そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
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小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
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多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
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このエリアにも玉縄桜が有ります。
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綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
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台湾原産の紅葉ばふう。
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そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
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熱帯植物の温室です。
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いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
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完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
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可愛らしい花も有れば・・・
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毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
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蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
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わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
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小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
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あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
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小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
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盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
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小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
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こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


皆さん、真田丸第2話を御覧に成って「物足りないなぁ~」とか思われたでしょうか?
あんまり歴史人物に御興味(ごきょうみ)が無い人は「合戦のハデなシーンを見たい!」とか思われて、多少つまらない回だったと思われたかも知れませんね…
が、しかし!
実は第2回目の放送は凄く大切な要素がドラマ中に再現されていたんですよ!

まぁ…
そんな要素有ったっけ?
…って思われる方もいらっしゃると思うので、2つの要点を下に書いてみます。

要点1つ目
●武田家滅亡直前、武田勝頼公は「鎧兜」に手を合せて拝んでいた。
武田勝頼
実はこの行為は武田家の文化を忠実に再現している三谷幸喜さんの演出で、極めて歴史考証を重視されている証拠でもあります。

要点2つ目
●小山田信茂だけが処刑された。
小山田信茂
実は、この2つは大きな意味が有りました。
「小山田が処刑されたのだからそりゃ、物語として重要だろう?」と思った方はズレています。
重要なのは、織田家重臣で出世頭の「滝川一益」公が発言した内容です。
「お前は自分から主人を売った裏切者で、織田家と徳川家から内応の調略(ちょうりゃく=勧誘)を受けた穴山や木曽とは違う」と、言う主旨の事を言われて処刑されていました。

今回はこの2つの要点の解説と歴史事実との整合性の検証、最後に鎌倉~横浜に関係した登場人物と俳優さんを紹介しようと思います。

この第2話では大半を武田家滅亡までの武田勝頼公御自身の武田家の文化や価値観を表した行動描写に費やし、残りを小山田信茂の処刑までの行動の演出に費やしていました。

先ずは要点1つ目、勝頼公の行動について解説します。
武田勝頼
皆さんは、武田勝頼公が御屋敷の中で鎧に手を合せて拝んでいたシーンを覚えてらっしゃいますでしょうか?
歴史に興味が無いと意味が解らないシーンだったので一応、御説明差し上げますと、武田家には伝来の家法が有りまして、それが「盾無(たてなし)」と言われる鎧です。
武田勝頼公が拝んでいたのが、その家宝の「盾無」です。
実は現在でも現存していて、盾無は別名「小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)」と呼ばれています。
これは山梨県甲州市の菅田神社にて現在も保管されています。
※山梨県神社庁のホームページ「菅田神社」ここクリック!

菅田神社の在(あ)る場所は現在の住所で甲州市塩山上於曽と言う地名なのですが、この上於曽の「於曽(おそ)」と言うのが地名であり、かつ武田家分家の於曽氏の苗字でもあるんですね。
そして、於曽家は武田信玄よりずっと前の歴代武田家当主から代々、この「盾無」の管理を任されていた一族でした。
江戸時代には盗難に遭って破損した事も有るそうですが、小生はレプリカしか見た事がありません。
では、五月人形作家の鈴甲子(すずきね)雄山と言う方の作られた端午の節句用のレプリカの画像を拝借して盾無とはどんなものか見て見ましょう。
※鈴甲子雄山氏の工房ホームページは「ココ」←クリック!
武田家家法「盾無」レプリカ
緑色ですね。
但(ただ)し実物は「鳩尾板(きゅうびのいた)」と「栴檀板(せんだんのいた)」と言うパーツが欠損しています。
この欠損した二つのパーツは肩紐(かたひも)と胴体を結ぶ部分に有る鎖骨を守る盾状の板の事です。
当然、実物の盾無鎧は国宝です。
武田家歴代当主が大切に守って来た鎧なのですが、実はこの菅田神社の盾無鎧、武田家の家祖で平安時代の名武将として名高い「新羅三郎」こと「源義光(みなもとのよしみつ)」公が着用していた実物だと伝わっています。
そして、この盾無鎧は武田家中では源義光公の化身の様に「御神体」として奉られていたんですね!
もう、ここまで説明すれば歴史に興味の無かった人でも解(わか)ると思いますが、ドラマ中に演出で武田勝頼公が盾無鎧に向かって手を合せ拝んでいたのは、御先祖様に対して御参りしたり誓いを建てているのと同じ正に神社で神様に参拝するのと同じ行為をしていた訳です。
これは武田家代々の伝統で、武田軍団は当主自らの出陣の前に必ず源義光公の遺品である❝盾無の鎧❞と❝日章旗の御旗❞の前で集合し、以下の言葉を述べる習慣がが有りました。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
つまり、❝御旗❞と❝盾無❞を完全に擬人化して神様として敬(うやま)っている事が良く解る逸話です。
これは角川書店が約30年位前に映像化した「天と地と」と言う川中島合戦の映画でも演出に登場します。
興味が有る人は、「天と地と」をレンタルして見て見て下さい。合戦シーンの迫力はたまらない映画です。

