歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:武田信玄

こんな武士の動画⤴️がオススメに表示されたので一頻(ひとしき)り見てみたら商業的な事実と異なる演出のせいでツッコミ所しか無かったので、武士の現実を拡散したいと思います。
【武士の戦い】
武士の標準兵装は弓です。
槍は降りて使います。
馬上槍は曲芸披露くらいしか見せ場有りません。
騎乗しても速歩もさせません。
騎馬武者突撃は下級領主が個別に敵陣の眼前までゆっくり進み出てから敵陣の前で漸く駆け出し騎射で敵陣をスナイプして敵将を射撃し即離脱します。
流鏑馬を思い浮かべて下さい。
真っ直ぐ突進するのでは無く射程距離に入る時だけ早駆けしUターンして丁字に成り射撃し即離脱する、敵陣の弓の射程距離に入るリスクを時間的に減らすスキルで高度な乗馬と弓射技術を要します。
通常は現代人で下馬尚且つ静止状態での精密射撃が50~90mで競技化されていますが、鎌倉武士団は普通に80mを射抜き更に弓の使い方で射角を撃ち分け放物線状に射ぬいて後列の武将を射殺したり複雑な事も出来たそうです。
源頼朝公 拝借画像 久良岐のよし
源頼朝公が石橋山合戦で旗揚げした際に陣地で中心にいるはずの大将なのに今の北鎌倉駅辺りに住んでいた武将の首藤経俊に鎧を射抜かれたり、南北時代の新田義貞が眉間を射抜かれ絶命したのは、この様な現在では失われた武士の高度な弓射技術が有ったから起きた事なのかも知れないですね。
接近戦では山岳戦なら真田義忠公と俣野景久公の様に武将同士が最初から組打ちに突入しますが、野戦なら馬上の武士が太刀で敵を殴りつけ落馬させ複数の従者が一斉に薙刀を突き刺したり、坂東武者は馬上の主人と別に馬自身も敵の馬に蹴りかける等、兵器化していました。
KIMG3158
因みに、真田義忠公や源頼家公の遺児の公暁を打ち取ったのが上杉謙信公の祖先の長尾新六定景公で、戦国時代の玉縄城内に当たる鎌倉市植木の久成寺が定景公の菩提寺です。
上杉謙信
上杉謙信(長尾景虎)公の軍団も武田家と並び立って強かったのですが家臣団はいずれも鎌倉武士団の生き残り、それも鎌倉幕府を開いた武士団の子孫が主力です。
有名な宇佐美定満も室町時代に上杉与力として越後に移住した代表格です。
斯(か)く言う長尾家自体が源義家公の配下の名将の藤沢市村岡城主の鎌倉景正公の子孫で横浜市栄区長尾台の長尾城を本拠地にしていた一族だったりする訳です。この長尾城も戦国時代の玉縄城の一部に組み込まれています。
正に長尾・武田両家が鎌倉武士の家系の家臣団を抱えたから織田軍は当初手も足も出なかったのかも知れませんね。

武田家の弓矢の鏃(やじり)は刺さるだけでなく殺傷力の高い筋肉を切り刻む構造や複雑な反(かえ)しで一度刺さるとヤットコ(ペンチ)でも引き抜いて治療出来ない筋肉を巻き付ける構造や様々なバリエーションが存在しました。
極め付きに鏃自体を矢から抜け易くしておいたそうです。
もう現代の外科医でも後遺症残らず外科手術を成功させるのは困難なレベルかも知れませんね。
1280px-Battle_of_Nagashino~2
だから長篠合戦では織田軍は武田家臣団と比較して武術練度の低さと武田軍の弓の射程距離の優位を解消する必要が有り弓より遥かに射程距離の長く鎧も貫通する鉄砲を導入し対抗した様です。

武田方の指揮官武将の死傷率が異常に高かったのも、騎乗していたから狙い撃ちにされ、流鏑馬で突進する下級士官の武士も悉(ことごと)く射殺され軍団が瓦解する原因に成った事は容易に推測出来ますね。

そんな訳で軍馬は当時とても貴重でした。
人間も平均身長150チョイで小型でしたが馬は驢馬サイズでサラブレッドと比較に成らない小型馬ばかりなので、動画の様に遠駆けはしません。

【現代の1小隊辺りに占める兵装】
現代の1小隊は陸自も30人前後~50人です。
この小隊の隊長は丁度、戦国時代の1000石の高給取り武将の率いた兵力に当たります。
現在の1000石は江戸初期だと貨幣価値で6000万円位の中堅武将に当たります。
現代の軍人が薄給の様に感じますか?
それは少し違います。
何故(なぜ)なら1000石の武士は地区長サンとして行政も行わないといけないので、その6000万円から行政費用を賄う必要が有ったからです。
武田信玄
※武田信玄公⤴️
1000石級のメジャーな武将を例に挙げますと、武田家の名副将小幡虎盛クラスです。
有名な山本勘助は更にそれ以下の兵力の指揮官で皆さんのイメージは江戸時代に子孫が作った創作の虚構でした。

この1000石の小隊に騎上武者が何人いたと思いますか?
徳川葵紋
江戸幕府の役務だと1000石では雇用しなければいけない人数は以下の通り・・・
鉄砲兵2人(鉄砲1丁約1000万円)。

槍兵5人。

弓兵1人。

物資輸送担当2人。

雑兵(農民)10人。

騎馬武者1人(馬1頭8~10両=120万円)
合計21人。

自分自身。総勢22名編成。
騎兵は1~2名、指揮官クラスのみ。
これが現実です。

平和な江戸時代だからこれだけですが、戦国時代なら1000石50~70人も兵士を動員しなければいけませんでした。
そして、この人達を生涯雇用するだけでは無く当然子々孫々まで永久雇用する必要が有る上に、鉄砲のメンテナンス、数年に一度の馬の買い替え、安くても数十万円する鎧兜のメンテナンス或いはフルオーダーメイドで数百万円。
更には開墾する田圃の畦道や用水路の整備、文化の拠点として神社仏閣の整備。
・・・年収が6000万円でも、そこから途轍もない人件費が消えて行く訳です。
現代の価値観で言うと自転車操業の中小零細企業です。
隅立て四ツ目結び紋間宮家家紋
例えば戦国時代のこんな話が古文書に残ります。
小田原北条家の名将北条綱成公の寄子(部下)には付家老の間宮家を始め当主の北条氏康公の直臣達がつけられていました。
現在の横浜市中区本牧は橋本伊賀守と言う武士の領地でしたが度重なる戦費と畑しか作れない痩せた土地の苦しさからか武士を廃業し徴税権を放棄し帰農し網元の庄屋に成った様で、北条綱成公がその土地を知行(ちぎょう:徴税権を承認)されています。
橋本サンは元々水軍の武士だったかも知れません。その橋本サンが登場する葛網(鯛漁用の網)云々(うんぬん)が古文書に書かれていたりします。
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今の本牧と言うと本牧神社の辺りですが昔の本牧の中心は海沿いで、本牧神社も明治以前は本牧塙十二天社と呼ばれ今の中消防署北方消防出張所の裏山に在りました。
地名に鼻や塙と付く場所は海に付き出した岬の更に先端を意味し地形から自然信仰の対象に成るんですね。
まぁ、そんな訳で武士は贅沢なんて出来ず幕末にも黒字の大名の方が少なかったし皆武士は貧しかった訳です。
しかし現代の価値観で見てはいけないのは、当時“食えるだけ”、“飢えず生き残るだけ”で必死でした。
少ない食糧を奪いに来る敵がいた訳ですからね。
今の我々は幸せなんですよ。
我家の幕末~昭和初期の戸籍や系図を見ても昭和初期まで乳幼児の夭逝率が非常に高く如何(いか)に現代の医療と食糧事情が向上しているか解ります。
祖先が武士だった時代なんか更に戦死や一族の権力抗争も有った訳ですしね。
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徳川家康公なんか初期には配下の重臣達まで鋤(すき)で畑を耕していた話は余りにも有名ですよね?
因みに戦国時代だと1000石では50人前後の兵隊を雇用して、侵略戦争を行う際でも30人程度連れて行き更に食糧費も掛かる訳です。
北条氏康公
北条氏康公⤴️が率いた北条家では防衛戦争では1000石で70人動員する事も有った様です。
農民商人も一緒に籠城しますから、動ける奴は皆で戦った訳ですね。
更に北条家では延喜式内社の大山阿夫利神社や前鳥神社等の神社や修験道場の僧兵が援軍としても派遣される事が有りました。
つまり神社の宮司様も武士扱いだった訳です。
織田信長公
これに関しては織田信長公の所も同じでしたね。
桶狭間の戦いでは平安時代から熱田神宮の宮司家を務めた千秋家の千秋季忠公が今川軍の岡部隊等を釘付けにする為の玉砕陽動部隊として戦い、織田軍の今川義元公本隊への急襲を成功に導いています。
北条家が善政で徴税率が低い代わりに軍役が大きかったのは原因が有ります。
武田菱竹に雀紋
この2つの大名⤴️が生産力の高い北条領国に冬に成ると略奪放火人拐(さら)いに来たので必然的にそう成って行った様です。
武田家が通った後なんて村が壊滅し農民が居なくなって廃村に成ってしまった所に、税金免除を条件に農民たちの帰還や移住を促(うなが)す政策を行った事が古文書に残っていたりします。
三つ鱗紋
北条家では特に四公六民で武士は40%しか課税を許されて無かった善政なので武士団は非常に貧乏で、例えば初代の伊勢宗瑞(北条早雲)公を形容する話として・・・
「自己満足で贅沢な刀を購入するなら無名で実用性の高い丈夫な刀を多く買いなさい」
・・・と言う主旨の教訓を残したと伝わっている位です。
なので戦国時代も江戸時代も大名以外の武士は貧しく、更に軍役で騎馬武者なんて1小隊にせいぜい2人だった訳ですね。
つまり、この動画⤴️の状況では1000~1500石取りの1藩の家老クラスの武士が“非現実的な槍遊びをして無駄に馬を潰してるの図”に成り、明らかな馬鹿殿ぶりを発揮している事に成ります。
この鉄の塊を着込んだフル装備30kgのバカ殿はロバ位の騎馬を無駄に走らせ、更には食糧や陣地に使う材木や軍装を運ぶ荷駄隊と沢山の弓隊槍隊150人が置いてきぼり食らわせてる訳ですね~。
兵士(庄屋サン達が率いる農兵)達は必死にバテバテで走らされてる事に成る訳ですね。

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残念ながら日本ではコンナ⤴️フル装備の騎馬武者ONLYの編成で轡を並べてゾロゾロ、挙げ句の果てに馬上槍ごっこは有り得ません。
鎌倉時代の武士でも1人の騎馬武者には最低でも3人の薙刀や弓を持った雑兵が付き従っていたのですが、鎌倉時代は南北朝時代や室町時代よりも個人戦なので単騎で敵武士へ流鏑馬の様にスナイプを仕掛ける一騎打ちはしても騎馬武者ばっかり集まっての突撃は有りませんでした。
ゲームやヨーロッパの騎士の話しでしか通用しない。
歴史オタクとしては現実だけは知って置いてもらいたい所です。
太田道灌公
因みに関東で最強不敗の名軍師太田道灌公は日本で最初に雑兵の足軽に弓を装備させ現代の集団射撃の様に集団戦術での一斉射撃を導入し、敵を包囲して射殺する戦術を編み出した野戦の専門家でもあります。
太田道灌公は永享四年(1432)年~文明十八年(1486)年を生きた武将ですから、もう騎馬武者の優位性と言うのは室町時代には無くなっていた事も解りますね。

まぁ~そんな所で武士の現実を了解して頂けたでしょうか?
武士は貴族と違って搾取するだけの存在ではなく、そもそも一緒に山を切り開いて開墾し農地を広げていった開拓領主なので貴族の様に領民を雑に扱ったり苦しい徴税を課しては誰もついて来ないし、馬も大切にしてたので訓練以外では無駄に走らせないし、騎乗して槍を使う事も非現実的で何の訓練にも成りませんし、戦国武将達で騎乗していたのは指揮官だけだから鎧兜フル装備の騎馬武者だけで行動する事も無いですよ~!
・・・と言う御話でした。
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一昨日の夜にブログ更新するはずだったのにすみませぇ~ん!
最近、色んな町の学芸員サンが資料準備して色々と城址について解説して下さる機会を頂いたり、自分も違う事で急用で資料作って郵送したり他にも色々(昔の初代プレステ引っ張り出してファイヤープロレスリングGやったりwww)していて記事更新遅れました!

