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タグ:河内源氏

皆さんは平安時代末期~鎌倉時代を通じて❝坂東武者の鑑(かがみ)❞と評された名将の畠山重忠公を御存知でしょうか?
きっと少し歴史が好きな人ならば必ず名前を聞いた事の有る名将だと思います。清和天皇の直系子孫で臣籍降下した源氏一族を代表する武将であり鎌倉幕府を樹立した征夷大将軍の源頼朝公に最も信頼された人物が畠山重忠公でした。重忠公の所領は今の埼玉県南西部辺りでしたが、実は畠山家の御一族が鎌倉市や横浜市に御縁が深かった事を知る人は移住者だらけの現代横浜市民には❝知る人ぞ知る❞と言った所でしょうか?
横浜市金沢区釜利谷南と鎌倉市の鶴岡八幡宮の直ぐ隣りに現在も伝承地の石碑や供養塔が残っています。
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江戸時代の歴史学者地理学者であった間宮士信サンが❝新編武蔵風土記稿❞と言う文書の中で疑いの余地有りと推測しているものの❝畠山重保公墓❞として紹介している場所です。
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伝畠山重保墓
※住所クリックでGoogle mapにリンクします⤴
普段は御墓の写真は掲載しないのですが、史跡としても又、現代では余り横浜市との関係を語られ無くなった武家の名家畠山家との御縁を再認知して貰う為に畠山重保公の御霊に御活躍して頂きたく、敬意を込めて供養塔の在る御廟所の写真を掲載させて頂こうと思います。
この畠山重保公は鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公の御子息でした。
今日は横浜市金沢区の史跡であり畠山家の武将、畠山重保公の❝御霊を供養する御廟所❞の紹介をする為に、少し源頼朝公と畠山家と源氏最大の協力者の三浦家との因縁(いんねん)を交えて解説したいと思います。
さて、源頼朝公の最初期の協力者として有名な武将は以下の方々でしょうか?

【坂東平氏の祖、桓武天皇の孫の平高望王の後裔達】
●三浦家・・・三浦半島を治めた一族。
三浦義明公、岡崎義実公、三浦義澄公、和田義盛公、佐原義連公、真田義忠公等・・・
●鎌倉家・・・旧鎌倉郡の鎌倉市~藤沢市域を治めた一族。
村岡家(鎌倉の権五郎御霊神社の2015年迄の宮司家)、懐島(大庭)景義公、梶原景時公等
●中村家・・・伊勢原市~小田原市~湯河原等の西湘を治めた一族。
中村重平公、土肥實平公、土屋遠宗公等
●千葉家・・・房総半島北部を治めた一族。
千葉常胤公、千葉胤正公、相馬師常公等
●秩父家・・・埼玉県域を治めた一族
熊谷直実公等。

