歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:海禅寺

皆さんは東京都青梅市に横浜で生まれ、戦時中に青梅市に自宅を写し数々の歴史小説を執筆した吉川英治先生の旧宅の素敵な古民家と日本庭園が博物館として季節限定公開されているのを御存知でしょうか?
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この周辺には観光地として申し分ないスポットも幾つかあり、小生は昨年初めて訪問して再訪したいと思っていたところ、Google mapの情報で今年2019年03月に開館の後、03月20日で運営中止となり完全閉館される事を知りました。
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駐車場も完備されており古民家としてだけでも見物に値し、更に歴史好きや三国志好きならたまらない吉川英治先生の生涯や作品紹介の展示物もある素敵な博物館なんです。
吉川英治記念館だけでは奥多摩まで足を運ぶには小生の様に神奈川県民では距離的に足がなかなか向かない人もいると思いますので、吉川英治記念艦周辺の観光地としての魅力を先ず強調する為に周辺の景勝地を紹介したいと思います・・・
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大悲山 観音寺(通称:塩船観音)
塩船観音は吉川英治記念館から車で30分程度の場所、関東指折りの躑躅の名所の一つで人魚伝説の八百比丘尼が住職を務め、更には天台宗の総本山、比叡山を代表する高僧の一人で天台密教の大家である五大院先徳 阿覚大師 安然和尚様が大寺院に拡張した歴史がある場所です。そのごは坂東平氏三浦一族の金子家が平安時代~鎌倉時代に支援し、戦国時代には三田領を束ねた三田家が支援した御寺で、現在は真言律宗の別格本山であり寺院の奥院が躑躅に囲まれる非常に美しい場所でもあります。
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JR青梅駅周辺❝昭和レトロ商店街❞
青梅市は映画とドラマのロケ地誘致と昭和の街並みの景観保存に力を入れておりJR青梅駅周辺は散歩するだけでも楽しい。❝赤塚不二夫記念館❞や❝昭和幻燈館❞や❝青梅宿津雲邸❞等もあり駅周辺でもかなり時間を割いて散策出来る。
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へそまんじゅう総本舗奥多摩を代表する御土産物屋と言って過言では無く、蒸したてホカホカの名物へそ饅頭を1個売りでも箱でも販売してくれる。小腹が空いたらオヤツにも丁度良い。
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奥多摩釜めし
山深い場所に来た時に関東地方では定番の観光地の食事と言えば釜飯。青梅市の二俣尾でも釜飯の名店❝奥多摩釜めし❞があり、観光気分を満喫しながら食事が楽しめる。吉川英治記念館からも車でそう遠くはない。
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瑞龍山 海禅寺(戦国時代の天皇勅願所寺院)
とても素敵な楼門と、境内に綺麗な躑躅も咲き、春には枝垂れ桜の立派な大樹が見所の御寺。
戦国時代に扇谷上杉家の与力小大名だった三田家が室町時代中期に開いた寺院だが、本来の寺号は❝福禅寺❞と言い恐らく前身寺院は鎌倉亀ヶ谷に存在した修験道の大道場で源頼朝公が崇敬した亀谷山福禅寺が前身。度重なる戦火で福禅寺の権現堂は横浜市港南区に機能移転し、福禅寺は扇谷上杉家によって三田家に青梅市二俣尾の現在地で再興されたと推測出来る。横浜市沿岸部を北条早雲の時代に治めた北条家相模十四騎筆頭の間宮家棟梁、間宮信冬公によって福禅寺の住職が鶴見下末吉に招かれ長谷山 寶泉寺が開かれた。この間宮家は間宮林蔵や杉田玄白の一族祖先であり、又、現在の江の島の江島神社が真言宗系修験道の聖地霊場だった江戸時代までは間宮家が住職である別当を務めた。この間宮家は鎌倉から移転した福禅寺の権現堂を横浜市域で保護しているが、これが鎌倉に在った修験道の福禅寺時代には天皇家御門跡寺院だったので、三田家滅亡後は曹洞宗として間宮家や間宮家の寄親の玉縄北条家一族福島家や同じ北条家臣師岡家や旧三田家臣団によって支援された頃に突如天皇家勅願所に成っているので、間宮家や鎌倉亀谷山福禅寺と青梅市瑞龍山海禅寺の本来の寺号の福禅寺の深い関連が推測出来る。
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吉川英治記念館(2019年03月20日閉館決定)
吉川英治先生の生涯と作品を展示した博物館と、旧宅の古民家と日本庭園を併設した記念館。
風景も庭園もとても美しく、又、古民家好きにとっても素敵な場所。吉川英治三国志や彼の歴史作品を愛読した人ならば閉館前に必ず行きたい所。
3月までは季節柄開館時期では無く03月01日の開館~20日まで営業して終りを迎える。
3月からの開館機関も火曜日は定休日なので訪問日程には注意が必要。
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澤乃井櫛かんざし美術館この美術館と多摩川を挟んで対岸に在(あ)る老舗酒蔵の澤乃井酒造が運営する日本の櫛と簪(かんざし)を大量に収蔵展示した珍しい美術館。ここは風景もとても美しいが収蔵された櫛と簪はどれも綺麗で緻密な細工のされた物ばかりで、江戸時代の御姫様達が用いた物から近代工芸品として発展した物まで多種多様な❝美術工芸品❞としての櫛と簪を見る事が出来る。女性陣は必見!
対岸の澤乃井酒造も吊橋を渡って行けるし、逆に澤乃井酒造側に車を駐車して歩いて来る事も出来る。
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寒山寺(澤乃井酒造創業家小沢家の持仏堂)澤乃井酒造経営者の小沢家が建てた持仏堂で❝澤乃井櫛かんざし美術館❞と澤乃井酒造の土産物売店とレストランが併設された❝澤乃井園❞を繋ぐ多摩川上流にかかる吊橋のたもとに存在する。
美術館と澤乃井園と合わせて見物出来る景勝地。


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澤乃井酒造&澤乃井園江戸時代初期から続く老舗酒蔵の澤乃井酒造の醸造所と、観光客向けに日本酒の飲み比べや土産販売、食事店舗を併設した場所が澤乃井園。奥多摩ながら観光客で日々賑わい、下の多摩川の河原にも降りられるので渓流で沢遊びをする家族にも人気の観光地に成っている。
又、予約すれば酒蔵の方も時間限定で見学する事が出来る。酒を飲まない小生でも力を込めて推薦したい観光地。ここの梅酒は酒嫌いにもとても美味しい!
歴史好きにたまならいガクシャ先生も知らない情報を余談として一つ・・・
澤乃井酒造の小沢家は旧武田家重臣で武田信玄の娘婿だった穴山梅雪の与力武将が御先祖で、武田家滅亡時に復興資金を持って現在地に移転して来て、そのまま武田家は復興されたなかったので林業を営む傍(かたわ)ら酒造業を始めたそうです。社長さんに取材確認済みなので間違いないそうです。
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福島家住宅(江戸時代までの二俣尾村庄屋宅の古民家)

さてさて・・・

吉川英治記念館の周辺、すっごい沢山見所有るでしょ?
この他にも城好きには辛垣山城跡なんかも有りますが、ちょっとした登山に成ってしまうので一般の観光客には不向きと判断し紹介は差し控えました。今回紹介した場所は小生が自分で廻った事のある場所ばかりですが、吉川英治記念館周辺は他にも見どころと成る美術館や観光施設が沢山有ります。
渓流には釣りが出来る場所やキャンプ場も有りますので、アウトドアと合わせて吉川英治記念館の見学に行くのも良いかも知れません。
奥多摩が観光地として魅力的なのは伝わったでしょうか?

・・・では、ここから吉川英治記念館そのものの紹介に戻ります。
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国道411号線から都道41号線に入り西の多摩川上流に向かって車を走らせると、この写真の看板が見えます。駐車場も30台分くらい有るので十分停められると思います。
吉川英治を平成生まれの若い世代は余り知らないのでインスタ映えする古民家が有ってもデートに大挙して来る事もないでしょうから。
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駐車場の脇から住宅道路みたいな田舎道を進むと入口に辿り着きます。DSC_0568
第二次世界大戦中に都会から疎開する為に旧豪農の邸宅を買い取って住んだそうなので、もう長屋門まであって既にこの時点で歴史好き、古民家好き、日本庭園好きにはたまらない雰囲気が漂ってきます。
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中に入ると直ぐ右手に・・・
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物置に使われていた立派な蔵が有ります。凄いよね~。
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御庭とても綺麗。
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住宅部分は玄関の中まで公開されています。
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そして各部屋には生活していた当時の写真が展示されており、今でも往時をありありと想像する事が出来ます。
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御庭に回りましょう。
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こちら側に回ると執筆する書斎として増築された洋館部分の玄関に回る事が出来ます。
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この洋館部分の玄関のタイルが見事でとても綺麗なんです。
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この、こじんまりした洋館の書斎で小説を執筆されていたそうです。
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小生は訪問するまで存じ上げなかったのですが、吉川英治先生は横浜市中区元町の生まれだそうで、生活も吉野町でされたりしたそうです。御先祖は小田原藩士だったとのこと。でも御本人は仕事を色々と変えて数奇な運命を辿っています。今で言うと転職しまくって余り大成しなさそうなかんじなんですけどね~。
そこからどうやって大作家に成ったかとか資料館部分で見る事が出来ます。
洋館から裏庭に回りましょう。
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本当に素敵な庭園なんです。
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まるで横浜三渓園みたい。
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裏庭側から資料館の入口に回れます。
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ここから中は撮影禁止です。
中には吉川英治先生と前妻や後妻さんや家族との年表や詳しい生活の様子、個人的な人生の紆余曲折も解説されていて歴史小説に興味ない主婦の方も昼メロドラマ並みに乱万丈非常に先生の生涯には興味を惹かれると思いますよ(笑)。

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御花もとても素敵な場所です。
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・・・こんな素敵な吉川英治記念館ですが、残念ながら今年2019年3月1日~20までの公開を以て閉館と成ってしまうそうです。残念ですね~。
もし彼女が出来たら一緒に連れて来てあげたい場所の一つだった。
もう彼氏彼女や夫や妻がいる皆さん、どうです?吉川英治記念館と周辺の観光スポット、とっても綺麗でしょ?是非3月の最終公開期間、訪れて見ては如何でしょう?