今回、本当はこの記事⤵
これ⤴の続きの後編で深沢城を紹介するつもりだったのですが、現地学芸員の方が資料を下さったり発掘の状況を口頭でも解説して下さったのと、地主の御爺ちゃん2人からも農地として重機を入れて地形を変えてしまう以前の話や御爺ちゃんが子供の頃の城址の話をしてくれたので、休日雑記とは別に‟深沢城”として独立記事にする事にしました。
休日雑記の後編は改めて書きます。

さて・・・
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深沢城跡
皆さんは御殿場市に深沢城と言う名城が存在した事を御存知ですか?
城郭ファンや戦国時代ファンには有名な城でマニアック度を5段階で評価するなら交通の不便さや知名度から言ってLV4位の比較的上級者向けの城跡と言っても良いかと思います。

実はこの御城、堅城と知られ物凄い武将の間で攻防戦が行われた場所だったりします。
先ず一人目、御城を作ったのは今川氏親公。この方は日本史で誰もが習う分国法の‟今川仮名目録”を制定した内政に秀でた名将でした。
内田対馬守家感状 久良岐のよし
北条早雲公~北条氏綱公の時代、川崎駅辺り~横浜市沿岸部の寄親(軍団長)だった間宮信親=間宮信冬公に恐らく名の一字を下賜(かし:目下に報償を与える事)したと思われる殿様が今川氏親公でもあります。
間宮家は佐々木氏で間宮の苗字は伊豆の国市間宮(馬宮)を領有した時に名乗り始めたので、今川家臣化し北条早雲公の与力に成って以後の時代、北条家二代目の北条氏綱公の時代の武将が間宮信親公と言う事も解ったりします。つまり小田原城主北条家が誕生し、相模国最大の国人だった間宮一族が武蔵国南部制圧時代に活躍し、後に沿岸部の間宮軍団や内陸部の太田軍団が解体されて小机衆や玉縄衆が編成されていってる変遷も何となぁ~く見えてきたりします。
小生は個人的な推測では、間宮信親=間宮信冬=間宮彦四郎=海老名市・磯子区東部~港南区北部~南部・神奈川区富屋~斎藤分町・鶴見区末吉~川崎市川崎区の領主と同一人物だろうと考えています。
この間宮家の旧主の氏親公の母方の‟舅(おじ)”が、後に間宮家の主君と成る北条早雲の通称で有名な伊勢盛時‟宗瑞”公でした。
新九郎奔(はし)る!
漫画の‟新九郎奔(はし)る!”で主人公に成っているのが北条早雲公です。
新九郎奔(はし)るは平成初期に大ヒットした漫画‟機動警察パトレイバー”の作者、ゆうきまさみ先生により現在ビックコミックスピリッツで連載中です

パトレイバーは数年前に真野恵里菜サン主演で実写化されたりもしていますので、20~30代くらいなら結構知っている人もいるかも知れませんが現役大学生位に成ってくると知らない方も多いかも知れませんね。
新九郎奔(はし)るの主人公、北条早雲こと伊勢盛時公の肖像画は実際はコンナ感じです・・・
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公
・・・この北条早雲公が今川氏親公の‟舅(おじ)”な訳ですが、先程から小生が舅(しゅうと)の字を小生が舅(おじ)と読み仮名を振っている事にツッコミ入れようとしたアナタの為に、ちょっと深沢城から話を逸(そ)らして舅の漢字の意味を解説させて貰います。
実は舅の字は現代日本語の‟夫の父”と言うのは大間違いで、本来の漢字の意味では‟母方のオジサン”を意味する字です。
儒教由来の中国文化の漢字なので華語文化圏の表記が正しいのですが、何で日本の現代国語学者が字を誤植し夫の父を舅を‟しゅうと”と読ませてしまっているか誰も間違いに疑問を感じず既成事実化してしまっているだけなんです。
中国語の家族の呼び方
画像掲載元→http://chugokugo-script.net/kiso/kazoku.html
現代中国語の漢字を旧血縁の漢字に変換してみましょう。

現代中国口語     →漢語        →日本語

妈妈(マーマ)   →母親(ムーチン)  →母/母親

爸爸(バーバ)   →父親(フゥチン)  →父/父親

舅舅(ジィウジィウ)→舅父(ジィウフゥ) →叔父※誤植
※母の兄弟

舅母(ジィウムゥ) →舅母(ジィウムゥ) →叔母※誤植
※母の兄弟の妻

老爷(ラオイエ)  →外祖父(ワイズーフ)→祖父(母方)
※母方祖父

姥姥(ラオラオ)  →外祖母(ワイズーム)→祖母(母方)
※母方祖母

姑姑(グーグー)  →姑母(グームー)  →叔母※誤植
※父方叔母

姑丈(グージャン) →姑丈(グージャン) →叔父※誤植
※父方叔母の夫

・・・まぁこんな感じで全然現代の日本語に誤植されている漢字の意味は本来の漢字の意味は異なっていて、更に父方の叔父も父より年長か年下かで漢字が異なってきます。
漢字の血縁の話に脱線しましたが漢字の意味的には北条早雲公は深沢城を築城した今川氏親公の舅(おじ)だったって話だけです(笑)。
さて、そんな訳で名将今川氏親公と、その家臣だった伊勢宗瑞(北条早雲)公の甥とオジチャンがコンビだった時代に築かれたのが御殿場の深沢城だった訳です。
この深沢城、何で今川→北条→武田→徳川→廃城と強豪大名達によって争奪戦が繰ひげられたのでしょうか?
深沢城は現代では御殿場市に存在しますが、これは縄文~平安時代以前から存続する神社と遺跡と道を重ね合わせると一目瞭然に理解できます。
先ずは深沢城と古社と縄文時代~弥生時代の海岸線をGoogleEarthで重ね合わせて見ましょう。
古代の街道と深沢城
※画面をクリックして拡大して見て下さい。
この通り海岸線が現在の位置に近づいた古墳時代に創建された伝承のある平塚八幡宮と前鳥神社を除いて古代の海岸線の湾の最深部や半島の付け根と先端に存在し、内陸部が古代の矢倉沢往還や中原街道の通過点に存在している事が解ります。
実は現在の東海道は江戸時代に再整備された道の近くに作り直された道なのですが、平安時代以前の主要街道は海沿いの古代東海道と内陸の矢倉沢往還の2本でした。
矢倉沢往還は・・・
御殿場市の山側北部を通過する矢倉沢関所を通過し足柄郡から国道246に合流する道で足柄峠~足柄関~寒田神社~比々多神社~五社神社~杉山神社~橘樹神社と続き悉(ことごと)く国府や郡衙(市役所みたいなの)と延喜式内社の近所を経由する街道です。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
古東海道は・・・
綾瀬市五社神社辺りで矢倉沢往還と分岐~神崎遺跡~藤沢市宇都母知神社~大庭神社~村岡城~鎌倉市御成町(推定郡衙)~逗子市岩殿寺~桜山古墳(蘆花記念公園)~葉山町下山口~神武寺~上山口~横須賀市走水神社~房総半島富津市の文字通り東の海沿いの尾根道と海を船で越える海路で、悉く平安時代以前から存在する倭建命(やまとたけるのみこと)神話や弥生時代~古墳の重要な遺跡の残る地域の神社を通過します。中世に成ると古代の尾根道から山麓の平地に人の流れが変わり道が開かれ、山上の古道は修験者の山岳聖地巡礼の順路に成った様です。
その古道の‟矢倉沢往還”の起点と古東海道からの敵軍の小田原城防衛ラインの前線が深沢城と山中城だったんです。
近くの小山町は古代駅伝制の横走関=店屋(てんや=兵站)と考えらている上横山遺跡も有り深沢城は重要な街道を防衛する城でした。
小田原城防衛網
そしてこの足柄峠の古東海道と箱根の中世東海道を守る城が深沢城の後ろにも幾つか存在し、戦国時代の大名北条家の本拠地‟小田原城防衛網”を形成していました。
深沢城の北西の甲斐国には北条家と敵対する武田家がいました。
武田菱
  武田VS北条
   三つ鱗紋
深沢城を攻略されると一番ショートカットで小田原城を襲撃されてしまう訳です。
武田信玄
この肖像画は風林火山で有名な武田信玄ですが、特に武田信玄は・・・
「疾き事風の如く」
「侵略する事火の如く」
・・・のキャッチフレーズの通り侵略戦争をする際は用意周到に街道整備をする等、毎回必ず最短ルートで速攻するのが得意な名将である反面、他の地域の農民から見て武田信玄は攻め込んだ先では当時の価値観でも激しい凄惨な略奪や放火をしてまわる苛烈な悪の武将でもありました。
北条や今川から見ると武田軍が甲斐国都留郡経由で小田原城や今川館(駿府城)に攻めてくる可能性が高く、深沢城は特に重視された訳です。
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この写真は戦国時代、城として機能していた時代に根小屋(ねこや)と呼ばれた兵士や武将達の詰所(兵舎)が置かれていたと考えられている場所から城跡の主郭を見上げた写真です。
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今回は城址の構造は触れず、この城に関する資料の文書等を紹介しますが、ここまでで地理的に深沢城が重視されていた歴史は御理解頂けたでしょうか?
では本当にここは、戦争が起きるような場所だったの?と思う人が小生の海の景色の紹介記事等から読者に成って下さった歴史に余り関心が無かった人に証拠の文書を紹介したいと思います。