【宇多源氏の祖、醍醐天皇の皇子の敦実親王の後裔達】
●佐々木秀義公、佐々木経高公、佐々木盛綱公、佐々木高綱公等

【秀郷流藤原氏の後裔】
●比企尼、比企能員公等。
さて、冒頭で鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公や今回の主役の畠山重保公の名前は源頼朝公最初期の協力者として登場しませんが、歴史好きなら誰でも知ってる石橋山合戦で源頼朝公が反平家政権の挙兵を行った際、以前は源氏の家来だった畠山家は平治の乱での源氏が衰退すると平清盛公に従属して平家政権の豪族として武蔵国の軍権を任せられる程に❝平家側❞から信頼されていました。
まぁ、能力高く真面目な人でもあった様なので源氏からも平氏からも重用された人物だった訳です。
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その当時の重忠公を模写した人物画や彫像は小生の知る限り現存していないと思いますが、畠山重忠公が着用した武具は現在も武蔵御嶽神社に奉納された物が現存し、真紅の威しで結った煌(きら)びやかな鎌倉武士らしい甲冑を着用した華実兼備(かじつけんび)の武者だった事が窺い知れます。
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写真は鎌倉市歴史文化交流館に展示されているレプリカ。同館は写真撮影自由の珍しい博物館。
鎌倉市歴史文化交流館この畠山重忠公の母上は三浦義明公の姫君でしたが、源頼朝公が兵300を率いて石橋山で挙兵した時に京都で勤務していた畠山重忠公は平清盛公に代わって武蔵国の兵20000の大軍を率いて源氏討伐を任されてしまう立場に成りました。真面目だった畠山重忠公は職務を全うしますが、祖父の三浦義明公率いる三浦党は三浦半島の衣笠城(横須賀市)で挙兵し源頼朝公を支援しました。
そして畠山重忠公の大軍は鎌倉逗子境の住吉城を手始めに三浦家の葉山町桜山の鐙摺城~本拠地の衣笠城を攻める事と成ります。
三浦義明公は衣笠城に手勢で籠り、子息の三浦義澄公や佐原義連公や孫の和田義盛等の三浦一族を久里浜の怒田城の舟倉から水軍で房総半島に逃がす時間稼ぎをして最期は自害したと伝わります。
コレが後の畠山家と三浦家の決定的な対立関係を生む因縁と成りました。
因みに三浦義明公がいなければ源頼朝公は佐原義連公や和田義盛公等の軍略家や軍政家を配下に出来ず、組織立ち上げすら出来なかったかも知れないし横須賀市佐原城主の佐原義連公と横浜市茅ヶ崎城主の多田行綱公が献策した鵯越の逆落としと曲解された迂回挟撃も発生せず源義経公と源範頼公兄弟による挟撃は成功するはずも無く日本は東西に分れ戦況は膠着し鎌倉幕府は樹立されなかったでしょう。
この話は以前に幾つか書いた関連記事が在るので下記にリンクを貼って置きます。
●三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
●満昌寺…源頼朝公の開基の三浦義明公菩提寺…横須賀市衣笠
●清雲寺…三浦(横須賀市大矢部)…三浦家の菩提寺
●平良文公と二傳寺。日本全国の平氏系大名の祖先。…藤沢市渡内〜村岡。
さて、この真面目で華やかで高い能力の有った畠山重忠公には汚れ役も任された逸話も残されています。
その舞台は鶴岡八幡宮と美しい由比ヶ浜です。
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鎌倉市を代表する鶴岡八幡宮、その朱漆塗りの舞殿は現代では結婚式が執り行われる場所として、参拝客も新郎新婦から幸せの御裾分けをして頂ける場所ですが・・・
ここは鎌倉時代には拝殿や舞台の役割をした施設で、この舞殿から鶴岡八幡宮の本殿の台地を取り囲む様に渡り壁が伸びていました。そして、ここは頼朝公の実弟の源義経公の側室だった❝静御前❞が義経公の子を妊娠した身体で舞を舞った舞台でもありました。
当時、源義経公は源頼朝公に反逆し奥州に逃げていました。そんな中で身重の静御前は逃避行から脱落して頼朝公側に捕縛され鎌倉に連行されてきました。静御前が子を妊娠している事や義経公と一緒に逃避行した愛情の深さに対して、女性として恋愛に情熱的な人物だった北条政子様は大変に同情されて源頼朝公に対して静御前の助命嘆願を自ら行いました。すると源頼朝公はこう条件をつけました・・・
1、生まれて来る子が女子なら生かす。
2、男子が生まれて来たら敵対するので殺害する。
・・・これは頼朝公にしても鎌倉幕府を運営する武士達にとっても非常に静御前に対して寛容な条件で許している事が判ります。何たって敵対勢力に成った人物の奥さんの命と生まれて来る子も女児なら助けると保証している訳ですからね。
しかし不幸な事に生まれて来た義経公と静御前の子供は姫ではなくて男児でした。
この死刑執行を任せられたのが源頼朝公から❝生真面目さ❞と❝能力❞を信頼されていた畠山重忠公でした。静御前の生んだ男児は由比ヶ浜に生き埋めにされたと伝承しています。
もしかしたら・・・殺したと幕府御家人達には報告させて頼朝公の密命で助けたかも知れませんが、まぁ伝承では由比ヶ浜に埋めた事にされています。
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今では夏が来ると海水浴客で賑わう材木座~由比ヶ浜の砂浜や砂丘は実は平安時代頃からは❝公共墓地❞として利用された土地だったので、最近でも発掘調査をすると人骨が普通に出て来たりするのですが❝霊感が有るニセ霊能者(笑)様達は、この辺で何も感じない霊感音痴だらけ❞の様ですね(笑)。
ついでに言えば鎌倉市で戦火に巻き込まれていない場所の方が少ないし、昔は鎌倉の小学校の校庭に砂には普通に風化した昔の人の人骨が混じってるのなんて有名な話だったんですよ!
小生達、地元神奈川の人間だけでなく関西人の司馬遼太郎先生ですら、この事を御存知で❝街道をゆく❞シリーズの鎌倉散策の巻で逸話として紹介していたりします。
さて、この義経公と静御前の嬰児の話の舞台の一つが由比ヶ浜なのは恐らくは❝嬰児の処分❞の命令を受けた畠山家の鎌倉市内での御屋敷が由比ヶ浜と鶴岡八幡宮の隣接地に存在した事に由来すると小生は推測しています。
正確に言うと幕府に出仕していた畠山重忠公の御屋敷が鶴岡八幡宮の横に存在し、海側にも畠山家の別宅が在り畠山重保公等の家族も住んでいた様です。
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大蔵幕府跡鶴岡八幡宮から東に行くと源頼朝公の邸宅兼幕府役所の機能が在った大蔵幕府跡の清泉小学校一帯に大正時代の郷土愛の強かった生粋の神奈川県民の鎌倉町青年会によって建てられた顕彰碑が有ります。
ココと鶴岡八幡宮を結ぶ謂(い)わば源頼朝公の邸宅の最終防衛ラインに成る中間地点の横浜国大付属中学の一帯が畠山重忠公の屋敷地と伝わり、やはり大正時代に鎌倉町青年会が建立した顕彰碑が今も観光客が歩く景色の一部として現存しています。
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畠山重忠邸址さて、源頼朝公は相模川に架けた大きな橋の開通式に参列した際に前日から❝ヒ素中毒❞ぽい症状の記録が残る状態で式典中に馬上から落馬して死んだ事にされていますが、小生は北条時政と稲毛重成の義理の親子による暗殺事件だったと推測しています。小生と同じ説の歴史ファンも結構多いんですよ。
この頼朝公の死の後、鎌倉幕府の御家人達は各家毎に集団として分裂の様相を呈して有力武家vs有力武家の権力抗争が始まってしまいました。鎌倉幕府最初の危機ですね。
この権力闘争で最も権力に執着した梶原景時公は実務力と謀略に優れた知将で頼朝公亡き後も跡継ぎで二代将軍の源頼家公を補佐していましたが、最初期から他の武将をハメてまで出世に執着したので最初の犠牲者に成り、鎌倉御家人66将連名による連判状で弾劾され幕府を追放、更に殺害されました。
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因(ちな)みに相模国一之宮の寒川大社の門前に梶原景時公晩年の居館が在りました。
梶原景時公の次に犠牲に成ったのは比企能員(ひきよしかず)公でした。
比企能員公の実伯母(おば)であり養母の比企尼は源頼朝公の乳母(うば=授乳係兼養育担当者)だった御縁で頼朝公と非常に信頼関係が深く、比企尼の三女の平賀義信公に嫁いだ姫も二代将軍と成る源頼家公の乳母を務めた家柄でした。源頼家公が不可解な危篤状態に陥ると更に不可解な事に未だ頼家公が亡くなっていないのに北条時政が独断で源頼家公の財産分与を取り仕切る事態が発生しました。これも小生は北条時政によるヒ素を用いた暗殺未遂だと推測しています・・・
頼家公は運よく回復すると事の顛末(てんまつ)を比企能員公から聞かされるや北条時政討伐の謀略を比企家や近臣と計画します。
・・・しかし、これが運悪く母で北条家の人間の北条政子様に聞かれ北条時政に通報されてしまいます。北条家との縁が深い源実朝公擁立を鼻から画策していた北条時政は先手を打って比企能員公を北条家の邸宅と要害城を背後に抱えた名越邸に「仏事で相談があるからチョット来てyo~♪」と軽く、且(か)つ本当は源頼家公と比企家と頼家公近臣達が北条家討伐を画策している事を知っているのを微塵も感じさせない様に呼び出し、比企能員公を逆に暗殺してしまいました。
