歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:比々多神社

冠大明神 比々多神社(延喜式内社・相模国三之宮・古代遺跡に囲まれた聖地)
比々多神社元宮(戦国時代の戦火で焼失した元の神殿が在った場所)
埒免古墳(建設業者に破壊された古代豪族古墳で旧境内の聖地)

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  御祭神・御本尊等:豊斟渟尊(とよくむぬしのみこと:豊国主命)・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)・稚日女尊(わけひるめのみこと)・日本武尊・大酒解神(おおさけとけのかみ:大山祇大神)と小酒解神(こさけとけのかみ:木花之佐久夜毘売)の父子神。  
  御利益:子宝・縁結び・子孫繁栄・地鎮・戦勝・酒造業繁栄・服飾業繁栄・交通安全(陸)・
  関係者:
  開基:神武天皇
  中興:崇神天皇
          垂仁天皇
          持統天皇
          孝徳天皇
          聖武天皇
          淳和天皇
          相模国司  布施 色布知 公
          初代宮司  紀     益麿 公          
          相模国司  橘     峯嗣 公                      
          征夷大将軍 源  頼朝 公
          相模守護  三浦 道寸 公
          征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡
  所在地:伊勢原市三ノ宮1472番地周辺の高速道路~丘一体全て旧境内地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
比々多神社の縁起にある歴代天皇から信奉された逸話を証明するかの様に、神社の周辺のみならず旧本殿の在った場所や境内からも縄文〜奈良時代の遺跡や古墳が大量に発掘されている周辺地域を含めて文化的歴史的にも重要な神社。
古代より天皇家や将軍家から信奉され、背後に控える大山と大山阿夫利神社を信仰対象とした古代人の聖地を引き継いでいる神社。
また管轄する神社に関東で子宝安産の神様として有名な子易神社の本家本元を抱えている。
源頼朝公と北条政子様が御夫妻で子宝安産祈願をして成就した御利益が有る。そして関東の古豪名門武士団の三浦家からも崇敬された。由緒有り歴史的価値に富む神社。
裏山のミカン畑の中の古代社殿跡の元宮でだが、そこに至るまでの広大な範囲が旧境内地。
元宮に至るまでの広大な土地は前政府の宗教政策と太平洋戦争の敗戦時の宗教政策で土地が接収された。
元宮に祀られる祠も自由に御参り出来る。元宮に行く途中の恵泉女子短大園芸生活科伊勢原校舎は古代の比々多神社境内地で埒免(らちめん:埒=防護壁、免=面=削平地・・・壁で囲まれた聖域)の名で呼ばれた聖域だったが、神奈川県教育委員会がその重要性を無視したまま発掘調査を怠ったばかりか恵泉女子短大伊勢原校舎建設時にも事前調査を行わず、結果的に発掘中に古墳が破壊され土木作業者によって多くの出土物が略奪された。しかし一部は義挙した比々多神社宮司家と氏子衆によって作業者から買い戻され、比々多神社内に併設された郷土資料館に保管展示される事となった。
併設されている郷土資料館では、古墳群から出土した宝剣等を見学出来ます。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、七人塚~上粕屋神社~関東屈指の大城郭糟屋館遺構)←これの続き・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
糟屋舘周辺の散策を終えて洞昌院に戻り御住職に非売品の御守りを授与されてから車に乗り出発、10分程度で次の参拝先の相模国三之宮の比々多神社へ到着した。
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延喜式内社 三之宮 比々多神社
この神社は有鹿神社や寒川神社や大山阿夫利神社等の古社に比肩する凄い場所で、旧境内地からは縄文時代からの祭祀遺跡や古墳時代の豪族の墳墓が多数出土している聖地に存在している。
そこら辺りは以前に紹介記事を書いたので読んで貰えると解り易いかと思う。
以前書いた記事→比々多神社…縄文時代~現代まで存続する神社…神奈川県伊勢原市。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
何でここが古代早くから開けていたかと言えば、目の前を街道が通っており、更に現在の平塚市域等の県央平野部は縄文時代まで海だった影響で湿地帯が広がっており弥生時代に成るまで人が住める場所が少なかったので、現在では大山山系麓の丘陵地帯に位置する比々多神社周辺が人の住める地域だったと言う地形的な理由にも起因している。
そして郡衙が近くに存在していた事も推測されている。郡衙と言っても相模国成立以前の豪族首長が住む小国の国府が起源に成っている訳で、それ故に金環鉄刀やら勾玉やら大量の出土品が出る聖なる土地な訳だ。この一帯は古代人が聖地として崇拝した大山の山頂へ続く参道でもあったので尚更栄えた訳だ。
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この様な場所が神奈川県には多数有り、それ故に仁徳天皇の弟皇子である莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)も古墳時代に現在の神奈川県域に移住して来た訳だ。横浜市本牧や武蔵国南部では軍馬生産が盛んな朝廷の牧場が存在していた事も判っているし、鉄器の製造も比較的早くから盛んな地域だった。
なので天智天皇が馬で山科方面に外出したまま行方不明に成り(暗殺だろう)、弟皇子の大海人皇子が兄帝の天智天皇の子で甥に当たる大友皇子に反逆し軍を率いて蜂起した際に与力したのが東海・関東の豪族達だった。特に現在の千葉県は強大な軍事力を持つ土地だったので、後に上総国下総国等は“親王赴任国”となり皇族しか国守に成れない制度が確立される程だった。
まぁ、天皇家の歴史に関しては各時代の天皇にとって先帝の血筋を武力や陰謀で絶やしたり不都合な事も有って諸説有り正直な所現代ではどの記録が本当の事かは解らない。
まぁ、天智天皇は相模国を重視していたので古代一之宮、今五之宮である有鹿神社で国家鎮護の祭祀を執り行わせ海老名を国府にしたり、古墳~奈良時代の天皇家は特に熱心に神奈川県中央部の延喜式内社や神仏習合の聖地霊場にも関与している事が書物や各神社の伝承から読み取れたりする。
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比々多神社始め神奈川県内の延喜式内社は天皇家が神仏供に大切にした歴史と同じく、神仏習合時代の文化も大切にしているので比々多神社には鐘楼も現存していて、昨年大晦日は除夜の鐘を突かなかったので訪問した正月2日にして心願を込めて比々多神社で鐘を突かせて頂いた。
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寒い1月、境内の焚火が参拝客の手を温めてくれる。
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現在の本殿は古代から戦国時代までの境内地の元宮の遥拝所に当たる位置に存在する。
この比々多神社では御正月に御参りすると横にテントが在り、そこで小さな御守りを無料で授与して下さる。
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御正月の間だけ、臨時の学生巫女さんと神職君が多数雇われており、本殿横のテントでは巫女さんが無料で簡易的な御祓いをして下さり、それが終わると神の護符を授与して下さるんだな。
小生は毎年、これを受領しに参拝している。
参拝を終えて巫女さんに御祓いと比々多神社の護符の授与をして頂き、近くに比々多神社元宮に移動した。
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元宮に行く途中に、古代比々多神社で聖地として大切に守られて来た“埒免(らちめん=囲われた土地=聖域)”の地名が残っていたのに神奈川県教育委員会が保護も事前調査もせずにキリスト教系の恵泉女子学園に破壊容認してぶっ壊した埒免古墳の旧蹟地が在る。
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このキリスト教系大学にも卒業生にも罪は無い。しかし教育委員会には罪が有る。教育委員会は日本文化に無知なキリスト教系大学による神道の聖地の破壊を誘引してしまった訳だ。
この罰当たりな行為のせいか恵泉女子学園は閉校してしまった。これを祟りと感じる人もいるだろう。
でも通った学生さんや働いた職員は例えクリスチャンでも歴史と事情を教育委員会から知らされていたら比々多神社にも敬意を払っただろうし、無碍な古墳破壊もしなかっただろう。
まぁ、こんな神奈川県の教育委員会の罪は比々多神社一箇所に止まらず死ぬ程有って、例えば現在進行形で他府県なら史跡指定受ける筈の続日本100名城の一つに選定されている小机城を開発利権絡みか未だに史跡認定せずに放置していたりする。横浜市最大の蛍の生息地で古代遺跡が大量に出土する地でもある円海山の瀬上沢周辺も東急不動産の開発利権の為に保護を怠り開発容認する発言を林文子市長が行っており、市民から大バッシングを受けている真っ最中だったりする。
更に戦国時代の小田原城の虎口跡の百姓曲輪と、戦国時代初期の関東最大級の規模を誇った扇谷上杉家の大城郭糟屋舘跡の開発許可も昨年、黒岩県知事が陣頭指揮をとって保護すべき所なのに逆に肝腎な城砦遺構残存部分は未調査なまま開発許可が出され現在進行形で破壊の真っ最中だったりする。
昨年は傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャルが、北条家相模十四騎筆頭、間宮家の居城の横浜市笹下城址の伝:本丸と大空堀地形を掘削したり盛土して破壊した宅地化が林文子横浜市長の統治の下で行われ消滅してしまった。
残念ながら神奈川県や横浜市でまともな歴史教養と古来の日本文化と宗教に対する敬意を持っているのは有吉忠一先生や細郷横浜市長や高秀横浜市長くらいだった。
後は博徒系ヤクザ組長の息子が支持者でカジノ作りたがったり海の埋め立て工事の開発利権で建設業界の支持基盤にする市長みたいな売国奴や奸族ばっかりだ。
コイツ等のせいで日本有数の景勝地だった金沢八景の眺望も消されたり、日本有数の霊場だった弘明寺は境内地を大幅に接収されて縮小したり、源頼朝公が開き皇族が宮司を務めた森浅間神社や修験道の大道場だった泉蔵院等も同様の被害を受けて来た。
森浅間神社からは比々多神社同様に古墳が出土している事から鎌倉時代以前から聖地霊場だった場所を頼朝公が修験道系神社として整備させた事も推測出来る。
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現在では埒免古墳のレプリカさえ一般人は近寄る事が出来ず、旧恵泉女学園大学のフェンスの外から写真を撮影する事しか出来ない。
でも元宮は社殿こそ戦国時代の三浦家と北条家の抗争に巻き込まれ焼失したまま復興されなかったが、旧境内地が明治昭和の宗教政策で一般人の土地と成っても徳の高い地元民に守られて旧境内地として存続した。
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近年では元宮の祠(ほこら)がパワースポットとして若者に知られる様に成り(小生の拡散も有り(笑))眺望の良さからも比々多神社参拝のデートコースに成り恋人同士の参拝者を見かける事が多く成った。
少しでも日本文化の役に立ち神格を得て拝み奉られる古代人や歴史偉人に今の日本が有る事と平和を享受出来る事へ恩返しが出来たら嬉しい・・・それが小生の願い。
そして多くの人が神社や御寺を御参りする事で不安感を抑えられたり、生きる活力に成ると嬉しいとも思う。
小生もカップルと親子連れの参拝者に続いて比々多神社元宮を御参りして駐車場に戻ると、次は伊勢原市中心部に在る伊勢原大神宮に向けて移動した。
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伊勢原大神宮伊勢原大神宮は江戸時代に開かれた神社なのでハッキリ言って歴史は薄い。
でも町中の普通の規模の神社としては大変に多くの参拝客で賑わう場所で、境内社の御稲荷様の鳥居も小さいながら立派な明神造りで扁額が掲げられ大切にされ御金もかかっている事が解ったりする。
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伊勢原大神宮は現代では縁結びの神様として有名だが、小生は別の用事が有って参拝した。
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実は伊勢原大神宮の宮司様が延喜式内社高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)の宮司を兼務されておられる都合で、高部屋八幡宮の御朱印はこちらで授与して頂く事に成っているのだ。
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境内には市の私邸保存樹木の大銀杏が有る。
御正月なので先に参拝した比々多神社同様に巫女さんが沢山いらっしゃって、この日は御屠蘇を巫女さんが振舞って下さった。
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小生は車なので口を付けて終り。でも御口清めれて嬉しい。
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御朱印帳を社務所にお預けし待つ間、ここまで珈琲を飲んだのみで朝食も食べていなかったので屋台で売っていた磯部餅と甘酒を購入し朝食代わりに頂いた・・・この時11時半位だったろうか?
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家を出発したのが3時位だったので腹ペコだった。
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甘酒を飲んだのは久しぶりなのでともても美味しかった。
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境内ではダルマさんの製造元が直売も行っていた。荒井だるま屋さんだな。
気さくな社員さんが色々と詳しい説明をして下さった。創業150年の老舗だそうだ。略、横浜開港と同じ程の歴史が有る訳だな。
神様への御参りを終えて社務所に行くと御朱印も書きあがり受付に準備されていた。
高部屋神社御朱印 久良岐のよし
実は以前、糟屋有季公の顕彰活動で別に高部屋神社の御朱印は受領していたのだが、今回は延喜式内社と式外社専用の御朱印帳に改めて頂に上がった次第だ。
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この日は丁度、箱根駅伝の開催日だったので宮司様の取り計らいで神楽殿のプロジェクターを使って中継の様子が上映されていた。
小生はこの後の訪問予定がギッシリ埋まっていたので、箱根駅伝に後ろ髪を引かれながら伊勢原大神宮近くのコインパーキングに移動し車に乗ると、次の訪拝予定の高部屋神社へいどうした。
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高部屋神社
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高部屋神社は昨年、社殿が国指定有形文化財に認定された神社で、古代から存続する延喜式内社の一つだ。
社殿の周りを取り囲むのは聖なる木、1円玉のデザインにも成っている招霊樹(おがたまのき)だな。
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この神社は明治時代まで古代からの宮司が海まで海藻を採取しに行く塩汲み神事が行われていたが明治の宗教改革の失敗で神道も仏教同様に衰退し一時断絶していたのを昨年150年ぶりに今の宮司様が復活させた。
現代の伊勢原大神宮の宮司様が兼務されているのだが、古代からの神事を現代に復活させる試みは本当に素晴らしく、神職として日本文化を守る気概に満ちていると思う。
東京新聞の記事→伊勢原の高部屋神社 大磯の海岸で執り行う
以前、小生もこの神事を記事に書いて紹介した甲斐が有ったと思うし、この神事が中絶しても語り継いで下さった氏子さん達には敬意を感じている。先一昨年だったろうか、この古代から続く神事の事を小生に伝えて下さった氏子さん、本当に良かったですね!
以前書いた高部屋神社の記事→
高部屋神社で氏子さん達と「文化財登録おめでとうございます」等と雑談を色々と10分程話し込み、次の目的地であり戦国時代の毛利家の発祥地愛甲郡毛利台へ移動した。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤に続く。