禁制
右當手之軍勢甲乙人等濫妨(乱暴)狼藉堅令停止早若違犯之輩有之者速可処罪科猶寺中門前共ニ
自今以後於竹木等も不可剪者也仍如件
奉之
江雪
壬(永禄十二年:1569年)五月十六日 宝持院
内容を簡単に今の会話に翻訳するとコンナ感じです・・・
右(禁制=禁止命令)は、ウチ(北条)の軍勢甲乙(みんな)に「乱暴な事しちゃイケねぇ~よ!」ってキツク命令する。
もし(禁止命令を)守らね~奴がいたら、ソッコーでシバクかんな。
それと寺の中も門の外も、今から(寺の土地で)竹も木も伐採するんじゃねぇ~ぞ!
まぁ、そんな感じだからよ。
江雪より~
1569年05月16日 宝持院(へ💛)
・・・この文書に登場する‟江雪”は板部岡江雪斎と言う北条家重臣で、以前大河ドラマ‟真田丸”にも登場した人物ですね。
そして文末に登場する宝持院と言うのは深沢城の近くに今も存続している寺院です。
更に宝持院の近く大雲院には安土桃山時代に徳川家が城を復興した頃の城門を移築され今も当時の門が御寺の山門として現存しています。
この文章は御寺の人が深沢城に駐留する北条軍に乱暴されない様に、北条家の殿様が御寺に配慮して、和尚さんが北条軍の司令官宛てに「ウチは北条家の殿様に守って貰える確約ありますよ!」って見せれる財産安全の保障の証拠として重臣の板部岡江雪斎サンに書かせた物です。
この時に駐留した軍勢は横浜市と鎌倉市の兵隊で、率いていたのは玉縄衆大将、北条綱成(ほうじょうつなしげ)公です。
北条綱成
この人⤴※KOEI信長の野望画像
この綱成公の率いる玉縄衆は異名が黄備え隊で、軍旗が朽葉色で統一された軍隊でした。
朽葉色ってのは9月中旬が見頃の黄花秋桜(キバナコスモス)の色ですね。
KIMG0286
この花⤴が黄花秋桜。因(ちな)みに、この写真は北条綱成公が建てた鎌倉市の龍寶寺の綱成公の御墓の前に咲いている黄花秋桜の写真です。
 これ⤴以前書いた北条綱成公の紹介記事ですが、ブログ書き始めたばかりの頃に書いたので内容が薄っぺらく何の参考にも成らないかと思います。
黄備えの副将は横浜市磯子区~港南区にまたがる笹下城主の間宮康俊公と間宮康信公の親子でした。
これ⤴以前に間宮家を紹介した記事。
実はこの書状で北条の殿様の代理で板部岡江雪斎サンが1569年5月に宝持院に対して近い将来大軍勢が来て駐留する事を見越して御寺に安全保証する文書を書いているのは翌月6月に武田家が深沢城に攻めて来たので事前に危機を察知して防衛強化を始めた時期だった事が解ったりします。
そして、ちょっと長いですけど、もう1通こんな文書が残っています・・・
急度(きっと)令啓候、仍(=なお)信甲之人衆、今十六、駿州之内號(号)深澤新地寄來(来)候、左衛門大夫(北条綱成)、松田(松田憲秀)以下楯籠(=立てこもり)候間、不可有別條候、伹(※誤字→但)只今之時分出張爲(為)如何(いかが)子細(しさい)候哉、何篇二も、今明行之様子見届、重而可及註進(注進)候、然而、始小幡動衆之由申候間、新太郎(北条氏邦)申付、向西上州及行候、哀其父子一人有出陣、万端(ばんたん=何でも)新太郎被相談ニ付而者、動可爲思儘(まま)候、若(もし)横合(よこあい=邪魔する)有之者、可然人衆數(数)多可有加勢候、必々(必ず×2)有遲(遅)々者、不可有曲候、如何様ニも、廿(二十)日廿一日之間ニ御動専一候、委細新太郎可申候、恐々謹言<br />追而越國(越後国)へも及飛脚候間、相心得被申入、任入候、以上
  六月十六日 氏政(北条氏政)
    由良信濃守(由良成繁)殿
・・・これ、1569年当時の北条家の当主の北条氏政公が傘下の小大名の由良成繁(なりしげ)公に送った手紙なんですが、この時攻めて来た武田信玄によって深沢城は落城します。
この差出人が北条氏政公の手紙を要約すると・・・
武田信玄KOEI
武田信玄⤴️※KOEI信長の野望画像
「長野県と山梨県の武田軍が攻めて来ちゃった!」
「ヘルプ!」
「ダメ、援軍遅刻、絶対!」
「同盟者の上杉謙信(この人)⤵にも緊急拡散して!」
上杉謙信KOEI
上杉謙信公⤴️※KOEI信長の野望画像
・・・と由良サンに対して書いているのですが、氏政公自身が2万の大軍の本隊を率いて大遅刻したせいで武田軍の2万に深沢城は取り囲まれたまま籠城不可能な状態に追い込まれ敗戦しました。
良くいるでしょ・・・
「遅刻するなよ!」
「30分前出社!」
・・・とか言いながら自分がルーズな経営者(笑)。
小生はこの北条氏政公は思考パターンと行動が適応障害者だったと推測してるんです。
変な拘りに完璧主義過ぎて毎回、十分に軍勢が揃って自分が安全に戦える状況に成らないと援軍行かないせいで肝心な合戦で何回も敗戦し北条家が勢力伸長に失敗する事に成るんですよ。
コレ⤴とかね。
玉縄衆は善戦し北条綱成公と間宮家はかなり粘ったのですが、武田信玄配下の鉱山衆によって破壊工作が行われ俗説には水の手(給水施設)を破壊されて籠城不能に成ったと言われています。
小生は個人的に玉縄衆だけでなく、裏切るマン松田憲秀親子が一緒に籠城していたので松田が撤退を主張したんじゃないかなぁ~?とか思っていたりします。
実際に当時、北条家の同盟者だった上杉謙信公は上州方面から武田家にプレッシャーかけるか直接援軍を送るつもりだったらしくコンナ事を言っています・・・
上杉謙信KOEI
KOEIのゲームの上杉謙信公⤴
肖像画の上杉謙信公⤵
上杉謙信
上杉謙信「(自分にも勝った)地黄八幡(北条綱成)が負けたちゃったYo~!」
実は上杉謙信公、北条綱成公の息子さんの北条康成公が3千で守る鎌倉市JR大船駅近くの玉縄城を15万の大軍で攻めたのに攻め落とせず撤退したり、まだ北条家と武田家が同盟者だった時代に長野の上田城に援軍に来た北条綱成公や千葉県方面の戦争で玉縄衆に結構苦戦させられてる歴史が有るんですね。
・・・なので上杉謙信公ですら北条綱成公が負けると思ってなかったらしいですね。
なんせ上杉謙信公が上杉家を継ぐ前の話ですが、河越城の攻防では北条綱成公達は3千だけで8万の上杉軍相手に半年間も籠城に成功した挙句・・・
北条氏康
綱成公の義理のお兄ちゃん⤵⤴北条氏康公
北条氏康公
・・・綱成公は小田原から当時の主君で義兄弟の北条氏康公の本隊8千を迎えて合計1万1千で上杉軍8万夜襲して挟み撃ちにしてギッタンギッタンにして壊滅させてる名将なんですね。
なので小生は深沢城の敗戦原因をずっと・・・
「(裏切気質の)松田憲秀が撤退主張したやろ(怒)!」
・・・と思ってました(笑)。
実は今回、定説の水の手云々(うんぬん)の話しと異なる可能性を知る事が出来ました。
御殿場市の学芸員サンと地元の地主さんへの取材で小生が本丸跡と推定している二の丸の空堀で焼けて炭化した米が発掘調査で見つかっているんですね。
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※クリックして拡大して見て下さい。
この縄張り図で真ん中の‟二ノ丸”と書いてある場所と上の‟本丸”と書いてある場所の間、左側にクビレてる空堀ですが、そこから炭化した米が調査でも発掘されているし、仲良くなった地主の御爺ちゃんも子供の頃にそこを「掘ると焼けた米が出て来たんだよ」って教えてくれたんですね。
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この2号堀て辺りだそうです。
2号堀の上側が小生は三の丸だと思ってるけど、地元では本丸と呼ばれている場所。
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その城櫓(しろやぐら)辺りは‟二ノ丸”と呼ばれている場所で、下の縄張り図のⅠ郭(本丸)とⅡ郭(二ノ丸:小生はⅡ郭が本丸だと思う)の間の②の空堀の本丸側。
仲良くなった地元のオッチャンの話では田んぼにする前の地形では棚田3段分くらい約3mくらい今より高い地形で城の地形の中で最高所だったそう。
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‟Ⅱ郭”が縄張り的にも小生はこの辺りが本丸だったろうと思ってます。
ここからは写真で見る限り八王子城の御主殿(城主屋敷)と酷似した構造物も見つかってます。
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完全にここ二ノ丸が政庁であり城代の屋敷だったと個人的には考えています。
下に見えてるのが根小屋と呼ばれていた地形なので兵舎の並ぶ区域だったんだろうと思う。
で、焼けた米が出土する訳ですが、小生は実際は武田家の鉱山衆は水の手を切って落城させたんじゃなくて、二ノ丸の下の根小屋側・・・
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ここの‟水の手の根小屋側”から武田家の鉱山部隊が弓矢の届く範囲まで仕寄り(塹壕)を作りながら攻城陣地を築いて来て、火矢や火薬で二ノ丸食料庫を放火し北条軍の戦闘を継続不能にしたんじゃないかと新しい説を考えました。
この焼けた米の話を学芸員サンに聞くより早く、地主のオッチャンに教えて貰った際に・・・
小生「こんにちわ~」
・・・って声掛けたら未だ何にも言ってないのに・・・
オッチャン「横浜から来たの?」・
・・って聞いてきてビックリ!何で分かったんだろう?と思いながら・・・
小生「そうだよ横浜から来たよ~」
・・・って言ったら珍しい奴だなって喜んでくれて、オッチャンが子供の頃の土塁とか地形を削って農地にする前の話を沢山聞かせてくれて「又遊びにおいでね~、ここにいるから!」って言ってくれて嬉しかったんだ。
凄い偶然だけどオッチャンのムスメさんが小生の家の近所の港南台高島屋で働いてたそうだ。
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で、この写真の左側辺りが焼けた米の出た空堀だったかな?
後から学芸員サンにも凄く丁寧に教えて頂く事が出来ました。
実はこの深沢城ちゃんと(笑)火災に遭っている記録が有るのですが、それは北条家と武田家の合戦の時ではなく、織田信長公と徳川家康公の連合軍が武田領に一斉に攻め込んだ際に深沢城代だった武田家臣の駒井昌直が自ら放火して城を放棄した記録だけが残っています。しかし小生が思うに未だ徳川軍に攻め込まれてない時間的に余裕の有る状況で撤退する際に兵糧と金銭を焼き捨てるとは考え難いので、炭化した米は北条家と武田家の戦闘で焼け、更に武田家臣駒井が城を放棄した際に建物が焼かれ、徳川家が安土桃山時代に改修し再利用後、再度放棄され廃城に成った一連の土木事業の中で細かい時代考証が出来ない状況に成ったんじゃないかな?と個人的には感じました。