そして・・・
その次に標的に成ったのが頼家公の近臣だった畠山重忠公です。
畠山重忠公史跡二俣川古戦場 久良岐のよし
今の神奈川県運転免許試験場から程近い帷子(かたびら)川~二俣川や鶴ヶ峰は八王子街道から連結する渡河地点でした。「鎌倉で事件が発生した!」と北条家に嘘の連絡をされた畠山重忠公は130騎の兵で埼玉県の菅谷館から馬を走らせ駆け付ける途中、二俣川の河畔で対岸に北条家率いる鎌倉幕府軍20000の大軍を目の前にして全てを悟り、潔(いさぎ)く「ここを死地とする」と覚悟を決めて応戦しました。
因みに、この合戦で畠山重忠公は弓の名手の愛甲季忠公に射殺され討死しました。
愛甲季忠公は現在の厚木市一帯に勢力を誇った古豪で、鎌倉幕府で糟屋有季公等と並び屈指の弓射の名人でした。
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小野神社
愛甲季隆公は神奈川県内で14座しかない延喜式内社の神社の一つ、閑香大明神小野神社を平安時代に支援した事でも有名な人物です。
さて、二俣川の合戦で圧倒的な劣勢の畠山重忠公は自ら弓を取り奮戦し、鎌倉時代を代表するスナイパーの愛甲季隆公に射殺されて討死にしたのですが、御子息で鎌倉にいた畠山重保公も殺害されました。
その異変の発生を鎌倉で察知した畠山重保公は「鎌倉から山中を逃げて来て、この辺りで自害した」と横浜市金沢区釜利谷一帯には古くから伝承しています。
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でも新編武蔵風土記稿の編集者だった間宮士信サンの部下の記者は、この伝承を以下の文章で否定しています・・・
「按に東鑑(吾妻鏡)元久二年六月二十二日の條に、寅刻、鎌倉中驚遽軍兵競争于由比濱之邊、可被誅謀叛之輩、畠山六郎云々・・・(以下省略)」
・・・つまり、❝「鎌倉の由比ヶ浜辺りで謀反を画策した畠山六郎が誅された」と書かれているから、金沢区の畠山重保公がここで自害したのは誤りだ❞と指摘しているのですが、これは悪いが間宮士信公と部下の記者の推測がいい加減だと言えるだろう。
まず、吾妻鏡の内容は「誅罰の兵が差し向けられ戦闘に成った」情況の説明しか書かれておらず、又、討死したとも書かれていない!
そして記者が理解していないのは、この墓所の有る場所は立地が鎌倉~横浜市旧久良岐郡域~八王子~埼玉に抜ける八王子街道への最短ルートだったりする。
この記者の意見は一帯の南部には❝金澤道=六浦道❞と言う主要街道と円覚寺方面に抜ける鎌倉道が存在する先入観からの推論だろう。
伝畠山重保公御廟所位置関係 久良岐のよし
しかし、この畠山重保公の御廟所の場所は❝白山道❞と言う、新編武蔵風土記稿が書かれた頃にはマイナーな道に成ってしまっていた古道が眼前を通り、鎌倉の玄関口である朝比奈峠の切通しへ直結する最短ルートであり、更には久良岐郡の氷取沢へ抜ける六浦道のショートカットコースでもあり、六浦湾から船で逃亡も図れる逃走経路としては打ってつけの道なのだ。
由比ヶ浜の畠山邸から朝比奈峠を超えようとすると北条家の名越邸の眼下を通る必要が有るので、その道は恐らく通れなかっただろう。
当然ながら鶴岡八幡宮の横を抜ける巨福呂坂の切通も兵が待機していただろう。残る八王子街道へ抜けて~埼玉の畠山重忠公に危険を知らせる事が出来る逃走経路は❝金沢区の伝承どおり山中を超える❞しかない、即(すなわ)ち大蔵幕府背後の未開発だった地域の鎌倉カントリークラブや鎌倉霊園の獣道を無理矢理でも越えればショートカットの❝白山道❞まで逃げて来れる訳だ。
白山道は鎌倉幕府が滅亡して室町時代に成っても重視されていたので、最後の鎌倉公方で初代古河公方の足利成氏公が重視して宿泊所としても機能を持つ寺院を開基している。
以前紹介した禅林寺だな。
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竹嵓山 禅林寺そして❝伝畠山重保墓❞の地形を改めて見ると、ここが切腹するに相応しい❝施設❞が在ったであろう事が神社仏閣参拝や御朱印集めが趣味の人なら一目瞭然だと思おう。
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谷戸に囲まれてるんだよね、明らかに谷間を削平して丘陵を裾切りした人工地形。
しかも昭和の埋め立て迄は、この直ぐ近くまで海の入江が迫っていた。
平安~鎌倉~室町時代初期の鎌倉文化を受け継いだ神社仏閣と武士団の邸宅跡は修験道と真言宗の施設以外は十中八九が❝谷戸❞に邸宅や御堂が作られる場合がほとんどだったんだな。
だから、ここには江戸時代には名前も記録も伝わらなくなっていた寺院の跡か畠山家の景勝地金沢における船着き場近くの別邸が在り、畠山重保公は山を越えて来たものの菅谷館まで辿(たど)り着く困難を悟り、ここ白山古道前の六浦❝山中❞に在った何某(なにがし)かの施設内で自害したのではなかろうかと小生は推測する。因(よ)って新編武蔵風土記稿の❝この場所に対する解説に関しては❞解釈も地形と古道への理解も中途半端だと小生は断言出来る。
では、金沢区の禅林寺以外にも室町時代以前、鎌倉時代初期の武士達の横浜市や鎌倉市内における武士邸宅跡の伝承地を既に紹介した事が有る場所の記事で実例として列挙しておこう。
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鳥山八幡宮
・・・佐々木高綱公/佐々木泰綱公邸址、背後の鳥山地区は詰城で神社の前は旧道。正に金沢区の伝畠山重保墓と同様の立地。
※クリックで記事にリンク⤵
●横浜市港北区鳥山の八幡神社…鎌倉幕府の名将:佐々木高綱公の城跡
●2015/04/02時点の横浜の桜名所状況
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稲荷山 浄妙広利禅寺(略寺名:浄妙寺 旧寺名:極楽寺)
●浄妙寺 足利将軍家の祖先の菩提寺にして臨済宗鎌倉五山の一つ。紅葉も綺麗だよ!…鎌倉市浄明寺地区。
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亀谷山 寿福金剛禅寺
源家の本拠地…寿福寺。鎌倉市亀ケ谷。…北条政子様と源実朝公の菩提寺。
まぁ~他にも例を挙げればキリが無い。
そんな訳で、小生は伝畠山重保墓との現代の仮名で登録されている御廟所の主は伝承通り畠山重保公が自害した❝屋敷か御堂❞の跡地だと推測する次第だ。
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今では目の前はマンションが立つ。
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しかし隣接地の宅地の崖には、近くに寺院が有った証拠である矢倉=鎌倉文化の横穴式の御廟所跡が有る民家も在る。
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法輪塔も恐らく後世に再建立されている物だが、デザイン自体は三浦家の三浦義澄公や清雲寺の歴代三浦家御当主の物に酷似しているので最初の墓石を模造したか、谷戸なので劣化のスピードが遅かったのだろうか?
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卒塔婆(ストゥーパ)にはメジャー文献だけ読んでいても伝わらない畠山六郎重保公の戒名がちゃんと書かれています。
大圓鏡智 為 重安(=重保)院 龍嶽雲公大居士 祥月
ね?文献だけ読んでても現地に行かないと歴史には解らない事も有るでしょう?
だから歴史オタクは行動力が有る人が多いんですよ~。城ファンとか神社仏閣ファンとかね。
さて、この畠山重保公や御父上の畠山重忠公が領地の埼玉県西部や鎌倉市だけでなく横浜市一帯にも深い御縁が今では何気ない場所に成っている所で有った事を確認出来るの皆さんにも伝わったでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも平安~戦国時代の武士達の城跡の山や歴史偉人の関わった神社仏閣や、古代からの聖地の池や泉や奇岩が有ったりすると思います。そして、そう言う場所は豊かな緑が残っていたりして散歩すれば疲れをすっ飛ばして癒してくれる、先人が我々に残して下さった文字通りのパワースポットや、昔の人が日本文化を残してくれた感謝を感じられる空間に成ってくれます。
・・・みなさんも御近所の山や神社や御寺を散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう・・・って!
前回のこの休日雑記で⤵
【休日雑記】2018年05月13日の訪問先・・・友人と鎌倉の幻の遺跡ハイクと横浜駅で火鍋晩餐。
「さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!」
・・・なぁ~んて書いてたのに全く関係ない鎌倉時代の史跡と偉人紹介してますね(笑)。

