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タグ:泉谷寺

今年も戦国時代の小田原北条家の白備え隊、小机衆と言う軍団の拠点だった小机城で日本の竹ファンクラブにより「小机城址市民の森 竹灯籠まつり」が開催されます。
本稿の最後の方で小机城で活躍した記録の残る武将達の紹介もしますが先ずは、御祭りの紹介を!
小机城址市民の森竹灯籠まつり 日本の竹ファンクラブ公式より転載
竹灯籠まつり詳細は以下リンクへ!
日本の竹ファンクラブ 小机城址市民の森竹灯籠まつり
Twitterに途中経過も掲載されていますので御興味有る方は御覧下さい!


さて、小机城址の竹灯籠まつり、余り御存知無い人の為に一応、過去の竹灯籠まつりの写真と、小机城に関するブログ記事リンクを掲載して置きます。



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以下、小机衆だった主だった武将の名前です。
【小机衆】
[歴代城主]
●北条 長綱公=入道号:幻庵宗哲
本光院殿(玉縄城主北条為昌)没後にその遺領も預かる。北条家の宿老で軍師。箱根権現(現:箱根神社)の別当を務め、彼の所領の傍には風魔忍者の屋敷が有った伝承が有る事から風魔忍者を統括していた事が読み取れる。
●北条 時長公(幻庵公実子)・・・早世
●北条 氏尭公・・・北条氏綱公の四男で北条幻庵公の甥に当たる。
[城代家老]
●笠原 信為公・・・官途は越前守。北条五色備え:白備え隊軍団長。小机城城代。大曾根城主。
鶴岡八幡宮再建では総奉行を務めた。北条為昌公の烏帽子親。詩歌に精通した風流な武将だった。
小机城近くに曹洞宗の父の菩提寺として雲松院を開いた。大倉山の龍松院の前身とされる文殊堂を開いたのもこの人物かと推測出来る。
●笠原 康勝公・・・官途は能登守。小机城代。大曾根城主。笠原信為公の実子。
弘治三年(1557年)に笠原信為公が没し菩提寺の神大寺に葬られると軍団と城代を継承した。大倉山に龍松院を開いた人物とされるが父の代に開かれた文殊堂を本格的に寺院化した人物と思われる。
[軍団重臣]
●笠原 弥十郎・・・領地は足柄上郡開成町岡野と静岡県田方郡修善寺町田代。
姓と出身地から推察するに笠原信為公の親類だろう。しかし諱(元服後の名前)は不明。
●金子 十郎 ・・・官途は出雲守。篠原代官(横浜市港北区東部を統治)、篠原城代。
●小野 与三郎・・・八朔代官(横浜市緑区北部~青葉区南部を統治)。
●陰山 又六 ・・・本郷代官(横浜市港北区小机町~都筑区南東部~緑区東部を統治)。
●遠藤 兵部丞・・・猿山代官(横浜市緑区中部を統治)。
●神田 次郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。領地は静岡県三島市内旧字名が長溝と平塚市土屋辺り。
●曽根 外記 ・・・領地は横浜市都筑区東部とセンター北駅周辺と川崎市中原区宮之内辺り。
●座間 弥三郎・・・茅ヶ崎城(都筑区茅ヶ崎)城代?官途は豊後守。領地は横浜市都筑区茅ヶ崎。
●猿渡 内匠助・・・佐江戸城(都筑区佐江戸)代?領地は横浜市都筑区佐江戸町。
●中田 加賀守・・・矢上城(慶應大学日吉キャンパス)城主、井田城城主?吏僚。領地は川崎市幸区鹿嶋田~中原区大倉町一帯と中原区下小田中一帯の他、保土ヶ谷区中央西部~旭区東部一帯、横浜市港北区北東部~川崎市西北部一帯。
下総国印旛郡臼井城主の千葉家分流臼居家に姫を嫁がせる程の家格を有した武将。元は太田康資公の家臣だったので祖先は太田道灌公の代以前からの太田家臣だったのだろう。太田康資公の北条家謀反後に北条直臣に成り、小机衆を経て北条家臣化した蒔田吉良家の与力と成った様だ。
●二宮 播磨 ・・・領地は埼玉県狭山市青柳周辺。吏僚。
恐らく延喜式内社相模国二之宮の川勾神社宮司家一族。小机城から程近い浄土宗の中本山格を有す小机町~緑区東本郷の区境に存在する泉谷寺を北条氏綱公と供に開いたとされる二ノ宮織部丞の子か?
二宮金次郎尊徳公の祖先の同族とも推測出来る。又、二宮家には間宮家から養子が入っているので間宮林蔵や杉田玄白とも祖先が同族である可能性が有る。
●市野 助太郎・・・領地は茅ヶ崎市赤羽周辺。市野四郎の近親か?
●市野 四郎 ・・・官途は左衛門(尉?)。市野助太郎の近親か?領地は助太郎と同じ域内。
●市野 弥次郎・・・領地は港北区日吉本町。
●田中 伊蔵 ・・・領地は川崎市麻生区万福寺(新百合ヶ丘駅周辺一帯)。
・・・この他にも沢山の代官や北条家の被官が居ますが挙げていたらキリが無いのでひとまずこれまで。
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小机城で活躍した現在では名も知られない武将達の御子孫達が横浜市の行政による宅地開発に抵抗し守って来てくれた小机城の城址で毎年開催される風流な竹灯籠まつり、皆さんも楽しんでみませんか?