では、又、次の歴史解説記事で御会いしましょう~。
・・・津久井城の記事早く書かないとね。神社仏閣一覧も更新しないと。


















皆さんは都筑区の区名が旧都築郡に由来している事を御存知でしょうか?
地方出身の横浜市民は明治以前の❝ヨコハマ❞が、そのまま村民100人位の横浜村だったと間違った歴史認識を教えられている人もいるかも知れませんが、その横浜村と言うのは今でいう関内辺りに在った半島上の村だけを指す範囲で現在の横浜市全域を指す訳ではありません。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
横浜市の中でも都筑区は山坂が多く現代には開発が遅れた地域だった上に、古代から橘樹郡の郡衙だった橘樹神社と都築郡の郡衙だった西八朔の杉山神社や茅ヶ崎一帯を結ぶ矢倉沢往還や中原街道等の旧街道が通り特に多くの遺跡が残っている事から古代において重要な地域だった事が考古学的に解っています。
そんな早くから開けて主要街道が通る都築郡だったので、平安時代にも重要視されていた様(よう)でして東京の神田明神では商売の神様として有名で、多摩地方や神奈川県域では善政を行った名将として江戸時代に成っても庶民から親しみを込めて尊敬されていた平将門公もやはり都築郡に来た歴史が伝わっています。

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その場所が都筑区仲町台の長福寺が江戸時代迄別当寺として管理した熊野社です。
平将門公が熊野社に籠もり祈願した話しが新編武蔵風土記稿にも紹介されているのですが、小生は風土記を読むより先に長福寺を初参詣した際、御住職様に直接その伝承を教えて頂き後に風土記を読んで見ました。伝承では平将門公が寝ている時に霊夢を見て、ここに在った熊野社の社殿に7日間も参篭(さんろう=建物に泊まって御参りする事)したと紹介されています。
最初に長福寺を参詣したのは偶然で、当日は茅ヶ崎城址公園の写真再撮影に行こうとして車を走らせていた際に停止した信号の交差点の名前が❝長福寺南側❞だったのですが・・・
「何か気に成るな~」
・・・と思い立ち寄ったのが最初でした。

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久松山 長福寺&平将門公所縁(ゆかり)の熊野社
さて、長福寺さんは元々は熊野社を守る為に存在した御寺なのですが、実は小生が顕彰活動を行っている横浜の殿様の間宮康俊公の間宮家や、その上官の北条綱成公の実家福島家とも少し因縁が有りそうな歴史が有るんです。ですが先ずは御寺の紹介を先にしましょう♪
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御本堂は木造と鉄筋コンクリートを合わせた構造に成っていました。
新編武蔵風土記稿 巻之八十四 都筑郡之四の大熊村の項に江戸時代の頃の様子が❝熊野社❞と❝別當寺長福寺❞として紹介されています。
最初に熊野社の説明が登場するので一応、現代では長福寺境内にこじんまりと存在する熊野社も先に写真で様子を紹介します。
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幅は1mちょいって所で現代の熊野社は凄く小さな物に成っています。これでは平将門公が霊夢を得ても❝熊野社の御堂に籠もる❞事は出来そうに有りませんね。後世に熊野社を守る役割だった御寺の長福寺の方がメインに成り、熊野社は火災とか色んな変遷を経(へ)て復興する際に小規模化されたのかも知れません。
新編武蔵風土記稿を読むと江戸時代当時迄は平将門公が籠もった当時の規模が維持されていたかも知れない様子が記載され、当時の熊野社の御堂の幅は1辺が3.6m四方の御堂だと説明が有ります。そして御堂ではなくて社(やしろ)と書かれているので神社として存在していた事も判(わか)ります・・・

境内御朱印地の内、村の西にあり、社(やしろ)は二間(1間=約1.8m)四方(1辺3.6m四角の面積の広さ)東に向けり本地仏(ほんぢぶつ=神様の仏様としての姿)弥陀(阿弥陀様)木の立像長四寸許、縁記によるに當(当)社は承平年中、平将門宿願によりて、不思議の霊夢を蒙り、此の社に七日参籠せる・・・以下中略

別當寺長福寺 本社に向かいて右にあり、禪(禅)宗曹洞派、橘樹郡末吉村寶泉寺末久松山と稱(称)す本堂七間(12.7m)に五間(9m)南向きなり、本尊釈迦木の坐像長一尺二寸許、今自山應大と云(言う)僧を以(もって)開山とせり・・・以下省略

・・・江戸時代までは神仏習合の宗教観で本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想に基づいて阿弥陀如来が神社だった熊野社に御神像として祀られていた事が解かります。そして熊野神社は東に向いていると掲載が有りますので現代の配置を見て見ましょう。
長福寺本堂と現代の熊野社配置 久良岐のよし
現代に本堂として機能している建物は東向き熊野社は北向きと日本古来の神社の宗教観では有り得ない御社の向きに熊野社が配置されている事と、本堂は新編武蔵風土記稿で熊野社が向いていた筈の東向きに配置されている上にどうも元々神社の形式の建築を踏襲している様に本堂を幣殿としてその奥左手に本殿の様な構造の御堂が併設されている事が航空写真から解ります。
そして現代の庫裡(くり=寺務所や居住スペース)が新編武蔵風土記稿で熊野社右手に在ると書かれた長福寺の位置に現在在(あ)ります。
この状況から見ると、以下の変遷が推測出来ます。
●先ず本堂が幣殿でその左手奥の建物が熊野社だった。そして庫裡が長福寺だった。
 ↓
●明治時代の神仏分離令の際に神社機能を廃止して、元々から御神像が阿弥陀如来だった事から熊野社の社殿が長福寺本堂として利用された。そして熊野社北側右手の長福寺は僧侶の居住スペースとしてだけ活用される様に成った。
 ↓
●そんな経緯を知らない世代の御住職様や檀家さん達が現代になり「あれ?熊野神社無いじゃん?」と思ってわざわざ本堂に成っている熊野神社幣殿の南側に北向きで熊野社を再建してしまった。その際に記載の通りに3.6m四方の社殿である事や社殿を神道文化に準じて記載の東向きや太陽に向いた南向きにする事は特に気にしなかった。

・・・そんな感じで文献記載と航空写真を根拠に現代の熊野社の配置の経緯が推測出来ます。
さて、熊野社の向きはさて置いても現代でも平将門公がここを大切にした歴史は現在の御住職様や新編武蔵風土記稿によって語り継がれている訳ですが、江戸時代にこの御寺を中興したのは師岡(もろおか)越前守(えちぜんのかみ)と言う小田原北条家臣でした。その事も記載が有ります・・・

其後(そののち) 天文年中(1532~1555年)に至り、橘樹郡篠原村の城主師岡越前守伽藍を再興かど、戦国の折なれば次て修理を加ふる者なく、自ら破損せり

・・・つまり、この一文で熊野社は一回、戦国時代に師岡サンに立てなおされた後で支援者を失い風化して経年劣化の上で損壊し、後に再び立て直されているらしい事も判ります。そしてその師岡サンですが、新横浜駅北側に在る篠原城の城主だった師岡越前守と言う人物が1532年~1555年の間に熊野社を再建した事として記載が有りますが、その頃の篠原城主は小田原北条所領役帳(小田原北条家臣団の所得明細)の編纂された1555年迄の篠原村は金子出雲(十郎)が篠原代官として丗(三十)五貫で知行を当てがわれていたりします。金子一族は現代も港北区篠原に住んでいるので、つまり金子出雲の赴任以前の篠原城代が師岡越前守だった事が解かります。そして師岡越前守の師岡家は後に東京都青梅市の三田領を治める役割を担って転勤した一族でもあります。
戦国時代、青梅辺りは三田領と呼ばれ三田綱秀(つなひで)公と言う武将が治め青梅市勝沼城を居城にしていましたが、三田家が北条家を裏切ったので後に師岡家が赴任した事を、たまたま小生は城好きでもあるので青梅市勝沼城や間宮家関連の青梅市二俣尾の海禅寺を訪問した際に知る機会が有りました。
ちなみに金子出雲の金子一族もそもそも青梅に鎌倉時代から勢力を誇った一族で、三田家は青梅に後から室町時代に成って入って来た一族なのですが、面白い事に師岡家・金子家・三田家の全てが青梅市と深い関わりが有る上に、青梅市を含めた多摩地方では今でも平将門公が❝善政を行った❞歴史が語り伝えられており武蔵阿蘇神社も平将門公が熊本の肥後国一之宮阿蘇神社から神様を勧進し開いた神社として知られていたりします。