 

平成廿九年 正月 二日の休日雑記の続きを書く。
前回の休日雑記で2017年1月2日訪問先の【前編】←コレでは川崎市橘樹郡の郡衙として機能していた橘樹神社~中原街道を走って川勾神社に辿り着き参拝した所までを書いた。
川勾神社は延喜式内社にして相模国二之宮の格をを有する由緒正しい“長閑な田舎”に鎮座する雰囲気の良い神社だ。
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参拝を終えて、アルバイトの巫女さんが多くいる長閑で正月の華やかな雰囲気の境内を一しきり散策して車に戻った。
次の目的地は六所神社。
行きたい場所は事前に頭の中で整理して置いて、当日は中原街道を走って運転中に予定を決めた。
川勾神社の到着予想時刻から逆算し川勾神社から東海道沿いに相模国六所の神社の内の数ヵ所と、それとは別の式外社、史跡を巡ってから毎年「神奈川県の土地神様」として御参りしている三之宮比々多神社を日没までに参詣する最終的な目標にする事にした。
川勾神社から六所神社は車で30分とかからず近い。隣の大磯町に所在する。
大磯と言うのは明治時代に“湘南”の地名の発祥地と成った場所で、その由来は中国の地域名に由来する。
多くの小高い丘を有し海に面した地形が三国志に登場する漢帝国の行政区、荊州の中の長沙城一帯にあった湘南地域に似ている事から名付けられた。長沙と言えば三国志で❝江東の虎❞の異名で知られ孫子の子孫を自称した名将の孫堅が一時的に太守として赴任していた場所だ。
明治の元勲達は脱亜入欧を唱えたものの、中国文化に対しては敬意を持っており造詣の深い人物達が多かった。彼等の多くは明治政府樹立後に大磯町や鎌倉市や三浦半島の逗子市に別荘を持っていた。
そんな訳で、大磯町には三井家の別宅も存在したり、御金持ちの一大避暑地と成った。
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その大磯辺りは海岸の横の東海道の松並木の崎に富士山が見える何とも風流な地域だ。
当時の鎌倉市や三浦半島逗子は“湘南”には含まれていない。
昨今、県外から移民してきた現代の神奈川県民が勝手に鎌倉や逗子も湘南地区の一所に数えているが、鎌倉は鎌倉、逗子は逗子で確固たる地位と歴史と習俗を備えており新興の観光地の大磯町近辺と一緒にされるのは生粋の鎌倉市民にとっては心外な事だろう。
とは言っても大磯町は古代に磯長国の国府が置かれ後に古代の相模国国府も暫時置かれていた場所、当然、鎌倉よりも古代に於いては高い地位に有った町だったりする訳だ。
さて、そんな事をこの日考えていた訳では無く、車に乗った時に考えていたのは・・・
「たこ焼き美味しかったなぁ~」
・・・だった(笑)。
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六所神社に到着すると、先ずは東海道に面している大鳥居付近にて箱根駅伝の交通規制開始時間を交通誘導員のオジちゃんに尋ねて大凡、この時点から1時間後と言う事が解った。
この時点で参詣後に無理をして車を出すのを諦め、六所神社参詣後は箱根駅伝を沿道で観戦して楽しむ事にした。
六所神社の大鳥居から境内に徒歩で戻る。
実は現在、JR東海道線の線路で境内と参道は寸断され、地下道で繋がっている。その地下道の手前右手には明治の神仏分離令まで六所神社を別当寺として守って来た御寺が鎮座している。CIMG2148
摩尼山寶積院(まにさんほうしゃくいん)。真言宗の御寺なので、かなり古い時代から存在するのだろうと、山門代わりの石柱を見て思ったが、御寺には由緒の説明が無かったので後日、大磯町観光協会様のホームページを拝見して見た所、藤原氏に弾圧されながらも後に聖武天皇の御墨付を賜って大僧正の法号を賜った行基大僧正の開基と言う事だった。
つまり、奈良時代、天平年間以前に御寺が開かれていた事に成る。
行基大僧正や弘法大師空海和尚はどうやら日本の神々を大切にされていたので、その聖跡に多くの御寺を建てて廻っているのは小生のブログの読者は既に知る所。
この六所神社も相模国の成立後の国府設置で神様(豪族の祖先)同士がモメた(笑)伝承を神事として現在も伝える国府祭(こうのまち)の祭礼に登場する神社の内の一座だ。
現代では神様を一柱の様に数える単位を“柱”で表現するが、昔は神社自体は一座の様に“座”を数える単位にしていたので小生は古代の風習に準じ現代に於いてそう書く。
座は座(ざ)と読むが、神奈川県では特に古代は座(くら)と読んだ。他地域の事は知らない。
高座郡は今でこそ高座郡(こうざぐん)と呼ぶが古代は高座郡(たかくらぐん)と読んだ。
これは弥生時代に米の生産が盛んに成り、それを保管する場所に高床式倉庫(蔵=くら)が建設される様に成り、やがて住まいも竪穴式住居から高床式住居に発展し、更に古代の豪族の酋長=王=上様(かみさま)=神様達の住居として高床式倉庫を発展させた宮殿が造営される様に成った歴史そのものの名残りが「座(くら)」の読み方の由来だろう。
出雲大社の古代の社殿や、現在の神道の神社の神様のおわす本殿部分は完全に弥生時代の高床式倉庫を継承した外観に成っている。
さて、JR東海道本線の線路の下の隧道(すいどう=トンネル)をくぐり抜けると立派な御神木が左手に現れる。
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梅と桜と紅葉以外に興味が無く風流さと植物に対する造詣の欠けた小生には何の木かは解らないが、昔から参道の御神木として大切にされたんだろう。
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六所神社は大変に賑わっていた。
それはそうだろう。
此処(ここ)に御参りすれば一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、仮称五之宮鶴峯(平塚)八幡宮の全ての御利益を授かれるのだから。
何故かと言えば、六所神社の名が示す通り、ここは相模国の総社だったのだ。
これが国府祭神事にも関係してくる訳だが、その話は又今度。
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六所神社の境内は現代では凄く広い訳では無いが、住宅街の中に在って規模は大きい方だと思う。
この日は延喜式内社と式外社専用に購入した鷲宮神社の御朱印帳に改めて、六所神社の御朱印を頂き参拝した。
この日の訪問は別の目的も有った。神社の方に古代から国府祭の神事が行われている神揃山の中の聖地の位置を教えて貰う事。
神社の方はとても親切で、簡単な地図を下さり丁寧に説明をして下さった。
神揃山の場所は解るが神事を行う場所が解り難く、事前に調べないと必ず迷う。
観光客向けの神事は現在では国府本郷の馬場公園で行われているが、ちゃんと一之宮~六所神社の宮司様達が一堂に会して古代からの神事を行う場所を訪問しておきたかったから、この機に写真撮影も兼ねて訪れる事にしていた。
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そんなこんなで、六所神社境内を散歩しながら写真を撮影し、御朱印を頂いた頃には東海道沿道での箱根駅伝観戦に丁度良い時間帯に成っていた。
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事前のリサーチ時に係員の方から頂いていた旗を構えて選手を待つ。
・・・反日朝〇新聞の旗じゃなくて良かった(笑)。
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暫くすると先行の白バイ隊が来た。
その後に少し珍事が有って、片側車線規制を無視したDQNの運転する車が覆面パトカーに捕まって観衆の嘲笑の対象に成っていた(笑)。
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中継車では無くて監督の乗る車両かな?
この駅伝見学で一番感心したのは、報道のヘリコプターの操縦技術だった。
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ずっと道路に対して横向きでホバリングしたまま、東海道を東京都の出発地から、この大磯まで選手のスピードに合わせて中継して来たらしい。
こんな事に感心しながら選手の到着を待つ。ヘリの位置から駅伝選手の先頭集団の通過が間もなくで有る事が推測出来て周辺がザワつき始める・・・
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選手が通過する。沿道の人々から「頑張れー」の声が連呼され拍手が巻き起こり旗を持つ人は選手に向かって旗を振り鼓舞する。
何とも爽やかな時間を皆で共有する瞬間。小生はスポーツ観戦に平素興味が無いが人を応援するのって気持ちが良い。以前は格闘技をやっていたので総合格闘技の試合を良く見たが、それとは違う青年達を面識の無い人々と一緒に応援する清々しさ・・・悪くない。
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選手達は原付程の速さで走り抜ける。時速25kⅿくらいは出ているんじゃないだろうか?
これで走り続けるのは感心する。
そして長距離走選手達を見ていて思ったのは、皆、身体が小柄で体重も軽そうな事だ。やはり長距離を疾走するには燃費の良い身体では無いと無理なんだろう。小生の瞬発力と膂力(りょりょく)に特化した遺伝子とは明らかに異なる。
まぁ、小生は小生で人を持ち上げて放り投げる位は簡単に出来るのは他人からすれば長所でもあるのだろうが・・・そんな物は、彼女や奥さんがいる人しか使う必要が無いので目下小生には必要の無い無駄な筋肉だな。
駅伝を一頻(ひとしき)り観戦し、交通規制が解除されたのを確認して六所神社の駐車場に戻り車に乗り込んだ。
六所神社から神揃山は車で10分程度と近い。
まぁ、問題は先に説明した通り予備知識が無いと迷って聖地に辿り着けないと言う事だ。
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最初に馬場公園(ばんばこうえん)を訪れた。
馬場を関東~東北~北海道では古来、馬場(ばんば)と発音した。これは騎馬文化が広まった古墳時代の関東弁の名残だろうか?近畿を除き、九州四国中国関東には共通する言語が方言に多い。これは古代の正しい日本語の名残りだと思う。それらとも違うアイヌ語にも多くの共通する言葉が有る。
古代の日本人は「神(かみ)」と書いて「神(かむ)」と読んだが、やはりアイヌ民族は神を神(カム)と呼んだ。
神居古潭(かむいこたん)はアイヌ語で「神の御座所」と言う意味が有る。
恐らくアイヌ語は古代の縄文語だと思う。
小生はアイヌ人を生粋の九州人や関東人と同じ縄文時代に分岐した同族だと推測している。
東日本を開拓し縄文時代から弥生時代の変革を齎したであろうた素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御神孫の出雲神族が東日本の延喜式内社では多く祀られている。その際に、素戔嗚尊の開拓の及ばなかった地域がアイヌ民族として残ったのだろう。
アイヌ語で首都の事を「カイ」と言うそうだ。これは東日本に於ける縄文文化の中心地が甲斐国周辺に有った事を示唆している可能性を想像させる。
律令制度下で甲斐国が成立するが、それ以前はもっと広大な範囲を甲斐と呼んでいたかも知れない。
そういった意味で、アイヌ民族の文化の中心地的なルーツが関東甲信に在るのじゃないかと何となく思っている。
伊豆大島や箱根山系からは金属の無かった縄文時代に刃物に加工しやすく重宝された黒曜石が産出される。
さて、そんな事を思い出させる馬場(ばんば)公園の名前だが、本来の神々が集うた聖地である神揃山は、そこから徒歩圏内。但(ただ)し、川勾神社や六所神社で頂ける資料では記された登山口から辿り着くには非常に林道が解り難い。