さて、城の構造の説明が入口からではなく、状況説明のついでに成ってしまったので見学コース沿いに紹介して見ます。
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入口がここ。
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現在地の場所ですね。
この看板の裏にも三ノ丸の三日月堀と表記されている空堀が有ります。
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少し解り難いでしょうか?
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御城行くのが好きな人は良く解ると思うのですが、城址公園化されてない空堀って写真じゃ伝わり難(にく)いんですよ。
その看板の横側から農道兼散策路に成っていて、入って直ぐに空堀が見えます。
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これは比較的状態が良い。
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ここは‟丸馬出し”と呼ばれる半月状の出撃口の遺構です。
本来、我々城郭ファンはこの丸馬出しの空堀の事を三日月掘りと言います。
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その馬出しの削平地には石碑が立っています。
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昔は東名高速道路が無かったから深沢城の前の足柄峠を通過する際に観光で立ち寄る人もいたのかも知れませんね。
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その下の空堀。
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二ノ丸の手前、‟下馬溜め”と言われている構造体の空堀が雑木林化してるが現存。
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ここは小机城の構造に似た構造が有るけど、変形の食い違い虎口(敵の侵入を制限し迎撃する構造体)だと思う。
下は小机城の現存部分の縄張り図。
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これの②の構造に深沢城現存部の‟下馬溜め”は似てる。
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下馬溜めの空堀だけど写真じゃやっぱり訳が解らないね。
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下馬溜めから二ノ丸に繋がる武者走り&空堀&土塁
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そして二ノ丸入口。
更に奥に本丸。
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本丸に続く土橋。両脇は空堀。
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本丸側の城櫓とされる削る前は場内最高所だった郭。
下に根小屋地形が見える。確かに小机城の根小屋とも酷似する。
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本丸は今では風に靡く稲波美しい。
地主のオッチャン、色々と親切に教えてくれてありがとうね!
色々と発掘調査資料を提供して下さった御殿場市教育委員会様、ありがとうございました。
御殿場の皆さんはとても温かったです♪

さて、深沢城この様に結構空堀は立派に残っています。もし御殿場方面に行く機会が有って本当に御城が好きな人は立ち寄る価値が有ると思います。

きっと皆さんの御近所の神社や御寺や公園の山も、元々は御城だった場所が有ると思います。
気分転換したい時にちょっと御近所の神社や御寺や城山を歩いて看板を読んでみませんか?
きっと皆さんと歴史偉人を繋ぐタイムマシーンみたいに感じ自分の町を更に好きに成るかも知れませよ~?

・・・では、次は前回の休日雑記の続きか銭湯の記事で御会いしましょう~♪
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Twitterで朝日寺サンと言う志田峠に在る御寺の方に武田家vs北条家の大合戦、三増峠合戦の経過を時系列で話す機会が有ったので、そのツイートを画像に切り取って転載しときます。
    武田軍       北条軍
武田菱vs 三つ鱗紋
兵力  20,000                  20,000

死傷    1,000                    3,000
武田信玄が北条家の息子達を翻弄し、北条家も局地戦で黄備え玉縄衆大将の地黄八幡北条綱成公が活躍した合戦なのに結構、歴史ファン入門くらいだと知らない人も多い名合戦なんだけど。
因みに話題に登場する主要人物紹介。
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ゲームの武田信玄⤴
肖像画の武田信玄⤵
武田信玄

北条氏康
ゲームの北条氏康公⤴
肖像画の北条氏康公⤵
北条氏康公
北条氏政
高嶋政伸サンの北条氏政公(笑)
丸に三ツ鱗紋玉縄北条家

隅立て四ツ目結び紋間宮家
蔦の葉紋臼居家


では以下Twitterからの転載です。
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神奈川県鎌倉市のJR大船駅駅から、近くも無く遠くも無い位の距離に神奈川県民から「大船フラワーセンター」の俗名で呼ばれる植物園が有ります。
正式名称は「県立フラワーセンター大船植物園」なんですが・・・
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・・・2017年の3月初旬現在、“玉縄桜”と言う早咲きの「桜と梅が満開で同時に見る事が出来る」珍しい場所でもあります。
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昨年、母が子宮癌を患い、築地市場近くの国立がん研究センター病院に入院し子宮摘出手術を受けたのですが、小生は鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺で淡島大明神を参拝し母の子宮癌平癒の祈願をした上で淡島大明神の御守りを買って母に渡していたのですが、結果として手術は成功し転移も無かったので、母の体力が回復した先月末に母を伴って御礼参りに行って来ました。
浄妙寺は昔から「婦人病治癒、女性の味方の神様」の「淡島大明神を祀る御寺」として「御婦人達の崇敬を集めていた」歴史を、たまたま横浜の殿様の間宮家と宅間上杉家の顕彰活動を通じて訪問した事で知っていたので、その様な行動をした訳です。
その帰り、幼稚園の頃に母と来たのが最初だった大船フラワーセンターに立ち寄って来ました。
この直ぐ近くの龍寳寺にも用事が有り、ついでと言うか、丁度“玉縄桜”が満開に成っているのを知っていたので見てきました。
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玉縄桜の名前の由来は、この直ぐ近くに戦国時代に存在した玉縄城と言う難攻不落の城の在った地域名に由来します。
玉縄城は上杉謙信10万の大軍、武田信玄2万3千の大軍の攻撃を城兵3000で防衛し、2回とも敵軍の上杉勢や武田勢を撤退させた堅城でした。
この城を守っていたのが小生が個人的に尊敬している北条綱成公で、その綱成公の率いる部隊は「玉縄衆」と呼ばれ軍旗等の軍装を黄色で統一した部隊で別名「黄備え隊」と呼ばれた軍団でした。
この黄備え隊の副将が、小生が顕彰活動をする殿様の一人である間宮康俊公でした。
間宮康俊公の姫は徳川家康公の側室と成り子を産んだ於久(おひさ)様、そして嫡孫は徳川幕府の但馬奉行や佐渡奉行を務め金山銀山経営で他の鉱山奉行と比べ物に成らない程に功績を残された間宮直元公でした。
直元公は大坂城外堀や真田丸の埋め立てを家康公に立案した名軍師でもありました。
そんな玉縄衆の気概を名前に受け継いだ風流な桜が、この玉縄桜な訳です。
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黄備え玉縄衆は、関東の覇者、北条家の中で重要な合戦には必ず参戦し先陣を切って戦ったり、最前線での苦難な籠城戦を防衛し切ったり、他の部隊の追随を許さない功績を挙げ常に前線で戦う部隊でしたが、玉縄桜も河津桜同様に先頭を切って満開に成る品種でもあります。
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今、正に大船フラワーセンターでは、この玉縄桜と植樹された様々な梅を同時に見る事が出来ます。
園内手前の方には玉縄桜の他に、「おかめ桜」も遊歩道に沿って数か所植林されています。
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この桜、名前は純和風ですが、実は桜観賞の文化に惚れ込んだ英国人の植物学者イングラムさんが英国に日本の桜を数種類持ち帰って混合させ生み出した品種なんです。
つまり人間に例えると日系英国人留学生って感じでしょうか(笑)?
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ハッキリとしたピンクが目鼻立ちがシッカリした英国人女性の様ですね。
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そして日本と同じ海洋国家で近代日本の随一の友邦だった英国の桜らしく、戦国時代関東最強の北条綱成公の城名をとった玉縄桜同様に先陣を切って咲く凛々しさも持ち合わせています。
う~ん・・・
解る人には解るけれど、桜版の戦艦金剛かな(笑)?
さて、大船フラワーセンターは牡丹や蓮も有名なのですが、今は季節ではないのでそのエリアを通り過ぎて一番奥の方に行くと色んな種類の梅の樹が植えられた並木道に出ます。
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小生が訪れた先月2月末は枝垂れ梅が見事でした。
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多分、今時分は更に見頃に成っていると思います。
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このエリアにも玉縄桜が有ります。
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綺麗でしょ?
どうです?
ちょっとお散歩に行ってみませんか?
この他にも孟宗竹や唐竹等、色んな竹を植えた小規模な竹林や・・・
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台湾原産の紅葉ばふう。
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そして、小生が気に入っている場所がもう一つ有り・・・
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熱帯植物の温室です。
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いくつかの部屋を円形に配置して分けてあり、多種多様な植物を見る事が出来ます。
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完全に外国人ぽい花・・・
人の顔も違えば花の個性も同じ様に原産国で変わるんだなぁ~とか考えるのは小生だけでしょうか?
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可愛らしい花も有れば・・・
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毒々しい色の奴もいたりします。
見ていて飽きません。
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蓮の仲間の展示エリアにはメダカみたいな魚も沢山泳いでいます。
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わざわざ下田とか行かなくても、実は大船駅周辺にこんな場所が有るって、今の若い子達は知らないんですよ。
きっとバブル世代の親は若い頃に、こう言う植物を愛でる様な育ち方をしていかなったので自分達も子供達に植物を愛でる文化を伝えたり出来ない人が多いのかも知れないですね。
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小生は、玉縄桜と梅と、このエリアが御気に入りです。
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あと、部屋で育てる鉢植えの植物も温室に展示されています。
温室の先、一週回って入口近くには盆栽を展示したエリアも有ります。
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小生、この黄梅と言う品種を知りませんでした。
一瞬「蝋梅」かと思ったら違うらしいです。
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盆栽もユックリ見ると良いもんですね!
しかし子供にはツマラナイかも(笑)。
ここはちゃんと子供が来て御腹が空いても平気な様に、フードコートが無い代わりに移動式店舗が数店営業しています。
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小さい子に植物見せるだけとか、ちょっとした「苦行」をさせる様なもんですからね(笑)。
小生も幼稚園の頃に担任の先生や親なんかとここに来ても全く楽しく無かったですから。
大人になって、段々小さい頃に見せて貰った物の美しさや大切さが理解出来る様に成ると、ふとした切っ掛けでそこを再訪したりするもんなんですよ。
だから、今小さい子がいるパパやママさんは、ここに子供を連れて来て御散歩して欲しいなぁ~とか
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こう言う小さいなパンジーも子供の時に見ておくと、大人になって再訪した時に当時の記憶として思い出したりするもんなんです。
親は自分より早く死にます。
でも、親が見せてくれた物を大人になって見ると、親の事も思い出して感謝も出来るって思うんです。
実際、小生が幼稚園当時の記憶で一番覚えていたのは、このパンジーと入口の花時計でした。

実は大船フラワーセンターこと県立フラワーセンター大船植物園は今年2017年7月で一旦閉園します。
そして改装後、2018年03月31日の再開予定なんです。
つまり、早咲きの玉縄桜を見るチャンスは今回を逃したら2年後に成ってしまう訳です。
今幼稚園の子も2年たったら小学生、そうなると親と一緒に遊んでくれなく成ったり習い事が大変で時間が無くなったりしますよね?
デートで来たいカップルも、2年後は結婚して子供が生まれていてとてもじゃないけど外出する余裕が無いかも知れない。
それに今の大船フラワーセンターの春の姿を見られるのは、今だけです。

ですから皆さん、是非、大船フラワーセンターへ行ってみませんか?

【県立フラワーセンター大船植物園】
住所:〒247-0072神奈川県鎌倉市岡本1018
電話:0467-46-2188
アクセス:駐車場有り
(徒歩)大船駅西口観音側下車16分
(バス)大船駅西口バスターミナル1番のりばから、神奈川中央バス「渡内経由藤沢駅行」または「公会堂前経由城廻中村行」、「岡本」下車徒歩3分
県立フラワーセンター大船植物園の地図 久良岐のよし
では皆さん!又、次の記事で御会いしましょう!


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皆さん、真田丸第2話を御覧に成って「物足りないなぁ~」とか思われたでしょうか?
あんまり歴史人物に御興味(ごきょうみ)が無い人は「合戦のハデなシーンを見たい!」とか思われて、多少つまらない回だったと思われたかも知れませんね…
が、しかし!
実は第2回目の放送は凄く大切な要素がドラマ中に再現されていたんですよ!