横浜市港北区に在る「泉谷寺」と言う谷戸に囲まれた歴史の古い御寺が在ります。

しかし全く明治時代以前の伝統が伝わっておらず個人的にガッカリしました。
雰囲気は、鎌倉時代の名残を感じます。
ここは浄土宗で「中本山」格を与えられ、戦国時代には北条氏綱公…

…江戸時代には徳川家康公の保護を受けた寺院です。

恐らく旧街道が鐘つき堂の裏を通る昔の峠道なのでしょう。
戦国時代には大名達は神仏を大切にしていた事や、昔はどこも開けておらず宿泊地が無かった事から御寺を開き時に宿泊所として利用する傍ら和尚様達に御寺を任せて文化醸成の場として大切にしました。
泉谷寺の総門が「冠木門(かぶきもん)」なのは、この名残なのかなぁ〜と感じます。
この冠木門は殿様の陣屋(じんや=宿泊所)や関所に用いられる門ですからね。
にも関わらず、江戸時代には伝わっていた北条氏綱公の事は現代には伝わらず御堂も全く違う用途で使われていました。

本来の浄土宗は日本古来の神様を大切にされた法然上人の教えを受け継いでおり、京都の総本山知恩院は牛頭天王(インドラ神と素戔嗚尊の神仏習合の象徴)の降臨の神話の聖地に建っています。
だから御隣には旧祇園社、八坂神社が鎮座していますね。


後醍醐天皇と関わりの深い百万遍知恩寺は、浄土宗の日本神話と文化への理解の深さから明治時代まで下鴨神社の別当を務める神宮寺の格式を有していました。
ですから境内には神社も在ります。
別当を務めた下鴨神社ですが…
下鴨神社と言えば天皇家の皇女が歴代の斎王を務められた由緒ある京都最古の御社です。
しかし、残念ながら現在の泉谷寺には、浄土宗のそうした歴史も伝統も日本文化も伝承していなかった…
浄土宗だけでなく、他宗派でも仏教界は日本神話と文化へのリスペクトが有るのにね…
なんか、芸術品は大切にしているみたいです。
泉谷寺では、御寺を開いて下さった先人の大旦那への崇敬は途絶え、開基様の事を余り御存知も無い様だし神仏習合の神様が消えていました…

山門…当時と違う位置に再建されてる。
※礎石の位置で嘗ての門の位置は解る。

涅槃堂…涅槃堂なのに涅槃の御釈迦様は祀られていない。
※火災で焼失後、関係無い仏像を置いているのか?それとも徳川家康公所縁の仏様に御堂を当てがったのか?

観音堂は新編武蔵風土記稿の通り。
でも新編武蔵風土記稿の八幡社の位置は観音堂の横に弁天様と祀られているはずの建物は見当たらない。
御寺の先代家人が八幡社の神様が神仏習合の象徴と知らずに明治時代の国家神道の名称「八幡神」から差別撤去したと思われ…
八幡社の神様は正式名称「八幡大菩薩」と自ら神託で自称した記録が有るのだけどな〜。
その山門の左手に在ったはずの八幡社の傍らには弁天様が祀られていたそうだが…
弁天堂も現存せず(撤去されたか?)
現在では山門左手に名残りらしき池だけが在る。
弁天様は池のほとりに祀られている場合が、北条家所縁の寺社仏閣には多い。

弁財天も正しくは「辯才天」「辨財天」と書く「ただの神」では無く仏教に取り込まれたヒンドゥー教のサラスバディー由来で、日本に伝来すると日本神話の市杵島姫に習合され御祀りされた神仏習合の神様。
日本古来の神様と仏教に組み込まれたインド神話の神様の平和的な融合の象徴なのに弁天堂は撤去、或いは火災後に放置されている様だ。
八幡信仰と辨天信仰は北条家の文化の一環なので、大旦那北条氏綱公と二宮織部丞の時より存在したはず。

いずれにせよ、北条氏綱公と二宮織部丞と言う先人による中興開基以来の伝統は廃れ、大旦那に対するリスペクトも現代には伝わっていないようだ…。

しかし、谷戸を形成する周囲の丘と森が鎌倉時代の雰囲気を境内に残してくれていました。
昔と位置は違いますが山門は朱塗りです。
手水舎には徳川家と関わりの有った事を伝える三つ葉葵紋が刻まれています…
御近所の真言宗三会寺さんや磯子区杉田の臨済宗東漸寺さんも格の高さから三つ葉葵の家紋を与えられています。
横浜市は格式高くかつ、庶民との距離が近い御寺が沢山在るんですね。
…泉谷寺さんは少し庶民との距離を置かれていますが格式高い事には間違い有りません。

鐘楼も丘上に在り良い雰囲気です。
鐘楼の山の下にある石碑…
和歌には水で清めるとか書いて有るから、昔は修験道みたいに池で禊ぎでもしたのでしょうか?
御本堂は木製ではありませんが、立派な規模でした。
扁額は木製かな?

総本山の知恩院が何故「恩」を「知る」と漢文の並びで寺院名にしているか、まず、その事を顧みて欲しいと思いました。
折角、関東の偉大な歴史人物との関わりが有った御寺なので、もう少し御寺の存続に尽力された偉人や旧来の建物の歴史を大切になされたら良いのにと感じました。

では、又、次の記事で!

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