さて、そこで実は都筑区の長福寺さんも、どうやら青梅市としがらみが有る事が元々の御寺の本寺格だった寶泉寺の名前が新編武蔵風土記稿に書かれている事や、三田領勝沼城代と成った師岡家が関わっている事から解ります。
この長福寺さんは鶴見区下末吉の長谷山 寶泉寺の末寺でした。
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長谷山 寶泉寺この寶泉寺(ほうせんじ)は権現山城の戦いで活躍した間宮彦四郎と思われる間宮信冬公が開いた御寺で信冬公の系図上の曾孫に当たる間宮康俊公が中興しているのですが、中興開山の御住職が東京都青梅市二俣尾の海禅寺から招聘されています。そして旧二俣尾村の海禅寺は元は福禅寺と言う寺名で、戦国時代天正三年(1575年)には天皇家勅願所にも成った凄まじい由緒の有る御寺なんです。
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瑞龍山 福禅寺(現名:海禅寺)
その青梅市一帯を元々治めたのは三田氏でしたが、三田氏は三田綱秀公の代に小田原の北条家を裏切って上杉謙信に付いた為に討伐され福禅寺近くの辛垣山城に立て籠もりますが結局は降伏し、三田綱秀公は旧上司に当たる太田家の岩槻城に抑留された後に切腹する事に成りました。
更に二俣尾村の名主を江戸時代ずっと務めたのが❝福島家❞である事、小机の土地は元は北条幻庵公の所領でしたが、後に福島家から北条家の婿養子に入った北条綱成公の御子息の北条氏繁公が譲り受けている事、その北条氏繁公の祖父の代までの苗字だった福島家が海禅寺一帯の名主を江戸時代を通じて務め支配を行っていた事も風土記に記載が有ります。
福島家の辺りには澤乃井酒造さんと言う御洒落な酒蔵が有り、現代では八王子市界隈の人が奥多摩レジャーに訪れる際の観光地の一つとして有名だったりします。
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澤乃井園(澤乃井酒造)どうも記録に残らない三田綱秀公没後の青梅市界隈の三田領を分割支配した殿様の事を室町時代末期~安土桃山時代頃の様子を江戸時代の記録や現在の状況から推測すると、玉縄北条家の北条氏繁公や、その子の北条氏勝公の所領に青梅市奥部は成っていて横浜市小机辺りに青梅市辺りの武将達が逆に代官として赴任して来ていたかも知れない様子が何となぁ~く想像出来たりします。
因みに青梅市の躑躅(つつじ)の寺として有名な塩船観音さん・・・
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大悲山 観音寺
この御寺の鎌倉時代の支援者が金子家の金子十郎公でした。どうやら金子❝十郎❞は世襲された名前らしいですね。
篠原城代金子家の事は以前、解説記事に書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事リンクします⤵
篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。

さて、そんな感じで横浜市鶴見区~港北区~都筑区辺りの武将や御寺が実は東京都奥多摩地方に深く関わっていた歴史が辿れるのが長福寺サンの歴史から紐解ける訳ですが、最後に長福寺さんや青梅市の人達が敬愛する平将門公が港北区~都筑区に来た証拠が地名として現存している事も紹介して置きます。
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長福寺から茅ヶ崎城址、つまり横浜市営地下鉄センター南駅方面に車を走らせると平台と言う地名が有ります。この地名は平らな台地だったからでは無くて、平将門が来て長福寺に成った熊野社に参篭した歴史から一帯の地名に成った様です。この事を長福寺の御住職から近くに平台と言う地名も有って云々~と教えて頂きました。
長福寺と平台 久良岐のよし
現代では平台と呼ばれる地域は台地の西の端の範囲しか指しませんが、長福寺辺りが❝仲(中)町台❞と地名が有る事から、長福寺背後の丘~現代の平台辺りの広範囲が本来の平台だった事も推測出来ますね。そしてそこには中原街道が通り、その北には矢倉沢往還が走る訳です。
特に矢倉沢往還は古代東海道と分岐して続く陸路だったので、その道は平将門公が生まれる遥かに昔から使われた街道で平安時代にも重要な地域だった事が解かります。

さて…
実は長福寺さん、3年くらい前の記事で紹介する予告してスッカリ放置し忘れてました(笑)!
今回改めて3年分拾い集めたピースを繋げ長福寺さんと熊野社の歴史、平将門公の伝承から意外な東京都まで話が繋がりましたが、きっと皆さんの御近所の神社や御寺サン、御城の跡の山や公園にも意外な歴史偉人との繋がりが有る場所が必ず有ります。そして悩んだ時や気分転換をしたい時、神社や御寺に御参りしたり城跡を散歩して緑を見るだけでも心が落ち着きます。

皆さん、御近所の神社や御寺や城跡を散歩して見ませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪

先月04月21日に一人で訪問した青梅市塩船観音の躑躅がとても綺麗だったので・・・
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「こんな所に行って来たヨ~」
・・・と実家のテーブルにパンフレットを置いておいた所、母と母の友人に・・・
「私達も行きたい、連れてって!」
・・・と言われた。
なので、たまには親と一緒に行動するのも良いかと思い立ち、塩船観音だけでなく旧庄屋の福島家住宅や清酒千代鶴の中村酒造見学などを含めて計画を練って、早朝6時半に自宅を出発して奥多摩観光に行って来た。
無論、小生の組む予定に相手の年齢や性別や体力等は僅(わず)かな考慮しか無く(笑)、容赦なくギッチギチにスケジュールを組んで置いた。
当初の予定では塩船観音と3個所+母達のニーズに現地で応える臨機応変候補地だけの訪問だったので、GoogleMapに行きたい場所リストを登録して置いた上で更に現地の観光案内看板で臨機応変に行動した所、訪問先は9箇所に増えた。
先に訪問先を列挙すると以下の通り・・・
・AM:06:30円海山の麓の自宅を出発
・AM:07:00能見台の母の友人宅へ迎えに行く
・圏央道厚木PAで朝食
・青梅市 塩船観音寺
・澤乃井櫛かんざし美術館
・福島家住宅(古民家)
・澤乃井酒造と多摩川の渓流と寒山寺
・海禅寺(天皇家勅願寺)
・奥多摩かまめし←小生は昼寝タイム
・へそ饅頭総本舗とへそ観音
・武蔵阿蘇神社
・千代鶴 中村酒造
・PM19:30位に能見台に到着
さて、当日の行動と訪問先を写真で紹介すると・・・
この日の前日と言うか当日の午前のまだ夜明け前、小生は深夜に仕事から帰宅。
そしてAM:05:00に成っても結局目が冴えて寝れず。
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レッドブルを2本飲んで脳味噌を強制起動、結果的には小生だけ昼食を取らず車で仮眠したので睡魔にも襲われず良い旅行と成った。
最初に休憩したのは厚木PA、残念ながらここでは今回は写真は撮影しなかったがウチのBBA共が未だ奥多摩の観光地にも着いてないのに神奈川県内のしょっぱなの休憩所で阿呆(アホウ)の様に御土産(みやげ)を買い漁ろうとしたので「説教するハメ」に成った・・・
「これから沢山、神奈川県では買えない物を売っている場所に行くのにいきなり神奈川県内の土産を買って、先の事を考えて計画的に買い物する場所連れてくから今飲食する物だけ買ってね!」
・・・と。BBA共は無計画、特にウチの実家では母は最近は冷蔵庫の在庫管理も出来ない人なので小生が消費期限の切れた食品は容赦なくポリ袋に入れて捨てないといけない。その度に母には「毎日食品買物したいのならば在庫を手帳にメモって仕事に行きなさい」と説教をしないといけない。
それと同じ行動パターンだな。
オバさんも軽く凹ませたが小生は「この先もっと良い物を売っている場所に行き小生の説教に納得する」と確信していたので意にも介さず、取り合えず二人に朝食を買い与えてお腹を満たさせ機嫌を回復させて再出発。
最初に二人を連れてったのは青梅市勝沼城址近くの塩船観音寺だ。
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小生が前回訪問したのは04月21日、そしてその時が見頃だったので二人には予(あらかじ)め警告しておいた「ゴールデンウイークの頃にはもしかしたら見頃が過ぎてるかも知れないよ~」と。
その懸念は現実の物と成ってしまい、母とオバさんとの訪問前日の05月03日の台風の様な天候で咲いていた躑躅は大半の花弁が散ってしまったそうだ(笑)。
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いくらか咲いていたが略(ほぼ)全滅。
でも塩船観音寺はとても雰囲気の良い山寺。
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そもそも日本初代の大僧正と成り東大寺大仏建立の立役者である行基大僧正が開いた御寺と伝わる。
行基大僧正が開いたと言うのは有る意味本当だろう。❝有る意味❞ね。
当時、行基大僧正は日本神話の聖地保護や寺院建立の為に❝行基集団❞的な現在で言う所のNPO法人の財団の様な巨大な組織を擁(よう)していた。なので行基集団のボスの行基大僧正は保護すべき聖地霊場の報告を取捨選択した上で保護する目的で修験道的な仏教寺院を大分多く造営している。
神奈川県だと修験道や神道や仏教の聖地だった八菅七所権現(現:八菅神社)や石山権現大山寺と阿夫利神社等が神奈川県では最たるものだろうか?
鎌倉市長谷地区近くの坂ノ下地区にも虚空蔵菩薩堂を造営したりしている。
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大悲山 観音寺(塩船観音寺)