まぁ…
そんな要素有ったっけ?
…って思われる方もいらっしゃると思うので、2つの要点を下に書いてみます。

要点1つ目
●武田家滅亡直前、武田勝頼公は「鎧兜」に手を合せて拝んでいた。
武田勝頼
実はこの行為は武田家の文化を忠実に再現している三谷幸喜さんの演出で、極めて歴史考証を重視されている証拠でもあります。

要点2つ目
●小山田信茂だけが処刑された。
小山田信茂
実は、この2つは大きな意味が有りました。
「小山田が処刑されたのだからそりゃ、物語として重要だろう?」と思った方はズレています。
重要なのは、織田家重臣で出世頭の「滝川一益」公が発言した内容です。
「お前は自分から主人を売った裏切者で、織田家と徳川家から内応の調略(ちょうりゃく=勧誘)を受けた穴山や木曽とは違う」と、言う主旨の事を言われて処刑されていました。

今回はこの2つの要点の解説と歴史事実との整合性の検証、最後に鎌倉~横浜に関係した登場人物と俳優さんを紹介しようと思います。

この第2話では大半を武田家滅亡までの武田勝頼公御自身の武田家の文化や価値観を表した行動描写に費やし、残りを小山田信茂の処刑までの行動の演出に費やしていました。

先ずは要点1つ目、勝頼公の行動について解説します。
武田勝頼
皆さんは、武田勝頼公が御屋敷の中で鎧に手を合せて拝んでいたシーンを覚えてらっしゃいますでしょうか?
歴史に興味が無いと意味が解らないシーンだったので一応、御説明差し上げますと、武田家には伝来の家法が有りまして、それが「盾無(たてなし)」と言われる鎧です。
武田勝頼公が拝んでいたのが、その家宝の「盾無」です。
実は現在でも現存していて、盾無は別名「小桜韋威鎧(こざくらがわおどしよろい)」と呼ばれています。
これは山梨県甲州市の菅田神社にて現在も保管されています。
※山梨県神社庁のホームページ「菅田神社」ここクリック!

菅田神社の在(あ)る場所は現在の住所で甲州市塩山上於曽と言う地名なのですが、この上於曽の「於曽(おそ)」と言うのが地名であり、かつ武田家分家の於曽氏の苗字でもあるんですね。
そして、於曽家は武田信玄よりずっと前の歴代武田家当主から代々、この「盾無」の管理を任されていた一族でした。
江戸時代には盗難に遭って破損した事も有るそうですが、小生はレプリカしか見た事がありません。
では、五月人形作家の鈴甲子(すずきね)雄山と言う方の作られた端午の節句用のレプリカの画像を拝借して盾無とはどんなものか見て見ましょう。
※鈴甲子雄山氏の工房ホームページは「ココ」←クリック!
武田家家法「盾無」レプリカ
緑色ですね。
但(ただ)し実物は「鳩尾板(きゅうびのいた)」と「栴檀板(せんだんのいた)」と言うパーツが欠損しています。
この欠損した二つのパーツは肩紐(かたひも)と胴体を結ぶ部分に有る鎖骨を守る盾状の板の事です。
当然、実物の盾無鎧は国宝です。
武田家歴代当主が大切に守って来た鎧なのですが、実はこの菅田神社の盾無鎧、武田家の家祖で平安時代の名武将として名高い「新羅三郎」こと「源義光(みなもとのよしみつ)」公が着用していた実物だと伝わっています。
そして、この盾無鎧は武田家中では源義光公の化身の様に「御神体」として奉られていたんですね!
もう、ここまで説明すれば歴史に興味の無かった人でも解(わか)ると思いますが、ドラマ中に演出で武田勝頼公が盾無鎧に向かって手を合せ拝んでいたのは、御先祖様に対して御参りしたり誓いを建てているのと同じ正に神社で神様に参拝するのと同じ行為をしていた訳です。
これは武田家代々の伝統で、武田軍団は当主自らの出陣の前に必ず源義光公の遺品である❝盾無の鎧❞と❝日章旗の御旗❞の前で集合し、以下の言葉を述べる習慣がが有りました。
「御旗、盾無、御照覧あれ!」
つまり、❝御旗❞と❝盾無❞を完全に擬人化して神様として敬(うやま)っている事が良く解る逸話です。
これは角川書店が約30年位前に映像化した「天と地と」と言う川中島合戦の映画でも演出に登場します。
興味が有る人は、「天と地と」をレンタルして見て見て下さい。合戦シーンの迫力はたまらない映画です。

さて、この盾無を拝む文化が武田家に有ったから、真田丸での第2話の演出が有ったのは伝わったと思います。
ついでに兜と武田信玄の話しもします。
第2話では頻繁(ひんぱん)に❝虫の知らせ❞的な描写で武田信玄の霊が登場しました。
武田信玄
でも、この武田信玄像は現在では江戸時代に誤って伝えられたものだと判明しています。
先に「盾無の鎧」を説明したので、この武田信玄の容姿の誤解の元に成った「兜」の説明もしたいと思います。
現在、多くの人がイメージするこの一般的な武田信玄。
※武将画で有名な諏訪原寛幸さんの絵を拝借。
武田信玄(諏訪原寛幸氏画)
※諏訪原寛幸さんのホームページは「ココ」←クリック!
この赤赤しい(笑)武田信玄のイメージは誤りだった事が判明しています
「じゃあ、この赤い人は誰なんだよ(笑)?」
…って、成りますよね?実は、この兜は実在します。
「兜が実在するなら、この赤い人が武田信玄だろ!」
…って思うかも知れませんが、それでも違うんですね。
この武田信玄の真っ赤なイメージの元に成っている絵が現存します。
参考書籍が手元に無いのと絵が検索しても出て来ないので御見せ出来ませんが、ほぼ、上の諏訪原サンの書いた一般的な武田信玄のイメージと同じ色、同じ格好です。でも、鎧兜の家紋が武田菱じゃないんですね。
それは実際は能登国の畠山義続(はたけやまよしつぐ)の絵が誤って伝わったと判明しています。
それを、江戸時代に美術マニアの松平定信が❝武田と言えば赤備え部隊じゃね?❞と思ったかは知りませんが、武田信玄像として誤って紹介してしまったんですね。
この松平定信が誤認した事を証拠でもあり、事実誤認を助長した事実の証拠でもある物が有ります…
それが「諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)」と言う実在する重要文化財です。
武田信玄
武田信玄が被ってる兜、これが諏訪法性兜です。
諏訪法性兜は長野県の下諏訪町立諏訪湖博物館に所蔵
されていて、常設展示では完全なレプリカが置かれているので、どんな物か見学する事が出来ます。
※下諏訪町立諏訪湖博物館・赤彦記念館の公式ホームページは「ココ」クリック!
この諏訪法性兜、既に科学的見地からも製作年代は西暦1500年代と特定されており、武田信玄や武田勝頼公の時代と符合します。
つまり、武田信玄か❝武田勝頼公所用の可能性は無きにしも有らず❞な訳ですが…
しかし問題が有ります。
兜の飾りは江戸時代の物と、本体とは別個の鑑定結果が出ているんです。
つまり、江戸時代に成って追加された飾りである可能性が高いそうです。
この諏訪法性兜は、先代の諏訪大社宮司だった守矢サンの家系が代々保管していたのを、修繕や保護の観点から諏訪町で買取り現在に至ります。
更には、一般的に歴史好きの間では❝武田信玄着用では無く、武田勝頼公が着用されていた❞との意見も有りますが、それも事実上なんの伝承も無ければ証明する証拠も無いそうです。これは諏訪湖博物館の学芸員さんにも確認した事実です。
そして、もう一つの事実。
諏訪湖博物館所蔵の諏訪法性兜は、この武田信玄のイメージの元に成っている兜と❝うり二つ❞だそうです!
小生、諏訪にも御縁が有って若い頃に御世話に成っていたので諏訪大社も何回か御参りしてましたが守矢宮司に御会いする機会は有りませんでした…

実は小生、諏訪法性兜が武田家と無関係では無いとすると同時に、武田信玄の実像が「赤(笑)」では無いと言う歴史事実を同時に証明する証拠が有る事も偶然知っていました。
以前、横浜の殿様達が鎌倉の鶴岡八幡宮の再建をした事を間宮家の事績顕彰の中で紹介しましたが、その中に登場する横浜市南区と東京世田谷の殿様❝吉良頼康(きらよりやす)公❞が諏訪法性兜の問題と、武田信玄の実像を結びつける事実と深く関係しているので紹介したいと思います。
※間宮家顕彰記事は「ココ」 クリック!
下は吉良頼康公と伝わる人物画です。
武田信玄(誤伝:吉良頼康)
※ネットの借り物画像です。
しかし、この伝承は高野山の御寺が犯した誤りによって人物を取り違えられて伝えられた事が現代では判明しています
東京都世田谷区は小田原北条家の統治下の関東で、鎌倉公方の代行者も務めた吉良頼康公の所領だったのですが、その頼康公の家臣の大平家の奥沢城の城址に建てられた九品山浄真寺と言う御寺に、返還された可能性が有るそうです。
実はこの絵、現物は武田信廉(のぶかど)が描いた武田信玄の肖像画の写しなんですね!
武田信廉とは武田信玄の実弟です。
あれ?
なんか残念?
頭ハゲ上がってるし(笑)?威厳が感じられない?
しょうがないじゃん!これが武田信玄の実像なんだから!
この絵、武田信廉が描いた実物を近くで見ると、武具のありとあらゆる場所に「武田菱」の家紋が描かれているそうです。
でも、この兜の絵を良く見て下さい…
諏訪法性兜比較
比較してみると良く解りますが、江戸時代に追加されたと言う「前立て(兜の前飾り」や「ヤクの毛」を取っ払って兜本体だけを武田信廉の絵と比較すると全く同じでしょう?
つまり兜を比較すると、伝吉良頼康像の兜が諏訪法性兜であり、武田信玄の実弟が信玄を描いた肖像画だと言う証明な訳です。
武田信玄は赤い人じゃないんです(笑)!
では何で、現在の諏訪法性兜が「ヤクの毛」や「前立て」が追加されたかと言う疑問が残ります。
それは多分、こう言う事だと小生は個人の意見として纏めます。
①諏訪法性兜は毛が無いオーソドックスな姿の兜だった。
  ↓
②江戸時代に小瀬甫庵と言う適当な歴史小説を書く作家の小説が流行して武田信玄と言えば「赤備え」と「騎馬隊」と言うイメージが定着した。別に赤備えったって鎧兜全部真っ赤にする訳じゃないからな(笑)。
  ↓
③肖像画を保管していた寺が「②のイメージで適当に武田信玄だろ?」と畠山義続の絵を武田信玄と誤って比定してしまった。
  ↓
④江戸時代末期に諏訪法性兜を補修する際に、②と③の要因のせいで保有者が「修理」する心算で前立てとヤクの毛を追加してしまった。
  ↓
⑤江戸時代後期に松平定信が美術品の記録を編纂した際に、それまでの②③の誤りに加えて④の補修が入った姿の諏訪法性兜の模写した絵を見て、そういうものだのだろうと疑わずに、そのままの姿で諏訪法性兜の姿として確定をしてしまい、以後誤認された追加装飾品付きのままの姿で現在に伝わる。
しかし、本体は戦国時代から武田家当主所用の兜だった可能性は、吉良頼康と誤認されていた武田信玄像の兜との相似から高いと思われる。
以上で、武田信玄のイメージが誤りで、本来は髷(まげ)を頭に結った一見すると人の良さそうな外見だったと解ると思います。
実際は関東や信州で女子供を捕まえては奴隷として販売したクズですがね。
織田信長公は武田勝頼公の滅亡時にこう言う主旨の発言をしています「親(武田信玄)が悪逆非道な事をしたから子が滅んだ」と。
それは次の要点2に繋がる訳ですが…