さて、この盾無を拝む文化が武田家に有ったから、真田丸での第2話の演出が有ったのは伝わったと思います。
ついでに兜と武田信玄の話しもします。
第2話では頻繁(ひんぱん)に❝虫の知らせ❞的な描写で武田信玄の霊が登場しました。
武田信玄
でも、この武田信玄像は現在では江戸時代に誤って伝えられたものだと判明しています。
先に「盾無の鎧」を説明したので、この武田信玄の容姿の誤解の元に成った「兜」の説明もしたいと思います。
現在、多くの人がイメージするこの一般的な武田信玄。
※武将画で有名な諏訪原寛幸さんの絵を拝借。
武田信玄(諏訪原寛幸氏画)
※諏訪原寛幸さんのホームページは「ココ」←クリック!
この赤赤しい(笑)武田信玄のイメージは誤りだった事が判明しています
「じゃあ、この赤い人は誰なんだよ(笑)?」
…って、成りますよね?実は、この兜は実在します。
「兜が実在するなら、この赤い人が武田信玄だろ!」
…って思うかも知れませんが、それでも違うんですね。
この武田信玄の真っ赤なイメージの元に成っている絵が現存します。
参考書籍が手元に無いのと絵が検索しても出て来ないので御見せ出来ませんが、ほぼ、上の諏訪原サンの書いた一般的な武田信玄のイメージと同じ色、同じ格好です。でも、鎧兜の家紋が武田菱じゃないんですね。
それは実際は能登国の畠山義続(はたけやまよしつぐ)の絵が誤って伝わったと判明しています。
それを、江戸時代に美術マニアの松平定信が❝武田と言えば赤備え部隊じゃね?❞と思ったかは知りませんが、武田信玄像として誤って紹介してしまったんですね。
この松平定信が誤認した事を証拠でもあり、事実誤認を助長した事実の証拠でもある物が有ります…
それが「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」と言う実在する重要文化財です。
武田信玄
武田信玄が被ってる兜、これが諏訪法性兜です。
諏訪法性兜は長野県の下諏訪町立諏訪湖博物館に所蔵
されていて、常設展示では完全なレプリカが置かれているので、どんな物か見学する事が出来ます。
※下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の公式ホームページは「ココ」クリック!
この諏訪法性兜、既に科学的見地からも製作年代は西暦1500年代と特定されており、武田信玄や武田勝頼公の時代と符合します。
つまり、武田信玄か❝武田勝頼公所用の可能性は無きにしも有らず❞な訳ですが…
しかし問題が有ります。
兜の飾りは江戸時代の物と、本体とは別個の鑑定結果が出ているんです。
つまり、江戸時代に成って追加された飾りである可能性が高いそうです。
この諏訪法性兜は、先代の諏訪大社宮司だった守矢サンの家系が代々保管していたのを、修繕や保護の観点から諏訪町で買取り現在に至ります。
更には、一般的に歴史好きの間では❝武田信玄着用では無く、武田勝頼公が着用されていた❞との意見も有りますが、それも事実上なんの伝承も無ければ証明する証拠も無いそうです。これは諏訪湖博物館の学芸員さんにも確認した事実です。
そして、もう一つの事実。
諏訪湖博物館所蔵の諏訪法性兜は、この武田信玄のイメージの元に成っている兜と❝うり二つ❞だそうです!
小生、諏訪にも御縁が有って若い頃に御世話に成っていたので諏訪大社も何回か御参りしてましたが守矢宮司に御会いする機会は有りませんでした…

実は小生、諏訪法性兜が武田家と無関係では無いとすると同時に、武田信玄の実像が「赤(笑)」では無いと言う歴史事実を同時に証明する証拠が有る事も偶然知っていました。
以前、横浜の殿様達が鎌倉の鶴岡八幡宮の再建をした事を間宮家の事績顕彰の中で紹介しましたが、その中に登場する横浜市南区と東京世田谷の殿様❝吉良頼康(きらよりやす)公❞が諏訪法性兜の問題と、武田信玄の実像を結びつける事実と深く関係しているので紹介したいと思います。
※間宮家顕彰記事は「ココ」 クリック!
下は吉良頼康公と伝わる人物画です。
武田信玄(誤伝:吉良頼康)
※ネットの借り物画像です。
しかし、この伝承は高野山の御寺が犯した誤りによって人物を取り違えられて伝えられた事が現代では判明しています
東京都世田谷区は小田原北条家の統治下の関東で、鎌倉公方の代行者も務めた吉良頼康公の所領だったのですが、その頼康公の家臣の大平家の奥沢城の城址に建てられた九品山浄真寺と言う御寺に、返還された可能性が有るそうです。
実はこの絵、現物は武田信廉(のぶかど)が描いた武田信玄の肖像画の写しなんですね!
武田信廉とは武田信玄の実弟です。
あれ?
なんか残念?
頭ハゲ上がってるし(笑)?威厳が感じられない?
しょうがないじゃん!これが武田信玄の実像なんだから!
この絵、武田信廉が描いた実物を近くで見ると、武具のありとあらゆる場所に「武田菱」の家紋が描かれているそうです。
でも、この兜の絵を良く見て下さい…
諏訪法性兜比較
比較してみると良く解りますが、江戸時代に追加されたと言う「前立て(兜の前飾り」や「ヤクの毛」を取っ払って兜本体だけを武田信廉の絵と比較すると全く同じでしょう?
つまり兜を比較すると、伝吉良頼康像の兜が諏訪法性兜であり、武田信玄の実弟が信玄を描いた肖像画だと言う証明な訳です。
武田信玄は赤い人じゃないんです(笑)!
では何で、現在の諏訪法性兜が「ヤクの毛」や「前立て」が追加されたかと言う疑問が残ります。
それは多分、こう言う事だと小生は個人の意見として纏めます。
①諏訪法性兜は毛が無いオーソドックスな姿の兜だった。
  ↓
②江戸時代に小瀬甫庵と言う適当な歴史小説を書く作家の小説が流行して武田信玄と言えば「赤備え」と「騎馬隊」と言うイメージが定着した。別に赤備えったって鎧兜全部真っ赤にする訳じゃないからな(笑)。
  ↓
③肖像画を保管していた寺が「②のイメージで適当に武田信玄だろ?」と畠山義続の絵を武田信玄と誤って比定してしまった。
  ↓
④江戸時代末期に諏訪法性兜を補修する際に、②と③の要因のせいで保有者が「修理」する心算で前立てとヤクの毛を追加してしまった。
  ↓
⑤江戸時代後期に松平定信が美術品の記録を編纂した際に、それまでの②③の誤りに加えて④の補修が入った姿の諏訪法性兜の模写した絵を見て、そういうものだのだろうと疑わずに、そのままの姿で諏訪法性兜の姿として確定をしてしまい、以後誤認された追加装飾品付きのままの姿で現在に伝わる。
しかし、本体は戦国時代から武田家当主所用の兜だった可能性は、吉良頼康と誤認されていた武田信玄像の兜との相似から高いと思われる。
以上で、武田信玄のイメージが誤りで、本来は髷(まげ)を頭に結った一見すると人の良さそうな外見だったと解ると思います。
実際は関東や信州で女子供を捕まえては奴隷として販売したクズですがね。
織田信長公は武田勝頼公の滅亡時にこう言う主旨の発言をしています「親(武田信玄)が悪逆非道な事をしたから子が滅んだ」と。
それは次の要点2に繋がる訳ですが…