多米元忠公の記事、又、ゆっくり書きますよ~♪
では、今日は趣味の外国語学校とジムに行ってきますので、今週の記事はこれで!
皆さんにとっても、小生にとっても今日が良い日に成り、新たな1週間が実り有る時間に成ります様に~♬



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日本で生活する外国人を一色単に「在日」とカテゴライズし差別するのは良くない。 これには歴史オタクとして少々思い入れが有るし、隣の中国や朝鮮や欧米諸外国やアジアの友邦から日本に留学に来たり働きに来て生活する人の内で何割かに当たる反日朝鮮人や反日韓国人や反日中国人や欧米史観至上主義者とを区別せずに、親日の人まで一色単に攻撃する事に成る。
無論、民主主義の韓国政権と自称民主主義の北朝鮮金王朝が存在するのは、その国民の政治的な意思や正義を貫かない不正義の結果なので批判しても良いと思うし責任を取らせても良いと思うし見捨てて良いと思うが、人種差別的な発言は宜しくない。
その言い回しだと「古代の在日朝鮮人から帰化した亡命者」を愚弄する事に成る。 そして「日本人を悪と教育する現代の中・韓・北朝のロジックと同程度」の歴史弱者としか言えない。
伊藤博文公
更には明治時代に朝鮮王族を保護し、明治・大正の政府の外交戦略に反して朝鮮王朝復活の可能性も温存していた伊藤博文公まで侮辱する事に成る。
伊藤博文公&李垠殿下
伊藤博文公は日本政府の中で朝鮮王族の李垠(りぎん)殿下を保護し、朝鮮王族血統排斥派から守り通した人物なのを知る人は日本人にも少ない。
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李垠殿下は伊藤博文公を慕っており、良く横浜市金沢区の野島の伊藤邸へ遊びに行って海水浴をしたそうだ。野島は平安時代末期には源頼朝公が景勝地として御好きだった金沢(かねさわ)の海に浮かぶ島で、江戸時代以降は周辺と合わせ金沢八景と呼ばれる名勝と成り、紀州徳川家の別荘も在った。
昔から海鼠(なまこ)、蝦蛄(しゃこ)、穴子(あなご)の特産地として知られ、李垠殿下もそれらの海産物を御召上がり成り舌鼓を打たれたのだろう。
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
今でも金沢区柴の柴漁港では小柴穴子の天丼を提供する“小柴のどんぶりや”や・・・
小柴のどんぶり屋 久良岐のよし
鎌倉時代に京の都を統治した武家最高の教養を誇る金沢北条家の邸宅跡の真言宗の別格本山寺院であり、東の正倉院の異名で歴史学者に重視される稱名寺の参道の文庫茶屋や・・・
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伊藤公の時代の与謝野晶子さんや海軍人達から愛された料亭“金沢園”の後継旅館である喜多屋でも、李垠殿下も野島で食したはずの穴子料理を食べる事が出来たりする・・・
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・・・なので、小生同様に本当に歴史や神社仏閣や御城と古民家と日本料理が好きな“保守派”横浜市民は結構、この史実を知っている。
しかし、己の朝鮮民主主義人民共和国なり大韓民国なりの国家元首としての地位の保持の欲の為に国策として
嘘の反日歴史観を韓国国民や朝鮮国民に教えて普及させた李承晩や金日成の当該国籍の横浜市民達も当然この事実を知らない人間ばかりだろう。
伊藤博文公は当時の死に際し欧米のマスコミからも「朝鮮人の最良の友人であった」と批評されている事も、その真実が解る。
李垠殿下
李垠殿下は李皇帝の正式な跡継ぎとして戦時中には後継者指名を受けていたが、第二次世界大戦終結後も晩年まで帰国できなかった。それは李王朝復興に由(よ)って大統領の権限が脅かされる事を恐れた李承晩大統領が殿下の帰国を拒否し阻止したからだった。恐らく李承晩によるアメリカ合衆国への根回しも有っただろう。
小生は思う、李垠殿下が日本の無条件降伏後に米国の支援を受けれて直ちに韓国に帰国出来ていたら、明治時代に清王朝から独立して皇帝と成った韓国皇朝を復活させ見事に立憲君主制を実現させ、米国や昭和天皇や吉田茂総理や白洲次郎サンと協力して朝鮮半島の統一の原動力と成って民主化と先進国化を成功させる事が出来、現代の北朝鮮国民の餓死者も出す事も無く、キリスト教系カルト宗教の韓国人による日本の神社仏閣へのテロ行為を起こさせる事も無く、日本と韓国は真に対等で皇族同士が血縁も有る友邦と成り、古代の神功皇后こと息長長足媛命以前の日本ー朝鮮半島の様に素晴らしい盟友に成ったんだろうと思う。
・・・まぁ、何度も言うが歴史に「i f」は無いし、考えるだけ無駄。でも朝鮮には李垠殿下の名跡を継いだ李源サンがいらっしゃる。

伊藤博文公は李王朝の末裔達の命脈を保ったが、現代の日本人も助けている・・・
東日本大震災発生時に東北地方で一人の凍死者も出さずに済む要因と成った鉄道貨物輸送網整備は明治時代に横浜新港埠頭(みなと未来21地区)の赤レンガ倉庫を起点に整備された事業だった。
2011年03月11日に発生した2回の大地震と沿岸部の市町村を襲った津波に因って東北地方の鉄道網は壊滅した。その為(ため)に東北地方沿岸部を通る鉄道貨物輸送が利用不能に成り、東北地方は燃料補給が滞り救援物資輸送のみならず暖房の燃料すら確保出来ずに凍死者を多数出す危険性が迫り一刻を争う事態に陥っていた。
初春の東北の気候は関東や関西の冬の様に寒く厳しい。
この危機を救ったのが磐越西線だった。

これは明治時代に旧武士達まだ士分が保証されていた時代に明治政府が士分に与えた秩禄
(ちつろく)給与と言う旧武士階級特権と身分制度が廃止され四民平等に成り、旧武士へは金録(きんろく)公債の発行が行われ言わば退職金の手形が渡された。当時、その公債を売却した武士達が多くの民間銀行や鉄道会社を設立したが、磐越西線はそんな民間鉄道区間と伊藤博文公達の国家事業の合同の事業だった。
今でも小生の郷里に横浜銀行(旧:第二銀行)や信州には八十二銀行も健在だが、これらの漢数字を冠した銀行が当時、多くの民間鉄道会社と同様に日本の発展に寄与した幕末~明治の豪商や武士達によって設立されている事を知る人は歴史好きでも無いと少ないだろう。
はまぎん今昔写真 横浜銀行様ホームページより拝借
※横浜銀行ホームページ“はまぎん今昔写真”で近代と現代の横浜の風景の変遷を見られます。