神揃山登り口 久良岐のよし
そこで小生が❝Google map❞に❝神揃山❞の位置を登録しておいたので、訪れたい人は検索して見ると辿り着けると思う。馬場公園から北側の山の稜線、最西端の南部が神々の集うた場所。
しかし、六所神社等で頂く資料だと登山口に指定されているのが、聖地の北西からで林道も荒れており非常に判り難(にく)い。
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特に観光地でも無いので案内看板も存在せず、最初の訪問時、小生は林道らしき道を進み続けて北側の見当違いな場所に出てしまった。馬場公園から北を見て一番西側の細長い丘を右手側から廻ると簡単に辿り着ける。敢えて説明の林道を歩く必要は無いので、直接、聖地の横の階段から登れば良いと思う。
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神様(の子孫の古代の酋長=宮司)達が、ここで対峙して話し合いを行ったそうだ。
その並び通りに各神社の名前の彫られた石柱が有り、古代に神様が腰かけたであろう神体石が現在では神様の依代(よりしろ)として現存している。
特に社殿等存在しないが恐らく、古代は、ここが六所神社の前身と成った❝柳田大明神❞そ所在地だと推測している。
この聖地が削平地なのは社殿か豪族の宮殿の跡地ではないかと推測している。発掘調査をすれば、高床式住居の遺跡でも出て来る気がする。
何故ここが柳田大明神の元宮と推測するかと言うと、神話の時代の前半期、縄文時代~弥生時代は現在の六所神社の所在地は海底だったからだ。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
神揃山は現在は丘だが、昔は海に突き出した細長い半島の先端だった筈なので、延喜式内社が湧水地、半島の付根と先端に開かれた歴史事実とも整合性が有り、小生の推測は間違っていないと思う。
そして、現在、柳田神社が六所神社と呼ばれ相模国総社と成ったのは、この聖地に鎮座していた柳田神社が話し合いの場で相模国の豪族が融和し神話通りの戦乱が拡大するのを回避した事件が起きていたのだろう。
それ故に総社と成ったのだろうと推測出来る。
恐らく、この事件が起きたのは雄略天皇の時代だと思う。つまり日本史の文章に残らない空白の古墳時代の事。
まぁ、恐らく当時は、ここでの話し合いでの席次の譲り合いや座問答に至るまで、大小の軍事的な衝突も有っただろう。
当時は青銅器も既に生産されていた筈だから、殺傷力の強い銅剣や武具を装備した軍隊同士の戦いだった筈で、縄文時代~弥生時代の様に、石鏃の弓矢や石斧の様な兵器から、より鋭利で頑強で生産効率の高い金属兵器に変わっていたので戦い方も古墳時代には大分変わっていた筈だ。
東京国立博物館所蔵 土偶画像借り物 久良岐のよし
この甲冑を来ているのは酋長クラスの古墳から出土される事の多い甲冑に近い、奈良時代の物。右の土偶は東京国立博物館所蔵の埴輪の画像の借り物。
小生は個人的に弓矢合戦が主流だった平安末期~鎌倉時代の箱型の大鎧よりも戦国時代の派手派手しい甲冑よりも、この古墳時代の甲冑のフォルムが実用的で格好良く好きだ。まぁ、この時代の甲冑は戦国時代と比較すると下半身がガラ空きなので問題が有るのだが。
古墳時代位成ると、こんな鎧武者が登場して戟(げき)や戈(か)や鉾(ほこ)と呼ばれる武器が歩兵の主流武器だった。
だから平安時代の武士の弓合戦の後の太刀打ちの戦いとも違うし、室町時代の薙刀(なぎなた)や槍(やり)の薙ぎ切り刺す戦い方とも違い、古墳時代は弓合戦の後で歩兵同士の乱戦が主流だったはずだが、これは三国時代の卑弥呼政権以来の中国の兵器導入の影響が色濃く残っていた証拠だな。
引っ掛け倒して刺すとか穂先が大型の兵器で圧し切る様な戦い方。
まぁ、国府を何処にするかで佐賀牟国と磯長国が恐らく争った訳だが、話し合いで決着を付けたのは日本人らしい神話だと思う。
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神揃山は説明の看板も有るので、神揃山~馬場公園~六所神社は良い散歩コースに成る。
御近所の方なら御弁当用意して散歩するのも良いかも知れない。
神揃山の丘を降りて車に戻り、次の目的地の大磯城山公園に移動した。
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この山は明治以降、三井財閥の三井家の別荘が建っていた場所で、古代から住み心地の良い場所だったらしく、その丘陵には多くの横穴式古墳が存在する歴史遺跡でもある。
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立派な門。
だが、これは当時の物とは違う。
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元々は茅葺屋根で、廃仏毀釈の影響で荒廃した奈良の薬師寺と菅原寺の建材を引き取って再利用したらしい。
東京の浅草寺からも建材が再利用されたらしい。
東京の浅草寺と言えば、江戸時代初期に北条家臣で金沢八景辺りを治めていた伊丹家の子孫が浅草寺で高僧に成っており、その人物が祖先の故地である金沢八景、当時は金沢小泉と呼ばれた土地に小泉弁財天を開いている。小泉弁財天は現在では手子神社と呼ばれるが、元々は源頼朝公が開いた瀬戸神社の御分霊を勧進されて開いた由緒ある神社だったりする事を、この説明書きから思い出す。
瀬戸神社は金沢八景駅前に今も鎮座しているが、その境内の鎮守の森だった周辺の山は横浜市教育委員会が歴史的価値を無視して保護せずに土建屋に開発させてしまって近年消滅した。
神社と言うのは社殿だけで神社ではなく、周辺の山や池が聖地と成っていて初めて成立する事を、左翼が跋扈し左翼建設利権にまみれた横浜市の政治家と教育委員会は重要性を理解していても黙殺して破壊させる。
この城山城址公園の歴史史跡としての自然環境を保護する大磯町やその周辺自治体とは、横浜市の程度は雲泥程の差が有る。
大磯町教育委員会の素晴らしい仕事を、この場所の存在自体が示してくれている。CIMG2221
ここは城山城址公園と呼ばれるだけあり、源頼朝公が論功行賞を行った城址と解説が有るが、三井家に庭園化された時代に城址の防御施設は撤去されたか、はたまた海辺の風の強い土地柄、風化したのか遺構らしい物は余り残ってはいない。
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しかしながら、この写真の場所には三井家のべっぞうだった時代には更に鋭角な谷地形が有ったらしいのだが、これは明らかに尾根を断ち切る堀切の遺構だろう。
そして、この尾根自体が左右を鋭角に切り出し道幅を狭くした城壁状にした切岸だろう。
源氏と坂東平氏流の鎌倉時代の築城術に多く見られる。
平安末期の三浦家の本拠地の衣笠城址、鎌倉市街を取り囲む鎌倉城、金沢北条家の称名寺を取り囲む金沢城の稲荷山等は正に、この大磯城山城址公園の数少ない遺構らしき地形が現在も多く残っている。
拡大して貰えると読めるかも知れないが、頼朝公がここで論功行賞を行った事等が、教養の高かった昭和前期の人々によって石碑に彫られて紹介されている。
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実は戦前の神奈川県の役人は非常に教養が高く、多くの歴史史跡に後世に伝える為に石碑を建てて説明を詳しく書いてくれている。
しかし、現在の神奈川県教育委員会は教養が浅く、こういった事実も知らない人が多く、平気で歴史史跡を宅地開発させる政治家と結託して遺跡を破壊させてしまう。城址は文献に載る場所も、伝承が伝えられている場所も特に横浜市は発掘調査せずに破壊させている場所が殆どだ。しかしならがら明治~戦前の高い教養を持った人々が建てた遺跡によって、その悪事がバレる事も有る。
歴代でも一番酷いのは昭和30年代の他都市育ちの市長達、そして現在の林文子市長だ。林市長に関しては岡崎トミ子と言うテロリスト支援者出身の極左活動家を政治支援する様な人物なので御里が知れる。
若いころに車の営業でベンツ等の高級外車を300台近く売りさばいた等と伝説の様に語られているが、それが事実ならば「当時ベンツを好んで乗りたがる集団や組織と繋がりが有った」と言う事に成るだろう。まぁ、昭和の大手土建屋は移民とヤクザが多く関与したのは歴史事実だ。
現在、林市長が破壊容認している円海山と言う場所は奈良時代からの蹈鞴製鉄遺跡が発掘され、古代の淡水の大型の貝の化石を大量に含む地層が有り、そして鎌倉武士達が通った古道が林道と成っており、横浜市最大最後の緑地であり自然繁殖した❝蛍❞の最後の生息地だったりするが、そこを東急グループに開発させようとしている。
大磯町の様に教養の高い御役人と市長が治める町を訪れ、自然公園や史跡を廻ると現在の横浜市長と教育委員会の程度の低さが際立ち、本当に嫌気が差す。
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大磯町はそういった事が無く、三井財閥の様に文化財保護に貢献した昔の御金持ちの文化を受け位でいるので、こうして公園内には多くの古墳も保護され公開されている。
横浜市にも横穴式古墳は大量に存在したが、馬鹿な教育委員会が防空壕と見分けが着かず、戦後の防空壕をモルタルで封鎖すると言う戦後の政策で、古墳の入口をまで塞いで破壊に及んでいる。
大磯町は古代と中世と近代の歴史遺跡を公園化し自然も守り、本当に良い仕事をしていると思う。
歴史の話に戻ると、大磯には古墳が多い。
これはやはり、古代早くからこの地域が開けていた証拠だろう。
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この公園内には大磯町郷土資料館も有るのだが、残念ながら正月は休みで見学出来なかった。
仕方なく、公園内を散歩した後、車に戻り次の目的地である高麗山の麓に鎮座する高来(たかく)神社に向けて出発した。
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高来神社は実は明治時代までは高麗神社と書いた。
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この高来神社の石柱に揮毫したのは紀州徳川家第14代当主だった徳川頼倫公らしい。
徳川頼倫公の時代は既に徳川幕府も解体され、御本人は政治家では無く、明治時代の公爵だった。
明治次代の政治家は一つ欠点が有り、日本文化の中には古くは中国渡来、後に朝鮮渡来の物もあり、それらも受け入れ古来の文化に融合させ発展させて、元朝に打ち勝った武士文化の礎と成った平安文化に発展したのに、アジア文化を軽んずる風潮が流行し、その様な政策を行った。
御蔭で、この由緒ある高麗神社まで名前を高来神社に変えさせられた。
愚かだ。
ここは、そもそも当時は朝鮮半島南端にも住んで居た日本人を度々襲う新羅を征伐した息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと)こと神功皇后が朝鮮征伐に遠征した際に、神功皇后に伴って日本に渡って来た朝鮮半島の人々が関与した神社で昔は背後の高麗山山頂に鎮座し、神社自体も神功皇后が開いた凄まじい由緒を持つ場所なのだ。
参道横には慶覚院と言う御寺が在り立派な門構えをしていた。
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真新しいので極々最近に建て替えたようだ。
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御寺の地紋は徳川家所縁の御寺なので三つ葉葵紋だった。
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天台宗の御寺らしい。扁額に揮毫した人物名が天台座主大僧正惠進と書いて有る。
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御本堂も御寺の規模に対して立派だった。
場所的に昔から別当寺として存在するのかと思いきや、説明を読む限りでは比較的最近、こちらに移転された御寺らしい。
高来神社の参道に戻る。
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古代の朝鮮の中でも百済人等は現代の反日韓国とは違い親日国であり同盟者だった。
同盟国ではないが北部の高麗人も友好的で朝鮮族(満州より)の中の刀伊(とい)と言う部族が壱岐国や博多辺りに襲来し(今も昔も朝鮮は変わらず)日本人女性を拉致し半島に連れて帰った所、高麗人が彼等を征伐して日本まで被害者を送り届けてくれた歴史が有ったりする。
つまり、反日は人種の問題なのでは無くて、完全に国の教育と文化程度の問題な訳だ。そんな訳で、朝鮮由来の神社の名前だからといって盲目的に高来神社と由緒有る高麗神社の生を変えさせた事は非常に愚かな政治圧力だと言える。
反日国の中にも親日家や常識の有る人はいる。かく言う小生自体も中国人の友人や義兄弟もいる。
見分ける事が大切なのだ。区別すれば良いだけだ。反日外国人を憂慮するならば、入国審査を厳しくして、ノービザ入国出来る国に対して協定を破棄すれば良いだけだ。どうせ日本との国際条約を簡単に破棄する様な国くらいなんだから、反日国は。
所で、この神社の参道も奥行きが有って雰囲気が有る。
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但し、神社が開かれた当時は背後の高麗山の山頂に神社は鎮座していた。
この高来神社を開いたと伝承する神功皇后は恐らく臺与なのだろうと小生は推測しているが、仮にそうだとすると西暦300年代頃から当地に鎮座している事に成る。
いずれにせよ、八幡宮と同じく渡来文化も含む地域の神社だったので延喜式内社として報告されなかったのだろうが、確実に式外社である事は間違いない。
今回は初訪問だったが、存在を知ってからずっと崇敬する神の内の一柱である神功皇后所縁の場所だけあり絶対に来てみたいと思っていた。
参拝客は川勾神社や六所神社程多くは無かったが、それでも近郊の人が絶える事無く少しづつ御参りに来ていた。
源頼朝公始め、歴代の相模国統治者が崇敬した歴史も有る。
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ふむ、良い神社だ。
雰囲気が良く、庶民に親しまれる神社。
参拝を終えて次の目的地、平塚八幡宮に向かった。
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平塚八幡宮は、その境内の規模の大きさや日本三大七夕祭りの一つ❝平塚七夕祭り❞が周辺で行われる事から湘南地区での知名度は抜群で恐らく、神奈川県下では鶴岡八幡宮や川崎大師に次いで参拝客が多いかもしれない。
午後三時頃に到着したが、案の定、駐車場への入庫は順番待ち。しかしながら平塚市の対応は素晴らしく、ちゃんと臨時駐車場を準備しているのさしたる混乱も起きてはいなかった。
立派な山王形式の大鳥居。
今回の訪問の主目的が川勾神社と平塚八幡宮のデジタル写真撮影だった。
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なかなか立派な造り。
この平塚八幡宮は明治時代まで鶴峯八幡宮と呼ばれた場所で、平塚八幡宮様自体は自称していないが国府祭に登場する神様なので五之宮と呼ばれている。
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大鳥居をくぐると左右に池が在るのは鶴岡八幡宮と同じ設計。
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屋台も沢山出ていていて賑やかだった。
本殿へ向かう前に御朱印を御願いしておいた。
本殿への入口には狛犬さんがいる。
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平塚八幡宮の狛犬様はデザインが恰好良い。
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個人的に造詣的に好きなデザイン。
いざ参詣。