では…
要点2つ目の解説に移ります。
小山田信茂
こいつ↑は処刑されたのに…
…コイツ等↓は処刑されずに誉められた理不尽。
穴山梅雪 木曽義昌
別にこれ、理不尽じゃないんですよ。
特に、ドラマ中で処刑を命じていた織田信忠公と、その御父君の織田信長公にとってはね。
織田信長 織田信忠
織田信長公は、若い頃に那古野(なごや)城主でした。
那古野城ってのは今の名古屋城の場所に在った、昔の城名です。
信長公が若い頃に一番苦労したのは、家臣の裏切りだった訳です。
自分の家老として父親から補佐役に付けられていた林秀貞(はやしひでさだ=通称:通勝)に裏切られ、弟と織田家の遺産を巡って殺し合いをする羽目に遭ったり。
信頼していた伯父さんに裏切られたり。
助けてあげたバカ将軍に裏切られたり。
正に、裏切られる人生を送った人物な訳です。
そんな人生を送った信長公ですから、小山田信茂の様に主君を差し出して来る様なクソ家臣は許せない存在だった訳です。
そして、横浜の殿様の間宮家と笠原家とも関係の深い名将:滝川一益公が織田信忠公と一緒に、小山田に処刑を宣告していましたが、滝川一益公が出世出来たのも実力も有るし織田信長公の家臣の裏切りが酷かった時期に、ずっと信長公を支え続けたからなんですね。
滝川一益
そりゃ、織田信忠公や滝川一益からすれば、小山田信茂は許せないでしょうね。
※この信長公の実像や価値観は以前記事にしたので「ココ」←クリックして見て下さい!
穴山と木曽は、織田家から内応しろと条件出されてちゃんと個人的に交渉した結果の織田家への鞍替えで、別に武田勝頼公を売った訳じゃないですからね。
…もっとも、小山田信茂は武田家臣じゃなくて武田家の盟友だったんですけれどね。織田家にとっての徳川家みたいな存在が武田家と小山田家の関係みないな感じだった訳です。
しかも!
小山田信茂は祖母が武田家から来た人物ですが、実は母親は記録上は不詳で伝承上では「笠原清繁(きよしげ)公の元妻」とも言われています。
要点1の〆で信長公の発言「親(武田信玄)の悪行のせいで子(武田勝頼公)が滅ぶ」と言うのは、実は小山田家の事を指しています。
この小山田信茂の生母と伝わる笠原清繁公の元妻ですが…
実は、武田信玄が佐久地方の笠原家を滅ぼした際に、その笠原家の領民や家臣の婦女子を奴隷として販売をしているんですね。信玄マジ鬼畜。
その時に奴隷として販売された笠原清繁公の妻は、小山田信茂の実父の小山田信有が奴隷の叩き売りで落札して買取り自分の側室にされたそうです。
仮に、小山田信茂の生母が笠原清繁公の元妻と言う伝承が実話なら、この信長公の発言は全てを表していると思います。
武田信玄が奴隷売買なんぞしていなければ、小山田信茂は生まれていなかった訳ですからね。
しかし
実際、この武田家滅亡の直接の原因に成った小山田裏切り事件、どんな処理がされたかと言うと織田家では小山田信茂の裏切りは卑劣として死刑を宣告しながらも、武勇名高い武将として小山田信茂を評価していた為か切腹させています。
つまり、武士としてメンツを保った処刑をさせた上に、岩殿城と小山田家領民へは乱暴狼藉していません。
だから、第三話に繋がると思いますが、小山田茂誠公が生き残り…ゲフンゲフン!
ネタばれに成りそうだから、歴史知らない人の為に書かないで置きます。

さて、こんな感じで要点の解説はご理解頂けたでしょうか?

今回は小生、横浜市民として第2回放送の登場人物が横浜に関係が有ったので紹介しておきたいと思います。
第2回では、徳川家康公の愛人の「阿茶局(あちゃのつぼね)」さんが出てきましたね。
阿茶局
この人は本来武田家滅亡の前後に徳川家康公の奥さんに成っているので、あのタイミングで家康公の傍にいたかは小生解りかねます。
しかし、阿茶局なんかどうでも良い(暴言)!演じた斉藤由貴さんは神奈川県立清水ヶ丘高校の出身なんです!
清水ヶ丘高校は現在では統廃合で「神奈川県立横浜清陵総合高校」に名称変更されていますね。
え?
だからどうしたって?ハマっ子の俺からしたら重要なんだよ!…俺とか言ってしましましたが、小生は「おぉっ!」と思ったんです、いろんな意味で。
だってね、斉藤由貴さんは49歳なんです。でも阿茶局はこの時点で27歳なんですよ。
齋藤由貴さんが27歳て(笑)。…お綺麗ですね。