そんな行基大僧正の関わられた塩船観音寺を人魚姫の不老不死伝説の有る八百比丘尼様が再興したそうだ。この御寺の雰囲気は、本当に往古の山寺の雰囲気と、観光地化されたエリアの棲み分けと保護がバランスよく素晴らしい。
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だから躑躅の花は散っても雰囲気を楽しめる。
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いぬケツ(笑)、可愛い(笑)。
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しかし母達は躑躅が咲いていない様子を見るや真っ先に売店に走り、又、衝動買いを始めた。
・・・流石に、ここの物はここでしか買えないので、ここから先は止めないで置こうと思い放置した。
まぁ、買い物が楽しかった様で機嫌を悪くする事もイジケル事も無く、二人共それなりに満足した様で駐車場に戻っても機嫌は良かった。二人して巨大な筍(たけのこ)とか刺身蒟蒻とか買っていた。
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小生も梅漬けの沢庵と自分様に刺身蒟蒻を購入、これ、どちらもスンゴイ!美味しかった。
青梅市観光の際はおススメ!
さて次の目的地は吉川英治記念館だ。
目的地に向かい青梅街道に車を進ませると、青梅市が力を入れている❝昭和の街並み❞と❝映画のロケ地&映画の街❞のコンセプトの実現されている素敵な商店街を通り抜けた。
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母の友人は大興奮、まぁ又、来年に二人を塩船観音の躑躅を見に連れて来てあげたいと思うので、その時にはユックリとこの街を散歩しても楽しいかも知れない。
今回はスルーし、車を先に進ませた。
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吉川英治記念館に到着。
吉川英治記念館
小生は横浜の戦国時代の殿様の間宮康俊公の顕彰活動で横浜市鶴見区の間宮家菩提寺の寶泉寺の初代住職が青梅市二俣尾の福禅寺(現:海禅寺)から御招きした歴史を知って昨年に海禅寺の御住職様に会いに来た際に、ここの存在を知って来てみたいと思っていた。
吉川英治先生事は小生達昭和生まれ世代の男子ならば、漫画の横山光輝サンの著作の三国志の原作者として知らない人間はいないだろう。小生は政治外交軍事を民間交流に持ち込み反日感情を利用する中国の現政権が嫌いで良く批判を展開するが、基本的に三国志の英雄達や南宋の岳飛将軍や明の鄭成功将軍が好きで中国料理屋中国文化はリスペクトしている。端的に言えば日本の共産主義はクソだと思っている。
その日本共産党なんかを日本経済破壊的政策の指示を煽る煽動に利用する今の中国政府も嫌いなだけ。
元寇を撃退出来たのも蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚等、南宋からの亡命者達が情報を齎していたから鎌倉武士達の作戦と精神修練が成功したのを鎌倉市に良く足を運ぶ神奈川県民として当然ながら知っているから。鎌倉文化は南宋と仏教文化との繋がりと反元朝無しには、あの形に落ち着かなかっただろうから。今の悪い面と過去の良い文化はソレはソレコレはコレと分けて考えているし、中国人に対しても反日中国人と親日中国人と中立中国人で関わるスタンスをコチラも相応にやり方を変えている。
目には目をひん剥いてやる歴史事実を突きつけ、歯には歯を叩き居る鉄球を叩きつけオーバーキルしてやり、友情と恩義には友誼と恩返しで報いる訳だな。
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さて、この吉川英治記念館は実際に戦時中に吉川英治先生が東京から疎開する為に買い取った絹糸生産者の豪邸なので非常に見応えの有る日本家屋と庭園として保存公開されている。
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入口から既に御金持ちの象徴の❝長屋門❞だ。
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本当に立派な古民家なのが、この時点でお解り頂けるだろう。
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幕末~明治初期の昔、日本は世界有数の良質な生糸の輸出国だった。だから八王子の旧家には蔵屋敷も有る。吉川英治記念館も例に漏れず。
特に八王子~群馬県にかけての奥多摩や上州では生糸生産が特産に成っていた。
実はこれ、戦国時代に善政を布いて産業振興や荒川の治水や税率軽減や農地開拓や領民に優しい法制度の公平性等で実績を残した偉大な北条家の殿様達の遺産なのだ。
特に八王子を治めた北条氏照公と埼玉県北西部を治めた北条氏邦公は生糸の殖産振興を政策として実施して農民達は潤った。そして、それが近世~近代にまで経済基盤の屋台骨となり世界にまで進出する特産品と成った訳だな。
本当に小田原北条家の政治は素晴らしく、後の江戸幕府は北条家と比較して劣っている面が非常に多かったりする(笑)・・・のだが関西や濃尾三遠方面の人はソレを知らない。
余談だが、横浜三渓園を自宅としていた原財閥の原三渓サンが上州に開いたのが世界遺産と成った富岡製糸場で、アレは原財閥の持ち物だったのだがソレを群馬県の人は余り知らない。
横浜銀行も原財閥の持ち物だったんだな。
何故、原財閥が群馬に生糸の製糸工場を作ったかと言えば、それはシルクは全て横浜港から出荷されヨコハマシルクとして世界に有名なブランド化に成功していたからだ。
間宮家の居城、笹下城下の笹下川~蒔田吉良家の蒔田城下の大岡川~蒔田湾(現:横浜中華街~吉野町は海だった)の河川では戦国時代より染物が産業として有り、昭和初期までシルク等を染色する捺染工場が多く残っていたが、20年程前に全滅したそうだ。
こんな生糸の歴史を通じても青梅市と横浜市は北条家の殿様達の御恩と御縁で繋がっていたりする。
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母屋は昔は現在とは違って草葺きだった様だ。
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御庭は本当に手入れが行き届き美しい。
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母とオバちゃんは大喜びで・・・
「素敵な場所ねぇ~」
「連れて来てくれてありがとう~」
・・・と言ってくれていたのだが、小生も正直、ここまで見応えが在るとは思わなかった!
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玄関の土間までは入る事が出来るが建物の内部は拝観不可。
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でも各部屋の当時の生活の様子の写真と解説が展示されており、これはこれで良かった。
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本当に立派な建物なんだなぁ~。
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御庭は新緑で美しかった。後で知るが、この庭の大きな木の下で吉川英治さん達家族は良く一家団欒を楽しんでいた様だ。
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執筆活動をする書斎は洋風の増築だった。
ここが又素晴らしい。
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床のモダンなタイルと・・・
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母屋との渡り廊下の細かい格子戸。
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庭からの入口には立派な漆喰彫刻。
本当に素晴らしい!
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書斎の中はコンナ感じだった。
地図を見ながら執筆するスタイルだったんだろうか?小生達旅行や歴史ブログ書く人と同じスタイルだねぇ~♪
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母屋から展示館の方へ抜ける道。
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中国から輸入したと思われる石像。
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ここから多摩川の方を望む景色も良い。
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展示館は内部が撮影禁止なのだが、見学して初めて知った・・・
吉川英治先生って横浜市中区の出身、しかも超低学歴なのに独学で会社経営して一定の成果を上げた特異な経歴を持ち、しかも作家として一流の成功を収めていらっしゃると言う。
・・・凄まじい才能の塊、小生、吉川英治先生に肖りたい。一番現代に近い人物で尊敬する歴史偉人がここへの訪問で吉川英治先生に成った。
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一頻(ひとしき)り見終わり母達も大満足で一先ず、塩船観音の次は幸先(さいさき)良い再スタートを切る事が出来た。
そこから昼食を❝奥多摩かまめし❞に行こうかと思ったが、吉川英治記念館に来る途中で渡った鉄橋に有った❝澤乃井櫛かんざし美術館❞と言う看板に母とオバさんが「行きたい!」と食いついていたのと、吉川英治記念館到着直後に澤乃井櫛かんざし美術館が近い事も地図で確認していたので次の訪問地と定めた。
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澤乃井櫛かんざし美術館吉川英治記念館から本当に近い、渋滞したが車で10分かかっただろうか?
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残念ながら展示物の写真撮影は不可との事、先に結論を言うと「ここの櫛と簪(かんんざし)の展示物は美しさも展示数も櫛と簪に特化すれば東京国立博物館を凌ぐ素晴らしさ!」だった。
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ここの紹介の跡で紹介するが、実はここ入口で日本酒を打っているので店員さんに「何で日本酒売ってるんですか?」と質問した所、澤乃井酒造の経営者の開いたコレクション展示館だそうだ。しかも存じ上げなかったが、直ぐ近くの吊り橋を渡った先が澤乃井酒造の酒蔵だそうで、そちらも見学したり試飲したり出来ると聞いた。
恐らく、吉川英治記念館や天皇家勅願寺の海禅寺と合わせて躑躅や桜の時期に訪問すると、ゆっくりするなら半日は余裕で楽しく過ごせるだろう。
展示物の写真は撮影出来ないが、館内から見る青梅市沢井地区の多摩川の渓流は一端の景勝として成立しておりとても美しかった。
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川面(かわも)は碧(あお)く、透き通り、そして優しい。
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つり橋の傍に何か御堂の様な建物が見えたので店員サンに質問した所、そちらも澤乃井酒造さんの建立された御寺で❝寒山寺❞と言う寺名だそうだ。・・・寒山寺は昭和の歌手の渡辺はま子サンと平成の歌手の平原綾香サンが歌った蘇州夜曲にも登場する春秋戦国時代の呉王国の首都だった中国蘇州市の名古刹寺院と同じ名で、蘇州と御縁の有る小生は「奇遇だなぁ~」と思った。
下の階に降りると切り絵の様な物の製作展示販売を行っていた。
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この方、高井先生とおっしゃる東京都調布市で代々続く着物の柄の染色型紙の作家の先生だった。