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中々の賑わい。左右には破魔矢や御守りを販売する屋台が出ており、アルバイト巫女さん達が奮闘しておられた。
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立派な神社。県下でも一之宮寒川神社や鶴岡八幡宮の次に栄えているだけある。
一頻り摂社も全て御参りし、社務所で御朱印を受領し、車に戻る前に折角なのでオヤツと言うか夕食代わりに屋台で何か買う事にした。
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小生が選んだのは明太ジャガ。
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じゃがバターも美味しいけれど、これも悪くない。
駐車場に行く前に、平塚八幡宮の横に気に成る建物が在ったので立ち寄って見た。
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横浜の元町や山手に在りそうな洋館。
子供の時に来た事が有るのかも知れないが予備知識が無かったので説明看板を探してみた。
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どうやら横浜ゴムの平塚製造所の施設だったらしい。残念ながら開いてはおらず、外観だけ楽しんで車に戻った。
この時点で夕方の16時15分位だったろうか・・・
平塚八幡宮から比々多神社は車で30分位。そう遠くは無いが道路状況次第では17時前に間に合わない。
小生はこの数年間、毎年比々多神社も正月に御参りするのが習慣に成っているので何としても御参りしておきたく、とりあえず向かう事にした。
途中で富士山が綺麗に見えた。
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昔の人達が此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(のみこと)の化身として拝んだ富士山。
その富士山の此花咲耶姫命の御父さんとして平安時代~江戸時代の人々にも崇拝されたのが神奈川県伊勢原市の大山で、大山阿夫利神社にはその神様の大山祇神(おおやまずみのかみ)様がいらっしゃる。
実は比々多神社は戦国時代に宮司家が北条家に敵対する三浦家に味方した為に攻落され、その場所は元宮に成っている。
そして比々多神社の神職も宮司様も小生が指摘するまで御存知無かったのだが、現在の拝殿と元宮を結ぶ真っすぐ直線状には大山の山頂が有るのだ。
比々多神社は旧境内地から縄文時代の聖地であるストーンサークルや立石や古墳時代の墳墓も大量に発掘されており、古代人から現代人に受け継がれた間違いない聖地である訳だが、恐らく、神社の配置上、大山信仰とも何某かの関係が推測出来る。
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比々多神社に16時45分位に着くと本殿を御参りする事も出来る状態で、参拝客に無料で配布される御守り授与もまだ行っている様子だったので安心した。
本殿で御参りをし、本殿右の幕舎で受領している無料の御守りを頂き、巫女さんに鈴で御祓いをして頂くのが、ここ数年間の正月の習慣。
先にも述べたが小生は横浜市民として、偉大な菅原道真公に一番近い御子息が御住まいに成っていた永谷天満宮を横浜の土地神様と知恵の神様として拝み、三之宮比々多神社を神奈川県における土地神様として信仰し、別に走水神社と橘樹神社で一年間の大欲、つまり公共に利する事を成し遂げられる様に心願を祈願して、その上で氏神様として自分の祖先神の某国造の神様を拝み、そして尊敬する歴史偉人達にも念頭において御参りをしている。
これを全部やってやっとお正月と言う実感がわく。
無論、尊敬する北条綱成公の菩提寺龍寳寺や間宮家関連の神社仏閣も御参りする。
特に比々多神社は、その歴史的な存在価値から大好きな場所でもあり、近くに義叔父も住んで居る事から用事が無くても一年に数回来る。
そして、本殿だけではなく、背後の元宮もいつも御参りする。
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当然、この日も欠かさず御参りし、御祭神の豊国主(大国主命)様、大酒解神(此花咲耶姫命)、小酒解神(大山祇神)に昨年一年間の感謝と今年の抱負を伝えた。
この地を治めた平安時代の三浦家の岡崎義実公、戦国時代の扇谷上杉家の三浦道寸公は小生がいつも遥拝する偉人の1人でもあるが、比々多神社を保護した先人でもあり、いつも御守護頂いているので、その事も日々伝えている。
我々が現在の日本文化を享受し、日本文化が有るからこそ、日本は他国と違い都会の真ん中でも自然を大切にする文化が育まれている事を念頭に置いて、神社仏閣では其処を保護して来た先人に対しても感謝するべきだと小生は考えている。
中でも日本神道や朝廷儀礼を復興し、日本の経済と文化を飛躍的に発展させ応仁の乱以来の中央の戦乱を終わらせた織田信長公は小生が歴史偉人の中で最も崇拝する人物であり、明治天皇によって建勲神の神号を追贈された❝文化守護者の神様❞である。
だから小生の部屋には織田信長公も名前の入った御朱印を書いて頂いた色紙が、御分霊代わりに肖像画と一緒に祀ってある。
他にも菅原家の神様と偉人、和泉式部様、河内源氏の歴代棟梁、坂東平氏の殿様達、北条家歴代の殿様、間宮家の殿様と姫様、太田道灌公、蒔田吉良家の殿様、宅間上杉家の殿様、足利家の殿様、徳川家の殿様を同じように日々拝んでいる。
歴史が有り大切な場所でもあるが、現代では余り有名では無くなり荒れた神社仏閣を復興させる仕事をしたい。
先ずは間宮家の顕彰活動を今年終え、そして織田家御子孫の母である生駒お類さんの菩提寺久昌寺を廃寺の危機から救いたい。
そこから神社仏閣復興の経験値を積み上げて、宅間上杉家、太田道灌公、蒔田吉良家、玉縄北条家の顕彰活動をライフワークにし、偉大な人物と繋がりがある歴史史跡、町の中の小さな神社仏閣や祠や御地蔵様の事を広く世に再認識して貰う事を形にして行き、後々に残していきたい。
宮司様や和尚様は内側から文化と偉人の業績とを守り伝え、それを外からフォローする何かを形にしたい。
金と再認識させる宣伝だな。
もし将来大金を稼げる身分に成っても、生活と老後に必要な分以外は全て、社会の為に使おうと、今年も比々多神社の神様の前で強く思った一年の始まりの第2日目だった。
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帰る間際、比々多神社の駐車場では既に梅花が開き始めていた。
小生の尊敬する菅原道真公、菅原景行公、菅原淳茂公と御縁の深い花。
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綺麗だ。
今年は梅の開花が早い様だ。
Twitterにも曽我梅林の開花状況報告が上がっていた。
コレは去年書いた梅林紹介の一覧。
  ↓

神奈川県には梅花鑑賞の名所が多いので、是非、皆さんドライブがてら梅花鑑賞ピクニックに行かれては如何だろう。

※追伸
更新が遅くなってしまい申し訳ない。
間宮家の顕彰文の追記とリアの仕事が忙しくて中々、ブログを更新できませんでした。
水曜日は神社仏閣紹介一覧も更新したいと思います。























寒田神社(さむたじんじゃ)…延喜式内社
主祭神:倭建命(やまとたけるのみこと)・弟橘姫(おとたちばなひめ)・誉田別命(ほんだわけのみこと)=応神天皇=八幡大菩薩・菅原道真公=日本太政威徳天(やまとだいじょういとくてん)
御利益:海外渡航安全・勝負運・縁結び
開基:仁徳天皇(それ以前に日本武尊が当地に滞在した)
中興:源頼朝公・徳川家光公
場所:神奈川県足柄上郡松田町惣領1767
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寒田神社と言う名前の創建年代が西暦315年と伝わるとても古い神社が神奈川県足柄上郡松田町惣領に存在します。
実は日本武尊(やまとたけるのみこと)=倭建命が滞在され神事を行った聖跡(せいせき)に、古墳時代初期に造営され現在も存続している神社で、平安時代の人達から見ても古い神社だったので、西暦900年代に醍醐天皇が当時の人から見て保護するべき対象の古い神社を纏めた❝延喜式神名帳❞にも掲載された神社です。
この様な延喜式神名帳に掲載されている神社を❝延喜式内社❞と呼びますが、寒田神社は神奈川県の旧相模国域に13座しか存在しない延喜式内社の内の一つで、とても権威と御利益の有る神社さんです。
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この日本武尊の伝承は、朝廷に提出された古風土記にも記載が有るそうで、実はこの神社の宝物と言うか御神体と言うか文化財に当たるものに日本武尊が戦勝祈願に用いた❝木椀❞が現存し、保管されているそうです。
伝説によれば、日本武尊は木製の御椀に酒を汲(く)んで現在の酒匂川に酒を撒き、東征に向かったそうです。東征を終えて当地へ戻って来た際に、御椀にまだ酒の匂(にお)いが残っていた事から、目の前の川の名前が酒匂川に成ったそうです。
日本武尊の聖跡な訳で正に聖地に建つ神社なのですが、江戸時代初期まではもっと広かった境内地と神社の所有した社領は酒匂川の氾濫(はんらん)で浸食されてしまい、だいぶ縮小してしまったそうです。
川の洪水は穀倉地帯の宿命ですね。
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ですから風害記念の石碑なんて物も有って、先人が我々子孫に自然災害の起きる土地だと警告を残して下さっています。
さて、この寒田神社、鳥居をくぐり参道を進むと歴史に興味無い人達には現在の知名度は低く成ってしまっているものの立派な社殿と社務所と神楽殿が有ります。
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と、社殿を紹介する前に手前左側に在る手水舎と、延喜式内社らしい神仏習合の神様の石碑を紹介します。
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手水舎も綺麗で、屋根も立派ですね…
正直、松田町は農村の過疎地なので、この規模の神社を維持し、この様に新しい手水を設置し清潔に管理を保つ事は、相当な氏子サン達の努力と出資が窺(うかが)える訳です。
古代からの文化と歴史を保護して下さっている寒田神社の氏子サン達には敬意を感じますね。
もし神社や御寺に参拝する場合は、利己的に心願を願掛けするだけでなく守って下さっている方々への敬意も神様に伝えると良いと思います。
この手水舎の傍らに、明治に成るまで当たり前だった土地神様信仰や神仏習合の名残があります。
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堅牢地神…
神仏習合の神様。新しい神社では余り見る事が無い神様ですね。
密教由来の神様で、土地を堅固にする神様です。
洪水の被害に遭ってきた寒田神社らしい、土地の人々が治水を願った事が良く理解出来る神様でもありますね。
参道を抜けて右手に在る神楽殿は現在でこそ金属製のシャッターで覆われていますが…
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…屋根に注目すると、その作りが立派な事に気が付きます。
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境内地が縮小したとは言え、そこは平安時代の醍醐天皇が保護すべき古社を記録させた延喜式神名帳に記録が残り、鎌倉時代には源頼朝公も松田の別荘の松田亭より度々参拝に訪れた権威有る神社だけあり境内はかなりの広さで、社務所や社殿の前のスペースはちょっとした広めの公園程も有ります。昔は更に様々な建物が建っていたんでしょうね。
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この美しい社殿は覆殿(おおいでん)です。覆殿は本殿を保護する為に本殿ごと覆い囲んでしまう建物の事です。
本殿は江戸時代慶長年間の再建だそうで、つまり1600年代の初期の再建と成ります。
この覆殿の中に、400年前に作られた本殿が在るんですね。
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中を除き込んで写真を撮影する訳にも行かないので、扁額の写真を…
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社殿の横には寒田神社の歴史と神器の解説が有ります。
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納札所。
この寒田神社、本殿の裏にも摂社がいくつか在り面白い御社もあります。
先ずは御稲荷さん。
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どちらの神社にも必ずと言って良い程、多くの人々に昔は愛された神様ですね。
稲荷神社の神様は宇賀御霊神=倉稲魂神(うかのみたま)=豊かさを象徴する神様で、鎌倉時代に成ると弁天様と習合される事も有りましたが、古代の農作物が大切だった時代の神様です。
農民にとって一番大切な神様でしょうか?
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こちらは確か、祖霊社だったと思います。
それぞれの御先祖様に繋がる神社ですね。
そして、この神社オリジナルの祠と言うか供養碑と言うか…
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❝歯❞の供養らしいです。
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何だか、歯の供養って珍しいですけど、ある意味日本らしい場所ですよね。
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こちらは何の神様か説明が無く、よく解りませんでしたが、摂社としては立派なので、もしかしたら主祭神の御祭神の境内社なのかも知れませんが、不明です。

まぁ~立派は境内の広さが有るのは伝わったでしょうか?
そして、日本武尊の御幸された聖地である事からも強い御利益が期待出来る事が御理解頂けたと思います。
因みに、アメリカ最初の宇宙飛行士のジョン・グレンさんは、この寒田神社で安全祈願をして無事帰還出来た事から更に御礼参りまでされたそうです。
海外遠征の事績の有る日本武尊所縁(ゆかり)の神社らしい御利益ですね!

さて、この寒田神社の先に紹介した御祭神の日本武尊ですが…
その寒田神社の土地に御幸した日本武尊の遺物で神器の木椀の神話を元に南関東周辺の延喜式内社の伝承や御祭神、弥生時代~古墳時代の地形を前提にして日本武尊の正体を解説する事で、日本神話と考古学の整合性を解説してみる。
小生の推測では日本武尊が立ち寄られた理由は、既に当時、この地に村が存在したのだと思います。この寒田神社は、古代佐武多神社とも書いたそうです。
恐らく、武塔天神(むとうてんじん)=牛頭天皇=素戔嗚尊(すさのおのみこと)、若(も)しくは、その御神孫の関与が有ったのだと思います。
武塔(むとう)は古い発音では武塔(むた)と読んだはずだからです。
以前も何回か書いた事が有るのですが、現在の漢字の音読みも実は中国由来より朝鮮渡来人のせいで訛(なま)ってしまっている字の発音が少なくないんです。
塔は華語の発音で塔(ta)と発音します。こちらの方が古代語の漢字の発音に近いはずです。
何故、武塔天神=素戔嗚尊の御神孫の集落が、日本武尊の時代に既に有ったと考えるかと言うと、先に触れましたが関東の延喜式内社には素戔嗚尊の御神孫が関東を開拓したと伝承を伝える場所が少なくないからです。
違う神社を紹介すると…
2015-12-19-15-03-12
関東最古の大社で、日本武尊御自身が最初に造営された埼玉県久喜市の鷲宮神社は出雲神族の御神孫の部族が土地を開拓し、日本武尊がお立ち寄りに成られ社殿を造営した歴史が有ります。
恐らく、寒田神社より少し古い神社です。
そして神奈川県の前身である佐賀牟国の初代国主は出雲神族建御名方神の6代後裔と伝承して、おり更に…
2014-07-27-19-06-56
寒田神社と同じ延喜式神名帳に掲載されている大山阿夫利神社も主祭神が出雲神族の大山祇大神と、大雷神、御当地の水神様の高神(たかおかみ)様が祀(まつ)られています。
雷神は出雲神族に習合されたシヴァ神=伊舎那天(いざなてん)=第六天魔王=大黒天=大国主命と同一視されています。
更に大山阿夫利神社の麓、同じ延喜式内社の比々多神社も…
2015-01-10-13-39-45
出雲神族で素戔嗚尊の御神孫である豊国主命(とよくにぬしのみこと)=大国主命が御祭神です。
大和市の延喜式内社の深見神社は土地の水神様の闇神(くらおかみ)が主祭神です。
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名前からして、大山の高神様と同じ系統の水神様でしょう。ただ大山は高い山の中腹に湧水地があり、そこが古代聖地だった事、深見神社の場合は深水(ふかみ)=川の淵(ふち)が聖地だったので底の深いイメージから闇神の名に成ったんでしょうね。
では淵辺が聖地に成り得るのかと言うと、立派に古代人の自然信仰にとっては聖地だったんですよ。
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東京都羽村市には雨乞街道が現存していて、古代からの神事で木製の竜頭を淵に沈めて神事を行ったそうです。つまり古代人にとって水神様は龍神であり泉そのものの象徴だったようですね。大山の高神も竜神とされています。
例外的に、海老名市と相模原市の延喜式内社の有鹿神社(あるかじんじゃ)の場合は、男と女神様に成っていて…
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相模原市の奥宮は縄文時代の遺跡群の中にあり、聖地の谷間が自然湧水地に成っています。
つまり神話の時代に当たる縄文~弥生時代~古墳時代の人々にとって、如何(いかに)に御腹を壊さない清涼な飲み水の確保が大切で、その水を与えて下さる自然を神様として大切にしていたかが解る場所なのですが、ここの神様は❝有鹿姫(あるかひめ)❞と言う土地の女神様です。
飲み水を育む源泉のイメージが女性を連想させるのでしょうか?
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平安時代末期に源頼朝公の重臣だった海老名氏によって海老名郷の鎮守の神様として有鹿谷から現在の本宮に本社機能を移転させて支援したのが現在の有鹿神社で、こちらは有賀彦(あるかひこ)つまり男の土地神様が主祭神になられて鎮座されています。
さて、この様に古代から存続する神社は、明治時代に❝水戸学❞を元に成立した戦前までの約100年間続き現代に影響を与えた❝国家神道❞の❝伊勢系統❞の神様を尊いとする価値観とは大分違った事が解り、寒田神社の御祭神も天照大神ではなく日本武尊である事にも納得していただけたんじゃないでしょうか?
ついでに古代の海岸線を見てみましょう。
神奈川県内の延喜式内社・式外社と古代の海岸線 久良岐のよし
神奈川県内で白く表示されている部分は、神話の時代より更に古い縄文時代の海岸線です。
面白い事に、大半の延喜式内社と式外社は縄文時代の海岸線に存続していませす。これは日本の神社文化には縄文文化が継承されている証拠にも成ると思います。
例外的に前鳥神社と平塚八幡宮は相模川沿いの古代の縄文時代の海中に存在しますが、それは地震で地盤が隆起し干拓が進んだ弥生~古墳時代成立の神社だからです。
地盤が隆起し人が住める土地が増え、各式内社の神社の古代の宮司や領主の役割を担った豪族の間で土地争いが起き、国境の再編と国府設置が必要に成ったのでしょう。これが現代にも伝わる国府祭(こうのまち)と言う神様同士が相模国の一宮=国府の座を争った事を現在に伝える神事で古墳時代~飛鳥時代の出来事と推測出来ます。
そして県央部に人が住むように成った原因が地盤の隆起による海面の後退だと言う仮説を証明する事実として、その時代に大きな地震が神奈川県で発生していた事が考古学的に地層から判明しています。
大正時代の関東大震災でも三浦半島は西側と南側が50~80cm隆起し、東側は東京湾に向かって沈下しています。
気象庁から拝借 地震の仕組み 久良岐のよし
古墳時代以降も伊勢原市の大山の地下で海底のプレートがぶつかり合い、度々大地震が起きています。
鎌倉時代と室町時代の間の時期に横浜市金沢区を襲った❝応長の大津波❞は、対岸の千葉県側で津波が発生していない事から、この三浦半島の付け根に当たる金沢区側が沈下したから❝海没❞したのが❝津波❞と伝承しているのだと思います。
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その際に津波を防いだ伝承が有り、後の江戸時代、高潮の危険の有る埋立地の深川に分祀されたのが、横浜市金沢区の源頼朝公が最初は神戸の西宮神社から御分霊を勧進し造営した富岡八幡宮です。