では…
要点2つ目の解説に移ります。
小山田信茂
こいつ↑は処刑されたのに…
…コイツ等↓は処刑されずに誉められた理不尽。
穴山梅雪 木曽義昌
別にこれ、理不尽じゃないんですよ。
特に、ドラマ中で処刑を命じていた織田信忠公と、その御父君の織田信長公にとってはね。
織田信長 織田信忠
織田信長公は、若い頃に那古野(なごや)城主でした。
那古野城ってのは今の名古屋城の場所に在った、昔の城名です。
信長公が若い頃に一番苦労したのは、家臣の裏切りだった訳です。
自分の家老として父親から補佐役に付けられていた林秀貞(はやしひでさだ=通称:通勝)に裏切られ、弟と織田家の遺産を巡って殺し合いをする羽目に遭ったり。
信頼していた伯父さんに裏切られたり。
助けてあげたバカ将軍に裏切られたり。
正に、裏切られる人生を送った人物な訳です。
そんな人生を送った信長公ですから、小山田信茂の様に主君を差し出して来る様なクソ家臣は許せない存在だった訳です。
そして、横浜の殿様の間宮家と笠原家とも関係の深い名将:滝川一益公が織田信忠公と一緒に、小山田に処刑を宣告していましたが、滝川一益公が出世出来たのも実力も有るし織田信長公の家臣の裏切りが酷かった時期に、ずっと信長公を支え続けたからなんですね。
滝川一益
そりゃ、織田信忠公や滝川一益からすれば、小山田信茂は許せないでしょうね。
※この信長公の実像や価値観は以前記事にしたので「ココ」←クリックして見て下さい!
穴山と木曽は、織田家から内応しろと条件出されてちゃんと個人的に交渉した結果の織田家への鞍替えで、別に武田勝頼公を売った訳じゃないですからね。
…もっとも、小山田信茂は武田家臣じゃなくて武田家の盟友だったんですけれどね。織田家にとっての徳川家みたいな存在が武田家と小山田家の関係みないな感じだった訳です。
しかも!
小山田信茂は祖母が武田家から来た人物ですが、実は母親は記録上は不詳で伝承上では「笠原清繁(きよしげ)公の元妻」とも言われています。
要点1の〆で信長公の発言「親(武田信玄)の悪行のせいで子(武田勝頼公)が滅ぶ」と言うのは、実は小山田家の事を指しています。
この小山田信茂の生母と伝わる笠原清繁公の元妻ですが…
実は、武田信玄が佐久地方の笠原家を滅ぼした際に、その笠原家の領民や家臣の婦女子を奴隷として販売をしているんですね。信玄マジ鬼畜。
その時に奴隷として販売された笠原清繁公の妻は、小山田信茂の実父の小山田信有が奴隷の叩き売りで落札して買取り自分の側室にされたそうです。
仮に、小山田信茂の生母が笠原清繁公の元妻と言う伝承が実話なら、この信長公の発言は全てを表していると思います。
武田信玄が奴隷売買なんぞしていなければ、小山田信茂は生まれていなかった訳ですからね。
しかし
実際、この武田家滅亡の直接の原因に成った小山田裏切り事件、どんな処理がされたかと言うと織田家では小山田信茂の裏切りは卑劣として死刑を宣告しながらも、武勇名高い武将として小山田信茂を評価していた為か切腹させています。
つまり、武士としてメンツを保った処刑をさせた上に、岩殿城と小山田家領民へは乱暴狼藉していません。
だから、第三話に繋がると思いますが、小山田茂誠公が生き残り…ゲフンゲフン!
ネタばれに成りそうだから、歴史知らない人の為に書かないで置きます。

さて、こんな感じで要点の解説はご理解頂けたでしょうか?

今回は小生、横浜市民として第2回放送の登場人物が横浜に関係が有ったので紹介しておきたいと思います。
第2回では、徳川家康公の愛人の「阿茶局(あちゃのつぼね)」さんが出てきましたね。
阿茶局
この人は本来武田家滅亡の前後に徳川家康公の奥さんに成っているので、あのタイミングで家康公の傍にいたかは小生解りかねます。
しかし、阿茶局なんかどうでも良い(暴言)!演じた斉藤由貴さんは神奈川県立清水ヶ丘高校の出身なんです!
清水ヶ丘高校は現在では統廃合で「神奈川県立横浜清陵総合高校」に名称変更されていますね。
え?
だからどうしたって?ハマっ子の俺からしたら重要なんだよ!…俺とか言ってしましましたが、小生は「おぉっ!」と思ったんです、いろんな意味で。
だってね、斉藤由貴さんは49歳なんです。でも阿茶局はこの時点で27歳なんですよ。
齋藤由貴さんが27歳て(笑)。…お綺麗ですね。

で、もう一人、先に少し話しましたが、今回登場した滝川一益公。
滝川一益
実は我々横浜市民としては横浜の殿様と関係が深かった方で、格上の織田家にも関わらず横浜の殿様を御親切に上方で接待して案内して下さった恩人に当たる人物なんです。
その時に関わったのが横浜南部沿岸部の殿様で笹下城主間宮康俊公の実弟、滝山城主北条氏照公の付家老だった間宮綱信公。それと横浜市北部の殿様で小机城代で大曾根城主の笠原家の殿様です。
この間宮家と笠原家は主家北条家の出来事の節目節目で外交や宗教儀式で総奉行と奉行をペアで務めた、北条家重鎮の家系でした。
もっとも、間宮家に関しては北条家の親族の各武将に腹心として分散して赴任させらていましたので、間宮家が独自に軍事行動をする事はありませんでした。
●間宮康俊公→北条家最強の北条綱成公の付家老。→伊豆山中城で討死に。子孫は徳川家康公に仕える。
●間宮綱信公→北条氏照公の付家老。→徳川家康公の旗本に成る。
●間宮信繁公→北条氏康公・氏政公の直属。→徳川家康公の鷹匠頭に抜擢され関ケ原で諜報活動でも活躍。
●間宮信高公→間宮康俊公の子と伝承。北条家から武田家の水軍大将に転仕。→武田家滅亡後は徳川家で船大将を務める。
※不幸な話で間宮信高公は小牧長久手の合戦時に、徳川家水軍大将として滝川一益公の蟹江城を攻めて討死にしました。協力関係に有れば、きっと素晴らしい連携が出来たかも知れませんね。
そんな訳で、横浜の殿様に良くして下さった恩人が滝川一益公な訳です。
因みにこの間宮家の子孫には他に、風土起稿を編纂した学者の間宮士信、間宮海峡を発見した間宮林蔵がいて、一族の子孫には杉田玄白もいます。
そこら辺りの話は、きっと「真田丸」最終回辺りで徳川家康公が行う大坂城攻めの作戦に関わるので以前書いた記事を参考までに読んで見て下さい。
※間宮家と笠原家の事績は「ココ 」←クリック!

以上、「真田丸」第2回放送の解説と余談でした。



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滝山城と言う城址があります。
東京都八王子市に、それはそれは広大な規模で良好な保存状態を保たれた関東屈指の名城です。
後北条氏の一族の北条氏照公が築城し城主を務めた城で、築城当時は小田原城に匹敵する関東で1、2を争う規模を誇った大城郭でした。
現地、八王子市と有志の城址保護の取り組みは素晴らしくクオリティも高く、素人が訪れても各防御施設が解りやすいように絵図付きの看板が設置されています。
学術的にも意識が高い公開方法ですね。

入口は何箇所かありますが、下の写真の滝山街道沿いに在るワークマンと言う店を目印にすると良いと思います。
※滝山街道を紹介した前回記事は「ココ」←クリック!
そのすぐ横に入口の看板が有ります。
この目印の横には丁寧な案内看板もあり、更に城址の説明冊子も看板横のポストで無料配布されています。
ここに無くても城址の中の千畳敷や弁天池付近にも配布場所が有るので探してみて下さい。
こんな↓看板
国定公園にも指定されている部分と都立部分が有ったり、八王子市教育委員会と有志で調査したり連携がシッカリしてるみたいですね。
我が神奈川県や横浜市は…
東京都や八王子市と比較すると教育委員会の意識の低さと知識不足具合が恥ずかしいばかり。

では、まず、現地航空写真と比較する現地にある縄張り図をご覧下さい。


滝山城址は入口から関東の城好きが狂喜する保存状態で出迎えてくれます。
…いきなりの良好な保存状態の切通し。
そして、典型的な北条流の「食い違い虎口」、食欲に例えると、もうコレだけで白飯何杯でも食べれるレベルに歓喜しました。
食い違い虎口と言うのは直角S字クランク状に進入路を削り込んだ入口で、入って来た敵兵は常に正面から弓矢や鉄砲で射撃されてしまう防御構造なんです。

しかし…
小生が今迄のブログで紹介した城址と違い、この滝山城址は一々記事で説明しなくても現地に詳細な「施設図解看板」が有るので、その写真を沢山載せた方が解りやすいかもしれませんね。

とりあえず、図解の無い場所は解説します。

入口の食い違いの切通しを抜けると右上の一段高い場所が三の丸跡です。
三の丸には城址に良くあるお稲荷さんが鎮座してました。
 
 
登城できた事を感謝してきました。
親切丁寧ですよね〜?
この様な看板が随所にあります。
どうやら、さっきの食い違いの切通しは天野坂と言うらしいです。
きっと天野サンと言う北条氏照公の部下がいて、あの付近に屋敷が在ったんでしょうね。
天野家と言えば伊豆国出身の鎌倉武士の家系であり今川家の重臣でもあったので、北条早雲公が伊豆を手中に収めた頃に伊豆の在地の天野家子孫か、今川家臣天野家の分家が北条家の家臣に成ったいた可能性は非常に高いと思います。

因(ちな)みに滝山城の事ですが、アホなWikipediaには武田信玄2万に三の丸まで攻め込まれ、3千で守る滝山城は「落城寸前に追い込まれた」とか書いたド阿呆編集者がいますが、逆に現地見ると…
「あ〜武田信玄は大軍で入口しか落とせなかったんだな〜」
…と良く解ります。
Wikipediaに適当な記事を書いたアホは恐らく現地を一度も訪れた事もなければ滝山城址の「縄張(なわば)り図=城の見取り図」すら見ないで適当に書くような人物なんでしょう。
しかも、滝山城は三の丸を過ぎてからが殺傷能力の高い防御構造のオンパレードに成るんです。
「武田信玄、三の丸より内側は落とすどころかお手上げ状態だったんだな」
…と、良く解ります。