色々と横にいた綺麗な秘書の様な方に御話をお伺いして居た所、実はその女性は娘さん、そして高井先生御本人から「弟子募集中」との事、小生が趣味で指輪作ったり小さい時から美術造形を勉強していたので趣味として好きな事を話したら「是非、習いに来ませんか?」とリクルートされた(笑)。
弟子と言っても後継者がいないので教室を開くそう。横浜でもやろうかと思っているそうなので、もし横浜で開くなら参加して見たい。
ジムで身体づくりを完遂したら日野市の天然理心流の道場にも通いたいので、日野市の隣の調布市ならついでに車で通えると思う。工作好きだしねぇ~♪
高井先生の作品については写真撮影しても良いとの御許可を得たので、その緻密で精密な江戸時代から受け継がれている幾何学模様の型紙を沢山写真撮影した。
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驚く事に、この神は新聞紙だそうだ!
それを柿渋に付けて乾燥させると極薄で凄い強度の紙に変化するそうだ。
良い事を聞いたが、横浜では柿渋は手に入らないだろう。やはり先生の弟子に成るか別の代用紙を探す必要が有る。
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これ、もし作る事が出来たら銀粘土で指輪に模様を転写したらとても美しいデザインに成ると思う。
こんど写真を紙にプリントしてトレッシングペーパーに写しとって見ようと思う。
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う~ん綺麗だ。
外国人が御土産として喜んで買っていきそう。羽田空港とかに取り扱って貰えないのかな?
さて、一頻り見学が終わり澤乃井酒造へ移動しようと思い地図を見たら、実は当初の訪問地として定めていた福島家住宅の古民家の目の前が澤乃井酒造の酒蔵だと気が付いた。
なので先に澤乃井酒造の駐車場を目指し、車を降りてから福島家住宅を見学した。
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福島家住宅
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ここは東京都青梅市の奥多摩、昔の多摩郡三田領二俣尾村の庄屋だった福島家の古宅だ。
小生はこの福島家と玉縄城主北条綱成公の生家は何某か関係が有ると感じているのだが、まだ福島家の御子孫と面会に至らず御話を聞けずにいる。ちゃんと家系図も有るそうなのだが、東京都ロケーションなんちゃらが間に入って来て一個人での面会を勝手に拒否るのでまだ会えない。
こんど海禅寺の御住職経由で御話を通して貰おうと思う。
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う~ん…酒林が吊るされており尚且つ澤乃井酒造さんの隣って事は、福島家は澤乃井酒造と関係が深いのだろうか?確認出来ないので何とも言えない。
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澤乃井園(澤乃井酒造)澤乃井酒造は本~当~ぉに!立派だった。
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この昔ながらの酒造の蔵や漆喰の蔵や茅葺の母屋等と道を挟んで反対には食事処や試飲出来るスペースや売店なんかが有り、それが一つのテーマパークの様に完成されていている。
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家族連れと恋人達で山奥なのに大変な賑わい!ゴールデンウイークだしね。
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ここで御猪口を買うと試飲出来る。
無論小生は運転手だし御酒は梅酒以外は好きでは無いので飲まないが、母は試飲したがり何種類か有料だが試飲を楽しんだ。
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食事も出来る。
又、こことは別棟でちゃんと和食レストランと軽食の売店も有る。
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櫛かんざし美術館から見た寒山寺の水墨画。
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やはり蘇州市とも御縁が有る様だ!奇遇だなぁ~。
両方とも風景の美しい場所として有名。
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この軽食をとれる❝ままごと屋❞の横が日本酒の売店に成っている。
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小生は梅酒を見つけたので購入しようと決めたが、母もオバさんも自分も小腹が空いてきたので酒饅頭を購入した。
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ここの直ぐ下の渓流にも降りる事が出来る。
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う~ん!良い眺め!
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家族とカップルが水遊びをする様子は微笑ましい♪
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吊り橋の先には青梅市の寒山寺が見える。
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ここの多摩川の水は本当に綺麗!
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もし彼女が出来たら是非、泊りがけで青梅市~羽村市~あきる野市観光に来て飲酒もしたいと思う。
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この橋の後ろに澤乃井櫛かんざし美術館は在る、歩いて10分位なので美術館に車を停めて来ても良いかも知れない。
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皆ゆっくりと良い時間を過ごしているね。
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小生も母もオバさんも大満足で、食事の為に車に戻った。
食事場所に決めていた❝奥多摩釜めし❞に行く途中に間宮家の殿様が戦国時代に御世話に成った天皇家勅願寺だった福禅寺(海禅寺)が在るので、二人にも付き合って貰い御参りに立ち寄った。
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瑞龍山 海禅寺(天皇家勅願寺:旧寺名:福禅寺)御住職には御挨拶はしなかったが御参りに上がった所、予想外にオバさんが大変喜んでくれたので良かった。躑躅も少し残っていたが、綺麗な花が咲いているのが嬉しかった様で嬉々として写真を撮っていた。
御本堂で御本尊の釈迦牟尼仏様と三田綱秀公と間宮家歴代の殿様達に御参りし、いつもの御礼とこの日1日の旅の無事と海禅寺と海禅寺関係者と二俣尾地域の皆さんの無事を祈願した。
母達には付き合って貰ったのだが喜んでくれて良かった。
車に乗り昼食目的地に移動・・・
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奥多摩釜めし❝奥多摩釜めし❞に到着。
実はここで小生は食事をしなかった。
徹夜が限界に来て睡魔を感じ始めた・・・
「これ以上無睡眠は危なぇ~なぁ~」
・・・と思い、海禅寺で三田と間宮の殿様と御釈迦様に旅の無事を祈願したばかりだし、母達には好きに食事して貰う事にして自分は車中で仮眠する事にした。
1時間位は寝れただろうか?御釈迦様と殿様達の御利益か、1時間寝てスッキリ!眠気も覚めた♪
母達も「それなりに美味しかったよ(笑)」とそこそこ田舎の釜飯屋サンとして美味しかったそうで笑顔で店を出て来た。
小生、ここで食事をしなかったのは、直ぐ近くに❝へそまんじゅう総本舗❞が存在しているのを前回の訪問で知っていたので、そこで小腹を満たせば良いし母達にも良いデザートに成ると考えての事だった。
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へそまんじゅう総本舗ここは隣に旅の安全を見守る観音様が鎮座するので、御土産物屋として饅頭屋が名物に成った様だ。
歴史的には100年続くとか凄い古い訳では無い。
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ちゃんと御参りしました。
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「観音様、無事へそ饅頭本舗まで辿り着かせて下さりありがとうございました、二人を家に送り届けるまで御加護御願い致します。そして観音様が多くの人にずっと大切にされます様に」
・・・とお祈りして、御饅頭を購入!
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ここは蒸(ふ)かしている暖かい物を出してくれる。
母達も喜んで食べていた。素朴だけれど美味しくて、奥多摩観光に来る人達で賑わっている店なんだな。
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三田綱秀公の紹介が店頭に有った。
この殿様は責任感が強くて誠実な人だったんだな。以前書いた唐垣山城の記事が有るので、ブログのタグで唐垣山城と検索してくれれば以前の記事を読めると思います。御興味の有る方はどうぞ。
再び出発・・・
最後の目的地はあきる野インターチェンジ手前の清酒千代鶴の中村酒造、その途中に先の熊本大地震で熊本県民を僅かな犠牲者で抑え神様が自らを犠牲にして熊本県民を守る様に社殿崩壊した阿蘇神社の関東唯一の分社、武蔵阿蘇神社が在るのでそこに寄る事にした。
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武蔵阿蘇神社ここは関東人にとっては、とっても由緒正しい聖地だ。
神社前の多摩川に在った淵は古代からの龍神信仰の舞台であり、何と平将門公が肥後国阿蘇大社から建磐龍神(たけいわたつのかみ)の御分霊を勧進された由緒ある神社だ。
そして羽根用水と言う❝と~っても古い!❞現役の灌漑用水史跡が現存する場所でもある。
平将門公は腐れ藤原貴族には自分達の既得権益を脅かした悪人だが、実は桓武天皇の末裔で親王赴任国の上総国下総国を治める権限も有していた。そして関東人にとっては善政を布いた名統治者でもあったので東京都のみならず埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、福島県でも今現在に至っても慕われ、東京の神田明神では経済の神様としても民衆の信奉厚い。
武蔵阿蘇神社は目の前の多摩川対岸がパワースポットで古代からの聖地だったのだが、平安時代の渡河地点に平将門公が神社を築いたのだろう。そして平将門公が戦死された後は、将門公を討ち取った将軍の藤原秀郷も阿蘇神社を大切にし将門公の意思を継いで関東の民を安んじた。だから羽村市の阿蘇神社には藤原秀郷手植えの古木も現存する。
ここを御参り出来て母の友人も母も、羽根用水と多摩川の風景の綺麗さも有り喜んでくれた。
阿蘇神社を出発し最後の目的地の中村酒造に到着・・・
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清酒千代鶴 中村酒造(千代鶴酒造り資料館)DSC_0668
ここは売店に酒造の道具の展示が有るし❝試飲も無料❞なので運転手以外には見学する価値が絶対に有る場所だ。小生は無論飲まないが、文化的な物が好きなので3年前に始めて立ち寄って御土産に清酒と梅酒を購入して以来、羽村市チューリップ祭りを見物に来る度に立ち寄る様に成った。
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展示物色々。
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色んな賞で金賞も受賞している酒蔵だ。
母と母の友人は色んな清酒を試飲して、数本づつ御土産に購入していた。
「ね?最初に余計な物を買わなくて良かったでしょ?」
・・・と言う所だね。
母と母の友人も結果的に今回の小旅行全体をとても喜んでくれたので良かった。