因(ちな)みに横浜銀行を開いたのは原財閥で、幕末に生糸の貿易で日本有数の大家と成り財を成した集団だった。横浜銀行の他に昨年ユネスコに文化財認定された富岡製糸場ニューグランドホテル等も経営していた。そして関東大震災で横浜市街地が崩壊した際に政府よりも復興に寄与し私財を投げ打ったのも原財閥だった。
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そんな原財閥の当主、原三渓さんの個人宅だったのが現在の国指定名勝:横浜三渓園だ。
この原三渓サンの横浜銀行(明治七年:1874年)の創業から24年後に奥羽山脈の大森林と山川を切り開いて線路が引かれ磐越西線(明治三十一年:1898年)開通と成ったが、この区間は現在も無送電区間が有り、蒸気機関車やディーゼル機関車によって客車が牽引(けんいん)されている。そして川に架かる橋梁(きょうりょう)は正に明治時代の煉瓦造りやトラス鉄橋等が現在も利用されている。
その磐越西線を使い日本海側を通って横浜市中区の本牧埠頭に在るENEOS根岸製油所~根岸駅~関東平野を通り抜け~福島県~山形県~秋田県~青森県へと石油を大震災発災から僅か1週間で第一便が送り届けられた。無論、この事業を成し遂げたのは無能な民主党ではなく民間のENEOS根岸製油所JR貨物の職員達の独自の立案と迅速な判断に由(よ)る偉業だった。
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その根岸製油所は最近では若い女性から京浜工業地帯の夜景クルージングで人気のスポットだったりする。
ENEOSも又、明治時代創業の起業だ。明治の人達の国民の利益に寄与する公益世務の企業理念が活きている。そして彼等が東日本大震災でタッグを組んだのがJR貨物だ。
そもそも伊藤博文公等の明治政府の元勲等の起こした旧国営事業から後に民間会社化した神奈川臨港鉄道やJR貨物の職員達の企業精神の中には日本を支えるDNAが有り、それが東北の被災者を思う正義感として発揮された結果の迅速な対応だった訳だ。そして明治時代の人々の遺産で有り活きた鉄道史跡の磐越西線が東日本大震災で多くの東北の人を助ける事に成った訳だ。
・・・この旧国鉄貨物線の基礎を築いた伊藤博文公を始めとする幕末に佐幕派‐倒幕派の敵味方に分かれて戦い、後に協力して日本の近代化を成し遂げた先人に対する尊敬故(ゆえ)の願望で有る事は否めないが、いつか
韓国国民が歴史を直視して李王朝を復活させて今の国際条約を軽視する堕落した韓国が立憲君主政治国として皇帝の下で生まれ変り民主主義国法治主義国として成熟する事を、日本の真の友邦に成る事を、1人の歴史好事家(オタク)として切に望む。
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横浜のミナト未来21地区の赤レンガ倉庫の軌道や汽車道遊歩道が、正に伊藤博文公が整備した初代横浜駅の桜木町の先に築いた新港埠頭の貨物線の名残だったりする。
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果たして、ここをデートで散歩する現代人のどれだけが伊藤博文公の思いを理解している事か。
皆無だろうな・・・
古代の朝鮮からの亡命者、彼等の子孫には日本の天皇家の祖先に当たる大王家(おおきみ)の忠臣として活躍した人が多くいる事実を知らず、やたらめったら韓国人や朝鮮人や中国人を反日国の国民だからと言って敵対的に馬鹿にするのは歴史に対する知識が薄いと批判されて然(しか)る可(べ)き。
逆に在日外国人だからと言って差別するのは良く無いと言う主張だけして、実際に反日活動をする人間がいる事に目を瞑(つぶ)り無分別に擁護だけする人間もハッキリ言って内憂外患だし真面目に法律を守って留学したり働いてる在日外国人の為にも成っていない。
・・・極左派、極右派は両方とも問題だらけ。
我々の祖先には少なからず古代日本を心から好きで亡命して来た外国からの渡来人がいる。
彼等を受け入れ開拓の同僚として受け入れ、共に栄え日本国家と日本文化を築き上げた古来の豪族の子孫や天皇家から臣籍降下し鎌倉幕府の基礎を築いた天皇家の子孫の武士達人々が多くいる。
武士と成った人々の祖先達には渡来系も皇孫も多くいる訳だ。彼等が協力して元寇を撃退した訳だ。
だから、簡単に「朝鮮人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家を批判する事にも成る。 もし日本人を差別したり日本国や日本企業を転覆しようとする部類の朝鮮半島の国家の国民や中国大陸の中国人を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・ ●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人文化至上主義者or在日○○人 ●「反社会的勢力の」+在日○○人 ●「反日政治家に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左テロリストを支援する」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/廃人量産するパチンコやカジノ利権擁護の」+在日○○人or政治家 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか? そもそも日本人の中にも多くの渡来人の遺伝子が組み込まれている。
エラが張っているのは朝鮮人と言う流言飛語を鵜呑みにする「ネトウヨ」や「低学歴者」もいるが、こんな事は中学時代に真面目に社会科の教科書を読んでいれば縄文人と弥生人の骨格の違いを学んでおり惑わされる事も無い。
三殿台遺跡 縄文人女 久良岐のよし
エラが張っている骨格は寧ろ日本在来種の縄文人である琉球人・隼人・熊襲・アイヌ等の生粋の九州人や東日本の土着民に多いのは周知の事実だ。
そして韓国人に日本の縄文系同様にエラが張っている人が多いのは「古代邪馬台国時代の釜山周辺がそもそも古代日本の国土だった」からと言う基本的な事実さえ知らない“中卒”程度の学力も無いネトウヨが多過ぎるのも真の保守派や右派から見ると恥ずかしい事実だ。
彼等に日本の縄文系遺伝子同様に顎の四角い骨格が多いのは当たり前、中国の三国志、魏志倭人伝でも「倭人」として登場する訳で、百済滅亡時に大和王朝が唐帝国と逆徒の新羅王朝連合軍に敗れ朝鮮南部の領土を失地するまで、彼(か)の地は遥か神話の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の頃の弥生時代より日本領土であり住んでいる人々も日本人だった訳だ。
その後、三浦半島の走水神社の近くの御所ヵ崎を仮御所にして一時期暮らした日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫(おとたちばなひめ)は西暦100年代に走水から東京湾を超えて大伴氏や吉備氏の古代豪族の水軍を与力として房総半島へ渡航している。日本武尊は複数人の古代大和王権の皇族将軍が合祀された神号だと考古学的には推測されているが神奈川県の複数の日本武尊関係の延喜式内社の神話や社宝と周辺から出土する遺跡を考慮すると、走水に来た日本武尊と弟橘姫は恐らく初代の王族将軍で弥生時代の終わり~古墳時代の始まりの人と推測出来るので神話と考古学的な誤差100年前後と整合性も高く成る。丁度卑弥呼の時代の人なので、そうなると倭姫(やまとひめ)が卑弥呼らしい事も解る。つまり景行天皇が卑弥呼の弟で行政を担当した人物らしい事も窺(うかが)い知れる。
丁度、この時代を境目に青銅器が普及して古墳時代に突入する。
古墳時代の王族の甲冑
その古墳時代の発展によって大和王権の成立に古代の在来豪族と一緒に協力して活躍したのが大王家に忠節を尽くした渡来系豪族達な訳だ。だから、その頃に鉄器製造や騎馬文化が日本でも開始され根付いたし大和王朝統治下で渡来民族と兵庫や大阪や奈良や京都辺りの古代人は多く混血したので、今では近畿には一重瞼で卵型の顎の骨格を持つ日本人が多い。