入口の天野坂の左手には、北条氏照公の家臣小宮家の屋敷が置かれた小宮曲輪(くるわ)」と言う施設が待ち構えています。
この小宮曲輪、風化した現在でさえ、掘り底〜曲輪の土塁まで高さ10m以上有ります。
当時は空堀は更に1〜2m深く、土塁も1m以上は高かったはずなので比高13m位、つまり3F建てのビルの屋根位の高さが有ります。
※小宮曲輪上から↓下を見た写真
深い空堀と切岸と土塁の小宮曲輪を侵入者は登る事も出来ず、道なりに進むしか無く、曲輪上の守備兵から雨あられと矢弾が放たれハリネズミみたいに串刺しにされる訳です。

その先には第二関門の「枡形虎口(ますがたこぐち)」が待ち構えています。

今は土塁が有りませんが、ここに行く手を阻む枡形虎口の食い違い状の城壁が有りました。
ここまで攻め込むと三の丸を落とせます。
逆に言えば武田軍はこの先に進めなかったと言えます。

さて、ここを抜けると小宮曲輪への進入路と弁天池の跡が在ります。
下の写真の窪地が弁天池の跡です。
実は、この弁天池と大池の2つの池が北条氏照公の内政力の高さを示す証拠なのですが、先ずは弁天池の名前の由来から説明します。

北条家は相模国を本拠地とする武家なので、鶴岡八幡宮や関東武士団の礎を築いた源頼朝公や鎌倉武士の文化を引き継いでいます。
現代でも鎌倉武士の居た地域には必ず「御霊神社」か「八幡宮」か「弁財天」の神社の何れかが有ります。
ですので、源頼朝公や鎌倉武士団がそうであった様に、北条家も江ノ島弁財天や鶴岡八幡宮の旗上弁財天を自領に勧進(かんじん=末社を作る)して信仰していました。
江ノ島弁財天は日本三大弁財天なので、とても御利益有りますしね。
滝山城の弁天池跡、発掘調査の結果、真ん中に島の跡があり名前の通り「弁財天」を祀(まつ)っていた事が判明しています。
次は弁天池が何故、北条氏照公の内政力の高さを示す証拠に成るかですが…
実は、北条氏照公、滝山城を本拠地にしていた頃に新田開発にも力を入れていた様なんですが、水田の水量を必要に応じて安定供給出来る様に弁天池と大池の水を灌漑用水として放水する政策をとっていました。
この効果で、麓(ふもと)の灌漑水田のある村は他の領域内の水田より石高が高かったようです。
戦国時代に新田開発をする武将自体が稀(まれ)で、それだけでも内政力を評価出来るのですが稲作の灌漑技術向上を目指した武将は余り多くは無いんですよ。
北条家の宿敵武田信玄と、北条氏照公は水と油の関係でしたが、どちらも政治力は高かったんですね。
武田信玄の場合は治水と生産力向上を、河川の流路を変える事で実現しました。
これは、甲州も八王子も水害に遭いやすい事や水田に適さない土地が多く苦慮した結果の技術向上だったのかも知れません。

さて滝山城址に話題を戻します…
小宮曲輪入口と反対、弁天池を右回りに進むと三の丸の上から千畳敷と呼ばれる曲輪に繋がる「コの字型の土橋」と食い違い虎口が侵入者の行く手を阻みます。
「土橋(つちはし)」と言うのは、文字通り「空堀に通路として削り残した土の橋」なんですが、滝山城のここの「コの字型の土橋」はかなり特殊で、他の城には余り有りません。
横浜市港北区小机町にある同じ北条家の小机城には「十字状の土橋」が有りましたが、やはり、この複雑な構造は築城名手北条家独特の防御施設であり、高い攻撃力を備えていました。
※小机城記事は「ココ」←クリック!

※ピンクのは小生の携帯外部バッテリー
写り込みすんません。

コの字型土橋の上から進行方向千畳敷を見る。
このコの字土橋、当時は当然今より高く道幅も狭かったはずです。
見て貰えば一目瞭然ですが、侵入者はいくら大軍でも土橋を渡る際には細長く隊列を整列しなければ通れません…
しかも、常に正面の防御施設の土塁に並んだ木盾や竹束(たけたば)の隙間から、防衛側のスナイパーが弓矢や銃で狙撃してくるので侵入者側は大損害を受けます。
北条流の築城術は、この構造を多用します。
そして、伝承によれば武田信玄は2万の大軍でも三の丸までしか落とせなかった…
つまり!この「コの字型土橋」より先に進む事は出来なかった訳です。

この先に千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。

名前と広さからして、ここには殿様や奥方様の居住する御殿や、部下と政務を行う事務所や使者と謁見する応接間が有ったのかも知れません。

この千畳敷と次の二ノ丸を繋ぐのが「馬出し」と言う施設です。
下の写真は典型的な北条家の馬出しの「角馬出し」と呼ばれる、防御 兼 出撃用の城門です。
この復元予想図が下の案内板。

この馬出し、当時は土塁があり、この場所からも侵入者を狙撃出来た訳です。
徳川家康が大坂城を攻めた時に、真田幸村が大坂城総堀に築いた出城と言われるのが巨大な「武田流の丸馬出し」で、やはり絶大な防御力=殺傷力を発揮しました。
因みに小田原城に苦戦した豊臣秀吉は、自分が大坂城を築く時に、北条流の築城術を取り入れ大坂城に総堀を築き、更に北条流の「障子堀」にしていました。


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滝山街道と言う道が東京都八王子市に有るのですが、戦国時代に武田信玄が東京神奈川方面に略奪の為(ため)に攻めのぼって来る道でした。
武田信玄や上杉謙信って実は南関東の農民にとっては、鬼畜以外の何者でも無い存在だったんですよ。
冬に成ると略奪に来るんです。

上杉謙信のお家芸は略奪よりも人身売買でした…
合戦するたびに兵士達に婦女子を拉致させては奴隷公設市場を開いて人身売買していました。
鼻から関東管領の職務を全うする心算が無かったみたいですね。
茨城の小田城なんか悲惨な状況だったみたいですね。
彼が「義の人」と呼ばれたのは、室町幕府13代将軍足利義輝公から「忠義」を褒められたからで、「正義や仁義の義では全くありません」でした。

武田信玄については多摩地方の伝承にはこんな言葉があります…
甲州人の通った後には草も生えねぇ!
…どんだけ酷い略奪だったか伝わりますよね。

で、その武田信玄がよく略奪に来た場所が今の滝山町を含む八王子市や相模原市辺りなんです。
その滝山町には滝山城と言う名城と、城主の北条氏照(うじてる)公が開基(建設する事)した少林寺と言う御寺が有ります。
武田信玄が2万の大軍で滝山城に侵攻したものの、たった3千で守る北条氏照公の前に入口の三の丸迄しか進入を許さず防戦に成功した堅城でした。
しかも八王子市は史跡保護に熱心なので、滝山城址はかなり広大な規模で良好な状態で保護公開されています。
今回は滝山古道の事を話すので、少林寺と滝山城については又、次回にブログ記事にします。

滝山城や少林寺を見学に行くと、必ず通る道なのですが、今日は思いがけず恐らく戦国時代の滝山街道と思(おぼ)しき道を見つけたので、そこを写真付きの記事で紹介したいと思います。
その道を歩きたい方は、ここを目印にすると探しやすいですよ。
少林寺の入口、お地蔵さん達がいる辺り…
「不許葷酒入山門」の石碑。
不許…許さず
葷酒…くさい/臭う+酒=酒臭さ=酔って
入……入る
山門…御寺の門
「飲酒の上で寺に入る事は許さない」
…うん、素晴らしい。仏教の本分を守っている寺院ですね。「※訂正報告※小生ずっと「葷」を「当の旧字体」と見間違え恥を晒しておりましたが、神奈川区の人生の先輩より善意の御指摘を賜り訂正した事を書いて置きます。恥を無かった事にしては進歩無いですからね。」

つまりね、初詣なんかで寺の門前町なんかで酒飲んでから参拝する人がいますけど、アレは仏教的には禁忌を犯してるんですよね(笑)。
…まぁ、神社なら飲酒は失礼では無いんですが、そこら辺はちゃんと区別しないと、初詣するくらい神仏信じてるなら飲酒してから寺院参拝はバチ当るかも知れない。

さて、お地蔵さんの前を真っ直ぐ突っ切ると現在の滝山街道が有りますが、その手前に私有地みたいな路地が有ります…
この道。
何か庭みたいに見えるけど、歴史オタクの感が…
「この道幅とクネリ具合は旧街道くさい」
…と言ったので、滝山城址行くまで、この道?を歩いてみようと思いました。

で、その右手滝山城の丘の裾野に延びる道?を歩くと直ぐに、そこが旧街道である証拠が登場しました。
一段高い場所に小さな御社が有ります。
昔の人は街道沿いの少し高い場所に御社や、お地蔵さんを祀ったものなんです。

で、その庭化した様な道みたいな場所を過ぎると完全に旧街道の形状を残す場所に行き当たります。
昔の街道って河川の氾濫で被害を受けにくい様に少し高い位置に置かれたものなんです。
道幅もこれくらいなんですよ!
現代人の感覚だと狭いですよね?

「鎌倉古道」や「鎌倉武士早駆けの道」、箱根の「旧東海道」も道幅はこれくらいです。ただ、平安~鎌倉時代に開かれた道は尾根沿いが多かった。
これは当時の気候に関係が有ります。
弥生時代に近い程、時代を遡(さかのぼ)る程、海の位置が高く内陸まで海面が広がっていたり水の影響が人の生活範囲を限定してたんです。

室町時代~江戸時代くらいは、こんな河原より一段高い場所。
旧街道から私有地の向こうには今の滝山街道が見えます。

明治時代に成ると馬車道に成り、馬車に合わせて急勾配を避けた遠回りの道が多く成りました。
…馬が坂道で耐えらんないからね。

多分、この旧街道、明治時代に成るまで使われていたんだと思います。
並木が有りますしね~。
この並木の樹木は若いです。
昭和に植林されたんだろうけど、昔から杉を街道沿いに植える習慣が有るなら、江戸時代に始まった習慣ですから。
織田信長公は戦国時代に既に並木を街道沿いに設置してましたが…
北条家でその類の逸話は聞いた事がないので関東では江戸時代からの習慣。

そこを過ぎると学校の敷地に行き当たります。
道も左に急カーブし今の滝山街道に戻されます。
アレ?
…何か不自然だなと思い、道をカーブした所まで戻るとなるほど理由がわかりました。

旧道は学校に一部分払い下げられコンクリートに侵食され歩く人がいなくなってるんですね、多分。
※ピンク色の写り込みは小生の携帯外部バッテリー

しかし、この学校敷地横の登り坂、旧街道から続いていたと思われる並木が続いています。
で、この坂は旧街道だと予測して突っ込んでみたんですが…
先で完全に学校の物置場にされていて進入すると怪しい人になるんで、ひとまず断念し今の滝山街道に出ました。

でもね!
土地の登記簿見れば多分、「道」って書いてあると思いますよ!
学校が歴史を知らず不法占拠してるか、さもなくば現在の滝山街道が整備された時に払い下げられたかのどちらかでしょう。

今の滝山街道に出たら出たで楽しいモノを見つけました!
乗馬クラブがありました。
まさか、こんな街道沿いに有るとは…
土曜と言うこともあり、沢山乗馬してる人がいました。
旧道沿いに純真女子大ってのが有ったから大学生も多く通うのかな?