で、もう一人、先に少し話しましたが、今回登場した滝川一益公。
滝川一益
実は我々横浜市民としては横浜の殿様と関係が深かった方で、格上の織田家にも関わらず横浜の殿様を御親切に上方で接待して案内して下さった恩人に当たる人物なんです。
その時に関わったのが横浜南部沿岸部の殿様で笹下城主間宮康俊公の実弟、滝山城主北条氏照公の付家老だった間宮綱信公。それと横浜市北部の殿様で小机城代で大曾根城主の笠原家の殿様です。
この間宮家と笠原家は主家北条家の出来事の節目節目で外交や宗教儀式で総奉行と奉行をペアで務めた、北条家重鎮の家系でした。
もっとも、間宮家に関しては北条家の親族の各武将に腹心として分散して赴任させらていましたので、間宮家が独自に軍事行動をする事はありませんでした。
●間宮康俊公→北条家最強の北条綱成公の付家老。→伊豆山中城で討死に。子孫は徳川家康公に仕える。
●間宮綱信公→北条氏照公の付家老。→徳川家康公の旗本に成る。
●間宮信繁公→北条氏康公・氏政公の直属。→徳川家康公の鷹匠頭に抜擢され関ケ原で諜報活動でも活躍。
●間宮信高公→間宮康俊公の子と伝承。北条家から武田家の水軍大将に転仕。→武田家滅亡後は徳川家で船大将を務める。
※不幸な話で間宮信高公は小牧長久手の合戦時に、徳川家水軍大将として滝川一益公の蟹江城を攻めて討死にしました。協力関係に有れば、きっと素晴らしい連携が出来たかも知れませんね。
そんな訳で、横浜の殿様に良くして下さった恩人が滝川一益公な訳です。
因みにこの間宮家の子孫には他に、風土起稿を編纂した学者の間宮士信、間宮海峡を発見した間宮林蔵がいて、一族の子孫には杉田玄白もいます。
そこら辺りの話は、きっと「真田丸」最終回辺りで徳川家康公が行う大坂城攻めの作戦に関わるので以前書いた記事を参考までに読んで見て下さい。
※間宮家と笠原家の事績は「ココ 」←クリック!

以上、「真田丸」第2回放送の解説と余談でした。



ブログネタ
神社・仏閣・パワースポット巡り に参加中!
滝山城と言う城址があります。
東京都八王子市に、それはそれは広大な規模で良好な保存状態を保たれた関東屈指の名城です。
後北条氏の一族の北条氏照公が築城し城主を務めた城で、築城当時は小田原城に匹敵する関東で1、2を争う規模を誇った大城郭でした。
現地、八王子市と有志の城址保護の取り組みは素晴らしくクオリティも高く、素人が訪れても各防御施設が解りやすいように絵図付きの看板が設置されています。
学術的にも意識が高い公開方法ですね。

入口は何箇所かありますが、下の写真の滝山街道沿いに在るワークマンと言う店を目印にすると良いと思います。
※滝山街道を紹介した前回記事は「ココ」←クリック!
そのすぐ横に入口の看板が有ります。
この目印の横には丁寧な案内看板もあり、更に城址の説明冊子も看板横のポストで無料配布されています。
ここに無くても城址の中の千畳敷や弁天池付近にも配布場所が有るので探してみて下さい。
こんな↓看板
国定公園にも指定されている部分と都立部分が有ったり、八王子市教育委員会と有志で調査したり連携がシッカリしてるみたいですね。
我が神奈川県や横浜市は…
東京都や八王子市と比較すると教育委員会の意識の低さと知識不足具合が恥ずかしいばかり。

では、まず、現地航空写真と比較する現地にある縄張り図をご覧下さい。


滝山城址は入口から関東の城好きが狂喜する保存状態で出迎えてくれます。
…いきなりの良好な保存状態の切通し。
そして、典型的な北条流の「食い違い虎口」、食欲に例えると、もうコレだけで白飯何杯でも食べれるレベルに歓喜しました。
食い違い虎口と言うのは直角S字クランク状に進入路を削り込んだ入口で、入って来た敵兵は常に正面から弓矢や鉄砲で射撃されてしまう防御構造なんです。

しかし…
小生が今迄のブログで紹介した城址と違い、この滝山城址は一々記事で説明しなくても現地に詳細な「施設図解看板」が有るので、その写真を沢山載せた方が解りやすいかもしれませんね。

とりあえず、図解の無い場所は解説します。

入口の食い違いの切通しを抜けると右上の一段高い場所が三の丸跡です。
三の丸には城址に良くあるお稲荷さんが鎮座してました。
 
 
登城できた事を感謝してきました。
親切丁寧ですよね〜?
この様な看板が随所にあります。
どうやら、さっきの食い違いの切通しは天野坂と言うらしいです。
きっと天野サンと言う北条氏照公の部下がいて、あの付近に屋敷が在ったんでしょうね。
天野家と言えば伊豆国出身の鎌倉武士の家系であり今川家の重臣でもあったので、北条早雲公が伊豆を手中に収めた頃に伊豆の在地の天野家子孫か、今川家臣天野家の分家が北条家の家臣に成ったいた可能性は非常に高いと思います。

因(ちな)みに滝山城の事ですが、アホなWikipediaには武田信玄2万に三の丸まで攻め込まれ、3千で守る滝山城は「落城寸前に追い込まれた」とか書いたド阿呆編集者がいますが、逆に現地見ると…
「あ〜武田信玄は大軍で入口しか落とせなかったんだな〜」
…と良く解ります。
Wikipediaに適当な記事を書いたアホは恐らく現地を一度も訪れた事もなければ滝山城址の「縄張(なわば)り図=城の見取り図」すら見ないで適当に書くような人物なんでしょう。
しかも、滝山城は三の丸を過ぎてからが殺傷能力の高い防御構造のオンパレードに成るんです。
「武田信玄、三の丸より内側は落とすどころかお手上げ状態だったんだな」
…と、良く解ります。

