五社神社(式外社・浩宮殿下も御参詣された日本武尊の聖地)
日本武尊の腰掛石(日本武尊東征のおり腰掛休息した聖跡)
尾の池(古代~近世迄雨乞い神事等が行われた湧水の聖池)
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  御祭神・御本尊等:日本武尊・天照皇大神・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)・天津比古比瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほおでみのみこと)・鵜草茸不合尊(うがやふきあえずのみこと)・倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・須佐之男命(すさのおのみこと)          
  御利益:交通安全(陸・海)・農業豊穣・子宝・子孫繁栄
  関係者:
  開基:日本武尊
  中興:渋谷荘領主 渋谷 重国 公 以下渋谷一族
     西大寺長老 浄覚 大徳宣瑜和尚
     (天台密教や真言律宗を学んだ高僧)
     征夷大将軍 徳川 家光 公
  旧郡名:高座郡
  所在地:綾瀬市早川、古代の矢倉沢往還~中原街道~古東海道のバイパス沿い
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
平成30年時点の皇太子浩宮殿下も歴史が御好きで神奈川県の岡崎城址や玉縄城址を調査されにいらしてらっしゃるが、この五社神社にも歴史調査の一環として来訪された程に神話伝承と歴史に整合性が有る由緒正しい神社。神社の前身の聖地としての始まりは景行天皇の皇子、日本武尊が東征の際に榊(さかき)を植樹し地神五代を祀り五頭宮(ごずのみや=牛頭の宮)として信仰の場を開いたのが始まりと伝わる。後に浄覚大徳 宣瑜和尚が社殿を再建し、地元民から五社宮(ごしゃのみや)との呼称で崇敬される様に成った。明治の軍人、東郷平八郎元帥の御先祖で御当地の渋谷荘領主だった早川城主渋谷重国公に代表される鎌倉時代の渋谷一族から崇敬され五社神社宛ての文書も現存する。近隣に日本武尊東征の兵站陣城址と思しき国指定史跡の神崎遺跡が有り、出土物は神話と整合するように弥生時代の東海地方の影響を受けた土器ばかり出土している。日本武尊は伯母で伊勢神宮の恐らく斎王だった倭姫から兵や草薙剣を貸与されているので東海地方の文化を持ち込める軍団を率いれる人物は神格化された日本武尊を置いて他にいないと考えられ納得が行く。
神崎遺跡が兵站と考えられるのは人が定住した痕跡が無く住人埋葬の痕跡が無い事から、あくまで❝城砦❞であり❝輸送基地❞としての機能しか考えられないからだ。或いは日本武尊が屯田兵を率いていたとすると日本武尊と同時代に世界初の屯田兵制度を発明した三国志の後漢丞相で魏公の曹操の技術が日本で直ちに導入されていた事が解かり、卑弥呼と魏の繋がりが垣間見える。となると日本武尊の伯母に当たる倭姫の正体が卑弥呼で有る事も見えて来る。又、この付近は古代の東海道である矢倉沢往還から鎌倉郡に抜ける古代街道だったと思われる県道406号線沿いに神崎遺跡や五社神社が存在し、日本武尊が開いた兵站基地が神崎遺跡だとするとそこから古墳時代~奈良時代の店屋(てんや=中継基地)に発展して行った可能性も有る。神崎遺跡は地形的にも舌状丘陵の先端に位置し、周辺は湿地帯だったので軍事的に❝城❞を築城する立地として神崎遺跡は最適であり、その城が守る街道が五社神社の前を通る県道406号線なのが解る。この406号線の先の秋葉台で分岐し旧高座郡大庭御厨(おおばのみくりや)に発展した大庭神社から海沿い甘縄神社側から葛原岡に抜ける道と、飯田牧場や小栗判官と照手姫伝説の花應院前の間道を通過し遊行寺直下に至り旧鎌倉郡村岡城址方面へ抜け鎌倉玉縄城址を通過し鎌倉市山崎へ抜けるのが2本の鎌倉郡衙へ通じるバイパスだったのだろう。鎌倉郡衙の先で逗子住吉城址の切通しを通過し三浦半島走水神社の前から船で海路房総半島へ通じるのが古代東海道だった。