つまり、武蔵・相模東部を合わせた古代の佐賀牟国、伊豆と相模西武を合わせた磯長国では古代から地震が起きていて、西暦400年代の大地震が起きた時にはとうとう古代相模湾多くの海岸線が隆起して新たな土地が造成され、豪族同士の領土と成る土地の占領合戦が勃発したと推測が成り立つ訳です。
この時期は❝武蔵国造の乱❞の推定発生時期とも合致します。武蔵国造の乱と伝わる事件は❝佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ=豪族の王)の乱❞だったと考えるのが自然です。
それを仲裁したのが大和朝廷で、佐賀牟国と磯長国を武蔵・相模・伊豆に分割し調停した。
旧街道と武蔵相模国境付近 久良岐のよし
…これ、この通り結果的に大和朝廷が、この地方の国造だった笠原家の内紛に介入し接収した記録が残る群が、久良岐郡・橘樹郡・多摩郡・横見郡等で、それ等の土地を繋げると、綺麗に武蔵国・相模国の国境を分ける非武装地帯の様相を呈しているんですね。
この時代の政庁の役割を果たしていた場所は現在の神社に成っている豪族や地方の王達の宮殿でした。
ですから国土交通省関東地方整備局が作成した古代街道の簡易図を衛星写真に重ねると、古代の街道は全て延喜式内社と式外社の傍を通過します。そして郡衙も延喜式内社の傍に存在しています。
この地図上の誤差は、関東地方整備局が❝だいたい❞程度の制度でした旧街道を書いていないからで、地図上に詳細に再現すると全てが古代から存続する神社とピンポイントで重なります。
更に古代の海岸線上に延喜式内社と式外社を表示して見ましょう。
延喜式内社式外社と古代海岸線と武蔵国府郡衙 久良岐のよし
さて、ここで皆さんに質問です。
神奈川県は何で県名が…
神(かみ)
奈(な=無い)

…なんでしょうか?
色んな説が有りますが、小生は正に、武相国境に大和朝廷が非武装地帯を設けて神(かみ)=お上(かみ)=支配者を排除した事に由来していると思っています。
丁度、この大和朝廷の直轄地として非武装地帯に成った場所が、南東~北西に延びる国境の一筋の❝川の様に❞❝神=支配者❞の❝奈=無い❞地域に成ったので、その無主の地域の海側に当たる現在の京浜急行神奈川駅辺りにも江戸時代まで地名として神奈川領と言う行政区分が地名に残り、古代の大和朝廷による相模武蔵地方の豪族の政治紛争への介入と解決の名残りが残ったのだと思っています。
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※写真は京急神奈川駅近く、青木城址の本覚寺から見た幸ヶ谷(こうがや)公園
その現在の神奈川区辺りの地域は全時代で交通の要衝だったので、そこは室町時代にも足利尊氏公が現在の幸ヶ谷公園に権現山城を築いて南朝と戦いましたし、戦国時代も北条家臣の間宮家と上田家がここに籠城し扇谷上杉連合軍を迎撃した歴史が有ります。
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そして、戦国時代の半ばにも成ると、本覚寺も取り込んだ大規模な青木城として改修され、城主には北条氏康公の名軍師として歴史好きには有名な❝多目元忠❞公が城主を務める程、重要な場所だた訳です。

そんな訳で非武装地帯が設けられ、佐賀牟国と磯長国から分割再編し新設された武蔵・相模・伊豆の3ヵ国で国府を設置する必要があり当時は地方王族や豪族の政庁の役割を果たしていた場所が神社だったので、相模国でどこが一宮(古代の国府設置以前の国府機能)に成るかで争いが起きたのが国府祭だったと解る訳です。
因(ちな)みに、小生は日本武尊は複数人いたと思っています。~建(たける)や~武尊(たける)と呼ばれる人物は、その事績から古代の大将軍に当たる官職名だったと推測出来るからです。
そして命(みこと)や尊(みこと)の字は、後に、その人物が神号を追贈され神格化されたと言う事でしょう。
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1人目は景行天皇の王子で❝倭建(やまとたける)❞の称号を初めて今の熊本当たりの部族王だった❝熊襲建(くまそたける)❞に贈号された古代大和朝廷ないし邪馬台国の王子。
その事績は走水神社に残っています。
この倭建命(やまとたけるのみこと)の御妃とされるのが弟橘姫(おとたちばなひめ)です。
その弟橘姫が東京湾に入水自殺し人柱と成った際に、海を漂って流れ着いた装飾品を埋葬して造営された古墳を古代御神体として造営されたのが、川崎市高津区の橘樹神社です。
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この橘樹神社の位置は古代の橘樹郡政庁の跡と推測されている上に、背後の宅地は実際に弟橘姫の古墳跡と伝わる大円墳の跡です。現在も円墳頭頂部の一部が現存していますが、神社の社殿の真っすぐ背後が古墳の頭頂部に向いているのは、古代、この神社が御神体の古墳の遥拝所(ようはいじょ=遠くから拝む為の施設)だったと考えて間違いないでしょう。
この時代の日本武尊が寒田神社の前身に成った集落で、現存する木製の神器に酒を注いで神事を行った人物でしょう。
神奈川県の延喜式内社の神話や、古事記で倭建命の妃として伝承する弟橘姫ですが、何故(なぜ)か渡来の百済人と思しき藤原氏が中心に成って編纂した日本書紀では❝景行天皇の妃❞に❝弟媛皇女❞として名を連ねてしまっています。
…この倭建命の子孫が藤原氏にとって非常に都合が悪い存在だったか、彼らが書かせ改竄させた日本神話に整合性を持たせる為に必要な事だったのでしょうか?
この時代は神話では西暦、考古学的には古墳時代に突入する時期の少し前ですが、歴史の誤差が数十年有ると考えると中国の三国志魏志に記された卑弥呼と卑弥呼の弟で執政官と記された人物も景行天皇と考えれば日本神話と整合性が出て来ます。
つまり日本武尊を助けた伊勢神宮の斎王で叔母だった倭姫命(やまとひめのみこと)が卑弥呼、卑弥呼を助けた実質的な執政者が景行天皇と成る訳です。景行天皇の時代に部族の叛乱が頻発したのも、三国志魏志の記録と整合性が有ります。
つまり、九州に追い詰められた卑弥呼達、倭姫命達の世代に伊勢まで征服乃至(ないし)奪還出来ていたと想像がつきます。そして、卑弥呼に盾突いた勢力の王が、出雲系の神で伊勢都彦の別名で呼ばれていた建御名方神(たけみなかたのかみ=諏訪大神)なのでしょう。そう考えれば、東海地方を支配した叛乱勢力の建御名方神の撤退した先が信濃国=長野県だった事も無理が無い訳です。
そして卑弥呼と景行天皇と日本武尊の代で一時収束した叛乱も、日本武尊を差し置いて大王(おおきみ=天皇)に就任した成務天皇の代で再び反乱が勃発し、日本武尊系の仲哀天皇と結婚した女王、神功皇后の代に成る訳ですが、これも「卑弥呼の後に男王が立王されたが混乱が収まらず、又、女王(臺与=とよ=いよ)が就任したら漸(ようや)く鎮静化した」と言う主旨の記載とも整合性が有る訳ですね。
この時代、邪馬台国の朝貢対象の目上の同盟国であった❝魏❞に対して遼東半島で❝公孫度❞や❝公孫恭❞と言った豪族が反旗を翻し朝鮮半島の鮮卑(せんぴ)と結びついて後漢から皇位を継承した魏皇帝の曹叡の領土である朝鮮半島の帯方郡のや楽浪郡の太守を殺害し魏皇帝曹叡(そうえい)に敵対していました。
当時の曹叡の軍師だった司馬懿仲達に公孫一族や、朝鮮半島の鎮圧を命じるのですが、司馬懿が朝鮮半島に出向く事は無く、司馬懿は軍を率いて公孫一族を討取るに留まりました。
では何故、魏は朝鮮半島に攻め込む必要が無かったのでしょうか?
実は、この事を日本神話が説明してくれます。
神功皇后が魏の盟友だった臺与だとすると、実は神功皇后は朝鮮半島に攻め込み新羅を討伐し、朝鮮半島の南部から魏の司馬懿仲達を助ける動きをした事が解る訳です。
この時代の倭国は魏の前身王朝の漢帝国から朝鮮南部の支配権を認められていた様で、それ故(ゆえ)、現在の朝鮮の釜山(プサン)辺りも倭人の国と認識されていた事が三国志魏志に書かれています。
ついで言うと中国では古代の日本を倭(わ=小さい)国と呼んでいましたが、それ以前は❝扶桑(FuSang=ふさん)国❞と呼ばれていた事が記録に残っています。つまり現代日本に残る扶桑の地名は古代の❝日本❞と言う意味なんですね。
この❝扶桑(ふさん)❞と❝釜山(プサン)❞発音が似ている上に、古代の邪馬台国の支配地域とも整合性がありますね…
つまり、そう言う事なんですよ、古代は朝鮮半島南部は古代中国皇帝に公認された日本の一部だった訳です。
これも素戔嗚尊(すわのおのみこと)が一時、朝鮮半島に行っていたと言う神話とも整合性が有りますね。
そんな訳で、寒田神社の所在地を訪れて神事を行った武将の日本武尊は、この時代の倭建命だと何となく解る訳です。
そして、日本武尊の大和帰還を伊吹山の神(豪族)に命じて関ケ原辺りで阻止させたであろう人物も、成務天皇と推測出来て、成務天皇の正体も大碓命(おおうすのみこと)と推測出来て、稚足彦(わかたらしひこ)命と推測出来る訳です。恐らく❝大碓命❞の❝碓❞は誤字か藤原氏による故意の改竄で、本来は❝大稚命(おおわかのみこと)❞と呼んだのではないだろうか?そうすると、大稚(おおわか)=❝大若❞となり、若(わか)=王子と成るので大
稚(おおわか)=長男と解釈出来るので、実弟に日本武尊がいて、長子の自分を差し置いて東征の功績で立太子された実弟の倭建命を尾張国で伊吹山の神(豪族)に命じて暗殺乃至帰国を阻止して成務天皇=大碓命=大稚命=稚足彦命が天皇=大王(おおきみ)を僭称(せんしょう=勝手に名乗る)したのでは無いかと推測出来る。
この成務天皇の政変が、三国志の魏志に書かれた❝男王が就任したが国が再び乱れた❞と言う部分なのだろう。
歴史と神話は御互いに補完しあう…