入口の天野坂の左手には、北条氏照公の家臣小宮家の屋敷が置かれた小宮曲輪(くるわ)」と言う施設が待ち構えています。
この小宮曲輪、風化した現在でさえ、掘り底〜曲輪の土塁まで高さ10m以上有ります。
当時は空堀は更に1〜2m深く、土塁も1m以上は高かったはずなので比高13m位、つまり3F建てのビルの屋根位の高さが有ります。
※小宮曲輪上から↓下を見た写真
深い空堀と切岸と土塁の小宮曲輪を侵入者は登る事も出来ず、道なりに進むしか無く、曲輪上の守備兵から雨あられと矢弾が放たれハリネズミみたいに串刺しにされる訳です。

その先には第二関門の「枡形虎口(ますがたこぐち)」が待ち構えています。

今は土塁が有りませんが、ここに行く手を阻む枡形虎口の食い違い状の城壁が有りました。
ここまで攻め込むと三の丸を落とせます。
逆に言えば武田軍はこの先に進めなかったと言えます。

さて、ここを抜けると小宮曲輪への進入路と弁天池の跡が在ります。
下の写真の窪地が弁天池の跡です。
実は、この弁天池と大池の2つの池が北条氏照公の内政力の高さを示す証拠なのですが、先ずは弁天池の名前の由来から説明します。

北条家は相模国を本拠地とする武家なので、鶴岡八幡宮や関東武士団の礎を築いた源頼朝公や鎌倉武士の文化を引き継いでいます。
現代でも鎌倉武士の居た地域には必ず「御霊神社」か「八幡宮」か「弁財天」の神社の何れかが有ります。
ですので、源頼朝公や鎌倉武士団がそうであった様に、北条家も江ノ島弁財天や鶴岡八幡宮の旗上弁財天を自領に勧進(かんじん=末社を作る)して信仰していました。
江ノ島弁財天は日本三大弁財天なので、とても御利益有りますしね。
滝山城の弁天池跡、発掘調査の結果、真ん中に島の跡があり名前の通り「弁財天」を祀(まつ)っていた事が判明しています。
次は弁天池が何故、北条氏照公の内政力の高さを示す証拠に成るかですが…
実は、北条氏照公、滝山城を本拠地にしていた頃に新田開発にも力を入れていた様なんですが、水田の水量を必要に応じて安定供給出来る様に弁天池と大池の水を灌漑用水として放水する政策をとっていました。
この効果で、麓(ふもと)の灌漑水田のある村は他の領域内の水田より石高が高かったようです。
戦国時代に新田開発をする武将自体が稀(まれ)で、それだけでも内政力を評価出来るのですが稲作の灌漑技術向上を目指した武将は余り多くは無いんですよ。
北条家の宿敵武田信玄と、北条氏照公は水と油の関係でしたが、どちらも政治力は高かったんですね。
武田信玄の場合は治水と生産力向上を、河川の流路を変える事で実現しました。
これは、甲州も八王子も水害に遭いやすい事や水田に適さない土地が多く苦慮した結果の技術向上だったのかも知れません。

さて滝山城址に話題を戻します…
小宮曲輪入口と反対、弁天池を右回りに進むと三の丸の上から千畳敷と呼ばれる曲輪に繋がる「コの字型の土橋」と食い違い虎口が侵入者の行く手を阻みます。
「土橋(つちはし)」と言うのは、文字通り「空堀に通路として削り残した土の橋」なんですが、滝山城のここの「コの字型の土橋」はかなり特殊で、他の城には余り有りません。
横浜市港北区小机町にある同じ北条家の小机城には「十字状の土橋」が有りましたが、やはり、この複雑な構造は築城名手北条家独特の防御施設であり、高い攻撃力を備えていました。
※小机城記事は「ココ」←クリック!

※ピンクのは小生の携帯外部バッテリー
写り込みすんません。

コの字型土橋の上から進行方向千畳敷を見る。
このコの字土橋、当時は当然今より高く道幅も狭かったはずです。
見て貰えば一目瞭然ですが、侵入者はいくら大軍でも土橋を渡る際には細長く隊列を整列しなければ通れません…
しかも、常に正面の防御施設の土塁に並んだ木盾や竹束(たけたば)の隙間から、防衛側のスナイパーが弓矢や銃で狙撃してくるので侵入者側は大損害を受けます。
北条流の築城術は、この構造を多用します。
そして、伝承によれば武田信玄は2万の大軍でも三の丸までしか落とせなかった…
つまり!この「コの字型土橋」より先に進む事は出来なかった訳です。

この先に千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。

名前と広さからして、ここには殿様や奥方様の居住する御殿や、部下と政務を行う事務所や使者と謁見する応接間が有ったのかも知れません。

この千畳敷と次の二ノ丸を繋ぐのが「馬出し」と言う施設です。
下の写真は典型的な北条家の馬出しの「角馬出し」と呼ばれる、防御 兼 出撃用の城門です。
この復元予想図が下の案内板。

この馬出し、当時は土塁があり、この場所からも侵入者を狙撃出来た訳です。
徳川家康が大坂城を攻めた時に、真田幸村が大坂城総堀に築いた出城と言われるのが巨大な「武田流の丸馬出し」で、やはり絶大な防御力=殺傷力を発揮しました。
因みに小田原城に苦戦した豊臣秀吉は、自分が大坂城を築く時に、北条流の築城術を取り入れ大坂城に総堀を築き、更に北条流の「障子堀」にしていました。


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ブログネタ
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滝山街道と言う道が東京都八王子市に有るのですが、戦国時代に武田信玄が東京神奈川方面に略奪の為(ため)に攻めのぼって来る道でした。
武田信玄や上杉謙信って実は南関東の農民にとっては、鬼畜以外の何者でも無い存在だったんですよ。
冬に成ると略奪に来るんです。