この歴史をネトウヨと低学歴右翼は知らない。
彼等は当然、ギャーギャー人の言葉を借りて騒ぐ割には、左翼同様に日本書紀も古事記も読まず、古来の延喜式内社も式外社も御参りせず、事もあろうか古代人の聖地が天皇家によって霊場として寺院化された御寺を外来文化として排斥する罰当たりまでいる。コイツ等と天皇家を潰そうとしたり日本の宗教施設に油を撒いたり放火したり石仏や御神像を破壊するアホの左翼やキリスト教系カルト信者の韓国人のやってる事と実質的害悪として差は無い!

結局、低学歴な右翼やオコ様ネトウヨは偽右翼に韓国人無差別排斥を煽る国際的に日本人を貶めるプロパガンダに利用され、朝日新聞や毎日新聞等の極左新聞社に良い様に書かれている。
ハッキリ言って、真の保守派からすれば左派や偽右翼同様に一部の低教養右翼は迷惑な存在だ。

寧ろ平安文化を築いた関西人の遺伝子は渡来系のエラが無い卵型の頭蓋骨に一重瞼(まぶた)の弥生系が多くて完全に帰化遺伝子が濃いんだがな・・・
近代に成って一重瞼が増えたってのは偽保守や在日右翼によるデマだ。在日右翼が自分の出自を粉飾する為の正当化に、低学歴右翼とオコサマネトウヨが騙されている訳だ。
先ず、本当の保守派ならば伊勢神宮や靖国神社だけでなく御朱印帳を購入して延喜式内社と式外社を巡拝して回るべきだ。合わせて各市町村の考古学関連の歴史博物館に行き、縄文人と弥生人の違いを学ぶべきだろう。
ここまでして漸く日本人の先人功労者を敬う精神を理解した上で最低限中卒程度の歴史知識が視覚的にも理解出来るだろう。
アイヌ人 
アイヌ人の服の文様は縄文時代の土器の文様にソックリだ。
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小生は子供の頃から近所の縄文時代~弥生時代遺跡で土器や石器を採取して遊んでいたので、写真でアイヌの人の服装や顔を見ると・・・
「あ~、素戔嗚尊の時代の縄文時代の終わり~弥生時代の人はこんな感じだったんだろうな~」
・・・と思う様に成った。丁度、青銅器の輸入やガラス製管玉の輸入も始まった時期だな。
弥生時代、後漢の時代に古代の九州の豪族達は漢帝国に朝貢して、これらの物資を得ていた訳だ。
考古学的には関西人は完全に弥生系の遺伝子が多い。だから一重瞼も多い。 対して生粋の九州人や東日本の人間は琉球人やサモア系人種と同じ海洋民族系の胴長短足でガッチリした体形、二重瞼、方形に近い顎を持つ頭蓋骨が多い。つまり縄文人系統だ。そして遺伝的に酒も強い。
例えばロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した柔道の山下サン、彼を含めた熊本近辺に多い山下姓の一族は阿蘇家臣団であり阿蘇家の末裔と伝わるそうだ。尊卑文脈を読むと清和源氏と書かれているが、これは阿蘇家が神武天皇直系だと称しているので河内源氏の徳川家を憚り、同じ天皇家の一族だが古すぎて出自の良く解らない阿蘇家の事より源氏(天皇家の子孫)と江戸時代の学者が改ざんしてしまったのだろう。だから尊卑分脈と山下一族の伝承が異なる事態が起きたと推測出来る。
山下泰裕サンの実家はやはり熊本県出身で、出生地も阿蘇家の戦国時代の本拠地である岩尾城下の矢部町だったそうだ。
山下泰裕氏
この山下家が阿蘇家だと言う伝承を元にするならば、限りなく生粋の縄文人に近い遺伝子である事は九州中央部の出身である事からも推測出来るが・・・
同じく縄文人の遺伝子を引くサモアンのマークハント選手、K1やUFCで活躍した選手だが、この人の骨格や顔つきもやはり山下サンにソックリだ。
マークハント選手 UFC
実際、アチラの方には縄文時代に船で日本の方から祖先が移住して来たと伝承が有ったり、縄文文化が有ったと子供の頃に「世界ふしぎ発見!」で見た事が有る(笑)。
つまり、日本文化は先住民で海洋民族の南方から来た縄文人つまり生粋の日本人と、後に呉や秦や漢の滅亡時に移住して古代日本の大王家に服属し早い段階で日本人に成った中国大陸南部や西域からの渡来人。そして後から来た朝鮮半島系も一緒に協力して農耕を普及させ餓死者を減らし、日本文化を育んで行き南宋から亡命してきた蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚等と鎌倉文化の中で南宋の失敗と中国伝来の兵法を学び、元軍を撤退させた訳だ。
そんな歴史が有る訳で、渡来系には卵型頭蓋骨一重瞼遺伝子の在日朝鮮人と同系統の祖先の人だけじゃなくて、海洋民族に似た胴長短足騎馬民族系統のモンゴル系もいるし、中国大陸からの渡来系だか「中国系」と一括りに出来ない中国の漢帝国成立以前に日本に亡命した秦氏もいれば、それ以前に来ている呉王系統の「臥薪嘗胆」の諺(ことわざ)で有名な夫差の子孫も居るんだわ。 当然、漢帝国滅亡時に日本に亡命した漢皇室系統の部族もいるしな。 それに南宋の滅亡時に鎌倉文化の発展に寄与して元寇撃退の一助と成った南宋時代の中国系渡来人もいるし、元朝の滅亡時に日本に来て室町文化発展に寄与した中国系渡来人もいる。当然、明朝の滅亡時に日本に帰化した中国系渡来人もいる訳だ。そして彼らは亡国の経験を日本に伝えた義の人であり、故国に対する忠義の人達でもある。 特に夫差の子孫の呉太伯は日本の天皇家のルーツである高天原(たかまがはら)に通じる高千穂峡とかが近い辺りに土着していた形跡が有るから、天皇家の祖先の大王(おおきみ)家を助けた忠臣に成っていた可能性も高いんだぞ? だから鹿児島県には太伯神社も有るだろう?隼人民族の強さのルーツは古代に兵法を理解していたからかもな。 逆に藤原家なんか初代の墳墓を見ても中臣氏の唐突な歴史の表舞台登場の時期を見ても「百済系」の状況証拠ばっかりだし、更に逆に蘇我氏は古代からの日本人だったとしか思えない方形墳墓だったり出雲大社の本殿の裏に古代の奥殿とも思える素我社が祀られていたりする訳だ。そして東日本は蘇我に通じる蘇我や須賀の漢字の付く地名が多い。 そこを平安時代に横取りしてるのが藤原氏な訳だ。古代の関東は製鉄と軍馬生産の先進地域だったからな。 蘇我氏を駆逐した後で何が起きたかは想像し易いだろう。例えば千葉県八千代市高津一帯は平安時代も軍馬生産地だったのだが、そこは菅原道真公を謀略で陥れた藤原時平の庄園に成っていた。千葉県には千葉市に蘇我の地名が残り神奈川にも小田原市に曽我の地名が残るし横須賀市が有り、福島県にも須賀川市が在る。 [画像:bd03d43d-s.jpg]
八千代市高津の高津比咩(たかつひめ)神社には菅原道真公を陥れた後に悲惨な目に遇った藤原時平一族が散り散りに成り、この地で時平の姫が隠遁生活を過ごした伝承が有る。
まぁ、蘇我家の旧領を藤原家が横領していた状況証拠だな。 中臣鎌足が暗殺した蘇我馬子のフルネームは「蘇我嶋"大臣”馬子」なんだが、これを見れば古代日本には大臣、中臣って官位の名残が伝わっていた事が判ったりすんだな。 ついでに言えば藤原家の家祖の中臣鎌足には苗字が無い(笑)。つまり古代大和王権に服属した何処ぞの小王国の末裔だから苗字が無いんだろう。恐らく百済人だ。そして蘇我家の財産を横領し蘇我家の古代爵位を歴史から消し去ろうとした事が状況証拠でバレバレなんだよ。 しかし蘇我が大臣の家柄なのは歴史書から抹消されてるが名前に残ってしまっている。 早くから原初の日本人に成っていたのに藤原氏の陰謀で日本書紀等で後に外国人扱いされた系統も有る訳だ。
じゃあ藤原氏は全て悪か?それは全く違う。平安文化を発展させたのは蘇我氏の財産を藤原氏が横領した後、志も結果的には受け継ぎ、蘇我氏が大臣の頃に招聘した外国帰化人官僚達と共に飛鳥~奈良文化を発展させ平安文化を花開かせた訳だ。そして平安時代の文化の成熟を経て武士文化が生まれ出る。
藤原氏も多大に文化発展に貢献したし、子孫にも日本を外国の侵略から守った人物を輩出している。