2人目の日本武尊は、先に説明した❝武蔵国造の乱❞を鎮圧したであろう。
しかしながら、この日本武尊=大将軍の称号を与えられた人物は、余程、藤原氏に邪魔な人物だったと見えて完全に功績が消されている。そして、日本武尊が他にも歴代いただろうが、それも消されている。
では、この武蔵国造の乱を鎮圧した人物は誰かと言うと、大地震による相模湾の隆起や武蔵国造の乱の発生時期の大王であった❝雄略天皇❞その人だろう。
何故なら、武蔵国造で雄略天皇の調停を受けて武蔵国造に就任したであろう人物の勢力地だった埼玉県行田市の稲荷山古墳から❝獲加多支鹵(わかたける)大王❞の金象嵌文字が彫られた鉄剣が出土しているからだ。
歴史では、この獲加多支鹵が雄略天皇とされている訳だが、獲加多支鹵(わかたける)の当字を先例に基づいて変換すると稚(わか)武尊(たける)大王と成る訳だ。若くて武勇に長けた大王と言う事、つまり王族であり大将軍=日本武尊と成る。
あくまで想像だが、調停を受けた地方の王=笠原(からはらの)使主(おみ=臣)が雄略天皇から、まだ当時は青銅器善政で珍しかった鉄剣を下賜され、記念に金象嵌を施した後、死後副葬品として一緒に埋葬されたのではなかろうか?
この天皇の歴史的文化的な事績は史実だけ見れば偉大なのに対して、何故か藤原氏が編纂させた日本書紀でだけ❝大悪人❞扱いをされてしまっている。
それ故に、思う。
恐らく、この雄略天皇の女系子孫、或いは素戔嗚尊の御神孫に実は蘇我氏がいるんじゃないかと。蘇我氏は藤原氏と対立して滅ぼされた家だ。まして、藤原鎌足の時代の少し前の天皇の継体天皇は、一度断絶した直系天皇家とは別系統から天皇家を相続した天皇だ。仮に小生の推測通り蘇我氏が素戔嗚尊の御神孫な上に雄略天皇の女系子孫にも当たると成れば、継体天皇系の中大兄皇子=天智天皇にとっても都合が悪く、中大兄皇子の家臣に当たる藤原氏にとっても出世の目を摘まれ非常に不味い訳だ。
素戔嗚尊と所縁の深い出雲大社の本殿の裏にある別の社には素我(そが)社が在る。蘇我氏が日本書紀の記載とは異なり本来は出雲族なのだろうと言う証明に成であろう御社だ。
ついでに言えば現在、日本書紀のせいで素戔嗚尊(すさのおのもこと)と読まされている字自体も本来は❝素我王命(そがのおうのみこと)❞だったんじゃないだろうかとすら思っている。
漢委奴国王の金印が出土した志賀島に在る志賀海神社も、昔の御祭神は五十猛(いそたける)=素戔嗚尊の御子息の神様だった。
そんな訳で、この時代の雄略天皇は藤原氏にとって非常に都合の悪い天皇だった訳だが、恐らく日本武尊の官職名を与えられたであろう日本の大王に成った大将軍王子だったはずですが、この人物は寒田神社の土地に滞在した日本武尊とは別人でしょう。寒田神社の木椀は弥生時代の物であるのだから、寒田神社に関与したのは弥生時代の倭姫命(卑弥呼)の甥っ子の日本武尊でしょう。
古墳時代も終りの頃の神様に成った人物では無いはずです。
そして古墳時代に東征を行って相模武蔵の国境確定を実施したのは雄略天皇で久良岐郡、橘樹郡、多摩郡を無主の非武装地帯にした人物だったかも知れんせんね。
この雄略天皇との縁起が多く残るのが西湘地域の延喜式内社と式外社です。この事は、縄文時代にはまだ県央地域が海だった事実、そして古墳時代には陸地に成っていて人が住みだした考古学的な歴史事実とも整合します。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
ですから、雄略天皇との関係が最初の神社の縁起に成っている神社と中原街道は、古墳時代頃に人が住みだした県央沿岸地域を通過します。
そして、縄文~弥生時代からの遺跡を抱える 神社の傍には大山街道(矢倉沢往還)が通っており、その先は平安時代までの東海道だった足柄道へと繋がっています。足柄道は平安時代の富士山の火山活動によって一時期、御殿場を通る足柄峠が通行不能に成った事で廃れた道です。つまり、古い時代の主要街道だった訳です。

この様に、考古学や地理を先に見てから神社の伝承で関わったとされる人物の生きた時代、遺物と出土品の年代を見ると意外に神話と歴史事実は密接に関係が有る事が解ります。
その代表例の一つが寒田神社や比々多神社や有鹿神社や橘樹神社や走水神社な訳です。

きっと、皆さんの家の御近所の小さな神社仏閣、普通にお墓参りに行っている御寺サン、御守りを買っている神社さんも、寒田神社の様に意外な歴史偉人との関りが有る場所が絶対に有るはずです。
…皆さん、たまには神社仏閣や歴史遺跡を御散歩して、郷土の歴史博物館も見に行ってみると面白いですよ!
では、又!次の解説記事で! 

神奈川県伊勢原市には、名将北条早雲(ほうじょうそううん)こと本名:伊勢盛時公が攻略に11年もかかった岡崎城と言う鉄壁の城が在ったのを皆さん、御存知でしょうか?
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その御城の本丸跡は、現在、無量寺と言う御寺と2軒の民家に成っています。
この岡崎城、実は小田原城や玉縄城や新井城と並ぶ鉄壁の城でした。
…と、言っても戦国時代の先進地域が中部地方と大勘違いをしている戦国マニア初級の人も多いと思うので、少々説明をさせて頂きます。

実は関東地方は京都で応仁の乱のが収束し始めた頃、近畿地方や東海地方よりも先に戦国時代に突入してしましました。
当時は室町時代で、京都では室町幕府将軍が東海地方と信濃国を含む西日本を治めていましたが、東日本は鎌倉府と言う行政機関が現在の鎌倉市に別に置かれ政治が行われていました。
鎌倉府の行政区域は広大で、最大で駿河国より東側の伊豆国・信濃国・越後国以東~関東東北が統治範囲でした。
その長官が関東の将軍格で鎌倉公方と言われた人物でしたが、足利持氏と言う鎌倉公方が、くじ引きで京都の征夷大将軍に成った足利義教公と対立した❝永享の乱❞で敗北し自害したのを最後にして、関東の首府だった鎌倉府は滅亡する事に成ります。
鎌倉府周辺史跡 久良岐のよし
鎌倉府の所在地は現在では詳細に知る術(すべ)は有りませんが、鎌倉公方の居館の在った場所には現在も石碑が建っています。
その場所は鎌倉市の浄明寺(じょうみょうじ)地区と言う場所で、とても文化史跡の豊富な景勝地でもあります。
室町幕府よりはるかに昔の、まだ鎌倉幕府が存続していた時代からの足利家の氏寺であり、紅葉の名所の❝浄妙寺(じょうみょうじ)❞と言う御寺…
後の将軍足利尊氏公の祖父に当たる足利家時公と尊氏公の従兄の宅間上杉重兼公が開基(かいき=建設)した❝報国寺❞と言う竹林で有名なミシェランガイドで☆3つ評価された御寺や…
更には現在は通行止めですが、景勝地として有名だった❝釈迦堂切通し❞と言う御寺が在ります。
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足利持氏公はこの浄明寺地区で蜂起(ほうき)して京都の征夷大将軍足利義教公と相争い、結果敗北し、横浜の景勝地で武家初の図書館として有名な金沢文庫を有する金沢区称名寺に隠居します。
しかし将軍足利義教公の怒りは収まらず、鎌倉公方足利持氏は東京都世田谷区の永安寺に移送されて後に自害に追い込まれました。
この一連の事件を❝永享の乱❞と呼ぶ訳ですが、足利持氏の遺児の足利成氏(しげうじ)公と、京都の将軍の息のかかった関東管領山内上杉家が利根川水系を境目に関東を東西で割る形で対立すると、足利成氏方は現在の古河市に在った古河城を拠点に、山内上杉家と合戦を繰り返し関東は騒乱の時代に入りました。
この足利成氏公の一連の事件を❝享徳の乱❞と言いますが、すなわちこれが関東が他地域より早く戦国時代に突入する事に成った原因でした。

そんな戦国時代を早く体験する事に成った関東地方では、北条家の小田原城に代表される関東流の築城技術や太田道灌公の主君扇谷上杉家に見られる自然地形を利用した堅城がいくつも築かれ、同時期の西日本とは比較にならない長期間の籠城に耐えられる城がいくつも登場しました。
その一つが、この堅固な岡崎城でした。
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これは田中祥彦さんと言う方が作成された岡崎城址主要部分の復元縄張り図です。
現在では大部分の保護が怠られたので、このまま残っている訳ではありませんが、元の地形が見てとれる部分も多く有ります。
実は現在の皇太子殿下が学生時代に、この岡崎城址を御見学にいらっしゃっていて、殿下のみならず本当の戦国時代の歴史好き城好きには有名な城なんですね。
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これらの看板は無量寺の入り口に掲げられています。
この看板の説明を読んで頂ければ、この城の重要度がそのまま解ります。
小田原城発展以前の相模国の中心的な役割を果たした城は、この岡崎城だったんですね。
そして当時としては規模も最大級の城域を誇っていました。
では、先程紹介した田中氏作成の岡崎城主要部分と、周辺の出城群を現在の衛星写真に張り付けた画像と、そのままの衛星写真で比較してみましょう…
岡崎城縄張り図全体像衛星写真
これは現在の衛星写真です。これを見ても何処が城跡か解りませんが、実はこの広大な範囲の大半が岡崎城城塞群でした。
岡崎城縄張り全体像
この画像中、赤い線で記されているのが岡崎城の空堀や曲輪(くるわ=兵士が守備するスペース)の遺構です。
凄まじい範囲ですね。
そして、この城塞群の周辺は深田や土腐(どぶ)化した湿地帯に囲まれていて、攻城側は不用意に近づこうものなら足をとられ歩行不能に成った所を、瞬く間に守備側の兵士から弓箭で射殺されてしまいました。
それだけではなく、この城址の主要部分は超複雑な構造の空堀群が入り組んでいて、この構造は上杉家をはじめとした関東在地の大名によって発展させられた自然地形を加工し敵を空堀に引き込み、曲輪上から弓矢の雨を降らせ敵を殲滅する構造でした。
何故、この辺りが土腐だったかと言うと、それは縄文時代には周辺は海だったので弥生時代ぐらいから段々と海岸線が遠のいて行きましたが、湿地として名残があったんですね。
ですから前回の記事で紹介した同じ伊勢原市の高部屋神社でも太古の昔から明治時代に成るまで続いた❝汐汲み神事❞と言う宮司が海で海水を汲む行事が続いていたりもしました。
…幕末も伊勢原市は海から10km以上内陸でしたよ勿論、でも神話の時代の地形で行っていた行事を歴代宮司さんが明治の国家神道成立で中止を余儀なくされるまで守っていたんですね。
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ところで、この岡崎城は平朝臣三浦家一門の岡崎義実(おかざきよしざね)公が最初の築城者で城主でした。
この岡崎義実公の御父君も歴史に名を残した武将で、名を❝三浦義継❞とおっしゃる武将でした。
三浦義継公の代から三浦郡知事に当たる三浦介(みうらのすけ)の官職名から苗字を三浦と正式に名乗る様に成り、以後、三浦一族は子孫に多くの戦国武将や大名を輩出する事に成りました。
※三浦一族の記事は下のリンクから御覧下さい。
●三浦家の菩提寺横須賀市の❝清雲寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●平安~鎌倉時代の三浦家の居城❝衣笠城❞の記事は「ココ」←クリック!
●鎌倉御家人達から武士の鑑(かがみ)と崇拝された三浦義明公の菩提寺❝満昌寺❞の記事は「ココ」←クリック!
●三浦家と多くの坂東平氏系大名祖先の平良文(たいらのよしふみ)公の御廟のある❝二傳寺❞の記事は「ココ」←クリック!
岡崎義実公は、源頼朝公と、その御父君の源義朝公に忠義を尽くした武将で、義朝公が❝平治の乱❞で敗走した先の今の愛知県知多半島で部下の長田忠致(おさだただむね)に裏切られ殺害された際に、現在の鎌倉市に在る寿福禅寺の場所に義朝公の菩提を弔う為の御廟を建てられた逸話が残っています。
旧岡崎城域に当たる、無量寺から北に徒歩8分位の場所に在ります。
岡崎城 岡崎義実公御廟所位置 久良岐のよし
もし、岡崎城址見学に来られた際は是非、御参りして神奈川県や武士文化の発展の基礎を築く一端として活躍された事を後輩として御礼されては如何でしょうか?
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現在では参拝客も少ない義実公の御廟所ですが、皇太子殿下はこちらにもいらっしゃっています。
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…殿下、歴史オタクなんでしょうか(笑)?
もし殿下が歴史オタクなら不敬かも知れませんが…
なんだか嬉しいなぁ~神奈川県の歴史に興味ない人は地元の人も知らない名将と名城の古址を訪れて下さった事は神奈川県民として非常に名誉だ…
実は皇太子殿下は、宅地開発が進み完全に消滅の恐れの有るJR大船駅近くの名城玉縄城の保護活動にも御参加下さった事が有ります。
…同じく県下で有数の規模を誇った扇谷上杉家の糟屋館や笹下城、蒔田城や青木城を破壊しつくした神奈川県教育委員会歴代幹部は恥知らずだと思います。
少しは神奈川県の城址や偉人の史跡に関心を御持ちの皇太子殿下を見習って、神奈川県教育委員会や横浜市教育委員会は己等の所業と不見識を恥じて頂きたい。
これは笹下城の完全破壊を土建屋に実行する認可を与え、更には扇谷上杉家の巨大城郭遺構の糟屋館跡に県道を作り破壊しようとしている黒岩県知事にも言いたい事でもあります。

さて、岡崎城に話を戻します。

戦国時代に、この岡崎城を拡張し戦国の城にしたのは佐原三浦家でした。 三浦家平安~鎌倉時代の城塞群 久良岐のよし
上の衛星写真に表示した城は、いずれも平安~鎌倉時代の三浦一族の城址です。
衣笠城を三浦本家が拠点にし、その麓まで当時は現在の川沿いに入江が入って来ていて、三浦水軍の拠点に成っていました。
その為に、三浦家で最も有力者だった和田義盛公の居城だった怒田城(ぬまたじょう)城址の麓の地名は今でも❝船倉❞と呼ばれています。
佐原三浦家と言うのは、現在の三浦半島の横須賀市佐原に在った佐原城を本拠地にした三浦家の分家の佐原家が、三浦本家滅亡後に三浦姓に復姓して三浦宗家と成った家の事を指します。
佐原家は歴代名将が多く、源義経が今の神戸市に在った平氏の拠点❝福原❞を攻めた❝鵯越の逆落とし❞は佐原家初代の佐原義連(よしつら)公の立案です。
それを実行に移したのは、兵庫県出身の武将の多田源氏の惣領❝多田行綱❞公と伝わっています。
源義経は本当に部下(与力)の手柄を自分の手柄の様に報告したカスだった様ですね…
因みに、多田行綱の関東での居城と伝わるのが、以前紹介した横浜市都筑区の茅ヶ崎城です。
その茅ヶ崎城の裏に在る正覚寺は関東での多田行綱公の菩提寺と伝わっています。
※茅ヶ崎城の記事は「ココ」←クリック!
この佐原三浦家の子孫に当たる武将が房総半島の槍大善こと正木時茂(ときしげ)公であり、佐原三浦家を継いだ養子の三浦道寸(どうすん)公は北条早雲公と相模国の覇権を争って、この岡崎城に籠城しました。
更に道寸公の嫡子三浦荒二郎義意(みうら あらじろう よしおき)公は、三浦半島の現在の油壷マリンパークに在った新井城の最後の戦いで、一人で500人を打ち取った豪将として名を馳せました。