上杉謙信のお家芸は略奪よりも人身売買でした…
合戦するたびに兵士達に婦女子を拉致させては奴隷公設市場を開いて人身売買していました。
鼻から関東管領の職務を全うする心算が無かったみたいですね。
茨城の小田城なんか悲惨な状況だったみたいですね。
彼が「義の人」と呼ばれたのは、室町幕府13代将軍足利義輝公から「忠義」を褒められたからで、「正義や仁義の義では全くありません」でした。

武田信玄については多摩地方の伝承にはこんな言葉があります…
甲州人の通った後には草も生えねぇ!
…どんだけ酷い略奪だったか伝わりますよね。

で、その武田信玄がよく略奪に来た場所が今の滝山町を含む八王子市や相模原市辺りなんです。
その滝山町には滝山城と言う名城と、城主の北条氏照(うじてる)公が開基(建設する事)した少林寺と言う御寺が有ります。
武田信玄が2万の大軍で滝山城に侵攻したものの、たった3千で守る北条氏照公の前に入口の三の丸迄しか進入を許さず防戦に成功した堅城でした。
しかも八王子市は史跡保護に熱心なので、滝山城址はかなり広大な規模で良好な状態で保護公開されています。
今回は滝山古道の事を話すので、少林寺と滝山城については又、次回にブログ記事にします。

滝山城や少林寺を見学に行くと、必ず通る道なのですが、今日は思いがけず恐らく戦国時代の滝山街道と思(おぼ)しき道を見つけたので、そこを写真付きの記事で紹介したいと思います。
その道を歩きたい方は、ここを目印にすると探しやすいですよ。
少林寺の入口、お地蔵さん達がいる辺り…
「不許葷酒入山門」の石碑。
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
「飲酒の上で寺に入る事は許さない」
…うん、素晴らしい。仏教の本分を守っている寺院ですね。「※訂正報告※小生ずっと「葷」を「当の旧字体」と見間違え恥を晒しておりましたが、神奈川区の人生の先輩より善意の御指摘を賜り訂正した事を書いて置きます。恥を無かった事にしては進歩無いですからね。」

つまりね、初詣なんかで寺の門前町なんかで酒飲んでから参拝する人がいますけど、アレは仏教的には禁忌を犯してるんですよね(笑)。
…まぁ、神社なら飲酒は失礼では無いんですが、そこら辺はちゃんと区別しないと、初詣するくらい神仏信じてるなら飲酒してから寺院参拝はバチ当るかも知れない。

さて、お地蔵さんの前を真っ直ぐ突っ切ると現在の滝山街道が有りますが、その手前に私有地みたいな路地が有ります…
この道。
何か庭みたいに見えるけど、歴史オタクの感が…
「この道幅とクネリ具合は旧街道くさい」
…と言ったので、滝山城址行くまで、この道?を歩いてみようと思いました。

で、その右手滝山城の丘の裾野に延びる道?を歩くと直ぐに、そこが旧街道である証拠が登場しました。
一段高い場所に小さな御社が有ります。
昔の人は街道沿いの少し高い場所に御社や、お地蔵さんを祀ったものなんです。

で、その庭化した様な道みたいな場所を過ぎると完全に旧街道の形状を残す場所に行き当たります。
昔の街道って河川の氾濫で被害を受けにくい様に少し高い位置に置かれたものなんです。
道幅もこれくらいなんですよ!
現代人の感覚だと狭いですよね?

「鎌倉古道」や「鎌倉武士早駆けの道」、箱根の「旧東海道」も道幅はこれくらいです。ただ、平安~鎌倉時代に開かれた道は尾根沿いが多かった。
これは当時の気候に関係が有ります。
弥生時代に近い程、時代を遡(さかのぼ)る程、海の位置が高く内陸まで海面が広がっていたり水の影響が人の生活範囲を限定してたんです。

室町時代~江戸時代くらいは、こんな河原より一段高い場所。
旧街道から私有地の向こうには今の滝山街道が見えます。

明治時代に成ると馬車道に成り、馬車に合わせて急勾配を避けた遠回りの道が多く成りました。
…馬が坂道で耐えらんないからね。

多分、この旧街道、明治時代に成るまで使われていたんだと思います。
並木が有りますしね~。
この並木の樹木は若いです。
昭和に植林されたんだろうけど、昔から杉を街道沿いに植える習慣が有るなら、江戸時代に始まった習慣ですから。
織田信長公は戦国時代に既に並木を街道沿いに設置してましたが…
北条家でその類の逸話は聞いた事がないので関東では江戸時代からの習慣。

そこを過ぎると学校の敷地に行き当たります。
道も左に急カーブし今の滝山街道に戻されます。
アレ?
…何か不自然だなと思い、道をカーブした所まで戻るとなるほど理由がわかりました。

旧道は学校に一部分払い下げられコンクリートに侵食され歩く人がいなくなってるんですね、多分。
※ピンク色の写り込みは小生の携帯外部バッテリー

しかし、この学校敷地横の登り坂、旧街道から続いていたと思われる並木が続いています。
で、この坂は旧街道だと予測して突っ込んでみたんですが…
先で完全に学校の物置場にされていて進入すると怪しい人になるんで、ひとまず断念し今の滝山街道に出ました。

でもね!
土地の登記簿見れば多分、「道」って書いてあると思いますよ!
学校が歴史を知らず不法占拠してるか、さもなくば現在の滝山街道が整備された時に払い下げられたかのどちらかでしょう。

今の滝山街道に出たら出たで楽しいモノを見つけました!
乗馬クラブがありました。
まさか、こんな街道沿いに有るとは…
土曜と言うこともあり、沢山乗馬してる人がいました。
旧道沿いに純真女子大ってのが有ったから大学生も多く通うのかな?