で旧道散策に話を戻します。
この時点で旧道散策まだ諦めきれない小生…
乗馬クラブさんが道を挟んで納谷(なや)代わりにしている建物の横に、道の名残りを見つけて入ってみるとビンゴ!
さっきの学校の敷地の方から伸びてくる路盤(ろばん)がまだ有りました!
この道の状態から察するに、この道が使われなく成ってからまだ日は浅そうです。
多分、あの学校の拡張工事が行われたであろう何十年前のつい最近の話でしょうね。

しかし、この先は完全に道は消失し墓地化したりしていたので室町時代~江戸時代の旧滝山街道散策はひとまずこれまで。

最初の方で「平安時代~鎌倉時代の道は尾根道だらけ」と言う話をしましたが…

実はその平安時代の道も今回見つけてきました。

…と、言っても滝山城址のある滝山の尾根全体その古道の尾根の一部分なんですが。
その事は滝山城の一部分でもある御嶽神社(みたけじんじゃ)に行くと解ります。
今の滝山街道を右手に滝山城址の丘を見ながら歩いて行くと途中、山裾に御嶽神社の入口を見つけれます。
近くに金藏寺ってのが有るはずで…
…したが有りませんでした!
地図上には金藏寺って御寺が有りますが、事実上の廃寺みたいで御堂がないのでランドマークにはなりませんでした。

ですから頑張って御嶽神社の入口石碑を見つけて下さい。
後の時代に作られた急な階段を登ると尾根道の左手側に、御嶽神社は在(あ)りました。
厳粛な雰囲気ですね。
本堂は最近建て直したようです。

この神社の由来を書いた石碑を読むと、滝山城築城以前は付近の丘一帯が古道だった事が解ります。
何故なら源義家公の逸話が記載されてまして…
少し、その話をからめて説明します。

この御社(おやしろ)の本堂は元は蔵王権現堂(ざおうごんげんどう)で、蔵王権現と言う日本独自の神道と仏教が融合した神様を祀っていました。
その蔵王権現って神様は南北朝時代に後醍醐天皇が御所にもした奈良県吉野の金峰山寺の本尊でもあるらしいです。
因みに、滝山町の金藏寺、昔は聖徳太子が作った仏像が御本尊だったらしく元は由緒ある御寺で、御嶽神社の別当寺でもあったらしいです。
ここの元「蔵王権現」の御嶽神社で石碑を読めば解ります。

この御嶽神社=蔵王権現堂は元々、滝山城に在りました。
…滝山城の曲輪(くるわ=防御施設)の名前からして「山の神曲輪」に在ったんだと思います。
もしくは本丸かな?
そこから移築されたんですが…
元の場所に在った時代、鎮守府将軍 源義家 公が立ち寄られ社殿を再建奉納し中興(ちゅうこう=復興)しているんです。
つまり前九年後三年の役の軍事行動の際に、ここ滝山城跡が尾根道の街道で、義家公が通ったと理解出来る訳です。

滝山城散策で御嶽神社をついでにお参りする心算が、思いがけない碑文に出会い大変嬉しかったですね~。
石碑を立てて下さった氏子さんに感謝!

義家公も関わられていたり、蔵王権現信仰の史跡でもあり滝山城址、本当、歴史的な価値が高い場所ですね。

では、次回は滝山城址そのものの記事を書きます。
今回はここまで!

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平良文(たいらのよしふみ)公と言う平安時代の皇族臣籍降下武将をご存知でしょうか?
今の藤沢市村岡を本拠地にされ、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)や陸奥守(むつのかみ)を歴任された名将です。
今現在、御廟所は藤沢市の二傳寺(にでんじ)に在(あ)ります。
この↓御寺
良文公の御子孫は日本全国で有力大名や各大名の重臣に成りました。
その一部有名な方を数名あげてみましょう。
※良文公については別に「永谷天満宮(←クリック)」に関するスレでも紹介しています。
●鎌倉景政公
…関東では鎌倉市坂の下の御霊神社の御祭神として祀(まつ)られ関東全域の御霊神社で崇めらている。源義家公の与力の名将。
鎌倉御霊神社(←クリック)は別スレで紹介しています。
●上杉謙信
…元の名前が長尾景虎で鎌倉氏の分家の長尾氏の生まれ。長尾氏のルーツは横浜市栄区長尾台にあった長尾城址で、長尾城址は戦国時代に玉縄城の一部だった。
上杉謙信は言わずと知れた野戦で最強だった名武将。
長尾城址(←クリック)は別スレで紹介しています。
●大庭景義公
…源頼朝公の父君源義朝公の与力として活躍した武将で、藤沢市大庭城を本拠地にしていた。保元の乱で膝を負傷し弟の大庭景親に党首の座を委譲し茅ヶ崎市に居館を構えた。
●梶原景時
…源頼朝公に一番忠誠心が高く陰謀に長けた武将で敵勢力の有力武将や頼朝公に忠誠心の薄い武将の暗殺を実行した。源義経との仲が悪く讒訴した事でスッカリ悪人評価が定着。鎌倉幕府内でも嫌われ者に成ってしまった。徳川幕府における本多正信的な存在。昼ドラでヒロイン虐めるライバルみたいな扱いをされているが子孫に名将も多く、子の梶原景季や小田原北条家の水軍大将梶原景宗などがいる。
●三浦義明公
…言わずと知れた源頼朝公の一の与力。頼朝公の石橋山合戦に参加すべく三浦半島の横須賀市衣笠城で呼応し挙兵。援軍に行くも間に合わず、一族を頼朝公に合流させるべく房総半島に逃がし一族で一人だけ衣笠城に籠城し平氏軍を釘付けにし玉砕した。
衣笠城址の近所には源頼朝公が三浦義明公の菩提を弔う為に開いた満昌寺が在る。
衣笠城址は別スレで紹介しています。
満昌寺は別スレで紹介しています。
●千葉常胤公
…千葉県の県名の由来に成っている源頼朝公の与力で房総半島を束ねた名将。
●畠山重忠公
…良文公の子孫の秩父平氏の更に子孫で、源頼朝公に最も信頼され坂東一兵(つわもの)と言われた。北条義時の謀略により二俣川で討ち死にする。
子孫は関東管領上杉家の重臣豊島氏がいる。豊島氏は戦国時代初期の大名で領地は東京都豊島区北区を本拠地にし、横浜市北部まで及び、拠点は現代の石神井公園にあった石神井城だったが、扇谷上杉家の執事で名将の太田道灌公と対立し最後は横浜市港北区の小机城址で滅亡した。
小机城(←クリック)は別スレで紹介しています。
●佐原義連(さはらよしつら)公
…三浦氏の分家の佐原氏の人物で、今の横須賀市佐原城址を本拠地にした武将。源義経の活躍した神戸市福原攻めで勝因と成った「鵯越の逆落とし」奇襲を立案した名軍師。分析力に優れ、一族の和田義盛公や本家の三浦義村が北条義時の陰謀に次々と滅ぼされる中、北条義時と上手く距離を測り鎌倉幕府内で生き残った。彼のお陰で佐原氏が存続し三浦家の血筋が絶えずに済んだ。佐原氏の開基した清雲寺は三浦一門の菩提寺として現在も存続している。
清雲寺(←クリック)は別スレで紹介しています。
●正木時茂公
三浦氏の分家佐原義連公の更に子孫の相模の戦国大名三浦時高の孫。戦国時代房総半島の名将で里見八犬伝で有名な大名の里見氏の盟友。
水軍を率いて父祖の故地である三浦半島の城ヶ島に上陸すると短期間で三崎城〜鎌倉市街までを制圧した軍才に秀でた武将。戦死した国府台合戦でも小田原北条家を散々に痛撃した。玉縄城主北条綱成公の迂回奇襲に敗死するも朝倉宗滴から織田信長公等名将と並び称せらた名将。
●和田義盛公
…三浦氏の分家で、鎌倉幕府初代侍所所司。彼の築いた怒田城の縄張りや野庭城の立地を見ると、鎌倉時代に既に戦国時代の様な山城を築城し尚且つ主要街道や港湾の入口を見事に抑えており軍政家としての手腕が高かった事が垣間見える。
また彼は平安時代の武士の中でいち早く街道に関所を設け通行税を徴収するなど
、経済政策能力にも長けていた。
●葛西高清
…平良文公の子孫の秩父平氏の子孫、その中で今の葛西臨海公園辺りを治めたのが葛西氏。その後、室町時代には宮城県北部〜岩手県南部を治める30万石相当の大大名に成っていたが、葛西氏は伊達政宗の軍門に下り没落した。
●朝比奈泰朝公
…和田義盛公の子、朝比奈義秀公の子孫。今川義元家臣。朝比奈義秀は和田義盛公と元:源(木曽)義仲の奥さん巴御前との間に生まれた猛将で和田合戦で散々に北条家の武将を追い詰めたが敗戦、逃亡した。子孫の朝比奈泰朝公も祖先よろしく名将で、没落した今川家を最後まで支え掛川城に籠城し、実に5ヶ月間も徳川家康の猛攻を耐え抜き和議を引き出し暗愚な主君今川氏真の命を守り切った。
●芦名盛氏
…和田義盛公の子孫で祖先は三浦半島佐島マリーナ近くの芦名城址を居城にしていた。芦名盛氏は今の会津若松城を本拠地にしていた大大名で伊達政宗のライバルだった。他国と外交で伊達政宗を孤立させ窮地に追い込んだ名将。

歴史の教科書に載る超有名人物とゲームに登場するようなメジャー武将だらけですね。
源家が鎌倉幕府を開き日本全国を統治出来たのも、その与力武士団として平良文公の御子孫が加わり戦で活躍されたからなんですね。

さて、平良文公の御廟所ですが、冒頭で紹介した通り二傳寺の中にあるのです。

この石碑の裏山に御廟所があります。
お姿を拝みたい方はどうぞ御自分でお参りしてみて下さい。

実はこの御廟所、二傳寺のご住職のお話によると標高が藤沢市内最高地点で相模湾防衛に適した場所だそうで第二次世界大戦のおりにも米軍の首都上陸は相模湾から行われる事が想定され陸軍が二傳寺の廟所に砲兵を配置していたそうです。
そして実は戦国時代も武田信玄や上杉謙信を撃退した玉縄城の一部の二傳寺砦として機能していました。
玉縄城(←クリック)については別スレで紹介しています。
流石、醍醐天皇の信任厚く鎮守府将軍や陸奥守を歴任された名将…
はるか昔の平安時代に戦国時代ばかりか近代戦争にも通用する防衛拠点になり得る村岡郷を本拠地されるとは…。

みなさん、平良文公がいらっしゃったお陰で鎌倉幕府が成立し、生粋の日本独自の武士文化が発展したんですが…
神奈川県や東京都、千葉県の今日の発展の基礎を作って下さった平良文公の事と御廟所のある二傳寺と居城の村岡城址を頭の片隅に留め、近くに立ち寄った際は是非!御墓参りし感謝を心の中で良文公にお伝えしてみませんか?

因みにご住職は御多忙な方ですが、明るく優しい気さくな方で、村岡の地勢を詳しく説明して下さいました。
御近所には玉縄城主北条綱成公が開基された龍宝寺と、徳川家康が鷹狩の拠点に利用した長尾家の菩提寺久成寺もあります。玉縄城址探訪として3つの名寺を合わせてお散歩訪問されても有意義かなと思います。
御近所には大船フラワーセンターもありますよ〜!

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