そんな歴史上の多くの名将が関わった岡崎城址、神奈川県教育委員会の怠慢で破壊されていますが、実は部分的には当時の地形も見え、更に完全に残っている曲輪もいくつか有ります。
例えば…
岡崎義実公の御廟所から無量寺に帰る途中に、❝喰い違い虎口❞と、その❝土塁と空堀❞の遺構と思われる畑地と農道を通りました。
❝虎口❞と言うのは、小口とも書きますが城兵が安全に出撃したり敵兵の侵入数を制限し立ち往生させ射殺する施設で、多くの場合は城門が置かれていました。
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青く光っている場所が、小生が観察写真を撮影したポイントです。
上に無量寺が見えますので、位置関係は無量寺を起点にして探してみて下さい。
このポイントで撮影したのが下の写真です。
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右手には曲輪の遺構の小さな丘が保存状態良く現存しています。
その間をS字クランクで抜けるこの農道の左右には明らかに空堀の遺構である畑地が有ります。
そして農道のクランク左手(城外に向く側)には土塁遺構と思われる盛り上がりも有りました。
或いは、このクランク自体が土塁で右手の空堀状の畑地は右手上の曲輪下の❝帯曲輪(おびくるわ)❞だった可能性も有ると思います。
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小生の様な歴史好事家(こうずか=オタク)や御城ファン以外には只(ただ)の畑地でも、我々には完全に空堀か帯曲輪だと断言出来る保存の良さですよ本当。すごい!
この喰い違い虎口跡の可能性が高い場所の右手曲輪跡の藪の中に入って見て下さい… 2016-01-03-16-26-24
上の写真の位置に行くと、下の写真の明確な堀切の遺構が見れます。
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凄いでしょ?
結構残ってますよ!岡崎城の遺構!
この一帯をちゃんと整備し、柵や木盾を押し並べ、堀底に逆茂木を敷設した城址公園化したら有料でも御城ファンが散歩に来て、ドラマの撮影場所にも使え観光と史跡保護の一石二鳥に成ると思います。
さて、先にズンズン進みます。
この農道を先に進むと、岡崎城址本丸の無量寺裏の連郭式の三連曲輪が見られます。
岡崎城三連の曲輪
あくまで、義実公の御廟側の農道から来て下さい。
無量寺サンの直ぐ裏ですが、無量寺側からは侵入できないようにロープが張って有ります。
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三連の曲輪の空堀から見た曲輪遺構。
この反対側は無量寺。
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だから無量寺にある城山稲荷大明神の裏っ側が見える…
小生が上の写真を撮影したのは下の青い点の場所。
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緑の線が農道ですね。
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曲輪にそって堀底道が続きます…
空堀も埋まってしまい大分と浅くなり、普通の人には只の農道にしか見えないでしょうね。
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でも人工的に削岩された形状が素人目にも判(わか)ると思います。
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曲輪の上にはきれいな水仙も咲いていました。
なんだか、城跡と水仙て関東では良く見る組み合わせなんですねよ。
偶然だと思いますけれど。
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可愛い…
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上の場所で水仙が咲いていました。
訪問は1月2日でしたが、その先、三連の曲輪の2つ目の曲輪の端っこには、綺麗な紅葉も見られました。
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その下には真ん中の曲輪と尾根を断ち切り、敵の侵入を防ぐ❝堀切❞が在ります。
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堀切の堀底道には更に別の堀底道に繋がっていたので、嘗(かつ)ては城兵が往来していたんでしょうね…
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真ん中の曲輪は、下の段の、恐らくそこも何某(なにがし)かの曲輪だった柵平地に繋がる深い堀切りが見られました。
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でも藪漕(やぶこ)ぎする時間が無かったので当日はその先には行きませんでした。
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でも、この下の写真…
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小生のいる青い点の右手に在る柵平地の畑地、その左右に伸びる農道は真っすぐ青い点の下のうっすら見える堀切に続いているので、この堀切が間違いなく堀底道としても使われていた証拠だと思います。
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でも3つ目の曲輪には行かずここまで。 2016-01-03-16-41-42
曲輪の畑地を降りて農道をそのまま道なりに歩くと、無量寺の本丸の南端、民家の石垣に出て舗装された道に復帰します。
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この御宅の石垣、昔の本丸跡の石垣とは思いませんが、使われている石材自体は、昔の三浦家の殿様の御屋敷の石垣とかから転用したものだったらロマンが有りますね。
因(ちな)みに、この本丸南側から丘陵の麓(ふもと)に降りる道も❝喰い違い虎口❞遺構らしい道が在りまして…
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道路拡張して舗装したとは言え、車がスレ違うのに四苦八苦していました…
なんで、そこでスレ違おうと思ったんだろう?
軽トラックが手前の空地に待機すればスムーズに行くのに(笑)。
この岡崎城の高台からは、湘南の海に突き出す大磯町の高麗山公園の山が見えます。
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この高麗山も古代の山城の跡と言われていて、奈良時代に日本に亡命してきた百済人や朝鮮半島から帰化した先人の山城の遺構とも言われています。
朝鮮式の山城は別に百済帰化民の城と言う訳では無く、当時の大和政権は唐と対立した時に、香川県に築いた屋島城や福岡県に水城等を多く築城しています。
この大磯一帯は古代、一宮寒川神社と二宮川勾神社の辺りで何方(どちら)を国府にするかで豪族が争った場所でもあり、その伝承は神話と成り❝国府祭(こうのまち)❞と言う神事として神社の神様同士が一宮の座を争う内容が、現在にも受け継がれています。
尚、この神様同士の争いを仲裁したのが、岡崎城址から車で数分の場所に在る比々多神社神様で、現在も神様同士の争いを仲裁するのが比々多神社の神様の役割に成っています。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
湘南~西湘、今の伊勢原市辺りは古代からの聖地であったと同時に、戦国時代まで、旧相模国の大名三浦家の中心を為した拠点だった訳です。

では!
又、次の記事で御会いしましょう!






神奈川県の伊勢原市には神話の時代、弥生時代以前から聖地として存続する神社が数ヵ所在(あ)ります。
それ等の神社の旧社域からは縄文時代の祭祀遺跡~古墳時代の墳墓等が沢山出土していて、伊勢原市の大山の山頂~麓(ふもと)まで日本の神話を証明する様に❝地下を掘れば遺跡❞と言っても大げさでは無い神社が沢山有ります。
その一つが高部屋神社と言う神社です。
延喜式に登場する神社で、式内社の中でもかなり古い歴史を持つ神社です。
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この現在の高部屋神社は平安時代に現在の場所に社殿を移されたのですが、それでも尚、神話の時代の神秘や「浦島太郎伝説」の結びつきを彷彿とさせる建造物や意図的に古代の儀式を惹起(じゃっき)させる配置で植えられた古代は霊的な意味を持った植物等、多くのミステリーを持ち、尚且つ明治時代に成るまで江戸から御参りに来る観光客で賑わった程の有名な神社でした。
なんせ、この神社の目の前の道、現在は普通の住宅街の中の道ですが、この道は昔の実は大山街道なんです。
江戸時代、江戸の市民には富士山登山と伊勢原市の大山登山はセットで憧れの観光プログラムでした。
これは平安時代末期にも、鎌倉幕府初代征夷大将軍源頼朝公も行ったレクリエーションを兼ねた山岳信仰でした。
現代では余り❝権化❞や❝権現❞と言う言葉を口にする日本人もいなく成りましたが、昔の人は自然と神様や仏様の存在を結び付けて同一視する事で自然信仰と神仏崇拝を同時に行っていました。
伊勢原市に在る❝大山は大山祇大神の権化❞として…
富士吉田から登山する❝富士山は大山祇大神の娘神様の此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の権化❞として…
それごれ信仰対象と成っており、江戸市民はその山を登る事で幸せに成る御利益を授かろうとしたり、ごく自然に風景の美しさに感動したりしていました。
先ずは、伊勢原市周辺の神社や城跡の位置関係を御覧下さい。
高部屋神社位置関係
※画像クリックして拡大して見て下さい!
画像の中心辺りに現在の高部屋神社、真ん中の少し上に高部屋神社の奥院の印が有ります。
実は、この高部屋神社も元は渋田山と言う場所に在り、山岳信仰の対象でした。
しかも!
古代はこの渋田山は❝奥津城❞と呼ばれていた事が知られており、縄文~奈良時代くらいまでの古代人と何か関係の有る山城か山岳集落の有った事を匂わせる聖地でもあります。
❝城❞と言う字は、本来の漢字の意味では現代日本語の❝町❞を指します。
そして❝町❞の本来の漢字の意味は、田圃(たんぼ)の区画を数える単位で、市街地を指す意味は有りません。
中国の❝町❞は、近代まで城壁に覆われていましたからね、唐の時代に西安に留学した大和朝廷の国費留学生達は、城の意味と城壁の意味を誤認して帰って来たのかも知れませんね。
現代日本語の❝町❞を指す言葉は、都市としての町は❝城❞と書き、城の中の所謂(いわゆる)❝町❞の意味の漢字は❝街❞と書きます。
現代の華語でも日本語で言う処の町の事を❝城市❞と言います。

現在の高部屋神社の社殿の在る場所は、平安時代に源頼朝公の配下の武将の糟屋有季(かすやありすえ)と言う御殿様が築いた千鳥ヶ城と言う城の一部でした。 2016-01-03-13-08-59
糟屋有季公が御自分の領地の鎮守の神様として、高部屋神社を渋田山から現在地に遷宮されたんですね。
しかし、元の社殿の所在地だった渋田山には、現在も奥院として祠(ほこら)が建っていると、氏子サンから教えて頂きました。
この奥院の在る渋田山が古代❝奥津城❞と呼ばれた理由であろう要素は、歴史好きには容易に想像が出来ます…
先に述べた通り、奥津❝城❞と言う位なので恐らく元々の高部屋神社の社殿の在った奥院の周辺には古代人の山間の集落が存在したはずです。
そして奥津城の❝津❞の字は現代語で言う処の❝港❞と言う意味の言葉です。
❝津波❞と言うのは❝港に襲来する大波❞と言う意味に成りますね。
つまり、この奥津城=高部屋神社奥院は、古代は海が眼前に広がっていたと言う事に成ります…
でも、上の衛星画像で見た通り、現在は大分内陸ですよね?
しかし、近隣のやはり縄文時代から存続する比々多神社と、この高部屋神社には現在も海に関する神事が存続しています。
下の写真は高部屋神社拝殿に吊(つ)るされた❝ホンダワラ❞と言う海藻です。
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高部屋神社では、昔から神社にこの海藻のホンダワラを社殿に供える風習が残っています。
ホンダワラは古代名は❝莫告喪(なのりそ)❞と呼ばれ、和歌では動詞の❝名告(なの)る❞の枕詞(まくらことば)として用いられた風流な海藻なのですが…
小生は個人的に軍神であり水神様の八幡大菩薩=応神天皇の本来の御名前の❝誉田別尊(ほんだわけのみこと)❞の発音「ホンダワケ」と「ホンダワラ」が似ていると感じるので、なにがしか古代に於(お)いては、この海藻のホンダワラは応神天皇と結び付けられて考えられた植物だったんじゃないかと感じました。


…実際、この高部屋神社は江戸時代までは高部屋八幡宮や糟屋八幡宮の別名で日本全国で有名だった神社であり、御祭神も応神天皇です。
古い八幡宮は、だいたいが海や湖や大河川の傍に建てられましたからね。
この高部屋神社には明治まで続いた❝汐汲み神事❞が存在しました。
この神事では歴代の宮司は海まで必ず徒歩で歩いて行き、海水を汲んで来たそうです。
拝殿の屋根の破風(はふ=一部分構造の名前)の部分には、浦島太郎の物語の彫刻まで有り、この高部屋神社の由緒が海と密接な関係が有る事を窺わせています。
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もう一度、高部屋神社周辺の位置関係を見て下さい。
高部屋神社位置関係
高部屋神社の社殿が元々在った場所❝奥院❞の所在地の古代名は奥津城ですが…
津は先程申し上げたとおり、❝港❞と言う意味です。
では何故、こんな山の中に奥❝津❞城の津の地名が存在し、海に関する神事が存続するかと言うと…
それは、古代、この場所が海だったからです。
昔の海岸線