で旧道散策に話を戻します。
この時点で旧道散策まだ諦めきれない小生…
乗馬クラブさんが道を挟んで納谷(なや)代わりにしている建物の横に、道の名残りを見つけて入ってみるとビンゴ!
さっきの学校の敷地の方から伸びてくる路盤(ろばん)がまだ有りました!
この道の状態から察するに、この道が使われなく成ってからまだ日は浅そうです。
多分、あの学校の拡張工事が行われたであろう何十年前のつい最近の話でしょうね。

しかし、この先は完全に道は消失し墓地化したりしていたので室町時代~江戸時代の旧滝山街道散策はひとまずこれまで。

最初の方で「平安時代~鎌倉時代の道は尾根道だらけ」と言う話をしましたが…

実はその平安時代の道も今回見つけてきました。

…と、言っても滝山城址のある滝山の尾根全体その古道の尾根の一部分なんですが。
その事は滝山城の一部分でもある御嶽神社(みたけじんじゃ)に行くと解ります。
今の滝山街道を右手に滝山城址の丘を見ながら歩いて行くと途中、山裾に御嶽神社の入口を見つけれます。
近くに金藏寺ってのが有るはずで…
…したが有りませんでした!
地図上には金藏寺って御寺が有りますが、事実上の廃寺みたいで御堂がないのでランドマークにはなりませんでした。

ですから頑張って御嶽神社の入口石碑を見つけて下さい。
後の時代に作られた急な階段を登ると尾根道の左手側に、御嶽神社は在(あ)りました。
厳粛な雰囲気ですね。
本堂は最近建て直したようです。

この神社の由来を書いた石碑を読むと、滝山城築城以前は付近の丘一帯が古道だった事が解ります。
何故なら源義家公の逸話が記載されてまして…
少し、その話をからめて説明します。

この御社(おやしろ)の本堂は元は蔵王権現堂(ざおうごんげんどう)で、蔵王権現と言う日本独自の神道と仏教が融合した神様を祀っていました。
その蔵王権現って神様は南北朝時代に後醍醐天皇が御所にもした奈良県吉野の金峰山寺の本尊でもあるらしいです。
因みに、滝山町の金藏寺、昔は聖徳太子が作った仏像が御本尊だったらしく元は由緒ある御寺で、御嶽神社の別当寺でもあったらしいです。
ここの元「蔵王権現」の御嶽神社で石碑を読めば解ります。

この御嶽神社=蔵王権現堂は元々、滝山城に在りました。
…滝山城の曲輪(くるわ=防御施設)の名前からして「山の神曲輪」に在ったんだと思います。
もしくは本丸かな?
そこから移築されたんですが…
元の場所に在った時代、鎮守府将軍 源義家 公が立ち寄られ社殿を再建奉納し中興(ちゅうこう=復興)しているんです。
つまり前九年後三年の役の軍事行動の際に、ここ滝山城跡が尾根道の街道で、義家公が通ったと理解出来る訳です。

滝山城散策で御嶽神社をついでにお参りする心算が、思いがけない碑文に出会い大変嬉しかったですね~。
石碑を立てて下さった氏子さんに感謝!

義家公も関わられていたり、蔵王権現信仰の史跡でもあり滝山城址、本当、歴史的な価値が高い場所ですね。

では、次回は滝山城址そのものの記事を書きます。
今回はここまで!