この後、神奈川県の藤沢市域に入ってからが凄まじい渋滞に巻き込まれ夕方17時位に出発したのだが、母の友人の住む横浜市金沢区能見台に到着した時は既に20時近くだった。

そう言えば能見台の地名が出たので今回の旅とは全く関係無いけれど別記事にもしますが少し映画の紹介を・・・
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
恋は雨上がりのように
公式ホームページURL→http://koiame-movie.com/#/boards/koiame
2018年05月25日(金)、もう直ぐ公開のこの映画では能見台を中心に周辺地域がロケ地として頻繁に登場します。能見台駅や桜木町駅を皮切りに・・・
恋は雨上がりのように 能見台駅 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 桜木町駅 久良岐のよし
富岡~能見台~氷取沢に抜ける住宅道路をヒロインの❝橘あきら❞を演じる小松菜奈さんが疾走しまくす・・・
恋は雨上がりのように 能見台 久良岐のよし
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
恋は雨上がりのように ヒロイン 久良岐のよし
全然関係無いけど、この小松菜奈サン、小生の学生時代の彼女にソックリ(笑)。
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
そしてもう直ぐ蛍の見れる季節に成る磯子区~栄区~港南区にまたがる円海山もロケ地に成っていますね。
蛍のいる瀬上沢から、このロケ地は徒歩8分くらいと直ぐ近く、更にはこのヒロインが走ってる道の左手の山の上は横浜市で最高所なので絶景の夜景スポットとして栄区上郷町と港南区港南台の地元民には知られています。
ついでなので以前、蛍を見られる❝瀬上沢❞と瀬上沢の綺麗風景や蛍の様子を紹介した記事のリンクと蛍の見られる場所も紹介して置きます。
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円海山の展望台とベンチ~横浜の大森林を守ろう
(洋光台地域ホームページから)

東急が開発破壊しようとしており林文子市長がそれを容認する様な発言をして横浜市民から大ヒンシュクなのも紹介しています。
こんな映画のロケ地に成ったり、横浜市最後の蛍大生息地が見られたり、横浜市一の夜景が見られる場所を横浜市役所に破壊されない様に、彼女さんや彼氏さんや奥さんや御子さんと❝恋は雨上がりのように❞の映画を見て聖地巡礼に円海山に来て、ついでに蛍と夜景を見て、その素晴らしさを感じて見ませんか?
横浜市にも奥多摩の様な最後の大自然が残っています、ここを破壊しようとする政治家と土建屋に止める様に、林文子市長には❝歴代市長が守て来た❞貴重な自然を子供達に開発の魔の手から守って下さる様に陳情して頂ければ幸いです。

●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 
〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299


前回の辛垣城址編↓これの続き…

辛垣(からかい)城址の頂上で海禅寺の御住職に「10時位の到着に成ります」と連絡をして、城山を降りて御寺に向かった。
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海禅寺は現代では参道がJR青梅線に分断されている。
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こう言った事は良く有る事で、鎌倉でも臨済宗鎌倉五山第二位の格式を持つ円覚寺や、坂東平氏の祖先を祀る御霊神社の総本社である鎌倉坂の下の御霊神社も同じ様に江ノ電が参道を横断している。
まぁ御寺や神社の境内地は昔は広大だったので、明治~昭和初期にかけて鉄道開発をする際に線路を敷設しやすかったので政府に土地を接収されてしまう事が多かった様だ。
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だから昔の山門は場所を移して、現在は中央線の踏切に成ってしまった参道の左手に移設して現存している。
「不許葷酒入山門(酒を帯びて境内に入っちゃダメ)」
ふむ、禅宗寺院の昔の厳格さを忍ばせる石碑だ。
まぁ、今は禅宗寺院でも御酒を飲む和尚さんばっかだけどね。
小生は現代人の庶民だが「(酒を)飲む」「(博打を)打つ」「(女を)買う」を一切しないので、ある意味では仏様に好かれるのかも知れない。神様にもいつも礼拝しているし、神様にも好かれると思う。
じゃないと小生の様に仕事徹夜空けで遠征ドライブし山登りまくって、性格も喧嘩っ早いのに無事でいられたり過去8回ひき逃げや交通事故に遭って掠り傷だけで済んだりしないだろう。
でも幼少期にハチャメチャ過ぎて手を2回骨折してるし、医療技術の発達してなかった時代なら障害者に成ってたね。
まぁ~神様や仏様や尊敬する偉人と、幼少期に可愛がってくださった恩人や御先祖、友人達と御医者様に感謝しないといけない。
そもそも、今生きているのも北条綱成公の御蔭だし。
そんな訳で北条綱成公の顕彰活動を始め、家老の間宮家の顕彰活動も始め、その間宮家と関係が深い海禅寺サンに横浜から御参り&御住職様に取材に来た訳だ。
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海禅寺は三田氏の菩提寺とだけ伝わるが、それは曹洞宗の寺院として再興されて以降の歴史しか現代に伝わっていないからだろう。曹洞宗は荒廃したり戦火で消えた御寺を北条家の支援で多く曹洞宗寺院として復興(再開基)しているのだが、何せ一度消えた御寺を復興してる場所だらけで、それ以前の歴史が伝わらない場所は多い。
海禅寺も実際は天正三年(1575年)に天皇家の勅願所に定められている格式の“状況”から言って、昔、荒廃してしまった格式の高い前身寺院が必ず存在していたはずだ。
実はこのヒントが神奈川県横浜市と新編武蔵風土記稿に残されていて、その話も御住職に確認したかった。
例えば、この謎を解く例を挙げると…
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上の写真は神奈川県藤沢市大庭に存在する曹洞宗の宗賢院。
この御寺は詳しい歴史は戦国時代の復興以後の事しか解らない。しかしながら源頼朝公の御父君、源義朝(よしとも)公の重臣だった大庭景義公と弟の大庭景親公の居城だった大庭城址に近在し、更には大庭景親公が陣中で使用していた釜が寺宝として現存する。つまり平安時代末期には前身寺院が存在していたはずだ。
加えて延喜式内社の神社である大庭神社舊(きゅう=旧)跡の熊野神社が近くに存在する事から鎌倉時代は大庭神社別当寺(べっとうじ=神社を守る為の御寺)だった可能性が非常に高い。
この熊野神社が大庭神社の旧址だと言う事は江戸時代の人々にも認識されており、それは相模国五之宮であり古代の一之宮だった有鹿神社と、今の一之宮の寒川神社に証拠が残っている。
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江戸時代の相模国延喜式内社を網羅した掛軸、これは寒川神社の当時の宮司が書いた物だが大庭社熊埜天神と書かれている。熊野神社に成っているのは大庭神社旧跡、菅原道真公を江戸時代に習合しているのが現在の大庭神社本宮、つまり両方の名を合わせた大庭社熊埜天神と記載されている訳だ。
格の高い神社の傍には別当寺が必ず存在しているものなのだが、熊野社に成っている大庭神社旧跡の別当は室町以後~現代でこそ本宮の方と同じ別当寺だが位置的に不自然きわまりない。昔は宗賢院の前身寺院が旧跡の別当だったはずだ。
極め付きは宗賢院の寺紋(じもん=御寺の家紋みたいな物)が太田桔梗、そして山号が蟠龍山である事だ。
昭和初期までの神奈川県民と県役人達の認識でも、伝承や状況証拠でも大庭城は室町時代のある時代、永享の乱の頃まで扇谷上杉家の本拠地だった様だ。
戦国時代の扇谷上杉家は武蔵国に勢力を誇ったが、元々は武蔵国南部は宅間上杉家の支配地だった。
そして扇谷上杉家の家老だったのが太田家だ。
太田家の一番有名な太田道灌公の菩提寺は神奈川県伊勢原市の“蟠龍山”洞昌院公所寺なのだが、山号が同じで、やはり太田家から使用を許された太田家の家紋の太田桔梗を寺紋にしている。
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だから公所寺の本堂にも宗賢院と同じ太田桔梗紋が彫刻されている。
これ等の事は宗賢院が大庭城主扇谷上杉家の家宰(かさい=社長代理みたいなもの)だった太田家と関わりが深かった事を知る十分な状況証拠に成っている。
そもそも曹洞宗が明治政府の神仏分離令まで日本神話や聖地を大切にしていた歴史その物がある訳で宗賢院も曹洞宗な訳だから大庭神社の事も関係が有って当たり前なのだが、残念ながら昔は和尚様達は世襲制では無く宗派の有力寺院から派遣されて来ていたので歴史が全て正確に伝わる訳も無いし、そもそも曹洞宗が復興した場所は全部廃寺に成っていた場所ばかり。
だから以前の事は解らず、曹洞宗に成ってからの記録しか御寺自体には伝わっていない事が多い。
そして海禅寺も開基されて100年足らずで唐突に❝天皇家の勅願寺❞や❝10万石の格式❞に成れる訳が無いので必ず格式高い全身寺院か神道や修験道の聖地が有った筈(はず)なのだ。
まぁ、そんな訳で「グチャグチャ文献だけ読んでても良く解んねぇ~し仕方ねぇ~な(笑)」と言うのが小生のスタンスなので、自分で実際に毎回取材に行く訳だ。
すると神社も御寺も歴史史跡も、文献には載っていない事が多く口伝や証拠が伝わっていたりするんだなコレが。