古代の東海道は今の東名高速に近い御殿場市側を通る矢倉沢往還側から鎌倉辺りで海側に出るルートだったが、平安時代に御殿場市側の古代東海道が富士山の噴火による火山灰堆積や土石流で長い間廃道に成り、今の東海道の箱根越え~横浜市の旧鎌倉郡~旧久良岐郡を通過する道の原形が開拓された。
この箱根峠越えルートを開拓したのがどうやら状況的に“金太郎”や“坂田金時”のモデルの古代豪族である下毛野氏で一族に下毛野公時(しもつけのきんとき)がおり、金太郎伝説の箱根金時山の麓に公時神社も有る。下毛野朝臣は京で宮仕えした武将もいるが本来は栃木の古代豪族なので一族は山岳道の開拓に適しており下毛野公時公の近親者が箱根峠越えルートを開削し源頼光(みなもとのよりみつ)公の箱根峠越えの道先案内を勤め下毛野公時公が源頼光公に仕える御縁が出来たとするば伝承地理歴史の全てに整合性が高い。坂田の苗字に成るのは大江山の鬼(渡来系民族の反乱)を鎮圧した功績で近江国坂田郡を与えられたのだろう。
何にしても日本武尊の時代の東海道は今の国道1号線とは大幅に違うルートで、矢倉沢往還~寒田神社付近~八菅山七所権現付近~有鹿神社本宮付近~五社神社~県道406号~神崎遺跡を経由するルートが国土交通省関東地方整備局の古東海道推定部分とも限り無く重なり合うのが事実だったりする。
近郷の早川城址公園は平安時代末期に渋谷家の居城が築かれた場所だが縄文時代からの遺跡でもあり、五社神社の周辺が古代から人の定着した重要な地域だった事が解かる。
境内の裏手には明治の宗教改革が行われる以前、古代から近世まで湧水地を聖地化した雨乞い等の神事が行われた❝尾の池❞も現存している。
境内には❝日本武尊の腰掛石❞が在るが、日本武尊が滞在した聖跡が神社化した場所には他にも腰掛石が有るので弥生時代~古墳時代への転換期に当たる頃は、鎌倉時代~戦国時代の武将の様な床机(しょうぎ=折りたたみ椅子)の様な便利な物はまだ開発されていなかった当時の文明も判る。金属で釘やビスの様な物を作り出す技術がまだまだ普及して無かった時代なので当然ながらヒンジなんぞ作れれず折りたたみ椅子なんてのは当時の皇族将軍である日本武尊も目にした事も無かっただろう。この日本武尊の時代の神格化された豪族武将達が手にしていたのは中国から輸入した鉄剣やそれを元に青銅で鋳造した物が将軍級の物部(もののふ=武士)の武具で、甲冑も皮鎧、楯も木製革張りの物だっただろう。金属製の甲冑や刀剣の製造が本格化するのは古墳時代に入って以後の事、なので大将軍たる日本武尊も金属で釘やヒンジを作る技術が無かった時代にはパイプ椅子に座る事も出来なかったので手頃な岩に腰をかけ、配下の大伴家や吉備家の豪族武将達と軍議をしたのだろう。
そう考えれば古来の神社建築が釘を用いないのはそもそも釘が無かった時代の神話の縄文~弥生の米蔵=高床式倉庫=高倉=高座の建築様式が有力者の宮殿化した頃の文化を継承した証拠だとも言えなくもない。伊勢原市に存在する延喜式内社の高部屋神社の2016年に国指定文化財に成った社殿を見学させて頂くと、内側から見た屋根の構造などは本当に古代の竪穴式住居を彷彿とさせる。
この五社神社と周辺遺跡と古代街道と歴史背景は斯くの如く整合性が高い。
江戸時代には徳川家光公から13石の社領を保護する朱印を賜わっている。
近くに渋谷家の早川城址城山公園、高座豚手作りハム綾瀬本店、牧場が直営するソフトクリーム販売所のカナサシファーム、神崎遺跡等が有り、ちょっとした散策ルートにも適している。