平良文(たいらのよしふみ)公と言う平安時代の皇族臣籍降下武将をご存知でしょうか?
今の藤沢市村岡を本拠地にされ、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)や陸奥守(むつのかみ)を歴任された名将です。
今現在、御廟所は藤沢市の二傳寺(にでんじ)に在(あ)ります。
この↓御寺
良文公の御子孫は日本全国で有力大名や各大名の重臣に成りました。
その一部有名な方を数名あげてみましょう。
※良文公については別に「永谷天満宮(←クリック)」に関するスレでも紹介しています。
●鎌倉景政公
…関東では鎌倉市坂の下の御霊神社の御祭神として祀(まつ)られ関東全域の御霊神社で崇めらている。源義家公の与力の名将。
鎌倉御霊神社(←クリック)は別スレで紹介しています。
●上杉謙信
…元の名前が長尾景虎で鎌倉氏の分家の長尾氏の生まれ。長尾氏のルーツは横浜市栄区長尾台にあった長尾城址で、長尾城址は戦国時代に玉縄城の一部だった。
上杉謙信は言わずと知れた野戦で最強だった名武将。
長尾城址(←クリック)は別スレで紹介しています。
●大庭景義公
…源頼朝公の父君源義朝公の与力として活躍した武将で、藤沢市大庭城を本拠地にしていた。保元の乱で膝を負傷し弟の大庭景親に党首の座を委譲し茅ヶ崎市に居館を構えた。
●梶原景時
…源頼朝公に一番忠誠心が高く陰謀に長けた武将で敵勢力の有力武将や頼朝公に忠誠心の薄い武将の暗殺を実行した。源義経との仲が悪く讒訴した事でスッカリ悪人評価が定着。鎌倉幕府内でも嫌われ者に成ってしまった。徳川幕府における本多正信的な存在。昼ドラでヒロイン虐めるライバルみたいな扱いをされているが子孫に名将も多く、子の梶原景季や小田原北条家の水軍大将梶原景宗などがいる。
●三浦義明公
…言わずと知れた源頼朝公の一の与力。頼朝公の石橋山合戦に参加すべく三浦半島の横須賀市衣笠城で呼応し挙兵。援軍に行くも間に合わず、一族を頼朝公に合流させるべく房総半島に逃がし一族で一人だけ衣笠城に籠城し平氏軍を釘付けにし玉砕した。
衣笠城址の近所には源頼朝公が三浦義明公の菩提を弔う為に開いた満昌寺が在る。
衣笠城址は別スレで紹介しています。
満昌寺は別スレで紹介しています。
●千葉常胤公
…千葉県の県名の由来に成っている源頼朝公の与力で房総半島を束ねた名将。
●畠山重忠公
…良文公の子孫の秩父平氏の更に子孫で、源頼朝公に最も信頼され坂東一兵(つわもの)と言われた。北条義時の謀略により二俣川で討ち死にする。
子孫は関東管領上杉家の重臣豊島氏がいる。豊島氏は戦国時代初期の大名で領地は東京都豊島区北区を本拠地にし、横浜市北部まで及び、拠点は現代の石神井公園にあった石神井城だったが、扇谷上杉家の執事で名将の太田道灌公と対立し最後は横浜市港北区の小机城址で滅亡した。
小机城(←クリック)は別スレで紹介しています。
●佐原義連(さはらよしつら)公
…三浦氏の分家の佐原氏の人物で、今の横須賀市佐原城址を本拠地にした武将。源義経の活躍した神戸市福原攻めで勝因と成った「鵯越の逆落とし」奇襲を立案した名軍師。分析力に優れ、一族の和田義盛公や本家の三浦義村が北条義時の陰謀に次々と滅ぼされる中、北条義時と上手く距離を測り鎌倉幕府内で生き残った。彼のお陰で佐原氏が存続し三浦家の血筋が絶えずに済んだ。佐原氏の開基した清雲寺は三浦一門の菩提寺として現在も存続している。
清雲寺(←クリック)は別スレで紹介しています。
●正木時茂公
三浦氏の分家佐原義連公の更に子孫の相模の戦国大名三浦時高の孫。戦国時代房総半島の名将で里見八犬伝で有名な大名の里見氏の盟友。
水軍を率いて父祖の故地である三浦半島の城ヶ島に上陸すると短期間で三崎城〜鎌倉市街までを制圧した軍才に秀でた武将。戦死した国府台合戦でも小田原北条家を散々に痛撃した。玉縄城主北条綱成公の迂回奇襲に敗死するも朝倉宗滴から織田信長公等名将と並び称せらた名将。
●和田義盛公
…三浦氏の分家で、鎌倉幕府初代侍所所司。彼の築いた怒田城の縄張りや野庭城の立地を見ると、鎌倉時代に既に戦国時代の様な山城を築城し尚且つ主要街道や港湾の入口を見事に抑えており軍政家としての手腕が高かった事が垣間見える。
また彼は平安時代の武士の中でいち早く街道に関所を設け通行税を徴収するなど
、経済政策能力にも長けていた。
●葛西高清
…平良文公の子孫の秩父平氏の子孫、その中で今の葛西臨海公園辺りを治めたのが葛西氏。その後、室町時代には宮城県北部〜岩手県南部を治める30万石相当の大大名に成っていたが、葛西氏は伊達政宗の軍門に下り没落した。
●朝比奈泰朝公
…和田義盛公の子、朝比奈義秀公の子孫。今川義元家臣。朝比奈義秀は和田義盛公と元:源(木曽)義仲の奥さん巴御前との間に生まれた猛将で和田合戦で散々に北条家の武将を追い詰めたが敗戦、逃亡した。子孫の朝比奈泰朝公も祖先よろしく名将で、没落した今川家を最後まで支え掛川城に籠城し、実に5ヶ月間も徳川家康の猛攻を耐え抜き和議を引き出し暗愚な主君今川氏真の命を守り切った。
●芦名盛氏
…和田義盛公の子孫で祖先は三浦半島佐島マリーナ近くの芦名城址を居城にしていた。芦名盛氏は今の会津若松城を本拠地にしていた大大名で伊達政宗のライバルだった。他国と外交で伊達政宗を孤立させ窮地に追い込んだ名将。

歴史の教科書に載る超有名人物とゲームに登場するようなメジャー武将だらけですね。
源家が鎌倉幕府を開き日本全国を統治出来たのも、その与力武士団として平良文公の御子孫が加わり戦で活躍されたからなんですね。

さて、平良文公の御廟所ですが、冒頭で紹介した通り二傳寺の中にあるのです。

この石碑の裏山に御廟所があります。
お姿を拝みたい方はどうぞ御自分でお参りしてみて下さい。

実はこの御廟所、二傳寺のご住職のお話によると標高が藤沢市内最高地点で相模湾防衛に適した場所だそうで第二次世界大戦のおりにも米軍の首都上陸は相模湾から行われる事が想定され陸軍が二傳寺の廟所に砲兵を配置していたそうです。
そして実は戦国時代も武田信玄や上杉謙信を撃退した玉縄城の一部の二傳寺砦として機能していました。
玉縄城(←クリック)については別スレで紹介しています。
流石、醍醐天皇の信任厚く鎮守府将軍や陸奥守を歴任された名将…
はるか昔の平安時代に戦国時代ばかりか近代戦争にも通用する防衛拠点になり得る村岡郷を本拠地されるとは…。

みなさん、平良文公がいらっしゃったお陰で鎌倉幕府が成立し、生粋の日本独自の武士文化が発展したんですが…
神奈川県や東京都、千葉県の今日の発展の基礎を作って下さった平良文公の事と御廟所のある二傳寺と居城の村岡城址を頭の片隅に留め、近くに立ち寄った際は是非!御墓参りし感謝を心の中で良文公にお伝えしてみませんか?

因みにご住職は御多忙な方ですが、明るく優しい気さくな方で、村岡の地勢を詳しく説明して下さいました。
御近所には玉縄城主北条綱成公が開基された龍宝寺と、徳川家康が鷹狩の拠点に利用した長尾家の菩提寺久成寺もあります。玉縄城址探訪として3つの名寺を合わせてお散歩訪問されても有意義かなと思います。
御近所には大船フラワーセンターもありますよ〜!

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