話を海禅寺に戻す。
海禅寺はそもそも福禅寺と言う名前だった。
江戸幕府の役人がド阿呆で、幕府の寺に対する領地保証書を発行する際に❝海禅寺❞と書き間違えてしまったので、土地の権利を守る為に仕方なく当時の御住職は海禅寺の名に寺名を改めるしか無かった。
役人が別寺院宛ての文書を誤って発給したか、教養が無くて寺名を書いた資料の草書体を読めず間違えて福を海にしたかは今では良く解らない。
実は幕府を開いた直後に三河、遠州から来た徳川家官僚には、この手のミスが多い。
…と言うか、恐らくいつの時代も官僚の中に適当な奴がいる。小生の様に趣味でやってるブログでは無くて仕事なのに校閲もせず適当に仕事をして、色んな文書の元号や武将の名前や法名を書き間違えている事が多い。
しかし被害者が幕府に抗議すれば、それがたちどころに官僚は己のミスを隠して被害者側を❝謀反人❞扱いして武士なら所領、寺なら寺領、神社なら社領を没収されてしまう訳だ。
海禅寺と関わり深かった横浜の間宮家の間宮康俊公も恐らく幕府によって戒名を誤って認識されて、間宮家側が❝忖度(そんたく)❞して家系図を補修しなくてはいけなくなっていたりする。
まぁ、しかし海禅寺自体は格式高いだけでなく、昔から風流な寺として有名だったようだ。
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室町時代から花の寺として有名だった海禅寺、新編武蔵風土記稿の多摩郡三田領二股尾村に掲載されているが、風土記は「歴史の目次」みたいな物なので詳しくは掲載されていない。
こう言った郷土史調査は「他都市からの移住者で“横浜=近代”の先入観しか無い精神的カッぺが職員ばかりの横浜市教育委員会と横浜市歴代市長の中で左派思想の人物は文化財保護法の設置を最後まで拒んでいた建設利権に癒着した無文化で使えない連中」なのだが、他の自治体は郷土の人が職員に成るので青梅市の様に盛んに調査、保護が行われている。
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訪問時は4月下旬で既に桜は散っていたが、辛垣山城址登山前に踏切で小学生の交通整理をしてらっしゃった駐在所の御巡りさんと雑談した所、境内は桜が多く現代でも「花の寺」として有名だそうだ。
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山門も素晴らしい。もしかしたら構造的に仁王門にする心算だったのか?
本当に立派な楼門だ。
丁度、幼稚園の先生と園児達が鬼ごっこをしていて遊んでいた。
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可愛らしい光景に思わず顔がデレてしまった(笑)。
こんな良い環境で育った子供達は、きっと素直で優しい大人に成るんだろうなぁ~。
間違っても小生の様に「史跡不保護無文化市長」とか「無能な横浜市教育委員会」とか事実とは言え悪態を吐く自分の価値を貶める心の狭い発言をする人間には育たないだろう(笑)。
皆すくすく、優しい子に育ってねぇ~♪
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山門の脇には鐘楼が有った。こちらも立派だった。
屋根の構造を見るに昔は茅葺屋根だったんだろうと思う。
茅葺屋根は高級で保持には費用が嵩(かさ)むので、現代では御覧の様に銅葺きや瓦葺きに吹き替えている場所も多い。
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この説明文では三田家の中興と有るが、この規模の寺院は必ず元々は主家であった扇谷上杉家の支援の下で三田家が復興を果たしているはずだ。
そして戦国時代には北条家が必ず復興している筈だ。元:三田家臣何某だけで再興できる規模でも無ければ格の高い住職を招ける訳も無い。
歴史の解説の前に施設の紹介を進めよう。
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境内からの景色は良い。楼門と花々越しに青梅の山脈(やまなみ)が見えた。
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本堂も大きい。
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玉縄北条家の菩提寺龍寶寺や初期の北条家において神奈川領をまとめた間宮家の菩提寺の寶泉寺や宗三寺と同規模を誇っている。
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つまり軍団長レベルの部将でないと建てれない規模の御堂だ。
この規模の堂宇を一、三田家臣が復興出来る訳が無い。絶対に北条家の支援が入っている。
そして、先述の通り、戦国時代に天皇家の勅願所に成る時点で前身寺院が途轍もなく格式が高かった筈だ。これは後で前身寺院の推測を紹介する。
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境内には凄く立派な枝垂れ桜も有った。きっと桜の季節には見事な景色に成るだろう。
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境内の谷戸そこかしこ、本当に花が多かった。
素敵な御寺だ。

御住職に面会すると本堂に通され、色々と御寺の歴史にういて御教授頂いたり小生の推論を述べたり、地図を見て周辺を歩き、御近所の旧家についてや地形的な事等々、気に成った事を質問させて頂いたりした。
その御住職様とのやりとりを踏まえて小生の推論と合せて三田家と海禅寺の歴史を紹介しようと思う。

海禅寺はそもそも「福禅寺」と言う名前の寺院だった。
まぁ…既に御寺の旧名自体が前フリでネタバレなんだが。
それは後に説明するとして、御寺の主な檀家は三田家だった。
三田家の治める当時の青梅を含めた多摩地方は扇谷上杉家の与力衆の武将達の土地だった。
しかし天文十五年(1546年)の河越夜戦で三田家の旧主の扇谷上杉家が北条家によって滅亡させられると、その後は暫く八王子の高月城主大石家同様に北条家に臣従していた。
永禄四年(1561年)に杉謙信(当時の名は長尾景虎)の連合軍勢10万が北条攻めを敢行した際に、元々扇谷上杉家臣でもあった事も有り北条家を離脱して上杉謙信に寝返った様だ。なので上杉家与力衆の名を記した“関東幕注文”にも記載されている。
そして上杉謙信が小田原攻めに失敗して北条家の逆襲が始まる。
多くの多摩地方の武将は善政を布(し)く北条家に臣従していたし、一度、上杉謙信の大軍に恐れを成して北条家を裏切った成田家や千葉家の武将達も再び北条家に与力していた。
しかし、三田家の当時の当主の三田綱秀公は義理堅い人物だった様で、一度自分で謙信に付いてからはずっと謙信の援軍到来を信じて北条勢に頑強に抵抗した。
永禄六年(1563年)、とうとう北条家当主の北条氏康公の子で滝山城主の北条氏照公の軍勢が北条家から見て裏切り者の三田綱秀公の居城、勝沼城を攻めた。
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※写真は勝沼城址から見た青梅市の風景。2016年撮影。
すると勝沼城は小規模で鉄砲攻撃を受けた際の防衛にも耐えれないと判断し、辛垣山城へ兵を引いて籠城したそうだ。
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辛垣城は中世的な山城に北条家の築城術が加わっているので、三田家北条家臣時代に北条家による改修が入っていると考えられる。
後で和尚様に小生の推論を述べた時に「その通り」と太鼓判を頂いたのだが、今の登山道の入口辺りで激戦が展開されたそうだ。
しかし敗戦を悟ったのか三田綱秀公は子供の事を家臣団に託して、青梅の伝承では「北条家と一戦する為に埼玉県の岩槻城の太田家を頼って落ち延びて、そこで切腹した」そうだ。
だが、この話は少しおかしい。
1563年当時、太田家は上杉派の太田資正(すけまさ)公は北条派の嫡男の太田氏資公が対立しており頼れる状況ではない。
三田綱秀公は1563年に岩槻城で切腹したとされている。つまり、方針も決まっていない太田家が切腹させた事に成ってしまう。ましてや綱秀公が太田家を頼る筈が無い訳だ。仮に頼ったとしたら死亡年は実際は1564年だった筈だ。そして、家臣団と三田綱秀公の御子息達は開城後も全員生きている。
状況を整理する。
三田綱秀公は上杉謙信の大軍を見て上杉に付いた。しかし上杉謙信は小田原に攻め上がるまで多摩地方を含め東京や神奈川で略奪放火を行い多くの神社仏閣を焼き払い、婦女子を捕まえては上杉の軍兵が犯しまわり奴隷として売買した。常陸国の小田城下で上杉謙信は奴隷公設市場を開いたりしている鬼畜、不義の人だ。北条家でこういった事は無い。
北条家の統治と比べ、そんな上杉軍の無軌道な状況を快(こころよ)く思わない三田家臣団も多かっただろう。
そして己の判断ミスで三田家家臣団や農民達が今度は北条家から逆襲される羽目に遭った。
三田綱秀公は誠実な人柄だった様なので、旧主扇谷上杉の更に主家の上杉家を継いだ上杉謙信に味方した後はずっと上杉家に付いていた。しかし統治能力も無く関東で乱暴狼藉を繰り返した上杉勢にも疑問も感じただろう。結果的に上杉家は関東を支配する事に完全に失敗し瞬く間に北条家の逆襲が始まった訳だ。
三田綱秀公は家臣や兵士として徴用した農民が北条家から殲滅される事を回避しようとしたのだろう。
だから家臣に子を預け、北条家と交渉し、家臣団と兵として徴用した農民達の生命の安全保証の条件として“引き換えに自らの城の退去そして切腹”が北条家と確約されたのではないだろうか。
そして太田家を頼ったのではなく、1563年当時は北条家にも上杉家にも両属していた中途半端な太田家預かりと成り、1564年に第二次国府台合戦で再び太田資正公が北条家に背いて結果的に御子息で親北条派の太田氏資公に追放された時点で正式に切腹をしたのではないだろうかと思う。
同年、三田綱秀公の御子息も全員亡くなっている。恐らく、三田家旧臣領民の生命安堵の条件だった北条家と不戦の約定を太田資正公が破って国府台合戦に参戦したからだろう。
でなければ三田家臣団が悉(ことごと)く生き残り、更には徳川幕府にも仕えた状況は成立しない。
辛垣城開城後、三田家臣団は三田綱秀公の誠実な領主としての対応と引き換えに北条家に属していた筈だ。
そして、御巡りさんや御住職に聞いて回った所、やはり北条家に三田領が属した名残を二俣尾で発見した。
二俣尾には「福島家住宅」と言う江戸時代を通じて名主を務めた家がある。
東京都の有形文化財指定を受けている住宅だ。
福島家住宅 公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式ホームページより拝借。
この福島と言うのは、武蔵国出身で黄備え隊玉縄衆の軍団長を務めた北条綱成公の旧姓だ。
北条綱成公の弟君は福島弁千代として有名な後の北条綱房公だ。
この北条綱房公の足跡が1549年以後確認できる資料が無いそうだが、北条家では統治が行き届き戦火に巻き込まれなくなった地方の事が文献に登場しない事は良く有る。
例えば神奈川県の伊勢原市周辺もそうで岡崎城や北条一族の神保輝廣公の事、藤沢市の大庭城の事も良く判らなくなる。登場しないだけで、無かった訳では無いのだが学者は記録に残らない事を事実としても書けないので推論も書かない。しかし小生は学者で無くて、たまに学者に論戦で勝つ事も有る只の歴史マニアなので自由に書かせてもらえる。飯のタネじゃないからね、逆に学者さんが言いたくても言えない事も言っちゃう訳だ。
恐らく、北条綱房公は三田領の二俣尾、辛垣城周辺の統治に入っている。
そして北条家滅亡後は福島姓に復帰している。
玉縄北条家は奸臣堀内家により事実上の権力乗っ取りが行われ、江戸い時代には保科家から養子が入り北条綱成公の親族は駆逐されている。その際に福島家は奸臣堀内家の陰謀を逃れて旧知の人の多い二俣尾に逃れて来たのではないだろうか。
実は立川市柴崎町周辺は元々は福島と言う地名だった。つまり、福島姓のルーツのはずだ。
そして福島家は遠州堀内今川家の家来で後に扇谷上杉家を頼っていた一族のはずだ。
実は、那古野城、今の名古屋城は織田家以前は遠州今川家の城だった。織田に城を盗られて今川領に逃げて行ったのだが、その時に福島家も逃げたのだろう。更に堀内今川家は本家の今川義元と対立する。
その際に負けるのだが、福島家は恐らく旧主“遠州”堀内今川家と関係の有る扇谷上杉や北条を頼ったはずだ。だから、今も扇谷上杉家の最後の居城だった川越市には今も福島姓が多い。
実は戦国時代の覇者と成った豊臣秀吉の甥の福島正則公は青年期まで駿河や伊豆の国境の深沢城の城代を務め伊豆と駿河東部の守備を担っていた北条(福島)綱成公を頼って一時的に駿河国に行っていた事が菩提寺の愛知県の菊泉院に伝わっている。
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これも菊泉院の御住職様を訪問し、直接御教授頂いた歴史秘話だ。
秀吉は織田信長公に軍団長に抜擢され信長公の子を養子にとる「家格」が有ったはずだ。
そのヒントが福島正則公の話だろう。
恐らく、木下秀吉の実父は尾張国愛知郡中村の名主と伝わるが旧那古野城主の堀内今川家の旧臣だったんじゃないだろうか。そして福島正則公も。そして北条綱成公の実家の福島家も。
福島を櫛間と書くとか一部の学者は当字の表記に拘るが、実際、武将の名前も音だけ同じで違う文字を当てる事は文書中に良く有るので、そこは幅を持たせておけばいい。
とにかく、秀吉が織田家に仕える以前に今川家重臣松下家に仕える事が出来たり、後に信長公の実子を養子に迎える事が出来たり軍団長に成れるのは実力が有っても絶対に家格がそれなりに無ければ無理。
状況を見れば那古野城主今川家の旧臣、那古野の今川家の没落後に秀吉の実家は帰農、そして秀吉本人は今川家のつてを頼って松下家に仕え、福島正則公は同族で駿河東部の経略を担当していた北条綱成公を頼って駿河に赴き、❝福島伊豆守❞に保護されていた歴史等すべての話は小生の推測通りなら自然に繋がる。
因みに、福島伊豆守は恐らく「伊豆方面に居た北条綱成公の実弟、福島伊賀守勝広」こと北条綱房公の事だろう。