因(ちな)みに各豪族の系統を代表する人物の肖像画を同族同士で比較すると面白い位に遺伝子が受け継がれていて似ていたりする。
【葛原親王の御子孫の坂東平氏】 村岡(坂東平氏の氏神の鎌倉坂ノ下の御霊神社の元宮司家)・鎌倉・梶原・大庭・長尾(上杉謙信の実家)・三浦・佐原・朝比奈・蘆名・平子・熊谷・畠山(平姓)・足利(平姓)・豊島・稲毛・渋谷・江戸・喜多見・入来院・東郷(東郷平八郎元帥の系統)等
東郷平八郎元帥上杉謙信
分岐してから数百年も経つのに上杉謙信(長尾景虎)と東郷平八郎元帥は顔がソックリ(笑)。

【清和天皇の御子孫の河内源氏】 源・平賀・佐竹・足利(源姓)・吉良・今川・畠山(源姓)・武田(武田信玄の系統)・仁木・二木・榊原等
源頼朝公武田信玄 源頼朝公と武田信玄も顔面の骨格から髭(ひげ)の生え方まで似てたりする。

【摂津源氏】 多田・太田(太田道灌公の系統)・土岐・明智(明智光秀の系統、坂本龍馬さんの祖先?)等
太田道灌公坂本龍馬先生
太田道灌公と坂本龍馬も頭蓋骨のみならず禿げ具合(笑)までソックリ。

【敦実親王の御子孫の近江源氏】
佐々木・六角・京極・黒田(黒田如水の系統)・舟木・間宮(間宮林蔵・杉田玄白の系統)・乃木(乃木大将の系統)等
※家祖の敦実親王は延喜式内社で近江源氏の氏神である沙沙貴神社の御祭神として祀られる。
黒田如水公間宮林蔵公
黒田如水と間宮林蔵も顔がソックリ!実際に間宮家の御子孫には何人か御会いしたが現代の間宮サンもこの二人の肖像画に似ている。

【村上天皇の御子孫】
村上(村上義清・村上水軍棟梁家の系統)・北畠(北畠顕家の系統)・浪岡・白河・木造・田丸・藤方等
北畠顕家公村上義清公 北畠顕家公と村上義清公が似ているかは判断がつかない。

【素戔嗚尊の系統】
千家(高円宮典子様が嫁いだ出雲大社大宮司家)・諏訪家(諏訪大社大祝(大宮司)家)
※素戔嗚尊系統の御神孫一族が東日本を開拓した伝承が関東の延喜式内社には多く伝わる。
千家国麿氏
※写真は高円宮典子様と御成婚された千家国麿氏
千家さんは骨格がサモアン系で古い遺伝子が濃い様だ。

【野見家・土師家・和珥家系統】
菅原(菅原道真公の系統)・前田(前田利家の系統)・
和邇・和珥・丸子・能見・乃美・大江(大江広元公、毛利元就の祖先の系統)・毛利等
※採石や食器加工等に精通
※学問や文化的素養に精通した豪族。
※菅原道真公の功績を評価する醍醐天皇と、霊威を恐れた藤原貴族によって「天満大自在天」の神号を追贈された一族。
2014-09-08-07-50-00
前田利家
この二人も似ているかは解らない。菅原道真公の生前に彫られた彫像のレプリカは見た事が有るが太っているので痩せ型の前田利家と比較がつかない。

【忌部家系統】
織田(織田信長公の系統、平姓を僭称)・高河原等
※神事に精通した。古代の祭祀(葬礼)に深く関わった一族。
※戦国時代の信長公の代に伊勢神宮復興、御所復興、足利家が中絶させてしまった古代からの祭祀や有職故実を復活させた。
※明治天皇により織田家の功績に対して織田信長公が「建勲神」の神号を追贈され神に成った。
織田信長公