この伊勢原の周辺の神社の元に成った古代人の祭祀史跡の出土する場所は伊勢原皇大神宮を除いて高部屋神社を含めだいたいが神話の以前の縄文時代から存続しています。
高部屋神社の前には渋田川と呼ばれる川が流れており、その上流までさかのぼると奥院のある渋田山=奥津城まで辿(たど)りつけます。
ここからは推測ですが、恐らく昔は渋田川にそって奥津城まで細長い入り江が続いていたのかも知れません。
❝渋田山=奥津城❞には古代~古墳時代くらいまで入り江に漁村があり渋田山にも山麓の集落があり❝城❞=町=村を形成していたのかも知れません。
では、上の海岸線を元に衛星写真上に高部屋神社や比々多神社の位置と、縄文時代の海岸線の位置を再現してみましょう。
高部屋の海岸線
ね?
見事に高部屋神社の近くまで、海が入り込んできていたのが解るでしょう?
つまり、この奥津城は古墳時代位の古代の漢字の本来の意味での城が在ったのかも知れません。
実際、この高部屋神社周辺の比々多神社や大山阿夫利神社一帯では縄文時代~奈良時代までの墳墓や祭祀上跡や住居跡が大量に発掘されていますしね。
しかし、まだ汐汲み神事が行われていた幕末には既に海岸線は現在の位置まで後退してしまっていたので、宮司様は古代の風習を守り伝える為に既に海岸線から10km以上内陸に取り残された高部屋神社から必ず徒歩で海まで海水を汲みに行ったそうです。
昔の宮司様は、こうやって日本の伝統文化を神事として守って下さったのですが、明治時代に成り神社や神話が国により統制される❝国家神道❞が成立すると、高部屋神社は400年強の歴史しか無い伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成り、この神代より続いていたであろう汐汲み神事も消滅してしまいました。
伊勢原大神宮の管轄下に置かれる事に成ったのは、恐らく伊勢原大神宮の神様が伊勢系の神様で天皇家の祖先に当たる天照大神だからでしょう。
神奈川の発展に寄与して下さった歴史人物に関係の有る神社を色々回って来ましたが、どうも関東では明治政府によって出雲系の神様の神社や伊邪那美神系の神社は合祀の名の下に弾圧を受け多く消滅しています。
しかし
この神社には海との繋がりだけでなく、今も、日本古来の神道思想を窺わせる神秘的な物も残っています。
と、その前に、高部屋神社の色んな施設を紹介しておきたいと思います。

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看板にもある通り、この高部屋神社は延喜式内社です。関東では余り多くは無い凄く重要な神社。
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そして古代から存続する為(ため)か、御祭神の御名前もあくまで古代からの御名を継承しています。
天皇の尊称は中国の影響を受けたもので、1400年位しか歴史の無い呼び方ですからね。
日本の皇家の歴史は少なくとも2600年以上有るとされる訳ですから、神格化されている❝おおきみ❞様に関しては天皇の尊称以前の御名前を呼ぶべきだと小生も思います。
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高部屋神社の拝殿の前には大きな石造りの鳥居が有りますが少し視線を左にやると、又、別の石段が有りまして…
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こちらの石段の年季の入り様は、恐らく江戸時代くらいからある階段である事を証明してくれています。
この石段の横には昔、御神木であったであろう木の切り株が有ります。
この短い石段を登ると、高部屋神社の社殿とは別の八坂神社の御社が在ります。
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八坂神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおうのみこと)です。
この神様も古代の軍神であると同時に海の神様です。
…と言うか、日本神話上、海を治めることを命じられた神様ですので日本最初の海上交通や治水の神様と言って良いと思います。
平安時代には治水の神様と言えば八幡大菩薩=応神天皇か宗像三女神でしたが、それより以前の日本の古代の海の神様と言えば軍神の素戔嗚尊か、その御子息の安積磯良(あづみのいそら)/磯良(いそたける)神でした。
走水神社の奥社にも日本武尊が信奉したと伝わる須賀神社があり、この❝須賀❞神社の❝須賀❞と言うのは素戔嗚尊と御妃(おきさき=奥さん)奇稲田姫(くしなだひめ)が御一緒に開拓し建国された国の須賀国の名前に由来した神社です。
すなわち日本武尊は御自分以前の軍神で水神の素戔嗚尊と奇稲田姫命を御祀(まつ)りしていた事が解ります。
海の神社の高部屋神社らしい神様ですね。
高部屋神社は江戸時代までは八幡宮だったので、八幡宮の御祭神の八幡大菩薩とは敢えて別棟に御祀りされたのかも知れませんね。
さて、ここは延喜式内の神社でありながら、後に御祭神の関係で八幡宮として江戸時代に呼ばれていただけあり御祭神の八幡大菩薩=応神天皇が神仏習合の象徴的な存在だっただけあり、境内には鐘楼も有ります。
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…逆光で申し訳ない。
でも、この鐘楼は重要文化財に指定されています。
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そして、その隣りにはも御社が在りまして…
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こちらも又々、水神様の金毘羅(こんぴら)様が御祀りされています。
金毘羅様も八幡大菩薩と同じく神仏習合の神様で、インド出身の神様です。
金毘羅(こんぴら)と言うのは元々、古代インドのサンスクリット語で❝クンピーラ❞と言う名前で呼ばれていたインドのガンジス川の神様です。後に仏教に取り込まれ、インドから中国に伝来した後に、中国に仏教留学した日本人僧侶達によって日本に広められました。
日本に伝来すると、神格の似ている大物主と言う神様と習合され水神様として主に日本神話を特に大切にした真言宗の僧侶達に大切にされ、海で働く漁師や廻船商人達からも崇拝されました。
やはり、海にまつわる高部屋神社らしい神様ですね。
最初は中国で、サンスクリット語の発音に宮比羅(ゴンビィルォ)とか金毘羅の漢字が当字されていましたが、日本に伝来した漢字の❝宮❞の発音は訛りが有り❝宮比羅❞では❝コンピラ❞とは日本人が読めないので❝金毘羅❞と真言宗の僧侶達により統一された様です。
明治時代に成ると、仏教迫害の神仏分離令の被害を受けてクンピーラとしての神格は薄れてしまい(仏様じゃなくてインドの神様なんですけどね)、大物主様とだけ形式上祀られる事で、金毘羅宮は破壊を免れる事が出来ました。
ぶっちゃけて言うと、金毘羅様は動物のワニを神格化した神様で、言ってみれば朱雀や白虎や麒麟みたいな動物の神様的な感じでしょうか?
仏教に取り込まれると金毘羅大将とも呼ばれ擬人化した仏像で表現されますが仏教の守護❝神❞の一人として扱われる様に成りました。
まぁ、本来の神格は日本と同じ自然崇拝の習慣を持つインドの方らしく❝水神様のワニ❞です。
小生、香川県の金刀毘羅宮にも御参りしましたが、確か同じ様な解説も書いてあったと思います。
いずれにせよ、高部屋神社の氏子様達が祖先から受け継いだ御社とコンピラ様を大物主様の御宮として守って下さった事で、水神信仰の名残を垣間見える事が出来ます。感謝。

高部屋神社は八幡宮としての神格から、この様な神仏習合の神様も沢山いらっしゃいますが、古代から存続する神社なので、今の一般的な神社では廃(すた)れてしまった古来の風習と思しき習慣も残っています。
その一つが先に紹介したホンダワラを飾る習慣と…
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この枝ぶり、どこかで見た事が有りません~? 2016-01-03-13-38-41
実は皆さん、絶対に毎日生活の中で見てるはずなんですよ。
この木は招霊樹(おがたま)と言う名前の木です。
しかし!
生活のどこで見ているか、その正体を教える前に、うんちく垂(た)れます。
よく神事で用いる榊(さかき)って植物を御供えしますよね?
実は招霊樹、榊より以前から神事に用いられていた節が有り、招霊樹が植生しない地域では榊を主に使う様に成った様です。
この木は黄心樹とも書きますが、正しくは招霊樹と書きます。
和歌で字の発音で❝黄心樹❞と当字されてしまって以来、その字も使われる様に成ってしまいましたが、元々は招霊樹と書きました。
古代中国では❝含笑花❞とも書かれました。
皆さんは普段、一円玉として良く見ています。
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お金にデザインされたり含笑花とか書くので何か縁起の良い植物そうな事は解りますが、日本語の招霊樹では何か神霊的な意味を持っている事も解りますよね。
この招霊樹と御榊(おさかき)は同じ使われ方をします。
榊で説明すると、神棚に供えますが、あれは招霊樹と外見が似ている事から使われる様に成り、榊(さかき)と呼ばれる様に成ったのは発音から境木(さかいき)として用いられ神様の御住みになられる場所を守る結界(けっかい=バリア)を張る役割を担う植物に成ったからですね。
つまり、先に榊の役割で説明してしまいましたが、神様の住む社殿を守る心霊的な結界として古来の神社には植えられていた植物なんですね。ですから現代でも神棚に榊を供える風習が残っている訳です。
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写真は拝殿裏の本殿ですが、やはり本殿も招霊樹の木に守られています。
この様な古代の民俗風習を守る神社は今では少なく成っていますね。
さて、高部屋神社には古代の風習が氏子サン達によって今でも守られている事がなんとなく御理解頂けたでしょうか?
では、社殿を見てみましょう。
この日は1月2日の御正月だったのですが、幸運な事に氏子の偉い方に拝殿の中に入って見学させて頂けました。
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よく古い神社で見かける、上の垂れ幕みたいなもの、これにデザインされている模様が小生にはホンダワラを意匠化した物の様に感じられます。
昨年末、関東最古の大社格の神社の埼玉県の鷲宮神社に横浜の殿様の間宮家の顕彰活動の一環で御参りした際に、同じ物を見て不思議に感じたのですが…
実は鷲宮神社の江戸時代までの宮司家は大内家でした。このホンダワラを意匠化した様な模様、戦国時代オタクはすぐに判(わか)るんですが大内家の家紋にソックリ!なんですよね。
鷲宮神社の伝承では関東を開いた神様は出雲系の神様です。大内家の出自も出雲大社の在る中国地方です。
中国地方の大名だった大内家は渡来系とされ百済王の子孫を自称しましたがそれは藤原氏に気を使って血筋を貶(おとし)めただけで、実際は渡来系でもより古い中国大陸から南方経由で回って来た氏族だと思います。
でなければ歴史事実と神話の両方と整合性が無くなりますからね。そう言う意味では関東地方の神話と鷲宮神社の旧社家の大内家の伝承と整合性が高く成ります。
そうなると大内家は出自は出雲系の御神孫支族だったんじゃないかと言うのが推測出来ますが、実は鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司家も戦国時代は大伴家で、やはり古代からの豪族でした。
高部屋神社の直ぐ御近所で、同じく延喜式式内社の比々多神社も神社としての最初の宮司様は紀氏でした。
関東を早くから開き神事に従事した一族は、藤原氏台頭以前の古豪達が多かった様です。
そう言う意味で個人的な感想ですが、やはりこの意匠は何だか海の大名の大内家やホンダワラと関係が有りそうな気がします。
天皇家の御先祖様自体も海幸彦山幸彦の神話で海と関係が有り、先に紹介した高部屋神社拝殿の屋根の唐破風には浦島太郎の彫像が…
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浦島太郎↑と↓乙姫様と竜宮城
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もうこれ、絶対に出雲系の神様や海藻ホンダワラと関係の有る神紋なんじゃないかなと思うんですよね。
ところで神話から話が逸れますが…
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屋根の構造を内側から見ると、古い建築で釘を使わない日本本来の技術で骨格が組まれている事が見てとれました。
さて、招霊樹の説明で先に少し写真を載せました本殿はこの後ろに在ります。
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本殿には招霊樹の木と、神様を守る専任の狛犬様が結界を守ってらっしゃいました。
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この中に神様がいらっしゃるんですね~。
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本殿はかなり高い位置に鎮座しておられます。
なんだか出雲大社の古の社殿の在り様を、古い神社ほど意識している様に感じます。
それとも高い場所に本殿を祀るのは山岳信仰の日本古来の価値観で山を御神体としたからでしょうかねぇ~?
はたまた、神様が住んでいた高天原(たかまがはら)を意識して、昔の神社は神殿を高い位置に築いたんでしょうか?

こんな風に、高部屋神社は古代のミステリーを今に伝える神社なんです。
是非!伊勢原市方面、大山の桜や紅葉のライトアップや温泉を楽しみにに行かれる機会があれば、近くに在る、この高部屋神社も御参りして日本神話や古代人の風習に触れてみては如何でしょうか?

冒頭で申し上げましたが、この場所は平安時代末期~戦国時代まで千鳥ヶ城や糟屋城の名で呼ばれた城址だったので、現在は道路で分断されていますが…
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道の向こう側は城址公園として土塁や空堀の遺構も保存されて説明の看板も有ります。
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丸山城址公園は、次回、この記事の後編として書きます。

では、皆さん、又、次の記事で御会いしましょう!


3日…
遅起き寝正月。
昼の11時にモゾモゾ起き出し、せっかくの休日が勿体無いので発奮!神奈川県伊勢原市に行ってきた。

神代より存続する延喜式式内の古社の高部屋神社
神話を証明する史跡群の中にある御三ノ宮比々多(ひびた)神社
 
普通、神社は南面を向いて社殿が建設されるが、この比々多神社は南東にある。
これは、この現在の社殿の役割があくまで「拝殿」であり、戦国時代まで裏山にあった本宮跡地を本殿に見立てているからだろう。
比々多神社位置関係
衛星写真で見ると一目瞭然です。
今日は正月だから巫女さん達が売店に沢山いて、御参りしたら鈴で御払いを無料でしてくれた。
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神社で巫女さんが祭事で使う「鈴」は「黄心樹(おがたまのき)」と呼ばれる植物の代わりに使われる様に成った祭器で、1円玉の表面のデザインの植物がそれだったりする。
この「おがたまのき」は音の発音では「小賀玉木」とも書かれたりするらしいのですが、正式には古代大和語に意味が同じ漢字を当てて「招(おが)霊(たま)樹」と書く。神の御霊を降臨させる植物と言う事でしょうかね~?
招霊樹が自生しない地域では良く似た榊(さかき)を用いるそうです。
御神前や御仏前に供えるのは、古代日本宗教の名残なんですね。
全国の緒方サンや尾形サンは、この古代語で書かれる植物と関係が有る仕事をしていた御先祖様を持つのかもしれませんね。
そして戦国時代三浦家の居城岡崎城址と本丸跡に建つ無量寺を見学。
加えて岡崎城旧城域の住宅街の中に残る平安末期〜鎌倉時代の河内源氏に対して深い忠義をお持ちだった岡崎義実公の御廟を御参りして来た。
なんと、浩宮皇太子殿下も若かりし頃御見学にいらしたようだ。
…歴史オタクなのかな?
見学が終わり帰宅前に伊勢原の義伯父の家に挨拶に行き、北海道から帰省している幼馴染の姉ちゃんにも会えた。
すき焼きを、たらふく御馳走に成って帰ってきた。

良い正月三箇日の〆、良い年の始まりに成ったと思う。

観音崎の記事書いたらら次は高部屋神社と岡崎城址の一部分の紹介記事を書こうかな?

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