もっとも…この青梅市の福島家の家系図では祖先は鎌倉時代まで遡(さかのぼ)れる生粋の武士で家系は源氏系に成っている。
しかし一般的に学者達の間では三田家と同じ坂東平氏の子孫、若しくは古代に神奈川県中央北部~北東部~東京都多摩地方に戦力を持っていた小野家(小野妹子の子孫)である武蔵七党じゃないかとする説が一般的だ。
青梅市教育委員会様の郷土博物館様にも御教授頂いたのだが、正直、江戸幕府に成ってからも家名を残した三田家ですら祖先の事は時代時代で色々と説が有るし、家紋も時代ごとに使い分けているので良く解らないそうだ。
まぁ、ここら辺りは小生の様な考え方も有るんじゃない?と言う可能性を残す事しか出来ないし学者さんも同じレベルで話してる程度の人が多い。
黒田基樹先生なんかは色々と資料を探し漁っている様だが、やはり完全な証拠は残ってないようだ。

歴史は紙で残っている事だけが全てではない。しかし、学者は仕事なのでそうも行かない。出典を明記しないと他の学者から❝イジメ❞に遭うからだ。
小生はガクシャセンセイでは無いので学者の利権を犯す立場にない。
だから自由に発言を出来るし、本当は学者さんが心の中で思ってる事を聞き出して代わりに言ってあげる事も出来るし、自分で文書に残らない各地の伝承を見たり教えてもらって廻りパズルの様に繋げ合わせて一つにして状況証拠で、こうやってブログに書く事も自由に出来る。
だからこそ利権と関係の無い小生は、金銭と関係なく思いだけで行動しているので色々な御住職様や宮司様達に気に入って頂けて学者も見た事ない文献や宝物を見せて頂いたり話を教えて頂いたける。
これはありがたい事だ。
さて、そんな訳で、恐らく尾張の福島はも北条綱成公の御一族と無関係では無いと思うのだが…
何でこの話をしたかと言えば、武将の話の様に御寺にも他の御寺や神社との❝血縁❞みたいな物が有って、それは必ずしも文章に残っているものだけでなく伝承も拾わないといけないと言う実例を挙げる為だ。
海禅寺は昔は福禅寺と言う名だったが…
2015-06-10-09-06-23
恐らく前身寺院が横浜市森浅間神社と同じだ。
森浅間神社の前身は鎌倉の扇谷に在った修験道の大道場だった❝福禅寺❞権現堂だ。
そして鎌倉時代の歴代の住職は歴代天皇の皇子つまり❝親王殿下❞が務めた訳だ。
恐らく、鎌倉で新田義貞の乱暴狼藉が有って福禅寺が焼けた際に寺の機能は青梅市に移転したのだろう。そして聖地道場としての機能は福禅寺の飛び地境内として存在した権現堂家の管理する浅間権現や天照大神宮で存続した。久良岐郡つまり今の横浜の磯子区森浅間神社や港南区港南に在る天照大神宮の遷座前の場所だ。これらを管理する権現堂松本家は間宮家から下賜された家紋を現在も使用している。
一方、恐らく青梅の福禅寺も前身は修験道福禅寺で永享の乱の頃に廃寺状態に成り後に三田家によって曹洞宗寺院として再興されたはずだ。
そして横浜の間宮家菩提寺と成った鶴見区下末吉の寶泉寺を開く際に、間宮家によって青梅の福禅寺の住職が招かれた記録が残る。だから遠く離れた横浜市の寶泉寺は青梅市の海禅寺の末寺だったりする。
戦国時代、再び三田家と北条家の合戦で再び燃え落ち、恐らく北条家の発願と支援を受けた旧三田家臣団により境内に立派な伽藍堂宇が復興され1575年には天皇勅願所に成る程に勢いを取り戻した。
しかし北条家が豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡すると、徳川家のアホ役人が寺の領地の保証書の名前を書き間違えたせいで現在の寺名を使わなければいけなくなってしまったが、10万石格の格式だけは受け継がれた。
森浅間神社地形
この様に状況を纏めると前身寺院は推測だが格式から言って鎌倉の源頼朝公が開いた、その名も「福禅寺」と言う歴代住職を天皇の皇子である親王が勤めた関東の修験道の大本山とも言うべき大道場だ。
しかし、新田義貞の兵火に遭い鎌倉福禅寺は消滅している。
更に室町時代には完全に森浅間神社に機能移転して管理する権現堂松本家だけが横浜市に残った。
恐らく、福禅寺は焼けた際に兵火を逃れて青梅市で扇谷上杉家によって永享の乱以後に復興されたのかもしれない。
そして青梅の海禅寺の隣には…
同じく鎌倉の修験道の大本山だった山崎泉蔵院と同じ寺名の現在は真言宗の泉蔵院も在る。
…この 両方の寺は格の高さに反比例して中興開基より昔の事が戦火と火災や諸般の事情で伝わっていない。
山崎地区
…その鎌倉時代には鎌倉市山崎に有った泉蔵院も、室町時代には久良岐郡森村、今の横浜市磯子区中原に保有していた熊野社の道場に機能移転した。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
そして大霊山泉蔵院桐谷寺と名を一部改めたが、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の仏教弾圧で修験道の大道場だったのを寺院機能を廃止して泉蔵院の名を捨てさせられ、ただの熊野神社に成ってしまった。
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しかし当時の宮司の気転で、神殿の一つとして❝泉蔵社❞として残され、源頼朝公に繋がる歴史が残された。
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まぁ、そんなこんなで青梅の海禅寺や泉蔵院は由緒有る御寺のはずだが、格が高い事は江戸時代の記録でも間違いない。
ただ、その格の高さは小生の説を用いないと説明が出来ない。
参考までに以前、森浅間神社と泉蔵院の解説をした記事リンクを貼っておく。

 また、何か解れば追加報告を書きたい。

取り合えず、御住職と面会を果たし色々話を聞けて御礼を申し上げて海禅寺を後にし、次の目的地の阿蘇神社を目指す今年した。

では、次回はこの休日雑記の続きを書きます~! 

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