【大伴(おおとも)家・佐伯家系統】
佐伯・大伴・伴・大友(河内源氏を僭称、自称源頼朝公の御子孫)
※古代大王(天皇)家の近衛兵を率いた部落を纏め軍事や水運に精通した系統。
※古代に東日本を開拓した系統。
※応神天皇の天皇号成立以前の御名が大鞆別命(おおともわけのみこと)なので、血縁の可能性を窺(うかが)い知れる。
大伴家持公大友宗麟公
大伴家持と大伴宗麟、似ている気がするが生前に描かれた物かは解らない。

【賀茂氏】 賀茂(京都の上賀茂神社・下賀茂神社宮司家)・鴨(賀茂家の別字)・徳川(得川)=松平(東照大権現徳川家康公の系統、本来は賀茂一族、源氏を僭称)等
※賀茂氏系統は渡来人説が有る。現在の京都を早くから開発した一族。
土木や土地開発の伝承が多い。古代に東日本を開拓した系統。 トルコ人や新疆ウィグル族と同じく頬骨の出た骨格、秦始皇帝皇子扶蘇の后の骨格もウィグル族系統。
徳川家康公
鴨長明
徳川家康公と鴨長明、もうソックリ。

【物部家系統】
穂積・鈴木・紀(紀貫之の系統)・越智・河野・弓削・中原・曾禰・曽根等
※熊野信仰と水運に精通した系統。
※製鉄や学問に精通した一族、軍事にも精通した武士(もののふ)の語源と思われる一族。
※古代に近畿地方南部~東海地方~神奈川県域西部南部を開拓した一族。
紀貫之公
紀貫之

【宇治家・阿蘇家系統】
阿蘇(阿蘇神社大宮司家)・宇治・高森・中村・竹崎・山下等
※古代からの天変地異観察や文化的素養に精通した一族。古く婚礼の場で歌われた高砂のルーツの一族。
※土地開発の伝承も多い一族。
※神武天皇直系を称するが、古代の熊襲長(くまそたける)の一族から大和朝廷に服属した一族と考えられる。後に大王家からも血縁が入っているとも考えられている。
くまもん

【東漢家・秦家・百済王家系統】
大内(鷲宮神社旧宮司家/藤原家や佐伯家一族とする説も有る)・長曾我部・香宗我部・曾我部等
※文化に精通し中世以降は武士団として大変に活躍した一族。
※大内家は関東最古の大社である鷲宮神社宮司家を代々明治時代まで務め、歴代には徳川家光が利根川で溺死寸前の所を助けた大内泰秀等がいた。
※大内義興は与力の毛利家等小豪族を従えて応仁の乱を収束させた大功労者。
大内義興公長宗我部元親公
大内義興公(騎馬武者)と長宗我部元親公、そもそも系統が違う。

【中臣家系統】
藤原・
丈部・成田・児玉(児玉源太郎大将の系統)・菊池・近藤・首藤・工藤・伊東・伊藤・伊達等
※歴史的に名将を多く輩出している一族。藤原秀郷公、菊池武敏公、伊達政宗公等。
児玉源太郎大将
・・・ハンサムな児玉源太郎大将。東郷平八郎元帥と児玉源太郎大将は若い時から美男。

確かに現代の韓国政府と反日教育はクソ、北朝鮮政府と抗日勢力もクソ、その両方の親分の中国共産党独裁政府も未だに反日教育をする面はクソで、悪いのは反日教育を信じて日本人を差別したり攻撃したり、日本人のフリをして偽名を使いながら反日活動をしたり反社会的活動をする連中。
だかは中国人や朝鮮人の全てが悪い訳ではない。ましてやその中でも田舎で育ち日本人と実際に関わりが少なかった人達なら仕方がないし、今から生身の日本人を見て判断して貰えば良い。

ロシア帝国の東亜侵略と植民地化の野望から日本を守った児玉源太郎公等は恐らく百済王の子孫である可能性が高い中臣氏=藤原氏の末裔でもある。 神奈川県や東京都や埼玉県には古代から高麗権現社や高麗郡が在り、多くの朝鮮系渡来人が亡命して来て在来種の日本人と混血しながら土地を開拓して武士文化の基礎と成る騎馬文化が発展して行った。
応神天皇や仁徳天皇に漢学を教授した先生の阿智岐使主は漢皇族の末裔でもある。
そして元寇で活躍した鎌倉武士達には南宋から亡命して来た臨済宗の蘭渓道隆和尚と兀庵普寧和尚が南宋を滅亡させた元軍の戦術や、自分達の持つ中国兵法や哲学等が伝えられ元軍と朝鮮軍の侵略を撃退する事に成功している。
日本人は時代毎に中国系・朝鮮系・トルコ系・環太平洋の海洋民族の遺伝子を受け入れ共に発展し文化を築き日本国を外敵から守って来た歴史が有る。
だから日本人は、反日プロパガンダ活動や日本人を差別したり日本文化破壊を行う連中を「差別」では無くて親日の人とは「区別」して対応し批判するべきなんだと常々思っている。
そして当然、差別は良くないと言いながら「日本人を差別し日本文化を破壊する悪い奴を区別しない日本人」も同様に批判するべきだろう。
日本の原始国家の中には、我々「日本人と気の合う臺灣人の祖先と同じ呉‐越‐楚王国の亡命者の子孫」が居た事実を無視してはいけないし、臺灣の人々には敬意を払わないといけない。それを馬鹿な右翼とネトウヨは中国語=中国人とステレオタイプで己が語学力と知識不足から区別出来ない阿呆が多い。
中国人以外にも批判の対象にやたらめったらする朝鮮系の在日外国人だって、そもそも古代から高麗神社ってのが全国に有り、滅亡した古代日本の友邦だった百済王朝からの亡命者や、それ以前に息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと)=神功皇后(恐らく歴人上の卑弥呼の後継者女王の臺与(とよ))の新羅征伐で古代大和王権の善政を慕って新羅から亡命して来た騎馬民族が移住して開拓民に成り土地を切り開いた土地の開拓者の氏神だったりする訳だ。
だから重ねて言う、簡単に「朝鮮人や在日外国人を全て悪とする」するカテゴライズは、古代の天皇家の価値観を批判する事にも成る。
もし朝鮮人や中国人の政治や外交姿勢や日本人差別や日本文化破壊行為を批判するのであれば以下の言葉を必ず付け足すべきだと思う・・・
●「反日思想の」+朝鮮人or韓国人or中国人or白人文化至上主義者or在日○○人 ●「反社会的勢力の」+在日○○人 ●「反日政治家に献金する」+在日○○人 ●「革マル派の/中核派の/オウム真理教系統カルトの/某韓国キリスト教系カルト宗教信者の/極左テロリストを支援する」+在日○○人 ●「偽右翼の/ヤクザの/廃人量産するパチンコやカジノ利権擁護の」+在日○○人or政治家 ・・・こうやって言葉を少し付け足せば、帰化してから古代の大王や天皇に忠誠を誓い日本の発展に寄与した渡来系古代豪族であり功労者の御子孫の一族を愚弄しないで済むのではないか?
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